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福島恵一

Author:福島恵一
プログレを振り出しにフリー・ミュージック、現代音楽、トラッド、古楽、民族音楽など辺境を探求。「アヴァン・ミュージック・ガイド」、「プログレのパースペクティヴ」、「200CDプログレッシヴ・ロック」、「捧げる-灰野敬二の世界」等に執筆。2010年3~6月に音盤レクチャー「耳の枠はずし」(5回)を開催。2014年11月から津田貴司、歸山幸輔とリスニング・イヴェント『松籟夜話』を開催中。

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『松籟夜話』第七夜来場御礼  Thank You for Coming to Listening Event "Syorai Yawa" Seventh Night
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 三連休の中日、不安定な天候と悪条件の中、多くの皆様にご来場をいただき、ありがとうございました。皆様の集中と熱気に包まれ、こちらもヒートアップして一気に駆け抜けた感があります。振り返ってみても充実した一夜だったとの手応えがしっかりと残っています。ここでは当日のプレイリストを、ジャケット写真、試聴リンク、多少のコメント付きで掲載させていただきます。なお試聴リンクはあくまで参考で、当日おかけした部分とはことなる場合もありますので、ご注意ください。コメントもまた当日の説明を再録したものではありません。

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 今回はCD、LPに加えDVD(PCで再生)まで音源に用いたため、再生の際のつなぎ替えが結構大変で、いろいろと不手際もあったことをお詫びいたします。
 ただ、再生環境については、『松籟夜話』の欠かせない一部となっている歸山幸輔設計の反射板スピーカーが、その底知れない潜在力をますます発揮して、凄いことになってきているのをご報告しないわけにはいきません。
 ちょっと舞台裏を明かすと、当日開演前のリハーサル時に、いつものように打合せ時に気になった部分を中心に、津田と予定音源を聴き返していたのですが、立ち会っていた歸山が「最近ようやく気が付いたんですけど、こうすると音が結構変わるんですよね」と言いながら、スピーカーの前面を床からすっと持ち上げ、少し仰角を付けた途端、音ががらりと質感を変えました。その時、私はスピーカーの正面ではなく、横に座っていたにもかかわらず、音の迫真性というか、説得力がぐんと増したのに驚かされたのです。見ると津田も月光茶房店主の原田も、そこにいた全員の顔色が変わっています。あわてて床とスピーカー前面フレームの間にスペーサーを挿んで固定し、正面に回ってみると、やはり生々しさや手触りの厚みが全然違っています。今までのは何だったんだ‥という感じ。スピーカーの角度について、ツイーターの高さや向きを耳の高さ等に合わせて調整する仕方はよく知られていますが、今回の音の変化はそうしたサービス・エリアの変化というより、スピーカーの正面側に対して、逆向きに付けられたスピーカー・ユニットの背面から音響が放出される際に、床との角度がかたちづくる「ホーンの開口部」に当たる角度の変化によるものではないかとのこと。また、スピーカー背後の壁に対する角度も当然変化するので、それによる響きへの影響もあるかもしれません。今回の再生音はオーディオに詳しい中村匠一さんも「これまでで鳴りっぷりが一番良かった」と誉めてくださいました。
 ますますその魅力に磨きのかかった『松籟夜話』(笑)、今後ともどうぞご注目くださいますよう、お願い申し上げます。
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2016/09/18『松籟夜話』第七夜プレイリスト

開演前BGM

V.A.『The Branch』(directed by AMEPHONE)
試聴:https://www.youtube.com/watch?v=BEIsINOFZiI
AMEPHONEの「監督」による作品集。コンピレーションの多彩さ。






開幕

ノスタルジアDVDAndrei Tarkovsky『Nostalghia』DVD【2:30F.O.】
試聴:https://www.youtube.com/watch?v=LvumaiJPRwk
それが何であるかを告げずに、開幕のタイトル・クレジットの部分を映像無しで。風に運ばれるロシア民謡が、ふと湧き上がるヴェルディ『レクイエム』に沈み、犬の吠え声と車の音が響く。本作で死に至る病とされる「ノスタルジア」が今回の重要な伏線のひとつであることの予告。

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総論/導入部

AMEPHONE『Esquisse 1/3 attc』tr.1〜tr.3【6:18 / 3:48 / 3:35】
試聴:
ミュージシャン、録音エンジニア、フィールドレコーディング・アーティストと多彩な顔を持ち、演奏者を選び、イメージを伝え、音を組み合わせて、映画監督のように作品をつくりあげるAMEPOHONEの紹介。
台湾(?)の細路地の音景色(物売りの声が空間の奥行きを明らかにする)に、SP盤風の質感の女声による歌曲がかかり、風景との関係性を宙吊りにしたまま消える。突如としてレゲエ・バンド(AMEPHONE自身が演奏に参加)のライヴが挿入され、遠めの録音の薄暗さが、それが先ほどの細路地と地続きであり、一連の記憶の一コマであるかのような錯覚をもたらす。曲が終わると、耳は再びどこかの路地をさまよいだす(博打に興じる男たちの振る骰子の音)。
ここに見られるように複層化した彼の作品世界を3つの視点で切り分け(以下の第1~3部)、それぞれの線を伸ばしてみることにより、聴くことを深める試み。


第1部 「捏造」民俗音楽

amephone retroAMEPHONE『Retrospective』tr.1【6:50】
試聴:https://amephone.bandcamp.com/
 パリの公園のベンチ(?)での老人と旅行者の何気ないやりとり(日記映画風)が、タブラのリズムに煽られ、バリ島の喧噪、ひび割れたオルガン、サンバの沸騰をくぐり抜けるめくるめく音響絵巻。フラッシュバックする光景、恐るべき情報の洪水(でも懐かしく耳になじむ)。足元を常に切り崩し、耳を揺さぶり引きずり回す。深い混迷と眩暈のうちに現実(の記憶)と虚構の境目が溶解していく甘美さ。

AMEPHONE『Esquisse 3/3』tr.2【4:00】tr.4【4:50】
試聴:http://www.reconquista.biz/SHOP/aya002.html
 弦楽器の古風な爪弾き~クラシカルに香り立つピアノ~東南アジア歌謡曲のひなびたメロディが突然日本語に切り替わることにより、遠かったセピア色の風景が突然に自らのありえない記憶と響きあい、続くトラックのSP盤風の声の手触りと戦後まもない頃のエキゾ風南国アレンジが、さらに不確かな郷愁を掻き立てながら、知らぬ間にジャワ・ガムランに移り変わっている。詐欺の見事な手口を見せられたような感慨。

