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福島恵一

Author:福島恵一
プログレを振り出しにフリー・ミュージック、現代音楽、トラッド、古楽、民族音楽など辺境を探求。「アヴァン・ミュージック・ガイド」、「プログレのパースペクティヴ」、「200CDプログレッシヴ・ロック」、「捧げる-灰野敬二の世界」等に執筆。2010年3~6月に音盤レクチャー「耳の枠はずし」(5回)を開催。2014年11月から津田貴司、歸山幸輔とリスニング・イヴェント『松籟夜話』を開催中。

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タダマス、富嶽三十六景を巡る  "TADA-MASU" Travels around Thirty-six Views of Mount Fuji
 益子博之と多田雅範がナヴィゲートするNYダウンタウン・シーンの定点観測「四谷音盤茶会」も明日で何と36回目、開始して丸9年を経過することとなる。
 ここのところ、ずっと身辺が慌ただしく、一向に筆が進まず、ブログの更新もままならないばかりか、前回「タダマス vol.35」を体調不良にて欠席という失態までやらかす始末。それまでの34回で2回欠席したものの、それはいずれもどうしても外せない予定が入ってしまったためだったのだが、今回は体調管理のミスによるドタキャン。情けないことこのうえない。えてして、そんな場合によくあることなのだが、会う人から皆「何で来なかったの。もったいない。とても内容が充実した出色の回だったのに」と聞かされ、ますます落ち込むことに。
 今回は2019年の総括ということで、新譜からの選盤に加え、年間ベスト10の発表と振り返りがあるので、前回聴き逃した秀作群は、そこで幾らかなりとも耳にすることができるだろう。ゲストも、いつも必聴の滋味深いコメントを残す蛯子健太郎が3回目の登場。そういえば、彼の率いるユニット「ライブラリ」のデュオ形態での再出発ライヴ(「タダマス」と同じく綜合藝術茶房 喫茶茶会記で行われた)も、やはり体調不良で行けなかったのだった(泣)。リヴェンジを期して明日の晩に臨むこととしたい。


今回は、2019年第4 四半期(10~12月)に入手したニューヨーク ダウンタウン~ブルックリンのジャズを中心とした新譜CDと、2019年の年間ベスト10をご紹介します。 ゲストには、3度目の登場となるベース奏者/作曲家の蛯子健太郎さんをお迎えすることになりました。ストレート・アヘッドなジャズから電子音響や詩の朗読を含む作曲まで幅広い表現で活躍される蛯子さんは、現在のニューヨークを中心としたシーンの動向をどのように聴くのでしょう。お楽しみに。(益子博之)

タダマス36縮小

益子博之×多田雅範=四谷音盤茶会 vol. 36
綜合藝術茶房 喫茶茶会記(四谷三丁目)
新宿区大京町2-4 1F
2020年1月25日(土) 
open 18:30/start 19:00/end 22:00(予定)
ゲスト:蛯子健太郎(ベース奏者/作曲家)

茶会記案内図


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ライヴ/イヴェント告知 | 23:40:28 | トラックバック(0) | コメント(0)
タダマス、直木三十五に関する映画を35mmフィルムで撮る  "TADA-MASU" Shoot Movie about Sanjugo Naoki by 35mm Film Camera
 いろいろあって、しばらく更新が滞っていた本ブログ『耳の枠はずし』だが、今週末10月26日(土)には、多田雅範と益子博之がナヴィゲートするNYダウンタウンを中心としたコンテンポラリー・シーンの定点観測「タダマス35」が開催されるとなれば、これは何とか重い腰を上げて告知をせねばなるまい。

益子博之×多田雅範=四谷音盤茶会 vol. 35
2019年10月26日(土)  open 18:30/start 19:00
四谷三丁目 綜合藝術茶房喫茶茶会記
ホスト:益子博之・多田雅範
ゲスト:柳沢耕吉(ギター奏者・作曲家・即興演奏家)
参加費:\1,500(1ドリンク付き)

今回は、2019年第3 四半期(7~9月)に入手したニューヨーク ダウンタウン~ブルックリンのジャズを中心とした新譜アルバムをご紹介します。
ゲストには、ギター奏者・作曲家・即興演奏家の柳沢耕吉さんをお迎えすることになりました。2013〜17年のNY在住時にはJazz Galleryのスタッフを務め、Prix Presque Rien(プレスク・リヤン賞)2017で大賞を受賞した柳沢さんは、現在のニューヨークを中心としたシーンの動向をどのように聴くのでしょう。お楽しみに。(益子博之)

