fc2ブログ
 
■プロフィール

福島恵一

Author:福島恵一
プログレを振り出しにフリー・ミュージック、現代音楽、トラッド、古楽、民族音楽など辺境を探求。「アヴァン・ミュージック・ガイド」、「プログレのパースペクティヴ」、「200CDプログレッシヴ・ロック」、「捧げる-灰野敬二の世界」等に執筆。2010年3~6月に音盤レクチャー「耳の枠はずし」(5回)を開催。2014年11月から津田貴司、歸山幸輔とリスニング・イヴェント『松籟夜話』を開催中。

■最新記事
■最新コメント
■最新トラックバック

■月別アーカイブ
■カテゴリ
■リンク
■検索フォーム

■RSSリンクの表示
■リンク
■ブロとも申請フォーム
■QRコード

QR

「線より」届いた壜の中の21年前の手紙 Evan Parker Electroacoustic Quartet『Concert in Iwaki』ディスク・レヴュー  21-Year-Old Message in a Bottle "From Line" Disk review of van Parker Electroacoustic Quartet "Concert in Iwaki"
EPEAQいわき冒頭掲載 JohnButcherNigemizu冒頭掲載
 Evan Parker Electroacoustic Quartet        John Butcher「Nigemizu」

 寺内久のUchimizu Recordsから待望の2作目Evan Parker Electroacoustic Quartet「Concert in Iwaki」が届いた。記念すべき第1作は2013年来日時のJohn Butcher 『Nigemizu』であり、大阪島之内教会と深谷エッグファームの素晴らしいアコースティックを得て創造の翼を存分にはためかせた彼のソロ演奏を、高岡大祐の鋭敏な耳によるワンポイント録音が、これ以上望めないほどの的確さでとらえた2015年作品のベスト・オヴ・ベストである(※)。そして2作目は、2000年10月に福島県いわき市で行われたEvan Parker Electroacoustic Quartet(EPEAQ)のライヴ録音である。以下に述べるように、これもまた素晴らしい。それだけでなく、私にとって個人的に大事な作品となった。

※参考にリリース時に本ブログに執筆したレヴューを再掲しておく。

John Butcher / Nigemizu
Uchimizu Uchimizu01
John Butcher(tenor saxophone,soprano saxophone)
試聴:http://www.ftarri.com/cdshop/goods/uchimizu/uchimizu-01.html
 冒頭、リードの手前で音にならずにもやつく吐息のたゆたいが、眼に見えるように浮かび上がる。ブレスの際に漏れる息遣いに全身の、生身の緊張が映し出され、聴き手の身体に伝染する。音の消え際にふっと気配のようにその場のアコースティックが浮かび、いま自分が演奏者とひと連なりの空間に座して、同じ空気を呼吸しているかの幻想に一瞬とらわれる。質の高いレンズで撮影した写真のように、対象の輪郭が空間に溶ける部分のボケ味が、丸みのある立体の、複雑に折り畳まれた響きの襞の確かな手触りを伝える。引き伸ばされた持続の中で、「一音」をかたちづくる各層がふっと芽吹き、すっと枝を伸ばす。重音奏法とか、重層化されたポリフォニーというのは、ずいぶん解像度の低いとらえ方だったことに今更のように気づかされる。いや「解像度」と言ってしまうと、単に録音機材のスペックの問題であるかのような誤解を与えかねない。これは空間と響きをいかに見極めるかという視点の設定の問題である。録音を担当したのは「tuba吹き」高岡大祐。これは単に音楽家だから、管楽器奏者だから可能になった録音ではない。ふだんから音を放つことで空間を探査/聴診する演奏を続けている「音の釣り師」だからこそできる業だろう。John Butcherの演奏を初めて聴いたかのような衝撃を受ける(今までCDであるいはライヴで、聴いたつもりになっていたのは一体何だったのか)。今年のベストワン候補が早くも登場してしまった。


1.EPEAQの位置づけ
 実は、この編成によるEPEAQは、もともと来日ツアー用の臨時編成だったため活動が短期間に限定され、これまでライヴもスタジオも録音が一切リリースされてこなかった。メンバーであるLawrence Casserleyが自身のウェブページ(*1)で、よい演奏もあったのに残念だと、録音のリリースがないことを嘆いていたほどだ。その点でも貴重な録音である。
 しかし、その価値は、単に「レアな編成による演奏記録」というだけに留まらない。この時点でParkerの演奏活動のカギとなっていたEvan Parker Electro-Acoustic Ensemble(EPEAE)と、その縮小版であり、いわばオーケストラに対する室内楽版と位置づけられ得る(実際、前述のCasserleyのウェブページではそのように説明されている)EPEAQ の演奏原理の違いを確認できるからである。
*1 http://www.lcasserley.co.uk/EP-EAQ.html

 本作品の内容に踏み込む前に、その辺を少々説明しておきたい。EPEAEは、Parkerが Walter Pratiとの共作『Hall of Mirrors』(1990年)で試みた自身の演奏に対するライヴ・プロセッシングの導入を、Barry Guy, Paul Lyttonを含むEvan Parker Trio全体へと対象を拡大したものととらえられる。第1作『Toward the Margin』(1997年)では、トリオのメンバーに1対1でライヴ・プロセッシング担当者が付けられていた(実際には、Barry Guyのプロセッシングを担当するPhilipp Wachsmannが自らヴァイオリンやヴィオラも演奏しているので、話はそう単純ではないが)。
 この原理がそのまま適用されるとすれば、EPEAQはParkerとLyttonのデュオにそれぞれライヴ・プロセッシング担当者が付いたものととらえられる。しかし、実際にはそうではない。本作に収められた演奏を聴いても、また、当公演の1週間前の9月29日に横浜で行われた来日初公演の記憶をたどっても、Joel RyanとCasserleyの2人はプロセッシングのみならず「楽器演奏者」としても演奏に参加していた。EPEAQとEPEAEを本質的に分かつ違いは、この二重性の有無なのである。
 『Toward the Margin』を聴けば、Evan Parker Trioの演奏がEPEAEになっても基本的には変わっていないことがわかるだろう。Parkerの参加するもうひとつの代表的トリオであるAlex von Schlippenbach Trioに比べジャズ色が薄く、現代音楽色が強いこと、テナー・サックス演奏の占める割合が低いこと、GuyもLyttonも以前から演奏にエレクトロニクスを用いており、演奏環境の変化にすばやく対応できたこと等が理由として挙げられるだろう。彼らは巧みに間合いを取り、ライヴ・プロセッシングが余韻を長く揺らめかせたり、サウンドを泡立つように一瞬で増殖させたりできるスペースを確保している。


2.tr.2「ni」
 このことからすれば、あえて二重化を図らずとも、EPEAQはParker / Lyttonデュオのライヴ・プロセッシング版で差し支えないはずだ。本作のtr.2を聴いてみよう。拍子木と小型のシンバルが間を空けて打ち鳴らされ、鋭く張り詰めた響きに引き締められた空間に、ソプラノ・サックスがやはり切れ切れに砕かれたパーカッシヴなサウンドで加わる。その時にはすでに打楽器の音響の落とす影が不思議に息づいて、うねりくねり、ふと鎌首をもたげる。厚みを増した音響にサックスが加速して切り込むと、その周囲をおぼろに包むかげが、広がり波打って、話し声の空耳にも似た不定形の軌跡を描く。しばらく演奏はParker / Lyttonデュオによる、剣豪が高速で切り結ぶような極端に加速された応答と、二人の回りにオーラの如く広がる光彩の、マルチ・プロジェクションによる複雑極まりない「影絵」を思わせる交錯により展開される。10分を過ぎた辺りから「臨界点を超えた」とでも言うかのように、光彩の爆発的な増殖はちらつくような明滅や遷移だけでなく、ぞっとするような深い奥行きや崇高さを産み出して、「本体」を出し抜き自分の意志で振る舞い始める。
 しかし、そうであっても、それはCasserleyやRyanがParker / Lyttonと同一平面に立ってソロを取るというのとは、いささか事態が異なっている。あくまでリアルタイムのプロセッシングとサンプリングしたサウンドの加工・編集にこだわる彼らの演奏は、フリー・インプロヴィゼーションのドライでクールな側面、「向かい合う身体同士の直接的な相互作用からの離陸」をこそ目指す。それはすなわち、身体動作の反射的な応答を遠ざけ、激情の放射に自閉せず、音響をマテリアルな強度でとらえ構築する「聴くことの優先」にほかならない。
 音響を至近距離でぶつけ合わせながら、操作者(オペレーター)としての冷静な距離を失わず、時には生身の身体にはあり得ない残酷さで加速し、増殖し、充満し、切断する。このアドヴァンテージを決して手放さないことが、名だたる即興演奏の名手であるParker / Lyttonと彼らが対等に振る舞うことを可能にしている。


3.tr.1「ichi」
 と言って、二人は常に分担してParker / Lyttonに付いているわけではない。tr.1を聴けば、一陣の息音からしめやかに立ち上がるソプラノ・サックスを二人が痛いほどに凝視し、互いに異なる側面に手を伸ばして、うねりまくる音響の被膜を切開して中身を取り出そうとしている様が看て取れるだろう。やがて足元から黒々とした電子音の潮が満ちてきて、いつの間にか頭上に木霊し、巨大なシルエットを壁面に投げかける。これらの音響操作により、演奏空間はもはや等身大とはかけ離れた巨大なスケールへと変貌を遂げ、小指を動かすだけで嵐が吹き荒れる不穏さを帯びている。そうした気象現象が展開する傍らで、バネや小石がか細く打ち鳴らされると、そびえ立っていたメガロマニアックな音響は四方八方蜘蛛の子を散らすように消え失せ、改めてLyttonの打音に憑依すべく地の底から回帰してくる。以降は専ら彼が餌食となるだろう。プロセッシングにより、加速や先鋭化のみならず、減速や不鮮明化までもが施され、またしても人が話しているような空耳が横切る。
 やがて、小鼓を思わせる破裂音でソプラノ・サックスが戻り、銅鑼の連打に伴われてゆったりとしたコーダをかたちづくり、テープの長期保存により生じる「ゴースト」にも似たおぼろな幻像が、終わりを見届けるように立ち尽くす。


4.tr.3「san」
 能管と「おりん(お鈴)」によるしめやかな、直ちに雅楽を連想させる導入部から一気に引き込まれる。もちろん模倣やパロディではなく、抑揚の見事さをはじめParker / Lyttonの音になっているのだが、ソプラノ・サックスにおいて極めて珍しい音色選択が為されている。ライヴ・プロセッシングとの共同作業を経験して、自らのサウンドを「素材」として異なる視点から見詰め直すことにより、改めて発見/獲得したものなのだろうか。そうした束の間の舞台設定を離れてからも、しばらくはParker / Lytton中心の展開が続き、エレクトロニクスはせいぜい彼らの放つ音に陰影や隈取りを施し、ストリングスのように背後にたなびくに留まるが、Parkerがノンブレス・マルチフォニックスで天高く昇り詰めた直後から、一挙に音の欠片を中華鍋に入れて激しく炒めかき混ぜるようなサウンドの「万人の万人に対する闘争」状態に突入する。互いが互いを切り刻み、ごく短い断片しか存在を許されないこの場を薙ぎ払ってみせるのは電子音の方である。一瞬開けたスペースに、すぐさまParkerが滑り込み、すぐにプロセッシングの網にかかって、合わせ鏡的な増殖を遂げる。以降の演奏をリードしていくのは、むしろエレクトロニクス/プロセッシングの側だ。前半の控えめな対応が嘘のように、サウンドを自在に転写/投影し、ギラギラした電子音を放ち続ける。だが、それでもやはり冷ややかな距離の眼差しを失うことはない。


