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福島恵一

Author:福島恵一
プログレを振り出しにフリー・ミュージック、現代音楽、トラッド、古楽、民族音楽など辺境を探求。「アヴァン・ミュージック・ガイド」、「プログレのパースペクティヴ」、「200CDプログレッシヴ・ロック」、「捧げる-灰野敬二の世界」等に執筆。2010年3~6月に音盤レクチャー「耳の枠はずし」(5回)を開催。2014年11月から津田貴司、歸山幸輔とリスニング・イヴェント『松籟夜話』を開催中。

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映画のために音を設計すること − フィルム・レヴュー『イーダ』  Designing Sounds for a Movie − Film Review for "Ida"
 妻に連れられてポーランド映画『イーダ』を観にイメージフォーラムへ。昼食の都合があって11時からの初回に。終わって出てくると12時30分から始まる次回上映入場待ちの人の列。これは初回を選んだのは正解だったかも。
 ネットで見ても好評が多い作品だが、それは主人公の少女の人生物語として。それとは少し異なる角度から眺めてみたい。とはいえストーリーには触れることになるので、以下、未見の方はネタバレ注意のこと。



 冒頭、モノクロの画面に作業に勤しむイーダの顔が映し出される。背後の壁面がしっとりとぼけている。真っ白や真っ黒を排した、乳白色から様々なグレーに至る明度の階調の柔らかな移り変わりが、人物の、事物の輪郭をくっきりと浮かび上がらせることをしない。光もまたまぶしさを抑え、遍く広がり、陰影を際ただせない。フェルメールにも似た室内絵画の静謐さが漂う。やがて修道女である彼女たちは作業を終えて、キリスト像を外へ運び出し、修道院の庭に設置するのだが、屋外に出てもモノクロームな階調の柔和さは変わることがない。明暗は注がれたコップの水をこぼすことなくなだらかに推移し、積もった雪とそこから覗く黒土も、それらがつくりだす幾何学的な文様を強調することがない。
 しかし、これと対照的に物音は耳を打つ。爆音にまでアンプリファイされたり、顕微鏡的に拡大されることはもちろんないし、イコライジングやモジュレーションを施されて、質感を誇張されることこそないのだが、画面に映し出される像との距離感からすると明らかに不釣り合いに大きな物音が響く。イーダが叔母と会うように院長から命ぜられる場面、行きたがらないイーダとの科白のやりとりが、それでも響きの穏やかさを保ち続けるのに対し、部屋を出ていこうとするイーダの靴音は絵画的調和を破って鳴り響く。あるいはイーダと同僚の修道女たちが荷造りを進める場面、旅行用トランクのベルトを締める際のシュルッ、シュッという音が室内に響き渡る。質素な食事を一同で黙して摂る際に、スープ皿に打ち付けられる金属のスプーンの喧噪。



 路面電車による移動。車両の走行音が流れる風景を伴奏する。この映画にはいわゆる「映画音楽」が用いられない。しかし、部屋でレコードがかけられれば音楽が流れ出す。自分の引き取りを拒んだ叔母のアパートを尋ねたイーダが、部屋に招き入れられる場面。しかも、別室には明らかに情事の後の男が帰り支度をしている。場面の緊張とは場違いな陳腐なポップ・ミュージックのレコードがかかっている。
 イーダは叔母から自身がユダヤ人であることを告げられ(彼女はそうとは知らずにカトリックの修道院で育った)、彼女と両親の墓探しの旅に出ることになる。叔母はクラシックのレコードをかけ、カー・ラジオから音楽を流し、ひっきりなしに煙草を灰にし続ける。
 彼女たちはイーダの両親の住んでいた一軒の家にたどり着く。現在の住民たちは過去にそこで暮らしていたユダヤ人たちについて触れようとしない。やがて彼女たちは、両親がユダヤ人狩りを避けていったんは森に匿われたものの、結局は隣人のポーランド人(非ユダヤ人)たちによって両親が殺されたことを知る。だが、そうした衝撃の事実を、検事(その後、判事に転ずる)という職業を通じてだろう、叔母はうすうす知っていたようだ。だが彼女もうすうすは知りながら直接向き合うことを避けてきた「息子もまたいっしょに殺された」という事実を突きつけられることになる。彼女はまだ幼い息子をイーダの母に預けていたのだ。


 例の家に現在住まう男が、イーダの両親たちを埋めた場所に案内すると申し出る。その代わり、自分たちをそっとしておいてくれと。森の中に深く入り込み、イーダと叔母が見詰める中、彼は土を掘り続ける。やがて目的のものが見つかる。
 叔母が息子の頭蓋骨を採りあげ、イーダもまた両親の遺骨を布に包む間、この映画唯一の「映画音楽」が束の間流れる。平坦に引き伸ばされたオルガンに似た音色が厳粛さを連れてくる。男はイーダになぜ自分は助かったのかと問われ、幼かったから、幼くてユダヤ人とわからなかったからと答える。男の子は肌が褐色で割礼を済ましていたと。彼女を神父に預けたのは自分だと。そして両親と叔母の息子を殺したのも。
 彼女たちは家族の墓地へ向かう。叔母が運転する車をずっと前方からとらえていたキャメラ(彼女たちの顔貌にフロントガラスを滑る景色の濃淡が映り込む美しさ)が、この時だけ後ろへと回り込み、彼女たちの後ろ姿をとらえる。一瞬だけ、先ほどの埋葬場所で流れた音色がフラッシュバックする。


 叔母とイーダは対照的に描かれ続ける。叔母の言うところの「あばずれと聖女」として。黒髪の叔母は常に(場違いな、空気を読まない)音楽、煙草、酒と共にあり、男を物色し、時には部屋に連れ込んで「これが人生だ」と。このまま信仰に一生を捧げようとするイーダに「まだ楽しみを知らないのに」と。対してイーダはグレーのベールに髪を、修道服に身を包み、ほとんどものを食べない。そんな彼女が道中ヒッチハイクで拾ったアルト吹きの青年のバンド演奏に惹かれる場面が興味深い。
 彼らは彼女たちが泊まるホテルのラウンジで演奏しており、イーダは叔母との食事の際に彼らのリハーサルを耳にすることになる。その後のナイトクラブ営業時に叔母に行こうと誘われるのだがイーダは興味を示さない。寝入ろうとする彼女の耳元に響くラウンジの喧噪。嫌悪の対象としての音楽。酔った叔母が戻った後、部屋を出た彼女は螺旋階段を立ち上ってくる音楽に惹かれ、降りていく。すでに客は去り、掃除婦だけが残るラウンジで、彼らは自分たちのためにクロージング・テーマを奏でている。静かな、だが先ほどまでとは打って変わった入魂の演奏。吹き終えた青年は聴いているイーダに気づき、コルトレーンの曲(「ネイマ」)だと告げる。
 その後に、彼女が鏡の前でベールを脱ぎ、髪を解く場面がある。イーダの母親のように美しい赤毛と叔母の賞賛する明るい髪が、「もう一人の彼女」として姿を現す。


