■プロフィール

福島恵一

Author:福島恵一
プログレを振り出しにフリー・ミュージック、現代音楽、トラッド、古楽、民族音楽など辺境を探求。「アヴァン・ミュージック・ガイド」、「プログレのパースペクティヴ」、「200CDプログレッシヴ・ロック」、「捧げる-灰野敬二の世界」等に執筆。2010年3~6月に音盤レクチャー「耳の枠はずし」(5回)を開催。2014年11月から津田貴司、歸山幸輔とリスニング・イヴェント『松籟夜話』を開催中。

■最新記事
■最新コメント
■最新トラックバック

■月別アーカイブ
■カテゴリ
■リンク
■検索フォーム

■RSSリンクの表示
■リンク
■ブロとも申請フォーム
■QRコード

QR

『トリベル』の謎  A Riddle of "Torivel"
 オーディオが修理中でディスク・レヴューがままならないため、急遽、埋め草記事として先日の鳥取行きの話を。

 今回、鳥取を訪れてみようと思い立ったきっかけは、『トリベル』という不思議な名前の小冊子だった。「鳥取民工芸トラベルブック」と副題されており、鳥取県の作成したれっきとした観光用ガイドなのだが、単なる名所案内ではなく、「手仕事」にフォーカスした視点、その結果選ばれた題材、写真やキャプションの質の高さに惹きつけられた。たとえば鳥取民藝美術館を紹介する写真。展示された個々の事物ではなく、それらが集積された空間に眼差しを向けており、外からの光や階段による空間の交錯、家具のひっそりとした佇まい等の響き合いをしっかりととらえている。対して岩井温泉の老舗旅館は、時の止まったような古びた木造建築を、次第に明るくなっていく移行の時間の中に置いて、幻想的な魅力を引き出している。他にもフツーの観光案内には載っていない魅力的な場所が幾つも紹介されていた。次のURLでPDF版を見られるのでぜひ。
鳥取001トリベル
鳥取002トリベル

 初日は早起きして羽田に向かい、飛行機で鳥取空港へ。バスで市内に向かい、さらに別のバスに乗り換えて倉吉へ。掘り割りの水の流れに沿って並ぶ土蔵の白壁、重たさと軽みが混じり合う石州瓦の赤み、黒い焼き杉の肌は木目など見えないほど焼き込まれてケロイド状になっていた。それにしても小さく清らかな流れがあって、そこに居並ぶ家屋の前に小懸かりの橋があって‥‥という眺めはいいなあ。京都の上賀茂神社の並びみたい。あちらの方が緑が多くて涼しげではあるけど。土蔵の中は高さを活かして吹き抜けで2階にしていたりする。
鳥取01_convert_20140924230654鳥取02_convert_20140924230812
鳥取03_convert_20140924231003

 昼食は『トリベル』に掲載されていた「コーヒーと音楽とインドカレーの店」夜長茶廊に開店を待ちわびて入る。写真はチキン・カレーとバター・チキンのセット。両者の風味の違いまで計算して丁寧につくられていて良かったですね。サイドで注文したラッサムとサモサもなかなか。コーヒーは香りはいいけど、エチオピア、マンデリンともややすっきりし過ぎの感。音楽は2枚目にかかった(LPを片面ずつプレイ)ドロシー・アシュビーが印象的でした。
鳥取04_convert_20140924231107

 続いては三朝(みささ)温泉へ。本日投宿する「依山楼岩崎」に荷物を置いて付近を散策。三朝川に架かる橋が美しい。中程に木の枡を並べた足湯が設けられている橋があり、足を浸す。湯口に近い枡はかなり熱い。じんじんと響く足を我慢しながら顔を上げると、眼前には山の緑が広がる。名物だと言うカジカガエルの声はもう聴こえないけれど、近くは湧き出す湯の響き、川の流れ、川を渡る風に揺すられる樹々の葉擦れ、柔らかな街の喧噪が渾然一体、心臓の鼓動と混じり合う。輪郭が溶けて柔らかくなり、外界との隔てが薄らいでいく感じ。身体に沁み込んでくる山の緑に、以前にブログでレヴューした韓国映画『母なる証明』で、母が廃品回収業者の家へと向かうシーンの、辛うじて見分けられる程度のちっぽけな母の姿と視界一杯に広がる山の緑を思い出していた。
鳥取06_convert_20140924231332

