■プロフィール

福島恵一

Author:福島恵一
プログレを振り出しにフリー・ミュージック、現代音楽、トラッド、古楽、民族音楽など辺境を探求。「アヴァン・ミュージック・ガイド」、「プログレのパースペクティヴ」、「200CDプログレッシヴ・ロック」、「捧げる-灰野敬二の世界」等に執筆。2010年3~6月に音盤レクチャー「耳の枠はずし」(5回)を開催。2014年11月から津田貴司、歸山幸輔とリスニング・イヴェント『松籟夜話』を開催中。

■最新記事
■最新コメント
■最新トラックバック

■月別アーカイブ
■カテゴリ
■リンク
■検索フォーム

■RSSリンクの表示
■リンク
■ブロとも申請フォーム
■QRコード

QR

2015年1〜8月ディスク・レヴュー その3  Disk Review Jan. - Aug. 2015 vol.3
 ディスク・レヴュー第3弾は、音響的あるいはエレクトロ・アコースティックなインプロヴィゼーションからの9枚。書きあぐねているうちに、採りあげるべき新譜がどんどんと増えている状況で、これはともかく書けたものから出していくよりない‥と、ようやく腹を決めた次第。えいやっとリリース。なので、ここに入っているべき作品が次回送りになっていたりします。ごめんなさい。


Masahide Tokunaga / Alto Saxophone 2
Hitorri hitorri-994
徳永将豪Masahide Tokunaga(alto saxophone)
試聴:http://www.ftarri.com/hitorri/994/index-j.html
 空間を貫いて水平に張り渡された梁が、ぐにゃりとねじ曲がる。眼に見えぬ圧倒的な力が、その確かな痕跡を眼の前に刻み付ける。水平に引き伸ばされたアルトが歪み、弧を描いて屈曲し、そこにかかる力の凄まじさをひしひしと伝える。張り裂けそうに震える管、引き裂かれて内部を露わにする響き。トランペットの高鳴り、バス・クラリネットの低音の徘徊、エレクトロニクスによる変調、複数の音色の間に生じるモワレの脈動。一見、暴れることなく、平静を保って穏やかに推移する音色のうちに現れる凄まじい力の痕跡。管楽器による音響的なインプロヴィゼーションの多くが、重力をキャンセルし、サウンドを浮遊させ、響きを空間に遊ばせて、音響へと解体するのに対し、ここで徳永は徹頭徹尾、楽器に極限的な負荷をかけ続ける。初期の阿部薫を思わせる強度で鳴らし切られた管は、しかし「速度」へとは向かわず、走り出すことなく、その場に突っ立ったままで身をねじ曲げる。行き先を見定めようとする眼差しはここにはない。息を提供し続け、そこにのしかかる巨大な重量を背負いながら、それをコントロールするのではなく、「立会人」として正確に見定めつつ、事態が一瞬のうちにカタストロフに至ることを回避し、限界をはるかに超えた圧力/張力に耐え続けること。虹のように移り変わる音色は、そうした力のドラマのほんの現れに過ぎない。リードや管の振動に眼を擦り付けんばかりに肉迫した前半の3曲がとりわけ素晴らしい。それ以降の、やや「現象」から距離を置き、エアーを採り入れての録音では、そうした力動がいささか感じ取りにくくなっている。以前に『Dead Pan Smiles』を採りあげた大上流一とのデュオを、ぜひ聴いてみたいと思う。


Ezaki Masafumi, Takaoka Daysuke / 外の人 vol.3
無番号
江崎將史, 高岡大祐
試聴:
 冒頭、流れ込んだ雨水の滴りの響きに、まるで暗闇でマッチを擦ったように、地下道の湿度に閉ざされたパースペクティヴがふっと一瞬のうちに浮かび上がる様に驚かされる。音に照らし出される空間。じょぼじょぼと水のながれる地下道の、閉塞感のある特異なアコースティックのうちに、あるいはそこに入り込む交通騒音をはじめ周囲の環境音の中に、二人はすっと入り込んで音を出し、その響きを通じて、さらにその場の特性を触知する。空間に導かれる「演奏」。
 その後も街を散策しながら「演奏」は続けられる。そこでは歩き回り、耳を傾けることが、足音や息音を生み出し、楽器に息を吹き込むことと、分ち難くひとつになっている(楽器に吹き込まれる息のかすれにフォーカスして耳をそばだてるうち、遠くから響く交通騒音等のもやつきや風によるマイクロフォンの「吹かれ」に聴き入っている自分を発見する)。ここで音を聴くことと音を出すことは同じ一つのことであり、自らの身体や演奏行為のつくりだす輪郭、周囲の環境との境界は、いくらでも可変で相互浸透可能な、とりあえず仮構されただけのものにほかならない。商店街では頭部にマイクロフォンをセットして歩き回り、移り変わる音景色に口笛がいつまでも付いて回る。
 本来、この「外の人」は、高岡たちに聴衆が随伴し、街中の様々な特徴ある場を経巡っていく企画であり、聴衆は必ず演奏の場に立ち会い、その空間に共に居合わせることが原則なのだが、この3回目はたまたま雨天中止となったために、高岡と江崎だけで実行され、その結果が録音されたものだ。しかし、高岡による相変わらず秀逸な、汚れは汚れとして示し、聴くことを「キレイゴト」にしてしまわない録音は、その聴取を通じて湿気や匂い、「場」の圧力を感じさせるものとなっている。もし、その場に聴衆として居合わせたなら、おそらくは「演奏者」たちの姿をまじまじと見詰め、その結果、無意識のうちに環境音を「地」として背景に追いやり、「演奏者」たちのつくりだす音を「図」として浮かび上がらせてしまっただろうから、その点でもこの録音を聞くことは体験として貴重なものとなっている。20枚限定CD-R。



Anthony Kelley, Danny McCarthy, Mick O'Shea, David Stalling / Soundcast 4 x 4 (+1)
Farpoint 035
Anthony Kelley, Danny McCarthy, Mick O'Shea, David Stalling
試聴:https://soundcloud.com/farpointrecordings/soundcast_4_by_4_plus_1_track_9
   http://www.art-into-life.com/phone/product/6064
 アイルランドのギャラリーの古典的な彫像の並ぶ一室で2009年に繰り広げられたインプロヴィゼーションの記録。八つ折りされたポスター風ジャケットに掲載の写真で見ても、かなり広いスペースで天井も驚くほど高い。そうした空間のヴォリュームを存分に活かした演奏となっている。演奏楽器のクレジットはないが、これも写真を見る限りエレクトロニクスとパーカッション程度。硬質なサウンドが空間に放射され、決して飽和することなく、距離と覚醒の下で、常に余白のある緊張をつくりあげる。軋みやざらつきに満ちた手触りと希薄で無機質な響きの間に、一瞬のうちに張り巡らされるテンションが素晴らしい。この手の即興セッションに付き物のもったいぶった探り合いや付和雷同的な盛り上がりがなく、あたかも人の手によるものではないように演奏は進み、風景が移り変わる。それらの生成をじっと見詰めながら、細部をかたちづくる様々な流れ/力動に手指や爪先を差し入れ、耳を澄ます‥‥というフィールドレコーディング作品の聴き方が、本作にはふさわしかろう。2010年の作品だが、その時点ですでにこうした演奏が生み出されていたことに、改めて驚かずにはいられない。


