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福島恵一

Author:福島恵一
プログレを振り出しにフリー・ミュージック、現代音楽、トラッド、古楽、民族音楽など辺境を探求。「アヴァン・ミュージック・ガイド」、「プログレのパースペクティヴ」、「200CDプログレッシヴ・ロック」、「捧げる-灰野敬二の世界」等に執筆。2010年3~6月に音盤レクチャー「耳の枠はずし」(5回)を開催。2014年11月から津田貴司、歸山幸輔とリスニング・イヴェント『松籟夜話』を開催中。

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アリカ『キオスク』双眼レヴュー ― 優雅な動きが最高の復讐である  ARICA『KIOSK』 Binocular Review ― Moving Well Is the Best Revenge
※ARICA『KIOSK』出演の安藤朋子の指摘を受け、2020年3月28日に「9-3 『記憶違い』を覗き込む」を追記しました。



はじめに
 今回のレヴューは複合的な成り立ちをしている。
 ARICAの舞台『KIOSK』の初日、2月9日の公演を観て記した初稿を、事実確認のため、演出を担当した藤田康城に一連の公演が終了した後に見てもらったところ、初日における映像や装置の不具合に関する幾つかの指摘とともに、今回最後の公演(5回目)となった2月11日夜公演を収録した映像の提供を受けた。最終的なレヴューは、この記録映像を観て追記した部分を含んでいる。
 ARCAの前回公演『孤島』については、先に行われた東京公演をまず観てレヴューを執筆し、その後、横浜公演を観て、改めてもう一本レヴューを書きあげることができた。映画研究者がDVDを何度も再生するように、同じものを見直して、細部を確認し直すということではなく、それぞれのライヴ体験に応じながら、かつ、場の違いに応じた身体の在りようの差異に着目して、ひとつの作品を多角的に掘り下げることにより、舞台の充実ぶりを幾らかなりと伝えられたのではないかと思う。
 また、ARICAの舞台をレヴューするにあたり、映像を参照するのは、実は今回が初めてではない。『Ne ANTA』に対するレヴュー「バスター・キートン走り、ヨゼフィーヌ歌う、ジョン・フェイヒーのギターに伴われて ARICA『Ne ANTA』演劇レヴュー」(※)執筆時に、原作となったサミュエル・ベケット『Eh Joe』の上演をテレビ番組として制作したものを参照している。だが、それはあくまでも参考に過ぎない。
 今回のように、一連の公演とは言え、別の上演を映像で参照し、それをレヴューの対象に繰り入れることは異例であるだろう。ライヴ至上主義者からは「不純」との誹りを受けるかもしれない。もちろん記録映像を観ることがライヴの演劇体験の代わりになるわけではない。そんなことは承知している。しかし、私は観ることにした。それはレヴューとは字義通り「再び観ること」であり、イメージの脳内再生により、あるいは手探りの言葉選びを通じて、何度となくその場、その瞬間に立ち返り、当初の印象や記憶をさらに深め、思考/記述のサイクルの中で乗り越えていくことが、「批評」の本質であると信じているからにほかならない。
 その結果、今回の公演に対する認識を変えざるを得なかった。その転換をひとことで言えば、「機械への組み込み/隷属」による「哀しみ」から「復讐」へとなるだろうか。
 しかし、この転換に基づいて初稿を書き改めるとして、新たな結論に向けてただ整序してしまうのでは面白くない。ここでは混乱を招くかもしれないことは承知の上で、初稿をそのまま残した上で11日夜公演を観た後での思考を追記するという方法をあえて選んだ。なお、追記した箇所は、枝番で「-2」及び「-3」と記した部分である。
 また、表題を差し替えた。ちなみに初稿の表題は「アリカ『キオスク』 身体と重力 ― あるいはもうひとつの時間と空間  ARICA『KIOSK』 Body and Gravity ― Or Another Time and Space」だった。
※http://miminowakuhazushi.blog.fc2.com/blog-entry-382.html



0.通路
 みなとみらい線の駅はどこもサブライムに、かつ空疎に巨大過ぎる。中空に張り出したエスカレーターは、まるでかつてのファシズム建築のようだ。そんなことを思い出しながら、新高島駅に初めて降りる。会場のBankART Stationは駅直結とのことだが、ホームにも改札口にも、どこにも案内表示がない。地上の駅ビルにあるスペースなのかとエスカレーターで上がると、突然ポスターが眼に飛び込んできた。
 アート関連の書籍を扱うガラス張りのショップ・スペースがあり、清掃員への嫌がらせとしか思えない、無闇に幅広の通路の中程を壁で仕切った展示スペースがある。ショップ・スペースの奥に受付があり、会場はさらにその奥だった。



1-1 装置
 客席とは段差のない舞台の中央に、盆栽の展示台のような2段になった「カウンター」が置かれ、白い表面にキオスクの店頭の写真がモノクロで映し出されている。実際のキオスクを撮ったもので、駅のホームも写り込んでいる。そのすぐ後ろ、中央部に人ひとりが入るスペースを空け、周囲三方を取り囲んで段ボール箱が天井近くまで積まれている。また、段ボール箱はオブジェとして、パイプや配線用のトレイが剥き出しの天井からあちこちに吊るされ、淡い照明を当てられて、それぞれ異なる速度でゆっくりと回転している。
 「カウンター」の両脇にはロープが結ばれ、その先は天井に取り付けられた滑車を介して砂袋のおもりが吊り下げられている。その脇にはドラム缶が置かれ、横の壁にはやはりキオスクの店先の写真が投影されている。よく見ると写り込んだホームの角度からして、こちらはキオスクの店舗の側面のようだ。正面の映像には店員のいるスペースがあるが、こちらは一面商品で覆われ尽くしている。
 その先、先ほどの天井まで積み上げられた段ボール箱の裏側に当たる部分には、一部しか見通せないけれども空間が広がっており、奥の壁にはまた並べられた商品の写真が投影されている(そのおかげで、カウンターになぜか両側2個ずつ丸い穴が空けられているのに気づく)。そのスペースの中程の両端に音響担当用の作業机が置かれている。

1-2 画角
 11日夜公演の記録映像の画角は、客席右奥から舞台正面と左手の壁面を見込むものであり、9日公演で私の座った客席の右側の席とは対照的な眺めとなっている。



2-1 開幕
 客電が落とされ開演が告げられる。駅ホームの環境音が斜め後ろからわっと湧き上がる。音響は混濁し飽和しているが、それでもアナウンスや足音、ドアの開閉音等が聴きとれる。そうした充満にさらに寸断されたギターの音や拡大されたひそひそ声を思わせる電子音が重ねられる。
 数えきれないほど多数の発音体により構成される鉄道駅の環境音は、P.D.が『Alltag』で明らかにしているように、普段はアンビエンスとして聞き流しているものの、実は極めて強迫的なノイズにほかならない。と同時に、Charles Haywardが日本滞在の印象として述べているように、列車の到着/発車により分節化された規則的な変動でもある。
 ここでの演奏はギター演奏による別の分節化や電子音の重ね塗りによる厚みの追加、さらには列車のブレーキ音やドアの開閉音のディレイ処理等により、不透明さを増す方向に進められた。おそらくは即興的に演じられるサウンドの重ね描きに耳をそばだてながら、眼は主演の安藤の登場を見逃すまいと舞台を隈無くスキャンしていた(『孤島』の時には「島」の下に潜り込む人影が見えたような気がした)。ふと、正面に映し出されているキオスク店頭の映像が変化していることに気づく。そう思って見ていると、電光掲示板の数字が変わり、ホームの人波がコマ落としで動いており、カラーに色づいたかと思ったら、またすっと色が消え、モノクロに戻っていった。列車の音がそうした変化を掻き消し、より一層ノイジーに高まる。

2-2 音響と映像
 「初日は映像操作に手違いがあり、途中で色が消えてしまった。映像操作に気を取られ、サウンドの音量が大きくなりすぎた」との説明を藤田から聞いていた。確かに11日夜公演の記録映像では、舞台に投影されている駅ホームの映像は最後になって色づき、そのまま安藤の登場へとつなげられる。確かにこの方が、つながりが滑らかに感じられ、当惑させられることがない。また、天井や左手の壁面に到着/出発する電車の移動する影が、うっすらと映り込んでいる様子が確認される。このことはまったく記憶にない。おそらくは襲い掛かる音響と正面に投影されたスローモーション映像の重苦しさに、すっかりとらわれていたからだろう。逆に外側を滑る薄い影に気づいたならば、空間はもっと風通しの良いものと感じられたのではないか。
9日の音響について改めて確認しておけば、本レヴュー初稿で、緻密にして攻撃的な音響構築集団P16.D4(その後、サウンド・アーティストとして名を挙げるRalf Wehowsky(RLW)が在籍した)の前身であるP.D.( Permutative Distortion)のノイズ・コンクレート作品『Alltag』を例に引いていることからもわかるように、過飽和で混沌とした、かなり強迫的なものとなっていた。描写しているように各サウンドを聴き取ることはできたから、決して一様なノイズ塊と化していたわけではないが、圧倒的な情報量によるサブライムな音響と感じられたことは事実である。さらに投影される映像から一瞬色彩が消え失せたことも、ノイジーな不安定性、人間を翻弄する情報/機械‥‥といった感触を強調することとなった。これらのことが「演劇機械」の途方もない巨大さを観ている私に印象として刷り込むことになったのは間違いない。




3-1 登場
 突然、バンッと大きな音がして、「カウンター」の上段が前に倒れ、安藤の上半身が姿を表す。あらかじめそこに潜んでいたのだろうか。緑と薄緑のキオスク店員の制服に身を包んでいるが、なぜか腹回りに赤黒のロープを巻いて、どこか不機嫌そうに音を立ててガムを噛みながら、こちらをねめつけている。
 すると、すっと音もなく、彼女を取り囲んでいた段ボール箱が動き出し、注意が一瞬そちらに引き付けられる。あわてて視線を戻すと、彼女は何かに気づいたかのように、身じろぎもせず正面を向いている。その背後では段ボール箱の塔が、おそらくはあらかじめプログラムされたロボット台車に運ばれて、奥の壁際に整列していく。彼女はまたガムを噛み始めるが、視線は依然としてまっすぐに何かをとらえ続けている。

3-2 持続
 11日夜公演の記録映像では、段ボール箱の塔は途中で鉢合わせしたりして、決してスムーズに背後の壁面へと退いていくわけではない。その間、安藤は前面で視線を惹きつけ、間を保つことになるが、そうした役割を押し付けられているとは感じられない。9日の体験は、ひとりでに動き出す段ボール箱に驚き、そちらに奪われた視線を戻すと、安藤の眼差しが何かをとらえている‥‥という順序で進み、その「機械」として一体化した連携ぶり、作動の見事さが印象に残ったが、11日夜公演では、ポーズを組み替えながら客席を睥睨する安藤の視線の圧倒的な強さが場を支配している。ポーズを組み替える度に挿入される「静止」が緊張を高め、場をコンダクトしていることがまざまざと感じられる。それゆえに「4-1 拘束」で空っぽな空間に響き渡る増幅された紙の音が、より際立って感じられる。
 9日公演をとらえたレヴュー初稿では、段ボール箱の塔が整列し終わり、吊るされた新聞の束が空中ブランコのように大きく揺れて視界に飛び込んでくる時点を、節の切れ目として描写しているが、11日夜公演の記録映像を観ると、句読点の位置が明らかに違っていて、車輪付きの椅子を滑らせて、ゴムひもを結びにかかる時点に打たれているのがわかる。安藤の動き出しは、背後で揺れる新聞の束の動きを背中で見ているかのように、余裕たっぷりで正確極まりない。



