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福島恵一

Author:福島恵一
プログレを振り出しにフリー・ミュージック、現代音楽、トラッド、古楽、民族音楽など辺境を探求。「アヴァン・ミュージック・ガイド」、「プログレのパースペクティヴ」、「200CDプログレッシヴ・ロック」、「捧げる-灰野敬二の世界」等に執筆。2010年3~6月に音盤レクチャー「耳の枠はずし」(5回)を開催。2014年11月から津田貴司、歸山幸輔とリスニング・イヴェント『松籟夜話』を開催中。

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共振する息、蘇りの空間 ― Dead Man's Liquorライヴ・レヴュー  Resonant Breath, Revenant Space ― Live Review for Dead Man's Liquor
 「Dead Man's Liquorは俺の人生最後のバンドになる」と高岡大祐がFacebookに書き込むものだから、「これは体験しておかないと一生後悔しそうだし、行かなかったせいで、あんなデカいのに化けて出られてはたまらない」と初めて訪れた阿佐ヶ谷Soul玉Tokyo。トロンボーン、チューバ、ギター、ドラムという、チューバがフロントとベースを目まぐるしく兼任する4人編成での彼らの初ライヴは、「なるほど」と納得させる素晴らしい出来だった。ただ、その時に高岡が「次からはベースの瀬尾高志が入ります」とアナウンスしたのが、ずっと気になっていた。

 チューバがフロントに徹すると、アクロバティックな「綴じ目」が消失して、何というか「フツー」になってしまうのではないか‥‥などと危惧していた私がバカだった。今回、高岡の現在の「地元」(居所かつ勤め先)たる十条に現れた5人組の彼らは、以前とは全く別のイキモノだった。まず馬力が違う。冒頭のローランド・カークの曲で、チューバとトロンボーンががっちり四つに組んだテーマ吹奏の分厚いこと。「ゴジラ、ニューオリンズに現る」だ。ソロでは天井に向けて音が噴き上がり、ベルがこちらを向けば波動砲が飛んでくる。コントラバスはアンプをつないで、ラインを深く彫り刻み、ブローで内側を鋭くえぐる。エレキ・ギターはブラス2本の波間からイルカのように鮮やかに身を躍らせるかと思えば、リズミックなリフを執拗に繰り返し、ここぞとばかりにドラムを煽りまくる。

 ドラムの藤巻鉄郎こそは本日のMIPだろう。客席も、ステージ上の演奏者たちも熱狂の渦に巻き込んだ、スティックを折るほどの底なしの叩きまくりドラム・ソロは、確かに絶賛に値する。しかし、私としてはそれ以上に、高岡や後藤篤のオリジナル曲ではなく、「朝日の当たる家」や「ヘイ、ママ」といった「構造化されていない曲」で、思いっきりフレーズをうねらせ、音を揺すり、サウンドを濁らせて厚みを増し、地響きを立ててのしかかってくる他の面々の「濃い」サウンドに対し、決して隙間を埋めてしまうことなく、切れ味鋭い打撃でくっきりと空間を確保し続けた(「リズムをキープし続けた」ではないことに注意)営為を何よりも高く評価したい。これにより互いの音が風通し良く「交通」する空間が生まれ、この奇跡のアンサンブルが成立し得たといって過言ではない。影のMVP。

 一方、バンマスの高岡は、曲間にトイレに行ったメンバーが戻るまでMCで穴埋めし、「サイコー」を連発して、感極まって叫び踊り出すだけでなく、ステージ上でのリアルタイムのアレンジメントに冴えを見せていた。律儀なまでに順番にソロ回しをするかと思えば、いきなりリズム隊(ギターを含む)だけを放り出して自力で局面を切り開かせ、後藤に耳打ちして2管の短い掛け合いを挿入し、自らのフレージングでテンポの加減速を仕掛ける。

 話を再びフロントの2管に話を戻すが、後藤篤が当日の感想をFacebookに書き込んでいて、「あんな息の量にスピードかけて吹く事はそう無いんだけど、高岡大祐のチューバと2管だと単純にああなるんだよ」と告白している。フレーズでも、音色でも、音量でも、ましてや音程でもなく、息の量とスピード。素早く手が動いて頬を叩き、優しく髪を撫でる‥‥それと同じように熱く火照った息が聴き手の身体に触れてくる。楽器を鳴らすために息を吹き込むのではなく、身体から息が走り出て、息同士ぶつかり合い絡み合い、噴き上がり舞い降りて、押し合いへし合いし、別の息と混じり合う。ここで楽器の管は、演奏者と聴き手を、そしてもちろん演奏者同士を結ぶ「伝声管」にほかならない。

