2018-05-30 Wed
本日5月30日発売のムック『別冊ele-king カマシ・ワシントン / UKジャズの逆襲』(Pヴァイン)に原稿を書かせていただいた。もちろん一発「カマシ」ているわけではなく、第2特集の「変容するニューヨーク、ジャズの自由」の方なのだけれど。こちらの特集の軸となっているのが、我らが「タダマス」、すなわち益子博之と多田雅範のNYダウンタウン・ミュージック・シーンを巡る対談で、それに人名事典や重要作品のディスク・レヴューが付くという体裁。私は人名事典の中の1項目として、アンソニー・ブラクストンについて書いている。
もちろん初リーダー作からですら半世紀に喃々とするだけでなく、驚くほど多方面にわたり、かつ多作であるブラクストンの活動を、3000字で詳細に語ることなどできるはずもない。彼の活動の「鵺的」と言うべき多面性を祖述した後、それを彼の驚くべき多楽器主義と合わせ鏡にし、反対にその広範な膨大さの中の欠如/不在として「声」と「即興的瞬間」を見出す‥‥という、いささかアクロバティックな論旨構成を採っている。
ここで彼が誌面に召喚された理由は、決して近作オペラ「トリリウム」への高評価のゆえではなく、彼の弟子筋とみなされ得るメアリー・ハルヴァーソンやタイション・ソーリーの活躍のためであろう。これに対し、本稿では、彼がずっと魅了され信奉している「サウンドの幾何学」に対し、いまNYダウンタウン・シーンの「タダマス」が(そして世界の耳の精鋭たちが)注視している側面から浮かび上がるのは「サウンドの地理学」にほかならないと結論付けている。字数制限のために原稿からは削除したが、ブラクストンのグループでのハルヴァーソンの演奏に、後の彼女の奔放な魅力を見出すことはできない。その片鱗すらも。確かに彼女が言うように、彼女が恩師ブラクストンから学んだことは数多いのだろう。だが、彼女を羽ばたかせたのはブラクストンの音楽原理ではない。



ひとつだけ補足を。先に触れた人名事典の見出し文句に「アンソニー・ブラクストンからウィリアム・パーカーまで」とあるが、彼らのことをあらかじめ知っている者が見たら、何と世代を限定した、しかもヴェテランに偏ったチョイスなのだろうかと誤解されかねない。実際、アンソニー・ブラクストン(1945年生まれ)とウィリアム・パーカー(1952年生まれ)の年齢差は7歳しかない。人名事典では、ロスコー・ミッチェル(1940年生まれ)、ヘンリー・スレッギル(1944年生まれ)と、さらに年長のミュージシャンが採りあげられる一方で、マタナ・ロバーツ(1975年生まれ)、メアリー・ハルヴァーソン(1980年生まれ)、トーマス・モーガン(1981年生まれ)等も対象とされており、また同様に、タイション・ソーリー(1980年生まれ)等についても言及されていることを明らかにしておきたい。


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2016-12-29 Thu
2016年12月20日、河出書房新社から『文藝別冊 デヴィッド・ボウイ増補新版』が刊行された。
http://www.kawade.co.jp/np/isbn/9784309979076/
2016年という年号と共に記憶されるべき出来事として、1月10日のデヴィッド・ボウイの死が挙げられるだろうことは想像に難くない。最新作『★』のリリースを待ち侘びたかのような彼の死の同期ぶりは、前作『Next Day』が10年ぶりの新作であり、もうすでに過去の人となったかと思われたボウイの鮮やかな復活と引き続く快調な活動再開を想像させていただけに衝撃的だった。
彼の死を巡っては、すでに多くの言葉が呟かれ、書き記されている。それに付け加えるべきことなど、もはや何もないに決まっている。後はただ遺された彼の言葉/音に耳を傾けるだけだ‥‥誰もがそう目配せを交わし、無言のうちに申し合わせながら、彼の「遺言」を探し続ける。『★』を彼の「遺作」として崇め奉り、そこに秘められた彼の最後のメッセージをあぶり出し、彼の作品をレコード棚のしかるべき位置にしまいこんで、お払い箱にしようとする。「遺作となった『★』で彼はロック・ミュージックを超え出て新世代ジャズへと手を伸ばした。彼は常に時代の先端に屹立すべく、自らを更新し続けていた‥‥」と呪文のように呻きながら、どこまでも「通過者」であり続けた彼を、時代の流行の中に封印しようとする。