4-1 拘束
 段ボール箱の塔が整列し終わり、腰掛けた彼女の上半身が平らになったカウンターの向こうに見えるだけで周囲が空っぽになると、右側から突然何かが視界に飛び込んでくる。天井から吊るされた新聞の束が、彼女の背後から壁までぽっかりと開けた空間で、空中ブランコのように大きく揺れている。それを合図に(いやそれは順序が逆だったか)、彼女が噛んでいたガムを紙に出す。くしゃくしゃと丸められる紙の音が増幅されて、空っぽな空間に響き渡る。
 彼女は車輪付きの椅子を左に滑らせて、腰に巻いていた赤黒のロープをドラム缶に結びつける。今度は右端へ動き(ロープが実は太いゴムひもであったことが判明する)同様に。彼女はもはや脚で床を蹴るだけでなく、装置の一部として、ゴムひもの反動を利用して移動することが可能となり、そのことを嬉しげに、また得意げに示してみせる。すべてがにわかに遊戯的な色彩を帯びる。
 ゴムひもの反動を利用して滑りながら、カウンターの端から端までハタキをかける動きが、ハッハッハッという掛け声とともにサイレント喜劇でおなじみの乗馬ムチを振るう動きへと変容していく。気怠いギターの爪弾き、トロピカルな電子リズムや口腔をぺちゃくちゃと鳴らす音に伴われて、場面に不思議な陰影を与える。

4-2 遊戯
 機械の一部として組み込まれ作動を強いられているのではなく、機械の動作を正確に予期し「従えて」いる安藤の動きからは、自らの動作を楽しんでいる様子が伝わってくる。かけ声とともに開始されるゴムひもとの戯れは、より遊戯的な色彩を増し、自分だけのための儀式/ルーティンのように見える。ハタキをかける身体の動きは機械仕掛け(乗馬ムチの動きは、まさに「乗馬機械」の作動の一部分にほかならない)を超えて、ダンサーの身体の優美な揺らめきを見せる。その一方で、ハッハッハッという掛け声はほとんど絶叫に至り、躁的に弾けた身体が姿を現す。



5-1 セリフ/声
 地上を歩くときでも綱の上を歩いているのだ‥‥と安藤が語り始める。抑揚をおさえ等速を保って感情を遠ざけながら、モノローグに陥らぬよう一音一音をはっきりと、だが柔らかく切り分けたマルカートで。テクストは会場で配られたリーフレットに掲載されている。彼女がかつてサーカスの女綱渡りであったこともまた記されている。気怠げなギターと口笛が陰影を差す。TRAMフリンジ参加公演であるためか、男声による英訳テクストの読み上げが同時通訳風に録音で流される。消えてなくなった‥‥との安藤のセリフに続き、It's gone outと英訳が流れ、最後の部分にエコーがかかってリフレインされる。スティーブ・ライヒ『カム・アウト』が一瞬頭をよぎる。

5-2 声の歩み
 静かに語り始める声の音調は、11日夜公演の記録映像でも基本的に変わることがないが、より重心を落とし、深く彫り刻んでいる。機械の一部として与えられた作動を十全に果たすだけでなく、少しだけ過剰に何かを付け加えることにより、それを自らへと取り返す仕方。



6-1 作業
 彼女はやおら立ち上がり(腰にエプロンを巻いているのがわかる)、天井を見上げてから、カウンターの端に結ばれたロープを解きにかかる。落ちてきたおもりを外し、変わりに給水機用の大きな水のボトルを取り出してカウンターにドンと置き(エコー付きの効果音が響き渡る)、ロープに結びつけて引き上げる。蓋を外された空のペットボトル、小さな台秤のような装置、円盤にぐるりとペットボトルの蓋が円く置かれた装置が、次々に取り出され並べられる。台秤の上にペットボトルが置かれ、吊るされた大きなボトルの口に取り付けられた蛇口が開かれて水が滴り落ち、ペットボトルの中にたまっていく。首尾を確認してから、カウンターの反対側の端で同じ作業を繰り返す。
 床を蹴ってぐいと後退し、吊り下げられた新聞の束(もう揺れは止まっている)を取り、新聞をカウンターの上に並べ始める。戴冠式の伴奏を思わせる壮麗なオーケストラ(ベートーヴェン『運命』の第四楽章とのこと)が流される。新聞紙は4本の長い筒状に丸められ、カウンターに丸く空けられた穴(開演前に奥の壁を覗かせていた穴はこのためのものだった)に突き刺される。
 疲れ果てて(?)カウンターに突っ伏した彼女が語り始める。地中に埋もれてじっとしていればいいのだがそれでは綱渡りができなくなる‥‥英訳もやはり。

6-2 ダンサーの後ろ足
 装置を台の下から取り出す際に、屈み込む安藤の後ろ足がバレエ・ダンサーのように高く掲げられる。また、装置を台上に置く際には、念を押し言い聞かせるような仕草が付け加えられる。吊るされた新聞を取って頭に乗せて戻る際の、ラテン・ダンサーのように大きくジクザグな軌跡。束ねたひもをハサミで切る際の、あるいは拡げた新聞を束にする際のことさらに大仰な動き。単調な奴隷労働に日々心身をすり減らすのではなく、そこに過剰に何かを吹き込み、自分だけの楽しみに変える技。リズムに合わせて‥‥というより、オーケストラを指揮するように新聞を折り畳んでいく様を観ていると、ベートーヴェンは演劇機械の一部たる舞台音楽として流れているのではなく、彼女が自らの仕事を彩る格好のBGMとして、その場でプレーヤーでかけているか、あるいは脳内再生しているかのように聞こえる。頭をゴツンとぶつけて台上に突っ伏す姿も「疲れ果てて」というより、彼女のお気に入りのルーティン動作と見えてくる。
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7-1 プログラム
 突然、ピーピーピーとアラーム音が鳴り始める。ペットボトルが一杯になると、その重さを検知してアラームが鳴るようにプログラムされているのだ。突っ伏す前に左側の大ボトルの蛇口の開き具合を調節して、滴りを速くしていたのはそういうわけだった。
 ペットボトルを差し替え、円盤の装置に触れると、おそらくは圧縮空気によって蓋が注高く打ち上げられる。それをキャッチして水の満たされたペットボトルにはめる。これで一作業が終了。セリフが中断したところから続けられる。椅子を後ろに滑らせて、掛けてあった竿を取るところでまたピーピー音。今度は左端で一作業を手早く済ませると、再度後ろに下がり、塔状に積まれた段ボール箱の一番上を引っ掛けて取り、そのままカウンターにドスンと置く。またピーピー音。「どっちだ?」と安藤。
 以下繰り返し。ジャングル・ショー的なBGMとディスコのミラーボール風に煌めく照明(実は無数のペットボトルの蓋を動かしながら透過光で撮影した映像が奥の壁に投影されていたのだった)、打ち鳴らされるシンバルが、チャップリン『モダン・タイムス』を思わせるコメディを煽り立てる。

7-2 あらかじめ定められた手順の中で
 ピーピーピーとアラーム音は突然にやってくる。「14-2 予期できない不正確さ」で改めて論じることになるが、そのタイミングは基本的に誰にも予測できない。しかし、いったん鳴り始めてしまえば、することは決まっている。11日夜公演の記録映像で見る安藤は、ICUのモニターが甲高く鳴り響く中、表情ひとつ変えず、点滴のパックを交換し、強心剤をターミナルから注入するベテラン婦長のように落ち着いていた。一連の工程を淀みなく果たし終えて、彼女は段ボール箱との沸騰する交感へと戻っていく。竿の先に引っかけた段ボール箱を振り回しながら、彼女はヴォードヴィルショーの花形ダンサーとして自在に舞ってみせる。そこには機械の歯車に巻き込まれる哀れなチャップリンではなく、「あらかじめ定められた手順の中で」業務を遂行しながら、脳内ではサーカスの女綱渡りを生き続ける姿があった。



8-1 ソング
 段ボール箱を取り終え、カウンターの上に並んだ箱のテープを剥がし始める。"I'm waiting for you..."と、気怠い悲しみを帯びた女声が、しかし80年代的なポップさをたたえたメロディを歌い始める。シンディ・ローパー? (確認したらパティ・スミス「ディスタント・フィンガーズ」とのこと)。箱からはテープで梱包された空のペットボトルの束が出てくる。
 誰もいらないと言っている みんながもういらないと口をそろえて言っているのに それでも すべてが 供給される‥‥箱から取り出したペットボトルの束をカウンターに並べながら再びセリフが始まる。ものすごい早口で。流される英訳が声と重なり合い、ブンブンというノイズがジャミングに拍車をかける。英訳は奥の壁にも映し出される。突然に作業とセリフが中断され、サウンドも一瞬途絶えて、滴り落ちる水音だけが浮かび上がる。固まった安藤の身体にも英訳が投影される。映像はペットポトルの列へと切り替わる。すぐにすべてが再開される。こうした寸断が何度も、おそらくは即興的に仕掛けられる。混沌が頂点に達する。

8-2 ストリップティーズ
 レヴュー初稿の批判的なトーンを決定づけているのは、舞台中の、とりわけ、この部分に関する認識である。「15-1 ソングの重力圏」で論じているように、9日公演の客席で私は、『モダン・タイムス』におけるチャップリンの悲哀から脱しようともがく身体が、パティ・スミス「ディスタント・フィンガーズ」の重力圏に否応なく引き込まれ、蜘蛛の巣に捕らわれた蝶の如く身動きできなくなっていく様を見詰めている。
 11日夜公演の記録映像は、この印象を大きく覆すものとなっている。まず、このセクションに突入する時点の身体の初速度がまったく違う。この日の動きははるかにスピードに乗っている。「7-2 あらかじめ定められた手順の中で」に述べたように、そこには機械の歯車に為す術もなく蹂躙されるチャップリンの哀れさを誘って止まぬ身体はない。代わりに満場の視線を誇らしげに浴びながら、タイトロープの上を歩む女綱渡りの身体がある。それゆえ現実逃避の異星人へのラヴソングは、夢見るように甘やかでエロティックなストリップティーズのBGMのように響く。それは演劇機械の一部として音響再生装置が作動を開始したというより、いつも通りの自身のための儀式を彩るために、彼女が自らラジカセのボタンを押して始まったかのように聴こえる。
 段ボール箱に貼られたテープを勢い良く剥がし、それを見せびらかすように振り回し、自身の太腿部分に貼付けていく姿は、脱ぎ捨てたベビードールの残り香を客席に振り撒くように揺らがせ、チップとして受け取った紙幣をストッキングに挟んでいく踊り子を思わせる。フェリーニが『アマルコルド』で描いたように、サーカスの女空中ブランコ乗りの尻は、少年の性的妄想のアイコンにほかならなかった。女綱渡りもまた。
 この「作業」の途中に、安藤が左右に張られたゴムひものうち片方を取り外す場面がある。機械への隷属からの解放を企てる極めて象徴的な瞬間だが、9日の公演では、それが前後を分かつ印象はなく、このシンボリックな行為に触れることが、ますます「機械に隷属した労働」というテーマ系を強化してしまうように思えて、あえて言及せずにいた。言わば「悪しきシンボリズム」ととらえていたことになる。
 しかし、11日夜公演の記録映像において、この行為は、床を蹴って離れては、またゴムひもをたぐって近づくという、じらすように遊戯的な反復の極としてもたらされており、外したガーターベルトを名残惜しげに床に落とすエロスに満ちていた。ここで、この行為は、「隷属からの解放」という抽象的な、いささか絵解きめいたシンボリズムをあっけらかんと乗り越え、女綱渡りの脳内妄想の中で目映く輝いている。あらかじめテクストによって引かれた下図の細い線が、それをなぞり直すのではなく、舞台を生きる身体のいきいきと奔放な動きによって、荒々しく太々と描き直される。安藤の身体は明らかにこの場を支配していた。




9-1 閉幕
 カウンターの端から端までペットボトルの束を並べ終えると、安藤は手早く蛇口を閉じ、装置のスイッチもすべてオフする。背後の映像も消える。突然に、だがきっぱりと終わりがやってくる。それでも、投影されていた壁のさらに向こうにも段ボール箱が吊るされ、回転している(ことに改めて気づく)。
 安藤は大ボトルの蛇口を改めて開き、ペットボトルに水を注ぐと、ごくりと飲み干す。並べられたペットボトルの束の列を見渡しながら、もう一口。ギターの悲しげなアルペジオ。口の端から息がヒューヒューと漏れる音が束の間の安息と寂寥を縁取る。閉幕。

