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福島恵一

Author:福島恵一
プログレを振り出しにフリー・ミュージック、現代音楽、トラッド、古楽、民族音楽など辺境を探求。「アヴァン・ミュージック・ガイド」、「プログレのパースペクティヴ」、「200CDプログレッシヴ・ロック」、「捧げる-灰野敬二の世界」等に執筆。2010年3~6月に音盤レクチャー「耳の枠はずし」(5回)を開催。2014年11月から津田貴司、歸山幸輔とリスニング・イヴェント『松籟夜話』を開催中。

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声の肉の重さ ― NHK『SONGSスペシャル』 井上陽水×玉置浩二 レヴュー    The Flesh of Voice ― Review for NHK "SONGS Special" Yosui Inoue & Koji Tamaki
 いろいろとレヴューしなくてはいけないことがたまっているのだけど、昨日(2017年11月10日)のNHK『SONGSスペシャル』について、少し書き留めておくことにしたい。

縮小陽水玉置1


 この日は井上陽水と玉置浩二/安全地帯の特集。二人が共作した「夏の終わりのハーモニー」を31年ぶりにデュエットするのが目玉だった。
 フィナーレを飾った二人の共演では、やはり井上陽水の声のしなやかな強靭さに打たれた。玉置の声がハスキーなエッジをたたえながらも、平面的に広がってしまうのに対し、陽水の声は筆先の自在な動きとして、薄墨の一様な広がりの上に墨跡くっきりと浮かび上がり、鮮やかに弧を描き、なだらかにはらい、くっと跳ねる。後半、玉置が声を絞り、面を線に、言わばトランポリンをスラックラインに替えることで、二人の声を絡ませていたが、確かにこれでは、誰も陽水とデュエットなどしたがらないだろうと思わせた。

 無論、玉置は決して下手な歌い手などではない。魔法学院の校長みたいな白髪には驚いたが、声は力強く張りがあり、音程も正確で、息を長く保つことができる。日本のポップ・ミュージックの歌手としては最上級の部類だろう。だが、それでも陽水は別格だと感じずにはいられなかった。この日の放送では、本来、玉置浩二/安全地帯の持ち歌である「ワインレッドの心」を、作詞を担当した陽水に玉置が三度もダメ出しして書き直させた‥‥というエピソードが紹介された後、陽水が歌ってみせた。
 彼の声は、軟体動物のようにぬめぬめと這い回り、後ずさって、定型ビートの格子の隙間からだらりと垂れ落ちそうになる。拍に合わせて膝を叩いていると、後ろにもたれかかり、のしかかってくる声のだらんと弛緩した死体のような重さに、思わず指先の動きが止まってしまう。かつて高橋悠治のピアノやコンピュータの音の運びに似た感覚を覚え、まるで駅で見かけた彼の歩く姿のようだ‥‥と感じたことをふと思い出す。すっすっと等速で歩む身体各部のしかるべき推移から、一瞬ごとに踏み外し、滑り落ちる動き。しかしそこには、こうして拍を刻む指先にのしかかる肉の重さはなかった。
 と言って、決してブラック・ミュージック風のシンコペーションではない。声の発せられる立ち上がりの瞬間が遅延されているのではなく、すでにある声の重心が後ろにずらされているのだ。これはむしろアジア的な歌唱なのではないかと思う。たとえば、李香蘭(山口淑子)による「蘇州夜曲」の歌唱(*1)を参照していただきたい。よく彼女と並び称される渡辺はま子による歌唱(*2)をはじめ、多くの有名歌手が同曲をカヴァーしているが(*3)、少なくともこの声の運びについては、とても比べ物にならない。そうした中ではアン・サリーによる歌唱(*64が、その抑揚の精妙さで群を抜いているが、やはりシンコペーション的な遅延がベースになっており、声の重心のずらし、体幹の後ずさりが主ではない。
*1 https://www.youtube.com/watch?v=w0ht7Wkkc3s
*2 https://www.youtube.com/watch?v=x5KVEP_bFDo
*3 https://www.youtube.com/watch?v=Cyk6-fdtZ9c
   https://www.youtube.com/watch?v=bjhitYa0EEY
   https://www.youtube.com/watch?v=2omcKliTja4
   https://www.youtube.com/watch?v=j7hlz42HOXI
   https://www.youtube.com/watch?v=zi7Ixt4_7D0
   https://www.youtube.com/watch?v=auR5WhLe9w0
   https://www.youtube.com/watch?v=aStz4abVMUQ
*4 https://www.youtube.com/watch?v=b5nv_RdyR_Q

 こうした遅れ/後ずさりの感覚は、声を口腔内に滞留させ、口元を離れる瞬間を限りなく引き延ばし、その間も微細な加工を施し続ける発声の仕方と不可分のものである。
 以前にこのブログでベケット『しあわせな日々』のARICAによる公演をレヴューした際(*5)に、「声持ちのよさ」という視点を導入した。その部分を以下に引用する。

 何より前作「ネエアンタ」では役柄上、あまり聴くことのできなかった安藤朋子の声をずっと聴き続けることができたのが、私にとって大きな喜びだった。深い喫水を保って重い水をゆっくりと押していく息の安定した土台(これは優れた歌い手/声の使い手の必須条件にほかならない)に基づいて、しなやかに伸びやかに遊ぶ声。弾むようなしっとりとした甘さを常にたたえながら、声は喉から流れ出るだけでなく、舌先や唇で放たれる最後の一瞬までこねられ、編まれ、操られる。優れた投手の条件として「球持ちがよい」こと、すなわちボールをできるだけ長く持っていられること、能う限り打者の近くで放すことがよく挙げられる。その点、彼女は実に「声持ちのよい」投手と言わねばならない。
*5 http://miminowakuhazushi.blog.fc2.com/blog-entry-280.html

 実はここで安藤朋子に適用している「声持ちのよい」声の使い手には「原型」がある。それこそが井上陽水にほかならない。以前にこのブログで、陽水の声についてレヴューした箇所(*6)を以下に引用しよう。

 何より井上陽水自身がそうした言葉の極めて優れた遣い手/実践者にほかならない。彼が当代随一の歌い手であるのは、決して美声の持ち主であるからだけではない。
 冒頭に述べたように、彼はサウンド/演奏により曲を歌い変えていく。それは単にテンポやキーを変更したり、シンコペーションを効かせたりするといったレヴェルではない。彼はサウンド/演奏の起伏や肌理を触知し、自在に言葉のタイミングを操る。それも語よりもさらにミクロな単位で。それが先ほど「魔法」として描写した仕方である。エヴァン・パーカーが循環呼吸とマルチフォニックスを操るのと同様に、陽水も口腔の筋肉や粘膜を総動員して(彼ほど忙しく頬を膨らませたりひしゃげさせたり、あるいは長過ぎる舌を掻き回す歌い手はいない)、声を砕き、息を切り分けて細分化し、母音の変容を、子音の立ち上がりを、音素と強弱の配分をコントロールする。その場で即興的に。
(中略)
 むしろ声の楽器的な用法と言うべき(無論それだけにとどまるものではないことは強調しておかなければならないが)ヴォイス・インプロヴィゼーションを別にすれば、即興的な歌い手としてすぐに浮かぶのは、先頃死去したLou Reedだろうか。「この男には、歌詞を何も用意せずにステージに上るや、その場で歌詞を作りながら、幾らでも歌ってみせるという、天性のソングライターとでも言うべき才能が備わっていたのだ」(大里俊晴)。だが陽水の行っていることは、サウンドの斜面を声により自在に滑走することではない。彼は歌うたびに、曲を詩を改めて書き直しているのだ。先に見たような量子化されたミクロな領域で。それにより光の射し込む隙間の位置や幅が変わり、入射角が異なって、反射や拡散が違うものとなり、全く別の世界が立ち現れる。だからこそコメントの対象となるべきテクストは先に確定している必要がある。コメントを書き入れるべき余白を空け、文脈の紐帯を緩め、語の意味合いを多義的に散種させて。その時、彼の作品世界は、姿の見えないリンゴ売りとテレビが放射するあり得ない色彩、断頭台の隣で催される「指切り」の儀式と身動きできず舞台でもがくコメディアンが、触覚だけでなく、視覚/聴覚/味覚/嗅覚/体性感覚、いや思考や想起や妄想等、様々な質の「寒さ」の中ですれ違うカーニヴァル/メニッペア的な多次元空間となる。これを批評と言わずして何と言おう。
*6 http://miminowakuhazushi.blog.fc2.com/blog-entry-268.html

 一見ソフト&マイルドでふわふわとした歌唱に、恐ろしいまでの衝撃と破壊力を秘めたこの一曲だけで、もう充分なくらいだが、陽水はさらにパンキッシュな「Just Fit」と感慨深い「最後のニュース」を聴かせてくれた。
後者では、もともと歌詞の優れた報道写真のような鋭い現実の切り取り方が印象的だが、言葉の字余り的な長さを勢いで押し流さず、かと言って持て余すことなく声にして、繰り返されるフレーズの枠組みに収めていく歌唱は、そこに織り込まれた様々な視点‥‥逆説をもてあそぶ皮肉屋だったり、天真爛漫な無垢が残酷を招いたり、破滅の兆候を鋭敏に感知する預言者だったり、ナイフのように鋭く人を傷つける告発だったり、相手に気づかれることなく遠くからその姿を写しとる望遠レンズだったり‥‥を、スライド・ショーのように入れ代わり立ち代わり浮かび上がらせていく。
 アナグラムにも似た言葉の組み換えが、「意味」に揺さぶりをかけることにより、状況喚起力を強める「最後のニュース」に対し、「Just Fit」の意味を徹底的にすり減らし、ペラペラの記号と化していく陳腐極まりないフレーズの集合は、口中から勢いよく射出され、次々に着弾し、破裂する声にとってのカタパルトでしかないのだろう。この日はいつものロック・バンド編成による演奏ではなく、あえてアコースティック・ギター3本(陽水自身を含む)のバッキングが選ばれていた。これにより、ベースとドラムのビートの肥大した音圧に押し立てられるように見える声が、実はビートの網目を自在にくぐり抜ける速度を有していることが明らかにされた。叩きつけるような明瞭さを持ちながら、字幕なしには理解不能なほどひしゃげた発音は、獲物を見つけ翼をたたんで急降下する鷹の軌跡を思わせた。鋭くリズムを刻みながら、ふと乱れもつれていくギターのアンサンブルも、また見事だった。

縮小陽水玉置2

2017年11月10日(金) 22:00~
NHK『SONGSスペシャル』 井上陽水×玉置浩二
https://www.dailymotion.com/video/x68spu1
https://www.youtube.com/watch?v=eWW5-eoRZag

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映画・TV | 23:44:25 | トラックバック(0) | コメント(0)
青山学院大学のデレク・ベイリー、ミッシェル・ドネダ、フランシスコ・ロペス ― 「環境芸術論」ゲスト講義リポート  Derek Bailey, Michel Doneda, Francisco Lopez Disk Playback in Aoyama Gakuin University ― Report of Guest Speaker Lecture for "Environmental Aesthetics"
 鳥越けい子先生に招かれ、11月2日(木)、青山学院大学で、津田貴司と共に「環境芸術論」のゲスト講師を務めた。貴重な機会となったので、そのことについて書いておきたい。

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1.授業と教室の見学【10月19日 本番2週間前】
 『松籟夜話』に何度か(時にはゼミの学生たちと共に)参加された鳥越先生からゲスト講師の依頼をいただき、「環境芸術論」のふだんの授業の様子と会場となる教室を見学した。機器のトラブルで開始が遅れたのだが、鳥越先生がすでに教壇上にいらっしゃるのに、学生たちの私語がすごいのに驚いた。休み時間よりうるさいぐらい。「授業はまだ始まっていない」と割り切っているのだろう。先が思いやられたが、実際に授業が始まってみると、学生たちはうるさく私語をすることもなく、おとなしく講義を聞いていた。だが、やはり随分と「受け身」だと感じた。遠巻きに眺めている感じがするのは、ものの見事に教室の中央前列が空席になっているせいばかりではなかろう。
時折シャッター音がするので不思議に思っていると、パワーポイントによりスクリーンに映し出されている資料映像を、スマホで撮影している学生が何人かいるのに驚いた。知り合いの教授から「こっちが一生懸命に板書しているのをノートも取らずに聞いていて、最後にパシャッと撮影されると、本当にがっかりする」と愚痴をこぼされたことを思い出した。ここで講義内容は、その場での音源再生等を含んでいるにもかかわらず、いくらでもコピペ可能な単なる情報とみなされているようだ。
 もうひとつ課題として浮かび上がったのが教室の再生音響だった。150人ほど入る横長の教室で、前方の二つの隅にスピーカーが設置されているため、中央ではどうしても「中抜け」になり、右側や左側では片チャンネルだけの音を聴くことになってしまう。これでは音場感や空間の広がりがわかりにくい。



2.方向性の検討
 見学の後、津田と授業の内容や進め方について打ち合わせると、彼もスマホ撮影に驚いていた。これをきっかけとして、「情報ではなく、体験の機会を提供する」のを目指すこととした。ある意味『松籟夜話』と共通しているが、時間も短く、「聴く」ことに慣れていない学生に対し、「音をして語らしめる」だけではどうしても限界がある。そこで、何回かメールをやりとりして、次のように方向性を整理した。