Seijiro Murayama, Jean-Luc Guinnet / Mishima, Day & Night
Ftarri ftarri-990
Jean-Luc Guinnet(alto saxophone), 村山政二郎Seijiro Murayama(percussion,voice)
試聴:http://www.ftarri.com/ftarrilabel/990/index-j.html
 静岡県三島市内の寺とバーでの演奏を収録。そっと息を吹き込まれる管と、ゆっくりと巡りながらこすられ続けるシンバルの、付かず離れずの響きの触れ合いの只中に、タンギングの破裂が庭に設えられた鹿おどしのように点を穿ち、遠くで遊ぶ子どもたちの声が幻灯の如くぼうっと映し出される。管の鳴りとシンバルの響きはそのまま薄闇に溶け合い、見分け難くひとつとなりながら、時折思い出したように、甲高い唸りや不機嫌な軋みがふと浮かび上がる。奏法/音色を限定し、ゆるやかに黄昏れていく響きの中で、暗闇に慣れてきた眼差しは、多様な音色の繁茂と衝突を克明に聴き取ることができよう。その後の寺での演奏は長い沈黙に侵食されている。バーでの演奏は、そうした長い沈黙を引き継ぎながらも、より動きの多い演奏となっている。


The Pitch / Frozen Orchestra(Amsterdam)
Sofa Music SOFALP546
The Pitch:Boris Baltschun(electric pump organ), Koen Nutters(bass), Morten J.Olsen(vibraphone), Micael Thieke(clarinet)
Lucio Capece(bass clarinet), Johnny Chang(violin), Robin Hayward(tuba), Chris Heenan(contrabass clarinet), Okkung Lee(cell), Valerio Tricoli(revox)
試聴:https://soundcloud.com/sofalabel/the-pitch-frozen-orchestra-amsterdam-side-a
 分厚いうねりのめくるめく持続。滾々と湧き出し、滔々と流れ続ける響き。ちょうど水底から湧き上がる眼に見えない水の流れを、舞い上がる砂粒の動きを通じてとらえるように。あるいは空中に噴き上がる水の柱の、圧力により上昇する流れと重力により下降する流れが交錯/交替し、不定形なうごめきをつくりだす柱頭部分を、真上からスローモーションでじっと見詰め続けるように。一見、動きのないドローンは、実際には刻一刻、震える平衡の下にかたちづくられ、終始かたちを変え続ける(そうした変化はFrancisco Lopez『La Selva』同様、飛ばし聴きをすると改めて気づかされる)。各楽器がただただ音程を保って演奏し、微妙な上下や倍音の変化により音響が変化する‥‥というのではない。どのようにして、このように緊密に張り詰めた持続/生成を達成し得たのだろうか。The Pitchの4名のみで演奏された前作『Xenon / Argon』(Gaffer Records)と原理的には同様なのだろうが、そこでは識別可能なそれぞれの出音の輪郭が、ここでは集合性の中に溶解し、過剰なまでに濃密化することにより、匿名的と言うより、人称すら遠く離れ、数えきれない昆虫をはじめとする動植物、風雨等の自然現象、さらには温度変化や微生物がもたらす化学変化等が渾然一体となった、熱帯雨林のサウンドスケープを思わせるものとなっている。ダウンロード・クーポン付きLP。


Charlemagne Palestine / CharleBelllzzz at Saint Thomas
Alga Marghen Plana-P 35NMN 090
Charlemagne Palestine(carillon)
試聴:https://soundcloud.com/meditations/charlemagne-palestine-bells-carillon-excerpt
 鍵盤により打ち鳴らされる複数の鐘の単独の振動だけでなく、共鳴や共振が重なりあい、埃のように厚く降り積もって、連続した一様な層をかたちづくる。響きと倍音が入り混じった音響の雲。その中に鐘の音とは明らかに異なる輪郭の不確かな低音が、暗い影となって映り込む。どうもニューヨークの街の交通騒音のようだ。音響の雲にいったん沁み込んだ音風景が、再びゆるゆると立ち上がってくる様は、カイロ市街の音を題材としたGilles Aubryの作品を思い出させる。重たいトレモロが駆け抜け、路面電車の警戒音を思わせる鋭い響きが閃き、よりゆったりと間を空けて、無数の柱時計がランダムに衝突しながらなり始める。こうしてCharlemagne Palestineが奏でるセント・トーマス教会のカリヨンの音色は、John CageやTony Conrad、Moondogが愛したと言う。同時期に同じレーベルからLPのみでリリースされた、ただカリヨンが心地よく鳴り渡るだけの『Bell Studies』より、ずっと聴き甲斐がある。


Ferran Fages / For Pau Torres
organized music from thessaloniki #16
Ferran Fages(electric guitar,walkie-talkie)
試聴:https://thesorg.bandcamp.com/album/for-pau-torres
   http://www.ftarri.com/cdshop/goods/thessaloniki/t-16.html
 40分強の1トラックの演奏の最初8分間と最後5分間に収められた、極薄の金属板を翻させるような脆く儚く壊れやすいフィードバック主体の演奏に惹き付けられる。音響が身を翻しうねるとともに、周囲の空間が歪みひび割れ、その時に生じた細かな亀裂に溶け出した響きが入り込み、モザイク状の滲みを生み出していく。まるで宇宙空間のような虚無的な深いエコー、古い記憶を呼び覚ます針音めいたざらついたノイズ(もしかするとwalkie-talkie由来のノイズだろうか)と相俟って、厳冬の滝みたいに時の流れが凍り付いた中に浮かび漂う、見てはいけない封印された心霊写真を思わせる、特異な成分を分泌している。中間部分のLoren MazzaCain Connorsを(時にはDaniel Lanoisをすら)思わせる流麗に移りゆき、希薄にたなびきながら、深い陰影を残す「ブルージー」な演奏(とは言えそこには、冷ややかな距離を画定したラボ的な音響操作性が備わっている)も素晴らしいのだが。300枚限定。2012年作品。


Wake / Graveyard Coitus
Chocolate Monk choc.307
Wake ( Adam Bohman, Nick Couldry, Crow ), Mark Browne, Lol Coxhill
試聴:http://www.art-into-life.com/phone/product/6056
 1991年ロンドンでのライヴの録音で、今回のリリースは2012年にこの世を去ったLol Coxhillに捧げられている。音はものの見事にとっ散らかっていて、エレクトロニクスとテープとハウリングとガラクタ/オモチャなノイズの混濁したごった煮に、おそらくはラジオ放送から採られたであろうファウンド・ヴォイスや周囲のざわめきが混入し、一部の音が急に大きくなるなど、ミックスもまた演奏の一部としてはちゃめちゃな錯乱ぶりを示し、三次元的なパースペクティヴなど結ぶはずもない。幼児退行症的感覚はLAFMSに通じるが、何語ともつかない語りの妙に折り目正しい登場、気の抜けた拍手の挿入、歪み加減の陰湿で執拗な悪意等は明らかに英国的。おそらくはリーダー格のAdam Bohmanが参加するMorphogenesisの洗練が裏返され、徹底的にプリミティヴな衝動が目指される。それが単なる音響のゴミ溜めに堕してしまわないのは、いついかなる状況にあっても、くちゃくちゃと分節不明瞭なソプラノ・サックスを吹き鳴らし、決して歩みを止めることのないLol Coxhillの貢献によるものと言わねばなるまい。彼の推進力は溢れかえるノイズの合間を巧みに縫って、壊れた断片同士を結びつけ、過剰なサウンドが飽和する中に何度も立ち尽くしそうになりながら、それでも事態を更新し、常に水を入れ替え続ける。79枚限定CD-R。