 ひなびた温泉街の小路へ。造り酒屋(※)に「古酒」とあるので不思議に思っていると、豊かな顎髭をたくわえた店主が説明してくれた。蒸留酒ではなく、清酒(吟醸酒)を温度管理して熟成させるのだという。2010年の世界品評会で金賞を受賞し、その後、外務省から声がかかって晩餐会で供されているという1996年に仕込んだ「白狼」を試飲させてくれる(超下戸なので遠慮したのだが、まあ小さじ1杯程度なので‥)。淡い琥珀色。フルーティさはなく、味も香りも速い。いったん通り過ぎた後でずーんと響いてくる中に木の実やスパイスの香りが聴き取れる‥‥ような気がする。日本酒とはとても思えない。ドライ・シェリーが近いだろうか。音で言うと中高域よりももっと高い帯域がどこまでも豊かに伸びている感じ。気さくで話し好きの店主によれば、白狼は三朝の古い伝説に出てくるのだという。
※http://www.fujii-sake.co.jp

 小路をさらに進むとかつての共同浴場の後が足湯になっている。足を浸してみるとこちらはぬるくて柔らかい。さらに先に「株湯」という元湯があるというので行ってみる。そこは飲泉できるようになっているのだが、大きなポリタンクに湯を汲みに遠くから車で来る人もいるという。旅館に戻って湯に入るととろりとしていて、肌が滑らかになる感じ。源泉が底から湧出していて、時折、ぽこりと気泡が昇ってくる。ここでも飲泉ができるので飲んでみると塩味が比較的強く、金気と石膏ぽさが少し。匂いはなく、刺激は少ない。

 翌日は鳥取市に戻り鳥取砂丘へ。まあ砂丘は以前に一度行ったことがあるのでよいとして、妻が行きたいという「鳥取砂丘 砂の美術館」へ。「札幌雪まつりが砂になったようなもんでしょ」といささか馬鹿にしていたのだが、実際に見てみるとなかなか圧倒的。招聘アーティストたちによる競作で、与えられたテーマに沿ったコンポジションをレリーフにまとめている。雪まつりが実在の建物等の単に三次元の写しであるのに対し、構成が入る分、こちらには物語とパースペクティヴがあり、各要素の配置がもたらす調和と緊張がある。今回のテーマはロシアということで、まあ、おなじみのテーマが並んではいるのだが、ロシア民話、建国神話、宗教的エピソード、ロシアン・アヴァンギャルド、旧ソ連による宇宙開発が一同に展示される企画展なんて、たぶん世界のどこにもないのでは。ましてやウクライナ情勢に関心が集まる微妙な時期にあって。このあっけらかんさは買い。それとなぜか大阪スナック系母娘のガラガラ声二人組が多い。砂丘とヤンキーの親和性? 謎‥‥。
鳥取07_convert_20140924231449
http://www.sand-museum.jp

 早めに投宿する岩井温泉「岩井屋」へ。バスを降りてまず町並みの美しさにびっくり。暗くなってしまう前に周囲を探索する。古い家屋の木の使い方が繊細で美しい。昔作られたガラス独特の歪んだ透明さもまた魅力的。たまたま見つけた廃校になった小学校は、明治時代の木造建築だという。ここもそばを川が通り、掘り割りに水が流れる。掘り割りが先でぐっと弧を描いて、曲がった水面が見える景色って、どうしてこうも魅力的なのだろう。それにしても静かで音がほとんどしない。ただしんしんと暗くなっていく。
鳥取08_convert_20140924231641鳥取09_convert_20140924231743鳥取11水辺_convert_20140925195715
鳥取12_convert_20140925195818鳥取13_convert_20140925195915鳥取15水辺_convert_20140925200147
鳥取16小学校_convert_20140925200237

 温泉の湯はさらりとしていて、三朝の複雑さはない。やはり飲泉できるので飲んでみると三朝より塩味がうすい代わりに不思議な旨味がある。二つに分けて構成された12箇所の湯が楽しめた依山楼岩崎の凝った趣向よりも、湯船の底から静かに湯が湧き出したちのぼる静謐さがありがたい。じっくりと堪能。