(1)音楽が始まると静かになるので、何よりも先に開始の合図として曲をかける。1~2分くらいして、「何コレ?」と食いついてきたところで、パッと切って、すぐに始める。
(2)パワーポイントで提示するのは補足的な情報を中心とし、スライドの事項を読み上げることは基本的にはしない。たとえば、フリー・インプロヴィゼーションやデレク・ベイリーの話をする時、話の中では一般的な説明はせず、それらはパワーポイントで「注」として映し出し、パッパッと切り替える。
(3)レジュメやパワーポイントのプリントアウトは配布しない。体系的な知識の伝達ではなく、ふだんはしていない「体験」をすることが眼目であることを、冒頭に説明する。
(4)上記(2)に加え、音源再生中に、パワーポイントで聴き方をナヴィゲートする情報や関連図像等を映し出す。これにより「音をして語らしめる」ことに耳が届きやすいようにするとともに、情報量をさらに増やす。受動的な姿勢の学生に対し、情報のシャワーを浴びせることにより、強制的に「体験」を喚起する。
(5)上記(4)の通りナヴィゲートを行うことを前提として、音源はふだん聴いていない、初めて接するようなものとする。これにより「音楽の聴き方」に対する固定観念や身に着けた構えを無効化/武装解除し、そこで生じている出来事といきなり出くわさざるを得ないよう事態をセットする。
(6)音源は(5)の要件を満たし、かつ「音響」「環境」と直接触れ合えるものとして、まずフリー・インプロヴィゼーションとフィールドレコーディングを聴いてもらう。続いて、これらにより形成された新たな耳で、民族音楽やポップ・ミュージックを聴いてもらう。
(7)講師を二人で担当することを活かし、福島の講義を津田が途中からパフォーマンスにより攪乱する展開とする。また、プログラム中で津田自身の作品を採りあげ、福島による批評的言及とアーティスト津田による自作自解を共存/交錯させる。
(8)再生環境のため、音場感、空間の感触、背景音等が聴き取りにくい。何か改善の方策を考える。

 再生環境については、津田が小型のギター・アンプとCDプレーヤーを持ってきてくれることになった。当日の事前リハーサルで音出ししてみると、音量的にも充分で、サービス・エリアも均質になるだけでなく、ちょうど昔、街頭テレビをみんなで取り囲んで観たように、小さな音源に皆が集中することが生み出す効果も期待された。

 「音源再生中に、パワーポイントで聴き方をナヴィゲートする情報や関連図像等を映し出す」というのは、Francisco Lopezのワークショップに参加した際に、プレゼンテーションで用いた方法だ。発表の時間が10分間しかない中で、音源をかける時間を確保するため、音源をかけながら、説明を声ではなく、文字等で伝えるやり方を考え付いたのだった。その後もイヴェント『Study of Sonic』で金子智太郎と共同レクチャーを行った時にも使用した。だが、前述のようにワークショップでは10分だけだったし、共同レクチャーでも一部で用いただけで、今回のように全編に渡り何度も用いるのは初めてだった。このことに関し試行錯誤したのと「情報のシャワー」の水量を衝撃的に増やそうと欲張ったため、何とパワーポイント資料が本番直前になっても完成せず、最後の2作品についてはジャケット写真を表示できない‥‥という失態を犯してしまうこととなる。学生さんたちにはご迷惑を、鳥越先生と津田にはご心配をおかけしまして、申し訳ありませんでした。

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3.当日 第1部
 左右のスクリーンには「聴くことを深めるために」というタイトルが映し出されている。教壇上には教卓の上にMac Bookを開いた福島だけ。その脇で鳥越先生が本日の広義の位置づけを手短に説明される。講師紹介にすぐには応えず、CDプレーヤーのプレイボタンを押す。Tomoko Sauvage『Ombrophilia』tr.1が始まり、空気が震え揺らぐ様が、水の中の寒天のように眼前に浮かぶ。かつて音盤レクチャー『耳の枠はずし』第1回で開演合図のチャイム代わり(?)にかけ、紹介したところ、その日のうちにFtarriの在庫が売り切れてしまった思い出深い音源。不意討ちを食らった学生たちがポカンと口を開く中、1分ほど経過したところで再生を停止し、「本日のゲスト講師を務める音楽批評の福島です」といきなり話し出す。スクリーンは私のプロフィール紹介に切り替わっている。
自己紹介を簡単に済ませた後、本日の講義の狙いが、いつもとは違う聴き方の体験、耳のストレッチであることを告げる。そのため、ふだん聴いていない耳慣れない音源として、フリー・インプロヴィゼーションとフィールドレコーディングを用いること。ただし、これらの音楽を紹介するために聴いてもらうのではないこと。パワーポイントは補足的な情報をシャワーのようにどんどん流すので、撮影しても役立たないこと。音源をかけている間に、聴き方に関するナヴィゲーションが画面に表示されること。指示や命令ではないので必ずしも従う必要はないが、念頭に置いてもらった方が「足がかり」ならぬ「耳がかり」にはなること。音量はいまかけたくらいなので、聴きにくければ今のうちに席を移ること。とても小さな音になる場合もあるので、私語はせず、居眠りする人もイビキはかかないようにして、静かに聴いてほしいこと‥‥等を早足で説明する。最後の注意は津田の登場に向けたお膳立てである。その間にも、デレク・ベイリー、フリー・インプロヴィゼーション、フィールドレコーディング等に関する説明がスクリーンに映し出されては、すぐに切り替えられていく。

  「それでは次の音源を聴いていただきます」とプレイボタンを押す。不定形に歪んだ音のかけらが、様々な方向から脈絡なく現れては消えていく。スクリーンに映し出されたナヴィゲーションは次の通り。

何が聴こえますか?
    ↓
メロディは聴こえますか?
リズムは聴こえますか?
ハーモニーは聴こえますか?
    ↓
メロディも、リズムも・ハーモニーも聴き取れないとしたら
いったい、あなたは、いま何を聴いているのでしょうか?
    ↓
これは音楽でしょうか?
これは演奏でしょうか?
    ↓
現在お聴きいただいている音源
Derek Bailey『Solo Guitar volume 1』

 この音源については、以下のURLで試聴できる。授業では2分程度のtr.1をかけた。
 https://www.youtube.com/watch?v=2RyMUqjVRE8

 学生たちの頭上に「?」が浮かぶのが眼に見えるようだった。ベイリーの演奏をご存知の方はすぐに気づかれたと思うが、ここでナヴィゲーションは「理解への到達」よりも「当惑の維持」を目指して構成されている。「ああ、ノイズね」とか「前衛ぽいヤツ」とありきたりのレッテルを貼られて「枠外」に片付けられてしまわないように。
 それゆえオープン・クエスチョンで始め、耳の眼差しをそらさせないよう、あえて「そこには無いもの」を探すタスクを与え、宙吊りの当惑状況を対象化し、さらに「脈絡のない音を聴いている」といった回答を迂回するために、これは音楽/演奏なのか‥‥と問いかける。

 続けて間髪を入れず、ノン・イデイオマティック・インプロヴィゼーションの説明を始める。スクリーンには次の解説が映し出されている。

従来の即興演奏では、ジャズならジャズの、インド音楽ならインド音楽のイディオムがあらかじめ存在し、そのイディオムを巧みに用いることで即興演奏が展開されるとともに、ジャンルの特徴を強く帯びることになる。これはある閉域をつくりだすことにほかならない。
これに対してフリー・インプロヴィゼーションの演奏は、そうしたイディオムを排することにより、開かれた即興演奏を、いやむしろ、演奏を不断に開き続けることを目指す。
そこでは音が連ねられる際に必然的に生じるフレーズ=イディオムの生成に対し、至るところ、あらゆる瞬間に「切断」を仕掛けることが必要となる。すなわち演奏は、出来上がりかけるイディオムを常に切り崩しながら進められることになる。

 もとより、言葉で理解してもらうことなど求めていない。「閉域」、「不断に開き続ける」、「切断」、「切り崩す」といった語の響きや、それらの語が生じさせる「力」のイメージが幾分かでも伝われば、それでよい。
 続いて、Derek Bailey『Pieces for Guitar』tr.1を最初の1分ほどだけかける。
 試聴:https://www.amazon.co.jp/dp/B01N2YW8QU/ref=dm_ws_tlw_trk1

 先の『Solo Guitar volume 1』(1971年録音)の5年ほど前の録音で、この頃、ベイリーはアントン・ヴェーベルンの音楽に魅せられ、それをインプロヴィゼーションに反映させようとしていたことを説明する。どこにもたどり着かない、漂うようなそぞろ歩きは、音列から踏み出そうとして踏み出せない(踏み外せない)もどかしさと共にある。ここには先ほどのようなきっぱりとした切断がないことを指摘し、ヤニス・クセナキスと高橋悠治の問答に触れる。

二つの音をつづけてひいて、それがメロディにきこえないようにする。どうしたらいいか。
    ↓
そのこたえ。二つ目の音の強さをわずかに変え、はじまる時間をわずかにずらし、前の音との間を気づかないほど区切る。それだけのことで、二つの音は一本の線ではなく、別々の線が偶然であったようにしかきこえない。

 続いてヴァルター・ベンヤミンによる「星座(Konstellation)」について説明する。

古来から、人は星空に星々がかたどる特定のかたちを見出し、それを「星座」ととらえていた。
しかし、星座を構成する一つひとつの恒星は、それぞれ異なる距離に位置するため、そのような「星座のかたち」が浮かび上がるのは、特定の方向から見た時だけである。
裏返せば、事態をある面で切断することにより、その断面に見かけとは異なる「星座」を浮かび上がらせることができる。また、視点を移動させることによって、「星座」を構成する結びつきを解体することが可能となる。

 視覚イメージを添えたのは、その方が直感的にとらえられるだろうと考えたからだ。すでにお気づきのように、問答と「星座」は表裏一体の「寓話」となっている。ブログ『耳の枠はずし』で大上流一の演奏を「ポスト・ベイリーの地平」に位置付けた時の次の説明は、ここで指し示しているのと同じ原理である。
 「イディオムによる閉域を生み出すことのないノン・イディオマティックなインプロヴィゼーションを掲げ、複数の音を結びつける線(それこそがメロディ、リズム、ハーモニーを仮構する)を、多方向から交錯/散乱する音響のつくりだす束の間のコンステレーション(星座)へとさらさらと崩し去っていくデレク・ベイリーDerek Baileyの演奏。」
http://miminowakuhazushi.blog.fc2.com/blog-entry-438.html

 ここで改めてDerek Bailey『Solo Guitar volume 1』tr.1をかける。同じ音源を説明なしとありで2回聴くことにより、違いを感じてもらうことを目指している。スクリーンに映し出すナヴィゲーションも前回とは変えている。

今度は何が聴こえますか?
    ↓
耳の視界の縁をかすめて飛び去っていく音
響かずそこに立ち尽くす音
右から左へ、奥から手前へ、三次元的に眼前を過る音
これらを捕らえ、「星座」を浮かび上がらせてください
    ↓
視覚モデルとしての原子崩壊の軌跡

 終了後、振り返らずに先へ進む。音をあらかじめ根拠づけられたものとしてではなく、散乱する音響のかけらとしてとらえ、その中に自ら「星座」を浮かび上がらせる聴取が、同時に演奏の「台紙」である沈黙のうちに、環境音や暗騒音を浮かび上がらせずにはいないことを指摘し、ジョン・ケージの「沈黙」に言及する。スクリーンには次の説明を表示している。

音を演奏者の意図の「乗り物」ではなく、散乱する音響のかけらと捉え、注視するならば、ふだんから我々の周囲にあり、いつもは樹にも留めない環境音や輪郭のはっきりしない暗騒音が浮かび上がってくる。
本のページを拡大鏡で眺め、インクの滲みや、紙の毛羽立ち、もとからある微かな傷が眼前に浮かび上がってくるように。音を聴くための「台紙」となる沈黙は、決して真っ白でつるつるした平面ではない。
1951年に「完全な沈黙」を体験しようと無響室に入ったジョン・ケージの耳に聴こえてきたのは、自分の血流の音と神経系統が立てる音だった。彼は人が生きている限り「完全な沈黙」などあり得ないことを知り、沈黙を「意図的な音のない状態」と定義し直す。それこそは環境音や暗騒音が波打ち、渦巻く世界にほかならない。

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4.当日 第2部
 説明している間に、教室の後ろの方から、潮騒にも似た響きが漂い始める。授業の開始時点から、教室の隅の席に何食わぬ顔をして座っていた津田が、小型のトランジスタ・ラジオで局間ノイズを流しながら、教室を徘徊しているのだ。ノイズはヴォリュームの操作、ラジオの向きの変化、スピーカー面を身体に押し当てる等により様々に変化し、「演奏」され、言葉とすれ違い、衝突して、柔らかく紗をかけ、また、浮かび上がらせる。

 それに気づかぬふりをして、次の音源を、やはりそれが何であるか明かさずにかける。スクリーンには次のナヴィゲーションが順に映し出される。

何が聴こえますか?
    ↓
周囲の音を無視して、ギターの音だけを聴かないでください。
足元を洗う交通騒音を通して、それと共にギターの音を聴くようにしてください。
    ↓
ここで音源をスキップします。
    ↓
何が聴こえますか?
    ↓
響きから壁の位置や天井の高さを感じてください。
何やら足音や人の動き回る気配がします。ダンサーと共演しているのです。
雨の音が強くなってきました。
    ↓
ここで音源をスキップします。
    ↓
何が聴こえますか?
    ↓
屋根を叩く激しい雨の音のせいで、ほとんど何も聴こえません。
雨音の向こうにギターを探すのではなく、時折漏れ聴こえる何かの音が、空間の響きを際立たせる様を聴いてください。
    ↓
いま聴いていただいた音源
Derek Bailey with Min Tanaka『Music and Dance』

 田中珉と舞踏についてわずかに触れた後、次の音源を、やはりそれが何か明かさずにかける。スクリーンには次のナヴィゲーションが順に映し出される。津田のパフォーマンスは続いていて、巻貝に水を入れてコポコポ鳴らしたり、水で満たしたガラス瓶を揺らしたり叩いたりする音が微かに聴こえる。