Aine O'Dwyer / Music for Church Cleaners Vol.1 and Vol.2
MIE MIE 028
Aine O'Dwyer(church organ)
試聴:https://aineodwyer.bandcamp.com/album/music-for-church-cleaners
   https://soundcloud.com/aine-o-dwyer
 一見古代的で実のところ空間恐怖的なカヴァー・アート、「教会清掃人のための音楽」という題名と、のっけからひたすら謎めいている。実際に教会のパイプ・オルガンによって演奏しているにもかかわらず、権威的で猛々しい音圧や、空間の圧倒的広大さがもたらす押し付けがましい尊大さ等は、ここにはまったく感じられない。はるか高みから見下ろすようなそそり立つ建築的構成やそれを可能とする超絶技巧等もない。音は壁を一枚隔てた向こう側から響いてくるように角がなく、もやついてくぐもっており、にもかかわらず演奏ノイズや周囲の物音/話し声は、妙にはっきりと聞こえてくる。「舞台裏に響いてくるオルガン演奏」と言えば感じが伝わるだろうか。すなわち、ここでマイクロフォンは通常とは異なり、まっすぐにオルガンの方を見詰めていない。演奏のエネルギーが放出される照準とはずれたところで、それでも遍く響いてくる音響に、耳を傾けるともなく浸している。とぼとぼと歩きながら、あるいは他のことに思いを巡らしながら、音圧を濾過されたオルガンの力なくゆるんだ響きに、哀しみをたたえたなだらかな旋律に、あるいは礼拝堂に集う様々な物音/響きに、なすがままに肌を慰撫させている。やはり題名は、ここに収められた演奏にふさわしいのかもしれない(最後にそれらしい会話が収められているから‥というのではなく)。見開きカヴァーの2枚組LP。Aine O'Dwyerはやはり謎めいた活動を続けるフォーク・グループUnited Bible Studiesのメンバーとしても活動している。

スポンサーサイト
ディスク・レヴュー | 22:15:35 | トラックバック(0) | コメント(0)
2015年1〜8月ディスク・レヴュー その2  Disk Review Jan. - Aug. 2015 vol.2
 ディスク・レヴュー第2弾は、音響的あるいはエレクトロ・アコースティックなコンポジションからの6枚。より即興性に傾いた演奏については、稿を改めて論じることにしたい。


Magnus Granberg / How Deep is the Ocean, How High is the Sky ?
another timbre at87
Magnus Granberg(prepared piano,composition), Cyril Bondi(objects,percussion), d'incise(objects,electronics), Teresa Hackel(bass recorder), Wolfgang Hillemann(chitarrone), Anna Lindal(baroque violin), Hans Jurg Meier(bass recorder), Anna-Kaisa Meklin(viola da gamba), Eric Ruffing(analogue synthesiser), Christoph Schiller(spinet,objects)
試聴:http://www.anothertimbre.com/granberghowdeep.html
 古楽系の楽器とエレクトロニクスやアナログ・シンセサイザーが同居し、Cyril Bondi, d'incise, Christoph Schiller等、若い世代の即興演奏者が集う。そうした編成から想像される音響変容系の音とは裏腹に、短く余韻の少ない打音が中心の端正で禁欲的な演奏が淡々と続けられる。少しもまぶしさのない曇天を思わせる明度の低さ。少しもべたついたところのないひんやりと乾いた音色。積み重なったり厚塗りされることなく、かと言って希薄に気化することもなく、ひっそりとその場に佇む響き。しばらく経過するとそれほど長いとは言えないものの、持続音がその構成比率を高め、あちこちで蓮の花が開くようにふつふつと湧いていた打音に、低音を徘徊するアナログ・シンセサイザーの熊の寝息にも似たノイズ成分が、バス・リコーダーの息の乱れが、ヴィオラ・ダ・ガンバの弦のざわめきが、ざらついた手触りを与える。


James Saunders / assigned #15
another timbre at88
Apartment House : Bridget Carey(viola), Simon Limbrick(percussion), Anton Lukoszevieze(cello), Nancy Ruffer(flute), James Saunders(dictaphones,shortwave radio), Philip Thomas(piano), Kerry Yong(chamber organ)
試聴:http://www.anothertimbre.com/saundersassigned.html
 背後に長く伸びる音のかげがふと沸き上がり、野放図に膨れ、仰ぎ見るほどにそそり立って、あたり一面に立ちこめ、元の音の輪郭を覆い隠す。ふと浮かび上がる吐息、うす白く発光しながら眼前を横切る弦のかすれ、夢うつつの夜汽車の振動を思わせる打楽器、ぶーんとうなり続ける冷蔵庫。物音はみな暗がりに沈み、輪郭を明らかにしないまま、震えうごめきながら、甲高い飛行音や遠い虫の音に溶けていく。それゆえ、ここで演奏はあたかも屋外の音風景を映し出しているように感じられる。輪郭を際立たせず、ゆるやかに移ろいながら、たまたま隣り合わせただけの「あちら」と「こちら」が照応しあって、びっくりするほど深い奥行きを描き出す。模倣というよりは再構成。周囲に樹々がざわめき、足下を見えない水が流れ、向こうでロッジの発電機がうなり、彼方から夜汽車の響きが運ばれてくる‥そんな益子の夜に体験した音風景がふとよみがえる。


Jurg Frey / Grizzana and other pieces 2009 - 2014
another timbre at86x2
Ensemble Grizzana ; Jurg Frey(clarinet), Mira Benjamin(violin), Richard Craig(flute), Emma Richards(viola), Philip Thomas(piano), Seth Woods(cello), Ryoko Akama(organ,electronics)
試聴:http://www.anothertimbre.com/freygrizzana.html
 ゆるゆると平坦に引き伸ばされた弦の響きが、ゆるやかな筆の運びにより水平に引かれた線の内部に走る様々な緊張を明らかにする。ここで音は、ゆるゆると影のように響きを伸ばしながら、風の冷たさに、夕暮れの暗さに、ひとりぼっちの心細さに、ふるふると震えている。もはや吐息と見分けの付かないヴァイオリンのかすれ。引き伸ばされ細くなりやがて消えていくピアノの余韻の向こうに、車の通過音がぼうっと浮かび上がる。Ryoko Akamaによるほとんどサブリミナルなエレクトロニクス。一見、ただただ静かに、平らかに、空気をかき乱すこともなく、そっと置かれていく音は、珍しく簡素なフレーズを描きながら、実は苛烈な戦闘の前線に投げ込まれている。そのことを触知するには、ただ離れたところから眺めているだけでは駄目だ。消えていく響きを追って、音の深奥へと耳を歩ませなければ。名古屋の音楽バー「スキヴィアス」を訪ねた際、店主の服部がこんな話をしてくれた。「通学で電車に乗っていた駅が、本当に田舎の無人駅で、あたりが静かなんで、電車が来ると、電車自体の音が聴こえる前に線路が鳴り出すんですね。電車が行ってしまっても、線路の響きは残っていて、だんだん小さくなっていく響きを耳で追うと、電車を追いかけるように耳の感覚が伸びていって、それまでは聴こえていなかった遠くの音がだんだん聴こえるようになってくるんです。」
 そのように消えていく音の行方を追いかけ、水中からまぶしく光さざめく水面を見上げるように音を聴くこと。そうすれば、一見簡素な組み立てに潜む、途方も無い豊かさを味わうことが出来るだろう。カヴァーに掲げられたGiorgio Morandiの絵画作品のように。


Clade / 3 Historic First Recordings of the Klavierstucke
試聴:https://cladistic.bandcamp.com/album/klavierst-cke
 「ピアノ曲集の歴史的初録音」とはいったい何のことかと訝しく覗き込んだ時点で、すでにCladeの術中に嵌っているというべきか(もしかするとDavid TudorによるStockhausenピアノ曲集のタイトルのパロディかもしれない)。重く冷たい打鍵、暗がりに沈むピアノ弦の震え、胃の腑に重たくのしかかる低音のうごめき、よじれながらたちのぼる残響、ひっそりとあるいはがさがさとせわしない物音、湿った黴臭い匂い‥‥。Harold Buddに捧げられた曲たちは、献呈者とは似ても似つかぬ窒息しそうな重苦しさをみなぎらせ、一方、David Jackmanに捧げられた曲たちはと言えば、幾分かはそれらしいオルガンのドローンが、がさごそと騒がしい動きに踏みにじられる。「ハノイで古ぼけたピアノを見つけた」ことが生み出した(という虚構の設定に基づく)植物性のピアノの廃墟『Vietnamese Piano』に続き、「確信犯」と呼ぶにふさわしい強靭な意志が、フェイクの限りを尽くした演奏を貫いている。幻灯芝居(ファンタスマゴリア)的なあり得ない情景喚起力が魅力的だ。