タダマス34,35縮小


 続いて、当日プレイされた10作品中、わずか3作品への言及にとどまるが、前回「タダマス34」に関するレヴューを記しておきたい。

タダマス34,35-1Joseph Branciforte & Theo Bleckmann『LP1』((Greyfade Label)
Theo Bleckmann - voice, electronics; Joseph Branciforte - modular synthesizer, Rhodes electric piano, tape loops, processing
 靄の立ち込めた視界の効かなさ。押し殺した吐息。放送終了後のTVの「砂嵐」画面を思わせる粒子の粗さが次第に浮かび上がる。吐息のもたらす身体の輪郭から、魂が抜け出るように声がゆらりと立ち上り、どこまでも希薄に広がる響きと化して、空間の隅々まで浸みわたっていく。ここでTheo Bleckmannは女声としか聴きようのない高域まで繊細に駆使し尽して、まったく輪郭の固さや圧力を感じさせない柔らかな広がりをつくりだしている。電子音の肌理をいささか粗くしているのは、この相互浸透を達成するための周到な仕掛けなのだろう。蒟蒻を煮込む前に、味がよく染みるよう、鍋で丹念に空煎りするような。「母胎回帰」あるいは「羊水感覚」をまんま演出する電子音の仕立て(クラウス・シュルツェ等k七〇年代ジャーマン・ロック)、荒く忙しなくなる吐息のこもった響き(スタンリー・キューブリック『2001年宇宙の旅』のボーマン船長)など、いささか既視感が伴いはするのだが。

タダマス34,35-2Rallidae『Turned, and Was』(Gold Bolus Recordings GBR 026)
Angela Morris - tenor saxophone, voice; Dustin Carlson - electric guitar, voice; Scott Colberg - double bass, voice; Nico Dann - drums, voice; Alex Samaras - voice
最初にかけられた「Awake」は曲題とは真逆の、緩やかな眠りへと引き込む子守歌。曲としての良さにまず惹かれるが、それだけではない。遠く近く催眠的に繰り返される歌の一節に対し、演奏は個々の楽器/演奏者のヴォイスであることを脱ぎ捨て、非人格的なテープ・エフェクトの方へと、ずぶずぶと滲み出していく。ガラス片で奏でられたようなギター、遠くのサイレンの如く頭上を通り過ぎていくテナー・サックス。先のJoseph Branciforte & Theo Bleckmannのエレクトロニクスによるアプローチを、あえて器楽アンサンブルで試みることで、より体温の暖かみと肉の厚み、そして柔らかな濁りのある音響がかたちづくられている。希薄に拡散するのではなく、頭から布団をかぶって身を丸める甘やかで胸苦しい内向的な濃密さが感じられる。それでいて、断片の繰り返しへと落ち込んでいくヴォーカルをはじめ、テープ・ミュージックをわざわざ人力で演奏するにような、マニアックなこだわりが感じられるのが興味深い。ここでも「相互浸透」が主題化しているということだろうか。全体としてはポップなロック感覚をたたえているのだが、冒頭でも、最終トラックでもなく、前半の最後に、Joseph Branciforte & Theo Bleckmannに続けて置かれた理由がわかる。益子博之による選曲・配列の巧みさを思わざるを得ない。
 続く「Still Breathing」は「Awake」の重怠い昏さをそのまま受け継ぎながら、眠気の底が抜けて、夢の世界の扉が開いていくような柔らかな光に満ちている。オルタナティヴ~シューゲイズ的なギターの掻き鳴らしがサンドに力強さを与えているが、口笛のようなスキャット・ヴォイスと鼻歌のようなテナー・サックスの絡みは、どこまでもやわらかくこわれやすい希薄さを手放さない。なお、Rallidaeとは鳥の名前(クイナのこと)だという。

タダマス34,35-3Matt Mitchell『Phalanx Ambassadors』(Pi Recordings PI 81)
Matt Mitchell - piano, Mellotron, Prophet-6; Patricia Brennan - vibraphone, marimba; Miles Okazaki - electric & acoustic guitars; Kim Cass - double bass, electric bass; Kate Gentile - drums, percussion
 まずは圧倒的に高密度な演奏に打ちのめされる。先にかけられた「Stretch Goal」は、2016年にアップされたライヴ演奏をYoutubeで観ることができ、そこでは本作の5名に武石務を加えた6人編成が、極端に入り組んだ曲構成の複雑さを、いささかたどたどしくなぞる様を見ることができる。CD用に録音されたトラックはそれよりもはるかに加速され、かつ複数の流れを重ね合わせ、捩じるように撚り合わせた複層的なものとなっている。冒頭からいきなり急速に畳みかけていく動きに対して、途中からそれと引き合うようにだんだんと遅くなっていく逆向きの加速度が加わり、アンサンブルは身をよじるようにして、天井知らずに内圧を高めていく。
 鋭く尖らせた切っ先で細密に刻んでいくピアノとギター、流星雨の如く煌めきながら走り抜けていくマリンバやヴァイブ、超高速でジグザグにステップを踏むベースに比べると、ドラムスのKate Gentileの演奏は、最初、パワフルではあるが、いささか粗いように感じられた。しかし、聴き込めば、彼女のバネの効いた打撃が、この複雑怪奇に入り組んだ演奏に、急坂を駆け下りるような火照った推進力を吹き込んでいることがわかる。「ケイト・ジェンタイルの足腰のしなる柔らかさから繰り出すグルーヴは牽引力以上の触発力まであるようだ」とは、自身のブログで当日の音源を振り返った多田雅範の弁。
 調べるとKate Gentile自身のクワルテットとは、Kate Gentile, Matt Mitchell, Kim Cassとリズム・セクションが丸ごと共通しており、共演を重ねる中でアンサンブル感覚を練り上げてきたことがわかる。ただし、彼女自身のクワルテットの演奏は、さすがにここまで複層的なものではない。
 そそり立つ聖堂の仰ぎ見るステンドグラス群、あるいは岩石標本の色鮮やかな顕微鏡写真を思わせるジャケットのアートワークも、また彼女によるものだというから驚く。拡大すると、様々な写真が万華鏡的に細密に貼り合され、民俗的な文様と組み合わされていることがわかる。それはまるで、長い時間をかけてゆっくりと凝固する花崗岩の内部で、先に結晶化した鉱物の間を縫い、それらをいわば「型枠」として、別の鉱物が自らをかたちづくっていく様を、このアンサンブルの生成原理として、シンボリックに表象したものであるかのように感じられる。