何が聴こえますか?
    ↓
がさがさと葉が擦れる音、ぽきぽきと小枝が折れる音がします。
ソプラノ・サックスやパーカッションが野山に分け入り、土壌から生い茂るように生成する様を聴いてください。
    ↓
実は録音技師もマイクロフォンを担いで、彼らの後をついていっています。
録音技師の耳の眼差しの移動や揺らぎを聴いてください。
    ↓
ここで音源をスキップします。
    ↓
何が聴こえますか?
    ↓
演奏者は先に進み、録音技師は後に残って、楽器の音のしない、環境音だけの音風景が立ち上がる。
だが、それは決して無音の光景だったり、空っぽな世界だったりはしない。弛むことのない自然の生成がそこでは繰り広げられている。
    ↓
いま聴いていただいた音源
Laurent Sassi, Michel Doneda, Marc Pichelin, Le Quan Ninh『Matagne Noire』

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5.当日 第3部
 音源再生が終わった時には、すでに教室を巡り終えた津田が教壇の上に立っている。「本日のもう一人のゲスト講師、津田貴司です」と私が紹介し、津田が自己紹介を始める。
津田の解説で彼の作品『Lost and Found』からtr.11を聴く。靴音の響く空間にスティール・パンが柔らかくかぶり、遠くで教会の鐘が鳴り響く。1分ほどのごく短いトラック。スイスで演奏した際に、地下鉄構内でのバスキング(街頭演奏)に惹かれ、録音したもののうまく行かなかったので、自身の多重録音によりつくりあげたのだという。続いて、また何かを明かさずに音源をかける。スクリーンには次のナヴィゲーションを順に映し出す。

何が聴こえますか?
    ↓
これはコスタリカに広がる熱帯雨林のフィールドレコーディングです。
隙間なく繁茂する野生の音響が多焦点の一様な広がり(オールオーヴァー)をつくりだす様を聴いてください。
    ↓
ここで音源をスキップします。
    ↓
何が聴こえますか?
    ↓
水音など様々な音響が奥行きのある三次元空間に配置されています。
パースペクティヴの異なる響きがレイヤーとして敷き重ねられている様を聴いてください。
    ↓
いま聴いていただいた音源 
Francisco Lopez『La Selva』

 続いてhofli『木漏れ日の消息』tr.7「夜の思想」の冒頭4分ほどを、津田自身の解説に引き続き聴いてもらう。分厚くのしかかる夜の闇と静寂の中に、目蓋の裏の光の移ろいのように音が柔らかく明滅する。フィールドレコーディングした真夜中のサトウキビ畑は本当に真っ暗で恐ろしかったとのこと。
 続いて、これまでフリー・インプロヴィゼーションやフィールドレコーディングの聴取により、ストレッチしてきた耳で、今度は民族音楽やポップ・ミュージックを聴いてみたいと思います‥‥と前置きして、次の音源をかける。

何が聴こえますか?
    ↓
笛の菅の中の空気の振動に耳で触れてください。
    ↓
いま聴いていただいた音源
『Sacred Flute Music from New Guinea』

 デヴィッド・トゥープに関する説明もそこそこに、次の音源をかける。

何が聴こえますか?
    ↓
声の強さだけでなく、周囲の空間を蝕知してください。
    ↓
いま聴いていただいた音源
里国隆『路傍の芸』

 タイトル通り、ストリート・ミュージシャンによる大道公演であることを説明し、里国隆について、また録音者の宮里千里について津田から話をしてもらう。「イザイホー」の録音についても言及する。
 続いては津田の解説に続き、hofli『十二ヶ月のフラジャイル』からtr.12「シベリア気団より」をかける。ラジオの気象通報をフィーチャーした構成。曲が始まると津田はすっと席を立ち、パフォーマンスへと向かう。アナウンスにやすりをかけるラジオ・ノイズ。風や葉擦れの音、小鳥の鳴き交わしの向こうから届くアナウンサーの声。上空をゆっくりと飛行機が通過する。レイヤーされた音の層のたゆたいの経絡に的確に鍼を打つギター。高く抜けた空。きっぱりと張り詰めた真冬の朝の乾いた空気。

 いよいよ最後の曲になりました‥‥と、Satomimagaeについて、自身でフィールドレコーディングした音源をCDの制作にもライヴ演奏にも使っていることを説明する。たまたま外で鳴っていたサイレンとイヤフォンで聴いていた曲が混じり合い新しい音楽が生まれた体験がきっかけとなっているとのことも。Satomimagae『Awa』tr.4「Q」をかける。がさがさと暗く濁った環境音から析出してくる透き通った声と小鳥のさえずり。津田はすでに教室の中を巡り終え外廊下へ出ていて、後方の扉を開けっ放しにしたまま、ラジオ・ノイズを最大音量にして教室に向け放射している。彼女の曲の中にある環境音やノイズが流れ出し、教室の外から侵入する外の音やラジオ・ノイズと混じり合い、あるはずの境界、教室という閉ざされた場や大学の授業という枠組みがゆるやかに侵食され、通い合う。
曲の再生が4分ほどで終了する。CDプレーヤーの停止ボタンを押してから、少し間を置いて外へ出ていった津田が戻ってきているのを確かめ、ずっと全消灯していた教室の照明を一斉に点ける。

 これで終わります。福島恵一と津田貴司でした。どうもありがとうございました。

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6.リアクション
 とりあえず予定していた内容を大きなトラブルなく終え、時間を超過することもなかったので、ほっとする。残りの時間で学生たちにリアクション・ペーパーを記入してもらう。質問も求めたが、手は挙がらない。学生たちは飽きてしまうことなく、概ね最後まで聴いてくれたように思うが確信はなく、改めて不安に襲われる。
 回収したペーパーを見ると、B6大の紙面に、びっくりするくらいいっぱい書き込まれている。内容も当惑や居心地の悪さを正直に述べているものを含め、こちらが目指していた「揺さぶり」を体験として語ってくれているものが多く、うれしい限り。以下に幾つか抜粋を示したい。

(1)音源やジャンルに反応してくれたもの
○音楽を奏でるとは、メロディーやハーモニーを鳴らすということしかやったことがなかったので、無調で拍もなく、掴みどころのない「音楽」を今日どう聴いたらよいのか動揺しました。プレゼンの画面に従って感覚を集中させてみましたが、難しく、聴こえたものがすべてなのだ、と感じました。
○私は音楽を含めて多くのものに起承転結やドラマを求めてしまうので、ノン・イディオマティック・インプロヴィゼーションやフィールドレコーディングのようなスタイルの音楽はあまり得意ではありません。音の流れのどの部分に集中すれば良いのか分からず、全ての音に集中してしまって疲れてしまいます。ただ、今回の授業のように、スライドを用いて音楽を言葉で表現(「三次元的な音」やCDのタイトルなど)していただけると格段に分かり易くなります。得体の知れないつかみどころのないものに枠を与えてしまいがちな自分を認識しました。
○流してくださった音源の中ではDerek Bailey with Min Tanaka『Music and Dance』が最も好きでした。情報が何もない状態で聴くと、様々な光景のイメージが思い浮かぶからです。多分、聞いていた学生の頭の中には、人によって全く別の映像が浮かんでいたのではないかと思います。また雨音が強くなってきた時、私はギターの音を拾って聞いていましたが、スライドに「雨音の向こうにギターをさがすのではなく、時々漏れ聞こえる~」と表示されたため、その聴き方を意識したら、奥行きや立体感が感じられて感動しました。
○自然の中にあるような、ただ聞いているだけでは何も読み取れない音であったが、続けて聞いているうちに不思議とこころが安らいでいく感覚が出てきた。凛とした一音一音が、自分の中で波及していくように感じた。
○熱帯雨林の音源は、聴いている時に、自分がその場に居ると感じた。雨が葉っぱを叩いた音と虫の鳴き声に合わせて、その雰囲気が形成された。
○熱帯雨林の大自然の中の虫たちの音は教室の中で大きく鳴り響いていましたが、普段の授業だと大きすぎる位の音量にも関わらず、大自然と触れ合っているような、目を閉じると大きな力を感じて、私は「心地よい」に近いものを感じました。
○アントン・ヴェーベルンの曲(福島注:ヴェーベルンの曲にインスパイアされた‥と説明したDerek Bailey『Pieces for Guitar』からの曲と思われる)を聴くと、なぜか心が安らぎました。一人暮らしをしているのですが、生活で音がないとき、こんな音が流れていたら落ち着くだろうなと想像していました。こう思えて初めて"音楽"として聴くことができました。
○最後に流していた歌と他の音が混ざり合った曲は、歌だけでは出せないであろう深みを感じました。
○一番印象的なのは、ラジオをながしながら教室をまわっていたことです。最初は何かと思って驚きましたが、だんだん波の音のようにここち良く感じました。しかし、近くで音が大きくなると少し怖かったです‥‥。私は普段ラジオが好きでネットラジオで聴いているのですが、トランジスタ・ラジオで聴いてみたいなと思いました。

(2)幾つかのカギとなる概念に反応してくれたもの
○最初音源を聞いたときには「雑音」というような感じがしたけれど、星座のイメージの話を聞いてから聞くと一個一個の音で一つのものを作ると言うようにイメージできて、雑音というイメージは全くなくなりました。
○「答のある音」という表現はとてもおもしろいです。確かに僕たちは「これはこの、あれはあの音」というように何か見えない常識に当てはめさけられているように思いました。
○福島さんと津田さんが創り出す世界観は、ご本人もおっしゃっていた通り、答のないものだったように思えます。答がないということは、自分の想像力をはたらかせ、自身で納得できる考えを導き出すということです。砂浜に一人で立ち尽くす姿やどしゃぶりの中、車で運転している姿が、ふと頭の中に浮かびました。おそらく本日この授業を受けていた人数分の考えがあると思います。
○ギターの音に集中しようとするのではなく、雨音の奥にたまに現れるギターの音に注目するということを今までしたことがなく、耳の焦点を自然と自分自身で選択していたんだなと気づいた。

(3)「聴くこと」に関するもの
○音楽をどのように聴くか、ということはあまり考えたことがなくて、響きから壁の位置や天井の高さを感じたり、足音や人が動き回る気配から、ダンサーと共演しているのを感じとったり、ただ聴くだけではなく、こんなに細かく音を聴くのも良いなと興味を持った。
○表面的な音に耳をすませるということだけではなく、その音のひびき方、空間まで想像して音を愉しむという感覚はあまり意識したことがなかったので新しかった。
○ただ単に音が羅列しているだけでは? というふうに初めのうちは思っていましたが、いろいろな音をスクリーンに映し出されていた言葉、聞き方を頭に入れながら聞くと、空間というか、音が強弱や一定でない並び方によって、あるものを形づくっているように感じました。
○普段、音楽を聴いていますが、今回、"音"を聴くという体験ができました。歌詞やメロディが一切ない音を聴いても心は動かないと思っていましたが、じっくりと"音"を味わってみると、自分の頭のなかに色々なものや感情が生まれました。
○前半で聴いたダンサーとギターの音では、ほとんど雨の音で埋めつくされる部分があったり、どの音がメインとかではなく、全ての音が環境を生んでいるように感じた。音源の中にそのような環境があるうえに、教室の中でトランジスタ・ラジオの音があったり、さらに教室の外の音に耳が傾くときがあったり、複雑な体験であった。
○最近は舞台をよく観に行くと、ホワイトノイズやメロディがはっきりしていない音楽がBGMとして挿入されることが多く、シーンでその音が入る意味やストーリーの伏線になっていたりすることがあり、物語や世界の構成要素としての音の意味を少しずつ分かってきたような気がしていました。本日触れたものも、歌やクラシック作品のようなそれ自体が世界を作っているものではなく、この世界の構成要素の一つとしての意味、世界とともに世界を作るものとしての意味があるのではと思いました。自分の中の"音"に対する感覚が変わっていることを感じた時間でした。
○今回の講義をつうじて、私自身の中の音楽に対する考え方が変わりました。自然の音、生活音、そのすべてが音楽であり、ヘッドホンで雑音を消して音楽を聞くのではなく、様々な空間で発せられる音楽の中で音楽を聞く事も楽しいのではないかと考えたりしました。
○一番はっとしたのは、約90分間、何らかの形で立体的な普段は聴かない音の中にいた所から、日頃と同じような教室の音に戻った瞬間、いつもと異なる感覚を覚えた時です。


 ペーパーの記述から全体として感じたことを幾つか記しておきたい。
 これは社会の一般的な傾向だろうが、安らぐ、癒される、落ち着く、ヒーリング‥‥といった語が無条件にプラスの価値として音楽の、あるいは聴取の評価軸となっているのは、やはり心配だ。今回の記述では、そうではないプラスの表現として、心地よい、不思議な‥‥等が見られた。
 未知の音源に当惑したり、動揺したり、不安になったりと揺さぶられることに対し、音楽の知識や演奏経験がある方が「身体が硬い」ように感じられた。もちろん、これでは単なる決めつけになってしまう。芸術論というか、美学的な記述をしていた学生にも同様の感じを受けたことを踏まえ、もう少し言葉を補えば、むしろ、これは言語化のプロセスの問題なのだろう。未知の体験を言葉にしようとする時に、これまで音楽や美学で身に着けてきた語彙で賄おうとするか、あるいはむしろこれまでの日常体験の中で、音楽とも美学とも関係ないけれども似たような体験や感覚を探すか‥というような。
この場合、「言語化」のプロセスは、単にペーパーの記入に当たり駆動されるだけでなく、体験をどのように受容し記憶していくかに大きくかかわってくることになる。言わば「環境芸術論」の授業で体験したことだから、音楽・美学のページに書き込み、他とは切り離して整理するのか、あるいはそうではなく、もっと一般的なページに書き込まれ、他に広く波及してしまうかの差である。とすれば、後者のルートをたどった方が、結果として、これまでの記憶のプールを、異なる視点、異なるインデックスで検索し、様々な感覚をスキャンしたり、シャッフルしたりして、まさに記憶や身体感覚の体系自体が「揺さぶられる」ことになるのではなかろうか。もしそうした体験を少しでも提供できたのだとすれば、こちらとしては本望である。