Quiet Music Ensemble / The Mysteries beyond Matter
Farpoint Recordings fp052
Dan Bodwell(double bass), Ilse De Ziah(cello), John Godfrey(electric guitar), Sean Mac Erlaine(clarinet,bassclarinet,chalumeau), Roddy O'Keeffe(trombone)
試聴:http://www.ftarri.com/cdshop/goods/farpoint/fp-052.html
 それにしてもずいぶん直接的なグループ名だが、ここでの演奏を聴く限り、「Quiet Music」とは決して『Quiet Corner』で紹介されるような、もの静かでおとなしい音楽でもなければ、依然としてWandelweiser楽派に対する誤った固定観念として流布しているところの「音量が小さく音数の少ない音楽」でもない。それは言うならば、環境に沁み込むことによって生成する音楽だ。David Toop「Night Leaves Breathing」におけるコツコツと叩く音、床や弦の軋み、押し殺されくぐもった寝息。頁がめくられ、ドアが開閉し、藁束が握りしめられる。そうした場所を取らないちっぽけな音が希薄に羅列され、周囲をうっすらと照らし出す一方で、熱に浮かされた眩暈のようにエレクトロニクスが揺らめき、いつの間にか忍び寄って来た超低音の暗闇に肩からのしかかられ、空調のうなりが間断なく続く。Alvin Lucier「Shadow Lines」では、管弦の層の重なりが水平にたなびき揺らぎ明滅しながら、垂直なハーモニーを形成するというより、どこまでもするするとズレ続けねじれながら、編み上げている糸の新たな色合いを示し、さらには相互干渉によるモワレ模様を浮かべる。Pauline Oliverosによる表題曲は、始まりの部分で音が聴き手の側に流れ出してくることなく、深い奥行きの中に貼り付いて、あたかも壮麗な洞窟の壁面に映る響きを眺め渡すように聴こえる部分が素晴らしい。音響が満ちてくると洞窟は水没し、いつものDeep Listeningなドローンに行き着いてしまうのだが。John Godfrey「Hand Tinted」は虫や蛙の声、バイクの通過音等のフィールドレコーディングの隙間に音響が覗く。いずれも耳を頼りに響きに任せるというよりは、言葉のインストラクションに身を委ね、文学的なイメージに沈み込んでいくことにより深みに達する感覚が共通しているのが興味深い。その意味では冒頭曲が白眉。これは「アイルランド的」なのだろうか。紙を四つ折りにした変型ジャケット。試聴頁に記されたFtarri鈴木美幸による解説も参照のこと。



Karen Power / Is It Raining While You Listen
Farpoint Recordings fp51
Claire Duff, SCAW Duo, MmmTrio, Quiet Music Ensemble, Carin Levine, Nova Ensemble, Karen Power(tape)
試聴:http://www.cmc.ie/shop/cd_detail.cfm?itemID=3430
 希薄化することにより演奏者のコントロールを束の間逃れ漂流する。物音や気配へと身を沈め、不定形な傷やシミへと姿をやつす。安定した輪郭を引き裂き、多方向からの力動の交錯/衝突へと自らを解き放つ。周囲の不可視のざわめきに身を浸し、環境に沁み込んで、そこから共にゆるゆると生成する。音響的なインプロヴィゼーションが用いる、そうした音の肉の重みを脱ぎ捨て、「音響」へと羽ばたく仕方(それらはコンポジションの演奏でも頻繁に用いられる)は、ここでは採用されていない。ヴァイオリンもピアノもクラリネットも、驚くほど鮮やかな輪郭をきらめかせ、充実した質量を空間に刻印する。その一方でDavid Toopが本作品のライナーに次のように記していることに深く同意せざるを得ない。「これらの作品に私が聴き取るのは濃密な聴取であって、それは楽器を、演奏者を、コンサート・ホールを超えて、世界の聴取から来るものだ。世界と言っても音楽の世界ではなく、相対的な調律、音響空間、音の入り組んだ相互浸透、そして音が消え去ったり、聴覚の限界に入り込んだり、不意に戻って来たりした時に何が起こるのかに対する感覚を劇的に研ぎ澄ますサウンド・イヴェントの束のことだ。」
 ヴァイオリンの響きは編集により交錯/衝突させられる。ピアノとクラリネットのデュオが乱反射し、内部奏法により搔き鳴らされた弦がそれらを圧して鳴り渡り、空間を凍り付かせる。それらは演奏のステージを浮かび上がらせない。音楽的ドラマもまた。虫の音や遠い子どもの声、羊の首に吊るされた鈴が響き渡るトラックに遭遇して、これらの器楽が標題音楽とは違う仕方で、架空のサウンドスケープを描き上げていたことに気づかされる。音/響きは単に「音の絵画」のための「絵具」ではなく、世界をサウンドスケープとして聴取することへと耳を誘うための「導きの糸」として配置される。極端に繊細な編集にはほとんど執念のようなものが感じられる。やはり「アイルランド的」なのだろうか。500枚限定。三つ折りの縦長変型ジャケット。

ディスク・レヴュー | 22:20:32 | トラックバック(0) | コメント(0)
2015年1〜8月ディスク・レヴュー その1  Disk Review Jan. - Aug. 2015 vol.1
 延び延びになっていたディスク・レヴュー執筆だが、次から次へと興味深い作品のリリースが続き、これではいつまでたっても選盤に入れない。ということで、無理矢理に区切りをつけてご紹介することにしたい。まずは器楽的インプロヴィゼーションからの10枚。本来なら今年に入ってからの「タダマス」レヴューで触れた菊地雅章のクワルテットをはじめとする作品群も採りあげなければならないところだが、先の事情により割愛させていただいた。引き続き音響的インプロヴィゼーションやフィールドレコーディング系の作品も採りあげていく予定である。そちらは作品数がさらに多いので、幾つかに分割して執筆・掲載することになると思う。乞うご期待。


John Butcher / Nigemizu
Uchimizu Uchimizu01
John Butcher(tenor saxophone,soprano saxophone)
試聴:http://www.ftarri.com/cdshop/goods/uchimizu/uchimizu-01.html
 冒頭、リードの手前で音にならずにもやつく吐息のたゆたいが、眼に見えるように浮かび上がる。ブレスの際に漏れる息遣いに全身の、生身の緊張が映し出され、聴き手の身体に伝染する。音の消え際にふっと気配のようにその場のアコースティックが浮かび、いま自分が演奏者とひと連なりの空間に座して、同じ空気を呼吸しているかの幻想に一瞬とらわれる。質の高いレンズで撮影した写真のように、対象の輪郭が空間に溶ける部分のボケ味が、丸みのある立体の、複雑に折り畳まれた響きの襞の確かな手触りを伝える。引き伸ばされた持続の中で、「一音」をかたちづくる各層がふっと芽吹き、すっと枝を伸ばす。重音奏法とか、重層化されたポリフォニーというのは、ずいぶん解像度の低いとらえ方だったことに今更のように気づかされる。いや「解像度」と言ってしまうと、単に録音機材のスペックの問題であるかのような誤解を与えかねない。これは空間と響きをいかに見極めるかという視点の設定の問題である。録音を担当したのは「tuba吹き」高岡大祐。これは単に音楽家だから、管楽器奏者だから可能になった録音ではない。ふだんから音を放つことで空間を探査/聴診する演奏を続けている「音の釣り師」だからこそできる業だろう。John Butcherの演奏を初めて聴いたかのような衝撃を受ける(今までCDであるいはライヴで、聴いたつもりになっていたのは一体何だったのか)。今年のベストワン候補が早くも登場してしまった。


