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福島恵一

Author:福島恵一
プログレを振り出しにフリー・ミュージック、現代音楽、トラッド、古楽、民族音楽など辺境を探求。「アヴァン・ミュージック・ガイド」、「プログレのパースペクティヴ」、「200CDプログレッシヴ・ロック」、「捧げる-灰野敬二の世界」等に執筆。2010年3~6月に音盤レクチャー「耳の枠はずし」(5回)を開催。2014年11月から津田貴司、歸山幸輔とリスニング・イヴェント『松籟夜話』を開催中。

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タダマス ピアノ協奏曲第27番(モーツァルト作曲)を弾く  "TADA-MASU" Plays Mozart-Piano Concerto No. 27 in B flat Major KV 595
 本日、10月22日(日)に、益子博之と多田雅範がナヴィゲートするNYダウンタウン・シーンを中心にしたコンテンポラリー・ミュージックの定点観測「四谷音盤茶会(通称「タダマス」)」は通算27回目を迎える。
実は今日、どうしても駆けつけなければ気が済まないライヴ(前回レヴュー中で告知した大上流一、外山明、徳永雅豪によるトリオ@Ftarri水道橋)が出来てしまい、行けなくなってしまった。第10回に続く2回目の欠席である。残念。だが、26回中25回という出席率(=96%)は、自分で言うのも何だけど、かなりなものだと思う。そもそも私はいったい何の理由で、これほどまでに「タダマス」に入れあげ、通い詰めているのだろうか。

 もちろん、益子と多田の耳を高く評価しているということがある。それはこれまでの「タダマス」告知で繰り返し述べてきたことだ。だが、それだけではない。彼らが選び取る音盤や聴取体験に向けて放たれるコメントが、私にとってとても重要かつ切実なものであるのは、それが単に質が高いからではなく、私が探求したい、どこまでも掘り下げ、その核心を刺し貫きたいと念じている「即興演奏」という事態に、まったく別の角度から光を当ててくれるからにほかならない。
 ここで即興とは「あらかじめ準備していない」とか、「譜面に書かれていない」などと言うことは意味しない。クラシックの作曲作品のように、しっかりと楽譜に書き込まれた音楽でも、演奏においては即興的瞬間が忍び込まざるを得ない。それらによる揺らぎを、「作曲者の意図」に対する「演奏者の解釈」という写像関係においてとらえ、そこからはみ出る部分はノイズとして排除してしまうというのが、通常の作曲作品演奏に対する姿勢であり、この制度は、作曲者>演奏者>聴取者という階層を確固たる前提とし、これを保持するのに貢献している。

 今でこそ、こうした「即興」観に至っているが、かつてはフリー・インプロヴィゼーションの世界にその先端が存在し、その先にこそ可能性が開けていると考えていた。だが、音盤レクチャー「耳の枠はずし」で「フリー・ミュージックのハードコア」を採りあげた際に、デレク・ベイリーやミッシェル・ドネダのすぐ傍らに、フィールドレコーディングの照らし出す生成する音響環境が開けていることを知った。例えばベイリーなら『Music and Dance』で、演奏の足元を洗う交通騒音、空間に潜む田中珉の気配、それらをもろとも覆い隠してしまう激しい雨音に対し、それらを排除して「汚染されていない純粋な」ギターの音を復元するのではなく、それらを通して、それらと共にギターの響きを聴くこと。そしてドネダなら『Montagne Noire』で踏み込んだ野山において、掻き分けられる草の繁みや足下で折れる枯れ枝の立てる音と入り混じり、相互に浸透しあうソプラノ・サックスやパーカッションの響きに耳を傾け、音景の生成に浸ること。

 フリー・インプロヴィゼーションとフィールドレコーディングをシームレスに聴いていくことは、その後に津田貴司、歸山幸輔と始めたリスニング・イヴェント『松籟夜話』において、「即興・環境・音響」というキーワードにより掲げられることになる。その時にモデルとなったのが「タダマス」だった。音盤を聴きながら、掛け合いで話していくというスタイルももちろんだが、「現代ジャズ」に空間や響き、触覚や揺らぎを、積極的に聴き取っていく姿に、いかに触発され、勇気づけられたことか。
 誤解のないように付言しておけば、「タダマス」でかかる音盤を「現代ジャズ」とくくってしまうのは、あまりにも乱暴だ。例えばタイション・ソーリーの作品には、モートン・フェルドマン的な要素が多分に含まれている。彼をはじめ、「タダマス」に繰り返し登場するミュージシャンたちが言うように、コンテンポラリー・ミュージックとだけ呼んでおけばいいのかもしれない。しかし、にもかかわらず、それらの音楽がジャズ由来の要素を多く擁していることも確かだろう。そして、かつてのジャズの録音は(ECM等を例外として)音場や空間に注視を向けることはなかった。ジャズにおいてまず聴くべきは個々の演奏者のかけがえのないヴォイスであり、それはすなわち(ソロイストの)楽器の音にほかならないのだから、それは当然のことと言うべきだろう。しかし、にもかかわらず、益子や多田の耳は時代の変容をとらえ、空間や響きに焦点を合わせたのだった。最近、ジャズ再興が声高に語られるが、益子や多田のような認識の転換に至り、耳の視線を切り替えることのできた聴き手は少ない。


