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福島恵一

Author:福島恵一
プログレを振り出しにフリー・ミュージック、現代音楽、トラッド、古楽、民族音楽など辺境を探求。「アヴァン・ミュージック・ガイド」、「プログレのパースペクティヴ」、「200CDプログレッシヴ・ロック」、「捧げる-灰野敬二の世界」等に執筆。2010年3~6月に音盤レクチャー「耳の枠はずし」(5回)を開催。2014年11月から津田貴司、歸山幸輔とリスニング・イヴェント『松籟夜話』を開催中。

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身を切る乾いた雨の雫 − 狩俣道夫『ノーアンブレラ、ノータンギング、イフ ノット フォー ザ ルーム』ディスク・レヴュー  Piercing Dry Raindrops − Disk Review for KARIMATA Michio "no umbrella, no tonguing, if not for the room"
 近藤秀秋から以前に本ブログでレヴューした自作『アジール』(※)に続き、再び便りが届いた。狩俣道夫の初CDをリリースすると言う。彼の名前は近藤の話によく出て来たので覚えていた。譜面にも即興にも強い、とても優れた、だがまだよく知られていない、まさにアンダーレイテッド・ミュージシャンとして。
※次のディスク・レヴューを参照。
http://miminowakuhazushi.blog.fc2.com/blog-entry-364.html

 数日後に届いたCD『no umbrella, no tonguing, if not for the room』(Bishop Records EXJP020)は全編無伴奏フルート・ソロ。構成は「rain」あるいは「umbrella」と題された複数のフリー・インプロヴィゼーションによる短いトラックが並べられ、そこに「God Bless the Child」、「波浮の港」(中山晋平作曲)の曲演奏が差し挟まれる。

 冒頭の「rain #1」から、ほとばしる息の速度に一気に耳が惹きつけられる。塊として射出された息が、部屋の空気を貫き飛び去る。水平な息の軌跡が沈黙を切り裂く。次第にクレッシェンドする音の広がりが寸分狂わぬ円錐形を描く。アブストラクトな(だが実際には何よりも具体的な)サウンド・ペインティング。一瞬の立ち上がりの見事さ、触れれば切れるような輪郭の鋭さ、その内部を走る息の層流/乱流の鮮やかさは、卓越した演奏技術の賜物であると同時に、彼の演奏の核心に迷いなく的確にフォーカスした録音の成果でもあるだろう。
 これは息の舞踏と呼ぶにふさわしい。ステップの切れ味のみならず、素早く自在に、かつ優美に撓む音の身体の曲線ゆえに。だがそれはセシル・テイラーが自らの演奏を「10本の指のバレエ」と称したのとは、いささか意味が異なる。セシルにあっては鍵盤上を跳躍する指の動き自体が、そのままバレリーナの身体に重ねられていたのに対し、狩俣の演奏においては、彼の演奏する指先や唇、舌の動きは、あくまで裏方に過ぎない。ここでプリマは、眼に見えない、だが耳には鮮やかな軌跡を彫り刻む、息の流れにほかならない。それは着地点、接地点を持たない中空のダンスなのだ。

 と同時に、この精霊舞踏の背後に、何者かの黒い影が時折ふっと浮かぶことに気づく。ふと漏れる溜め息、咳き込み、押し殺したうなり声、息を吸う間合い、何語ともつかぬつぶやき、音にならない息遣い。管に息を吹き込むと同時に唸ったり、声を出したりという奏法はある。サックスでも行われるが、フルートの場合、ほとんど全編、それで押し通す奏者すらいる。だが、ここでは、フルートの領域と「声」の領域は厳しく峻別されている。息と声がほとんど同時に放たれる時ですら、それは別の空間に位置している。これは演奏者の意図であると同時に、プロデューサーである近藤の狙いでもあるだろう。先に描写した息の舞踏に、身体の重さを持ち込まないために。そうした「潔癖さ」は近藤のソロ『アジール』に通ずるものがある。
 無論、両者が没交渉であるわけはない。「rain #4」のインプロヴィゼーションで、言い出しかねるように口ごもり、どもるフルート演奏においては、背後に潜む何者かが一線を踏み越えて姿を現しそうになりながら、こみ上げる吐き気を耐えるようにして、素晴らしく軽やかな息のダンスがその前を横切っていく。

