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福島恵一

Author:福島恵一
プログレを振り出しにフリー・ミュージック、現代音楽、トラッド、古楽、民族音楽など辺境を探求。「アヴァン・ミュージック・ガイド」、「プログレのパースペクティヴ」、「200CDプログレッシヴ・ロック」、「捧げる-灰野敬二の世界」等に執筆。2010年3~6月に音盤レクチャー「耳の枠はずし」(5回)を開催。2014年11月から津田貴司、歸山幸輔とリスニング・イヴェント『松籟夜話』を開催中。

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「公園喫茶」を知っていますか  Do You Know "Park Cafe" ?
 「公園喫茶」という音楽サイト(※)をご存知だろうか。このブログの左側に掲げたリンク蘭にも掲載しているので、ぜひ訪れてみてほしい。そのリンク表示でも「公園喫茶(pastel records)」と表記しているように、pastel records店主の寺田兼之が始めた音楽紹介ページなのだが、彼自身は「公園喫茶」を始めたいきさつを次のように説明している。
※http://www.pastelrecords.com/koencafe/

はじめまして、
この「公園喫茶」WEBを運営している、寺田と申します。
2013年まで、pastel recordsというCD/レコードショップを運営しておりました。
現在は、販売活動をひとまずお休みして、この「公園喫茶」を中心に、自分自身の気になる「音楽」、「人」、「もの」、「こと」を、気ままに発信したいと思ってます。
ここで取り上げることにつきましては、私自身の価値観が基準となっています。
それは、pastel recordsと同じ価値観でもある、美しく、個性的で、心がこもっていて、気取っていない、日々の生活の中でも、やわらかな刺激を与えてくれる心地よい音楽を紹介する…というのがベースとなっています。基本、音楽が中心となっていきますが、音楽のみに特化したいとも思っておりません。
レコードショップを運営していていつも違和感を感じていたことは、
音楽というのは、なんて中途半端な立ち位置になったんだろう?ということです。
あくまで自分の思っていることなんで、反論は遠慮してほしいのですが、
なんだか境界線がやたら多いのです。
もっといろんな人に自分の知っている音楽や周りの人を知ってほしい。
損得勘定なく紹介するには、pastel recordsでは商売過ぎる。
まず買ってもらうことよりも、知ってもらうことが先じゃないかな…と。
身内ノリも入ってくるかもしれませんが、きっと皆さんが知らなくても、ちょっと興味をもってやろうじゃない、と思っていただけるような紹介を心掛けてまいります。

 穏やかな口調、柔らかな声音からの、「商売抜きで、自分の気に入ったものしか取り扱わないぞ」という彼の強い決意が聞こえてくる。いや「○○ないぞ」といった頑な否定形の言明は彼にはおよそふさわしくない。正しくは「自分が気に入ったものは、何が何でも採りあげるぞ」だ。
 実際、彼は単にネット上のリリース情報を転載したり、プレス・シートを丸写ししたり、Facebookで「いいね」がたくさん付いたコメントを引用したりすることはない。ブログにありがちな個人的な感想/印象の書きなぐりもしない。そうしたやっつけ仕事の代わりに、彼は注意深く音に耳を傾け、歌詞を読み込み、様々な想いや考えを巡らして、的確なレヴューをしたためたり、あるいは労を惜しまずミュージシャンにアクセスし、よく練られたインタヴューを試みる。
 インタヴューと言っても、よく音楽雑誌に載っている、新作の意図とツアー予定を尋ねて終わりみたいな、TVドラマの番宣みたいなものではない。彼のインタヴューは常に音楽への驚きと畏れと愛情に満ちている。そしてアーティストへの暖かい理解にも。だから問いを投げかけられたアーティストたちは、決まって実に楽しそうに、また興味深そうに答えている。聴き手の視線が外側からとらえた像が投げかけられることにより、また思考の新たな扉が開かれるのだろう。そこでアーティストたちは「自らが創造主であり、自分たちだけが正解を知っている」わけではないことに、自然と気づかされている。自らの作品/演奏が投げかけた波紋が、また戻ってきて、自身の身体を柔らかく揺り動かすことを楽しんでいる。それは寺田の問いかけが、作品への深い理解と愛情に支えられ、しかも正解主義や権威主義に縛られることなく軽やかに想像の翼をはためかせているからだ。

 たとえば現在のところ最新記事であるFederico Durandへのインタヴューでは、彼の幼時からの音楽体験の記憶を引き出して、現在の彼が演奏制作している音楽が、そこから香るように柔らかくたちのぼってくる印象を与える。こうしたやりとりを可能とした理由のひとつは、寺田の「あなたの最初のフェイバリットな音楽体験は何でしたか?」という質問の仕方にあるだろう。受けてきた音楽教育の履歴とか、活動経歴ではなく、影響を受けたミュージシャンや音楽遍歴でもなく、あるいは「音楽との初めての出会い」といった抽象的な訊き方でもなく。経歴やルーツ、あるいは始まりを尋ねることはひとを身構えさせる。それゆえひとはこれに決まりきった紋切り型か、さもなくば伝説化によって答える。「フェイバリットな体験」の問いかけがひとを武装解除し、想起の流れにゆったりと身を浸し、楽しかった「あの日・あの頃」の思い出に向けて、ゆるやかに遡ることを可能にする。
 さらに固有名詞の注(具体的にはミュージシャンの紹介)を文章で付すだけでなく、参考となる音源を探してリンクを張ってくれているのもありがたい。実に誠実でていねいな編集だ。
 もうひとつ付け加えれば、Durandの友人であるTomoyoshi Dateから聞いたとして、Durandのフェイバリット・ミュージシャンだというPopol Vuhのことを訊いてくれているのも個人的にはうれしい。DurandとPopol Vuhの両方を知っている人がどのくらいいるかわからないけれど、確かに『In Den Garten Pharaos』とか近いかもね‥と思うとそうではなくて、Werner Herzog監督作品のサウンドトラックが好きだというのだ。例として挙げられているのが『Herz Aus Glas』だからわからなくはないけれど、Herzogの熱に浮かされたような幻惑的なアクの強い映像を間に挿むと、Durandのゆったりと牧歌的でそよ風に揺れるようなサウンドの手触りとはなかなか結びつかない。

 一方、鳥取ボルゾイ・レコードにも平置きされていた『かけがえのない』を題材とした西森千明へのインタヴューで寺田は、「『かけがえのない』での西森さんの歌唱とピアノには、懐かしさと同時に、音楽の持つ優しさ、喜びが、聴く者の気持ちを前に向かせてくれる。懐かしさというものは、小さい頃から青年期の感受性を通して染み込んだ風景、そして自分自身を取り巻く環境の変化の中で過ぎ去った年月は二度と戻らないという諦念みたいなものが底辺に流れているような気がするのですが、『かけがえのない』はそんな在りし日を偲ぶようなノスタルジーな作品でもない。なぜなら、この作品には、希望を抱き、勇気を持って前へと進んだ、その先の風景が描かれているから。」という強い感慨を胸に抱いて、「“青葉”という明治時代の文部省唱歌を取り上げてらっしゃって、西森さんのうたう、曲の魅力に、無限定な永遠を心で見た気がします。この曲は『かけがえのない』を生み出すきっかけとなっているでしょうか?」といきなり核心に踏み込み、彼女から「はい。とても大事な歌です。」との答を引き出している。これも決して問いつめるわけではないのに作品の本質にひたひたと迫り、音の姿かたち、佇まいを自然と浮かび上がらせる素晴らしいインタヴューだ。

