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福島恵一

Author:福島恵一
プログレを振り出しにフリー・ミュージック、現代音楽、トラッド、古楽、民族音楽など辺境を探求。「アヴァン・ミュージック・ガイド」、「プログレのパースペクティヴ」、「200CDプログレッシヴ・ロック」、「捧げる-灰野敬二の世界」等に執筆。2010年3~6月に音盤レクチャー「耳の枠はずし」(5回)を開催。2014年11月から津田貴司、歸山幸輔とリスニング・イヴェント『松籟夜話』を開催中。

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ムタツミンダにかかる月 - 『ECM Selected Signs III - VIII』を超えて  The Moon over Mutatsminda - Beyond "ECM Selected Signs III - VIII"
 多田雅範がまたやってくれた。Jazz Tokyo最新号の巻頭に掲載されたCD6枚組ボックスセット『ECM Selected Signs III - VIII』のディスク・レヴューで、作品の紹介に飽き足らず、自らECMの膨大な音源を脳内で超高速スキャンし、何とも趣向を凝らしたアンソロジーを編み上げて、来日間近なECMの総帥マンフレート・アイヒャーに叩き付けるという輝かしい暴挙を。

 選曲にはすべてyoutubeへのリンクが張られており、彼が自ら選び抜いた候補曲をひとつひとつウェブ検索し、音源がアップされていなければ、また次の候補曲の音源を探し求めるという気の遠くなるような作業を、その溢れるばかりの情熱(それは深い愛情であるとともに、きっと煮えくり返る憎悪でもあるのだろう。いずれにしろ彼のECMに対する「業」の深さを思い知らされる)を持って成し遂げたことがわかる。
 まずは実際にリストを眺め、音源を耳にしていただきたい。
http://www.jazztokyo.com/five/five1001.html

 ここにはリストだけを転記しておく。音源はやはり彼のディスク・レヴューを読みながら聴いてもらいたいから。


Alfred Harth: Transformate, Transcend Tones & Images

Paul Giger "Bombay II" foto de Fernando Figueroa Sánchez y Clara Ivanna Figueroa

Ketil Bjornstad The Sea Part II
Ulrich P. Lask - Unknown Realms (Shirli Sees)

Keith Jarrett Staircase Part 3

Hajo Weber & Ulrich Ingenbold - Karussell
Miroslav Vitous Group When Face Gets Pale

Egberto Gismonti Group - 7 Anéis

AMM III - Radio Activity
Ralph Towner - Oceanus
Jansug Kakhidze The Moon over Mtatsminda

*Themes from an Exhibition: ECM's Selected Signs Box



 ECMを聴き込んだ方なら、このリストがECMのパブリック・イメージに沿った凡庸なものではないばかりか、時代を画した数々の革命を刻んだ記念碑でも、あるいは個人的な嗜好や思い出を収納したタイム・カプセルでもないことに気づくだろう。リンク先の音源を順に聴いていけば、先に述べた彼の「業」の深さが身にしみてよくわかるはずだ。

 Maggie Nicolsの乾いた粘膜が震えこすれて血が滲み痛々しく傷ついていくヴォーカリゼーションは、Meredith Monkたちの引き締まった声の身体によるモダンな舞踏や、北欧トラッドの歌姫たちによる凍てつく冬の朝のようにぴんと張り詰め澄み切った朗唱とは、明らかに別世界に生息している。多田はいきなり冒頭から、決して再発されず封印されたままのAlfred Harthによる呪われた名盤を取り出してくる。Maggieは4曲目のLask盤でも前面に押し立てられ、曲のブレヒト/アイスラー的な硬質さを、さらにクリスタル・ガラスを水晶の角で引っ掻くような強度へと高めている。
 Paul Gigerによるヴァイオリンの繰り返しもまた、ここでは乳白色のまどろみをまとうことなく、弦の痛々しい軋みが空間を傷つけ切り裂くに任されている。
 Ketil Bjornstad『The Sea』では、出航に際して旅の行方を厳かに託宣するような「Part 1」ではなく、ゆるやかなうねりに身を任せつつ果てしなく高揚していく「Part 2」が選ばれていることに注目したい。前者のyoutube音源のURLを参考に掲載しておく。
http://www.youtube.com/watch?v=ile35s101NM
 Egberto Gismontiはやはり隠れた名盤『Infancia』から。「Part 2」の高揚を反映しながら、北の海の重くたれ込めた空とは真逆の突き抜けた青さが、何とも言えない幸福さとして心地よく舌の上で弾ける。
 Japoからのリリースということもあって、ECMからの選曲でAMMの名前が挙がることは99%以上の確率であり得ないと言ってよい。にもかかわらず、ここではシンバルの弓弾きが醸し出す倍音の傷跡にギターのエレクトロニックな持続が浸透し、不明瞭な混信をはらんだラジオ放送がそこに投影されるという鋭利なまでに混濁した音響が、涼しい顔で並べられている。
 Ralph Towner「Oceanus」の開く底の見えない深淵は、彼方への通路である黒々とした深海海流を思わせる。この流れへと引き込まれどこまでも果てしなく運ばれていく者は、ぽっかりと暗く口を開けた死のクレパスを覗き込まないわけにはいかない。そうした非日常的な不吉さから、ゆるやかに時が流れ、大地は揺らぐことなく、陽が沈み、月が昇るおだやかな日常性へと、聴き手を送り届け、たどる家路を見守ってくれるのが、本来は指揮者であるJansug Kakhidzeの弱々しい、だが生のよろこびにあふれた声と、それを照らし出す聖なる山ムタツミンダにかかる月にほかならない。ECMに魅せられた耳の「業」の深さを知る多田ならではの日常回帰のための儀式手順である。





