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福島恵一

Author:福島恵一
プログレを振り出しにフリー・ミュージック、現代音楽、トラッド、古楽、民族音楽など辺境を探求。「アヴァン・ミュージック・ガイド」、「プログレのパースペクティヴ」、「200CDプログレッシヴ・ロック」、「捧げる-灰野敬二の世界」等に執筆。2010年3~6月に音盤レクチャー「耳の枠はずし」(5回)を開催。2014年11月から津田貴司、歸山幸輔とリスニング・イヴェント『松籟夜話』を開催中。

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不在を吊り支える束の間の一致 −−−− ARICA『孤島』レヴュー(補遺)  Momentary Matching Suspending Absence of Focused Body −−−− Review for ARICA " On the Island " (Supplement)
 ARICA『孤島』横浜公演を観た。同じ作品を、違う会場で、短期間のうちに二度続けて体験することで、初回には気づかなかった重要な細部が浮かび上がってきた。舞台の広さが大きく異なるため、演出も違ったものにならざるを得ないと聞いていたので、二度目の体験の際に、意識はその違いをとらえ、前回との視差から作品を立体的にとらえようと働くこととなった。
 しかし、今回新たな試みと見えた部分が、確かめてみると、実は程度の差こそあれ、前回にも行われていたとわかったりもして、「観る」ということがいかに不徹底で当てにならないものかと、改めて嘆息せずにはいられなかった。すぐれた演奏と同様、すぐれた舞台もまた、聴き尽くす/見尽くすことなど到底できはしない。汲んでも汲んでも汲み尽くせない豊かさがそこにはある。その豊かさから眼をそらし、見尽くせぬ「見残し」が常にそこにあるとの不安に蓋をするために、脚本や演出家の弁や、果てはチラシに刷られた主催者の惹句、つまりはあらかじめ用意された言葉に合わせて、わずかばかりの「見たこと」から、さらに細部を余剰あるいはノイズとして切り落とし、ベッドの丈に合わせて手足を切り詰めた、呈のいい言葉が、流通しやすい完パケの「正解」としてつくりだされる(140字以内に収まるとなおよい)。私はそれを批評と呼ぼうとは思わない。
 ともあれ、横浜公演の体験から見えてきたことを書き付けていくとしよう。

0.記憶を剥ぎ取られた場所
 ARICA特設会場と銘打たれた横浜公演の会場は馬車道通りからほど近い、もともとはライヴハウスだったというスペース。音楽ファンには関内ホールやエアジンのそばと言えば、ああ、あの辺りと見当がつくだろう。
 外の道路に面して床までの大きなガラス窓があるが、カーテンで塞がれており、入口を入ると正面から奥にバー・カウンターが伸び、右手が舞台、客席となっている。小学校の教室程度の空間、灰色のつるつるしたコンクリートの床、内装を取り去られ「すっぴん」のままの漆喰風の白い壁、パイプが剥き出しのシーリング。外壁やガラス一枚向こうは道路にもかかわらず、ほとんど車通りがないのか、外の音はほとんどしない。空調の音が低く響くばかり。元公衆浴場の空間で、壁の一部に刻まれた当時の名残や、残された浴槽から、水のたゆたいを映し出していた北千住BUoYと大きく異なり、こちらは暴力的に「記憶を剥ぎ取られた場所」との印象を受ける。それも『孤島』にはふさわしかろう。

 奥の両隅に机が設置されており、きっと福岡と西原が座るのだろう。バー・カウンターの一番奥にも機材がセットされているように見えるが、ここで藤田が客席からの死角に潜みつつ、音響の操作を行うのかもしれない。今回の舞台の唯一の装置である「島」は、最初から舞台左手前の太い柱の陰に、剥き出しでほっぽり出されている。まるで大道具倉庫を楽屋に使うので、倉庫の中身を舞台の端の邪魔にならないところに置かせてもらいました……とでもいうように。
ARICA孤島2-3縮小
横浜公演会場入口


1.開幕
 暗転。最初から剥き出しの「島」の下に、安藤はどうやって入り込むのだろうと、楽屋につながっていそうな舞台左奥の暗闇に眼を凝らしていると、何の前触れもなく、「島」がすっと滑らかに動き始める。奥から手前へと伸びるバー・カウンターの中を抜け、意表をついて奥からではなく、手前から這い入ったのだろうか。舞台が次第に明るくなり、「島」は舞台上をあてもなく漂泊した後、中央手前へと寄り付く。薄闇の中に、背中に台車を敷いて、「島」を下から操る安藤の姿がぼんやりと見える。


2.運動/感覚/身体像
 今回気づいたこと、これに基づいて思考を巡らした内容について、次の二点に集約して述べることとしたい。まずは、前回にも主要なテーマとして述べた、運動/感覚/身体像
の一致と揺れについてである。

(1)揺らぎの諸相/諸層
 前回の論稿では、運動/感覚/身体の揺らぎ、ずれ、不一致に注目し、その結果、焦点となる身体像が不在であることを指摘した。このことは、ある一点(これについては後ほど詳述する)を除いて、横浜公演でも変わりないことを確認できた。そのことを改めて振り返っておこう。

 ARICA『孤島』は不断に揺れ続ける。テクストの諸相/諸層においても、あらかじめ録音された/その場で発せられる声についても、様々な経路を通じて放たれる音響(その中には先に掲げた「声」も時に侵入し、その一部となる)においても、そして唯一の登場人物である安藤の身体の運動とその視覚像においても。

 この揺れは巡り続ける。たとえばテクストはあらかじめ録音された声により表象され、その声は身体の影を引かない虚ろな希薄さにより、その場で発せられる実在の声との差異を際立たせながら、時に実在の声と重ね合わされ、侵食される。テクストの記述は淡々と手記風に進みつつ、時にコンピュータによる機械的応答やサミュエル・ベケット的な繰り言を思わせる、語の組合せによる自動生成(「島は島」)に至る。かと思えば、「サトウキビは島を守り、島は国土を守る」といった明らかに「南島」を示唆する語りが現れ、イメージはローカルな歴史へと係留され、さらには「私をどこかへ連れ出して、そのまますぐに捨てて」との歌謡曲的な叙情へと変奏される。

 あらかじめ録音された声は、当初、淡々と状況を説明する第三者的ナレーションとして外在化しながら、安藤による昔語りという側面を通じて、突然に内面へと踏み込んでくる(島抜けの招待状について急に声を潜めて語る)。これは安藤による「内語」のリアルタイムの実況ではないかと思わせながら、チャイムと共に迷子の呼び出し放送が始まり(声の加工により聴き取りにくく、前回には気づけなかったが、ここで「迷子」として探されているのは、明らかに当の安藤である)、これを聞いた安藤は慌てて姿を隠す。「外敵」として身体の防衛行動を誘発する声。もちろん、これも「内語」であり、トラウマによる強迫反復なのだと解することも可能だろう。しかし、二度目の「放送」に、その場で発せられる声が重ね合わされることにより、それも怪しくなる。これらの諸相/諸層を「自分自身との対話」、「応えるのは自分の声のみという孤独」と要約し、一面化してしまうことはできまい。

(2)映画における自由な切断と結合
 こうした細部の交錯や決定不能な揺らぎがもたらす豊かさを、「あらかじめ録音した声を用いることにより、身体の運動からいったん切断し、改めて多様な結合を操作した」結果ととらえることもできる。演劇にあらかじめ撮影された映像を積極的に導入する「2.5次元」のように、演劇に「他なるもの」を導入することが進化であると、手放しに礼賛される傾向もある。だが、それは、芝居などほとんど観ないど素人の私が言うのはおかしいが、演劇を貧しくする見方ではないだろうか。
 考えてみよう。映画はもともと映像と音声を切り離すものとして誕生した(無声映画)。さらにはキャメラを移動させ、あるいはいったん止めて場面を転換してから撮影し、これらを編集により結合することができた。同様に音声についても、後から付加することにより、映像との自由な結合が可能になった。だが、その結果明らかとなったのは、自由な切断と再結合は、混乱しかもたらさないことだった。棚に置かれていたはずの壺が急に消え失せてかと思えば再び現れ、いま聞こえている声が画面上の誰のセリフだかさっぱりわからない‥‥というように。

 「映画という機械は、見えるものの再現、再構成である以上に、まるでひとつの身体であるかのように世界を見て、聞いて、そして動く。(中略)イメージと声がシンクロしないことは、「誤ったつなぎ」の極致といえないこともない。」【宇野邦一『映像身体論』みすず書房 p.64〜65】
 ジル・ドゥルーズが『シネマ』で論じた「運動・イマージュ」に沿った滑らかなつなぎのことを思い出そう。そこでは運動/感覚/身体がぴたりと重なり合い、つなぎは「省略」として機能し、自らを目立たせない。彼の立論では、それらの結合がネオ・リアリズモを契機として解け、「時間・イマージュ」が産み出されてくると同時に、つなぎが目立ってくるわけだが、ここではむしろ、彼が映画の与える身体が演劇とは異なることについて述べていることに注目したい。
 「演劇を深く愛していた人々は、映画にはいつも何かが、現前が、演劇の特性であり続けている身体の現前が欠けていると反発していた。映画が見せるのは、波であり、揺れ動く微粒子であり、それらによって映画は身体を偽装するだけである。(中略)もし映画がわれわれに身体の現前を与えるのではなく、そもそも与えることができないとすれば、それはまたおそらく映画が別の目標を持っているからである。」【ジル・ドゥルーズ『シネマ2*時間イメージ』法政大学出版局 p.280】
 この指摘を踏まえて、宇野は次のように書いている。
 「そして演劇(あるいはダンス)においても、身体の現前はけっして自明なものではありえない。ただ身体が目の前にあるからという理由で身体が現前するとしても、やはり演劇さえも、その身体から何かしら「別の身体」を生み出すことを本質的な課題にするだろう」【宇野邦一『映像身体論』みすず書房 p.138】
ARICA孤島2-1縮小
東京公演より