前作『Next Day』のリリース及びこれに同期した大回顧展『David Bowie is』の開催に合わせて刊行された『文藝別冊 総特集デヴィッド・ボウイ』※は、これに類する各種刊行物の掉尾を飾るにふさわしく、彼のこれまでの活動を振り返りつつ、それらをロック・ミュージックのモード史へと回収するかわりに、200枚に及ぶ想像的(妄想的?)関連音盤をマッピングした「ボウイ曼荼羅」に象徴される仕方で、各領域の開かれた影響関係のネットワークへと解き放ってみせた。
※http://miminowakuhazushi.blog.fc2.com/blog-entry-228.html
今回の彼の死に際し、やはり類する各種刊行物の掉尾を飾って『文藝別冊 デヴィッド・ボウイ増補新版』が出版されたのは、前述の閉塞状況を切り裂くためにほかなるまい。それゆえ今回新たに追加されたのは、『★』や『Lazarus』のディスク・レヴューはもちろんのこととして、前回総特集執筆者等(Simon Finn, レック参加)による追悼文集「宇宙へ還って行った男に捧ぐ」、「遺作」に「遺言」を求めてしまう「大団円的な納得」をきっぱりと拒絶する鼎談「星に願いを」、ボウイの膨大なアート・コレクションの展示・競売に関して、河添剛がわざわざ渡英して書き下ろした「炎上」必至の辛辣なリポート「かつて美術界の逍遥者として知られていた人間の墓石としてヴェールを脱いだ彼の収集物、でさえも」、そして書籍や映画等、あえて音盤以外から選定された「続ボウイ曼荼羅」の4つを主要な柱とする原稿群である。

詳細は目次を参照
私自身はこのうち河添剛・平治との鼎談「星に願いを」と「続ボウイ曼荼羅」に参加させていただいた。
前者は「絶対的非在としての『★』が顕現させるものと隠蔽するもの」(平)を巡って語り始められ、「黒」の崇高性と拒絶の身振りの二面性を経由して、彼のクレメント・グリーンバーグのフォーマリズムへの言及を曲がり角として一気に、彼の「通過者」としての資質の特異性の検討へと向かう。事態を「通過」しながら、その事態により決定的な変容を被らずにはいられない「影響されることの天才」として。それにより彼は、未完に終わった20世紀の美学を宿命的/不可避的に映し出さざるを得ないのだと。それは一方では、テクノロジーにより未来性と「血と大地」の本来性を結びつけたファシズム美学であり、他方では白人が黒人を模する誘惑の身振りからスタートし、最も低質なジャンルとして、テクノロジーによるメディア性を含め、他の様々な要素を貪欲に取り込み、変容を続けるロック・ミュージックにほかならない。
ここでの私自身の『★』読解に関し大きなヒントとなったのが、『★』リリース以前にベスト盤『Nothing Has Changed』への収録、あるいは10インチ盤アナログとしてリリースされた「Sue」に対する多田雅範の逸早い反応だった(何と2014年12月)。彼がRalph Towner『Solstice』(ECM 1060)を引き合いに出して、Maria Schneider Orchestraが演奏を務めたこの曲を「ボウイ meets ソルスティス」と形容したことが、『★』を巡って呪文のように繰り返し唱えられる「新世代ジャズ」の縛りから私の聴取を解き放ち、さらにこのヴァージョンと『★』収録ヴァージョンの決定的な違い(ドラムは同じMark Guilianaにもかかわらず)に耳を開かせたのだ。
後者では候補作のリストアップのほか、次の作品のレヴューを執筆した。
①ジョージ・オーウェル『1984年』
②ウィリアム・バロウズ『ワイルド・ボーイズ(猛者)』
③ブルース・チャトウィン『ソングライン』
④ラインハルト・シュタイナー『エゴン・シーレ』
⑤高祖岩三郎『ニューヨーク烈伝』
⑥田中純『政治の美学』
⑦小野清美『アウトバーンとナチズム』
何だか随分な選書だが、それぞれに理由はある。①②は『ダイヤモンドの犬』の発想の源として。③は①と共に「ボウイの愛読書100冊」(ヴォーグ誌掲載*)の1冊として、また巡礼者の如く漂泊を続けたチャトウィンを「通過者」ボウイと重ね合わせて。④はボウイの愛する表現主義画家の作品集。⑤は『ロジャー』をジェントリフィケーション以前のニューヨークを巡る都市論として読み解く視点から。⑥はボウイ論を収録と言うより、それをロックンロールをファシズム美学の一環としてとらえる視点のゆえに。⑦は秀逸なクラフトワーク論と言うべき椹木野衣『後美術論』の発想の源となった一冊であり、ファシズムの思考が現在に深く突き刺さっていることの証左として。
