タダマス、レコードプレイヤーの回転(1分間に33回転)に合わせ、メヴレヴィー教団の旋回舞踏を踊る "TADA-MASU" Whirls Mevlevi Sema Turn Dance at the Same Speed as Record Player Turntable Spinning (33 per minute)
2019-04-27 Sat
多田雅範と益子博之がナヴィゲートするNYダウンタウンを中心とした現代ジャズ・シーンの定点観測「四谷音盤茶会(通称「タダマス」)」も、本日4月27日(土)で、いよいよ33回目を迎えることになる。昨年10月開催の前々回「タダマス31」がいささか不調で、どうしたことか心配させたが、その理由をあれこれ詮索したところ、当たらずとも遠からずで、やはりその回のみの特殊事情のせいだった。その証拠に後述する「タダマス32」はプログラム構成の鮮やかさと二度目のゲスト出演となる蛯子健太郎のコメントの深さが素晴らしかった。そして今回「タダマス33」のゲストは、何と森重靖宗を迎える。森重と益子と言えば思い出さずにはいられないのが、以前に益子が「タダマス」と同じ喫茶茶会記を舞台にプロデュースしていた橋爪亮督をフィーチャーしたライヴ・シリーズ「tactile sound」に森重が呼ばれた2012年2月22日の夕べのことである。「触覚で感じる、いま・ここで生まれる響き」を標榜し、即興演奏を展開しながらも、共演者の選択も演奏の肌触りも、1970年代ECM的な「ジャズ」色が濃かった場に、ソロやダンスとの共演を中心にフリー・インプロヴィゼーションに徹してきた森重が招かれたのは、まぎれもない「事件」だった。結果は、もう一人のゲスト中村真の貢献もあり、極めて充実した演奏となった。その顛末は拙レヴューを参照していただきたい(※)。
※ http://miminowakuhazushi.blog.fc2.com/blog-entry-286.html
「タダマス」のゲストもまた、これまでジャズ演奏者というか、少なくとも「ジャズも演奏する」者たちから選ばれてきたことは確かだ。森重はここでも、そうした慣例を打ち破る初めての例となる。企画者である益子は「タダマス」告知ページ(*)で次のように述べている。
* http://gekkasha.modalbeats.com/?cid=43767
ゲストには、チェロを中心とした即興演奏家の森重靖宗さんをお迎えすることになりました。世界中から来日する数多の即興演奏家たちと共演を重ねてきた森重さんは、現在のニューヨークを中心としたシーンの動向をどのように聴くのでしょう。お楽しみに。
森重の演奏に対しては、その後、ますます演奏の焦点を絞り込み、とりわけデュオやトリオ演奏において、フレーズを排し音色を限定してサウンド・パレットを極端に「貧しく」し、応答のタイミングや出音の長短など、対話の相やレイヤーの重ね合わせに集中した「言語化」へと向かっているとの印象を持っていた。しかし、一昨年の10月にリリースされたソロCD『ruten』は、近接録音を駆使した苛烈極まりない、眼に痛いほど眩しいサウンドの爆発と閃くフレアに満ち満ちており(昨年聴いた作品のうちベストと言ってよい)、自身の演奏が洗練・枯淡へと向かっているわけではないことを鮮やかに示してみせた。そんな彼がどのようなコメントを披露してくれるか楽しみである。寡黙な集中に全編貫かれた演奏と異なり、アフターアワーズには和やかに会話に応じる彼のこと、きっと我々に新たな発見をもたらしてくれるだろう。

益子博之×多田雅範=四谷音盤茶会 vol. 33
2019年4月27日(土) open 18:30/start 19:00/end 22:00(予定)
ホスト:益子博之・多田雅範
ゲスト:森重靖宗(音楽家)
参加費:¥1,500(1ドリンク付き)
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青山学院大学のデレク・ベイリー、ミッシェル・ドネダ、フランシスコ・ロペス ― 「環境芸術論」ゲスト講義リポート Derek Bailey, Michel Doneda, Francisco Lopez Disk Playback in Aoyama Gakuin University ― Report of Guest Speaker Lecture for "Environmental Aesthetics"
2017-11-05 Sun
鳥越けい子先生に招かれ、11月2日(木)、青山学院大学で、津田貴司と共に「環境芸術論」のゲスト講師を務めた。貴重な機会となったので、そのことについて書いておきたい。
1.授業と教室の見学【10月19日 本番2週間前】
『松籟夜話』に何度か(時にはゼミの学生たちと共に)参加された鳥越先生からゲスト講師の依頼をいただき、「環境芸術論」のふだんの授業の様子と会場となる教室を見学した。機器のトラブルで開始が遅れたのだが、鳥越先生がすでに教壇上にいらっしゃるのに、学生たちの私語がすごいのに驚いた。休み時間よりうるさいぐらい。「授業はまだ始まっていない」と割り切っているのだろう。先が思いやられたが、実際に授業が始まってみると、学生たちはうるさく私語をすることもなく、おとなしく講義を聞いていた。だが、やはり随分と「受け身」だと感じた。遠巻きに眺めている感じがするのは、ものの見事に教室の中央前列が空席になっているせいばかりではなかろう。
時折シャッター音がするので不思議に思っていると、パワーポイントによりスクリーンに映し出されている資料映像を、スマホで撮影している学生が何人かいるのに驚いた。知り合いの教授から「こっちが一生懸命に板書しているのをノートも取らずに聞いていて、最後にパシャッと撮影されると、本当にがっかりする」と愚痴をこぼされたことを思い出した。ここで講義内容は、その場での音源再生等を含んでいるにもかかわらず、いくらでもコピペ可能な単なる情報とみなされているようだ。
もうひとつ課題として浮かび上がったのが教室の再生音響だった。150人ほど入る横長の教室で、前方の二つの隅にスピーカーが設置されているため、中央ではどうしても「中抜け」になり、右側や左側では片チャンネルだけの音を聴くことになってしまう。これでは音場感や空間の広がりがわかりにくい。
2.方向性の検討
見学の後、津田と授業の内容や進め方について打ち合わせると、彼もスマホ撮影に驚いていた。これをきっかけとして、「情報ではなく、体験の機会を提供する」のを目指すこととした。ある意味『松籟夜話』と共通しているが、時間も短く、「聴く」ことに慣れていない学生に対し、「音をして語らしめる」だけではどうしても限界がある。そこで、何回かメールをやりとりして、次のように方向性を整理した。
(1)音楽が始まると静かになるので、何よりも先に開始の合図として曲をかける。1~2分くらいして、「何コレ?」と食いついてきたところで、パッと切って、すぐに始める。
(2)パワーポイントで提示するのは補足的な情報を中心とし、スライドの事項を読み上げることは基本的にはしない。たとえば、フリー・インプロヴィゼーションやデレク・ベイリーの話をする時、話の中では一般的な説明はせず、それらはパワーポイントで「注」として映し出し、パッパッと切り替える。
(3)レジュメやパワーポイントのプリントアウトは配布しない。体系的な知識の伝達ではなく、ふだんはしていない「体験」をすることが眼目であることを、冒頭に説明する。
(4)上記(2)に加え、音源再生中に、パワーポイントで聴き方をナヴィゲートする情報や関連図像等を映し出す。これにより「音をして語らしめる」ことに耳が届きやすいようにするとともに、情報量をさらに増やす。受動的な姿勢の学生に対し、情報のシャワーを浴びせることにより、強制的に「体験」を喚起する。
(5)上記(4)の通りナヴィゲートを行うことを前提として、音源はふだん聴いていない、初めて接するようなものとする。これにより「音楽の聴き方」に対する固定観念や身に着けた構えを無効化/武装解除し、そこで生じている出来事といきなり出くわさざるを得ないよう事態をセットする。
(6)音源は(5)の要件を満たし、かつ「音響」「環境」と直接触れ合えるものとして、まずフリー・インプロヴィゼーションとフィールドレコーディングを聴いてもらう。続いて、これらにより形成された新たな耳で、民族音楽やポップ・ミュージックを聴いてもらう。
(7)講師を二人で担当することを活かし、福島の講義を津田が途中からパフォーマンスにより攪乱する展開とする。また、プログラム中で津田自身の作品を採りあげ、福島による批評的言及とアーティスト津田による自作自解を共存/交錯させる。
(8)再生環境のため、音場感、空間の感触、背景音等が聴き取りにくい。何か改善の方策を考える。