ライヴ/イヴェント告知 | 23:50:09 | トラックバック(0) | コメント(1)
タダマス、レイ・チャールズと「3/4拍子」を歌う  "TADA-MASU" Sings "Three-Four Time" with Ray Charles
 益子博之と多田雅範がナヴィゲートするNYダウンタウン・シーンを中心とした同時代音楽の定点観測「四谷音盤茶会(通称:タダマス)」が34回目を迎える。

益子博之×多田雅範=四谷音盤茶会 vol. 34
2019年7月27日(土) open 18:30/start 19:00/end 22:00(予定)

ホスト:益子博之・多田雅範
ゲスト:北田 学(クラリネット奏者・作曲家・即興演奏家)
今回は、2019年第2 四半期(4~6月)に入手したニューヨーク ダウンタウン~ブルックリンのジャズを中心とした新譜アルバムをご紹介します。
ゲストには、クラリネット奏者・作曲家・即興演奏家の北田 学さんをお迎えすることになりました。北米やヨーロッパを旅しながら多彩な音楽家たちと共演を重ねてきた北田さんは、現在のニューヨークを中心としたシーンの動向をどのように聴くのでしょう。お楽しみに。(益子博之)
タダマス34フライヤ縮小


 「タダマス」は年4回、1・4・7・10月の定期開催で、7月の回には、その直前の6月に毎年益子が定点観測に出かけるNYの、見てきたばかりの新鮮な現地ネタが話題となる。

 相方の多田が自身のブログで書いている。

四谷音盤茶会、タダマスのリーダー、益子博之がいまニューヨーク定点観測に行っている、歯ぎしりするようなミュージシャンとの交流画像を送ってきているが、わたしだって蓮見令麻やポールモチアンと時空をこえた交流をしてるんだ、ゆうべだってジョーマネリのダーベンザップルを聴いたぜ、
ニューヨーク定点観測の成果は、7月のタダマス34で聞くことができるだろう、いつも言うことだが益子博之のすごいところは1000人を超えるミュージシャンとのつながりと、その音楽の評価はリンクしていない、という真っ当な、批評家として当然といえば当然なのだろう、アンテナの信頼度だ、

 その多田が前回「タダマス33」を終えてすぐ、次のように振り返っている。

9. RJ Miller Trio (Apohadion Records)
track 1: Side One (RJ Miller) 19:51
Dave Noyes - trombone, bells, keyboards, synthesizer; Pat Corrigan - timpani, vibraphone, amplified birdcage, toys, junk; RJ Miller - drums, samples, keyboards, bells.
recorded by Caleb Mulkerin at The Apohadion Theater, Portland. ©2018
ミラーの前作は理解するのに時間がかかったことを告白しよう、
菊地雅章からのスタジオメールにはタイションとミラーの名が早くからあって、わたしはタイションもミラーも知らなかった、タイションはCDが出ていたので聴いてみたが当時はよくわからなかった、
それからだいたい15年が過ぎたのだ、その間に菊地雅章はいなくなり、タイションとミラーの才能の大きさにおののきはじめているのだ、

 私にとって「タダマス34」のハイライトは、この『RJ Miller Trio』だった。LPジャケットや封入されたシートに用いられた岡田敏宏の写真もまた強烈だった。以下に拙レヴューから引用する。
タダマス33-4再縮小 タダマス33-5再縮小

 『RJ Miller Trio』もまた濃密な音群を操作する。電子音による黒く厚い雲のたなびき、その只中から浮かんでは消える細部の不安定な移ろい、シーケンサーのベース・リズム、呼吸音のコラージュ、パチパチと爆ぜる針音、ドラム・ストローク、ディレイを深くかけられたエレクトリック・ピアノの強迫的自己反復‥‥。音群の多様な移り変わりにもかかわらず、全体を覆う黒々とした濃度/密度は切断を許さない。すべての作業はそこから逃れることのできない強力な重力圏の下で行われ、外へと放出される音響はすべて深い淵から届けられる呻き声のようだ。
 『RJ Miller Trio』とRafiq Bhatia『Breaking English』の大きな違いは、確定した最適解あるいは一般解を差し出す後者に対し、前者はどこまでも手探りで揺らぎブレ続けることにある。どちらがより深く掘り進んでいるかと言えば前者だろう。にもかかわらず、後者と異なり、前者は一向に底にたどり着く気配を見せない。暗闇の中、盲いて掘り進む前方におぼろげに光景が浮かび、視界が開けたかと懸命に掘り進むと、いつの間にか景色は消え失せ、また別のところにふと浮かび上がり、そこに向けて必死で掘り進むと‥‥以下繰り返し。そう、ここで「景色」の在りようは「地」となる音響平面へのスーパーインポーズではなく、厚い雲の切れ目から、束の間、下界の様子が垣間見える‥‥といった感覚である。覆いが取られ、幕がめくられて、中身が明らかとなる。
 「タダマス33」当日のやりとりの中で、ホストの多田から突然コメントを求められた際に「都市のフィールドレコーディングみたいに聴こえる」と思わず答えたのは、こうした異なる細部が、望遠鏡を向けたように次々と切り取られて浮かんでくるにもかかわらず、全体像が一向に明らかにならない事態をとらえてのことだった。当日は説明が足りず、伝わらなかったかもしれないので、ここでは補足しておきたい。暗い混沌の中から闇が晴れ情景が浮かび上がる様はGilles Aubryによるカイロの市街のフィールドレコーディングを、異なる断片が次々に浮かぶ構成は同様にChristina Kubischによるカメルーンのサウンド・スナップショットを、耳の視界すべてが切り替わるのではなく、その一部が望遠鏡の視界で切り取られたように推移し、焦点が合わされた箇所の物音が拡大されて現れる様は、Lucio Capeceがボール紙製のチューブとマイクロフォンを気球に仕掛けたフィールドレコーディングを、それぞれ連想させたのだった。
「災厄の街、不穏な眼差し 「タダマス33」レヴュー」より抜粋
http://miminowakuhazushi.blog.fc2.com/blog-entry-464.html
タダマス33-6縮小