批評/レヴューについて | 23:55:44 | トラックバック(0) | コメント(0)
多田雅範の文章世界(補足)  Masanori Tada's Composition World (Supplement)
 前回の論稿「多田雅範の文章世界-疾走する眺めは人生の本質的なランダムネスを思い出させる」に対し、多田雅範が自身のブログで早速レスポンスを返してくれた(*1)。
 *1 http://www.enpitu.ne.jp/usr/bin/day?id=7590&pg=20120930

 「音楽のことなのに日常生活の記述が入り込むスタイル」は、友人とカセット・テープの交換をしていた18歳の頃からのものだという。「キチンと音楽のことを書ききれないので雑談するのだ」と彼は書いている。確かに最初はそうだったのかもしれない。しかし、そうした記述が継続の中で練り上げられるにつれ、それはむしろ音楽を聴くことが日常生活の一部であり、「いま・ここ」を離れた記憶に結びついていることを見出すに至ったのではないか。

 私の場合、音楽/音について書くことは、単に目の前で起こっていることをとらえるだけでなく、それを言葉に置き換えるために、音/響きの綱を伝って、意識の深みへと潜行し、同質の感覚/体験を表す言葉や情景を探り、それをつかんで再び浮上し、それを文章として配置し直すプロセスを必ず含むものである。書くこととはすべてそうなのかもしれないが、身体の奥底深くに積もった記憶の層をくぐり抜けることを必要とする。多田の文章は、その「夢」的な記述を通じて、そうした記憶の層に深く強く結びついていることを明らかにしている。

 前回の論考の中で、自分(=福島)が書いたディスク・レヴューの一節が、多田に引用されることによって変容する旨を記した。それはたとえば言葉を抽象的なイメージの連なりから引き剥がし、具体的な体験の断片へと変えてしまう。「うつらうつらとした夢うつつのうちに気がつくともう遠く通り過ぎている夜汽車の踏み切り」は、列車の座席の固さや窓ガラスの冷たさを思い出させ、「鳴り終わってから気づく階下の大時計の打刻鳴鐘」は古い家屋の軋みや遠い風鳴りを伴い、「とうに灯明を消したはずの仏間から漂ってくる香の匂い」は湿った畳や古い座布団の匂いと混じりあって眼に見えるほどはっきりとした際立つ強い香りとなる。

 そうした感覚を、多田の許しを得てブログ掲載の家族写真を並べることにより、視覚の助けを借りて幾分かでも補足しようとしたのだが、あまりうまく行かなかった。多田は「この夏のお墓参りの集合写真、40年前の親族写真が、他人の読みと手によって、ぼくの目の前に現れるとき、この写真の人たち(この世にいない人も多数)が、ぼく(のテキスト)に会いに来てくれたような」感情を持ったと記しているが、それは私の論稿に対する過大評価で、私は単に、見かけ上は音盤を語る彼の文章の背後に「彼ら」が、「彼ら」と過ごした記憶が、深いドローンのように鳴り響いていることを指摘したに過ぎない。

 前回の論稿では私の力不足で、多田による夢の記述の素晴らしさを充分に描き出すことができなかった。幸いなことに、今回、多田は自身が以前に記した夢の記述の幾つかに、今回掲載の記事(前掲のURL参照)の最後でリンクを張ってくれている。ぜひ、彼によるオリジナルの、とりとめなくかたちを変えながら、足元から崩れ去っていくような記述を実際に読んでみていただきたい。