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7.異質なものの共存
 今回の講義は何よりも「体験」を目指したものであり、首尾一貫した理屈建てに基づくものではない。とは言え、全体のバックボーンとなっているのは「異質なものの共存」であるということができるだろう。異文化共生やダイヴァーシティが盛んに謳われるように、あるいは逆に「排除」の一語が魔女狩り的に叩かれたり、いまや「異質なものの共存」は、誰にも異議の唱えようのない絶対原理となっている感すらあるが、実際にはそのようなことにはなっていない。常に多様性が謳われるのは、ある枠内の話であり、問われるべきは、その枠組みの設定であるからだ。
 今回の講義の冒頭で、デレク・ベイリーのソロ・インプロヴィゼーションを題材に検証したのは、ミスタッチとか、脈絡のない音として排除されてしまうような音を視野に収めることにより、そこにどんな「星座」が描かれるかということであり、さらにそこには「台紙の傷や染み」としての環境音、暗騒音もまた含まれ得るということだった。
さらにベイリーと田中珉の共演を通じて、距離による音の変容を目の当たりにし、そうした音自体の変容や共鳴等の付随音、あるいは雨音のような障害となる音も含めて受容するプロセスを見た。ここで注意すべきは、このプロセスが録音を介することにより、わかりやすく示されている点である。もし演奏の現場に立ち会っていたならば、耳は視線に随伴して演者たちの姿を追ってしまい、なかなかそのような並置/共存型の聴取はできないだろう。
このことはMichel Donedaたちの演奏/録音についても同様だろう。ここでは演奏者たちが去ってしまった後の音空間の重要性を指摘しておいたが、これを小津安二郎の作品で多用される所謂「空ショット」、すなわち登場人物が出ていった後にキャメラが捉え続けるがらんとした室内や廊下の映像と比べてみてほしい。そはれ決して寂寥感の表現などではない。
さらに同様の視線を、津田貴司やFrancisco Lopezによるフィールドレコーディングまで敷衍するならば、オールオーヴァーな広がりや曖昧で不定形な音響が視界に入ってくる。それらは録音機という「機械の知覚」により定着され、録音を聴き返すことにより初めて発見される細部や瞬間をふんだんに含んでいる。
その延長上に『Sacred Flute Music from New Guinea』や『路傍の芸』を置いたのはほかでもない。前者においては笛の放つ音響の外部への鳴り響きと管の中での息の震えを「空気の振動」としてひとつながりに聴きとる耳の視線が、後者においては、路傍でがなる声の強靭さと、周囲を取り囲む聴衆の呼吸、市場の通りのにぎわい、遠くからアーケードに反射して届けられる響きを切れ目なくとらえる聴覚視野が、共に求められるからである。
そしてSatomimagaeについて、「外で鳴っていたサイレンとイヤフォンで聴いていた曲が混じり合い新しい音楽が生まれた」という偶然の体験は、彼女自身が語っているものなのだが、ウィリアム・バロウズによるカット・アップの説明、すなわち読んでいる本の内容と、店の外で起こっている事態と、その時に頭に思い浮かんだことが、全部並列されているのがリアリティであり、現実自体がカット・アップなのだ‥‥と見事に響きあっている。
無意識に設定される枠組みを検証し改めて引き直すこと。また、意図せざるものの混入や距離がもたらす変容を不純なものとして濾過してしまわないこと。「偶然」の到来に向け、閉域を不断に開き続けること。「異質なものの共存」とは、これらにより、その都度その都度、一時的に達成されるだけの事態にほかなるまい。


末尾ながら、貴重な機会を与えてくださった鳥越けい子先生と授業に参加してくれた学生の皆さんに感謝いたします。どうもありがとうございました。

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撮影:津田貴司



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タダマス ピアノ協奏曲第27番(モーツァルト作曲)を弾く  "TADA-MASU" Plays Mozart-Piano Concerto No. 27 in B flat Major KV 595
 本日、10月22日(日)に、益子博之と多田雅範がナヴィゲートするNYダウンタウン・シーンを中心にしたコンテンポラリー・ミュージックの定点観測「四谷音盤茶会(通称「タダマス」)」は通算27回目を迎える。
実は今日、どうしても駆けつけなければ気が済まないライヴ(前回レヴュー中で告知した大上流一、外山明、徳永雅豪によるトリオ@Ftarri水道橋)が出来てしまい、行けなくなってしまった。第10回に続く2回目の欠席である。残念。だが、26回中25回という出席率(=96%)は、自分で言うのも何だけど、かなりなものだと思う。そもそも私はいったい何の理由で、これほどまでに「タダマス」に入れあげ、通い詰めているのだろうか。

 もちろん、益子と多田の耳を高く評価しているということがある。それはこれまでの「タダマス」告知で繰り返し述べてきたことだ。だが、それだけではない。彼らが選び取る音盤や聴取体験に向けて放たれるコメントが、私にとってとても重要かつ切実なものであるのは、それが単に質が高いからではなく、私が探求したい、どこまでも掘り下げ、その核心を刺し貫きたいと念じている「即興演奏」という事態に、まったく別の角度から光を当ててくれるからにほかならない。
 ここで即興とは「あらかじめ準備していない」とか、「譜面に書かれていない」などと言うことは意味しない。クラシックの作曲作品のように、しっかりと楽譜に書き込まれた音楽でも、演奏においては即興的瞬間が忍び込まざるを得ない。それらによる揺らぎを、「作曲者の意図」に対する「演奏者の解釈」という写像関係においてとらえ、そこからはみ出る部分はノイズとして排除してしまうというのが、通常の作曲作品演奏に対する姿勢であり、この制度は、作曲者>演奏者>聴取者という階層を確固たる前提とし、これを保持するのに貢献している。

 今でこそ、こうした「即興」観に至っているが、かつてはフリー・インプロヴィゼーションの世界にその先端が存在し、その先にこそ可能性が開けていると考えていた。だが、音盤レクチャー「耳の枠はずし」で「フリー・ミュージックのハードコア」を採りあげた際に、デレク・ベイリーやミッシェル・ドネダのすぐ傍らに、フィールドレコーディングの照らし出す生成する音響環境が開けていることを知った。例えばベイリーなら『Music and Dance』で、演奏の足元を洗う交通騒音、空間に潜む田中珉の気配、それらをもろとも覆い隠してしまう激しい雨音に対し、それらを排除して「汚染されていない純粋な」ギターの音を復元するのではなく、それらを通して、それらと共にギターの響きを聴くこと。そしてドネダなら『Montagne Noire』で踏み込んだ野山において、掻き分けられる草の繁みや足下で折れる枯れ枝の立てる音と入り混じり、相互に浸透しあうソプラノ・サックスやパーカッションの響きに耳を傾け、音景の生成に浸ること。

 フリー・インプロヴィゼーションとフィールドレコーディングをシームレスに聴いていくことは、その後に津田貴司、歸山幸輔と始めたリスニング・イヴェント『松籟夜話』において、「即興・環境・音響」というキーワードにより掲げられることになる。その時にモデルとなったのが「タダマス」だった。音盤を聴きながら、掛け合いで話していくというスタイルももちろんだが、「現代ジャズ」に空間や響き、触覚や揺らぎを、積極的に聴き取っていく姿に、いかに触発され、勇気づけられたことか。
 誤解のないように付言しておけば、「タダマス」でかかる音盤を「現代ジャズ」とくくってしまうのは、あまりにも乱暴だ。例えばタイション・ソーリーの作品には、モートン・フェルドマン的な要素が多分に含まれている。彼をはじめ、「タダマス」に繰り返し登場するミュージシャンたちが言うように、コンテンポラリー・ミュージックとだけ呼んでおけばいいのかもしれない。しかし、にもかかわらず、それらの音楽がジャズ由来の要素を多く擁していることも確かだろう。そして、かつてのジャズの録音は(ECM等を例外として)音場や空間に注視を向けることはなかった。ジャズにおいてまず聴くべきは個々の演奏者のかけがえのないヴォイスであり、それはすなわち(ソロイストの)楽器の音にほかならないのだから、それは当然のことと言うべきだろう。しかし、にもかかわらず、益子や多田の耳は時代の変容をとらえ、空間や響きに焦点を合わせたのだった。最近、ジャズ再興が声高に語られるが、益子や多田のような認識の転換に至り、耳の視線を切り替えることのできた聴き手は少ない。


 津田貴司が、Facebookに「即興」について次のような書き込みをしている。

 「即興」というときに、ほとんどの演奏者は、互いに向かい合ってそろそろと歩み寄り、やがてがっちりと互いの襟首か帯をつかんで組み合う「格闘技型」か、同じ方向を向いてありうべき全体像の中で自分のポジションを獲得し、その中で程よく目立ちながら破綻を来さないように振舞う「組体操型」に陥る。
 しかし、そうした「即興演奏の型」(それ自体が語義矛盾だ)が成立するのは、演奏者が共通認識として「音楽」という制度を頑なに信じ、その制度に基づいて互いに「合わせる」ことを尊んでいるからにすぎない。「即興」は、そうした制度を内部から瓦解させる野性の試みであったはずではないのか。
 そのように形骸化した「即興」に背を向け、演奏者が互いに我関せずとばかりに周囲に野性のアンテナを張り巡らせるとき、これから始まるのは格闘技でもなく組体操でもなく、聴取者にとっては未知の深海生物の様子を観察するような事態が立ち現れるはずだ。
 「即興」に関するこの考察、以前ftarriで森重靖宗さんと大上流一さんのデュオを聴いたことからヒントを得ている。自分の演奏を見直すきっかけにもなった。

 私には、津田のこの「即興」観が、高岡大祐の「釣り哲学」(というと彼自身は嫌がるだろうが)と緊密に響き合っているように思える。

 人は釣りといえば「待つもの」だと思うようだが、僕がやる釣りは全く待たない。とにかく忙しい。 道具は最小限で最小ならウエストポーチ一つで大きなクロダイやスズキも狙える。その場に合わせて仕掛けを作り直し、環境の変化による魚の食性を読み、釣りは釣り以外のことをやるほうが良く釣れる。ボーっと待ってるのは誰だって苦痛だ。
 要はどこに魚がいるか、どうやってその魚の口に鈎をかけるか。それだけだ。見えない水の中を、考え尽くすのだ。
 入り口は「ヘチ釣り/落とし込み」。 主に黒鯛を釣る方法で、全く投げない。魚は障害物につくので足元にたくさんいる。 最初は信じられなかったけど確かにいる。後はどの深さにいるか、つかめばいい。
 最終的にはそれらを含む「脈釣り」全般の釣り人となった。ウキなどを使わない、竿、糸、オモリ、鈎、餌。全感覚を集中してそれらの変化を、まさに脈を取るように感知して釣り上げる。

 イディオムによる閉域を生み出すことのないノン・イディオマティックなインプロヴィゼーションを掲げ、複数の音を結びつける線(それこそがメロディ、リズム、ハーモニーを仮構する)を、多方向から交錯/散乱する音響のつくりだす束の間のコンステレーション(星座)へとさらさらと崩し去っていくデレク・ベイリーDerek Baileyの演奏。『Improvisation』(Cramps 録音1975年)で彼は、当初はエレクトリック・ギターのペダル操作によるステレオ効果で得ていた成果を、アコースティック・ギターによるちょっとした「ほのめかし」により達成している。アクション自体のカタログは厳しく絞り込まれ、代わりに無限のニュアンス、徴候、暗示、素早い参照、一瞬のうちに引かれすぐまた掻き消される照応の線等が導入される。

 それを聴き取ることができるのは、未知の深海生物の様子を観察するために張り巡らされた「野生のアンテナ」であり、ウキなどを使わずに、竿、糸、オモリ、鈎、餌。全感覚を集中して、それらの変化をまさに脈を取るように感知して眼に見えぬ水底を探る「脈釣り」であり、空間や響き、触覚や揺らぎを積極的に聴き取る「タダマス」の耳にほかならない。

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益子博之×多田雅範=四谷音盤茶会 vol. 27
2017年10月22日(日) 
open 18:30/start 19:00/end 22:00(予定)
四谷三丁目綜合藝術茶房喫茶茶会記
ホスト:益子博之・多田雅範
ゲスト:田中徳崇(ドラム奏者)
参加費:¥1,300 (1ドリンク付き)

 今回は、2017年第3 四半期(7~9月)に入手したニューヨーク ダウンタウン~ブルックリンのジャズを中心とした新譜CDをご紹介します。
 ゲストには、ドラム奏者の田中徳崇さんをお迎えします。シカゴでの10年に及ぶ活動を経て、ジャズに留まらない多彩な領域で幅広く活躍する田中さんは、現在のニューヨークを中心としたシーンの動向をどのように聴くのでしょうか。お楽しみに。(益子博之)




ライヴ/イヴェント告知 | 00:37:15 | トラックバック(0) | コメント(0)
即興演奏のパラタクシス、ポスト・ベイリーの地平 ― 大上流一の演奏を巡って  Parataxis of Free Improvisation, Horizon of Post-Derek Bailey's Visions ― Over Ryuichi Daijo Guitar Playing
 10月22日に行われる彼らのライヴへの予習として、もうひと月以上前になってしまった特別な一夜のことを思い出すとしよう。