*http://www.davidbowie.com/news/bowie-s-top-100-books-complete-list-52061


本号付録のミニ・ポスター 前回刊行の『文藝別冊 総特集デヴィッド・ボウイ』
2016-05-21 Sat
5月19日に発売された文藝別冊「ジェネシス 眩惑のシンフォニック・ロック」(河出書房新社)に執筆した。最近の文藝別冊は本当にプログレづいていて、昨年1月のピンク・フロイド(増補版)、同7月のキング・クリムゾン、今年2月のイエスに続く特集企画となっている。一読して、今回の構成はとてもバランスが取れていると感じた。一般にピーター・ゲイブリエルの脱退を決定的として前後を分かち、「プログレからポップに転じた」と括られてしまいがちなジェネシスの軌跡だが、ここではむしろスティーヴ・ハケットの脱退に大きな転機を見るジム・オルーク(インタヴュー記事)をはじめ、フィル・コリンズのドラム・サウンドの変遷を追ったり、歌詞の文学性を分析したり、メディア・イメージの分析を通じて『眩惑のブロードウェイ』を変化点と位置付けたり、あるいは変わることのない「英国らしさ」に基層を見出したりと、視点の設定により様々な切断と連続が見出し得ることが提示されており、ジェネシスという歴史=物語の読解として、とても厚みのある内容となっている。
それゆえ、各執筆者の論点が互いに反響しあうところが魅力だろうか。彼らの基層というべき「英国らしさ」について、大英帝国的な畸人変人性を通じて、あるいは頻繁に言及されるマザー・グースのみならず、キーツをはじめ英文学からの出典を通じて、さらには田園風景を通じて、複数の評者により多角的に論じられている。反対に極めて英国的なバンドでありながら、実はヨーロッパへの影響が大きかったとして、ジェネシス・フォロワーたちの紹介がなされている。また、彼らの初期イメージを形成したポール・ホワイトヘッドのカヴァー描画が採りあげられ、あるいは彼らのライヴ・ステージにおけるヴィジュアルの変遷が語られる一方で、彼らのコピー・バンドである「復刻創世記」のメンバーにより、彼らのアンサンブルの妙やサウンド構築の秘密が明かされる。
私自身は「ジェネシス - 音の石組み」なる論稿で、彼らの活動を編年体でとりまとめたCD3枚組の『R-Kives』(いわゆる「ベスト盤」だからか、本号でも他では一切、ディスク・ガイドにおいてすら、触れられていない)から語り始め、まずは議論の前提として、彼らの変わることのない一貫性を指摘している。30年近くも活動を継続しながら、そこにはEL&Pの低迷も、イエスの迷走も、ピンク・フロイドの肥大も、キング・クリムゾンの転生もない。
そのうえで彼らの代表作『フォックストロット』の幕開けを飾る「ウォッチャー・オヴ・ザ・スカイズ」や長大な「サパーズ・レディ」のサウンドを例に挙げ、彼らの演奏が堅固な音の石組みにより、何よりも音による「世界(像)」を提示することを目指しており、ゲイブリエルの演劇的突出にもかかわらず、それはあらかじめ設定された「世界」の中を跳ね回る「キャラクター」でしかないことを説明している。12弦ギターやキーボードのアルペジオ、リフレインの多用は、アンソニー・フィリップスの創造を継承して、トニー・バンクス(とマイク・ラザフォード)が完成させていった、サウンドの層の稠密な積み重ねのまさに典型にほかならない。対してスティーヴ・ハケットの常に震えやにじみを帯びたギター、フィル・コリンズのアンサンブル全体を揺すぶりスウィングさせるビ・グ・バンド的なドラムは、この揺るぎない構築に息づきをもたらす揺らぎ成分として機能している。
一方、ゲイブリエルの独裁による達成として語られがちな『眩惑のブロードウェイ』も、元ネタというべきレナード・バーンスタイン『ウェストサイド物語』と比較すれば、それがゲイブリエル自身によってジョン・バニヤン『天路歴程』になぞらえられているように、英国を旅立ててはいないことがわかる。彼の本当の旅立ちは、やがてワールド・ミュージックとの出会いによって果たされることになるだろう。