 翌日、最終日は浦富海岸で遊覧船に乗り(小型船なので島の岩肌に触れられそうなほど近づける)、またまた鳥取市へ。まずは冒頭で触れた鳥取民藝美術館へ。焼き物系はやはり益子で活動した濱田庄司の流れを感じないわけにはいかない。素朴な色合いや柄に対するモダニスティックな抽象化の作用。だが、ここが面白いのは、そうした「作用」を焼き物だけでなく、家具や布製品、和紙をはじめ生活用品全般に押し広げていることであり、さらにそれらが「過去の記録」として保存陳列されているだけでなく、隣接する「鳥取たくみ工芸店」で販売されていることだ。民衆生活の再発見に基づいた、モダン・デザインによる生活改善運動としての姿がよくわかる。それが「伝統」を貧血化するような純粋化の運動でないことも注目しておきたい。美術館のこじんまりとした入口のすぐ脇にある地蔵堂は八角形の天井にステンドグラスというよりは、ル・コルビュジエによるロンシャン教会を連想させるような色ガラスによる光の導入が施されていた。
 昼食はこれまた隣接する「たくみ割烹店」で。牛味噌煮込みカレーとハヤシライス。脂が強くなく、まったりとしていて、よく考えられ練られた味。食後のコーヒー(ブラジル系のまったり風味)とねっとりと粘度の高いヨーグルトもおいしい。
 その後、市内を散策。『トリベル』に掲載されていた昭和28年築のレトロビルに行ってみる。いかにもな石造りの階段を上がると、何とレコード屋があるではないの。どーしてこう磁石に引き付けられるように出会ってしまうのだろうか。あきれる妻をよそに、ちょっとだけ品揃えを確認。そう広くはない店内にCDとアナログ。西森千明『かけがえのない』が平置きされている。滋味豊かなアコースティック系の作品チョイスは「奈良pastel records」から店主寺田による音楽サイト「公園喫茶」の流れを思わせた。後で調べると、このborzoi record(※)は知る人ぞ知る、鳥取に「ボルゾイ・レコードあり」というような有名なお店のようですね。
※http://borzoigaki.exblog.jp

 最近は来日ミュージシャンのライヴでも、東京・大阪で複数回というよりは、地方都市の、しかもライヴハウスではなく、ギャラリーやカフェ、レコード店やあるいはお寺等を巡っていくツアーが多いように思う。シャッター商店街をはじめ、地方にお金が流れないことがたびたび指摘されるが、そうした「消費」とは別の形で、地方の「活性化」は進んできているように感じている。むしろ文化的なネットワークの構築を通じて。ここ鳥取でも、そうした流れは確実に起こってきているようだ。むしろ20年前に訪れた時の方が、もっと活気がなく疲弊していたように思う。これは後から調べてわかったのだが、『トリベル』主導で意欲的なショップを結んだイヴェントも仕掛けられているようだ(※)。
※http://trivel.jimdo.com

 その一例として、歩き疲れて入った喫茶店のレヴェルの高さを挙げたい。交差点に位置するビルの2階にある「1er(プルミエ)」を、あらかじめ知っていたわけではなかった。入り口に掲げられたメニューがなかなか魅力的だったので、そこにしたというだけである。明るい色の木の階段を昇ると、先客が二組いた。下段の皿にお好みのケーキ2種とフルーツ。中段にはスコーン2種とクリームとジャム。上段には何種類ものクッキー等の焼き菓子が盛りつけられたセットとコーヒーを注文する。見ると壁に店主が訪れた時に持ち帰ったものだろうか、ラ・トゥール・ダルジャンやポール・ボキューズ等、フランスの有名レストランのメニューが飾ってある。しばらくして供された菓子はどれも素晴らしく、量もたっぷりで(写真参照)、これはお得(結局、焼き菓子はプチ・クロワッサンだけ食べて、後は袋をもらって持ち帰ることに)。これでドリンク付きで1500円ですよ。おい、マ○アージュフ○ール、威張ってねーで少しは見習えよ‥と。いちじくのタルトは香りをはじめ風味のまとまりがよく、タルト・タタンは、そもそも出している店自体珍しいが、こちらは固めで苦みより酸味を活かすタイプ。コーヒーもグアテマラをベースにしたブレンドだろうか、「たくみ割烹店」のようなまったり系ではなく、すっきりとした酸味があって、しかもちゃんとボディの輪郭がはっきりしている。おいしい。まだ若い店主は、フランスに渡り、パティスリーやブーランジェリー(両者の区別は曖昧と話していた)で修行したという。旅の最後を偶然見つけた素敵な店で締めくくれるなんて、何と幸せなことだろう。
鳥取17_convert_20140925200404https://www.facebook.com/1er.tottori
http://blog.zige.jp/c-est-la-vie/kiji/688068.html
http://blog.zige.jp/c-est-la-vie/kiji/695672.html
http://blog.zige.jp/c-est-la-vie/kiji/696552.html