5.苦い記憶
 本CDに収められた3つのトラックを、それぞれかなり詳しく記述したのは、私自身の中の「苦い記憶」に拮抗しつつ、眼の前の作品を見詰めるために必要な作業だったことを、ここで告白しよう。ここで「苦い記憶」とは、本作に収録された公演の1週間前の9月29日、神奈川県民ホール小ホールで行われたEPEAQの来日初ライヴを期待で胸を張り裂けんばかりにして聴き、深く落胆・失望したことを指す。冒頭に「個人的に大事な作品となった」と記したのは、このことゆえである。
 これまで確認・検証してきたように、本作に収められている福島県いわき市の公演は実に素晴らしい。1週間前の横浜公演の記憶は何だったのかと思うほど、全く別物になっている。記憶の中の彼らの、どこか不安気で、自分たちの演奏を、空間を、時間を統御できずに手をこまねいている無力な姿はここにはない。
 関内ホールのステージ上の4人の演奏者は、ただ、それぞれに音を放っているだけだった。本作に聴かれるような広がりと自在な結びつきにより、1が2にも3にもなり、4が大きな1にもなる高い流動性は、そこにはなかった。それは決してEPEAEに比べ編成が小さいからではないだろう。Evan ParkerとLawrence Casserleyは後述するように『Solar Wind』において、2人だけで流れる雲のような素早い運動をつくりだしていた。
 新しく加わったJoel Ryanのせいかとも思ったが、彼だけのせいではなかった。Casserley は右手でマウスを闇雲に動かして、電子音によるフリーなソロを懸命に発していたが、それが他のメンバーに届いているようには見えず、わずかに自分の回りを照らし出しているだけだった。そこには『Solar Wind』の凍てついたように冷ややかな距離の眼差しはなく、あたふたと忙しく動き回り疲労していく肉体があるだけだった。Lyttonもまた仰々しく周囲に巡らしたパーカッションの壁を眺め回しながら、時折気ままに叩いてみるだけだった。そこにはかつてParkerとのデュオで見せた、そしてEPEAEでも健在だった長く尾を引く余韻の硬質で透き通った繊細さや、鋭い針先で突き刺すような打撃が一瞬で燎原の火を燃え上がらせる卓越した速度はなかった。そして中央先頭に位置したParkerもまた、こうしたグループとして機能していない事態に対し何ら為す術なく、他のメンバーに気兼ねするように間を空けてソロを吹いているだけだった。
 いま考えれば、ライヴ・プロセッシングのための空間を確保しようと間を空けるParker / Lyttonに対し、Casserley / Ryanが同一平面でソロを展開して空間を埋めようとするために、展開が固着し、停滞している様子が窺える。冒頭に述べたEPEAQの二重性の「前者」の側面、すなわち「Parker / Lyttonデュオに対するライヴ・ブロセッシング」を基本配置として演奏に向かえば、こうした混乱は生じなかったはずだ。しかし、実際にはそうなっていない。Parker / Lyttonの2人の演奏だけでは、素材として少な過ぎるとの判断があったのかもしれない。あるいは、Lyttonがコンタクト・マイクを用いるなど、1970年代に録音された演奏を聴いても、当時のフリー・インプロヴィゼーションとしては異例にエレクトロニクス度が高かったParker / Lyttonデュオを改めてライヴ・プロセッシングの対象とするのは、屋上屋を重ねることになると嫌ったためだろうか。いずれにしても、その1週間後の本作における演奏を聴くと、彼らがその後わずか2回のライヴとリハーサルを通じて、急速にアンサンブルの構築と意思疎通を深めていったことが想像される(★)。
★ 本稿掲載後に、EPEAQ来日公演の招聘を行い、また、今回『Concert in Iwaki』を自身のレーベルからリリースした寺内久氏から、EPEAQはコンサート前には簡単なサウンド・チェックをするだけで、入念なリハーサルは行わなかったとの証言をいただいた。EPEAEはかなりリハーサルを行うとのことで、EPEAQの方が演奏の即興度が高いのではないかとのことだ。貴重なご指摘に感謝したい。

 終演後、様々な説明・解釈が耳に入ってきた。曰く、ECMからリリースされたEPEAEの作品は、長大なセッション・テープからSteve Lakeが切り貼りした結果であって、それをライヴには期待してはいけない。曰く、EPEAQはEPEAEとは別物で、むしろLeoレーベルから少し前にリリースされた類似編成の作品(そこでは来日メンバーのうちLyttonがNoel Akchoteに置き換わっている)の線で捉えるべきものである(*2)‥‥等々。それらはみな今回の来日公演に対する高い期待が裏切られたことに対する不満を、何らかの理由を付けて辻褄合わせをしようというものだった。結局、私はこの記憶を胸の奥深くに封印せざるを得なかった。
 しかし、悪いことは続くもので、その3日後に、しかも同じ横浜の関内ホールで催された斎藤徹「Stone Out」オーケストラ公演(横浜ジャズ・プロムナード2000の一環として開催された「横浜コンテンポラリー・オーケストラ」)のひどさに追い打ちをかけられ、その後、私は即興演奏やその周辺の音楽の新たな動きを追いかける情熱を失っていくこととなる。
*2 当時は未聴だったEvan Parker with Noel Akchote, Lawrence Casseley, Joel Ryan『Live at "Les Instants Chavires"』を聴くと、器楽奏者1名とプロセッシング奏者1〜2名のデュオないしはトリオによる演奏が6トラック中5つを占め、ParkerとAkchoteの共演はカルテットによるわずか1トラックに過ぎない。また、演奏内容もライヴで提供された素材のプロセッシング奏者による電子的な展開が主であり、器楽奏者の活躍の場はほとんどない。もともとこのコンサートはGeorge Lewisが企画したものであり、ライヴ・プロセッシングやコンピュータ奏者の即興演奏シーンへの紹介の意味合いが強かったのではないかと想像される(Les Instants Chaviresは即興演奏中心のライヴ会場である)。この録音で判断する限り、このカルテットをEPEAQの先駆と位置づけるのは、いささか無理がある。
EPEAEtoward縮小 solarwind縮小 parker_lesinstantschavires縮小
   Toward the Margins         Solar Wind         Les Instants Chavires


6.1990年代の閉塞/停滞
 2〜3回、期待はずれのライヴが続いたからと言って、情熱を失うとは何事だとお叱りを受けそうだ。
 しかし、当時の状況は明らかに閉塞/停滞していた。振り返れば、所謂「日本音響派」の隆盛により、サイン波を使えば、極小音量で演奏すれば、沈黙が多く出音が少なければ、それでもう何物かである‥‥といった風潮が広まり、実験音楽に対する誤解とも相俟って、国内のシーンは深刻な質の低下を来していた。国外のシーンの評価にしても、国内と共振するシカゴやベルリンが最先端であり、ロンドンでは「日本音響派」のファンがシーンを作っているなどという風説がまことしやかに唱えられていた。
 こうした風評が広がる中、私自身が最も高く評価していたMichel Donedaですら、相変わらず極めて質の高い演奏を行っているにもかかわらず、自身のレーベルから極少部数のリリースを行うに留まり(日本の自主レーベルは貴重な例外だった)、聴取を専らCDに頼っている身としては、彼の活動が幅広い評価を得られず、狭いところに押し込められ(追いつめられ)ているように見えた。「あのDonedaでさえ‥‥」、そうしたことがシーン全般に対して覚えていた閉塞感をさらに強めたことは間違いない。Donedaとの個人的な親交を通じて、彼の自主制作CDを国内でほぼ唯一取り扱っていたバーバー富士は、この後、2001年に行われたDonedaと斎藤徹のフランス・ツアーからのライヴ録音の抜粋を、2002年に自身の自主レーベルScissorsから、紛うかたなき傑作である『Spring Road 01』としてリリースする。しかし、これを最後に彼の作品のリリースはピタリと止まってしまい、そのため優れた即興演奏のCDはもう金輪際出ないのではないかと、当時、本気で心配したのを覚えている(後で、多田雅範も、当時、同じ心配をしていたことを知る)。
Doneda_springroad縮小
    Spring Road 01

 いまDonedaをシンボリックな例として挙げたが、当時、私の眼にはどこかもかしこもが停滞し、閉塞しているように見えた。80年代からのつながりで見ていこう。
 John Zornは90年代初頭にゲーム・ピースから離れ、メンバーを固定したグループであるNaked City, Pain Killerを結成し、さらに『Elegy』等のスコア化されたコンポジションを始めている。さらに90年代半ばからは怒濤のようにMasadaのリリースが始まり、それまでは煮えたぎるメルティング・ポット状態にあったNYダウンタウン・シーンの演奏者たちのネットワークの能産性に彼が見切りをつけ、個による突破へと転身したことがますます明らかになっていく。
 80年代末に新たに注目を集めた存在としてJon Roseがいるが、その勢いもCDリリースで言うと1994年の『Violin Music for Supermarket』や1995年の『Violin Music in the Age of Shopping』辺りを頂点として下降していく。実際、1995年の『ショッピング・プロジェクト』来日公演は、おそらくは招聘側の準備不足もあって、空いた口が塞がらないほど詰まらない垂れ流しに終わった(これについては虹釜太郎がどこかで言及していた)。
 再度、国内に眼を転じれば、Cassiberが待望の来日を遂げ、見事な演奏を聴かせたのが1992年、それがGround Zeroによって無惨な「音響」化を施されてリリースされたのが1997年、この流れは1998年3月のGround Zero「融解GIG」(解散コンサート。ライヴ会場の柔な壁が振動しまくって、音はほとんど聴き取れず、演奏はグダグダに融解し、まさにただの「音響」と化していた)、2001年7月に2日間通しで行われた「デラックス・インプロヴィゼーション・フェスティヴァル(DIF)」(当時、麻布にあった六本木スーパー・デラックスの前身となったライヴ会場「デラックス」にちなむ)へとつながる。DIFでの杉本拓ギター・カルテット(秋山徹次・大友良英・中村としまる)の無様な失態(タイム・ブラケットによるコンポジションの演奏にもかかわらず、メンバーが時計を見ていなくて演奏が終われなくなり、一同、顔を見合わせてへらへら笑って終了)については以前に触れたことがある。私は前売りで2日間通し券を買っていたのだが、あの失態を共にへらへらと笑うことで何事もなく受け入れる聴衆に嫌気がさし、2日目は出掛ける気が失せてしまった。
 そして前述の通り、2002年のMichel Doneda『Spring Road 01』を、フリー・インプロヴィゼーションの「世界で最後の1枚」であるかのように受け止めることになる。

 そうした息苦しく希望のない閉塞/停滞の中、1990年代にめくるめく変貌と遷移に満ちた見事な活躍を見せたのがEvan Parkerだった。もちろんこちらは彼の活動を音盤で追いかけているだけであり、それゆえその期間は80年代半ば(一説には1987年)にDerek Baileyと袂を分かち(その確執の内実を私は未だに知らない)、共に立ち上げたIncusレーベルを離れた後、FMP, Leo, Touch, ECM等の各レーベルをネットワークしながら活動領域を拡大し、2001年に自身のレーベルとしてpsi recordsを立ち上げるまでに当たる。ここで、その時期の彼のディスコグラフィをざっと振り返ってみるとしよう。


7.1990年代におけるEvan Parkerの活躍
 従来、演奏されたままで、後から手を加えることをしない「演奏の忠実な記録」と見なされてきたフリー・インプロヴィゼーションの録音に、電子的なリアルタイムのライヴ・プロセッシングを持ち込んだWalter Pratiとの共作『Hall of Mirrors』(1990年) が嚆矢となる。しかし、これはまだ助走に過ぎなかった。CDがPratiのレーベルと言うべきMM&Tからリリースされていることを見ても、これはむしろPrati主導のプロジェクトであり、Parkerはいわば素材の提供者に過ぎない。おそらくは、そのせいで、プロセッシングによる変容ぶりは穏当で、ストリングス系のシンセサイザーでバッキングを付けているような甘さがある。
 続くのは、マルチトラックによる多重録音を導入した『Process and Reality』(1991年)で、タイトルは彼の愛読書であろう、英国の偉大な哲学者/数学者ノース・ホワイトヘッドの主著である『過程と実在』から。フリー・インプロヴィゼーションへの多重録音の導入それ自体については、たとえばSteve Lacy『Lapis』(1972年)等の先例がある。しかし、ここでのParkerの演奏は、通常のソロ演奏(多重録音なし)と多重録音による構成を区別なく並べて配しており、彼のトレードマークである循環呼吸による切れ目のないノンブレス奏法とマルチフォニックスによる演奏が、そもそも多重録音によるドローン/ミニマル・ミュージックを想起させることを考えれば、これは極めて挑発的な企てである。おそらくは多重録音による効果を試した後、それを一発で超えるべく挑んだ演奏は、従来のソロがのんびりと間延びして牧歌的に感じられるほど、極端に高密度に圧縮され、激しく高速で遷移/振動する、凄まじいばかりの強度に満ちたものとなっている。本作はいまだに彼の到達点の一つと言ってよいだろう。なお、最後にエピローグのように付け加えられた「Lapidary」は、先に触れたSteve Lacy『Lapis』に収められている「The Cryptosphere」に、ソプラノ・サックス内部にコンタクト・マイクを仕込むという極めて特異な仕方で演奏を重ねたもので、「The Cryptosphere」自体が、あえて型通りのジャズ・ヴォーカルのレコードを部屋で再生し、その余白にソプラノ・サックスの囀りを書き込む「重ね描き」であることを考えれば、先駆者への周到なオマージュであると同時に、聴き手への重ねての過激な挑発と言える。