夢の記述と言えば思い出すのが内田百『冥途』
  


批評/レヴューについて | 18:44:08 | トラックバック(0) | コメント(0)
多田雅範の文章世界-疾走する眺めは人生の本質的なランダムネスを思い出させる  Masanori Tada's Composition World-Views Running in Full Career Remind Me Essntial Randomness of Life
 多田雅範のブログ『Niseko-Rossy Pi-Pikoe Review』にウェブ・マガジン『Jazz Tokyo』掲載予定の「タガララジオ31」の元原稿がアップされている(*1)。執筆している本人は「CDジャケット写真の掲載やレイアウトあっての連載コラム」と謙遜(自嘲?)しているが、むしろレヴュー対象盤のジャケット写真はおろか、アーティスト名も作品名もなく、ましてやレヴューの区切りすらわからないノンストップ・パワープレイのこの掲載方式の方が、彼の言葉の力、文章世界のマジカルな魅力が伝わってくるように思う。
 *1 http://www.enpitu.ne.jp/usr/bin/day?id=7590&pg=20120924

 それは「疾走」の力だ。言葉が走っているのではない。描き出され浮かび上がる眺めが場面が風景が、矢継ぎ早に後ろへと飛び退り、疾走しているのだ。以前にも例えた「笑わない喜劇王」バスター・キートンの疾走のように、彼自身は走り続けながらも画面の中央から動かず、背景だけが物凄い速さで流れ、くるくると入れ替わり、彼は切り立った急な崖を転がり落ち、汽車に追われながら鉄道線路をひた走り、さらには走る列車の屋根の上を爆走し続ける。

 だからまわりの景色は気がつくともう変わっている。筆者の眼差しも、口調も、話題も、それに対する読み手の位置関係も。事実とフィクションの垣根を軽々と跳び越え、美化されているだろう思い出を散りばめ、錯誤を含んだ記憶のかけらを振り落としつつ、風景はあてもなくひた走る。以前に彼の「ノルウェー大使館コンサート事件」を例に挙げて、事件を出来事をドミノ倒しのように起こし続け、地球の自転の速度を遥かに追い越していく彼の爆発的な行動力を伝えたが、今回の速度はさらに言葉/文章の力に拠っている。

 この「いつの間にか変わっている」滑らかな不連続性、切断面を明らかにしない飛躍は、まるで夢の展開を思わせる。気がつくと場面が転換し、物語が変容して、物の形や大きさ、有無さえ移り変わり、忘れかけていた誰かがふと姿を現し、自分だけしか知らないはずの記憶が「みんな」によって繰り返され、「私」はいつの間にかそのひとりとなって私の視界の中に姿を現し、何やら聞き覚えのないセリフを話している。

 実際、多田はよく夢の話を書いている。そこに横たわる夢にしかありえない「リアル」な手触りは、背筋をぞくりとさせ、胸をぎゅっと締め付ける。他人の夢なのに、まさに「夢である」そのことによって私の中に入り込んできてしまう夢の不思議さが、そこには確かに保たれている。

 「ふと気がつくと変わっている」からには、時間の経過が飛躍あるいは圧縮され、そこで起こっている移動や変形、出現や消失の瞬間が欠落しているのではないかと、後から訝しく疑ってみたりもするのだが、そのようには感じられない。夢の世界を支配しているのは夢の論理や夢の感覚なのだから。そうした夢の論理をフロイディズムやバイロジックがどれほど明らかにできているのか私にはわからないが、多田の夢には性的な隠喩/象徴があからさまに欠けているのは確かなように思う。あるいは(無意識的な)事後の検閲によるものかもしれない。たぶんそうなのだろう。だがそれでも、そこには後から順序付けられた夢の「わざとらしさ」が感じられない。話題は、場面は、言葉は、自由気ままに散乱しながら、常に思い出や記憶と強く結びついている(たとえそれが仮に事実とは異なる誤った思い込みである場合でも)。ここで「いつの間にか変わっている」唐突さは、人生そのものの剥き出しの唐突さ、ランダムネスにほかならないと言うかのように。