9-2 移行
 11日夜公演の記録映像で確認できる「終わり」は、9日公演と異なっている。まず、蓋の射出装置を片付ける際に「エアーを抜く」という工程が加わっている。コンプレッサーで注入された空気が勢い良く噴出して安藤の顔に当たり、顔面を歪ませ髪を乱す。疲れを知らない子供の飽くなき遊戯の残酷さがここでも顔を出している。
 もうひとつ、それに比べれば一見ほんのわずかな、しかし決定的な違いに注目したい。舞台左手側の蛇口を閉め、装置を片付けて右手側に移るという手順は同じながら、自身が飲む水を汲むために再び大ボトルの蛇口を開くのは、9日公演が左手側だったのに対し、11日夜公演の記録映像では右手側となっている。彼女が舞台を去るのは両日とも左手側なので、11日公演では台の横幅(それはほとんど舞台の左右の幅に等しい)分の移動が生じることになる。
 彼女の身体は舞台の左手側を見詰めたまま、立ち止まって静かに水を飲み、やがてゆっくりと、だが一切の上下動なくなめらかに滑るように歩み続ける。映像が周囲を巡り、9日公演と同様の音響が加わるが、それは「束の間の安息と寂寥を縁取る」代わりに、彼女の身体の凛とした佇まいを際立たせる。

9-3 「記憶違い」を覗き込む
 加筆した掲載稿を読み直した『KIOSK』出演の安藤朋子から「9-2」の記述について、以下の旨の指摘を受けた。
 「確かに初日の舞台では『エアーを抜く』場面がなかったが、これはその後に演出が変更されたのではなく、私が忘れたため。これまでの『KIOSK』上演では足踏み式の空気ポンプで蓋を打ちあげており、今回初めてエアー・コンプレッサーを用いた。装置が運び込まれたのは初日の前日であり、その日のゲネプロの中で『エアー抜き』の場面が付け加えられた。」
 「最後の水を飲む場面も、途中で演出が変更になったわけではなく、9日の初日も舞台右手で水を汲み、飲んでいる。これは照明、映像、音楽のきっかけから、最後の左手のドラム缶のところでの立ち位置まで決められているので間違いない。」

 「2-2」で、「初日は映像操作に手違いがあり、途中で色が消えてしまった。映像操作に気を取られ、サウンドの音量が大きくなりすぎた」ことが、映像と音響に共通して禍々しさを与え、それが「演劇機械」のサブライムな巨大さの印象を強めたのではないかと述べた。ここでは情報量の多さ、不穏にささくれた攻撃性、見通しの効かぬ不安定さが、知覚・感覚に強迫的に圧力をかけ、見落としや上掲のモノクロ化を引き起こしている。

 それでは「9-2」での見落としあるいは記憶違いを引き起こしたものは何だろうか。もちろん、私たちは舞台を観尽すことはできないのだから。どのように注意を払い、懸命に凝視を続けても、見落としや記憶違いは生じる。これもまた、そのような誤りだったのだろうか。私はそうは思わない。この「誤り」にこだわって、その底を覗き込んでみたい。

 ここで、もう一度上演を振り返ってみるとしよう。私は「9-2」で、安藤が水を汲み、飲むのが舞台右手であると気づいたことについて、「それ(筆者注:「エアー抜き」の場面が初日にはなかったこと)に比べれば一見ほんのわずかな、しかし決定的な違い」だと述べている。ラストの重要なシーンであるにもかかわらず、初日舞台の演劇体験において、この部分が明確な印象として忘れ難く刻まれることはなく、私は11日の記録映像を観て、初めてこのことに気づいた。それは決して何度も再生可能な録画だったからではなかろう。舞台を横切る眼差しの強さ、舞台を右手から左手に向かって移動していく身体の喫水の深い船を思わせる揺らぎの無さに、ここで出遭えたのは、その動き自体の強度と、そうした動きの生じる必然性が相俟って、まさに「必然」として、私の身体に強く刻まれたからにほかなるまい。
 ここで「必然」とは、いま22時42分を指している時計の針が、その3分後には22時45分を指しているというような「機械的必然」のことではない。単に合理的だったり、整合的であったりすることでもない。言うなれば、それは生物だけが果たしうる行為としての必然である。

 再び開栓され、ペットボトルに注がれた水が、これまでとは異なり安藤によって飲まれることにより、スイッチを切られて停止させられた装置は、以前に継続していたのとは異なる作動を開始し、新たな時間が流れ始める。
 蛇口を開け、水を注ぎ、ごくりと一口飲みほして、静かな力を帯びた眼差しをそのまままっすぐに送り、滑るように水平に移動して、照明が落ち、音響が消えても、その運動/移行が止むことはない。この動作プロセスにおいて、あるいは一連の行為の中で、ある動きをとらえた瞬間の「これだ」という思いは、それに続く動きをとらえた瞬間に「そうでしかあり得ない」へと変わる。
 これは「登場人物の心理の動きがわかった」というレヴェルの論理的な、あるいは共感的な理解にとどまるものでは決してない。「身体がそのように動いてしまうことが、我が身のこととして感じられてしまう」という感得を含んでいる。いわゆる感情移入の問題ではない。水を飲むためにやや上向きになった顔面が、飲み終えて水平に戻ると眼差しが向こう側の何かと結びつき、視線が水平に張り渡される。顔の前に掲げられていた腕は、ペットボトルとともに下降し、その落差が滑らかな前進を準備するためのスイッチを入れる。水平に張り渡された視線を巻き取るように進む身体は、上下動なく滑るように一定速度で移動していく‥‥。身体の動きにおける関節や筋肉の連動が、(遥かに鍛えられていないとはいえ)同様の機構を有する観る者の身体の内的な運動感覚(キネステーゼ)を呼び覚ます。
 そうした瞬間が幾つも連ねられ、身体による継続的な追認が積み重ねられて、確かさが手応えを増していく。当初の切り立った驚きは、テンションをいや増しながら、いつの間にか揺るぎなく張り詰めた確信へと変容を遂げている。為すべきことが為され、起こるべきことが起ったと。それこそがここで言う「必然」の内実にほかならない。

 それは即興演奏において感じられる「必然」と似ている。それは演奏者の意図にすべてを還元し得ることにより明らかとなる、合理的な説明可能性としての必然性ではない。放った一音の減衰していく様に耳をそば立て、全身を総毛立たせて、その一音がもたらす世界の変容を鋭敏に映し出す受信機と化すことにより、次の一音がかたちづくられるプロセスの作動により生み出される「必然」なのだ。ここで安藤の身体も鋭敏な受信機と化し、身体の運動のもたらす世界の変容を一瞬ごとに鋭敏に受信し、動きが空間に拡げる波紋や響きに突き動かされることにより、「必然」を歩んでいる。彼女の身体の動きの鮮やかな即興性は、装置の作動のランダムネスに柔軟かつ俊敏に対応する時にとてもわかりやすく現れるが、決してそうした時のみならず、装置をオフした後においても、いやむしろそちらにおいてこそ、見事に発揮されていることに注目したい。



10-1 弁明
 以上、開演(前)から閉幕までを時系列に沿って記述してみた。通常レヴューにおいては、論点を絞り込んで抜き書きをしていくが、この後、今回の公演についての違和感を述べることになるため、そこに絞り込んで舞台内容を記述してしまっては、優れたものであることは疑いのない上演を、不当に格下げしてしまうことになる。それゆえ、このような構成を採用した次第である。
 さらに言えば、これは劇評なるものへの批判でもある。映画やヴィデオと異なり、演劇はライヴでしかない。それゆえにせいぜい舞台写真やシナリオが残されるだけであり、特にARICAが上演してきた「テクストに抗する身体の演劇」においては、これでは何も残らないに等しい。しかし、彼女らの公演の毎回の質の高さにもかかわらず、これに対して紡がれる言葉は、たいていの場合ツイッターのつぶやきの群れにとどまる。音楽に対して差し向けられるのと同様、演劇に対しても、風潮や傾向、つまりは流行に関する言及は、時に社会学的な、時には「原論」めいた何やら哲学的な装いをまとって垂れ流されても、個々の優れた達成への記述/分析はほとんど為されてはいないように思う。
 以下では今回の『KIOSK』の上演に対する違和感を表明することにより、彼女らの提示しているものの価値を逆照射できればと考える。

10-2 弁明の追加
 11日夜公演の記録映像を観た後、レヴューを追記している時点においても、弁明すべき内容は基本的に変わっていない。レヴュー初稿で違和を表明し、批判的に言及している箇所が、追記により肯定的な評価へと転じたとしても、その探求の契機となった違和自体が消滅するわけではない。それを消去・隠蔽せず、そのまま残しておくため、煩雑を承知で今回このような構成を採ったことは、冒頭に記した通りである。



11 被膜
 私は『ネエ アンタ』の上演を観て以来、ARICAの特質を一貫して「テクストに抗する身体」の演劇として評価してきた。この方向性については今回も基本的に変わることはないと考える。しかし、ここで展開されるキオスク店舗の開店前の準備作業は、あまりにも機械的労働と搾取、苦役と奴隷、生産と流通、欲望と必要といった語で表象される系列に収斂し過ぎているのではないか。
 会場で配布されたリーフレットには次のように記されている。

 「ARICAは、2001年のカンパニー創立以来、労働をモチーフとした作品が大きなテーマの一つだった。『KIOSK』も、肉体労働のルーティン性をクローズアップすることで、労働をある特定の所作の反復強迫的な身体運動と捉えてきた。」

 「誰もいらないと言っている みんながもういらないと口をそろえて言っているのに それでも すべてが 供給される」という資本主義の無為な生産・供給過剰、「すでに引かれた線の上をただたどっているだけ。少しはずれてもたいしたはずれではない。危険はない。」という安全への幽閉/拘束、「わたしは振り込まれる」という個人の身体の受動化/自己疎外化‥‥。やはりリーフレットに記載されたセリフは、先の表明と寸分の狂いなくピタリと嵌り合う。
 今回の公演はこれらのテクストの見事な具現化となっている。しかし、これまでのARICAの舞台の素晴らしさは、常にこうしたテクストによる表明を鮮やかに裏切って、それを超え出てしまうところにあったのではなかったか。「資本と労働」、「機械と身体」を巡る設定やテクスト構築は実によく出来ている。しかし、それは書き付けられた瞬間から「ウェルメイド」のための枠組みともなるだろう。それらがつくりだす強靭な被膜を突き破ることが上演には求められるはずだ。これは観客による感受にも同じことが言い得る。ほのめかされたつくり手のメッセージを過不足なく受け止める「正解」を超えて、いかに豊かに演劇を体験するか。これはすなわち私自身の問題でもあることを確認しておきたい。



12-1 スプラスティック
 「丈夫な被膜を突き破れなかった」と私が感じた理由は、ARICAの公演が常に有していた身体動作のスプラスティックな噴出が、今回観られなかった(私が感じ取れなかった)ことにある。たとえば『UTOU』であれば、身体同士のぶつかり合いからピンボールマシンのように弾け飛んで、腹這いのままコマのように鮮やかにクルクルと回転する安藤の姿に呆気にとられた場面を挙げよう。それは思いがけぬ身体の動きが人間であることを裏切って噴出し、場面や文脈を一瞬の下に切断し、宙に吊る瞬間である。それは観客がそれまで安住していた、テクストが構築する抽象性、俳優の身体が担う象徴性、それら一切の記号の配列による世界が粉砕され、踏みしめていた床が抜けて、観客自身が宙に放り出されることにほかならない。この瞬間により、演劇はあらかじめ書かれたテクストの再現や解釈であることを止め、いま・ここに出現して、観客に突きつけられる。それは音楽における「即興的瞬間」に等しい。
 本来なら「資本と労働」、「機械と身体」を巡るメタファー/シンボルであることを振り切る速度が、身体には必要であった。しかし、舞台上の身体は(また、それを見詰める私は)、バスター・キートンのスプラスティックな疾走ではなく、チャップリン『モダン・タイムス』の悲哀に絡めとられ着地してしまった。これは決して安藤の演技の問題ではない。続けて見ていこう。