 その後、しばらく間を置いて、さらに野心的な挑戦/飛躍と劇的な変容の記録が矢継ぎ早に届けられる。筆頭に挙げるべきはやはりEvan Parker Electro-Acoustic Ensemble(EPEAE)の第1作『Toward the Margin』(1997年)だろう。そのコンセプトは先に「1.EPEAQの位置づけ」で述べたように、『Hall of Mirrors』ではParkerだけを対象としていたライヴ・プロセッシングを、Parker, Barry Guy(cb), Paul Lytton(perc)のトリオに拡大するものだった。そのため、Pratiに加え、彼の盟友Marco Vecchiと、英国の即興シーンでヴァイオリン、ヴィオラ、エレクトロニクス奏者として長く活動しているPhil Wachsmannが呼ばれる。もともとParker, Guy, Lyttonによるトリオは、Parkerの所属するもうひとつの主たるトリオであるAlex von Schlippenbach(pf)及びPaul Lovens(dr)とのそれよりもジャズ色が薄く、またLyttonは70年代におけるParkerとのデュオですでにコンタクト・マイクを用いるなど、エレクトロニクスへの親和性が高かった(私は以前に別稿で、このデュオを初期のOrganumやDavid Jackmanと同一の系譜として扱っている)。それゆえ、彼らの演奏はこの初作からして高い水準に達しており、硬質な音色のつぶやき/ささやきが増幅されてさらに緊張を高め、影のように長く伸びた残響が再びむくむくと起き上がって動き出し、眼の端で何かがちかちかと瞬いたかと思うと、視界が大きく揺らぎ傾いて風景が液状化し一気に流れ去るというダイナミックな変転を見せる。

 EPEAQはEPEAEの派生型(小編成の室内楽版)と言うべきものだが、さらに押さえておくべき前提がある。一つは本作に折り込まれた畠中実の解説でも触れられているCasserleyとの共作『Solar Wind』(1997年)である。ここでParkerは一連の作品と同様ソプラノ・サックスを用いながら、ノンブレス・マルチフォニックスよりもロング・トーンによる滑らかな遷移を多用する。蜘蛛の吐き出す細い細い糸がきらめきながら西風に乗って空高く舞うように、あるいは受光器の翼を広げた宇宙船が太陽風に乗ってホヴァリングするかのように、自在に推移するサウンドが色彩スペクトルを次々に変化させ、一瞬のうちに増殖/充満し、自身の影と仲睦まじく戯れる。すべてが短波ラジオの受信空間で繰り広げられるが如くに、マテリアルな輪郭を欠いた不確かさや宛てどころなく浮遊する無重力性を強力に帯磁した演奏は、従来のフリー・インプロヴィゼーションとは一線を画す、極めてエレクトロ・アコースティック色の強いものとなっている。はっきり言って、この時点におけるEPEAEよりも。

 もう一つ補助線として付け加えるべきは、前述の『Hall of Mirrors』と同じMM&Tからリリースされた『Synergetics - Phonomanie Ⅲ』(1996年)である。これは1992年に開催された音楽祭のライヴ録音で、実はParkerは並みいる出演者の一人に過ぎない。が、Walter Pratiと共にMaco Vecchiが参加し、またGeorge Lewis, 吉沢元治、Sainkho Namchylakといった共演経験者が加わり、さながらParkerがキュレートした企画であるかのようだ。さらにここで注目すべきは、倍音唱法のSainkhoに加え、コムンゴ(弓奏する小型の箏。朝鮮の民族楽器)、ラウネダス(サルデーニャの民俗楽器。詳細は後述)、イムブムブ(アフリカのディジェリドゥ)といった強烈な倍音を放つ民族楽器の奏者が参加していることである。特にラウネダスはリード付きの細い笛3本を同時に口にくわえ、両手で操りながら(1本は通奏低音としてのドローン)、循環呼吸によりノンブレスで鳴らし続けるという、「天然エヴァン・パーカー(笑)」な楽器である。ライヴ・プロセッシングのみならず、こうした「全く別の出自を持つ自分の似姿」と共演することは、エレクトロ・アコースティックな音響の海の深みへと身を沈めていく彼にとって、大きな糧となったに相違あるまい。

 そして1999年にはEPEAEの第2作『Drawn Inward』がリリースされ、さらにこれまで他のインプロヴァイザーたちとの共同作品をほとんど制作してこなかったAMMのメンバーとのデュオ・アルバムが、1997年のEddie Prevostに続き、2000年にはJohn Tilbury、そしてKeith Roweと矢継ぎ早に制作され、そのいずれもが素晴らしい出来となる。ParkerがEPEAQを編成して来日公演を行ったのは、まさに、他の停滞・低迷をよそに彼の活動が充実を極め、「希望の星」として輝いていた時点にほかならなかった。
mirrors縮小 processジャケ写縮小 EPEAEtoward縮小
     Hall of Mirrors        Process and Reality      Toward the Margins

solarwind縮小 phonomanie縮小 EPEAEdrawn縮小
      Solar Wind      Synergetics-Phonomanie Ⅲ     Drawn Inward


8.その後
 Evan Parkerが離れたIncusは、1986年のBailey / Parkerによる『Compatibles』と他の演奏者も参加した『Trios』以降、LPからCDリリースに転じるとともに、Parker参加の新作を一切リリースしなくなってしまう(その結果として彼のレーベル行脚が果たされたわけだが)。片翼をもがれたIncusは、そしてBailey自身も、その後の活動に生彩を欠いていくように感じられた。その後Baileyは、David Sylvian『Blemish』への参加(音源提供)がきっかけとなって、『To Play』、『Carpal Tunnel』と死の直前に最後の輝きを見せたが。
 Evan Parkerについても、その後、続々とメンバーを加えたEPEAEの演奏は響きが厚くなり過ぎて、きびきびとした運動性/流動性を減じてしまったように思われる。彼は本作に寄せた文章で「いわき市立美術館ホールの広々とした空間とよく響くアコースティックのおかげで、ほとんどシンフォニックなやり方で演奏できた」と書いているが、確かにここに収められた演奏は、「シンフォニック」と呼び得る響きの豊かさや厚み、スケールの大きさや重層性を有している。しかし、これによって運動性/流動性を減じているわけではいささかもないことは強調しておきたい。
 今年、77歳(喜寿!)を迎えた彼は、依然として見事な演奏を続けている。パーカッション奏者二人(Toma Gouband, Mark Nauseef)とのトリオという新たな編成による『As the Wind』と、ベース・ギター様のモロッコの民族楽器ゲンブリ(!)をフィーチャーしたJoshua AbramsのグループNatural Information Societyによるトランシーな高揚に満ちた『Descension(Out of Our Construction)』を近年の充実作として挙げておこう。
AsTheWind縮小 JoshaAbrams縮小
     As the Wind             Descension

 なお、2002年頃からしばらくの間、即興演奏やその周辺の音楽の新たな動きを追いかける情熱をほとんど失っていた私は、2008年になって、バーバー富士の松本氏から新たな動きを展開しているレーベルとして、Creative Sourcesと創設されたばかりのAnother Timbreを教えていただき、シーンへの興味をようやく取り戻した。そこから眺め直すと、『ロンドン・サイレンス』の一派に押し込められていたJohn ButcherやRhodri Daviesが、Derek BaileyやJohn Russellとの関わりをはじめ、それを遥かに超える射程で活動していることも見えてくる。初期のAnother Timbreに集った面々がHugh Davies(昨年リリースされた、彼の所属グループGentle Fireのアーカイヴ録音は40年後の今でも実に刺激的だ)に特別なリスペクトを捧げていたことも浮かんでくる。表面的な衰弱や断絶の陰で脈々と受け継がれている「地下水脈」。


9.補論 装画:李禹煥「線より」1980年について
 本作のジャケットを飾っているのは、いわき市立美術館所蔵の李禹煥(イー・ウーファン)「線より」1980年である。会場となった美術館の所蔵作品から名品を選んだのだろうが、そこには幾つかの興味深い符合が見出され、この絵画が本作のジャケットを飾ることはあらかじめ運命付けられていたのではないか‥‥との不思議な感興を覚えた。最後にそのことについて少しばかり記しておきたい。

 「線より」は1970年代の半ばから、「点より」のシリーズと共に連作として描き進められた。たとえば東京国立近代美術館に収蔵されている1977年に描かれた「線より」は、今回の作品と非常に似通っていて、キャンヴァスの上に青い岩絵具の線が平筆により垂直に一気に引かれ、それがほとんど隙間なく平行に並べられている。筆を途中で止めたり、あるいは画面から離して絵具を付け足すことはない。このため線は途中から掠れ、下辺まで届かぬうちに途切れてしまう。それでも武道で言う「残心」の如く、筆の軌跡はまっすぐに浮かび上がる(岩絵具の溶剤である膠の痕跡の効果もあるだろう)。ミニマル・アート的な反復による類似が示されながら、一気に引かれ、塗り直すことのない筆の軌跡が、一回性を通じて露わにする筆致の揺れが、一本ごとすべて異なる多様な線を産み出す。1980年の「線より」では絵具がよく伸びて画面のほぼ半ばまでを着色部分が占めており、他にも「起筆」時の筆跡が、1980年の方が丸くやや尖っていて(1973年は平坦で角張っている。筆が違うのかもしれない)、色むらや掠れが少ないという細かな違いはあるが、基本的な枠組みは同じである。
EPEAQいわき縮小
             李禹煥「線より」1980年 いわき市立美術館所蔵

fromline1973縮小
             李禹煥「線より」1977年 東京国立近代美術館所蔵


 ジルケ・フォン・ベルスヴォルト=ヴァルラーベは『李禹煥 他者との出会い 作品に見る対峙と共存』(みすず書房)で、彼の「線より」・「点より」の連作を次のように論じている。
 「李の絵画では、まさしくわずかな絵画的手段への限定、その結果生じる(とみえる)、いつでも(とみえる)同じ絵画的行為の単調な繰り返しが、まさしくあらゆる関連する諸要素を配慮したうえで、そのたびに特別なものとしてついに明瞭に立ち現れることができる。」(p.126)
 「『つぎからつぎに』展開していく前進的な反復は、観察が持続していることの知覚を発生させる。言い換えるなら、反復によって時間体験が効果的に把握されるのだ。」(p.127)
 そして河原温やロマン・オパルカ等に続き、フィリップ・グラス等のミニマル・ミュージックを例に引いて、「微妙な反復の差異化によって、聴取そのものが体験となり、独自の現在と結びついたプロセスが体験できるようになるのだ」(p.136)としたうえで、李自身の発言「塗り重ねや描き直しが許されないのも時空間をもよおす一筆一画の実存性のためである。一瞬一瞬は一回性であるが、すべてが一瞬そのものの連なりであるためには、それらを呼び合う反復性を必要とする。」(p.137)を引用し、この時間体験のプロセス性への着目から、「実在性(リアリティ)は過程(プロセス)にほかならない」とのホワイトヘッド『過程と実在』の参照に至る。(p.138)

 その後、彼女は李の作品における生成と消滅、その移ろいやすさを東アジアの伝統と結びつけていくのだが、我々としては、先のホワイトヘッドの参照もあって、どうしてもEvan Parker『Process and Reality』を想起せずにはいられない。すると、ジャケットを飾るRoger Ackling『Waybourne 1990 (sunlight on wood)』が、李禹煥「線より」1980年と構造的に類似していることに改めて気づくだろう。一見すると似ても似つかない両者は、赤/黒⇔青/白(淡いベージュ)、水平の平行線⇔垂直の平行線、細く刻まれた線⇔幅広の掠れた線‥‥というように、構造的な変換関係にある。さらにAcklingの作品の黒い直線は、実は筆等の画具による描かれた線ではなく、太陽光線を手に持った凸レンズをかざして集光し、素材(この場合は木材)の表面に焼き痕を付けることにより産み出されている(sunlight on woodとはこの手法を指している)。李の作品がキャンヴァスに岩絵具という組合せにより不安定性を呼び込んでいるのと同様、あえてプリミティヴな手法を選択することにより、コントロールの難しい不確定性を導入し、毎回の揺らぎを通じて一回性を強調していることがわかる。
process縮小  Roger_Ackilng縮小
     Roger Ackling「Weybourne 1990」        作品制作中のRoger Ackling