Common Objects / Whitewashed with Lines
another timbre at85x2
John Butcher(acoustic & amplified saxophones), Angharad Davies(acoustic & amplified violin), Rhodri Davies(electric & pedal harp), Lee Patterson(amplified devices,processes)
試聴:http://www.anothertimbre.com/commonobjects.html
 深い闇の中で、固く強ばり拘縮していた四肢が氷解し、硬直がゆるやかに伸びていくにつれ、次第に世界がその姿を現し始める。水の滴りや急な温度変化により石室が立てる軋み。それらが空間に広がり映し出す影。ふつふつと滾るような内臓各部のつぶやき。引き攣りあるいはぐったりと弛緩する筋肉のざわめき。神経の昂りが高周波のように鋭く脳内に響き渡る。それらの音響が遠近を欠くばかりか内外の区別すらなく混濁し、原形質状に蠢き震えている。まるで折口信夫「死者の書」の冒頭、目覚めの部分のサウンドトラックのようだ。耳の視界の片隅を占めるに過ぎないちっぽけで希薄な物音が、これしかない仕方で緊密に重なり合い結び合わされて、音響の張り詰めた推移をつくりだす。引き伸ばされた持続音や繰り返しの重ね合わせによらずに、彼らがそうした状態を創出できている理由のひとつとして、ここ(CD1枚目に収録された「cup and ring」)で彼らが図形楽譜を用いていることが挙げられるだろう。しかもそこでモチーフとなっているのは、付近の新石器時代の遺跡から出土する石や岩に彫られた線条の文様である。ただ視覚的なグラフィックと言うだけでなく、古代へと遡る想像力がここでの彼らの演奏の基盤となっていることは想像に難くない(同様の事態を私たちはすでに三上寛・灰野敬二・石塚俊明によるVajraの第1作で体験している)。CD2枚目に収められた集団即興も見事だが、まず何よりもこのRhodri Daviesによるコンポジション「cup and ring」の演奏を聴いてほしい。


Ted Byrnes / Objects
Clained Responsibility CLAINED 4
Ted Byrnes(percussion)
試聴:http://www.art-into-life.com/product/6214
 金属製や木製の音具、ドラム、電動ドリル等を用いたソロによる即興演奏。ざっくりとかき混ぜられ、あるいは高速で撹拌される音響。四方八方から流れ込み、至るところで衝突し混じり合う混在郷。眼前に迫るほど至近距離でとらえられた音像は空間をはらまず、残響は一瞬で揮発する。それゆえ打撃/摩擦の瞬間に弾け飛ぶ音粒子が眼に痛く、また、衝突の衝撃が打撃に微細なクリナメン(ルクレティウスの言うところの)をもたらし、高速の連打が次第にぶれていく様子が曇りなく鮮明に写し取られている。演奏する身体の運動よりも、高速で振動し、遷移し、変容する対象物=物体の運動が前景化してくるのも、同じ原理による。音響機械の自動運動、熱による分子運動のランダム化、もつれてはほどけていく音流に向けて、廃品集積場を漁るようなジャンクな構築は、ますます人の手を離れ、冷ややかにマテリアルな強度をたたえながら、エロティックに崩壊して行く印象を与える。彼はLAFMSと親交が深く、何と大編成版のAIRWAYにも参加していたりするのだが、このことを踏まえて坂口卓也氏が本作に関し「技術を意識させない変なことをあれこれやっているが、『面白いだろう?変だろう?』という意図が全く無い」と実に的確な評を述べている。限定100枚とのこと。紹介してくれたArt into Life青柳氏に感謝したい。


Paul Lytton / "?" "!"
Pleasure of the Text Records POTTR1303
Paul Lytton(Trobiander laptop,miscellaneous percussion instruments,objects and implements,electro-mechanical devices,frame plus CnC Elektronics)
試聴:http://www.squidco.com/miva/merchant.mvc?Screen=PROD&Store_Code=S&Product_Code=20776
 様々な小さな音具を用い、多彩な音色を駆使したソロ・パーカッションによるインプロヴィゼーションという点では前掲作と同じだが、ここで打撃の密度や変化はよりゆるやかになり、演奏する身体、発せられる音の行方に耳を澄ます生身の体の持続が際立ってくる。エレクトロニクスの使用により音色の幅は本作の方が広く、おそらくはサンプリングされたのだろう動物の鳴き声も聴こえる。また、前掲作では皮膚の表面を高速で駆け抜けていった音粒子の、あるいは打撃のパルスの心地よいシャワーは、ここで金属片を擦り、スプリングを撓ませる力動の生々しい触覚に取って代わられている。放った音がすぐさま耳の視界を離れ消え去る前掲作に対して、ここで響きはねっとりととぐろを巻いてこの場に居座り、周囲の空間へじくじくと滲み出していく。だからここでフリー・インプロヴィゼーションは音響の泥沼との果てしない悪戦苦闘として現象している。音響素材のパレットとしては限りなく音響的、エレクトロ・アコースティック的でありながら、器楽的即興演奏の範疇に本作を置きたいのは、前掲作と比較しながら、この身体の誠実な不自由さを直視したいからにほかならない。Evan Parker Electro-Acoustic Quartetの一員として来日した際の演奏の無様さがずっとトラウマになっていたのだが、これは優れた演奏だ。


高木元輝 / 不屈の民
ちゃぷちゃぷレコード POCS-9353
高木元輝(tenor saxophone)
試聴:https://www.youtube.com/watch?v=bHBit7KNK80
   https://www.youtube.com/watch?v=2d80j1T13v8
   https://www.youtube.com/watch?v=MEWR-a86_zY
 1996年9月15日、山口県防府市カフェ・アモレスにおけるライヴの埋蔵録音から、高木のソロ・パートのみを抜粋したもの。寡黙とすら言ってよい、口数の少ない静かな語り口は、穏やかさの中に濃密な情感(それは主に悲哀であるのだが)と揺るぎない意志の強さを秘めている。そのことは吐息をはらんでゆったりとくゆらされるテナーの軌跡が、いささかも上滑りすることなく、地平をがっしりと踏みしめ、自らを彫り刻んでいくことからも明らかだろう。ジャズ的なフレーズをふんだんに組み込んだ演奏は、その語彙やテンポ設定からすれば、紛う方なき「ジャズ」、それもスローでリラックスしたそれにほかなるまいが、背後に不可視のリズム・セクションの存在を感じさせず、ただただ自らの息と空間の、響きと沈黙の張り詰めた均衡だけを足がかりとして細い綱を渡っていく即興は、一瞬たりとも聴き手の耳を眠り込ませることがない。何よりも音の、息の、空間の気配を見詰め続ける高木のみ身の視線の強さに打たれる。彼の大きな眼は演奏時にはしっかりと瞑られているのだが、それとは裏腹に耳の眼はくわっと大きく食い入るように見開かれている。それゆえ彼の演奏は、フレーズの変奏を離れ、展開の道筋をほとんど見失って、音のかけらと戯れる時も、硬質な輪郭と充実した重み、確かな手触りを失わない(この「極めて具体的な抽象性」のあり方はスティーヴ・レイシーを思わせる)。荒々しく粗雑なブロウにまみれた形骸化せる定型としての「フリー」を求めるのでなければ、きっと満足できることだろう。入手可能な録音の少ない高木の、貴重な音源の登場である。


Joana Sa / Elogio Da Desordem ( In Praise of Disorder)
Shhpuma Records SHH006CD
Joana Sa(semi-prepared piano,bells and serens installation,toy piano,noise boxes&mini amps,harmonium,flexible tubes), Rosinda Costa(voice)
試聴:http://www.squidco.com/miva/merchant.mvc?Screen=PROD&Store_Code=S&Product_Code=20396
 不安げな女声の語りの背後でさらに不安と緊張を煽り立てる音響は、声が止んでもそのまま自らの運動を繰り広げていく。凍てついた空間に波紋を広げるピアノの重厚な打鍵、搔き鳴らされたピアノ弦の高鳴り、沈黙をざらざらと傷つける針音や回り続けるフィルム・リールの動作音、遠く聴き取りにくいヴォイスの混信、プリペアドにより生み出された虚ろな響きが空間に不思議な文様を浮かび上がらせ、突如として鳴り渡るベルやブザーがきりきりと胸を締め付ける。語りをフィーチャーした作曲作品なのだが、作曲者自身による演奏は、見事なまでに即興的強度に溢れている。特に遠近配置の巧みな撹乱と多元的な要素の混在のもたらす、夢見るように多層が交錯する幻想性において。Clean Feedが流通を担当するポルトガルのマイナー・レーベル。2013年作品だが、他に紹介するところもないと思うので。