 結局、旅は彼女たちに不可逆な変化をもたらすことになる。イーダは無言が支配し、食器の音だけが響く食事の時間に「思い出し笑い」をこらえきれない。「外」を知った証し。結局、本格的に修道女となるために必要な、その後の一生を信仰に捧げる誓いを立てずに避けてしまい、彼女は同僚二人の誓いを列の後ろから見守ることになる。一方、叔母は男を連れ込んだ翌朝、きちんと身を整え、大音量でモーツァルトのシンフォニーのレコードをかけてから、大きく開け放ったアパートの窓から飛び降りる。
 叔母の自殺でアパートに出向いた彼女はドレスに袖を通し、ハイヒールを試し、レコードをかけ、煙草を吸い、強い酒を壜からラッパ飲みする。そして叔母の葬式で再会したアルト吹きの青年と付き合い始める。ジャズ・クラブでのシリアスな演奏に聴衆の一人として耳を傾け、コルトレーン「エキノックス」のレコード(シングル盤なんて本当に存在するのだろうか?)でダンスする。ダンスしながらの睦み合いはベッドに場を移し続けられる。ここで「イーダは叔母に流れていた血に、『もう一人のイーダ』に目覚める」という安易な結末への不安が過る。だとすればダンス・シーンで止めておいた方がよかったな、その方が余韻が残ったのにと。
 だが、彼女は結婚して子どもをつくろうと言う青年が寝付いた後、これまで着ていたドレスではなく、ベールと修道服に身を包み、家を出て行く。ずんずんと脇目も振らず歩き続ける彼女の姿を前方から揺れながらキャメラがとらえ続けて「幕」となる。


 対向車がひっきりなしにすれ違う中、前方だけを見据えまなじりを決して歩き続けるラスト・シーンは、「修道院へ帰る」のではなく、「もう一人のイーダ」として生きるのでもなく、自力で第三の道へ歩み出した‥‥ととらえたい。修道院に帰るのだったら、バスや路面電車に乗ればいいのだから。
 このラスト・シーンも実は「現場の音」ではない、「映画音楽」が流れる。アルフレート・ブレンデルによるバッハ「われ汝に呼ばわる、主イエス・キリストよ」のピアノ演奏。
 だが、ここには伏線がある。これまで本作の演出は一貫して現場の物音を強調してきた。科白も音だが、それは強調されない。しかし、入院した老人から両親の最期について聴き取ろうとする時、老人の荒い息は強調される。同様にかけられるレコードやカー・ラジオからの音楽もまた強調される。「その場で生じる物音」として。だが、音楽についてはひとつだけ例外的な取り扱いが許されていた。後に続く場面の音を前の場面にかぶせる「ズリ上げ」を、音楽に関しては用いている箇所が幾つかあった。次の場面で映る車内のカー・ラジオの音楽が、その前の場面の最後で流れ、そのまま続くというように。これは本作の場合、特例的な措置と言える。
 だから、イーダの歩く姿にピアノの音が重ねられた時、すぐに場面が転換するに違いないと思った。これはまた「ズリ上げ」なのだと。しかし、予想に反して(裏切って)、彼女は歩き続ける。どこまでもどこまでも。これまで作品内で与えられたルールの及ばない新たに開かれた場所へ出て行くこと、それを観客に体感させるために、これまで特例措置の伏線を執拗に張り続けてきたのではないだろうか。

イーダの母が牛小屋のためにつくったステンドグラス

 そう考えるのには理由がある。一見、虚飾を排し、センセーショナルなギミックや特殊効果を使わず、ただシンプルに必要最小限の映像だけを連ねて制作されたかに見える本作は、そのさりげなさの裏に、いったん気がついてしまうと息苦しくなるほどの、緻密なコンポジションを敷き詰めているのだ。いわゆる「映画音楽」を使わないということは、すべて同時録音で済ますということでは必ずしもない。この作品で「その場」に流れる音の多くは、物音もレコードやラジオによる音楽も、多くのポスト・プロダクションを施されているように思われる。たとえば冒頭近くに示される叔母の仕事である法廷の場面。まるで虫の音のように空虚に拡散して室内一杯に響き渡っていた検事による陳述の声が、次第に収束して発話者と釣り合う輪郭を獲得し、意味を語りかけるように変化していく(ちょうど遠くからこちらに近づいてくる人物に、次第にキャメラのピントが合っていくように)。最後のスタッフ・クレジットでも、サウンドに関するポスト・プロダクションの担当スタッフが相当数いた。選曲に関しても、単に時代背景や聴き手である叔母のキャラクターを考慮するだけではなく、その音楽が流れる場面に対する「対位法的」な異化効果を入念に考え抜いたもののように思われる。ヴィム・ヴェンダースが『さすらい』で、リュディガー・フォーグラーにポータブル・プレーヤーでキンクスのシングルをかけさせたのとは違うのだ。
 同様に、モノクロによる階調のなだらかな移り変わり、輪郭や陰影の柔和さを室内でも屋外でも獲得するために、映像に関しても相当量のポスト・プロダクションを施しているように見受けられる。こちらもクレジットでは相当数のスタッフがいた。イーダの肌の大理石像のような「表情のない温かみ」はこうした努力の賜物であることだろう。

なぜか『午後の網目』のマヤ・デレンを思わせるカット

 音響と映像に係るポスト・プロダクションの可能性について書いたが、これまで見てきたように両者の方向性は、およそ正反対のものである。柔らかにけぶる明暗のなだらかな移行の連続性がもたらす調和の感覚により、映像が言わば破れることのない厚い皮膜を張り巡らすのに対し、音響が担うのはその都度その都度の不整合を力として、この皮膜を内側から大胆に食い破り、切り裂く動きにほかならない。映像+音響である映画を、両者を慣習的・制度的に曖昧に結びつけるのではなく、いったん切り離して、確信犯的に再結合すること。このゴダール的なテーマに対し、『イーダ』は見事な応答を示していると言えよう。
 ちなみに、映像の側に割り振られた調和的連続的皮膜を、カトリックの伝統や様々な歴史的矛盾を見てみぬふりをしながら引き継いだ戦後の共産主義体制に当てはめ、戦時中の対独協力によるユダヤ人虐待という歴史的スキャンダルを、皮膜を食い破る音響の力になぞらえることはもちろん可能だ。だが、それは数ある可能性のひとつに過ぎない。ユダヤ人問題の告発を作品のテーマ・メッセージととらえ、表象に関わる様々なヴァリエーションをそのための手段としてとらえる見方は、あまりに一面的で貧しいものだと思う。むしろ問いは開かれたまま、私たちの前に依然として横たわっているのだ。


『イーダ』 2013年 ポーランド
渋谷シアター・イメージフォーラム
公式ウェブサイト http://mermaidfilms.co.jp/ida/
日本版予告編※ https://www.youtube.com/watch?v=HEl1sE3nAUg
※音楽や日本語ナレーションを不用意にかぶせる愚を犯しているので注意のこと。
英語字幕版予告編* https://www.youtube.com/watch?v=oXhCaVqB0x0
*こちらも「映画音楽」はてんこ盛り。