 けれど不思議なことがひとつある。『トリベル』がなぜ私の手元にあったのか、よくわからないのだ。鳥取市内の観光案内所にも置いてなかったし(『トリベル』はありますかと訊くと、『トリヴェラー』という地図が出てきた)。記憶では立川セプティマに置いてあったのをもらってきたような気がするのだが、はっきりしない。仮にそうだとしても、なんでそんなところにあったんだろう。マイナー県を旅せよという、神の思し召しだったのだろうか。あるいは『トリベル』の表紙を飾る不思議な道祖神(?)のお導きなのだろうか。
トリベル表紙

スポンサーサイト
その他 | 22:08:02 | トラックバック(0) | コメント(0)
DJ選曲対決?  DJ Battle for Music Selection ?
 多田雅範が夢の中のやりとりをブログに書いている。その中に次のような科白がある。
 「ええっ?おれ、そんなこと言ってましたっけ?おれ、それよりも福島さんが以前赤坂のクラブでDJしたときの選曲ってのが知りたいんだよなあ」と頭を抱えている。
http://www.enpitu.ne.jp/usr/bin/day?id=7590&pg=20140423

 おそらく多田はこのことについて、次の後藤雅洋の書き込みで知ったのだろう。

 大昔の話ですが、私は「座って聴くDJ対決」を乃木坂の某クラブで体験しました。出演者は評論家の福島恵一さんと、名前は失念しましたが何人かのDJさん。深夜から明け方まで続くイヴェントで、私はDJもセンスで勝負する点ではジャズ喫茶のレコード係りとまったく同じであることを実感したものです。理由は単純で、明らかに福島さんの選曲感覚がその繫ぎ方を含め優れていて、ほとんど聴いたことのない音楽ジャンルであるにもかかわらず、飽きることがない。これって、いいレコード係り(たとえば旧『ジニアス』の西室さんとか…)のいるジャズ喫茶にいるときの快感とまったく同じなのですよ。
http://ikki-ikki.cocolog-nifty.com/blog/2013/01/post-105b.html


 本当に昔、もう20年以上も前のことになるだろうか。正確な日時はもはや覚えていない。何とか記憶を掘り起こしてみよう。
 これは確かレコメンデッド・レコーズの日本支部だったロクス・ソルスの企画「レコメン・ナイト」の2回目だった。オールナイトのイヴェントなんだけれど、レコメンデッド・レコーズやその周辺を中心に、新譜をはじめ興味深い作品を紹介してもらえれば‥‥と、ロクス・ソルスの渡邊宏次から直接依頼されたのだった。その際に、CDから曲をかけて、解説して‥‥という形式でもいいけれど、できれば第2部はDJ風に、解説無しで曲だけかけるというのも考えてほしい‥‥とのことだったような気がする。
 会場は赤坂小学校(だったかな?)のそばの地下クラブで、行ってみたら狭いのでびっくりした。ダンス・フロアなんてなかった。もっともあっても困るけど。踊るための曲なんてかけられないし。
 おそらくはクラブなんぞ行ったこともない私を気遣ってだろう、渡邊は「第1回目を担当した坂本理さんはずっと曲をかけては解説し‥の繰り返しだったから、そういうレコード・コンサート方式でも構いませんよ」と声をかけてくれていた。でも、私はせっかくだからと、ノン・ストップでプレイすべき曲のリストをつくった。