 いわき市立美術館が所蔵している李作品には、他に「点より」1973年もあるが、本作に収められたEPEAQの演奏との関連性は、今回選ばれた「線より」1980年の方が強いように思われる。「点より」で配置されたドットが個々の揺らぎを超えて星座的、さらには幾何学的パターンに収斂せざるを得ないのに対し、「線より」で並べて引かれた線は、それが全体として描き出す矩形に尽くされることはなく、一触即発、ねじれや流動を来す気配をたたえている。
 実は、「線より」の連作は、この後、1980年代により多様に、かつダイナミックに散乱した「風より」あるいは「風と共に」と題された連作へと推移していくことになる。すでにその前兆として、装画作品と同じ1980年に描かれた「線より」連作の中には、キャンヴァスの右端に線が3本引かれただけで大きく余白を残す作品や、線を途中で切って、筆を画面からいったん離した後に再び描き進める作品など、より散乱に満ちた作品が現れてくる。装画作品はこうした散乱を顕在化させる直前の「臨界点」を示すものだと言えよう。いわば、ねじれや流動は、ここでもうすでに始まっているのだ。未だ眼に見えぬ潜在的な様相で。やはり装画作品は、ここに収められたEPEAQの演奏にふさわしい「顔」をしていると言わねばなるまい。
点よりいわき縮小
         李禹煥「点より」1973年 いわき市立美術館所蔵(左頁上部の図)
ジルケ・フォン・ベルスヴォルト=ヴァルラーベは『李禹煥 他者との出会い 作品に見る対峙と共存』(みすず書房)より転載

線より右端縮小
   左頁 李禹煥「線より」1980年     右頁 李禹煥「線より」1978年    前掲書より転載

線より散乱縮小
   左頁 李禹煥「風より」1983年     右頁 李禹煥「線より」1980年    前掲書より転載

風と共に1縮小
   左頁 李禹煥「風と共に」1988年    右頁 李禹煥「風と共に」1983年  前掲書より転載

風と共に2縮小
   左頁 李禹煥「風と共に」1991年    右頁 李禹煥「風と共に」1988年  前掲書より転載



 いろいろと話が長くなってしまった。最後にもう一度繰り返しておきたい。本作品はもちろん多くの方に聴いていただきたいが、わけても私と同様、かつてのEPEAQの来日公演に失望した方にこそ聴いてほしい。封印せざるを得なかった苦い記憶をわだかまりなく昇華させるために。





スポンサーサイト



ディスク・レヴュー | 16:33:08 | トラックバック(0) | コメント(2)
馬の毛の弦の手触りを通じて深淵へと沈み、古代へと遡る - Rhodri Davies『Telyn Rawn』ディスク・レヴュー  Diving into the Depth through the Touch of Horse Hair Strings, and Going Back to Ancient Times - Disk Review for Rhodri Davies "Telyn Rawn"
 英国ウェールズのハープ奏者ロードリ・デイヴィスから新作CD『Telyn Rawn』(AMGEN001)が届いた。LP4枚組の前作『Pedwar』が、これまで彼が制作したソロ三作品に新作を加えることにより、彼の演奏するハープという数多くの部品・部材を組み合わせた複雑な機構を持つ楽器を四つの異なる視点から解剖/分析し、それらを立体的に再構築してみせるという、これまでの活動の集大成と呼ぶにふさわしい大作だったのに対し、続く本作は、少なくとも13世紀まで起源を遡り得る失われた古楽器Telyn Rawnを再現し、これを用いて即興演奏を行うという「時を遡る」ものとなっている。
 彼の作業は、もはや現物の残存しないTelyn Rawnを復元することから始められる。Telyn Rawnによる演奏を詠った詩文をはじめ古文献を参照し、博物館に保存されている関連楽器を調査し、材料を調達し、組み上げられる職人や業者を探す。本作に収められたブックレットには、木枠の表面に革を貼り、馬の毛を弦として張った復元楽器の各部の写真が掲載されている。

Rhodri Davies『Telyn Rawn』カヴァー表


 しかし、楽器の形が復元されたとして、それだけで楽器に息が吹き込まれるわけではない。その演奏法やサウンドが記録されているわけではないからだ。デイヴィスはリーフレットの解説で「当時のヴァナキュラーで即興により生み出された音楽は、教会に関わる聖なるものでも、宮廷に関わる高貴なものでもなかったがために失われた。いつの時代でも、即興による普通でなく正統的でもない音楽はたやすく消え失せてしまう。もちろんそれが即興演奏の本性ではあるのだが。」と述べている。
 国立劇場の木戸敏郎の推進する古代楽器の復元に参加した高橋悠治は、この経験を「音楽のイコン性をかんがえるためのよいきっかけだった」と評価し、「ここで音楽のイコン性というのは、演奏者と楽器の身体的なかかわりによって伝統的につくりだされ、了解されてきた時間的・空間的形態の『意味』の体系、自然・文化・世界観を参照する多層的な象徴やメタファーとしてのはたらきを指す。」と述べている。彼によれば「楽器だけを復元しても、その音楽は記録されていない。しかし、楽器の寸法や構造から、その楽器に対していた演奏者の身体の姿勢や、最も自然な手のつかいかたが、ジクゾー・パズルのように浮かび上がってくる。」
 たとえば高橋は「畝火山」の作曲の対象とした復元五絃琴について、次のように観察と想像を積み重ねている。
 「首部が薄いので琴のように床にたいらに置くものとは思えない。五絃琴は楽器の分類名であり、当時の名称、用途、奏法は不明。古文献にある筑に似ているが、岳山が低く、筑のように竹棒で打つことはできない。(中略)絃の間隔が狭いので、指ではじけないし、絃の上を指で押さえて音程を変えることも自由にはできない。そこで、水牛の角の長いピックで開放絃をはじくことにする。これなら、楽器を垂直に立ててもいいし、抱えても、床から首部だけを引き起こしても演奏できる。」

 本作の録音に当たり、デイヴィスはメロディやリズム等の素材を事前には一切用意せずに、スタジオでの即興演奏に臨んだという。その一方で「長く忘れられていた楽器を形にし、組み立てたこと、襞をつけ巻き付けられた馬の毛の弦をいろいろ試してみたこと、古文献や古詩と格闘したこと、残された手稿から演奏技術や音楽を学んだこと、ウェールズ文化における馬や馬崇拝の重要性について調査し、地域の民俗的な会合に参加したことが形を成したのだ」と述べている。
 訳文の「襞をつけ巻き付けられた馬の毛の弦をいろいろ試してみたこと」という箇所が、いささか意味がわかりにくくて申し訳ないが、原文は「experimenting with wound and pleated horse hair strings」である。馬の毛(必要な長さからして、たてがみではなく尻尾の毛であろう)を弦に仕立てるに当たり、その紡ぎ方・撚り方を様々に変えながら、実際に試奏してみたということではないか。馬の毛は弦楽器の弓に用いられるが、弦と弓の触れ合う/噛み合う程度に関し、grab(掴む)とbite(噛む)という対比があると聞く。ここでデイヴィスは、馬の毛の紡ぎ方・撚り方をいろいろと試しながら、楽器を奏でる手指や音具との触れ合いの具合を詰めていったのだろう。
 ニュートラルに洗練された現代素材と異なり、ここで試された馬の毛の弦は、強い癖を持ち、たとえば手指の動きの速度、弦にアクセスする向きや角度、圧力、振幅等に対し、ごく狭い範囲でしか受け付けないのではないかと想像される。いろいろと弦を試し、楽器との対話を続ける中から、それに見合った手指の動きが生み出されてくる。水の比重や粘度の違いによって、泳ぐ身体の動きが自ずと変化するように、試している弦の特質が、「演奏する身体」の動きをかたちづくり、積み上げていく。選ばれた藁の材質が、草鞋の網目の大きさを決めていくように。

 高橋が「ジクゾー・パズル」を解いていったのと、まさに同様の作業の積み重ねがそこにはある。デイヴィスはただ自分の即興演奏語法を、古代楽器のレプリカに適用したのではない。忘れられていた楽器の中に層を成して堆積している演奏の記憶へと身を沈め、楽器とこれを奏でる手指の接触を通じて、この記憶が豊かに湧き出る井戸を掘り上げたのだ。
 さらに、この古楽器Telyn Rawnの復元に当たっては、楽器自体の設計をデイヴィス自身が行ったというから、おそらくは幾つもの試作品が作られ、試し弾きを繰り返しながら、デザインが詰められていくのと同時に、この「接触」を通じて、演奏の姿勢、身体の動き、音具、奏法等が明確化していったと思われる。そうした楽器との細やかにして濃密な「交感」の様子を、ここに収められた演奏から確実に聴き取ることができる。

Rhodri Davies『Telyn Rawn』カヴァー裏


 冒頭曲を聴いてみよう。空間に溶けていく滑らかな透明さではなく、不透明なあくを浮かべたがさがさとした手触り。ハープというより、琵琶やリュートを思わせる硬質な搔き鳴らしが、楽器と演奏者の身体の距離を測り、同期を促すように続けられる。繰り返しは緩やかに解けて、箏を思わせる弦のしなりを響かせながら、しばし東洋音階に遊ぶ。そうした当ての無いさまよい感覚は次曲へと引き継がれ、今度は中国の古琴の響きを探る。巡らす思いに深く沈んでいくような瞑想的気分から、再び速い搔き鳴らしへと移行するや、爪や指の弦への当たり方を変えているのだろうか、響く音/響かない音が裏表に入り混じりながら、演奏は走る馬の速度を一気に獲得していく。間隔が異なる飛び石を駆け抜けるような微妙な不揃い感覚が、ギャロップの生々しさをいや増している(ギターのカッティングのコヒーレントな整列感と比べてみること)。
 弦が弓で弾かれる三曲目ではフィドル様の音色が前景化するが、その背後にはキュルキュルと鳴り続ける別種の摩擦音が伴い続ける。こうした不均衡や不随意運動は、四曲目・五曲目で披露される、楽器の限界を試すような高速の繰り返しにおいても、顕著に現れる。一音一音の輪郭を明らかにし、軌跡が星座の如くに張り詰めた弧を描く「響く音」と、滲むようにおぼろに溶け合って群れを成し、渦を巻く「響かない音」が、水墨画的な風景/遠近の対比をかたちづくる。それは言わば響きの「粒の揃わなさ」であるのだが、ソロでありながら複数のヴォイスが呼び交す豊かさを生み出している。
 六曲目で、こうした繰り返しはほとんどミニマル・ミュージックと言ってよいほどの簡素な定型に至るが、そこでもケルティック・ハープと箏と親指ピアノが同時に鳴り響いているかのような音色スペクトルの厚みとアンサンブルの豊かさが味わえる。七曲目では弓弾きによりやはりミニマルな繰り返しが急速調で奏でられるが、こちらではたちのぼる倍音が、もうひとつのリズムを息づかせていく。八曲目において、演奏の流れは、それまでと打って変わって静謐さを取り戻す。しかし、そこで厳かに彫琢されたメロディを支えているのは、やはり響く音と響かない音の呼び交しがつくりだす交響にほかならない。

 このように記述していくと、事前の奏法や速度の選定/限定が、インスタント・コンポジションとして、演奏の枠組みをかたちづくっているように見えるかもしれない。私自身、前作『Pedwar』のディスク・レヴューで、収められた四作品が、各々ある種の限定を自らに課しており、そのことがこの集成において「ハープの四つの側面」を提示する事に結実していると述べてもいる。だが、それは誤解だ。順に説明していこう。
 『Pedwar』においては、豊かな残響を持つ教会の礼拝堂とスタジオ、アコースティックとエレクトリックといった環境や楽器の違いが作品ごとにあり、デイヴィスはこの違いにしなやかに反応して、それぞれの演奏をかたちづくっていた。すなわち、「限定」の内実は事前の恣意的な選定ではなく、与えられた演奏環境に対し、「演奏する身体」を適切にチューニングした事後的な結果にほかならない。
 それでは今回の『Telyn Rawn』ではどうか。前述の「限定」は、本作品において、同じ録音環境、同じ楽器であるにもかかわらず、複数(少なくとも三つ以上)に及んでいる。やはり、これはインスタント・コンポジションなのだろうか。それを考えるには、現代楽器によるフリー・インプロヴィゼーションと、今回『Telyn Rawn』で試みられた失われた古楽器の復元作業との違いを見ていかなければならない。

