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福島恵一

Author:福島恵一
プログレを振り出しにフリー・ミュージック、現代音楽、トラッド、古楽、民族音楽など辺境を探求。「アヴァン・ミュージック・ガイド」、「プログレのパースペクティヴ」、「200CDプログレッシヴ・ロック」、「捧げる-灰野敬二の世界」等に執筆。2010年3~6月に音盤レクチャー「耳の枠はずし」(5回)を開催。2014年11月から津田貴司、歸山幸輔とリスニング・イヴェント『松籟夜話』を開催中。

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タダマス、周期律表を原子番号1の水素から29の銅まで暗記する  "TADA-MASU" Memorize the Periodic Table from Atomic Number 1 (Hydrogen) to 29 ( Copper)
 前回までに28回を踏破し、7年目という大きな節目を乗り越えた「四谷音盤茶会(通称『タダマス』)」は、いよいよ新たな次元に踏み出そうとしている。ホストを務める益子博之は今週末に迫った次回『タダマス29』について「なんと前半は女性ヴォーカル特集」とFacebookでひっそりつぶやき、一方、相方の多田雅範は「現代ジャズシーンを特集する雑誌」の長時間取材に先日応じたばかりだ……と自身のブログで告白している。

 さらに多田はブログで次のように述べている。
 「それまで Jazz / Improv としてきた脳内が improvised jazz と統合されたパラダイムシフトによって感覚が変容したのであろうか、モチアンとプーさんがいなくなってからどうもなあチャーリーパーカーでさえ引き出しフレーズ連射にしか聴こえなくなってねえサウンドの風景はちっともインプロしてないじゃないかと与太をかますばかりになっている、」

 『タダマス』に通い始めた最初のうちは、一瞬で「ジャズ」出自とわかるサックス・ソロほとばしる演奏が、「完全即興」あるいは「フリー・インプロヴィゼーション」と呼ばれていることに強い違和感を覚えた。当時の私は、コンポジションとインプロヴィゼーションの間に線を引くだけではなく、イディオム的なインプロヴィゼーションと非イディオム的なそれの間にも越えがたい深い溝を見ていた。デレク・ベイリーの提唱したように、イディオムの枠内に閉じこもらない非イディオム的なインプロヴィゼーションこそが、演奏コミュニティを前提としない開かれた演奏、「フリー・ミュージック」としか呼びようのない新たな音楽のかたちを描き出し得ると、さして疑いもなく信じていた。
 それゆえ、たとえ演奏がサウンドの質感、特にサウンド・マチエールに焦点を合わせ、聴くことに潜む触覚的側面を顕微鏡的に拡大した音響的な交感や「物音」インプロヴィゼーションへと踏み出していたとしても、それが所詮は表面的な装飾だったり、「余白」や「余興」に過ぎず、本筋/本気の演奏は「ジャズ」の地平に立ち戻って行われるのであれば、何故にそれを「ジャズ」ではなく、フリー・インプロヴィゼーションと呼ばねばならないのだろうかと訝しく思っていた。

 しかし、その後も『タダマス』に通い続けたのは、やはりそこに何かが開けている感覚があったからにほかなるまい。毎回かかる未聴の音源に耳をなぶられ、翌朝になっても身体に残る(いや一層明らかとなる)まるで打ち身のようなずきずきとした痛みを、毎回、言葉へと引き渡していくことを続けているうちに変化が生じてきた。自分にとって確固たるものと思われていたフリー・インプロヴィゼーションの輪郭が揺らぎ、薄れ、溶解しはじめたのだ。
もちろんそれは『タダマス』だけの「効能」ではなく、たとえば田中珉との共演の録音である『Music and Dance』を通じて、ベイリーの放つ音が耳をつんざく周囲の環境音に叩きのめされるのを聴き、あるいはミッシェル・ドネダのソプラノが踏まれた草の茎が折れる音や枝葉のざわめきに身を沈めていく様に耳を澄まし続けたことの結果でもあるだろうし、フランシスコ・ロペスやジル・オーブリーによるフィールドレコーディングのうちに、決して作曲者/演奏者/制作者の意図には還元することのできない、豊かなざわめきや振動する生成を探り当て、それがベイリーやドネダの音世界と強力に結びついたことの産物でもあるだろう。

 いまやインプロヴィゼーションとは、イディオムの有無どころか、作曲やあらかじめ記された譜面の有無にすらかかわらず、あらゆる瞬間に潜在するもの/力能となった。「即興的瞬間」と呼ぶ所以である。これまでの『タダマス』音源において、こうした演奏のあり方を象徴するものとして強く印象に残っているのは、やはり菊池雅章『Sunrise』だろうか。