 あらかじめ作曲されたコンポジションの演奏においては、書かれたメロディを解釈/再構築するというよりも、息の舞踏がアブストラクトな散らし描きからラジオ体操を思わせる規則的な律動へと転じた繰り返しの中に、曲の推移がいつの間にか映り込んでいる‥‥という具合。これは思ってもみなかった鮮やかな解決であり、見事な達成と評価したい。

 その一方で、短い即興演奏である「rain #1〜#4」とコンポジション演奏の間を埋める位置づけと思われる「umbrella #1〜#3」及び「on the blue corner of the room」の演奏が、散乱と構築の綱引きの結果、むしろコンポジション演奏以上に叙述的になっており、その分、いささか中途半端となっているように感じられた。もちろんこれは私が「rain」の鋭角的な美学に強く魅せられていることによる「反動」なのかもしれない。

 タイトルやジャケットを飾るヴィジュアルは、日本語で言うところの「シュール」で、かつての「アングラ」の匂いを強く放つものとなっている。そこにはどこか、文化基盤ないしは記憶を共有する者たちへの親密な「目配せ」が感じられると言ったら言い過ぎだろうか。この国の「フリー・ジャズ」が生まれ落ちた、生暖かい湿気に満ちた暗い裏路地の記憶へと、これらのイメージが結びついているようにすら思われる。私が前述の「umbrella #1〜#3」及び「on the blue corner of the room」に感じた中途半端さも、もしかするとここに連なるものかもしれない。
 逆に言えば、タイトルやジャケットが醸し出す、そうした「どこか懐かしい匂い」の中で本作に耳を傾けるとしたら、「rain」の鮮やかな切断が、コンポジション演奏のきっぱりとした達成が、曖昧な記憶、陰ったノスタルジアの下に、セピア色に減速されてしまうのではないか‥‥と私は恐れている。ぜひ、そうした先入観にとらわれずに、この演奏の乾いた速度に耳を傾けてみてほしい。

狩俣
『no umbrella, no tonguing, if not for the room』(Bishop Records EXJP020)
次で一部試聴可
http://bishop-records.org/onlineshop/article_detail/EXJP020.html
https://www.youtube.com/watch?time_continue=56&v=72aaYTgp3Vk



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未分類 | 21:32:03 | トラックバック(0) | コメント(0)
大上流一 Riuichi Daijo / Dead Pan Smiles 1〜5  Riuichi Daijo Guitar Solo
大上流一 Riuichi Daijo / Dead Pan Smiles 1〜5  Riuichi Daijo Guitar Solo
DPS Recordings cd-dps-001〜005
Riuichi Daijo(acoustic & electric guitar)
試聴:http://www.ftarri.com/cdshop/goods/dps/dps-001005.html


 2004年から2013年まで10年間に渡り、Plan-Bで毎月開催していたライヴ演奏からの抜粋による5枚組ボックス・セット。演奏は年代順に収録されており、初期の演奏の音色・音域の対比を通じた構造への意識、線を描かず常にずれていく音の連なり、そして何よりもオートマティックな滑らかさを回避し、一瞬ごとに切断/沈黙せずにはいられない演奏のあり方は、1970年代からのDerek Baileyを思わせる(だからこの演奏は、Baileyの語法の一部を剽窃し、陳列するだけの「なんちゃって」インプロヴィゼーションではない)。彼が演奏を始めた頃には、すでにBaileyはそうした抑制の外れたかなり融通無碍な演奏をしていたことを思えば、これは彼が選び取った姿勢と言うべきだろう。もうひとつ特筆すべきは、交通騒音をはじめとする背景音、水音、足音等の環境音あるいは付随音や空間の響きへの注視である。こうした特質は粒子の粗いオフ気味の録音の生々しさと相俟って、Baileyと田中珉による『Music and Dance』を彷彿とさせる。周囲の物音が肌に突き刺さる痛み。自らの行為が生み出した音が、空間に、距離に、他の音に残酷に侵食される様を最後まで見届ける耳の眼差し。

 2枚目、3枚目と進むにつれ、演奏は初期の散逸的なあり方を離れ、音数が増し、点描は密集へと、連鎖は交錯へと姿を変え、ノイジーな喧噪へと至るが、例えばカッティングの「繰り返し」においても1回ごと異なる表情/断面を提示するなど、問題意識をパンキッシュに提示するのみならず、一つひとつ音を放つごとの空間における響きの変容に耳が届いている点は賞賛に値しよう。ただただ演奏行為、身体のアクションに没入してしまうのではなく、響きの行く末を見詰め続ける覚醒した視線がここにはある。
 この点で彼の本領はやはりアコースティック・ギターにあると言わねばなるまい。エレクトリック・ギターによるサステインを効かせたLoren Connorsばりの揺らぎに満ちた音も、試行錯誤のうちと聞こえてしまう。