 つかみが大切だろうから、まずは頭から強烈なのをぶちかまして、その後もテンションを保ったまま、エッジの鋭さと情報量の多さで乗り切ろう‥‥みたいなことを考えたのではなかっただろうか。そこで選んだのが、まずはMark Feldman『Music for Violin Alone』(Tzadik)から冒頭曲。弦を焼き切らんばかりの苛烈な弓さばき。凄まじいばかりのヴィルトゥオージテの炸裂。鋭い音彩に切り裂かれた空気が傷口を閉じる前に、Alvin Curran『Crystal Psalms』(New Albion)にCD-Jでスイッチ。不定形な詠唱が浮かび上がり、シナゴーグで録音されたと思しき朗唱と混じり合い、以降も混成合唱を基調に、暴力的に場面を切り刻むノイジーな衝撃音の噴出(これがもう迫力満点)、SPレコードからの音源だろうか蜃気楼のようにたちのぼるおぼろな声、暗がりに重く沈んだブラスの高鳴り、子どもたちの声、打楽器の容赦ない連打等が交錯し、浮かんでは消えていく。これは24分の1トラックかけっ放し。その後は確か、John Zorn『Kristallnacht』(eva)から、やはり緻密な重層的コラージュによる冒頭曲「Shtetl」をかけた。「リリー・マルレーン」の断片を含むなど、テイストも似通っていたし。それ以外にも何かかけたような気もするが、よく覚えてはいない。全体で45分くらいじゃなかっただろうか。
 覚えていないと言いながら、それでもDJを務めた第2部のことは、それなりに覚えているようだ。レクチャーを行った第1部でかけた盤のことは本当にまったく覚えていないから、やはりDJ初体験ということで、ものすごく緊張していたし、準備する時にもあれこれ心配したり悩んだりしたから、それだけ深く心に刻まれたのだろうか。

 ちなみにもう一人DJプレイを行ったのが佐々木敦。最近は音楽にはすっかり飽きてしまって、演劇やダンスやJ文学やJ現代思想に精出しているようだが、当時はまだもっぱら「レコメン」中心のライターだった。僕一人じゃ時間が持たないだろうと心配した渡邊が、事前に声をかけていたのだ。彼はすっかりDJ慣れしていて、ただつないでかけるだけの私と違い、ちゃんと器用にCD-Jを操って、複数の音源を重ね合わせたりしていた。それゆえ音の流れは希薄で平坦なものとなるが、むしろそれが通常の「マナー」だったのだろう。情報を圧縮したような濃密重厚な音をかけ続けられては、聴く方も息が続くまい(一方、私は「息をつく間も与えない」ことを目指したわけだが)。ジャンルは主にテクノ・ミュージックだったように思う。The Ecstasy of Saint Theresa『Free-D(Original Soundtrack)』のジャケットが見えたのを覚えている。この盤はジャケットの美しさに惹かれて、私も持っていたので。

 四谷いーぐるに置かせてもらったフライヤーを見て、後藤雅洋は覗きに来てくれたのだろう。誰か連れが1人といた。私の友人も1人聴きに来ていて、私、佐々木、渡邊のスタッフ・サイドを除けば、客は5〜6名じゃなかっただろうか。もう終わる頃になって、イヴェント目当てではないカップル客が入って来た。
 クロージングには、チル・アウトのつもりでChristine Baczewska『Tribe of One』(Pariah Record)から、冒頭曲「As Any Fool Can Plainly See」をかけた。童謡のようにふんわりと、鼻にかかった声が、足下5cmだけ宙に浮いたまま、どこまでも続いていく。外に出るともう夜は白々と明けていた。

【試聴音源】
Mark Feldman『Music for Violin Alone』(Tzadik)
http://espanol.bestbuy.com/site/music-for-violin-alone-cd/2405490.p?id=1676081&skuId=2405490





Alvin Curran『Crystal Psalms』(New Albion)
https://itunes.apple.com/jp/album/crystal-psalms/id51235519





John Zorn『Kristallnacht』(eva)
https://www.youtube.com/watch?v=rn1pERMiK3s






The Ecstasy of Saint Theresa『Free-D(Original Soundtrack)』
https://www.youtube.com/watch?v=sXWJVVV-8xs