 もうひとつ、Aspidistraflyのインタヴューに触れておきたい。実はこのインタヴューは「公園喫茶」がかげもかたちもなかった2011年の冬に行われ、以前にpastel recordsのページに掲載されている。最近になってAspidistraflyの作品が再発されたことに合わせて、「公園喫茶」に改めて再録されたものなのだが、読んでみれば、「公園喫茶」の他の記事と何の違和感もなく読めることに気づくだろう(ここでも参考音源あるいは映像へのリンクがうれしい。特に冒頭で掲げられている古い映画のサウンドトラックへの参照はありがたい)。逆に言えば寺田は、「公園喫茶」の視点をpastel records当時から変わることなく持ち続けていることになる。
公園喫茶2_convert_20140928164241


 先の引用で述べられていたように、pastel recordsは2013年末に「閉店」の憂き目を見た。寺田はそこで音楽に関わることを止めてしまうかもしれなかった。そのことを知った時は大層ショックを受け、ブログに次のように書いた。2013年10月末のことだ。

 たびたびお世話になっていた奈良の通販CDショップpastel records(*)から、年内に閉店とのお知らせが届いた。これまで導いてくれた貴重な耳の道しるべが、またひとつなくなってしまうことになった。
*http://www.pastelrecords.com
 以前にpastel records紹介の記事(※)を書いたことがあるが、ただただ新譜を大量に仕入れて‥でもなく、「売り」のジャンルに照準を絞り込むのでもなく、ポップ・ミュージックの大海原に漕ぎ出して、その卓越した耳の力を頼りに、新譜・旧譜問わずこれはという獲物を採ってきてくれる点で、何よりも「聴き手」の存在を感じさせるお店だった。
 一応、取り扱いジャンルはエレクトロニカ、フォーク、ネオ・クラシカルあたりが中心ということになっていて、店名とあわせてほんわりと耳に優しく暖かな、それこそ「パステル」調のイメージが思い浮かぶが、決してそれだけにとどまらず、さらに広い範囲を深くまで見通していた。それは私が当店を通じて知ったアーティストの名前を挙げていけば明らかだろう。中には他所では名前を見かけなかったものもある。Richard Skelton / A Broken Consort, Tomoko Sauvage, Annelies Monsere, Federico Durand, Aspidistrafly, Julianna Barwick, Kath Bloom & Loren Conners, Mark Fly(活動再開後の), Squares on Both Sides, Movietone, Balmorhea, Efterklang, Masayoshi Fujita / El Fog, Talons', Tia Blake, Susanna, Lisa O Piu, Cuushe, Satomimagae ....すぐには思い出せないだけで、まだまだたくさんあるだろう。
※http://miminowakuhazushi.dtiblog.com/blog-entry-13.html
 http://miminowakuhazushi.blog.fc2.com/blog-entry-12.html
 すべての作品に試聴ファイルが設けられており、実際に聴いて選ぶことができるのも大きかったが、各作品に丁寧に付されたコメントが素晴らしく的確で、pastel recordsを支える確かな耳の存在が感じられた。音楽誌に掲載されるディスク・レヴューが加速度的に「リリース情報として公開されるプレス・シートの丸写し」となっていくのに対し、pastel recordsのこうした揺るぎない姿勢は、単にショップとしての「誠実さ」の範囲を超えて、聴き手としての誇りをたたえていた。「自分が聴きたいと思う作品を提供する」とはよく言われることだが、それを実際に貫くのは極めて難しい。
 大型店舗と異なり、仕入れられる作品数も限られていただろうに、Loren Mazzacane Conners(実は彼の作品を探していて、ここにたどり着いたのだった)やMorton Feldmanを並べていたことも評価したい。それは単に「マニアックな品揃え」を目指したものではない。店主である寺田は「サイケデリック」とか「インプロヴィゼーション」とか「現代音楽」とか、ポップ・ミュージックの聴き手にとっていかにも敷居が高そうなジャンルの壁を超えて、pastel recordsが店頭に並べるエレクトロニカやフォーク作品(先に掲げたリストを参照)と共通する、密やかな「ざわめき」や「さざめき」、あるいはふうわりと漂い香るようにたちこめる希薄さをそこに聴き取っていたのではないか。聴いてみなければわからない、響きの手触りの類似性を手がかりとした横断的な道筋。(後略)

 その時、最後に記した「少し休養したら、また好きな音楽、おすすめの音楽について、ぜひ語ってください。待ってます。」との願い/祈りが天に通じたのか(笑)、彼は翌2014年2月から、前述の「公園喫茶」を開設してくれた。そこには先に掲げたような彼の強い決意が刻まれており、その後、今に至るまで順調な活動が続いていることを喜びたい。むしろ「2014年2月開設」と確認して、「えー、今年に入ってからだっけ」と改めて驚かされた次第。何だかずーっと前からあるような気がするのだ。
公園喫茶1_convert_20140928164212


 それにしても「公園喫茶」とはよくも名付けたりと思う。月光茶房店主原田正夫によれば、「カフェ」が外に開いているのに対し、「喫茶店」は内に閉じている。外界といったん遮断することにより、閉じた親密な空間をつくりだし、それが居心地の良さや自由な夢想を生み出す。対して公園とはまさに開かれた、誰でもがそこを訪れ得る、言わば往来の空間であり、鳥の声や樹々のざわめき、水音、あるいは子どもの遊ぶ声に洗われる場所である。と同時に大通りや商店街とは異なって、都市の中にありながら喧噪を離れた緑深き憩いの場でもある。すなわち、「公園」と「喫茶」は居心地の良い憩いの場であることを共通項としながら、「外に開かれてあること」と「内に閉じること」を架橋している。このバランス感覚こそが寺田の真骨頂なのだ。耳を貪欲に外に向けて開きながら、情報の洪水に押し流されてしまうことなく、聴くことを深く自らの内面に問う力強さを持っている。聴き手としての確かなコアが感じられるのだ。そうした聴き手は「音楽評論家」と呼ばれる人たちにも実は少ないように思う。
 旧pastel recordsを引き継いだヴィジュアルの素晴らしさも、「公園喫茶」の特質である。それは単に趣味の良さというだけでなく、「音楽は耳だけで聴くものではない」という寺田の信念に基づいているように思われる。それは常に五感と戯れるものであり、たとえば視覚は音の相同物を求めてさまよい、イメージをあれこれ探し求めてやまない。旧pastel recordsの頃からヴィジュアルに気を配り、ジャケット写真とアーティスト写真(ギョーカイ用語で言うところの「ジャケ写」と「アー写」)で事足れりとしない姿勢は一貫している。ちなみに今回の掲載写真は、すべて「公園喫茶」のページから転載させていただいた。

 音楽に、あるいは批評に、興味関心があるならば、ぜひ一度、「公園喫茶」を訪れてみてほしい。軽やかな鋭敏さと肚の座った揺るぎなさを兼ね備えた確かな耳の持ち主が、商売っ気抜きでいいものを教えてくれるまたとない場。たとえ関心のあるジャンルが違っても、きっと得るところがあるはずだ。それは保証する。
公園喫茶3_convert_20140928164306


