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福島恵一

Author:福島恵一
プログレを振り出しにフリー・ミュージック、現代音楽、トラッド、古楽、民族音楽など辺境を探求。「アヴァン・ミュージック・ガイド」、「プログレのパースペクティヴ」、「200CDプログレッシヴ・ロック」、「捧げる-灰野敬二の世界」等に執筆。2010年3~6月に音盤レクチャー「耳の枠はずし」(5回)を開催。2014年11月から津田貴司、歸山幸輔とリスニング・イヴェント『松籟夜話』を開催中。

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音楽がつくられているとき ― 「ライブラリ」ライヴ@喫茶茶会記20170311レヴュー  Music in Making - Live Review for Library@Kissa Sakaiki March 11th, 2017
 後半の6曲を一気呵成に駆け抜けた彼らを、止むことのない拍手が包む。蛯子の音楽に対する誠実さ、真摯さがまっすぐに伝わってくるライブラリのライヴは、いつだって聴衆の暖かな賞賛に迎えられているのだが、この日、彼らのホーム・グラウンドと言うべき四谷三丁目喫茶茶会記に詰めかけた、以前より増えた聴衆は、明らかにいつもと様子が異なり、身体の内側からこみ上げる何物かに突き動かされ、熱に浮かされたように一心不乱に掌を打ち合わせていた。

 彼らは昨年10月1日に、ふだんは蛯子がセッションの受け皿を提供している横浜ファーストという、「いつもとは違う場所で」で演奏した(※)。包容力のあるベース奏者としてセッションの場を変わることなく支えている蛯子を、古くからの友人のように歓待した横浜ファーストの聴衆たちは、「あまりに個人的な音楽」であるライブラリの演奏に明らかにとまどい、頭上に疑問符を浮かべていたように思う。その「違和感の匂い」に包まれて体験した彼らの演奏は、ピアノがグランドになったり、カホン中心のパーカッションが簡素ながらもドラム・セットの体裁を纏ったりという変化もあって、そのさらに1年前に行われた、蛯子が初めてエレクトリック・ベースを持ったライヴからの「成長」を如実に感じさせるものとなっていた。
※当日のライヴ・レヴューを参照。
http://miminowakuhazushi.blog.fc2.com/blog-entry-411.html

 その後、彼らにしては珍しく短いインターヴァルで、11月30日にホームである四谷三丁目喫茶茶会記に戻ってライヴが行われた。この時の彼らの演奏が、自分の中で鮮明な像を結び得なかったことを白状しよう。それは彼らのライヴ演奏を、1回1回完結するものとしてではなく、時の推移の中で変容していくものとしかとらえられなくなっていた、私自身の問題なのかもしれなかった。
 以上を前置きとして、この日、3月11日の彼らの演奏に触れるとしよう。

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 メンバーの配置は前回の茶会記ライヴと同じ。すなわち中央奥に三角が座り、左手の隅に井谷のドラム、右手の壁際に飯尾のピアノ、右手前に橋爪のテナーとソプラノ、そして左手前にエレクトリック・ベースの蛯子。蛯子の足元のエフェクター類が以前より随分増えてるね…という話を益子博之とする。いやあこれだったらもっとラウドに歪ませたらいいんじゃないのって前に彼と話したんだよね…とは益子の弁。それは楽しみだと応じながら、そう言えば、蛯子の前の譜面台って以前からあったっけと思う。しかも内向きに建てられている。
 程なく控え室からメンバーが現れ、それぞれ所定の位置に着く。やはり蛯子は横(内側)を向いて演奏するようだ。これによりメンバーの配置はV字型ではなく、ゆるやかに円環を閉じる形になる。譜面を見るためか、蛯子は今日、眼鏡をかけている。

 この日の彼らの演奏がどんなものだったか、どれほど素晴らしかったか、どこからどのように説明すれば伝えることができるだろう。

 まず、ドラムとピアノが思い切りシンプルに音を絞り込み、太くはっきりとした筆致でリズムを打ち出して来た。ドラムはシンバルの叩き分けやシンコペーションの効いたアクセントを抑え、バスドラとスネアを中心にビートの軸線を刺し貫き、力強い打鍵によるピアノのリフレインがそこにかっちりと重ねられる。音像は決して滲むことなく、切れ味の鋭さも変わらない。テナーもまた音数を極端に絞り込み、フレーズを簡素化して、リフレインでリズムに加担するかと思えば、時には抑揚の変化だけでソロを吹き切る「最短距離」の演奏を見せる。こうしたパンキッシュな加速にもかかわらず、そこに騒々しさはない。音に粗雑な暴れがないからだ。一見無骨でありながら、構造と形態の一致した建築の示す優美な繊細さがそこにはある。
 一方、エレクトリック・ベースは、時に頻繁にエフェクターのスイッチを踏み替えながら(※)、太い中にも芯を感じさせる剛直な音から、茫洋としたアタック、湯気のようにもうもうと立ち上る音色、混沌としたドローン……と相貌を変えながら、激しく搔き鳴らされてゔわーんと空間を埋め尽くすに至るまで変幻自在に響き渡り、ぶいぶいとアンサンブルを追い立て、ぐいぐいと構築されたリズムに食い込み、ひとり直立して震え、ビリビリパチパチと放電したかと思えば、マッシヴな厚みで津波のようにすべてを押し流し、ついには覚めない悪夢のように聴衆にのしかかる。
※後で蛯子に確認したところ、特に頻繁にオンオフしていたのは「フリーズ」というエフェクターで、その場の出音をサンプル&ホールドするものだとのこと。オンして保持した土台にさらに音を上書きし、またオフして描き直す場面が多かった。

 ……と、こう書いてしまうと、エフェクターによるベースの音色変化がポイントのようだが、実はそれだけではない。この日、蛯子はベース弦に対し果敢にアタックし、時に弦が歪むほどの強烈なピッキングを見せ、あるいはまるでシューゲイザーのように弦を搔き鳴らした。空間的なエフェクトとは異なる生々しいうねりやねじれ、歪みは、アンサンブルを強力に賦活するとともに、サウンド全体に「ライヴ・ミックス」的な、通常のジャズ・コンボやソング・フォームとは全く異なる音響配置への可能性を開いていた。と同時に、その強烈な存在感によりアンサンブルをコンダクトし、ギアを切り替え、激しい加減速を行った(作曲者である蛯子自身も譜面台を用意し、さらに蛯子の手元が見えるようメンバーの側を向いたのは、おそらくこのためではなかったか)。
 こうした変化は、単にリズムの強化やサウンド・パレットの拡張だけでなく、まったく新たな事態をグルーブにもたらした。逸脱の自由度が極端に高まったのだ。どういうことか。ライブラリのレパートリーは基本的にすべて蛯子の作曲によるものであり、メロディー、リズム、ハーモニーがあり、ソングがあって、ソロがある。複雑な曲構成は演奏者に豊かなイマジネーションを与える代わりに、各演奏者はあくまでアンサンブルの1ピースであることを求められるため、逸脱の余地は決して多くはない。しかし、今回、リズムの簡素化により運動空間が拡大された。さらに自在にスペースを生み出し、あるいは埋め尽くすベースの自在性は、他の演奏者のスペースをアンサンブルの枠内から解き放った。これにより可能となった局面を具体的に見てみるとしよう。