 だが、この日のMVPは、藤巻でも、高岡でも後藤でも、桜井でも瀬尾でも、瀬尾の幼い愛娘でもなく、会場となった十条cinecafe sotoの空間ではないか(Most Valuable Place)。阿佐ヶ谷の倍以上幅のあるゆったりとしたステージと天井の高さ、客席の奥行きとのバランス、エア・ヴォリュームの大きさとアコースティックが、すべて確実にプラスの方向に働き、彼らの特質を引き出していた。客席左手に広がるバー・スペースも、響きが充満・飽和しないために重要な役割を果たしていたと思う。店名通り、フィルムによる映画上映を行うために据えられた35mm用映写機が、ステージ後ろの壁にくりぬかれたガラス張りの開口部の向こうに、守護神のように鎮座していたことも、高岡がMCで何度も語ったように、酒と死に彩られた生、生と音楽に縁取られた死、この一瞬に蘇りとめどもなく噴出する「記憶」をテーマとする彼らにはふさわしかった。最高の環境と舞台装置。屈託なく歓声を挙げ、手拍子をする聴衆も決して内輪ノリではなく良かった。ぜひまた、この場所で演奏してほしいと願っている。

180220シネカフェソト縮小
写真は仲摩武二郎様のFacebookより転載させていただきました。


2018年2月20日(火)
十条cinecafe soto
Dead Man's Liquor
 高岡大祐tuba
 後藤篤tb
 桜井芳樹g
 瀬尾高志b
 藤巻鉄郎ds


【オマケ】
 十条が新宿から埼京線で11分と意外に近いことを知ったのも今回の成果だった。それでも出発が遅れ、高岡がFacebookで紹介していた店で腹ごしらえしようと考えていたのだが、それでは開場時刻に間に合わずオアズケに。でもそれがかえって幸運で、cinecafe sotoのフードのうまさを知ることができた。今回、2ドリンクか1ドリンク・1フード付きとのことで、最初、1フードとしてパイ生地から手作りだというキッシュを注文。ゴロリと大きめの具材のうまさに、調子に乗ってチリコンカンのバターライス添えも追加オーダー。これもうまかった(かなりホット)。鶏唐揚げのポテトサラダ添えにも惹かれたが、さすがに自粛。
 なお、前述のように空間の面白さは特筆モノ。駅前ロータリーからいきなり地下へと降りる階段は後から取り付けたらしく、階段を上がって左手に回り込むトイレへの動線空間があり得ない形状をしている。劇場の舞台裏とかに近い。地下の壁沿いにあった階段(LP置き場になって封鎖されている)も、それ風だった。本当に映画館だったのかもとスタッフに訊いてみると、元は牛乳屋で、地下はその倉庫だったとのこと。だけど牛乳屋の倉庫ってこんなに広いのか。乳牛でも飼ってたのか。まったく訳が分からない。バー・カウンター周りはラウンジ風の仕上げで、手製と思しきピカピカの管球アンプがセッティングされている。ステージの裏側にある映写室を覗くと、フィルム・リールの置台が不思議な形をしていて、レトロ・フューチャーなオブジェみたい。フランソワ・バシェの音響彫刻にも似ている。
十条cinecafe soto(シネカフェ ソト)
東京都北区上十条2-27-12 スズキビルB1
TEL/FAX 03-3905-1566
http://www.cinecafesoto.com/




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ライヴ/イヴェント・レヴュー | 00:15:35 | トラックバック(0) | コメント(0)
補助線の効用―『タダマス28』レヴュー  Additional Lines Are Useful― Review for "TADA-MASU 28"
 前回欠席したため半年ぶりとなった『タダマス28』は、益子による選択・配列と多田の放言が冴え渡る回となった。前半が「ギター特集」で後半が「ピアノ特集」と紹介された、この日のプログラムは、その「分割」を越えて、幾つもの照応の線を縦横に走らせ、聴取の豊かな可能性を明らかにしていたように思う。
 このことを示すため、今回のレヴューでは『タダマス28』で採りあげられた全作品に言及するが、それでも特定の視点/切り口からの紹介であり、「タダマス」の特長であるホストとゲストのやりとりを含めた全貌を示すものとはなっていないことを、あらかじめお断りしておく。