(3)「不在」を吊り支える束の間の「一致」
 この「本質的な課題」に応えるものとして、ARICAの一連の舞台、とりわけ今回の『孤島』はある。宇野は先の箇所に続けてアントナン・アルトーやベケットに触れているが、ベケットの力線がARICAの営為を射し貫いていることは論を俟たない。ここで一方では言語の自動生成にまで切り詰められたテクストは、もう一方で謎めいた寓意劇、スブラスティックな喜劇、歴史上の悲劇等、多方向に散乱しながら増殖し、舞台上にひとつしかない身体を引き裂きにかかる。だが、安藤の身体は、ここで多種多様なテクストが投影されるスクリーンとしてだけ存在するわけではない。時に自ら声を放つばかりか、頻繁に自身の姿を隠してしまう。
 ここで注意すべきは、彼女の身体が袖から掃けて舞台を去っているのではないことだ。彼女の姿が見えない時、彼女は「島」の下に身体を潜めている。そのことは『孤島』の開幕部分において、誰もいない「島」が動き回り、その下から彼女が這い出てきた場面で高らかに提示されていた。彼女の身体は常に舞台上に存在し続ける。揺れ続ける「島」と共に。

 このように「姿の不在」をすら含んだ幅広い身体のスペクトルの変容を、「明確な身体像の不在」として、揺らぎの全面的な顕現としてとらえたのが、前回の論稿だった。そこで私はこう述べている。「今回の『孤島』における安藤の身体は、そのように運動や感覚、あるいは言葉を集約する焦点とはなり得ない。身体はくっきりとした像を結ばず、何重にもずれ重なり、埋め難い欠落を帯びている」と。

 今回はそうした「明確な身体像の不在」を吊り支える特異点として、運動/感覚/身体像が一致し、力線を束ね、強度を極限まで高める瞬間が二度訪れたことを指摘したい。

 ひとつは、二度目の「迷子呼び出し放送」に重ねて、安藤が声を重ねるうちに高揚し、ロープでトランペット・スピーカーを吊り上げると、すかさず西原が乱入して、口元にマイクロフォンを吊り下げる場面である。
 前回の論稿では、この場面について次のように述べている。
 「即興的なやりとりを通じて、舞台上の身体の運動は最高潮に達するが、それでもその動きは、ARICAご贔屓のバスター・キートンによる疲れを知らない機械的な動作、スプラスティックな蕩尽的運動に至ることはない。それはむしろ、彼女がこの「島」に縛り付けられ離れられないこと、すなわち「島」に囚われた「運動の限界」を、明らかにするために繰り返される動きにほかならなかった。」
 なぜ、このように、いささか評価を保留しているかと言えば、東京公演では、この場面に一種のすれ違いを感じたからだ。
 「ロープを掴んだまま「島」から離れることのできない安藤に対し、まるで檻の中の猛獣を威嚇する猛獣使いのように、手に持った竿から吊り下げたマイクロフォンをぐいっと突きつけ、彼女が例えば「ホンドー(本土)」と叫びながらパン食い競争のようにそれにかぶりつこうとすると、今度はすぐさま引き離す」やりとりの中で、当初、吊り下げられたマイクロフォンで拾われた声は、トランペット・スピーカーから発せられる。しかし東京公演では、西原が意地悪くマイクロフォンを引き離した時にも、安藤の声はほぼ変わらぬ音量で(音質はやや異なるが)、舞台上に響き続けた。口元に装着されたミニ・マイクで拾った声で補っているのだろう【注1】。これにより、マイクロフォンに飛びついては引き離される身体の運動は、聞こえてくる音声と決定的なずれを来す。身体像(視覚)と音声(聴覚)がライヴな同期を手放してしまうのだ。私はこの瞬間を、不一致やずれの変奏の系においてとらえざるを得なかった。身体の運動が最高潮に達する場面ですら、なお、不一致が周到に挿し込まれ、身体像は焦点からずらされていると。

 これに対し横浜公演では、会場の狭さゆえ口元のミニ・マイクはなく、前述の場面で声の音量が補正されることもなかった。吊り下げマイクロフォンが口元を離れた時でも、会場の狭さゆえに、生の声がそれだけで充分響き渡ってしまうということはあるのだが。いずれにしても、ここにあえて不一致が挿し込まれることはなく、再生される爆撃音や西原の打ち付けるシンバルが鳴り響き、安藤が叫び続ける沸騰状態の喧噪の中で、安藤の(そして西原の)身体は、発話を含む運動と感覚の、視覚像と音声の、幸福な一致を生きていた。

 もうひとつの一致の瞬間は、これとは対照的に静寂のうちに訪れる。安藤が髪を梳かす場面である。この場面について、私は前回の論稿で「彼女が椅子に置かれたヘアーブラシを取り上げるや、動作が突然スローモーションと化し、それまで鳴っていた音も消え失せ静まり返って、緊張が異様に高まる中、正面を向きながら視線を横に流し、美しい銀髪をこれ見よがしに梳る蠱惑的な場面」と述べた。これが全編中で特権的な瞬間であることに気づきながら、それをある時は○○で別の時は××‥‥という、諸相の混淆、抽象と具体、聖と俗、シンボルとアレゴリーの両極を間断なく揺れ動く「揺らぎ」のひとつの極として切り出していた。
 だが、先に見た「沸騰する喧噪の中での一致」が定位されることにより、この瞬間の特異性が改めて浮かび上がることとなった。東京公演では一度きりしかなかった場面が、横浜公演では繰り返されたこともある。もっとも、これは例によって私の見落としかもしれない。ただ、先の「浮上」により、横浜ではより特権的な瞬間として見逃し得ないものとなったということも可能だろう。
ARICA孤島2-4縮小
横浜公演より


(4)身体の中に降りていくこと 通常の演劇であれば全編で垂れ流されているはずの「運動と感覚の、視覚像と音声の一致」に、なぜこれほどまでにこだわるかと言えば、それこそが、この「制約」こそが、映画とは異なる「演劇の可能性」の根源だと考えるからにほかならない。映像や音声を自由に切断/結合し、演劇の「拡張」を試みることもいいだろう。だが、拡張自体に価値があるわけではない。即興演奏において、エクステンデッド・テクニックの開拓あるいは開陳自体に価値があるのではないように。

 tamaruの演奏/行為に触発されて書き上げた即興演奏論【注2】において、私はハープによる即興演奏を行うRhodri Daviesについて、次のように述べている。
 「彼は楽器を多様で異質な各部の複雑な構成として取り扱う。多種多様な部分共鳴/共振のアンサンブルとして。各種プリペアドや弓やe-bow等の様々な音具の使用により、各部の差異を際立たせつつ、さらに分割振動や相互干渉を引き起こしながら演奏は進められる。ここで演奏の資源として用いられる「複雑性」が、決してプリペアドや音具の使用といったエクステンデッド・テクニックによって新たに産み出されたものではないことに注意しよう。それは以前から存在していながら、正統な演奏方法によりノイズとして排除/隠蔽/抑圧されていたものなのだ。彼は足下の直下に豊かな水脈を掘り当て、そこから音響を汲み上げている。それはエクステンデッド・テクニックが目指す領土の拡大、水平方向の踏査ではなく、垂直方向の探査の産物である。足下に開けている深淵を覗き込むこと。気がつけば深淵はあちらこちらに不気味な黒い口を開けている。」
 また、次のように続けている。
 「Derek Baileyの試みもまた、ギターを拡張(extend)するのではなく、ギターの「運命」である脆弱さ、不安定さを垂直に掘り下げ、そこから汲み上げた、通常の演奏からは排除されてしまう発音のぶれ、音の粒の揃わなさ、ミスタッチ、付随的な演奏ノイズ等をランゲージに取り込むものととらえることができる。それらは外宇宙ではなく、J.G.バラードの言うところの「内宇宙」探査の取り組みなのだ。ちなみにBaileyは、少なくともディスコグラフィ上『Solo Guitar vol.1』(1971年)から『Improvisation』(1975年)に至る期間において、エレクトリックで開拓した語法を必ずアコースティックでも達成できるよう、常に試していた。ここでも加工により新たにつくりだすのではなく、すでにありながら埋もれ隠されているものを掘り当て、明るみに出すことが一貫して継続されている。ギターを改造するのではなく、アコースティック・ギターという楽器の元来の輪郭を保持しつつ、その足下を掘り下げて新たな世界を開く、「内宇宙」探査の試み。」

 それゆえ私は、「即興的瞬間」を豊かにはらんだ演劇は、まず何よりも身体の内部に降りていくことによってもたらされると考えている。探索すべき「内宇宙」である楽器としての身体。それは所謂「身体/肉体の演劇」を意味するものではない。むしろARICAがたびたび採りあげるサミュエル・ベケットの作品が、身体を制限し、極小化し、声と言葉、言葉と主体、主体と思考を残酷に分離し、引き裂く中で、なおそこに残らざるを得ないものを浮かび上がらせることも、身体の奥底へと降りていく一つの道筋であるだろう。

 そうした険しい道筋を辿ることができるのも、安藤朋子の身体があればこそだと、改めて思う。終演後に、私の近くに座っていた老齢の婦人が「朋ちゃんも本当に体幹のしっかりした、いい女優になって‥‥」とつぶやいていた。「体幹のしっかりした、いい女優」という表現が、果たして演劇界において一般的なものであるのかどうかは知らない。だが私の耳には、その親しみを込めたごく自然な口調と相俟って、的確であるだけでなく、至極当然な賞賛と聞こえた。
ARICA孤島2-5縮小
横浜公演より


3.二つのメロディが照らし出す身体の厚み
 『孤島』の舞台上でちっぽけなラジオから音声が流れ出した時、それは遠さを媒介し、この場にはない他なるものを導入するための装置にほかなるまい‥‥と瞬間的に決めつけてしまったのは、ジョン・ケージの作品やキース・ロウKeith Roweの演奏に慣れ親しんでいたからかもしれない。その音声はノイズまじりの粗いものに加工されていて、声/歌であること、標準的な日本語ではないことぐらいしかわからなかったが、ここで「島」が沖縄を含めた「南島」のイメージを作中でしばしば付与されていることから、「外国のラジオ放送が受信できるくらい本土から遠く離れている」ことの表象ととらえ、台湾か中国の放送ではないかと見当をつけたのだった。
 前回体験時のこの推測は思いっきり外れていて、実際には宮古島の神歌だった。今回、そう言われて聴いてみれば、前回よりも多少聴き取りやすかったこともあって、確かにゆったりとしたたゆたいをたたえていることがわかる。