再生環境については、津田が小型のギター・アンプとCDプレーヤーを持ってきてくれることになった。当日の事前リハーサルで音出ししてみると、音量的にも充分で、サービス・エリアも均質になるだけでなく、ちょうど昔、街頭テレビをみんなで取り囲んで観たように、小さな音源に皆が集中することが生み出す効果も期待された。
「音源再生中に、パワーポイントで聴き方をナヴィゲートする情報や関連図像等を映し出す」というのは、Francisco Lopezのワークショップに参加した際に、プレゼンテーションで用いた方法だ。発表の時間が10分間しかない中で、音源をかける時間を確保するため、音源をかけながら、説明を声ではなく、文字等で伝えるやり方を考え付いたのだった。その後もイヴェント『Study of Sonic』で金子智太郎と共同レクチャーを行った時にも使用した。だが、前述のようにワークショップでは10分だけだったし、共同レクチャーでも一部で用いただけで、今回のように全編に渡り何度も用いるのは初めてだった。このことに関し試行錯誤したのと「情報のシャワー」の水量を衝撃的に増やそうと欲張ったため、何とパワーポイント資料が本番直前になっても完成せず、最後の2作品についてはジャケット写真を表示できない‥‥という失態を犯してしまうこととなる。学生さんたちにはご迷惑を、鳥越先生と津田にはご心配をおかけしまして、申し訳ありませんでした。

3.当日 第1部
左右のスクリーンには「聴くことを深めるために」というタイトルが映し出されている。教壇上には教卓の上にMac Bookを開いた福島だけ。その脇で鳥越先生が本日の広義の位置づけを手短に説明される。講師紹介にすぐには応えず、CDプレーヤーのプレイボタンを押す。Tomoko Sauvage『Ombrophilia』tr.1が始まり、空気が震え揺らぐ様が、水の中の寒天のように眼前に浮かぶ。かつて音盤レクチャー『耳の枠はずし』第1回で開演合図のチャイム代わり(?)にかけ、紹介したところ、その日のうちにFtarriの在庫が売り切れてしまった思い出深い音源。不意討ちを食らった学生たちがポカンと口を開く中、1分ほど経過したところで再生を停止し、「本日のゲスト講師を務める音楽批評の福島です」といきなり話し出す。スクリーンは私のプロフィール紹介に切り替わっている。
自己紹介を簡単に済ませた後、本日の講義の狙いが、いつもとは違う聴き方の体験、耳のストレッチであることを告げる。そのため、ふだん聴いていない耳慣れない音源として、フリー・インプロヴィゼーションとフィールドレコーディングを用いること。ただし、これらの音楽を紹介するために聴いてもらうのではないこと。パワーポイントは補足的な情報をシャワーのようにどんどん流すので、撮影しても役立たないこと。音源をかけている間に、聴き方に関するナヴィゲーションが画面に表示されること。指示や命令ではないので必ずしも従う必要はないが、念頭に置いてもらった方が「足がかり」ならぬ「耳がかり」にはなること。音量はいまかけたくらいなので、聴きにくければ今のうちに席を移ること。とても小さな音になる場合もあるので、私語はせず、居眠りする人もイビキはかかないようにして、静かに聴いてほしいこと‥‥等を早足で説明する。最後の注意は津田の登場に向けたお膳立てである。その間にも、デレク・ベイリー、フリー・インプロヴィゼーション、フィールドレコーディング等に関する説明がスクリーンに映し出されては、すぐに切り替えられていく。
「それでは次の音源を聴いていただきます」とプレイボタンを押す。不定形に歪んだ音のかけらが、様々な方向から脈絡なく現れては消えていく。スクリーンに映し出されたナヴィゲーションは次の通り。
何が聴こえますか?
↓
メロディは聴こえますか?
リズムは聴こえますか?
ハーモニーは聴こえますか?
↓
メロディも、リズムも・ハーモニーも聴き取れないとしたら
いったい、あなたは、いま何を聴いているのでしょうか?
↓
これは音楽でしょうか?
これは演奏でしょうか?
↓
現在お聴きいただいている音源
Derek Bailey『Solo Guitar volume 1』
この音源については、以下のURLで試聴できる。授業では2分程度のtr.1をかけた。
https://www.youtube.com/watch?v=2RyMUqjVRE8
学生たちの頭上に「?」が浮かぶのが眼に見えるようだった。ベイリーの演奏をご存知の方はすぐに気づかれたと思うが、ここでナヴィゲーションは「理解への到達」よりも「当惑の維持」を目指して構成されている。「ああ、ノイズね」とか「前衛ぽいヤツ」とありきたりのレッテルを貼られて「枠外」に片付けられてしまわないように。
それゆえオープン・クエスチョンで始め、耳の眼差しをそらさせないよう、あえて「そこには無いもの」を探すタスクを与え、宙吊りの当惑状況を対象化し、さらに「脈絡のない音を聴いている」といった回答を迂回するために、これは音楽/演奏なのか‥‥と問いかける。
続けて間髪を入れず、ノン・イデイオマティック・インプロヴィゼーションの説明を始める。スクリーンには次の解説が映し出されている。
従来の即興演奏では、ジャズならジャズの、インド音楽ならインド音楽のイディオムがあらかじめ存在し、そのイディオムを巧みに用いることで即興演奏が展開されるとともに、ジャンルの特徴を強く帯びることになる。これはある閉域をつくりだすことにほかならない。
これに対してフリー・インプロヴィゼーションの演奏は、そうしたイディオムを排することにより、開かれた即興演奏を、いやむしろ、演奏を不断に開き続けることを目指す。
そこでは音が連ねられる際に必然的に生じるフレーズ=イディオムの生成に対し、至るところ、あらゆる瞬間に「切断」を仕掛けることが必要となる。すなわち演奏は、出来上がりかけるイディオムを常に切り崩しながら進められることになる。
もとより、言葉で理解してもらうことなど求めていない。「閉域」、「不断に開き続ける」、「切断」、「切り崩す」といった語の響きや、それらの語が生じさせる「力」のイメージが幾分かでも伝われば、それでよい。
続いて、Derek Bailey『Pieces for Guitar』tr.1を最初の1分ほどだけかける。
試聴:https://www.amazon.co.jp/dp/B01N2YW8QU/ref=dm_ws_tlw_trk1
先の『Solo Guitar volume 1』(1971年録音)の5年ほど前の録音で、この頃、ベイリーはアントン・ヴェーベルンの音楽に魅せられ、それをインプロヴィゼーションに反映させようとしていたことを説明する。どこにもたどり着かない、漂うようなそぞろ歩きは、音列から踏み出そうとして踏み出せない(踏み外せない)もどかしさと共にある。ここには先ほどのようなきっぱりとした切断がないことを指摘し、ヤニス・クセナキスと高橋悠治の問答に触れる。
二つの音をつづけてひいて、それがメロディにきこえないようにする。どうしたらいいか。
↓
そのこたえ。二つ目の音の強さをわずかに変え、はじまる時間をわずかにずらし、前の音との間を気づかないほど区切る。それだけのことで、二つの音は一本の線ではなく、別々の線が偶然であったようにしかきこえない。
続いてヴァルター・ベンヤミンによる「星座(Konstellation)」について説明する。
古来から、人は星空に星々がかたどる特定のかたちを見出し、それを「星座」ととらえていた。
しかし、星座を構成する一つひとつの恒星は、それぞれ異なる距離に位置するため、そのような「星座のかたち」が浮かび上がるのは、特定の方向から見た時だけである。
裏返せば、事態をある面で切断することにより、その断面に見かけとは異なる「星座」を浮かび上がらせることができる。また、視点を移動させることによって、「星座」を構成する結びつきを解体することが可能となる。
視覚イメージを添えたのは、その方が直感的にとらえられるだろうと考えたからだ。すでにお気づきのように、問答と「星座」は表裏一体の「寓話」となっている。ブログ『耳の枠はずし』で大上流一の演奏を「ポスト・ベイリーの地平」に位置付けた時の次の説明は、ここで指し示しているのと同じ原理である。
「イディオムによる閉域を生み出すことのないノン・イディオマティックなインプロヴィゼーションを掲げ、複数の音を結びつける線(それこそがメロディ、リズム、ハーモニーを仮構する)を、多方向から交錯/散乱する音響のつくりだす束の間のコンステレーション(星座)へとさらさらと崩し去っていくデレク・ベイリーDerek Baileyの演奏。」
http://miminowakuhazushi.blog.fc2.com/blog-entry-438.html
ここで改めてDerek Bailey『Solo Guitar volume 1』tr.1をかける。同じ音源を説明なしとありで2回聴くことにより、違いを感じてもらうことを目指している。スクリーンに映し出すナヴィゲーションも前回とは変えている。
今度は何が聴こえますか?