 津田貴司が、Facebookに「即興」について次のような書き込みをしている。

 「即興」というときに、ほとんどの演奏者は、互いに向かい合ってそろそろと歩み寄り、やがてがっちりと互いの襟首か帯をつかんで組み合う「格闘技型」か、同じ方向を向いてありうべき全体像の中で自分のポジションを獲得し、その中で程よく目立ちながら破綻を来さないように振舞う「組体操型」に陥る。
 しかし、そうした「即興演奏の型」(それ自体が語義矛盾だ)が成立するのは、演奏者が共通認識として「音楽」という制度を頑なに信じ、その制度に基づいて互いに「合わせる」ことを尊んでいるからにすぎない。「即興」は、そうした制度を内部から瓦解させる野性の試みであったはずではないのか。
 そのように形骸化した「即興」に背を向け、演奏者が互いに我関せずとばかりに周囲に野性のアンテナを張り巡らせるとき、これから始まるのは格闘技でもなく組体操でもなく、聴取者にとっては未知の深海生物の様子を観察するような事態が立ち現れるはずだ。
 「即興」に関するこの考察、以前ftarriで森重靖宗さんと大上流一さんのデュオを聴いたことからヒントを得ている。自分の演奏を見直すきっかけにもなった。

 私には、津田のこの「即興」観が、高岡大祐の「釣り哲学」(というと彼自身は嫌がるだろうが)と緊密に響き合っているように思える。

 人は釣りといえば「待つもの」だと思うようだが、僕がやる釣りは全く待たない。とにかく忙しい。 道具は最小限で最小ならウエストポーチ一つで大きなクロダイやスズキも狙える。その場に合わせて仕掛けを作り直し、環境の変化による魚の食性を読み、釣りは釣り以外のことをやるほうが良く釣れる。ボーっと待ってるのは誰だって苦痛だ。
 要はどこに魚がいるか、どうやってその魚の口に鈎をかけるか。それだけだ。見えない水の中を、考え尽くすのだ。
 入り口は「ヘチ釣り/落とし込み」。 主に黒鯛を釣る方法で、全く投げない。魚は障害物につくので足元にたくさんいる。 最初は信じられなかったけど確かにいる。後はどの深さにいるか、つかめばいい。
 最終的にはそれらを含む「脈釣り」全般の釣り人となった。ウキなどを使わない、竿、糸、オモリ、鈎、餌。全感覚を集中してそれらの変化を、まさに脈を取るように感知して釣り上げる。

 イディオムによる閉域を生み出すことのないノン・イディオマティックなインプロヴィゼーションを掲げ、複数の音を結びつける線(それこそがメロディ、リズム、ハーモニーを仮構する)を、多方向から交錯/散乱する音響のつくりだす束の間のコンステレーション(星座)へとさらさらと崩し去っていくデレク・ベイリーDerek Baileyの演奏。『Improvisation』(Cramps 録音1975年)で彼は、当初はエレクトリック・ギターのペダル操作によるステレオ効果で得ていた成果を、アコースティック・ギターによるちょっとした「ほのめかし」により達成している。アクション自体のカタログは厳しく絞り込まれ、代わりに無限のニュアンス、徴候、暗示、素早い参照、一瞬のうちに引かれすぐまた掻き消される照応の線等が導入される。

 それを聴き取ることができるのは、未知の深海生物の様子を観察するために張り巡らされた「野生のアンテナ」であり、ウキなどを使わずに、竿、糸、オモリ、鈎、餌。全感覚を集中して、それらの変化をまさに脈を取るように感知して眼に見えぬ水底を探る「脈釣り」であり、空間や響き、触覚や揺らぎを積極的に聴き取る「タダマス」の耳にほかならない。

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益子博之×多田雅範=四谷音盤茶会 vol. 27
2017年10月22日(日) 
open 18:30/start 19:00/end 22:00(予定)
四谷三丁目綜合藝術茶房喫茶茶会記
ホスト:益子博之・多田雅範
ゲスト:田中徳崇(ドラム奏者)
参加費:¥1,300 (1ドリンク付き)

 今回は、2017年第3 四半期(7~9月)に入手したニューヨーク ダウンタウン~ブルックリンのジャズを中心とした新譜CDをご紹介します。
 ゲストには、ドラム奏者の田中徳崇さんをお迎えします。シカゴでの10年に及ぶ活動を経て、ジャズに留まらない多彩な領域で幅広く活躍する田中さんは、現在のニューヨークを中心としたシーンの動向をどのように聴くのでしょうか。お楽しみに。(益子博之)




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ライヴ/イヴェント告知 | 00:37:15 | トラックバック(0) | コメント(0)
『松籟夜話』第十夜へのお誘い  Invitation to Listening Event "Syorai Yawa" the Tenth Night
 早いもので『松籟夜話』も今週末で記念すべき第十夜を迎える。今回は三回シリーズ「漂泊する耳の旅路—現地録音を聴く」の最終回、「移動する音、生成途中の音楽」と題し、移動や距離、隔たり、そこに生じる変容のプロセスを主題化する。ここでは開催に先立ち、内容を簡単に紹介したい。