 開幕はMary HalvorsonとMiles Okazakiのツイン・ギターによるMasada曲集『Paimon - Book of Angels Volume 32』(Tzadik)。Masadaとはジョン・ゾーンがオーネット・コールマンのオリジナル・クワルテットのピアノレス編成をあえて引用しながら、徹底的な解体/再構築によりクール・ジャズ化=ジャズの白人化を極限まで推し進め、これによりジャズにオマージュを捧げるという、ジェイムズ・ジョイス的とも言い得るハイ・モダニズムの欲望を露わにしたプロジェクトだった。しかし、ここにはもはやそうした針の振り切り加減はなく、色とりどりの線が互いに速度を競いつつ、表裏が不断に入れ替わり、ねじれながら伸長していく極めて抽象的な世界が開けていた。続くHalvorsonとBrandon Seabrookのツイン・ギターがダブル・トリオ編成に組み込まれたTomas Fujiwara『Triple Double』(Firehouse)では、各演奏者の関係性が縦横に整理されてしまうが故か、演奏の駆動力がいささか欠けるように感じられた。
 

 三枚目、Seabrook の参加したVinnie Sperrazza Appocryphal『Hide Ye Idols』(Loyal Label)でいよいよエンジンが暖まってきた印象。アルト、ギター、ベースが一体に溶け合った持続音が水平にたなびき、時折打ち鳴らされるシンバルの余韻が輝きを放つ。誰とクレジットされていない電子音の細やかなさざ波が空間を遷移し続ける。ここでエレクトロニクスはそれ自体ひとつの音響として鳴り響くだけでなく、他の楽器の響きの一部を採取して、空間の各所に転移/増殖させているように感じられる。順に一次元、二次元と来て、響きの奥行きが三次元的に感じられる本作品の空間性は、だがこの電子回路の作用により、暗闇に仕込まれた幾つもの合わせ鏡のような不可思議な反射/転写ぶりを示しており、虫食い穴だらけの、きっちりと割り切れない余剰の次元を持つように感じられてくるのだった。そのSeabrookのリーダー作『Brandon Seabrook's Needle Driver』(Nefarious Industries)では、三枚目で遍在していた電子の雲はギターのエフェクトへと集約され、弦から迸り出る渦巻きねじれるリフレインから、破片となって改めて四方へと飛び散っていく。これだけを聴いたら「空間系エフェクト使いの巧みさ」とだけとらえられかねない達成が、ここまでの一連の展開により細部まで照明を当てられることになる。だがしかし、益子が「オルタナ・メタル的」と紹介していたように、フランク・ザッパの曲をロバート・フリップが演奏しているような、複雑な構成が眼前で組み変わる「合体ロボ」的快感が魅力なのも確かだ。
 