 といって、それは決して拾い集めただけの記憶のかけらのブリコラージュではない。それは彼による引用の特異さ、再文脈化の力の強さを見ればわかる。今回の文中に「あるいはうつらうつらとした夢うつつのうちに気がつくともう遠く通り過ぎている夜汽車の踏み切りや、鳴り終わってから気づく階下の大時計の打刻鳴鐘、とうに灯明を消したはずの仏間から漂ってくる香の匂いを。古井由吉の作品から聴こえてくる誰のものともつかぬ(死者の)声を思わせる音の手触り」と私(=福島)自身によるJakob Ullmannの作品に対するディスク・レヴューからの一節が引用されているが、もはや書いた本人にすら身に覚えがないような変貌した固有の輪郭、不可思議な独特の響きをたたえている。もともとの書き手が自らの書いた文章の自身への帰属を希薄に感じ、誰か他人の言葉のように思えてしまうのは、それだけ文章が遠く奪い去られ、新たな文脈に深く埋め込まれているからだ。そして多田の場合にはもうひとつ、先に述べた疾走する風景の一片としてたちまちのうちに通り過ぎ、そこへ他の異なる景色がひしめきあうように押し寄せてくるからにほかならない。彼は「これは夜中の天空の集会所で鳴っている音楽だ」と高らかに宣言するや否や、その響きのかそけさが静かな場を要することを指摘し、虫の音の喧騒さに言及し、宮沢賢治や稲垣足穂を召喚し、「タルホロジー」を歌うあがた森魚を連れてきて、彼がプラネタリウムでライヴを行った際の限定CD「雪ヶ谷日記」が聴きたいと言い出す。多田の記憶を介して、回想/想起/連想の一部として再浮上することにより、書き写された言葉はまったく別の輝き/手触りを放っている。

 喪失を笑い飛ばし、出会いに涙しながら、記憶の風景は疾走を続ける。偶然を喜んで受け入れ、錯誤を深く愛しながら。それは以前に述べたように踏み外しの連続でもある。そうした中から、夢を、記憶を、人生を、高らかに肯定する宣言が力強く響いてきて、読み手の背中をドンと叩いて元気づけてくれる。











※写真はすべて多田雅範のブログから転載

批評/レヴューについて | 22:59:49 | トラックバック(0) | コメント(0)
響きに追いつき、音に書き込む  Catching up Sounds, Writing on Notes
 演奏を聴いていて、意識がその場に参加し、次の音が視えることがある。激しいブロウの応酬になって「イケイケ」で盛り上がる時や、場面を転換する決定的なステートメントが発されて、次の情景がありありと眼前に浮かぶというような場面ももちろんあるが、そうではなくて、演奏者間の水面下の探り合いに引き込まれ、こちらの耳も水中に没し、水の動きを全身の皮膚で感じながら次の音が視えてくることがある。もちろんそれは一種のデジャヴュ現象かも知れず、すでに鳴ってしまった音に対して、あたかも自分が事前にそれをありありと思い浮かべていたかのような錯誤に陥っているだけなのかもしれないが。
 それでも前述のように演奏者の交感に耳が引き込まれ、演奏の場の深さ/奥行きに間違いなく耳が届いていると感じられる時がある。事前に何の取り決めもない即興演奏であるにもかかわらず、発せられる音がことごとくそれでしかあり得ない必然と感じられ、痛いほどに身体に突き刺さってくることがある。そうした意識のフォーカスがぴしりと合った瞬間は必ずしも長く続かない。意識と音がずれ始めるというより、先ほどまでの痛いような音の手応えが身体の奥に残っていることで、その瞬間の終わりにぼんやりと気づくことになる(そこまでは深く突き刺さらない音の手ごたえの薄さに)。あるいは周期的に焦点が合ったり外れたり、あるいは専ら一人の奏者にのみ意識が同期して、その肩越しに覗いたカメラ・アイのようないささか偏った音場が広がることもある。


 Msabumi Kikuchi Trio『Sunrise』(ECM)のディスク・レヴューで次のように書いた(*)。
*http://miminowakuhazushi.dtiblog.com/blog-entry-171.html