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映画・TV | 00:45:59 | トラックバック(0) | コメント(0)
分厚い窓ガラスの向こうで音も無く凍りついた世界 − NHK−BS「井上陽水ドキュメント『氷の世界40年』」を見て  He Saw the Frozen World in the other side of Thick Window Glass without Sounds − "Document of Yousui Inoue / 40 Years from ‘Icy World’" Broadcasted by NHK-BS
 多田雅範に教えられて、NHK−BS「井上陽水ドキュメント『氷の世界40年』」を見た。NHK−BSではスタジオ・ライヴを含んだ井上陽水の番組をよく制作・放映していて、結構見ている。CDは買ってないので。あーバンドに今堀恒雄が入ってるとか、西田佐知子「コーヒー・ルンバ」をカヴァーしてるとか、みんな一連の番組で知った。Youtubeで公開されている音源を追うと、繰り返し歌われる代表曲が、バンドの編成やアレンジメントの変更により、次々と新しい扉を開いていることにぞくぞくする。再演というよりはセルフ・カヴァー。だから先の一連の番組で陽水の曲をカヴァーさせられる歌い手たちは、みな醜態を晒すことを余儀なくされる。それにしても町田康はひどかったな。もっとも、そのことは歌っている町田自身が一番鋭く感じていたに違いなく、「早く終わりにしてくれ」というぼやきオーラを画面いっぱいに放って、消え入りそうにしていたっけ。

 レコード会社の倉庫で見つかった16chマスター・テープの聴取や当時のスタッフへの聞き取り等を通じて初のミリオン・アルバムとなった井上陽水『氷の世界』を、40年後の現時点において検証するとの企画は、幾つもの興味深い発見をもたらしてくれた。
 「心もよう」と「帰れない二人」を巡るプロデューサー多賀英典と、より若い団塊世代(後で調べると5歳違いだが、この5年の差は大きい)の陽水はじめミュージシャン、スタッフの価値観/判断の対立。マルチトラック・テープが明らかにする様々なサウンド上の仕掛けや影響関係(特にエレキ・チェンバロやコーラスのファンキーな使用やメロトロンの導入)。「心もよう」の歌詞が曲題を含め何度も書き直され、原型を留めていないこと。冒頭の「開かずの踏切」が陽水の作詞作曲作品に対する編曲者星勝による再作曲であること。ウェスト・コーストとファンキーとプログレと歌謡曲の不思議な相互作用。
 65歳を迎えた陽水の歌声には初めて逃れることのできない「老い」を感じることになったが、それでも『氷の世界』でギターを担当した西田裕美の少しも弾まない(弾ませる気など微塵もない)カッティングに対し、口元で、あるいは舌先で声を一瞬弄び押しとどめ、あるいはすっと背中を押してフライングさせて、歌を息づかせる彼独特の「魔法」は健在。

 インタヴュー音源のみの登場となったプロデューサー多賀英典の発言の「パンク」な芯の強さはとても印象的だった。彼がいなかったら『氷の世界』は無かったし、あのような怪物的なアルバムにはなっていなかっただろう。アーティストたち(谷村新司やなかにし礼、小室等、みうらじゅん、リリー・フランキー等)の指摘がそれぞれ限られた視角に立ちながらもそれなりに納得できる者だったのに対し、言わば「評論家」役の伊集院静と中沢新一は無惨だった。伊集院は最初からどうしようもないにしても(そもそも彼になんて頼むのが悪い)、中沢のオイルショックと3.11を区切りとした歴史論も、結局、歌詞を解釈して、アルバムが売れたという社会的動向と結びつけているだけに過ぎない。彼らの言葉は『氷の世界』に詰め込まれた音に擦り傷ひとつ付けることができない。ましてや切り裂くことも突き刺すことも。埃まみれの付箋紙に書き込まれた言葉は、指差す先に貼付けられてもそこに留まることができず、すぐに剥がれ落ちて床の上のゴミとなる。
 そう言えば「音楽評論家」はひとりも出演していなかったな。伊集院や中沢がその代わりであり、彼らより説得的に「社会現象としての『氷の世界』」を語り得る者はいないというのがきっと番組制作者のメッセージなのだろう。「作家」や「学者」に比べ、社会的地位においても知名度においても劣ると言われればそれまでだけど。おそらくは番組制作者も「音に突き刺さる言葉」のイメージなんて持ち得ていないのだろう。彼らにとって言葉はあくまでレコードの解説のように音に「添えられる」ものでしかない。邦楽国内盤にライナーが付いていないのは、音は音盤に入っていて「聴けばわかる」と考えられているからだ。TVでも音は流すので「聴いてもらえばわかる」と。音楽雑誌は音が出ないから、わざわざ音を言葉で説明しているのだと。

 竹田賢一は『地表に蠢く音楽ども』(月曜社)所収の「Hearing Force of Records' Universe」で、ディスク・レヴューとは音楽産業による一面的な聴き方の押し付けに対抗する別の聴き方の提案であり、読者との相互批判的共同作業に向けて開かれていくべきものであると述べている。まったくその通りだ。音に向けて放たれる言葉は、その音の事前の不充分な予告/解説であるにとどまらない。それは音を聴くことに影響し、それを触発するだけでなく、聴いた音の「咀嚼」や「消化」にも影響し、そこに変容を及ぼす。それゆえに「聴き方」の提案なのであり、音を聴くことによって代償され尽くしてしまうものではない。ディスク・レヴューが「お買い物ガイド」としてしか書かれず、また読まれていない現状にもかかわらず。

 何より井上陽水自身がそうした言葉の極めて優れた遣い手/実践者にほかならない。彼が当代随一の歌い手であるのは、決して美声の持ち主であるからだけではない。
 冒頭に述べたように、彼はサウンド/演奏により曲を歌い変えていく。それは単にテンポやキーを変更したり、シンコペーションを効かせたりするといったレヴェルではない。彼はサウンド/演奏の起伏や肌理を触知し、自在に言葉のタイミングを操る。それも語よりもさらにミクロな単位で。それが先ほど「魔法」として描写した仕方である。エヴァン・パーカーが循環呼吸とマルチフォニックスを操るのと同様に、陽水も口腔の筋肉や粘膜を総動員して(彼ほど忙しく頬を膨らませたりひしゃげさせたり、あるいは長過ぎる舌を掻き回す歌い手はいない)、声を砕き、息を切り分けて細分化し、母音の変容を、子音の立ち上がりを、音素と強弱の配分をコントロールする。その場で即興的に。
 むしろ声の楽器的な用法と言うべき(無論それだけにとどまるものではないことは強調しておかなければならないが)ヴォイス・インプロヴィゼーションを別にすれば、即興的な歌い手としてすぐに浮かぶのは、先頃死去したLou Reedだろうか。「この男には、歌詞を何も用意せずにステージに上るや、その場で歌詞を作りながら、幾らでも歌ってみせるという、天性のソングライターとでも言うべき才能が備わっていたのだ」(大里俊晴)。だが陽水の行っていることは、サウンドの斜面を声により自在に滑走することではない。彼は歌うたびに、曲を詩を改めて書き直しているのだ。先に見たような量子化されたミクロな領域で。それにより光の射し込む隙間の位置や幅が変わり、入射角が異なって、反射や拡散が違うものとなり、全く別の世界が立ち現れる。だからこそコメントの対象となるべきテクストは先に確定している必要がある。コメントを書き入れるべき余白を空け、文脈の紐帯を緩め、語の意味合いを多義的に散種させて。その時、彼の作品世界は、姿の見えないリンゴ売りとテレビが放射するあり得ない色彩、断頭台の隣で催される「指切り」の儀式と身動きできず舞台でもがくコメディアンが、触覚だけでなく、視覚/聴覚/味覚/嗅覚/体性感覚、いや思考や想起や妄想等、様々な質の「寒さ」の中ですれ違うカーニヴァル/メニッペア的な多次元空間となる。これを批評と言わずして何と言おう。