 と、その前に、リスニング・イヴェント『松籟夜話』について、まずはご案内いたしたい。今回の『松籟夜話』第十夜のフライヤーに、うっかり「聴取の現場を新たに切り開く」などと書いたものだから、虹釜太郎から「怖い ((((;゜Д゜)))」と言われてしまったが、決して怖かったり、痛かったり、服が汚れたりしません。「まだお前は新たな聴取の現場を切り開けないのか! よし、今から居残りで千本聴取だ!」なんてこともしません(笑)。ご安心ください。
 いつも決まって「コアでディープな」と形容するものだから、何やらマニアックな、カルトでヤバい集まりと誤解されているかもしれない(笑)。率直に言って、音楽マニア限定のイヴェントではさらさらない。音楽を聴くことが、いつからか音を聴くことを回避して、周辺に付随する情報を消費することにやっきになっている。そうした中で『松籟夜話』は「聴くこと」を深めることを目指す。だから、ジャンルとか、ミュージシャンの経歴・人脈とか、ましてや流行とか、レア音源とかは関係がない。それゆえ、そこで耳が眼差すものが「音楽」と呼ばれるものかどうかも、全く問わない‥‥というか、そもそも最初から関心がない。音楽の地平を拡大するとか、音楽ならざるもの(=ノイズ?)で音楽を撹乱するとか、そうした大言壮語にも興味がない。
 聴くとは結局、そうしたあらかじめ用意された枠組みを離れて、響きに耳を澄まし、空間に遊び、あるいは見知らぬ音に不意打ちされて驚くことなのだ。私と津田貴司はナヴィゲーターとして、最小限の道案内をする。けれど決して自説の傍証として音を聴いていただくのではない。これは肝に銘じているつもりだ。音をして語らしめること。そのために音源の選定と配列を工夫し、当日は何よりも率先して聴くことに沈潜する。歸山幸輔設計の反射板スピーカーは、その比類なき浸透力で正確に核心を刺し貫き、事態を信じられないほどくっきりと明らかにしてくれる。繰り返し聴き親しんだ音源が、プログラム作成のために直前にも打合せを含め複数回聴き返しているにもかかわらず、今まで聴いたことのない表情で鳴り響くのに、何度驚かされたことだろう。予想を遥かに超える響きの豊かさ/深さに打ちのめされているのは、いつだってまずナヴィゲーターの二人なのだ。



 余計な前置きがすっかり長くなってしまった。閑話休題、今回の内容の紹介に入ることとしたい。今回の企画内容をフライヤーでは次のようにご案内している。

 今回は三回シリーズ「漂泊する耳の旅路—現地録音を聴く」の最終回、「移動する音、生成途中の音楽」と題し、空間/時間的な「遠さ」を隔てて飛び火していく音や響きに焦点を合わせ、距離がもたらす変化や思いがけない類似に耳を澄ます中で、これまで自明の前提としてきた「現地」とは何かを問い直し、聴取の「現場」を新たに切り開きます。

 いさぎよく白状してしまえば、第八夜から続く三回シリーズ「漂泊する耳の旅路—現地録音を聴く」の企画を立ち上げた時には、三回目はMississippi Records等からリリースされているSP盤音源の復刻音源から「移民もの」を聴いていけばいいや‥‥くらいに軽く考えていたのだ。どういうことか、少し振り返ってみよう。
初回となる第八夜は、その少し前にリリースされた『イザイホー』の録音の素晴らしさに私も津田も二人揃って打たれたことを契機として、この作品を始点に声を軸に展開し、特にアーティストの個人的な表現や名人芸ではなく、祭儀に集う声の無名性を帯びた集合的な在りように耳を傾ける回とした。続く第九夜は、これと対照的に、「現地録音」というイメージと相反する都市のフィールドレコーディングを対象とし、様々な都市論、とりわけ都市の錯綜した重層的な空間の読み解きに随伴されながら、都市の多彩な/断片的な表情をとらえたサウンド・スナップショットから、路傍の大道芸人を周囲の空間を含めて丸ごと聴くことを経て、再び『イザイホー』録音を召喚して、Gilles Aubryによる音像としての都市の生成と聴き合わせることを行った。
地域コミュニティとメガロポリス、声とサウンドスケープという二項対立に基づく前二回に対し、三回目は特定の場所に縛られない「移動」や「伝播」それ自体を主題として掲げられないかと考えたのだ。そこでは同時に、距離、隔たり、遠さといったテーマが浮かんでくる。「聴くこと」を魅力的にするのは、いつだって「遠さ」の感覚だ。裸の胸に耳を当て、心臓の鼓動に耳をときめかせている時ですら、それは身体の奥深く、はるか彼方から気の遠くなる距離を渡ってくる響きに魅せられているのだ。あるいは凍えそうなほどに冷え切った電車の線路に耳を押し当てて、まだ影も形も見えない遠方をひた走る列車の音に耳をそばだてる時のぞくぞくする喜び。