 前々回の「タダマス33」は1月に開催され、恒例の前年のベスト10が披露された。そこでダントツの1位として称揚されたのがTyshawn Soreyの大作『Pillars』だった。

 多田はこの作品について、次のように書いている。

1. Tyshawn Sorey
Pillars (Firehouse 12 Records FH12-01-02-028)
タダマスで年間ベストを発表するのは8回目、タイションが1位、4位、そして今年また1位、、
タイションが突出した1位で、群を抜いていた、あとは順不同でもいいくらい、
3CD+2LPをほぼフルスペックという時間が先立ってある、全体像といったものはない、
そこは、聴取が記憶として構造化されることを拒絶する「純粋経験」と言えるかもしれない、
スルドイ論点ですね、そういえば月光茶房の原田さんが、あれはすごいんだけど、あとから思い返しても憶えられない演奏、とか言ってた、
なんであんなユルんだ現代音楽みたいな作品を1位に挙げるんだと批判されて、現代音楽に似てるのあるの?と問うと、ジョン・ケージの龍安寺かなと言われて、聴くも全然OSが異なる演奏で、海外のレビューでも現代音楽作曲家の名前を並べて賞賛するものもあったけれど、言うことに事欠いての印象だった、
昨年末から、底が抜けた感覚というか、しばらくジャズ聴けなくなってしまった、ゴルフ場の駐車場でボーっとしてても『ピラーズ』の中に居るような、あれは演奏のやり取りではなくて、磁場なんじゃないか、東スポじゃないが、菊地雅章は生きている!と言いたい衝動に駆られる、
菊地雅章のスタジオにモーガンやニューフェルドやタイションやRJミラーなんかが来ていて、タイションは演奏にインできなくて叩けなくてショックで何日か顔を出せなくなっていたというエピソード、ニューヨークのスタジオからメールをもらった当時のオレはタイションもミラーもまったく気にしてないリスナーだったから(ミラーは名前すら知らなかった)、まあそういう若手はいるだろうなあという印象しかもっていなかったけれど、その後にどんどん判明してゆくのだ、菊地雅章に触れた、菊地雅章の地平を知ってしまったミュージシャンたちというのは、モーガンやニューフェルドやタイションばかりではく、ミラーも、ハスミレマもそうだ、キタミアキコもそうだ、なんか、アートの次元でどこか枠が外れているんだと、思う、
それはきっと東京ブルーノートで菊地雅章TPTトリオを体験して、身体が冷たくなって動けなくなってから、ずっとそうだった、

 先に『RJ Miller Trio』に関して掲げたのと全く同じ、今は亡き菊地雅章を巡るエピソードだが、「これまでタダマスで何度も話したけど」と多田自身語る通り、繰り返し繰り返し披露されている。ということは、つまり、多田が菊地本人から聞いた「予言」が、その後、一歩また一歩と着実に実現していることを、「タダマス」が繰り返し繰り返し目撃しているからにほかならない。そのような場は、この国には「タダマス」の外にはどこにもない。


 多田は自身のブログの別の回で、私の「タダマス」評を引いて、「福島恵一さんのレビューにちゃんと応じられないままでいる、」と述べている。

ジャズが果敢に自らを更新することにより生き延び、「ジャズとは似ても似つかない新たな『ジャズ』」へと変貌を遂げていくとしたら、そこで途切れなく持続している「ジャズなるもの」、あるいは「ジャズの創造性」とは、ジャズ固有のフレージングやスタイルでも、サクソフォンのヴォイスでも、ブラックネスでもなく、こうしたリアルタイムの飛行感覚ではないか‥‥、私はそう考えている(だから「ジャズの新たな章」とは、いつまでたっても自己を更新できない旧来のジャズの、延命のためにだらだらと書き継がれ続ける「続編」でしかないとも)。
想定外の事態 ― 「タダマス30」レヴュー
http://miminowakuhazushi.blog.fc2.com/blog-entry-454.html