 今回、メロディについてはもうひとつ気づいたことがあって、最初、福岡のスキャットのうちに、うっすらとか細く現れた歌謡曲風のメロディが、最後は安藤自身によって再び口ずさまれる。これも横浜用の新演出かと思って確かめると、東京公演の時にもやっていたというから、ますます自分の注意力に自信がなくなるが、今回、それが舞台上に明確に立ち上がったことは確かである(実際、今回の方がより聴き取りやすかったらしい)。島と女と歌謡曲という「定番」というべき強力な結びつきは、ARICAの硬質な舞台にあって、むしろ強い違和感をもたらした。
 後で確かめると、このメロディはバタヤンこと田端義夫が歌ってヒットした「島育ち」で、もともとは戦前につくられた奄美新民謡だが、島唄の伝承が廃れてしまった徳之島では、島へ帰る船の中で大合唱が起きるほど、人々の記憶に定着しているのだという。

 古来より脈々と受け継がれ、生活に深く根を下す「土着」の文化である宮古島の神歌がラジオから流れ、対して昭和を迎えてから生まれ、後にレコード化されて全国ヒットした新民謡/歌謡曲が記憶の海からふと湧き上がり口を衝いて出るという、距離と時間の遠近の交差が興味深い。島とは中央から伝わる文化が最も遅れて届く場所であり、それだけ古い文化が変化を被らずに原型のまま保存されていたりもする。その一方で、島は海を通じて周囲に開かれており、異文化が最も早く伝来する「接触地帯」(ジェイムズ・クリフォードJames Clifford)でもある。そこにあるのは「純粋」で「手つかずの」文化などではないし、文化変容がイコール文化の衰退や死を意味する物でもない。
 『孤島』においては、こうした島が本来的に有している二重性/多重性への眼差しが、同時に、そこに暮らす民の生活や身体の厚みをとらえている。先に見た宮古島の神歌と田端義夫「島育ち」の関係もそのひとつだが、より身体が前景化された例として、作中二度繰り返される安藤が豆を食べる場面を見てみよう。彼女はポケットから豆を一粒取り出すと、何回か反動をつけるために腕を振り身体を揺すり(その度に「島」もまた揺すぶられる)、豆を投げ上げて、落ちてくるところを開いた口で受け止める。何度か繰り返され、失敗してこぼれ落ちることもある。そして最後には同じく反動をつけながら、投げ上げずにそのまま口に放り込み、ボリボリと大きな音をたてて噛み砕くのだ。客席から思わず笑いがこぼれるこの場面は、過酷な「島」の生活環境に耐えるだけではなく、時に出し抜いてみせる身体の狡智を示している。と同時に、不安定に揺れる「島」の上を、他のほとんどの瞬間、安藤が何事もないかのように自在に動き回っていることに改めて気づかせる。
 ここでは「しっかりした体幹」こそが身体の厚みであり、それはまた、先に見た抽象と具体、聖と俗、シンボルとアレゴリーの両極を間断なく揺れ動く「揺らぎ」を受け止め、映し出す多層の襞を備えた身体でもある。テクストに抗う身体。

【注1】
 後で聞いたところによると、東京公演でも最初は音量の補正はなかったとのことだ。しかし、そうすると、吊り下げマイクロフォンが口元を離れると声が聞き取りにくくなってしまうことから、テクストの内容をしっかりと伝えるため、あのような補正に至ったとのこと。私自身としては、叫んでも聞こえないことも含めて声の身ぶりであり、そのような身ぶりこそがテクストに息を吹き込むのだと思うところだが、それはもちろん作品中でテクストが担う役割によっても違ってくるだろう。よって、ここではこのこと自体の是非には踏み込まずにおく。
【注2】
「足下に口を開ける深淵 −− tamaruの無謀な企て」
 http://miminowakuhazushi.blog.fc2.com/blog-entry-458.html

ARICA孤島2-2縮小
横浜公演より

ARICA『孤島 On the Island』
演出:藤田康城
テクスト:倉石信乃
音楽・演奏:福岡ユタカ
美術・演奏:西原尚
出演:安藤朋子

東京公演 2019年1月31日〜2月4日 北千住BUoY
横浜公演 2019年2月15日〜2月17日 横浜ARICA特設会場
※文中「前回体験した」とあるのは2月3日の公演、今回体験したのは2月17日の最終日の公演です。






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ライヴ/イヴェント・レヴュー | 23:17:58 | トラックバック(0) | コメント(0)
誰が揺れる身体を目撃できるか −−−− ARICA『孤島』レヴュー  Who Can Witness Swaying / Shaking Body ? −−−− Review for ARICA " On the Island "
−1.身体の揺れを感じ取ること
 居間に座っていて、地震の揺れに遭遇することがある。あれ、揺れているかなと思っても確信できず、壁にかけた装飾具の振り子が揺れているのを見やって、ようやく得心する。自分の身体の揺れはよくわからない。今日は随分揺れていましたね、と隣席の友人に指摘されて初めて、ライヴ演奏に合わせて身体をゆらゆらと揺すっていたことに気づかされる。まだ幼い頃、家族旅行に出かけて、遊覧船に乗ったり、海水浴をした後、旅館に戻って寝そべると、畳ごとゆらゆらと揺すぶられて、揺れてるよ、揺れてるよと大声を出したことを覚えている。
 自分の揺れを感得できないのだから、他人の感じている揺れなどわかるわけがない。此れ見よがしに身体を二つに折り、波打たせれば、「揺れ」を表していることはわかっても、身体の揺れ自体を伝えることはできない。足下で台地が揺らぎ、支えを失って不安が走り出し、それでも何かを掴もうと足先に力が込められる。手指の先まで緊張が行き渡る。そうした張り詰めた身体を感得することはできても、やはり揺れ自体、揺れている身体そのものを感じ取ることはできない。


0.特定の場所
 ARICAの新作『孤島』の東京公演は、北千住BUoYで行われた。各路線が入り込んで無闇に長くなった駅の、今まで行ったことの無い南端の出入口から階段を降りると、かつて国鉄の高架下に軒を連ねていたような飲屋街が現れ、タイムスリップ感覚に驚かされる。墨堤通りまで出て、珍しく迷わずにたどり着く。かつてはボウリング場だったという2階のカフェ・スペースに上がると、廃墟感あふれる剥き出しのコンクリートに、木製の什器や装飾が配置され、これ自体、演劇的な空間をかたちづくっている。写真がないのが残念だが、天井までの高さ5mはあろうかという木製ドアに設置された、同じく木製のパズルみたいなカラクリ錠前の見事なこと。こちらは銭湯だったという地下の舞台スペースは、やはりコンクリートの梁が剥き出しの廃墟風で、突き当たりの壁に浴槽が残されており、水が張られているのか、ゆらゆらと揺れる波紋が温泉の大浴場風の石張りの壁に映し出されている。右手の奥と左手の手前に配されたラップトップPCを措いた机は、「演奏」とクレジットされている福岡ユタカと西原尚が座るのだろう。黒いPAスピーカーが配され、さらに選挙カーに乗せられているような巨大なトラメガ様のスピーカー(「トランペット・スピーカー」と言うのだそうだ)が黒い床に直置きされている。装置らしい装置は何も無い。乾燥した冬の空気の中、それでも水の気配に浸されて舞台は始まった。

ARICA孤島2縮小


1.開幕
 壁に水の揺らめきを映し出しただけの暗い舞台に、何物ともつかぬ黒い影が現れ、右手から左手へと動いていく。フランシスコ・ロペスFrancisco Lopezの作品で聴かれるような不穏な空虚音がスピーカーから放出されている。土台となる部分に幾つか突起物が付着した「それ」は、重さに軋みながら断続的に進み、左手の壁に突き当たって少し後戻りする。どうやって動いているのか、よくわからない。上から吊るした細いワイヤーが見えるが、それで動いているとは到底思えない。レールや車輪を使った滑らかな動きでもない。訝るうちに、影は今度は前へ、すなわち客席の方に進み始める。遠く聴こえる口笛にも似た響きに希薄なフィードバック音が重ねられ、影が奥と手前の段差を斜面で滑り降りると同時に波しぶきがすべてを包み込む。
 ようやく姿を現した「それ」は、2畳ほどの広さの「島」状の装置で、傾いた上面に椅子、引き出しダンス、傘立て、細い枯れ木、コンクリート・ブロック、半分埋もれた漁網の浮子等が乗せられている。ベケット原作によるARICA『しあわせな日々』の世界観を、ちっぽけな無人島(椰子の木が一本だけ生えた「無人島マンガ」の記号化された舞台)に反映させた感じ。

 「島」の下から女の手が現れ向こう側の上面を叩き、次いで両脚が上方に向かってV字に伸ばされる。やがて左側の下から、自動車整備工のように仰向けの頭が出てくる。装置の下に這い入って、この重い塊を背負い、あるいは押してきたのか……と驚くうち、両腕が伸びて椅子の脚を掴み、椅子の脚の間をくぐって上へと這い上がってきた。照明が点され、主演の安藤朋子の姿がくっきりと浮かび、波の音が静まって、あらかじめ録音された彼女のモノローグが流れ始める。
 感情や体温から切り離された声の冷ややかさ/遠さ。まるでピアノの鍵盤を弾いているように粒が揃い明晰で一定のテンポを保ちながら、まさにそのことによって語り手の身体性を切り取られた空虚にして平坦な声は、彼女の生い立ちや家族のこと、「本土」から切り離された「島」での生活といった一見わかりやすい物語を語りながら、文脈の連なりは具体的な身体像へと着地すること無く宙に浮かび、言葉の断片となって降り注いで、足元に積もっていく。実際、そうして放たれる言葉をよそに、主演の安藤は「島」の上をしばし動き回り、そのたびに重心が動いて「島」をあちらこちらに傾かせる(彼女の足裏に走る緊張)。かと思えば、また頭からずるりとずり落ちて、「島」の下へと這い入ってしまう。
 幼稚園か何かのフィールドレコーディングだろうか、子どもたちの歓声が遠く蜃気楼のように浮かび、オルゴールに似た天国的な音色(見れば西原尚の奏する親指ピアノだった)が重ねられる。