 しかし、「移動」や「伝播」それ自体を主題化することは、予想以上に難しかった。演奏/録音の空間における、距離により響きが不可避的に被る変容については、『松籟夜話』で幾度も採りあげてきた。それを単に解像度の低下、不明瞭化、曖昧化、ノイズの増大等ととらえるのではなく、豊かな厚みとしてとらえること。余剰を削ぎ落とすことにより、発音体から発せられたばかり「原音」を追い求めるのではなく、変容をもたらす空間を丸ごと蝕知すること。だから今回は、異なる空間へと時間をかけて旅する音響を対象化しようとしたのだった。
 Mauro Pagani, Luis Sclavis, Cazoniere Del Lazio, Aktuala, Valantin Clastrier‥‥、文化の地層を深く深く掘り進み、民族音楽/民俗音楽を素材として、研ぎ澄まされたミュージシャンシップにより昇華させた数多の傑作があることはよく知っている。しかし、今回、それらの作品は採りあげなかった。単にレコーディング・スタジオは「現地」ではないというだけでなく、意図されたモンタージュによる作品構成は、今回の企図にふさわしくないと考えたからである。それでは結局、作成者の意図の読み解きになってしまう。むしろ、日常やふだん意識されないレヴェルでの文化の混淆/汚染が顕在化することに注目したかった。無意識のうちにすでに層として折り重なっている不純さに。解剖台の上ではなく、生活の現場での出会いに。それゆえ、起源の学術的探求には興味がわかなかったが、本来なら純粋さを志向するはずの起源幻想の中に、否応なく入り込んでしまう混淆には惹きつけられた。

 と同時に、文化を故郷/本土、移民コミュニティを準拠枠としてとらえないようにした。当初に想定していたように普通なら「移民の音楽」が大きく採りあげられるだろう。しかし、大里俊晴や昼間賢が言うように、「ワールド・ミュージック」とは、結局のところ「現地の音楽」なのだ。それを本国と移民先や植民地の距離/隔たりにおいてとらえることは、決して適切とは言えまい。だから、「西洋文明に汚染されていない手つかずの無垢で純粋な文化」を求めないし、移動/伝播の過程での変容を、元型に対する事後的な加工と考えないことにした。それはアビ・ヴァールブルクやジェイムズ・クリフォードが言うように、文化の残存/生き延びることにほかならない。
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 人の大きな移動を伴わず、かたちやものだけが移動/伝播していって、内容や意味が書き換わることがある。楽器の構造が伝播し、奏法や音色がまったく変わってしまうことがある。記憶すらも書き換えられ、思い出すたびにその都度新たにつくり直される。それもまたあるべき姿なのだ。
 アメリカ黒人、カリブ系黒人の起源幻想としてのアフリカ。アフリカ幻想の中に特化して現れるエジプトとエチオピア。起源幻想が連れてくる儀式性/神話性が眼差す憧れと畏敬の念に満ちた「遠さ」。人類(白人)の起源幻想としての洞窟壁画(=芸術の起源)。洞窟による感覚遮断が掘り当てる内部の「光」。暗闇での不安な手探りがもたらす「遠さ」‥‥。手当たり次第に思いついた音源を聴き返し、前述のヴァールブルク、クリフォード、あるいはポール・ギルロイ、ハンス・ベルティンク、デヴィッド・ルイス=ウィリアムズ、ニコラス・ハンフリーらの著書を枕辺に積み上げて、そんなことをとりとめもなく考えるようになった頃、津田貴司が坂本宰の影との注目すべき共同作業を終え、すぐさま旅立った沖縄からFacebookに次のように書き込んだのを見つけた。


ビセカツさんの言葉を思い返す。云く「糸満発祥の漁法は琉球弧のほとんどにみられるが、本部の備瀬集落にしかない独特の漁法がある、といったことから文化伝播の痕跡を考える手がかりはある。しかし唄の場合は本土の流行歌をもじったり聞き伝えに変化したりして、伝播の痕跡を辿ることができない」。

音楽という「遠さ」。
伝播の「飛び火」。

線をたくさん引くこと。
軸をたくさん想定すること。
重力からできるだけ自由になること。


 東京と沖縄に遠く離れていながら、どうも同じような景色を思い浮かべていたらしい。このことに勇気づけられて、自分なりの選曲・選盤・プログラムづくりが一挙に進んだ。
 9月17日(日)に津田と行った最終打合せは順調に進んだ。5時間近くかかったけれど。最後の最後まで新たなアイデアを注ぎ込み、当初の想定を超えてなお、案を練り上げずには気が済まないのは、二人の生来の性分らしいので、もうあっさりとあきらめることにしよう。打合せの場を提供し、間近に迫った店の再開準備に追われながら、二人の話やかける音源に耳をそばだて続けてくれた月光茶房の原田店主は「今回はいつにもましてジャンルの幅が広い」と驚いていた。実際にはジャンルで選んでいるのではなく、あくまで作品で選定しているので、びしっと揺るぎなく筋は通っていて、クロス・ジャンルとか、領域の横断を標榜しているつもりはないのだが、確かに彼の言う通り、眩暈のするほど横断的なのかもしれなかった。それはきっと、津田の言う「線をたくさん引くこと。軸をたくさん想定すること。重力からできるだけ自由になること」の実践の結果であり、「遠さ」を隔てて飛び火していく様を追いかけたがゆえのことなのだろう。
事前Ossie