 「なかまわれのうた」で、立ちのぼるベースの響きの広がりが辺りを覆い尽くし、ソロに入った橋爪のソプラノのスペースを潮が満ちてくるように包み込み押し上げる。居場所を追われたソプラノはそのまま雲雀のように舞い上がり、遥か見上げる高みで凄まじい加速と飛翔を見せた。彼の演奏を追いかけている多田雅範が「何より作曲者として振る舞っている自身のグループでは封じている切れ味だ」と思わず唸ったプレイだ。煽られた井谷がリズムのシンプルさはそのままに、スパーンと鋭く日本刀で斬り立てるが如きドラム・ワークの冴えを見せる。あるいは「4pm@Victor's」における語りをピアノのコード弾きが支える場面。頻繁にエフェクトをオンオフし、さらには弦が歪むほど苛烈に楽器にアタックするベースをよそに、同一和音の繰り返しにシンバルがぴったりと寄り添い、さらにテナーが平坦に引き延ばされたロングトーンを敷き重ねて、催眠的なほど延々と繰り返しを続ける。満ち溢れる天国的愉悦。さらにはあらかじめ用意されたプログラムの最後を飾った「音がこぼれる草の話」で、シンバルとピアノによる、ことさらに単調化したリフレインが一気に減速する中で、テナーのソロがぐだぐだに軟体化し、駅のベンチから滑り落ちる酔っぱらいのように、リフレイン格子の隙間から輪郭を失って崩れ落ちていく。

 こうした局面に見られるように、今回の演奏は一昨年の10月以来継続されてきた「電化マイルス」ならぬ「電化ライブラリ」(笑)のひとつの到達点を示す説得力に満ちたものだった。冒頭に掲げた聴衆の反応が、このことを証し立てている。

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 撮影:益子博之



 個人的には、さらに別の感慨が浮かんだ。まだぼんやりとしていて、説明するのは難しいのだが、幾つかのモチーフを手がかりに、とりあえず言葉としてみるとしよう。

 これまた冒頭に述べたように、私は彼らの演奏を1回ごと完結するものではなく、もっと長い時のスパンの中で変容していくものととらえている。それはインプロヴィゼーションが含まれているから演奏が毎回少しずつ違う……というようなことではない。そうしたKing CrimsonやGrateful Deadのライヴ音源を漁るような理由からではなく、蛯子が繰り返し語っている「物語のスピードで」という視点に惹かれているのだ。
 それを以前に私は『ER』や『Downton Abbey』のような集団ドラマになぞらえ、登場人物一人ひとりが歩んでいる人生、背負っている主題が、それぞれの「物語のスピード」で展開し、その分岐/交錯が新たな事件を生み出し、彼/彼女らが共に直面している「現在」を織り上げるというイメージを提示した。それをコンポジションの側から逆照射すれば、前述のライヴ・レヴューで述べた「そこに内包された物語が自らを開陳するにふさわしい速度」ということになるだろう。
 だが、だとすれば、「決定版」と言うべき「物語のスピード」が確定してしまえば、それはもう更新されることはないのだろうか。ある意味、「電化ライブラリ」の試みは、そうした袋小路の突破を目指す挑戦だったのではないかと、今にして思う。そして、その試みはいまここに至って、アコースティック版とは異なる「もうひとつの」解釈/解決の獲得を遥かに超える成果を挙げることとなった。すなわち、「電化ライブラリ」が自らの出発点を探して、コンポジションの根元を掘り下げていった結果、構築すべきアンサンブルを相互に閉ざされた区画としてではなく、いくらでも交換可能な開かれた関係性の束としてとらえられる地点にたどり着いたのだから。考えてみれば、私の知る(アコースティック版)ライブラリのさらに以前には、ステージ上では蛯子とは別のベース奏者がコントラバスを奏で、当の蛯子はと言えば、その演奏にラップトップPCにより電子音をかぶせていた時期があったと言う。そうした「演奏」を、付加された電子音のもたらす響きの滲みや倍音の強調、空間への広がり等を通じて、平面状に区画されてしまうアンサンブルを架橋する試みととらえるならば、今回の「電化ライブラリ」はその狙いを果たしたことになる。
 
 科学社会学者ブルーノ・ラトゥールは『科学が作られているとき 人類学的考察』(産業図書)で、誰もが当然のこととして受け入れるブラックボックスとしての「既成の科学」と依然として開かれたまま揺れ動いている「作成過程の科学」を対比的に描いている。これまでブラックボックスとみなされていたものが開かれ、中身が改められることもある。
 記譜された楽曲はどうだろう。校訂の問題を除けば、それはテクストとして完結し、動かないように見える。後は「解釈」の余地が残されるだけ。「ジャズ」の作曲は、たいていクラシック音楽ほどガチガチに決められていないし、即興演奏を前提としているから、より自由な「過剰解釈」が許されよう。では、作曲者自身による演奏についてはどうか。曲が書きあがった時に、もう演奏イメージは完成しているのではないか。後はそれに息を吹き込むだけ……果たして、そうだろうか。
 私には蛯子による今回の「電化」の試みが、音楽を作成過程に押し戻すことを目指したもののように思えてならない(かつての電子音の付加による試みもまた)。テンポも、抑揚も、強弱も、アクセントも揺れ動き定まらず、メロディーも、リズムも、ハーモニーも、まだかっちりした輪郭を持たず、それどころかそれぞれの機能区分すら明らかではなく混沌としており、どっちつかずで移ろいやすく、時に重複している。その代り柔軟で決まったかたちを持たず、互いに相矛盾する幾つもの性格を同時に映し出すことができ、言わば何にでもなれる。
 それは所謂「ワーク・イン・プログレス(進行中の作品)」とは異なる。たとえばピエール・ブーレーズによって絶えず改定を加えられ続ける「未完」の作品は、だが彼方に望む「完成」に向けて、徐々に最終的に確定された部分を増やしていく。「作成過程に押し戻すこと」はそうではない。それは確定されたはずの枠組みを緩め、結合を解いて、可換性、変容可能性を高めることにより、原初化/胎児化/幹細胞化/原形質化/流動化/液状化することである。

 蛯子は今回のライヴに向けたリハーサルにあたり、喫茶茶会記のホームページ(※)に次のように記している。
 ※http://gekkasha.modalbeats.com/?eid=955345

 今日2/3の昼は「図書館系ジャズユニット・ライブラリ」のリハーサルです。ライブは3月の11日土曜日四谷三丁目茶会記にて行います。メンバーに会うのも久しぶりですし、前回11月30日のライブ以降、自らがより深い所に入って行きました。それについては日記にもインスタントなSNSにも書ける様なことではありませんし、余程の事ではないと他人とも共有するのは難しい内容です。結果不可避的に孤独になります。でもそれでいいんだと思います。
 僕は写真も絵も下手くそですが地中深く伸びていく「根」のイメージが明確にありました。それだけを拠り所に、ネットで著作権フリーの写真を引っ張ってきて、フライヤーを作りました。そんな感じで、日々あらゆるもの、あらゆる人を大切に思い、深い道を歩いています、その結果が、なんらかの形で、他の人に伝わります様に!
 伝わらなかったら、当面は「愚か者」の被害妄想を抱きつつ生きるのかもしれませんね、でもそれも、ゆっくりと歩ければ、本当にゆっくりと歩いていければ、いいんじゃないかな、とも思います。人生って面白いのかつまらないのか、正直わかりません、でも最近、歩く事で、少なからず救われているのは間違いないのです。
 3月11日まで、歩き続けます。
 そのあとも歩き続けたいです。

