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福島恵一

Author:福島恵一
プログレを振り出しにフリー・ミュージック、現代音楽、トラッド、古楽、民族音楽など辺境を探求。「アヴァン・ミュージック・ガイド」、「プログレのパースペクティヴ」、「200CDプログレッシヴ・ロック」、「捧げる-灰野敬二の世界」等に執筆。2010年3~6月に音盤レクチャー「耳の枠はずし」(5回)を開催。2014年11月から津田貴司、歸山幸輔とリスニング・イヴェント『松籟夜話』を開催中。

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映像との協働を通じた身体の新たな布置 ―― ARICA+越田乃梨子『終わるときがきた』レヴュー  Rearrangement of Body Through Collaboration with Images ―― Review of Theater Company ARICA + Noriko Koshida “Time She Stopped”
 2022年12月11日(日)、Bank ART Stationにて、Theater Company ARICA+越田乃梨子による新作『終わるときがきた』の公演最終日を観た。今回はこの公演についてレヴューしたい。
 公演のフライヤーは、次のように予告している。
 「『終わるときがきた』は、身体と声が切り離されることに加え、映像の介入によって、舞台に実在する身体から、その自分を他者として見つめる虚像の身体を、幽霊のように離脱させる。実在する身体と虚構の身体の共演。」
 また、本公演についてSNSで告知する中で、演出を担当する藤田康城は「映像との恊働」を掲げていた。
 私がこれまで観てきた限り、Theater Company ARICAの作品は常に主演女優である安藤朋子の身体性に軸足を置いて、テクスト/言語に抗う身体に焦点化することにより、言語表現/解釈の地平を突き破る強度を獲得してきた。また、作品中での映像の使用はこれまで先例があるが、たとえばウェブ上に掲げられた『ミメーシス』予告編では、パースペクティヴが折り畳まれ重ねられて、ライヴの上演を観なければ舞台の概要どころか、二人の演者の位置関係すら把握できないようになっていた。ウェブ配信による上演すら行われる現在、こうした姿勢は極めて例外的と言えるだろう。
 そんな彼らが、よくある出来合いの仕方で映像を取り扱うわけはあるまい。どのようなスリリングな挑戦が為されるだろうか。


0.当日、開演まで
 この日は公演最終日とあって当日券も出ないほどの満席ぶりで、最前列の椅子の前にさらにクッションが敷かれ桟敷席が設けられていた。舞台はそれと段差なく設けられ、手前のフットライトもないので、客席と舞台を区切るものは何もない。
 舞台の中央部分にベンチが一つ置かれ、すでに安藤が横たわっている。ぴくりとも動かない。舞台下手側に頭。身体はこちら向きだが顔は伏せ気味で腕に隠れ見えない。ビニールバッグを枕にしており、脇には高齢者がよく使うカート式のキャリング・バッグ。「ホームレスの女性」との設定にふさわしく、荷物はこれだけのようだ。カートのバッグ部分はこれも高齢者がよく使っている花柄のゴブラン織り風で、防寒を優先して重ね着された服もロングソックスも靴も同系統の色柄(アウターは茶色のコートだが)。それ自体は一定の鮮やかさ、美しさを持つ色彩でありながら、互いに反響しあって相殺し、むしろくすんだ「映え(ばえ)」のない印象を与える。それが制作者の意図するところだろう。都会の片隅における匿名的保護色。視界からこぼれ落ちてしまうもの。
 ベンチの左手には白い小石が幾つか散らばり、業務用のスープ缶程度の大きさの空き缶が幾つか転がっている。ベンチ右手やや手前にカメラが三脚でセットされ、その足元にも空き缶が幾つか。
 背後の壁面に沿って舞台両脇にPAスピーカー、ホリゾントにフットライト。それ以外はすべて上からの照明のようだ。天井近くに二台のプロジェクタが設置されているから、映像は背後の壁面に直接投射されるのだろう。その右脇に黒いモニター(後ほど、日本語・英語による字幕表示用と判明)。新高島駅のアナウンスがあまり聞こえてこない。日曜午後の時間帯だからだろうか。前回は結構聞こえてきたように思うのだが。
 それにしてもシンプルな舞台装置だ。ARICAの舞台はいつもそうだとも言えるが、それでも壁面やフットライトの列で舞台の範囲を画定していた。それが今回は境界のない、まったくの地続きとなっている。それゆえ空間の座標軸も明確でない。これらが周到に準備されたものであることに、後ほど気づかされることになる。


1.上演の内容(最初の繰り返し)
 消灯。背後の壁面の、ちょうどベンチの真後ろあたりがぼうっと明るくなり、風の音がしてくる。安藤に照明が当たり、ベンチとともに浮かび上がる。交通騒音が聞こえ始め、犬の遠吠えが加わる。
 左脚がまっすぐに上がり、続けて身体が起き上がり、ゆっくりと座り直す。なぜか右脚が突っ張ったように前に伸びている。寝起きの顔。眼はほとんど開いておらず、顔面が脱力していて、表情が形を成さずぼんやりと澱んでいる。救急車のサイレンが彼方を通り過ぎ、息音(ヴォイス)が重ねられる。カラスの鳴き声。都会のカラスの朝は早い。まだ早朝だろうか。
 目が覚めてきたのか、顔にだんだんと表情が浮かび始めるが、また眠たくなったようだ。右脚は相変わらず突っ張ったまま。
 「パッパパパッパー」と口が開き、声は出さず(空スキャット?)、紙袋からペットボトルを取り出し、水を飲み、口を拭い、また一口飲み、「あっ」と息を漏らす。上を向いて「あっ」ともう一息。そのまま上方を見回し、右脚を上下させて拍子を取りながら「パッパパパッパー」と口ずさむ。繰り返しの中に「ウォー」と喉を絞めた高い声が間の手のように挿み込まれる。プ〜ンと蚊の羽音がして頬を叩く。二回目で仕留めたようで開いた掌をまじまじと見る。不機嫌そう。ふっと息で蚊の死骸を吹き飛ばし、掌をスカートで拭う。
 前へ身体を傾け、右手をじっと見詰める。顔に両手を当ててのけぞり、うなり声をあげる。眼をこすり、「顔、首筋‥‥」と口ずさみながら順に触れていく。自らの身体の存在を触感により確認する儀式。「おっぱい」と唱えながら両胸を揉みしだき、次いで腹の肉をつまんで揺する。
 次いで胸のポケットから何か取り出す。二個の小石(ベンチの左手側に散らばっているのと同じ白い石)。先程の揺すりは、身体前面に付けられた四つの大きなポケットの内容物確認でもあったと知れる。「確認の儀式」の続き。両手に持って打ち合わせ嬌声をあげる。カチンという打音にエコーが付け加えられる。一つはポケットに戻し、残った一つをじっと見詰め、舌を出して舐める。石をポケットにしまい、また一つ取り出して舐める。個数を数えながら。以下繰り返し。5回目で味が違ったのか顔をしかめ、石をじっと見詰め、口に放り込んで何度か噛み締めた後、左後ろに放り捨てて、紙袋からハンカチを取り出し(その際に何か地面に落ちる)鼻を拭う。落ちたものを拾い上げると青い巾着袋で、中から取り出した鈴(小鐘)がチーンと鳴る。その先に鍵が付いている。鍵を中空に掲げ、眼に見えぬ鍵孔に差し込んで回す仕草。鍵は巾着袋に戻し、ハンカチに包んで紙袋にしまってしまう。
 右手側から犬の吠え声(近い)。そちらを振り向き、手を上げて指を折り数える仕草。「数えている。内でも外でもいつもいつまでも。風は吹かない‥‥」と録音された安藤の声が響く。右手側のモニターに字幕が表示される。
 またペットポトルを取り出し、じっと見詰め、振る。急に右手から空き缶がひとりでに転がり出し、ベンチの前を横切る。両脚を上げてそれをよけ、その反動で、いやそれをきっかけとして立ち上がる。左手へ向って歩き出す。交通騒音が大きくなる。眼に見えぬ雑踏/世界に呑み込まれていくようだ。ゆっくりと舞台の端まで行くと「とまれ」と録音された声が放たれる。その瞬間、交通騒音をはじめ一切のサウンドが消え去る。立ち止まった安藤は振り向き戻ってくる。まだらになった照明に照らされ、サウンドはなく、録音された声だけが流れ続ける。「みんなと同じように数えている」。つまらなそうに脚を蹴り出し、ベンチに腰を下ろす。「終わるときがきた」。録音された声が止み、照明が消え、風の音が戻ってくる。安藤は開演時と同じ姿勢でベンチに横たわっている。

 まだ上演の4分の1しか過ぎていないが、ここで内容の描写に一区切りつけることにしよう。先に進む前に確認しておかなければいけないことが二つある。


2.作品の構造
 一つ目は作品の成り立ちと構造についである。
 本作品は、上記「1」に示した部分を、4回ほぼ繰り返すことにより構成されている。それゆえ最初にその内容をかなり細部まで記述してみた(もとより記録映像を確認しているわけではなく、記憶と手元のメモによるものなので間違いはあるかもしれない)。この4回の繰り返しという構造は、本作品の成り立ちに関連している。
 本作品は、ARICAが2019年7月に京都大学で上演した『終わるときがきた―ロッカバイ再訪』(以下『再訪』と呼ぶ)を引き継いでいる。そして、『再訪』は題名の通り、サミュエル・ベケットの戯曲『ロッカバイ』を原作として参照している。この二つの関係性をまず見ておきたい。

 私は『再訪』の京都公演を見ていないが、Theater Company ARICAのウェブページに抜粋編集版の記録映像が掲載されており、それを見ると、舞台上の一人の女の身体と録音された声という原作の設定はそのまま踏襲されており、テクストもほぼ原作を翻訳したものが用いられている。そもそも「4回の繰り返し」という構造は原作に由来するものだ。
 ただし、変換されている点も多い。原作では女がロッキングチェアーに座ったままであるのに対し、『再訪』においては女(もちろん安藤が演じている)は机に突っ伏した状態から立ち上がり、室内を歩き回り、水を飲み、窓のカーテンを開ける等の動作を行う。ちなみに本作品公演で配布されたパンフレットでは、この点について「原作のロッキングチェアーに座っている女から、室内にこもる女へと設定を変え」たと説明されている。また、その後、2019年12月に「没後30年 サミュエル・ベケット映画祭」のクロージング・トークとして行われたラウンドテーブル「21世紀のサミュエル・ベケット」で藤田は、原作における「窓」の重要性を踏まえ、また公演場所となった京都大学稲盛ホールの特性である壁面いっぱいの大きな窓を活用するため、窓のカーテンを開けることにしたと発言している。
 原作についてはやはりウェブ上でベケットのスペシャリストであるビリー・ホワイトローBillie Whitelawによる初演時の記録映像を参照できるが、これを見ると「窓」はテクストには何度も登場し、女がロッキングチェアーに揺られている部屋にも必ずやあるであろう「窓」が、それと向かい合う他の「窓」と結びつけられていく。しかし、視覚的に「窓」が確認されるわけでは決してなく、女が座っているのが「窓辺」であるかどうかもわからない。これと向かい合う他の「窓辺」に誰かがいる保証もない。わずかな可能性が残されているばかりだ。
 もうひとつ大きな変更点として、また本公演につながる要素として、『再訪』における映像の導入がある。4回の繰り返しのうちの2回目から、女が突っ伏した机の手前側から撮られた映像が、背後の大きなスクリーンに映し出され、安藤の生身の身体と様々な関係性をつくりだしていく。これについては、本公演における映像の用いられ方を記述・分析する際に参照していくこととしよう。


3.ホームレス女性殺害事件との関係
 二つ目はメディアでも盛んに報道され、社会問題となった事件との関係についてである。
 「屋外のベンチで寝起きしているホームレス女性」という本作品の設定は、2020年11月に起こったホームレス女性の殺害事件との関係を思い起こさせずにはいない。バス停のベンチで寝ていた64歳の女性が、長年引きこもりを続けていた46歳の男に石を詰めたペットボトルで殴打され殺害された事件だ。まして2022年2月に吉祥寺で行われた電話演劇に、この事件に基づき平田俊子が執筆した詩作品『「幡ヶ谷原町」バス停』の朗読で安藤が参加したことを知っていればなおさらだろう。
 このことについて藤田は今回配布のパンフレット記事の冒頭で事件の概要を説明し、それに続けて「今作は、ひとりベンチにいる、家を失った人の話だ。あたかもこの事件を思い起こすような状況だが、倉石信乃がこのテクストを脱稿したのは、2020年4月で、事件より前のことである」と簡潔に、だがきっぱりと述べている。それゆえ本作品を「同事件に取材した作品」ととらえるのは全くの誤解にほかならない(実際、そのような浅薄な早とちりがSNS上に見られた)。また、作品受容上、同事件が脳裏に浮かぶのは仕方ないとしても、同事件に引き寄せて解釈するのでは、作品の可能性を汲み取り損ねることとなるだろう。

 再び本公演の内容の検討に戻るとしよう。


4.上演の内容(2回目の繰り返し)
 2回目の繰り返しが始まった途端、1回目ではぼうっと明るくなるだけだった壁面に赤い形が浮かび上がり、縦横に伸縮を始める。カメラは急なズーム・イン/ズーム・アウトを繰り返すせいでなかなか明確な像を結ばないが、やがてそれが舞台右手(カメラの位置)から安藤の姿をとらえた映像であることがわかる。女が目覚め、起き上がろうと高く上げた左脚の靴の裏が壁面に映し出される。
 女は起き上がり、右脚を伸ばして腰掛けたまま、ペットボトルの水を飲む。動作の流れも、風の音や交通騒音、さらには息音を含むヴォイスによるサウンドも、基本的に1回目と変わらない。飛んできた蚊を叩き潰すくだりも同じだ。しかし、視点/視角の異なるイメージが舞台空間上に並立されることで、ある種のズレ/偏差が立ち上がってくる。生身の身体と映像の画角関係は正面図/側面図(やや前方からの斜めの眺め)に近いが、映像の方がはるかに拡大されているため、一つの立体のイメージへと収束しない。生身の身体への照明が上からの柔らかいものであるのに対し、映像の方が明暗/色調ともコントラストが強く、輪郭や陰影が強調されていることも齟齬を増していよう。この時点ではリアルタイムの映像でいささかも遅延はなく、動作のタイミングは同期しているようなのだが、どこかギクシャクとしていて、ぴったりとは重ならない。
 自らの身体に触れて確認し、白い小石を取り出しては舐め、数え、最後の一つは噛み締める、奇妙な「日常の儀式」も同じなら、鍵を中空の見えない鍵孔に差し込む仕草も同じ。しかし、横から撮られた映像は、見えない鍵孔へと鍵を差し込む動作を、虚空に伸ばされた腕と共にとらえる。
 犬が吠え、指を折り、空き缶が転がって、女が立ち上がる。だが映像は立ち止まったままの生身の身体をよそに不思議な「回転」を始める。映像の中で女の背中が右手に移動すると、その向こう側に扇を開くように夜の住宅地の風景が生成していく。安藤が歩み出すと、映像の中の女も風景の中へ歩みを進め、その背中がだんだん希薄に透明になってくる。まるで仮想の世界の中に溶け込んでいくように。安藤が舞台の端で立ち止まると、映像の中の女も歩みを止める。それまで透明化していた背中が不透明に戻っている。その前に一軒の家の玄関がぼんやりと浮かび上がる。それがかつて彼女が暮らしていた家の記憶、帰るべき場所のイメージなのだろう。
 安藤が鍵を持った手を中空に差し出すと、映像の中の女が玄関のドアの鍵孔に鍵を差し込もうとする。「とまれ」と録音された声が響いた瞬間、一切のサウンドが止み、住宅地の風景が消え失せる。女の背中は映像の中に残ったまま。録音された声は語り続けている。安藤が振り向き、ベンチの方に戻ってくる。まだらの照明と強いコントラストが相俟って、こちらへ向かう映像の中の女の姿はどこかゴシック調に染め上げられている。
 声が消え、映像が消え、照明が消えて、安藤はまた同じ姿勢でベンチに横たわる。