ジャケットはブックレット仕立てになっている。


Open Field + Burton Greene / Flower Stalk
Cipsela Records CIP 002
Jose Miguel Pereia(double bass), Marcelo dos Reis(nylon string guitar,prepared guitar,voice), Joao Camoes(viola,mey,percussion), Burton Greene(piano,prepared piano,percussion)
試聴:https://cipsela.bandcamp.com/album/flower-stalk
 1960年代にESPレーベル等に残した録音で知られる白人ピアニストBurton Greeneだが、このCDの内ジャケットでは、まだ若い共演者に囲まれて、年老いた吸血鬼のように元気な姿を見せている。緊密に絡み合う集団即興は、弦の軋みが「音響」への離陸の気配を示しながらも、研ぎ澄まされ切り詰められたピアノの打鍵やプリペアドに象徴されるように音のボディの確かな重みを手放さない。一方、たとえ音数が増えてもフリー・ジャズ的な放埒さには決して至らず、冷ややかな構築が揺らぐことはない。瞬間を切り裂くギターの閃きがソロに転じると意外なリリカルさを見せ、駆け回るヴィオラが弦を焼き切らんばかりに加熱すると、他の3人はこれを冷ややかな距離を置いて眺め、自然とソロになる「離見の見」的なバランス/構成感覚は特筆すべきだろう。2曲目冒頭部分でギターとダブルベースのデュオが張り詰めた時間の中で浮き沈みし、情感をゆるやかに醸成していく様も見事だが、その緊張を些かも損なうことなくピアノとヴィオラが加わる手口の鮮やかさ(ロベール・ブレッソン『スリ』が捉えた水も漏らさぬ連携作業を思わせる)には、本当にぞくりとさせられる。Greeneの確かな技量と氷のような抑制がもたらす透徹した覚醒感が何より素晴らしい。彼がPatty Watersのピアニストだったことを改めて噛み締めざるを得ない。ポルトガルの新生レーベルから。300枚限定。ちなみにレーベル第1作はCarlos Zingaloのソロ。


Malcolm Goldstein / Full Circle Sounding
Kye Kye 34
Malcolm Goldstein(violin,electronics,tapes)
試聴:https://www.youtube.com/watch?v=w0XDRM0jM1Y
 1960年代にJudson Dance Theaterとの共同作業のために制作された2曲のエレクトロニックなコラージュにヴァイオリンのソロを重ねた演奏、ボスニア・ヘルツェゴビナのフォークソングに基づいた作曲、あらかじめ準備のないオープンなインプロヴィゼーションが1枚のLPに収められている。50年の歳月が。比類なき超絶技巧によりながらも、時に弦を責め苛むためだけにせわしなく飛び回るかに聴こえてしまう彼の演奏は、ここでエレクトロニスの混交やヴェトナム戦争に対する反戦運動の記憶、民族文化への憧憬等の厚みを踏みしめることによって、隅々まで血の通った、重く深い情感をたたえたものとなり得ている‥‥と言ったら、あまりにロマンティックな物言いだろうか。しかし、身をよじり、ねじれ、自らを果てしなく切り刻みながら、軽々しい切断や飛躍を許さず、透徹した持続を貫いていることが、本作に何時にも増した強度を与えていることは確かであり、それをしっかりと裏打ちしているのは、時代の変遷を乗り越えた強靭な記憶にほかならないのだ。レーベルとの組合せに意外性を感じるが、Kye主催のフェスティヴァルへの出演、そこでの演奏が本作制作のきっかけになったと言う。旧作を一部転用しているとは言え、すべて新録音とは恐れ入る(1936年生まれだから、今年で79歳のはず)。ジャケット及び付属のインサートの装画も彼自身による。


Arnold Dreyblatt / Second Selection
Black Truffle Records BT016
Arnold Dreyblatt(excited strings bass,electric guitar,dynamic processing electronics,electric double-neck lap "hawaiian" steel guitar,e-bow), Dirk Lebahn(excited strings bass), Jan Schade(miniature princess piano), Wolfgang Mettler(violin), Wolfgang Glum(percussion), Michael Hauenstein(excited strings bass,hurdy gurdy), Tracy Kirchenbaum(excited strings bass), Peter Phillips(miniature princess piano), Kraig Hill, Eric Feinstein(french horn), Peter Zummo(trombone), Paul Panhuysen(prepared electric bass guitar,automated plectrum)
試聴:http://www.meditations.jp/index.php?main_page=product_music_info&products_id=17229
 再評価が高まっているのか、Dreyblattの発掘音源がまた一つリリースされた。本作は1980年代の録音からOren Ambarchi(!)により編まれている。LP2枚組、各面20分程度の収録というヴォリューム。強烈な打弦が豊穣たる倍音の雲を立ち上らせ、それがアンサンブルにより交錯/衝突しながら豊かに息づく一方で、幾重にも敷き重ねられたアルコが、軋み/唸りを上げながら積み上がり重層化していく。そうしたプロセスにより擦弦楽器に特徴的な音色は解体し尽くされ、接触不良のエレクトロニクスがつくりだす、消える寸前の蝋燭の炎にも似た不安定な揺らめきとしか聴こえなかったりするのだが、そうした音響現象への溶解というか遡行はDreyblattの意図したところだろう。にもかかわらず、音響的な希薄さへと離陸しきれない、どうしても脱ぎ捨てられない肉の重さとでも言うべきものが、ここには宿命的に刻印されており、それが彼の音楽に独自の位置づけを与えている。音響的なエレクトロ・アコースティックなインプロヴィゼーションではなく、こちらの範疇に置いた所以である。


La Monte Young, Marian Zazeela / The Black Record
Oddullabaloo ODDITY1501LP
La Monte Young(voice,sine wave drone,bowed gong), Marian Zazeela(voice,bowed gong)
試聴:https://www.youtube.com/watch?v=PizITBPWhXI
   https://www.youtube.com/watch?v=otWZgXIpnV0
彼の初めての公式録音として知られる。大里俊春が「現代音楽の中からヘビメタの数百倍すごい奴」を10枚選んだうちの1枚(「巨大銅鑼の弓弾きで倍音の嵐」と紹介されている)。長らく入手困難だったので待望の再発。A面では一切の響きを伴わない声音が、ゆるゆると身をくねらせながら中空を這い回る声の多幸郷(ユーフォリア)が提示される。天女のように軽やかに舞うはずの声は、ここで重たい肉を背負い、前述のようにゆるゆるとカタツムリのように這い回るのだが、不思議と重力の頸木は逃れている。対してB面では遠く距離をはらみ空間一杯に不明瞭に拡大した音響が、倍音や分割振動や部分共鳴や、いやありとあらゆる不均衡で非調和的な派生的音響をないまぜにして、波打ち、渦巻き、滔々と溢れ出す。ミニマル・ミュージックというより、工場の動作音や停泊する船舶の軋み、あるいはGilles Aubryが指し示した、壁に沁み込んで閉ざされた部屋に侵入してくる交通騒音等に近い。進み流れることなく、足下に澱みわだかまる「時」の姿をうっかり眼差してしまったような、畏れにも似た感慨が浮かんでくる。なお、このB面は33回転ではなく、16回転や8回転でも再生して構わない旨がジャケットに記されている。しばらく前にリリースされた2種類のLP音源(おそらくはブートレグ)で聴くことのできる、素早く振動するソプラノ・サックスやヴィオラ、細かく弾むパーカッション等を伴った演奏とは全く別物。異世界が眼前に広がる。