Soundworm『Instincts and Manners of Soundworm』tr.13【2:20】tr.1【4:40】
試聴:http://losapson.shop-pro.jp/?pid=11203809
 当初、『Circuit Brasireilos』冒頭曲のファウンド・テープ的音触ゆえにキーワードとして提示した「民俗音楽の捏造」だが、CANによるEthnological Forgery Series(民族学的偽物シリーズ)の冷徹な分析/再構築(彼らは「ロック」すら、そのようにして捏造した)と比較すると、AMEPHONE やSoundwormが捏造しようとしているのが「音楽」ではなく、それが演奏される「場(=生活空間)」やそこに漂う生活の「匂い」であることが浮かんでくる(よりストレートにサウンドへと向かうSoundwormと、精妙にセノグラフィを構築し、気配を醸し出していくAMEPHONEという違いはあるにしても)。AMEPHONE自身、「その場所に行ってみたいと思うような音楽をつくりたい。でもその場所って本当はないんだけどね」との趣旨の発言をしている。

kink gongKink Gong『Dong in China』tr.8【5:00F.O.】
試聴:http://www.meditations.jp/index.php?main_page=product_music_info&products_id=9811
 前述の転換により、「捏造された音楽」ではなく、「現地録音に映り込んだ生活の匂いを聴く」ことに。ふらりと村を訪れ、住民と仲良くなり、生活空間にマイクロフォンを挿し込む(ステージを仕立てるのではなく)Laurent Jeanneau(=Kink Gong)の録音。中国少数民族による「蝉歌」と呼ばれる伝統合唱の向こうから、生活のざわめきや仕切られた空間の成り立ちが聴こえてくる。

V.A.『VIETNAM music of the montagnards』【4:30】
試聴:http://www.allmusic.com/album/vietnam-music-of-montagnards-mw0000030959
 ゆるやかに間を置いて打ち鳴らされるゴングの柔らかな響きの間から、演奏とは関係ない日常の生活音がざわざと溢れ出す。「民族音楽」の現地録音だが、この流れで聴くと、まるで生活音を引き立てるために手前に演奏を配したように感じられる。



第2部 映画的空間構成

AMEPHONE『Esquisse 3/3』tr.6【4:15】
試聴:http://www.reconquista.biz/SHOP/aya002.html
 捏造戦後歌謡による浮遊する異国情緒(よく聴くと歌詞もディープ)、主演俳優が歌う劇中歌風のへたうまデュエットが、背景への不明瞭なセリフのカット・インから車の走行音を合図にラウンジ風味のラテン・バンド演奏へ。視点/空間の唐突な切り替え/接合がもたらす映画的なカット割りの感覚。石原裕次郎、小林旭、赤木圭一郎が活躍したかつての日活無国籍アクション映画における、キャバレーでの喧嘩シーンからスポーツカーでの逃走劇へ‥という流れを彷彿とさせる。

nouvelle vagueJean-Luc Godard『Nouvelle Vague』CD1 tr.1【4:00F.O.】
試聴:https://www.youtube.com/watch?v=8oQfSqXCrnE
 冒頭部分を。音楽だけではなく、セリフや物音まですべてを収録した文字通りのサウンドトラック。音像の移動や遠近の響きの変化に、映像(視覚)を排しても、なお細やかなカットの切り替わりがまざまざと触知できる。モンタージュ(コラージュ)というより奥行きや広がりの異なる空間の共存がここにある。これを聴いた後で映画作品を見直すと、映像のカット割りが音響のそれと全く違うことに愕然とする。

大友大友良英『藍風箏』tr.7【4:48】
試聴:https://www.youtube.com/watch?v=dgRA_FKUC4Y
 大友初の映画音楽作品から、映像内の音響を用いたトラックを。奥まったスクリーンを基準平面として、傍らでテーマが奏され、サステインの効いたエレクトリック・ギターが手前にうっすらと涙の幕をかける。ゴダールに比べ平坦な構成。


Steve Lacy『Lapis』tr.3「The Criptosphere」【3:09】
試聴:https://www.amazon.com/The-Cryptosphere/dp/B004G2OPGS
 Lacy最大の問題作から。「いかにもジャズ」な気怠い演奏(買ってきたレコードをかけている)が中央に配され、そのわずかな余白に書き込まれる切り詰められた演奏。多重フレーミングの重なりが奥行きをもたらす空間構成は、録音担当Daniel Vallancienの貢献が大きい(Lacy自身の証言あり)。
※ジャケット写真ははCD再発盤『Scratching Seventies』を掲載。

Bernard Vitet『Mehr Licht!』 A2「L'ange du bizarre」【9:00】
試聴:http://www.drame.org/2/Musique.php?D=91&LA=EN
 開かれた窓の外の音景色に演奏がかぶる。巨大なバラフォンと小さなウィンドチャイムによるオモチャな音色とベビー・ベッドの上で回るメリーを思わせる自動演奏風のフレーズという戦略的選択(確信犯!)が、演奏のリアルな存在感をどこまでも希薄化し、巧みに編集された音風景を無防備な耳に流し込む。録音担当はVallancienの後継者というべきDaniel Deshays。

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休憩BGM
 
モーラムLuk Thung『Classic & Obscure 78s from the Thai Countryside』
試聴:http://www.dust-digital.com/luk-thung/
 AMEPOHONEの愛するタイの歌謡曲モーラムから。東北地方民謡出自のイナタいメロディやケーンの響きが、キャバレーの箱バン風のアレンジやレゲエ感覚の後ノリのヴォーカルと合体。同時代の昭和歌謡曲と同じく無国籍な雑食的実験性溢れる人懐っこさ。



第3部 空間による音の変容への眼差し

tsuki no waTsuki No Wa『真昼顔』tr.6【7:50】
試聴:
 以前にも別トラックを採りあげたAMEPOHONE録音/プロデュース作品から、今回はFuminosukeのヴォーカルなしの表題曲を。空間に滲み溶けていく響きへの眼差しが、体育館にこもる熱気と重ね合される。電子音(前出のSoundworm こと庄司広光による)が回路的なエフェクトとしてではなく、空間に放出され、ある帯域をマスクあるいは強調し、空気を揺り動かすことを通じて演奏と混じり合い変容させる。

Pierre Barouh『Ca Va Ca Vient』tr.1【2:36】
試聴:https://www.youtube.com/watch?v=gi9eAk41Rs0
 AMEPOHONEの先駆者と言うべきDaniel Vallancien録音作品を続けて4つ。まずは「世界最初のインディーズ・レーベル」Saravahを主宰するPierre Barouhの代表作から。街頭のざわめきと混じり合い空中に舞い上がって、ゆるやかにたなびきながら希薄に溶けていくブラスバンド(前掲のBernard Vitetも参加)の響きと、胸をそらした押しつけがましさの一切ない声が睦みまどろむ白昼夢。

Bridget Fontaine, Areski, Art Ensemble of Chicago『Comme a la Radio』tr.1【9:08】
試聴:https://www.youtube.com/watch?v=3WfVir1_Edc
 前掲作品に続きSaravah必聴名盤から。声量のないささやきヴォーカルの手触りをリアルにとらえつつ、管楽器の響きを極端に切り詰め、単一フレーズを繰り返すリズムに北アフリカの乾いた風を吹き抜けさせて、確保した隙間に異国の香るメロディをモザイク状にちりばめるDaniel Vallancien巧みな音響構築。この誰しもが聴いているはずの曲の「ジャズ」に対する徹底した異化ぶりを、ここまで鮮やかに示し得たのは、歸山幸輔設計のスピーカーの貢献が大きい。ちなみに本トラックのトランペットはLeo Smithによる(Saravah盤ジャケットに表記あり)。