 ‥‥というわけで、スニーク・プレヴューを気取っているつもりはないのだが、相変わらずジャンルもアーティスト名も詳らかにしない、何とも不親切な紹介文となってしまった。それでも「遠さ」や「隔たり」に魅せられ、そこに豊かさを聴き取らずにはいない耳の在処は示し得たのではないかと思う。この週末、9月24日(日)の『松籟夜話』第十夜、ぜひおいでください。驚きの連続が襲います。なお、お席の確保のため、お手数ですが、ぜひ事前のご予約をお願いいたします。それでは当日、ご来場をお待ち申し上げております。
事前04


『松籟夜話』第十夜

◎音楽批評・福島恵一とサウンドアーティスト・津田貴司がナビゲートする、「聴く」ことを深めるための試み。◎会場は青山・月光茶房隣設のビブリオテカ・ムタツミンダ。歸山幸輔によるオリジナルスピーカーで様々な音源を聴きながら「音響」「環境」「即興」の可能性を探ります。

◎第十夜は、三回シリーズ『漂泊する耳の旅路 - 現地録音を聴く』の第三回。「移動する音、生成途中の音楽」と題し、空間/時間的な「遠さ」を隔てて飛び火していく音や響きに焦点を合わせ、距離がもたらす変化や思いがけない類似へと耳を澄ます中で、これまで自明の前提としてきた「現地」とは何かを問い直し、聴取の「現場」を新たに切り開きます。


福島恵一 音楽批評/「耳の枠はずし」 http://miminowakuhazushi.blog.fc2.com/
津田貴司 サウンドアーティスト http://hoflisound.exblog.jp/
歸山幸輔 オリジナルスピーカー

日時:2017年9月24日(日)18:00~(21:00ごろ終了予定)
料金:1500円
お席を用意する都合上、予約制とします。開催日前日までに、お名前・人数・当日連絡先を明記の上、下記までお申し込みください。
gekko_sabou@me.com(月光茶房)

会場:Bibliotheca Mtatsminda(ビブリオテカ・ムタツミンダ:青山・月光茶房隣設ECMライブラリー)
東京都渋谷区神宮前 3-5-2 EFビルB1F
03-3402-7537
http://gekkosaboh.com/

事前03


ライヴ/イヴェント告知 | 01:14:44 | トラックバック(0) | コメント(0)
タダマス、南部博士と共に26次元を数える  "TADA-MASU" Take a Count of the 26 Dimension with Dr.Nambu
 益子博之と多田雅範による現代ジャズ・シーンの定点観測「四谷音盤茶会(通称「タダマス」)」も今週末7月23日(日)で26回目を迎える。ずっと続けている告知記事のタイトルへの数字(回数)の折り込みも、かなり大変になってきた(笑)。

 今回はいつもながらの最新ディスクからのピックアップや、ゲストとの当意即妙のやりとりもさることながら、なにしろ益子は今月13日の夕方にNYから帰って来たばかり。現地での最新情報を、みやげ話として披露してくれることだろう。楽しみだ。とりわけ注目すべきはタイション・ソーリー(Tyshawn Sorey)のThe Stoneへのレジデンシー関連。多田によれば、益子は出発以前から「今回はタイションに狙いを絞っていく」と宣言していたとのことだ。実際、彼が現地からFacebookにアップした写真が素晴らしい。

 
 
 撮影:益子博之



 今回の基本情報を以下に転載しておく。

masuko x tada yotsuya tea party vol. 26: information
益子博之×多田雅範=四谷音盤茶会 vol. 26

2017年7月23日(日) open 18:30/start 19:00/end 22:00(予定)
ホスト:益子博之・多田雅範
ゲスト:リン ヘイテツ(ピアノ奏者/作曲家)
参加費:¥1,300 (1ドリンク付き)

今回は、2017年第2 四半期(4~6月)に入手したニューヨーク ダウンタウン~ブルックリンのジャズを中心とした新譜CDをご紹介します。
ゲストには、ピアノ奏者/作曲家のリン ヘイテツさんをお迎えします。バークリー音楽大学卒業後、ジャズの世界で幅広く活躍するリンさんは、現在のニューヨークを中心としたシーンの動向をどのように聴くのでしょうか。お楽しみに。(益子博之)

最新の情報は下記をご覧ください。
http://gekkasha.modalbeats.com/?eid=954584

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ライヴ/イヴェント告知 | 16:04:04 | トラックバック(0) | コメント(0)
『松籟夜話』第九夜へのお誘い  Invitation to Listening Event "Syorai Yawa" the Ninth Night
松籟夜話第九夜原田写真縮小
撮影:原田正夫


 今週末、6月11日(日)開催の『松籟夜話』第九夜について、もう直前になってしまったが、簡単にご案内しておきたい。

 今回は、三回シリーズ『漂泊する耳の旅路 - 現地録音を聴く』の第二回。 「音響都市の生成」と題し、「子どもの路地遊びや路傍の芸の街頭録音を入り口に、都市のざわめきそのものに深々と身を沈め、異なる時間/空間の交錯を透視する耳のパースペクティブを描き出す」ことを狙いとしている。