2種類のLP音源のジャケット。



ディスク・レヴュー | 23:46:41 | トラックバック(0) | コメント(0)
近藤秀秋様 新作『アジール』について  Dear Hideaki Kondo On Your New CD "Asyl"
近藤秀秋様
 新作のCDありがとうございました。近藤さんのソロ名義の新作『アジール』は素晴らしい仕上がりとなっていると思います。しかし、今の私(の志向する聴取)は、その素晴らしさを素直に受け入れられないでいます。

 全編を通じて、弦の振動の推移を凝視する耳の視線の強度が特徴になっていて、それはこの作品の大きな魅力になっていると思いますし、非常に共感するところです。と同時に、そこに壊れやすさや移ろい、滲み、もつれといった感覚が入り込む余地がなく、そそり立つ建築のような揺るぎなさが、全体をピンと張り詰めさせていることに、近藤さんの一点を見詰める眼差しと思考の「揺るぎなさ」を感じます。
 いただいた盤には録音のクレジットがないので、これは推測ですが、おそらくは録音にも近藤さんの意図は深く浸透しているのではないかと思います。この作品が隅々までよく考え抜かれ、磨き上げられたものであることは疑い得ません。ともに近藤さん自身の作曲によるとは言いながら、冒頭曲から2曲目へと曲想や演奏手法は異なっているのに、それをとらえるキャメラの視角、映像のトーンはまったく揺るぎなく変わることがない。闇に浮かび、モノクロームに覚醒した世界。あるいはそうした黒と銀の世界ではなく、ジャケットの写真に見られるような、夜の底が白々と明けて来た頃のどこまでも透明な青に浸されているのかもしれませんが。

 そうした世界の揺るぎなく堅固な構築性は、おそらくは本作中で最も野心的な3曲目「漂泊者の歌」にも見事に及んでいて、今回の近藤さんとはおよそ資質の異なるはずの河崎純さんのコントラバス演奏を、まるで精神的な「双子」のように聴かせています。それは丸みや木の質感を排したソリッドな録音のせいでもあるでしょう(musicircusで2013年のベスト30の1枚に選んだ河崎純『Biologia』は、木肌の手触りと人肌の気配を感じさせる録音でした)。そして萩原朔太郎の詩はあえて英訳され、言葉にまとわりつく意味や物語性やイメージを脱ぎ捨てて、日本語に特徴的な母音の丸みや甘やかささえ置き去りにして、迸る子音の鋭さに声/息の流れを委ねています。そこに先ほどの揺るぎないギター演奏の正確に延長上で展開される、サワリどころか弦の震えを眼を擦り付けて見詰めるような琵琶演奏と、抽象化された声/息(ヒグチケイコによる)が切り結ぶ「純粋空間」とでも言うべきものが開けています。ここでもベース・ソロによる長大なイントロダクション、あるいは声の劇的な強度にもかかわらず、音世界のパースペクティヴの中心にあるのは、明らかに(ギターの化身としての)琵琶にほかなりません。

 そのことがまったく別の形で明らかになっているのが、続くアストル・ピアソラ作曲による「Night Club 1960」です。オーボエの響きは豊かな情感をたたえながら、私にはいささか音景から遊離しているように聞こえます。原曲のフルートではなく、クラリネットでもサックスでもなく、あるいは管楽器の代わりによく用いられるヴァイオリンでもなく、あえてオーボエを選択した理由は人脈的なこともさることながら、むしろこの音色的な遊離、全体に暗めの照明設計の中でそこだけハイライトが白く飛んでしまうような……にあったのではないかと考えます。ギターへの視角が一定不変なのに対し、ここでオーボエに対する録音は、むしろギターとオーボエを同一の視角に見込むことを意図的に回避し、奥まった位置にあるギターに焦点を合わせたパースペクティヴにおいて、手前を、あるいは上空を「通過する」ものとしてとらえることを目指しているように聞こえます。それゆえ、オーボエの描き出すメロディよりも、それを支えるギターの動きがクローズアップされてくることとなります。これは明らかに確信犯的所行でしょう。

 Alban Bergの歌曲「Hier ist Freude」の演奏においても、室内楽版を元にしたと想像される編曲の中で、ベースの低くくぐもったアルコと常に遠さをはらんだピアノを後景として、オーボエに前景を横切らせ、ギターがしっかりと中景に位置取り、フォーカスはここに当てられています。ここでは三景にそれぞれ配された四者の動きがポイントなので、オーボエは「横切る」と評したように大きな振幅で動きながら、それでもピアソラの場合と違って、しっかりとフレームの中にとらえられています。今回、各楽器の空間内の配置を含めたアレンジメントはこの曲が一番大変だったのではないでしょうか。感服します。

 ゆっくりとした運びで奏でられる「Blue in Green」もいい演奏だと思います。ここではベースがギターの「(少し下がって)傍らに立つ」配置もよく考えられていると思います。特に後半、さらに歩みがゆったりと引き伸ばされて、和音の思いがけない揺らめきや弦の振動への凝視が際立ってくるあたり、全編を通しての抑揚への配慮を含め、首尾一貫して見事と言えるのではないでしょうか。あたかも「最後は癒し系のジャズ・スタンダードで締めくくる」ようなふりをして。

 いろいろと賞賛しておいて、一体何が不満なのだと言われるかもしれないけれど、まさにこの「揺るぎない構築ぶり」に対して、どうしても留保を付けたいというわけです。
 昨年、リマスター版CDの発売に合わせたレッド・ツェッペリンに関する単行本『解読 レッド・ツェッペリン』(河出書房新社)に、まったくZEPファンではないにもかかわらず原稿を書くことになり、彼らの作品を聴き返したのですが、第1作での音響構築の揺るぎなさに、まず改めて打ちのめされました。私が書いたのは何枚かの関連作品のディスク・レヴューと『Ⅲ』の評文だったのですが、第1作における「アコースティック」と思われているものが、いかに空間への響きの広がりを排した隙のない稠密な音響構築であるかを論じ、そこからほどけ、解き放たれていったものが、『Ⅲ』において、あたかも植物が芽吹き花を咲かせ実を結ぶように、「アコースティック」という新たな「開放的」次元に達したかを論じるものとなりました。そこから振り返ると、第1作の、たとえば「ブラック・マウンテン・サイド」で「アコースティックな響き」として聴かれるものは、仏塔の水煙のように稠密な金属に彫啄された、あらかじめ計算され尽くしたものにほかならないと。私見ではこの「アコースティック」性が彼らの作品において様々な要素の共生を許し、豊かな達成を生み出しながら、最終的に『プレゼンス』においてジミー・ペイジが第1作をリモデルした新たな鋳型を適用することで絞め殺され、それが結局ZEP自身の最期を早めたと考えています。

 ジミー・ペイジの話を持ち出したのはほかでもなく、今回の試聴盤に付された案内文にある「多様化する芸術音楽をポストモダンの視点からギターの一点に統合する試み」、「違うパラダイムの上にある音楽を、ポストモダン的な視点からギター音楽を一点に還元」という主張を、寸分違わず音化した作品だなと感じたからです。その背景には長期に渡り執筆されたという『音楽の原理』があるのでしょうが、そうした原論志向の危うさを含め、むしろ演奏あるいは録音/再生によって空間に解き放たれた音とそこに伴う響き(そこには様々な傷や汚れ、滲みやしみ、アレ・ブレ・ボケといったものが不可避的に含まれてきます)を、作曲者/演奏者の意図に還元し尽くしてしまわないことを前提として聴くことを深め、同じ場所にいる一人ひとりが別のものを聴いていることを前提にしたリスナーシップを考えようとしている今の私にとって、優れた作品であればあるほど、ここはどうしても留保を付けたいところです。