 4枚目の時点で大きな転機が訪れている。それまで前景化していた切断の相が退き、トレモロ的な連続性が立ち現れてくる。これに伴い、音の密度が高まるのとは裏腹に打弦に宿る唐突な「せわしなさ」が希薄化する。Charlemagne Palesteine風のミニマル・ミュージックや倍音の繁茂による音響への接近と類似しているように見えるかもしれないが、およそ本質は異なる。一見、流麗に連ねられる音響には、至るところ「衝突」の感覚が満ち満ちている。混ぜ合わされ、改めて配分される指の動き、弦の上で多方向から交錯する力動、震える弦に勢い良くぶつけられ、あるいは滑るように重ねられる別の振動とその反発。数えきれないほどの弦を張られたサントゥールの上で、煎り胡麻のように散乱する音の粒子。かつて息を詰め、弦に睫毛が触れんばかりに眼を近づけて弦の震えを見極めようとしていた眼差しは、いまや呼吸を深く長く保ち、しかるべき距離を置いて、いやむしろ弦に触れる指先や響きにそばだてられる耳を通じて、より鮮明に触知する。
米粒に筆先で般若心経全文を書き込む金大煥は、筆先を直接見ることなく、腕を大きく動かし全身を使って書き込めば、字はその通り書けているのであって、それは心眼に見えると言っていた。ここでも周囲の空間を含めた環境に対する身体全体のアクションが、ミクロな弦の振動を生み出すと同時に、そこから羽ばたき広がる響きの行く末を見詰めている。

 この結果、5枚目に収められた演奏において、響きの外見はBaileyよりも、むしろJohn Faheyや、その他のフィンガー・ピッキング・ギタリストたちによるブルースやブルーグラスの演奏に似通ってくる。もちろん先に指摘した「衝突」の感覚の存在が、あくまでもイージー・リスニングとは一線を画するのだが。
 以前にBill Orcuttの作品をディスク・レヴューで採りあげた際、Baileyとの類縁性を指摘しておいたが、おそらく人脈的なつながりや直接の影響関係はないだろう。それでもOrcutt自身は前述のFaheyの系譜にありながら、ギターが雨しぶきに激しく打たれ揺すぶられるような演奏がどうしてもBaileyを思い浮かべさせずにはおかないのは、そこに即興演奏にしかあり得ない裂け目/深淵が黒々と口を開けているからではないか。大上とOrcuttの類似は、そのことを思い出させてくれる。

 70年代Baileyから出発した大上の探求は、4枚目に記録された2012年の時点で最もBaileyから遠ざかり、5枚目に収められた2013年の演奏で、OrcuttとBaileyを結ぶ線を明らかにしながら、ゆるやかにBaileyへと回帰しつつあるように見える。それは大上がBaileyの引力圏を脱出できなかったということなのだろうか。
 いや決してそうではあるまい。そもそもBaileyの演奏とは、徒らに仰ぎ見て目指すべき目標でないのと同様に、ただひたすらにそこから遠ざかるべき出発点でもなければ、乗り越えるべき対象でもないだろう。あるいは彼は、死してなお「ノン・イディオマティック・インプロヴィゼーション」という方法論の磁場に人々を捕らえ離そうとしない「蜘蛛の巣」の不在の主(あるじ)でもないのだ。「ノン・イディオマティック」とはイディオムがつくりだす(つくりだしてしまう、つくりださざるを得ない)閉域を切り裂き、その都度、暴力的に開いていく姿勢であり、それにより、60年代末に訪れた即興共同体の崩壊に対応し、受け皿となる共役言語を引き算的にかたちづくる方策だった。それはまず何よりも本来的にギター奏者であるBaileyにとって、音量に乏しく、演奏ノイズを生じやすく、音の粒が揃いにくく不安定なギターの「弱さ」を、その本質として直視することから生み出されたのではないか。音の粒が揃わず響きがばらばらでノイズだらけの不細工で不手際なパッセージを、様々な方向から飛来した音粒子がある瞬間に描いた「星座」と見立て、そこにイディオムをばらばらに切り離してしまう綻びの糸口、切断に満ちた深淵、黒々と口を開ける即興的瞬間を見出すこと。それはギター演奏者が等しく引き受けるべき「刻印」にほかなるまい。後はそれをなかったことにし、忘れたふりをするかどうかだ。