 今回のシリーズは、第七夜でAMEPHONEを特集したことを踏まえ、『松籟夜話』の背骨とも言うべき「現地録音」に、真正面から向き合いフォーカスしたシリーズをやろう‥というところから生まれた。「それなら是非コレをかけたい」という音源を津田と私が持ち寄り、『イザイホー』を核とした民俗学的深さと、Christina KubischやGilles Aubryらがつくりだす都市空間的広がりが対比的に浮かび上がった。シンボリックに言えば、前者は異質な「声」がぶつかりあいながら澄み渡っていく閉ざされた世界であり、後者は人工物を含め、ありとあらゆる音響が、かつ消えかつ結びつつ無際限に増殖していく空間である。
 歌声にとどまらぬ声の位相は、かねてからぜひ採りあげたいと思っていた主題だったし、ともすれば「自然讃歌」に傾きやすいフィールドレコーディングを扱う以上、「都市的なるもの」は避けては通れない論点だった。そのようにして第八夜・第九夜の企画方針はすんなりと決まった。
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東京都渋谷区神南 撮影:原田正夫


 実際には、明確なイメージを描けていたはずの第八夜の企画は、その後、「南島文化」の多様性、民俗学の奥深さ、沖縄を巡る思考の広がりと驚くべき鋭いエッジ等との格闘となり、ずぶずぶと深みへと引き込まれていくことになる。もちろん、その分、得たものもまた大きかったのだが。第九夜の企画もまた、検討段階で大きく揺さぶられることとなった。
 都市のフィールドレコーディングを主題とすることから、先に挙げたChristina KubischやGilles Aubryの音源を聴き込む。一つひとつは断片に過ぎないスナップショットの集積が、モザイク画状に浮かび上がらせる都市イメージと、茫漠とした混沌が揺らぎ渦巻く暗闇を凝視するうち、いつの間にか街中に佇む自分自身を発見する瞬間。両者は対照的なアプローチのように見えるが、実のところ、一望では全体像をとらえることのできない「見えない都市」という認識を、共通の基盤としている。これらを第九夜の二つの極としてとらえることとしよう。
 これに対し、同じ「見えなさ」は、都市の巨大さ・複雑さ、多様な時間・空間が折り重なる多層性等によってだけではなく、突発的事態、例えば革命や内戦がもたらす「超」流動化によっても生じ得る。これをイントロダクションに置こう。
 さらに様々な音源を聴き進めるうちに、先の「スナップショット」と「凝視」がどちらも通常の目線の高さや周囲の物音(アフォーダンスを提唱したJ.J.ギブソンが創造した概念「包囲光」にならって「包囲音」と呼びたいところだ)に対する身体感覚を前提にしているのに対し、俯瞰的・鳥瞰的な視点から全貌をとらえようとしたり(実際には全体像は決して耳の視角には収まりきらないのだが)、あるいは「その場」に聴き手の身体を瞬間移動させるようなヴァーチャル・リアリティ的音響空間を構築したりする作品の一群が浮上してきた。これらを先の両極の間に置くこととしよう。

 当初から、都市の音響のもうひとつ欠かせない、重要な要素として、大道芸人やストリート・ミュージシャンの存在が挙げられていた。都市の日常に祝祭に彩りを与える路傍の芸。これを新たな視点として追加しよう。‥‥と、ここで大きな問題が生じた。先に触れた各パートの作品に拮抗し得る大道芸人やストリート・ミュージシャンの「現地録音」が意外とないのだ。これは決して、彼らの演奏の水準が低いことを意味しない。むしろ逆で、「ストリートにもステージで演奏するアーティストに比肩し得る、あるいはそれを上回る優れたミュージシャンが存在する」といった対抗的視点が災いして、彼らの演奏を彼らが活動する都市の空間ごと、まるごととらえた録音が少ないのだ。さもなくば都市の一風物として「音の絵葉書」化されてしまうか、アウトサイダーの一生として「人生哀歌」がフィーチャーされてしまうか‥‥。のっぺりとした一枚絵に平面化してしまうのではなく、都市は背景たる書き割りに過ぎないと片付けてしまうのでもなく、演奏者と場所の関係性にフォーカスし、そののっぴきならぬ必然性を明らかにする録音‥‥。ようやく選定の視点が定まり、狭義の街頭演奏/録音の範疇にこだわらずに、素晴らしい演奏を聴いていただくことができるようになった。
 ここでの葛藤の副産物は、改めて宮里千里の「耳力」(眼力の聴覚版)の確かさに打たれることを通じて、都市とは言い難い久高島を舞台に演じられるイザイホーの録音を、都市のフィールドレコーディングを聴く耳で聴いてみたらどうだろうかと思いついたことだった。前回の『松籟夜話』第八夜に対すると私と津田の一番の反省点は、披露した音源中、最も豊かで深い『イザイホー』をプログラムの最初に置いてしまったがゆえに、参加者にその強度をじゅうぶんに感じ取っていただけなかったのではないか‥‥ということなのだ。多層の積み重なりがその場で生成するもの、演奏者と場所との関係性への注視、時間・空間を濾過せずまるごととらえるといった特徴は、両者に共通している。今回、『イザイホー』を新たな耳で聴き直すことにより、南島文化、民俗学といった枠組みから解き放たれた、学術的/文化遺産的などではない、生々しい力を体験していただけることと思う。それはまた、都市へと向かう耳の視線を、大いに励起してくれることだろう。
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沖縄久高島海岸 撮影:津田貴司