1.Ftarri水道橋 2017年8月27日 ファースト・セット
 ドラム・セットの配置に押し出される格好で椅子の置かれたステージ左奥の隅から、周囲の空気を揺らすことなく、すらりと立ち上がったアルトの響きに、ちょうどスペースの対角線となるレジの奥の方で、何かが微かに共振して震えている。音圧が高まると響きが上ずって輪郭を露わにし、例の共振の震えも強まって、Ftarri店内スペースの対角線に響きの橋が架かる。眼に見えない波動が走り、部屋を満たしている。
 倍音がさらに色を成し、新たに付け加えられたキューキューという軋みと混じり合って、部屋の中のさっきとは違う場所を揺すぶりたてる。リードの鳴りが高まって濁った厚みを増し、倍音の層を押し出しつつも、その前に踏み出したかと思うと、今度は倍音の層の輪郭がすうっと薄れ、まるで霧が晴れるように透明さを増して澄み渡り、リードのちっぽけな泡立ちだけが後に残される‥‥と思いきや、一転、ぶるぶると震え、ごうごうと鳴る轟音の柱がそびえ立つ。真夜中に強風に揺すぶり立てられ、大枝を軋ませ、小枝を打合せ、ちぎれんばかりに葉々を振りたてる巨木のように。
 指先も含め、ほとんど動きを見せない上半身とは対照的に、靴も靴下も脱いで床のカーペット・タイルに着けている裸足の指先が反り返り、あるいは爪先を着いたまま踵が持ち上がり、足裏の緊張と指先に込められた力の推移を明らかにする。たとえ響きが凪いだ時であっても、それは決して弛緩ではなく、そこにも、いやそこにこそ、恐るべき強度が秘められていることを、浮き上がる静脈が示している。蚊柱や蜂の群れの羽音の集積を顕微鏡的に拡大したが如き響きのモノリスの陰から、循環呼吸で思い切り吸い込む鼻息や、ぷちぷちした唾液の泡立ちが聴こえてくる。

 いつの間にかドラム・セットに近づいていた外山が、バッグを置き、椅子に座る。腰を下ろす際に部屋の隅の徳永にギロリと鋭い一瞥を投げかける。もともと舞台左手に据え置かれたアップライト・ピアノの前に、横向きにドラムをセッティングした結果、大上、徳永が自然と押し出され、いつもの配置からすると時計回りに45度回転したような不思議な配置となったのだった。
 呼吸に身体をチューニングすると、やにわにパチンと柏手を打ち、スキンの張り具合を診るようにタタンとスネアを軽打する。少し俯き加減だったアルトが再び轟音に移行する。まるでアジトの張り込みを続ける刑事のように、時折鋭い視線を送りながらも、外山は音を出さない。眼差しを向けずとも、音は全身の皮膚で感じ取っていて、吹き終わるや否や、間断なくスティックを垂直に振り下ろし、スネアのリムを一撃する。「次」と促すように。パンソリの上演で杖鼓(砂時計型の両面太鼓)が声に対して入れる「間の手」にも近い。やがてスティックの先でシンバルを擦り始めるが、決して安定した層を構築してしまうこことのないよう、きめ細やかに気が配られていた。不安定に浮かぶ擦りの持続と、それを断ち切る鋭い一撃。アルトの響きを全身で注視し、常に傍らに佇みながら、決して持続的に「支える」ことはせず、アルトの響きの満ち引きとは全く違った仕方で時間を分節する。

 大上がおもむろに歩み出て、二人の中間に置かれた椅子に座り、床に置かれたギター・ケースからアコースティック・ギターを取り出すと、パチンと蓋を閉める。それが最初の決定的な一音であったかのように長い間が訪れる。
 ギターを構えた大上がやがて何事もなかったように弦に触れ、弦を爪弾き、あるいはすっと擦って、彼がいつもしているように、他の誰にも出来ない仕方で、研ぎ澄まされ、彫琢され、磨き抜かれた弦の震えそれ自体を中空に結像させる。シンバルの震えの推移とフロアタムのスキンの擦り、引き延ばされた弱音のロングトーンの移ろいがそれと混じり合い、相互に浸透し、ミクロな次元で噛み合いつつ変転し、全体はどこかから空耳のように聴こえてくる、顔もなくとりとめもないつぶやきのようなものとなる。一見一様で平坦な抑揚のない広がりの中に、高まったかと思うと、すっと引いて行くドラムの満ち引きがあり、それが波打つ線を紡いで先導し、ギターのパルスや粒立ちの変化がこれに応じて、アルトの持続音の水平なたなびきが色合いの推移をかたちづくっていく。

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撮影:原田正夫  この日のライヴを撮影したものではありません


2.約束
 この日のライヴは、これまで見てきたように、ソロで始まり、およそ10分経過した時点でひとり、さらに10分ほどしてもうひとりが加わって、合計約30分の演奏を行う約束となっていた。あきれるほど簡単な取り決めだが、これが実に有効に機能した。それは各演奏者が実によく音を聴き、自らの身体がそれらの音に逃れようもなく浸されてあることを、深く理解しているからにほかならない。端的に言えば、ソロが終わって、さてと‥‥とデュオが始まり、デュオが終わって、「せーの」でトリオが始まるわけではない。ひとり加われば、ふたりの音が重なり、融けて、響き合う。それは通常「デュオ」と呼ばれもする、二つのソロの対話を装った交互の、あるいは同時の演奏ではもはやない。そうではなく、すでにそこにある線に、形に、色彩に、何かを描き加えることにより、別のかたちが動きだし、異なる次元が息づき始める。ちょうど連歌の宴のように、前の句に付け加えられた新たな句は、前の句の意味を書き換え、新たな物語の扉を開く。
 今回の三人の演奏をそれぞれ知る者にとっては、彼らが共有し得る演奏の平面など果たして存在するのかと心配になってしまうほど、彼らはシーンの中で見かけ上(「ジャンル」やミュージシャン人脈等)離れた地点に位置し、スタイルもまた大きく異なっている。それゆえに未曾有のサウンドを聴けるのではないかとの期待と、探り合いや行き違いで終始してしまうのではないかとの不安があった。今回採用された「約束」は、新たに加わる演奏者を、すでにある演奏の場にいきなり飛び込ませることにより、探り合いの時間をスキップさせ、サウンドの化学変化を触発していた。


3.東北沢OTOOTO 2017年3月18日 ラスト・セット
 一瞬一瞬を鮮やかに刻み付けながら、いつの間にか別の場所にするりと移動し、別物に転生を遂げている大上流一のギターの核心を捉え得たように感じたのは、彼が自身の企画したライヴ・シリーズを定期的に行っているFtarri水道橋ではなく、初めて訪れた東北沢OTOOTOのホワイト・キューブで、彼のソロ演奏により放たれた音に刺し貫かれた時だった。Ftarriに比べて天井が低く、横幅も狭く、演奏者との距離も近いOTOOTOの空間は、彼の放つ音響を拡散させずに、聴き手の身体に直接ぶつけてくれるように感じた。

 ほとんど動かない指先から、抑制された響きが頭をもたげ、ゆっくりと空間に滲みを広げる。右手がすっと水平に動く。ためらいなく喉を搔き切るように。擦られた弦の鋭い輝きが淡い滲みの上にくっきりとした線を走らせる。音はずり上がり、さらにはずり下がって、いずれも次第に解け、静寂に沁み込んでいく。新たに生み出された微細な音の連なりがもつれ絡まり折り重なって、さらにそれがゆるやかに結んでは開け、また繰り返し、響きのゆったりとしたたゆたいを広げる。その中で弦の響きが時間差で後から浮かび上がるかのように聴こえる。引き伸ばされ、ゆるく弛緩した時間の中で、どこかがまだきりきりと引き絞られ張り詰めたしこりが手触れる。アタックの鋭利さと丸みの対比。たちのぼる余韻が感じさせる微かな空気の動きの変化(もちろんスペースに窓などなく、空調も停められていて、風などあるはずもないのだが)。鞭で打つようなしなり。ブーンと無愛想にざらついて唸るさわり。

 曖昧な半透明の厚み/広がりの中に、様々な感触の断片が浮かんでは消えていく。そうした点在する感触を手がかり、足がかりにしながら、耳が響きの深淵を下降していくと、次第に色彩が薄らいで、まぶしさのないモノクロームに沈んだ空間が現れてくる。音がすべて「運動」へと写像され、細部までくっきりと見渡せる無声映画の世界。びっこのロバが坂道を登るようなリズム/テンポの不均衡さ。それは常に足元を踏み外し、掘り崩しながら進められる危なっかしい綱渡りにほかならない。メタリックに歪んだアタックが一方では不定形の混濁したアマルガムをもたらし、他方では多方向への不均質な多角的反射を生み出す。異なる視点/パースペクティヴから、異なるフォーカス/焦点深度で撮影された写真の貼り合わせ。演奏者/楽器の本来の生理が働いて、演奏のノリが収斂し、整合化・等質化・均等化・単色化して、同一平面に凹凸なく収まりそうになると、彼は出来かけた「世界の結び目」をすっと解いてしまう。「繰り返し」ではなく、連続して新たに同じ課題に取り組むこと。ハーモニクスでサウンドを宙に浮かし、文字通り事態を宙吊り/棚上げして天国的な夢想に委ねること。ようやく築き上げた「トランプの城」のような危うい均衡を、傾けて溶かし去ってしまうこと。滑らかな一連の動作の中に一瞬の間/切断を持ち込むこと。再生不良的にやせ細っていき、突然息絶えてしまう、中断/中途放棄にも似た「終わり損ない」を心から受け入れること。

 大上のギターの、限りなく研ぎ澄まされ張り詰めた、と同時にもろく、はかなく、傷つきやすく、壊れやすい美しい弦の鳴り。旋律を担い、和音を構築し、律動をかたちづくることからこぼれ落ち、逃げ延びた音の輝き。これらの「逃亡奴隷」としての音は、また、「実験音楽」の身勝手なコンセプトにも、「フリー・インプロヴィゼーション」という硬直した制度にも、ましてや演奏者の想いにも囚われてはいない。時間の経過と共に、ますます剥き出しになっていく弦の震え。


4.Ftarri水道橋 2017年3月12日 大上流一・tamaru デュオ
 大上の企画するライヴ・シリーズShield Reflectionの決まり事として、同じメンバーで3回演奏し、組合せを変えるというのがある。このためtamaruとのデュオが最終回を迎えたこの日、大上はアンプもラジオもなしに、アコースティック・ギター一本で演奏に臨んだ。すっと軽やかに、だが鋭く刻まれた音が間を置いて置かれ、そこに弦を擦るさわりが混じる。弦の感度がいつもの数倍に上がったように感じられる。ベース弦のぼあーんと丸みを帯びた深い鳴りが、暗くおぼろな魚影となって、その間をすり抜けていく。面相筆でぴっと引かれた細く鋭い線が、響きの香りとともに空間に滲んでいく。「ぶっ」と、半紙に置かれた太筆の墨跡が、長く尾を引きながら余韻を揺らめかせる。細やかな響きがちらちらと揺れ、揺らぎ、幻惑的な光の移ろいを生み出す。左手の指が振動している弦に伸び、微かに触れてさわりを引き出し、響きの余韻にディレイ風の陰影を施す。陽射しを映しきらめく水面と、重く冷たい水の動きが体表面に圧力として感じられるだけの盲いた水底の対比。

 「対比」と言えば、この日、彼らは、およそ考え得る限りの様々なサウンドの対比のヴァリエーションを奏でたのではなかったか。微細な破片の散乱や点描的なアタックに、床から湧き上がってくるようなアタック感のない極低音のたゆたいが応え、弦の搔き鳴らしが倍音を充満させる中、ベースのフレットに弦を打ち当てるカチッとした打撃音と、振動している弦に指を微かに当てて引き出す、シタールにも似たビーンと鋭く輪郭を際立たせたさわりが浮かび上がる。
 特にデュオを構成する二人が、向かい合うのではなく、同じ方向を向いて互いの影を視界の端にとらえながら疾走し、歩き回り、立ち止まり、抜きつ抜かれつしたかと思うと、むしろ遅さを競い合うような、ダブル・ソロとでも言うべき奇妙な並走関係が生じた第二部の演奏において、それは顕著だった。
 抽象的な音列がするすると走り出し、上りと下りのエスカレーターのように行き違う。二つの異なるリズムの交錯が台地(プラトー)を形成して固着化しようとすると、アクセントをずらし、間合いを伸び縮みさせる動きが、ふっと視界が揺らぐように、左右に同時に生じる。一方が歩速を緩め、ややゆったりと音を引き伸ばしながら、呼吸を深めると、他方はわずかに加速して、揺れ幅を小さくし、きびきびと浅く速い呼吸へと移行しつつ、刃先を鋭く尖らせて、音をより深く彫り刻もうとする。じゃらじゃらとしたギター弦の搔き鳴らしとベースのトレモロが刻み/音数では同期しつつ、絞り込まれた単純さにおいて相反し、搔き鳴らしから珍しくふとフォーキーなコードが浮かび上がると、ベースは音の密度を高めながら、解像度を下げて音像の曖昧化を図り、同期/同調からの離脱、アンサンブルの解体へと向かう。