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批評/レヴューについて | 16:48:42 | トラックバック(0) | コメント(0)
フリー・インプロヴィゼーションとフィールドレコーディング、アルヴィン・ルシエと小津安二郎  Free Improvisaion and Fieldrecording, Alvin Lucier and Yasujirou Ozu
 多田雅範が自身のブログで書いている(※)。
 ※http://www.enpitu.ne.jp/usr/bin/day?id=7590&pg=20140515

track 373 Alvin Lucier / (Amsterdam) Memory Space (Unsounds) 2013
 

この盤を耳にし始めてから、とろけている。漢字に変換すると、蕩けている。かつてこれほど気持ちいい音楽を聴いたことがあっただろうか。

もちろん。予断なく聴いている。風景を眺めるように、耳をすます。

さあ、何が始まるんだろうかと。

右手にカーブを曲がってみるように、応接間で初対面のひととお会いするように、能の舞台に舞いが進み来るように、風は吹いて花びらが落ちるように、親しいひとと目配せで何かが伝わるように、恋人同士の指と指の触れかたのように。

音の感触は、表情や匂いや体温を察知するように受信することで、到来している。

ギターであるとか、楽器であるとか、フィーレコであるとか、ラップトップであるとか、まあ、その音の正体は正しいかどうかは置いといて、このサウンドの生成の風景。

ぶつかりあったり、ハモったり、と、個々の音は風景に歩み出ているようだ。それが先ず、気持ちいい。何かひとの意図を超えているようにも感じられる。聴くワタシがワタシでなければならないという強迫からも離れられる、このクールさ。それは楽器の音も、エレクトロニクスも、フィーレコも、等価に聴こえるようだ。おれには未だ到来せぬ仏教の音楽にも聴こえるものだ。

 相変わらず多田の耳は前置き無しにいきなり核心をとらえ、それをさりげない言葉で単刀直入に語ってしまう。「統一されたこの場を共有することが第一義ではない、と、個々の音は風景に歩み出ているようだ」、「何かひとの意図を超えているようにも感じられる」と。演奏はアコースティックの楽器音、エレクトロニクス、フィールドレコーディング音源を含み、それらが遠く近く、時に層と成し重ね合わされながら進められる。しかし、それらはアンサンブルを完結させない。むしろ風に吹き寄せられた音の欠片がつくりあげる束の間の光景との印象。つけっぱなしで見てもいないTVから伴奏音楽が流れ、それに混じり合わないギターの調べは隣家の開け放たれた窓から聴こえてくることに気づく。家の前の道路で子どもたちが遊んでいるようで、時折歓声が上がり、それをたしなめる母親の声がかぶさる。風向きが変わったのかブラスバンドの響きが揺らぎながら届けられ、川沿いの道を走るバイクの排気音や急に高鳴り始めた心臓の鼓動と混じり合う。ここでは「内」と「外」はたやすく反転する表裏一体のものであり、響きの輪郭や音の仕切りはおぼろに希薄で、すぐに互いに浸透しあうものとなっている。

 さらに多田のブログの記述からの引用を続けよう。

 いっせーの、せ、で、演奏を始めて、こうなるものだろうか。ううむ、AMMを聴いていた感覚もあるなあ。

この盤に対する福島恵一さんのレビューを読む。

耳の枠はずし 「ディスク・レヴュー 2013年6~10月 その2」

http://miminowakuhazushi.blog.fc2.com/blog-entry-259.html


 「外へ出て、そこの音の状況を記憶/記録し、それを追加、削除、即興、解釈なしに演奏によって再現せよ」とのAlvin Lucierによる指示に基づく作品。

ええっ?なにそれ。

「外界の音の状況」という目標がアンサンブルに共通のものとして先に設定、されているけど、奏者が再現に取り組む時に不足と過剰が明らかにされ。

おお。

これに対する応答が各演奏者を突き動かし、動的平衡を保ちながらの移動/変遷を余儀なくするとともに、アンサンブルを不断に更新していく。
 

なるほど。

他の演奏者の意図を探るのではなくサウンドにだけ応ずるため、触覚的な次元に至るまで全身を耳にして歩み続ける。結果としてアンサンブルはエレクトロ・アコースティックなインプロヴィゼーションを行うことになる。

ええっ?エレクトロ・アコースティックなインプロヴィゼーション、なのかあ。エヴァン・パーカー・エレクトロ・アコースティック・アンサンブルには感じられない別の事態に思われていたんだけど。エヴァン・パーカーたちは完全に聴きあって、演奏しあっていたように感じていた。

MAZEのみなさんは、個々がフィーレコになっているような感触だ。
 「目標が外にある」。これはすごいなあ。動的平衡を保ちながらの移動/変遷を余儀なくされているとともに、アンサンブルを不断に更新していくという彼らの意識は、なるほど、確かにあるのだ。

ううう。それにしても、気持ちいい。立ち直れない。もとい。なんか生きる希望がわいてくる。う、めっちゃ立ち直ってんじゃん!
 

橋爪亮督グループの「十五夜」神トラックをトーマス・モーガンに持たせてやったんだが、「十五夜」という曲は橋爪から、あんたは月ね、雲ね、だんごね、ススキね、と役割分担を振り分けられたカッティングエッジな演奏家たちが、「目標が外にある」意識でもってテクネーとタクタイルの限りを尽くすという点で、アルヴィン・ルシエやMAZEと図らずも視野を共有していたのだ。

一足飛びに、わたしたちもまた、このような音楽でありたいのだ。

 多田の鋭い突っ込みや合いの手が、原文をパラフレーズし、意味合いを分岐させ、新たな息を吹き込む。「エヴァン・パーカー・エレクトロ・アコースティック・アンサンブルには感じられない別の事態に思われていたんだけど」は全くその通り。彼らの演奏は、エレクトロニクスによる音の変形や空間への放出/散布の度合いのコントロールにより、それまでのグループ・インプロヴィゼーションに比べ、音を演奏者の身体から捥ぎ離して空間へと解き放つものとなった。音は演奏者間だけで取り交わされることを止め、響きと化して匂いが立ち込めるように空間一杯に広がる。音は沈黙に沁み込んで空間と一体化し、音を放つことが空間を力動により変転させ、切り裂き、渦を巻かせる。それゆえ彼らの演奏を聴くことは、フレーズやリズムの交錯をとらえると言うより、頬や髪に風を感じることであり、揺れる船に乗り込んだような体幹の揺らぎを覚えることであった。しかし、その後に耳にすることになったAnother TimbreやPotlatchからリリースされた「音響」的な、あるいはエレクトロ・アコースティックなフリー・インプロヴィゼーションは、言わば解像度/透明度が全く別次元だった。楽器からどのような音色を引き出すか、それを伝的にどう変形するかといったことはもはや重要な問題ではなく、むしろ音は空間に響くことによって耳に聞こえるものであることを、最初から前提にしていた。すなわち我々が耳にするのは「音自体」(そんなものがあるとしてだが)ではなく、空間/距離により変容され侵食された「響き」でしかあり得ない。そこには周囲の環境音をはじめとする「他なる響き」が必然的に入り込むことになる。だからそれを「完全に」聴き取ることはできない。「完全に聴きあう」ことは音の向こうに共演者の意図を結像させることによって、すなわちコミュニケーションの図式に乗っ取って、ようやく初めて成立する。だが実際には、そこで投げ交わされる音を注視すれば、それは演奏者の意図になど還元しようもない多様さ/不純さをはらんでいる。そこに留まり立脚しようとする限り、向かい合う共演者の意識の動きなどに至れるはずもなく、拡散する決定不能性に途方に暮れるしかないだろう。だが、それこそが豊かさなのだ。
 ここで我々はフリー・インプロヴィゼーションをフィールドレコーディングのように、フィールドレコーディングをフリー・インプロヴィゼーションのように聴くことができる。「即興的瞬間」に注目しながら。この「即興的瞬間」とは、アンドラーシュ・シフの演奏への私の拙いレヴュー(※)から、多田が何度となく拾い上げてくれた概念にほかならない。
※http://miminowakuhazushi.blog.fc2.com/blog-entry-94.html