 しんと張り詰めた闇から、その闇をいささかも揺らすことなく、月光に照らし出された冷ややかな打鍵がふと浮かび上がり(吐息が白く映るように)、響きが尾を引いて、束の間、闇の底を白く照らし出す。重ねられた音は「和音」と呼ぶべき磐石さを持たず、宙に浮かび、そのまま着地することなく消えていく。それとすれ違いにブラシの一打が姿を現す。音は互いに触れ合うことなく、一瞥すら交わさずに、黙ったまま行き違う。
 ピアノ自体も同様に、次に現れた打鍵は先に放たれた打鍵と音もなくすれ違う。両者の間を線で結ぶことはできない。間を置いて打ち鳴らされる音はフレーズを編み上げない。そこに受け渡されるものはなく、ただ、余韻だけを残して現れては消えていく音。その只中に突き立てられたベースの一撃が、それらがやがて星座を描くかもしれないとの直感を呼び覚ます。
 ジャン=リュック・ゴダール『気狂いピエロ』冒頭のタイトル・クレジットは、クレジットの各単語がそれを構成するアルファベットの単位に分解され、A・B・C‥‥と順に映し出されていく。だが、そうした「コロンブスの卵」的な単純な仕掛けに気づいたのは、始まってしばらくしてからで、最初のうちはそれがクレジットであることにすら気がつかず、モールス信号を思わせる離散的な配置で、赤い布石や青の石組みが、間を置いてすっと画面に現れていくのを、はらはらしながら、ただ黙って見詰めていることしかできなかった。原色によるフォントのオフビートな明滅に、観ている自分が次第に照らし出されていく感覚がそこにはあった。『Sunrise』冒頭曲の始まりの部分は、その時の張り詰めた気分を思い出させる。
 出来上がりの絵柄に向けて(彼らは寸分違わず同じ「景色」を見ている)、各演奏者が一筆ずつ、セザンヌにも似た矩形の筆触を並べていく。その順序は決してものの輪郭に沿っているわけではなく、連ねられて線を描くわけでもなく、まさにゴダール『気狂いピエロ』冒頭の、あの明滅の感覚で筆は置かれていく。もちろん音は虚空に吸い込まれ、スクリーンに映し出されるフォントのように積み重なることがない。しかし、それでも消えていく余韻を追い、それとすれ違いに現れる次の音の響きを心にとどめることを繰り返せば(通常これはゆったりと引き伸ばされた旋律を追う時のやり方だが)、ピアノの打鍵、ドラムの一打、ベースの一撃が互いに離散的な網の目をかたちづくりながら、それをレイヤーとして重ね合わせている様が見えてくる。
 「網の目」と言い、「レイヤー」と言い、いかにも緊密な組織がそこにあるように感じられてしまうとしたら、それは違う。繰り返すが、音はフレーズを紡ぐことがない。別の言い方をすれば、閉じたブロックを形成しない。ピアノの、ドラムの、ベースの、それぞれ先に放たれた音とこれから放たれる音の間は、常に外に向けて風通しよく開かれていて、幾らでも他の音が入り込めるし、実際入り込んでくる。しかし、そこでは線が交錯することはない。もともと彼らは線など描かないからだ。
ここで菊地たちは先に述べたように寸分違わぬ同じ「景色」を眺めながら、「同期すること」の強度を究めようとしていると言えるだろう。【同じ景色を見詰めること―菊地雅章トリオ『サンライズ』ディスク・レヴュー(※)】
※http://miminowakuhazushi.blog.fc2.com/blog-entry-170.html

 ジャズが痛いほどに「しん」と透き通り、白く光る骨や薄青い血の流れが浮かび上がり、眼前を横切るインプロヴィゼーション。『サンライズ』がかかったのは『タダマス5』の時だから、もう6年も前のことになるのか。

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 津田貴司と続けてきたリスニング・イヴェント『松籟夜話』(その発想の源のひとつは、もちろん『タダマス』である)がめでたく10回を迎えたところで、これまでの成果を振り返りつつ文章にまとめようとして、ずっと苦労している。各回、いずれもかなり深いところまで潜れた手応えがあるのだが、それをなかなか言葉にできない。
 その津田やtamaru、大上流一や高岡大祐の演奏を最近ずっと追いかけてきて、こちらも演奏の豊かさを、距離を隔てた視点から凝視し克明に記録するのではなく、あるいは音へと身を投じ響きに溺れてまぐわうのでもなく、両者を往還し包摂して聴くことの「厚み」がようやく触知できてきたように思うのだが、こちらもそれを叙述できない。
 困り果てて、何かヒントはないものかと手当たり次第に本のページを繰っているうちに、次のようなくだりに行き当った。

 「アンリ・ミショーは、クレーの色はまるで緑青や黴が『しかるべき場所に生えてくる』ように、原初の奥底から発生し、ゆっくりとカンヴァスのうえに生まれくるように思われるときがある、と語っている。芸術は構築、技法、空間と外部世界への技巧的関係ではない。それはまさしくヘルメス・トリスメギストスが『光の声に類似した』と言った『不分明な叫び』である。そして、その叫びはいったん発せられると、日常の視覚のなかに、ひっそりと眠り込んでいた〔物質化される以前の〕先在的諸力を呼び醒ます。水の厚みを通してプールの底のタイル床を見るとき、私は水や水面の反射にもかかわらずそのタイル床を見るのではなく、まさに水や反射を通して、水や反射によって見るのである。」【モーリス・メルロ=ポンティ『眼と精神』 富松保文訳】

 「さらに言えば映画においては、画面が一つの意図に収束することなど皆無であり、むしろ意図せぬ様々な細部が映りこんでしまっているものこそ、フィルムなのだ。(中略)蓮實重彦は、それをよく『フィルム的現実』『複数の要素の同時共存の場である映画』と形容していた。まさに『フィルム的現実』に寄り添うために、ひたすらスクリーン上にある光と音に身を晒し、視界を横切る運動、網膜の奥を突く光の明滅、脳髄を刺激する音声の抑揚……つまりは、現在進行形のすべての刺激に、無媒介的にオープンであり続けること。作者がどんな意図でそれを作ったのかは『どうでもよろしい』わけで、フィルムが映写機にかけられるより《過去》の出来事(作品の制作)と、フィルムが映写されている《現在》を切り離すことこそ、映画批評であるべきスタンスではないか、とずいぶん早い時期より看破していたのではなかろうか。」【舩橋淳「蓮實重彦/峻厳な切断」 『ユリイカ』2017年10月臨時増刊号「蓮實重彦」】

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「汀」 原田正夫


 言葉を書きつけ、そこに何かを引き渡し、委ねる。思考を外化することの利点は、それを「対象」として分析・操作できることにあるが、無論ご利益はそれだけではない。考えに行き詰ったことがあるものなら誰でも身に染みて知っているように、場所を明け渡し空っぽにすることにより、煮詰まった脳内にスペース(余白、隙間)が生まれるのだ。これにより強迫的な堂々巡りが止んで、鬱血/硬直していた思考がまた柔らかく揺らぎ始め、違う風を感じ、新たな香りに鼻をうごめかし、別のことに思いを巡らすことができる。
 『タダマス』は思考を触発し、何より言葉を誘う。それは確かな耳が選び取った強度に満ちた演奏のためかもしれないし、思いがけぬ類似を浮かび上がらせ、あるいは対比を際立たせる趣向を凝らした構成/配列のためかもしれないし、紹介される音源がすべてパッケージされた録音作品からの抜粋であるという共通の枠組みのためかもしれないし、あるいはやはり多田の予測不能に疾走するボケと益子の鋭く乾いたツッコミ、その外側を衛星のように巡りながら異なる視点を提供するゲスト、それぞれの眼差しや表情の雄弁な交錯と変化、そしてもちろん言葉が多方向から衝突/散乱し、さらにそれを取り巻く参加者が思い思いの方向に乱反射させるためかもしれない。