 あまりネタバレになるのもどうかと思い、いささか抽象的な話を書き連ねてしまったが、当日、体験していただければ、「なるほど、そういうことか」と納得していただけるのではないかと思う。もちろん、『松籟夜話』はリスニング・イヴェントであり、こうした企画者側の用意した「プロット」は、所詮は下絵の線、あるいは単なる口実(プレテクスト)に過ぎない。ここでの聴覚、視覚、さらにはそれをはみ出す身体感覚の体験は、そうしたあらかじめ書かれた「プロット」を簡単に上回り、裏切ることになるだろう。いや、そうでなければならない。
 映画作品をプロットの整合性や社会現実との照応性(正しいとか正しくないとか)で評価したがる輩がいる。とんでもないことだ。映画とは次々に身体を襲う視覚・聴覚体験の連続であり、プロットやテーマはそれを射出するためのカタパルトに過ぎない。先日、國村準が特別俳優賞を受賞したことで話題の韓国映画『哭声(コクソン)』を観る機会があったが、ここでもプロットの整合性や顛末の解決は思い切りよく「二の次」になっている。ストーリーなどショットと音響の連鎖のうちに切れ切れに浮かび上がり、束の間の持続を確保すればよいのであって、ストーリーをなぞるために映像や音響を、ましてや俳優の演技やセリフを配するのではない。そんなに文字で綴られた物語が大事なら、原作やシナリオのページをキャメラで撮ればいいのだ。

 閑話休題。案内と言いながら、主催者自ら参加のためのハードルを上げてしまってはしょうがない(苦笑)。改めて準備運動を続けよう。今回の『松籟夜話』第九夜が都市のフィールドレコーディングを特集しながら、どのようなアプローチを採らないでいるかを説明すれば、意外とイメージが伝わるのではないかと思う。
 都市を近/現代、モダニズムのシンボルととらえ、その表象を音/音楽に見ようとするアプローチは採らない。例えばルイジ・ルッソロらイタリア未来主義が、機械の騒音と都市の速度/喧噪を顕彰して制作に勤しんだ音響詩やイントナルモーリによる騒音音楽。ヴァルター・ルットマンによる実験映画『伯林大都会交響楽』もまた、都市の音響に対する美術史的視点からは欠かせない達成だろう。だが、機械の規則正しい高速運動やこれと同期したきびきびしたカット割りが生み出す「都市のリズム」も、今回は同様に採りあげない(付された音楽は言わずもがな)。
  「見えない都市」、すなわち都市の一望性の喪失/崩壊を前提として、そこから浮かび上がる(視覚ではなく)聴覚による都市の把握、都市像の生成をモチーフとしているので、まさに一望性の産物である「地図」的なアプローチは採らない。この結果として、教会や学校の鐘、灯台の霧笛、より現代的場面ならば録音や合成音響がつくりだす音響サイン等への注視は行わない。マリー・シェーファーによる「サウンドスケープ」の視点も今回は採らない。
 金子智太郎から以前に教えてもらったトニー・シュヴァルツ(Tony Schwaltz)が進めた「都市の音響図鑑」的なアプローチも採らない。これは図鑑が掲載するのは「その場」から切り離した標本/オブジェに過ぎず、対してスナップショットには「避けがたく背景も写ってしまう」全体的なものであるとの理解からである。もっともムーンドッグ(Moondog)の路上演奏の街頭録音のように、彼にはそれだけにはとどまらない達成があることは強調しておきたい。

 どの程度、表題にふさわしい「お誘い」たり得ているか、はなはだ心もとないのだが、いつもと同様、ハードコアかつディープであることは保証する。今回もまた音源だけの紹介ではなく、テクスト(参考文集)の配布や映像からのアプローチを絡めたいと考えている。「横断的」であることにより「入口」を多数設けるという配慮もさることながら、音響と映像とテクストが交錯/衝突することによって、初めて「都市」という対象に迫り得るという思いがある。蛇足ながら、制作側の意図の詮索や歌詞の解釈等、結局のところ、テクストの内部に閉じこもって音楽批評のあり方への反発も。
 『あなたの知らない世界』的な「怖いもの見たさ(レア音源聴きたさ?)」で、どうぞ気軽に参加していただければと思う。ただし、事前のご予約をお忘れなく。
松籟夜話第九夜ちらし縮小
デザイン:川本要



『松籟夜話』第九夜

◎音楽批評・福島恵一とサウンドアーティスト・津田貴司がナビゲートする、「聴く」ことを深めるための試み。◎会場は青山・月光茶房隣設のビブリオテカ・ムタツミンダ。歸山幸輔によるオリジナルスピーカーで様々な音源を聴きながら「音響」「環境」「即興」の可能性を探ります。