Art Ensemble of Chicago『A Jackson in Your House』tr.1【5:50】
試聴:https://www.youtube.com/watch?v=5drrLal9fr8
 おどけたファンファーレ、静寂に浮かぶヴィブラフォンの震え、ガラクタ/オモチャな小打楽器類、下卑た笑いに満ちた乱痴気コーラス、突如始まるディキシーランド‥短い場面を連ね、多様な音色と幅広いダイナミクスを駆使した、フリー・ジャズの徹底的な異化/再構成(黒い哄笑に満ちた)を支えたのは、彼らによる音響への覚醒した視線を具体的にテープに定着し得たDaniel Vallancienにほかならない。

Anthony Braxton『B-X NO-47A』tr.1【中頃4:00】
試聴:https://www.youtube.com/watch?v=KPliRMCaV84
 前掲作と同じく初期BYG盤から。肉感的なブロウを排し、むしろ感情を取り除いた精密かつ多彩な微弱音を駆使したサウンドによるパペット・ダンス。その「非人間的」在りよう(前出のBernard Vitet『Mehr Licht!』にも通ずる)は定型フリー・ジャズの範疇では到底とらえられない。やはりDaniel Vallancienの耳なしには成し得なかったであろう達成。

Takashi Ueno, Hiraku Suzuki『Son et Lumiere』tr.3【4:40F.O.】
試聴:http://www.reconquista.biz/SHOP/MK40.html
 鈴木ヒラクのパフォーマンスと植野隆司の生ギターの共演。遠い録音が、ギターの響きが距離/空間に侵食変容される様をリアルにとらえており、空間のざわめきには、多方向から交錯する残響や背景ノイズのほか、パフォーマンスで空中のたなびかされる紙の音も微かに混じっている。以前に『松籟夜話』第五夜で採りあげた、さや、梅田哲也、高橋幾郎との『モエレ』以上に、デレク・ベイリーと田中珉による『Music and Dance』を彷彿とさせる空気感。

Laurent Sassi,Michel Doneda,Marc Pichelin,Le Quan Ninh『Montagne Noire』tr.2【10:05】
試聴:
 『松籟夜話』第一夜Michel Doneda特集でも採りあげた『Montagne Noire』から、それとは別のトラックを。打撃の直後に水に浸され音高を急にベンドさせるシンバル、かき混ぜられる河原の小石、川面を切り裂く水しぶき、泡立ちほとばしり靄のように立ち込める息‥‥間近に見詰め、不意に遠ざかり、自由奔放に立ち回る演奏者を追いかけまわし、一瞬静まり返った渓谷に響く小鳥の声に耳を澄ますマイクロフォン。まさに録音による演奏。

Michel Doneda, Jonas Kocher『Le Belveedre du Rayon Vert』tr.5【10:14】
試聴:http://www.ftarri.com/cdshop/goods/flexion/flex-007.html
 廃業した伝統あるホテルの様々な場所での演奏から中庭の場面を。響きを通じて空間を手探され、演奏によって空間が照らし出される。ここで二人は互いに言葉を交わす代わりに、明らかに各々が空間を探査し応答しており、二つの軌跡が交差する様がレコーダーに記録されている。まるで地縛霊を振り払う「キヨメ」のような不気味さ。

ノスタルジアDVDAndrei Tarkovsky『Nostalghia』DVD【ラスト5:00】
試聴:https://www.youtube.com/watch?v=LvumaiJPRwk
今度は作品名を明らかにした後に、荒い息を吐きながら苦行を果たし終えた詩人が呻き声と共に倒れ、やがて廃墟の中に故郷の家が浮かび上がり、恩寵のように雪が降り出す有名なラスト・ショットまで映像無しに。
音だけで(フィルムの映像ではなく)視覚の運動/変容が立ち上がってくると同時に、ヴェルディ『レクイエム』、ロシア民謡、鳴き回る犬と、スクリーンの映像は全く異なるオープニング・シーンを、音響が反復していることにも改めて気づかされる。
ノスタルジアとはnostos(帰郷)とalgos(痛み)の合成による造語であり、空間的・時間的に離れた「場所」に還りたい、身を埋めたいという切実な想い、死に至る病を指す(決して甘い郷愁ではない)。その場所とは実在の故郷なのだろうか。むしろ、いまここではない、どこか離れた場所への身を切るような想いではないか。その想いを託され、一瞬ではあるが叶える音楽の力があるのではないか。
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帰路へのサルヴェージ

Tony Kosinec『Bad Girl Songs』tr.11「The Sun Wants Me to Love You」【4:17】
試聴:https://www.sonymusicshop.jp/m/item/itemShw.php?site=S&cd=MHCP000000594
 『松籟夜話』ではいつも、音の深みから現実世界へと浮上する「サルヴェージの時間」を設けている。今回は知る人ぞ知るエヴァーグリーン的名盤から。ここでは本来センターに定位すべき声が、視界の片隅から遠い響きとともに聴こえてくる。まるで隣の部屋で歌っているような親密な肌触り。「いまここではないどこか離れた場所」とは、遠い異郷でも仮想世界でもなく、意外と近くにあるかもしれないという救いを込めて。


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興奮冷めやらず珍しく賑わうアフター・アワーズの交流



『松籟夜話』第七夜
日時:2016年9月18日(日)
場所:ビブリオテカ・ムタツミンダ(「月光茶房」隣接スペース)

福島恵一 音楽批評/「耳の枠はずし」 http://miminowakuhazushi.blog.fc2.com/
津田貴司 サウンドアーティスト http://hoflisound.exblog.jp/
歸山幸輔 オリジナルスピーカー

◎音楽批評・福島恵一とサウンドアーティスト・津田貴司がナビゲートする、「聴く」ことを深めるための試み。◎会場は青山・月光茶房隣設のビブリオテカ・ムタツミンダ。歸山幸輔によるオリジナルスピーカーで様々な音源を聴きながら「音響」「環境」「即興」の可能性を探ります。
第七夜は、360°records関連アーティスト、主にAMEPHONEの音源を灯台として、映画的な音像構成や民俗学的な現地録音、さらには空間に浸透していく響きの行方を見つめる眼差しへと至る、聴取の可能性を照らし出します。
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当日写真撮影:原田正夫、多田雅範、津田貴司





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ライヴ/イヴェント・レヴュー | 00:12:25 | トラックバック(0) | コメント(0)
『松籟夜話』第七夜へのお誘い  Invitation to "Syorai Yawa", the Listening Event "Night Stories As Pine Tree Leaves Rustling in the Wind", the Seventh Night
 『松籟夜話』第七夜、いよいよ明日9月18日(日)に迫りました。今回は前回に引き続き360°records周辺特集ということで、AMEPHONEの作品を光源として、世界を照らし出していきます。ここでは参考に舞台裏について、少々お話しします。