12-2 加速による「復讐」
 今回の『KIOSK』において、ARICAの他作品に比べ、「被膜」の強度が著しく高いことは間違いない。「テクストに抗する身体」の強度を余すところなく引き出すためには、それだけ「被膜」も厚く固く強くなければならないのだろう。「6-2」、「7-2」、「8-2」で示したように、安藤の身体の動きから受ける印象は、9日公演と11日夜公演の記録映像で大きく異なっている。しかし、これまで、そこでカギを握ってきたスプラスティックな速度の噴出は、やはり今回観られなかったと思う。その代わりに安藤の身体はより巧妙な作動ぶりを見せた。
 身体によるスプラスティックな速度の噴出が、テクストの描く線の進展に対し、垂直方向に為されるのに対し(それゆえコンテクストの切断が生じる)、今回の『KIOSK』における安藤の身体は、線の進行方向に沿って加速し、はるかに太く深くいきいきと彫り刻む。ここで舞台上の身体は、テクストが強いてくるコンテクストに抗うのではなく、それを過剰に推し進め享受することによって、テクストに「復讐」している。

 「復讐」の語が唐突と感じられるかもしれない。少々長くなるが、この語に担わせた意味合いについて説明しておこう。
 ここで「復讐」の語は、カルヴィン・トムキンズによるジェラルドとセーラのマーフィ夫妻の評伝『優雅な生活が最高の復讐である』から採っている。彼らはF.スコット・フィッッジェラルドの長編小説『夜はやさし』の主人公ダイヴァー夫妻のモデルとして知られ、作中に次のように描かれている。
 「一つの階級の最も進化した形を体現しており、彼らの横に並べば、たいていの人間はぶざまに見えるほどだった。」(作品社版p.34)
 マーフィ夫妻は黄金の1920年代をパリで過ごし、ピカソ、レジェ、コクトー、ディアギレフ、ストラヴィンスキー、コール・ポーター、ヘミングウェイ、そしてもちろんスコットとゼルダのフィッツジェラルド夫妻等の華やかな交流の中心にいたが、その後、一転して、二人の子どもの相次ぐ死に見舞われ、また、家業の立て直しに奔走させられることになる。しかし、彼らはスペインの諺だという「優雅な生活が最高の復讐である」をモットーに、優雅に(決して豪奢にではなく)暮らし続ける。すなわち、ここで「復讐」とは特定の誰かに対するものではなく、人生が容赦なく強制してくる苦難、悲劇的な運命へと向けられている。
 「11 被膜」で述べたように、私はARICAの舞台の特質を、一貫して「テクストに抗する身体」の視点からとらえてきた。「抗する」とは、通常、抵抗や反抗であり、いずれの場合もテクスト自体の作動を減速/遅延させ、場合によっては停止させてしまう。しかし、今回の『KIOSK』では、テクストは映像、音響、装置と緊密に組み合わされ、組み立てられた「演劇機械」として一体的に作動しており、身体はその機械の一部として深く組み込まれながら、その作動を減速/遅延させるのではなく、むしろ加速することにより、行為の享受を極め、その結果、「演劇機械」が枠組みとして強制してくる「機械に隷属する身体」の哀しみを突き抜けているのではないか。この「裏返された反抗/抵抗」を表す語として、「復讐」を用いた次第である。
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13-1 結合する諸機械
 ツイッターでつぶやかれた感想のうち幾つかが指摘していたように、今回の『KIOSK』の上演においては、セリフを語る声や音響、身体動作、装置の機械的運動がそれぞれ独立した層を成しながら、随所で結合・貫入しあい、まさに全体が一個の演劇機械として見事な作動ぶりを見せていた。換言すれば、この機械の一部として安藤の身体を組み込み、一体として機能させることが目指されていた。
 安藤の登場とともに壁際へと退く自走式の段ボール箱の塔をはじめ、ドラム缶にゴムひもでつながれた車輪付きの椅子、滑車仕掛けで吊り上げられる蛇口付きボトル、充填完了通知アラーム、キャップの発射装置、さらには間断なく切り替えられ、切断される音響や映像に至るまで、今回の上演はいつになく「機械仕掛け」に満ちていた。そして各機械と安藤の身体の接触/関係づけもまた濃密なものとなっている。
 ひとつ例を引こう。発射装置が打ち上げたキャップを、彼女は首尾よく受け止めてボトルにはめなければならないのだが、安定しない軌跡は予断を許さず、初めから手の届かないところへ飛んでしまったりもして、何度となく失敗する。この時彼女は、本来「僕(しもべ)」であるはずのちっぽけな機械に翻弄される「主人」となる。観客は彼女の成功に歓声を挙げ、失敗に溜息をつき、何事もなかったようにテーブル上に置かれていたキャップをはめる彼女にくすくす笑いを漏らす。ここには否応なく機械に蹂躙される『モダン・タイムス』と同様の喜劇フレームが起動されている。
 一方、『孤島』の不安定な「島」の上で、ポケットから取り出した豆を投げ上げ、口で受け止める安藤に対し、観客はよく似た反応を示すが、そこに先のフレームは立ち上がってこない。ここでも装置であり「機械仕掛け」である「島」の不安定さが、彼女を翻弄しているにもかかわらず、それは「僕」に振り回される哀れな「主人」とは映らない。それゆえ、そこには機械文明の進展により「機械化」を強制され苦しめられる人間‥‥という『モダン・タイムス』の悲哀は生じてこない。そうした機械の圧政に対する人間のささやかな抵抗・反乱への快哉もまた。

13-2 身体の論理
 この節の議論も、一点を除いて基本的に変更を要さないと考える。その一点とは「この機械の一部として安藤の身体を組み込み、一体として機能させることが目指されていた」という部分である。「12-2 加速による『復讐』」で述べたように、機械の一部として組み込まれた身体を、想定を超えて加速させることにより、システムの破壊や機能停止をもたらすことなく、別の意味合いが産出/獲得されてしまうのを目の当たりにした以上、もはや「目指されていた」とは言い得ない。これは決定的な違いである。

 だが、本来苦役である単純労働を楽しむことさえできれば、それで問題が解決するわけではもちろんない。そのことは、人格をすり減らすどころか、ほとんどすりつぶしてしまう、この国の「ブラック」な労働現況を見ればわかる。
 では11日夜公演の記録映像で観ることのできる、安藤の身体による労働の享受ぶりについて、どう考えればよいだろうか。少し長くなるが、シモーヌ・ヴェイヌ『工場日記』を補助線に考えてみたい。
 高等師範学校を卒業し、哲学の大学教授資格を獲得したヴェイユは、地方の女子高等中学で哲学やラテン語を教えた後、個人的研究のための休暇を申請し、現代技術が労働にどのような影響を及ぼしているか実地に検証するため、1934年から新米の未熟練工として工場で働き始める。その「実地検証」の記録が『工場日記』である。
 記述は工場の非合理なシステム、加工機械の不具合、上司や同僚の気紛れな指示や度重なる罵倒、披露や倦怠、頭痛やけがに満ちたつらく苦しいものだが、何よりつらいのが、何も考えられなくなる、考えたくなくなることだという。
 「しばらくすると、ある種の機械〔無意識〕的な幸福感をあじわう。むしろ品位を落とす兆候」(シモーヌ・ヴェイユ『工場日記』みすず書房p.34)
 「あまりに疲れはて、自分が工場にいるほんとうの理由を忘れてしまい、こうした生がもたらす最大の誘惑に、もはや何も考えないという誘惑に、ほとんど抗えなくなる。それだけが苦しまずにすむ、たったひとつの手だてなのだ」(同p.45)

 その一方で、製作すべき部品のサイズ、割当個数、出退勤時刻、労働時間、待ち時間、達成率、時間賃率、給金額‥‥等々の数字が強迫的に溢れた記述の中に、工場機械に対し人間が採るべき姿勢がふと姿を現す。
 「ギヌエフ。数学を学ばなければ、機械は工員〔労働者〕にとって神秘となる。機械において維持されている諸力の均衡が理解できない。ゆえに、機械について安心できない。例、金属に合わせてそのつど工具を交換するのではなく、鋼鉄とニッケルの両方をローラーで円筒化する工具を、手当りしだいに捜しだしてきた旋盤工。ギヌエフにとっては、たんなる切断にすぎないので、さっさと仕事にかかる。くだんの旋盤工は、迷信じみた敬意をもって機械に接する。うまく作動しない機械についても然り。」(前掲書p.172)

 機械の神秘、機械への迷信じみた敬意を、数学という知/知識がきっぱりと拭い去る。ここでまさに蒙を啓く知/知識の光として数学が称えられているのは、シモーヌ・ヴェイユの3つ違いの兄アンドレが20世紀を代表する数学者であるからだろうか。そうかもしれない。シモーヌは子どもの頃から天才ぶりを発揮していた兄の才能に打ちのめされ、死すらも考えたという。
 ヴェイユは、まるで呼吸やまばたきをするかのように、機械を操作する熟練工に身体と精神の一体化を見ていたという(佐藤紀子「解説」 前掲書p.216)。熟練労働者とは「賃金を得てはいるが、機械に奉仕するたんなる生きた歯車ではなく、道具をあやつる職人と同種の自由と創意と知性とで機械をあやつって仕事をこなす人びと」であり、彼らは知識と関連した技術を持っているのだという(富原眞弓「工場の火花に照らされて−『工場日記』をめぐる追加考察」 前掲書p.248)。
 実際、ヴェイユは『工場日記』の中に、フライス刃による加工機械の構造図を手描きで残しており(前掲書p.139)、それだけでなく、機械や素材の背後に隠れたメカニズムを解明し、知識として身に着けながら作業を進めていたことが、『工場日記』の記述の細部に読み取れるという(佐藤紀子「解説」 前掲書p.216)。
 確かに機械の構造原理やさらにその背後で作動しているメカニズムを知ることは、作業に視点と展望を与え、質を高めるだろう。しかしそれだけでは、回転するフライス刃に金属製の素材を押し当てながら、その指先の下で絶えずミクロに変化していく指先の感触に応じて、刃に押し付ける強さをしなやかに変えていく熟練工の「行為する身体」には至るまい。そこには何より「身体の論理」、「行為知」が必要なのではないか。

 河本英夫は知覚を次の二系列に分けてとらえている。
  観察者―理論知―知覚(本質の把握)―類種概念の把握―関係概念の設定
  行為者―行為知−―覚(予期)―身体行為の調整―気づきを介した行為の選択
   (河本英夫『システム現象学 オートポイエーシスの第四領域』青土社 p.114)。
 すなわち、「行為知」とは行為をしている最中に身体行為の調整、体制やキネステーゼ(身体運動感)の調整を行うためのリアルタイムの予期であり、行為能力に応じて環境情報をより詳細にとらえることができる。河本はその例としてロクロを回転させながら指の圧力で粘土の形を整えていく場面を挙げている(前掲書p.115)。
 行為、活動、体験の全貌は、見ること、知ることによって、そのごく一部しか取り出せない。行為を遂行している時、見る、知る、わかるだけでなく、現に「できる」ことに関わる広大な領域が作動している。

 以前に本ブログに、安藤朋子によるワークショップへの参加レボートを掲載したが(※)、その時に痛感したのがこのことだった。たとえば極端に遅い速度で歩くことについて、見ることを通じて知ることはかなりできる。それは単に外形をまねるだけでなく、それに伴う身体の各部位の位置と運動、各部位の連動によって可能となるバランスの維持と重心の移動について、キネステーゼ(身体運動感)的なレヴェルまで推察することは、ある程度可能だ。にもかかわらず、実際に試してみると、見る、知る、わかることと「できる」ことの間の絶望的な遠さ、決定的な違いに打ちのめされる。これは行為を振り返って、結果としてできなかったから、総括としてダメだったというようなことではない。身体運動のあらゆる瞬間、あらゆる場面で、「できる」に達しないことを体験し続けるのである。一方、いったんできてしまうと、今まで何がダメだったのかよくわからなくなる。もちろん、この動きをこう修正したから……とか、この点に特に注意を払ったから……と言ってみることはできる。でも、それはどうやら後付けの理屈に過ぎないようである。そこには言語の論理では掬い取りきれない「身体の論理」が作動している。言語を介さずに、おそらくは身体の視覚像自体も介さずに、身体から身体へ直接伝わるものがあり、わからずとも「できる」ようになることがある。むしろ、自転車の乗れるようになったり、泳げるようになったりという場面の方がわかりやすいだろう。自転車の「乗り方」を覚えた、「泳ぎ方」を覚えたと理解・記憶しているがそうではない。
※http://miminowakuhazushi.blog.fc2.com/blog-entry-465.html
身体の論理を体感してみること - 安藤朋子ワークショップ「自分のからだを訊く」参加体験記  To Experience the Logic of the Body Actually - Report on Tomoko Ando's Workshop "Ask Your Body"