 この週末、4月22日(日)は『タダマス29』に行って、そこで一期一会の音との邂逅に身を沈め、一瞬ごとの「現在」に集中し、その残響を言葉へと譲り渡すこととしよう。そうすればいい加減慢性化した脳髄の腫れも引いて、その隙間に、別の角度から新たな光が射し込むかもしれない。

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益子博之×多田雅範=四谷音盤茶会 vol. 29
2018年4月22日(日) 
open 18:30/start 19:00/end 22:00(予定)
ホスト:益子博之・多田雅範
ゲスト:則武 諒(ドラム奏者)

今回は、2018年第1 四半期(1~3月)に入手したニューヨーク ダウンタウン~ブルックリンのジャズを中心とした新譜CDをご紹介します。
ゲストには、ドラム奏者の則武 諒さんをお迎えすることになりました。バークリー音楽大学出身で、ストレート・アヘッドなジャズから即興音楽まで幅広い領域で活躍される則武さんは、現在のニューヨークを中心としたシーンの動向をどのように聴くのでしょうか。お楽しみに。


 すでにお気づきと思うが、上に前掲している『タダマス29』のフライヤの写真素材は、中ほどに掲載している原田正夫「汀」にほかならない。「汀」はFacebookに投稿された写真だが、本作に先立って投稿されたコンクリート壁面のペンキ跡だという写真(氷が張った上に薄雪が積もった水面を覗き込んでいるようにしか見えない)、そして本作に続く「潬」と題された写真と共に、実際には存在しない奥行き方向(前後/浅深)に行きつ戻りつ視線が揺さぶられる感覚に魅了されるとともに、先に挙げた津田貴司やtamaru、大上流一や高岡大祐の演奏に感じた透明・半透明な層/厚み/深さの感覚との共振ぶりに驚かされた。白川静によれば「潬」のつくり部分は、壺状の器中にものを満たしているかたちを示し、長期にわたって味付けし、醇熟する意味であるという(うまい、ふかい、おおきい)。これにさんずいが伴う「潬」は水に関連し、「ふかい」、「ふち」を意味する。この感覚がメルロ=ポンティの指差す「プールの底のタイルの床」や蓮實の言う「複数の要素の同時共存の場である映画」(それは決してスクリーンという同一平面上の並置ではなく、パン・フォーカスな奥行きの中での共存、あるいはフォーカスや画面の枠からも外れた中での共存をも含んでいよう)に私の指先を立ち止まらせたのだろうか。
 しかし、それにしても、何と不可思議なシンクロニシティであることか。







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ライヴ/イヴェント告知 | 23:15:11 | トラックバック(0) | コメント(0)
禁欲的空間に流れる享楽的時間 ― 内田・大上・森重ソロ・ライヴ@ペルミアン  Epicurious Time in Stoic Space ― Live Review for Solo Improvisation of Uchida, Daijo, Morishige@Permian
 東急目黒線不動前駅から山手通りに出たあたりを歩いていると、環状6号線として後から整備された道路が、先にあった細街路網を斜めに貫いたからだろう、通り沿いに薄く削がれたような細長い三角形の敷地があちこちにあることに気づく。そうした敷地に建てられたカステラの切れ端みたいなテナント・ビルの鋭角に尖った角に、まるで巨大な掘削ドリルのように突き刺さった狭くて急な螺旋階段を降りると、何の表示もない殺風景なドアに突き当たる。先ほどまでの交通騒音と飲食店の賑わいが入り混じったざわめきは、もはや頭の上を吹き抜けるばかりで、ここはどこか取り残されたようにひっそりとしている。ドアを開けると、ピアノ用の椅子と小型のモニタースピーカーだけが置かれた、さらに音も色もない空間が広がっていた。

 まったく気持ちいいくらいに何もない。大上流一と増渕顕史という二人のギター奏者が運営する目黒・不動前のライヴ・スペース「Permian」は、彼らが希求しているストイックな集中をそのまま具現化した空間にほかなるまい。コンクリート・ブロックが積み上げられた壁、パイプが剥き出しのスラブ裏、小劇場にありそうな長いまな板様の板を渡した座席。モルタルの床は黒く塗られ、すぐ下に分厚いコンクリートがあるのか、叩いてもコツコツと鳴るばかり。30センチ四方の蓋状の部分だけが虚ろな響きを返して、下に空間があることを教えてくれる。スペースは居抜きのままなのかと大上に尋ねると、天井を剥がして高さを確保したとのこと。改めて見上げると、確かに2メートル程度のところに跡があって、そこから約50センチ上がっている。パイプをむき出しにしたものだから、最初、排水管の音がすごくて‥‥とこぼす。音が漏れないように工事をしてもらったが、それでも結構聞こえる時があるのだそうだ。そう話している時に、ちょうど暴れた音が噴き出してきた。決して大きい音ではないのだけれど。

 開演までの間、目を閉じて耳を澄まし、会場の響きに身を沈める。ライヴ前に行ういつもの個人的な儀式。コンクリートで密封された、エアー・ヴォリュームの小さな箱だけれど、音の行き場がなく響きすぎて鳴りやまないということはないようだ。先ほど話していても不自然さは感じなかった。1階の店舗で椅子を引く音がわずかに聞こえる程度で、外の音はほとんど入ってこないけれど、密閉された息苦しさを感じることはない。それでもコンビニのレジ袋の立てるパリパリいう音、新聞か何かをめくるさわさわした紙の響きが大きく耳元で響くのに気づく。これは以前に宇都宮の大谷石地下採掘場跡で体験したのと似た現象だ。擦れる音に多く含まれる高域成分の反射率が高くなっているのだろう。