やはりジェネシスは変わっていない。それはバンクスの変わらなさ/変わり難さであり、彼の内部に残り続けるクラシック音楽とソウル・ミュージック(それはパブリック・スクール時代、彼とゲイブリエルを引きあわせたものだ)をはじめとするポップ・ミュージックとの解消し難い分裂に起因している。彼は依然としてパブリック・スクールという「檻」、そしてその延長上にあるジェネシスという「檻」に囚われているのだ。
『危機』ただ1作品だけにフォーカスして、長くは続かなかった「奇跡」を論じたイエスと異なり、ジェネシスに関し、あえて変わることのない一貫性/連続性を前景化したのは、売れた/売れないとポップ/プログレを短絡的に結びつける俗説への反抗ということもあるが、それだけではない。もちろん彼らのサウンドが大きな切断/転機をはらんでいるのは確かだ。しかし、それはゲート・リヴァーブの使用によるドラム・サウンドの劇的変化とシンクロしており、それはポップ・ミュージック全体に波及する一大変化でもあったことを忘れてはなるまい。しかも、スティーヴ・リリーホワイトとヒュー・バジャムというプロデューサー/エンジニア側の達成として語られがちな、この一大「発明」が、ゲイブリエルのソロ作の制作中に、フィル・コリンズの叩くドラムに起こった偶然により誕生したものであることを思えばなおさらだ。
個人的には、『松籟夜話』第五夜でジム・オルークを特集した際に、彼のジェネシス・マニアぶりを再認識し、今回の企画を知って「ぜひ」とリクエストした彼へのインタヴューが掲載されているのがうれしい。音楽誌のジェネシス特集としては「DIG special edition」によるもの(2014年11月発行)が秀逸だったが、本誌も実に読みごたえのある特集となっている。ぜひお読みいただければありがたい。

http://www.kawade.co.jp/np/isbn/9784309978871/
http://www.amazon.co.jp/%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%83%8D%E3%82%B7%E3%82%B9-KAWADE%E5%A4%A2%E3%83%A0%E3%83%83%E3%82%AF-%E6%96%87%E8%97%9D%E5%88%A5%E5%86%8A-%E6%B2%B3%E5%87%BA%E6%9B%B8%E6%88%BF%E6%96%B0%E7%A4%BE%E7%B7%A8%E9%9B%86%E9%83%A8/dp/4309978878
2016-02-29 Mon
2月25日に発売された文藝別冊「イエス プログレッシヴ・ロックの奇跡」(河出書房新社)に執筆した。文藝別冊は最近プログレづいていて、昨年1月のピンク・フロイド(増補版)、同7月のキング・クリムゾンに続く特集企画となっている。文藝別冊に初めて原稿を書いたのが、2013年6月発行のデヴィッド・ボウイ特集の号(現在「品切れ中」というのが惜しまれるが)で、その時は、今はなき野心的音楽雑誌『ユリシーズ』のチームが編集に当たったため、ヒストリーとディスコグラフィに沿った作品紹介を軸にしながら、かなりトリヴィアルなところまで突っ込んだ(あるいは関係を捏造した)関連作品レヴュー等、錯綜したマンダラ状の構成がなされていた。こうした編集姿勢は、文藝別冊のものというよりは、やはり『ユリシーズ』のものだったようで、そうした構えは同じ河出書房新社から単行本として刊行された『謎解き レッド・ツェッペリン』には脈々と引き継がれたものの、文藝別冊本体が次に特集したドアーズ(2014年12月発行)では、書き手がそれぞれ自由に書くようになっていた。
実はこのドアーズ特集にも、私は「ドアーズ - アメリカン・ゴシックの血脈」なる一文を執筆している。いきなり1987年のYBO²のライヴで女装した北村昌士がドアーズ「ジ・エンド」を歌う場面で幕を開けるという、ある種ギミックな構成だが、それも概念としての「ゴシック」に捧げたが故の所業。かなり水増しして語られるジャズとの関係、決してジム・モリソンのワンマン・バンドではない彼らのアンサンブルのあり方、単に時代背景として済まされがちなヴェトナム戦争や『地獄の黙示録』との関係、あるいはあえて言及されないポール・ロスチャイルドによるプロデュース・ワークの位置づけ等、結構突っ込んで論じていると、少なくとも自分では思う、と言うのも、例によって私はドアーズの熱烈なファンではなく、だからこそ核心を貫く批評によってしか、対象に報いることができないからだ。