 このように考えを進めてくると、機械への隷属が強いられる場面において、安藤が機械の神秘に怯えることなく、てきぱきと自在に作業をこなす「熟練労働者」へと達し、さらにそれを鮮やかに突き抜けて、そこに自分だけの楽しみ・喜びを生み出しているのは、この「身体の論理」の強靭さゆえであることが見えてくる。



14-1 同期/非同期
 『モダン・タイムス』との関連について、もうひとつ指摘しておきたい。『KIOSK』において、安藤はペットボトルが一杯になったことを知らせるアラーム音に、常に追い立てられているように見える。別の作業に勤しむ彼女に対し、アラームは突然無慈悲に鳴り渡り、彼女を意地悪く邪魔し、あるいは容赦なく追い立てているように見える。運命に翻弄される人間? しかし、大ボトルから滴り落ちる流量は蛇口により制御されており、空のペットボトルが満たされるまでの時間は同一であり、一定の周期を描いている。ここでは左右の装置の周期がズレているために、非周期的に予測し得ないタイミングでアラームが鳴っているように見えるに過ぎない。もし左右の装置が同期していれば、安藤の作業ははるかに楽な、つまりは観ていて面白みのないものとなっただろう。
 ここで『モダン・タイムス』から、ベルト・コンベアで次々に流れてくる製品のボルトを、チャップリンが次々に締めていく有名な場面を思い出そう。最初は快調に作業していた彼は、次第に追い立てられ、最後には錯乱を来すこととなる。そのきっかけは、途中で脇の下を掻いたことであり、それが原因で同期が保てなくなり、同一のリズムを刻み続ける機械によって追い立て追いつめられたのだった。
 「労働する身体の反復的な動きは、ときに無意味な単純さに還元される。それは子供がしばしばするような飽くなき身体反復に似ている。そして、それが児戯のようであればあるほど、人間の本質的な身振りとなるのではないか」と配布されたリーフレットには記されている。まさにその通りだろう。であるならば、同期がズレた時、遊戯であるべき身体反復は、強迫的な追い立てに晒されるしかないのだろうか。子供の飽くなき身体反復は、むしろ周期がズレてしまうことによって生じるアクシデントも含めて、その楽しさに興じているように思われる。

14-2 機械の悪意と子供の残酷さ
 もともと「14-1」を設けた理由は、安藤を翻弄するアラーム仕掛けが、決して確率的なランダムネスに基づいているのではなく、それ自体は正確な同期性を持っていたとしても、左右の周期の違い(非同期性)により予測し得ない結果を生み出してしまうと指摘することにあった。すなわち背後に「意地悪な神」がいなくとも、単純な機械仕掛けが相互のズレを介して「悪意に満ちた運命」を産出してしまうことが起こり得ると。
 藤田からは「大ボトルと蛇口の仕掛けは、流れ落ちる水量を正確に制御できる精度を持っておらず、それゆえこの仕掛け自体が単独でズレを引き起こし得る」との指摘を受けた。確かにそうかもしれない。しかし、その安藤を翻弄する原理は、この個々の不正確さよりも、左右の装置のズレ(非同期性)にあるとの基本的理解については修正を要しないと考える。この不正確さが、本質的な予測不可能性として、つまりは「機械の悪意」(それはヴェイユの指摘する「機械の神秘」と似ている)として立ち現れるまでには至っていないからである。

 安藤の身体がこうしたズレを期せずして即興的に乗り越えている場面が、11日夜公演の記録映像で確認できたので報告しておきたい。ペットボトルの蓋を圧縮空気で打ち上げる装置は、9日公演では2個同時に射出してしまう動作不良をたびたび起こしていたが、この日、それは修正されていた。その代わり、右手の装置の射出力が異様に強く、打ち上げられた蓋が天井に当たるなどしていたが、ある時、天井のどこかにそのまま引っかかって落ちてこなかった。安藤は口をぽかんと開いて天井を見詰めていた安藤の身体は、この不測の事態に対し、すかさず不帰還を悼んで合掌し、その後、しばらく立ち尽くしたまま件の装置を見詰め、やがてさっと蓋を取って栓を締めた(すかさず、会場からは笑いがわき起こっていた)。ここでの客席の笑いは、「13-1 結合する諸機械」で触れた観客のくすくす笑いとは明らかに異なっている。ここに「否応なく機械に蹂躙される『モダン・タイムス』と同様の喜劇フレーム」は起動していない。「運命に翻弄される人間」の哀しみはかけらもない。むしろアクシデントを楽しむ子供の残酷さがある。



15-1 ソングの重力圏
 これらのチャップリン的悲哀に対し、先に「7.プログラム」で描写した、積み上げられた一番上の段ボール箱を、竿で引っ掛けてひょいひょいと回収して回る場面では、安藤は無表情のまま、名人芸とも言える手さばきで鮮やかに作業をこなし、超人的な力で機械を超えていくキートン的なクールさを輝かせていた。
 ところが「8.ソング」の場面に移ると、機関銃のように撃ち出されるセリフと動作が、多様なサウンド・映像と重なり合い、なおかつ突然暴力的に寸断されるという全編のクライマックスを迎えながら、パティ・スミス「ディスタント・フィンガーズ」の夢見るような気怠さを押しのけることができない(彼女の歌もまた同時に寸断されているにもかかわらず)。暖かく湿った毛布が重力を何十倍にもして、身体をベッドにめり込ませているかのようだ。
 ソング・ピースにおいては、歌詞の描く情景やメッセージ、それを語る声音の温度や触感、メロディと抑揚、発音を含めたアーティキュレーションとリズム、速度と速度感の変容、器楽のアレンジメントやサウンドのコントロール、ソロの一音一音からドラムス各部のバランスに至るまで、ソング・ピース全体の調和を目指して、まるで結婚式の親族集合写真のように、厳しく刈り揃え整列させられる。もちろん、そうではないソングのあり方もある。声が軋み、張り裂けて、サウンドと衝突し、世界を押し広げながら、歌詞の世界に裂け目を穿つような。だが、パティ・スミス「ディスタント・フィンガーズ」は、そのような曲ではない。
 ランボーとブランクーシに捧げられた「ラジオ・エチオピア」〜「アビシニア」におけるギター・フィードバックの混乱で名高い2作目『ラジオ・エチオピア』のB面。「ディスタント・フィンガーズ」はその2曲の直前に置かれ、麻薬的に甘やかなたゆたいを提供している。女流ストリート詩人ならではの蓮っ葉さこそ失わないものの、いつもの声を放り出すようなエッジの効いた唱法は影を潜め、倦んだ地上から自分を救い上げてくれる異星人へのあてのない願望が、まどろむような猫なで声で歌われている。バンドの演奏もまた、バブルガム・ミュージックの味覚を麻痺させるような人工的な甘ったるさを演じ続ける。続けて現れる無機質なエレクトロニクス、鋭く切り立ったギター・リフと憑かれたようなポエトリー・リーディングの衝撃を際立たせるために。
 こうして安藤の身体は(そして私の眼差しは)「ディスタント・フィンガーズ」の重力圏に引き込まれ、機械と身体を巡る哀しい倦怠に染め上げられてしまうことになる。

15-2 反重力
 「15-1」で展開したソングの重力圏に関する議論自体は、「ディスタント・フィンガーズ」という曲の性格分析を含め、修正を要しないと考える。しかし、「8-2」で記述したように、9日公演で「夢見るような気怠さを押しのけることができずに、身体をベッドにめり込ませていた」安藤の身体は、11日夜公演の記録映像では、明らかにその場を支配していた。
 このシーンの後半で、安藤はセリフを急な早口で発話しつつ作業を続け、突然に中断し、身体をピタリと静止させる。中断/静止したところで音響は、高橋のギター演奏を含め休止し、映像も停止する。安藤は、沈黙と静止画像を背景にまたゆっくりと動き始め、段ボール箱からペットボトルの束を取り出し、ゆっくりと台の上へ持っていく。きわめてゆるやかに、まるでじらすようにペットボトルの束を身体の前で下ろしていき(観客・スタッフの注意が、弓の弦を引き絞るようにその一点に集中してくるのが、肌に痛いほど感じられる)、最後の最後で「ダンッ」と台上に置く(と同時に効果音が響き渡る)。それを合図に再び音響と映像が目まぐるしく動きだし、彼女もまた勢い良く次の作業のスタートを切る。この「だるまさんがころんだ」式の繰り返しにより、彼女の身体の動きは明らかにこの場をコンダクトしていた。
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16-1 もうひとつの時間と空間
 哀しい倦怠に浸された私の眼差しは、安藤の作業の断固とした終わり方にもかかわらず、また、水を二度飲む安藤の身体が、決してほっとした安堵を浮かべているわけではないにもかかわらず、そこに思わず束の間の安息と寂寥を見てしまっていた。そこに添えられる音楽/音響もまた、そうした感慨に異議を表明しているようには感じられなかった。
 ここに至るまで、安藤の身体を組み込んだ『KIOSK』演劇機械の精密な構築と緊密な作動ぶりについて記述/分析することにより、それらが主題の系列に向け、あまりにコヒーレントに同一方向に整列し、層を敷き重ねているがために、スプラスティックな速度の噴出や身体の特出を封じてしまっているのではないかと論じてきた。
 しかし、この最後の水を飲む安藤の身体、とりわけその「毅然とした」眼差しに軸足を置き直して、そこからオセロ・ゲームのようにすべてを裏返していくことも、あるいは可能かもしれない。しかし、とても脳内でそれを行うことはできない。また、「毅然とした」との印象に確証を持つことももはやできない。

 だが『KIOSK』という表題にもかかわらず、店舗を訪れる客が一人もいないという不可解な事態について、「誰もいらないと言っている みんながもういらないと口をそろえて言っているのに それでも すべてが 供給される」というセリフに引き付けて「客が一人も来ない店舗に、毎日決まった量の品物が配送される」不条理とも解釈できれば、これは開店前の準備作業『KIOSK 1』であり、この閉幕の後に客の応対、商品の売買による『KIOSK 2』の時間と空間が幕を開けるとの解釈も可能だろう。
 前者の解釈であれば、ここで舞台に乗せられた場面がKIOSKの時間のすべてであり、その反復だけがあることになる。水を飲む安藤の身体はその一部(たとえば文末を示すピリオド)であるか、せいぜいが余白に位置づけられるものとなろう。つまりはKIOSKの労働とはこうした作業なのだと。私の記述/分析はこの解釈に基づいていることになる。
 対して後者の解釈であれば、舞台には乗せられていないもうひとつの時間・空間があり、水を飲む安藤の身体は、こちらの時間・空間『KIOSK 1』からはみ出して、もうひとつの時間・空間『KIOSK 2』を眼差していると考えることもできよう。
 そうした論じきれなかった転倒の可能性を示唆することで論を閉じることとしたい。

16-2 そこにある『KIOSK 2』
 9日公演を体験して妄想を膨らませ、しかし論じきれなかった転倒が、11日夜公演の記録映像では、まさにそこにあると感じられた。安藤の身体の毅然さは揺るぎなく、視線がとらえ続ける舞台左手側には、明らかにもうひとつの時間と空間が開けていて、彼女の身体は『KIOSK 1』から『KIOSK 2』へゆっくりと、だが確実に移行していた。ここで音響は9日公演のように彼女を見送ってはいない。この場、すなわち『KIOSK 1』にとどまって、彼女に脱ぎ捨てられ、置き去られるものとしてある。その証拠に音響が消えても、照明が消されても、彼女は歩み続け、もうひとつの時間・空間への移行を続ける。
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アリカ『キオスク』  ARICA『KIOSK』
2020年2月9日〜2月11日 横浜BankART Station
※私が観たのは初日である2月9日の舞台です。また「はじめに」に述べたように、藤田康城氏から提供していただいた最終公演となる2月11日夜の舞台の記録映像を視聴しました。また、当記事に掲載の舞台写真についても、藤田康城氏から提供していただいた宮本隆司氏撮影の写真を縮小して使用させていただきました。ご協力に感謝いたします。