2.孤島とは
 今回の『孤島 On the Island』のフライヤーには、次のような惹句が掲げられている。

  ひとりで立っている たったひとり 島はひとつ 島は遠い
  島はここにある ここにあるのか ここは島 どこの島 島は島

 一方、当日、会場で配られたペーパーには、粗筋に当たるであろう説明として、次の文章が掲げられている。

  年老いた女がひとり。海に囲まれた小さな島、住人も旅人も少ない。
  女は、自分が落ち着くことの出来る居場所を作り上げるために、震える手と足で、
  小さな島のなかに、さらに彼女だけの、極小の居場所としての「島」を作ろうとする。
  それだけが彼女の望みであるかのようだ。
  しかし「島」は絶えず揺動して、定まることがない。
  西原尚が作る、揺れる奇妙な「島」と格闘する身体の演劇。

 さらに同じペーパーには、演出・藤田康城の署名入りの「マイナーなものを凝視する。」と題された文章が掲載されている。いやむしろ、この文章を掲載するためにペーパーが発行されたのだろう。そこで彼は、西原尚(『孤島』の上演で美術・演奏を担当している)の造形作品の「不毛な動きの繰り返し」に触れた後、「そんな、徒労に満ちた繰り返しは、サミュエル・ベケットのお得意だ」とつぶやき、ARICAによるベケット『しあわせな日々』のインド公演を振り返り、そこから改めて『孤島』について次のように語る。

 日本は島国だと言われている。
 「本土」が中心だと思わせながら、しかしたくさんの島がそこにある。
 そして、この舞台はどこかの小さな「島」の話だ。
 何処と名指されてはいないが、長い歴史と政治の中で、
 「中央」に翻弄され続けてきた「島」のようであり、
 その孤立性は、生きることの過酷さを表している。
 そうした「孤島」において、さらに孤立し、体ひとつを頼りに自分だけの「島」を作り、
 そこに居場所を求めようとするひとりの女の話だ。
 だが、その女のアクションは、ベケットの登場人物のように、
 ただただ無益な労苦を重ねるだろう。

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3.焦点となる身体像の不在
 ここには多くの音が息づいている。音量が大きいとか、音数が多いと言うのではない。音源が多元化しており、それらがひとつの共通平面を織り成すことなく、多層のまま交錯し、敷き重ねられる。
 あらかじめ録音された声が語るテクストがある。基本的には前章に掲げた設定に沿っているが、決して一筋縄では行かない。感情や身体の揺れを映し出すこと無く、淡々と一定のテンポで、柔らかく、だがきっぱりと区切られたマルカートにより奏される声は、だがふと倍速に歩みを速め、あるいは半速に遅らせる。声の調子を何ら変えることなく、感情の動きとは無縁に(パーキンソン病的な不随意の感覚)。「ここにあらず」感をたたえて、言葉を宙に浮かせながら。かと思えば、秘密裏に送られてくる島抜けの招待状(おそらくは彼女の妄想なのだろう)について語る際には、声がふっと潜められる。
 突然にピンポンパンとチャイムが鳴り、「迷子情報」の放送が始まる。デパートや遊園地で流れるアレだが、そのいささか不明瞭で聞き取りにくい声は、先ほどまでの語りと音調は異なるものの、同じ彼女の声のように思われ、眼の前にある装置がつくりだしている舞台空間にも、想起が紡ぐモノローグの中にも着地できず、中空で不安定に揺れながら消えてしまう。
 ここではすべてが揺らぎのうちにある。福岡ユタカのうら寂しい口笛やスキャットも、西原尚の親指ピアノや鳴り物も、ふと始まるチターに彩られた観光音楽も、同調を外れた短波ラジオの電子ノイズも、語りの平面にも、装置のある舞台空間にも、「フレーム外」の音響にも収斂することがない。その一方で、眼前の安藤の動きと同期する音がある。「島」の上を動き回る足音やこれにより揺らぐ「島」の軋み、あるいは彼女が傘を取って「島」を叩く音などが同期するのは当然であり、何の不思議もないが、彼女がペットボトルから水を飲む音(飲み込む際の喉の鳴り)や漏らす息が、口元のマイクロフォンで拾われ、増幅されて空間に響き渡る。身体の内部の音が外へと放射され、外部の音と混じり合う。すると先程来の録音された声によるモノローグは、外付けのナレーションではなく、リアルタイムの内語ではないかとの疑念がふと頭をもたげる。例えば、ここで聞かれる「……というやり方」という口癖は、サミュエル・ベケット『しあわせな日々』でとめどもなく溢れ出す、いかにもベケット的な繰り言のうちに頻出していた。彼女がトランジスタラジオのアンテナを伸ばすと、くぐもって聞き取りにくい北京放送か何か(藤田康城によれば「あえて聞き取りにくくしているが、宮古島の神歌を使用している」とのこと)が流れ出し、これが効果音のように聞こえた短波ラジオのノイズと意味有りげな目配せを交わし合う。

 このようにミクロな疑念が沸き立ち続け、世界像が収斂し得ないのは、舞台上に視線の、運動/感覚の、あるいは言葉の焦点となるべき、明確な身体像が不在だからではないか。こうしたことは、これまで観てきたARICAの舞台ではなかった。『ネエアンタ』及び再演の『Ne ANTA』では山崎広太の身体が舞台上に存在し続け、安藤の声に語りかけられ続けていた。『しあわせな日々』では舞台の中央でうずたかく積まれた廃品の山に埋もれながら、とめどもなく語り続ける安藤の身体があった。『蝶の夢 ジャカルタ幻影』においては安藤と首くくり栲象の身体が、『UTOU』においては安藤とジョティ・ドグラの身体が繰り広げる、まさに運動と感覚をぎゅっと束ね圧縮するスプラスティックな運動があった。
 しかし、今回の『孤島』における安藤の身体は、そのように運動や感覚、あるいは言葉を集約する焦点とはなり得ない。身体はくっきりとした像を結ばず、何重にもずれ重なり、埋め難い欠落を帯びている。例えば、彼女が椅子に置かれたヘアーブラシを取り上げるや、動作が突然スローモーションと化し、それまで鳴っていた音も消え失せ静まり返って、緊張が異様に高まる中、正面を向きながら視線を横に流し、美しい銀髪をこれ見よがしに梳る蠱惑的な場面。あるいは「サトウキビは島を守り、島は本土を守る」というように、語り/テクスト中に不意に噴出/浮上し、露呈される沖縄の過酷さ。さらには、「私をどこかへ連れ出して、そのまますぐに捨てて」といった酒と煙草にまみれた歌謡曲的俗情の、他とは明らかに異なる匂い。

 そうしたずれや欠落が最も端的に、またシンボリックに現れているのが、安藤が録音された声に合わせて語りながら、そこからぼろぼろと歯が抜けるように、音が脱落していく場面だろう。もともと「伝えよう」という意志など微塵も感じられない希薄な音の平坦な連なりは、さらにライヴで声を重ねられ、また、その際の口の動きが極端に誇張され、発声との非同期感をもたらすことにより、複数化され、ずれを来たし、不明瞭なぶれをいや増して、言葉とは一切関わりのない口腔音の不気味でいびつな明滅と化していく。


4.「島」との紐帯
 先の場面に続く展開において、安藤が急に背伸びし、梁から垂れ下がったロープをつかみ引くと、壁際に置かれていたトランペット・スピーカーがぐいと中空に吊り上げられる。左手の机で演奏していた西原がやおら舞台へと乱入し、シンバルで太腿をバンバンと叩きながら、「島」のまわりを廻り始める。PAから放射される爆撃音が興奮を煽り立てる。ロープを掴んだまま「島」から離れることのできない安藤に対し、まるで檻の中の猛獣を威嚇する猛獣使いのように、手に持った竿から吊り下げたマイクロフォンをぐいっと突きつけ、彼女が例えば「ホンドー(本土)」と叫びながらパン食い競争のようにそれにかぶりつこうとすると、今度はすぐさま引き離す。
 この即興的なやりとりを通じて、舞台上の身体の運動は最高潮に達するが、それでもその動きは、ARICAご贔屓のバスター・キートンによる疲れを知らない機械的な動作、スプラスティックな蕩尽的運動に至ることはない。それはむしろ、彼女がこの「島」に縛り付けられ離れられないこと、すなわち「島」に囚われた「運動の限界」を、明らかにするために繰り返される動きにほかならなかった。

 彼女は「島」から離れることができない。まるで眼に見えない臍の緒で結ばれているように。彼女は常に「島」を背負い、あるいは抱えている。思えば、彼女が「島」の下から這い出し「上陸」する時も、決して「島」から身を離すことがなかった。頭からずるりと滴り落ちて「島」の下に入り込む時もまた。
 「島」の境界は鋭く断ち切られている。傾いた椅子は、その境界線に沿って一部を斜めに断ち落とされている。このことは「島」が世界の中に居場所としての広がりを確保しているのではなく、ちっぽけな区画に閉じ込められていることを示していよう。「場所」というより「容器」としての「島」。
 ひょっとして「島」の下に入り込む動きは死を、這い上がる動きは誕生/再生を暗示しているのだろうか。そう考えれば、彼女が「島」へと這い上がる時に、いつも苦労して椅子の脚の間やタイヤの穴を通り抜けねばならない理由もわかる。容れ物としての身体を抜け出し、また入り込む魂。とすれば、「彼女」は、何度も死んでは生まれ変わる「彼女たち」の一断面にほかなるまい。
 「彼女たち」は繰り返し繰り返し、愛してなどいない父母に先立たれ、愛していた兄に置き去りにされ、届かない招待状を待ちわび、長い髪を梳かしながら年老いていくのだ。それは差異を産み出す能産的な反復ではなく、無限に続くループへと閉じ込められた生であり、暗く重苦しく痛く苦い倦んだ持続にほかなるまい。


5.テクストへの抵抗
 ARICAが以前に上演した『UTOU』のコーダ部分で、安藤がひそひそと語り漏らした倉石信乃によるテクスト「死んだ小鳥のために」について、私はレヴューで次のように述べている。

 「私は最後に読み上げられたからと言って、それが何か劇の結論めいた終着点と見なしたくはない。この国の現在を水没させている重苦しく出口のないやりきれなさに、鳥を殺し続ける罪深さを結びつけようとは思わない。能舞台の座標空間から思わずフレームアウトしてしまう、ほとんどスラップスティックな身体同士の直接的なやりとりを、ぎりぎりまで切り詰め削ぎ落とした結果、微かな気配ばかりとなってしまった「反転した希望」に向けて、決意表明を行うための助走と位置づけることはしない。
 むしろ、この「コーダ」は、これまで劇の上演を観てきた一人ひとりが、各自それを振り返り、自分なりの「物語」を再構築する「自律」に向けて、反発を惹起し組織するために置かれたのではないかと、私は思うからである。」