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 最初に演奏する内田がヴォリューム・ペダルやエフェクター類の準備を始める。あまりの静かさに振り返って、「緊張するなあ」ときまり悪そうに笑う。
アコースティック・バス・ギターのソロ演奏。右手と左手がパシッと弦をとらえ、振動させると同時にミュートする。ブーンとPAから小さく鳴り続けるノイズの手前で、一瞬だけまたたく光源。けっしてまぶしくはない明滅を見詰め続けると、閃きの後に広がる余韻の揺れが見えてくる。ふっと浮かんでは、すぐに薄らいでいくほのかな明かるみ。メロディを紡ぐことも、リズムを刻むこともなく、一音一音、ふっと浮かんでは、すぐさま薄らいでいくほのかな明かるみは、琵琶の響きが丸くなったようにも聴こえる(あの張り詰めた彫りの深さはない)。暗闇で次第に眼が冴えてくるように、先ほどまでは気づかなかった外の音が聴こえ始める。車の通行音の向こうに山手通りを高架で渡る目黒線の車両らしき音が浮かぶ。ふと現れるアルペジオのもたらす叙情。階上から響く椅子の音。複数の弦をこねくり回す右手と指板の上を子ネズミみたいにパタパタと走り回る左手。左手のポジショニングが指定した音高を右手が顕在化させるというより、ある一瞬に右手と左手が交錯し、ぶつかり合う。だが、それは決して身体の運動に任せた、行き当たりばったりなオートマティズム(自動筆記)ではない。そこには一瞬ごとのゆるやかな切断がある。さらさらした水音が浮かんでくる。結局彼は1回もペダルを踏み込むことなく、接続したエフェクター類をまったく使わぬまま演奏を終えた。


 使われることのなかったスピーカーが後ろの壁際に片付けられ、大上はピアノ用の椅子の高さを慎重に調節すると、ケースからアコースティック・ギターを取り出し、そのまま何気なくすっと音を出し始めた。弦の調子を確かめているのかと思ったら、単音の連なりに弦を擦る音が混じり、すでに演奏が走り出していることに気づく。
音の明瞭度は凄まじく、ギターの輪郭が消え失せ、中空で何の支えもなく、音だけが鳴っている。弦の振動に放たれた音響は、通常のように周囲の空気を震わせ、波となって空間を渡り、聴き手の耳へと届けられるのではなかった。中心部で何かが爆発し、四方八方に閃光が迸り、その瞬間に聴き手の身体を貫き通す。途中でこぼれ落ちるものの何もない「ロスレス」な空間。
ここでゆるやかに連なり、大きな弧を描き出すひとつひとつの音は、決してメロディやフレーズに組み込まれ/囚われた「部品」的存在ではない。あるかたちを描き出しながらも、それらはそれぞれ異なる距離に位置し、互いに違う方向に動いている。星座を構成する星々のように。あるいは一見脈絡なく、切れ切れに想起される夢の中の場面のように。ゆったりとした運び、深い呼吸。ゆるゆると密やかに進められる演奏は、だが断固として、あらゆる瞬間に、あらかじめ敷設された木道を外れ、音響の原野へとさまよい出ることをやめない。
 振り下ろされたピックが弦に触れることなく空を切る。通常、「空ピック」とはリズムをキープするための手法なのだが、ここではむしろリズムを音のもつれや交錯に、あるいは異なる間合いの重ね合わせへとほどいていくために用いられている。きらきらと鮮やかに輝く音列の陰にぼんやりと滲んだ文様が沈み、音のかけらがはらはらと散り落ちていく。かすかな水音が床を這うようにずっと続いている。


 演奏を終えた大上がギターと椅子を片付け、本当に空っぽの舞台が姿を現す。森重が改めて愛用の椅子を組み立て、床のチェロのエンドピンが当たる位置にスペーサーをセットし、ケースから楽器を取り出す(アンプは用意していない)。その都度、ゼロ・リセットされる空間。
 弦のかすれ。幽玄な響き。運弓の加減速が、磨き上げられた鏡面からごろごろと岩だらけのひび割れた大地に至るまで、音響表面の肌理を露わにする。直接ぶつかってくる音の鮮烈さが凄まじい。
彼の演奏は、垂直に立ち上がり、真っ逆さまに響きの深淵を覗き込む、たぎるような音の強度に満ちたものから、音響宇宙の探索を終えて、次第に音素材を限定し、それらを組み合わせる語法の洗練へと向かっているのではないか‥‥。ぼんやりとそんな風に感じていたところを、ソロ2作目となるCD『ruten』にいきなり横っ面を張り飛ばされた。圧縮され煮えたぎった、凍り付き張り詰めた、顕微鏡下で眼の眩むほど拡大された、どうやって録音したのかわからない、とても生では体験不可能な音響の強度が、そこには台風で水かさを増した濁流のようにうねっていた。
 Permianの「ロスレス」な空間は、彼の演奏の苛烈さを余すところなく曝け出した。弓を弦に打ち付け、そのまま弾き切る際の隆起と溶融。深く切り込む弓弾きに僅かに混ぜられるリュートの爪弾きにも似たピチカートの粒立ち。駒に当てられた弓が放つ裁断されたばかりの白木のつんとした香り。テールピースの上を繰り返し繰り返し折り返す弓の動き/滾々と湧いてくる深い深い響き/弓が駒に近づくと弦の鳴りがぼうっと燃え上がる。

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 この2月20日(火)のライヴの後、24日(土)にPermianでソロ演奏したtamaruが、この場所について、次のように述べている。
「ペルミアン」について演奏する側から感じたのは、心の鎮まり方が違う!本気度の高い空間です。あの地下空間に足を踏み入れること自体、特別な体験のような気がしてきます。

 ストイックな集中のために、余計なものをすべて取り除いた部屋。しんと静まり返りながら、ぴりぴりと励起し、張り詰めた中で常に何かが生じていて、それらの生成が全て音響/振動となり、身体へと漏れなく届けられる空間。耳だけで聴いていたのでは足りない、聴取の、聴取による、聴取のための場所‥‥。そんな風に言うと、禁欲的な誓いを立てた者だけが立ち入ることを許される修道院や禅寺の僧坊のような誤った印象を与えてしまうかもしれない(笑)。もちろんそんなことはない。頭も身体も空っぽにして、聴取にすべてを捧げ、音に身を浸し、満たす。それ以外何もない贅沢で享楽的な時間がここにはある。