 後者が高橋の言う「ジグゾー・パズル」の結果である事は先に述べた。一方、前者においても、そうした「ジグゾー・パズル」を設定することは、もちろん不可能ではない。しかし、その許された範囲の広さが圧倒的に違う。
 前者、すなわちフリー・インプロヴィゼーションは、見渡す限り水平で平らかな、しかもその単一性をどこまでも拡張し得る、言わば無限の広さを持つ平面上での自由滑走である。そこでは総てがあらかじめ許されている。それゆえ文字通り演奏平面を拡張する「エクステンデッド・テクニック」が、新たな活動領域、新たな自由をもたらすものとして尊ばれもするが、ひとたび領域が拡大されてしまえば、それは既存平面と同じ単一さに還元されてしまう。「エクステンデッド・テクニック」を駆使して演奏するならば、それだけで演奏が価値を持つかのように思うのは単なる誤解に過ぎない。
 これに対し後者においては、活動を許された「平面」はごく狭く、その猫の額ほどの「平面」ですら決して平らでも滑らかでもなく、デコボコ道や急斜面、がれ場や沢渡りの連続である。これらを踏破することのできる、環境に即した演奏、すなわち弦と手指あるいは音具の動きがかたちづくることのできる「カップリング」は極めて限られており、決して恣意的な選択がそのまま成就するわけではない。デイヴィスはその在処を鋭敏に探し当て、渡り歩いているのだ。深い山中で、素人にはまるで見分けの着かぬ「けもの道」を、的確に見つけ出しながら歩みを進める猟師のように。
 にもかかわらず、それを事前の恣意的な選択とみなしてしまうのは、生物の進化を「○○をするためにこうなった」と目的論的に説明して止まない、愚かな生物学者たちと同じ倒錯を犯すことになる。

Rhodri Davies『Telyn Rawn』リーフレットより


 本作で特に興味深いのは、そうした「けもの道」の発見による即興演奏が、聴き手にケルティック・ハープはもとより、日本の箏や中国の古琴、琵琶やリュート、フィドルや親指ピアノなど、世界各地の民族楽器の響きを思い起こさせることだ。決して古代ウェールズの幻想を結ばせるわけではない。すなわち、ここで古楽器の復元を通じて時を遡ることは、単一の起源を目指すことを意味しない。
 『Pedwar』のディスク・レヴューでは、添えられたデヴッド・トゥープによるエッセーがハープの起源への遡りを安直に論じている点を指摘し、その安易さを批判しておいたのだが、今回のロードリ・デイヴィスの試みは、トゥープの提案に一見従いながら、それを遥かに出し抜いていると言えよう。

 私としては、楽器をはじめとする演奏環境との交感において、彼のとびきりの鋭敏さが戻ってきたことを何より喜びたい。というのは、2015年のFtarriフェスティヴァルのために来日した際の彼の演奏が、ひとつは自身によるコンポジションの演奏で、各演奏者がひっきりなしにアクションを繰り出し続けねばならない忙しないものだったことを割り引いても、ずいぶんと粗雑でやりっ放しのように感じられたからである。
 それ以前の2004年の来日時に原美術館で聴いたライヴ(ジョン・ブッチャーとのデュオ)では、相手の動作にすぐさま動作を投げ返すようなLEDのチカチカした点滅にも似た身体反応の応酬を離れ、かと言って徒らに長い休止を挿み、音を出し惜しみすることにより、演奏を何やら目新しい貴重なものと粉飾する当時の流行(今となっては信じられないことだが、当時、彼は、我が国でもてはやされていたそうした演奏傾向の英国支局員でもあるかのように喧伝されていた)にも流されず、切り開いた組織の変容/特徴を注視しながら、慎重に次なる器具に手を伸ばす検死解剖医といった様子で、ハープに音具を押し付けていたことを、よく覚えている。一文字一文字指で触れながら点字を読み進めるような演奏との印象が残っている。

 なお、彼については、メンバーとして参加しているCommon Objectsでの演奏も、また素晴らしいものであることを付記しておきたい。
フタリ9
Rhodri Davies『Pedwar』


文中の高橋悠治の発言は、CD『高橋悠治リアルタイム6 鳥の遊び』(Fontec FOCD3191)付属のライナーノーツから引用しました。

ロードリ・デイヴィスの前作『Pedwar』については、『耳の枠はずし』でレヴューしています。以下を参照してください。
http://miminowakuhazushi.blog.fc2.com/blog-entry-354.html
ハープの4つの側面 − Rhodri Davies『Pedwar』ディスク・レヴュー  Four Facets of Harp − Disk Review for Rhodri Davies "Pedwar"

Common Objectsのディスコグラフィについては以下のURLを参照してください。
https://www.discogs.com/ja/artist/3410861-Common-Objects
以下のURLでCommon Objectsの各作品の一部を試聴できます。
https://mikroton.bandcamp.com/album/live-in-morden-tower
https://anothertimbre.bandcamp.com/album/common-objects-whitewashed-with-lines
https://www.ftarri.com/meenna/980/index-j.html




ディスク・レヴュー | 18:14:56 | トラックバック(0) | コメント(0)
2015年1〜8月ディスク・レヴュー その3  Disk Review Jan. - Aug. 2015 vol.3
 ディスク・レヴュー第3弾は、音響的あるいはエレクトロ・アコースティックなインプロヴィゼーションからの9枚。書きあぐねているうちに、採りあげるべき新譜がどんどんと増えている状況で、これはともかく書けたものから出していくよりない‥と、ようやく腹を決めた次第。えいやっとリリース。なので、ここに入っているべき作品が次回送りになっていたりします。ごめんなさい。


Masahide Tokunaga / Alto Saxophone 2
Hitorri hitorri-994
徳永将豪Masahide Tokunaga(alto saxophone)
試聴:http://www.ftarri.com/hitorri/994/index-j.html
 空間を貫いて水平に張り渡された梁が、ぐにゃりとねじ曲がる。眼に見えぬ圧倒的な力が、その確かな痕跡を眼の前に刻み付ける。水平に引き伸ばされたアルトが歪み、弧を描いて屈曲し、そこにかかる力の凄まじさをひしひしと伝える。張り裂けそうに震える管、引き裂かれて内部を露わにする響き。トランペットの高鳴り、バス・クラリネットの低音の徘徊、エレクトロニクスによる変調、複数の音色の間に生じるモワレの脈動。一見、暴れることなく、平静を保って穏やかに推移する音色のうちに現れる凄まじい力の痕跡。管楽器による音響的なインプロヴィゼーションの多くが、重力をキャンセルし、サウンドを浮遊させ、響きを空間に遊ばせて、音響へと解体するのに対し、ここで徳永は徹頭徹尾、楽器に極限的な負荷をかけ続ける。初期の阿部薫を思わせる強度で鳴らし切られた管は、しかし「速度」へとは向かわず、走り出すことなく、その場に突っ立ったままで身をねじ曲げる。行き先を見定めようとする眼差しはここにはない。息を提供し続け、そこにのしかかる巨大な重量を背負いながら、それをコントロールするのではなく、「立会人」として正確に見定めつつ、事態が一瞬のうちにカタストロフに至ることを回避し、限界をはるかに超えた圧力/張力に耐え続けること。虹のように移り変わる音色は、そうした力のドラマのほんの現れに過ぎない。リードや管の振動に眼を擦り付けんばかりに肉迫した前半の3曲がとりわけ素晴らしい。それ以降の、やや「現象」から距離を置き、エアーを採り入れての録音では、そうした力動がいささか感じ取りにくくなっている。以前に『Dead Pan Smiles』を採りあげた大上流一とのデュオを、ぜひ聴いてみたいと思う。


Ezaki Masafumi, Takaoka Daysuke / 外の人 vol.3
無番号
江崎將史, 高岡大祐
試聴:
 冒頭、流れ込んだ雨水の滴りの響きに、まるで暗闇でマッチを擦ったように、地下道の湿度に閉ざされたパースペクティヴがふっと一瞬のうちに浮かび上がる様に驚かされる。音に照らし出される空間。じょぼじょぼと水のながれる地下道の、閉塞感のある特異なアコースティックのうちに、あるいはそこに入り込む交通騒音をはじめ周囲の環境音の中に、二人はすっと入り込んで音を出し、その響きを通じて、さらにその場の特性を触知する。空間に導かれる「演奏」。
 その後も街を散策しながら「演奏」は続けられる。そこでは歩き回り、耳を傾けることが、足音や息音を生み出し、楽器に息を吹き込むことと、分ち難くひとつになっている(楽器に吹き込まれる息のかすれにフォーカスして耳をそばだてるうち、遠くから響く交通騒音等のもやつきや風によるマイクロフォンの「吹かれ」に聴き入っている自分を発見する)。ここで音を聴くことと音を出すことは同じ一つのことであり、自らの身体や演奏行為のつくりだす輪郭、周囲の環境との境界は、いくらでも可変で相互浸透可能な、とりあえず仮構されただけのものにほかならない。商店街では頭部にマイクロフォンをセットして歩き回り、移り変わる音景色に口笛がいつまでも付いて回る。
 本来、この「外の人」は、高岡たちに聴衆が随伴し、街中の様々な特徴ある場を経巡っていく企画であり、聴衆は必ず演奏の場に立ち会い、その空間に共に居合わせることが原則なのだが、この3回目はたまたま雨天中止となったために、高岡と江崎だけで実行され、その結果が録音されたものだ。しかし、高岡による相変わらず秀逸な、汚れは汚れとして示し、聴くことを「キレイゴト」にしてしまわない録音は、その聴取を通じて湿気や匂い、「場」の圧力を感じさせるものとなっている。もし、その場に聴衆として居合わせたなら、おそらくは「演奏者」たちの姿をまじまじと見詰め、その結果、無意識のうちに環境音を「地」として背景に追いやり、「演奏者」たちのつくりだす音を「図」として浮かび上がらせてしまっただろうから、その点でもこの録音を聞くことは体験として貴重なものとなっている。20枚限定CD-R。



Anthony Kelley, Danny McCarthy, Mick O'Shea, David Stalling / Soundcast 4 x 4 (+1)
Farpoint 035
Anthony Kelley, Danny McCarthy, Mick O'Shea, David Stalling
試聴:https://soundcloud.com/farpointrecordings/soundcast_4_by_4_plus_1_track_9
   http://www.art-into-life.com/phone/product/6064
 アイルランドのギャラリーの古典的な彫像の並ぶ一室で2009年に繰り広げられたインプロヴィゼーションの記録。八つ折りされたポスター風ジャケットに掲載の写真で見ても、かなり広いスペースで天井も驚くほど高い。そうした空間のヴォリュームを存分に活かした演奏となっている。演奏楽器のクレジットはないが、これも写真を見る限りエレクトロニクスとパーカッション程度。硬質なサウンドが空間に放射され、決して飽和することなく、距離と覚醒の下で、常に余白のある緊張をつくりあげる。軋みやざらつきに満ちた手触りと希薄で無機質な響きの間に、一瞬のうちに張り巡らされるテンションが素晴らしい。この手の即興セッションに付き物のもったいぶった探り合いや付和雷同的な盛り上がりがなく、あたかも人の手によるものではないように演奏は進み、風景が移り変わる。それらの生成をじっと見詰めながら、細部をかたちづくる様々な流れ/力動に手指や爪先を差し入れ、耳を澄ます‥‥というフィールドレコーディング作品の聴き方が、本作にはふさわしかろう。2010年の作品だが、その時点ですでにこうした演奏が生み出されていたことに、改めて驚かずにはいられない。


Seijiro Murayama, Jean-Luc Guinnet / Mishima, Day & Night
Ftarri ftarri-990
Jean-Luc Guinnet(alto saxophone), 村山政二郎Seijiro Murayama(percussion,voice)
試聴:http://www.ftarri.com/ftarrilabel/990/index-j.html
 静岡県三島市内の寺とバーでの演奏を収録。そっと息を吹き込まれる管と、ゆっくりと巡りながらこすられ続けるシンバルの、付かず離れずの響きの触れ合いの只中に、タンギングの破裂が庭に設えられた鹿おどしのように点を穿ち、遠くで遊ぶ子どもたちの声が幻灯の如くぼうっと映し出される。管の鳴りとシンバルの響きはそのまま薄闇に溶け合い、見分け難くひとつとなりながら、時折思い出したように、甲高い唸りや不機嫌な軋みがふと浮かび上がる。奏法/音色を限定し、ゆるやかに黄昏れていく響きの中で、暗闇に慣れてきた眼差しは、多様な音色の繁茂と衝突を克明に聴き取ることができよう。その後の寺での演奏は長い沈黙に侵食されている。バーでの演奏は、そうした長い沈黙を引き継ぎながらも、より動きの多い演奏となっている。