 企画に当たっては、軸となるアーティストや世界観を、まず定めます。『松籟夜話』を実際に始める前は、いわゆる企画会議っぽい感じで、あれはどうか、これはどうかと、いろいろアタリを着けて、複数のテーマをストックしたのですが、実際に始まってみると、そんなハナシはどこかへ行ってしまって、初回のMichel Doneda以降、毎回やるたびに、次のテーマが自分の方から、我々の前面に立ちはだかるように姿を現してくることに驚きました。それゆえ、いつも次回のテーマは「次はコレをやらざるを得ない」というように、「必然的」というか、ある種「宿命的」に逃れ難く出くわすかたちで決まってきています。そうした遭遇の軌跡を振り返ると、それが決してミュージシャン人脈やジャンルのつながりといった、既成の道筋をなぞったものではなく、音響の感触や匂いの類似性・関連性を手掛かりに切り開いた「けもの道」となっている点が、とても『松籟夜話』らしいと、少々誇らしく感じています。
前回採りあげたtamaruから今回のAMEPHONEへと伸ばされた線は、レーベルや当時の国内シーンの動向に関連するものであり、これまでの選択とはいささか異質と感じられるかもしれません。もともと『松籟夜話』初めての2回連続企画として発想した時点で、それは明らかだろうと言えばそうなのですが、ここにまた、発想した時点では思いもつかなかかった新たな聴取の可能性が潜んでいました。

 準備段階でAMEPHONE関連作品の音源を聴き込み、前回のtamaruのように、各作品の内包する視点や音響構築の特徴を切り分け、これらに一見類似する音源や、逆に外見上は大きく異なるが深いところで通底している音源等を補助線として提示し、極端に切り詰められたtamaru作品の豊かさを明らかにしつつ、同時にあたりを照らし出していく‥というやり方は、今回は難しいと考えました。AMEPHONEは演奏者である以上に、サウンド・プロデューサーであり、レコーディング・エンジニアであり、絵画や個人映画の単独の作家であるよりも、複数のスタッフを差配する「監督」に近いことが、改めて見えてきたからです。そこで、彼の作品に共通し、そこにAMEPHONEならではの強度を、一種の「謎」(©多田雅範)として加えている点を掲げ、それぞれの方向からやはり強度の高い作品をぶつけていく‥という構成を採ることにしました。つまりは次の3部構成です。
 1.民俗音楽の捏造
 2.映画的な空間構成
 3.空間による音の変容への眼差し

 思い浮かぶ音源をあれこれと渉猟しながら、さらに思考を深めるうち、参照したCANやKink Gong 、ゴダールやタルコフスキー、パラジャーノフ、あるいはBridgette FontaineやSteve Lacy等を通じて(この中には当日プレイされないものも含まれています)、AMEPHONEが鋭敏な耳によってつくり出そうとしている世界がどのようなものなのか、改めて明瞭になってきました。それとともに、初期SaravahやBYGを支えたDaniel Vallancienをはじめ、Jean-Marc Foussat, Daniel Deshays, Francois Musy, Pierre-Olivier Boulant, Laurent Sassi, Marc Pichelin, Laurent Jeanneau等、一連の特異なサウンド・エンジニアの系譜が浮かび上がってくることとなりました(目聡い読者はこの固有名詞の羅列の中に、幾つもの方向から交錯する複数の線を看て取ることでしょう)。耳による世界の構築(捏造?)と絶えざる変容へと持続的に向けられる耳の眼差し。特にDaniel Vallancienはその象徴的な存在であり、言わばAMEPHONEの先駆ととらえることにより、その耳の横断性がよりわかりやすく示されることになると考えています。

 『松籟夜話』の準備とは、こうして当初の当てが外れ、坂道を転げ落ち、泥沼にはまり込むようにして、聴取の深みへと潜航していくプロセスであり、すでに聴き知っているはずの音源に、自らを取り巻く世界に、新たな発見をもたらす耳の旅路にほかなりません。こうして準備を重ねてなお、当日にはまた予想外の事態が出来し、新たな発見が、新鮮な思考が促されます。明日9月18日(日)、『松籟夜話』第七夜にご参加の来場者を、そうした豊かな体験にお連れすべく努めてまいりたいと思います。

 どうぞおいでください。

 なお、当日は混雑が予想されます。当日の急にご参加いただいた方にも対応すべく努力いたしますが、今からでも予約していただくことをお勧めします。また、当日はぜひ18時のスタート前においでください。お手間をおかけいたしますが、よろしくお願い申し上げます。

『松籟夜話』第七夜原田縮小


『松籟夜話』第七夜

◎音楽批評・福島恵一とサウンドアーティスト・津田貴司がナビゲートする、「聴く」ことを深めるための試み。◎会場は青山・月光茶房隣設のビブリオテカ・ムタツミンダ。歸山幸輔によるオリジナルスピーカーで様々な音源を聴きながら「音響」「環境」「即興」の可能性を探ります。

第七夜は、360°records関連アーティスト、主にAMEPHONEの音源を灯台として、映画的な音像構成や民俗学的な現地録音、さらには空間に浸透していく響きの行方を見つめる眼差しへと至る、聴取の可能性を照らし出します。

福島恵一 音楽批評/「耳の枠はずし」 http://miminowakuhazushi.blog.fc2.com/
津田貴司 サウンドアーティスト http://hoflisound.exblog.jp/
歸山幸輔 オリジナルスピーカー

日時:2016年9月18日(日)18:00〜(21:00ごろ終了予定)
料金:1500円...





ライヴ/イヴェント告知 | 16:26:33 | トラックバック(0) | コメント(0)
『松籟夜話』第七夜フライヤ出来上がりました
 ご好評をいただいております、ディープでコアなリスニング・イヴェント『松籟夜話』。9月18日(日)開催の次回第七夜は、360°records関連アーティスト特集の2回目。主にAMEPHONEの音源を灯台として、映画的な音像構成や民俗学的な現地録音、さらには空間に浸透していく響きの行方を見つめる眼差しへと至る、聴取の可能性を照らし出します。

 先日、相方の津田貴司とビブリオテカ・ムタツミンダにて、長時間にわたり濃密な試聴/打合せを行いましたが、やはり初期SaravahやBYGを支えたDaniel Vallancien, あるいはMichel Donedaの共同作業者であるPierre-Olivier Boulant, Laurent Sassi, Marc Pichelin等、創造的な録音エンジニアが導きの糸となってくれそうです。さらにはゴダールやタルコフスキー、パラジャーノフといった映像作家たちも。

 想像的望郷を巡る耳の旅路、どうぞお楽しみください。フライヤも出来上がりました。まだ残暑厳しいですが、紙面には一足先に忍び寄る秋の気配が漂っています。川本要さん、いつも素敵なデザインをありがとうございます。どうぞご覧ください。