 井上陽水の批評感覚の根底には、どうしようもない「距離」が横たわっているように感じられる。もちろんあらゆる批評的営為は対象化のための距離を必要とするが、そうした「切り離し」よりも、むしろ「切り離され」といった受苦的な感覚がそこにはあるように思われる。それを「疎外」と言ってしまってはあまりに喪失的色合いが強くなってしまう。むしろ解離的とか、離人症的なものと言えばいいだろうか。いま自分がいるはずの場所から自分が切り離され、隔離されている感覚。端的に言えばそれは音の無い世界だ。世界に充満するざわめきを切除することで世界は透明さを増し、くっきりと輪郭を際立たせながら、しかし手を触れ得ない彼方へと遠ざかる。自分が世界に包まれ浸され、その場所に埋め込まれている感じが一挙に奪い去られる。分厚い窓ガラスの向こうに広がる静謐に凍りついた世界。そこにある動きはどんなにスプラスティックに騒々しくても、無声映画のように冷ややかに乾き切っている。
 以前の番組で、確か陽水が中学生時代に書いた歌詞に曲が付けられた作品が紹介され、その世界があまりにもその後の彼の作品世界とまっすぐつながっていることに「陽水は子ども時代からすでにして彼自身だったのか」と驚かされた覚えがある。そこでは分厚いガラス窓で廊下と仕切られた教室の中の世界が「水族館のよう」と表されていた。

 いま手元にないので正確な引用ができないのだが、武満徹は確か最初の著作『音、沈黙と測りあえるほどに』に収録された文章で、訪れた炭坑労働者住宅の廃墟を描写しながら、音楽家が戦うべき敵として「死の沈黙」を名指していた。強い風に壁が揺すられ、ぱだんぱだんと扉が開閉する音を聴きながら、彼はそこに人間の生活する音が無いことを深く悲しみ、怒りをたぎらせていた。「沈黙」に耳を傾け、身体を深々と浸し、肌で慈しむ「美しい日本の作曲家」のイメージが強かっただけに、その激しい怒りを意外に感じたことを覚えている。同じ本の中で武満は、瀧口修三たちが集う画廊の地下フロアに立ちこめる濃密にして優雅な「沈黙」についても(当然のことながら肯定的に)書いていた。前者の怒りを若さゆえの教条主義的な社会正義志向と切り捨てることはできない。死の直前に記した『サイレント・ガーデン − 滞院報告・キャロティンの祭典 − 』で彼は、「病室には生活音が無い。例えばペットの鳴き声、水道の皿を洗う音、遠くの子供の声 etc.」とぽつりとつぶやき、『沈黙の庭』Silent Gardenに向けた構想ノートに「真昼の庭は沈黙している。世界を拒むように」と書き付けている。知らぬうちに間近まで迫っていた死が影響しているかもしれないにせよ、彼はざわめきのない死の沈黙への怖れを、終世手放さなかった。

 井上陽水が炭鉱の街である福岡県田川で育ったことはよく知られている。彼の原風景には音が決定的に欠けていたのではないだろうか。番組の中で同郷(といっても北九州市のようだが)のリリー・フランキーが「何にも無いところだ。風景は一色だし、音楽なんて何も無い。だから音楽は(井上陽水)の血の中にあったのだろう」と語る。いや、彼はむしろ音の欠如に誰よりも鋭く気づいていた。身を切られ苛まれるほどに。だからこそ音を生み出さずにはいられなかったのだろう。世界との紐帯を手に入れ、世界を取り戻すために。
 やはり番組の中で、ラジオのディスク・ジョッキーとして陽水を世に広く紹介した森本レオが、陽水の中にある闇を垣間見たとして、仲間で家に集まり酒を飲んでいた時のエピソードを話していた。彼によれば、せっかく本人がいるのだから陽水を聴こうじゃないかということになり、LP『断絶』をかけた。歌いだしの瞬間に、そこにいる陽水がゴクリとつばを飲む音が聞こえるほど緊張していることに気づき、思わず茶化した。すると陽水は突然怒りだし、「こちらは命がけなんだ」と大声で怒鳴った‥‥と。
 ステージに上がり、あるいはスタジオでマイクロフォンに向かう時、客席のざわめきも、バンドの音も、自らが搔き鳴らすギターの音すら分厚い窓ガラスの向こうへと遠ざかり、世界から切り離されて深く冷たい死の竪坑を落ちていく。どこまでもどこまでも。悪夢から目覚めようと声を張り上げる。声さえ絞り出せれば身体を暖かくざわめきで包んでくれる世界が戻ってくる。唇の端から流れ出た声は、だが自分の頭の中で鳴っているだけかもしれず、眼に映る世界は変わらず音を欠き色を失って、まるで影絵のようにゆっくりと動いている。懸命に息を吐き尽くし、空っぽになった頭であたりを眺め回すと、いつの間にか世界はそこにあり、色があり、匂いがあって、手を伸ばせば触れることができる。いま僕は音と共に世界の中心にいる。


陽水1 陽水2
井上陽水『氷の世界』 
1973年12月1日発売


陽水3
2013年12月28日(土) 21:00〜22:15 NHK−BSプレミアム
井上陽水ドキュメント「氷の世界40年」

今からちょうど40年前、日本で初めて売り上げ100万枚を達成した伝説のアルバムが発表された。当時25歳だった井上陽水の『氷の世界』だ。この傑作はどのように生まれたのか、長年行方が分からなかったマルチテープを発掘し、制作に加わったミュージシャンやスタッフの証言を交えて描き出す。そして井上陽水本人が40年前の自分と向き合い、収録曲を演奏する。果たして65歳の陽水はどんな「氷の世界」を描くのか?
【NHK ONLINE 番組表より】

映画・TV | 14:18:43 | トラックバック(0) | コメント(0)
日常と伝説-『ドキュメント灰野敬二』レヴュー  Everyday Life and Legend-Review for "A Document Film of Keiji Haino"
【前口上】
 友人たちの評判が良いので、7月7日からシアターN渋谷でモーニング/レイト・ショー上映されている『ドキュメント灰野敬二』を観に行ってきた。観る前にはそれでもいろいろ構えるところがあったのだが、観終わって至極素直に感動したので、今回はこの作品について語ることにしたい。


1.記憶と現実、日常と伝説

 灰野=「灰」の「野原」。
 「本名なんですか」と訊かれることもあるという自身の名前について、灰野はこう絵解きしてみせる。この導入部ではむしろ彼の特異性が暗示される。今の灰野敬二へとなるべくして至った何か宿命的なものが。
 しかし、そうした感覚は、その後たどられる幼年時代からの記憶の中で、いつしか崩れ去り沈んでいく。千葉県市川市に生まれた彼は、川越市に引っ越すまでの間、近くにあった動物園「谷津遊園」へ両親に何度も連れていってもらったと語る。その頃は動物園の園長さんになりたいと思っていたとも。私も母方の祖父母が池袋から市川市に転居した関係で、祖父母の家に遊びに行った際に「谷津遊園」に連れていってもらったことがある。どんなところだったかもう全然覚えていないけれど。灰野の軌跡とのほんの小さな重なり。