The Pitch / Frozen Orchestra(Amsterdam)
Sofa Music SOFALP546
The Pitch:Boris Baltschun(electric pump organ), Koen Nutters(bass), Morten J.Olsen(vibraphone), Micael Thieke(clarinet)
Lucio Capece(bass clarinet), Johnny Chang(violin), Robin Hayward(tuba), Chris Heenan(contrabass clarinet), Okkung Lee(cell), Valerio Tricoli(revox)
試聴:https://soundcloud.com/sofalabel/the-pitch-frozen-orchestra-amsterdam-side-a
 分厚いうねりのめくるめく持続。滾々と湧き出し、滔々と流れ続ける響き。ちょうど水底から湧き上がる眼に見えない水の流れを、舞い上がる砂粒の動きを通じてとらえるように。あるいは空中に噴き上がる水の柱の、圧力により上昇する流れと重力により下降する流れが交錯/交替し、不定形なうごめきをつくりだす柱頭部分を、真上からスローモーションでじっと見詰め続けるように。一見、動きのないドローンは、実際には刻一刻、震える平衡の下にかたちづくられ、終始かたちを変え続ける(そうした変化はFrancisco Lopez『La Selva』同様、飛ばし聴きをすると改めて気づかされる)。各楽器がただただ音程を保って演奏し、微妙な上下や倍音の変化により音響が変化する‥‥というのではない。どのようにして、このように緊密に張り詰めた持続/生成を達成し得たのだろうか。The Pitchの4名のみで演奏された前作『Xenon / Argon』(Gaffer Records)と原理的には同様なのだろうが、そこでは識別可能なそれぞれの出音の輪郭が、ここでは集合性の中に溶解し、過剰なまでに濃密化することにより、匿名的と言うより、人称すら遠く離れ、数えきれない昆虫をはじめとする動植物、風雨等の自然現象、さらには温度変化や微生物がもたらす化学変化等が渾然一体となった、熱帯雨林のサウンドスケープを思わせるものとなっている。ダウンロード・クーポン付きLP。


Charlemagne Palestine / CharleBelllzzz at Saint Thomas
Alga Marghen Plana-P 35NMN 090
Charlemagne Palestine(carillon)
試聴:https://soundcloud.com/meditations/charlemagne-palestine-bells-carillon-excerpt
 鍵盤により打ち鳴らされる複数の鐘の単独の振動だけでなく、共鳴や共振が重なりあい、埃のように厚く降り積もって、連続した一様な層をかたちづくる。響きと倍音が入り混じった音響の雲。その中に鐘の音とは明らかに異なる輪郭の不確かな低音が、暗い影となって映り込む。どうもニューヨークの街の交通騒音のようだ。音響の雲にいったん沁み込んだ音風景が、再びゆるゆると立ち上がってくる様は、カイロ市街の音を題材としたGilles Aubryの作品を思い出させる。重たいトレモロが駆け抜け、路面電車の警戒音を思わせる鋭い響きが閃き、よりゆったりと間を空けて、無数の柱時計がランダムに衝突しながらなり始める。こうしてCharlemagne Palestineが奏でるセント・トーマス教会のカリヨンの音色は、John CageやTony Conrad、Moondogが愛したと言う。同時期に同じレーベルからLPのみでリリースされた、ただカリヨンが心地よく鳴り渡るだけの『Bell Studies』より、ずっと聴き甲斐がある。


Ferran Fages / For Pau Torres
organized music from thessaloniki #16
Ferran Fages(electric guitar,walkie-talkie)
試聴:https://thesorg.bandcamp.com/album/for-pau-torres
   http://www.ftarri.com/cdshop/goods/thessaloniki/t-16.html
 40分強の1トラックの演奏の最初8分間と最後5分間に収められた、極薄の金属板を翻させるような脆く儚く壊れやすいフィードバック主体の演奏に惹き付けられる。音響が身を翻しうねるとともに、周囲の空間が歪みひび割れ、その時に生じた細かな亀裂に溶け出した響きが入り込み、モザイク状の滲みを生み出していく。まるで宇宙空間のような虚無的な深いエコー、古い記憶を呼び覚ます針音めいたざらついたノイズ(もしかするとwalkie-talkie由来のノイズだろうか)と相俟って、厳冬の滝みたいに時の流れが凍り付いた中に浮かび漂う、見てはいけない封印された心霊写真を思わせる、特異な成分を分泌している。中間部分のLoren MazzaCain Connorsを(時にはDaniel Lanoisをすら)思わせる流麗に移りゆき、希薄にたなびきながら、深い陰影を残す「ブルージー」な演奏(とは言えそこには、冷ややかな距離を画定したラボ的な音響操作性が備わっている)も素晴らしいのだが。300枚限定。2012年作品。


Wake / Graveyard Coitus
Chocolate Monk choc.307
Wake ( Adam Bohman, Nick Couldry, Crow ), Mark Browne, Lol Coxhill
試聴:http://www.art-into-life.com/phone/product/6056
 1991年ロンドンでのライヴの録音で、今回のリリースは2012年にこの世を去ったLol Coxhillに捧げられている。音はものの見事にとっ散らかっていて、エレクトロニクスとテープとハウリングとガラクタ/オモチャなノイズの混濁したごった煮に、おそらくはラジオ放送から採られたであろうファウンド・ヴォイスや周囲のざわめきが混入し、一部の音が急に大きくなるなど、ミックスもまた演奏の一部としてはちゃめちゃな錯乱ぶりを示し、三次元的なパースペクティヴなど結ぶはずもない。幼児退行症的感覚はLAFMSに通じるが、何語ともつかない語りの妙に折り目正しい登場、気の抜けた拍手の挿入、歪み加減の陰湿で執拗な悪意等は明らかに英国的。おそらくはリーダー格のAdam Bohmanが参加するMorphogenesisの洗練が裏返され、徹底的にプリミティヴな衝動が目指される。それが単なる音響のゴミ溜めに堕してしまわないのは、いついかなる状況にあっても、くちゃくちゃと分節不明瞭なソプラノ・サックスを吹き鳴らし、決して歩みを止めることのないLol Coxhillの貢献によるものと言わねばなるまい。彼の推進力は溢れかえるノイズの合間を巧みに縫って、壊れた断片同士を結びつけ、過剰なサウンドが飽和する中に何度も立ち尽くしそうになりながら、それでも事態を更新し、常に水を入れ替え続ける。79枚限定CD-R。


Aine O'Dwyer / Music for Church Cleaners Vol.1 and Vol.2
MIE MIE 028
Aine O'Dwyer(church organ)
試聴:https://aineodwyer.bandcamp.com/album/music-for-church-cleaners
   https://soundcloud.com/aine-o-dwyer
 一見古代的で実のところ空間恐怖的なカヴァー・アート、「教会清掃人のための音楽」という題名と、のっけからひたすら謎めいている。実際に教会のパイプ・オルガンによって演奏しているにもかかわらず、権威的で猛々しい音圧や、空間の圧倒的広大さがもたらす押し付けがましい尊大さ等は、ここにはまったく感じられない。はるか高みから見下ろすようなそそり立つ建築的構成やそれを可能とする超絶技巧等もない。音は壁を一枚隔てた向こう側から響いてくるように角がなく、もやついてくぐもっており、にもかかわらず演奏ノイズや周囲の物音/話し声は、妙にはっきりと聞こえてくる。「舞台裏に響いてくるオルガン演奏」と言えば感じが伝わるだろうか。すなわち、ここでマイクロフォンは通常とは異なり、まっすぐにオルガンの方を見詰めていない。演奏のエネルギーが放出される照準とはずれたところで、それでも遍く響いてくる音響に、耳を傾けるともなく浸している。とぼとぼと歩きながら、あるいは他のことに思いを巡らしながら、音圧を濾過されたオルガンの力なくゆるんだ響きに、哀しみをたたえたなだらかな旋律に、あるいは礼拝堂に集う様々な物音/響きに、なすがままに肌を慰撫させている。やはり題名は、ここに収められた演奏にふさわしいのかもしれない(最後にそれらしい会話が収められているから‥というのではなく)。見開きカヴァーの2枚組LP。Aine O'Dwyerはやはり謎めいた活動を続けるフォーク・グループUnited Bible Studiesのメンバーとしても活動している。

ディスク・レヴュー | 22:15:35 | トラックバック(0) | コメント(0)
2015年1〜8月ディスク・レヴュー その2  Disk Review Jan. - Aug. 2015 vol.2
 ディスク・レヴュー第2弾は、音響的あるいはエレクトロ・アコースティックなコンポジションからの6枚。より即興性に傾いた演奏については、稿を改めて論じることにしたい。


Magnus Granberg / How Deep is the Ocean, How High is the Sky ?
another timbre at87
Magnus Granberg(prepared piano,composition), Cyril Bondi(objects,percussion), d'incise(objects,electronics), Teresa Hackel(bass recorder), Wolfgang Hillemann(chitarrone), Anna Lindal(baroque violin), Hans Jurg Meier(bass recorder), Anna-Kaisa Meklin(viola da gamba), Eric Ruffing(analogue synthesiser), Christoph Schiller(spinet,objects)
試聴:http://www.anothertimbre.com/granberghowdeep.html
 古楽系の楽器とエレクトロニクスやアナログ・シンセサイザーが同居し、Cyril Bondi, d'incise, Christoph Schiller等、若い世代の即興演奏者が集う。そうした編成から想像される音響変容系の音とは裏腹に、短く余韻の少ない打音が中心の端正で禁欲的な演奏が淡々と続けられる。少しもまぶしさのない曇天を思わせる明度の低さ。少しもべたついたところのないひんやりと乾いた音色。積み重なったり厚塗りされることなく、かと言って希薄に気化することもなく、ひっそりとその場に佇む響き。しばらく経過するとそれほど長いとは言えないものの、持続音がその構成比率を高め、あちこちで蓮の花が開くようにふつふつと湧いていた打音に、低音を徘徊するアナログ・シンセサイザーの熊の寝息にも似たノイズ成分が、バス・リコーダーの息の乱れが、ヴィオラ・ダ・ガンバの弦のざわめきが、ざらついた手触りを与える。


James Saunders / assigned #15
another timbre at88
Apartment House : Bridget Carey(viola), Simon Limbrick(percussion), Anton Lukoszevieze(cello), Nancy Ruffer(flute), James Saunders(dictaphones,shortwave radio), Philip Thomas(piano), Kerry Yong(chamber organ)
試聴:http://www.anothertimbre.com/saundersassigned.html
 背後に長く伸びる音のかげがふと沸き上がり、野放図に膨れ、仰ぎ見るほどにそそり立って、あたり一面に立ちこめ、元の音の輪郭を覆い隠す。ふと浮かび上がる吐息、うす白く発光しながら眼前を横切る弦のかすれ、夢うつつの夜汽車の振動を思わせる打楽器、ぶーんとうなり続ける冷蔵庫。物音はみな暗がりに沈み、輪郭を明らかにしないまま、震えうごめきながら、甲高い飛行音や遠い虫の音に溶けていく。それゆえ、ここで演奏はあたかも屋外の音風景を映し出しているように感じられる。輪郭を際立たせず、ゆるやかに移ろいながら、たまたま隣り合わせただけの「あちら」と「こちら」が照応しあって、びっくりするほど深い奥行きを描き出す。模倣というよりは再構成。周囲に樹々がざわめき、足下を見えない水が流れ、向こうでロッジの発電機がうなり、彼方から夜汽車の響きが運ばれてくる‥そんな益子の夜に体験した音風景がふとよみがえる。


Jurg Frey / Grizzana and other pieces 2009 - 2014
another timbre at86x2
Ensemble Grizzana ; Jurg Frey(clarinet), Mira Benjamin(violin), Richard Craig(flute), Emma Richards(viola), Philip Thomas(piano), Seth Woods(cello), Ryoko Akama(organ,electronics)
試聴:http://www.anothertimbre.com/freygrizzana.html
 ゆるゆると平坦に引き伸ばされた弦の響きが、ゆるやかな筆の運びにより水平に引かれた線の内部に走る様々な緊張を明らかにする。ここで音は、ゆるゆると影のように響きを伸ばしながら、風の冷たさに、夕暮れの暗さに、ひとりぼっちの心細さに、ふるふると震えている。もはや吐息と見分けの付かないヴァイオリンのかすれ。引き伸ばされ細くなりやがて消えていくピアノの余韻の向こうに、車の通過音がぼうっと浮かび上がる。Ryoko Akamaによるほとんどサブリミナルなエレクトロニクス。一見、ただただ静かに、平らかに、空気をかき乱すこともなく、そっと置かれていく音は、珍しく簡素なフレーズを描きながら、実は苛烈な戦闘の前線に投げ込まれている。そのことを触知するには、ただ離れたところから眺めているだけでは駄目だ。消えていく響きを追って、音の深奥へと耳を歩ませなければ。名古屋の音楽バー「スキヴィアス」を訪ねた際、店主の服部がこんな話をしてくれた。「通学で電車に乗っていた駅が、本当に田舎の無人駅で、あたりが静かなんで、電車が来ると、電車自体の音が聴こえる前に線路が鳴り出すんですね。電車が行ってしまっても、線路の響きは残っていて、だんだん小さくなっていく響きを耳で追うと、電車を追いかけるように耳の感覚が伸びていって、それまでは聴こえていなかった遠くの音がだんだん聴こえるようになってくるんです。」
 そのように消えていく音の行方を追いかけ、水中からまぶしく光さざめく水面を見上げるように音を聴くこと。そうすれば、一見簡素な組み立てに潜む、途方も無い豊かさを味わうことが出来るだろう。カヴァーに掲げられたGiorgio Morandiの絵画作品のように。