 即興で踊る際には、必ず意識して身体の中で動かさない部分をつくり、次にそこを動かすことで展開を図る‥‥とは、ダンサー山崎広太の発言だが、インプロヴィゼーションについて考察する際に大きなヒントとなる。「15ゲーム」の空いたマスが可能とする移動、配置の転換、構造の組み替え。と同時に身体の運動を飽和させないこと。身体を消費しきらないこと。身体のうちに不動の軸を残しておくこと。
 先に見てきたように、この日の大上とtamaruの演奏は、あるパラメーター/運動軸の回りを旋回しつつ、次々にピポットの軸足を置き換えるように進められた。進路に立ちふさがられても、ライン際に追いつめられても、身体の軸を自在にずらし、密着してくるマーカーとするりと身体を入れ替え、窮地を抜け出すジネディーヌ・ジダンのターン。
 だがラインの独立性を保ち、淀みなくしなやかに演奏の線を伸ばしていく大上とtamaruは、同時に両者の放つ音響の深い相互浸透を可能とする、ひとつの太い軸=体幹を共有しているように思われた。ジダンの右脚と左脚のように。それこそは弦の震え/振動を凝視し、そこから生起して漂泊を続け、そこへと回帰することにほかなるまい。

 tamaruのペダル操作が、高域と低域のヴォリュームを変化させるだけのものであることは以前に彼の演奏に関するレヴュー(※)で述べた。これにより音色が変化するだけでなく、倍音帯域の有無により響きの密度や輪郭の強さ、さらには広がりや遠近感も変化する。これを連続的に切り替えることによって、あたかもディレイのようなエフェクトが可能となるが、tamaruはそれがディレイを含まない回路であることを強調していた。すべてはリアルタイムの操作/変化であり、耳の視線の対象/視界が変わるだけで、サンプリングされた別の音源、異なる時間軸が混入することはない。ありとあらゆる響きが弦の(時にはベースのボディの)震えから生じる。弦は三次元的に振動し、他の振動と干渉して時間的に変動しつつ、やがては減衰していく。極めて高い増幅度により、この震えを顕微鏡的に拡大して投影することにより、その揺るぎない凝視ぶりとともに、凝視の対象である弦の振動が振る舞いの細部に至るまで明らかにされ、その表面の質感や温度までが手触れる。

 大上の演奏においても同様に、研ぎ澄まされ磨き抜かれた音響のピュアリティは、あるいはフォーカス/焦点深度を自在に操作して、くっきりとした彫琢から不定形の広がりまで連続的に推移し、さらには眼前を圧して視界を占領するかと思えば、かそけき物音に混じり合い、その背後に身を隠す変幻自在の変貌ぶりは、すべて弦の振動に始まり、弦へと還っていく。

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tamaruのツイッターから転載


5.Ftarri水道橋 2017年8月27日 セカンド・セット 最初の部分
 続く演奏は大上のソロから始まった。フレーズの破片が振り撒かれ、散り散りに広がっていく。それらの描く軌跡と空間に残す波紋。そこから音響の発生源である振動する弦の上でせめぎあう幾つもの力と、その勢力図の時間的な移り変わりが浮かんでくる。まるで気象衛星がとらえた雨雲の動きと、これによって浮かび上がる気圧配置やその時間変化のように。
 「雲母の破片」(津田貴司による形容)のように硬質で透明な輝きをたたえた弦の響きは、時にしなやかに勁く、時に脆く壊れやすいが、いずれの場合も見事な透徹/浸透力を有している。しかし、にもかかわらず、ここでいま音は次第にとりとめなく解けていこうとしている。一音一音の輪郭は希薄化し、それらの集合体もまたかげをおぼろにして、曖昧でおぼろな響きの中に溺れ、今にも沈んでしまいそうだ。それでも響きは一様化することなく、重なり合いながらも完全には溶け合ってしまうことのない複数の響きの層が、小津安二郎が幾重にも仕切られた日本間の空間構成により生み出した、重層的な奥行きをつくりだす。そこにパキーンと鋭い切り裂き音が放たれ、速度により響きの堆積から身をもぎ離す。ここで大上は音の「入」よりも「出」の方を細心にコントロールしているように見える。イクジット・ストラテジーの重視。速度を落とすことなく駆け抜ける道筋と余韻の射出方向の選択。音色が帯びる虹色の歪みは、身をひねって障害物をかわす際の屈曲の産物であり、力の刻印にほかならない。


6.ポスト・ベイリーの地平
 イディオムによる閉域を生み出すことのないノン・イディオマティックなインプロヴィゼーションを掲げ、複数の音を結びつける線(それこそがメロディ、リズム、ハーモニーを仮構する)を、多方向から交錯/散乱する音響のつくりだす束の間のコンステレーション(星座)へとさらさらと崩し去っていくデレク・ベイリーDerek Baileyの演奏。大上の演奏世界の出発点には、明らかに彼が位置している。
 ベイリー自身は、1970年代に自らの語法(彼の言うところのランゲージ)を確立し、80年代からは活動を異なる水準へと移行させる。録音音源で跡付けるならば、『Pices for Guitar』(Tzadik 録音1967年)を遥かな前史として、『Solo Guitar volume 1』(Incus 録音1971年)、『Incus Taps』(Incus 録音1973年)、『Domestic & Public Pieces』(Emanem 録音1975〜1976年)と聴き進めれば、その語法の深化、サウンドとタイミングの組合せが豊かさを獲得していく様を看て取ることができるだろう。こうした探求のひとつの頂点として位置づけられるのが、『Improvisation』(Cramps 録音1975年)であり、ここで彼は、先にエレクトリック・ギターのペダル操作によるステレオ効果で得た成果を、アコースティック・ギターによるちょっとした「ほのめかし」により達成している。アクション自体のカタログは厳しく絞り込まれ、代わりに無限のニュアンス、徴候、暗示、素早い参照、一瞬のうちに引かれすぐまた掻き消される照応の線等が導入される。キング・クリムゾンのロバート・フリップは「エレクトリック・ギターとアコースティック・ギターはヴォキャブラリー(語彙)が異なる」と発言していたが、ベイリーが言及しているのが、常にランゲージであることに注意しよう。ここでランゲージはパロール(発話行為)と対照される「固定化した国語の体系」ではなく、創造的発話を含めた「言語を操る力」を指し示していよう。
 一方、80年代の新たなステージは、Company『Epiphany』(Incus 録音1982年)に始まる。即興演奏者のプールであるCompanyの活動は以前からあったが、それらはいずれもEvan Parker, Tristan Honsinger, Anthony Braxton, Han Bennink, Steve Lacy等、志を同じくする者たちの交感だった(ただし、音に向かう姿勢や語法は極端に異なっている)。これに対し本作には、Kieth Tippett, Julie Tippets, Fred Frith, Anne Le Baron, 鈴木昭男, 吉沢元治ら、明らかに異なる即興演奏の血脈に属する者たちを招き、その中にはFrederic Rzewski「『不屈の民』変奏曲」の初演者である現代音楽のスペシャリストUrsula Oppensのように、即興演奏を経験したことのない者すら含まれていた。これは1982年に開催された「カンパニー・ウィーク」の記録であり、デュオからセプテットに至る各演奏者の任意の組合せのみならず、以降のCompanyでは見られなくなる10人のメンバー全員が参加した長大な演奏も収められている。
 本作が新たなステージの扉を開いたというのは、決してフリー・インプロヴィゼーションがネットワークの拡大、語法や演奏マナーの普及に転じたということだけを意味するものではない。以降のベイリーにとって即興演奏とは、すでに自らを確立した演奏者との個と個の交感であるよりも、得体の知れない他者(それはこれまでの意味で「個」であるとは限らない。いや、むしろ違う)に自らを横切られたいという欲望の場に変貌を遂げたと思われるからである。もっとも彼の望みは十全には叶うことなく、Company に招かれたゲスト演奏者たちはたいていの場合、まるで宮廷舞踏会に招待された下層貴族のように、自らがノン・イディオマティック・インプロヴィゼーションの語法や演奏マナーを身に着けていることを誇らしげに披瀝し、他人の前を横切ったり、ましてや足を踏みつけることなどないよう、ことさらに慎み深く振る舞ってしまうのだが。


7.空間/隔たりがもたらす混信/変容
 大上の演奏が、その出発点とそこからの拡大/深化という点で、ポスト・ベイリーの地平に属していることに疑いの余地はない。それは彼の演奏を聴けばたちどころにわかる。このことは彼のソロによる探求の軌跡を跡付けたCD5枚組による『Dead Pan Smiles』(※)にも明らかであるし、また、ここに掲げた彼の演奏の描写からも看て取れることだろう。しかし、それは決して語法の洗練という次元にとどまるものではない。ベイリーに憑き纏っていた「他者に横切られることへの欲望」が、形を変えながら彼にもやはり逃れ難い業として憑いているように私には思われるのだ。
※『Dead Pan Smiles』については次の拙レヴューを参照のこと。
http://miminowakuhazushi.blog.fc2.com/blog-entry-366.html

 よりわかりやすい形としては、彼がFtarri水道橋で続けているライヴ企画「Shield Reflection」がある。メンバーを固定したデュオあるいはトリオで3回だけ演奏するというスタイル、いや「取り決め」は、先の欲望の具現化でなくて何だと言うのだろう。だが、それだけではない。彼はよく演奏にラジオを用いる。アンティーク・ショップで手に入れたらしい、ヨーロッパ映画のワンシーンで、戦時中に家族みんなでこっそりBBCニュースを聞く際に暖炉に上に置いてあるような古風な外観。彼はこのラジオにギターの出力を直接つなぐのではなく、トランスミッターを介して電波として飛ばし(わずか50cmほどの距離を)、ダイヤルをチューニングしてラジオに拾わせる。がさがさした荒れがひどくて、いつもたいてい途中で止めてしまうのだが、それでも何度も試みている。開演前にその調整をしているところを眺めていると、彼は照れくさそうにはにかんで「電波って何でか好きなんですよね」とつぶやくが、これは決してかつての「ラジオ技術少年」の名残だけではあるまい。

 そこで欲望されているのは、眼に見えない電波が飛び交う空間に、一瞬とは言え、全くの無防備でギターの出力を旅立たせることである。ギターの音が素肌で外界にさらされ、顔も姿もわからない者たちに自由に襲いかかられ、触れられ、汚され、傷つけられ、陵辱されるのを待ち望むことである。もちろん彼は、空間に音を放つこと自体が、空間/隔たりによる不可避の変容を被ることであるのをよく知っていて、潔い覚悟の上で音を空間に、そして聴き手の身体に委ねている。だが、それ自体を視覚にも聴覚にもとらえることのできない電波は、音とはまた違う存在だ。耳で聞いたように感じられる幻聴よりも、脳内に直接響き渡る見知らぬ他者の言葉が「電波」と形容され、より侵襲力が高いことはよく知られていよう。そこには自らの放つ音に、別の何かを混入させたい、そのことによって自らを暴力的に押し開きたいという切なる願いがこもっている。

 このことは彼の楽器の選択からも裏付けられる。ふだん演奏に用いているエレクトリック・ギターについて彼に尋ねたところ、Gibson L-4という機種で、アコースティックとしても使用できるよう、ピックアップがきちんと固定されておらず(「開閉可能」とでもいうようにパカパカしている)、そのため電気増幅すると、簡単にハウリングを起こしてしまうという。それを彼はフル・アコースティックのボディを活かして、ほとんど電気増幅せずに演奏することが多い(前述のラジオの使用も電気増幅により音量を得るためではない)。通常のアコースティック・ギターよりも反応が早く、胴体を共鳴が満たすのを待たずに、弾くそばから音がすっと手元を離れて飛び立つ感覚がある。もともと「受信機」としての感度が高く、他に影響を受けやすい(=汚染・変容されやすい)だけでなく、自ら厚く鎧を纏い、完全防護で戦地へ赴くのではなく、素肌をさらすのも厭わず軽やかに走り出し、狭い隙間を鮮やかに駆け抜け、厚い暗闇を鋭く切り裂いて、繊細で希薄な響きしか残さない無防備な楽器を選び取るとは、彼の演奏の志向性になんとふさわしいことだろうか。

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撮影:原田正夫


8.ポスト・ベイリーの地平【補足】
 「ポスト・ベイリーの地平」との表現が、誤解により大上の演奏を狭い枠組みに押し込んでラベリングすることにならないよう、なくもながの補足を記しておきたい。
 多くの即興演奏者はベイリーの提起した課題を引き受けていないし、発展させてもいない。多くの者たちはベイリーらが切り開いた地平を、ルールを守れば安全と栄誉が保証される、伝承芸能のようなものととらえている。そこでは「ポスト」との接頭辞は、大いなる空白と弛緩を示すものでしかない。今更言うのも恥ずかしい当たり前のことだが、「ポスト」とは単に時間的な後であることだけを要件としているわけではない。ベイリーの死後に即興演奏を始めれば、それが「ポスト・ベイリーの地平」になるなどということはない。
 ましてや、あらかじめ何も準備しないことが即興演奏だとか、聴き手の期待を裏切って驚かせることが即興演奏の真髄だなどというのは、発言者が即興演奏をまるで理解していないことを示しているだけの、とんだ茶番に過ぎない。それはベイリーの地平などとは何の関係もないことだ。
 これもまた当然のことだが、中には別の道を歩んで大きな成果を挙げえた者もいる。同じギター奏者であるというだけの理由で、「ベイリーのコピー」呼ばわりされたフレッド・フリスについて、先にCompany『Epiphany』に関する説明で「明らかに異なる即興演奏の血脈に属する者たち」としたのは、私の彼に対する評価を表している。
 それでは「ポスト・ベイリーの地平」という語を適用すべき即興演奏者とは、大上流一以外に誰がいるのだろうか。ここでは話をわかりやすくするためにギター奏者に限定しよう。私が思い浮かべているもうひとりは、意外かもしれないがChristian MuntheやTodd Neufeldではなく、Bill Orcuttである。「ポスト・ベイリーの地平」はフリー・インプロヴィゼーションの旧来イメージを大きく超え出ていく。それは単に旧来イメージが先に述べた伝承芸能を、安全圏をかたちづくるためだけのものであり、こんな枠組みなど、当のベイリー自身が遥かに超え出ていたからにほかならない。