↓
耳の視界の縁をかすめて飛び去っていく音
響かずそこに立ち尽くす音
右から左へ、奥から手前へ、三次元的に眼前を過る音
これらを捕らえ、「星座」を浮かび上がらせてください
↓
視覚モデルとしての原子崩壊の軌跡
終了後、振り返らずに先へ進む。音をあらかじめ根拠づけられたものとしてではなく、散乱する音響のかけらとしてとらえ、その中に自ら「星座」を浮かび上がらせる聴取が、同時に演奏の「台紙」である沈黙のうちに、環境音や暗騒音を浮かび上がらせずにはいないことを指摘し、ジョン・ケージの「沈黙」に言及する。スクリーンには次の説明を表示している。
音を演奏者の意図の「乗り物」ではなく、散乱する音響のかけらと捉え、注視するならば、ふだんから我々の周囲にあり、いつもは樹にも留めない環境音や輪郭のはっきりしない暗騒音が浮かび上がってくる。
本のページを拡大鏡で眺め、インクの滲みや、紙の毛羽立ち、もとからある微かな傷が眼前に浮かび上がってくるように。音を聴くための「台紙」となる沈黙は、決して真っ白でつるつるした平面ではない。
1951年に「完全な沈黙」を体験しようと無響室に入ったジョン・ケージの耳に聴こえてきたのは、自分の血流の音と神経系統が立てる音だった。彼は人が生きている限り「完全な沈黙」などあり得ないことを知り、沈黙を「意図的な音のない状態」と定義し直す。それこそは環境音や暗騒音が波打ち、渦巻く世界にほかならない。

4.当日 第2部
説明している間に、教室の後ろの方から、潮騒にも似た響きが漂い始める。授業の開始時点から、教室の隅の席に何食わぬ顔をして座っていた津田が、小型のトランジスタ・ラジオで局間ノイズを流しながら、教室を徘徊しているのだ。ノイズはヴォリュームの操作、ラジオの向きの変化、スピーカー面を身体に押し当てる等により様々に変化し、「演奏」され、言葉とすれ違い、衝突して、柔らかく紗をかけ、また、浮かび上がらせる。
それに気づかぬふりをして、次の音源を、やはりそれが何であるか明かさずにかける。スクリーンには次のナヴィゲーションが順に映し出される。
何が聴こえますか?
↓
周囲の音を無視して、ギターの音だけを聴かないでください。
足元を洗う交通騒音を通して、それと共にギターの音を聴くようにしてください。
↓
ここで音源をスキップします。
↓
何が聴こえますか?
↓
響きから壁の位置や天井の高さを感じてください。
何やら足音や人の動き回る気配がします。ダンサーと共演しているのです。
雨の音が強くなってきました。
↓
ここで音源をスキップします。
↓
何が聴こえますか?
↓
屋根を叩く激しい雨の音のせいで、ほとんど何も聴こえません。
雨音の向こうにギターを探すのではなく、時折漏れ聴こえる何かの音が、空間の響きを際立たせる様を聴いてください。
↓
いま聴いていただいた音源
Derek Bailey with Min Tanaka『Music and Dance』
田中珉と舞踏についてわずかに触れた後、次の音源を、やはりそれが何か明かさずにかける。スクリーンには次のナヴィゲーションが順に映し出される。津田のパフォーマンスは続いていて、巻貝に水を入れてコポコポ鳴らしたり、水で満たしたガラス瓶を揺らしたり叩いたりする音が微かに聴こえる。
何が聴こえますか?
↓
がさがさと葉が擦れる音、ぽきぽきと小枝が折れる音がします。
ソプラノ・サックスやパーカッションが野山に分け入り、土壌から生い茂るように生成する様を聴いてください。
↓
実は録音技師もマイクロフォンを担いで、彼らの後をついていっています。
録音技師の耳の眼差しの移動や揺らぎを聴いてください。
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ここで音源をスキップします。
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何が聴こえますか?
↓
演奏者は先に進み、録音技師は後に残って、楽器の音のしない、環境音だけの音風景が立ち上がる。
だが、それは決して無音の光景だったり、空っぽな世界だったりはしない。弛むことのない自然の生成がそこでは繰り広げられている。
↓
いま聴いていただいた音源
Laurent Sassi, Michel Doneda, Marc Pichelin, Le Quan Ninh『Matagne Noire』

5.当日 第3部
音源再生が終わった時には、すでに教室を巡り終えた津田が教壇の上に立っている。「本日のもう一人のゲスト講師、津田貴司です」と私が紹介し、津田が自己紹介を始める。
津田の解説で彼の作品『Lost and Found』からtr.11を聴く。靴音の響く空間にスティール・パンが柔らかくかぶり、遠くで教会の鐘が鳴り響く。1分ほどのごく短いトラック。スイスで演奏した際に、地下鉄構内でのバスキング(街頭演奏)に惹かれ、録音したもののうまく行かなかったので、自身の多重録音によりつくりあげたのだという。続いて、また何かを明かさずに音源をかける。スクリーンには次のナヴィゲーションを順に映し出す。
何が聴こえますか?
↓
これはコスタリカに広がる熱帯雨林のフィールドレコーディングです。
隙間なく繁茂する野生の音響が多焦点の一様な広がり(オールオーヴァー)をつくりだす様を聴いてください。
↓
ここで音源をスキップします。
↓
何が聴こえますか?
↓
水音など様々な音響が奥行きのある三次元空間に配置されています。
パースペクティヴの異なる響きがレイヤーとして敷き重ねられている様を聴いてください。
↓
いま聴いていただいた音源
Francisco Lopez『La Selva』
続いてhofli『木漏れ日の消息』tr.7「夜の思想」の冒頭4分ほどを、津田自身の解説に引き続き聴いてもらう。分厚くのしかかる夜の闇と静寂の中に、目蓋の裏の光の移ろいのように音が柔らかく明滅する。フィールドレコーディングした真夜中のサトウキビ畑は本当に真っ暗で恐ろしかったとのこと。
続いて、これまでフリー・インプロヴィゼーションやフィールドレコーディングの聴取により、ストレッチしてきた耳で、今度は民族音楽やポップ・ミュージックを聴いてみたいと思います‥‥と前置きして、次の音源をかける。
何が聴こえますか?