第九夜は、三回シリーズ『漂泊する耳の旅路 - 現地録音を聴く』の第二回。 「音響都市の生成」と題し、子どもの路地遊びや路傍の芸の街頭録音を入り口に、都市のざわめきそのものに深々と身を沈め、異なる時間/空間の交錯を透視する耳のパースペクティブを描き出します。

福島恵一 音楽批評/「耳の枠はずし」 http://miminowakuhazushi.blog.fc2.com/
津田貴司 サウンドアーティスト http://hoflisound.exblog.jp/
歸山幸輔 オリジナルスピーカー

日時:2017年6月11日(日)18:00~(21:00ごろ終了予定)
料金:1500円
お席を用意する都合上、予約制とします。開催日前日までに、お名前・人数・当日連絡先を明記の上、下記までお申し込みください。
gekko_sabou@me.com(月光茶房)

会場:Bibliotheca Mtatsminda(ビブリオテカ・ムタツミンダ:青山・月光茶房隣設ECMライブラリー)
東京都渋谷区神宮前 3-5-2 EFビルB1F
03-3402-7537
http://gekkosaboh.com/




ライヴ/イヴェント告知 | 02:11:36 | トラックバック(0) | コメント(0)
タダマス、スティーヴン・キング「幸運の25セント硬貨」を読む  "TADA-MASU" Reads a Short Story "Luckey Quarter" by Stephen King
 益子博之と多田雅範が主宰するNYダウンタウン・シーンの定点観測「四谷音盤茶会」(通称「タダマス」)も、すでに6シーズン継続しており、この週末にいよいよ7年目に足を踏み入れる。長期に渡り、マンネリ化に陥ることなく活動を継続していられる理由は、毎回のゲストの多彩な顔触れを別にすれば、まずは益子の貪欲な聴取 ― 当初設定していたNYやジャズという土俵を果敢にはみ出していく ― にあるだろう。だが、決してそれだけではない。相方を務める多田の、常に新たな面をさらし続ける「切断力」が大きなカギを握っているのだ。

 先日、今回の「タダマス25」に向けた打合せを終えたばかりの二人と、少し話す機会があった。「多田さんは打合せの時の話の流れをいつも忘れている」とツッコミを入れる益子に対し、「いや、それはですね‥‥」とボケまくる多田という、いつもながらの漫才トークを聞かせてくれたのだが、事前の評価や周辺情報を即座にリセットして(忘却力!)、いまここで再生されている音源だけに聴取を賭ける、賭け切るというのは、実はなかなか出来ることではない。その証拠に、インターネット上に溢れるディスク・レヴューは、ほとんどすべて制作者側が提供したプレス・シートの劣化したコピーに過ぎないではないか。
 多田がもたらす想定外の揺らぎを、決して益子は「なかったこと」にして、事前に描いた予定調和に回収しようとしない。ズレやすれ違い、踏み外し、あるいは眼にも止まらぬ疾走や奔放な飛躍が、「録音物の再生」という、一見、差異など生じようもない行為に、熱く息を吹き込む。いや、実際異なるのだ。「他者と共に聴く」によって。他の耳の眼差しを意識し、他なる言葉に伴われた聴取は、音を、いや「聴くこと」自体を変容させる。

 先の二人との会話は、打ち解けた雑談だったから、「最近の料理はインスタを意識して、やたらスマホ写りのよいものになってきている」というような「最近流行事情」にも話が及んだ。SNSに写真をアップする際には、結局盛り上がるようなキャプション/コメントしか付けないから、「フォトジェニック」な料理は露出が増え、味とは無関係に絶賛が躍ることになる。何とも情けないが、まあ、流行とはそうしたものだ。そこにあるのは承認欲求を介した単なる同調圧力に過ぎない。

 先に述べたように「タダマス」はその対極にある。もっともらしいキャッチ・コピーや押しつけがましい評文の下に聴取を束ねてしまうのではなく、自分とは違う聴き方に気付くことにより、多様な聴取の可能性を解き放つこと。
 今週末の「タダマス25」では、果たしてどんな「別の聴き方」に出会えるだろうか。

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masuko x tada yotsuya tea party vol. 25: information
益子博之×多田雅範=四谷音盤茶会 vol. 25

2017年4月23日(日) open 18:30/start 19:00/end 22:00(予定)
綜合藝術茶房喫茶茶会記 
新宿区大京町2-4 1F(丸の内線四谷三丁目駅 徒歩3分) 
03-3351-7904

ホスト:益子博之・多田雅範
ゲスト:大村亘(ドラム・タブラ奏者/作曲家)
参加費:¥1,300 (1ドリンク付き)

今回は、2017年第1 四半期(1~3月)に入手したニューヨーク ダウンタウン~ブルックリンのジャズを中心とした新譜CDをご紹介します。
ゲストには、ドラム・タブラ奏者/作曲家の大村 亘さんをお迎えします。ジャズの世界で幅広く活躍し、インド古典音楽にも深い造詣をお持ちの大村さんは、現在のニューヨークを中心としたシーンの動向をどのように聴くのでしょうか。お楽しみに。(益子博之)

ライヴ/イヴェント告知 | 23:17:28 | トラックバック(0) | コメント(0)
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