Clade / 3 Historic First Recordings of the Klavierstucke
試聴:https://cladistic.bandcamp.com/album/klavierst-cke
 「ピアノ曲集の歴史的初録音」とはいったい何のことかと訝しく覗き込んだ時点で、すでにCladeの術中に嵌っているというべきか(もしかするとDavid TudorによるStockhausenピアノ曲集のタイトルのパロディかもしれない)。重く冷たい打鍵、暗がりに沈むピアノ弦の震え、胃の腑に重たくのしかかる低音のうごめき、よじれながらたちのぼる残響、ひっそりとあるいはがさがさとせわしない物音、湿った黴臭い匂い‥‥。Harold Buddに捧げられた曲たちは、献呈者とは似ても似つかぬ窒息しそうな重苦しさをみなぎらせ、一方、David Jackmanに捧げられた曲たちはと言えば、幾分かはそれらしいオルガンのドローンが、がさごそと騒がしい動きに踏みにじられる。「ハノイで古ぼけたピアノを見つけた」ことが生み出した(という虚構の設定に基づく)植物性のピアノの廃墟『Vietnamese Piano』に続き、「確信犯」と呼ぶにふさわしい強靭な意志が、フェイクの限りを尽くした演奏を貫いている。幻灯芝居(ファンタスマゴリア)的なあり得ない情景喚起力が魅力的だ。


Quiet Music Ensemble / The Mysteries beyond Matter
Farpoint Recordings fp052
Dan Bodwell(double bass), Ilse De Ziah(cello), John Godfrey(electric guitar), Sean Mac Erlaine(clarinet,bassclarinet,chalumeau), Roddy O'Keeffe(trombone)
試聴:http://www.ftarri.com/cdshop/goods/farpoint/fp-052.html
 それにしてもずいぶん直接的なグループ名だが、ここでの演奏を聴く限り、「Quiet Music」とは決して『Quiet Corner』で紹介されるような、もの静かでおとなしい音楽でもなければ、依然としてWandelweiser楽派に対する誤った固定観念として流布しているところの「音量が小さく音数の少ない音楽」でもない。それは言うならば、環境に沁み込むことによって生成する音楽だ。David Toop「Night Leaves Breathing」におけるコツコツと叩く音、床や弦の軋み、押し殺されくぐもった寝息。頁がめくられ、ドアが開閉し、藁束が握りしめられる。そうした場所を取らないちっぽけな音が希薄に羅列され、周囲をうっすらと照らし出す一方で、熱に浮かされた眩暈のようにエレクトロニクスが揺らめき、いつの間にか忍び寄って来た超低音の暗闇に肩からのしかかられ、空調のうなりが間断なく続く。Alvin Lucier「Shadow Lines」では、管弦の層の重なりが水平にたなびき揺らぎ明滅しながら、垂直なハーモニーを形成するというより、どこまでもするするとズレ続けねじれながら、編み上げている糸の新たな色合いを示し、さらには相互干渉によるモワレ模様を浮かべる。Pauline Oliverosによる表題曲は、始まりの部分で音が聴き手の側に流れ出してくることなく、深い奥行きの中に貼り付いて、あたかも壮麗な洞窟の壁面に映る響きを眺め渡すように聴こえる部分が素晴らしい。音響が満ちてくると洞窟は水没し、いつものDeep Listeningなドローンに行き着いてしまうのだが。John Godfrey「Hand Tinted」は虫や蛙の声、バイクの通過音等のフィールドレコーディングの隙間に音響が覗く。いずれも耳を頼りに響きに任せるというよりは、言葉のインストラクションに身を委ね、文学的なイメージに沈み込んでいくことにより深みに達する感覚が共通しているのが興味深い。その意味では冒頭曲が白眉。これは「アイルランド的」なのだろうか。紙を四つ折りにした変型ジャケット。試聴頁に記されたFtarri鈴木美幸による解説も参照のこと。



Karen Power / Is It Raining While You Listen
Farpoint Recordings fp51
Claire Duff, SCAW Duo, MmmTrio, Quiet Music Ensemble, Carin Levine, Nova Ensemble, Karen Power(tape)
試聴:http://www.cmc.ie/shop/cd_detail.cfm?itemID=3430
 希薄化することにより演奏者のコントロールを束の間逃れ漂流する。物音や気配へと身を沈め、不定形な傷やシミへと姿をやつす。安定した輪郭を引き裂き、多方向からの力動の交錯/衝突へと自らを解き放つ。周囲の不可視のざわめきに身を浸し、環境に沁み込んで、そこから共にゆるゆると生成する。音響的なインプロヴィゼーションが用いる、そうした音の肉の重みを脱ぎ捨て、「音響」へと羽ばたく仕方(それらはコンポジションの演奏でも頻繁に用いられる)は、ここでは採用されていない。ヴァイオリンもピアノもクラリネットも、驚くほど鮮やかな輪郭をきらめかせ、充実した質量を空間に刻印する。その一方でDavid Toopが本作品のライナーに次のように記していることに深く同意せざるを得ない。「これらの作品に私が聴き取るのは濃密な聴取であって、それは楽器を、演奏者を、コンサート・ホールを超えて、世界の聴取から来るものだ。世界と言っても音楽の世界ではなく、相対的な調律、音響空間、音の入り組んだ相互浸透、そして音が消え去ったり、聴覚の限界に入り込んだり、不意に戻って来たりした時に何が起こるのかに対する感覚を劇的に研ぎ澄ますサウンド・イヴェントの束のことだ。」
 ヴァイオリンの響きは編集により交錯/衝突させられる。ピアノとクラリネットのデュオが乱反射し、内部奏法により搔き鳴らされた弦がそれらを圧して鳴り渡り、空間を凍り付かせる。それらは演奏のステージを浮かび上がらせない。音楽的ドラマもまた。虫の音や遠い子どもの声、羊の首に吊るされた鈴が響き渡るトラックに遭遇して、これらの器楽が標題音楽とは違う仕方で、架空のサウンドスケープを描き上げていたことに気づかされる。音/響きは単に「音の絵画」のための「絵具」ではなく、世界をサウンドスケープとして聴取することへと耳を誘うための「導きの糸」として配置される。極端に繊細な編集にはほとんど執念のようなものが感じられる。やはり「アイルランド的」なのだろうか。500枚限定。三つ折りの縦長変型ジャケット。

ディスク・レヴュー | 22:20:32 | トラックバック(0) | コメント(0)
2015年1〜8月ディスク・レヴュー その1  Disk Review Jan. - Aug. 2015 vol.1
 延び延びになっていたディスク・レヴュー執筆だが、次から次へと興味深い作品のリリースが続き、これではいつまでたっても選盤に入れない。ということで、無理矢理に区切りをつけてご紹介することにしたい。まずは器楽的インプロヴィゼーションからの10枚。本来なら今年に入ってからの「タダマス」レヴューで触れた菊地雅章のクワルテットをはじめとする作品群も採りあげなければならないところだが、先の事情により割愛させていただいた。引き続き音響的インプロヴィゼーションやフィールドレコーディング系の作品も採りあげていく予定である。そちらは作品数がさらに多いので、幾つかに分割して執筆・掲載することになると思う。乞うご期待。


John Butcher / Nigemizu
Uchimizu Uchimizu01
John Butcher(tenor saxophone,soprano saxophone)
試聴:http://www.ftarri.com/cdshop/goods/uchimizu/uchimizu-01.html
 冒頭、リードの手前で音にならずにもやつく吐息のたゆたいが、眼に見えるように浮かび上がる。ブレスの際に漏れる息遣いに全身の、生身の緊張が映し出され、聴き手の身体に伝染する。音の消え際にふっと気配のようにその場のアコースティックが浮かび、いま自分が演奏者とひと連なりの空間に座して、同じ空気を呼吸しているかの幻想に一瞬とらわれる。質の高いレンズで撮影した写真のように、対象の輪郭が空間に溶ける部分のボケ味が、丸みのある立体の、複雑に折り畳まれた響きの襞の確かな手触りを伝える。引き伸ばされた持続の中で、「一音」をかたちづくる各層がふっと芽吹き、すっと枝を伸ばす。重音奏法とか、重層化されたポリフォニーというのは、ずいぶん解像度の低いとらえ方だったことに今更のように気づかされる。いや「解像度」と言ってしまうと、単に録音機材のスペックの問題であるかのような誤解を与えかねない。これは空間と響きをいかに見極めるかという視点の設定の問題である。録音を担当したのは「tuba吹き」高岡大祐。これは単に音楽家だから、管楽器奏者だから可能になった録音ではない。ふだんから音を放つことで空間を探査/聴診する演奏を続けている「音の釣り師」だからこそできる業だろう。John Butcherの演奏を初めて聴いたかのような衝撃を受ける(今までCDであるいはライヴで、聴いたつもりになっていたのは一体何だったのか)。今年のベストワン候補が早くも登場してしまった。


Common Objects / Whitewashed with Lines
another timbre at85x2
John Butcher(acoustic & amplified saxophones), Angharad Davies(acoustic & amplified violin), Rhodri Davies(electric & pedal harp), Lee Patterson(amplified devices,processes)
試聴:http://www.anothertimbre.com/commonobjects.html
 深い闇の中で、固く強ばり拘縮していた四肢が氷解し、硬直がゆるやかに伸びていくにつれ、次第に世界がその姿を現し始める。水の滴りや急な温度変化により石室が立てる軋み。それらが空間に広がり映し出す影。ふつふつと滾るような内臓各部のつぶやき。引き攣りあるいはぐったりと弛緩する筋肉のざわめき。神経の昂りが高周波のように鋭く脳内に響き渡る。それらの音響が遠近を欠くばかりか内外の区別すらなく混濁し、原形質状に蠢き震えている。まるで折口信夫「死者の書」の冒頭、目覚めの部分のサウンドトラックのようだ。耳の視界の片隅を占めるに過ぎないちっぽけで希薄な物音が、これしかない仕方で緊密に重なり合い結び合わされて、音響の張り詰めた推移をつくりだす。引き伸ばされた持続音や繰り返しの重ね合わせによらずに、彼らがそうした状態を創出できている理由のひとつとして、ここ(CD1枚目に収録された「cup and ring」)で彼らが図形楽譜を用いていることが挙げられるだろう。しかもそこでモチーフとなっているのは、付近の新石器時代の遺跡から出土する石や岩に彫られた線条の文様である。ただ視覚的なグラフィックと言うだけでなく、古代へと遡る想像力がここでの彼らの演奏の基盤となっていることは想像に難くない(同様の事態を私たちはすでに三上寛・灰野敬二・石塚俊明によるVajraの第1作で体験している)。CD2枚目に収められた集団即興も見事だが、まず何よりもこのRhodri Daviesによるコンポジション「cup and ring」の演奏を聴いてほしい。


Ted Byrnes / Objects
Clained Responsibility CLAINED 4
Ted Byrnes(percussion)
試聴:http://www.art-into-life.com/product/6214
 金属製や木製の音具、ドラム、電動ドリル等を用いたソロによる即興演奏。ざっくりとかき混ぜられ、あるいは高速で撹拌される音響。四方八方から流れ込み、至るところで衝突し混じり合う混在郷。眼前に迫るほど至近距離でとらえられた音像は空間をはらまず、残響は一瞬で揮発する。それゆえ打撃/摩擦の瞬間に弾け飛ぶ音粒子が眼に痛く、また、衝突の衝撃が打撃に微細なクリナメン(ルクレティウスの言うところの)をもたらし、高速の連打が次第にぶれていく様子が曇りなく鮮明に写し取られている。演奏する身体の運動よりも、高速で振動し、遷移し、変容する対象物=物体の運動が前景化してくるのも、同じ原理による。音響機械の自動運動、熱による分子運動のランダム化、もつれてはほどけていく音流に向けて、廃品集積場を漁るようなジャンクな構築は、ますます人の手を離れ、冷ややかにマテリアルな強度をたたえながら、エロティックに崩壊して行く印象を与える。彼はLAFMSと親交が深く、何と大編成版のAIRWAYにも参加していたりするのだが、このことを踏まえて坂口卓也氏が本作に関し「技術を意識させない変なことをあれこれやっているが、『面白いだろう?変だろう?』という意図が全く無い」と実に的確な評を述べている。限定100枚とのこと。紹介してくれたArt into Life青柳氏に感謝したい。