「終わるときがきた」写真2縮小
 写真:宮本隆司


5.上演の内容(3回目の繰り返し)
 安藤の動作の流れもサウンドも同じ。だが今度は最初から映像が伴っている。ペットボトルの水を飲む辺りに来て、ようやく生身の身体の動きと映像の間に時差(映像の方の遅延)があることに気づく。飛んできた蚊を叩き潰し、身体を確認し、小石を取り出して‥‥と所定の動作を次々に進めていく安藤に、映像が僅かに遅れてついてくる。ここで噛み締めた小石が口元と手指の間で伸び、餡入りの本物の餅菓子にすり替わっているというサプライズが起こる。身体性が瞬間的に噴出するスプラスティックなコメディ。だがそれだけではあるまい。不思議な「儀式」と見えた白い小石を巡る一連の動作は、好物の餅菓子を食べることができたかつての日常の、つまりは「幸福な記憶」の反芻だったのではないか。もしそうだとすれば、2回目の繰り返しでは映像の中だけに封じ込められていた記憶が、この3回目の繰り返しでは生身の身体の属する「現実」へと滲み出し、混濁が生じ始めていることになる。
 ハンカチを取り出し、巾着袋を落とし、鍵を回して、犬が吠える。「数えている」と録音された声。ここまでは映像との時差を除けば2回目の繰り返しと同じ。だが、きっかけとなる空き缶が転がってこず、安藤の身体がベンチに腰掛けたままであるにもかかわらず、映像の中の女は立ち上がり、そこに再び生成した住宅地の風景の中に分け入っていく。遅れて安藤が歩み出す。誰もいなくなったベンチが音もなく回転を始める。
 だが不思議なことに、舞台の端で立ち止まった安藤が鍵を持った手を中空に差し出し、映像の中の女が玄関のドアの鍵孔に鍵を差し込もうとする時点では、両者の動きは同期している。「とまれ」と録音された声が響き渡り、一切のサウンドが止み、住宅地の風景が消え失せる。映像の中には女の背中が残っている。録音された声は続き、振り向いた安藤は足元の小石を蹴飛ばしているが、やがてベンチの方に戻ってくる。映像が遅れて付いてくる(いつの間に入れ替わったのだろうか)。録音された声が「ひとり」と発するところで、安藤の口が同じように動く。ここでは複数の時間の流れが絡み合っていて、進んだり、遅れたり、奇妙に同期したりしている。また最初の状態に戻る。

「終わるときがきた」写真1縮小
 写真:宮本隆司


6.上演の内容(4回目の繰り返し)
 安藤の動作の流れもサウンドも同じ。映像は最初、2回目の繰り返しと同じく急なズーム・イン/ズーム・アウトを繰り返しているが、安藤が左脚を高く上げるところから生身の身体と同期する。
 「パッパパパッパー」と口が開いたところで、ペットボトルの水を飲む前にベンチが時計回りに45度回転する(舞台のやや左手に向くこととなる)。その結果、カメラは安藤をほぼ背後からとらえることとなる。映像の中には奥の方に女が立っていて、その手前に同じ女がいて彼女を後ろから見詰めている。客席からのパースペクティヴの中で安藤の生身の身体と彼女の映像と「映像の中の女」の三者が互い違いにジグザグに並び(【図1】を参照)、「背後から見詰める女の列」が合わせ鏡を覗き込んだように無限に続いているかに思えてくる。実際には、図に示すように、各視線が舞台空間においてそのような位置関係にあるわけではないのだが、ベンチに座り、静かに彼方を見やる安藤の「彼岸の眼差し」に映っているのは映像の光景以外にはあるまいと感じられる。
 ベンチに腰掛けたままの安藤の生身の身体を残して、彼女の映像が立ち上がり、奥へとさらに歩みを進める「映像の中の女」を追いかけていく。映像の中の玄関のドアが内側からひとりでに開き、中から暖かい光がこぼれ出す。ドアの前に立っていた「映像の中の女」がそこに吸い込まれるように消え去る。映像が掻き消え、サウンドには低音のノイズのリズミックな繰り返しが入ってくる。交通騒音がまた高まる。
 ホリゾントのフットライトが一斉に点灯し、安藤がペットボトルをゆっくりと口元に近づけ、やや間を置いて、覚悟を決めたように一気に飲み干す。まるで毒杯をあおるように。暗転。終演。

「終わるときがきた」写真3縮小
 写真:宮本隆司

「終わるときがきた」図1A縮小「終わるときがきた」図1B縮小
【図1A】解説
上掲の写真から「映像の中の女」が立ち上がり移動して現れた家のイメージの前に佇む。
この場面を観客の視点から記した模式図。「映像の中の女」、安藤の映像、安藤の生身の身体の三者がジグザグに配置される。
【図1B】解説
【図1A】の場面において三者がジグザグに並ぶ様子を、奥行き方向を含め空間的に描き直した配置図。黒矢印は三者の視線の向きを示す。
ここで安藤の生身の身体の視線の方向は他の二者ズレているが、映像が安藤の内面であることから「安藤の映像」を背後から見つめる位置へと視点が転移し、その結果、三者は視線の向きを揃えて一直線に並ぶこととなる。


7.ハイリスクな挑戦
 以上、2回目以降の繰り返しについて、基本となる1回目の動き/配置に何が付け加えられているかを中心に振り返ってみた。ここで映像は単なる視覚効果として生身の身体と併置されるだけでなく、遅延や離反等、様々なズレを生み出し、視覚上の動き/配置に厚みと奥行きをもたらしている。また、そのことによって観客は、安藤の肉声、録音された声、サウンドといった聴覚の系にもズレや奇妙な同期が存在し、時間の流れが輻輳していることに気づかされる。
 「客席からのパースペクティヴの中で安藤の生身の身体と彼女の映像と「映像の中の女」の三者が互い違いにジグザグに並び、「背後から見詰める女の列」が合わせ鏡を覗き込んだように無限に続いているかに思えてくる」場面を経て、「映像の中の女」が家の中に吸い込まれていくクライマックスに向け、繰り返しはあれやこれやを巻き込みつつ回転を続け、徐々に速くなっていくように感じられた。だが、その高揚/加速が決して単線的なものではないことを指摘しておかねばならない。本作品における身体と映像の「恊働」の役割はまさにそこにある。そして、それはARICAにとって、とてもハイリスクな挑戦だったと思う。正直、私は劇が始まってからしばらくの間、あるもやもやとした違和感にとらわれていた。しかし、最終的には、その違和感は整理/払拭されることになる。このことについて述べておきたい。

 私にとってARICAの演劇の魅力は、何よりも「テクストに抗う身体」にあった。
 およそ演劇は言葉と身体で成り立っている。大抵の場合、言葉はあらかじめテクストに記されており、演者は舞台上でそれを発話したり、動作や配置によって示したりする。それだけであるならば、ここで身体はテクストを絵解きするためのツールでしかない。もちろん、そこに身体的造形、表情のもたらす表出力、配置と運動がもたらす空間の励起とパースペクティヴの変容等があろう。しかし、それだけなら映画の方に分がある。
 映画も演劇もつまるところ、視覚と聴覚を中心とした観客の諸感覚へのプレゼンテーションだとして、視覚系と聴覚系をいったん分離して緻密に再構成できるのが前者の可能性だとすれば、後者の強みは、それ自体「感覚するもの」である生身の身体を基軸として、その強度で諸感覚を一気に刺し貫くことにあるだろう。
 簡潔にして緻密、離散的にして強靭である倉石信乃の詩的なテクストを、肉声、録音された声、様々なサウンド、映像、印刷物等に象眼/散種しながら、安藤朋子や共演者の身体の強度が、言語のもたらす単線性(意味の一義的な確定や物語の叙述等)にその場で抗う様が、私にとってのARICAの魅力であり、その作品を体験する楽しみだったと言ってよい。『ネエアンタ』及び『Ne ANTA』における山崎広太の研ぎ澄まされた動きとそれに応える安藤の身体の柔らかな広がり、『しあわせな日々』における安藤の声のダンス、『UTOU』における身体の運動のスプラスティックな噴出、『蝶の夢 ジャカルタ幻影』における首くくり栲象の身体の静けさと安藤の身体の喧噪、『孤島』における安藤のとてつもない力業、『KIOSK』における機械仕掛けの予期せぬ誤動作と戦う安藤の身体の奮闘、『ミメーシス』における川口隆夫と安藤の身体の緊密極まりない交感‥‥。
 そのような身体の強度が、ベンチから起き上がった安藤には感じられなかった。寝起きの顔、開かない目蓋、緩んだ表情‥‥。だがやがて、それこそが、ここで身体が懸命に希求しているものだと気づくことになる。
 どういうことか。ここでいったん本作品を離れ、再び『再訪』を検討することにしたい。


8.『再訪』の教訓 「生身の身体のプレゼンスを弱める」こと
 『再訪』のクライマックスはやはりラストシーンにほかなるまい。机に突っ伏したままの生身の身体を残して、安藤の映像がスクリーンの中で初めて窓辺に近寄り、カーテンに手をかけると、これまで生身の身体がしていたように少し開くだけではなく、思いっきり開く。光が射し込み溢れるまぶしさの中で映像が宙に浮かび昇天していくように見える。するとスクリーンがするすると巻き上がり、実際のホールのカーテンが両端まで開け放たれ、横幅いっぱいに設けられた巨大な窓を全開にして、それまで安藤とともに暗い室内に閉じこもっていた観客を外からの陽光に曝す。
 公演会場が大きいため、映像が投影されるスクリーンも今回よりもはるかに大きく、映画館を思わせる。映画が映し出されているスクリーンの前に生身の身体があったとしても、観客はそれに対して注意を払わないだろう。たとえその身体が作品の登場人物であり、スポットライトで照らし出されていたとしても、認識するとは言え、眼や耳はスクリーンの方に惹き付けられるだろう。映像+音響の強度としては生身の身体は映画にとてもかなわない。
 しかし、『再訪』において、安藤の生身の身体のプレゼンスは拡大投影された映像と拮抗し、それに優っているように感じられた。彼女はカーテンを開けに行く際、動線上、スクリーンの前を横切り、彼女の身体に映像の端が投影されるのだが、にもかかわらず、彼女の身体は舞台上から消え去ったように見えない。ラストシーンにおける衝撃的なカーテンの全開に至ってはじめて、映像は生身の身体と並び立ち得たと言えるだろう。

 逆に考えれば、ここで映像は生身の身体と併置されてはいても、同一の地平に立ててはいないことになる。「身体と映像の恊働」を掲げ、映像の投影サイズも『再訪』ほどには大きく出来ない本公演にあって、生身の身体と映像が同等に作動できる共通平面をいかに構築するかが課題として問われたはずだ。

 そこで編み出された解決が「生身の身体のプレゼンスを弱める」ことだったのではないか。それは様々な方策で実施されている。まずは「寝起きで目が覚めきらず弛緩したままの身体」のはっきりしない輪郭、ぶよぶよと緩んだ皮膚や肉、開ききらない目蓋に半ば覆い隠された眼差しの提示がある【補注1】。この内側から充実していない、低強度の身体がベースにあるからこそ、その後の「パッパパパッパー」と空スキャットや小石を打ち付け合う高揚も、投影されたイメージのように身体の表面を滑っていくばかりで、その強度を高めることをしない【補注2】 。衣装に施された「保護色」も、これに一役買っていよう。

■【補注1】
 もともとこの部分は「開かない目蓋に覆い隠された眼差しの提示がある」としていたが、「眼を閉じている」との誤解を与えるのではないかとのご指摘をいただき、これを踏まえ加筆修正した。もともと「1」で「眼はほとんど開いておらず、顔面が脱力していて、表情が形を成さずぼんやりと澱んでいる。」と記しているところではあるが、ここではまだその後の安藤の行動を目撃していないため、端的に「寝起きの顔」としており、それが「眼を閉じている」との印象を与えることにつながっているかもしれない。
 というのは、この後に小石を巡るスプラスティックな身体運動が示されるわけだが、そこでも「目覚めていない身体」は基調として続いているからである。すなわち、ここで「目覚めていない身体」とは、決して「寝起きで眠たく、まだ目が覚めていない(いずれ目覚める)身体」ではなく、「目覚めているはずなのに目覚めきれない半覚醒の状態に留め置かれ続けている身体」であり、むしろ「心ここにあらず」の「脱魂の身体」とでも呼ぶべきものだ。その後、安藤からは「目を開けて前を見つめているのだけれど、像を結ばない意識というものがある」との貴重な示唆をいただいている。「まさに」と言うべきだろう。批評においては「作者や演者の見解がそのまま正解ではない」という大前提があるが、「像を結ばない」というイメージは正鵠を射ている。それは当然「眠気でうつらうつらしていて、視覚像がぼけている」状態ではなく、網膜にはきちんと像が結んでいても意識がそれをとらえていない、対象化や志向性を欠いた「離人症」的な状態だろう。
 その後の彼女の行動で、それが「帰るべき場所の喪失」による空虚ゆえのものであることが明らかになっていく。アンドレイ・タルコフスキーが描いた「死に至る病」としてのノスタルジアのことが思い浮かぶ。そう言えば『ノスタルジア』のラストシーンでは、主人公ゴルチャコフの子ども時代の思い出の場所である故郷ロシアの別荘が出現し、カメラが引いていくとその周囲にゴシック聖堂の廃墟(トスカーナに実在するサン・ガルガーノ修道院)が浮かびあがる。愛犬を傍らに侍らせて別荘の前の草原に横座りするゴルチャコフの視線はこちらに向けられているが、観客はそれが彼の思い描いた幻であることを知っており、彼もまた我々と同じ視線の向きで共に風景を眺めていると感じている。この関係は本作『終わるときがきた』と共通している。さらにゴルチャコフがトスカーナに赴いたのは、18世紀にロシアを離れイタリアを放浪した音楽家サスノフスキーの足跡を調査するためだった。サスノフスキーの背中を追うゴルチャコフ、そして故郷への帰還を果たした自身の幻を見詰めるゴルチャコフ、それを共に眼差す観客。ここにも連なる視線の鎖列が存在する。
ノスタルジア2縮小

■【補注2】
 スプラスティックな身体運動が「投影されたイメージのように身体の表面を滑っていくばかりで、その強度を高めることをしない」のは、単に身体が弛緩しているからではない。身体の隅々まで注意を張り巡らし、運動に「活き活きとした身体」を与えず、機械仕掛けのように動かしているのである。【補注1】の「離人症の身体」と対比させれば、「夢遊病の身体」とでも言えるかもしれない。なお、この注意の張り巡らしは、次章「9」で論じている「身体の分散配置」の一つの現れにほかならない。

 続いて「機械仕掛け/操り人形の身体」の提示がある。左脚を高く上げて起き上がり、右脚を突っ張ったままベンチに腰掛け、ハンカチを取り出すと巾着袋が落ち、空き缶が転がってきたのをきっかけに立ち上がる。ここでは主体的な意志の発露がことごとく連鎖して作動する機械仕掛けに委ねられ、身体の内側からの充実の契機を妨げている。身体確認や小石を巡る儀式の、ドミノ倒しのようにほとんどオートマティックに連鎖していく動作もまた同様である。それらが何度も繰り返されることにより、身体のプレゼンスの強度は確実に削られていく。
 上からのみの自然で柔らかな照明とコントラストの高い映像の対比も、生身の身体のプレゼンスを相対的に弱めていた。サウンドがほとんど変化せず、特に身体を鼓舞するリズミックな音が最後を除いて聴かれなかったことも、生身の身体と映像を等しく浸すという意味合いで意図的ではなかったかと推測する。

 このようにして、「生身の身体のプレゼンスを弱める」ことにより、生身の身体と映像が同じ作業平面に立つことが可能となる。映像部分が単なる効果、たとえば演者の内面の提示に留まっていては、安藤の映像の前に住宅地や玄関が現れるのも、所詮それだけのことであり、生身の身体と映像の動作の同期も力を持ち得まい。小石が餅菓子に化ける「記憶と現実の混濁」も単なるサプライズに留まり、他と接続する契機を失うことになる。安藤の生身の身体と彼女の映像と「映像の中の女」の三者が互い違いにジグザグに並ぶハイライトも、単にシネジェニックな達成としか受け取られまい。