 そのレヴューから一部を抜粋引用しておく。

 蓮實重彦はスポーツ観戦の醍醐味として「圧倒的な流動性の顕在化」を挙げるが、まさにその通りだ。潜在的なものにとどまっていた線/運動が一挙に顕在化した時の、世界がひっくり返るような驚きこそが、スポーツの快楽にほかならない。そして、音楽もまた。
 アンドラーシュ・シフの演奏は、至るところ、そうした「圧倒的な流動性の顕在化」の予感/予兆に満ち満ちていた。そして、そうした各瞬間こそが、「即興」に向けて開かれているのだ。彼の演奏を「彼による作品解釈の具現化に向けた身体の精密なコントロールの結果」ととらえるよりも、そのような「即興的瞬間」に開かれたものとして受け止めた方が、演奏の強度を充分に受け止めることができるのではないか。いや、こうした言い方は後知恵だ。むしろ、彼の演奏に、優れた即興演奏と同質の輝きや馨しさを、まず(思わず)感じてしまった(不意討ちされた)‥と告白しなければ嘘になるだろう。
 すなわち「即興演奏の質」とは、こうした瞬間瞬間に訪れる(それは「深淵が口を開けている」ということでもある)未規定性に向けて開かれているということであって、「譜面を見ない」とか、「事前に決め事をしていない」ということではない。もちろん、即興演奏の定義だけを言うのなら、それでも事足りるかもしれない。しかし、仮にそうだとして、即興で演奏することが、それだけである質や水準を確保してくれるわけでは、いささかもない。ライヴやコンサートの告知を見ると、即興で演奏しさえすれば、それがすなわち「冒険」や「挑戦」、あるいは「実験」等となるという誤解が蔓延しているようだが、そんなことはありえない。デレク・ベイリーが言うように、人類が最初に演奏した「音楽」は即興演奏によるものだったはずだ。彼らは果たして「冒険」や「挑戦」、あるいは「実験」に勤しんでいたのだろうか。そんなはずはない。
 フレーズを排し、エレクトロニクスに頼り切って、いかにも「音響」ぽいサウンドの見かけをなぞることや、サンプリングされたループの重ね合わせをはじめ、その場に敷き詰められ響きをかき乱すことのないように、「空気を読んで」、当たり障りのない極薄のレイヤーをおずおずと重ねることの繰り返しが、即興演奏ならではの質や強度を獲得することは永遠にないだろう。なぜなら、そもそもそこには即興的瞬間が存在しないのだから。

 たとえば私は上原ひろみの演奏に、こうした「即興的瞬間」を見出すことができない。アンソニー・ジャクソンやサイモン・フィリップスとの「妙技」の応酬は、まるでサッカー・ボールのリフティングの名人芸を、延々と見せられているようだ。サッカーが「そこ」にないのと同様、私の考える音楽も「そこ」にはない。ではどこにあるのかと言えば、もっと潜在的な流れの中、譜面のある演奏だったら、個々のフレーズのノリやアーティキュレーション等が「そこ」からすべて流れ出してくるような源泉、呼吸のようなものにあると言うべきだろう。フリー・インプロヴィゼーションやフィールドレコーディングでは、この核心がさらに「聴くこと」の核心に近づいていくように思う。

 ブログでときどき小津安二郎のことに触れることがあるが、決して小津の映画をそんなに観ているわけではなく、むしろ彼が世界をとらえ切り出してくる仕方、特に人のいない室内の風景等をとらえる仕方に興味を持っている。その際に導きの糸としているのは前田英樹の論稿だ。先日、図書館に行ったら、「思想」の2014年1月号に彼が「小津安二郎の知覚」を書いているのを見つけた。以下に興味深い点を幾つか抜き書きしてみよう。

この映画には、強い印象を与える事物のクローズアップが、さまざまなところに出てくる。(中略)これらのショットは、どれもみな物語の本筋から外れ落ちて、キャメラによる純粋な静物画の流れを作る。これらの〈物〉は、誰の感情も心理も暗示せず、位置関係さえ説明されることがない。
 〈物〉はただそこに在って、知覚されている。(中略)映画という知覚機械では、そういうことが可能となる。小津安二郎が、映画の仕事のなかで最も強く惹き付けられていた点は、疑いなくそこにある。(中略)小津の映画では、静止と運動はひとつのものである。それらは、持続する同じ唯ひとつの世界が、私たちに見せるふたつの顔に過ぎない。静止の底には、在る物の無限の振動があり、運動の底には大地が湛える静けさがある。(中略)静止と運動とがひとつのものになって顕われるのは、映画という知覚機械のありのままの働きによってである。(中略)映画には、そのことをあっさりと示してしまう働きがもともとある。
 小津はそうした働きを、ただもう類を絶した忠実さで引き出してみせたに過ぎない。(中略)小津の映画は、初期から一貫して二重の流れ、並行するふたつの線を持っている。そのうちひとつは〈現実的なもの〉の線を成し、もうひとつは〈潜在的なもの〉の線を成す。
 前者の線には、怠け者の学生、失業者、与太者、退職した元教師、その他いろいろな状況にある人々の行動があり、後者の線には、静まり返って在るさまざまな物、椅子や畳に座って在る人たち、理由もなく動く彼らの指先や、もぞもぞする足、煙を吐く煙突、湯気をあげる薬缶、その他、数限りないものがある。
 二つの線は、常に同時にあり、時に応じてどちらかが前面に出る。前面に出ても、潜在的なものの線は、その性質を変えることがなく、私たちの行動と無関係に在るだろう。(中略)この第二の線にあるものは、「規律」や「美的システム」といったものでは決してない。
私たちの現実行動を根本から離脱して立てられた、宇宙に対するキャメラの知覚そのものである。(中略)小津にあっては、この第一の線は、第二の線と区分不可能な視覚で結びつき、ふたつは浸透し合う二重の流れを作らずにはいない。あるいは、現在の各瞬間を、ふたつの方向に分岐させずにはいない。そのうちの一方は、人物の行動が目指す未来に進もうとし、もう一方は潜在的な過去それ自体のなかに沈み込んでいく。知覚のこの絶え間ない二重性は、劇映画を作るひとつの技法、といったようなものではない。映画キャメラの知覚に潜んでいる本性と見なすべきものである。小津は、ただその本性を、さまざまな仕方で明るみに出してみせるのである。

 ベルクソン(からドゥルーズに至る)の語法が流れ込んでいるため、現在、過去、現実的、潜在的といった語の意味がとりづらいところがあるが、それでもこれらの指摘は、いま自分が関心を持って聴いているフリー・インプロヴィゼーションとフィールドレコーディングが「録音」という機械の知覚を通じて曖昧に重なり合う地点の眺めに、驚くべき正確さで合致しているように思える。別の言い方をすれば、前田英樹の思考だけではなく、
「タダマス」での体験を含め、様々なものを手がかりにして、この間、こうした音楽の何に自分が惹かれるのか考え続け、書き記してきた言葉と、これらの言葉は驚くほど共通しているように感じられる。ここには確かに「何かがある」ように思う。それをはっきりと名指すことができず、手をこまねいている自分がもどかしい。