 対してTodd Neufeldを含むas, tb, gのトリオによる『In Formation Network』(Nuscope)は、全く異なる方向から空間に眼差しを送る。ジョン・ゾーンのプロジェクトNews for Lulu同様、Jimmy Giuffre, Bob Brookmeyer, Jim Hallのトリオに範を得た演奏は、オリジナルの二管が織り成す対位法的な絡みと推移するギターとのリズミックな照応とも、News for Luluの変形自在な速度溢れる流動感覚とも異なる達成を成し遂げていた。それはひとことで言うと、異なる温度の空気が相互に浸透しあうような、気体同士が入り混じる感触だ。ぶつぶつと静かに唾液が泡立つアルトがフレーズをどこまでも引き伸ばし、ゆるみほどけて音自体の重みで落下してしまいそうなところをトロンボーンの持続音が裏打ちし、煙が漂うように支えている。上下に重なり合っていることは明らかながら、輪郭が溶けて曖昧な二管の音色に満たされて深さの見通せない空間の奥の方で、ギターの点滅が奥行きを構成する。演奏が進むにつれ、三者の音はさらに脆く壊れやすさを増しながら、谷へと舞い降りる雲や霧が溶け合うように入り混じる。濃霧に視界が閉ざされる中でもつれ合う息の指先。実はここでプレイされたトロンボーンのヴァーチュオーソSamuel Blaserのペンによる曲「Pieces of Old Sky」は、本作中に2テイク収録されており、比較のために益子もうひとつのテイクの冒頭部分を披露してくれたが、そちらはフィギア・スケートに「トリオ」という種目があったらかくや‥‥と思わせる自在に役割を交替しながらの滑らかな運動性を、オリジナルやNews for Luluと共有するものだった。そちらがtr.2なのに対し、採り上げられた音源が最後のtr.9に置かれていることが、その特異さを示しているように思われる。
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 後半の幕開けはManasonics『Foley』(dStream)。「ピアノ特集」と言いながらBenoit Delbecqのピアノは決して前景化することはない。「映画の音響設計を担当している」と紹介されたNicolas Beckerの手腕なのだろう、シンバルの震え、ピアノの遠い響き、シンセサイザーの不気味な屈折が、粒子の粗いモノクロ画面の中で野外の音や鐘の響き、語られるセリフと対等に混じり合う。実に見事な音響空間の構築ぶりではあるのだが、これならDelbecqがピアノを弾く必要はなく、Steve Stapleton(Nurse with Wounds)にファウンド・テープを渡せば済んでしまうのではないかとも思う。その一方で、一見、器用貧乏風にいろいろ風変わりなことに節操なく手を着けているように見えるかれが「同じことを繰り返しながら深めている」(多田)のも確かなのだが。
 このように曖昧な不透明性を有する本作が後半の冒頭に置かれ、実は続くBorderlands Trio『Asteroidea』(Intakt Records)及びそれ以降への巧みな補助線となっていることに、後から気づかされた。Kris Davisのピアノのプリペアドによりミュートされくぐもった響きと、音高を微妙に揺らし泳がせるベース&ドラムが空間の広大さを際立たせるように希薄に配置される。Nicolas Beckerの仕事ぶりを先に聴いているせいで、録音やミックスがごく普通で、音場としてステージの限定された広がりを浮かび上がらせてしまうがゆえに、もっと遠近の隔離をはじめ入り組んだ空間構築を欲する演奏者の想いが果たせていないのではないか‥‥とどうしても想像してしまうことになる。潜在的な可能性を可視化する見事な配列と言えよう。
 2台のピアノの共演であり、2人の女性ピアニストの「対決」でもあるEve Risser, Kaja Draksler『To Pianos』(Clean Feed Records)から、このトラックだけは他の収録曲と全く違うという「To Pianists」を選んだところにも、同じ耳の眼差しは働いているように思う。e-bowによるのだろうか空間に滲みを拡げる強靭な持続音と、ワニ口クリップ等の素材によるプリペアドを想像させる足元が傾くような低音の揺らぎに、各種内部奏法や筐体各部を鳴らす音響が細かな傷を付けていく。共演/対決が前提としている2台のピアノ、2人のピアニストという輪郭を脱ぎ捨てた、自他未分の曖昧で薄暗い混合領域に向けて、全身の皮膚感覚がそばだてられているのがひしひしと感じられる。カヴァーの絵柄に描かれている2台のピアノから流出するエクトプラズム(?)が混じり合う位相に。グランドピアノの降霊術。
  

 Miya Masaoka, Zeena Parkins, Myra Melford『MZM』(Infrequent Seams)もまた、ピアノを「一人オーケストラ」たる「楽器の王様」の地位から引き摺り下ろし、21弦箏とハープの間に放り込んで、「枠組みに長い弦を何本も張り巡らせた弦打楽器」という自らの生理/出自に目覚めさせる試みととらえたい。弦を直接こする音の応酬となる中でも、箏のゴツゴツとしたマテリアルな輪郭を持つ響き、ハープのエレクトロニクスに変形/溶解された流体的な滑らかさ、プリペアドによりトイ・ピアノを思わせる愛らしく優美な天上的な希薄さを獲得したピアノが、それぞれ浮上と潜行を繰り返し、「奥行きを探る構え」(多田)を見せる。


 本編の締めくくりはエクストラ・トラック的にヴォイスをフューチャーしたJen Shyu『Song of Silver Geese』(Pi Recording)。Mat Maneriのヴィオラが笙の如く鳴り響き、フルートが竹の掠れを帯びて、東アジアの民族楽器を擬態しつつ、呪術的ヴォイスの周囲を取り巻く。しかし、アンサンブルの要はここぞという経絡に正確に鍼を打ち込み、揺らぎ広がる時の流れをピッと引き締めるThomas Morganのベースにほかなるまい。台湾と東ティモールにルーツを持ち、東アジア圏でのフィールドワークで得た素材を活用して、NYで活動する彼女については、その学究的な姿勢は高く評価するものの、「アジア系の出自(しかも女性)を持つが故に、(西欧)世界の中心たるNYにおいて、アジアの文化を特権的に発信し得る」‥‥というポリティカル・コレクトネスを誰にも対抗し得ない「伝家の宝刀」として背負っているように感じられて、黒人文化に関するMatana Roberts同様、どうにも居心地の悪さを感じてしまうことを白状しておこう。