 今回の『孤島』のテクスト(やはり倉石信乃による)は、「死んだ小鳥のために」よりも、さらに暗く重苦しく痛く苦い。それは時代の空気の率直な(あるいは何重にも屈折した)反映なのかもしれない。ちっぽけな閉域に押し込められた装置と身体は、歴史をもはらみ込んだテクストの混沌とした分厚さに対抗する術を持たないようにも見える。
 だが、第3章の冒頭に記したように、ここには実に様々な音が息づいている。演出の藤田康城は客席の後方、すなわち観客の視界の外で、ずっと音響を流し、あるいは声を細かく編集加工していたと語ってくれた。
 この多様な音響の生成変化の側から舞台を眺め、過剰なテクストと過剰な音響の間で、また不安定な装置の上で揺れ続ける身体の、そのぶれや揺らぎにこそ注目することにより、テクストの重さに抵抗しようというのが、本論の目論みということになる。
 これがいささかバイアスのかかり過ぎた見方であることは承知している。だが、一見簡素な外見とは裏腹に、むやみに情報量の多い上演に接し、ずたずたに刺し貫かれた観客の身体が、切れ切れの記憶や印象をつなぎ合わせて、何とか自分なりの体験を言語化しようというのだから、公平・公正・客観的な言述など出来ようはずもない。
 おそらくは2月15日から始まる横浜公演を見直したならば、まったく違った見解に至るのではないか。また、この『孤島』という作品自体が、上演空間に合わせて様々に変容するであろうことも想像に難くない。そのような体験への欲望を喚起することこそが、演劇の(と言うよりもより幅広く、上演の)使命ではあるまいか。

 開演から終演までずっと、舞台上には「島」の装置の軋みが間歇的に鳴り響き続けていた。唯一確実なことは、このちっぽけな大地が揺れ続けていること。でも、誰が、いつ、どこで、その揺れを感じているのか定かではない。

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ARICA『孤島 On the Island』
演出:藤田康城
テクスト:倉石信乃
音楽・演奏:福岡ユタカ
美術・演奏:西原尚
出演:安藤朋子

東京公演 2019年1月31日〜2月4日 北千住BUoY
横浜公演 2019年2月15日〜2月17日 横浜ARICA特設会場
※私が観たのは2月3日の公演です。

ARICA公演レヴュー一覧
『ネエアンタ』 http://miminowakuhazushi.blog.fc2.com/blog-entry-221.html
『しあわせな日々』 http://miminowakuhazushi.blog.fc2.com/blog-entry-280.html
『UTOU』 http://miminowakuhazushi.blog.fc2.com/blog-entry-305.html
『Ne ANTA』 http://miminowakuhazushi.blog.fc2.com/blog-entry-382.html
『蝶の夢』 http://miminowakuhazushi.blog.fc2.com/blog-entry-410.html




ライヴ/イヴェント・レヴュー | 02:53:30 | トラックバック(0) | コメント(0)
「タダマス」のための32年次報告書 ―― 「タダマス32」への案内及び「タダマス31」の振り返り  The Thirty-second Annual Report ( Throbbing Gristle ) for "TADA-MASU" ―― Invitation for "TADA=MASU 32" and Retrospective for "TADA-MASU 31"
 益子博之と多田雅範によるNYダウンタウン・シーンを中心とした同時代音楽の定点観測「四谷音盤茶会(通称「タダマス」)」は、今月末、1月26日(土)に32回目を迎える。1月に開催される回は、通常の四半期分への注目だけでなく、前年をトータルに振り返り、前年のベスト10が公表されるのが恒例となっている。特に今回は、超大作にして、超注目作であり、2018年ベストとの呼び声も高いTyshawn Sorey『Pillars』がラインナップされることが予想され、いよいよ期待が高まるところだ。
 「other musicに捧げる」を標榜するアルゼンチンの音楽サイトEl Intrusoが毎年実施しているミュージシャン・批評家投票による年間ベスト選出は、その見識の高さ、そして「タダマス」とのシンクロ率の高さで知られているが、主に合衆国やヨーロッパのミュージシャン・批評家で構成されている投票者に、今回から新たに益子が加わる(アジアからは初めての選出であるという)。そのベスト選出結果とコメントにいち早く触れられる機会ともなる。なお、今回の開催は日曜日ではなく、土曜日なのでご注意を。
 新年初めてのゲストは、ベース奏者/作曲家の蛯子健太郎が「タダマス15」に続き二度目の登場を果たす。前回の登場時に、彼の「ミュージシャンシップでもプレイヤーシップでもない何か」を感じさせるコメントには深く打たれた。その時の様子については、拙レヴュー(※)を参照していだきたい。その後、彼のグループ「ライブラリ」のライヴに何度も足を運ぶことになるのも、ここでの出会いがきっかけだった。あらかじめ譜面に書き込まれた作曲や作品としての歌詞があるにもかかわらず、しかも「どんでん返し」を図るようなあざとい構成・演出など一切なく、音楽だけを目指して脇目も振らずひたすら誠実に、むしろ禁欲的なほどに淡々と演奏を進めながら、にもかかわらず、すでにある像のなぞり、完成されたモデルの再現ではなく、各メンバーが持ち寄った素材により、眼の前で料理がつくられていく新鮮な感動は比類のないものだった。現在の「ライブラリ」の活動休止が何とも残念である。しかるべき再始動を待つことにしたい。
 ※http://miminowakuhazushi.blog.fc2.com/blog-entry-324.html


 以下、「タダマス」情報ページから転載する。

益子博之×多田雅範=四谷音盤茶会 vol. 32
2019年1月26日(土) open 18:30/start 19:00/end 22:00(予定)
ホスト:益子博之・多田雅範
ゲスト:蛯子健太郎(ベース奏者/作曲家)
参加費:¥1,500 (1ドリンク付き)

今回は、2018年第4 四半期(10~12月)に入手したニューヨーク ダウンタウン~ブルックリンのジャズを中心とした新譜CDと、2018年の年間ベスト10をご紹介します。
ゲストには、2度目の登場となるベース奏者/作曲家の蛯子健太郎さんをお迎えすることになりました。ストレート・アヘッドなジャズから電子音響や詩の朗読を含む作曲まで幅広い表現で活躍される蛯子さんは、現在のニューヨークを中心としたシーンの動向をどのように聴くのでしょう。お楽しみに。

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 女性ゲストへの注目度の高さ故か盛況を極めた前回「タダマス31」は、私にとって極めて問題の多い回となった。もちろんそれは私個人の受け止め方に過ぎないが、そのことを自分なりに咀嚼するのに随分と時間がかかってしまった。
 そのの「問題」は結局のところ「作曲と即興」を巡る議論に行き当たるのだが、そんなことを一から掘り返していてはいくら時間があっても足りない(何とかコンパクトに取り扱えないかと試行錯誤したが、結局挫折し断念した)。結論を先取りしてしまえば、私は益子や多田と同様に、「作曲と即興」という枠組み、作曲/即興という二分法自体がもはや失効していると考えており、「作曲の外部/余白としての即興」というように、作曲を基準として即興をとらえるのではなく、即興という行為自体をその過程/軌跡に根差しつつ、直接に思考したいと思っている。
 ここで断っておかねばならないのは、作曲/即興という二分法の失効が、直ちに即興演奏の自立/自律を保証したり、即興演奏の新たな地平(新章?)を開いたりなどしないことだ。世の中というものは、それほどオメデタクは出来ていない。しかし、世間にはそう考える(考えたい)人たちが少なからずいて、妙に浮かれ騒いでいたりするのだが、そんなものは冷ややかに無視しておけばよろしい。
 自分にとって、「即興/音響/環境」や「即興的瞬間」といった用語、あるいはフリー・インプロヴィゼーションとフィールドレコーディングをひとつながりのものとして聴くという視点は、「即興という行為自体をその過程/軌跡に根差しつつ、直接に思考する」ための構えであり、当ブログに執筆してきたライヴ・レヴューにおいては、演奏の過程/軌跡の持続と各瞬間を聴診しつつ、この構えに基づいて様々な角度から分析・記述を進めてきたところである。
 津田・歸山・原田と続けてきたリスニング・イヴェント『松籟夜話』(現在「作業中」)もまた、そうした構えを共有しており、特に私の場合はこの意味合いが大きい。『松籟夜話』で聴く音源は、すべて録音されたものであり、なおかつジャンルで括れば、フリー・インプロヴィゼーション以上に、民族(民俗)音楽やフィールドレコーディングの比率が高いが、それゆえに聴取に対して現れる持続の各瞬間において、音や響きの衝突/交錯/変容を、演奏者の意図や元となる作曲とその解釈に還元することなく、力動的に触知することができる。そこにおいては、演奏/録音された「場」の作用、歴史や文化の流れ、地形や気候、生活様式や空間特性等が、時としてあからさまに前景化してくるが、無論のこと、そこで聴取できるものをそれらに還元してしまえるわけではないし、また、すべきでもない。

 前置きが長くなったが、10月28日に開催された前回「タダマス31」の振り返りを以下に掲載する。前述の自分なりの「咀嚼」の到達点である「1」と、そこから派生した、むしろ先に触れた「浮かれ騒ぎ」の内実の戯画(笑劇?)的なスケッチとしての「2」の二幕から構成されている。それではどうぞ、お読みください。


1.「作曲/即興」の二分法の失効 「タダマス31」を振り返る
——いわゆるインプロの面白さはどのように考えていらっしゃいますか。
多田 そもそもインプロヴィゼーション/コンポジションっていう二分法が有効かどうかが疑わしいよね。
益子 全く有効じゃない。
多田 そういう二分法はもう無いんだよ。

これは別冊ele-kingのために益子博之と多田雅範が行った対談「タダマス番外編」の誌面に掲載されなかった部分からの抜粋である。この対談を企画した細田成嗣が自身の主催した「即興的最前線」なるイベントの配布資料に「インプロの消滅、あるいはフィードバック現象としての即興」と題して掲載している。掲載された部分は多田のブログ(*1)に再録されており、そこで読むことができる。
*1 http://www.enpitu.ne.jp/usr/bin/day?id=7590&pg=20181126