 しかし、そう言いながら彼は独り語りを始め、さらに深く潜っていく。

菊地雅章に接触したミュージシャンたち、というくくりを意識してはいないわけだが、今年に入って自分の中で突出している新譜はRJミラーとハスミレマだけだったりすると、なんだよおまえかよ、というみたい浮上してくる、というか、さ、
メルドーやエスペランサ、マークジュリアナの新譜を聴いたが、ザミュージックになっているんだな、楽器奏者が描くワンワールドというやつ、それもうポップス、で、元をたどればパットメセニーやフリゼールがそういう歩みの先鞭をつけてたんだわ、演りたいことを実現しているんだから許してきたんだが、で、奏者としてジャズやれよな、メセニー~ジムホール交感即興では爺さんの圧勝だったしさ、
タダマス現代ジャズを特徴付けるレイヤー構造の流動体について、浮遊感とも、飛行感覚とも、で、わたしたちリスナーはプレイヤーであることでも聴取していて、瞬間瞬間の立ち振る舞いや意図や逃げや耳の目配せなんか、手を取るようにわかってしまうわけだ、もうジジイだからさ、
ジジイでも、時にゾゾケが立つわけよ、瞬間的な理解が宙吊りになるって言うの?、定型・定型ズラシと進む将棋の駒の定石の安堵感をすり抜けるように「なにそれ!」「いま、何言った?もういっぺん言ってみろ!」と、霊が見えて後頭部の髪がうにゃにゃとあれは本当に髪の毛が逆立つ現象なのだが、
と、書きかけてみても自己への問いにはなっていない、

 繰り返し巡る思い出話は、個々の作品に対する記憶/評価へと移行し、さらにそれをとらえる自己の感覚/認識へと向かい、自問自答繰り返しながら先へ先へと歩みを進めるが、しかし、それは思いがけず中途で「書きかけてみても自己への問いにはなっていない、」と残酷なまでに無造作に断ち切られる。改行により読みやすくされてはいるが、読点のみで区切られ、句点なしにどこまでも連ねられた各節は、地に足を着けることなく、「リアルタイムの飛行感覚」にすべてを委ねながら、不安定/不確定な浮遊状態を保ち続ける。

 高強度の音空間に触発され、尖った耳の視線が交錯する中から、このような言葉が連ねられ、思考が紡がれる場も、やはりこの国には「タダマス」の外、どこにもあるまい。




ライヴ/イヴェント告知 | 23:17:10 | トラックバック(0) | コメント(0)
「タダマス」のための32年次報告書 ―― 「タダマス32」への案内及び「タダマス31」の振り返り  The Thirty-second Annual Report ( Throbbing Gristle ) for "TADA-MASU" ―― Invitation for "TADA=MASU 32" and Retrospective for "TADA-MASU 31"
 益子博之と多田雅範によるNYダウンタウン・シーンを中心とした同時代音楽の定点観測「四谷音盤茶会(通称「タダマス」)」は、今月末、1月26日(土)に32回目を迎える。1月に開催される回は、通常の四半期分への注目だけでなく、前年をトータルに振り返り、前年のベスト10が公表されるのが恒例となっている。特に今回は、超大作にして、超注目作であり、2018年ベストとの呼び声も高いTyshawn Sorey『Pillars』がラインナップされることが予想され、いよいよ期待が高まるところだ。
 「other musicに捧げる」を標榜するアルゼンチンの音楽サイトEl Intrusoが毎年実施しているミュージシャン・批評家投票による年間ベスト選出は、その見識の高さ、そして「タダマス」とのシンクロ率の高さで知られているが、主に合衆国やヨーロッパのミュージシャン・批評家で構成されている投票者に、今回から新たに益子が加わる(アジアからは初めての選出であるという)。そのベスト選出結果とコメントにいち早く触れられる機会ともなる。なお、今回の開催は日曜日ではなく、土曜日なのでご注意を。
 新年初めてのゲストは、ベース奏者/作曲家の蛯子健太郎が「タダマス15」に続き二度目の登場を果たす。前回の登場時に、彼の「ミュージシャンシップでもプレイヤーシップでもない何か」を感じさせるコメントには深く打たれた。その時の様子については、拙レヴュー(※)を参照していだきたい。その後、彼のグループ「ライブラリ」のライヴに何度も足を運ぶことになるのも、ここでの出会いがきっかけだった。あらかじめ譜面に書き込まれた作曲や作品としての歌詞があるにもかかわらず、しかも「どんでん返し」を図るようなあざとい構成・演出など一切なく、音楽だけを目指して脇目も振らずひたすら誠実に、むしろ禁欲的なほどに淡々と演奏を進めながら、にもかかわらず、すでにある像のなぞり、完成されたモデルの再現ではなく、各メンバーが持ち寄った素材により、眼の前で料理がつくられていく新鮮な感動は比類のないものだった。現在の「ライブラリ」の活動休止が何とも残念である。しかるべき再始動を待つことにしたい。
 ※http://miminowakuhazushi.blog.fc2.com/blog-entry-324.html


 以下、「タダマス」情報ページから転載する。

益子博之×多田雅範=四谷音盤茶会 vol. 32
2019年1月26日(土) open 18:30/start 19:00/end 22:00(予定)
ホスト:益子博之・多田雅範
ゲスト:蛯子健太郎(ベース奏者/作曲家)
参加費:¥1,500 (1ドリンク付き)