 自由にさせてくれた幼稚園、集団の枠にはめようとする小学校、共働きの両親の帰りを待つ親戚の家、バス停まで出迎えに来てくれる母親、おそらくは束の間の息抜きの場となり得たであろう近くの教会の日曜学校、高鳴る期待が残酷に裏切られた子ども会‥‥。
 どこにでもありそうな園舎や校舎の映像、アルバムの古びた写真、ガスタンクのある風景が灰野の語りと共にたどられる。それらはどこにでもありそうな、極めて日常的な(何の特権性も主張し得ない)光景に過ぎない。そこに自宅でインタヴューに応える灰野の姿や、民族楽器のコレクションをうれしそうに取り出す手つき、生演奏シーン(現在の不失者)等が挿入される。
 幼時から小学、中学、高校、ロスト・アラーフへの加入、不失者の結成、初ソロ作『わたしだけ?』の制作、フレッド・フリスとの出会いをきっかけとしたニューヨーク・ダウンタウン・シーンとの交流等まで、時系列に沿った「記憶」の語りと、先に述べた現時点でのインタヴュー、ライヴ映像、CDやDVD制作に向けた綿密なリハーサル等、「現在」のシーンが交錯するが、編集の確かさもあって決して展開が錯綜することはない。過去の記憶は現在としなやかに結びつきながら、しかるべき奥行きを自然とかたちづくっていく。まるで音もなく雪が降り積もるように。

 過去の記憶が、決して現在を説明するために持ち出されているのではないことに、改めて注意しよう。小学校で強い閉塞感を味わい、これに反発を覚え、やがてそれが無視に変わっていったことや、子ども会での悲しい体験が疎外感/孤独感を強めたことが、その後の灰野の形成に大きく関わっているのはもちろん確かだろう。だが、映画はそうやって彼を説明しようとはしない。むしろ記憶の中にある環境を現在の風景や地図でたどり、それらが何の変哲もない、ありふれた街の景色であることを確認する。カメラはちっぽけな現実の手触りを丹念に積み重ねていく。そのことによって灰野敬二という「伝説的存在」を神話化することなく、観客と地続きの日常の中に立たせることに成功している。これは大きな達成だ。


2.伝達の方法-「わたし」と「あなた」を結びつけるもの

 灰野を神話化せず、日常の中に立たせることによって、彼がナスノミツル、高橋幾郎と繰り広げるリハーサルのシーンが、説得力を持つものとなってくる。文字のかたちや大きさを変えた「大」・「中」・「小」にさらに様々な書き込みを加えた灰野自筆の「楽譜」は、神話化されないことによって、訳のわからない御託宣ではなく、彼のやりたいことを何とか伝えるために編み出された、とてもローテクながら真摯に考え抜かれた伝達方法であることが明らかとなる。もちろん灰野は「暴君としての作曲者」ではなく、実現の過程で失われてしまう(あるいは新たに見出される)可能性に極めて敏感な演奏者/共同作業者である。それゆえ実際に試してみる中で、できること/できないこと/改善すべきことが明らかにされ、実際にかたちになったイメージと向き合いながら細かな修正が加えられる。

 このリハーサルや、その後で灰野自身によって説明される、擬態語的(?)に用いられた大きさや形の異なるひらがなに、音の推移を示すと思われる曲線が付された別種の「楽譜」(どこかかつての具体詩というか前衛詩的ではある。私はなぜか村山知義のことを思い出した)、あるいは音の「立ち上がり」や「濁り」をパラメータ/符号化した、また別種の「楽譜」等を見ていくと、これは一種のグラフィック・スコアではないかとの考えが頭を過ぎる。もしそうであれば、パラメータの管理を工夫して、ダイアグラム的な表現や、あるいは電子音楽の楽譜のようなグラフィックの作成も可能なはずだが、おそらく灰野が意図しているのはそんなことではあるまい。彼は音楽を彼の頭の中だけにあるもの、そこだけで鳴っているものとは考えていまい。むしろ「わたし」と「あなた」を結びつけるものとしてとらえているのではないか(ここで「あなた」とは共演者であり、スタッフであり、聴き手でもある。要は広義の「共同作業者」にほかなるまい)。彼が手っ取り早く一人多重録音で作品をつくりあげようとしないのは、そのためではないだろうか(たとえ自分で演奏したものであっても、あらかじめ録音された、その場で変わらない/反応しないものに対し、重ねて演奏する彼自身が嫌になってしまうということもあるかもしれない)。

 Plan-Bにおけるパーカッション・ソロの演奏の映像収録において、彼は照明のオンオフや照度/絞りの変化、カメラのズームのタイミングや度合いを、先ほどの「大」・「中」・「小」を用いた「楽譜」に似たやり方で組み立てようとする(もちろん彼自身の身体の運動や打楽器からの出音、響きの広がり等を含め)。実際、それは不失者の演奏に近い(具体的にはやはり『光と名づけよう』か)。異なる周期で(間歇的にあるいは伸び縮みしながら)繰り返されるリズムが重ね合わされ、ずれ、衝突し、砕け散る。灰野は撮り終えたパーカッション・ソロの映像について「たとえ音が聴こえなくとも音楽を体験できる」と語っているが、まさにこれこそが目指したことだろう。しかも極めて灰野的な仕方で。ねらいを説明し、理解を共有した上で、実際の手順・やり方について提案し、実際に試してみながら、できること/できないこと/改善すべきことを明らかにし‥‥という進め方は、まさにナスノや高橋とのリハーサルと同じである。むしろPlan-Bの方が灰野の撮影や照明に関する知識・経験が少ないため、それだけ試行錯誤が多くなり、集団創造の比率が高まっているが。

 彼は「やりたいことがだんだんできるようになってきた」と語りながら、「もっとこうしたい‥ということを、以前よりちゃんと説明し伝えられるようになった」と付け加えるのを忘れない。彼は亡くなった盟友小沢靖のことを毎日思い出すというが、長年苦労を共にし、阿吽の呼吸で事を進められたであろう彼を失ったことが、灰野に意志伝達の手段について改めて考え抜くことを課したのではないかとも思う。いずれにしても、彼の演奏/音楽が閉ざされた秘術などではなく、こうした開かれた地平を踏みしめ、度重なる挑戦と試行錯誤に支えられていることを、とても丁寧にかつ自然体で示し得たのも、本作の大きな功績だろう。


3.芽生えたばかりの決意

 終盤、がらんとした野外音楽堂で、灰野が「ここ」をひとり弾き語る。声は柔らかな吐息をはらんで聴き手の肌にそっと触れてくる。と同時にその声/言葉は、初めて自分の2本の足で立ち上がったような、まっすぐで瑞々しい決意に満ちている。優しく聴き手を包み込む子守唄であると同時に、自我が芽生えたばかりの子どもの痛々しい決意のひたむきな表明でもあるうたは、観客の心の奥深くにすっと触れてきて、これまでスクリーンに映し出されてきた幼稚園入園以前からの各場面、様々な出来事の甘苦いフラッシュバックを呼び起こす。ぐるぐると巡る、「いま」でも「遠い昔」でもあり、「わたし」のものでも「あなた」のものでもある記憶の群れが立ち騒ぐ。にもかかわらず、映像がとらえるのは、がらんとしたステージの上にぽつんと立つ、たった一人のアーティストに過ぎない。音楽や映画の力の偉大さを感じる瞬間だ。