このドアーズ特集は、それを待ち焦がれていた熱烈なドアーズ・ファン(特にジム・モリソン信者)にはどうも不評だったようで、それもそのはず、「いまドアーズってことないよね」的な論稿が過半を占めているのだ。別に熱く想いを語れ!とは言わないけれども(それは自分自身ができないからでもある)、だったら、せめて批評的高みを目指すなり、史実を細かく掘り下げるなり、あるいは徹底的に罵倒するなり、オマージュの捧げ方はあるものだろう。全体として、執筆者たちがとまどいながらお茶を濁しているのが「ミエミエ」なのが悲しい。それは時代の空気とやらを敏感に察して、恥じらっているのだろうか。ドアーズに関する著書もあり、いわばこの号の守護天使として召喚されたはずの野澤収ですら、妙に衒いを含んで歯切れが悪い。
なので、正直、イエスも斜に構えた「いまなぜイエス?」論ばかりになるのではないかと心配したのだが、それは杞憂に終わったようだ。ほとんど思い出話の焼き直しで終わってしまう論稿こそあるものの(それはまあオヤジ向けだからしょうがないのだろう。むしろそうした飲み屋で語るような論の方が望まれているのかもしれない。私には書けないし、書く気もさらさらないのだが)、概ねイエスの評価すべき特質をストレートに、衒いなく取り扱っている。特筆すべきは、やはり椹木野衣「クリスチャン・フィッシュとしての『イエス』」だろうか。2014年の来日公演の危うさから語り起こすというゆるい導入部から、スティーヴ・ハウのよれよれぶりを枕に振って、クリス・スクワイアに話が及ぶと、一気に彼のベース演奏の核心に入り込む筆致は流石と言えよう。彼は前述のドアーズ特集でも、彼らのベースレス編成がもたらす必然性を軸に、優れた論考をものしていた。
今回、対象を正面切って取り扱った論稿が並んだことで、グループにおける役割分担、特にジョン・アンダーソンとクリス・スクワイアの関係性(特に前者の壮大過ぎるヴィジョン)、また、椹木野衣も採りあげていたアンサンブルの核となるスクワイアのベースの特質、あるいは彼らの曲をサウンドトラックに用いた映画『バッファロー '66』(ヴィセント・ギャロ監督作品)への言及等々、論点が重なりあっているのが興味深い。実はこれらはすべて私の執筆した論稿「イエス - 爆裂するノンセンス、引き裂かれた牧歌」でも採りあげている論点なのだ。
今回の執筆依頼を受けた時にまず思ったのは、イエスの音楽を正面から扱って、なおかつ新たな切り口を示すことは、いま果たして可能だろうか‥‥ということだった。私自身以前に『200CD プログレッシヴ・ロック』(立風書房)で『危機』のレヴューを書いた際に、基本的な論点は提出してしまっている。それを更新することは可能なのかと。
しばらく猶予をいただいてリサーチした結果、私は可能と判断した。その結果が、今回の論稿である。先に挙げた複数の論点のうちひとつを、あるいはニ、三を採りあげるのではなく、それらを緊密に連関させるところから、イエスの音楽をドライヴしている力の流れを描き出せるのではないか‥‥というのが、その目論見だった。
冒頭は『バッファロー '66』のストリップ・クラブのシーンから始まる。そこで流れる「燃える朝焼け」が映像とどう拮抗しているのか、ストリップ・ミュージックとして用いられることが、イエスの音楽の特質をどう照射しているのか‥‥から論は書き進められる。
そこで照らし出されたイエス・ミュージックの特質は、次章で「非シンフォニック性」として別の角度から照明を当てられる。これは先の『200CD プログレッシヴ・ロック』で触れていた論点だが、ここではスクワイアのベース演奏の核心に触れながら、またルネサンス音楽を引き合いに出しながら深められる。
ロジャー・ディーンによるヴィジュアルが、イエスの何を映し出していたのかに関する考察をブリッジとして、いよいよ論はジョン・アンダーソンのヴィジョンへと及ぶ。通例トリヴィアとして紹介されるだけの、『危機』とヘルマン・ヘッセ『シッダールタ』の関係を具体的に検証し、エリザベス・シューウェルが解剖した「ノンセンス」と同じくウィリアム・エンプソンが腑分けした「牧歌」の両概念によって、入り組んだ絡み合いを解きほぐせば、スクワイアをはじめとする優れた音楽家たちに、溢れ出す豊かなヴィジョンを次から次に難題として押し付ける「非・音楽家」アンダーソンという対比が見えてくる。これこそがイエスの駆動原理なのだ。