『松籟夜話』第七夜フライヤー縮小


『松籟夜話』第七夜

◎音楽批評・福島恵一とサウンドアーティスト・津田貴司がナビゲートする、「聴く」ことを深めるための試み。◎会場は青山・月光茶房隣設のビブリオテカ・ムタツミンダ。歸山幸輔によるオリジナルスピーカーで様々な音源を聴きながら「音響」「環境」「即興」の可能性を探ります。

第七夜は、360°records関連アーティスト、主にAMEPHONEの音源を灯台として、映画的な音像構成や民俗学的な現地録音、さらには空間に浸透していく響きの行方を見つめる眼差しへと至る、聴取の可能性を照らし出します。

福島恵一 音楽批評/「耳の枠はずし」 http://miminowakuhazushi.blog.fc2.com/
津田貴司 サウンドアーティスト http://hoflisound.exblog.jp/
歸山幸輔 オリジナルスピーカー

日時:2016年9月18日(日)18:00〜(21:00ごろ終了予定)
料金:1500円
予約:お名前・人数・当日連絡先を明記の上,下記までお申し込みください。
gekko_sabou@me.com(月光茶房)

会場:Bibliotheca Mtatsminda(ビブリオテカ・ムタツミンダ:青山・月光茶房隣設ECMライブラリー)
東京都渋谷区神宮前 3-5-2 EFビルB1F
03-3402-7537
http://gekkosaboh.com/

ライヴ/イヴェント告知 | 00:35:36 | トラックバック(0) | コメント(0)
「聴くこと」がもたらす感覚の変容・変質 「タダマス22」レヴュー  "Deep Listening" Makes Transformation and Alteration to Senses Review for "TADA-MASU 22"
 この日(7月24日)の四谷音盤茶会の選盤はいつになく「濃い」ものとなった。益子の言うところの「音色」、「サウンド」、「(聴くことの)快感」が炸裂したプログラム。それらは聴き手が慣習的にイメージする「ジャズ」とは似ても似つかない、およそかけ離れた姿をしている。にもかかわらず、旧来の「ジャズ」から外見上どれだけ遠く隔たっているかの「距離」において、これらの演奏/作品を位置づけ評価するのは、まったくの見当違いだと私は考えている。ここでは前述の「音色」、「サウンド」、「(聴くことの)快感」といった視点/評価軸の可能性を掘り下げるため、これらに基づいた選盤の流れの中に引かれた(引かれているはずの)前後の対比の線を、私なりにくっきりと浮かび上がらせながら論じていくこととしたい。それは必然的に益子によるプログラム作成意図に触れることになるだろうが、決して彼の意図を正確に推し量ることを目指しているわけではない。いつものことながら、それは私の視角からとらえた音像にほかならず、言うならば「『松籟夜話』から見た『タダマス』」ということになるだろう。
なお、当日のプレイリストについては、次のURLをご参照いただきたい。
http://gekkasha.jugem.jp/?cid=43767

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撮影:原田正夫



 この日の焦点となった後半「ダーク・サイド」の5枚に触れる前に、前半「ポップ・サイド」の5枚のうち、印象に残った作品について書いておきたい。

タダマス22D1 3枚目Bobby Avey『Inhuman Wilderness』からの2曲は、空中ブランコのように大きく揺れながら疎から密への振れ幅大きく叩きまくられるドラムと、クラシック風に取り澄ました、あるいは手触り冷たくミニマルに構築されたピアノが絡み合う様を、芯のあるベースが音数少なく支えるという構図。一方で精密なグリッドを構築しておいて、他方でそれを揺すぶり立てながら疾走するという「運動感覚」は、益子も以前にthe HIATUSで高く評価していた柏倉隆史がドラムを務めるtoeを、つまりはマス・ロック的な演奏のあり方を思わせる。「ドラムの音がとてもデッド」(益子)との指摘通り、眼前で炸裂する打撃は一瞬で背後へと飛び退り、余韻を残さず、空間を占有しない。それゆえに時空間にマッピングされた各点の間に自由に線が伸びることができる。トリオ編成でありながら、ピアノの右手が高音域でモールス信号的なリフを奏でたり、叩きつけるような刻みを入れながら、左手はぬるぬると低音を徘徊するなど、複数の流れを操ってみせるあたり、ジャズ演奏者ならではの「身体能力」の高さ、瞬間瞬間の制御能力(それこそが「即興」を支えている)の深さを感じさせる。


タダマス22D2 続いてかけられた4枚目Guillermo Klein『Los Guachos V』は、リズミックなレイヤーの敷き重ねによりながら、先へ先へと駆り立てられていく層、そこから滑り落ちたように次第に遅くなっていく層等が交錯し、ドップラー効果を思わせる、くらくらふわふわとした不思議な眩暈感をもたらしてくれる。まるで通過する踏切の警報のように、揺らめきながら遠ざかるシンバルの響きに、寝台列車に乗った子ども時代の記憶がふとよみがえる。繰り返されるピアノの打鍵が次第に遅くなっていくような幻惑感、テーブルからこぼれ落ちてバラバラと床に散らばるドラムの引き起こすデジャヴ感覚‥‥。「忘れ物をして後から提出する感じ」と多田が言う通り、ここで「遅さ/遅れ」は単に相対的な速度差ではなく、どこかノスタルジックというか、追想的な「喪失感」をたたえている。指先が触れたにもかかわらず、もう少しのところで取り逃がしてしまい、もう二度と手に入らない甘美さ。この匂い立つ手触りは、いわゆる「アルゼンチン音響派」のMono Fontanaや、そこからはみ出してしまうがFederico Durand等とも相通ずるように思う。他のより速い曲は、もっと縦の線が揃ってしまって、香りこそ共通するものの、初期マイケル・ナイマンみたいだったから、この曲の「遅さ」に注目した益子の慧眼を讃えたい。

 これに対し、後半「ダーク・サイド」の常連Henry Threadgillが、何と前半2枚目にかけられた。ピアノを左右に配して対称性を高め、Threadgill自身は作曲のみで演奏に参加しないアンサンブルは、冒頭のピアノ2台だけによるパートなど譜面剥き出し感が強く、その後、各楽器が出入りしながら、織り面の移り変わりを見せていく彼独特の展開はあるのだが、ちょうどロウソクの炎の揺らぎが映し出すめくるめく走馬灯の景色のように、あらかじめ用意された枠組みを離陸した音自体が息づき、自在に伸び縮みしながら、夢幻的に巡り巡るところまではとても行かなかった。前述2作品の「露払い」の位置に座したのもむべなるかなと。
 