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tamaruのツイッターから転載


9.Ftarri水道橋 2017年8月27日 セカンド・セット 5に続く部分
 椅子を片付けて床に正座した徳永が構えるアルトから、ドライアイスの冷気のように微音が滴り落ち、床全体に広がって空間をひたひたと浸し始める。大上による音の破片が、急に窒息を来したように、さわりを含んで慌ただしく跳ね回り始める。これまで一点透視的だった音響空間に、それには到底収まりきれないパラタクシス(ねじれの位置をも含む平行/並行関係)が持ち込まれる。しばらくして外山がおもむろに素手でアフリカ風のリズムを叩き出して加わる。いきなり襟首を掴むように、荒々しく空間の縁に手が伸び、ぐいっと引き延ばし拡げにかかる。やはり最後に加わる三人目がトリオ演奏の構図/構造を明確化する。合わせにいくのではなく、それまでの演奏の平面を包含した新たな広がりをつくりだす感覚。靴のまま足を乗せて、スキンをミュートしつつ張りを高めたフロアタムが、小気味よい鳴りを示す。

10.Ftarri水道橋 2017年8月27日 サード・セット
 自ら提示したリズム・パターンを外山が端からずらし崩していく。ゆったりと踏み外すようなシンコペーションやアクセントが随所に仕掛けられる。口ごもり、やがてふっと溜め息をつくハイハット。ちらばったリズムのかけらをかがるように大上が入ってくると、加減速を繰り返して揺すぶり立てる。そうしながらも外山はくっきりと隙間を保ち、大上の繊細極まりない出音をマスクしてしまうことがない。
 椅子に座り直した徳永が聴き取れないほどの弱音から始め、ロングトーンを揺らめかせる。視線を他に配らない二人とは対照的に(徳永に至っては眼を瞑ってサキソフォンの内部に沈潜している)、外山は、ねめつけるような半眼の視線を二人から外そうとしない。やがてアルトの持続が背景の隅々まで満たし、次第に前景に沁み出してきて、耳のそばまでたどり着く。もはや外山は徳永に視線を送ることなく、黙々とサウンド全体のトーンに対してアクトしている。大上はそれらに半ば覆い隠されながら、後景へと退いて繊細な音響を紡ぎ続ける。

 先に外山が演奏空間をぐいっと引き伸ばした様を見たように、トリオ演奏のダイナミズムにおいては、三者の間に張られた空間の広がりや質が重要となる。その点で、この日の演奏を直接比較すべきは、森重靖宗やtamaruとのデュオではなく、大上が村井啓哲、藤巻鉄郎と繰り広げたトリオだろう。このトリオ、エレクトロニクスを操る村井がサウンドアートや電子音楽、ドラムを担当する藤巻がロック、ジャズ、ラテン音楽等に出自を持つなど、メンバーの「畑違い」度では今回の外山、徳永とのトリオといい勝負だが、各自が他のメンバーとの接点を求めて、繊細かつ微細な音響構築の方へと歩み寄った感がある。その分、交感は深まったが、先の空間はいささか広がりを欠いた平坦なものとなった。
 対して、今回の外山、徳永とのトリオにおいては、ソロから始め、後から一人ずつ加わっていくやり方が功を奏したこともあって、それぞれが自らの「前線」から一歩も引くことなく、最大限のテンションを張り合って、その間に開ける空間を広々と保つものとなった。普通、各自が「前線」から一歩も引かないと確実に密集戦となるわけだが、この逆説が、互いに異なる方向を向いて戦闘を繰り広げるという、即興演奏の持つパラタクシス的な特質を存分に発揮したこのトリオの特異性を物語っている。そして、このことは、演奏の始まる前から、冒頭に記述した不可思議な楽器の配置が、すでに暗示していたのではないかとすら思うのだ。

 サード・セットを終えた大上は、思わず「次回は今日の逆でトリオから一人ずつ抜けていくようにしましょうか」と口走って、外山に「それっていま決めないといけないの」と冷やかされていたが、それだけ、この日の演奏に手応えを感じたのだろう。

 次回のライヴ、このトリオによる演奏の最終回は、冒頭に記した通り、10月22日(日)にFtarri水道橋で行われる。

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撮影:原田正夫  この日のライヴを撮影したものではありません


2017年8月27日 Ftarri水道橋
大上流一(guitar)、外山明(drums)、徳永将豪(alto saxophone)

2017年3月18日 東北沢OTOOTO
大上流一(guitar,radio)

2017年3月12日 Ftarri水道橋
大上流一(guitar)、tamaru(electric bass)


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     『Reach Out to Touch』                 『Dead Pan Smiles』

 2015年12月20日と2016年2月21日にFtarri水道橋で行われたライヴ演奏からの抜粋が、大上流一、村井啓哲、藤巻鉄郎『Reach Out to Touch』(Meenna meenna-991)としてCDリリースされていることを付け加えておこう。ここでは批判的に言及したが、2016年のライヴから抜粋されたトラックは、深く静謐な(だが時に禍々しく不穏な)奥行きをたたえており素晴らしい。
大上流一(guitar)、村井啓哲(electroacoustics)、藤巻鉄郎(drums)





ライヴ/イヴェント・レヴュー | 21:54:03 | トラックバック(0) | コメント(0)
『松籟夜話』第十夜来場御礼  Thank You for Coming to Listening Event "Syorai Yawa" Tenth Night
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撮影:原田正夫


 『松籟夜話』第十夜にご来場くださった皆様に、厚く御礼申し上げます。『ジャジューカ』のCDがかからなかったり(たまたまLPも用意していたので事なきを得ましたが)、急にスピーカーの下に挿んでいたスペーサーが飛んだりと、怪奇現象に悩まされながらもどうにか無事終えることができ、お陰様で今回も充実した回となりました。以下に当日のプレイリストをジャケット写真及び試聴リンク付きで掲載させていただきます。なお、試聴リンクにつきましては、必ずしも当日プレイした部分ではないものも含まれていますので、ご注意ください。

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撮影:原田正夫


 今回の第十夜は、三回シリーズ「漂泊する耳の旅路―現地録音を聴く」の最終回ということで、移動、距離、伝播、転地‥‥といったいささか抽象的なテーマを掲げることとなりました。こうした語が指し示す茫漠とした広がりから、何に注目して音源を採りあげ、何を導きの糸としてそれらを配列していくのかについては、大層苦労することとなりましたが、その結果、むしろ音源の配列については、ヴァリエーションを拾い集めるよりも類比と連想の線を追うことに集中した、明確に筋を貫いたものになったのではないかと自負しております。確かに音盤の「ジャンル」としては、初期カリプソの復刻からインダストリアル・ノイズ、アパラチアン・ミュージックに沖縄ポップス、『アンソロジー・オヴ‥‥』や『ジャジューカ』といった伝説的作品や仏サラヴァの名盤、ポリティカルなサンプリング・ミュージックにフリー・ジャズ戦士の未発表ライヴと、月光茶房原田店主が驚いていたように、やたらと幅広いのですが。

まずは「距離/隔たり」をしっかと見据える眼差しをそこに感じ取り、移動や伝播とは、ピンと張り渡された細い綱をゆるゆると伝っていくことにほかならないと踏まえつつ耳を傾けていただければ、きっとそこには、情報にしろ、モノにしろ、あるいは形を成しようのない想いにしろ、何物かが響いていく様々な「渡り」の光景が連なり合って得噛んでくるのではないでしょうか。

 音(聴覚資料)だけでなく、文章や映像による資料も用意し、互いに照らし合うよう努めてきた『松籟夜話』ですが、今回はテーマ自体の幅広さと、それと表裏一体の展開の絞込みにより、映像はなし、文章資料もいつものように小説やエッセイ、詩からの引用は果たせず、今回の特集を陰で支えてくれた参考書目からの抜粋のみで構成することとなりました。とは言え、アフリカン・ディアスポラと洞窟壁画とアビ・ヴァールブルクが並べて論じられる機会もそうそうないはずなので、これはこれで少しは興味深いものになったかとは思います。

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撮影:津田貴司


 最後にプログラム内容を最終的にまとめる段階で、心棒となってくれた相方を務めてくれている津田貴司の書き込みを掲げたいと思います。今回の『松籟夜話』に私たちが込めた想いが凝縮されています。


ビセカツさんの言葉を思い返す。云く「糸満発祥の漁法は琉球弧のほとんどにみられるが、本部の備瀬集落にしかない独特の漁法がある、といったことから文化伝播の痕跡を考える手がかりはある。しかし唄の場合は本土の流行歌をもじったり聞き伝えに変化したりして、伝播の痕跡を辿ることができない」。

音楽という「遠さ」。
伝播の「飛び火」。

線をたくさん引くこと。
軸をたくさん想定すること。
重力からできるだけ自由になること。


 それでは『松籟夜話』第十夜のプレイリストをどうぞ。次回以降も続きます(たぶん)。

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撮影:原田正夫



 開演前BGM
 
Various Artists『Music of Morocco Recorded by Paul Bowles 1959』CD2
 すでに彼の地への永住を始めていたボウルズが、連邦図書館等の委託により手掛けた現地録音の集成(CD4枚にモロッコ皮装丁を模した分厚い冊子を収めた美麗ボックスセット)。異国への憧れに突き動かされ、「現地」へと赴いた者だけが眼差し得る魅惑の音風景。だが、それだけが唯一の「真実」や「正解」なのではない。
試聴:https://www.youtube.com/playlist?list=PLTVge1pZNBduHSXQhskA3Kmgdgytt63zQ



1.移動/交通による生成と距離のもたらす断絶 あるいは甘さと苦さ

(01)登川誠仁『Howling Wolf』tr.7【2:59】
 試合開始のゴングが鳴るや否やの強烈な一撃。これをパロディととらえ得るのは、安全圏にいる第三者の視線であり、耳での聴き取りだけによる再現がもたらす「錯誤の豊かさ」を聴き逃し、正統な文化伝統と演奏者の意図という二つの「純粋さ」に事態を還元してしまう。当事者たちはもっと切羽詰まっている。
試聴:https://www.youtube.com/watch?v=u1n7vc1QQwU

(02) Various Artists『Marvellous Boy Calypso from West Africa』tr.2【3:22】Bobby Benson And His Combo「Taxi Driver (I Don't Care)」
tr.5【3:01】Mayor's Dance Band「Bere Bote」
 街頭音のギミックで始まり舌足らずのビジン英語によるコロニアルな甘美さに溢れるtr.2とよりアフリカ音楽的でしゃっきりした、ハイ・ライフを思わせるtr.5で、移動/交通がもたらす豊かさと甘さをまず。
試聴:https://www.youtube.com/watch?v=IXdAD4ucHws

(03)Various Artists『The World Is Shaking Cubanismo from The Congo,1954-55』
tr.1【3:06】Laurent Lomande「Maboka Marie」
tr.2【3:05】Adikwa Depala「Matete Paris」
 前作同様、カリブ海から「故郷」たるアフリカを振り返るのとは逆向きの眼差し。かつての日活映画で流れそうな無国籍キャバレー音楽tr.1は、こうした交通による混交がすでに世界を覆っていたことを示している。tr.2はよりアフリカ的な乾いた硬質さを明らかに。
試聴:https://www.youtube.com/watch?v=m3YXxhFdBxE

(04) Various Artists『My Intention Is War Trinidad Calypsos 1928-1948』
A-1【3:00】The Lion「Death」
 声音と演奏はコロニアルな甘美さを極めながら、どこか気だるく陰鬱に響き、曲題通り、歌詞は永遠、憂鬱、哲学等の語をちりばめて不可解に暗い。甘さのうちに忍び込む苦さ。
試聴:http://www.reggaerecord.com/en/catalog/description.php?code=69104

(05) Various Artists『Anthology of American Folk Music』CD5 tr.6【2:56】Dock Boggs「Sugar Baby」
 弾むバンジョーの中華的な喧噪とお決まりの性的な歌詞にもかかわらず、声は突き放したように無表情。甘さと表裏一体の痺れるような苦さ。
試聴:https://folkways.si.edu/anthology-of-american-folk-music/african-american-music-blues-old-time/music/album/smithsonian
  https://oldweirdamerica.wordpress.com/2012/03/15/62-sugar-baby-by-dock-boggs/

(06)Various Artists『Classic Mountain Songs』tr.3【5:27】
Old Regular Baptists*「I Am A Poor Pilgrim Of Sorrow」
 揃わぬコーラスによるホワイト・ゴスペルtr.3は、うねりやコブシを伴うことなく、互いの声の肌を擦り合わせる。まるで血の滲む痛みにより生きていることを改めて確認するかのように。アパラチアン山脈に行く手を阻まれ、孤立し、食い詰め、どん詰まった嘆きが刺すような剥き出しの苦味を放つ。
試聴:https://www.youtube.com/playlist?list=PLzPfZr0tOrsdvj8UXbN7SI7WYOebEoSwS

(07) Various Artists『MYAHK 宮古 多良間 古謡集1』tr.5【3:10】「雨乞いぬ唄」(
 やはり揃えることを至上としない合唱。複数の起源の異なる旋律を組み合わせたような混交ぶりを示す。張り詰めた前曲に比べ、より柔和な表情を見せるが、童歌を思わせるユーモラスな繰り返しにもかかわらず、つらさを背負った塩辛さが滲む。
試聴:https://www.youtube.com/watch?v=tw_FXrL3g18

(08) Various Artists『PATILOMA 波照間 古謡集1』tr.3【1:40】「中皿ぬアヨー」
 ゆったりと引き伸ばされた声の足取りは、波音に洗われながら、曲や旋律自体は共同体の文化に属しつつも、歌はそこを離れてひとり歩むしかない重いつらさと凛とした気高さを、塩辛く物語っている。
  試聴:http://www.ahora-tyo.com/detail/item.php?iid=8043
     http://elsurrecords.com/2013/04/22/v-a-%E3%80%8E%E6%B3%A2%E7%85%A7%E9%96%93%E5%8F%A4%E8%AC%A1%E9%9B%86-1%E3%80%8F/