 ここで語られている「根」のイメージは、言葉だけだと「自らの内面を覗き込む」という風に心理化されてとらえられてしまうかもしれない。しかし、蛯子がフライヤーに刻んだのは下のようなイメージであり、根は深みを一直線に目指す代わりに、もつれあいながら地表を覆い尽くし、同じように地下にも細密なネットワークを張り巡らして、自らを支え、養分を与えてくれる土壌と一体に溶け合おうとしているように見える。空に向かって幹を伸ばし、枝を広げ、葉を茂らせる大木が、地表に落ちた種子が種皮を開いて根を覗かせ、外を迎え入れ一体化した「目覚め」の瞬間を夢見ている。
 蛯子による「ライブラリ」の音楽は、まさに文字通り聴衆の前でつくられる。聴衆は「音楽がつくられるところ」を否応なく目撃させられる。それは「蛯子のイマジネーションがその場で音楽をつくりだす」ということとは異なる。先に掲げた『科学が作られているとき 人類学的考察』の中でラトゥールは、ディーゼル・エンジンの成立過程をディーゼルひとりに帰すことはできず、「考案」、「開発」、「革新」といった諸段階に分離できないことを述べた上で、そうしたことは光るボールのみが表示されたテレビでラグビーの試合を見るのに似ている。走り回り、絶妙なプレーを行い、エキサイトしているすべての選手たちは無味なジクザグに動く点に置換されてしまうと記している(p.185)。ここで「エキサイトしているすべての選手たち」には、「ライブラリ」のメンバーはもちろんのこと、スペースの提供者や聴衆たちも含まれることだろう。

 フリー・インプロヴィゼーションは、作曲作品や楽譜といった取り決めをあらかじめ何も用意しないことによって、自らは聴衆の眼の前でつくられる、いや、いままさにつくられている、その過程を舞台に乗せる音楽であると主張される。ラトゥール流の思考にかかれば、日時と会場を決め、参加演奏者を選び、楽器を用意している時点で、「あらかじめ何も用意していない」との主張はただちに否定されることだろう。反対に「ライブラリ」は念入りに準備したものを、「作成過程に押し戻すこと」により、即興の力を発動させる。そこで作曲とは、そしてそれを記した楽譜とは、あらかじめ考え抜かれ、細部まで入念に書き込まれているにもかかわらず、言わば複数の針の震えを書き留める心電図の記録紙にほかならない。ここで針の震えを生じさせているのは、もちろん心筋の放つ電気パルスではなく、発動した即興の力であるのだが。
 
 それゆえ蛯子による「ライブラリ」の音楽は、極めて「個的」でありながら、そのこと自体を通じて「共有的」なものとなり得る。別の角度から言うならば、自らを含めた演奏メンバーとその場に居合わせた聴衆を巻き込む強い力を有している。その力に襲われる時、人は極めて魅惑的な謎に見舞われた感じを持つだろう。

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 蛯子は今回のライヴの後、Facebookに次のように書き込んでいる。

 本日たくさんのお客様と、自分自身で個人的と思っているよりも、恐らく実際はもっと個人的な音楽を共有させて頂き、心より感謝の気持ちをお伝えさせて頂きます。今後も大地を踏みしめて、ゆっくりと歩いていければ、と思います。

 これに対して当日の聴衆のひとりとして、益子博之は次のように応じている。

 もっと歪んで、揺らいで、滲んで、無数の触手を伸ばして、浸蝕するように...

 一方、私は次のように書き込んだ。

 「個人的」という言葉になるほどと思いました。個人の思いを綴り、個性を打ち出していることを売り物にしながら、似たり寄ったり、実に大量生産画一消費財的な薄っぺらさしか感じられない数多のフォークやロックに対し、自らの内部に耳を澄まし、個の内部に深く深く潜行することにより、自分の物語をそうとしかあり得ない、それにふさわしい速度で読み/書き進めた音楽が、深く深く個人的であることによって、他者を響かせ揺すぶり、遠くまで届き広がる強さとやさしさを獲得するのだなあと。
 益子さんの示唆するようなライヴMIX的な感覚も随所に感じられた演奏でした。

 「自らの内部に耳を澄まし、個の内部に深く深く潜行することにより、自分の物語をそうとしかあり得ない、それにふさわしい速度で読み/書き進めた音楽が、深く深く個人的であることによって、他者を響かせ揺すぶり、遠くまで届き広がる強さとやさしさを獲得する」過程を、そこに潜む原理を、私は果たして解き明かせただろうか。もちろんそうではない。謎を解き明かすことを望みながら、考えはむしろ音楽を巡る思考を「作成過程に押し戻す」ように進み、ますます深く謎に魅せられている。そして次はいつになるか知れない「ライブラリ」のライヴを、いつかいつかと待ち侘び続けるのだ。


2017年3月11日セットリスト

1. Spherical
2. 237
3. Monofocus
4. Trains
5. 空が歪む時
6. なかまわれのうた
7. 悪事と12人の死人
8. Vitriol
9. あ いま めまい
10. 4pm@Victor's
11. Angel
12. 飛行機
13. 音がこぼれる草の話
14. Star Eyes【アンコール】

2017年3月11日(土)
四谷三丁目綜合藝術茶房喫茶茶会記
ライブラリ:蛯子健太郎(electric bass)、橋爪亮督(tenor saxophone,curved soprano saxophone)、井谷享志(drums)、飯尾登志(piano)、三角みづ紀(poetry)


 来る4月12日にはやはり蛯子がエレクトリック・ベースを奏するトリオの演奏が予定されている。今回の「電化ライブラリ」の原理を、ジャズ・スタンダードに適用するものなのだろうか。気になるライヴだ。

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ライヴ/イヴェント・レヴュー | 00:16:40 | トラックバック(0) | コメント(0)
霧は星形の庭に降りる ― フェデリコ・デュランド ライヴ@Ftarri  Milky Fog Descends into the Pentagonal Garden - Live Review for Federico Durand / El jardín de la armonía TOKYO session
 はるばるアルゼンチンから単身来日したフェデリコ・デュランドの、半月にも及ぶ国内ライヴ・ツアーの初日となったこの晩、会場となったFtarri水道橋には多くの聴衆が詰めかけた。明らかにいつもと客層が違うのは、彼の作品がフリー・インプロヴィゼーションやフィールドレコーディング、あるいは「実験音楽」(嫌な言葉だが)の聴き手以外にも、広くアピールしていることの証しと言えるだろう。このことを踏まえ、あえて3番手として登場した彼のソロ演奏から話を始めることとしよう。