 明日3月2日(金)は、この日、それぞれソロで演奏した大上と森重が、今度はデュオでPermianに登場する。彼らは以前に大上の企画するShield Reflectionのシリーズにより、水道橋Ftarriで3回に渡り演奏し、いずれも、思考の、呼吸の、皮膚感覚の推移が、そのまま音と化したような極端な純度の高さが素晴らしかった。参照項として、Derek Bailey&Barre Phillips『Figuring』(Incus)とDerek Bailey&Joelle Leandre『No Waiting』(Potlatch)を挙げておこう。彼らの演奏はPermianの「ロスレス」な音響空間との遭遇で、どのような変容を遂げるだろうか。楽しみだ。


2018年2月20日
目黒・不動前Permian
品川区西五反田3-14-4 Kakutani レイヴァリーB1
内田 静男(acoustic bass guitar)
大上 流一(acoustic guitar)
森重 靖宗(cello)
すべてソロ演奏

写真はいずれも2月24日tamaru撮影。




ライヴ/イヴェント・レヴュー | 23:26:52 | トラックバック(0) | コメント(0)
共振する息、蘇りの空間 ― Dead Man's Liquorライヴ・レヴュー  Resonant Breath, Revenant Space ― Live Review for Dead Man's Liquor
 「Dead Man's Liquorは俺の人生最後のバンドになる」と高岡大祐がFacebookに書き込むものだから、「これは体験しておかないと一生後悔しそうだし、行かなかったせいで、あんなデカいのに化けて出られてはたまらない」と初めて訪れた阿佐ヶ谷Soul玉Tokyo。トロンボーン、チューバ、ギター、ドラムという、チューバがフロントとベースを目まぐるしく兼任する4人編成での彼らの初ライヴは、「なるほど」と納得させる素晴らしい出来だった。ただ、その時に高岡が「次からはベースの瀬尾高志が入ります」とアナウンスしたのが、ずっと気になっていた。

 チューバがフロントに徹すると、アクロバティックな「綴じ目」が消失して、何というか「フツー」になってしまうのではないか‥‥などと危惧していた私がバカだった。今回、高岡の現在の「地元」(居所かつ勤め先)たる十条に現れた5人組の彼らは、以前とは全く別のイキモノだった。まず馬力が違う。冒頭のローランド・カークの曲で、チューバとトロンボーンががっちり四つに組んだテーマ吹奏の分厚いこと。「ゴジラ、ニューオリンズに現る」だ。ソロでは天井に向けて音が噴き上がり、ベルがこちらを向けば波動砲が飛んでくる。コントラバスはアンプをつないで、ラインを深く彫り刻み、ブローで内側を鋭くえぐる。エレキ・ギターはブラス2本の波間からイルカのように鮮やかに身を躍らせるかと思えば、リズミックなリフを執拗に繰り返し、ここぞとばかりにドラムを煽りまくる。

 ドラムの藤巻鉄郎こそは本日のMIPだろう。客席も、ステージ上の演奏者たちも熱狂の渦に巻き込んだ、スティックを折るほどの底なしの叩きまくりドラム・ソロは、確かに絶賛に値する。しかし、私としてはそれ以上に、高岡や後藤篤のオリジナル曲ではなく、「朝日の当たる家」や「ヘイ、ママ」といった「構造化されていない曲」で、思いっきりフレーズをうねらせ、音を揺すり、サウンドを濁らせて厚みを増し、地響きを立ててのしかかってくる他の面々の「濃い」サウンドに対し、決して隙間を埋めてしまうことなく、切れ味鋭い打撃でくっきりと空間を確保し続けた(「リズムをキープし続けた」ではないことに注意)営為を何よりも高く評価したい。これにより互いの音が風通し良く「交通」する空間が生まれ、この奇跡のアンサンブルが成立し得たといって過言ではない。影のMVP。

 一方、バンマスの高岡は、曲間にトイレに行ったメンバーが戻るまでMCで穴埋めし、「サイコー」を連発して、感極まって叫び踊り出すだけでなく、ステージ上でのリアルタイムのアレンジメントに冴えを見せていた。律儀なまでに順番にソロ回しをするかと思えば、いきなりリズム隊(ギターを含む)だけを放り出して自力で局面を切り開かせ、後藤に耳打ちして2管の短い掛け合いを挿入し、自らのフレージングでテンポの加減速を仕掛ける。

 話を再びフロントの2管に話を戻すが、後藤篤が当日の感想をFacebookに書き込んでいて、「あんな息の量にスピードかけて吹く事はそう無いんだけど、高岡大祐のチューバと2管だと単純にああなるんだよ」と告白している。フレーズでも、音色でも、音量でも、ましてや音程でもなく、息の量とスピード。素早く手が動いて頬を叩き、優しく髪を撫でる‥‥それと同じように熱く火照った息が聴き手の身体に触れてくる。楽器を鳴らすために息を吹き込むのではなく、身体から息が走り出て、息同士ぶつかり合い絡み合い、噴き上がり舞い降りて、押し合いへし合いし、別の息と混じり合う。ここで楽器の管は、演奏者と聴き手を、そしてもちろん演奏者同士を結ぶ「伝声管」にほかならない。

 だが、この日のMVPは、藤巻でも、高岡でも後藤でも、桜井でも瀬尾でも、瀬尾の幼い愛娘でもなく、会場となった十条cinecafe sotoの空間ではないか(Most Valuable Place)。阿佐ヶ谷の倍以上幅のあるゆったりとしたステージと天井の高さ、客席の奥行きとのバランス、エア・ヴォリュームの大きさとアコースティックが、すべて確実にプラスの方向に働き、彼らの特質を引き出していた。客席左手に広がるバー・スペースも、響きが充満・飽和しないために重要な役割を果たしていたと思う。店名通り、フィルムによる映画上映を行うために据えられた35mm用映写機が、ステージ後ろの壁にくりぬかれたガラス張りの開口部の向こうに、守護神のように鎮座していたことも、高岡がMCで何度も語ったように、酒と死に彩られた生、生と音楽に縁取られた死、この一瞬に蘇りとめどもなく噴出する「記憶」をテーマとする彼らにはふさわしかった。最高の環境と舞台装置。屈託なく歓声を挙げ、手拍子をする聴衆も決して内輪ノリではなく良かった。ぜひまた、この場所で演奏してほしいと願っている。

180220シネカフェソト縮小
写真は仲摩武二郎様のFacebookより転載させていただきました。


2018年2月20日(火)
十条cinecafe soto
Dead Man's Liquor
 高岡大祐tuba
 後藤篤tb
 桜井芳樹g
 瀬尾高志b
 藤巻鉄郎ds