ちなみにこの論稿で私は事実上『危機』全曲のほかは、『イエス・ソングス』、『リレイヤー』、そして『こわれもの』から1曲ずつにしか言及していない。彼らの達成した音楽の高みは、特集の表題通り、短く燃え尽きた「奇跡」にほかならないとみなすからである。





2014-06-29 Sun
6月26日に河出書房新社から刊行された『解読 レッド・ツェッペリン』に執筆しました。Jimmy Pageによるリマスター版リリースに合わせた企画ということになりますが、そこは何しろ河添剛/ユリシーズ編ということで、『文藝別冊 デヴィッド・ボウイ』同様、決して一筋縄では行かず、これまでの「通説」に果敢に挑む仕上がりとなっています。目次は次の通り。分量的に多いのは彼らの残した全作品に加え、関連作品のレヴューですが、僅かな作品しか残さなかった彼らのために1作ごとにかなりのページを割くとともに、関連作品についてもメンバーの参加作にとどまらず、影響/照応関係を「捏造/妄想的」になることも恐れず探っており、その結果、何と300作品がリストアップされる大規模なものとなっています。

おそらく私は、今回参加の執筆者の中で、「ZEP度」最低ではないかと。以前に書いたように音楽を本格的に聴き始めたのは1979年で彼らはすでに亡かったし、避けて通ることのできない「古典」として勉強はしたけど、結局プログレの方に行ってしまって、彼らとはすれ違ったように思います。
全作品ディスク・レヴューを担当した灰野敬二本『捧げる 灰野敬二の世界』に収録されていた灰野とジム・オルークの対談でレッド・ツェッペリンのことが採りあげられていなかったら、今回のリマスター再発のことも別世界のことのように感じていたかも。そこで灰野は『Ⅰ』の切断と実験に溢れた革新性にこだわり、オルークは『聖なる館』から『ブレゼンス』に向けて高められていくサウンドの構築性について熱く語っています。この二人の交差する視線は、その後、改めてZEPの全作品を聴き返し、参考書目を当たる中で、射程距離の長いパースペクティヴを与えてくれました。
そうしたパースペクティヴの中で、一際大きな屈曲点として浮かび上がってきたのが、ZEPファンにとっては異論の多い問題作『Ⅲ』で、幸運にも(あるいは他に引き受ける書き手がいなかったのか)本作のレヴューを担当できたことは、私にとって望外の喜びでした。それゆえ私の執筆した『Ⅲ』のレヴューは、収録された各曲について語るというより、『Ⅲ』に特徴的に露呈している要素に着目しながら、『Ⅰ』から『プレゼンス』に至る彼らの変遷をとらえる趣向のものとなっています。彼らの音楽/サウンドをかたちづくっている要素/諸力の移り変わりを、それらが刻印された地層が地表近くに露出する『Ⅲ』の地点からボーリングを繰り返し、痕跡を検証し、モデルを構築するというような。
そのカギとなる概念として持ち出したのが、「アコースティック」です。ZEPにおける「アコースティック」とは何かを、そうした「アコースティック」なものが最も露わに姿を現している本作のうちに、本作で言及されているRoy Harper、あるいはDavy Graham, The Petangle, Steeleye Span等を参照項として探ることを通じて、ZEPをかたちづくる隠された底流を明らかにする試み。
なので、『Ⅲ』のレヴューは、本書後半に掲載されている関連作300枚のうちのアコースティック・ミュージック群とリンクさせながらお読みいただければと思います。
ここで少々内幕を明かせば、関連作品のリストアップは当初144枚で、『Friction The Book』、雑誌『ユリシーズ』、『捧げる 灰野敬二の世界』、『文藝別冊 デヴィッド・ボウイの世界』と、このところいっしょにお仕事をさせていただいている編集担当の加藤彰さんから、「ZEPへのジャズからの影響等を考慮して追加すべき作品をリストアップしてほしい」とご要望をいただきました。そこで提出したのが次の21枚のリストです。
Led Zeppelinリストへの追加提案
まずは「ジャズからの影響」との視点で。