 フリー・インプロヴィゼーションは、音響という、演奏者の意志/意図を軽々と超えてしまう「人の手に余るもの」を取り扱うことにより、空間/時間の中に浮かび上がる痕跡を手がかりとせざるを得ず、結果として不可視の潜在性を、前田英樹の言う第二の線を浮かび上がらせずにはいない。そして、「自然のシンフォニー」などと言って、無理矢理に第一の線を仮構し、枝葉を切り落としてそこに押し込められてしまいがちなフィールドレコーディングについても、虚心坦懐に耳を傾ければ、そこに浮かぶのはやはり空間/時間の中に刻まれた多数の痕跡であり、結局は第二の線を注視せざるを得ない。こうして「潜在性」に深々と根差し、そこに耳の眼差しを避け難く誘うものとして、両者は共通/通底しているのではないか。すなわちフィールドレコーディングの中に、熱帯雨林の喧噪と雨粒の滴りの交錯のうちに数多の「即興的瞬間」を見出すことが可能であり、一瞬の微細な響きを注視し、それに応じることが、時間的にも空間的にも段違いのスケールでミクロかつ繊細な、もうひとつの世界を生きることが即興なのだと。
 ここで冒頭に戻るならば、そうした注視を呼び覚ますための仕掛けが、「Memory Space」におけるAlvin Lucierの作曲となっているととらえることができる。

 最後に多田が一部引用している、Alvin Lucier『(Amsterdam) Memory Space』の拙レヴュー(※)を参考に掲げておく。
※http://miminowakuhazushi.blog.fc2.com/blog-entry-259.html


 ディスク・レヴュー第2弾はエレクトロ・アコースティックなインプロヴィゼーションからの7枚。と言いながら、実はコンポジション演奏を多く含み、また、必ずしも編成にエレクトロニクスを含む訳ではない。むしろ、微細な音響に耳をそばだて、沈黙にすでに書き込まれている響きを読み取らずには置かないエレクトロ・アコースティックな音楽美学と、そうした聴取の鋭敏さを演奏に直結させるフリー・インプロヴィゼーションの作法の「十字路」ととらえるべきかもしれない。いずれにしても流動的な仮構に過ぎないが、しかし、そのような視点/区分を導入することにより、これを補助線として初めて見えてくる景色もある。そしてそれらを言葉で解きほぐすことにより明らかになることも。それこそはいま批評が負うべき務めにほかなるまい。


Alvin Lucier / (Amsterdam) Memory Space
Unsounds 37U
MAZE:Anne La Berge(flute,electronics),Dario Calderone(contrabass),Gareth Davis(bass clarinet),Reinier Van Houdt(piano,electronics),Wiek Humans(guitar),Yannis Kyriakides(computer,electronics)
試聴:https://soundcloud.com/maze_music/amsterdam-memory-space-excerpt
 「外へ出て、そこの音の状況を記憶/記録し、それを追加、削除、即興、解釈なしに演奏によって再現せよ」とのAlvin Lucierによる指示に基づく作品。その結果、MAZEの面々による演奏は、おぼろにさざめき、希薄にたゆたいながら、決してアンサンブルの構築を目指すことなく、常に隙間をはらみズレを来たしつつ、精緻に入り組み微妙なバランスを歩むものとなった。これはこの国で一時流行した、「他の演奏者の音を聴かずに小音量で演奏せよ」とか、音の密度をあらかじめ希薄に規定してフレーズ/イディオムの形成を阻み個を全体へと埋没させる均衡化の企みとは、本質的に異なっている。これらは演奏者が互いに聴き合い、無意識に同期を志向してしまう生理を暗黙の前提として、これを指示によって打ち消すことにより、言わば不安定を生成させるものにほかならない。出来上がりの全体イメージを提示することなく、それが演奏者同士の「切り離された関係性」からその都度生成してくる‥というところがミソなのだが、実際には「場の空気を読む」ことに長けた(というより、普段からそれしかしていない)この国の演奏者たちは、「少ない音数で、小音量で‥」とすぐにいつでも使える「模範解答」をパブリック・ドメインとしてすぐに作成/共有してしまい、後はそれをだらだらと読み上げるだけになってしまう。これに対しAlvin Lucierの指示は「外界の音の状況」という目標を、アンサンブルに共通のものとして先に設定しながら、それにより逆にクリナメン的な偏向/散乱を生成させる。演奏者各自がそれぞれある部分に食いつき再現に取り組む時、それによって不足と過剰が明らかにされ、これに対する応答が各演奏者を突き動かし、動的平衡を保ちながらの移動/変遷を余儀なくするとともに、アンサンブルを不断に更新していく。演奏者たちは瞬間ごとの判断を曖昧に生理に委ね、怠惰な空気に身を沈めてしまうことなく、ぴりぴりとした覚醒の下、他の演奏者の意図を探るのではなくサウンドにだけ応ずるため、触覚的な次元に至るまで全身を耳にして歩み続ける。結果としてアンサンブルはエレクトロ・アコースティックなインプロヴィゼーションを行うことになる。だが、それにしても何と鮮やかに核心を射抜いた指示だろう。ここにはエレクトロ・アコースティックなインプロヴィゼーションとフィールドレコーディングを「聴く」ことの体験的同一性が、すでに1970年の時点で見事に言い当てられている。



批評/レヴューについて | 00:04:16 | トラックバック(0) | コメント(0)
耳を開き続けること  To Keep Your Ears Open
 たびたびお世話になっていた奈良の通販CDショップpastel records(*)から、年内に閉店とのお知らせが届いた。これまで導いてくれた貴重な耳の道しるべが、またひとつなくなってしまうことになった。
*http://www.pastelrecords.com

 以前にpastel records紹介の記事(※)を書いたことがあるが、ただただ新譜を大量に仕入れて‥でもなく、「売り」のジャンルに照準を絞り込むのでもなく、ポップ・ミュージックの大海原に漕ぎ出して、その卓越した耳の力を頼りに、新譜・旧譜問わずこれはという獲物を採ってきてくれる点で、何よりも「聴き手」の存在を感じさせるお店だった。
 一応、取り扱いジャンルはエレクトロニカ、フォーク、ネオ・クラシカルあたりが中心ということになっていて、店名とあわせてほんわりと耳に優しく暖かな、それこそ「パステル」調のイメージが思い浮かぶが、決してそれだけにとどまらず、さらに広い範囲を深くまで見通していた。それは私が当店を通じて知ったアーティストの名前を挙げていけば明らかだろう。中には他所では名前を見かけなかったものもある。Richard Skelton / A Broken Consort, Tomoko Sauvage, Annelies Monsere, Federico Durand, Aspidistrafly, Julianna Barwick, Kath Bloom & Loren Conners, Mark Fly(活動再開後の), Squares on Both Sides, Movietone, Balmorhea, Efterklang, Masayoshi Fujita / El Fog, Talons', Tia Blake, Susanna, Lisa O Piu, Cuushe, Satomimagae ....すぐには思い出せないだけで、まだまだたくさんあるだろう。
※http://miminowakuhazushi.dtiblog.com/blog-entry-13.html