タダマス22D3 後半幕開けの6枚目は、最近「タダマス」の常連となった感のある「フェンダー・ローズの魔術師」Jozef Dumoulinと女性ヴォイスのデュオLilly Joel『What Lies in the Sea』。深い残響にまみれた、エレクトリック・ピアノとはとても思えない濃い霧のような輪郭不明のたゆたいに切れ切れの女声や不穏な物音が溺れ浮かび沈んでいくという構図は、Mauve Sideshowのいかにもカルトな吐息や、Nurse with the Woundの総帥Steven Stapletonが偏執狂的につくりあげたCrystal Belle Scrodd(Diana Rogerson)の音響迷宮世界を思い出させる。しかし、Lilly Joelとそうしたあり得る参照項の決定的な差異は、前者が離陸してからの飛翔、瞬間瞬間の姿勢制御にすべてを賭けているのに対し、後者は精緻なポスト・プロダクションによる徹底的な編集/つくり込みの産物であることにほかならない。到達点としての「世界観」を共有しながら、そこに至る身体の関わり方は驚くほど異なっている。作曲者の脳内に成立したヴィジョンを演奏者という「媒介物」なしに外界で実現しようとする電子音楽と、それとは対極的に完全には制御し難い電子回路とリアルタイムで格闘するライヴ・エレクトロニクス。エレクトロニクス演奏の二つの「源流」へと想いを馳せてみること。


タダマス22D4 巨大なバス・サクソフォンやコントラバス・クラリネットを循環呼吸で吹き鳴らすColin Stetsonもまた、最近の「タダマス」の常連のひとりだが、その超絶技巧に関心しながらも、それほど面白いものだろうかと首を傾げていたことを、私も多田同様白状せねばなるまい。8枚目にかけられたColin Stetson『Sorrow - A Reimagining of Gorecki's 3rd Symphony』は、タイトル通りの交響曲を、管楽器トリオに弦楽器やエレクトリック・ギター、シンセサイザー等を加えた編成で演奏したもの。オリジナルのオーケストラでは暗闇をひたひたと満ちてくるような冒頭の低弦部分が、息の力をみなぎらせてその姿を浮かび上がらせ、湧き上がる倍音の荒々しさを通じて聴き手に響きの深淵を覗き込ませる。循環呼吸のために鼻から素早く息を吸うノイズの禍々しいばかりに差し迫った生々しさが、原曲の発想の源に置かれたであろうチャントの厳かさと身体のざわめきに満ちた静謐さ(コンサート・ホールの静かさとは異なる)をあぶり出さずにはおかない。いささか逆説的な物言いとなるが、たどるべき旋律線が先に示されていることが、演奏者と聴き手をより強く深く響きへと没入させるように感じられる。
 クラシック作品の演奏を聴く楽しみとは、作曲された旋律をたどることではなく、ホールを満たす響きに深々と身を沈めることにあるのだと前置きして、多田は、このStetsonたちの演奏について、「純粋体験」というか、耳の焦点を合わせれば合わせるほど、対象がひと塊の音ではなくなり、幾つにも分岐し、当てもなく広がって、自分が包み込まれていく‥‥と語っていたが、オーケストラよりもはるかに小編成の演奏ながら、そうした底知れない奥行きの深さが確かにここにはある。オリジナルの演奏はもっとテンポが速いという益子の指摘に、その時は深く頷いたものの、オリジナル編成の録音を幾つか確かめてみると、テンポ自体はそれほど違わない。しかし、テンポ感の遅さというか、足取りの重たさ、降り積もった雪を踏みしめ足が地面に食い込むような沈み込み感覚は、Stetson版の演奏に特有のものだ。
 本作品のひとつ前にかけられた7枚目Pascal Niggenkemper『Le 7eme Continent:Talking Trash』に、現代消費文明批判のコンセプトから軋みに満ちたノイジーなサウンドを構想し、ただそれを演じているだけ‥‥という浅薄さ(いや標題音楽とはそういうものだろうという反論はさて置くとして)をどうしても感じてしまうのに対し、このグレツキのよく知られた作品の再構築においては、演奏の瞬間瞬間を通じてサウンドがより深く追求されているのが素晴らしい。そのことが先の「沈み込み感覚」をももたらしているのだろう。空間の豊かな残響を活かし、耳触りのよさを追い求めた清水靖晃によるバッハのアダプテーション等とは、アプローチは一見似ていながらも、明らかに求める方向性の異なる作品と位置づけられよう。


タダマス22D5 9枚目にかけられたのが、益子が「今年最大の問題作ではないか」とまで言うTyshawn Sorey『Inner Spectrum of Variables』。2枚組CDの全体を通してみるとSoreyが演奏していない場面が多いとのこと。15分以上に及ぶトラックが丸々プレイされたが、間を置いて打ち鳴らされ、薄闇から浮かび上がる金属打楽器の少しもまぶしさのない響きと、冷ややかに落ち着き払った距離の眼差しが、わずかの隙もなくぴんと張り詰めた細い綱を渡っていく様に、聴き手は耳の視線を一瞬たりとも逸らすことができない。やがて剥き出しに擦り切れた弦のか細い響きが水平にたなびき、北欧トラッド風の輝きを増しながら、空間に傷を付け、うっすらと響きを滲ませていくが、それでもいささかも水面を揺らすことなく、水底に留まる暗く冷たい水のしめやかな奥深さを乱すことがない。
 Soreyによる打楽器のパートはおそらく即興的に演じられ、弦やピアノのパートは記譜されているのではないかとのことだが、これはただ「譜面の音響化」によって成し遂げ得る演奏ではなかろう。ここですべては様々な度合いの「振動」のブレンドとしてある。光の届かない水底に沈み、側線で水の動きを感知する魚のように、全身を耳にして音響空間の深みを探る耳の眼差しの強度/浸透力と、ひとつところに留まるために自らを取り巻く水の微細な揺れ動きに合わせ、絶え間なく鰭の動きをコントロールし続ける「即興」的鋭敏さ/繊細さなしには果たし得まい。終盤にヴァイオリンが見せる超絶技巧やコントラバスの弓弾きによる深々としたドローンも、そうしたひとつながりの「ブレンド」の一部にほかならない。


タダマス22-2縮小 タダマス22-3縮小
撮影:原田正夫


 「音色」、「サウンド」、「(聴くことの)快感」によってひとつに束ねられた流れを、こうして前後の対比に沿って切り分けながら見ていくと、それらの作品が旧来の「ジャズ」とは似ても似つかない、およそかけ離れた姿をしているにもかかわらず、そこでは一貫して演奏を通じてのサウンドの追求/錬磨、その音楽があらかじめ記譜等により準備されているか否かにかかわらず、演奏へと離陸してからの瞬間瞬間の反応にすべてを賭けているあり方が浮かんでくるように思う。もちろんそれは「素早く柔軟な身のこなし」という点では、従来からのジャズ的なミュージシャンシップの延長上にあるのだが、これまでと大きく異なっているのは、「聴くこと」の覚醒/拡大/深化という点ではないかと感じている。そのことが音色の微細な差異や空間/響き/沈黙への感覚を研ぎ澄まし(興味深いことに、この時に感覚的差異は必ずと言っていいほど触覚的なものとして立ち現れる。もしかすると、これは話が逆で、感知すべき差異がミクロ化することにより、感覚の階梯上、自動的に触覚が浮上するということなのかもしれない)、聴くために必要な時間=遅延をいまここに繰り込んで(「聴くこと」とは「待つこと」にほかならない)、感覚を変容させる。