これに対し、相方の益子がFacebookでこうコメントを寄せている。「別冊ele-king掲載「タダマス番外編」の番外編。こういう話を載せて欲しかったのだが...。」
それは無理な注文というもので、本来生成的な厚みを有する事態を、人脈図とディスク・ガイドに薄っぺらく解消することしか考えていない編集企画としては、ミュージシャン名にも、作品名にも、あるいはサブ・ジャンルやスクールにも紐づかない抽象的な見解は、およそ価値のないものと映るに決まっている。そして、そこで不要とされた「廃棄物」が、今度は音響の記録やそれを巡る歴史や言説のアーカイヴから全く切り離されたところで、各自が勝手な思い込みやファンタジーを「原理論」としていいように投影する、別のマーケットに出品され、「消費」されるのだ。ここでは、シーンの動向や音響の記録に対する個別具体的な分析と、「即興」を巡る原理的な思考を切り離し、全く別物として流通・消費させることが、市場のメカニズムとして機能している。

 いや、そんなつまらない話がしたいのではなかった。
 冒頭の益子と多田の対談を読んで、10月28日開催の「タダマス31」へのもやもやとした疑念が一気に晴れた思いがしたということが言いたかったのだ。というのも、「タダマス31」終了時点では、これまで体験した29回の「タダマス」(よんどころない事情で2回欠席しているため)の中で、ぶっちぎりで最低最悪の回だと感じていたからだ。
 これまでにも例えば「タダマス16」のように、当日プレイされた10枚中、私にとって採りあげるべき作品が3枚しかなかったこともあった(*2)。だが、今回は何と1枚もなかった。益子が以前に述べていたように、もちろん見解が一致すればよいと言うものではない。しかし、それにしても、なぜ、この選曲で、この配列で、このコメントなのかについては、いったん腑に落ちた上で、しかし、それとはあえて異なる自分ならではの視点を設定する……という、いつもの「了解」の作業が今回は果たせず、頭上に「?」印をおぼろに浮かべたまま、途方に暮れることとなった。
http://miminowakuhazushi.blog.fc2.com/blog-entry-336.html

 今回は現在注目を集める有名ミュージシャンをゲストに招いたため、彼女目当ての参加者も多く、進行役の益子が途中何度も「今日は彼女のトーク・ショーではないので…」と客席をなだめなければならなかった。そうしたざわつきにいらいらして、音に耳が届かなかったのではないか……とも考えたが、やはりそれだけではないように思われた。次回に超注目作Tyshawn Sorey『Pillars』が控えているために、今回はそれとは違う論点を立てようとして、議論が分散してしまったのだろうか……とも思い悩み、そのことに自分なりの見解を出せなくてはレヴューを記すことはできないと考えた。

 そこで話は冒頭部分に戻ることとなる。「タダマス31」よりも随分前に行われた対談で、益子と多田の二人は、揃って「作曲/即興」の二分法の失効について語っている。にもかかわらず、「タダマス31」でゲストに差し向けられる質問のカギとなり、それだけでなく折りに触れて言及され、全体を通しての主要な軸線となっていたのは、紛れもなく、この「作曲/即興」の二分法だった。そこに齟齬が生じるのは当然のことと言えよう。

 振り返れば「タダマス31」の告知記事で、益子はこの回の趣向を次のように記していた。
 「ゲストには、NY在住の挾間美帆さんをお迎えすることになりました。作曲家・編曲家、そして指揮者として、多彩な分野で世界を舞台に活躍する挾間さんは、『即興的瞬間』をどのように捉えているのでしょうか。」
 「即興的瞬間」などという、読者にとって馴染みの薄い語をあえて用いる意図はいったい何なのだろうと、自分のブログに「タダマス31」の告知記事を書き込みながら、いぶかしく思ったことがよみがえった。
 おそらく、「タダマス」が定点観測を続けているNYダウンタウン・シーン(それは決してエリアや人脈、ジャンルを限定するものではなく、彼らが注目するコンテンポラリー・ミュージックのあり方を象徴するものとしてあるのだが)で活躍する、しかも演奏者としてよりも作曲家として活動している挟間美帆をゲストに迎えることにより、「作曲と即興」の二分法の「失効」を現場の感覚で裏付けたいとの狙いがあったのではないか。そう私は想像する。

 だが当日、その目論みは空振りを繰り返すことになる。これは用語法の問題もあったのだろうが、挟間にとって即興演奏は作曲作品の演奏とはまったく別物であり、(録音を)聴くよりはライヴを体験するものであると言う。また、彼女自身の作曲作品の演奏の中で行われる即興演奏については、メンバーを厳選し、演奏特性や作品解釈の仕方が作品の作曲意図に適合するミュージシャンを選ぶと答えている。「彼/彼女がこの部分をどう演奏してくれるか楽しみだ」という調子だ。こうしたことなら、クラシックのオーケストラでも、作品により各管楽器セクションのトップを交替させるといった形で、よく行われている。すなわち、ここで即興演奏とは、作品解釈のプレゼンテーションに過ぎず、楽譜の余白を魅力的に埋めてくれるものでしかない。
 一般に「ジャズ」由来の作曲作品は、即興演奏を当然の、いや必然的な要素と見なす傾向がある。これは「クラシック」由来のゲンダイオンガク系作曲作品が、即興演奏を用いることを「不確定性の導入」手法の一つとして、つまりはゼンエイ的な「実験」として有り難がったのとは異なり、伝統あるいは慣習、ないしはマーケティング上の必要性/必然性としてとらえることができよう。すなわち作曲と即興が演奏の中で同居することは、昔からずっと行われ続けてきた当たり前のこと、それがなくては「ジャズ」ではなくなってしまうことであって、それがなぜなのか、その区分自体がどうなのかといったことは意識されないし、いまさら問題にしてもしょうがないことなのだ。

 だから、あえてこのテーマを挟間にぶつけるのであれば、ケンカを売る覚悟で「なんで作曲家なのに、作品に即興部分を入れるんですか」、「即興演奏が自由でいいのだとしたら、何で作編曲なんてするんですか」と、むしろ「作曲/即興」二分法原理主義者として、ツッコミを執拗に繰り返すべきだった。そこで二分法の失効を明らかにした上で、二つに分けられないとすれば、それはどういう状態としてとらえられるのか。不純物を取り除けないということなのか、効果的な配合があるということなのか、それとも生成の過程で特異点が生じるといった何か特別な事態なのか……と議論を進めることもできたかもしれない(たぶんそんなことはあり得なかったろう。その前に彼女は腹を立てて退席してしまうだろうから)。そこに至ってはじめて「即興的瞬間」といった語も活きてくることになる。

 そのように考えると、ゲストとの互いを慮ったような、何だか煮え切らぬやりとりの繰り返しだけでなく、この日の選曲が共通して「○○っぽい即興演奏の(あるいは作曲作品演奏の)サンプル」であり、その結果としてプログラムが平板化していたのも必然と思えてくる。「タダマス」のプログラムに関し、基本的に聴取に対する演奏の強度で作品や曲を選び、それを配列する際に、そこから浮かび上がってきた「物語」と組み合わせて、適宜取捨選択や入替を行う……と、以前に益子は説明していたが、この日のプログラムは「ゲストの挟間に作曲と即興の関係性について問う」ための「素材」という視点が強過ぎたのではないか。

益子博之×多田雅範四谷音盤茶会(通称:タダマス) Vol.31
2018年10月28日(日) 18:30 start

綜合藝術茶房 喫茶茶会記(四谷三丁目)


ホスト:益子博之・多田雅範

ゲスト:挾間美帆(作曲家/編曲家)

参加費:\1,500 (1ドリンク付き)

今回は、2018年第3 四半期(7~9月)に入手したニューヨーク ダウンタウン~ブルックリンのジャズを中心とした新譜アルバムをご紹介します。

ゲストには、NY在住の挾間美帆さんをお迎えすることになりました。作曲家・編曲家、そして指揮者として、多彩な分野で世界を舞台に活躍する挾間さんは、「即興的瞬間」をどのように捉えているのでしょうか。お楽しみに。(益子博之)


2.「聴かないための音楽」としての即興演奏
 「作曲/即興」の二分法の失効という当たり前の状況認識が理解されないのは、「即興」なるものが、依然として、通常ではあり得ない特別な、それだけで価値のある存在として、排除と崇拝の対象となっているからにほかならない。すなわち「即興」は誰にでもひと目でそれとわかる有徴性を帯びており、場違いなマイナーなものとして抑圧/排除されるからこそ、ゼンエイ的でジッケン的でチ的でゲイジュツ的なものとして高値で取引されるのだ。聖別の原理。

 冒頭に掲げた「タダマス」対談で、益子が「記譜された音楽でも即興性がゼロの音楽って存在し得ないですからね。機械がやるんじゃない限りは。音量が少し変わるとか、音の長さが少し変わるとか、毎回違うわけですよね。だから人間が演奏する限りは即興の余地がない演奏にはなり得ない」と指摘しているように、常にそこに存在しているにもかかわらず、なぜ「即興」が依然として特別扱いされ続けるのかと言えば、もっともらしい顔をして耳を傾けている聴き手の多くが、実は何も聴いていないからに過ぎない。
 それゆえ、譜面が無かったり、わかりやすいメロディやリズムが出てこなかったり、携えた楽器を通常の仕方で演奏しなかったり、本来は楽器ではないものを演奏したり、携えた楽器はそっちのけで何か別のことを始めたりするのが、「即興」のわかりやすい目印で、それをもって先の聴衆たちは「これは即興だ」と理解し、安心して聴くことをやめてしまう。逆に言えば「これは即興演奏ですよ(だから聴かなくていいですよ)」ということを、いかに演奏開始早々、いやステージに登場次第、いや告知の時点から、わかりやすくあからさまに伝えるかということが、「即興」のお約束であり、最大の重要事なのだ。
 これさえ忘れなければ、聴衆は何も聴かずとも「自由」や「可能性」について声高に語り合うことができ、あるいは「やっぱりさ、即興演奏って、うーん、どうなのかな……」と否定的に述べることも出来る。しかも、その場で共通の体験をしたことを暗黙のうちに相互に認め合いながら、ゼンエイ的でジッケン的でチ的でゲイジュツ的なワタシとアナタに共に敬意を払いつつ。
 文学や美術のように現物(の複製)を前にして理解が問われることもなく(だって演奏の痕跡は消え失せてしまって記録も無いから。即興演奏を録音しようなんて即興に対する冒涜にほかならない……とみんな口を揃えて言う。果たしてそうだろうか*)、映画や演劇のように物語や主題の理解を確かめられることもない。何て安全極まりない「みんなが特別なワタシになれる時間」であることか。
*補足
前述の試行錯誤の中でジョン・ケージ関連の書物を読み返したりもしたのだが、そこに次の発言を発見した時は、びっくりすると同時に、大層うれしかったことを記しておこう。
 ジム・オルーク「即興音楽のコンサートなんて行きたくない。(中略)それよりレコードを買うほうがいい。つまり、コンサートでは、この種の音楽を長年考え、試行錯誤してきたひとたちが演奏するのを聴くことになるよね。彼らの演奏がもたらす情報はとても濃密だから、むちゃくちゃ頭がよくないかぎり、その場で起きている思考の流れをすべて把握することなど無理だろうからね。」
【デヴィッド・グラブス『レコードは風景をだいなしにする』(フィルムアート社)p.206】