演出 藤田康城
テクスト 倉石信乃
出演 安藤朋子

音楽・演奏 福岡ユタカ 高橋永二郎
美術 西原尚
映像 越田乃梨子
衣装 安東陽子
機械装置製作 高橋永二郎



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ライヴ/イヴェント・レヴュー | 15:48:02 | トラックバック(0) | コメント(0)
タダマス、富嶽三十六景を巡る  "TADA-MASU" Travels around Thirty-six Views of Mount Fuji
 益子博之と多田雅範がナヴィゲートするNYダウンタウン・シーンの定点観測「四谷音盤茶会」も明日で何と36回目、開始して丸9年を経過することとなる。
 ここのところ、ずっと身辺が慌ただしく、一向に筆が進まず、ブログの更新もままならないばかりか、前回「タダマス vol.35」を体調不良にて欠席という失態までやらかす始末。それまでの34回で2回欠席したものの、それはいずれもどうしても外せない予定が入ってしまったためだったのだが、今回は体調管理のミスによるドタキャン。情けないことこのうえない。えてして、そんな場合によくあることなのだが、会う人から皆「何で来なかったの。もったいない。とても内容が充実した出色の回だったのに」と聞かされ、ますます落ち込むことに。
 今回は2019年の総括ということで、新譜からの選盤に加え、年間ベスト10の発表と振り返りがあるので、前回聴き逃した秀作群は、そこで幾らかなりとも耳にすることができるだろう。ゲストも、いつも必聴の滋味深いコメントを残す蛯子健太郎が3回目の登場。そういえば、彼の率いるユニット「ライブラリ」のデュオ形態での再出発ライヴ(「タダマス」と同じく綜合藝術茶房 喫茶茶会記で行われた)も、やはり体調不良で行けなかったのだった(泣)。リヴェンジを期して明日の晩に臨むこととしたい。


今回は、2019年第4 四半期(10~12月)に入手したニューヨーク ダウンタウン~ブルックリンのジャズを中心とした新譜CDと、2019年の年間ベスト10をご紹介します。 ゲストには、3度目の登場となるベース奏者/作曲家の蛯子健太郎さんをお迎えすることになりました。ストレート・アヘッドなジャズから電子音響や詩の朗読を含む作曲まで幅広い表現で活躍される蛯子さんは、現在のニューヨークを中心としたシーンの動向をどのように聴くのでしょう。お楽しみに。(益子博之)

タダマス36縮小

益子博之×多田雅範=四谷音盤茶会 vol. 36
綜合藝術茶房 喫茶茶会記(四谷三丁目)
新宿区大京町2-4 1F
2020年1月25日(土) 
open 18:30/start 19:00/end 22:00(予定)
ゲスト:蛯子健太郎(ベース奏者/作曲家)

茶会記案内図


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タダマス、直木三十五に関する映画を35mmフィルムで撮る  "TADA-MASU" Shoot Movie about Sanjugo Naoki by 35mm Film Camera
 いろいろあって、しばらく更新が滞っていた本ブログ『耳の枠はずし』だが、今週末10月26日(土)には、多田雅範と益子博之がナヴィゲートするNYダウンタウンを中心としたコンテンポラリー・シーンの定点観測「タダマス35」が開催されるとなれば、これは何とか重い腰を上げて告知をせねばなるまい。

益子博之×多田雅範=四谷音盤茶会 vol. 35
2019年10月26日(土)  open 18:30/start 19:00
四谷三丁目 綜合藝術茶房喫茶茶会記
ホスト:益子博之・多田雅範
ゲスト:柳沢耕吉(ギター奏者・作曲家・即興演奏家)
参加費:\1,500(1ドリンク付き)

今回は、2019年第3 四半期(7~9月)に入手したニューヨーク ダウンタウン~ブルックリンのジャズを中心とした新譜アルバムをご紹介します。
ゲストには、ギター奏者・作曲家・即興演奏家の柳沢耕吉さんをお迎えすることになりました。2013〜17年のNY在住時にはJazz Galleryのスタッフを務め、Prix Presque Rien(プレスク・リヤン賞)2017で大賞を受賞した柳沢さんは、現在のニューヨークを中心としたシーンの動向をどのように聴くのでしょう。お楽しみに。(益子博之)

タダマス34,35縮小


 続いて、当日プレイされた10作品中、わずか3作品への言及にとどまるが、前回「タダマス34」に関するレヴューを記しておきたい。

タダマス34,35-1Joseph Branciforte & Theo Bleckmann『LP1』((Greyfade Label)
Theo Bleckmann - voice, electronics; Joseph Branciforte - modular synthesizer, Rhodes electric piano, tape loops, processing
 靄の立ち込めた視界の効かなさ。押し殺した吐息。放送終了後のTVの「砂嵐」画面を思わせる粒子の粗さが次第に浮かび上がる。吐息のもたらす身体の輪郭から、魂が抜け出るように声がゆらりと立ち上り、どこまでも希薄に広がる響きと化して、空間の隅々まで浸みわたっていく。ここでTheo Bleckmannは女声としか聴きようのない高域まで繊細に駆使し尽して、まったく輪郭の固さや圧力を感じさせない柔らかな広がりをつくりだしている。電子音の肌理をいささか粗くしているのは、この相互浸透を達成するための周到な仕掛けなのだろう。蒟蒻を煮込む前に、味がよく染みるよう、鍋で丹念に空煎りするような。「母胎回帰」あるいは「羊水感覚」をまんま演出する電子音の仕立て(クラウス・シュルツェ等k七〇年代ジャーマン・ロック)、荒く忙しなくなる吐息のこもった響き(スタンリー・キューブリック『2001年宇宙の旅』のボーマン船長)など、いささか既視感が伴いはするのだが。

タダマス34,35-2Rallidae『Turned, and Was』(Gold Bolus Recordings GBR 026)
Angela Morris - tenor saxophone, voice; Dustin Carlson - electric guitar, voice; Scott Colberg - double bass, voice; Nico Dann - drums, voice; Alex Samaras - voice
最初にかけられた「Awake」は曲題とは真逆の、緩やかな眠りへと引き込む子守歌。曲としての良さにまず惹かれるが、それだけではない。遠く近く催眠的に繰り返される歌の一節に対し、演奏は個々の楽器/演奏者のヴォイスであることを脱ぎ捨て、非人格的なテープ・エフェクトの方へと、ずぶずぶと滲み出していく。ガラス片で奏でられたようなギター、遠くのサイレンの如く頭上を通り過ぎていくテナー・サックス。先のJoseph Branciforte & Theo Bleckmannのエレクトロニクスによるアプローチを、あえて器楽アンサンブルで試みることで、より体温の暖かみと肉の厚み、そして柔らかな濁りのある音響がかたちづくられている。希薄に拡散するのではなく、頭から布団をかぶって身を丸める甘やかで胸苦しい内向的な濃密さが感じられる。それでいて、断片の繰り返しへと落ち込んでいくヴォーカルをはじめ、テープ・ミュージックをわざわざ人力で演奏するにような、マニアックなこだわりが感じられるのが興味深い。ここでも「相互浸透」が主題化しているということだろうか。全体としてはポップなロック感覚をたたえているのだが、冒頭でも、最終トラックでもなく、前半の最後に、Joseph Branciforte & Theo Bleckmannに続けて置かれた理由がわかる。益子博之による選曲・配列の巧みさを思わざるを得ない。
 続く「Still Breathing」は「Awake」の重怠い昏さをそのまま受け継ぎながら、眠気の底が抜けて、夢の世界の扉が開いていくような柔らかな光に満ちている。オルタナティヴ~シューゲイズ的なギターの掻き鳴らしがサンドに力強さを与えているが、口笛のようなスキャット・ヴォイスと鼻歌のようなテナー・サックスの絡みは、どこまでもやわらかくこわれやすい希薄さを手放さない。なお、Rallidaeとは鳥の名前(クイナのこと)だという。

タダマス34,35-3Matt Mitchell『Phalanx Ambassadors』(Pi Recordings PI 81)
Matt Mitchell - piano, Mellotron, Prophet-6; Patricia Brennan - vibraphone, marimba; Miles Okazaki - electric & acoustic guitars; Kim Cass - double bass, electric bass; Kate Gentile - drums, percussion
 まずは圧倒的に高密度な演奏に打ちのめされる。先にかけられた「Stretch Goal」は、2016年にアップされたライヴ演奏をYoutubeで観ることができ、そこでは本作の5名に武石務を加えた6人編成が、極端に入り組んだ曲構成の複雑さを、いささかたどたどしくなぞる様を見ることができる。CD用に録音されたトラックはそれよりもはるかに加速され、かつ複数の流れを重ね合わせ、捩じるように撚り合わせた複層的なものとなっている。冒頭からいきなり急速に畳みかけていく動きに対して、途中からそれと引き合うようにだんだんと遅くなっていく逆向きの加速度が加わり、アンサンブルは身をよじるようにして、天井知らずに内圧を高めていく。
 鋭く尖らせた切っ先で細密に刻んでいくピアノとギター、流星雨の如く煌めきながら走り抜けていくマリンバやヴァイブ、超高速でジグザグにステップを踏むベースに比べると、ドラムスのKate Gentileの演奏は、最初、パワフルではあるが、いささか粗いように感じられた。しかし、聴き込めば、彼女のバネの効いた打撃が、この複雑怪奇に入り組んだ演奏に、急坂を駆け下りるような火照った推進力を吹き込んでいることがわかる。「ケイト・ジェンタイルの足腰のしなる柔らかさから繰り出すグルーヴは牽引力以上の触発力まであるようだ」とは、自身のブログで当日の音源を振り返った多田雅範の弁。
 調べるとKate Gentile自身のクワルテットとは、Kate Gentile, Matt Mitchell, Kim Cassとリズム・セクションが丸ごと共通しており、共演を重ねる中でアンサンブル感覚を練り上げてきたことがわかる。ただし、彼女自身のクワルテットの演奏は、さすがにここまで複層的なものではない。
 そそり立つ聖堂の仰ぎ見るステンドグラス群、あるいは岩石標本の色鮮やかな顕微鏡写真を思わせるジャケットのアートワークも、また彼女によるものだというから驚く。拡大すると、様々な写真が万華鏡的に細密に貼り合され、民俗的な文様と組み合わされていることがわかる。それはまるで、長い時間をかけてゆっくりと凝固する花崗岩の内部で、先に結晶化した鉱物の間を縫い、それらをいわば「型枠」として、別の鉱物が自らをかたちづくっていく様を、このアンサンブルの生成原理として、シンボリックに表象したものであるかのように感じられる。





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うねりと濁り 「星形の庭」@下北沢leteライヴ・レヴュー  Swells and Turbidity(Unclearness) Live review for "The Pentagonal Garden" @ lete , Shimo-Kitazawa
1.
 椅子をぴったり詰めて四脚分ほどしかないスペースに、三人の演奏者がどう入るのかと思っていたら、写真の通り、向かって右奥にVOXの小型ギター・アンプ、その左にヴァイオリン、手前にエレクトリック・ギターとディレイとペダル、さらにその左手前にアコーディオンと楽器が置かれ、その傍らに各演奏者用の丸椅子が配されていた。

 ほどなくして演奏者たちが登場し、椅子に腰を下ろす。津田が弓に松脂を塗る音が響く。気がつくと三人は狭い中に膝を突き合わせ、まるで正三角形の炬燵の鍋を囲むように向かい合っていた。
 津田がギター弦に当てた弓を垂直に引き上げる。珍しく太筆による幅と厚みのある線が引かれる。ヴォリューム・ペダルがベタに踏み込まれている。ややフラジオ気味のヴァイオリンがそれに寄り添い、響きを重ね合わせ、微かに揺らがせる。見分け難くひとつになってごうごうと鳴り響く音流の中に、幾つもの筋が浮かんでは消える。倍音がぶつかり合い、眼の前にそそり立つ音の柱とは別の「もうひとつの音」がふと鳴り響いては、また別のところに移り変わる。Tony Conrad『Early Minimalism』を思わせる増幅/濃縮された轟音の只中で、ギター弦と弓が擦れあうか細い金属質のささくれが、微かな音であるはずなのに、ふと聴こえてくる。この「音楽劇場」が永遠に続けばいいのにと夢想するうち、エレクトリックな轟音は次第に逆巻くうねりを抑え、ゆったりと左右に揺れ傾ぐようになり、そこにアコーディオンが加わって曲のイントロを奏でる。いつもより太く厚みのある音が思い切り良く放たれ、オブリガードを奏でるヴァイオリンもまた、それに寄り添うというよりは大胆に身体を預け、体重を乗せていく。弓奏ギターはその傍らでヴィオラ・ダ・ガンバを思わせる補足倍音の多い音を編んでいる。
 演奏は切れ目なく次の曲に移り変わる。ギターの爪弾きによるイントロに、食い入るように荒々しく波頭をもたげたアコーディオンが突っ込み、そのまま覆い被さっていく。いつもは細く絞り込まれ、禁欲的なまでに揺るぎなく水平に保たれる音が、あからさまにうねりを迸らせ、やがてヴァイオリンにバトンを引き継いでいく。