 すべての作品に試聴ファイルが設けられており、実際に聴いて選ぶことができるのも大きかったが、各作品に丁寧に付されたコメントが素晴らしく的確で、pastel recordsを支える確かな耳の存在が感じられた。音楽誌に掲載されるディスク・レヴューが加速度的に「リリース情報として公開されるプレス・シートの丸写し」となっていくのに対し、pastel recordsのこうした揺るぎない姿勢は、単にショップとしての「誠実さ」の範囲を超えて、聴き手としての誇りをたたえていた。「自分が聴きたいと思う作品を提供する」とはよく言われることだが、それを実際に貫くのは極めて難しい。
 大型店舗と異なり、仕入れられる作品数も限られていただろうに、Loren Mazzacane Conners(実は彼の作品を探していて、ここにたどり着いたのだった)やMorton Feldmanを並べていたことも評価したい。それは単に「マニアックな品揃え」を目指したものではない。店主である寺田は「サイケデリック」とか「インプロヴィゼーション」とか「現代音楽」とか、ポップ・ミュージックの聴き手にとっていかにも敷居が高そうなジャンルの壁を超えて、pastel recordsが店頭に並べるエレクトロニカやフォーク作品(先に掲げたリストを参照)と共通する、密やかな「ざわめき」や「さざめき」、あるいはふうわりと漂い香るようにたちこめる希薄さをそこに聴き取っていたのではないか。聴いてみなければわからない、響きの手触りの類似性を手がかりとした横断的な道筋。

 インターネットの発達によってディスコグラフィをたどるのは容易になったし、ミュージシャンやプロデューサー、エンジニアの人脈もすぐにたどれる。だが、「響きの手触りの類似性を手がかりとした横断的な道筋」は耳によって切り開かれるよりない。「セレクト・ショップ」的な性格を有するpastel recordsが、「オシャレ」とか「流行の先端」とか「サブカル」とかに自閉してしまわなかったのは、寺田がこうした耳の冒険を欠かすことがなかったからにほかなるまい。



 インターネットの発展により世界にはアクセス可能な情報が溢れており、もはや個人が選択できる範囲をはるかに超えている。それを個人に代わってやってくれるのが、amazon等でおなじみの「パーソナライゼーション」の仕組みであり、これまでの購入履歴からおすすめの本を紹介してくれる。このサービスに対し、自分の内面に知らず知らずのうちに深く入り込まれてしまうことに違和感を表明する者もいたが、他の大多数には便利な顧客サービスと受け止められた。だが、実際には「パーソナライゼーション」は、「購入履歴に基づいておすすめの商品を案内する」といったわかりやすく限定された範囲を超えて、どのリンクをクリックしたかをカウントし、その傾向を検索エンジンの表示順位に反映することにまで及んでいる。インターネット検索が世界を映し出す「鏡」だとすれば、その「鏡」は知らぬうちに歪まされ、あるいは切り取られて、偏った世界を映し出すように変えられている。
 様々な事故や事件を通じて社会不安が高まり、政府や企業、あるいはマスコミは情報を操作し、我々を欺いているとの「陰謀史観」が広まっている。そこでは善悪二元論的な単純化された構図にみんなが飛びつく。いや、というより、そうした単純な構図に世界を押し込めようとする時に、「陰謀」のようなそれを可能とする「物語」が必要とされるのだ。実際に「陰謀」が存在するか否かはここでは問題しない。ただ私が指摘しておきたいのは、先に見たように「パーソナライゼーション」によって強大な権力の意図に基づかずとも、それよりもはるかに匿名的かつ個別的な洗練された仕方で、情報は操作され得るということだ。ここで情報操作が個々人の「消費」(情報消費を含む)動向に基づいて為されていることに注意しよう。「パーソナライゼーション」は「あなたに代わって」選択・提案しているのであって、「あなたに向かって」ではない。私たちは自分の鏡像を果てしなく増殖させる「鏡の檻」に閉じ込められてしまうことになる。
 このシステムが巧妙であるのは、私たちがクリックにより選択行動を起こすたびに、システムがそれを学習してシミュレーションの精度を高めていくことにある。私たちは情報を操作されていることも、他者と共有すべき事実を侵食されていることも気づかぬまま、一人ひとり切り離され、「お気に入り」や「いいね!」だけに埋め尽くされたオーダー・メイドの繭世界に閉じこもる(自らを閉じ込める)ことになるのだ。
 そこには葛藤も軋轢も対立も混乱もない。発見もなければ衝撃もない。すべては「既視感」という安心毛布にゆったりとくるまれ、「飽き」を防止するためほんのわずかな差異が、新たな流行や個人の趣味がつくりだすオプションとして用意される。

 自分が信頼していたCDショップの閉店を、デジタル・サウンド・ファイルとアナログ・ヴァイナルの間で、情報的機能性もオブジェ/アート物件としての魅力にも欠けるCDというメディアの性格に結びつけて了解してしまうような(CDの終焉?)社会学的/マーケティング的見方を、私は到底することができない。
 むしろそこで生じているのは聴き手の自閉/自己完結にほかならない。それは未知のものに対する好奇心の減退と言い換えてもいいし、「雑誌」的な場の機能不全という事態でもある。かねてからインターネットについて言われていた「隣接性」の喪失、すなわち検索がそのものずばりを指し示すことにより、それと隣接する異なるもの、たとえば雑誌でお目当ての記事の隣のページに載っている別の記事にアクセスする機会がぐっと減ってしまうという変化は、先に見たパーソナライゼーションによりさらに深刻な症状を来す。

 MoveOn.orgのイーライ・パリサーは『閉じこもるインターネット』(早川書房)で、「フィルターバブル」(パーソナライズのためのフィルターに閉ざされ包み込まれてしまうこと)の危うさについて、次のように述べている(ちなみに私は例によって図書館で借りて読んだので、帯に東浩紀と津田大介が書いているとは今の今まで知りませんでした)。
 「フィルターバブルは確証バイアスを劇的に強めてしまう。そう作られていると言ってもいい。我々がとらえている世界に合った情報は簡単に吸収できるし楽しい。一方、新しい考え方をしなければならなかったり過程を見直さなければならなかったりする情報は、処理が苦痛だし難しい。(中略)だから、クリック信号を基準に情報環境を構築すると、すでに持っている世界の概念と衝突するコンテンツより、そのような概念に沿ったコンテンツが優遇されてしまう。」(p.109)
 「パーソナライゼーションとは、既存の知識に近い未知だけで環境を構築することだ。スポーツのトリビアや政治関連のちょっとしたことなど、自分のスキーマが根底から揺さぶられることはないが、ただ、新しいものだと感じる情報だけで環境を構築することだ。パーソナライズされた環境は自分が抱いている疑問の回答を探すには便利だが、視野にはいってもいない疑問や課題を提示してはくれない。(中略)フィルタリングがかんぜんにおこなわれた世界は予想外の出来事やつながりという驚きがなく、学びが触発されにくくなる。このほかにもうひとつ、パーソナライゼーションでだめになる精神的パランスがある。新しいものを受け入れる心と集中のバランス、創造性の源となるバランスだ。」(p.112~113)

 インターネット上の情報がコピペの嵐であって、特に音楽の場合、制作者/販売者側の情報ばかりがソースとなりやすいことを思えば、あるいはニコニコ動画の時報機能に「同期性」を感じる心性(あるいは「同期性」を読み込むような思考)が蔓延していることを思えば、事態はより深刻と言えるだろう。もちろんコトはインターネットだけの問題ではない。道路や鉄道駅、電車の車内といった公共空間で、イヤホンで耳を塞ぎ、視線をスマホやゲーム機に釘付けにして外界を遮断している者たちは、まさにパブリック・スペースを「パーソナライズ」しているのにほかならないのだから。



 pastel records寺田さん、まずはお疲れさまでした(と言ってもお仕事はまだまだ続くわけですが)。でも、少し休養したら、また好きな音楽、おすすめの音楽について、ぜひ語ってください。待ってます。