 大上は決してそのことを忘れたふりはしない。彼がBaileyに負っているのはまさにこのことであり、またそれ以外にはない。ここへとたどり着いた10年の歩みが、そのことを証し立てていよう。あるいは5枚目に収録された2013年6月の36分以上にも及ぶ長尺の演奏が。
不穏に響く椅子の音や足音の只中から、ひきつったBailey風の跳躍が姿を現す。飛び石伝いの跳躍はすぐに執拗な「繰り返し」に場を明け渡す。わずかずつ鑿の角度を変えながら、ただひたすらに同じ一点を深く深く彫り込み、響きの不安定さを剥き出しにすることによりギターを丸裸にしていく、あからさまなまでにとことん無防備な演奏。時にストロークにブルースやフラメンコの影が宿るが、「型」を守り発展させることにいささかも関心を示すことのない、当てのないさまよいの中で、すぐにとらえどころなく霧散崩壊してしまう。それゆえ引用やコラージュとは聴こえない。一瞬ごとの賭け。
さわりや分割的な共振/共鳴。不均衡に響く和音と不自然に引き伸ばされ後に残る音。立ち上る響きとは異なる方向にたなびきながら、すぐに失速する余韻。積み重なることなく、すれ違い、行き違い、立ち尽くす響き。Bailey風の至るところ切断に満ち満ちたせわしない跳躍が再び姿を現す。音同士の衝突により、内部分裂から崩壊に至る音の群れ。切断が加速し、自らを切り刻みながら、喧噪の充満へと向かう演奏。自らの演奏史が次から次へと自由連想的に湧き出し、指先から迸り、あるいは滴り落ちるそばから、演奏する彼自身へと襲いかかる悪夢。響きの飽和/充満が、音のかけらの溶解/変容を促し、演奏はとんでもない惨状を呈していく。
演奏の終盤に向けて(ここで「終盤」とは、演奏が終了した後で初めてあきらかになることであり、もちろん後知恵に過ぎない)、充満すらも離れ、さらにとりとめなく、環境音の波間に見え隠れするものとなっていく(最後は事後編集によるフェード・アウトでソフトに、だが断固として強制終了させられている。)。それでもぴりぴりと撓むことなく張り巡らされた耳の視線の確かさは全編を通じて変わることがない。
シリアル・ナンバー入り109セット限定。



※もともと新譜レヴューの1枚として書き始めたディスク・レヴューだが、長くなりすぎて、とても新譜レヴューの枠には収まらないので、単独記事として掲載することとした次第。これだけ多くの言葉を触発/喚起するだけの力を持った作品であることは保証する。

未分類 | 22:16:13 | トラックバック(0) | コメント(0)
逆光の中に姿を現す不穏な声の身体 − 「タダマス17」レヴュー  The Threatening Body of Voice Appeared against the Light − Live Review for "TADA-MASU 17"
 あれは一体何だったのだろうか……このひと月というもの、ずっとずっと考えていた。


 ピアノの二音がすっと視界に浮かび上がり、たちのぼる響きにすぐにモーガンが応える。だが、続く一音の指さばきは、ためらうように、響きを途中で途絶えさせ、宙吊りにする。そっと、だががっしりと確実に、モーガンが差し出した手をよそに、ピアノは無重力性を保ったまま、ゆるやかに線を伸ばす。だが、その足下にはすでに不穏な気配が兆している。ゆったりと巡るように引き伸ばされる連なりの傍らに、そいつは姿を現す。不可思議な呪文、妖しい吐息、押し殺した嗚咽。もう一人のベーシストが隙間に色を挿し、ドラムもブラシ・ワークで空間にうっすらと傷をつけていく。音数を増やし、渦を巻くピアノの只中に、逆光に浮かぶようにそいつはくっきりと不吉な姿を現し、そのまま中央に居座る。唸り、喘ぎ、軋り。重さはない。むしろ蚊柱のような流動性が感じられる。