 この日は7年目の締めくくりとあって、2017年のベスト10があわせて発表された。そのラインナップについては益子のページ(※)をご覧いただくとして、選出作品を振り返りながら益子が何度も漏らしていた「長く聴かないとわからない」というつぶやきを書き留めておきたい。これは作品/演奏の価値を示す、聴き取るべきポイントが、ちょっと聴けばわかるようなサウンドの新奇さ、スタイルの斬新さ、新たな演奏技術や語法、アンサンブルの組織や統御のシステムにはもはや存在せず、一定程度の持続に注視し続けて初めて感得し得る領域へ移行していることを示している。そこで進行しているのは、音響の淵に深く身を沈め、空間の隅々にまで感覚を張り巡らせ、しかも時間経路に沿って絶え間なく微積分を繰り返えさなくてはとらえ得ない事態なのだ。30秒あるいは1分の試聴で耳目を惹き付け、すぐにわかるように下線を引かれた特質をさらに経歴や人脈やトレンドにひも付けして、これでもかと貧しく記号化してやまない「音楽ジャーナリズム」と彼らが鋭く一線を画するのは、まさにこうした必然的な相違の結果であって、海外事情通のエリート主義やマニアックなオタク気質の産物ではないことを何度でも確認しておきたい。そしてそれこそが、私にとって「タダマス」に毎回通う理由になっていることを。
※http://gekkasha.jugem.jp/?cid=43767


益子博之×多田雅範=四谷音盤茶会 vol. 28
2018年1月28日(日)
綜合藝術茶房 喫茶茶会記(新宿区大京町2-4 1F)
ホスト:益子博之・多田雅範
ゲスト:加藤一平(ギター奏者)




ライヴ/イヴェント・レヴュー | 19:30:39 | トラックバック(0) | コメント(0)
はるか前方を疾走する自分の見知らぬ背中  Unfamiliar Back of Myself Running Fast Far Ahead
 前回掲載の「タダマス28」の案内記事に対し、ホストのひとりである多田雅範が、自身のブログで素早く鋭いリターンを返してきた。
 http://www.enpitu.ne.jp/usr/bin/day?id=7590&pg=20180125

 冒頭からいきなり、思っても見ない方向から球が飛んでくる。

 タダマス(益子博之+多田雅範)、7年、これだけ性格も耳の特性も女性の好みもチガウ二人が一度も仲違いせずに、耳の経歴も愛聴曲もチガウ二人が、こと現代ジャズに関しては”ほぼ一致した見解に”到達し続けていて、それが世界のメディアやジャーナリズムとほぼ同じ風景となっていることは、「亀戸ホルモンたべてえなあ」「月光茶房いつ行こうか」とだらだらしている不良中年二人のユルさからは想像もできないくらい、すごいことなのではないのか、

 ‥‥って「自慢するのはそこかいっ」と、思わずモニターの前でツッコミを入れてしまい、まんまと多田の術中にはまってしまう。


 打ち合わせで益子さんちで新譜チェックをしていると、ああこの人は音楽の神さまに選ばれているなと思う、畏怖さえ感じることがある、つまりはタダマス四谷音盤茶会とは益子セレクトそのものが批評なのだ、どうやって知ったの、どうしてこの曲なの、これは何の音なの、矢継ぎ早に質問をしてはオレは手にしていない耳の着眼点を探ってゆく、

 ‥‥と多田の書き込みは続く。最後の部分に注目。彼は矢継ぎ早に質問を発する。だがそれは「(彼がまだ)手にしていない耳の着眼点」を探るためであって、聴取の体験を音源に関する情報の束に還元するためでは決してない。ここで質問を発した彼は、答を待つ彼の身体を置き去りにして、発せられた質問を追いかけて疾走しているのだと思う。次々に発せられる質問は、多方向に伸びていくセンサーの触手であり、ここぞという箇所にたどり着いては、深々と探査のためのゾンデを挿し込み、内部のうごめきを聴診する。

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 「集まって聴く、と、音楽は様相を変える、のは、スピーカーや空間特性のせいだけじゃないだろう」(多田雅範)。
  ”それは人目を気にするとか、「同調圧力」などとは異なる。他の者が同じ対象を注視していると肌で感じながら聴くことにより、音の出し手と受け手の1対1幻想が崩れ、対象への自分勝手な自己投影が成立しなくなる。聴取はナルシスティックに自己完結せず、不安定に移ろいながら開かれることとなる(映画館がなぜ今でも館内を暗くし続けているのか考えてみよう)。”(福島恵一)

 ‥‥と私の記述を引用しながら、多田は次のように高らかに宣言する。

 オレの武器は「1対1幻想」に属する比率がべらぼうに高いところ、何たって音楽は人格だからね、その、独りで聴いている感想、が、タダマス会場では一瞬にして消失してしまい、まるで初めて聴いたかのような体験に晒されているような感覚になって、何かを口走っているようなのだ、ワタシはそのワタシを後方から眺めているに過ぎない、ってカンジ、