 最後にタイトルにも触れておきましょう。不思議な題名だなと思って、タイトル選定の意図を近藤さんにお尋ねしたところ、ここで『アジール』とは「聖域」を意味し、音楽の中の聖なるものに触れていると、そしてドイツ語の「アジール」がそうしたイメージを色濃く有しているとして選ばれたと答えてくださいました。確かに英語の「アサイラム」では日頃のアメリカ合衆国絡みのニュースにも出てくるため、キリスト教原理主義的な印象が付いて回るところがあります。
 もともと私が「不思議な題名」だなと感じた理由は、私が「アジール」という語に初めて出会ったのが、網野善彦『無縁・公界・楽』の文脈で、「社会的関係性を断ち切ることのできる場所」としてだったからです。犯罪者が逃げ込めばつかまらないという点で「悪場所」的なイメージを持ったりもしました。実際、社寺のような「聖なる場所」だけでなく、川の中州のような流動にさらされた、誰のものでもない「平滑空間」(「条理空間」に対するものとして)もまた、「アジール」として機能していたようです。かつての「アジール」の現在形を求めるのは難しいですが、治外法権的な「悪場所」については、依然として中州に栄えていたりしますね。以前に福岡市を訪れた時、その辺だけ道路が入り組み、ソープランドが集まっていたりして、「なるほど」と。これはもはや都市社会学の世界ですが。
 私が本作品と行き違ってしまった理由の一端は、こした「アジール」という概念を巡るすれ違いにあるのかもしれません。ここにあるのは、むしろ徹底して「条理」化され、隅々まで視線を届かせ、管理を行き渡らせて、磨き上げられた空間にほかなりません。この国のポップ・ミュージックで、いや音楽全般において、ここまで演奏者=制作者の意図を細部まで浸透させ尽くした作品がつくりあげられるのは、極めて希有なことだと思います。その点でも実に見事な達成と言えるのではないでしょうか。

それではまた。よろしくお願い申し上げます。
    福島恵一

アジール


ディスク・レヴュー | 18:51:17 | トラックバック(0) | コメント(0)
犬も歩けば棒に当たる その2  A Flying Crow Always Catches Something vol.2
 たまたま、久しぶりにDU渋谷店B1のジャズ売り場をのぞいたら、なぜか中古盤コーナーにLol CoxhillのLPが10枚以上も出ていた。比較的新しいNato盤(Chabadaを含む)が中心だが、記念すべき第1作『Ear of Beholder』もあったし、美麗なジャケットで知られる『Toverbal Sweet』は壁に掛けられていた。へえ~と思いながらジャケットを繰っていって、はたと手が止まる。「え、こんなものが何でここに‥」。

犬1

 この『Murder in the Air』、『フリージャズカタログ』で存在は知っていたものの、現物を拝むのは初めて。同書には写真を入手できなかったのかジャケットも紹介されていなかったから、シングルだと言うので、てっきり同レーベルの1番Jonny Rond Trio(これもCoxhill入り)同様7インチだとばかり思っていたら、ユーモラスなドローイングによる、しっかりとしたジャケットの付いた12インチ。『フリージャズカタログ』の紹介ではCoxhillの朗読を題材とした作品としかわからなかったが、ジャケットを裏返すと、William J.Stoneにより1930年代につくられた演劇作品を、David Bedfordが再発見し、彼とCoxhillの二人で70年代前半に上演していたと書いてある。その後、1977年のBracknell Jazz Festivalで彼ひとりによるヴァージョンを上演し、Chiltern SoundレーベルのプロデューサーMichael Eagletonにレコーディングをもちかけられたと。クレジットによれば、彼は何と1人で7役をこなしている。これはやはり入手せねばなるまい。いささかプレミアが付いていて、「こんなもんオレ以外にだれが買うんじゃ‥」と文句を言いながらもレジに。

 帰宅後さっそく聴いてみると、内容はCoxhillが声音を変えて(電子変調もあり)、7役を演じ分ける独り芝居。バックにはソプラノ・サックスの演奏とエレクトロニクスが。収録時間はすごく短いし、血眼になって探すようなものではありません。念のため。なお『Spectral Morning』(Emanem)にはRick Rueのサンプラー等を交えた新しい演奏が収録されているし、1972年のBBCラジオの録音を収めたKevin Ayres『Ayers and Archibald in BANANA FOLLIES』には、俳優であるというGeorge WilsonとLol Coxhillによる上演が、当時のライヴの一コマとして収録されている。ちなみにこの『BANANA FOLLIES』はBedford&Coxhillによる『Ear of Beholder』収録曲の俗謡風演奏なども聴けて、Coxhillファン(などというものがこの世に存在するとして)にはオススメ。
本作の音源はネット上に見つからなかったが、データ等については以下を参照。
http://www.discogs.com/Lol-Coxhill-Murder-In-The-Air/release/1839991


 ついでに、比較的最近の中古盤の発掘状況を。まあ単なる自慢話ですので読み飛ばしてください。苦情は受け付けておりません。

犬2 まずは最近になって発掘録音のリリースが相次ぎ、再評価の機運が高まっている(?)Arnold Dreblatt。クリア・ヴァイナルの片面LP『Point Source / Lapse』(Table of the Elements)を。Jim O'Rourke, David Grubbs, Kevin Drumm参加というと「おおっ」と言う人がいるかも。
http://www.discogs.com/Arnold-Dreyblatt-Point-Source-Lapse/release/709248

犬3 打楽器奏者にして音響彫刻家でもあるSteve Hubback主宰のグループMetal Moveによる『Runecarver』(FMR)。邪悪な紋章を思わせる金属打楽器の造形とは裏腹に、決してメタル系ではなく、特徴的な音色や残響を活かしながら古代へと想像力をさかのぼらせる。
http://www.discogs.com/Metal-Moves-Runecarver/release/3939547


犬4 『Easter o Mount Athos』のvol.2,3がなかなか手に入らないものだから、何とか手元に引き寄せようと、東方教会系は見かけたら必ずチェックしている。CD4枚組集成『Liturgies Orthodoxes』(Harmonia Mundi)は半分の音源はすでに手元にあるものの、4枚で500円台という価格の安さに魅せられて入手。同じ流れでキング・レコード「世界宗教音楽ライブラリー」から『東シリア教会 エジプト・カルデア主教の典礼歌』と『コプト教会の礼拝』を。こちらはちょいプレミア付き。

犬5 90年代前後の即興音楽については、リアルタイムで聴いている量が少ないので、面白そうなものがあればチェックしている。
Marina Rosenfeld『The Sheer Frost Orchestra - Drop,Hop,Drone,Scratch,Slide&A for Anything』(Charizma)は、おそらく女性のみによる、エレクトリック・ギター12名、ラップトップ5名から成る大編成。参加メンバーを眺めるとKaffe Mathewsあたりいかにもだが、Ikue Moriの名前にはちょっとびっくり。タイトル通りのざわめきアンサンブル。
http://www.discogs.com/Marina-Rosenfeld-Sheer-Frost-Orchestra-Drop-Hop-Drone-Scratch-Slide-A-For-Anything/release/986981

犬6 Bhop Raineyのことを知ったのは、Michel Doneda『Places Dans L'Air』への参加によってだった。その後、Greg Kelley等とのNmperignでの活動は多少聴いているのだが、何としても情報が少ない。そこで出会ったのが『Crawlspace / Universal Noir』(Tautology)。Jack WrightやTaylor Ho Bynumの参加にへえ~と。案の定、前半の研ぎ澄まされた強度が、フリー・ジャズの空間にばらけてしまう。
http://www.discogs.com/Bhob-Rainey-Eric-Rosenthal-With-Jack-Wright-Taylor-Ho-Bynum-Crawlspace-Universal-Noir/release/4788481

 以上、ブログ読者諸兄の興味を惹きそうなところを。だが実際には、以前に『Niemen vol.1』を手放してしまって以来、密かに探していたNiemen『Marionetki』や、これもLPには縁のなかったAlchimedes BadkarのCD再発盤の入手、そして、これもずっと探していた『ダークネス・アンド・スノウ』で福間未紗5作品が揃ったことの方が喜びが大きかったりするのだが。てへっ。
犬7 犬8 犬9


ディスク・レヴュー | 15:00:07 | トラックバック(0) | コメント(0)
次のページ

FC2Ad