9.身体の分散配置
 それでは本作品における身体の強度は、「映像との恊働」を成し遂げるための妥協として弱められ、低位に留まっているのだろうか。そうではないと考える。そこにはこれまでの身体のあり方からの変容があるのだと。弱められたのはあくまで身体の輪郭/外見と結びついたプレゼンスであって、その内部で身体の力能は多方向に分散配置されており、身体の見かけの運動とは結びつかない多くの任務/作業をこなしている。
 それらを思いつくままに挙げるならば、今回のデフォルトである「寝起きで目が覚めきらず弛緩したままの身体」への度重なるリセットであり、機械仕掛けへの連動であり、映像のみならず録音された音声やサウンドへの応答/同期であり、さらにはカメラの視界/映像のフレームに自らの側面や背中を収め続けることであり、映像の切り替え操作を可能とするために繰り返し動作のタイムテーブルを毎回秒単位で管理することであるだろう。
 これに対応するのは極めて難しかっただろうと考える。「7」で近作を振り返ったように、ARICAの舞台における安藤の身体への要求水準はいつも、他では望むべくもない凄まじいものなのだが、特に本作ではその場でのズレや揺らぎ、あるいは不測の事態への対応というよりも、あらかじめ敷かれたレールに沿って厳密に運行しなければならない点で、これまでにない挑戦であったかと思う。ただ、ここで強調したいのは、制約があるから自由がないとか、即興は必要ない(成しえない)わけではないことだ。むしろ話は逆で、自由を切り開かなければ、また即興を研ぎ澄まさなければ、厳密さは獲得できないし、それをさらに進め深めることもできない。求められる自由や即興の質が違っており、ただ何も考えないから自由、準備してないから即興‥‥などという「旅の恥は掻き捨て」的な無責任は端から通用しないということだ。【補注3】

■【補注3】
 管理・制約の必要→自由・即興の喪失 という誤解を防ぐため、一段落、説明を付け加えた。

 この「分散配置」に、ドゥルーズ=ガタリが用いている「アジャンスマンagencement」あるいはその英訳である「アレンジメントarrangement」の語を充てれば、参照している文脈や事態の見通しが少々良くなるかもしれない。それは一つの身体の運動や感覚の「布置」を変容させていくことなのだ。

 身体の強度がこれまでとは布置を変え、ストレートにとらえにくくなったものの、総体としては決して低下してはいないと考える理由はもう一つある。それは本作品が、原作であるベケット『ロッカバイ』からの切断を経た『再訪』の線を、さらに先まで伸ばしているからである。4回の繰り返しという原作の構造は『再訪』に続き、本作でも保持されている。ここで『ロッカバイ』の繰り返しが、ロッキングチェアーの動きが停止すると座っている女が「More」と自ら声を上げ、これにより新たな繰り返しが開始されることに改めて注意しよう。
 原作のテクストには「この声はだんだんソフトになる」と記されている。照明等もまた。最後、女はもはや「More」の声を上げられず事切れたように見える。死に向けた衰弱のサイクル(しかも区切りとなるのはロッキングチェアーの動きである。この受動的残酷さ!)がここにある。
 これに対し、『再訪』も本作品も女は決して衰弱していくわけではない。その代わりに、共に最後の場面で、反乱軍に王宮を包囲された王妃が毒杯をあおるが如く、しばしためらった後に覚悟を決め、手にした水を一気に飲み干す。『再訪』では生身の身体はそのまま机に突っ伏して動かず、安藤の映像がカーテンを開け光に包まれていく。そこにはやはり昇天や開放/解放のイメージが浮かび上がる。本作品ではその手前で暗転して終了する。言わば結末は明らかにされない。女が日常の繰り返しを生き抜く可能性やいつか家に帰り着く希望が、抹消されずに僅かに残されている。『ロッカバイ』の気高い孤絶から『再訪』以上にさらに踏み出している。このことはロッキングチェアー → 閉ざされた室内 → 屋外のベンチ という線の進展と手を携えている。

 一方、翻って演者の視点に立ってみれば、このように身体のプレゼンスを弱めることは、「ハイリスク」という以上に覚悟を要する危険な賭けではなかったか。結果として獲得されたのは、映像と協働する手法や技術というより、映像と共に生きる身体のあり方/使い方だったように思う。(それこそが先に述べた身体の運動や感覚の新たな「布置」にほかならない。安藤には、『しあわせな日々』でガラクタの山に腰まで、あるいは首まで埋まり、身体の運動を封じられた結果、自らの声の(ダンス)能力を見出した実績がある。そして思い返すなら、転形劇場による沈黙劇『水の駅』の初演(1981年)において、作・演出の太田省吾から「もっと遅く!」と言われ続け、ついには「2メートルを5分かけて歩く」というそれまであり得なかった速度に至り、演ずる身体の布置を鮮やかに組み替えてみせたのが彼女ではなかったか。今回の賭けは必ず未来に繋がることを信じている。


ARICA + 越田乃梨子『終わるときがきた』
2022年12月7日〜11日  ※福島は11日に観劇
BankART Station
演出:藤田康城
テクスト:倉石信乃
映像・コンセプト 越田乃梨子
出演:安藤朋子
音楽:福岡ユタカ 
装置:高橋永二郎

照明:岩品武顕 (with Friends)
音響:田中裕一(サウンドウエッジ)
舞台監督:佐藤幸美(ステージワークURAK)
衣装:安東陽子 
衣装製作:渡部直也
宣伝美術:須山悠里
字幕翻訳:常田景子
字幕制作:藤田紅於
制作協力:前田圭蔵
制作:福岡聡(カタリスト)

『終わるときがきた―ロッカバイ再訪』公演記録映像【抜粋編集版】
https://www.aricatheatercompany.com/works/262/

サミュエル・ベケット『ロッカバイ』初演記録映像(1981年)
https://www.youtube.com/watch?v=66iZF6SnnDU

「没後30年 サミュエル・ベケット映画祭」
ラウンドテーブル「21世紀のサミュエル・ベケット」採録
https://realkyoto.jp/article/beckett_roundtable/



補論:「ひとり」と「みんな」
 本作品を対象とした「テクストに抗う身体」の視点からの考察ではあるが、本作品及び原作『ロッカバイ』のテクスト細部からの議論となり、本論の文脈に収まりにくい点があるため、以下に「補論」として論ずることにする。

 本作のテクスト全文はパンフレットの見開きページいっぱいに印刷されている。4つのパートに分かれており、いずれも短文で、詩ともとらえられる。すべてのパートが「とまれ / なんでもない」で始まり、第1パートと第3バートが「終わるときがきた」で締めくくられるなど、繰り返しを基本としている。しかし、忠実な繰り返しではなく、内容が発展していく。ここでは「ひとり」と「みんな」を軸に読み解いていく。なお、本論で述べたように、このテクストは上演の中に散種されており、そのままの順序ですべてが示されるわけでない。

 第1パートで「わたし」が登場する。「わたしはわたしに閉じこもっている」に続けて「外にいてもひとり」とあるから、ここで「ひとり」とは、まずは孤独の謂いである。一方、「みんなと同じようにそこにいる」とあるので、「みんな」とは「わたし」以外の大勢であると考えられる。
 第2パートには「みんなの椅子にすわる / みんなの広場でじっと」とあり、これは寝起きしているベンチを指すと考えられる。ここで「みんな」とは「公共」の意であって、「わたし」を含むことになるだろう。
 第3パートでは「ひとりが通りにやってくる / ほかはこなくてもひとりだけはくる / やっとその日がきた / ついにきた なつかしい」と「ひとり」が示される。後半は「わたし」の感慨と考えられるから、ここで「ひとり」とは「わたし」以外の特定の誰かだろうか。
 第4パートでは、まず「そのひと」が現れる。「通りからはずれて / 家のなかへ いいえ / 家の入口のところ なつかしい / そのひとの居場所だった / そのひとは入口で立ちどまった」と。唐突な登場ではあるが、とりあえず「そのひと」≒「わたし」であり、ただし、現在の生身の「わたし」ではなく、たとえば記憶に残る過去の「わたし」であると考えられよう。だが、しかし、先ほどの文は「いつも立ちつくしていた / わたしと同じひどい身なり」と続く。「そのひと」は居場所があった頃の「わたし」ではなく、すでに居場所を失ったホームレスとしての「わたし」に違いあるまい。「わたし」が「わたし」を「そのひと」として見ている関係。これは上演における安藤と安藤の映像の関係と重ね合わせることができる。
 さらに第4パートでは「みんな」に変容が生じる。これまでとほぼ同様(なぜか「すわる」が漢字になっているが)の「みんなの椅子に座っている」に続けて、「みんなと同じきたない服」とある。ここで突然「みんな」がホームレスである「わたし」と同じになる。さらにしばらく置いて後の部分に「最後のふるえもとまって / わたしがわたしじゃないみんなになる / わたしがわたしじゃない全員になるときがきた」とある。このくだりはテクストの最後の部分、「最後はみんなのなかへ / 引きこもる / みんなのなかへ解放して / わたしはわたしをひきとめるのをやめて」と確実に響き合っている。

 この第4パートにおける最終的な「みんな」の変容は、共同体のような「ある集合体」への帰還ではない。そこに受け止め、包んでくれる何かが確として存在しているわけではない。ここで「みんな」とは、かつて自分もその一部であった「全員」のいわば「残像」であるに過ぎない。最後にもたらされるのは「わたし」=個の融解というべき事態である。孤独な魂をやさしく迎え入れ、やすらぎをもたらしてくれる死のイメージ。それが空っぽの「わたし」の唯一残された望みであり、それだけに悲痛な叫びである。

 私の観た限りでは、この第4パートにおける最終的な「みんな」の変容、そして個の融解への希求は録音された声によって語られながら、舞台上での安藤の生身の身体、安藤の映像、「映像の中の女」のいずれにも、その直接的な反映は感じ取れなかった。また、本論で述べたように、『ロッカバイ』や『再訪』と異なり、本作の結末では死は暗示されない。テクストにおける「みんな」の変容は、オフの声として流れるだけでスルーされたのだろうか。そうではあるまい。例の安藤の生身の身体と彼女の映像と「映像の中の女」の三者が互い違いにジグザグに並び、そこで「映像の中の女」が玄関に吸い込まれて消えてしまう(「わたし」の融解)場面を、そのリアライゼーション(現働化)としてとらえられるのではないか。
 客席のパースペクティヴから観た三者の配置については、先に【図1】で示したところである。三者は同じ方向を向いて一列に並んでいるわけではないが、映像に映し出されているのが生身の安藤の思い描く光景であることから、彼女の身体はこの列に加わることになる。さらにその安藤の生身の身体を眼差している観客もまた、その眼差しの強度により同じ列に加わることになるだろう(【図2】を参照)。劇を観る私と「わたし」がそこで一挙にスパークし、束の間開かれた「わたし」→「みんな」の回路に劇を見ている観客もまた巻き込まれ、「みんな」の一員へと変貌を遂げる。
 テクストの結末は、上演においては内側に折り返され(これにより上演の結末に先立つことになる)、かつテクストの絵解き(イラストレーション)としての意味作用や感情表出を通じてではなく、身体と映像の協働により、力線の描き出すダイアグラムとも言うべき光学的な配置として実現される。この本作のクライマックスを、テクストに対する身体の抵抗の突出点としてとらえたい(ここで映像は身体と密接な共犯関係を結んでいる)。この「折り返し」により、ペットボトルの水を飲み干すラストシーンを死の暗示へと結びつけず、「本論で述べたように『再訪』から一歩、『ロッカバイ』からは三歩手前で歩みを断ち切ることによって、宙吊り」のまま留め置くことが可能となった。生への一縷の希望を残すこの切断にもまた、身体によるテクストへの抵抗を看て取りたい。
「終わるときがきた」図2縮小
【図2】解説
【図1A】の場面を眼差す観客は、視線の対象である「安藤の生身の身体」に同化することから、【図1B】と同様に視点が転移し、三者の列に加わり、三者をさらに背後から見詰めることとなる。

 深読み/裏読み、さらには紆余曲折の果ての曲解/誤解が過ぎるのではないかとの反論もあろう。なぜ「わたし」を「みんなのなかへ解放して」との願いをストレートに受け止めないのかと。それは先に述べたように、かつて自分もその一部であった「全員」の「残像」への個の融解に過ぎないからである。さらに電子ネットワークによる情報のシャワーが、生身の接触を欠いた個人の身体を侵食していく事態に「映像」が大きな力を持っていると感じているからである。
フランコ・ベラルディ(ビフォ)は『大量殺人の“ダークヒーロー”―なぜ若者は銃乱射や自爆テロに走るのか?』(作品社)、『フィーチャビリティー』(法政大学出版局)等において、人々の間を結びつける共感がシステムによって断ち切られた社会状況を告発している。があるだろう。それは一人ひとりの身体の問題にほかならない。以下、『フィーチャビリティー』からいくつか抜粋引用したい。

「個人的身体は、ネットワーク化された生産の新たな次元で、神経刺激のたえざる強化にさらされるとともに、他者の身体から遠ざけられる。そして誰もが同じような神経への電子的刺激のなかで生きることになる。過剰に刺激された身体は孤立化するとともに過剰に接続することになる。接続すればするほど孤立化するということだ。」(p.65)
{過剰刺激の状態においては、認識的有機体は刺激の感情的中身を処理することができない。性的不能も同じ因果関係である。刺激の頻度と拡散、性的刺激に身をさらす速度といったものが、ある点まで高まると、感情的メッセージを意識的に解読し、必要な優しさをもってそのメッセージを処理することはむずかしくなる。われわれの時間は、短く、狭く、収縮している。ゆえに刺激は欲望に転化しにくく、接触は喜びに転化しにくいのである。」(p.67)
 「近くの身体からくる感情は、われわれの注意を持続的に引きつける遠くからくる強烈な刺激によって薄められてしまうのだ」(p.70)
 「感性は硬直し、共感は低下し、刺激スピードが意識を自動化に移行させる。倫理の唯物論的基盤は、他者の身体を自らの身体の感覚的延長と見なすことに基づいている。この倫理の唯物論的基盤の可能性は、共感的解釈が自動的な統語論的パターン認識によって置き換えられると、消えてなくなる。社会的関係のなかに共感が流れているときは、他者への尊敬は倫理的義務ではなく、自動的喜びである。こういう条件の下で、はじめて他者の喜びが自らの喜びを可能にする。」(p.73)
 「倫理的行動は価値に影響されるものではない。そうではなくて、それは喜びや苦しみ、孤独や欲望に影響されるものであり、倫理的麻痺は他者の喜びや他者の苦しみを感じ取ることができない無能状態をもたらす。」(p.75)

 SNSで「いいね」を押したり、シェアやリツイートしたり、短文コメントを発したりするのは、決して身体的共感ではなく、電子的刺激に対するオートマティックな(だがストレスに満ちた)反応にほかなるまい。接続すればするほど孤立化し、孤立化すればするほど接続に飢えるという悪循環。
 生身の身体を基本とする演劇が映像テクノロジーを活用する場合、不用意に歩み寄れば自らを電子情報の集合体へとたやすく変容させることになってしまいかねない。いやむしろ消費促進の観点から見れば、明らかにその方が得策だろう。そうではなく、そうした大量高速の情報流、絶え間なく続く神経刺激への耽溺に抵抗するための方策として、改めて映像を見直すことができるのではないか。今回の『終わるときがきた』を観ながら、また観た後でそのように考えた次第である。

 本論で指摘した通り「受動的残酷さ」に満ちた『ロッカバイ』だが、にもかかわらず記録映像の中で女が死へと向かうプロセスには、哀れさ/哀れみなど入り込む余地は微塵もない。ここで「ひとり」はロッキングチェアーに身を埋めながらも限りなく気高い。その理由の一端を、録音された声が同じ女の声であるにもかかわらず女を一貫して「she / her」と呼んでいることに求めたい(もちろんホワイトローの顔の近寄り難い厳つさは大きいけれども)。「終わるときがきた」に対応する原作テクストは「time she stopped」である。ここには録音された声による語りをそのまま女の内面の吐露としてしまわない、覚醒した距離の意識があるだろう。女のいかにも貴族の未亡人然とした格式を漂わせる衣装も、凛とした尊厳を保ち続けるのに役立っている。ここで「ひとり」は「みんな」を求めない。彼女が思い描くのは、どこかの窓辺に立っているかもしれない別の「ひとり」である。ここで「ひとり」の底が抜けて、だだ漏れ的に「みんな」と通底することはない。「ひとり」と「みんな」を結ぶ回路は、気高さを保持した「ひとり」同士が辛うじて結びついていった果てにしか開けることはないだろう。
 ちなみに『ロッカバイ』古典的定訳というべき高橋康也役では「time she stopped」が「もうそろそろやめていいころよ」と訳されている。「終わるときがきた」はこれに比べ、一人の女の内面から普遍の方へとより遠ざかっているように感じられる。なお、本作パンフレットに掲げられた作品名の英訳は『ロッカバイ』とのつながりを明らかにするためだろうが「time she stopped」とされている一方、上演時字幕では「time to stop」と代名詞なしで英訳されていたことを付け加えておこう。ここにも「みんな」の反響を聴き取らぬわけにはいかないように思う。