 それが菊地の漏らす「声」だと気づくまでに、ずいぶん時間がかかった。前作『Sunrise』(ただし録音日時は本作の方が以前ということになる)で僅かに聴かれたものとは、およそ似ても似つかない。あの時は、その「声」が、たとえばキース・ジャレットの場合と異なり、内なる旋律、すなわち指の動きに先んじて脳内に浮かぶメロディの不完全な流出ではなく、そこから離れるためだけに冒頭におかれる「序詞」とでも言うべきものではないかと感じた。しかし、ここで出来している事態は、そんな生易しいものではない。何しろ「声」はドラムや2本のベースはもちろん、ピアノよりも手前に位置し、しかもそこに居座り続けるのだ。
 「菊地さんの、ヴォイス演奏とでも言うんでしょうか……」と、今回の四谷音盤茶会のゲスト山本達久はその素晴らしさを賞賛していたが、私にはそれが、ピアノを弾く片手間に興じられる「ヴォイス演奏」といった暢気なものには、とても思えなかった。それほどにそれは禍々しい危うさをたたえていた。見てはいけない、視線を合わせてはならないものと眼が合ってしまい、そのまま魅入られたように囚われてしまう。耳を金縛りにし、視線を釘付けにする「魔」。何よりそれは演奏の一部になどなり得ていない。どこまでも無法な濫入者として居座り続ける。身悶え、痙攣、ぞっとするような筋肉の緊張、奇形や不具の気配。そうした点でそれは土方巽の舞踏に似ているようにも感じられる。だが、即興演奏との共演を繰り返しもした彼が、常に音の傍らに立ち続けたのに対し、ここで「声」はあからさまに音の場に踏み込んで、周囲を汚し、傷つけ、あるいは覆い隠す。

 逆光の中に黒々と浮かぶ「声」の身体が揺らぎ、あるいはさっと身を翻す。ピアノの音がその陰から、不意撃ちするように、ふっと姿を現す。『Sunrise』においても菊地やモーガンが「音で線を描かないこと」は顕著だったが、それは音と音の間を引き伸ばし、響きの断続的な明滅としか感じられなくなるまで、連なりを希薄化することを基底に置いていた。そこで「フレーズ」は、後から恣意的に描き込まれた星座の連なりに過ぎない。だがここでは違う。ピアノの音は、「声」の背後から突然飛んでくる「礫(つぶて)」のように姿を現す。それに応えるモーガンのベースもまた。一見連なるように感じられる音も、異なる方向から異なる速度、異なる軌跡で飛来する違った形、大きさ、材質の石の寄せ集めでしかない。それゆえ音は、それぞれにざらりとした異質性を際立たせながら、思い思いの方向に飛び去って行く。

 ピアノの放つ一瞬のきらめきは、耳に沁み、眼に痛いほど目映く鮮やかだ。以前にあるクラシック・ファンから「菊地はピアノを鳴らし切れていない」との指摘を受けた。ならば鳴らし切っているピアニストとは誰なのかとのこちらの反問に、フリードリヒ・グルダの名前が返ってきて、なるほどと思ったのを覚えている。確かに菊地には、ベーゼンドルファーの底の底までを、大きな手でひと掴みにして、一斉に震わせる技量はないかもしれない。しかし、そうした筐体の縛りを切り裂いて、音を外へと迸らせる速度において、菊地は極めて卓越した奏者だと思う。ロラン・バルトがロベルト・シューマン論で指摘した「打つ」ことの技量において。本作の録音は、まさにその一瞬に向けて、フォーカスをきりきりと絞り込んでいる。ピアノ総体の鳴りなど、後から自然についてくると言わんばかりに。そのことがハンマーが弦を打つ地点に近接したマイク・セッティングをもたらし、その結果として菊地の口の端から噴出する「声」に、無防備に襲われる事態を招いたようにも思われる。

 私などとは到底比較にならないほど深く菊地を聴き込み、ライヴにも幾度となく接し、本人と親交もある多田雅範に、菊地の声はいつもこのようにはっきり聞こえるのか尋ねてみた。どうもそうではないらしい。ましてや録音作品においては空前絶後のようだ。声が聞こえること自体は不思議ではないと思ってしまったけれど、考えてみたら、こんなにはっきりと「声」を聴いたことはいまだかつてないとの答が返ってきた。