John Bonhamが影響を受けたと語っている(指摘されている)ジャズ系ドラマー4名Gene Krupa, Buddy Rich, Joe Morello, Max Roachそれぞれの参加作品。彼がドラムは独学であるにもかかわらず、父親のレコード・コレクション等を通じて、ジャズの先達たちからテクニックを学んでいたのは確かなことです。他にはElvin Jones等からの影響も指摘されていますが、きりがないので。
1 Benny Goodman / Carnegie Hall 1938 (1950)
2 Buddy Rich / Rich in London (1972)
3 Dave Brubeck / Time Out (1959)
4 Max Roach / Drums Unlimited (1966)
続いてはJohn Paul Jonesへの影響が語られているCharles Mingusの作品から。まあ直接的な影響うんぬんは別として、愛聴していたことは確かでしょう、David Bowieの時に挙げた作品とダブらないようにし、またJohn Paul Jonesのオーケストレーション志向を考慮して、比較的大人数のセッション作を選んでみました。
5 Charles Mingus / Mingus at Carnegie Hall (1974)
Jimmy Pageは難しいですが、Django Reinhardtへの賛辞があるのでとりあえずこれを。映画作品のサウンドトラックというところがミソかと。Robert Plantは思いつきませんでした。女性ヴォーカルに感覚的に共通する作品がありそうな気もしますが。
6 Django Reinhardt / Lacombe Lucien (1973)
他に同時代的なジャズの潮流として、やはりエレクトリック期のMiles Davisがあるかなと。James BrownやSlyへの回答という点でも、立ち位置に彼らとの共通性があるように思います。『In A Silent Way』はサウンドがあまりにも違うので外し、それでは『Bitches Brew』かとも思ったのですが、聴いてみると滑らかすぎるところがあって、これはやはり『Get Up With It』の黒々とそそり立つ音響のモノリスに、一発はり倒されてもらうしかないかと。他にRoland Kirk等も考えたのですが、改めて聴いてみるとちょっと違うかと。
7 Miles Davis / Get Up With It (1974)
先ほどElvin Jonesはちょっと‥と書きましたが、というのも、Gene Krupa的なものはElvin Jonesに始まる現代ジャズ・ドラムの主流に継承されていないように思われるからです。むしろ、そうしたものを受け継いだドラマーとして、オランダのフリー・ジャズ奏者Han Benninkを挙げたいところです。
8 The Ex & Guests / Instant (1995)
次はフォーク、トラッド系。Pentangleの第1作が最重要参照項となるであろうことは、以前にメールで書かせていただいた通りです。それに加えてLed ZeppelinファンのBert Jansch偏重を是正する視点から、John Renbournを採りあげたいと思います。「Black Mountain Side」冒頭のハープのような速いアルペジオにさりげなく添えられたタブラは、まさにJohn Renbourn的なものにほかなりません。そうした要素が明らかなソロ作品9と到達点である異国情緒溢れる桃源郷10は常識的な選盤ですが、最近知った11はThe Pentangle前夜の黒人女性歌手との共演で、PageとPlantの絡みを彷彿とさせるところがあります。
9 John Renbourn / The Lady and the Unicorn (1970)
10 John Renbourn Group / A Maid in Bedlam (1977)
11 Doris Henderson with John Renbourn / Watch the Stars (1967)
フォーク系からもう1点Steeleye Spanを。彼らの初期の隙間のない重たい構築は、The Pentangleとは別の意味でとてもLed Zeppelin的であると思います。リストを確認したら、すでに『Ten Man Mop..』が挙げられていましたが、『Please to See..』の方が重くて、Led Zeppelinとの関連で挙げるにはよいような気がします。