 映画では屋外の映像であるため意識されないが、サウンドトラックCDでこの部分を聴くと、最後のギターが鳴り止んだ後に続く長い沈黙で、小鳥の声が聞こえる。そして灰野が「終わります」とぼそりとつぶやく。響きの行く末を見定めながら、音楽は永遠に続くことなく、一回一回いつも終わってしまう(終わってしまわないわけにはいかない)という運命、厳正な事実と正面から向かい合うように。


4.終わりに

 本稿でこれまで何度か書き付けてきたように、灰野の伝説化/神話化に与することなく、観客と地続きの日常の中に彼を立たせている点で、本作品を高く評価したい。そして、にもかかわらず、音や映像の力を存分に引き出している点においても。
 むしろ本作品は灰野を聴いたことがなく、名前すら知らない人に観てもらいたいと思う。他の作品との併映や(ドキュメンタリー)映画祭/特集のプログラムに組み込まれる等により、思いがけず灰野の姿を眼にして、あるいは声や演奏を耳にしてしまう人が増えればと願わずにはいられない。



【上映情報】
上映会場:シアターN渋谷(http://www.theater-n.com/)
モーニンク゛・ショー 11:00~
レイト・ショー 21:10~

映画『ドキュメント灰野敬二』公式サイト
http://doc-haino.com/
予告編等も見ることができる



映画・TV | 18:01:32 | トラックバック(0) | コメント(0)
「新・嵐が丘」讃-『Lupin the Third~峰不二子という女~』レヴュー  Hommage to "New Wuthering Heights"-Review for " Lupin the Third~The Woman Called Fujiko Mine~"
 もう先月のことになってしまったが、6月27日(水)の深夜(実際には日付が変わってもう28日になっていたが)、アニメ『Lupin the Third~峰不二子という女~』が全13話の放映を終え、無事完結した。今回はこの作品について述べてみたい。なお、一部ネタバレを含むので、未見の方は注意されたい。


 『ルパン三世』のアニメ・シリーズについては、第一シリーズ(いわゆる「旧ルパン」)の本放送時から観ており、その作品世界の独自の手触りやよく出来たプロット構成を楽しんでいた(萩原健一主演のドラマ『傷だらけの天使』の放映開始も同日、同じチャンネルだったような記憶がある)。第一シリーズについては、オリジナル演出の大隅正秋による前半と、彼が降板して入れ替わりに宮崎駿たちが加わった後半を明確に区別する見方もあるようだが、当時は一連の流れとして楽しんでいたように思う。
これに比べると、後になって始まった第二シリーズ(いわゆる「新ルパン」)は、ずいぶんと子どもっぽい造りになってしまい失望を禁じ得なかった。もちろん、観る側の年齢の変化も関係しているのだろうが。よく言われるように、宮崎が変名で関わった2回(ストーリー構成や演出だけでなく、作画や背景の仕上がりも含めて、作品の出来がまったく異なる)を除けば、概ね低調と言うことができるだろう。
 その後、シリーズは繰り返し再放送され、映画作品が制作され(実写版もあった‥忘れたい忌まわしい記憶)、2時間枠のTVスペシャル版も多数つくられて現在に至る(『カリオストロの城』以降はほとんど観ていないが)。替えが効かないと思われたルパン役の声優山田康雄の死すら乗り越えて継続しているということは、それだけ『ルパン三世』がコンテンツとして人気があるということなのだろう。

 そして今回。「40周年記念」と銘打たれ、深夜帯ながら30分番組のTVシリーズというオリジナルな枠組みが復活する。スタッフの充実も報道され(私が知っている名前は音楽担当の菊地成孔だけだったが)、期待は否応なく高まった。平日深夜という時間帯設定も、逆に言えば、ファミリー向けでない「尖った」作品内容に向けた冒険を可能にするかもしれないと。


 さて観終わった感想を言うならば、不満は多いが、数々の工夫もあり、総じてスタッフは健闘したのではないだろうか。基本的には1回完結のストーリーを積み上げながら(ただし、終わりには必ず「to be continued」と表示される)、終盤になって実は初回から張り巡らされていた伏線を次々に浮かび上がらせ、ジグゾー・パズルよろしく組み立てていく手並みは、いささか破綻もあり、決して鮮やかとは言い難いが、その意欲は買える。1クールのシリーズものならではの特質を活かしたトライアルではある。
 黒幕と思われていた人物がすでに死亡していて、彼に虐待されていた少女(年月が経過して、彼女はもうすでに少女の年齢ではなく、さらにその外見は実年齢以上に老いさらばえているが)の意識が、峰不二子に「捏造された過去の記憶」を植え付け、その後の人生を監視していた‥‥という種明かしは、屋台崩し的な大ドンデン返しではあるものの、そこまで崩してしまった結果、ルパンがあそこまで不二子に惹き付けられる魅力を与えていたはずの過去の傷跡も消し去ってしまい、結果としてルパンの不二子への執着は根拠を失って空転し、ギャグとして笑い飛ばされるしかなくなってしまう。この妙に「健全」な(お茶の間向きな?)結末はちょっともったいない気がした。というのも後で見るように、今回のシリーズの魅力は、そうしたプロット構成に回収しきれない「痛さ/イタさ」への執着/偏愛のように思われるからだ。

 そのことについて語る前に、他の点(アニメ作品としての完成度等)についてざっと振り返っておこう。まずは画調について。昨今のアニメのCG等も多用したクリアーさを嫌い、劇画的なラフなタッチと陰影を目指した狙いはよくわかる。画面に重ねられる手描きの効果線による陰影やあえて細密には描き込まない背景がその象徴だろう。けれど絵の質自体は安定しているとは言えなかった。動きについても稚拙さが目立つことがあった。これは予算上(制作作業期間)の問題もあるのだろうか。均質でない描線の採用が、絵の動きや質の確保を難しくした側面はあるかもしれない。絵コンテ段階のラフな絵だとずっと魅力的に見えたりとか。
 声優陣(先立つTVスペシャル版最新作「血の刻印」と同一キャストとのこと)は概ね好演。特に今回主役の峰不二子を務めた沢城みゆきは、むしろ第一シリーズで同役を務めた二階堂有希子の流れを受け継ぐ感じで、アニメアニメしない気品と知的なセクシーさを兼ね備えていたように思う。銭形警部役の山寺宏一は流石の貫禄。オスカーなる美青年キャラとのBL的な関係(!)も描かれるのだが、その辺も低音を効かせて魅力的に演じていた。ルパン(栗田貫一)、次元(小林清志)、五右衛門(浪川大輔)の三人組では、五右衛門が一番影が薄かったか。これはストーリー構成上の必要から、ニヒルさよりも純情ぶりをキャラ設定で強調され、中途半端にギャグ・メーカーを割り振られたことが大きいかもしれない。