 ここでは、これまでの「星形の庭」とは全く異なるアンサンブルのあり方が示されている。

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2019年8月17日のステージ配置



2.
 下北沢leteの、水道橋Ftarriはおろか、喫茶茶会記よりも、Permianよりも、「ここから」よりも、Liltよりも間口の狭いちっぽけなステージには、やはり魔法がかかっているのだろうか‥‥。そう思わずにはいられないくらい、昨日8月17日に行われた「星形の庭」のライヴは素晴らしかった。leteでの「星形の庭」ライヴと言えば、前回5月14日(火)のライヴを、このブログで激賞しているから、それも当然のことと思われるかもしれない。だが、それは違う。前回はデュオ編成であり、その演奏/交感の濃密さに打たれた。しかし、今回はトリオ編成による出演であり、その演奏に私はずっと不満と不安を感じていたからである。
 津田貴司のギターと林(佐藤)香織のアコーディオンのデュオによる結成時の「星形の庭」に林享のヴァイオリンが加わったトリオは、当然のことながら、アレンジや演奏の絡みの可能性を豊かにすることが期待される。しかし、私が横浜The CAVEや文京区立森鴎外記念館で聴いた演奏では、ヴァイオリンが本来持っている音色、「鳴ってしまう」響きの豊かさが、あるべき隙間を塗りつぶしてしまっているように感じられた。
 そこで楽器の音は、か細く不安定で脆く壊れやすい物音の段階を脱ぎ捨てて、最初から確かな「楽音」として現れる。その確かさを踏みしめて広げられる響きの翼は、アンサンブルにオーケストラ的な厚みと豊かさをもたらす。だが、その陰で失われてしまうものもある。ひとつ例を挙げるならば、私が「星形の庭」を初めて聴いて、思わず耳が惹き付けられた「ピシピシ、パチパチ‥‥」という囲炉裏の薪が爆ぜるような、しんしんと冷え込む夜中に洗面器の水が凍っていくような、鍵盤を押さえずに開閉されるアコーディオンの蛇腹が立てる微かな物音がそれだ。その音は私にとって「星形の庭」のシンボルと言うべき存在であり、前回、5月14日の演奏で、その音が回帰してきたことを無邪気に喜んでいる。
 私は単に自分が決めつけた古い鋳型を彼/彼女らに押し付けているのだろうか。そうは思わない。というのは、研ぎ澄まされた細く硬いペン先が刻み付ける筆蝕から次第に淡く広がるインクの滲みや、キャンヴァスに擦りつけられたほとんど乾きかけた筆が辛うじて残す掠れが、眼を凝らすうちにタブラ・ラサと思われた無垢なキャンヴァスに潜む凹凸や傷、微かな染みや汚れを浮かび上がらせ、そこに幾つもの不定形の形象を結びながら、さらに身を沈め交感を深めていく‥‥。そうした演奏の次元を有することが、彼/彼女らのかけがえのない特質ととらえているからである。それは「音響」の汲み尽くし難さにより、不可視の「環境」を浮かび上がらせ、それとの即時的な交感を通じて「即興」演奏の軌跡を産み出していく。そこには音を放つこと以前に聴くことの深みがあった。
 対して、そうした細部を有することのない均質な楽音は、前述の次元を持つことができない。メロディの変奏やリズムの変化、テンポやイントネーション、アーティキュレーションの変容といった、通常の楽曲解釈の「閉域」に留まることになる。逆に言うと、聴き手の耳は、「聴くこと」の深みへと、それ以上降りていくことができない。
 完成された古典楽器であるヴァイオリンを迎えた「星形の庭」の演奏に、私の耳は空振りを繰り返した。響きに触れようと伸ばした指先は空を掴み、オーケストラ的な絵柄の全幅を、引いたところから遠巻きに眺めるしかなかった。

190514星形の庭@lete縮小
2019年5月14日のステージ配置



3.
 この日の彼/彼女らのアンサンブルは思い切りの良い厚みをたたえ、勢いのあるうねりを保ち続けていた。それらが濁りや不透明さを招き寄せるのを恐れることなく。
 私が「星形の庭」の演奏に、前述の次元でフォーカスしていたのは、あらかじめ記譜された楽曲の演奏であろうとインプロヴィゼーションであろうと、まずは聴くことに身を沈める彼/彼女らの身体のあり方へのチューニングがあった。そしてもうひとつ、そうしたフォーカシング、微視的な耳の眼差しの接近を、どこまでも受け入れるサウンドの透明度の高さがあった。細く張り詰めた線、希薄な倍音の広がり、いやそれだけでなくもうもうと立ちこめるシューゲイザー的な充満にあってさえ、耳の視線はどこまでも響きに肉迫し、一様に塗りつぶされた音の壁に突き当たり行く手を塞がれることなく、その細部へ、襞の奥へと入り込むことができた。その象徴であり、また指標ともなっていたのが、先に述べたアコーディオンの蛇腹が立てる「ピシピシ、パチパチ‥‥」という微かな物音にほかならない。
 新たに加わったヴァイオリンが、そうした音の壁を持ち込んでしまった後ですら、彼/彼女らは「濁り」を嫌っているように思われた。空間を埋め尽くさぬよう音の懸隔を確保し、さもなくば寸分の狂いなく重ね合わせ、呼吸をゆったりと平らかに保ち、先を急がぬこと。にもかかわらず、「ピシピシ、パチパチ‥‥」は聴こえなくなっていた。

 しかし、この日の演奏は決して「濁り」を回避することなく、むしろ積極的に招き入れ、随所で効果的に活用していた。ヴァイオリンが能う限り細く希薄な音を放ち、それにアコーディオンの響きが寄り添って醸し出す朝もやを思わせる不透明さが、二人の呼吸のズレに促されてゆるゆると動いていく。あるいは思い切りよく立ち上がり、そのままダイヴして他の誰かの音に乗っかり、そのまま体重を預けていくヴァイオリンやアコーディオンの振る舞い。ヴァイオリンの参加による高音域へのシフトとバランスを取るギターの低弦のブンと撓んでうなるような強調。その結果生み出される乱れや歪み、うねりが音の厚みをいや増し、押し寄せ高まる波が交錯し波頭を打ち付けあう。
 別の言い方をすれば、デュオ編成で互いに分かち合う2分の1ずつを、トリオ編成では3分の1ずつに‥‥というような「換算」を彼/彼女らはもはやしていなかった。ヴァイオリンの出音のサイズが小さくならないのであれば、たとえ全体が過剰になろうと、まずはサイズを揃えてしまえばよい、という単純明快な(パンクな?)思い切りがあった。
 もちろん濁りを招き入れたからと言って、決して聴くことが蔑ろにされたわけではない。ここで「聴くこと」は、「耳の眼差し」が見通す透明性の次元から、水底の闇で水の動きを感じるようなより皮膚感覚的かつ全方位的なものへと歩みを進めている。考えてみれば、三人が膝詰めで向かい合う配置は、まさにまずは互いが聴き合うためのものであり、そしてそのように聴き合いながらミックスされたサウンドを、ステージの形をした「サウンド・ボックス(モニターにしてミキサー)」から客席に向け放射するためのものにほかなるまい。

 津田がツイッターやFacebookで引き合いに出していた(そしてこれまで私にはちっともピンと来なかった)Velvet Undergroundも、今ならすっと理解できる。ひとつにはTony Conradと共にLa Monte YoungのEternal Music Theatreに参加していたJohn Caleが持ち込んだ倍音が(近接音程での基音もまた)ぶつかり合うドローンの生成において、もうひとつにはパンク・ムーヴメントに遥かに先駆ける衝動の技術を介さぬダイレクトな発露において。



4.
 トリオ編成による「星形の庭」のことを記していて、なぜかふとTin Hat Trioの名前が頭に浮かんだ。サンフランシスコを拠点として活動する彼/彼女らは、アコースティックな器楽トリオ編成で、ラテン音楽をはじめ民族音楽まで幅広く素材を渉猟し、リズム・セクション無しの三人が自在に役割を取り替えながら「チェンバー・ポップ」などという呼称が野暮に感じられるほど、洗練の極みと言うべき洒脱な演奏を聴かせる。超絶技巧のひけらかしなどまったくなく、演奏マナーは極めてさりげないのだが、それでいて必要にして充分な表現を自由自在に生み出す技量の冴えにほとほと感心させられた。一時はよく聴いていた。最初はなんでそんな名前が急に浮かんできたのか訝しく思ったが、改めて確認してみるとTin Hat Trioもまた男性二人、女性一人によるギター、アコーディオン、ヴァイオリンの編成なのだった(ただし、こちらの紅一点はヴァイオリン奏者のCarla Kihlstedtだが)。ポップな親しみやすさをキープしながら、同一編成においてミュージシャンシップを極限まで発揮した感のあるTin Hat Trioを対極に置くと、今回の(もしかすると今後の)「星形の庭」のあり方が見えてくるような気がする。

  
Tin Hat Trioのアルバム



5.
 正直なところ、期待と不安では後者の方が大きく、それゆえ直前まで観に行くか決めかねていたライヴだったが、これまで記してきた通り、彼らの飛躍的成長を見届ける結果となったのはうれしい限りだ。もちろん大きな変化を迎えているがゆえに、まだ細部には綻びが多い。特にギターがフィンガー・ピッキングによる丸みのある、だが不定形にひしゃげたミュート気味の音色で、そぞろ歩くような三拍子を刻み続ける曲(新曲か?)では、蝋燭の揺らぐ炎のように伸び縮みする間合いを踏まえながら、水平にまっすぐたなびくアコーディオンのコード弾きとそれに斜めに交わっていくヴァイオリンのオブリガートが推進力を生み出していかなければならないが、長くは続かない。だが、それはむしろ「伸びしろ」の大きさを物語るものだろう。
 個人的なリクエストとしては、冒頭に記したTony Conrad『Early Minimalism』を思わせる部分を、トリオ全員の演奏に拡張し45分間やってもらいたいところだが、実現は難しいだろうか。

 これはまったくの余談だが、ライヴ前の夕食をleteの近くのタイ料理屋で取ったのだが、ソムタム(青パパイヤのサラダ)がとりわけおいしかった。この料理を初めて食べたのは、マレーシアの北部でタイ国境に近いコタバルの屋台なのだが、その後、国内で何度食べてもずっとピンと来なかった。細切りにした青パパイヤの固めの歯触り、歯応えとともに、辛味と酸味が立ち上がりよく鼻に抜け、ナンプラーや小エビを発酵させた蛯醤の混じり合った濁りのある重たい旨味が甘みを携えて舌の中央から根元にガツンと来る。内側から怖々と輪郭をなぞるのではない、手早く思い切りの良い調理ならではの見事な出来。店の雰囲気も常連が多そうであるにもかかわらず、私のような一見客にもとっても気のおけない感じで良かった。大層元気な女性店主によれば、leteのライヴ客もよく来るという。水道橋Ftarriの讃岐うどん(笑)ではないが、ライヴ演奏といっしょに食事も楽しみにできるというのは何とも幸せなことだ。

ティッチャイ縮小
http://tit-chai.com/


2019年8月17日(土) 下北沢lete
星形の庭(林享violin, 林香織accordion, 津田貴司electric guitar)

※当日のライヴからの抜粋録音を次のURLで聴くことができます。
https://soundcloud.com/tsuda-takashi/live-at-late-2019817