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足下に口を開ける深淵 ― tamaruの無謀な企て  Dark Depth Gaping at Our Foot ― tamaru's Reckless Attempt
 だいぶ間が空いてしまったが、前稿に引き続き、『阿部薫の冬』を巡るtamaruのツイートに言及したい。

 tamaruは次のように書いている。

 福島さんが述べている疾走展開も魅力的に感じるが、当初思い描いていた「の」の世界は、吐出で外に開かず、内に籠めたまま背景としての共有感が生じるか、というロマン。「冬」テーマで企画するうちに後から降ってきた「阿部」の自分なりの収め方だった。もっと阿部を語らなかったら何が見えていたか。

 ここで「『の』の世界」とは、「阿部薫と冬」ではなく、イベントのタイトルとなった『阿部薫の冬』を指す。対象をそれとして名指すことなく、語らずして背景に浮かび上がらせる。一見不可能と思われるこの企ては、tamaruの本質と深い関わりを持っている。

 誤解を招かぬよう、先にまず言っておかねばならないのは、ここで「名指すことなく」あるいは「語らずして」とは、決して叙述の紡ぎ方や語り口の問題ではないということだ。たとえば主人公たるマクシム・デュ・カンの名を挙げることなく、冒頭から延々と語り継いでいく『凡庸な芸術家の肖像』の蓮實重彦とは。


1.震えの凝視、振動の触診
 これまでこのブログでは、何度となくtamaruの演奏に触れてきた。そこでは私が初めてライヴで見た「演奏」が、映像作品の「上映」だったことも手伝って、常に「震えの凝視」がキーワードとして浮上することとなった。
 それが何物であるかを見極めるために眼を細め、あるいは見開き、視線を凝らすのではなく、むしろそうした判別/弁別を能う限り遠ざけながら、不定形/決定不能に移ろい続ける持続にどっぷりと身を浸し続けること。
 視覚において、滲みやちらつきは脳によりノイズとして排除され、確定不動の輪郭がもたらされる。このことは聴覚においても変わりない。見る、あるいは聴くという行為そのものの中に、本来的/不可避的に含まれている決定不能性/不確定性は、生命を維持するために、あるいは主体の統一性を維持するために排除/抑圧される。
 だが、世界は震えに満ちている。現実世界は揺るぎなく確固として不動/不変を保ち、確定しているにもかかわらず、不確定な揺らぎが生じてしまうのは、対象と受信者をつなぐメディアが、たとえば低解像度である等、世界の豊穣さをとらえるのに不充分だからに過ぎない……と、そう考えるのは間違っている。そうした間違いは、だからここで揺らぎは言わば付加されたエフェクトである……という更なる間違いを呼び寄せ、そこでそうしたエフェクトを施したアーティストの意図の詮索へとめでたくたどり着く。何と言う予定調和。凡百のメディア・アートは、まさにこうした貧しい図式の上に繁茂している。

 対してtamaruはエレクトリック・ベース弦の震えを見詰め続ける。共振共鳴の少ないソリッドのボディの上に張り渡された鋭敏なエクストラ・ライトの弦を、顕微鏡的に増幅度を高めたピックアップがとらえ続ける。しかし、彼は電気増幅され空間に投影される拡大音響だけでなく、すなわち耳だけではなく、弦の振動に爪を短く切りそろえた指先によって、弦の振動に耳を澄ましている。
 彼は弦の振動には、ボディの面に平行、あるいは垂直な揺れだけでなく、弦に沿って螺旋状に走り抜けるものがあるという。弦をZ軸と見立てれば、通常認識されているX軸、Y軸成分の振動だけでなく、撓むことによるZ軸方向の僅かな伸縮を介して、確かにそのような運動が生じているのかもしれない。しかし、彼の言う「走り抜けるもの」とは、そうした座標空間に還元し、分解した各成分を合成して構成できるものではないだろう。それはそのように分離できない触覚的なものなのだ。
 ここで「触覚的」とは、決して指先と弦との触れ合いから産み出されたことだけを意味するものではない。指先が弦に触れ、はじき、あるいは押さえ込まれた弦が「くっ」と離される。するとその瞬間に思った音が出る。tamaruは修練を積んだミュージシャンだ。

 そのとき感じるものが指先を通じて出ていけるようなからだの状態になるというか。対象があって、それに近づいて行くのじゃなくて、ある音を感じる、感じるときにはもうその音が出ている。そういうことが各瞬間に起こっているような、ということかな。(中略)意識までいかないで、フィードバック回路をつくるということ。こういう音を出すためにこういう手の形をするという考え方じゃない。自分の弾いている音が聴こえなくても、こういう音とイメージすればその音が出ていると言うことなのね。意識でコントロールはしないけれども、からだはそのようにフィードバック回路をつくりあげる。それが技術ね。【(対談)浅田彰・高橋悠治「カフカ・音楽・沈黙」より高橋の発言】

 しかし、演奏の現場で起こっているのはそれ以上のことだ。tamaruの指先が産み出した弦の震えは、事前には想定し得ない豊穣さをはらんでいる。そのことが顕微鏡的に拡大された音響により明らかにされる前に、彼は指先によりその振動の襞を触知する。そして再び指先で、指先の横側で、あるいは爪で弦に触れ、より詳細に振動を触診するとともに、新たな振動を付け加え、あるいはミュートによって差し引く。
 眼の前の不定形の広がりから個体偏差を取り除いて種を同定したり、ノイズを除去して輪郭を明確にし、対象をそれと名指したりするのではなく、不定形/決定不能な豊穣さの移ろいをそのままにとらえる。その時、距離を介さない触覚の鋭敏さは、この不定形の広がりを感覚野の視界いっぱいに浮かび上がらせることになるだろう。これこそは、冒頭に引用したtamaruのツイートが描き出すところの当初思い描いていた『阿部薫の冬』のあり方そのものではないのか。
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2.足下に口を開ける深淵
 そのtamaruは、以前に使っていて、その後はずっと押し入れ内に封印されていたエレクトリック・ベースを、最近急に思い立って改造し、何とアコースティック化してしまうという「暴挙」に及んだ。この週末、11月25日(日)にソロ・ライヴ(@目黒・不動前Permian)で初披露されるこの楽器について、勝手に考えてみることにしたい。

 tamaruのエレクトリック・ベース演奏は先に見た通り、共振共鳴の少ないソリッドのボディの上に張り渡された鋭敏なエクストラ・ライトの弦を、顕微鏡的に増幅度を高めたピックアップがとらえるもので、言わば弦の振動だけを見詰め続けるストイックなものである。自身、今回改造の対象としたセミ・ホロウ・ボディのエレクトリック・ベースについて、かつては「鳴りが邪魔」と言って内部にウレタンを詰めたと告白しているから、こうした傾向は以前からあったと言えるだろう。
 ただし、ここで注意しておかなければならないのは、そこに「余剰を取り除いて弦の振動だけを純粋化して抽出する」というような発想は微塵もないことだ。音響派 → リダクショニズム → 正弦波というような盆栽的ダイエット志向は彼にはない。だいたいにして、そのような形で混じりけなしに濾過された弦の振動を取り出したいのなら、純正律に調弦された一弦琴をずらりと並べればよかろう。
 彼における凝視が、むしろそうした純粋さからはみ出しずれていく、微細な肌理や粒立ちを可視化するものであることは、先に触れた通りである。そこで用いられているのが、鋭敏な触覚とともに、電気増幅による顕微鏡的な拡大であることも。

 ここで補助線として、同じく複数の弦を張り渡した楽器であるハープでフリー・インプロヴィゼーションを奏するRhodri Daviesを対照例に引こう。同じくハープの即興演奏者でありながら、弦をサウンドのトリガーと見なすZeena Parkinsと違い、彼は楽器を多様で異質な各部の複雑な構成として取り扱う。多種多様な部分共鳴/共振のアンサンブルとして。各種プリペアドや弓やe-bow等の様々な音具の使用により、各部の差異を際立たせつつ、さらに分割振動や相互干渉を引き起こしながら演奏は進められる。ここで演奏の資源として用いられる「複雑性」が、決してプリペアドや音具の使用といったエクステンデッド・テクニックによって新たに産み出されたものではないことに注意しよう。それは以前から存在していながら、正統な演奏方法によりノイズとして排除/隠蔽/抑圧されていたものなのだ。彼は足下の直下に豊かな水脈を掘り当て、そこから音響を汲み上げている。それはエクステンデッド・テクニックが目指す領土の拡大、水平方向の踏査ではなく、垂直方向の探査の産物である。足下に開けている深淵を覗き込むこと。気がつけば深淵はあちらこちらに不気味な黒い口を開けている。

 Derek Baileyの試みもまた、ギターを拡張(extend)するのではなく、ギターの「運命」である脆弱さ、不安定さを垂直に掘り下げ、そこから汲み上げた、通常の演奏からは排除されてしまう発音のぶれ、音の粒の揃わなさ、ミスタッチ、付随的な演奏ノイズ等をランゲージに取り込むものととらえることができる。それらは外宇宙ではなく、J.G.バラードの言うところの「内宇宙」探査の取り組みなのだ。
 ちなみにBaileyは、少なくともディスコグラフィ上『Solo Guitar vol.1』(1971年)から『Improvisation』(1975年)に至る期間において、エレクトリックで開拓した語法を必ずアコースティックでも達成できるよう、常に試していた。ここでも加工により新たにつくりだすのではなく、すでにありながら埋もれ隠されているものを掘り当て、明るみに出すことが一貫して継続されている。ギターを改造するのではなく、アコースティック・ギターという楽器の元来の輪郭を保持しつつ、その足下を掘り下げて新たな世界を開く、「内宇宙」探査の試み。