 しんと張り詰めた闇から、その闇をいささかも揺らすことなく、月光に照らし出された冷ややかな打鍵がふと浮かび上がり(吐息が白く映るように)、響きが尾を引いて、束の間、闇の底を白く照らし出す。重ねられた音は「和音」と呼ぶべき磐石さを持たず、宙に浮かび、そのまま着地することなく消えていく。それとすれ違いにブラシの一打が姿を現す。音は互いに触れ合うことなく、一瞥すら交わさずに、黙ったまま行き違う。
 ピアノ自体も同様に、次に現れた打鍵は先に放たれた打鍵と音もなくすれ違う。両者の間を線で結ぶことはできない。間を置いて打ち鳴らされる音はフレーズを編み上げない。そこに受け渡されるものはなく、ただ、余韻だけを残して現れては消えていく音。その只中に突き立てられたベースの一撃が、それらがやがて星座を描くかもしれないとの直感を呼び覚ます。
 ジャン=リュック・ゴダール『気狂いピエロ』冒頭のタイトル・クレジットは、クレジットの各単語がそれを構成するアルファベットの単位に分解され、A・B・C‥‥と順に映し出されていく。だが、そうした「コロンブスの卵」的な単純な仕掛けに気づいたのは、始まってしばらくしてからで、最初のうちはそれがクレジットであることにすら気がつかず、モールス信号を思わせる離散的な配置で、赤い布石や青の石組みが、間を置いてすっと画面に現れていくのを、はらはらしながら、ただ黙って見詰めていることしかできなかった。原色によるフォントのオフビートな明滅に、観ている自分が次第に照らし出されていく感覚がそこにはあった。『Sunrise』冒頭曲の始まりの部分は、その時の張り詰めた気分を思い出させる。

 出来上がりの絵柄に向けて(彼らは寸分違わず同じ「景色」を見ている)、各演奏者が一筆ずつ、セザンヌにも似た矩形の筆触を並べていく。その順序は決してものの輪郭に沿っているわけではなく、連ねられて線を描くわけでもなく、まさにゴダール『気狂いピエロ』冒頭の、あの明滅の感覚で筆は置かれていく。もちろん音は虚空に吸い込まれ、スクリーンに映し出されるフォントのように積み重なることがない。しかし、それでも消えていく余韻を追い、それとすれ違いに現れる次の音の響きを心にとどめることを繰り返せば(通常これはゆったりと引き伸ばされた旋律を追う時のやり方だが)、ピアノの打鍵、ドラムの一打、ベースの一撃が互いに離散的な網の目をかたちづくりながら、それをレイヤーとして重ね合わせている様が見えてくる。
 「網の目」と言い、「レイヤー」と言い、いかにも緊密な組織がそこにあるように感じられてしまうとしたら、それは違う。繰り替えすが、音はフレーズを紡ぐことがない。別の言い方をすれば、閉じたブロックを形成しない。ピアノの、ドラムの、ベースの、それぞれ先に放たれた音とこれから放たれる音の間は、常に外に向けて風通しよく開かれていて、幾らでも他の音が入り込めるし、実際入り込んでくる。しかし、そこでは線が交錯することはない。もともと彼らは線など描かないからだ。


 この作品の冒頭部分の冷ややかに静謐で、空気をかき乱すことのないほどに緩やかでありながら、同時に揺るぎなく緻密に描き出された風景の提示と、その細部を巡る簡潔にして緊密な探り合いに思わず耳が引き込まれ、透き通った水に身を沈め、全身で響きを感じ取っている様、身体の表面/内部で交錯する様々な感覚の束を、拙いながらも何とか書き記そうとした部分だ。
 これに対し、原田正夫氏から次のようなコメントをいただいた。


 「そこでは線が交錯することはない。もともと彼らは線など描かないからだ。」という『サンライズ』に関するブログの一節にはどきりとします。『サンライズ』に最初に接した時はこのまさにピアノが「線を描かない」ことに戸惑いを覚えたのだと思います、自分。ベーシストのベースにも同様の戸惑いを覚えましたが、ベース音が前面に出ているので、ピアノ・トリオ盤の録音によくあるウッド・ベースの音の気持ちよさに助けられるところがあって、まだピアノほどの戸惑いは無かったかもしれません。
 「それでも消えていく余韻を追い、それとすれ違いに現れる次の音の響きを心にとどめることを繰り返せば(通常これはゆったりと引き伸ばされた旋律を追う時の やり方だが)、ピアノの打鍵、ドラムの一打、ベースの一撃が互いに離散的な網の目をかたちづくりながら、それをレイヤーとして重ね合わせている様が見えて くる。」
 このくだりはまさに、『サンライズ』の冒頭を集中して聴いている時の自分の心の動きを言い当てられたかのような気になります。
実際、自分も聴いていて、はっきりとした形に像を結ばないけれど、演奏にある眼差しが感じられて、その視線の先に自分が導かれていく感覚に陥ります。