 カンテレに似た小型の弦楽器、オルゴール、オモチャのような音具……。地球の裏側まで移動してのツアーということもあって、携行する荷物を絞り込んだ結果だろう、ちっぽけでわずかな仕掛け。そこからフェデリコ・デュランドの特質と言うべき、やさしさとぬくもりに満ちた簡素な音がかそけくたちのぼる……ように見えて、そこには考え抜かれた細密な仕掛けと、一点たりともゆるがせにしない完璧主義の職人気質による入念なコントロールが施されていた。
 碁盤に石を打つように、あるいは敷き詰められた白砂に石を立てるように、手前に音が配され、淡い陽炎にも似た響きが奥で揺らめく。床にラグを敷いて座る彼の手元は、前方の聴衆の陰に隠れて私の席からは見えない。しかし、置かれた音が彼の手元をすっと離れ、天井に反射して降り注ぐ音のかけらと行き交いつつ、奥行きの中で揺れ動く響きと溶け合い、まるで幻灯のように浮かび上がる「牧歌的」な音風景に吸い込まれて、そこに広がる別世界へと連れ去られてしまうのが手に取るようにわかる。そこにはミルクみたいに濃くて重たい霧がたゆたい、まどろみのうちに沈みながら、木々か、家々か、あるいは人影かと、点々と浮き沈みする形象を耳が追いかけ、飛び石伝いに奥へと誘われるうちに、間口がさほど広くないにもかかわらず、思いのほか深い奥行きをたたえていることに気づかされる。
 幾つもの空間が折り重ねられ溶け合いながら、先の奥行きの深さが物語るように、ここに音響レイヤーの敷き重ねが与える息苦しい閉塞感はない。立ちこめる濃霧が視界を奪いながら、音の柔らかく深い響きが空間のゆったりとした広がりを伝える。と同時に、あまりに良く出来ている、いや出来過ぎている気がしてならない。絵画のように完璧に仕立てられた配置/構図を、まるで絵画を鑑賞するように完璧に設えられた視点/視角からとらえている印象。それゆえ、いったん風景が完成すると、そこにそれ以上の動きや生成変化はなく、時はほとんど止まったかのようにただゆらゆらと浮遊し、聴き手の身体に響きが充分に沁み渡った頃合いで景色は薄らぎ、クロスフェードにより別の風景に場所を譲り渡していく。
 ふと弦を打つ音が輝かしく鳴り渡る。いささかオモチャな電子音がそれに続き、それまで身じろぎひとつせず、固唾をのんで音世界の移り変わりを見守っていた聴衆は、それまでの硬直が解けたようにみんなもぞもぞと身体を動かし、そこかしこで衣擦れの音を立て始める。





 彼のソロ演奏に続いて行われた、この日の演奏者全員によるセッションで、彼の「秘密」がまたひとつ解けたように感じた。
 彼のつくりだす音世界は、その音像のゆったりとした配置により、たっぷりと隙間をはらみ、そこに開けた空間を通じて自在に出入りできるように見える。しかし、実はそこは極めて高い「濃度」に満たされていて、彼の張り巡らす「結界」の中に他の音はなかなか入り込むことができない。もちろん、ソロ演奏とは異なり、彼はひとりで風景を描き上げるわけではない。しかし、彼の置いていく音と響きは、互いに固く結びついて切り離すことができず、響きはさらに次に放たれた音の響きと分ち難く溶け合って、強固な連続性/一体性を生み出してしまう。
 このことに気づかず無造作に音を放てば、彼の音世界の背景へと退くか、あるいは無作法にその前を横切って覆い隠すか、そのどちらかになってしまう。津田貴司はエレクトリック・ギターのハーモニクスを用いて、フェランドの音世界と直接重なり合うことなしに、淡く色づいた透過光を投げかけ、極めて希薄な「ヴェール」を掛けてみせた。セッションが開始されてからしばらく音を出さず、じっと耳を傾けていた佐藤香織は、雲間からすっと薄日が射すように、極めて細く薄く滑らかに引き伸ばされたアコーディオンの単音をデュランドの音世界へと刺し込み、向こうまで無抵抗にするっと貫き通した。耳の確かさと素早い判断に支えられた的確なアクションが、デュランドの音世界の特質を、ある手触りや手応えとともに触覚的に明らかにしていく。





 ここで時間を巻き戻し、フェランドのソロ演奏に先立って行われた津田貴司と佐藤香織のデュオ「星形の庭」の演奏に立ち返るとしよう。私にとっては、この演奏がこの夜のハイライトとなった。

 垂直に構えられた弓が僅かにギター弦に触れ、そこから空間に滲みを広げる。淡い滲みが広がるにつれて色合いが浮かび、ようやく耳が響きの輪郭をとらえる。弓と弦との接触が刻一刻変化するためか、あるいはディレイによる折り重ねの結果か、響きの表面に浮かぶ色彩が微かに震えながら移り変わる。希薄なハーモニクスがオーロラのように裳裾を翻し、それよりは重たい音色がかわるがわる浮き沈みし、さらにその奥からまた別の響きが頭をもたげる。
 それまでアコーディオンの蛇腹を軋ませたり、ボタンだけをカタカタと鳴らし、人形芝居を思わせる無機質な物音を立てていた佐藤が、ふっと薄く滑らかな和音を奏でる。その音はまるでギターの弓奏による響きの移り変わりの只中から浮かんできたように聴こえた。彼女の耳の良さと単刀直入ためらいなく核心部分へと刃を差し入れる「勇気」に驚かされる。弓の動きが加速し、湧き出す響きの水面から飛沫が跳ね上がり、外へと飛び出す音粒子が増え、やがて全体が沸騰して弾け、ふと沈黙へと至る。アコーディオンの和音がただいまの終着地点を的確に指差し、そこからまた歩みが始められる。増幅度を高められたギター弦がコキコキとしごかれ、水の滴りにも似た、だがそれよりはずっと鉱物質の輝きに満ちた音を放って、アコーディオンの広げる水面のたゆたいに小石を投げ入れる。
 次第に演奏は冷ややかな構図を離れ、揺れ動きを増しながら、二人の応酬による生成へと局面を移していく。間歇的なギターの弓奏にスライドやフラジオが挿み込まれ(津田の弓遣いは中国書道の運筆、筆を垂直に捧げ持つような筆遣いに似ていると感じる)、アコーディオンによる全音音階の浮遊感がさらに不安定な移ろいやすさを増幅しつつ、不協和に侵食されていく。
 アコーディオンの蛇腹の軋みが、氷が水面に張り詰めていく際に立てるぴしぴしとした緊張を放つ中、ゴム球で擦られたギター弦の硬く氷結したトレモロが、静かに、だがくっきりと響き渡る。

 津田によれば、佐藤は「バンド」での演奏経験はあるが、いわゆるインプロヴィゼーション畑での活動はないと言う。合わせ鏡のようにアクションを強迫的に加速/増殖させたり、あるいは空気を読んで迂回に迂回を重ねたり…という、いわゆる「即興演奏」の悪しき因習語法に染まっていないのは、そのせいもあるだろう。その一方で彼女は亡き大里俊晴の薫陶を受けており、授業ではジョン・ケージの貴重な映像を見せてもらったり、彼がどこかから掘り出して来た誰も知らないような音盤を「今週の収穫」として聴かせてもらったりしていたと言うから、当然、フリー・インプロヴィゼーションの録音にも数多く触れているのだろうが。
 津田が佐藤とのデュオを「星形の庭」と名付け(出典は武満徹「鳥は星形の庭に降りる」か、あるいはこの曲題の由来となったマルセル・デュシャンのエピソードにほかなるまい)、その演奏を「ミニマル」と語った時には、ライヒやグラスのイメージが災いして、きちんと像が結ばなかったが、二人の演奏を聴いた後ではよくわかる。ここで「ミニマル」とは、決して様式や技法のことでなく、文字通り「最小限」を意味する。だからと言って、「削ぎ落とす」ことだけを至上命題としたリダクショニズムではないし、「剥き出しにする」ことが陥りがちな露悪的な身体パフォーマンスでもない。そうではなく、虚飾を排し、無用な因習を斥け、もっともらしいコンセプトに寄りかかることなく、思い通りにならない音や予想を裏切る空間、なかなか過ぎていかない時間と向き合って、増殖/充満させた音の背後に身を隠す代わりに、静寂に身を浸し耳を澄ますこと。そこでは「音を放つ」ことは、「よりよく聴く」こととイコールであるだろう。
 無論、課題がないわけではない。しかし、それは今後、「音を放つこと」=「よりよく聴くこと」を積み重ねていく中で、自ずから解消されていくと思われる。佐藤香織という新たな演奏者の登場をまずは喜びたい。また、このところの津田の活動に注目してきた者として、楽器演奏をあえて排したstilllifeとはまったく異なる位相のデュオとして「星形の庭」が始まったことは、今後の活動を広げ深める中で大きなプラスになると信じている。いずれにしても、フェデリコ・デュランドという一見優しげで何でも受け入れる、しかし、その一方で、音に対する頑固で一徹な哲学/世界観を持ち、自分のパースペクティヴをまったく譲らない演奏者と共演できたことは、貴重な経験となったに違いない。コンセプトで防御を固め、敏感に空気を読み、「ハブ」や「ぼっち」にならないよう何しろ周囲に合わせる……という、この国に蔓延する「即興演奏スタイル」においては、そのような「哲学」はまさに邪魔物として排除されてきたのだから。