【オマケ】
 十条が新宿から埼京線で11分と意外に近いことを知ったのも今回の成果だった。それでも出発が遅れ、高岡がFacebookで紹介していた店で腹ごしらえしようと考えていたのだが、それでは開場時刻に間に合わずオアズケに。でもそれがかえって幸運で、cinecafe sotoのフードのうまさを知ることができた。今回、2ドリンクか1ドリンク・1フード付きとのことで、最初、1フードとしてパイ生地から手作りだというキッシュを注文。ゴロリと大きめの具材のうまさに、調子に乗ってチリコンカンのバターライス添えも追加オーダー。これもうまかった(かなりホット)。鶏唐揚げのポテトサラダ添えにも惹かれたが、さすがに自粛。
 なお、前述のように空間の面白さは特筆モノ。駅前ロータリーからいきなり地下へと降りる階段は後から取り付けたらしく、階段を上がって左手に回り込むトイレへの動線空間があり得ない形状をしている。劇場の舞台裏とかに近い。地下の壁沿いにあった階段(LP置き場になって封鎖されている)も、それ風だった。本当に映画館だったのかもとスタッフに訊いてみると、元は牛乳屋で、地下はその倉庫だったとのこと。だけど牛乳屋の倉庫ってこんなに広いのか。乳牛でも飼ってたのか。まったく訳が分からない。バー・カウンター周りはラウンジ風の仕上げで、手製と思しきピカピカの管球アンプがセッティングされている。ステージの裏側にある映写室を覗くと、フィルム・リールの置台が不思議な形をしていて、レトロ・フューチャーなオブジェみたい。フランソワ・バシェの音響彫刻にも似ている。
十条cinecafe soto(シネカフェ ソト)
東京都北区上十条2-27-12 スズキビルB1
TEL/FAX 03-3905-1566
http://www.cinecafesoto.com/




ライヴ/イヴェント・レヴュー | 00:15:35 | トラックバック(0) | コメント(0)
補助線の効用―『タダマス28』レヴュー  Additional Lines Are Useful― Review for "TADA-MASU 28"
 前回欠席したため半年ぶりとなった『タダマス28』は、益子による選択・配列と多田の放言が冴え渡る回となった。前半が「ギター特集」で後半が「ピアノ特集」と紹介された、この日のプログラムは、その「分割」を越えて、幾つもの照応の線を縦横に走らせ、聴取の豊かな可能性を明らかにしていたように思う。
 このことを示すため、今回のレヴューでは『タダマス28』で採りあげられた全作品に言及するが、それでも特定の視点/切り口からの紹介であり、「タダマス」の特長であるホストとゲストのやりとりを含めた全貌を示すものとはなっていないことを、あらかじめお断りしておく。


 開幕はMary HalvorsonとMiles Okazakiのツイン・ギターによるMasada曲集『Paimon - Book of Angels Volume 32』(Tzadik)。Masadaとはジョン・ゾーンがオーネット・コールマンのオリジナル・クワルテットのピアノレス編成をあえて引用しながら、徹底的な解体/再構築によりクール・ジャズ化=ジャズの白人化を極限まで推し進め、これによりジャズにオマージュを捧げるという、ジェイムズ・ジョイス的とも言い得るハイ・モダニズムの欲望を露わにしたプロジェクトだった。しかし、ここにはもはやそうした針の振り切り加減はなく、色とりどりの線が互いに速度を競いつつ、表裏が不断に入れ替わり、ねじれながら伸長していく極めて抽象的な世界が開けていた。続くHalvorsonとBrandon Seabrookのツイン・ギターがダブル・トリオ編成に組み込まれたTomas Fujiwara『Triple Double』(Firehouse)では、各演奏者の関係性が縦横に整理されてしまうが故か、演奏の駆動力がいささか欠けるように感じられた。
 

 三枚目、Seabrook の参加したVinnie Sperrazza Appocryphal『Hide Ye Idols』(Loyal Label)でいよいよエンジンが暖まってきた印象。アルト、ギター、ベースが一体に溶け合った持続音が水平にたなびき、時折打ち鳴らされるシンバルの余韻が輝きを放つ。誰とクレジットされていない電子音の細やかなさざ波が空間を遷移し続ける。ここでエレクトロニクスはそれ自体ひとつの音響として鳴り響くだけでなく、他の楽器の響きの一部を採取して、空間の各所に転移/増殖させているように感じられる。順に一次元、二次元と来て、響きの奥行きが三次元的に感じられる本作品の空間性は、だがこの電子回路の作用により、暗闇に仕込まれた幾つもの合わせ鏡のような不可思議な反射/転写ぶりを示しており、虫食い穴だらけの、きっちりと割り切れない余剰の次元を持つように感じられてくるのだった。そのSeabrookのリーダー作『Brandon Seabrook's Needle Driver』(Nefarious Industries)では、三枚目で遍在していた電子の雲はギターのエフェクトへと集約され、弦から迸り出る渦巻きねじれるリフレインから、破片となって改めて四方へと飛び散っていく。これだけを聴いたら「空間系エフェクト使いの巧みさ」とだけとらえられかねない達成が、ここまでの一連の展開により細部まで照明を当てられることになる。だがしかし、益子が「オルタナ・メタル的」と紹介していたように、フランク・ザッパの曲をロバート・フリップが演奏しているような、複雑な構成が眼前で組み変わる「合体ロボ」的快感が魅力なのも確かだ。
 