12 Steeleye Span / Please to See the King (1971)
プログレ系からも少々。英国系プログレはLed Zeppelinと距離感が近いせいか、挙げたくなるものがないですね。これは逆に英国系プログレから入った私が、Led Zeppelinを素通りした理由かもしれません。なのであくまでLed Zeppelinを照らし出すための補助線ということで。Shadowfaxはアメリカのバンドですが、ここに掲げた作品は彼らの第1作で、その荒々しい稠密さがLed Zeppelin的かと、しかも何と後にこの作品がリミックス及び一部再録音されて、Windam Hillからリリースされるのですが、そちらはハードさが消去されて完璧にニューエイジ風になっているという。もう1枚のKensoは日本のバンドで、リーダーでギター/作曲の清水は大のツェッペリン・ファンです。彼のギターはソロでもニュアンスに頼らない、極めて構築的なもので、そこが(ライヴではなく)レコーディング時のJimmy Page的かなと。
13 Shadowfax / Watercourse Way (1976)
14 Kenso / Sparta (1993)
エキゾティシズムの導入というか、インドやアラブ、あるいはアフリカ音楽の活用という点では、あまりこれはというものが思い当たりません。これはむしろ先のメールに記したように、Led Zeppelinにとって、そうした要素がどれほど必要不可欠なものだったのか、どうもピンと来ないという理由によるところが大きいです。「Kashmir」を聴いてもさほど血が騒がないとゆーか。リストを確認したら、すでにDon Cherry挙がっていましたが、民族音楽全開のこちらの方がと。
15 Ornette Coleman / Dancing in Your Head (1977)
16 Don Cherry / Organic Music Society (1972)
17 Barney Wilen / Moshi (1972)
18 Brigitte Fontaine / Comme A La Radio (1969)
19 The Sun Ra Archestra / Meets Salah Ragab in Egypt (1983)
Led Zeppelinのアコースティックな側面について、ECMから次の作品を。ECM独特のサウンド加工により少々薄まっていますが、重く揺るぎない硬質なサウンドが石積みのように構築されていく様は圧巻。Craig Taborn自身「ツェッペリンは古典」とインタヴューで語っています。
20 Craig Taborn Trio / Chants (2013)
ラストは私らしく(笑)、Derek Baileyで。これピアノレス、ギター入りのクインテットによる演奏で、録音はロンドンのオリンピック・スタジオ。エンジニアは何とEddie Kramerが務めています。
21 Spontaneous Music Ensemble / Karyobin (1968)
結局、追加提案はそのまま採用され、他にも同様の提案があったのでしょう、リストは最終的に当初の倍以上の300枚に膨れあがりました。関連策レヴューでは、追加提案作品を中心に、30作品ほど担当しています(追加提案した中で執筆を担当できなかった作品もあります)。
関連作品レヴューの中には、幾つか「流した」感じの原稿も見受けられ、それがアコースティック系の重要作品だったりすると、「だったら書かせてくれればいいのに」と思ったりしますが、まあそれはそれそういうことで。
執筆者としてはRecord Shop "Reconquista"店主の清水久靖さんがいいですね。お店でも民族音楽系の現地録音等をよく採りあげていますが、黄金期ブリティッシュ・ロックという閉ざされた世界の中に引きこもるのではなく、そうした開かれた景色を日常的にとらえている瞳からの眺めという清々しさを感じます。逆に言うと、1968年、スウィンギング・ロンドン、ポスト・ビートルズ、シド・バレットのピンク・フロイド‥‥という視点/文脈から語られるレッド・ツェッペリンに、あまり可能性を感じないということでもあるのですが。
ともあれ、ぜひ書店で手に取ってみてください。
ユリシーズ編『解読 レッド・ツェッペリン』河出書房新社 2160円(本体2000円)