 今回のシリーズ後半になると、不二子が少女時代に受けた忌まわしい虐待と幽閉生活(先に述べたように、実はそれは捏造された過去なのだが、この時点では彼女自身の過去のようにしか見えない)が繰り返し語られる。さらに、虐待とは単に身体的暴力(折檻や陵辱)にとどまらず、精神操作のための薬物投与や電気ショックによる人体実験を含むものであり、背後には巨大な製薬会社が存在し、かつて起こした流出事故により「オイレンシュピーゲル」なる街がまるまるひとつゴーストタウン化し、歴史の暗闇に葬り去られた事実が明らかにされる。
 それとともに、そうした黒幕たる強大な力の暗示として、フクロウ(ドイツ語で「オイレ=Eule」)の形象があちこちに散りばめられる。思えば初回に登場したカルト教団は「フロイライン・オイレ(フクロウの娘)」といったし(実際に背後でつながっていることが後に示される)、「オイレンシュピーゲル」とは「フクロウの鏡」を意味する(どうやらリヒャルト・シュトラウスの交響詩の元となった民間伝承「ティル・オイレンシュピーゲル」とは関係なさそうだ)。フクロウとは作品中でも語られるように「ミネルヴァのフクロウ」として知の象徴であるあるわけだが、ここではむしろ世界の混乱や人生の悪戦苦闘を小高い木の枝の上から距離を置いて冷ややかに見下す気味の悪い存在として描かれている。
 ここで注意すべきは、そうした忌まわしい過去が、単に部分的な「被害」としてではなく、不二子の人生/人格を形成する要因として執拗に描かれることだ。華美で豪奢なものへの執着も、セックスへの貪欲さ・奔放さも、そして盗むことへの押し止め難い欲望も、すべてがこのトラウマ/PTSDがもたらす強烈な依存(あるいは代償行為)のように見える。この狂乱が自意識過剰なまでの自虐的な痛み/イタさを振りまくことになる。シリーズ中には、とある芸術家によって全身に象嵌細工にも似た精緻な刺青を施され、言葉や思考すらも奪われて「生ける芸術品」とされた少女に対し、不二子が我を忘れターミネーターばりの不死身の追撃を見せるエピソードがある。「他人に自分の人生を自由に操られる存在」である彼女を抹殺することにより、不二子は自らの過去を抹消したいのだと説明されるが、これほどイタい行動もないだろう。

 そのことを圧縮して集約的に語っているのが(前もって正確に暗示しているのが)、オープニングのタイトル・バック(アニメーションと主題曲)にほかならない。甘美な繰り返しから急速に昇り詰める弦と、錯乱をはらんだ神経質なハープシコードの組合せによる、題曲「新・嵐が丘」は、むしろイタリア貴族の家族室内劇(ルキノ・ヴィスコンティ『家族の肖像』や『イノセント』みたいな)を思わせる(溺れるような精神的危機と近親相姦の澱んだ誘惑が匂い立つ)。
 橋本一子による語りの内容(作編曲同様、作詞もまた菊地成孔が担当している)も、タイトルにちなんで、かなり唐突にあざとく「嵐が丘」の名が語られる場面をはじめ、自意識過剰にして自虐的な、そして自己像と他者から見た像が限りなくズレていく自己耽溺的なイタさに満ちている(「嵐が丘」のキャサリンもまた典型的なイタい女ではなかったか)。このイタさは曲調(編曲を含む)と深夜アニメというカテゴリーとのズレ、あるいは『ルパン三世』のハブリック・イメージとの壊滅的なズレともども、「イタさ」をこそ目指した菊地の確信犯的所業と言うべきだろう(橋本の語りという人選も、イタさ中心に考えれば、ズバリ核心を突いている)。
 エリザベス・テイラーやウラジミール・ナボコフ『ロリータ』への菊地の偏愛はよく知られている。それはそのままイタさへの偏愛/執着なのではないだろうか。菊地は別にいたいけな少女や小悪魔そのものが好きなわけではなく、実はファッションとしてのロリータ好きですらなく、概念としての少女/ロリータがオブジェクト・レヴェルに舞い降りた際に身にまとわずはいられない「苦い」乖離性(それゆえ彼女を取り巻くアイテムが注目を集める)を、とびきり純度の高い「イタさ」として愛しているように思えてならない。

 そう考えると、本質的にイタい女のイタい物語である『Lupin the Third~峰不二子という女~』が、それゆえに菊地に参加を求めたとすれば(というより、よりによって『ルパン三世』の音楽をDCPRGの、ダブ・セクステットの、ペペ・トルメント・アスカラールの菊地に依頼する思考の脈絡が私には思いつかない)、これほど的を射た人選もない(それこそ嘘のように)。この点では、この作品の大要はオープニング・アニメーションに集約されている(尽きている)としても過言ではあるまい。(二人の不二子が交わす熱いキスがシリーズ中のエピソードでも語られる同性愛(レスビアン)的なものというより、二人の不二子の拳銃による決闘シーンに先立たれていることが示すように、ここでは自己言及/自己反復的な自己愛/自己耽溺でしかないのと同様、見せびらかされる裸身の放つエロスも、薔薇の棘に縛られるマゾヒズムも、すなわち自虐であり、肥大した自意識の病でしかない。
 「さあ すべてのことをやめ 胸だけをときめかせながら 私のことを見つめて」と始まる歌詞は一見女王様然としているようでいて、他者を消去し、自分自身だけを見詰めようとする不安に震えている。「盗むこと それは壊すことでも 奪うことでもない 特別に甘い悪徳」と彼女はそれが自らのための聖なる儀式であることを認めている。「心理的根拠は 不明」と念押ししながら(この辺は自称フロイディアンの菊地らしい)。以降、語りは「しゃべらないで逃げて 逃げないで隠して 見つけたら罰して 罰したら殺して 私を救って‥」と高揚は頂点に至る。自分でも止めようのない憑かれたようなモノローグとして、繰り返しの対称性を螺旋状に崩しながら加速を続け、自己愛と自己破壊の衝動の矛盾を祈るように爆発させながら。

 実は菊地は「新・嵐が丘」以外にも結構な量の音楽を、このシリーズのために書き下ろしており、それらは第一シリーズのチャーリー・コーセイを髣髴とさせるシャウトの入るホットなファンキー・ナンバーやピアノのフリーな乱舞など、かなり多岐に渡っている(「サムライ・フレンド」や「みんな大好き峰不二子」等の子どものうたや、古びた遊園地に響く手回しオルガンは演出の要請だったのだろうが)。これらの音楽が演出上効果的に使用されていたかと言えば、いささか疑問が残る。素材を充分に活かせなかったとの「宝の持ち腐れ」感が強い。菊地自身が本作品の音楽担当について、かなり緊張/苦労したと語ってもいるだけに。
 「新・嵐が丘」の終盤、タイトル文字のフラッシュと交錯しながら、昇り詰めた弦がピアノの連打とともにタンゴばりにたたみかけ、最後、ブラシによるスネアだけが残って淡々とコーダを締めくくる(画面は妖しく揺らめきながらモノクロームに沈むケシの花の図柄)あたり、なかなかよく出来ていただけに、本編中でも、こうした画面と音楽のシンコペーションぶりを味わいたいところだった。


『Lupin the Third~峰不二子という女~』OPから



映画・TV | 16:12:29 | トラックバック(0) | コメント(0)
記憶の復讐-韓国映画「母なる証明」レヴュー  Revenge of Memories - A Review for Korean Movie “Mother”
 昨日、BSで観たので、頭に浮かんだことをちょっとメモしておきます。最初にお断りしておけば、TVで観ただけで書いているので、本格的な映画評になどなるはずもありません(時間短縮のためにカットもされているだろうし)。それとネタバレを含みますので、未見の方はご注意ください。