 対してTodd Neufeldを含むas, tb, gのトリオによる『In Formation Network』(Nuscope)は、全く異なる方向から空間に眼差しを送る。ジョン・ゾーンのプロジェクトNews for Lulu同様、Jimmy Giuffre, Bob Brookmeyer, Jim Hallのトリオに範を得た演奏は、オリジナルの二管が織り成す対位法的な絡みと推移するギターとのリズミックな照応とも、News for Luluの変形自在な速度溢れる流動感覚とも異なる達成を成し遂げていた。それはひとことで言うと、異なる温度の空気が相互に浸透しあうような、気体同士が入り混じる感触だ。ぶつぶつと静かに唾液が泡立つアルトがフレーズをどこまでも引き伸ばし、ゆるみほどけて音自体の重みで落下してしまいそうなところをトロンボーンの持続音が裏打ちし、煙が漂うように支えている。上下に重なり合っていることは明らかながら、輪郭が溶けて曖昧な二管の音色に満たされて深さの見通せない空間の奥の方で、ギターの点滅が奥行きを構成する。演奏が進むにつれ、三者の音はさらに脆く壊れやすさを増しながら、谷へと舞い降りる雲や霧が溶け合うように入り混じる。濃霧に視界が閉ざされる中でもつれ合う息の指先。実はここでプレイされたトロンボーンのヴァーチュオーソSamuel Blaserのペンによる曲「Pieces of Old Sky」は、本作中に2テイク収録されており、比較のために益子もうひとつのテイクの冒頭部分を披露してくれたが、そちらはフィギア・スケートに「トリオ」という種目があったらかくや‥‥と思わせる自在に役割を交替しながらの滑らかな運動性を、オリジナルやNews for Luluと共有するものだった。そちらがtr.2なのに対し、採り上げられた音源が最後のtr.9に置かれていることが、その特異さを示しているように思われる。
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 後半の幕開けはManasonics『Foley』(dStream)。「ピアノ特集」と言いながらBenoit Delbecqのピアノは決して前景化することはない。「映画の音響設計を担当している」と紹介されたNicolas Beckerの手腕なのだろう、シンバルの震え、ピアノの遠い響き、シンセサイザーの不気味な屈折が、粒子の粗いモノクロ画面の中で野外の音や鐘の響き、語られるセリフと対等に混じり合う。実に見事な音響空間の構築ぶりではあるのだが、これならDelbecqがピアノを弾く必要はなく、Steve Stapleton(Nurse with Wounds)にファウンド・テープを渡せば済んでしまうのではないかとも思う。その一方で、一見、器用貧乏風にいろいろ風変わりなことに節操なく手を着けているように見えるかれが「同じことを繰り返しながら深めている」(多田)のも確かなのだが。
 このように曖昧な不透明性を有する本作が後半の冒頭に置かれ、実は続くBorderlands Trio『Asteroidea』(Intakt Records)及びそれ以降への巧みな補助線となっていることに、後から気づかされた。Kris Davisのピアノのプリペアドによりミュートされくぐもった響きと、音高を微妙に揺らし泳がせるベース&ドラムが空間の広大さを際立たせるように希薄に配置される。Nicolas Beckerの仕事ぶりを先に聴いているせいで、録音やミックスがごく普通で、音場としてステージの限定された広がりを浮かび上がらせてしまうがゆえに、もっと遠近の隔離をはじめ入り組んだ空間構築を欲する演奏者の想いが果たせていないのではないか‥‥とどうしても想像してしまうことになる。潜在的な可能性を可視化する見事な配列と言えよう。
 2台のピアノの共演であり、2人の女性ピアニストの「対決」でもあるEve Risser, Kaja Draksler『To Pianos』(Clean Feed Records)から、このトラックだけは他の収録曲と全く違うという「To Pianists」を選んだところにも、同じ耳の眼差しは働いているように思う。e-bowによるのだろうか空間に滲みを拡げる強靭な持続音と、ワニ口クリップ等の素材によるプリペアドを想像させる足元が傾くような低音の揺らぎに、各種内部奏法や筐体各部を鳴らす音響が細かな傷を付けていく。共演/対決が前提としている2台のピアノ、2人のピアニストという輪郭を脱ぎ捨てた、自他未分の曖昧で薄暗い混合領域に向けて、全身の皮膚感覚がそばだてられているのがひしひしと感じられる。カヴァーの絵柄に描かれている2台のピアノから流出するエクトプラズム(?)が混じり合う位相に。グランドピアノの降霊術。
  

 Miya Masaoka, Zeena Parkins, Myra Melford『MZM』(Infrequent Seams)もまた、ピアノを「一人オーケストラ」たる「楽器の王様」の地位から引き摺り下ろし、21弦箏とハープの間に放り込んで、「枠組みに長い弦を何本も張り巡らせた弦打楽器」という自らの生理/出自に目覚めさせる試みととらえたい。弦を直接こする音の応酬となる中でも、箏のゴツゴツとしたマテリアルな輪郭を持つ響き、ハープのエレクトロニクスに変形/溶解された流体的な滑らかさ、プリペアドによりトイ・ピアノを思わせる愛らしく優美な天上的な希薄さを獲得したピアノが、それぞれ浮上と潜行を繰り返し、「奥行きを探る構え」(多田)を見せる。


 本編の締めくくりはエクストラ・トラック的にヴォイスをフューチャーしたJen Shyu『Song of Silver Geese』(Pi Recording)。Mat Maneriのヴィオラが笙の如く鳴り響き、フルートが竹の掠れを帯びて、東アジアの民族楽器を擬態しつつ、呪術的ヴォイスの周囲を取り巻く。しかし、アンサンブルの要はここぞという経絡に正確に鍼を打ち込み、揺らぎ広がる時の流れをピッと引き締めるThomas Morganのベースにほかなるまい。台湾と東ティモールにルーツを持ち、東アジア圏でのフィールドワークで得た素材を活用して、NYで活動する彼女については、その学究的な姿勢は高く評価するものの、「アジア系の出自(しかも女性)を持つが故に、(西欧)世界の中心たるNYにおいて、アジアの文化を特権的に発信し得る」‥‥というポリティカル・コレクトネスを誰にも対抗し得ない「伝家の宝刀」として背負っているように感じられて、黒人文化に関するMatana Roberts同様、どうにも居心地の悪さを感じてしまうことを白状しておこう。