 観劇後に演出の藤田康城から、映像のフレームを外して安藤だけの身体が立つ、最後のシーン5というのも構想してみたいとの話を聞いた。映像との協働作業を経て、身体の強度のこれまでとは異なる布置を体得した身体に、改めて何ができるか/させるかが問われることとなろう。協働によるインタラクション(相互作用)とは、センサーがピコピコ言うようなちゃちな電子機械仕掛けではなく、本来はこうした実践のことにほかなるまい。




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ライヴ/イヴェント・レヴュー | 21:29:32 | トラックバック(0) | コメント(0)
閉じた音楽/開いた音楽 ―― 蛯子健太郎「ライブラリ」ライヴ・レヴュー  Closed Music / Opened Music ―― Live Review of Kentaro Ebiko's "Library"
 蛯子健太郎によるユニット「ライブラリ」のことを、ずっと追いかけて聴いてきている。途中、ヴォーカルを担当していた三角みづ紀を含むクインテットが解散し、しばらく後にピアノとのデュオとして再出発を果たすという大きな変化はあったものの、基本的に蛯子のオリジナル作曲作品を演奏するユニットであり、フリー・インプロヴィゼーションのように「毎回どうなるか、何が起こるかわからない」というようなことはない。演奏が変化する範囲は自ずから限定されており、新曲が加えられていくとはいえ、レパートリーも当然限られている。
 にもかかわらず毎回聴き逃せないと思ってしまうのは、曲/編曲・アンサンブル/蛯子自身の演奏が一体となって描く変容の軌跡が、まさに彼の標榜する「物語」としか言いようのない進展、予想を超えた豊かさを次々と開いてくれるからだ。それは上達するとか、練られていくとか、洗練されていくというのとは違う。各曲が内包する「世界」がますます輪郭を露わにし、確固として立ち上がり歩み出していく‥‥とでも言おうか。
 だから各曲に共通する色合いや手触りは確かにあるものの、それぞれが歩み出す方向は決して同じではない。だから一夜のプログラムはひとつの物語へとだんだん収斂しなくなり、個々の楽曲ごとに離散し、複数の物語/書物へと分かれていく。「ライブラリ(図書館)」とはよく名付けたものだと改めて思う。

 だが、演奏によって綴られるこの「物語」を、言葉で伝えるのは難しい。本レヴューでは、その前に観た昨年6月19日のライヴを視野に入れつつ、直近2回のライヴ(2022年1月29日及び5月21日)を直接の対象として論じることにより、来る9月3日の次回「ライブラリ」のライヴに向けて、この「物語」を幾らかなりと浮かび上がらせることを目指したい。
20220521ライブラリ2縮小
 写真:@umeopeth  蛯子健太郎のツイッターより転載


1.TDDN (Through the Deepest Depth of the Night)
 5月21日の演奏は、村上春樹の小説「アフターダーク」に発想を得て作曲された曲「TDDN」で幕を開けた。蛯子が新品の5弦エレクトリック・ベースをピックで弾き始める。一切合切が断ち切られたような寄る辺なさ、断絶感はもともとの曲想だが、アップ・ピッキングによるピックの弦への当たり(この接触/衝突音は本来なら演奏ノイズに当たるものだろう。しかし、ここでは聴き手との距離が近いことを踏まえ、確信犯的に活用されている)がリズムを刻み、そこから重い芯のある音がブゥンと弧を描いて力強く立ち上る。ビンビンという弦の鳴りとブンブンした響きがずっと鳴り止まずに続いている。テンポがいつもよりゆっくりしているのではないか。演奏がある水準に達して新たな扉を開き、うまく「はまった」時にはいつもそう感じられるようだ。音が泳ぎ回る「水槽」のガラスの透明度が上がったような感じ。ベース音のかたちづくる空間を、その隙間を含めはっきりと見通すことができ、ピアノが余裕を持ってメロディを歌わせる。前回、「心余って言葉足らず」な印象を受けた高域でのベース・ソロも、せせこましい動き、不明瞭な発音がなく、落ち着いた語りが確実に聴き手の手元に届けられ、そこには甘みさえ感じられる。力強さは前回の演奏を確かに上回り、曲想がもたらす虚無的な暗さ(離人症的な感覚?)と拮抗し得ている。


2.The Other Side of the Story
 ポール・オースター「鍵のかかった部屋」に基づくこの曲に関しては1月29日に大きな進展があった。ピアノによるテーマにゆったりとたゆたうような低音の広がりで応じていたエレクトリック・ベース(この時はまだ通常の4弦)が、途中から高域での音数の多いギター的なソロに転ずる。蛯子の荒い息が聞こえてくるほどの熱演。ピアノとのダブル・ソロを経て、ベースの音数が減っていく場面に胸が詰まる。高まり張り詰めていたものがふと緩んで、ひとりぽつんと取り残された空白に何かがこみ上げてきて、湧き上がる記憶がぐるぐると巡り始める。
 この曲や前掲の「TDDN」のベース・ソロを聴いた聴衆のひとりから、「こういう演奏なら5弦や6弦の多弦ベースの方が弾きやすいのではないか」と声をかけられたのが、5弦エレクトリック・ベース購入のきっかけになったと蛯子は話してくれた。実はこのやりとりは私も聞いていて、その時に蛯子は「いや、まだ4弦エレクトリック・ベースもじゅうぶん弾きこなせていないので‥‥」と応えていたのだが、やはりその後、どうしても気になって楽器店に行ったのだと言う。
 5月21日もこの曲は披露され、やはりこなれた演奏となった。


3.「自身の声」としてのエレクトリック・ベースの獲得(1月29日)
 昨年6月のライヴの時点ですでに、「今はベースのマグネットを使っていない」、「やはりスティーヴ・スワロウSteve Swallowが好きだから、その辺の音が頭にある」等々と、蛯子は新たなベース・サウンドについて断片的ながら語っていた。
 コントラバスからエレクトリック・ベースに転向し、ソリッドではなく空洞のボティ、ピック弾き(基本としてアップ・ピッキング)、ピエゾ・ピックアップで、柔らかくナチュラルな音色を追求したスティーヴ・スワロウは確かに蛯子と多くの共通点を持つ。彼がカーラ・ブレイのピアノとのデュオで見せる、彼女が歩む足元にすっすっと音を差し出していく(まるで馬車から降りるレディの足元の水たまりに、さっとハンカチを敷くように)、心配り溢れた精妙なバッキングも、やはり蛯子の演奏と気脈を通ずるものと言えよう。
 その一方でスワロウの場合、カーラ・ブレイの見せ場をふんだんに作ってから彼もソロを取るのだが、その比率は決してピアノと対等ではなく、従来からのピアノ/ベースの位階関係に基づく控えめなものに留まる。高音域に上がっていって紡がれる彼のソロは「ギター的」と称される滑らかなもので、ピックアップの特性とボディの鳴りの両方を活かした、スウィートな輪郭の柔らかさと繊細な響きをたたえており、輪郭を強調したり、スラップで歪ませた打楽器的なブリブリッとした鳴りとは対極的である。「エレクトリック」に対する「アコースティック」。しかし、その一方で、アコースティック・ベース特有のブーミングに、彼はほとんど関心がないように見える。自信の楽器を「エレクトリック・ベース・ギター」と称する所以だろう。

 このライヴ後も、さらに蛯子はFacebookに新たなベース・サウンドの獲得に関する記事を投稿し、それが演奏の発展に結びついたとして「ひこうき」のリハーサル音源を例示していた(動画ファイルはYoutubeに投稿)。ことベースのサウンドに関しては、Youtube音源を低域の再生能力が弱いPCで聴いて判断するのは危ういのだが、それでも「一皮剥けた」的な印象を得たことが、1月29日のライヴへの期待へとつながった。
 と言うのは、この昨66月に体験した「ライブラリ」のライヴに対し、珍しくあまりよい印象を持てなかったためだ。それ以前に行われた、今はもうない綜合藝術茶房喫茶茶会記でのライヴ(2020年3月15日)については、ブログに掲載したライヴ・レヴュー(※)で「二人だからできること」を掴み取ったと評したのだが、その後、どの方向に進むべきか迷っている、足踏みしているとの印象を受けたのだった。もちろんこれは、客席テーブル前面に立てられた感染防止のためのアクリル板でピアノの響きがマスクされていたり、ベース・アンプがやわなワイヤー・ラックの上に乗せられていて、そのためかサウンドが不鮮明に感じられたりしたことが影響しているのかもしれないのだが。
※二人だけができること - 蛯子健太郎ライブラリ ライヴ・レヴュー  Only Two Can Play - Live Review for Kentaro Ebiko's Library
 http://miminowakuhazushi.blog.fc2.com/blog-entry-473.html

 1月29日のライヴではエフェクターの数が減り、以前は曲ごとに行われていたエフェクターの切り替えも観られなくなって、全曲を通し「同じひとつの声」で演奏された。その分、ピッキングの仕方等の奏法の違いにより音色がコントロールされた。たとえばこの日の冒頭に奏された村上春樹「ダンス・ダンス・ダンス」に基づく「羊男のテーマ」では、弦が鳴るほど強靭なピッキングによるくっきりとした速いベース・リフがピアノのリズミックに張り詰めた打鍵と拮抗し、低音に弾みをつけて曲をドライヴしていく。ピアノとベースは溶け合うことなく「水と油」のようにきっぱりと二層に分離してしまうのだが、そのことによりデュオのアンサンブルとしては、かえってがっしりと強く結合されていた。アンプが床置きとなったことも明瞭さ、とりわけ音の隙間の確保に寄与していただろう。
 「自身の声」の確立は、演奏に更なる自信と説得力をもたらすとともに、高域での速いソロやコード奏法に対する以前よりも遥かに果敢な挑戦を引き出した。先に見たように、そのことが続く5月21日のライヴで、さらに新たな扉を開くことにつながっていく。
 この日のライヴ後に新たなベース・サウンドとスティーヴ・スワロウの関係について蛯子に尋ねたが、それは所詮、自分ではない他の演奏者のことだから、あまり意識はしていないとの答が返ってきた。前回の話でスワロウが引き合いに出されたのは、まだ蛯子が試行錯誤の中に迷っていたからで、もう彼なりにその迷いを乗り越えたということだろう。
 その証拠として、今回のライヴでは、ピアノとベースのより対等な関係が目指されていることが改めて明確になった。ピアノ演奏に重ねてベースがソロ的なフレーズを紡ぐ「ダブル・ソロ」の場面が前回より遥かに増え、ソロ的な演奏以外の場面、たとえばベースがリフを弾き続ける場合でも、ベースの音量レヴェルが上がり、背後で伴奏するのではなく、横に並んで、あるいは正対して演奏していると感じられた。


4.米国オルタナティヴ・ロック〜空が歪む時、Desperate for Ritual
 そうした新たなベース・サウンドの獲得に関して、もうひとつ、米国オルタナティヴ・ロックとの関係性がポイントとなっているように思われる。昨年6月時のライヴでもすでに蛯子はピクシーズPixiesの名前を挙げていたが、1月29日のライヴではさらに具体的に、「精神的なスペースが無くなってしまいそうな時の救い」という説明とともに、ピクシーズのベース奏者だったキム・ディールKim Dealの名が、ピクシーズ脱退後の彼女のソロ曲「Walking with A Killer」と共に挙げられていた。
 米国オルタナティヴ・ロックが好きだと言う話は、実はアンサンブル編成のライブラリでコントラバスからエレクトリック・ベースに持ち替えた時から蛯子はよくしていた。他にはスマッシング・パンプキンズSmashing Pumpkins等の名前も挙がっていたように覚えている。正直言って、その時はこのことについてあまり深く考えなかった。これにはピクシーズもスマッシング・パンプキンズも私がよく聴いていなかったせいもある。『Bad Moon Rising』以前からソニック・ユースSonic Youthをずっと聴いていて、その流れでライヴ・スカルLive SkullやギャラクシーGalaxy 500等に親しんでいたし、ピクシーズがデビューした英国4ADも以前からよく聴いていて「えっ、4ADから米国のバンド?」と違和感があったし、彼らの第一作をプロデュースしたスティーヴ・アルビニSteve Albiniとどうも音の相性が悪かったし‥‥まあ、所詮、言い訳に過ぎないが(笑)。
 ピクシーズからキム・ディールのソロに至る線を改めて確認すると、ベース・ラインが意外なほどにメロディアスで、打楽器的にエッジを強調した音でも、野放図に低域を響かせまくった音でもなく、ナチュラルな響きであることに驚かされる。もちろん、決してジャジーではないし、ソロも取らないけれど、一方で文脈的にはニルヴァーナNirvana等に繋がっていながら、もう一方ではスティーヴ・スワロウから決して遠くない。もちろん、シンプルなリフレインに収斂していく点では「ロック」的なのだが。思い詰めたメランコリックな暗さと寄り添うような肌触りの暖かさ、遠くを眺める眼差しの茫洋さをたたえており、速度が増しても煽り感を生まないなど、蛯子のエレクトリック・ベース演奏との共通点が多くあるように感じられる。
 1月29日のライヴで「ピクシーズの影響がある」と蛯子が紹介した「空が歪む時」ではベースの低音のリフの滲みがすくなくくっきりと立って聞こえ、ピアノの複雑な動きと対照的に単純な、だが力強い線を描いた。ダウン・ストロークのピックでこするようにして弦を鳴らし、珍しくアンサンブルを煽り立てる。同日、やはりキム・ディールを引き合いに出して紹介された「Desperate for Ritual」では、やはりベースの音のヌケがよい。二弦弾きもはっきりと響く。その分、ピアノは身軽に簡素になって、両者の間に張り渡されている回路が浮かび上がる。
 スワロウとピクシーズ(キム・ディール)の「間」、ジャズの港にもロックの岸辺にも寄り付かない地点で、蛯子は自らの声を探していたのだろう。そしてついに発見した。


5. エレクトリック・ベースが書き進める物語
 蛯子がエレクトリック・ベースにおいて自身の声を発見した地点から振り返ると、これまで読み進めてきた「物語」の様相がかなり変わってくるように思われる。
 人選を含め理想的な編成であったアンサンブルが(発展的にではなく)突然に活動停止を余儀なくされ、そこで選び取られた(もしかすると「他に選ぶ余地のなかった」)デュオという編成/方法論が、その後の新たなアレンジメントの視点の開拓、新たなベース・サウンドの獲得、デュオにおけるアレンジメントの更なる発展‥‥といった変化へと、ほとんど「運命的」と言ってよいほどに、必然的かつ発展的に結びついていった‥‥と、これまで私は考えていた。
 しかし、これは話が逆で、重要な切断は「アンサンブルの活動停止/デュオとしての再出発」ではなく、「アコースティック・ベースからエレクトリック・ベースへの転換」の方ではなかったか。