 ここで「タダマス」の場は、「1対1幻想」という強力極まりない認識・思考の制度を解体・無化してしまう空間として描き出されている。これは通常のレクチャーが暗黙の前提としている「教室型」の空間スキームとは正反対だ。「教室型」では正解はただひとつであり、それは「教師」が隠し持っている。正解の愉悦も、不正解の落胆も、正解にたどり着いたと信じる者たちの交わす親密な目配せも、逆にたどり着けていない者たちがあからさまに共有する床に落とされた視線と丸まった猫背も、この秘匿された正解のもたらす権威の産物にほかならない。
 しかし「タダマス」では、普通なら正解を背中に隠し持っているはずのホストが、「まるで初めて聴いたかのような体験に晒されているような感覚になって、何かを口走って」しまう。そのイタコの口寄せにも似た託宣は、初めて聴く音に触発されて各参加者の脳内に生じた不定形の思考を、さらに励起し解き放つことになる。多数の「1対1幻想」を束ねて、安定した「1対多幻想」のピラミッドを築くのではなく、「1対1幻想」からそれていくクリナーメンの運動を活性化し、錯綜する「雲」をつくりだすこと。

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 「タダマス」での「託宣」について多田はFacebookにこう書き込んでいる。「直前まで思ってもみなかったことを言っているなあと思うことがある」
その時、「直前まで思ってもみなかったことを言っている私」は、「直前まで思ってもみなかったことを言っているなあと思う私」のはるか前方を疾走しているのだ。矢継ぎ早に為される質問の射出速度よりも速く。次の瞬間、はるか遠くに小さく揺れていた見知らぬ背中が突然大きくなり、眼前に迫ったかと思う間もなく私の輪郭と重なり合い、いまここに座っている。益子が次の曲の紹介を始めている。「タダマス」はまだ終わらない。

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ライヴ/イヴェント告知 | 00:11:26 | トラックバック(0) | コメント(0)
タダマスは1月28日に28回目を迎える  " TADA-MASU " will mark the 28th on 28th January.
Iago ; I have looked upon the world for four times seven years. "Othelo"
Alice ; Let me see: four times five is twelve, and four times six is thirteen, and four times seven is–oh dear! I shall never get to twenty at that rate! "Alice in Wonderland"
TADA-MASU ; Yotsuya Tea Party will mark the 28th on 28th January.


 益子博之と多田雅範のナヴィゲートによるNYダウンタウン・シーンの定点観測「四谷音盤茶会(通称「タダマス」)」は、この1月28日に奇しくも28回目を迎える。第7シーズンの完了に伴い、2017年のベスト10が紹介されることだろう。前回は惜しくも参加できなかったのだが、採りあげた作品の充実ぶりが半端なかったとのことなので、今回のベスト10振り返りの中で、その一部を耳にできるのではないかと期待している。

 アルゼンチンの音楽サイト El Intrusoの国際批評家投票(*1)やポルトガルはコインブラに拠点を置くJazz ao Centro Clubeの選出(*2)に納得こそすれ、全然違和感を覚えないのは、Vijay IyerやTyshawn Soreyをはじめ、「タダマス」で聴き慣れた(しかし、なぜか他の日本語記事では眼にすることが少ない)名前がずらりと並んでいるからにほかならない。「世界標準」というと、何やら拝外主義的かつグローバリゼーション礼賛風で恥ずかしいが、視野狭窄/自家中毒に陥らぬよう、押さえるべきは押さえておいて悪いわけがない。しかもそれだけでなく、複数の耳の視点からの議論にさらされればこそ、新たに見えてくるものもある。
「集まって聴く、と、音楽は様相を変える、のは、スピーカーや空間特性のせいだけじゃないだろう」(多田雅範)。
それは人目を気にするとか、「同調圧力」などとは異なる。他の者が同じ対象を注視していると肌で感じながら聴くことにより、音の出し手と受け手の1対1幻想が崩れ、対象への自分勝手な自己投影が成立しなくなる。聴取はナルシスティックに自己完結せず、不安定に移ろいながら開かれることとなる(映画館がなぜ今でも館内を暗くし続けているのか考えてみよう)。
*1 http://elintruso.com/2018/01/05/encuesta-2017-periodistas-internacionales/
*2 https://jazz.pt/artigos/2017/12/26/melhores-de-2017/