画像はすべてpastel recordsのページから転載。ヴィジュアル・デザインもとても優れたお店でした。


批評/レヴューについて | 22:36:01 | トラックバック(0) | コメント(0)
浸透的聴取  Osmotic Listening
 前回更新からまた随分と間が空いてしまったことをお詫びしたい。身内の不幸等もあって公私とも多忙となったことに加え、ある意味「回顧」的な企画であるが故に、新譜レヴューほどは手間がかからないだろうと高をくくって始めたTMFMRの連載が、聴き進めるうちにいろいろと興味深い問題を掘り起こしてしまい、さらにはまるで磁石に引き寄せられるように新たに聴き込むべき魅惑的な音盤をたぐり寄せてしまった結果、こちらも改めて仕切り直し、考え直さないといけない状態になってしまった。(T_T)うぅ
 そうした事情もあって、新譜レヴューの素材は継続して仕込みつつ掲載には至らない状態が続いてしまったのだが、そんな中、ガツンと衝撃を覚えたのは多田雅範の指摘で参照した益子博之のディスク・レヴューである。クロス・レヴューであるのに、他の執筆者から随分遅れての掲載は、後に見るように彼の逡巡を示すものだろう。だが、そうした迷いは彼が他の聴き手よりはるかに深く掘り進めているからにほかならない。私なりの読み方で、そのことを明らかにしてみようと思う。


益子博之が音楽批評サイトcom-postにDerrick Hodge:『Live Today』のディスク・レヴューを執筆している(※)。
※http://com-post.jp/index.php?itemid=817
 やや長めの引用を含んでいることから推察されるように、いささか論旨が入り組んでいるのだが、簡略化すれば次の2つの主張が接合されていると言えるだろう。
 まず彼はこの作品をジャズ・ミュージシャンでなければ創造できない作品として評価している。そうした論旨に沿って抜き書きしてみよう。

 この音楽はジャズ・ミュージシャンでなければ演奏できない、創造できない音楽であるという点で、21世紀のジャズなのだと言い切ってしまいたい。
 綿密に構成された作曲/編曲の中で個々のプレイヤーの演奏には大きな自由度が与えられている。
 更に、曲の進行の中でメンバー間の緻密なインタラクションがリアルタイムで展開される。これこそジャズ・ミュージシャンでなければできない演奏、音楽と言えるだろう。


 ‥‥とここまでの論旨はわかりやすい。彼と多田が開催しているリスニング・イヴェント「四谷音盤茶会」においても、NYジャズ・シーンの先端部分を定点観測しながら、そこで進行する「サウンドスケープ化」という事態の中に彼が見詰めていたのは、決して「サウンドスケープ化」という「モード」の転換ではなく、ミュージシャン間のリアルタイムのインタラクションによる音楽の創造が、より微視的な領域へと戦線を移動させ、触覚を頼りに繰り広げられているという演奏の現場の変容であることに改めて注意を促したい。彼の姿勢は極めて一貫している。
 いささか論旨が輻輳してくるのは、そこに彼が「個性の「濃さ」に纏わる議論」を絡めてくるためだ。彼は高橋健太郎による「ヘッドフォンで歌ものの音楽を聞くと、ヴォーカルは眼前から聞こえるとういよりは、頭蓋骨の中に定位してしまうことが多い。つまり、言葉とメロディーが頭の中で鳴る。あたかも、(**********)という内なる声のように。」との論を引用して、次のように語り始める。やはり論旨に沿って抜き書きしてみよう。

 これはヴォコーダーやオート・チューン、或いはボーカロイドを巡る議論であり、ジャズ・ミュージシャンについて論じたものではない。だが、スピーカーと対峙して音楽を聴くことで音楽家に向き合うような聴取の仕方と、何かをしながらヘッドフォンやイアフォンで行うような聴取の仕方とでは、聴き手が求める音楽の性格に大きな違いが生じることは同様だろう。
 頭蓋骨の中に定位している音楽と、その外側に定位するアンビエンス。前者が例え器楽演奏だったとしても、その演奏やサウンドがあまりに「個性的」であったら、それはあくまで外から聞こえる音であり、共感したり感情移入したり、更には自己投影したり自己同一化したりするには却って邪魔になってしまうことだろう。それに対して、スムーズに耳に入ってくると同時に、その音楽に浸っている自己を周りの他者から差別化できる程度には「個性的」な音楽と、現実の外界から自己を遮断する役割を果たすアンビエンスの組み合わせは、そうした耳にはこの上なく心地良く響くことだろう。


 ‥‥ということは、巷間囁かれる現代ジャズ・ミュージシャンの個性の薄さは、ヘッドフォンによる「内在的」聴取に向けたものだと言うのだろうか。昨今のポップ・ミュージックの大勢として進行する「微温湯化」については、確かにその通りだと思う。それは聴き手の感覚を慰撫し、これに抗うことがない。耳を不意撃ちすることのない、聴覚を眠り込ませるための音楽。「マインド・リゾート・ミュージック」あるいは「セピア・ミュージック」(共に虹釜太郎)。このことは「予定調和」という点において、たとえ見かけは暴力的であっても、その実、揺るぎなく様式化されたラウド・ロックやピュア・ノイズについてもそのまま当てはまる。発見を求めない、浸るためだけの音楽。「ああ、これこれ」と想起のスイッチが入りさえすれば実質終わってしまう、ほんの5秒あれば足りる音楽。だが、益子の耳の追い求める音楽はそうしたものではなかったはずだ。

 そう訝る読み手に「しかし、果たしてジャズが、そしてアートがここまで内向的に、閉鎖的になってしまって良いのだろうか」との転調が示される。ここからレヴューの論旨はさらにわかりにくくなる。と言うのも、レヴューは最終的に「一つ言えることは、デリック・ホッジの音楽はそんな私が聴いても非常に心地良く、強く共感できるものだということだ。」という対象作品への肯定により締めくくられるからだ。
 ここで益子は自身による全く別の作品に関するライナーノーツを引用してみせる。

 この音楽は、あくまで受動的な聴き手という立場に安穏としている限り、落ち着き所がわからないまま、恰も中吊りにされ、置いてけぼりを喰ったかのような感覚を覚えさせかねないものだ。だが、ひとたびプレイヤーの一人として参加し、音楽の行方を積極的に追いかけるような聴き方をするならば、ジェット・コースターや山間のワインディング・ロードを疾走するスポーツ・カーが与えてくれるようなスリルとは本質的に異質な、街中の交通の流れや信号の表示といった状況を的確に察知し、急加速・急減速をすることもなく、スムーズに一定の速度で走行し続けているときのような快感を得ることができる。

 そして、それに続けて次のように述べる。

 私には楽器演奏の経験があり、尚且つヘッドフォンによる音楽聴取をしていないという点で、現代の音楽リスナーとしては特殊な部類に入るだろう。だから、演奏者の一人としての自己を対象の音楽に投影できるのだと言うことは可能だ。とは言え、これは聴き手の態度の問題だと捉えることもできる。自己投影の仕方が受動的なのか、能動的なのか、その違いによって音楽が聴き手にとってどのような価値を持つのかが左右される、能動的に耳を働かせることによって他者に接して自己を開いていくことができるのだと…。