今回は、2018年第4 四半期(10~12月)に入手したニューヨーク ダウンタウン~ブルックリンのジャズを中心とした新譜CDと、2018年の年間ベスト10をご紹介します。
ゲストには、2度目の登場となるベース奏者/作曲家の蛯子健太郎さんをお迎えすることになりました。ストレート・アヘッドなジャズから電子音響や詩の朗読を含む作曲まで幅広い表現で活躍される蛯子さんは、現在のニューヨークを中心としたシーンの動向をどのように聴くのでしょう。お楽しみに。

タダマス32ちらし縮小



 女性ゲストへの注目度の高さ故か盛況を極めた前回「タダマス31」は、私にとって極めて問題の多い回となった。もちろんそれは私個人の受け止め方に過ぎないが、そのことを自分なりに咀嚼するのに随分と時間がかかってしまった。
 そのの「問題」は結局のところ「作曲と即興」を巡る議論に行き当たるのだが、そんなことを一から掘り返していてはいくら時間があっても足りない(何とかコンパクトに取り扱えないかと試行錯誤したが、結局挫折し断念した)。結論を先取りしてしまえば、私は益子や多田と同様に、「作曲と即興」という枠組み、作曲/即興という二分法自体がもはや失効していると考えており、「作曲の外部/余白としての即興」というように、作曲を基準として即興をとらえるのではなく、即興という行為自体をその過程/軌跡に根差しつつ、直接に思考したいと思っている。
 ここで断っておかねばならないのは、作曲/即興という二分法の失効が、直ちに即興演奏の自立/自律を保証したり、即興演奏の新たな地平(新章?)を開いたりなどしないことだ。世の中というものは、それほどオメデタクは出来ていない。しかし、世間にはそう考える(考えたい)人たちが少なからずいて、妙に浮かれ騒いでいたりするのだが、そんなものは冷ややかに無視しておけばよろしい。
 自分にとって、「即興/音響/環境」や「即興的瞬間」といった用語、あるいはフリー・インプロヴィゼーションとフィールドレコーディングをひとつながりのものとして聴くという視点は、「即興という行為自体をその過程/軌跡に根差しつつ、直接に思考する」ための構えであり、当ブログに執筆してきたライヴ・レヴューにおいては、演奏の過程/軌跡の持続と各瞬間を聴診しつつ、この構えに基づいて様々な角度から分析・記述を進めてきたところである。
 津田・歸山・原田と続けてきたリスニング・イヴェント『松籟夜話』(現在「作業中」)もまた、そうした構えを共有しており、特に私の場合はこの意味合いが大きい。『松籟夜話』で聴く音源は、すべて録音されたものであり、なおかつジャンルで括れば、フリー・インプロヴィゼーション以上に、民族(民俗)音楽やフィールドレコーディングの比率が高いが、それゆえに聴取に対して現れる持続の各瞬間において、音や響きの衝突/交錯/変容を、演奏者の意図や元となる作曲とその解釈に還元することなく、力動的に触知することができる。そこにおいては、演奏/録音された「場」の作用、歴史や文化の流れ、地形や気候、生活様式や空間特性等が、時としてあからさまに前景化してくるが、無論のこと、そこで聴取できるものをそれらに還元してしまえるわけではないし、また、すべきでもない。

 前置きが長くなったが、10月28日に開催された前回「タダマス31」の振り返りを以下に掲載する。前述の自分なりの「咀嚼」の到達点である「1」と、そこから派生した、むしろ先に触れた「浮かれ騒ぎ」の内実の戯画(笑劇?)的なスケッチとしての「2」の二幕から構成されている。それではどうぞ、お読みください。


1.「作曲/即興」の二分法の失効 「タダマス31」を振り返る
——いわゆるインプロの面白さはどのように考えていらっしゃいますか。
多田 そもそもインプロヴィゼーション/コンポジションっていう二分法が有効かどうかが疑わしいよね。
益子 全く有効じゃない。
多田 そういう二分法はもう無いんだよ。

これは別冊ele-kingのために益子博之と多田雅範が行った対談「タダマス番外編」の誌面に掲載されなかった部分からの抜粋である。この対談を企画した細田成嗣が自身の主催した「即興的最前線」なるイベントの配布資料に「インプロの消滅、あるいはフィードバック現象としての即興」と題して掲載している。掲載された部分は多田のブログ(*1)に再録されており、そこで読むことができる。
*1 http://www.enpitu.ne.jp/usr/bin/day?id=7590&pg=20181126

これに対し、相方の益子がFacebookでこうコメントを寄せている。「別冊ele-king掲載「タダマス番外編」の番外編。こういう話を載せて欲しかったのだが...。」
それは無理な注文というもので、本来生成的な厚みを有する事態を、人脈図とディスク・ガイドに薄っぺらく解消することしか考えていない編集企画としては、ミュージシャン名にも、作品名にも、あるいはサブ・ジャンルやスクールにも紐づかない抽象的な見解は、およそ価値のないものと映るに決まっている。そして、そこで不要とされた「廃棄物」が、今度は音響の記録やそれを巡る歴史や言説のアーカイヴから全く切り離されたところで、各自が勝手な思い込みやファンタジーを「原理論」としていいように投影する、別のマーケットに出品され、「消費」されるのだ。ここでは、シーンの動向や音響の記録に対する個別具体的な分析と、「即興」を巡る原理的な思考を切り離し、全く別物として流通・消費させることが、市場のメカニズムとして機能している。