 益子による口上を以下に転載する。

今回は、2017年第4 四半期(10~12月)に入手したニューヨーク ダウンタウン~ブルックリンのジャズを中心とした新譜CDと、2017年の年間ベスト10をご紹介します。
ゲストには、ギター奏者の加藤一平さんをお迎えすることになりました。ストレート・アヘッドなジャズからエレクトロニックな即興まで幅広い領域で活躍される加藤さんは、現在のニューヨークを中心としたシーンの動向をどのように聴くのでしょうか。お楽しみに。(益子博之)

タダマス28縮小

益子博之×多田雅範=四谷音盤茶会 vol. 28
2018年1月28日(日) 
open 18:30/start 19:00/end 22:00(予定)
綜合藝術茶房 喫茶茶会記(新宿区大京町2-4 1F)
ホスト:益子博之・多田雅範
ゲスト:加藤一平(ギター奏者)
参加費:¥1,300 (1ドリンク付き)




ライヴ/イヴェント告知 | 22:34:44 | トラックバック(0) | コメント(0)
声の震え、息の歩み ― 池間由布子・高岡大祐ライヴ・レヴュー  Voice Vibration, Steps of Breeath ― Live Review for Yuko Ikema and Daysuke Takaoka
 おかげさまで、また、素晴らしい歌い手と出会うことができた。
 今回初めて共演することになった高岡大祐がFacebookに何度も「素晴らしい」と書くものだから、このところずっと気になっていた。youtubeにアップされているライヴ音源では、いまひとつピンと来なかったのだが、行ってみてよかった。やはり拙い録音ではわからないことがある。それに高岡の演奏が彼女の本質を、潜在能力を含め、思う存分引き出したということもきっとあるだろう。
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高岡大祐のFacebookより転載


 開演時間を間違え、最寄り駅で降りてからは以前に訪れたはずの店の入り口を見つけられずに通り過ぎ、着いた時には第一部が終わりかけていた。暗がりに潜む段差につまずきながら店内に足を踏み入れ、ドアのところに立ち尽くしたまま、音に囚われる。向かって左側に腰かけた高岡はチューバを垂直に構え、リズミックなベース・リフをノンブレスで懸命に吹き鳴らす。間合いや強弱、立ち上がりをきめ細かく操作しながら。そして右側にはやはり腰かけてギターを掻き鳴らしながら歌う池間由布子の声の震え。
 ここで「震え」とはもちろん、音程の揺れやブレスの不安定さを意味するものではない。そうではなく、声の不思議な、かけがえのない魅力/魔力としてある。ひとつには音域による声音の変化であり、声の輪郭の鋭敏な移り変わり―場面によりくっきりと像を結ぶかと思えば、中空に溶けてしまいそうになる―であり、さらには倍音成分の響きの豊かさとそのあえかな揺らぎである。そうした特徴が最もわかりやすいのは、ゆったりとした曲調で声を引き伸ばした部分だろう。高岡もまた息を長く保ち、水平にうっすらたなびくように線を引いて、柔らかく滲んだ声のホリゾントをつくる。池間の声は子音のエッジを感じさせることなく、すっと力みなく、だが速度感を感じさせないほどの素早さで立ち上がり、チューバの音と並行に声の指先をどこまでも伸ばしていく。声を張るのではなく、外に向けて響かせるのでもない独自の仕方で。それは言わば内側に負荷をかけて声を内に引き込み、体幹で声を吊り支える感覚だ。声は、言葉は、そこにありながら、彼女の内部にぽっかりと空いた暗く深い淵に飲み込まれていくように感じられる。
 だが、こうした注目すべき達成も、この日の彼女にとっては、まだまだ暖機運転に過ぎなかったと、すぐに知ることになる。