 もうひとつ須川さんの文章(註:Jazz Tokyo掲載の菊地雅章TPTトリオのライヴのクロス・レヴュー※)で面白かったのが以下の部分。
 「あるいは、たった今放たれた音を同様に聴く。これが高次元で連続的に展開されてできあがってゆく音楽のうねりは、一つの現在進行形で制作されては消えてゆく芸術作品だけに、一聴するとかなり難しく聴こえるかもしれない。しかし、それと対面してジッと絵画を見つめるように集中して聴いていると、魂が揺さぶられる瞬間が訪れてその背後に音楽が成してゆく自然なフォースが見えてくる。こうなると、聴き手にもプレイヤーと似たような楽しみを与えてくれる。と私は思っているが、(後略)」
 わたしは『サンライズ』の一曲目を集中して聴いた時にそんな感覚に襲われました。福島さんが書かれていた「出来上がりの絵柄に向けて(彼らは寸分違わず同じ「景色」を見ている)、各演奏者が一筆ずつ、セザンヌにも似た矩形の筆触を並べていく」感覚で、自分も演奏の中に入って一音置いてみるような感覚です。こういう感覚、ライヴでは、ごくまれに訪れることがあります。聴いている音 (演奏) が自分の中で自由に動きだすような感覚、そしてその音の生成に自分も参加しているような感覚です。

※http://www.jazztokyo.com/live_report/report450.html
 なお多田雅範による次のレヴューも参照のこと。
 http://www.jazztokyo.com/live_report/report448.html


 1枚のディスクには様々な瞬間が詰まっている。『Sunrise』のレヴューでは特に冒頭2曲にスポットを当てたから対象は限られている。それでも、この描写が全編を通じた一般的な(言わば平均的にならした)ものではなく、冒頭部分の引き込まれ沈み込んでいく感じ、聴き手に音を置くことを求める感覚を指し示したものであることを直ちに看て取られたのには正直言って驚いた。もちろん文中に様々なヒントは散りばめられてはいるが、原田氏の「読み」は「これしかない」という力強い直感に支えられているように思う。あたかも二人が同じ眺めを共有しているかのように。
 このディスク・レヴューでは演奏者たちが寸分違わぬ同じ風景を見詰めていることが、この簡潔にして緊密極まりない演奏を成り立たせていると論じているが、それは聴き手にも感染してくるもののようだ。もちろん「寸分違わぬ」と言いながら、それはスクリーンに投影されるように現れるわけでは必ずしもなく、むしろ演奏者の「あいだ」に空気の流れや澱み、肌触り、温度感、色合い、匂いのように存在するものかもしれないし、聴き手が見ている風景と演奏者が感じ取っている風景はずいぶん異なっているかもしれない。しかし、にもかかわらず、そうした同期が生じることによって、危うく切り立った音楽のあり方が、そして演奏と聴取が、かろうじて可能となるのだ。


Masabumi Kikuchi Trio『Sunrise』


文中に登場するゴダール『気狂いピエロ』のオープニング・クレジット

  
原田正夫、多田雅範は菊地雅章TPTトリオの来日公演を聴いてコメントしてくれている。

   
ポール・セザンヌによる筆触の例。彼はこの色彩の小区画について、面(プラン)という語をよく用いた。


批評/レヴューについて | 10:33:48 | トラックバック(0) | コメント(0)
不意討ちされて立ちすくむ  Standing Paralized by Unexpected Attack
【前口上】
 菊地雅章トリオ『サンライズ』には耳をそばだてさせられたが、それでもレヴューに記したように全編に渡ってではなかったし、いかんせん「ブルー・ノート東京」はジャズ・ファンでない者にとっては敷居が高すぎて(値段も)、菊地雅章TPTトリオの来日ライヴの情報を知ってはいたものの、会場に足を運ぶことはなかった(ピアノとギターの共演の難しさに関する先入観も影響したかもしれない)。
 その後、多田雅範や原田正夫がライヴの印象を書き留めているのを読んで、とびきりの演奏が繰り広げられたらしいことを知った。しかし両者とも「絶賛の嵐」というのとは違う。何か途轍もなく凄いもの、素晴らしいものが眼前を通り過ぎたことははっきりと知覚できているのに、どうしてもそれを言葉にできない‥‥と、そんな風なのだ。
 それはきっと思いもかけなかった響きに耳を不意討ちされ、立ちすくんだからにほかなるまい。今回はそのことについて考えを巡らしてみたい。