 いや、そんなつまらない話がしたいのではなかった。
 冒頭の益子と多田の対談を読んで、10月28日開催の「タダマス31」へのもやもやとした疑念が一気に晴れた思いがしたということが言いたかったのだ。というのも、「タダマス31」終了時点では、これまで体験した29回の「タダマス」(よんどころない事情で2回欠席しているため)の中で、ぶっちぎりで最低最悪の回だと感じていたからだ。
 これまでにも例えば「タダマス16」のように、当日プレイされた10枚中、私にとって採りあげるべき作品が3枚しかなかったこともあった(*2)。だが、今回は何と1枚もなかった。益子が以前に述べていたように、もちろん見解が一致すればよいと言うものではない。しかし、それにしても、なぜ、この選曲で、この配列で、このコメントなのかについては、いったん腑に落ちた上で、しかし、それとはあえて異なる自分ならではの視点を設定する……という、いつもの「了解」の作業が今回は果たせず、頭上に「?」印をおぼろに浮かべたまま、途方に暮れることとなった。
http://miminowakuhazushi.blog.fc2.com/blog-entry-336.html

 今回は現在注目を集める有名ミュージシャンをゲストに招いたため、彼女目当ての参加者も多く、進行役の益子が途中何度も「今日は彼女のトーク・ショーではないので…」と客席をなだめなければならなかった。そうしたざわつきにいらいらして、音に耳が届かなかったのではないか……とも考えたが、やはりそれだけではないように思われた。次回に超注目作Tyshawn Sorey『Pillars』が控えているために、今回はそれとは違う論点を立てようとして、議論が分散してしまったのだろうか……とも思い悩み、そのことに自分なりの見解を出せなくてはレヴューを記すことはできないと考えた。

 そこで話は冒頭部分に戻ることとなる。「タダマス31」よりも随分前に行われた対談で、益子と多田の二人は、揃って「作曲/即興」の二分法の失効について語っている。にもかかわらず、「タダマス31」でゲストに差し向けられる質問のカギとなり、それだけでなく折りに触れて言及され、全体を通しての主要な軸線となっていたのは、紛れもなく、この「作曲/即興」の二分法だった。そこに齟齬が生じるのは当然のことと言えよう。

 振り返れば「タダマス31」の告知記事で、益子はこの回の趣向を次のように記していた。
 「ゲストには、NY在住の挾間美帆さんをお迎えすることになりました。作曲家・編曲家、そして指揮者として、多彩な分野で世界を舞台に活躍する挾間さんは、『即興的瞬間』をどのように捉えているのでしょうか。」
 「即興的瞬間」などという、読者にとって馴染みの薄い語をあえて用いる意図はいったい何なのだろうと、自分のブログに「タダマス31」の告知記事を書き込みながら、いぶかしく思ったことがよみがえった。
 おそらく、「タダマス」が定点観測を続けているNYダウンタウン・シーン(それは決してエリアや人脈、ジャンルを限定するものではなく、彼らが注目するコンテンポラリー・ミュージックのあり方を象徴するものとしてあるのだが)で活躍する、しかも演奏者としてよりも作曲家として活動している挟間美帆をゲストに迎えることにより、「作曲と即興」の二分法の「失効」を現場の感覚で裏付けたいとの狙いがあったのではないか。そう私は想像する。

 だが当日、その目論みは空振りを繰り返すことになる。これは用語法の問題もあったのだろうが、挟間にとって即興演奏は作曲作品の演奏とはまったく別物であり、(録音を)聴くよりはライヴを体験するものであると言う。また、彼女自身の作曲作品の演奏の中で行われる即興演奏については、メンバーを厳選し、演奏特性や作品解釈の仕方が作品の作曲意図に適合するミュージシャンを選ぶと答えている。「彼/彼女がこの部分をどう演奏してくれるか楽しみだ」という調子だ。こうしたことなら、クラシックのオーケストラでも、作品により各管楽器セクションのトップを交替させるといった形で、よく行われている。すなわち、ここで即興演奏とは、作品解釈のプレゼンテーションに過ぎず、楽譜の余白を魅力的に埋めてくれるものでしかない。
 一般に「ジャズ」由来の作曲作品は、即興演奏を当然の、いや必然的な要素と見なす傾向がある。これは「クラシック」由来のゲンダイオンガク系作曲作品が、即興演奏を用いることを「不確定性の導入」手法の一つとして、つまりはゼンエイ的な「実験」として有り難がったのとは異なり、伝統あるいは慣習、ないしはマーケティング上の必要性/必然性としてとらえることができよう。すなわち作曲と即興が演奏の中で同居することは、昔からずっと行われ続けてきた当たり前のこと、それがなくては「ジャズ」ではなくなってしまうことであって、それがなぜなのか、その区分自体がどうなのかといったことは意識されないし、いまさら問題にしてもしょうがないことなのだ。