 短い休憩を挿んで第二部が始まる。池間は立ったままギターを構えている。後半は立って演るんですかと高岡。いや、ちょっと離れてみた方がわかることもあるかと思って‥と池間。その後、二人のユーモラスなやりとりが続き、リハーサルにはなかった曲(「雨はやんだ」)をいきなり歌えと、高岡が無茶ぶりされる場面となるのだが、そうした打ち解けた親しみやすさと何が起こるかわからない「野生の空間」のあり方以上に、ここではアコースティック・ギターの弦を強く弾(はじ)く池間の身体の運動に注目したい。リズミックにビートを刻む一律な縦ノリでは決してない、空中に身体を浮かせ揺らがすような動き。それが「めっちゃくちゃ難しい」と高岡の言うメロディの不可思議な動きと、歩調をゆるめ、立ち止まって語りになったかと思うと、急にスキップを始める天衣無縫な声の歩み、さらに高岡の演奏と自在に呼応しながら、即興的に声を散らばせて、空間のあちこちに貼り付けていく運動神経は、すべてこの身体の揺れ動きから分泌されているようだ。そして、先に見た彼女の特異な声のあり方も、ここではもはや声の身体各部のバラバラな諸特徴としてあるのではなく、「歌を歌う」という運動のうちに余すところなくすべて奉仕し、その中で息づき輝くものとなっている。見事なものだ。
 高岡もまた、そうした彼女の変容に突き動かされ、実に見事な共演をした。舌を巻くソロを取ることよりも、鮮やかに彼女の声の本質を引き出す仕方で。しばしチューバを置いて、歯笛(口笛ではなく)で伴奏した場面では、口笛の鋭さの代わりに歯に砕かれて輪郭を滲ませ、豊かな倍音を揺るがせる歯笛の震える音色に、池間の声の秘密を「ほら」といきなり指し示された気がして驚かされた(実際、高域を長く保つ部分の感触など驚くほどに通っている)。また、持続音をゆったりとくゆらせる箇所では、空の色が刻々と変わるように音色を移し、ここぞと言う場面で音量をすっと絞り、池間の声をひとり立たせて、その声の勁さをまざまざと明らかにしてみせる。と同時に、ことさらに構えることのない、一見何気ない歌詞に描き出された、日常のありふれた点景に潜む、ぞくっと手足を痺れさせる深い闇を覗き込ませる。「その踏切を渡ってはいけない。その踏切の音だけは聴いてはいけない。」
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高岡大祐のFacebookより転載


 高岡が激賞する歌い手として、もうひとり華村灰太郎がいる。高岡の新バンドDead Man's Liquorを聴きに行った際に、彼らに先立って灰太郎と福島ピート幹夫のデュオを体験することができた。ギター弾き語りとアルト・サックスのデュオと言うと、かつて目撃した三上寛とジョン・ゾーンの邂逅がいまだに衝撃として自分の中に鳴り響いていて、どうしようもなくそれと比べてしまうのだが(これがとんでもなく高いハードルであることはご理解いただけよう)、彼らは決してそれにひけを取らなかった。
 剥き出しでガツンと来る声の生な手触りが、叩きつけるギター・カッティングと衝突して弾け飛び、アルト・サックスがノンブレスで絶え間なく放出し続ける呼子にも似た甲高いノイズと、千々に入り乱れる。ノイジーに散乱しても互いに音の輪郭は揺らぐことなく、それゆえ「溶け合う」のではなく、撹拌された水と油のように「混じり合う」のだ。歌詞やメロディ、あるいはフレーズをなぞるのではなく、声/息が走り抜け彫り刻む溝が、そのまま線となり伸びていく。溢れ出る声、振り絞る息の軌跡として。
 二人とも演奏開始直後は調子が出ず、共演のピントも合わず、途中、ようやく「温まった」感がしてから、俄然ヴォルテージが上がったのが面白い。高岡の評価する歌い手はみんな暖機運転を必要とするのだろうか(笑)。

 今回は池間と高岡の初共演に捧げたレヴューである。灰太郎と福島のデュオに続いて披露されたDeadman's Liquorの素晴らしかった演奏について語るのはまた次回としたい。また、当の池間と高岡のライヴの模様についても、最初の聴き逃した部分について触れようもないのは当然のこととして、それだけでなく聴いた部分についても、あえて二人の間の、あるいは客席との微笑ましい交感等には触れておらず、むしろ視野とフォーカスは鋭く絞り込んでいる。決して全容を伝えるものではないことを改めてお断りしておきたい。


2018年1月12日(金)
祖師ヶ谷大蔵 Cafe MURIUWI(カフェ ムリウイ)
池間由布子(歌、ギター)、高岡大祐(チューバ)

2017年10月31日(火)
阿佐ヶ谷Soul玉Tokyo
華村灰太郎(歌、ギター)、福島ピート幹夫(アルト・サックス)


なお、近々、関連ライヴの予定があるので情報を記載しておく。

2018年1月16日(火)
八丁堀 Sound & Bar HOWL
東京湾ホエールズ(池間由布子, 纐纈雅代, 高岡大祐)

2018年1月21日(日)
阿佐ヶ谷Soul玉Tokyo
華村灰太郎カルテット(華村灰太郎、今福知己、高岡大祐、つの犬)





ライヴ/イヴェント・レヴュー | 17:38:33 | トラックバック(0) | コメント(0)
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