↓
笛の菅の中の空気の振動に耳で触れてください。
↓
いま聴いていただいた音源
『Sacred Flute Music from New Guinea』
デヴィッド・トゥープに関する説明もそこそこに、次の音源をかける。
何が聴こえますか?
↓
声の強さだけでなく、周囲の空間を蝕知してください。
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いま聴いていただいた音源
里国隆『路傍の芸』
タイトル通り、ストリート・ミュージシャンによる大道公演であることを説明し、里国隆について、また録音者の宮里千里について津田から話をしてもらう。「イザイホー」の録音についても言及する。
続いては津田の解説に続き、hofli『十二ヶ月のフラジャイル』からtr.12「シベリア気団より」をかける。ラジオの気象通報をフィーチャーした構成。曲が始まると津田はすっと席を立ち、パフォーマンスへと向かう。アナウンスにやすりをかけるラジオ・ノイズ。風や葉擦れの音、小鳥の鳴き交わしの向こうから届くアナウンサーの声。上空をゆっくりと飛行機が通過する。レイヤーされた音の層のたゆたいの経絡に的確に鍼を打つギター。高く抜けた空。きっぱりと張り詰めた真冬の朝の乾いた空気。
いよいよ最後の曲になりました‥‥と、Satomimagaeについて、自身でフィールドレコーディングした音源をCDの制作にもライヴ演奏にも使っていることを説明する。たまたま外で鳴っていたサイレンとイヤフォンで聴いていた曲が混じり合い新しい音楽が生まれた体験がきっかけとなっているとのことも。Satomimagae『Awa』tr.4「Q」をかける。がさがさと暗く濁った環境音から析出してくる透き通った声と小鳥のさえずり。津田はすでに教室の中を巡り終え外廊下へ出ていて、後方の扉を開けっ放しにしたまま、ラジオ・ノイズを最大音量にして教室に向け放射している。彼女の曲の中にある環境音やノイズが流れ出し、教室の外から侵入する外の音やラジオ・ノイズと混じり合い、あるはずの境界、教室という閉ざされた場や大学の授業という枠組みがゆるやかに侵食され、通い合う。
曲の再生が4分ほどで終了する。CDプレーヤーの停止ボタンを押してから、少し間を置いて外へ出ていった津田が戻ってきているのを確かめ、ずっと全消灯していた教室の照明を一斉に点ける。
これで終わります。福島恵一と津田貴司でした。どうもありがとうございました。

6.リアクション
とりあえず予定していた内容を大きなトラブルなく終え、時間を超過することもなかったので、ほっとする。残りの時間で学生たちにリアクション・ペーパーを記入してもらう。質問も求めたが、手は挙がらない。学生たちは飽きてしまうことなく、概ね最後まで聴いてくれたように思うが確信はなく、改めて不安に襲われる。
回収したペーパーを見ると、B6大の紙面に、びっくりするくらいいっぱい書き込まれている。内容も当惑や居心地の悪さを正直に述べているものを含め、こちらが目指していた「揺さぶり」を体験として語ってくれているものが多く、うれしい限り。以下に幾つか抜粋を示したい。
(1)音源やジャンルに反応してくれたもの
○音楽を奏でるとは、メロディーやハーモニーを鳴らすということしかやったことがなかったので、無調で拍もなく、掴みどころのない「音楽」を今日どう聴いたらよいのか動揺しました。プレゼンの画面に従って感覚を集中させてみましたが、難しく、聴こえたものがすべてなのだ、と感じました。
○私は音楽を含めて多くのものに起承転結やドラマを求めてしまうので、ノン・イディオマティック・インプロヴィゼーションやフィールドレコーディングのようなスタイルの音楽はあまり得意ではありません。音の流れのどの部分に集中すれば良いのか分からず、全ての音に集中してしまって疲れてしまいます。ただ、今回の授業のように、スライドを用いて音楽を言葉で表現(「三次元的な音」やCDのタイトルなど)していただけると格段に分かり易くなります。得体の知れないつかみどころのないものに枠を与えてしまいがちな自分を認識しました。
○流してくださった音源の中ではDerek Bailey with Min Tanaka『Music and Dance』が最も好きでした。情報が何もない状態で聴くと、様々な光景のイメージが思い浮かぶからです。多分、聞いていた学生の頭の中には、人によって全く別の映像が浮かんでいたのではないかと思います。また雨音が強くなってきた時、私はギターの音を拾って聞いていましたが、スライドに「雨音の向こうにギターをさがすのではなく、時々漏れ聞こえる~」と表示されたため、その聴き方を意識したら、奥行きや立体感が感じられて感動しました。
○自然の中にあるような、ただ聞いているだけでは何も読み取れない音であったが、続けて聞いているうちに不思議とこころが安らいでいく感覚が出てきた。凛とした一音一音が、自分の中で波及していくように感じた。
○熱帯雨林の音源は、聴いている時に、自分がその場に居ると感じた。雨が葉っぱを叩いた音と虫の鳴き声に合わせて、その雰囲気が形成された。
○熱帯雨林の大自然の中の虫たちの音は教室の中で大きく鳴り響いていましたが、普段の授業だと大きすぎる位の音量にも関わらず、大自然と触れ合っているような、目を閉じると大きな力を感じて、私は「心地よい」に近いものを感じました。
○アントン・ヴェーベルンの曲(福島注:ヴェーベルンの曲にインスパイアされた‥と説明したDerek Bailey『Pieces for Guitar』からの曲と思われる)を聴くと、なぜか心が安らぎました。一人暮らしをしているのですが、生活で音がないとき、こんな音が流れていたら落ち着くだろうなと想像していました。こう思えて初めて"音楽"として聴くことができました。
○最後に流していた歌と他の音が混ざり合った曲は、歌だけでは出せないであろう深みを感じました。
○一番印象的なのは、ラジオをながしながら教室をまわっていたことです。最初は何かと思って驚きましたが、だんだん波の音のようにここち良く感じました。しかし、近くで音が大きくなると少し怖かったです‥‥。私は普段ラジオが好きでネットラジオで聴いているのですが、トランジスタ・ラジオで聴いてみたいなと思いました。
(2)幾つかのカギとなる概念に反応してくれたもの
○最初音源を聞いたときには「雑音」というような感じがしたけれど、星座のイメージの話を聞いてから聞くと一個一個の音で一つのものを作ると言うようにイメージできて、雑音というイメージは全くなくなりました。
○「答のある音」という表現はとてもおもしろいです。確かに僕たちは「これはこの、あれはあの音」というように何か見えない常識に当てはめさけられているように思いました。
○福島さんと津田さんが創り出す世界観は、ご本人もおっしゃっていた通り、答のないものだったように思えます。答がないということは、自分の想像力をはたらかせ、自身で納得できる考えを導き出すということです。砂浜に一人で立ち尽くす姿やどしゃぶりの中、車で運転している姿が、ふと頭の中に浮かびました。おそらく本日この授業を受けていた人数分の考えがあると思います。
○ギターの音に集中しようとするのではなく、雨音の奥にたまに現れるギターの音に注目するということを今までしたことがなく、耳の焦点を自然と自分自身で選択していたんだなと気づいた。
(3)「聴くこと」に関するもの
○音楽をどのように聴くか、ということはあまり考えたことがなくて、響きから壁の位置や天井の高さを感じたり、足音や人が動き回る気配から、ダンサーと共演しているのを感じとったり、ただ聴くだけではなく、こんなに細かく音を聴くのも良いなと興味を持った。
○表面的な音に耳をすませるということだけではなく、その音のひびき方、空間まで想像して音を愉しむという感覚はあまり意識したことがなかったので新しかった。