 今からひと月以上前、4月26日(日)に行われた「四谷音盤茶会第17回(タダマス17)」のレポートとして今回の原稿を差し出すことは、何時にも増してためらわれる。これまでも私のレポートは、イヴェントの全容をバランスよく紹介するものでは全くなく、ただただ私の興味関心に基づいて視点とフレームを設定し、切り取ったものに過ぎなかった。しかし、それでも、イヴェントの流れに沿って数作品に言及することにより、事態の一端を伝え得ていたとは思う。それに比べて今回は、10枚かかったうちの1枚だけにしか触れていない。
 それはぼんやりと予想されていた事態ではあった。本ブログでの「タダマス17」告知記事で、私はまだ公式にはリリースされていない菊地の作品が、今回採りあげられることに焦点を当てて紹介している。そのせいか、この日の幕開けの口上で益子博之は、どうも始まる前から一部分に関心が集まってしまって……とこぼしていた。一方、多田雅範は、菊地の作品がかかったら聴衆の反応はどうなんだろうか、みんな大きく頷くのだろうか、それとも腕組みしたまま考え込んでしまうのだろうか……との私の問いかけに対し、みんな腕組みしたまま黙っちゃいそうだなあと言っていた。実際にはそうはならず、ゲストの応答を含め、演奏の素晴らしさという話になってしまったのだが。
 もちろん、実際には当日いろいろなことがあり、様々なことを感じた。主に違和感として。Pascal NiggenkemperからMatana Robertsというソロによる音響構築の流れは正直ピンと来なかった。話題のTigran Hamasyanもどこがいいんだかわからずにいると、最近手放しに持ち上げられているが本当によいか…との説明が入り、むしろそうした採りあげ方に違和感を覚えた。Mario PavoneのアブストラクトなルーズさとJakob Broのどうでもいい細心さが奇妙な相似形を描く中で、Vijay Iyer Trioによる速度の重層性とChris Lightcap's Bigmouthにおける響きの積み上がっていく感じは素晴らしかった。特に後者の場合、2サックスが後方で鳴り響く部分では自在に飛び回るくせに、フロントでユニゾンにより奏する際には、よれよれとことさらに非マッチョ性を明らかにするあたり、思わずツッコミを入れたくなる。ふだんなら、この辺が論述の焦点となっていたことだろう。ゲストの山本達久の臆面もない切り捨てぶりについて多田がブログで賞賛しているが、正直それほどのものかなと思う。RJ Millerのソロ作品におけるエレクトロニクスの揺らぎが話題に上ったところで、ドラマーがエレクトロニクスを操るのが新しいって言うんですか、Harald Grosskopfは知ってますか…という辺りで、そのあからさまな「ネタ」嗜好/志向/思考に聴いていて腰砕けとなった。
 いずれにしても、それからひと月が経過し、菊地とトーマス・モーガンらによる盤以外のことは、とりあえずどうでもよくなってしまった。それだけ、この演奏の強度に打ちのめされてしまったわけだが。インターネットで検索すると、その後、5月下旬に無事リリースされたようだ。世評はどうなのだろうか。

タダマス17
Masabumi Kikuchi, Ben Street, Thomas Morgan, Kresten Osgood
『Masabumi Kikuchi Ben Street Thomas Morgan Kresten Osgood』

Ilk Music ILK 23B CD
Masabumi Kikuchi(piano), Ben Street(double bass right), Thomas Morgan(double bass left), Kresten Osgood(drums)
当日プレイされたのはtrack 1の「#1」。

「タダマス17」当日のプレイリストについては、次を参照していただきたい。
http://miminowakuhazushi.blog.fc2.com/blog-entry-357.html

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ちらし作成中です
吉祥寺Sound Cafe dzumiでの福島恵一連続レクチャー「耳の枠はずし-不定形の聴取に向けて」ですが、チラシまだ作成中です。お待たせして申し訳ありません。初回3月28日なので、2月中には何とか‥。

下に掲載した写真はカール・ブロスフェルトの植物写真です。ミクロな世界に確固たる造形を探った写真は、シュルレアリストたちにも影響を与えました。彫刻の先生だったらしいけど、むしろ建築を思わせますよね。モニュメント的というか。ブロンズか何かのオブジェみたいにも見えるし。プロフィールに載せた写真も彼の作品です。僕が最初に観たのは東京都写真美術館「シュルレアリスムと写真」展でした。一番最後のところに展示されてて、一番驚いたなー。確かジョルジュ・バタイユが編集してた「ドキュマン」にもページ一杯に拡大されて載ったんですよね。ボワファールの足の親指写真よりもこちらの方が好きだな。





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モレッリの採集した各画家の描く耳の形の特徴



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