 自らの脳内ヴィジョンを投影したり、共演者の意図を推し量ったり、強迫的に身体動作を加速したりする代わりに、すでに空間の一部として存在しているざわめきや響きを含め、いまここにある音に耳を傾けること。自ら放った音も、共演者の出した音も、ふと鳴り響いた物音も、「手元を離れたもの」として意図や原因からいったん切り離し、意味の乗り物、すなわち記号ではなく、様々な度合いの振動として、持続の総体として、改めて見詰め直すこと。確かグレゴリー・ベイトソンが言っていたのだと思うが、人間が作成した人工物に比べ、生物をはじめ自然がかたちづくったものは、必ずより複雑である。何らかの意図や記号へと還元するのを止めた時、音はこれまで捨象されていた本来の豊かさを露わにする。
 たとえばフィールドレコーディング作品に対する聴取を、風景の表象とか制作者の意図だとかに還元してしまったら、およそ貧しくつまらないものとなってしまうだろう。同様にフリー・インプロヴィゼーションを「自分はあらかじめ準備なとしていない。これはいまここでつくりだしている音である」という自己弁明の証左として聴くことが、いかにつまらないことであるか(実際のところ、「いま私が行っているのは即興演奏にほかならない」ということだけを証し立てるために演奏している者は数多いが、このトートロジーにいったい何の意味があると言うのだろう)。
 フィールドレコーディング作品を聴くように、フリー・インプロヴィゼーションを聴くならば、そこに思いがけない豊かさを発見することができるだろう。前回、ライヴ・レヴューの対象とした大上流一と森重靖宗のデュオなど、まさにそうだった。今回の「タダマス22」で紹介されたTyshawn Soreyたちの演奏も、それを記譜したコンポジションのリアライゼーションとしてではなく、たとえばAlain Kremskiの隣に並べて「こうした意匠はすでにある」と片付けてしまうのではなく、持続としての音に耳を浸し、『松籟夜話』でキーワードとして掲げている「即興・音響・環境」の三者の相互変容としてとらえるのであれば、「聴くこと」を深め楽しむ、またとない契機となり得ることだろう。


益子博之×多田雅範=四谷音盤茶会 vol. 22
2016年7月24日(日)
ホスト:益子博之・多田雅範
ゲスト:千葉広樹 ベース・ヴァイオリン・エレクトロニクス奏者/作曲家

タダマス22-2


ライヴ/イヴェント・レヴュー | 22:01:20 | トラックバック(0) | コメント(0)
交わらない視線、融けあう響き 大上流一・森重靖宗デュオ ライヴ・レヴュー  They Don't Meet Their Eyes But Their Sounds Melt into One  Live Review for Ryuichi Daijo and Yasumune Morishige Duo @ Ftarri
 彼らは視線を交わらせるということがない。大上はたいていの場合、ギターの指板の上に置かれた、あるいは背後に設置した旧式の「ラヂオ」のつまみに伸ばされた左手の指先を見詰めており、時に足元に視線を落とす。対して森重は眼を瞑り、両手指先の触覚をフル・ヴォリュームに高めながら、チェロの弓や胴から伝わる振動に深く糸を垂らしている。

 まだ歩み続ける左手をよそに、大上の右手がふと立ち止まり、弦を離れ、そのわずか上空をあてもなくさまよい始める。やがてそれも止まり、彼はギターを抱えると、森重の方を眺めやる。先ほどまで聴こえるか聴こえないか、ぎりぎりのフラジオを奏でていた森重の弓は、もはや弦を離れ、それでも動きを止めることなく、ゆるやかな往復を繰り返している。沸き立ち中空に舞い上がった沈黙が、再びその場に降り積もる気配を察し、ようやく彼は動きを止める。息を止め、肌をそばだてて確かめてから、彼はようやく眼を開け、大上と視線を合わせる。この日、前半と後半、1回ずつの演奏の最後にいずれも見られた、しめやかな儀式。

 視線を交わらせないということは、互いに聴きあわないということではもちろんない。事実は真逆である。彼らは相手の弦に直接触れているのではないかと思うほど、鋭敏な反応を見せる。そこに距離はない。それゆえにこそ、相手の身体の運動に対して、鏡像と向かい合う猿のように我を忘れて性急に、またせせこましくヒステリックに、自らの身体の動きを投げ返すことがない。彼らは距離によって分離された視覚像にとらわれることなく、同じひとつの空間の中で、響きを通じてひとつに融けあうよりない音の流れに、深々と身体を沈めている。水中で水の流れを感じるように、彼らは多方向からの力動の交錯として、音の流れを感じ取っていよう。自らの弦の振動も、相手の弦の振動も、たちまちのうちに波紋を広げ、変わりなく肌を打つ。私たち聴き手もまた、そうした音の深みへと誘われ、めくるめくように重層化し、ひとつに融けあい、また幾つにも分岐していく豊かな音の流れに、打たれ揺すぶられていたように思う。それは耳が清清と洗われ、また心地よく押し広げられる体験だった。

大上・森重1縮小
  撮影:原田正夫


 すっと弾かれたギター弦の振動が、幾重にも甘皮を剥がした清冽な、だがまぶしさのない響きへと立ち上がり、弓を傾けて当てられたチェロ弦の、少し曇りのある音色と混じり合う。さらに深く弾き込まれたチェロ弦が響きを増し、軽やかにかき混ぜられたギター弦のざわめきを含んで、さらに滋味を豊かにする。

 二人の演奏はここで所謂「特殊奏法」(エクステンデッド・テクニック)へとほとんど向かうことなく、また、ことさらに一音一音を切り離す切断の素振りも見せないにもかかわらず、自ら閉域をかたちづくって単独で線を描くことがない。線描/輪郭と色彩へと二分化していくこともない。二人は互いに音を差し挟みあい、重層化させ、ミクロに絡み合う。ブリの切り身や身欠きニシンと大根のように、あるいはヤンニョムと白菜の葉のように、交互に敷き重ねられ、浸透し、発酵して変容の果てに分ち難くひとつのものとなって、複雑極まりない豊かな香りと味わいを獲得する。時にそれはアルゼンチン・タンゴの濃密な情感すら醸し出す。


 ふつふつと滾り、高揚して急加速し、激しく打ち鳴らされ、あるいは彫り刻まれる弦の響きの充満。どこまでも細く長く引き伸ばされて、次第に遅くなり、ほとんど停止してしまうかに見えて、自らの重さでかろうじて中空に浮き漂っている音の軌跡。互いに互いを細かく差し挟みながら、ただただ厚く重ね描きあうだけでなく、すっと身をかわし、いちど引いたうえで、またふっと別のところに姿を現す身振りの優雅さに二人とも長けている。音の、響きの、細く薄く儚く滲んで消え入る様の見事なこと。