津田貴司のFacebookより転載(3月10日のライヴ時の写真ではありません)


2017年3月10日(金)
Ftarri水道橋
Chihei Hatakeyama(guitar,electronics)
星形の庭(津田貴司(guitar)+佐藤香織(accordion))
Federico Durand(electronics)


 フェデリコ・デュランドは3月25日まで国内ツアーを続け、3月24日には神戸・旧グッゲンハイム邸、25日には奈良・日+月+星で、津田貴司とのデュオにより演奏する予定である。







ライヴ/イヴェント・レヴュー | 22:46:57 | トラックバック(0) | コメント(0)
歌女再臨 ―― 20170226歌女@大崎l-eライヴ・レヴュー  KAJO's Second Coming ―― Live Review for KAJO @ Osaki l-e
 中央にティンパニ、その周囲を取り囲むようにスネアやシンバル、ハイハット、ティンバレス等がぐるりと配置され、打面に小シンバルが置かれ、小鐘が吊り下げられ、コーヒーテーブルには、タンバリンや様々な音具が並べられている。ハンガー掛けのような何に使うのかわからないフレームまで。中央に固められた楽器群から殺風景な白い壁まではだいぶ空間があり、以前に「歌女」を聴いた早稲田茶箱や池袋バレルハウスとは随分と雰囲気が異なる。低い天井から蛍光灯の冷たい光が煌々と降り注ぎ、コンクリートのたたきに反射する様は、倉庫から運び出された楽器群が、舞台の袖に運ばれるまでの間、しばらく置き去られているような寂寥感がある。

 しばらくして現れた高岡が、黒いケースからびっくりするほど小ぶりのチューバを取り出し、管の巻きがキツイのでサイズは小さいが、音域の最も低いB♭分の管長がある、19世紀末の楽器の復刻版で、リュックサックを意味するトーニスターと名付けられている‥‥と話し始める。「旅するチューバ」はなるほど彼にふさわしかろう。吹き口とベルの高さがほぼ同じで、チューバの出音を初めて自分の耳で直接聴くことができたとも。

 チューバの息音から演奏が始まる。呼吸に合わせ寄せては返す響き。以前の楽器での息音が「管を鳴らさない」モノクロームな冷ややかさを放っていたのに対し、うっすらと色づきが感じられる。他の二人がぱらぱらと音の破片を振り撒き、ティンパニのスキンを震わせて鳴らす。熱い息を吹き込まれたチューバが、急にほら貝のうなりを上げる。サイズには似つかわしくない低音。リズム隊が勢いづき、チューバもニューオリンズ調のブロウへと向かう。高岡の右足が慌ただしく踏み込まれ、演奏を煽り立てる。
 藤巻と石原が互いに競うように連続的なパッセージを叩き出すが、打点を精密にコントロールし、音を鳴らしっ放しにしない。これにより音は粒子化し、音の粒と粒の間に隙間が生まれ、どれほど音の密度が高まっても、響きは空間を埋め尽くさない。
 高岡はノンブレスのロングトーンでブランジャーの開閉による音色変化を試した後、一気に高速フレーズを連ねて空間を吹き破りにかかり、他の二人とラテンぽいノリで絡み合う。たとえフレーズがゆったりとしたものへと移り変わっても、息を張ったテンションの高さが感じられるのは、おそらく新しい楽器の特性(鳴りにくさ?)なのだろう。楽器を傾けてベルがこちらに向いても、以前のような鼓膜を締め上げるような風圧感はない。
 だが、それにしても藤巻・石原の「進化」ぶりに驚かされる。各種打楽器の刻みから音具のあしらいまで、音を細分化し粒立たせる演奏の方向性は変わらないが、温度/速度感の変化にしろ、緩急/強弱のうねりにしろ、ひとつひとつの振る舞いが存在感を高め、本当に色濃く、香り高くなった。小シンバルをスネアやティンパニの打面に重ねるような特殊奏法による音色変化も、「サンプリング」の挿入ではなく、一連の動作の中で滑らかに行われるようになった。それは音具の工夫にも表れていて、冒頭に触れた謎のフレームは、上部にヴァイオリンの弓を固定し、弓を小シンバルや金属片で擦ることにより、弓弾き音を簡単に得られるようにするものだった。
 うなり声による楽器音の二重化をこすり系倍音の折り重ねが迎え撃ち、校舎の屋上での吹奏楽部の練習風景を思わせる遠い響きに、空気をはらんだ細かい叩きが重ねられる。動と静の切り替えに瞬時に即応するアンサンブル(あまりに同時化し過ぎると言いたいくらいに)。以前の「歌女」では、チューバが息音やロングトーン、倍音奏法等を駆使し、色合いを薄めるようにして、打楽器の海の中に身を沈めていく場面が見られたが、今回は新楽器の音色特性の変化と打楽器隊の色彩感の充実が相俟って、チューバの響きはすぐさま打楽器に追いつかれ、前景/後景として分離し得ず、たちどころに侵食されてしまう。右足の踏み込みでギアを切り替えるだけでは足りず、空蹴りをしたり、椅子から立ち上がり、また腰を下ろしたかと思うと、前面へと歩み出て、跪き、深くお辞儀するように何度も上体を傾け、あるいは天を仰ぐといった姿勢の変化(それは楽器と身体のポジションの切り替えであると同時に、空間に対する関係性のヴァリエーションでもある)を頻繁に繰り返したのは、ある定常/膠着状態からの身のもぎ離し方の試行ではなかったか。
 チューバの音がふと止んで、しかし、他の二人は静へと向かわず、互いに響きを積み上げる高さを競い合う。高岡が位置を変え、他の二人もぐるっと回転して立ち位置が動き、手元の楽器が入れ替わる。いったんリセットしたところから、再び足場が組み上がり、吹き破るようなチューバのアタックにそそり立つスネアの弾幕が応え、さらに多層に折り重ねられたマーチング・ドラムの波状攻撃へと移り変わる。あえて響きを解き放ち、空間に充満させた音が、ふっと掻き消えると、細いロングトーンだけが残され、やがて滲むように消え失せる。前半の終了。
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撮影:益子博之