○ただ単に音が羅列しているだけでは? というふうに初めのうちは思っていましたが、いろいろな音をスクリーンに映し出されていた言葉、聞き方を頭に入れながら聞くと、空間というか、音が強弱や一定でない並び方によって、あるものを形づくっているように感じました。
○普段、音楽を聴いていますが、今回、"音"を聴くという体験ができました。歌詞やメロディが一切ない音を聴いても心は動かないと思っていましたが、じっくりと"音"を味わってみると、自分の頭のなかに色々なものや感情が生まれました。
○前半で聴いたダンサーとギターの音では、ほとんど雨の音で埋めつくされる部分があったり、どの音がメインとかではなく、全ての音が環境を生んでいるように感じた。音源の中にそのような環境があるうえに、教室の中でトランジスタ・ラジオの音があったり、さらに教室の外の音に耳が傾くときがあったり、複雑な体験であった。
○最近は舞台をよく観に行くと、ホワイトノイズやメロディがはっきりしていない音楽がBGMとして挿入されることが多く、シーンでその音が入る意味やストーリーの伏線になっていたりすることがあり、物語や世界の構成要素としての音の意味を少しずつ分かってきたような気がしていました。本日触れたものも、歌やクラシック作品のようなそれ自体が世界を作っているものではなく、この世界の構成要素の一つとしての意味、世界とともに世界を作るものとしての意味があるのではと思いました。自分の中の"音"に対する感覚が変わっていることを感じた時間でした。
○今回の講義をつうじて、私自身の中の音楽に対する考え方が変わりました。自然の音、生活音、そのすべてが音楽であり、ヘッドホンで雑音を消して音楽を聞くのではなく、様々な空間で発せられる音楽の中で音楽を聞く事も楽しいのではないかと考えたりしました。
○一番はっとしたのは、約90分間、何らかの形で立体的な普段は聴かない音の中にいた所から、日頃と同じような教室の音に戻った瞬間、いつもと異なる感覚を覚えた時です。
ペーパーの記述から全体として感じたことを幾つか記しておきたい。
これは社会の一般的な傾向だろうが、安らぐ、癒される、落ち着く、ヒーリング‥‥といった語が無条件にプラスの価値として音楽の、あるいは聴取の評価軸となっているのは、やはり心配だ。今回の記述では、そうではないプラスの表現として、心地よい、不思議な‥‥等が見られた。
未知の音源に当惑したり、動揺したり、不安になったりと揺さぶられることに対し、音楽の知識や演奏経験がある方が「身体が硬い」ように感じられた。もちろん、これでは単なる決めつけになってしまう。芸術論というか、美学的な記述をしていた学生にも同様の感じを受けたことを踏まえ、もう少し言葉を補えば、むしろ、これは言語化のプロセスの問題なのだろう。未知の体験を言葉にしようとする時に、これまで音楽や美学で身に着けてきた語彙で賄おうとするか、あるいはむしろこれまでの日常体験の中で、音楽とも美学とも関係ないけれども似たような体験や感覚を探すか‥というような。
この場合、「言語化」のプロセスは、単にペーパーの記入に当たり駆動されるだけでなく、体験をどのように受容し記憶していくかに大きくかかわってくることになる。言わば「環境芸術論」の授業で体験したことだから、音楽・美学のページに書き込み、他とは切り離して整理するのか、あるいはそうではなく、もっと一般的なページに書き込まれ、他に広く波及してしまうかの差である。とすれば、後者のルートをたどった方が、結果として、これまでの記憶のプールを、異なる視点、異なるインデックスで検索し、様々な感覚をスキャンしたり、シャッフルしたりして、まさに記憶や身体感覚の体系自体が「揺さぶられる」ことになるのではなかろうか。もしそうした体験を少しでも提供できたのだとすれば、こちらとしては本望である。

7.異質なものの共存
今回の講義は何よりも「体験」を目指したものであり、首尾一貫した理屈建てに基づくものではない。とは言え、全体のバックボーンとなっているのは「異質なものの共存」であるということができるだろう。異文化共生やダイヴァーシティが盛んに謳われるように、あるいは逆に「排除」の一語が魔女狩り的に叩かれたり、いまや「異質なものの共存」は、誰にも異議の唱えようのない絶対原理となっている感すらあるが、実際にはそのようなことにはなっていない。常に多様性が謳われるのは、ある枠内の話であり、問われるべきは、その枠組みの設定であるからだ。
今回の講義の冒頭で、デレク・ベイリーのソロ・インプロヴィゼーションを題材に検証したのは、ミスタッチとか、脈絡のない音として排除されてしまうような音を視野に収めることにより、そこにどんな「星座」が描かれるかということであり、さらにそこには「台紙の傷や染み」としての環境音、暗騒音もまた含まれ得るということだった。
さらにベイリーと田中珉の共演を通じて、距離による音の変容を目の当たりにし、そうした音自体の変容や共鳴等の付随音、あるいは雨音のような障害となる音も含めて受容するプロセスを見た。ここで注意すべきは、このプロセスが録音を介することにより、わかりやすく示されている点である。もし演奏の現場に立ち会っていたならば、耳は視線に随伴して演者たちの姿を追ってしまい、なかなかそのような並置/共存型の聴取はできないだろう。
このことはMichel Donedaたちの演奏/録音についても同様だろう。ここでは演奏者たちが去ってしまった後の音空間の重要性を指摘しておいたが、これを小津安二郎の作品で多用される所謂「空ショット」、すなわち登場人物が出ていった後にキャメラが捉え続けるがらんとした室内や廊下の映像と比べてみてほしい。そはれ決して寂寥感の表現などではない。
さらに同様の視線を、津田貴司やFrancisco Lopezによるフィールドレコーディングまで敷衍するならば、オールオーヴァーな広がりや曖昧で不定形な音響が視界に入ってくる。それらは録音機という「機械の知覚」により定着され、録音を聴き返すことにより初めて発見される細部や瞬間をふんだんに含んでいる。
その延長上に『Sacred Flute Music from New Guinea』や『路傍の芸』を置いたのはほかでもない。前者においては笛の放つ音響の外部への鳴り響きと管の中での息の震えを「空気の振動」としてひとつながりに聴きとる耳の視線が、後者においては、路傍でがなる声の強靭さと、周囲を取り囲む聴衆の呼吸、市場の通りのにぎわい、遠くからアーケードに反射して届けられる響きを切れ目なくとらえる聴覚視野が、共に求められるからである。
そしてSatomimagaeについて、「外で鳴っていたサイレンとイヤフォンで聴いていた曲が混じり合い新しい音楽が生まれた」という偶然の体験は、彼女自身が語っているものなのだが、ウィリアム・バロウズによるカット・アップの説明、すなわち読んでいる本の内容と、店の外で起こっている事態と、その時に頭に思い浮かんだことが、全部並列されているのがリアリティであり、現実自体がカット・アップなのだ‥‥と見事に響きあっている。
無意識に設定される枠組みを検証し改めて引き直すこと。また、意図せざるものの混入や距離がもたらす変容を不純なものとして濾過してしまわないこと。「偶然」の到来に向け、閉域を不断に開き続けること。「異質なものの共存」とは、これらにより、その都度その都度、一時的に達成されるだけの事態にほかなるまい。
末尾ながら、貴重な機会を与えてくださった鳥越けい子先生と授業に参加してくれた学生の皆さんに感謝いたします。どうもありがとうございました。

撮影:津田貴司
身を切る乾いた雨の雫 − 狩俣道夫『ノーアンブレラ、ノータンギング、イフ ノット フォー ザ ルーム』ディスク・レヴュー Piercing Dry Raindrops − Disk Review for KARIMATA Michio "no umbrella, no tonguing, if not for the room"
2016-03-15 Tue