ライヴ/イヴェント・レヴュー | 00:09:12 | トラックバック(0) | コメント(0)
タダマス、レイ・チャールズと「3/4拍子」を歌う  "TADA-MASU" Sings "Three-Four Time" with Ray Charles
 益子博之と多田雅範がナヴィゲートするNYダウンタウン・シーンを中心とした同時代音楽の定点観測「四谷音盤茶会(通称:タダマス)」が34回目を迎える。

益子博之×多田雅範=四谷音盤茶会 vol. 34
2019年7月27日(土) open 18:30/start 19:00/end 22:00(予定)

ホスト:益子博之・多田雅範
ゲスト:北田 学(クラリネット奏者・作曲家・即興演奏家)
今回は、2019年第2 四半期(4~6月)に入手したニューヨーク ダウンタウン~ブルックリンのジャズを中心とした新譜アルバムをご紹介します。
ゲストには、クラリネット奏者・作曲家・即興演奏家の北田 学さんをお迎えすることになりました。北米やヨーロッパを旅しながら多彩な音楽家たちと共演を重ねてきた北田さんは、現在のニューヨークを中心としたシーンの動向をどのように聴くのでしょう。お楽しみに。(益子博之)
タダマス34フライヤ縮小


 「タダマス」は年4回、1・4・7・10月の定期開催で、7月の回には、その直前の6月に毎年益子が定点観測に出かけるNYの、見てきたばかりの新鮮な現地ネタが話題となる。

 相方の多田が自身のブログで書いている。

四谷音盤茶会、タダマスのリーダー、益子博之がいまニューヨーク定点観測に行っている、歯ぎしりするようなミュージシャンとの交流画像を送ってきているが、わたしだって蓮見令麻やポールモチアンと時空をこえた交流をしてるんだ、ゆうべだってジョーマネリのダーベンザップルを聴いたぜ、
ニューヨーク定点観測の成果は、7月のタダマス34で聞くことができるだろう、いつも言うことだが益子博之のすごいところは1000人を超えるミュージシャンとのつながりと、その音楽の評価はリンクしていない、という真っ当な、批評家として当然といえば当然なのだろう、アンテナの信頼度だ、

 その多田が前回「タダマス33」を終えてすぐ、次のように振り返っている。

9. RJ Miller Trio (Apohadion Records)
track 1: Side One (RJ Miller) 19:51
Dave Noyes - trombone, bells, keyboards, synthesizer; Pat Corrigan - timpani, vibraphone, amplified birdcage, toys, junk; RJ Miller - drums, samples, keyboards, bells.
recorded by Caleb Mulkerin at The Apohadion Theater, Portland. ©2018
ミラーの前作は理解するのに時間がかかったことを告白しよう、
菊地雅章からのスタジオメールにはタイションとミラーの名が早くからあって、わたしはタイションもミラーも知らなかった、タイションはCDが出ていたので聴いてみたが当時はよくわからなかった、
それからだいたい15年が過ぎたのだ、その間に菊地雅章はいなくなり、タイションとミラーの才能の大きさにおののきはじめているのだ、

 私にとって「タダマス34」のハイライトは、この『RJ Miller Trio』だった。LPジャケットや封入されたシートに用いられた岡田敏宏の写真もまた強烈だった。以下に拙レヴューから引用する。
タダマス33-4再縮小 タダマス33-5再縮小

 『RJ Miller Trio』もまた濃密な音群を操作する。電子音による黒く厚い雲のたなびき、その只中から浮かんでは消える細部の不安定な移ろい、シーケンサーのベース・リズム、呼吸音のコラージュ、パチパチと爆ぜる針音、ドラム・ストローク、ディレイを深くかけられたエレクトリック・ピアノの強迫的自己反復‥‥。音群の多様な移り変わりにもかかわらず、全体を覆う黒々とした濃度/密度は切断を許さない。すべての作業はそこから逃れることのできない強力な重力圏の下で行われ、外へと放出される音響はすべて深い淵から届けられる呻き声のようだ。
 『RJ Miller Trio』とRafiq Bhatia『Breaking English』の大きな違いは、確定した最適解あるいは一般解を差し出す後者に対し、前者はどこまでも手探りで揺らぎブレ続けることにある。どちらがより深く掘り進んでいるかと言えば前者だろう。にもかかわらず、後者と異なり、前者は一向に底にたどり着く気配を見せない。暗闇の中、盲いて掘り進む前方におぼろげに光景が浮かび、視界が開けたかと懸命に掘り進むと、いつの間にか景色は消え失せ、また別のところにふと浮かび上がり、そこに向けて必死で掘り進むと‥‥以下繰り返し。そう、ここで「景色」の在りようは「地」となる音響平面へのスーパーインポーズではなく、厚い雲の切れ目から、束の間、下界の様子が垣間見える‥‥といった感覚である。覆いが取られ、幕がめくられて、中身が明らかとなる。
 「タダマス33」当日のやりとりの中で、ホストの多田から突然コメントを求められた際に「都市のフィールドレコーディングみたいに聴こえる」と思わず答えたのは、こうした異なる細部が、望遠鏡を向けたように次々と切り取られて浮かんでくるにもかかわらず、全体像が一向に明らかにならない事態をとらえてのことだった。当日は説明が足りず、伝わらなかったかもしれないので、ここでは補足しておきたい。暗い混沌の中から闇が晴れ情景が浮かび上がる様はGilles Aubryによるカイロの市街のフィールドレコーディングを、異なる断片が次々に浮かぶ構成は同様にChristina Kubischによるカメルーンのサウンド・スナップショットを、耳の視界すべてが切り替わるのではなく、その一部が望遠鏡の視界で切り取られたように推移し、焦点が合わされた箇所の物音が拡大されて現れる様は、Lucio Capeceがボール紙製のチューブとマイクロフォンを気球に仕掛けたフィールドレコーディングを、それぞれ連想させたのだった。
「災厄の街、不穏な眼差し 「タダマス33」レヴュー」より抜粋
http://miminowakuhazushi.blog.fc2.com/blog-entry-464.html
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 前々回の「タダマス33」は1月に開催され、恒例の前年のベスト10が披露された。そこでダントツの1位として称揚されたのがTyshawn Soreyの大作『Pillars』だった。

 多田はこの作品について、次のように書いている。

1. Tyshawn Sorey
Pillars (Firehouse 12 Records FH12-01-02-028)
タダマスで年間ベストを発表するのは8回目、タイションが1位、4位、そして今年また1位、、
タイションが突出した1位で、群を抜いていた、あとは順不同でもいいくらい、
3CD+2LPをほぼフルスペックという時間が先立ってある、全体像といったものはない、
そこは、聴取が記憶として構造化されることを拒絶する「純粋経験」と言えるかもしれない、
スルドイ論点ですね、そういえば月光茶房の原田さんが、あれはすごいんだけど、あとから思い返しても憶えられない演奏、とか言ってた、
なんであんなユルんだ現代音楽みたいな作品を1位に挙げるんだと批判されて、現代音楽に似てるのあるの?と問うと、ジョン・ケージの龍安寺かなと言われて、聴くも全然OSが異なる演奏で、海外のレビューでも現代音楽作曲家の名前を並べて賞賛するものもあったけれど、言うことに事欠いての印象だった、
昨年末から、底が抜けた感覚というか、しばらくジャズ聴けなくなってしまった、ゴルフ場の駐車場でボーっとしてても『ピラーズ』の中に居るような、あれは演奏のやり取りではなくて、磁場なんじゃないか、東スポじゃないが、菊地雅章は生きている!と言いたい衝動に駆られる、
菊地雅章のスタジオにモーガンやニューフェルドやタイションやRJミラーなんかが来ていて、タイションは演奏にインできなくて叩けなくてショックで何日か顔を出せなくなっていたというエピソード、ニューヨークのスタジオからメールをもらった当時のオレはタイションもミラーもまったく気にしてないリスナーだったから(ミラーは名前すら知らなかった)、まあそういう若手はいるだろうなあという印象しかもっていなかったけれど、その後にどんどん判明してゆくのだ、菊地雅章に触れた、菊地雅章の地平を知ってしまったミュージシャンたちというのは、モーガンやニューフェルドやタイションばかりではく、ミラーも、ハスミレマもそうだ、キタミアキコもそうだ、なんか、アートの次元でどこか枠が外れているんだと、思う、
それはきっと東京ブルーノートで菊地雅章TPTトリオを体験して、身体が冷たくなって動けなくなってから、ずっとそうだった、

 先に『RJ Miller Trio』に関して掲げたのと全く同じ、今は亡き菊地雅章を巡るエピソードだが、「これまでタダマスで何度も話したけど」と多田自身語る通り、繰り返し繰り返し披露されている。ということは、つまり、多田が菊地本人から聞いた「予言」が、その後、一歩また一歩と着実に実現していることを、「タダマス」が繰り返し繰り返し目撃しているからにほかならない。そのような場は、この国には「タダマス」の外にはどこにもない。


 多田は自身のブログの別の回で、私の「タダマス」評を引いて、「福島恵一さんのレビューにちゃんと応じられないままでいる、」と述べている。

ジャズが果敢に自らを更新することにより生き延び、「ジャズとは似ても似つかない新たな『ジャズ』」へと変貌を遂げていくとしたら、そこで途切れなく持続している「ジャズなるもの」、あるいは「ジャズの創造性」とは、ジャズ固有のフレージングやスタイルでも、サクソフォンのヴォイスでも、ブラックネスでもなく、こうしたリアルタイムの飛行感覚ではないか‥‥、私はそう考えている(だから「ジャズの新たな章」とは、いつまでたっても自己を更新できない旧来のジャズの、延命のためにだらだらと書き継がれ続ける「続編」でしかないとも)。
想定外の事態 ― 「タダマス30」レヴュー
http://miminowakuhazushi.blog.fc2.com/blog-entry-454.html

 しかし、そう言いながら彼は独り語りを始め、さらに深く潜っていく。

菊地雅章に接触したミュージシャンたち、というくくりを意識してはいないわけだが、今年に入って自分の中で突出している新譜はRJミラーとハスミレマだけだったりすると、なんだよおまえかよ、というみたい浮上してくる、というか、さ、
メルドーやエスペランサ、マークジュリアナの新譜を聴いたが、ザミュージックになっているんだな、楽器奏者が描くワンワールドというやつ、それもうポップス、で、元をたどればパットメセニーやフリゼールがそういう歩みの先鞭をつけてたんだわ、演りたいことを実現しているんだから許してきたんだが、で、奏者としてジャズやれよな、メセニー~ジムホール交感即興では爺さんの圧勝だったしさ、
タダマス現代ジャズを特徴付けるレイヤー構造の流動体について、浮遊感とも、飛行感覚とも、で、わたしたちリスナーはプレイヤーであることでも聴取していて、瞬間瞬間の立ち振る舞いや意図や逃げや耳の目配せなんか、手を取るようにわかってしまうわけだ、もうジジイだからさ、
ジジイでも、時にゾゾケが立つわけよ、瞬間的な理解が宙吊りになるって言うの?、定型・定型ズラシと進む将棋の駒の定石の安堵感をすり抜けるように「なにそれ!」「いま、何言った?もういっぺん言ってみろ!」と、霊が見えて後頭部の髪がうにゃにゃとあれは本当に髪の毛が逆立つ現象なのだが、
と、書きかけてみても自己への問いにはなっていない、

 繰り返し巡る思い出話は、個々の作品に対する記憶/評価へと移行し、さらにそれをとらえる自己の感覚/認識へと向かい、自問自答繰り返しながら先へ先へと歩みを進めるが、しかし、それは思いがけず中途で「書きかけてみても自己への問いにはなっていない、」と残酷なまでに無造作に断ち切られる。改行により読みやすくされてはいるが、読点のみで区切られ、句点なしにどこまでも連ねられた各節は、地に足を着けることなく、「リアルタイムの飛行感覚」にすべてを委ねながら、不安定/不確定な浮遊状態を保ち続ける。

 高強度の音空間に触発され、尖った耳の視線が交錯する中から、このような言葉が連ねられ、思考が紡がれる場も、やはりこの国には「タダマス」の外、どこにもあるまい。




ライヴ/イヴェント告知 | 23:17:10 | トラックバック(0) | コメント(0)
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