 「今決めましたが、後半はフォーメーションを変えて、それぞれの楽器単体の音に焦点を合わせて演奏します」との突然の高岡の宣言に合わせて、藤巻と石原が各楽器の配置を分散型に変更する。
 高岡はマウスピースを外したチューバに息を吹き込み、息音からむしろ木管楽器を思わせるくぐもった音色でミニマルなフレーズを奏でる。藤巻は小シンバルを指先で叩き、石原はスネアの打面に押し付けたスティックを擦る。
 動と静、希薄/点在と充満を往還した前半に対し、後半は車窓の眺めが次々に移り変わるように、音色/楽器を切り替えながら進められた。リズミックな盛り上がりがブレークした後、金属棒を叩いていた石原が、チューバのベルにタンバリンを押し付けて震わせる高岡に押し出され、床の中央部にあったマンホールの蓋を叩き始め、重い蓋をこじ開け、浮かせて、響きを変化させる。おそらくマンホールの内部にはビル全体の汚水槽につながる空間が広がっているのだろう。僅かなマンホールの隙間は、異世界への扉を開き、音響空間の在り様を一変させた。目聡く気づいた高岡がビリビリと空間を震わせ、藤巻はスネアを床置きして共鳴させる。ドラム・ロールを基調とした前半とは異なる肌触りの充満が、この日のフィナーレを飾った。
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撮影:益子博之


 高岡大祐がFacebookのコメントで、次のように書き込んでいるのに眼を惹かれた。

なんか歌女ってAEOCっぽいんだよなあ、ってだいぶ前から思ってた。儀式性はない(と思うんだけど)し、打楽器二人はそんな意識もないだろうし、僕もない。音も形態も違う。そうやろうとしたわけでもないけど、やってる最中、よく思う。どちらかというと、AEOCなき後の、ロスコーミッチェルのやっていたことの方面だろうか。サルディーニャ島でみたロスコーのトリオは、もはやジャズでもなんでもなくて、違う、何か素晴らしい音楽だった。

 と言うのも、以前のブログ記事「音との自由な交感が連れてくるプレ・モダンな風景 歌女@バレルハウス20150815ライヴ・レヴュー」※で、「歌女」の演奏の持つ強い情感喚起力をAE(O)Cをはじめとする一群のフリー・ジャズと関連付け、「プレ・モダンな風景を連れてくる」と評しているからだ。
※http://miminowakuhazushi.blog.fc2.com/blog-entry-369.html
 2月26日の「歌女」の演奏は、この時とは大きく異なっていた。それはもちろんいろいろな要因によるものにほかならないが、「即興演奏には初めて用いた」というトーニスター・チューバがもたらした変化は大きいと考えられる。それについて高岡はFacebookにこう書いている。

巻けば巻くほど息の抵抗感は増すので、ちょっとやそっと吹いたくらいでは音がまともに出ない。
おりゃあああああ、と吹いてやっと芯のある音が出る。
しんどい。
音程は相変わらずまだフラフラ。
でもなんか、この楽器から体にフィードバックされる音の印象で、気持ちよく歌える。
ベルが耳の下にあって、生まれて初めてじかに聞く自分の音に感動。
多分これでアイデアが生まれるのだと思う。
今まではある意味盲滅法吹いていたようだ。
自分の音がモニターできる感覚自体が新鮮。

 以前の「歌女」の演奏では「チューバを楽器として鳴らし過ぎない」という自己抑制が感じられた。むしろ「うねうねと巻かれた剥き出しの金属の管」として取り扱い、それと息や身体の内外に広がる空間をどう触れ合わせ、響きに折り合いを着けるかということに感覚の焦点が当てられていたように思う。今回はその頸木が束の間外され、ラテン・ミュージック調の急速フレーズが迸り、キューバやトリニダード・トバゴ、ブラジル等を思わせる中南米の熱気が気持ちよく吹き抜けた。その点では、同じAE(O)C系でも、『Great Pretender』等のレスター・ボウイによる試みに通じるところがあったように思う。


2017年2月26日(日)
大崎l-e
歌女:高岡大祐(tuba)、石原雄治(percussion)、藤巻鉄郎(percussion)


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撮影:吉良憲一




ライヴ/イヴェント・レヴュー | 19:11:05 | トラックバック(0) | コメント(0)
『松籟夜話』第八夜来場御礼  Thank You for Coming to the Listening Event "Syorai Yawa" Eighth Night
 小雨がぱらつく肌寒さの中、大勢の皆様に『松籟夜話』第八夜にご来場いただき、厚く御礼申し上げます。当日のプレイリストをご紹介いたします。各盤に簡単な紹介コメントを付けましたが、当日の案内の流れを再現するところまでは至っていません(そちらについてはまた後日にできれば補足を)。なお、参考のために試聴用リンクを付しましたが、こちらも必ずしも当日ご紹介したトラックの音源ではありませんので、その点ご注意ください。


撮影:津田貴司


開演前BGM:Umeko Ando『IHUNKE』Chilar Studio CKR-0108
試聴:https://www.youtube.com/watch?v=_hhuSIYDwvs
アイヌの音楽家、安藤ウメ子による歌(ウポポ)。「イフンケ」とは子守歌のこと。ゆったりと沁みてくる優しい声音。トンコリ奏者OKIによるプロデュース。




第1部 複数の煙が立ち上るような声の集積が、その場所を照らしていく

久高島イザイホー』宮里千里 琉球弧の祭祀Bsf006 tr.1, tr.6
試聴:http://www.reconquista.biz/SHOP/BsF006.html
この1978年以降、もはや行われていない12年に1度の神事(神女ノロの任命式)の貴重な録音。「エーファイ」という掛け声があちらこちらから湧き上がり、歩み出した声の列は、周囲の観客の話し声や歓声をも巻き込みながら、ぐるぐると渦を巻く。


宮古西原古謡集』久保田麻琴編「南嶋シリーズ」ABY-004  tr.1
試聴:http://elsurrecords.com/2013/04/22/v-a-%E3%80%8E%E5%AE%AE%E5%8F%A4%E8%A5%BF%E5%8E%9F%E5%8F%A4%E8%AC%A1%E9%9B%86%E3%80%8F/
1974年奥原初雄録音制作。西原村立100周年記念盤として発表された2枚組アルバムをもとに、久保田麻琴が復刻。祭祀の熱気が感じられる名演と言える。イザイホーに比べて静的な(移動のない)録音である。交差して行き過ぎる二つのさざ波のように、ゆったりとずれながら重なり合う声。

服部龍太郎監修『南海の唄ごえ―奄美民謡集』日本コロムビアPLP-99(AL-5018)A-8
試聴:
次第に高まっていく声の響きあいが聴けるが、指笛や掛け声の合いの手や太鼓の拍子に「のる」のではなく、指笛も太鼓も声も、それぞれがそれはそれとして進行しているように聴こえる。収斂せずしこらない音の群れ。

台灣原住民音樂紀實3『雅美族之歌』TCD-1503 tr.16
試聴:http://okmusic.jp/#!/i/collections/2479037
台湾南東沖にある蘭嶼(LANYU ISLAND)に暮らす海洋民族アミ族。どことなくポリネシア系のチャントに通じるものを感じる。




台灣原住民音樂紀實1『布農族之歌』TCD-1501 tr.16-17
試聴:http://okmusic.jp/#!/i/collections/2730908
南部山岳地帯に暮らすブヌン族。小さな遠くのほうから聴こえるような声から始まり、下からせり上がるかのように次第に声が増えていき、音程も徐々に上がっていく。



台灣原住民音樂紀實8『魯凱族之歌』TCD-1508 tr.1-2
試聴:http://okmusic.jp/#!/i/collections/2571374
ルカイ族。どことなくブルガリアンボイス的な響きを感じる立体的なポリフォニーだが、それでも西洋近代的な多声のあり方を相対化するに十分な成り立ち。バックにかすかに虫が鳴いているのが聴こえる。