 これは以前に益子博之から教えてもらったのだが、私の観ていない「ライブラリ」の初期のライヴにおいては、コントラバスを他人に弾かせて、蛯子自身はエレクトロニクスを操り、正弦波でアンサンブルに変調を加えていたという。「ライブラリ」のCDにおいても、第一作『ドリーム/ストーリー』(2010年)では、空間に楽器音が吸い込まれたり、また吐き出されたりするような変調が施され、三角みづ紀がヴォーカルで新たに参加した第二作『ライト』(2013年)では、輪郭のおぼろな正弦波のみによる楽曲演奏や、同じく正弦波と声のみの演奏を聴くことができる。
 私が「ライブラリ」のライヴ演奏に接し始めたのはさらにその後で、少なくともライヴ演奏の場では、蛯子はもうコントラバスに専念していて、エレクトロニクスを演奏してはいなかった。おそらくはその代わりに、これから演奏する曲のテンポの指示にちょっと訝しく思うほどの時間をかけ(まるで、あらかじめ曲全体を脳内で何倍速かでプレイして、そのテンポが正しいか確認しているかのようだった)、演奏者には疾走/飛翔するソロではなく、モザイク状に噛み合って互いに綱引きしあうアンサンブルを求めた。その後にアコースティック・ベースからエレクトリック・ベースへの、あの「劇的」な転換が生じることになる。
 正直、かなり唐突に感じたことを覚えている。当時のライブラリの繊細に張り詰めたアンサンブルをむしろ壊すもののように思われた。それゆえ、完成されたがゆえに「余白」、すなわち創造の余地を失ってしまったサウンドをもう一度作り直すために、あえていったん壊しているのではないかと受け止めていた。その後、何回かのライヴの後、それこそ唐突にアンサンブルの解散が告げられることになる。がつんと殴られるような衝撃を覚えた。

 「ライブラリ」の第一作『ドリーム/ストーリー』のリーフレットに、蛯子は次のように記している。

 「自分の内側を除いてみたらいろんなメディアの寄せ集めでした。ならばそれをそのままかたちにしてしまおうと思い、題材を文学に限定して音楽をつくっています」

 この文章はCDのタスキ(帯)に掲げられた「ページをめくる音が派生して音楽がうまれる。図書館系ジャズユニット」という惹句と響き合い、「ライブラリ」と名付けられた由来を語っていよう。私もこれまではユニット名の由来を示しつつ、作曲のコンセプトをゆるやかに示すものだとばかり思っていた。だが事態はこの時、もっと思い詰めた深刻さをはらんでいたのではなかったか。
 というのは、改めて考えてみると、自分自身の内面=意識が寄せ集め(ブリコラージュ)であると見なすことは、すなわち「自身のひとつの声」を否定し、自己の内面の統一性やオリジナルな発想を認めないことになるからだ。自らの声=思いではなく、自らの中にある他者の声=思いに耳を傾け、それを音にして響かせること。このことは曲ごとに発想の源となったヘンリー・D・ソロー、村上春樹、ポール・オースターの作品名を掲げる理由であるだけでなく、演奏に電子変調や音響操作を施し、言わばアンサンブルを一度バラバラに解体してから再度貼り合わせなければならなかった理由をも指し示しているだろう。自らの声=思いは封印し、あるいは注意深く取り除くこと。
 続く『ライト』では、他者(詩人である三角みづ紀)によってあらかじめ書かれた言葉が、生のまま声を伴って導入される。歌詞がなく三角の声の入らない曲については、前作と変わらず発想の源である作品名が記されている。ただし二通りの例外がある。
 一つ目の例外はカニグズバーグE.L.Konigsburgの作品にインスパイアされた「エンジェル」で、冒頭に正弦波のみで演奏された後、再度、三角の作詞によりヴォーカル入りのアンサンブルで演奏されている。
 二つ目の例外は、「叫び、沼地、滑車‥‥」と蛯子が断片的な言葉を連ねて作詞し、三角が歌っている「滑車」と、作曲の発想の源として具体的な作品名の代わりに「私の夢の中で聞こえてきた歌」と記され、作詞は三角が務め歌っている「モノフォーカス」である。実は、本作のうち、この二曲に限って蛯子はエレクトリック・ベースを演奏している。
 曲の発想の源として他者の言葉が掲げられていない二曲だけが、エレクトリック・ベースによる演奏というのは何とも意味ありげではある。ここに後の「転換」が兆していたのだろうか。おそらくそうではあるまい。ここでのエレクトリック・ベースの音色は、アコースティックの延長上にありながら電子的な変調が施されたと言うべきもので、やはりそれは特定の曲(場面)で必要となった特定のサウンドを調達するための「手段」に過ぎないように思われる。全曲をエレクトリック・ベースで演奏することの萌芽とは言えまい。

 ただ、この「前史」を現時点から振り返る時、いったん封印した「自らの声」に、一周(あるいはもっと)回った後に再度巡り会う‥‥という「物語」を読み取ることができる。
 以前のアンサンブル編成の「ライブラリ」にあっては、「物語」は曲/詩にあらかじめ内包されており、かつその場で「読み聞かせる」ように改めて演奏により紡がれるものだった。しかし、デュオ編成の「ライブラリ」では、各曲に内包/配分された「物語」以上に、蛯子自身が生きる「物語」自体(狭い意味での「私小説」的な、個人の身の上の反映ということでは決してない)が、全体を貫くトータルな軸線として浮上してきていることは、ずっと感じていた。先に記したように、その「物語」の大きな屈曲点が、これまで考えていたアンサンブル版「ライブラリ」の突然の活動停止ではなく、実はそれ以前にあった「アコースティックからエレクトリックへの転換」にあるのではないかと、1月29日のライヴを聴いて強く感じた。続く5月21日のライヴを体験して、その思いはさらに強まり「確信」へと変わった。「自らの声」の封印を経ての再発見という自己展開/自己実現の「物語」。それこそがエレクトリック・ベースが書き進めている「物語」なのだと。
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 写真:@umeopeth  蛯子健太郎のツイッターより転載


6.レイニー清原
 昨年6月19日のライヴで初めて披露され、その後は欠かさず演奏されているこの曲は、蛯子がライヴ一週間前の6月12日に見た「しとしとと降り続く雨の中、プロ野球選手の清原和博が野球のユニフォーム姿で、ひとり黙々とバスケットボールのシュート練習をしている」という夢に基づいており、ベース・ラインはその夢の中でずっと鳴り続けていたものだという。
 6月19日の演奏では、曲の形はすっかり出来上がっていたものの、引き摺るようなベース・ラインがもやつき、あてもなく移ろうピアノのコード・ワークと相俟って、状況説明通りの何とも不条理な感じを与えていた。
 対して1月29日及び5月21日の演奏では、かなり低い音域にもかかわらずベース音の輪郭がくっきりと立ち、疲弊した身体を引き摺る重たいリズムがピアノによる微熱を帯びた夢幻的な響きとの対比を明らかにして、まるで濡れた毛布を掛けられような垂れ込める重暗さ、真綿で締め付けるが如き閉塞感がまざまざと皮膚に感じられた。夢に出てきた情景が、「1Q84」や「騎士団長殺し」の一場面であると説明されても納得してしまうイメージの訴求力の強さ、自信に満ちた説得力の強さが、そこには宿っていた。


7.Death of Fantasy
 5月21日には「レイニー清原」に続けて、3月9日に書いたという新曲「Death of Fantasy」が演奏された。
 「ウクライナ紛争の勃発がきっかけで自分の考えの狭さに気づかされた。それはすなわち、『まったく想像していなかったことが起こってしまった』という想像力の死であり、『自分は悪くない』という幻想の死である」と蛯子は語った。
 ピアノの和音の微妙な移ろいに続いて、悲しげではあるが同時にどこか明るさを秘めたテーマが姿を現す。テーマが想いを巡らすように繰り返されるうち、ピアノのコードが壮麗に積み上がり、ベースが5弦の幅広い音域を活かしながら、歌の一節を思わせるメロディアスなソロを奏でるに至る。
 自らの内面に噴き上がった思いを、そのままに声/音として吐き出し、曲/演奏をつくりあげていったことがまざまざと手触りとして感じられた。あり得ない突発事態に反応して、矢も盾も止まらず身体が動いてしまったのだろう。だが、そうした内面の直接的な吐露、自らの思いをそのまま音にしてしまうことを、かつてはあれほどストイックに、自分に禁じていたのではなかったか。それを思うと「自身の声」の獲得=再発見は、5弦エレクトリック・ベースとの邂逅といった機材の問題などではないことがわかる。その一方で、彼は6月18日にFacebookに次のように書き込んでいる。「ホームカミング感」と。
 「2月からぬかるみを歩き続ける様にしてえっちらおっちら5弦ベースに馴染んできました。持ち替えてさっと弾ける訳もなく時に頭の中真っ白になりますが、えっちらおっちらちゃんと進んでます。今更って感じなのに凄いホームカミング感が自分でも不思議で感動すら覚えます。人生の謎でしょう。」【6月18日の書き込み】


8.閉じた音楽/開いた音楽
 5月21日のライヴの後の蛯子によるFacebookへの書き込みを振り返りながら、これまでの議論を集約してみよう。

 何とも不思議なことだが、蛯子は6月4日のFacebookへの書き込みで、「『音楽』って言う言葉自体が嫌い、恐らく大っ嫌い」と告白している。
 「今は深夜でもなくシラフですが、いきなり脈絡無く自分ゴト言うと音楽は好きを超えて存在するのに「音楽」って言う言葉自体が嫌い、恐らく大っ嫌いなのですが他に言葉が無いので始めから無自覚で、以来慢性の炎症を起こし続けていると単語を見ていてふと気付きました。それで「音楽」より自分と相性の良い単語を探したり作りだしたりするのでは無く「炎症」はなんだろう?炎症が辛いのも当然として、生理的な傷口のイメージや感覚は無自覚だった自身が鏡に映った物、それもドアの隙間からほんの少し覗いて慌てて閉めた僅かな像。」【6月4日の書き込み】
 混線し矛盾した感情ととらえられそうなところだが、たぶん解きほぐすカギは最後の一文に潜んでいる。「無自覚だった自分が鏡に映ったもの」、それも「ドアの隙間からほんの少し覗いて慌てて閉めた僅かな像」。音楽している自分を外側から垣間見てしまった瞬間のいたたまれなさ。ここで「音楽」=「音」を「楽」しむことは、自らの内面だけに閉ざされた密かな、自分ひとりのためだけの愉悦であるだろう。そのことへのほとんど生理的な嫌悪/忌避。

 一方、7月24日には次のように書き込んでいる。
 「すっごく面白いのが一つの練習しててもそれなりに積み重なるんだけど、それと関係ない様な別の練習すると脳内で勝手に繋がって予期せぬ成果が生まれる。科学的には根拠ゼロだけどこの数年こういう『思いがけない成果』をずっと経験してます。で、今日もいきなり繋がったから嬉しくて書いてしまった。人間って不思議です。実は今日は朝から憂鬱で基本憂鬱のままですが、それでも思わぬサプライズでした。人間って不思議なんだから見えてる事だけで全て分かるわけじゃない。分かってねえなお前、と脳味噌に言われてる気分です。」【7月24日の書き込み】
 音楽していることが、たとえ自分ひとりだけで練習を繰り返す場合であっても、自分の中だけに閉ざされず、自分の認識や理解をひょいと超え出て、あらぬものと「勝手に」繋がってしまうことへの驚きと喜び。

 このことは8月17日に書き込んだ次の認識と、まっすぐにつながっていよう。
 「なーるほど。『繋ぐ』ことは『同化する』ことでは無いんだね。『矛盾』を含まない『繋ぐ』は有り得ないのでしょう。『繋ぐ』はシンドイけど価値があると思います。それに対して『同化する』は暴力的な行為とも取れます。矛盾があって初めて繋がると言う選択があるのは厳しいけど、つるむの逆かも。」【8月17日の書き込み】
 「矛盾」するものを「繋ぐ」とは、先に見たように閉域を超え出ることにほかならない。反対に「同化」は暴力的な差異の抹消により閉じること、均すことであり、「つるむ」も「矛盾」をはらまず、また閉域を超え出ることなく、低きに流れるように際を抹消する点で「同化」の系に属する。彼はこの「同化」へと閉じていく系列を一貫して批判し、自分に戒めている。
 「自分に対して言いたい、このあと何が起こるか分かるような気になって居る時、自分は百パーセント過去にのみ生きている。これは思いの外恐ろしい事だ。」【6月26日の書き込み】
 勿論自分も含む日本人の正解信仰に抗して必要なのは各々の心の中に生まれたイメージに対する現実としての時間と空間とエネルギーを費やす必要の認識と行動だと思う、ので今やってます。【6月27日の書き込み】
 「人は自分の狂気を瞬時に外部の人物事象に投影し対象化してしまいます。それ自体は実は自然な事です。ですが、個人的にその過程を自分で引き受けず、撒き散らすだけだと極端には、自分は正気で悪いのは「○○」の2極化、の正に同化する快感に対して余りにも無防備です。暴力の連鎖が生まれ易くなると思います。先日、実は昨年他界した妻のお父さんの事についてだったのですが「慰霊は生きてる人の心の中で行われる。そしておそらく心は死者と繋がっている」と書きました。これは人付き合いの様な長い時間と気持ちがかかるんだな、という自分の気付きです。」【7月11日の書き込み】
 「あるアメリカの小説家の「人は物語なしでは生きていけない」という文章を20年前に読んで本当にそうだな、と思ったものですが、今の世界で同じ事をこんな風に「人がどんな物語でも良さそうなものに片っ端から瞬時に同化していく」形で体験をするなんて夢にも思いませんでした。神様あんたは恐ろしい。」【同上】

 ここで「同化」すること、閉じることは、自らの身体を使って時間をかけて実際にやってみることなしに、頭で理解した「正解」に即座に飛びついてしまうこと、未来や結果をわかったつもりになってしまうこと、自らの内面に生じた過剰(狂気とはその謂にほかなるまい)を他者に投影し、すぐさま自らと切り離して片付けてしまおうとすること、生きていくのにかけがえのないはずの物語に対し「どんな物語でも片っ端から瞬時に同化」していくことへとパラフレーズされている。これらの一部は言わば「時局に応じて」書かれたものだが、これまで見てきたように、この軸線は一貫して「ライブラリ」の活動の核心を担っており、いささかも揺らぐことがない。

 そして、つい先日8月26日の書き込みは、この章の冒頭に掲げた6月4日の書き込みから二か月近くを経ていながら、まっすぐにつながっている。
 「『閉じた音楽』は自分にとっては恐らく音楽ですらありません。独り言。
  因みに理解し易い、し難い、と言う意味では無いです。独り言。
   恐らく聴く人側も、勿論発する側も、いつでもその音楽を自由に『閉じ』たり『開い』たり出来るのでしょう。独り言。」【8月26日の書き込み】
 「閉じた音楽」、すなわち音楽することが自らの内面に閉ざされ、完結してしまうことへの拒絶。対して「開いた音楽」とは、音楽することを通じて「矛盾」に相対し、予想もしなかった事柄と「繋がって」いく事態にほかなるまい(こう書き付けていて、前回の田内万里夫個展レヴューとの不思議な符合に驚かされるが、そうしたモノに惹き付けられるのが私の「性(さが)」なのかもしれない)。このことには音楽を発する側(ミュージシャン)だけでなく、聴き手にもまた関わってくる。それが「独り言」であるがゆえにメッセージはそれだけ痛切である。
 もう間近(9月3日 文末に告知情報を掲載)に迫った次回の「ライブラリ」のライヴでは、さらにこの先の物語が展開されよう。もちろん、その行方をいま知ることも、わかったつもりになることもできない。ただ、そこに参加して、続きを読み進めるだけだ。


2021年6月19日
2022年1月29日
2022年5月21日
 ライブラリ:蛯子健太郎(electric-bass)、杉山美樹(piano)
 いずれも会場は渋谷 KO-KO


次回「ライブラリ」ライヴ告知
 2022年9月3日 19時〜
 渋谷 KO-KO  03-3463-8226  jazz.ko-ko@jcom.home.ne.jp
 ライブラリ:蛯子健太郎(electric-bass)、杉山美樹(piano)