近藤秀秋から以前に本ブログでレヴューした自作『アジール』(※)に続き、再び便りが届いた。狩俣道夫の初CDをリリースすると言う。彼の名前は近藤の話によく出て来たので覚えていた。譜面にも即興にも強い、とても優れた、だがまだよく知られていない、まさにアンダーレイテッド・ミュージシャンとして。※次のディスク・レヴューを参照。
http://miminowakuhazushi.blog.fc2.com/blog-entry-364.html
数日後に届いたCD『no umbrella, no tonguing, if not for the room』(Bishop Records EXJP020)は全編無伴奏フルート・ソロ。構成は「rain」あるいは「umbrella」と題された複数のフリー・インプロヴィゼーションによる短いトラックが並べられ、そこに「God Bless the Child」、「波浮の港」(中山晋平作曲)の曲演奏が差し挟まれる。
冒頭の「rain #1」から、ほとばしる息の速度に一気に耳が惹きつけられる。塊として射出された息が、部屋の空気を貫き飛び去る。水平な息の軌跡が沈黙を切り裂く。次第にクレッシェンドする音の広がりが寸分狂わぬ円錐形を描く。アブストラクトな(だが実際には何よりも具体的な)サウンド・ペインティング。一瞬の立ち上がりの見事さ、触れれば切れるような輪郭の鋭さ、その内部を走る息の層流/乱流の鮮やかさは、卓越した演奏技術の賜物であると同時に、彼の演奏の核心に迷いなく的確にフォーカスした録音の成果でもあるだろう。
これは息の舞踏と呼ぶにふさわしい。ステップの切れ味のみならず、素早く自在に、かつ優美に撓む音の身体の曲線ゆえに。だがそれはセシル・テイラーが自らの演奏を「10本の指のバレエ」と称したのとは、いささか意味が異なる。セシルにあっては鍵盤上を跳躍する指の動き自体が、そのままバレリーナの身体に重ねられていたのに対し、狩俣の演奏においては、彼の演奏する指先や唇、舌の動きは、あくまで裏方に過ぎない。ここでプリマは、眼に見えない、だが耳には鮮やかな軌跡を彫り刻む、息の流れにほかならない。それは着地点、接地点を持たない中空のダンスなのだ。
と同時に、この精霊舞踏の背後に、何者かの黒い影が時折ふっと浮かぶことに気づく。ふと漏れる溜め息、咳き込み、押し殺したうなり声、息を吸う間合い、何語ともつかぬつぶやき、音にならない息遣い。管に息を吹き込むと同時に唸ったり、声を出したりという奏法はある。サックスでも行われるが、フルートの場合、ほとんど全編、それで押し通す奏者すらいる。だが、ここでは、フルートの領域と「声」の領域は厳しく峻別されている。息と声がほとんど同時に放たれる時ですら、それは別の空間に位置している。これは演奏者の意図であると同時に、プロデューサーである近藤の狙いでもあるだろう。先に描写した息の舞踏に、身体の重さを持ち込まないために。そうした「潔癖さ」は近藤のソロ『アジール』に通ずるものがある。
無論、両者が没交渉であるわけはない。「rain #4」のインプロヴィゼーションで、言い出しかねるように口ごもり、どもるフルート演奏においては、背後に潜む何者かが一線を踏み越えて姿を現しそうになりながら、こみ上げる吐き気を耐えるようにして、素晴らしく軽やかな息のダンスがその前を横切っていく。
あらかじめ作曲されたコンポジションの演奏においては、書かれたメロディを解釈/再構築するというよりも、息の舞踏がアブストラクトな散らし描きからラジオ体操を思わせる規則的な律動へと転じた繰り返しの中に、曲の推移がいつの間にか映り込んでいる‥‥という具合。これは思ってもみなかった鮮やかな解決であり、見事な達成と評価したい。
その一方で、短い即興演奏である「rain #1〜#4」とコンポジション演奏の間を埋める位置づけと思われる「umbrella #1〜#3」及び「on the blue corner of the room」の演奏が、散乱と構築の綱引きの結果、むしろコンポジション演奏以上に叙述的になっており、その分、いささか中途半端となっているように感じられた。もちろんこれは私が「rain」の鋭角的な美学に強く魅せられていることによる「反動」なのかもしれない。
タイトルやジャケットを飾るヴィジュアルは、日本語で言うところの「シュール」で、かつての「アングラ」の匂いを強く放つものとなっている。そこにはどこか、文化基盤ないしは記憶を共有する者たちへの親密な「目配せ」が感じられると言ったら言い過ぎだろうか。この国の「フリー・ジャズ」が生まれ落ちた、生暖かい湿気に満ちた暗い裏路地の記憶へと、これらのイメージが結びついているようにすら思われる。私が前述の「umbrella #1〜#3」及び「on the blue corner of the room」に感じた中途半端さも、もしかするとここに連なるものかもしれない。
逆に言えば、タイトルやジャケットが醸し出す、そうした「どこか懐かしい匂い」の中で本作に耳を傾けるとしたら、「rain」の鮮やかな切断が、コンポジション演奏のきっぱりとした達成が、曖昧な記憶、陰ったノスタルジアの下に、セピア色に減速されてしまうのではないか‥‥と私は恐れている。ぜひ、そうした先入観にとらわれずに、この演奏の乾いた速度に耳を傾けてみてほしい。

『no umbrella, no tonguing, if not for the room』(Bishop Records EXJP020)
次で一部試聴可
http://bishop-records.org/onlineshop/article_detail/EXJP020.html
https://www.youtube.com/watch?time_continue=56&v=72aaYTgp3Vk
2015-08-07 Fri
大上流一 Riuichi Daijo / Dead Pan Smiles 1〜5 Riuichi Daijo Guitar SoloDPS Recordings cd-dps-001〜005
Riuichi Daijo(acoustic & electric guitar)
試聴:http://www.ftarri.com/cdshop/goods/dps/dps-001005.html

2004年から2013年まで10年間に渡り、Plan-Bで毎月開催していたライヴ演奏からの抜粋による5枚組ボックス・セット。演奏は年代順に収録されており、初期の演奏の音色・音域の対比を通じた構造への意識、線を描かず常にずれていく音の連なり、そして何よりもオートマティックな滑らかさを回避し、一瞬ごとに切断/沈黙せずにはいられない演奏のあり方は、1970年代からのDerek Baileyを思わせる(だからこの演奏は、Baileyの語法の一部を剽窃し、陳列するだけの「なんちゃって」インプロヴィゼーションではない)。彼が演奏を始めた頃には、すでにBaileyはそうした抑制の外れたかなり融通無碍な演奏をしていたことを思えば、これは彼が選び取った姿勢と言うべきだろう。もうひとつ特筆すべきは、交通騒音をはじめとする背景音、水音、足音等の環境音あるいは付随音や空間の響きへの注視である。こうした特質は粒子の粗いオフ気味の録音の生々しさと相俟って、Baileyと田中珉による『Music and Dance』を彷彿とさせる。周囲の物音が肌に突き刺さる痛み。自らの行為が生み出した音が、空間に、距離に、他の音に残酷に侵食される様を最後まで見届ける耳の眼差し。
2枚目、3枚目と進むにつれ、演奏は初期の散逸的なあり方を離れ、音数が増し、点描は密集へと、連鎖は交錯へと姿を変え、ノイジーな喧噪へと至るが、例えばカッティングの「繰り返し」においても1回ごと異なる表情/断面を提示するなど、問題意識をパンキッシュに提示するのみならず、一つひとつ音を放つごとの空間における響きの変容に耳が届いている点は賞賛に値しよう。ただただ演奏行為、身体のアクションに没入してしまうのではなく、響きの行く末を見詰め続ける覚醒した視線がここにはある。