 この日、アコースティック・ギターを演奏した大上が、まるでSP盤の音が聴こえてきそうな骨董品的な「ラヂオ」を、時折「ギター・アンプ」として使用していたことにも触れておかねばなるまい。足元のヴォリューム・ペダルでオン/オフするのだが、さらにトランスミッターを噛ませて、ラジオとして拾った電波が予測不能な干渉をするようにセッティングしてあるらしい。単に「ギター・アンプ」として音をすべて通してしまうと、何重にも紗をかけたようなモコモコとした解像度の低い、音色の上でもダイナミクスの点でも抑揚のつきにくい、いささか単調な音となってしまうのだが、一連の演奏の途中でオン/オフをすることにより舞台の照明が切り替わるような印象をもたらし、あるいはうっすらと音色を曇り濁らせ、紙面が毛羽立つような感じを与え、さらにはこれから演奏する音が旅立ち、演奏された音が滲み消えていくべき静寂に、一様ではない、手触りのあるムラを陽炎のように波立たせて、空間の奥行きを変容させるなど、何とも不思議な効果を挙げていた。


 もうひとつ言及しておかなければならないのは、ほぼ2ヶ月前、5月22日に行われた大上・森重デュオの前回の演奏(やはり素晴らしいものだった)との対比である。この時、森重は通常の奏法ではほとんど弦を弾かなかった。チェロの駒や胴、あるいは駒よりも下の部分を弓で弾いたり、弓の背で弾いたり、円を描くように弓を動かしながら押し付けたりと。これにより音は楽器本来の深々とした響きを奪われ、剥き出しの乾ききった物音や、あるいは極端に圧縮されたノイジーな音響と化す。もちろんそこには聴取を触発して止まない別様の「豊かさ」が開けているのだが、少なくとも耳の風景はまるで違ったものとなる。これは(少なくとも近年の)森重の本来の語法の主要な一部であるのだが、ソロやダンス等との共演以外では、「双子」的な結びつきを有するチェロ奏者ユーグ・ヴァンサンをおそらく除いて、その「物音」がもたらす、具体的な物質性の極としてのアブストラクトさが目立つことが多かったように思う。

 だが、大上との共演において、そうした「物音」の具体的な物質性やアブストラクトさが異物として浮かび上がることはなかった。それは決して大上が「物音」を多用したからではない。大上は確かにデレク・ベイリーが開いた扉の向こうで演奏しているのだが、数多のベイリー・コピイストたちが飽きることなく繰り返す、あたかも弾き損ねたかのように弦を歪に振動させる不定形のサウンドを、極めて限定的にしか用いない。そのような音を素材として選択/採用することで、自分がいま始めようとしている(行いつつある)行為が「即興演奏」であることが、すでにして保証されている‥‥などという愚かな考えを、彼はいささかも持ち合わせていないのだ。彼は弦を正確に振動させることにより、研ぎ澄まされた響きそのものを取り出し、それを寸分の狂いなく精妙に配置する。響きの充満に陶酔することも、身体動作の加速に耽溺することもなく、弦への一打一打を、先に放たれた音に追いすがるのではなく、その後に否応なく口を開ける新たな沈黙/空間へと正面から向かい合わせる。この揺るぎない音への姿勢、沈黙/空間との覚醒した対峙の仕方こそが、彼と森重を結ぶ共通の地平と言えるだろう。

 前回はアコースティックだけ、今回は一部で「ラヂオ」を使用という違いがありながらも、弦自体へのアプローチとしてはほぼ変わることのなかった大上、それとは対照的に、全く弦に触れなかった前回に対し、弓弾きのみの第1セット、ピチカートで始め弓弾きへ移行した第2セットと、今回はアプローチをがらりと切り替えて弦だけにアクセスした森重。そうした極端な対比が私の感覚に浮かび上がらせたのは、むしろ先に述べた「共通の地平」の確かな手触りだった。


 もちろんこれは後付けの理屈であって、聴いている時はそんなものを探り当てようと目指していたわけではない。二人が相手を見やることなく視線すら交わさずに放ちあう音の粒子/波動が、ぶつかりあい反発し邪魔しあって響きを濁らせてしまうことなく、砂に水がすーっと浸透するように、重なり合って揺れる木の葉がそれでも確かに木洩れ陽を地表へ届けるように、互いにすれ違い沁み込み融けあう様に、ただただ眼を見開き、見とれていた。

 最初から周到に準備して、注意深く相手を観察し巧妙に似姿を演じ合っているのではない。躊躇と逡巡を分かち合いながらおずおずと手を伸ばし、「共犯関係」を確認しあってから、そっと手を触れ合っているのでもない。ましてや力任せに向こう側へと突き抜けようとするのではまるでない。きっと彼らには自らと相手の放つ音の、あるいは演奏空間にあらかじめ存在する音の隙間がよく見えているのだろう。パンソリの修行を描いた韓国映画『西風便(ソピョンジェ)』に、どうどうと流れ落ちる滝に向かって、主人公の少女が繰り返し声を放つ場面がある。滝は落下する水滴の集まりで、だからその音は連続しているのではなく隙間に満ちており、その隙間に声を通すのだと、師匠がこの過酷な修行の意味を説明する。生まれてはすぐに消えてしまう音と音の間に開けた、広大な時間的/空間的隙間に向かって、つまりは虚空に対峙して新たな音を放つこと。だから一つひとつの音は、屹立する強度を最初からはらんでいなくてはならない。


 ロングに引いた固定フレームでとらえるならば、二人の男が向かい合い、ギターとチェロが並んで音を出している光景は、最初から最後まで変わることがない。そこには聴き手の予測や期待を裏切ろう、裏をかいて驚かそうなどというさもしい根性はかけらもない。けれど二人の周囲の空間に放たれた音は、目まぐるしく移り変わる景色を、文様を、濃淡の勾配を変幻自在に映し出す。くっきりと細密な面相の筆致と薄墨の滲んだ広がりの水墨画的対比と見えたものが、和紙の繊維の毛羽立ちやバレンの刷りむらがつくりだす触覚のリズムの次元へとミクロ化したかと思えば、当ての無い口笛や金属質の鈍い輝きとなってふと闇から浮かび上がり、そのままヴィブラートを効かせて太く深く空間を彫り刻み、熱く胸に迫る。

 両方の壁から投げかけられた照明が、二人の間にそれぞれの影を落とし、それがひとつになって輪郭を不断に変えながら鼓動し震えていた。

大上・森重2縮小
  撮影:原田正夫


 大上は同じ組合せのライヴを3回ずつ行っている。次回、森重とのデュオの3回目は9月10日(土)にFtarri水道橋店で開催とのこと。9月18日(日)に予定している『松籟夜話』第七夜と重ならなくてよかった。また、聴きに行くことができる。


2016年7月17日(日)
Ftarri水道橋店
大上流一(guitar,radio)、森重靖宗(cello)





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