 原題は『母』、邦題は『母なる証明』と、全編に渡って描き出される「母性の暴走」を強調しているが、これはむしろ「記憶」の映画と言うべきだろう。障害を持つトジュンがこめかみに指を当ててぐるぐると回す「呪われたこめかみ」のポーズをするたびに、過去が脈絡無くフラッシュバックする。
 作品の展開において重要なのは、このうち彼が母に殺されかけた(農薬を飲まされ無理心中させられるところだった)場面を思い出すシーンと、ラスト近く、母がトジュンによる殺人現場の唯一の目撃者である老人を殺害し(彼の目撃が見間違いでないことが「呪われたこめかみ」のポーズにより証し立てられる)、放火した焼け跡で見つけた母の鍼箱を、慰安旅行に出発するバスの待合室で渡すシーンの2つ。ここでトジュンは、あたかも母の罪を告発しているように見える。しかし、それは説話論的な役割=機械仕掛けとしてそうなのであって、彼に告発の意志などあるはずもない。彼は自分自身が少女を殺害したことすら自覚していないのだから(「真犯人」の発見により釈放されて、死体がわざわざ屋上に放置されていた理由を推理してみせるトジュン)。

 先の2つのシーンでトジュンは「童形をした神」のように現れている。どこまでも純真で罪無く、無垢であるがゆえに、かつかつと日々を生きる人間の小さな罪を告発してやまない存在として。
 ここで私は萩尾望都『訪問者』のことを思い浮かべている。新雑誌「プチフラワー」の創刊号に掲載された作品は、やはり彼女による作品『トーマの心臓』の登場人物オスカーの「前日譚」とでも言うべきもので、『トーマ』の舞台となるシュロッターベッツ・ギムナジウムへの転校以前、父親と過ごした子ども時代を描いていた。気弱な芸術家である父は、母を殺害し、一人息子オスカーを連れてあてのない旅に出る。早熟なオスカーは、それ以前から険悪な夫婦仲に責任を感じ、居場所の無さ(自分は「家の中の子ども」ではない)を感じていた。そしてついに、父親の眼に自らが罪の告発者として映っていることを知る。無垢な子どもの姿をして家々を訪れる神=「訪問者」として(やはり「家の中の子ども」ではなく)。結局、父は知り合いの寄宿学校校長(彼こそはシュロッターベッツの主であり、オスカーの実の父親だった)に彼を引き渡し、帰らない旅に出てしまう。
 『訪問者』においては、「ちっとも神ではない」オスカーの内面が描かれることで、「童形をした神」は言わば物語上の機能として登場するに過ぎない。しかし『母なる証明』においては、トジュンの内面が描かれず、理解/共感不能な不気味さをたたえていることから、そうした「神性」がより生々しく立ち現れてくることになる。それは「記憶」の寓意にほかならない。抑圧しても、忘却しようとしても、また別のかたちでよみがえり、自らを責め苛む「記憶」が人の形をして現れたもの(ウォンビンの底の知れない眼差しや生臭さを感じさせない肢体は、見事にその役割を果たしている)。
 通常のストーリー・テリングなら、例えば復讐者の悪意や突然のアクシデントにより明らかにされていく忌まわしい「記憶」が、ここではトジュンの「障害」を介することにより、意図でも偶然でもない、あるズレをはらんだタイミングにより暴かれていくことに注意しよう(一方、前半の2件の交通事故に見られるように、この作品では「アクシデント」は本当に唐突に偶然の結果として、サイコロの出目のように起こる。殺人事件すらも)。言わば何者かによって与えられた「運命」として。
 そうした酷薄な「運命」への、ちっぽけな、だが精一杯の抵抗として、母の「イヤなことを忘れるツボ」に鍼を打つ行為を位置づけることができよう。それはこれまでも繰り返されてきたし、これからも繰り返されていくのだ。

 だから、私にはこの作品が「母のどこまでも深く、狂気に満ちた愛を描こう」とつくり始められたようには思えない。障害により、シャッフルされ、あるズレを持った、並べ替えられたかたちでしか記憶がよみがえらない‥というアイデアがまずあり、そこに「忌まわしい記憶を消す」魔法という仕掛けが加わり、母と子と殺人といった要素は、それらをプロット化するために後から要請された要素なのではないだろうか。本作品の脚本における伏線の張り方はとても見事なものだが、「母の異常な愛情」という線で組み立てたと考えるよりも、先のように見立てた方が、すうっとひとつの見通しが浮かんでくる気がする(もちろんこれは後知恵に過ぎないが)。

 俳優陣の演技もまた素晴らしい。おそらくは確信犯的にブサイクな顔ばかりを選んでいたりするので、消化不良を起こす方もいるだろうが。
 ネット上にアップされた感想を見ると、「母の愛情の異常さ」に胃もたれを起こした方も多いようだが、もし、この作品からそうした異常さしか感じ取れないとすれば、それは身の回りの親子の愛情の異常さから眼を逸らしているか、その方自身が偏狭で異常な愛情の中にあってそのことに気がついていないかのどちらかだろう(もちろん、映画には慰撫的な心地よさ以外を一切求めない向きもあるだろう。それも立派な「異常」ではある)。
 本作品は、むしろ異常というか「切断」の少ない映画だ。同じポン・ジュノによる「殺人の追憶」が田舎町の中に突如として現れる大規模な土木工事現場のシーン(人寂しい暗がりから一瞬のうちに転じて、煌々とライトに照らされ大勢が行き来する、本当に眼の眩むような異空間が出現する)を持っていたのに対し、本作品はひとつの街の同質性の中に封じ込められたまま進む。風景の手触りの切断は基本的に無い。それゆえ、死体の放置された屋上からの均質化した街の眺めが効いてくる(簡単に一望できる、まるで水滴のように閉ざされた、ちっぽけな世界)。
 唯一の切断は、風景の中の母の姿によってもたらされる。例えば母がジンテの家、あるいは廃品回収業者のところに向って田舎道を歩くのを超ロングでとらえたショット。母の姿は本当にちっぽけで、広がりのある景色の中では映像のシミのようですらあるが、それまでの姿が投影されることにより、景色と拮抗し得る存在となる。映像の力の溢れる場面だ。そのことは枯れ草が風にたなびく草原を母が歩くショットでも現れる。それらの源泉に位置しているのが、やはり冒頭に置かれた奥行き深い景色の中で母が舞うショット(タイトルバック)だろう(途中、母の見詰める山裾に立つ一本の樹木を、同じようにカメラが回り込みながらとらえるショットがあり、この辺は確信犯的なうまさではある)。なお、誤解の無いように付言すれば、これは決して「閉塞」に対する「開放」ではない。先に挙げた各場面において、期待されるような開放感/解放感を得ることはできない。風景のホリゾントは高く掲げられ、視線を解き放つことはかなわない。むしろ眼は景色と母とが拮抗する「つばぜり合い」を見詰め続けること、そうした強度の圧迫に耐え続けることを強いられる。それは「見たいものだけを見る」ことが映画を観ることだと考えている観客には無縁の体験である。たとえば廃品回収業者の居所に近づき、ショットが切り替わると、足元がぬかるんでいる。ここでの触覚性の急浮上を味わうことができるのは、先の緊張に耐え続けた者だけの特権であるだろう。
 この点で撮影の素晴らしさを了解しながら、その画面の強度を、様々な生成の線を自在に結び合わせ、注意深い瞳をとらえて放さない編集/構成の見事さを賞したい。派手なシーンやあからさまな切断がないだけに目立ちにくいのだが。音楽もまた、楽曲の出来以上に、抑制された効果的な使い方を評価することとしたい。







映画・TV | 23:30:19 | トラックバック(0) | コメント(0)
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