 この日は7年目の締めくくりとあって、2017年のベスト10があわせて発表された。そのラインナップについては益子のページ(※)をご覧いただくとして、選出作品を振り返りながら益子が何度も漏らしていた「長く聴かないとわからない」というつぶやきを書き留めておきたい。これは作品/演奏の価値を示す、聴き取るべきポイントが、ちょっと聴けばわかるようなサウンドの新奇さ、スタイルの斬新さ、新たな演奏技術や語法、アンサンブルの組織や統御のシステムにはもはや存在せず、一定程度の持続に注視し続けて初めて感得し得る領域へ移行していることを示している。そこで進行しているのは、音響の淵に深く身を沈め、空間の隅々にまで感覚を張り巡らせ、しかも時間経路に沿って絶え間なく微積分を繰り返えさなくてはとらえ得ない事態なのだ。30秒あるいは1分の試聴で耳目を惹き付け、すぐにわかるように下線を引かれた特質をさらに経歴や人脈やトレンドにひも付けして、これでもかと貧しく記号化してやまない「音楽ジャーナリズム」と彼らが鋭く一線を画するのは、まさにこうした必然的な相違の結果であって、海外事情通のエリート主義やマニアックなオタク気質の産物ではないことを何度でも確認しておきたい。そしてそれこそが、私にとって「タダマス」に毎回通う理由になっていることを。
※http://gekkasha.jugem.jp/?cid=43767


益子博之×多田雅範=四谷音盤茶会 vol. 28
2018年1月28日(日)
綜合藝術茶房 喫茶茶会記(新宿区大京町2-4 1F)
ホスト:益子博之・多田雅範
ゲスト:加藤一平(ギター奏者)




ライヴ/イヴェント・レヴュー | 19:30:39 | トラックバック(0) | コメント(0)
はるか前方を疾走する自分の見知らぬ背中  Unfamiliar Back of Myself Running Fast Far Ahead
 前回掲載の「タダマス28」の案内記事に対し、ホストのひとりである多田雅範が、自身のブログで素早く鋭いリターンを返してきた。
 http://www.enpitu.ne.jp/usr/bin/day?id=7590&pg=20180125

 冒頭からいきなり、思っても見ない方向から球が飛んでくる。

 タダマス(益子博之+多田雅範)、7年、これだけ性格も耳の特性も女性の好みもチガウ二人が一度も仲違いせずに、耳の経歴も愛聴曲もチガウ二人が、こと現代ジャズに関しては”ほぼ一致した見解に”到達し続けていて、それが世界のメディアやジャーナリズムとほぼ同じ風景となっていることは、「亀戸ホルモンたべてえなあ」「月光茶房いつ行こうか」とだらだらしている不良中年二人のユルさからは想像もできないくらい、すごいことなのではないのか、

 ‥‥って「自慢するのはそこかいっ」と、思わずモニターの前でツッコミを入れてしまい、まんまと多田の術中にはまってしまう。


 打ち合わせで益子さんちで新譜チェックをしていると、ああこの人は音楽の神さまに選ばれているなと思う、畏怖さえ感じることがある、つまりはタダマス四谷音盤茶会とは益子セレクトそのものが批評なのだ、どうやって知ったの、どうしてこの曲なの、これは何の音なの、矢継ぎ早に質問をしてはオレは手にしていない耳の着眼点を探ってゆく、

 ‥‥と多田の書き込みは続く。最後の部分に注目。彼は矢継ぎ早に質問を発する。だがそれは「(彼がまだ)手にしていない耳の着眼点」を探るためであって、聴取の体験を音源に関する情報の束に還元するためでは決してない。ここで質問を発した彼は、答を待つ彼の身体を置き去りにして、発せられた質問を追いかけて疾走しているのだと思う。次々に発せられる質問は、多方向に伸びていくセンサーの触手であり、ここぞという箇所にたどり着いては、深々と探査のためのゾンデを挿し込み、内部のうごめきを聴診する。

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 「集まって聴く、と、音楽は様相を変える、のは、スピーカーや空間特性のせいだけじゃないだろう」(多田雅範)。
  ”それは人目を気にするとか、「同調圧力」などとは異なる。他の者が同じ対象を注視していると肌で感じながら聴くことにより、音の出し手と受け手の1対1幻想が崩れ、対象への自分勝手な自己投影が成立しなくなる。聴取はナルシスティックに自己完結せず、不安定に移ろいながら開かれることとなる(映画館がなぜ今でも館内を暗くし続けているのか考えてみよう)。”(福島恵一)

 ‥‥と私の記述を引用しながら、多田は次のように高らかに宣言する。

 オレの武器は「1対1幻想」に属する比率がべらぼうに高いところ、何たって音楽は人格だからね、その、独りで聴いている感想、が、タダマス会場では一瞬にして消失してしまい、まるで初めて聴いたかのような体験に晒されているような感覚になって、何かを口走っているようなのだ、ワタシはそのワタシを後方から眺めているに過ぎない、ってカンジ、

 ここで「タダマス」の場は、「1対1幻想」という強力極まりない認識・思考の制度を解体・無化してしまう空間として描き出されている。これは通常のレクチャーが暗黙の前提としている「教室型」の空間スキームとは正反対だ。「教室型」では正解はただひとつであり、それは「教師」が隠し持っている。正解の愉悦も、不正解の落胆も、正解にたどり着いたと信じる者たちの交わす親密な目配せも、逆にたどり着けていない者たちがあからさまに共有する床に落とされた視線と丸まった猫背も、この秘匿された正解のもたらす権威の産物にほかならない。
 しかし「タダマス」では、普通なら正解を背中に隠し持っているはずのホストが、「まるで初めて聴いたかのような体験に晒されているような感覚になって、何かを口走って」しまう。そのイタコの口寄せにも似た託宣は、初めて聴く音に触発されて各参加者の脳内に生じた不定形の思考を、さらに励起し解き放つことになる。多数の「1対1幻想」を束ねて、安定した「1対多幻想」のピラミッドを築くのではなく、「1対1幻想」からそれていくクリナーメンの運動を活性化し、錯綜する「雲」をつくりだすこと。

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 「タダマス」での「託宣」について多田はFacebookにこう書き込んでいる。「直前まで思ってもみなかったことを言っているなあと思うことがある」
その時、「直前まで思ってもみなかったことを言っている私」は、「直前まで思ってもみなかったことを言っているなあと思う私」のはるか前方を疾走しているのだ。矢継ぎ早に為される質問の射出速度よりも速く。次の瞬間、はるか遠くに小さく揺れていた見知らぬ背中が突然大きくなり、眼前に迫ったかと思う間もなく私の輪郭と重なり合い、いまここに座っている。益子が次の曲の紹介を始めている。「タダマス」はまだ終わらない。

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ライヴ/イヴェント告知 | 00:11:26 | トラックバック(0) | コメント(0)
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