台灣原住民音樂紀實7『排灣族之歌』TCD-1507 tr.12
試聴:http://okmusic.jp/#!/i/collections/3165202
パイワン族。力強い男声の独唱を基音に多声が重なる。これもどことなくブルガリアンボイス的な響きを感じる。しかし、部族ごとの感触の違い、声のスペクトルの広がりは驚くほど。柳田國男や折口信夫が琉球に「原日本」を見出すきっかけとなった台湾蕃族の文化は、実はかくも多様だった。

ブルガリアの音楽〜バルカン・大地の歌』KING WARLD MUSIC LIBRARY KICW1096 tr.16-17
試聴:https://www.amazon.co.jp/%E3%83%96%E3%83%AB%E3%82%AC%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%81%AE%E9%9F%B3%E6%A5%BD-%E3%83%90%E3%83%AB%E3%82%AB%E3%83%B3%E3%83%BB%E5%A4%A7%E5%9C%B0%E3%81%AE%E6%AD%8C-%E6%B0%91%E6%97%8F%E9%9F%B3%E6%A5%BD/dp/B00005F832
旋律の最後に声が裏返るところが特徴的でブルガリアの合唱ということがわかるが、台湾原住民族の合唱と並べて聴いても特にヨーロッパの音楽だというふうに差異化認識できない。当日は台湾音源に続けて、どこの国の音源かは最初伏せたままプレイした。


 撮影:原田正夫                     撮影:益子博之



休憩時BGM:『台灣 士林 神農宮』
台湾旅行に行った友人(本業はイラストレーター/画家)による(おそらく道教寺院の)読経。無造作に置かれた簡単な録音機材が、見事にお堂の空間的なボリュウムを描き出している。
(この場所のようです/https://www.travel.taipei/ja/attraction/details/937)



THAILAND:Music and songs from the Golden Triangle』MUSIQUE DU MONDE 92754-2  disc2 tr.8-10
試聴:http://losapson.shop-pro.jp/?pid=60052921
そっと肩に手を置くように、声の身体が重なり合う。あらかじめ音高構造によって声の居場所を切り分け確保するのではなく、声の肌をすり合わせ、共棲するもうひとつのポリフォニーのあり方が、琉球弧から台湾を経て、ここにも浮かび上がる。

アイヌのうた』萱野茂、平取町アイヌ文化保存会 JVC WORLD SOUNDS VICG-60400  tr.4-6, tr.10
試聴:http://victorentertainmentshop.com/product/?item_cd=VICG-60400
繰り返し現れる「トゥルルルルッ」という、喉や鼻の奥を震わせるような発音に、外気の寒さを感じる。老婆の声の襞の暖かみが際立つ。


『INUIT fifty-five historical recordings』LE COUEUR DU MONDE SUB ROSA SR115 tr.3-4
試聴:http://www.subrosa.net/en/catalogue/le-coeur-du-monde/inuit.html
取り上げたのは1961年のテープ録音と、1906年の蝋管(ワックスシリンダー)録音。ノイズの彼方から聞こえる声に、時間的空間的な「遠さ」を聴く。

VIETNAM music of the montagnards』LE CHANT DU MONDE CNR 27411085.86  disc2 tr.1
試聴:http://www.allmusic.com/album/vietnam-music-of-montagnards-mw0000030959
シンプルな旋律のバリエーションの繰り返しだが、輪唱でもユニゾンでもないタイミングで突然割って入る男声、さらにそこに女声が加わり、三声になる。そのどれもが互いに「合わせない」「ハモらない」。各自のテンポで、それぞれがそれはそれとして進行している。



第2部 声の照らし出す空間、環境を触知する息

参考映像集+参考文集紹介
合成写真による南島イメージ⇔山之口獏「会話」
 東松照明の沖縄への眼差し(混成文化、神秘性)⇔岡谷公二、ソクーロフ
 比嘉康雄によるイザイホー撮影(神秘性と日常性)
⇔柳田國男、折口信夫、ニコライ・ネフスキー、谷川健一
 風景による浸食⇔岡本太郎「沖縄文化論」、アントナン・アルトー「記号の山」
 ゴシックと(もうひとつの)ポリフォニー

Costis Drygianakis『Hymns of the Passion and the Resurrection』more mars team mm013 ( book + 2CD ) CD-1 tr.10, CD-2 tr.5, tr.14, tr.17
試聴:http://www.art-into-life.com/product/5843
中世ゴシック期におけるポリフォニーの成立が、楽譜を演奏に必要不可欠なものとし、作曲の地位を高め、音の動きの可視化により複雑化を加速し、「西洋音楽」を確立した。それ以前の姿をとどめるギリシャ正教の聖歌を、サウンドアーティストによる現地録音で。岩のようにごつごつした声の響きがぶつかり合い、空間を隔て、聖堂内に充満し、詰めかけた参列者のしわぶきの向こうに霞む。

灰野敬二『Un Autre Chemin Vers L'Ultime』Prele prl007 tr.1
試聴:http://www.art-into-life.com/product/6412
ノルマンディーの背も立たない洞窟内で、座り込んだまま、声を張り上げることもできずに、苦し気な吐息を漏らす灰野。冷え込む大気に押しつぶされながら、ふと白い息が立ち上り、空間を手探りし、壁を伝い、暗闇で頬を撫でる。原初へと遡り、空間を照らし出す声の底流。

沢井一恵『The Sawai Kazue』邦楽ジャーナル HJCD-0006 tr.6
試聴:
中国の古代遺跡から出土した五絃琴を基に復元した楽器のために高橋悠治が作曲。静かにかき鳴らされる単調な、だが縺れた繰り返しが、手元をぼんやりと照らしながら、巫女の虚ろな呻きを引き出す。床を伝い、板の隙間に沁み込みながら、空間を手探りし、闇の中に浮かび上がらせる息。シャーマニズムの原初へと遡る声の記憶。

Doneda, Achiary, Sawai『Temps Couche』Les Disques Victo VICTO CD 055 tr.4
試聴:https://play.google.com/store/music/album/Michel_Doneda_Temps_Couch%C3%A9?id=Bksovcpo64xd4timtqqofbt36ae&hl=am
珍しくフリー・インプロヴィゼーションで用いられた沢井のくぐもった低い声は、先の巫女の呻きと明らかに通底しており、他方、Benat Achiaryの灰野的な吐息へと迫る。Michel Donadaのソプラノ・サックスも次第にヴォーカルな熱を帯び、十七絃箏の乱舞に足元を崩されながら、揃わぬ声のクライマックスを演じる。


閉演(現世へのサルベージとして):茂木綾子『島の色 静かな声』DVD Silent Voice
試聴:https://vimeo.com/125685823
水面に映る月に雲がかかり、水の流れが聞こえてくる。神秘的とも言えるモノクロームな冷ややかさは、機織りのリズミックな動き、糸を紡ぐ柔和な手つきへと引き継がれ、次第に色彩を帯び、体温を高め、人が動き、布が翻り、犬が寝そべって、生活が立ち上がる。以前にスティルライフ(津田貴司+笹島裕樹)はこの映画と「共演」している。