 後段の前半部分、すなわち「私には楽器演奏の経験があり‥‥と言うことは可能だ」の部分は、いささかエクスキューズが過ぎるのではないかと感じてしまう。わざわざ別作品のライナーノーツを引用したのは、明らかにこの主張のための準備作業なのだから、このことが彼の論旨展開の中で一定の重要性を帯びていることが推察される。また彼が演奏体験を特権化することにより、聴取の門戸を閉ざしてしまうのを警戒していることもよくわかる。しかし、彼が重視/注目する「ミュージシャン間のリアルタイムのインタラクションによる音楽の創造」は、決して楽器演奏やアンサンブルの体験がなければ理解できないものではない。むしろ反対に、「より微視的な領域へと戦線を移動させ、触覚を頼りに繰り広げられているという演奏の現場の変容」を捉えることができるのは、楽器演奏やアンサンブルの体験によってかたちづくられた〈音楽耳〉ではなく、初めて泊まる旅館でふと夜半に目覚め、部屋にくすぶる何物か判別し難い奇妙な軋みに、胸騒ぎを覚えながらそばだてられる〈音響耳〉ではないか。楽音の聴取が捨象してしまう音の表面の微かなざらつきや、響きに混じる僅かな匂いを探り当てる鋭敏な耳の「指先」。
 とすれば「能動的」な聴取もまた、音楽の流れを先読みし、アンサンブルの一体性を感じ取ることに限定されはしない。そうした演奏者の思考に聴き手の思考を重ね合わせ、同一化を図ることにより、そこから生み出される音の流れに棹さす「内在的」な聴取に対し、音が自らの外部にあることを当然の前提としながら、言わば聴覚を「ナノ化」して響きの隙間へと浸透させ、複数の表面に同時に触れながらその震えや温度、色彩や輝きを猫のヒゲのように感じ取る「媒介/媒体的」聴取。益子がこともあろうに菊地雅章による「Ensemble Improvisation」の試みに言及しているのは、そうした響きに沁み込むように身を沈める聴き方を念頭に置いているからにほかなるまい。

 「群盲象を撫でる」と言うが、視覚により一望の下に外形/輪郭をとらえるのではなく、その都度限られた範囲の手触りの推移から全体を編み上げること‥‥いやそうではない。触覚はそのように積分されて総体の構築へと至る代わりに、茫漠たる差異の広がりのうちに深みへと引きずり込まれ全景を見失う。不安に掻き立てられた皮膚は、ますますその感覚を鋭敏に研ぎ澄まし、ミクロな差異を際立たせ、不連続な断層に悩まされながら、藁をもすがるように言葉をまさぐり、仮初めに紡ごうと試みては果たせず、いらだちを募らせる。「能動的」聴取とはそのような心細い孤独な探求にほかならない。

 多田雅範が一瞬の耳のまたたきのうちに音を捉え、これと深々と切り結びながら、ぶっきらぼうな断言を繕うことなく放り出し、夢遊病者のようにふらふらと当てのない連想の糸をたどらざるを得ないのも、益子博之がますます深く遠くへと耳の眼差しを届かせながら、そうした聴取の体験をいささかも特権化しようとせず、それどころか音への扉を広く開いたままにし続けようとするのも、未知の響きに不意討ちされた衝撃への切実な、そして極めて倫理的な反応であるように私には思われる。それゆえ彼らの聴取の対象がたとえ未だ耳にしていない音源であっても、ふと漏らされたつぶやきに深く揺さぶられてしまうのだ。





批評/レヴューについて | 23:19:00 | トラックバック(0) | コメント(0)
ムタツミンダにかかる月 - 『ECM Selected Signs III – VIII』を超えて(承前)  The Moon over Mutatsminda - Beyond "ECM Selected Signs III - VIII"(continued)
 前回で多田雅範の耳の「業」の深さを指摘したら、本人から鋭いボレーが帰ってきた。
http://www.enpitu.ne.jp/usr/bin/day?id=7590&pg=20130704

 しかも「クレジットだけではわからないマギー・ニコルスが2トラックに潜んでいることを解説する福島さん、さすがです」とこちらの突っ込みを賞賛する余裕を見せながら、その微笑をたたえたままで「AMMのラジオ・アクテヴィティが配置されるとき、ほかのトラックまでがレイヤー構造によって受信する枠組みが与えられ、空間性を聴く構え、たとえばジャレットのピアノ音だけではなく、この録音固有のECMリバーブの存在を意識するというような。そうなるとAMMのトラックはかつてスティーブ・レイクがJapoで制作したという特異性はこのリストにとっての傷ではなくなる」と、こちらが身動きできない素早さで鋭利な刃が一閃する。

 彼はこれに先立ち、次のように書いていた。


 速度について。
 ビージーズの「メロディ・フェア」は異様なヒットソングである。
 イントロからして演奏のタイミングがズレてるような、そのズレに速度を見る。ヴォーカルが入ると合っているんだか合っていないんだか、感覚がかく乱されて宙に浮いた感覚に置かれる。
 イントロは右側アコギのアルペジオ、左手からベースの弓弾き、そして奏者の呼吸らしき擦過音、オケがかぶさって、の、おのおののテンポは合っているのに呼吸が孤立しているのだ。
 これはもうレイヤー構造をなしていると見てよい。ハンドクラッピングにはっとさせられるのは、耳が、レイヤー構造によって形成された空間を聴くからなのだ。
http://www.enpitu.ne.jp/usr/bin/day?id=7590&pg=20130702


 この指摘は極めて重要だ。ここで一見アンサンブル・アレンジかレコーディングのミックス加減について語られているように思われる(だからこそすらすらと読み飛ばしてしまいがちな)この指摘が、実は音そのもの、音空間それ自体についての分析であったことが、今回のAMMの演奏を巡る叙述と突き合わせると浮かんでくるからだ。
 すなわちAMMの「音響」へと透き通っていくサウンドの重なり合いは、各演奏者の放つ各人の署名入りの固有の輪郭を持ち、誰と見分けられるヴォイスのあり方を離れ、それぞれが見分け難く溶け合いながら、かつ渾然一体団子状の音塊と成り果てるのではなく、不可思議なグラデーションを描きながら敷き重ねられた極薄の多層へと、ゆるやかに分離していく。そこに現れるのは、言わばそれぞれに濃度傾斜の飛躍を有する上澄み/沈殿である。
 ガスバーナーで熱せられているビーカー中の水に眼を凝らすと、温まった底の部分の水が表面へと上昇し、また下降する流れの揺らめきが観察されるが、そこで見えているのは化学組成としてはまったく同一の水の間に生じる界面にほかならない。同じようにキース・ジャレットのピアノの響きに多田が見出すピアノ音とECMリバーブにしても、前者がジャレット本来の「生」のピアノ音で、後者が付け加えられた人工物ということではなかろう。彼はむしろピアノの鳴り響きの中に、交錯する様々な力を、多様な速度の音の流れを、先に触れた界面の揺らめき、敷き重ねられたレイヤーの震えとして聴き取っているのではないだろうか。

 AMMの音世界に触発され、音を「レイヤー構造によって受信する枠組み」が与えられるならば、いや逃れ難く耳に刻印されてしまうのであれば、あらゆる音はその内奥に秘められた底知れぬ豊かさを明らかにするだろう。ECMの迷宮世界はそうした聴取の冥府魔道への誘いであり、AMMはそのわかりやすい一例に過ぎない。そうであればこそ、スティーヴ・レイクによるプロデュースのつながりで示唆されるのは、このJapoリリースの作品が決してECMの異端ではなく、むしろ深奥/震央に位置しているということなのだ。

 私の浅い理解に基づく誤解を、さらりと受け流しつつ、ぐさりと核心を突くその言葉の運びは、耳にタバコを挟んで店内を徘徊し、ステテコ姿で洗濯機に向いつつ発せられたものなのである。何ともカッコイイではないか。その文化不良中年の鑑と呼ぶべき志向とスタイルに快哉を叫びたい。




批評/レヴューについて | 23:44:13 | トラックバック(0) | コメント(0)
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