ライヴ/イヴェント・レヴュー | 15:38:32 | トラックバック(0) | コメント(0)
ラテン・アメリカからの熱風が吹き荒れるヴァルプルギスの夜 ―― 歌女+オータコージ@なってるハウス ライヴ・レヴュー  Fiery Wind from Latin America Hard Blowing Walpurgisnacht ―― Live Review of Kajo + Koji Ohta@Nutteru House
 店に入ると、いきなり景色が違う。一段上がったステージ上にも椅子が用意され、左右の壁際、奥のカウンター前と、ぐるり360°まわりから取り囲むように客席が配置されていた。中央には歌女のトレードマークである解体されたドラム・セット。もともと石原と藤巻が移動しながら叩けるよう、中央にバスドラを横置きにし(これがティンパニに替わる時もあった)、その周囲にスネア二個と各種タム、複数のシンバル、ハイハット、タンバリン、カウベル、ゴング、ウィンドチャイム、様々な音具等を並べていたのだが、この日は打楽器奏者が三人ということで、バスドラが二個に、スネアが三個にそれぞれ増強され、シンバルの数も増えている。その一方で、かつて石原・藤巻は大工が工具を入れる携帯用の袋に各種スティックを入れて腰からぶら下げていたのだが、今回はそれはなく、スティック類は音具とともに小テーブルやスネアの打面の上など、あちこちに分散して置いてあった。おそらくはゲストとして初参加のオータに配慮し、イーヴンな環境を準備したのだろう。
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 チューバがちょっと音を出してピストンの具合を確認し、打楽器奏者たちが手近のものに触れているうちに、何となく無造作に演奏が始まってしまう。

 「これはいくらなんでも、あまりに無造作に過ぎるのではないか」と迂闊にもその時思ってしまった。というのも、ところ狭しと並べられたドラム類を手当り次第に叩いているようでいて、石原・藤巻が打撃の瞬間にスティックの先端で打面をミュートし、一音一音をくっきりと粒立たせているのを、これまで何度となく体験してきたからである。それでこそ音数が増えても響きの空間が確保され、音響が団子とならずに交錯/透過して、様々な起伏を織り成すことができる。また、ミュートせずにフリーに打面を振動させた時の、打音が幾つも重なり合って溶解した分厚い密度、雷鳴や瀑布の如き轟きとも鋭い対比をかたちづくることができた。さらに互いに耳をそばだて敏感に反応するので、演奏は山の天候のように瞬時に移り変わることができた。
 しかし、最初眼の前で繰り広げられたのはあまりにも無造作な叩き合いであり、三人だからそれなりに広がりはあるが、まとまりはない。各音の関係がどうしても効果音的なものにとどまってしまう。銀色の腹を一斉にきらめかせ、一瞬で鮮やかに向きを変えるイワシの群れの鋭敏さは感じられなかった。
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 店内奥からステージ側を見込む。ステージ上にも椅子が設置されているのがわかる。
 ちなみにステージ上の椅子でエラソーに腕組みしているのはプロデュサーとかではありません。
 念のため。

 しかし、そうした不満はすぐにひっくり返される。
 前述したように、歌女では石原・藤巻の二人が移動しながら演奏する。位置が変われば眼の前の楽器も替わり、互いの、さらにはチューバとの位置関係も変化する。これまでのライヴでは、あるシークェンスでひとしきり演奏してから阿吽の呼吸でおもむろに位置を変える‥‥という風だった。しかし、今回は違う。椅子取りゲームのようにぐるぐる回る。オータが移動を加速させているのだ。あれもこれもと手を伸ばす欲張りでせっかちなビュッフェ客みたいに、少し叩いてはカレンダーをめくるように次に移るオータに押され、他の二人も回転速度を速めないわけにはいかない。いつの間にか打音もミュートを効かせた、細かい刻みへと変化している。響きが粒立ちつつ重層化してサウンドの色合いを編み上げ、チューバがその上を滑走していく。
 打音が打面の擦りの集積へと移り変わると、チューバが循環呼吸によるドローンで応える。石原がベルで細かいリズムを叩いたのを合図に他の二人が一斉になだれ込む。いよいよ「化学反応」が起き始めた。チューバはドローンの音圧を極限まで上げて、何とか決壊せぬよう持ちこたえる。オータが大太鼓用のフェルトヘッドのスティックでバスドラから単一ビートを叩き出し、他の二人がビートの近傍でそれぞれに異なるリズム・パターンを綾なして絡み合う。オータは足を止め、一心不乱に振りかぶってバスドラを殴り続け、他の二人はペースを落とさず、ぐるぐると回り続ける。高岡もまた回転の輪に入ったり出たりを繰り返し、ビートがこらえ切れずにどんどん速くなって音量も高まり、その頂点で弾けてジャラジャラとスピリチュアル・ジャズ風にのたくると、高岡もその中に参加している。一方、オータはいち早く身を翻してスネアを素手で叩き始める。アフロ・ブラジルから吹き抜ける一陣の風。
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 「三人いれば社会」とよく言われるが、チューバ+打楽器×2のふだんの「歌女」の編成では、打楽器同士の交通がすべて「チューバを見据えて」に行われていたのに対し、打楽器×3になると「チューバはさて措いて」交通が始まってしまう。それだけチューバの位置取りが難しく、また、打楽器は打楽器で回転が止まり、眼の前の楽器が決まるとリズム・パターンが固定してしまうという「ルーレット」的な面が見えてきた。どうなるかと思っていると、位置が固定されても打楽器同士のコンビネーションの中で自主的にリズムを切り替える「機能」が自動生成してくる。様々なリズムが交錯してカリブ海風のサウンド・イメージを醸し出す。「未知との遭遇」の交信フレーズを連想させる一節がチューバに現れ、ドラムが一斉にロールを始める。打面全開放のナイアガラ瀑布。ひとしきりずぶ濡れになってからチューバがコンダクトして減速すると、ゆっくりとしたビートの中から朝鮮打楽器ケンガリのリズムが様々に浮かび上がる。それを軸に色とりどりのビートがずらしながら重ねられ、海岸の砂山のように形態を崩しさっていく。

 しばしのインターミッション。開口一番「楽しい。楽し過ぎる」とオータ。「いや、オータさんは絶対歌女に合うって思ったんだよ」と高岡は満面の笑み。だから先入観なく新鮮に演奏できるようにリハーサルはほとんどせず、ほぼぶっつけ本番で演奏に臨んだのだと言う。
 もうそろそろ後半を始めるかという頃になって、石原がふと気づいて「スタンドにシンバルが一枚もない」と指差す。外して叩いたり、それでドラムの打面を擦ったり、身体がぶつかった弾みに外れて落ちたりして、シンバルが一枚もスタンドに残っていないのだ。ただ、剥き出しの細い金属の柱があちこちに虚しく立っているだけ。廃墟感満杯。「何だこいつらドラマーのくせに、シンバル・スタンドの使い方まったくわかってねーぞ‥‥って言われるよ」とオータ(爆)。

 「それでは歌女のいつものお決まりで、ゲストのソロから始めようと思います」という高岡の大嘘MC(笑)で、後半はオータのソロから始まる。彼は意を決したように、首からマリンバ(バラフォン?)を吊り下げて前へ歩み出て(その姿は文化大革命で自己批判させられる罪人を思わせる)、両手に持ったフェルトヘッドのマレットで叩きまくる。自らを
叩きまくる身体の動きによりマリンバの盤面が撓み波打つので、自ずとマレットの軸の部分も当たってしまい、柔らかく太い音と固く細い音が入り混じる。減速と加速を何度も繰り返した後、炊飯器の内釜(それにしても何でこんなものがあるのか)にチェーンを入れて振り始め、次いでスネアを素手で叩き始める。ラテンのボンゴ・スタイル。上半身が大きく反り返り、下半身は楽器にこすりつけるように突き出され左右にうねる。さらにリンボーダンサーみたいに膝が床に着きそうなほど大きく曲がり、叩き続けながら楽器に身を預けるようにして、下半身が感極まったようにうねりまくる。人類がこんな動きをするのを今までみたことがない。壁際にいたたまらず藤巻が飛び出して、オータが首から下げたマリンバを叩き出す。高岡がこそこそと耳打ちし、カウンターの中でスタッフとして従事していたやはり打楽器奏者の笠谷航平(高岡のFacebook情報で後から知ったのだが、彼はこの少し前に同じ「なってるハウス」で「即興演奏デビュー」を果たしたのだという)がやおら加勢して、打楽器奏者が四人に増える。

 演奏は何度も頂点に登り詰めながら、シジフォスよろしくそこから一瞬で滑り落ち、また尽きることなく高揚していく。オータがスネアの打面をガムテープでミュートし、何を思ったか、そのままテープを延長して、傍らのシンバル・スタンドやタムはおろか、演奏している石原や藤巻にまでテープを巻き付けていく。高岡もテープ貼りに加わり、何重にもぐるぐる巻きにされながら豪放にして繊細な演奏は続き(ダダ的なパフォーマンス性だけでなく、テープによるミュートで余韻が切り詰められ、サウンドの充満が晴れ渡って、実際に細部が聴き取りやすくなった)、最後、シンバルやスネアのスタンドをなぎ倒しながらオータがバスドラにダイヴして楽器が倒れ崩れて〈幕〉。喧噪に満ちたヴァルプルギスの夜に終わりを告げた。「圧巻!」の一言。
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写真はすべて高岡大祐Facebookより転載させていただきました。

2022年6月13日(月)
入谷なってるハウス
歌女:石原雄治(perc)、藤巻鉄郎(perc)、高岡大祐(tuba) +オータコージ(perc)

 オータと高岡はこのライヴの直後、6月後半から関西ツアーに出かけたが、今度は二人に「赤い日ル女」(ヴォイス)を加えたトリオで、8月19日(本日!)から、やはり関西ツアーを行う。現在、発表されている日程は以下の通り(詳しくは下記URLを参照)。ぜひご覧ください。
https://note.com/blowbass/n/nb8cca8a8e5ae?fbclid=IwAR0JSwL0b4QBGoZj7le6AZV_qFjagryduX8sMrlgiz6vbPbSSBhormAjNeY

8/19(金) open 19:00 / start 19:30
神戸元町 space eauuu
赤い日ル女×高岡大祐×オータコージ
ゲスト:山本信記 tp,synth

【外の人 vol.6】 ※野外即興イベント
8/20(土) 南海・堺筋線 天下茶屋駅改札口15時集合
赤い日ル女×高岡大祐×江崎將史×オータコージ
at 大阪市西成区某所

8/21(日) open 18:30 / start 19:00
西明石はりまのまど
赤い日ル女 高岡大祐 デュオ
赤い日ル女vo,etc 高岡大祐tuba

8/22(月)open 18:30 / start 19:00
京都エンゲルスガール
赤い日ル女×高岡大祐×オータコージ
※急遽会場が十三宝湯→京都エンゲルスガールに変更となりました。




ライヴ/イヴェント・レヴュー | 13:32:57 | トラックバック(0) | コメント(0)
行動のネットワークとしての曼荼羅 ―― 田内万里夫個展レヴュー(高岡大祐ソロ・ライヴを含む)  Mandala As Network of Action ―― Review of Mario Tauchi Exhibition (including Daysuke Takaoka Solo Performance)
1.オーガニックなイメージ
 日比谷駅のA3出口の階段を上がると、自動車がひっきりなしに往来する大通りとはまったく異なる景色が右手に開ける。段差のない広い歩道スペース、整えられた街路樹、落ち着いたオープンカフェ‥‥。高い建物が両側に続くので、強い日ざしに直接晒されないのも、この時間帯にはありがたい。オープンカフェと小道を挟んだ向かい、ホテル「ザ・ペニンシュラ東京」から対角線に眺め下ろされる角に目指すギャラリーはあった。道路に面した二面の膝の高さから頭の上までがガラス張り。そこに絵が描かれている。
 オープンカフェに面した側は白い線で、メイン道路に面した側は視線の角度によって色合いの変わる不思議な線で(何と出入口のドアにまで)、それぞれ後述する「マリオ曼荼羅」が描かれている。壁に飾られた白い紙に描かれたドローイングも、PCモニタで流されている動画で制作中の様子が紹介されている壁画も、装画を担当した書籍をかざるのも、奥まった控え室スペースに飾られたより判の小さいドローイングも、貼られた写真に写る服飾や店舗のデザインも、すべて同様の「図像」が描かれている。
マリオカフェ福島1縮小

カッティングシート3縮小
 写真:田内万里夫

 一定の太さの筆致を感じさせない線。直線的とか幾何学的から限りなく遠い線の軌跡。細密に描き込まれながら、息苦しさを感じさせないユーモラスな伸びやかさ。だが、そうした線の印象より先に、描かれた「図像」の特異さが迫ってくる。消化器官の粘膜の顕微鏡写真? 脳内でドーパミンをやりとりするレセプター? 古代の海を席巻した腔腸動物の群生? ペイズリー柄のサイケデリックな増殖? ‥‥‥???
 中央が円く窪んだ柔らかな突起。そこを出入りしたり、あるいは宙空に浮かぶ幾つもの小さな球体。その周囲に広がる飛沫か分裂体のような細かい球体。絡み合うひも状のもの。表面はイソギンチャクやウミウシ(=腔腸動物)を思わせる白水玉模様で覆われていたり、そのまま白く残されていたりするが、いずれの場合もぬらりとした粘液層で覆われているように感じられる。
 料理人をしているという方に「これは貝ですか」と尋ねられました‥‥と田内。確かに貝の水管や肝、あるいはホヤに似た形態も見られる。「うどん」と言われたこともありますね。まあ、オーガニックなイメージであることは確かです‥‥と。


2.隣接性と曼荼羅
 これは、この後、ギャラリー内で演奏するために来ていた高岡大祐に教えてもらったのだが(と言うか、そもそもこの展覧会自体、高岡のライヴ告知で知ったのだった)、ドローイングは広げた紙のどこかに小さな○を描くことから始め、休みなく即興でどんどん描いていって、一気に完成させてしまうのだと言う。そう言われると、「隣接性」の原理に基づいて線が自らを構築していく様子が浮かんでくる。「隣接性」ということは「間隔化」ということでもあって、〈非〉接触であり〈非〉交差にほかならない。そう思ってドローイングを見直すと、卵(あるいは胞子)が孔から放出されるかの場面でも、ひも状の組織が絡まりあっている場面でも、そこにはしかるべき距離/空間があって、窮屈に密着することがない。そのことが「表面がぬらりとした粘液で覆われている」印象を与えるのだろう。
 もうひとつここで指摘しておきたいのは、ドローイングが不思議な奥行きを有していることだ。図像が重なる部分があって、なおかつ接触/交差していないのだから、当然そこには前後の隔たりがある。ジャクソン・ポロックJackson Pollockの作品ではポワリング/ドリッピングによる線の交錯が、その厚みのない重なりによって「浅い奥行き」を生み出すとされているが、田内のドローイングでは形態が描かれているから、奥行きは厚みのある「モノ」と「モノ」の重なりとして感得される。陰影も遠近法的な構図も排され、描線が一様で細部も文様的な描かれ方をされているにもかかわらず、決して平面的ではない。宙空に浮かんでいる球(そもそも、これが「円」に見えない時点で空間的と言うほかはないが)は、天体写真に写り込んでいるはるか遠くの星雲のようにも見え、手前にあるのか、奥にあるのかわからない。

 このことは田内が自ら標榜する「曼荼羅」と彼の作品自体の関係を考える上でも重要ではないだろうか。田内は「曼荼羅」というのが、特に西欧世界において、自らのドローイングを取っ付きやすくする「接点」をもたらす語であり、また言葉を通じて情報を流通しやすくするものであると話していた。C.G.ユングCarl Gustav Jungによる曼荼羅理解がそのベースになっているとも。その一方で、自分の作品や制作行為があまりにも仏教に引き付けられて解釈/理解されてしまうことに対する懸念も述べていた。
 無意識の奥底深くから浮かび上がる共通図式(個人的には不定形の流動が束の間かたちづくる平衡/均衡のかたち/構造ととらえたいところだ)という、ユングの曼荼羅のイメージは、彼の唱える集合無意識とも深く関わるものであり、田内の描くオーガニックな形象と確かに響き合うところがある。しかし、その一方で、金剛界曼荼羅とか胎蔵界曼荼羅といった稠密かつ幾何学的な平面配置と田内のドローイングは、ほとんど対極にあると言ってよいほどかけ離れていることに注意したい(球、トーラス、四角錐というあからさまに密教的なシンボルをカラー図版で刷り込んだものや、実在しない漢字(を連想させる形象)を鮮やかな朱色で配した作品もあるが、「マリオ曼荼羅」自体の性質がそれらによって大きく変化するわけではない)。
金剛界縮小 胎蔵界縮小
左:金剛界曼荼羅  右:胎蔵界曼荼羅  いずれも奈良国立博物館蔵