この点で彼の本領はやはりアコースティック・ギターにあると言わねばなるまい。エレクトリック・ギターによるサステインを効かせたLoren Connorsばりの揺らぎに満ちた音も、試行錯誤のうちと聞こえてしまう。
4枚目の時点で大きな転機が訪れている。それまで前景化していた切断の相が退き、トレモロ的な連続性が立ち現れてくる。これに伴い、音の密度が高まるのとは裏腹に打弦に宿る唐突な「せわしなさ」が希薄化する。Charlemagne Palesteine風のミニマル・ミュージックや倍音の繁茂による音響への接近と類似しているように見えるかもしれないが、およそ本質は異なる。一見、流麗に連ねられる音響には、至るところ「衝突」の感覚が満ち満ちている。混ぜ合わされ、改めて配分される指の動き、弦の上で多方向から交錯する力動、震える弦に勢い良くぶつけられ、あるいは滑るように重ねられる別の振動とその反発。数えきれないほどの弦を張られたサントゥールの上で、煎り胡麻のように散乱する音の粒子。かつて息を詰め、弦に睫毛が触れんばかりに眼を近づけて弦の震えを見極めようとしていた眼差しは、いまや呼吸を深く長く保ち、しかるべき距離を置いて、いやむしろ弦に触れる指先や響きにそばだてられる耳を通じて、より鮮明に触知する。
米粒に筆先で般若心経全文を書き込む金大煥は、筆先を直接見ることなく、腕を大きく動かし全身を使って書き込めば、字はその通り書けているのであって、それは心眼に見えると言っていた。ここでも周囲の空間を含めた環境に対する身体全体のアクションが、ミクロな弦の振動を生み出すと同時に、そこから羽ばたき広がる響きの行く末を見詰めている。
この結果、5枚目に収められた演奏において、響きの外見はBaileyよりも、むしろJohn Faheyや、その他のフィンガー・ピッキング・ギタリストたちによるブルースやブルーグラスの演奏に似通ってくる。もちろん先に指摘した「衝突」の感覚の存在が、あくまでもイージー・リスニングとは一線を画するのだが。
以前にBill Orcuttの作品をディスク・レヴューで採りあげた際、Baileyとの類縁性を指摘しておいたが、おそらく人脈的なつながりや直接の影響関係はないだろう。それでもOrcutt自身は前述のFaheyの系譜にありながら、ギターが雨しぶきに激しく打たれ揺すぶられるような演奏がどうしてもBaileyを思い浮かべさせずにはおかないのは、そこに即興演奏にしかあり得ない裂け目/深淵が黒々と口を開けているからではないか。大上とOrcuttの類似は、そのことを思い出させてくれる。
70年代Baileyから出発した大上の探求は、4枚目に記録された2012年の時点で最もBaileyから遠ざかり、5枚目に収められた2013年の演奏で、OrcuttとBaileyを結ぶ線を明らかにしながら、ゆるやかにBaileyへと回帰しつつあるように見える。それは大上がBaileyの引力圏を脱出できなかったということなのだろうか。
いや決してそうではあるまい。そもそもBaileyの演奏とは、徒らに仰ぎ見て目指すべき目標でないのと同様に、ただひたすらにそこから遠ざかるべき出発点でもなければ、乗り越えるべき対象でもないだろう。あるいは彼は、死してなお「ノン・イディオマティック・インプロヴィゼーション」という方法論の磁場に人々を捕らえ離そうとしない「蜘蛛の巣」の不在の主(あるじ)でもないのだ。「ノン・イディオマティック」とはイディオムがつくりだす(つくりだしてしまう、つくりださざるを得ない)閉域を切り裂き、その都度、暴力的に開いていく姿勢であり、それにより、60年代末に訪れた即興共同体の崩壊に対応し、受け皿となる共役言語を引き算的にかたちづくる方策だった。それはまず何よりも本来的にギター奏者であるBaileyにとって、音量に乏しく、演奏ノイズを生じやすく、音の粒が揃いにくく不安定なギターの「弱さ」を、その本質として直視することから生み出されたのではないか。音の粒が揃わず響きがばらばらでノイズだらけの不細工で不手際なパッセージを、様々な方向から飛来した音粒子がある瞬間に描いた「星座」と見立て、そこにイディオムをばらばらに切り離してしまう綻びの糸口、切断に満ちた深淵、黒々と口を開ける即興的瞬間を見出すこと。それはギター演奏者が等しく引き受けるべき「刻印」にほかなるまい。後はそれをなかったことにし、忘れたふりをするかどうかだ。
大上は決してそのことを忘れたふりはしない。彼がBaileyに負っているのはまさにこのことであり、またそれ以外にはない。ここへとたどり着いた10年の歩みが、そのことを証し立てていよう。あるいは5枚目に収録された2013年6月の36分以上にも及ぶ長尺の演奏が。
不穏に響く椅子の音や足音の只中から、ひきつったBailey風の跳躍が姿を現す。飛び石伝いの跳躍はすぐに執拗な「繰り返し」に場を明け渡す。わずかずつ鑿の角度を変えながら、ただひたすらに同じ一点を深く深く彫り込み、響きの不安定さを剥き出しにすることによりギターを丸裸にしていく、あからさまなまでにとことん無防備な演奏。時にストロークにブルースやフラメンコの影が宿るが、「型」を守り発展させることにいささかも関心を示すことのない、当てのないさまよいの中で、すぐにとらえどころなく霧散崩壊してしまう。それゆえ引用やコラージュとは聴こえない。一瞬ごとの賭け。
さわりや分割的な共振/共鳴。不均衡に響く和音と不自然に引き伸ばされ後に残る音。立ち上る響きとは異なる方向にたなびきながら、すぐに失速する余韻。積み重なることなく、すれ違い、行き違い、立ち尽くす響き。Bailey風の至るところ切断に満ち満ちたせわしない跳躍が再び姿を現す。音同士の衝突により、内部分裂から崩壊に至る音の群れ。切断が加速し、自らを切り刻みながら、喧噪の充満へと向かう演奏。自らの演奏史が次から次へと自由連想的に湧き出し、指先から迸り、あるいは滴り落ちるそばから、演奏する彼自身へと襲いかかる悪夢。響きの飽和/充満が、音のかけらの溶解/変容を促し、演奏はとんでもない惨状を呈していく。
演奏の終盤に向けて(ここで「終盤」とは、演奏が終了した後で初めてあきらかになることであり、もちろん後知恵に過ぎない)、充満すらも離れ、さらにとりとめなく、環境音の波間に見え隠れするものとなっていく(最後は事後編集によるフェード・アウトでソフトに、だが断固として強制終了させられている。)。それでもぴりぴりと撓むことなく張り巡らされた耳の視線の確かさは全編を通じて変わることがない。
シリアル・ナンバー入り109セット限定。

※もともと新譜レヴューの1枚として書き始めたディスク・レヴューだが、長くなりすぎて、とても新譜レヴューの枠には収まらないので、単独記事として掲載することとした次第。これだけ多くの言葉を触発/喚起するだけの力を持った作品であることは保証する。
逆光の中に姿を現す不穏な声の身体 − 「タダマス17」レヴュー The Threatening Body of Voice Appeared against the Light − Live Review for "TADA-MASU 17"
2015-05-31 Sun
あれは一体何だったのだろうか……このひと月というもの、ずっとずっと考えていた。ピアノの二音がすっと視界に浮かび上がり、たちのぼる響きにすぐにモーガンが応える。だが、続く一音の指さばきは、ためらうように、響きを途中で途絶えさせ、宙吊りにする。そっと、だががっしりと確実に、モーガンが差し出した手をよそに、ピアノは無重力性を保ったまま、ゆるやかに線を伸ばす。だが、その足下にはすでに不穏な気配が兆している。ゆったりと巡るように引き伸ばされる連なりの傍らに、そいつは姿を現す。不可思議な呪文、妖しい吐息、押し殺した嗚咽。もう一人のベーシストが隙間に色を挿し、ドラムもブラシ・ワークで空間にうっすらと傷をつけていく。音数を増やし、渦を巻くピアノの只中に、逆光に浮かぶようにそいつはくっきりと不吉な姿を現し、そのまま中央に居座る。唸り、喘ぎ、軋り。重さはない。むしろ蚊柱のような流動性が感じられる。