Christine Baczewska『Tribe of One』(Pariah Record)
なし







追記
この記事を読んだ多田雅範から連絡があり、私のDJの件を知ったのは、かつて彼が編集に携わっていた『Out There !』誌に連載の後藤氏のコラムであり、それが夢の中で蘇ったのだという。手元にあるバックナンバーを見てみると、vol.6掲載の後藤氏によるコラム「ジャズ喫茶の真実」が、いーぐる連続講座で私が3回シリーズを行ったことを採りあげていて、その中に「何年か前、深夜に赤坂の乃木坂裏のさるクラブで福島さんがDJを務めたイヴェントがあった」とのくだりを発見した。この号が2000年発売だから、やはり90年代半ばのことだったのだろう。


その他 | 15:26:04 | トラックバック(0) | コメント(0)
来年もよろしくお願いします

 今年も「耳の枠はずし」をご覧いただきありがとうございます。
更新が滞っておりまして申し訳ありません。
いろいろと不調が重なりまして‥。
来月からは再開したいと思いますのでよろしくお願いします。




 今年を振り返りますと、1~3月は割と順調で4~5月に一度スランプがあり、何とかそこを脱して、9月のフランシスコ・ロペスによるワークショップ参加をジャンピング・ボードにして、一挙に加速したのですが、そこで力尽きた感があります。「書くこと」の密度・強度を高めるのはやりがいもあっていいのですが、もともと集中力はあっても持続力に欠ける性質だし、また、そうした密度・強度を引き出してくれる〈誘惑〉に満ちた題材がごろごろ転がっているわけでもないので、その辺はうまくコントロールしていかないといけないですね。反省しています。
 念のため、誤解のないように付け加えておけば、もちろん魅力的な題材は多々あるけれども、いろいろと準備が必要だったりして、おいそれと手が出ないというこちらの力不足が大きな要因です。あくまでも「手頃な」題材をうまく用意できなかった‥という言い訳とご理解ください。

 「不調」の方も、恒例の韓国ソウル行きでだいぶ解消されました。いろいろ思いがけないサプライズ(*)もあって(思いがけたらサプライズにならないですが)、行きつけの店を巡り、友人と会い、ギャラリーをのぞいたり、新しい店を開拓したりするなかで、体内にたまった〈毒素〉をずいぶん排出できた気がします。これでようやく更新を再開できる気が‥。
 それでは来年もよろしくお願いします。

*1 行きの飛行機で「扇風機おばさん」と遭遇。
*2 行きつけのカムジャタン屋でKBSテレビの取材を受ける。
*3 帰りの飛行機のエンジンに鳥が飛び込み、離陸後に空港へ引き返す。  などなど



ふらりと入ったギャラリーで展示されていた新作青磁。チャーミング!


常宿のすぐそばなのに行ってなかった宗廟にあった屏風。


これが元祖カムジャタン(カムジャクッ)。やはりここが一番おいしい。


ホンデのカフェ405 Kitchenのメニュー。ここはおいしいですよ。ヴォリュームもたっぷり。


よく行くホンデのショコラティエの新メニュー。ピュアなカカオの香り。


アックジョンからカロスギルに向う途中でのぞいたミュージアム。凝った意匠の建築。
収蔵品の陶磁器もなかなかの高レヴェル。


建築といえばこれも。ホンデにあるファッション・ビル。


ソウル在住の友人(オーストラリア人)から教えてもらったホンデのハンバーガー屋。
肉質が良くておいしかったですよ。ポテトもカリカリ。


これは帰国後につくったフォー・ボーです。器は韓国で買ってきたもの。




その他 | 15:21:33 | トラックバック(0) | コメント(0)
「カフェの空間」の潜在的可能性 potentiality of “cafe” spaces
 綜合藝術茶房喫茶茶会記におけるライヴ・シリーズ「Tactile Sounds」の企画意図について、企画者のひとりである益子博之はこう書いている。


 「tactile sounds」とは、「触知できる音」「触覚で感じる響き」......触れられるような距離で音とその空間の響きを聴くこと、感じること。耳で聴いてはいても、視覚的に音楽を捉えるような習慣を一旦止めて、皮膚感覚、肌の触覚を通じて捉えるような音楽の聴き方をしてみること。音楽家同士の、音楽家と聴き手の、聴き手同士の、異なる感覚が出逢い、触れ合い、響き合うことで、互いの肌を通じて届くような音楽を生み出す場所と時間となること。「tactile sounds」という言葉には、そんな私たちのささやかな願いが込められています。