撮影:益子博之



ライヴ/イヴェント・レヴュー | 01:24:57 | トラックバック(0) | コメント(0)
不思議な蝋石の珠 ―― 『松籟夜話』第八夜へのお誘い  A Marvelous Pyrophyllite Ball ―― Invitation for the Eighth Night of "Syorai Yawa" a.k.a "Night Stories As Pine Tree Leaves Rustling in the Wind"
 今週末の日曜、2月5日の夜は、また特別の一夜になるに違いない。そんな風に落ち着いて思いを巡らすことができるのは、どれくらいぶりだろう。
 民族(民俗)音楽の現地録音としてのフィールドレコーディングに狙いを定め、3回シリーズの初回として今回のテーマを確定した昨年11月には、いろいろとあてもなく空想を巡らす余裕があった。とりあえず沖縄久高島イザイホーから始めて、これまで真正面から採りあげてこなかった「声」をやろう。美声とか巧みな歌唱、力強い叫び、個性的な声音等を追い求めるのではなく、もっと「根」に向かってに掘り下げていこう。ジャンルとしてのルーツ・ミュージックではなく、無名性/原初性の方へ。舞台上で皆の視線を一身に浴びるひとりの卓越した芸能者ではなく。複数による多声の集合体に耳を浸そうと。

 テーマを見据えていた時から、奄美や宮古、八重山、さらには台湾や中国から東南アジアにかけての少数民族の歌は、なんとなく視界には入っていた。第七夜でAMEPHONEを採りあげた時にも、トン族の蝉歌をかけていたわけだし。そこに豊かな鉱脈が広がっていることは明らかだった。

 素材は溢れるほど揃っている。あとはどう選択/配列するかだ。イザイホーの現地録音を聴いて、何となくではあるが、津田も私も「揃わない/同期しない」ことが重要なのではないかという直感を抱いていた。作業を効率化するためのワーク・ソング等、同じリズムを循環させ、動作のタイミングを合わせるための歌は、今回はちょっと違うかな。だからフライヤーの惹句は「聖なる場所に集う声」とした。声の集合性が、そのまま複数性/多声性を生きる様をとらえるには、日常の中の「仕事」ではない、別の側面に着目する必要があるのではないか。あえて「聖なる場所」とした背景には、そんな着想があった。別に宗教的な祭儀だけに局面を限定する考えはなかった。人が集まって、声の身体を触れ合わせれば、そこに日常とは別の時間/空間が開けるはずだ。そんな確信もあった。

 手持ちの音源を掘り返していった。沖縄/琉球の音楽に聴き親しんでいない私は、津田に教えてもらって、El Sur Recordsまで出かけて、南嶋シリーズを買い込んだりした。耳の旅路は、琉球弧から台湾を経て、さらに南へと進み、島尾敏雄言うところの「ヤポネシア」をくっきりと浮かび上がらせた。
  


 その一方で、それでいいのかという思いも当然あった。これでは地域文化研究ではないか。すでに指し示されている連関を検証するだけにとどまらず、想像力を奔放に(かついささか無責任に)飛躍させてみたかった。あらかじめ描かれた囲いの線を破って、その外へとすばやく走り出る線を引きたかった。まったくの当てずっぽうではあるけれど、何本か補助線の案は浮かんでいた。しかし、それが外部へと至る「逃走線」足り得るか確かめるためには、「あらかじめ描かれた囲いの線」を知る必要があった。

 ざっと一瞥したところでも、柳田國男、折口信夫、伊波普猷、金田一京助、谷川健一、島尾敏雄、岡本太郎、吉本隆明‥‥、南島、沖縄、琉球、先島、琉球弧、台湾(特に「蕃族」)、アイヌ、海上の道、ヤポネシア、イザイホー、ノロ、ユタ、聞得大君、カンカカリヤ、カンダーリ、御嶽(うたき)‥‥、鳥居龍蔵、東松照明、中平卓馬、比嘉康雄、クリス・マルケル、仲里効‥‥。そこにはめくるめく世界が開けていた。文化人類学こそ少々かじってみたことがあるものの、民俗学/民族学にはこれまでほとんど手を着けてこなかった。津田に薦められて読んだ金子遊『辺境のフォークロア』(河出書房新社)でニコライ・ネフスキーの存在を知った。柳田や折口自身によるテクスト(特に後者)は取っ付きにくく、柳田批判や折口研究を経由したが、二人の「偉大さ」というよりは、鋭い感受性とそれに反応して不可避的に起動されてしまう想像力の激しさ(ほとんど「激震」と言ってよい)に、改めて気づかされることとなった。これではカルチャー・スタディーズや表象論はもとより、谷川や吉本も到底かなわないだろう(あくまでも私見)。他方、いろいろと悪評高い岡本太郎の沖縄文化論は、核心を鋭く突いていると感じた。
   


 その間、着々と作業を進めていた津田は、琉球弧から耳の旅路を東西南北へと伸ばし(何と台湾少数民族8部族すべてをカヴァー)、そこから「もうひとつのポリフォニー」のあり方を浮かび上がらせていた。私が引こうとしていた補助線も、音楽史や建築史、宗教学等に首を突っ込んで仮説を補強した結果、気がついてみれば同じ可能性を目指すものとなっていた。
そうした可能性のありかをわかりやすく示すために、『松籟夜話』第八夜では、第三夜の「熱帯雨林」特集以来久しぶりに、映像とテクストも用いることにした。「百聞は一見に如かず」で聴取の持つ可能性が視覚イメージに抑圧されたり、確立された権威に頼るだけになったりする恐れもあるのだが、心配ばかりしていても始まらない。主催者の当初の意図を超えた「発見」に期待しよう。これまでの七夜でも、それは必ず起こってきたのだから。
   


 最後に今回の準備作業中に出会った、興味深いエピソードを紹介したい。私は渡辺哲夫『祝祭性と狂気』(岩波書店)で知ったのだが、柳田國男「故郷七十年」に少年時代(13歳から2年間)を過ごした布川での不思議な思い出が綴られている。その家にあった祠の中に何が入っているのか気になって、こっそり開けてみたら、丸くきれいな蝋石の珠が出てきたという。そしてその時、柳田は昼の空に輝く何十もの星を見たのだと。柳田自身、それを異常心理だったと見做している。突然、ヒヨドリがピーッと鳴いたので我に返ったが、もしあの時、鳴き声が聞こえなかったら、そのまま戻らなかったのではないかと。
 これについて精神科医である渡辺哲夫も「瞬間の狂気」としている。渡辺は同書で、宮古のカンカカリヤ、カンダーリについて採りあげ(有名な谷川健一「神に追われて」よりも面白いと思う)、こうした「瞬間の狂気」がこの地では文化としての根を持っていると記している。そうした文化的な根から切断された不幸な例として、アメリカに移住したベラ・バルトークの不幸な晩年に触れながら。
さらに続けて、小林秀雄がある講演で、柳田のこのエピソードを紹介し、ムクドリが鳴かなかったら発狂したかもしれない彼の感受性を、彼の弟子たちは受け継がなかったが、それなしには民俗学など出来はすまいと語ったことを書いている。もちろん小林一流の与太には違いないのだが、それでも狂気を催すかどうかはともかくとして、祠から出てきた「丸くきれいな蝋石の珠」に激しく揺さぶられる感受性が、彼の民俗学を支えていたのは確かなように思う。
   


 『松籟夜話』第八夜においでくださる方たちは、そこで披露される音盤や映像やテクストに向かい合い、その扉を開いて、どのような「蝋石の珠」を見出してくれるだろうか。そんな出会いに向けて、拙い間違いだらけの思考ではあるけれど、懸命に発信していきたいと思う。

 どうぞおいでください。

松籟夜話第八夜縮小


ライヴ/イヴェント告知 | 00:54:57 | トラックバック(0) | コメント(0)
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