それが菊地の漏らす「声」だと気づくまでに、ずいぶん時間がかかった。前作『Sunrise』(ただし録音日時は本作の方が以前ということになる)で僅かに聴かれたものとは、およそ似ても似つかない。あの時は、その「声」が、たとえばキース・ジャレットの場合と異なり、内なる旋律、すなわち指の動きに先んじて脳内に浮かぶメロディの不完全な流出ではなく、そこから離れるためだけに冒頭におかれる「序詞」とでも言うべきものではないかと感じた。しかし、ここで出来している事態は、そんな生易しいものではない。何しろ「声」はドラムや2本のベースはもちろん、ピアノよりも手前に位置し、しかもそこに居座り続けるのだ。
「菊地さんの、ヴォイス演奏とでも言うんでしょうか……」と、今回の四谷音盤茶会のゲスト山本達久はその素晴らしさを賞賛していたが、私にはそれが、ピアノを弾く片手間に興じられる「ヴォイス演奏」といった暢気なものには、とても思えなかった。それほどにそれは禍々しい危うさをたたえていた。見てはいけない、視線を合わせてはならないものと眼が合ってしまい、そのまま魅入られたように囚われてしまう。耳を金縛りにし、視線を釘付けにする「魔」。何よりそれは演奏の一部になどなり得ていない。どこまでも無法な濫入者として居座り続ける。身悶え、痙攣、ぞっとするような筋肉の緊張、奇形や不具の気配。そうした点でそれは土方巽の舞踏に似ているようにも感じられる。だが、即興演奏との共演を繰り返しもした彼が、常に音の傍らに立ち続けたのに対し、ここで「声」はあからさまに音の場に踏み込んで、周囲を汚し、傷つけ、あるいは覆い隠す。
逆光の中に黒々と浮かぶ「声」の身体が揺らぎ、あるいはさっと身を翻す。ピアノの音がその陰から、不意撃ちするように、ふっと姿を現す。『Sunrise』においても菊地やモーガンが「音で線を描かないこと」は顕著だったが、それは音と音の間を引き伸ばし、響きの断続的な明滅としか感じられなくなるまで、連なりを希薄化することを基底に置いていた。そこで「フレーズ」は、後から恣意的に描き込まれた星座の連なりに過ぎない。だがここでは違う。ピアノの音は、「声」の背後から突然飛んでくる「礫(つぶて)」のように姿を現す。それに応えるモーガンのベースもまた。一見連なるように感じられる音も、異なる方向から異なる速度、異なる軌跡で飛来する違った形、大きさ、材質の石の寄せ集めでしかない。それゆえ音は、それぞれにざらりとした異質性を際立たせながら、思い思いの方向に飛び去って行く。
ピアノの放つ一瞬のきらめきは、耳に沁み、眼に痛いほど目映く鮮やかだ。以前にあるクラシック・ファンから「菊地はピアノを鳴らし切れていない」との指摘を受けた。ならば鳴らし切っているピアニストとは誰なのかとのこちらの反問に、フリードリヒ・グルダの名前が返ってきて、なるほどと思ったのを覚えている。確かに菊地には、ベーゼンドルファーの底の底までを、大きな手でひと掴みにして、一斉に震わせる技量はないかもしれない。しかし、そうした筐体の縛りを切り裂いて、音を外へと迸らせる速度において、菊地は極めて卓越した奏者だと思う。ロラン・バルトがロベルト・シューマン論で指摘した「打つ」ことの技量において。本作の録音は、まさにその一瞬に向けて、フォーカスをきりきりと絞り込んでいる。ピアノ総体の鳴りなど、後から自然についてくると言わんばかりに。そのことがハンマーが弦を打つ地点に近接したマイク・セッティングをもたらし、その結果として菊地の口の端から噴出する「声」に、無防備に襲われる事態を招いたようにも思われる。
私などとは到底比較にならないほど深く菊地を聴き込み、ライヴにも幾度となく接し、本人と親交もある多田雅範に、菊地の声はいつもこのようにはっきり聞こえるのか尋ねてみた。どうもそうではないらしい。ましてや録音作品においては空前絶後のようだ。声が聞こえること自体は不思議ではないと思ってしまったけれど、考えてみたら、こんなにはっきりと「声」を聴いたことはいまだかつてないとの答が返ってきた。
今からひと月以上前、4月26日(日)に行われた「四谷音盤茶会第17回(タダマス17)」のレポートとして今回の原稿を差し出すことは、何時にも増してためらわれる。これまでも私のレポートは、イヴェントの全容をバランスよく紹介するものでは全くなく、ただただ私の興味関心に基づいて視点とフレームを設定し、切り取ったものに過ぎなかった。しかし、それでも、イヴェントの流れに沿って数作品に言及することにより、事態の一端を伝え得ていたとは思う。それに比べて今回は、10枚かかったうちの1枚だけにしか触れていない。
それはぼんやりと予想されていた事態ではあった。本ブログでの「タダマス17」告知記事で、私はまだ公式にはリリースされていない菊地の作品が、今回採りあげられることに焦点を当てて紹介している。そのせいか、この日の幕開けの口上で益子博之は、どうも始まる前から一部分に関心が集まってしまって……とこぼしていた。一方、多田雅範は、菊地の作品がかかったら聴衆の反応はどうなんだろうか、みんな大きく頷くのだろうか、それとも腕組みしたまま考え込んでしまうのだろうか……との私の問いかけに対し、みんな腕組みしたまま黙っちゃいそうだなあと言っていた。実際にはそうはならず、ゲストの応答を含め、演奏の素晴らしさという話になってしまったのだが。
もちろん、実際には当日いろいろなことがあり、様々なことを感じた。主に違和感として。Pascal NiggenkemperからMatana Robertsというソロによる音響構築の流れは正直ピンと来なかった。話題のTigran Hamasyanもどこがいいんだかわからずにいると、最近手放しに持ち上げられているが本当によいか…との説明が入り、むしろそうした採りあげ方に違和感を覚えた。Mario PavoneのアブストラクトなルーズさとJakob Broのどうでもいい細心さが奇妙な相似形を描く中で、Vijay Iyer Trioによる速度の重層性とChris Lightcap's Bigmouthにおける響きの積み上がっていく感じは素晴らしかった。特に後者の場合、2サックスが後方で鳴り響く部分では自在に飛び回るくせに、フロントでユニゾンにより奏する際には、よれよれとことさらに非マッチョ性を明らかにするあたり、思わずツッコミを入れたくなる。ふだんなら、この辺が論述の焦点となっていたことだろう。ゲストの山本達久の臆面もない切り捨てぶりについて多田がブログで賞賛しているが、正直それほどのものかなと思う。RJ Millerのソロ作品におけるエレクトロニクスの揺らぎが話題に上ったところで、ドラマーがエレクトロニクスを操るのが新しいって言うんですか、Harald Grosskopfは知ってますか…という辺りで、そのあからさまな「ネタ」嗜好/志向/思考に聴いていて腰砕けとなった。
いずれにしても、それからひと月が経過し、菊地とトーマス・モーガンらによる盤以外のことは、とりあえずどうでもよくなってしまった。それだけ、この演奏の強度に打ちのめされてしまったわけだが。インターネットで検索すると、その後、5月下旬に無事リリースされたようだ。世評はどうなのだろうか。

Masabumi Kikuchi, Ben Street, Thomas Morgan, Kresten Osgood
『Masabumi Kikuchi Ben Street Thomas Morgan Kresten Osgood』
Ilk Music ILK 23B CD
Masabumi Kikuchi(piano), Ben Street(double bass right), Thomas Morgan(double bass left), Kresten Osgood(drums)
当日プレイされたのはtrack 1の「#1」。
「タダマス17」当日のプレイリストについては、次を参照していただきたい。
http://miminowakuhazushi.blog.fc2.com/blog-entry-357.html