1.不意討ちされて立ちすくむ

 多田は菊地雅章TPTトリオの演奏の印象を「居合い抜きの連続、持続、能の集中した状態の微動する光速。破綻や緩みなど無く。言葉はもどかしいものだ。宇宙の一瞬に漂う、消失しそうな自我。忘我。」と書き散らしながら、その演奏の聴取/体験が極度の集中を要するものであることを強調している。2ステージを聴き通す演奏ではないと。そして評文の最後を次のように締めくくっている(*1)。
 「他の週のプログラム予告が流れる休憩時間。シュールに身体が冷えて硬くなってゆくのがわかる。だめだ、セカンドステージまで持たない。 」
 もともとステージごと入替制であり、そのため彼が聴いたのはそのうちファースト・ステージだったのだが、それだけのことならこうは書くまい。といって、このほとんど投げやりとも言える幕切れは、文章表現上の演出でもないだろう。聴いていて、身体が飽和してくる感覚というのはあるからだ。それは情報量が過多であるのとは違う。多田の言う通りむしろ集中の問題であり、同時に受容の問題である。音に不意討ちされることなく、耳にした音が次から次へと滞りなくそれなりの景色/構図に収まって、違和感なく消化されていくならば、たとえ飽きることはあっても飽和することはない。飽和を、そして持続し難い緊張をもたらすのは、不意討ちによる生(なま)な世界の露呈の連続である。それはまさに聴き手の生(せい)に揺さぶりをかけてくる。
*1 http://www.enpitu.ne.jp/usr/bin/day?id=7590&pg=20120624

 まだ耳にしたことのない響きに、音の光景に、したたかに耳を不意討ちされ、たじろぎ、打ちのめされ、未曾有の事態にただ呆然と立ちすくむ。その一方で思考は懸命に言葉を、表現を手探りしている。眼前で起こっていることを何とか名指すために。ここで名指すとは切り分けることであり、輪郭/境界を見定めることであり、空間的/時間的順序を整理することにほかならない。それは生きていくための自己防衛(生な世界の耐え難い露呈を言葉によって和らげる)であると同時に、せわしないパニック反応でもあるだろう。
 ただ、そうした反応は単に一時の、事態をやり過ごすためだけのものでは終わらない。この未曾有の事態に強く惹きつけられ、むしろその深奥へと道なき道をかき分け、そこにぱっくりと口を開けた亀裂へと測鉛を垂らし、深みへと降りていくための目印、手がかり、足がかりとして、何とか言葉やイメージを手繰り寄せるということがある。それは決して流暢な文章や鮮明な映像などではあり得ない。切れ切れのなけなしの言葉。ふと耳元で響いた(ような気がした)誰かのつぶやき。音のない不鮮明なモノクロ映像の緩慢な明滅あるいは動いているかいないかのスローモーション(いずれにしてもごく短い断片)。脈絡なく思い浮かんだ小説や映画の題名。夢で見たのかもしれない茫漠とした風景。

 都合よく言葉に置き換え忘れ去ってしまうのでなければ(だから言葉に詰まり絶句することは、実に正確にして正当な事態への、そして世界への対応なのだ)、未曾有の事態は言葉にならない耳の光景として脳裏に、というより身体に刻まれ残っている。それが先に述べた当てのない手探りの果てに、何かの体験や言葉、イメージが引鉄となって、一瞬のうちに思考の霧を晴らし、事態に明確なかたちを与えることがある。ユリイカ!!
 あるいは一瞬のうちに開くことはなくとも、ことあるごとに思い出され(その度に細部の鮮明さを高めていくことも、まったく違ったかたちをしていることもある)、世界の豊かさを増していくこともある。
 こうした不意討ちの豊かさに対し、その場で語り得る言葉の範囲内に体験を縮小(シュリンク)させてしまうことの何と貧しいことか。言葉によって余すことなく仕分けられ、仕立てられた光景(デジタルな再構成?)へと体験を洗浄してしまわないこと。そんなことをすれば、後に残るのはチキン・ナゲットみたいに無味乾燥でバサバサな言葉の集積でしかない。