(09) Various Artists『Classic Mountain Songs』tr.13【5:00】
Berzilla Wallin「Conversation With Death」
 女声による無伴奏ソロ。旋律的にはアパラチアン民謡でありながら、オールド・グッド・タイム・ミュージック的なハッピーさとは無縁な、渋柿をかじったような口中が引きつる極限的苦さ。そのルーツである英国トラッドと異なり、共同体に所属し得ない孤独さを全身から放っている。
試聴:https://folkways.si.edu/classic-mountain-songs-from-folkways/american-folk-old-time/music/album/smithsonian
https://www.youtube.com/watch?v=pSf4-DCDtkc



2.隣接する異郷、変調される音響/変容するリアリティ

(10)Higelin & Areski『Higelan & Areski』tr.1~3【5:07】
 ヨーロッパ世界が「内海」地中海を隔てて相対する最も身近な他者たる北アフリカからの砂漠の乾いた風が、絞り込まれた音の隙間を吹き抜ける(Areskiはモロッコ出身)。ループすることなく微細に移り変わるリズムと空間配置の絶妙の構成はAreskiと録音技師Daniel Vallancienの真骨頂。途中に現れるバンジョーのリフレインは先ほどのDock Boggsに通じるものがある。
試聴:https://www.youtube.com/watch?v=j51DIOPvQiA

(11) Ghedalia Tazartes『Diasporas』tr.1【2:40】
  出身地未詳のさまよえるユダヤ人Tazartesの張り上げる、引き裂かれた悲しみにまみれた濁声が、積層されたヴォイスのテープ・ループに吹き惑わされる。ディアスポラの象徴的音像化。
試聴:https://www.youtube.com/watch?v=nURr8ma2KWI



(12) Bob Ostertag『Sooner or Later』tr.1【3:10 F.O.】
  政府軍に射殺された父親の遺体を埋葬する少年の姿(エル・サルバドルでの現地録音)。土を掘り掛けるシャベルの音と少年の涙にむせぶつぶやき、早くも寄って来た蠅の羽音が、決して単純なループではなく、トラウマ的に強迫反復され、現地録音が抽出した「現実のちっぽけなかけら」を際立たせつつ、前曲の構造を照らし出す。
試聴:https://www.youtube.com/watch?v=nFOWPZEj-3E

(13)『Brian Jones Presents The Pipes of Pan at Joujouka』tr.1【3:20 F.O.】
  不審死を遂げた初期ローリング・ストーンズの中心人物Brian Jonesによるモロッコ現地録音のスタジオ加工作品。通常、「現地録音を素材にスタジオで構築された作品」と説明されるが、実際には現地での邂逅を再体験すべく、録音に定着し得なかった音響を補充し続けた結果ではないのか。
試聴:https://www.youtube.com/watch?v=LwEoDGeNyrE

(14)Gilles Aubry『And Who Sees the Mystery』B-1【途中5分程度】
  現地演奏家のサウンドチェック時の録音を電子的に加工。マイクロフォンのハウリングが呼び起こす刹那の感覚。短波放送の混信。街路の雑踏のスナップショット。様々な記憶が去来して過去に呼ばれ、またすぐ現在に引き戻される。前作の冷徹を極めた現代版と言うべき作品。
試聴:http://corvorecords.de/release/gilles-aubry-and-who-sees-the-mystery/

(15)Zoviet France『Shouting at the Ground』tr.6-8【7:50】
  「インダストリアル・ノイズ」に位置付けられながら、サウンドは他と隔絶した唯一無比なもの。民族音楽等を素材としながら、その遺伝情報を解析して古代へと遡る緻密な想像力が、先史時代の古い地層から「古代音響」を電子的掘削探査する。ノイジーにざらついた不透明な音響は、地層の褶曲をもたらす巨大な圧力に押しつぶされ、異様な高密度に至っている。
試聴:https://www.youtube.com/watch?v=TLIbVMAGzBY
https://www.youtube.com/watch?v=gh9sPLw9-QQ

(16)Evan Parker『As the Wind』tr.1【6:20 ~ 12:00 F.O.】
  リトフォン(石琴)の水の滴りや火花を思わせる響きと細く紡がれるソプラノ・サックスの呼吸が暗闇を手探りし、そこに潜む眼に見えない広大な空間を照らし出す。「芸術の起源」たる洞窟壁画の描かれた聖なる空間における音響・環境・即興に向けて遡行する想像力。
試聴:http://www.squidco.com/miva/merchant.mvc?Screen=PROD&Store_Code=S&Product_Code=22651

(17) Various Artists『Music of Morocco Recorded by Paul Bowles 1959』CD4-tr.6【1:30】
 彼方から響いてくる祭礼の喧噪。辺り一面に集く虫の音。眼前から発進する車のエンジン音‥。夜明けまで至る儀式をとらえた録音から切り出された断片に映り込むフィールドレコーディング/サウンド・アート的光景。それはこれら一連の録音が「訪問者」による距離を置いた醒めた(と同時に狂おしいほどに魅せられた)視点によることを明らかにする。件のボックスセットのエピローグ。
試聴:https://www.youtube.com/playlist?list=PLTVge1pZNBduYC249uFC1SvFq-5fatGBY

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休 憩

Pacific 231『Miyashiro』tr.6-7,10
 蓮実重臣らメンバー2人がハワイに暮らした日系人作曲家を模してつくりあげた仮想世界。日本ではなく、ハワイでもない、あり得ない記憶の感覚に満ちた曲集。
試聴:https://www.youtube.com/watch?v=p8jFta3d6J0





3.幻想の大陸の彼方へ

(18)Bengt Berger『Bitter Funeral Beer』tr.1【3:00 F.O.】
 ガーナで現地録音された伝統的葬儀の様子(女たちの泣き声)にスウェーデン人ミュージシャンのスタジオ演奏が重ねられ、彼方へと送り届けられる。辺り一面に立ち込め、混じり合い、相互に浸透していく音響。
試聴:https://www.youtube.com/watch?v=fIB0i8tmk1U



(19)Kelan Phil Cohran & Legacy『African Skies』強調文tr.1【4:15】
 異世界への扉を開ける開幕曲。「アフリカ回帰」というにはあまりにも透明に澄み切ったケルト的音響は、「いまここ」とは別のいつか/どこかへの憧れに満ちている。演奏風景もどこかSF的な異世界感覚に満ちている。彼はシカゴを拠点とする黒人ジャズ・ミュージシャンで、サン・ラのアーケストラに参加した経験を持ち、ステージではサン・ラ同様、エジプトのファラオ姿の扮装も見せる。
試聴:https://www.youtube.com/watch?v=mB58izkmArc

(20)Count Ossie & the Mystic Revelation of Rastafari『Grounation』CD1 tr.1【4:50】
 ラスタファリの儀式音楽ナイヤビンギ。アフリカン・ディアスポラをユダヤ人の宿命と重ね合わせ、バビロンからザイオンを、ジャマイカからエチオピアを、カリブ海からアフリカ大陸を眼差し、幻想の起源へと遡る想像力。
試聴:https://www.youtube.com/watch?v=dfJFh4t_HmA

(21)Town and Country『Up Above』tr.1【7:42】
 ハーディ・ガーディの唸りとヴァイオリンの軋みにも似た甲高い響きにより、ミニマルに織り成されるドローン的な音響は、明らかにアパラチアン・ミュージックの記憶を枠組みとしている。最後に聴かれるハープの音色は聴き手を(15)で垣間見たケルトの幻へと連れ戻す。アメリカーナの安逸さに流れることのない、レコードの針飛びにも似た強迫反復的音響。
試聴:https://www.youtube.com/watch?v=dYy-ye7wjCs

(22)Albert Ayler『Holy Ghost』CD5 tr.2【6:00 F.O.】
 これは「破壊者アイラー」が撒き散らしたフリー・ジャズ的混沌なのか。否。ここまで長い旅路を続けてきた耳は、そこにマーチとスコットランド民謡とニューオリンズ・ジャズと教会音楽(ニグロ・スピリチュアル?)がメリー・ゴー・ラウンドのように巡り続ける様を看て取るだろう。子どもの頃に高熱に浮かされて見る夢。今際の時に巡る思い出の走馬灯。テーマの器楽的な変奏へと飛び立つ代わりに、異なるテーマをメドレー風に繰り返す特異なインプロヴィゼーションのあり方は、ちりばめられた異質な記憶の断片にその都度囚われ、その度ごとに異なるテーマ・メロディを強迫反復せずにはいられないことの現れととらえられよう。1966年ベルリンでのライヴ。
試聴:https://www.youtube.com/watch?v=inaJpgH11X4

(23) Various Artists『Various Instruments of Indonesia』tr.13【2:00】
 ホラ貝楽器によるアンサンブル。くぐもった音色による揃わない千鳥足の演奏のうちに、ニューオリンズ的とも言える大らかな讃美歌風のメロディを聴くことができる。アルバート・アイラーの高熱に浮かされた密度からの帰還/沈静のために(と同時に彼の鎮魂のために)。
試聴:https://www.amazon.co.jp/%E5%A4%9A%E5%BD%A9%E3%81%AA%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%8D%E3%82%B7%E3%82%A2%E3%81%AE%E6%A5%BD%E5%99%A8-%E6%B0%91%E6%97%8F%E9%9F%B3%E6%A5%BD/dp/B0017GSGUM


 サルヴェージ

Washington Phillips『What Are They Doing in Heaven Today ?』A-1【1:59】
 音響の深淵から現世へと浮上するためのプロセス。ベビーベッドの上で回るメリーにも似たドルセオーラの夢幻的な音色は、自身のアンサンブルにハープシコードを導入したAlbert Aylerが追い求めていた天上の響きではないだろうか。
試聴:https://www.youtube.com/watch?v=EtLfSknVW3M

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今回もその力を如何なく発揮してくれた歸山幸輔設計の反射板スピーカー
「奈落の底を覗き込むスピーカー」(多田雅範 撮影も)


『松籟夜話』第十夜参考文集 引用文献一覧

1.距離 遠さと近さ
 篠山紀信・中平卓馬『決闘写真論』朝日新聞社
 ジェイムズ・クリフォード『文化の窮状』人文書院
 ポール・ギルロイ『ブラック・アトランティック』月曜社

2.移動、伝播、転移、再配置、転位、位置喪失
 アンドレ・シェフネル『始原のジャズ』みすず書房
 ポール・ギルロイ『ブラック・アトランティック』月曜社

3.手つかずの無垢で純粋な民族文化という幻想
 田中純『アビ・ヴァールブルク 記憶の迷宮』青土社
 ジェイムズ・クリフォード対談集『人類学の周縁から』人文書院

4.アフリカン・ディアスポラ 
 ポール・ギルロイ『ブラック・アトランティック』月曜社】
 レナード・E・ベレット『ラスタファリアンズ』平凡社】
 ポール・ギルロイ「Could You Be Loves ?」
  赤尾光春・早尾貴紀編『ディアスポラの地からを結集する』松籟社
 ジェイムズ・クリフォード対談集『人類学の周縁から』人文書院

5.残存、記憶の「生き残り」
 キャリル・フィリップス『新しい世界のかたち』明石書店】
 村田勝幸『アメリカン・ディアスポラのニューヨーク』彩流社
 ジョルジュ・ディディ=ユベルマン『残存するイメージ』人文書院
 ハンス・ベルティンク『イメージ人類学』平凡社

6.イメージの人類学
 ハンス・ベルティンク『イメージ人類学』平凡社】
 田中純『アビ・ヴァールブルク 記憶の迷宮』青土社】

7.メディアへの記録(写真や録音)によってつくりあげられる配置の平面
 ジェイムズ・クリフォード『文化の窮状』人文書院
 田中純『アビ・ヴァールブルク 記憶の迷宮』青土社
 ジョルジュ・ディディ=ユベルマン『残存するイメージ』人文書院
 カルロ・ギンズブルグ『ミクロストリアと歴史』みすず書房

8.洞窟壁画、感覚遮断、内部光学、環境・音響・即興
 江澤健二郎『バタイユ 呪われた思想家』河出書房新社
 アンドレ・シェフネル『始原のジャズ』みすず書房
 デヴィッド・ルイス=ウィリアムズ『洞窟のなかの心』講談社
 ニコラス・ハンフリー『喪失と獲得』紀伊国屋書店】
 中井久夫『徴候・記憶・外傷』みすず書房


『松籟夜話』第十夜

◎音楽批評・福島恵一とサウンドアーティスト・津田貴司がナビゲートする、「聴く」ことを深めるための試み。◎会場は青山・月光茶房隣設のビブリオテカ・ムタツミンダ。歸山幸輔によるオリジナルスピーカーで様々な音源を聴きながら「音響」「環境」「即興」の可能性を探ります。
◎第十夜は、三回シリーズ『漂泊する耳の旅路 - 現地録音を聴く』の第三回。「移動する音、生成途中の音楽」と題し、空間/時間的な「遠さ」を隔てて飛び火していく音や響きに焦点を合わせ、距離がもたらす変化や思いがけない類似へと耳を澄ます中で、これまで自明の前提としてきた「現地」とは何かを問い直し、聴取の「現場」を新たに切り開きます。

福島恵一 音楽批評/「耳の枠はずし」 http://miminowakuhazushi.blog.fc2.com/
津田貴司 サウンドアーティスト http://hoflisound.exblog.jp/
歸山幸輔 オリジナルスピーカー

日時:2017年9月24日(日)18:00 ~ 21:00
会場:Bibliotheca Mtatsminda(ビブリオテカ・ムタツミンダ:青山・月光茶房隣設ECMライブラリー)

事前03
季節の星座をテーマにした川本要デザインのフライヤーは『松籟夜話』の顔と言うべき存在。



ライヴ/イヴェント・レヴュー | 23:27:08 | トラックバック(0) | コメント(0)
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