 そうしたことを念頭に措いて、言わば「Baileyの耳を通して」聴くならば、ありとあらゆるギター演奏に「ベイリー的瞬間」を聴き取ることができるだろう。演奏者も数多の聴衆も何事も無かったように通り過ぎて行く何気ない瞬間に、黒い深淵が口を開けている。フリー・インプロヴィゼーションとは、この深淵を通り過ぎることができず、否応無くつまずき、はまり込んでしまう歩みにほかならない。それは一種の脱構築(deconstruction)でもある。

 さて、ここでtamaruの楽器に眼を転じると、単にエレクトリック・ベースの電気回路を抜いて、中身を中空にしたのみならず、背面に大きな木製のボウルが取りつけられ、また前面には幾つもの丸い開口部が設けられていることがわかる。試行錯誤の結果であろうし、tamaru自身、これからどんどん変わっていくかもしれないと言っているが、興味を惹かれる形状である。ボウルの取り付けは、内部の共鳴空間のヴォリューム拡大を図ったものと考えられるが、演奏が難しく、現地でもあまり見かけないというインドの民族楽器ルドラ・ヴィーナを思わせるところがある(あのような極端な共鳴は引き起こさないだろうが)。密度の高い硬そうな材質は音をよく反射し、ドーム状の曲面の導入も手伝って、前面の開口部から音を前方へ押し出す効果があるのではないか。と同時に「受信機」としてのパラボラ・アンテナを内蔵しているようにも見える。
 いずれにしても、Rhodri Daviesのハープとは異なり、各部が別々に鳴らし分けられるのではなく、各部が緊密にアンサンブルした総体として鳴り響くこととなるだろう。それは決して弦の振動に筐体の共鳴が付加されたものではなく、指先の操作による振動が多方向に駆け抜け、隅々まで波及していくその都度ごとに、音は流動的な移ろい/変容として立ち現われてくるだろう。Permianの音を減速あるいは濾過することなく、聴き手の身体に直接ぶつけてくる空間特性は、この楽器にふさわしかろう。その演奏がどのようなものになるかは、もちろんまだわからない。しかし、tamaruのエレクトリック・ベース演奏でも随所に垣間見えた、前述の「深淵の開けた黒い口」が、アコースティック・ベース・ギターの演奏では、さらに度合いを増して、まざまざと迫ってくるのではないかと予感している。
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3.足下に開ける深淵【なくもがなの余録】
 この「何事も無かったように通り過ぎて行く何気ない瞬間に口を開けている黒い深淵」だが、思い出すエピソードが二つある。ひとつは子どもの頃にTVで観た特撮番組『キャプテンウルトラ』の最終回で、主人公たちがとある惑星の地表の割れ目を覗き込み、その深さを計測したロボットが「無限大です」と騒ぎ出し、その割れ目が外宇宙につながっていることがわかるシーンだ。今となっては他愛無い話だが、すでに宇宙好きだった7歳の子どもにとって、見上げた空に輝く星の彼方ではなく、足下に口を開けた割れ目の向こうに無限の宇宙が開けているという「転倒」は、ざわざわした不安感とともに強い印象を刻むこととなった。
 もうひとつは、中学生の頃に家にあった一松信『数のエッセイ』で読んだ数論のエピソードで、軍団の並び直しの問題である。兵隊が正方形に並んだ軍団がx個あり、それに総大将の王1人を加えて並び直したら、大きな正方形が出来たとして全体の人数を求めるもの。与えられた問題ではx=61なのだが、これが60だとすると961人、62だとすると3969人になるが、その中間の61だと何と3119882982860264401人というあり得ないほど巨大な数になってしまうと。整数問題だから解が不連続になるのは当然なのだが、これもまた、世界の何気ない隙間に魔が潜んでいるとの不穏な印象を刻むこととなった。ちなみに、この問題は有名な「アルキメデスの牛」の問題を説明する際のオマケとして紹介されていた。これは、アルキメデスが友人に宛てた手紙の中に詩の形で記された問題で、ある条件を満たす家畜の牛の頭数を求めるものなのだが、何とその解は20万桁以上に及ぶ超々巨大な数となる。
 こうしたことが、後にフリー・インプロヴィゼーションを熱心に聴き始める遠因になっているかどうかはわからない。たぶん関係ないだろう。だが、この「すぐそこに口を開けている深淵」の感覚は、例の「即興的瞬間」と、きっとどこかでつながっているのではないかと感じている。

tamaruのエレクトリック・ベースによる演奏については、以下で論じている。ご参照いただきたい。
http://miminowakuhazushi.blog.fc2.com/blog-entry-434.html
http://miminowakuhazushi.blog.fc2.com/blog-entry-435.html

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2018年11月25日(日) 20:00~
目黒・不動前 Permian
品川区西五反田3-14-4 KakutaniレイヴァリーB1
http://www.permian.tokyo/

tamaru(acoustic bass guitar)ソロ
杉本拓(guitar)ソロ




ライヴ/イヴェント告知 | 17:32:52 | トラックバック(0) | コメント(0)
『阿部薫の冬』と『阿部薫と冬』の間  Between "Kaoru Abe's Winter" and "Kaoru Abe and Winter"

 前回記事中で、9月24日に上池袋anoxiaで行われたイヴェント名『阿部薫の冬』を『阿部薫と冬』と誤記していた部分があった。この日のゲストであり、企画発案者であるtamaruのツィートを見て気づき、すぐさま訂正させていただいたのだが、文章自体はタイトル通り『阿部薫と冬』に関する覚書であり、内容自体は修正する必要がない。

 だが、それにしても何で書き間違えたのだろうか。案内文を書き写すために、anoxiaのページもチェックしたというのに。
 今回の気づきのきっかけとなったtamaruのツィートを読み返すうちに、だんだんとその時の心もようが浮かんできた。『阿部薫の冬』と言われて、当然、阿部にフォーカスし、それをさらに「冬」を通じて深めていくのかと思いきや、ほぼ冒頭から、阿部薫は謂わばプレテクストに過ぎないと言われて面食らってしまったのだった。このシリーズは初めてだったから、毎回そういうものなのかと思っていたら、たまたま隣席に座っていた知り合いが、問題と阿部との関わりを問い、そのうちに「この中に阿部薫の愛好者はいないのか」という話になって、誰も手を挙げないものだから、それでは信奉者ではないものの私が……と名乗り出たのだった。
 そんなこんなで、結局は阿部薫とその周辺(例えば間章)を巡る話が多くなり、その辺に不案内な方には敷居が高かったろうと思う。前回記事の冒頭部分は、そうしたことを踏まえて書かれている。
 そうしたやりとりの中で、幾つか頭をもたげる考えがあり、それらはむしろ『阿部薫の冬』ではなく、『阿部薫と冬』という軸線を巡るものだった。それゆえ、実際にテクストに当たるなどして構成と体裁を整えた原稿は、当然のことながら『阿部薫と冬』に関するものとなった。すなわち私はイヴェントの最中に、『阿部薫の冬』のオルタナティヴとしての『阿部薫と冬』を夢想していたことになる。

阿部薫の冬と阿部薫と冬の間1


 前述のツィートでtamaruは次のように書いている。

「阿部薫と冬」でも構わない気もするが、「阿部薫の冬」。客観意識で阿部薫と冬を併置したく気持ちを今一度こらえ、外側の冬を阿部薫の視線のうちに押し込める。阿部薫は背景であり、内部でもある。

 言いたいことはわかる。阿部薫の視線により切り取られた、削り込まれた、彫り刻まれた、侵食された、結晶化された……冬を見せてくれるとすれば、阿部薫を背景として、しんしんと降り積もる、きっぱりと張り詰める、ぴりぴりと肌を刺す……冬を感じさせてくれるとすれば、何と魅惑的な催し/体験だろう。



 だが、実際のイヴェントにおいて、冬を押し込めるべき「阿部薫」の空間のヴォリュームや輪郭は一向に明らかにならなかった。冬を背景として包み込み、照らし出し、響かせるべき阿部薫の広がりや深さも、また示されることはなかった。

 阿部薫「の」冬にこだわるならば、そこを貫く一撃が、また、それを可能とする計算と仕掛けが必要だったはずだ。さらには阿部薫をどろどろに溶かし、あるいは粉々に粉砕して、背景へと変容なさしめる莫大な熱量が必要だったのではないか。前回記事の繰り返しとなるが、中谷宇吉郎や井上靖の引用だけではとても足りなかった。
tamaru自身が阿部薫について、冬について、とめどなくしゃべり続け、遥か彼方に向けて疾走し、あるいはどんどんと深みへと沈潜していくのを、聴衆が呆気に取られて見詰めるうち、田口賢治や加藤裕士が懸命に命綱を引いて、何とか現世へとサルヴェージする……というような針を振り切る強度が必要だったのではないか。もちろんそんなことが叶わないのはわかっているのだが。

阿部薫の冬と阿部薫と冬の間2


 私には阿部を絶対化したり、巨大化したりすることはできない。同様に極小化したり、希薄化したりすることもできない。信奉することもできなければ、「等身大」化することもできない。私は「世間に理解されずに夭折した天才」という陳腐なレッテルを貼り付けて阿部を神話化し、実際には「世に認められないワタシ」をそこに投影して、束の間うっぷんを晴らそうとする輩を、その「消費者=お客様」根性を激しく嫌悪・軽蔑していた。音も聴かずに、「前衛」だからとか、先鋭的な政治性によってとか、音楽が「アート」としてアート・スペースに立ち入るためにうずたかく積み上げるもっともらしい「ごたく」を「実験性」として評価するとか、そうした浅薄かつ低劣極まりないやり方に飽き飽きしていた。

 これまで阿部薫に関し、何作品かのディスク・レヴューこそ書いてきたものの、初めて記すディスク・レヴューではない長めの文章が、私としては少々風変わりな体裁を取ることとなったのには、そうした背景もあることだろう。
 いずれにしても、前回記事で記したような思考の契機を与えてくれたtamaruには、大いに感謝している。


ライヴ/イヴェント・レヴュー | 00:46:17 | トラックバック(0) | コメント(0)
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