  
写真は多田雅範のブログから
緊張のあまり遠のいていく意識のように遠ざかる風景



2.「フリー」、「インプロヴィゼーション」、「即興」というマジック・ワード

 本来なら耳の不意討ちによって立ちすくむべき事態を凡庸に回避してしまうためのマジック・ワードとして用いられがちなのが「フリー」、「インプロヴィゼーション」、「即興(演奏)」等の語である。これらの語が何ら具体的な内実を伴わずに、言わば自分には縁のない「川向こう」を指し示すために用いられる時、耳の届かなさ、事態の不明さは語と共に運び去られ、便利に片付けられてしまう。
 これらの語は、未だに歴史の埒外に放っておかれたままの「番外地」としての影を引きずっている。それゆえに語の対照区画が厳密に測量されることなどなく、都合の良い「概念の違法投棄場」とされてしまっているのだ。
 逆に言えば、これらの語をご都合主義的にマジック・ワードとして用いる者たちは、これらの語により割り切れない過剰を外部へと一掃し(払われた厄は後ほど別の神殿に祀られることとなるのだが)、その結果として安全に掃き清められた内部は、これまでの歴史や言葉で一切が了解可能であり、割り切れ、語り尽くせると信じている。そんな馬鹿なことはない。実際にはそれらの過剰は、まさに演奏の、音楽の、音の核心部分に棲みついているのだ(これは別にこれらの語と関連性の深い「ジャズ」だけの話ではない)。先のマジック・ワードを弄する者たちの所業は必然的に足元から崩れ去るしかあるまい。

 別にこれは「フリー・インプロヴィゼーション」と呼ばれる演奏/音楽(たとえばデレク・ベイリー)を聴き知っていることの優位を主張するものではない。そんなことは優位でも何でもない。耳を不意討ちされた際に言葉に詰まり絶句することなく、内実の空疎なマジック・ワード(先の3つだけでなく、「前衛」とか「実験」とか)を安易に用いて何食わぬ顔でその場を切り抜け、事態をやり過ごし忘れ去ろうとするのであれば同じことだ。
 耳の感度(演奏の強度に対する)とは、耳が直面した事態をどれだけ効率よく流暢に言語化できるかではなく、どれだけ不意討ちされ、打ちのめされ、立ちすくむかによって決まる(このことは自戒を込めて書き付けておこう)。

 灰野敬二はオーレン・アンバーチ、スティーヴン・オマリーとの最近の共演(ideologic organからリリースされたばかり)において、トリオの命名を求められて『なぞらない』と名づけている。灰野自身は「〈即興〉じゃないってことだ」と説明しているが、これには補足が必要だろう。ここで「〈即興〉じゃない」とは、もちろんあらかじめ作曲されたとか、記譜されていることを意味しない。その一方で灰野は通常「即興」と呼ばれる演奏が、単に「あらかじめ作曲された(記譜された)もの」の裏返しに過ぎず、準備されていない、行き当たりばったりのものを容認することでしかない安易さを手厳しく批判している(「棺の蓋が覆われて初めて『奴はインプロヴァイザーだった』と言われるかどうかというくらい厳しいものだ」と彼は語っていた)。とすれば、「なぞらない」という語が、いかにも灰野流の絶妙な仕方で、即興演奏の在るべき姿を指し示していることがわかるだろう。彼もまた「即興」をマジック・ワードとしてしまうような仕方と闘っているのだ。


 『なぞらない Nazoranai』


 菊地雅章TPTトリオのライヴに関する原田正夫の文章(*2)では、トマス・モーガンの左手の指使いを巡っていささか唐突に平野威馬雄の自伝的エッセー『癊者の告白』(*3)の名が登場する。そこで原田は多くを語らないのだが、「混血児」という出自に悩み、ドラッグに溺れながら、語学の才を通じて同時に文学に打ち込み耽溺していくことで、人生を貫き通していったこの特異な文学者(その無頼さゆえに「ぶんがくしゃ」ではなく、「ぶんがくもの」と読みたいところだ)が、指先のフェティシズムにもまた浸っていたことを知れば、そこに多くのことが仮託されているのに気づくだろう。ネック上を滑らかに舞う指先の優雅で正確な動きにとどまらず、ここぞというツボを精密に探り当てる鋭敏さ、そして触れることと触れられることが相互に嵌入し甘美に溶け合う匂い立つエロティシズム‥‥。
 ここで思考は結論を急いでいない。当てのない連想を手繰り寄せ、また荷解きしながら、先に見たライヴの光景を見詰め続け、何度となく緩やかに反芻している。思わず顎が動き、じわりと唾が湧く。通り過ぎた美味の後姿を追うというより、後ろ髪を手放さぬまま、まだ飲み込んでしまうのが惜しいというように。
*2 http://timbre-and-tache.blogspot.jp/#!/2012/07/blog-post.html
*3 『癊者の告白』 話の特集社
   『陰者の告白』 ちくま文庫


写真は話の特集社版
カヴァーを取ると真っ黒な表紙に
小口3面も黒という凝った装丁



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