 田内とは異なる曼荼羅的なドローイングの一例として、いささか極端なケースではあるが、アール・ブリュット作家として知られるアドルフ・ヴェルフリAdolf Wölfliの作品を掲げておこう。こうした空間恐怖、強迫的反復、空間の分割に継ぐ分割は、田内の作品にはまったく見られない。ここで作品は、いや、あらゆる線と形象は、平面の中にギュウギュウに閉じ込められ窒息している。
ヴェルフリ1縮小

 やはり自らを平面性の中に限定している点で、ダニエル・リベスキンドDaniel Libeskindの建築ドローイング『マイクロメガスMicromegas』(1979年)も見ておきたい。その後、ベルリンのユダヤ博物館の設計(1988年にコンペ当選)やニューヨークの世界貿易センター跡地の再建計画コンペ(2002年)に当選したことで知られる彼の初期作品である、この「建築ドローイング」は実際には三次元化できず、建築物として成立しないばかりか、形象(と見えるもの)を縁取る輪郭線が閉じておらず、内部と外部が、凹部と凸部が入れ代わってしまう「だまし絵」的な性格を有している。彼自身はこのことについて、「ドローイングはある物体の影などではなく、また単なる線の集積でもなく、慣習という惰性的な力への盲従でもない。わたしの作品は、それに対してはいかなる(決定的な)言葉も与えられないような不十分さが知覚の核心にあることを表現しようとするのである。」と述べている。ディコンストラクティヴィストとしての面目躍如な発言ではあるが、その決定不能性は、ドローイング/絵画のメディウムとしての本質である平面性に、自らを注意深く限定することによってもたらされたものにほかなるまい。
マイクロメガス1縮小


3.行動の横断的ネットワーク
 それでは田内のドローイングは平面性から、メディウムの純粋性からどこへ向かって一歩を踏み出したのだろうか。ここで「参加と行動の横断的ネットワーク」という言葉が思い浮かぶ。「マリオ曼荼羅」に描かれているのは、脳内レセプターや腔腸動物を思わせる、すべてオーガニックな形象であるばかりでなく、それらが互いに連結し、相互作用する組織/環境であるからだ。そちらで卵が、種子が、胞子が産み落とされ、あちらでは絡み合う触手が捕食の準備を整え、こちらは今まさに脱皮して、あるいは宿主の皮膚を食い破って、新たな形態が流れ出そうとしている。いくつものサイクルが異なる周期で作動しながら重なり合っているようだ。
 さらに作品内に描かれた内容を超えたネットワークがある。JR高輪ゲートウェイ駅新設工事のフェンスを飾るパブリック・アートを手掛けた際の記録ヴィデオを見ると、彼は脚立を上り下りしながら、本当に下絵もなく、一定のスピードでどんどんと描いていく。下がって全景を捉え直すこともなく、ただただ腕の届く範囲にペンを走らせ、また位置を変えて描き続けていくのだ。その様子は葉の裏にびっしりと整列した卵を産みつけていく昆虫を思わせる。「オーガニックな増殖」は描かれた形象を超えて、彼の描く行為自体と結びついている。
 そうした「描く行為」は、展覧会用の作品の製作を超えて、彼が「Commission Works」と呼ぶ活動へとつながっていく。もちろんそれは単なる「請負仕事」ではない。小説本を装画し、料理店の店頭を飾る壁画を描き、阿波踊りの「連」の浴衣の図柄をデザインし、選挙の度に投票行動促進のポスターを制作する。これらがすべて相手に広く呼びかけ、内部へと招き入れ、参加と行動を促す活動であることは決して偶然ではあるまい。それらを貫いて「マリオ曼荼羅」が脈動し、増殖を続けていく。

 彼の初めて出版された作品が「曼荼羅ぬり絵」だったというのは何とも象徴的だ。線で囲まれた区画を塗り手が思い思いに塗りつぶしていく塗り絵は、「マリオ曼荼羅」の三次元的な構築(形象の立体としての連続性/前後配置/嵌入性)と幻惑的な奥行きを明らかにするとともに、塗り手の参加を必要不可欠のものとして促すからだ。
 所謂「コラボ」というのは、現在のアート・シーンではごくごく当たり前のことではないかと疑問に思われるかもしれない。確かにアーティスト同士の、あるいはそうした枠組みも超えた企業や社会団体、さらには一般市民とのコラボレーションは、いまや広く行われているだろう。しかし、それらは大抵の場合、マルチメディア的なマーケティング戦略の一環としてのキャラクターの流通、名前の権威を貸し借りしあうタイアップに過ぎない。だからこそ「コラボ」と三文字の略称/蔑称で呼ばれるのだ。田内の行ってきた「Commission Works」は、そうした「マリオ曼荼羅」のキャラクター商売ではない。「マリオ曼荼羅」が場に応じてその都度その都度つくり出されるものではなくなって、誰が見てもそれとわかり、見る前から固定的な意味あいや価値を担ってしまう「キャラクター」と化してしまうことを、彼は誰よりも怖れ、その危険を注意深く避けているように思う(この姿勢はバリー・シュワルツ『なぜ働くのか』(朝日出版社)を彼が翻訳していることと結びついているに違いない)。それが現場での即興的な制作にこだわる理由だろう。

 今回の展示でガラス面に制作された二作品も、会場を実際に下見したら、もともと商業スペースとして設計・施工されたということで、よくあるホワイト・キューブ仕立てではなく、道路に面する二面がショーウインドウ用にガラスになっていた。勿体ないのでガラス面を使えないかなと考えて、オープンカフェに面した方は、お店の人やお客さんが「おや、何だろう」と思ってくれるように、そちらに向けて絵を描くことにした(実際、外から見て読める向きで個展の案内表示がされている。ちなみにこの絵は会期中にどんどん描き足されている)。出入口のある方のガラスは、十年くらい前に展覧会を開いた時に、中川ケミカルっていう会社の方から「これってウチの会社の製品、カッティング・シートでできますよ」って耳打ちされたのを思い出して相談してみたら、「カッティング・シート」って名前自体がこの会社の商品名だった。セロテープとか、ホッチキスと同じ。それで、偏光性のある素材を使いました。いや〜、展示の準備が大変で。まずは全面にカッティング・シートを貼付けて、それから中を切り取っていくんだけど、貼るだけで会社から三人ぐらい職人さんが来て、こっちも手伝って、その後、中身の刳り抜きで。いや〜、本当に力尽きました(笑)。
 作品をすっと眺め渡すだけでも、紫、ピンク、オレンジ、緑、水色、青、黄等の色が見える。見る角度を変えると、また色が変わる。表面が超の鱗粉のような構造になっているのだろうか。反射と透過の両方がミックスされるわけで、夕方、陽が傾いてビルの隙間から西日が直接射し込むようになると、影までが色づいているのだ‥‥と、前日のリハーサル時に体験した高岡が教えてくれた。
カッティングシート1縮小 カッティングシート5縮小
 写真:高岡大祐
 この写真でも色あいが変化しているのがわかるが、肉眼ではもっと顕著。

マリオカフェ福島2縮小
 ドローイングの右端の部分が描き足されている。前掲の写真と比べていただきたい。

 アートよりも音楽の人たち、特にフリー・ジャズとか演っている人たちとどうも気が合うみたいで‥‥と話す田内は展覧会の2日目の8月10日、ファンカデリックのTシャツを着ていた。ブラック・ミュージックがお好きなんですかと訊くと、やっぱりサイケデリックとかから入ってるからJB(ジェームズ・ブラウン)よりもジョージ・クリントンかな。宇宙って感じで‥‥と答えてくれた。
 制作を始めた頃、子どもがまだ小さかったこともあって、それからずっと自宅ではソファ、アトリエでは寝袋で寝ているという話に、「田内さんはいつもそうだよね。アトリエも行ったけど、何か常に切羽詰まってるよね」と、古くからの付き合いだと言う高岡が混ぜっ返す。
 本当にそうなんだろうなと思う。アトリエにしろ、ストリートにしろ、制作「現場」のスピード感(湧き上がってくる感じ)、機動力、即興的な構築力と柔軟性(応用力)等が、描かれた作品や行動の軌跡、話し振りなどから一貫して感じられる。「行動」する人のアート。それは結果としての作品の集積(アーカイヴ)ではなく、展覧会の開催実績や受賞歴でももちろんなく、「いま・ここ」での行動の手段であり、ツールであり、メッセージであり、身体であるのだろう。


4.高岡大祐ソロ・パフォーマンス
 アフリカ産だという色鮮やかな絵柄の布地で両サイドにシースルーの切り返しが仕込まれたロング・スカート(友人のダンサーが仕立ててくれたという)姿の高岡が、チューバのハードケース(貨物扱い用のもの)に田内が描いてくれたドローイングが外から見えるよう、まずはそちらの面を窓に向けて置き直した。外をあまりクルマが通らないので意外なほどに静かだ。リュックから取り出した、ダイスカップを籠で編んで持ち手を付けたような打楽器「カシシ」(アフリカの民族楽器)を、チューバのそばに並べる。
マリオ高岡福島1縮小

 しばらくして、ケースの「マリオ曼荼羅」面をこちらに向け直し、椅子に腰掛けて演奏が始まった。まずは長い持続音が部屋の響きを確かめるように続く。循環呼吸の鼻息が鋭く空気を打つ。ピストンはずっと開放のまま、息だけで音高を揺らがせる。チューバを吹きながらカシシに手を伸ばし、ゆっくりと、やがてリズミックに振り始める。中に入れられた乾燥した豆がシャカシャカと音をたて、板の貼られた底面をこちらに向けて打ち鳴らすと鋭い打撃音が飛び散る。吹きながら発する声が重ねられ(グロウル)、持続音に立ち戻った中にさざ波が現れて、右脚のステップに煽られるように速度が高まると、ワンワンワンワン‥‥と小刻みに唸りを上げ始める。川村美術館のロスコー・ルームで絵の中から響いてきたように感じた音(もちろん、あそこでは実際に音が鳴っていたわけではなかった)。ミニマルなフレーズが紡がれ、どんどんダンサブルな感じになっていく。チューバを指でパチンと弾いて勢いを付け、再びうなり声。やがて声は高く澄み渡っていき、重音奏法も加わって「一人メレディスク・モンク・ヴォーカル・アンサンブル」みたいな不思議な響きに至る。

 それでも足りないと感じたのか、膝の上にチューバを横置きにして吹き鳴らしながら、カシシを手に取り、両手で振り出す。自転車の手放し運転の如き荒技。さらには右手で管の一部を引き抜いて「水抜き」する間、カシシの鳴りを途切れさせまいと口に加えて頭を振る違法行為(笑)。後には奏法が改良され、膝の上に縦置きしたチューバを左手で支えながら、右手で二個のカシシを振る。
 声とチューバの持続音が豊かな倍音を高めていく。反復的なカシシのリズムと相俟って、ブードゥー祭儀の音楽やカンドンブレ、あるいはネイティヴ・アメリカンのゴースト・ダンスにも似た民族音楽の宗教的トランスの感覚が呼び起こされる。「都心のギャラリーでの演奏」という冷房の効いた無菌的なイメージとは程遠い、熱気と色彩と匂いに満ちた生命の脈動を感じさせる演奏となった。スカート生地とカシシのせいで、どうしてもアフリカのサヴァンナとかを思い浮かべてしまうけれど、それはまさに「マリオ曼荼羅」のオーガニックな生成を映し出した音世界と言うべきだろう


田内万里夫個展
 場所 CADAN有楽町(千代田区有楽町1丁目10−1 有楽町ビル1F)
 会期 2022年8月9日(火)~8月28日(日)
 演奏イヴェント(15時頃より1時間程度 投げ銭制)
  8月11日(木)  高岡大輔(チューバ)ソロ
8月13日(土)  高岡大輔(チューバ)、赤い日ル女(ヴォイス)
8月14日(日)  高岡大輔(チューバ)、潮田雄一(ギター)
8月21日(日)  佐々木彩子(うた,ギター,キーボード)ソロ
8月28日(日)  高岡大輔(チューバ)、桜井芳樹(ギター)
  ※13日は台風襲来のため外出せず聴き逃したが(泣)、
   14日の演奏については幸い聴くことができたので、
稿を改め、追ってレヴューしたい。

田内万里夫ウェブページ「マリオ曼荼羅」
https://mariomandala.com/
 作品のほか、『フォーブス ジャパン』インタヴュー記事(※)や動画も
見ることができ、とても内容が充実しているので、ぜひご覧いただきたい。
※「マリオ曼荼羅」articlesページ最下段のリンクから
あるいはhttps://forbesjapan.com/articles/detail/32543
「『マリオ曼荼羅』のイメージが初めてが降りてきた」時の話などもされていて
実に興味深い。




ライヴ/イヴェント・レヴュー | 15:15:37 | トラックバック(0) | コメント(0)
比類なき集中が照らし出す跳躍の瞬間 ―― 大上流一デュオ・シリーズ(石川高、灰野敬二)@Permianライヴ・レヴュー  Leaping Moments Illuminated by Incomparable Concentration ―― Live Review of Ryuichi Daijo Duo Series (Ko Ishikawa, Keiji Haino) @ Permian
1.石川高+大上流一@Permian
 2022年3月19日、この日の東京の天候は夕方から雨。かなりの降りで風も強い。Permianは地下にあるから、入口のドアさえ閉めてしまえば外の雨や風の音は気にならないが、その分、隔離され閉ざされた感触は強まる。眼前の音への集中が否が応でも高まらざるを得ない。

 左手側に笙の石川、右手側にアコースティック・ギターの大上。いずれも椅子に腰掛けている。演奏は身構える間もなく、すっと同時に始まった。強く息を吹き込まれた笙が音色を移り変わらせながら強弱の弧を描き、ギターは琵琶を思わせる鉈のように重い音色で、同一音高の連続や二・三個の音を繰り返しながら、音色をさらに研ぎ澄まし、一音を深く彫り刻んでいく。
 ふーっと寄せては鮮やかに切り返していた笙が、息を抑えて起伏をなくし、あえて弱音による平坦さを選んで、音を水平に伸ばし続けると、ギターは同じく音高を限定してフレーズやリズムへの展開を抑制しつつ、手首をひねって弦をピッキングすることにより、音の立ち上がりに不定形に歪んだアクセントを付け加える。笙本来の「寄せては返す」息づきを殺し、鏡のように磨き上げられた白く輝く平面に、不思議な形の岩がぽつりぽつりと配されていく。
 ふっと笙の音が止むとギターがアルペジオに転じ、その後も提示したフレーズやコードをすぐさま鋭く切断し、ダイナミックな跳躍を繰り返しながら「不在」を支える。石川は手元に置いた電熱器の上に笙を転がし、楽器内にたまった湿気を取っている。
 再び笙が弱音から始め、ギターが左手指でミュートした弦を搔き鳴らすと、「ルルルルルル‥‥」とあるはずのないリードを震わせるような聴いたことのない音色が吹き鳴らされたかと思うと、すぐに止んでしまう。再びギターが切断と跳躍を繰り返し、「不在」を支える。今度は演奏のフィールドをフレーズやリズムのグラウンドからさらに深め、ピックでの弦の擦りやミュートした弦へのアクト等、よりミクロな「振動」の領野へと移している。大上が静かに、また繊細にダイナミックな跳躍を繰り返す間、石川は電熱器の上で転がす笙だけを見詰めている。先ほどは湿気がまだ取りきれていなかったのだろうか。今度の離脱はずいぶん長く続いている。
 捧げ持たれた笙の空間に溶け入る微かな鳴りが、ルルルルルル‥‥という明確な響きへと羽撃き、さらにハーモニクスが加わる。タンギングを駆使しているのだろうか、短く切り取られた吹き鳴らしが断続的に破裂する。ケーンとパンパイプを合わせたような音色から電子音と聴き紛うサウンドへの移り変わり。ギターは音数を減らし、空間を広く保って、笙の音色変化を照らし出して、より静寂へと近づきながら緊張を高める。
 さらに笙の音が高まり、ちっぽけな球体の中でひしめき合う息の「戦闘状態」を周囲に拡大投影する。幾つにも分岐した気の流れがぶつかり合い、渦を巻いて、林立する管を揺すぶってノイジーな悲鳴を上げさせながら、さらにモジュレーションをかけ音色をねじ切るように歪めていく。ギターが激しく搔き鳴らされ、射出された倍音が四方八方に飛び散って、充満する重たい音の雲を鋭く切り裂く。金属質のアクが分離し、雲がいささか薄らいだかと思うと、首を切られても甦るヒュドラの如く、またぞろ頭をもたげてくる。ギターは音数を保ったまま、弦をミュートし、音量をだんだんと絞っていく。ギターの音が遠ざかるのを確かめながら、立ちこめていた笙による充満も次第に解け、すーっと温度を下げるように最弱音に至る。