 実際にライヴ演奏が行われる空間を、そしてその場における演奏を体験して、改めて思い当たるのは、この中の「触れられるような距離で」というフレーズだ。ライヴ・レヴューで述べたように、演奏空間は広めのリヴィング・ルーム程度のもので、聴衆は生活感覚を携えたまま音楽と出会うことができる。「演奏者たちが聴き手の居場所を訪ねてくる」感覚がそこにはある。客電が落とされず、演奏者と聴き手が明暗で分断されないことも重要だ。聴き手は暗闇の中に潜むのではなく、身体像をさらしながら音と触れ合う。窃視者のように眼と耳だけの存在と化してしまうのではない。また、演奏空間と聴取の空間がひとつながりであることにより、演奏は手の届かない向こう側にある「像」として対象化されることがない。それは単に親密さを生むだけでなく、ともすれば意識しないうちに視覚に譲り渡されてしまいがちな「聴くこと」を、空間の手触りや響きの肌触りとともに、しっかりと身体に引きつけてとらえることができる。ライヴに行くことを、よく「○○を見に行く」というが、それは今回の体験にふさわしくない表現だ。まさに「演奏に触れに行く」と言うべきだろう。

 「ライヴハウス」という制度がいつ頃、どのように成立したのかは知らない。しかし、劇場モデルが先にあったことは想像に難くない。日常世界から切り離された「ハレ」の時間のための異空間として、それはつくられていったのだろう。「ライヴハウス」が「小屋」とか「ハコ」と呼ばれるのは、そうした日常からの切断を前提とした完結した空間であることを物語っていよう。もちろん、ドラムの導入や電気増幅により音量が増大したことも、ライヴ演奏がそうした孤立した空間に封じ込められることになった社会学的な(?)要因ではあるだろう。

 最近またライヴ演奏を聴くようになって驚くのは、聴衆における関係者比率の高さだ。企画者あるいは出演者の友人知人か、ライヴハウス(あるいはクラブ)自体の常連か、いずれにしてもそうでないのは私だけではないかと感じたのも一度や二度ではない。おそらくはクラブ・ミュージックの習慣が、ジャンルとしては異なる種類の音楽へとあふれ出しているのだろう。明らかに「演奏を聴く」より前に「友達に会いに行く」感覚がそこにはあり、そのための理由として音楽があるという印象。だから、自分の出番でない出演者が、他の出演者の演奏中、仲間とずっと私語しているのも当然なんだろう。だって音楽は付け足しの理由に過ぎないのだから。これがギャラリーでの個展なら、壁に掛けられた作品を前にして、それとは何の関係もない業界のゴシップを延々と垂れ流していても誰も困らない。むしろそれがパーティの流儀ですらあるかもしれない。しかし、ライヴハウスに、場違いにも演奏を聴きに出かけた部外者(私のことだが)は困ることになる。

 ミシェル・フーコーは具体的なエテロトピー(混在郷=ヘテロトピア)空間のひとつとして、劇場を挙げている。権力による制度的な分割を超えて、異質なもの同士が出会う場所として。そうした劇場の流れを汲むはずのライヴハウスは、いま果たして、そうした異質なもの同士が出会う場となり得ているだろうか。

 より日常的な「カフェの空間」に可能性を感じるのは、そうした異種混交性においてである。文化的亡命者たちが集ったロマーニッシェス・カフェやキャバレー・ヴォルテールを引き合いに出すまでもなく、カフェは都市空間におけるアジールを形成するが、それは必ずしも「悪場所」的な周縁的空間とは限らない。むしろ、日常の生活空間のすぐ隣に、その延長として開けている異空間なのだ。そこにこそ出会いの、あるいは「誤配」の可能性は開けている。
 インターネット空間の検索が、何でも即座に調べられるようでいて、雑誌の拾い読み等と異なり、「目当てのものしか取ってこない」ことにより、広がりを欠くことがようやく問題とされるようになってきている。カフェの空間でたまたま異質のものと出会う、隣り合わせる体験は、これからますます重要なものとなっていくだろう。



在りし日のRomanisches Cafe



その他 | 22:16:08 | トラックバック(0) | コメント(0)

FC2Ad