Paul Lytton / "?" "!"
Pleasure of the Text Records POTTR1303
Paul Lytton(Trobiander laptop,miscellaneous percussion instruments,objects and implements,electro-mechanical devices,frame plus CnC Elektronics)
試聴:http://www.squidco.com/miva/merchant.mvc?Screen=PROD&Store_Code=S&Product_Code=20776
 様々な小さな音具を用い、多彩な音色を駆使したソロ・パーカッションによるインプロヴィゼーションという点では前掲作と同じだが、ここで打撃の密度や変化はよりゆるやかになり、演奏する身体、発せられる音の行方に耳を澄ます生身の体の持続が際立ってくる。エレクトロニクスの使用により音色の幅は本作の方が広く、おそらくはサンプリングされたのだろう動物の鳴き声も聴こえる。また、前掲作では皮膚の表面を高速で駆け抜けていった音粒子の、あるいは打撃のパルスの心地よいシャワーは、ここで金属片を擦り、スプリングを撓ませる力動の生々しい触覚に取って代わられている。放った音がすぐさま耳の視界を離れ消え去る前掲作に対して、ここで響きはねっとりととぐろを巻いてこの場に居座り、周囲の空間へじくじくと滲み出していく。だからここでフリー・インプロヴィゼーションは音響の泥沼との果てしない悪戦苦闘として現象している。音響素材のパレットとしては限りなく音響的、エレクトロ・アコースティック的でありながら、器楽的即興演奏の範疇に本作を置きたいのは、前掲作と比較しながら、この身体の誠実な不自由さを直視したいからにほかならない。Evan Parker Electro-Acoustic Quartetの一員として来日した際の演奏の無様さがずっとトラウマになっていたのだが、これは優れた演奏だ。


高木元輝 / 不屈の民
ちゃぷちゃぷレコード POCS-9353
高木元輝(tenor saxophone)
試聴:https://www.youtube.com/watch?v=bHBit7KNK80
   https://www.youtube.com/watch?v=2d80j1T13v8
   https://www.youtube.com/watch?v=MEWR-a86_zY
 1996年9月15日、山口県防府市カフェ・アモレスにおけるライヴの埋蔵録音から、高木のソロ・パートのみを抜粋したもの。寡黙とすら言ってよい、口数の少ない静かな語り口は、穏やかさの中に濃密な情感(それは主に悲哀であるのだが)と揺るぎない意志の強さを秘めている。そのことは吐息をはらんでゆったりとくゆらされるテナーの軌跡が、いささかも上滑りすることなく、地平をがっしりと踏みしめ、自らを彫り刻んでいくことからも明らかだろう。ジャズ的なフレーズをふんだんに組み込んだ演奏は、その語彙やテンポ設定からすれば、紛う方なき「ジャズ」、それもスローでリラックスしたそれにほかなるまいが、背後に不可視のリズム・セクションの存在を感じさせず、ただただ自らの息と空間の、響きと沈黙の張り詰めた均衡だけを足がかりとして細い綱を渡っていく即興は、一瞬たりとも聴き手の耳を眠り込ませることがない。何よりも音の、息の、空間の気配を見詰め続ける高木のみ身の視線の強さに打たれる。彼の大きな眼は演奏時にはしっかりと瞑られているのだが、それとは裏腹に耳の眼はくわっと大きく食い入るように見開かれている。それゆえ彼の演奏は、フレーズの変奏を離れ、展開の道筋をほとんど見失って、音のかけらと戯れる時も、硬質な輪郭と充実した重み、確かな手触りを失わない(この「極めて具体的な抽象性」のあり方はスティーヴ・レイシーを思わせる)。荒々しく粗雑なブロウにまみれた形骸化せる定型としての「フリー」を求めるのでなければ、きっと満足できることだろう。入手可能な録音の少ない高木の、貴重な音源の登場である。


Joana Sa / Elogio Da Desordem ( In Praise of Disorder)
Shhpuma Records SHH006CD
Joana Sa(semi-prepared piano,bells and serens installation,toy piano,noise boxes&mini amps,harmonium,flexible tubes), Rosinda Costa(voice)
試聴:http://www.squidco.com/miva/merchant.mvc?Screen=PROD&Store_Code=S&Product_Code=20396
 不安げな女声の語りの背後でさらに不安と緊張を煽り立てる音響は、声が止んでもそのまま自らの運動を繰り広げていく。凍てついた空間に波紋を広げるピアノの重厚な打鍵、搔き鳴らされたピアノ弦の高鳴り、沈黙をざらざらと傷つける針音や回り続けるフィルム・リールの動作音、遠く聴き取りにくいヴォイスの混信、プリペアドにより生み出された虚ろな響きが空間に不思議な文様を浮かび上がらせ、突如として鳴り渡るベルやブザーがきりきりと胸を締め付ける。語りをフィーチャーした作曲作品なのだが、作曲者自身による演奏は、見事なまでに即興的強度に溢れている。特に遠近配置の巧みな撹乱と多元的な要素の混在のもたらす、夢見るように多層が交錯する幻想性において。Clean Feedが流通を担当するポルトガルのマイナー・レーベル。2013年作品だが、他に紹介するところもないと思うので。

ジャケットはブックレット仕立てになっている。


Open Field + Burton Greene / Flower Stalk
Cipsela Records CIP 002
Jose Miguel Pereia(double bass), Marcelo dos Reis(nylon string guitar,prepared guitar,voice), Joao Camoes(viola,mey,percussion), Burton Greene(piano,prepared piano,percussion)
試聴:https://cipsela.bandcamp.com/album/flower-stalk
 1960年代にESPレーベル等に残した録音で知られる白人ピアニストBurton Greeneだが、このCDの内ジャケットでは、まだ若い共演者に囲まれて、年老いた吸血鬼のように元気な姿を見せている。緊密に絡み合う集団即興は、弦の軋みが「音響」への離陸の気配を示しながらも、研ぎ澄まされ切り詰められたピアノの打鍵やプリペアドに象徴されるように音のボディの確かな重みを手放さない。一方、たとえ音数が増えてもフリー・ジャズ的な放埒さには決して至らず、冷ややかな構築が揺らぐことはない。瞬間を切り裂くギターの閃きがソロに転じると意外なリリカルさを見せ、駆け回るヴィオラが弦を焼き切らんばかりに加熱すると、他の3人はこれを冷ややかな距離を置いて眺め、自然とソロになる「離見の見」的なバランス/構成感覚は特筆すべきだろう。2曲目冒頭部分でギターとダブルベースのデュオが張り詰めた時間の中で浮き沈みし、情感をゆるやかに醸成していく様も見事だが、その緊張を些かも損なうことなくピアノとヴィオラが加わる手口の鮮やかさ(ロベール・ブレッソン『スリ』が捉えた水も漏らさぬ連携作業を思わせる)には、本当にぞくりとさせられる。Greeneの確かな技量と氷のような抑制がもたらす透徹した覚醒感が何より素晴らしい。彼がPatty Watersのピアニストだったことを改めて噛み締めざるを得ない。ポルトガルの新生レーベルから。300枚限定。ちなみにレーベル第1作はCarlos Zingaloのソロ。


Malcolm Goldstein / Full Circle Sounding
Kye Kye 34
Malcolm Goldstein(violin,electronics,tapes)
試聴:https://www.youtube.com/watch?v=w0XDRM0jM1Y
 1960年代にJudson Dance Theaterとの共同作業のために制作された2曲のエレクトロニックなコラージュにヴァイオリンのソロを重ねた演奏、ボスニア・ヘルツェゴビナのフォークソングに基づいた作曲、あらかじめ準備のないオープンなインプロヴィゼーションが1枚のLPに収められている。50年の歳月が。比類なき超絶技巧によりながらも、時に弦を責め苛むためだけにせわしなく飛び回るかに聴こえてしまう彼の演奏は、ここでエレクトロニスの混交やヴェトナム戦争に対する反戦運動の記憶、民族文化への憧憬等の厚みを踏みしめることによって、隅々まで血の通った、重く深い情感をたたえたものとなり得ている‥‥と言ったら、あまりにロマンティックな物言いだろうか。しかし、身をよじり、ねじれ、自らを果てしなく切り刻みながら、軽々しい切断や飛躍を許さず、透徹した持続を貫いていることが、本作に何時にも増した強度を与えていることは確かであり、それをしっかりと裏打ちしているのは、時代の変遷を乗り越えた強靭な記憶にほかならないのだ。レーベルとの組合せに意外性を感じるが、Kye主催のフェスティヴァルへの出演、そこでの演奏が本作制作のきっかけになったと言う。旧作を一部転用しているとは言え、すべて新録音とは恐れ入る(1936年生まれだから、今年で79歳のはず)。ジャケット及び付属のインサートの装画も彼自身による。


Arnold Dreyblatt / Second Selection
Black Truffle Records BT016
Arnold Dreyblatt(excited strings bass,electric guitar,dynamic processing electronics,electric double-neck lap "hawaiian" steel guitar,e-bow), Dirk Lebahn(excited strings bass), Jan Schade(miniature princess piano), Wolfgang Mettler(violin), Wolfgang Glum(percussion), Michael Hauenstein(excited strings bass,hurdy gurdy), Tracy Kirchenbaum(excited strings bass), Peter Phillips(miniature princess piano), Kraig Hill, Eric Feinstein(french horn), Peter Zummo(trombone), Paul Panhuysen(prepared electric bass guitar,automated plectrum)
試聴:http://www.meditations.jp/index.php?main_page=product_music_info&products_id=17229
 再評価が高まっているのか、Dreyblattの発掘音源がまた一つリリースされた。本作は1980年代の録音からOren Ambarchi(!)により編まれている。LP2枚組、各面20分程度の収録というヴォリューム。強烈な打弦が豊穣たる倍音の雲を立ち上らせ、それがアンサンブルにより交錯/衝突しながら豊かに息づく一方で、幾重にも敷き重ねられたアルコが、軋み/唸りを上げながら積み上がり重層化していく。そうしたプロセスにより擦弦楽器に特徴的な音色は解体し尽くされ、接触不良のエレクトロニクスがつくりだす、消える寸前の蝋燭の炎にも似た不安定な揺らめきとしか聴こえなかったりするのだが、そうした音響現象への溶解というか遡行はDreyblattの意図したところだろう。にもかかわらず、音響的な希薄さへと離陸しきれない、どうしても脱ぎ捨てられない肉の重さとでも言うべきものが、ここには宿命的に刻印されており、それが彼の音楽に独自の位置づけを与えている。音響的なエレクトロ・アコースティックなインプロヴィゼーションではなく、こちらの範疇に置いた所以である。


La Monte Young, Marian Zazeela / The Black Record
Oddullabaloo ODDITY1501LP
La Monte Young(voice,sine wave drone,bowed gong), Marian Zazeela(voice,bowed gong)
試聴:https://www.youtube.com/watch?v=PizITBPWhXI
   https://www.youtube.com/watch?v=otWZgXIpnV0
彼の初めての公式録音として知られる。大里俊春が「現代音楽の中からヘビメタの数百倍すごい奴」を10枚選んだうちの1枚(「巨大銅鑼の弓弾きで倍音の嵐」と紹介されている)。長らく入手困難だったので待望の再発。A面では一切の響きを伴わない声音が、ゆるゆると身をくねらせながら中空を這い回る声の多幸郷(ユーフォリア)が提示される。天女のように軽やかに舞うはずの声は、ここで重たい肉を背負い、前述のようにゆるゆるとカタツムリのように這い回るのだが、不思議と重力の頸木は逃れている。対してB面では遠く距離をはらみ空間一杯に不明瞭に拡大した音響が、倍音や分割振動や部分共鳴や、いやありとあらゆる不均衡で非調和的な派生的音響をないまぜにして、波打ち、渦巻き、滔々と溢れ出す。ミニマル・ミュージックというより、工場の動作音や停泊する船舶の軋み、あるいはGilles Aubryが指し示した、壁に沁み込んで閉ざされた部屋に侵入してくる交通騒音等に近い。進み流れることなく、足下に澱みわだかまる「時」の姿をうっかり眼差してしまったような、畏れにも似た感慨が浮かんでくる。なお、このB面は33回転ではなく、16回転や8回転でも再生して構わない旨がジャケットに記されている。しばらく前にリリースされた2種類のLP音源(おそらくはブートレグ)で聴くことのできる、素早く振動するソプラノ・サックスやヴィオラ、細かく弾むパーカッション等を伴った演奏とは全く別物。異世界が眼前に広がる。

2種類のLP音源のジャケット。



ディスク・レヴュー | 23:46:41 | トラックバック(0) | コメント(0)
次のページ