 ここでサウンド間に繰り広げられている「交通」は、通常の即興演奏よりもはるかなミクロな次元で為されており、時にそれを超えて潜在性の次元へと進入していく。
 振り下ろされるピックと弦の衝突がまず光として炸裂し、すでに鳴り響いている笙の未だ現象化していなかった様態を閃光の下に照らし出しながら、三方の壁や天井に激しく衝突して、砕け散る残響の中、高次倍音に至る幅広いスペクトルがさらに飴のように引き伸ばされ、明滅を繰り返しながら透き通っていく。ここで照らし出される「笙の未だ現象化していなかった様態」とは、通常、安定した持続=ドローンととらえられる笙の均質で定常的な音の層のうちに潜む響きの濃度の勾配、加速する部分と減速する部分が入り混じってつくりだす局所的な圧縮や伸張さらには褶曲や断層、吹き込まれた息が複数に枝分かれした乱流が絡まり合ってつくりだすパルスの網状組織等にほかならない。
 通常の楽器演奏の範疇では具現化されず潜在的なままとどまっているもの、たとえ束の間顕在化したとしても、笙=持続/ギター=瞬間という対比が固定観念により覆い隠され見えないままになってしまうものに、目映い光が照射され、白日の下に引き出される。一見、透明に溶け合う倍音と残響の希薄な広がりには、早朝の蒼い光にも似たざわめきが満ち満ちている。

 休憩後の2セット目でもやはり、笙の強奏時に本来の端正な響きがぐーっと傾き、モジュレーションをかけられたように押しつぶされ歪む様が聴かれた(後で尋ねたら、やはり本来の雅楽ではあり得ない吹き方のようだ)。また、ギターがアブストラクトな(「非イディオム的な」と言うべきか)フレーズにとどまらず、スライド・ギターを含むブルースの語法を用いる場面を聴くこともできた。

 その2セット目の最後、二人とももう音を出すのは止めていて、笙を口元から離し、右手を弦から外して、演奏の終了を確認するために二人が視線を合わせた時、大上の頬は緊張から解き放たれて安堵に緩み、口角が少し上がって満足そうな笑みをたたえており、一方、石川はぷっと噴き出し笑い出して、大上も釣られて微笑んだ。共に会心の演奏だったのだろう。それは聴いていた私たちにもよくわかっていた。
 ギターの倍音が凄かったと石川が語り出し、盛んに頷く聴衆をよそに、ギターの胴の板が厚めなのでよく響くのではないかと大上が応える。そう言えば、前回のPermianでの共演ライヴでは、確か座る位置が今回と逆でしたねと口を挿むと、そうなんだ、あっち(客席から向かって左側)の方が響きが素直で、こっちの方が音が反射してあっちこっち行く感じなんだよね、なんで今回は石川さんにあっちに座ってもらって‥‥と大上が説明する。「狙い」とか「目論み」とまでは行かなくとも、そうした「伏線」はやはりあったのだなと独りごちた。
 その後、演奏の相性という話になり、二人とも「このデュオでは、ソロよりも遠くに行ける気がする」と話してくれた。そこで「相性」とは何だろうか。もちろん人間関係に尽きるものではあるまい。あえて説明の愚を犯すならば、「自分一人では見ることの出来ない自分が引き出され見えてくる」ような関係とでも言えばよいだろうか。ここに掲げたレヴュー文で言えば、「サウンド間に繰り広げられている「交通」は、通常の即興演奏よりもはるかなミクロな次元で為されており、時にそれを超えて潜在性の次元へと進入していく」ことが、今回のライヴにおけるその内実と考える次第である。


2.灰野敬二+大上流一@Permian
 上記ライヴのちょうど一週間後の2022年3月26日、この日のPermianは予約で満席となり、通常のひな段への固定椅子以外に前方に補助椅子が並べられた。客席から向かって左側にガット・ギターを抱えた灰野、右側に大上用の椅子。
 開演前に、わざわざ大阪から来たという聴き手が友人に「灰野さんのガット・ギターをライヴで聴きたいって、ずっと言ってたんだよ。誰もやってくれないなら、自分で企画するしかないかなと思ってたんだ。確かガット・ギターを手にするのは20年ぶりぐらいだって、灰野さん言ってたよ。人前で演奏するのはたぶん初めてじゃないかって」と話していた。とするとCD『光 闇 打ち溶け合いし この響き』の録音以来なのだろうか。『捧げる 灰野敬二の世界』に収められたディスコグラフィの執筆時に、その時点までに制作・発売された彼の全作品(録音)を聴いたが、個人的にはこの作品はその中の十指に入ると思う。演奏への期待に胸が高鳴る。

 まず灰野がソロで始める。まだ、大上は所定の位置に着いていない。身を二つに折り、ギターを深く抱え込んで、身体を痙攣するように震わせながら、一音ずつ音を出していく。右手と左手はそのまま二人のダンサーであり、その間に同期の閃光が走る時、弦が震えて音が放たれる‥‥とでも言おうか。しかも彼は震える弦をそのままにしておかない。余韻を注視しながら、張られた弦の上に掌をかざし、ギターの向きを変え、あるいは揺すぶって立ち上る倍音/残響に手を加える(それは彼がガムラン・セットや創作打楽器ポリゴノーラの演奏時にやっていたことだ)。

 客席の後ろで聴いていた大上がステージへ進み、椅子に腰を下ろして、ケースからスティール弦のアコースティック・ギターを取り出し、リズミックな刻みを奏で始める。両者の響きの違い(それは決して弦の材質の差異だけによるものではない)が一瞬で明らかになる。引き絞られ、引き伸ばされ、弦一本一本をばらけさせながら、ロクロの上の粘土のように自在の形を変えていく透明な音響。リズムを刻み、音を連ね、あるいはトレモロを用いて、倍音領域を含めてギターを総体として取り扱いながら、クロッキー帳のページを次々に破り捨て、新たなページにペンを走らせ続ける線の進展、あるいは次々に背後へと飛び退っていく車窓風景のめくるめく体験。

 コール&レスポンスをはじめ、「合わせに行く」場面は双方とも見られない。二人はそれぞれに独自の起伏をかたちづくり、あるいは自在に線を伸ばす。いきなり爆発したかと思うと、一転してリリカルな調べを奏で、長い髪をゆるやかに搔き上げてから再度弾き始め、そこから急加速する灰野。弦をミュートしたまま素早く搔き鳴らして切れ目のない連続体をつくりだし、続いてピックで弦を水平に擦る奏法へと移行して音色スペクトルを拡大し、さらに溶けて流れ出すような高速のトレモロに移り変わる大上。にもかかわらず、いや当然のこととして、随所で「交差」や「横切り」が生じる。時に音がぶつかり、あるいは重なり合い、さらには反発や溶融を生じさせる。また、顔も向けず視線も合わせないにもかかわらず、寸分違わぬ同期が生み出されもする。加速し、急減速し、何の前触れもなく音がすっぱりと鋭く切断される様が、ピアニストの右手と左手のように、寸分の狂いもなく成し遂げられた。
 「同期することへの反発」が自然と働いたのだろう。次の展開では互いに「外し」を仕掛けつつ、加速と減速が、離散と連続が、むしろぴったりと並走する。互いの左手首をロープで結わいて、右手のナイフを突きつけ合う決闘、あるいは粘膜を絡め合い体液を交換する性交のように、音の肌を触れ合っているからこそ、次の動きが生じる前に感じ取ることができる。そうした息苦しいまでの密着感をまざまざと露わにした演奏が続いた。

 前半の演奏が終わり、しばし休憩してから後半の演奏を始める旨のアナウンスをして、大上が外へ出る(おそらくは煙草を吸いに行ったのだろう)。残された灰野は抱えたままだったギターにチューニングを施すとスタンドに立てかけ、立ち上がり様、ぽつりと「それにしても凄い集中力だよな‥‥」とつぶやいた。それは共演相手の大上に向けられた賞賛だったのか、それとも息もつけない緊張の連続だった前半を終え、これから後半へと向かう自分を労い鼓舞する言葉であったのか、さらには集中を切らさず固唾を飲んで演奏を見詰め続けた満員の聴衆を含む「場」への驚嘆と感謝だったのだろうか。

 後半は大上が先に音を出し始める。奇妙にねじくれたフレーズから美しい倍音がふんだんに立ちのぼる。すでに椅子に着いている灰野は「考える人」のポーズでしばらくそれに耳を傾けていたかと思うと、会場で配られた「Food For Thought」(※)のプリントを取り出して、それを左手で弦に押し付けミュートしながら、いきなり弾きまくる。さらには、ギターを膝の上に水平に置き、弦の下にプリントを差し込み(プリペアド)、また抱えて弾き始める。激しいカッティングを繰り返すうち、紙はすぐにギターから滑り落ちるが、彼は気にも留めない(プリペアドは走り出すきっかけに過ぎなかった)。
※Permianのウェブページに掲げられた、即興(演奏)について考えるための引用集。出典は音楽関係に留まらず、哲学、文学、美術等、多方面に及んでいる。ぜひご覧いただきたい。
https://www.permian.tokyo/food-for-thought/

 ここからいよいよ二人の対比が明らかになっていく。
 灰野は切断と急加速を繰り返すかと思えば、加速に抗うように定速のカッティングを執拗に続け、極端に点描的になり、搔き鳴らし/フレーズ/カッティングの頻繁な交替を経てごくごく小音量での演奏に至り、フラメンコ風の右手指をぱっと伸ばす華麗なストロークの嵐を吹き荒れさせた後、弦を緩めて調弦を外し始める。猫のように柔軟で鮮やかな身のこなしによる切り返し、反転、フェイントの連続。武術家甲野善紀の言う「井桁崩し」ではないが、自らの拠って立つ足元を一瞬にして崩壊させ、素早く重心を移し、一瞬で加速して、別の地点から異なるヴェクトルで現れる。そしてもうひとつ、演奏の天衣無縫な囚われの無さ。「フリー・インプロヴィゼーション」ということを、暗黙のルールやマナーの集合体(=型や文化)、あるいはその場での演奏を価値づける根拠ととらえてしまうと、特殊奏法(エクステンデッド・テクニック)、非イディオム、ノイズ、無調、非定型リズム等の「フリー・インプロっぽい」形から入った、そしてその「枠組み」を一歩も離れることのない演奏となりやすい。コード感のある演奏、同一音やフレーズの繰り返し等を自らに禁じてしまうのだ。先に石川と大上の共演について見たように、特殊奏法とは通常の演奏における「禁じ手」であるわけだが、そうした「禁じ手」の枠内に限定して演奏するのであれば、可能性の平面は決して拡張されないし、侵犯の強度も低下するよりあるまい。灰野はそうした「自粛」とは無縁の演奏者だ。
 対して大上は「最短距離」で歩みを進める。彼は以前に「動く時はダイナミクスを高めることだけを考える」と話してくれた。静から動へ(あるいはその逆)、加速/減速、音量の極端な変化、音高や音色の変容、疎から密へ(あるいはその逆)‥‥。どのパラメーターをいつ、どのくらい変化させるか。それは瞬間に到来する圧縮された光景への対応にほかならない。自分や相手の考えや動きを事前に読む/見通すのではなく、それらを含む聴覚的環境の変化に瞬時に対応し、打ち返し、宙に身を踊らせる。彼の演奏を「線の進展」と例えたが、それは「線的な継起」として思い浮かべがちなフレーズの器楽的変奏とはまったく異なる。そこには常にミクロだが決定的な切断/跳躍が含まれている。ジグザグに折れ曲がりながら、どこまでも伸びていく線は、至るところで不連続を来しているのだ。
 もし、いまの記述が灰野の演奏はギミックに満ちており、大上は即興演奏の「決まりごと」を墨守する制度主義者だとの印象を僅かでも与えるとするならば、それは私の説明が至らないせいである。もちろん、そんなことはない。

 彼らの演奏の詳細を書き尽くすことは到底できないが、ひとつ書いておきたいのは、先に記した二人の原理的な差異にもかかわらず、至るところで交差し、並走し、肌を触れ合って互いを鋭敏に感じ取り触発し合っている場面が見られたことだ。幾つか事例を抜き出してみよう。
 これは先に一部記したが、前半半ばの目まぐるしい加速/減速/切断を鍔迫り合い状態で並走したまま乗り切った場面とその後の今度は互いに「外し」にかかりながら同様にピタリと貼り付いたように並走した場面。
 後半でプリペアドから抜け出した灰野が極端な切断と加速を繰り返し、大上の左足(通常はギターのボディを支えているので動かない)の踵が小刻みに、しかし激しく震え鳴り出して、それが合図であるかのように彼もまた堰を切った如く加速と跳躍にまみれていった場面。それに続いて大上が立ち上がり、灰野がいるのとは逆の方向、壁の方を向いて弾き出し、以降、二人の演奏が疎と密、速と遅、大音量と小音量というように対照的に、先の密着並走をもたらした求心力とは逆の「遠心力」によって進んでいった場面。
大上灰野縮小


3.補足
 ライヴ当日にその場で書き留めた簡単なメモ(暗闇での走り書きなので、ときどき自分の書いた字なのに判読できなかったりする)に基づき、体験の記憶というか私の中の「残響」へと測鉛を降ろしつつ書き進めているのだが、それにしても大変なものを聴かせてもらったなと改めて思う。二夜ともとびきりに素晴らしい演奏だった。大上にとっては二週続けてのライヴだったわけで、その充実ぶりには凄まじいものがある。石川との共演で弾みをつけて、灰野との共演に臨めたということもあるだろう。実はもうひとつ伏線があって、石川との共演との約一週間前、3月10日に、大上がエレクトリック・ギターを携えて森重靖宗(el-b)、外山明(dr)とトリオを組んだライヴを同じPermianで行っている。チェロからエレクトリック・ベースに楽器を持ち替えた森重が各種エフェクターを駆使した演奏をするであろうことを見越してか、大上はふだんよりもはるかに多いエフェクターを用意してライヴに臨んだ。最初はいつものヴォリューム・ペダルとアンプだけかと思ったのだが、間歇的にしか音が出ない等のトラブルがあり、彼は背後のギター・ケース中に仕込んだエフェクター類の接続を演奏中にチェックしなければならない羽目に陥った。結局はギター本体のピックアップのトラブルだったようで、彼は失敗を潔く吹っ切り、増幅をあきらめアンプラグドで改めて演奏に参加し直した。石川とも灰野とも、元からアコースティックで共演することは決まっていたのだろうが、この「失敗」が彼に覚悟を決めさせ、どんと背中を押したように思えてならない。マイナスを臨機応変にプラスに転じることも、また、インプロヴィゼーションならではのことである。

 書いたものを読み返すと、石川・大上のデュオでは全く性質の異なる楽器の響きの照応と相互浸透に焦点が当たっているのに対し、灰野・大上のデュオではガット弦とスティール弦という差異よりも、灰野と大上という演奏者の輪郭が際立つこととなっている。もともと演奏者の意図した通りにならないのが即興演奏の本質であり醍醐味なのだから、演奏者の意図に結果としてのサウンドを還元することはもちろん、演奏者の輪郭をことさらに際立たせることのない記述を心がける(というか自然とそうなってくる)のだが、この場合は両者のアクションに強烈な印象を刻まれたことにより、このような記述になったのだと思う。とりわけ灰野の放つ「気」の存在感はやはり物凄い。なお、これはまったくの余談となるが、彼は客席で演奏を聴いている時もやはりすごい「気」を放つので、うっかり近い席に座ってしまうと、演奏中ずっとそれが気になって仕方がない(笑)。


2022年3月19日(土) 不動前Permian
 石川高(sho)、大上流一(acoustic guitar)

2022年3月26日(土) 不動前Permian
 灰野敬二(classic guitar)、大上流一(acoustic guitar)

ライヴ当日の写真がないのが何とも残念である(泣)。




ライヴ/イヴェント・レヴュー | 22:00:21 | トラックバック(0) | コメント(0)
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