 だから、あえてこのテーマを挟間にぶつけるのであれば、ケンカを売る覚悟で「なんで作曲家なのに、作品に即興部分を入れるんですか」、「即興演奏が自由でいいのだとしたら、何で作編曲なんてするんですか」と、むしろ「作曲/即興」二分法原理主義者として、ツッコミを執拗に繰り返すべきだった。そこで二分法の失効を明らかにした上で、二つに分けられないとすれば、それはどういう状態としてとらえられるのか。不純物を取り除けないということなのか、効果的な配合があるということなのか、それとも生成の過程で特異点が生じるといった何か特別な事態なのか……と議論を進めることもできたかもしれない(たぶんそんなことはあり得なかったろう。その前に彼女は腹を立てて退席してしまうだろうから)。そこに至ってはじめて「即興的瞬間」といった語も活きてくることになる。

 そのように考えると、ゲストとの互いを慮ったような、何だか煮え切らぬやりとりの繰り返しだけでなく、この日の選曲が共通して「○○っぽい即興演奏の(あるいは作曲作品演奏の)サンプル」であり、その結果としてプログラムが平板化していたのも必然と思えてくる。「タダマス」のプログラムに関し、基本的に聴取に対する演奏の強度で作品や曲を選び、それを配列する際に、そこから浮かび上がってきた「物語」と組み合わせて、適宜取捨選択や入替を行う……と、以前に益子は説明していたが、この日のプログラムは「ゲストの挟間に作曲と即興の関係性について問う」ための「素材」という視点が強過ぎたのではないか。

益子博之×多田雅範四谷音盤茶会(通称:タダマス) Vol.31
2018年10月28日(日) 18:30 start

綜合藝術茶房 喫茶茶会記(四谷三丁目)


ホスト:益子博之・多田雅範

ゲスト:挾間美帆(作曲家/編曲家)

参加費:\1,500 (1ドリンク付き)

今回は、2018年第3 四半期(7~9月)に入手したニューヨーク ダウンタウン~ブルックリンのジャズを中心とした新譜アルバムをご紹介します。

ゲストには、NY在住の挾間美帆さんをお迎えすることになりました。作曲家・編曲家、そして指揮者として、多彩な分野で世界を舞台に活躍する挾間さんは、「即興的瞬間」をどのように捉えているのでしょうか。お楽しみに。(益子博之)


2.「聴かないための音楽」としての即興演奏
 「作曲/即興」の二分法の失効という当たり前の状況認識が理解されないのは、「即興」なるものが、依然として、通常ではあり得ない特別な、それだけで価値のある存在として、排除と崇拝の対象となっているからにほかならない。すなわち「即興」は誰にでもひと目でそれとわかる有徴性を帯びており、場違いなマイナーなものとして抑圧/排除されるからこそ、ゼンエイ的でジッケン的でチ的でゲイジュツ的なものとして高値で取引されるのだ。聖別の原理。

 冒頭に掲げた「タダマス」対談で、益子が「記譜された音楽でも即興性がゼロの音楽って存在し得ないですからね。機械がやるんじゃない限りは。音量が少し変わるとか、音の長さが少し変わるとか、毎回違うわけですよね。だから人間が演奏する限りは即興の余地がない演奏にはなり得ない」と指摘しているように、常にそこに存在しているにもかかわらず、なぜ「即興」が依然として特別扱いされ続けるのかと言えば、もっともらしい顔をして耳を傾けている聴き手の多くが、実は何も聴いていないからに過ぎない。
 それゆえ、譜面が無かったり、わかりやすいメロディやリズムが出てこなかったり、携えた楽器を通常の仕方で演奏しなかったり、本来は楽器ではないものを演奏したり、携えた楽器はそっちのけで何か別のことを始めたりするのが、「即興」のわかりやすい目印で、それをもって先の聴衆たちは「これは即興だ」と理解し、安心して聴くことをやめてしまう。逆に言えば「これは即興演奏ですよ(だから聴かなくていいですよ)」ということを、いかに演奏開始早々、いやステージに登場次第、いや告知の時点から、わかりやすくあからさまに伝えるかということが、「即興」のお約束であり、最大の重要事なのだ。
 これさえ忘れなければ、聴衆は何も聴かずとも「自由」や「可能性」について声高に語り合うことができ、あるいは「やっぱりさ、即興演奏って、うーん、どうなのかな……」と否定的に述べることも出来る。しかも、その場で共通の体験をしたことを暗黙のうちに相互に認め合いながら、ゼンエイ的でジッケン的でチ的でゲイジュツ的なワタシとアナタに共に敬意を払いつつ。
 文学や美術のように現物(の複製)を前にして理解が問われることもなく(だって演奏の痕跡は消え失せてしまって記録も無いから。即興演奏を録音しようなんて即興に対する冒涜にほかならない……とみんな口を揃えて言う。果たしてそうだろうか*)、映画や演劇のように物語や主題の理解を確かめられることもない。何て安全極まりない「みんなが特別なワタシになれる時間」であることか。
*補足
前述の試行錯誤の中でジョン・ケージ関連の書物を読み返したりもしたのだが、そこに次の発言を発見した時は、びっくりすると同時に、大層うれしかったことを記しておこう。
 ジム・オルーク「即興音楽のコンサートなんて行きたくない。(中略)それよりレコードを買うほうがいい。つまり、コンサートでは、この種の音楽を長年考え、試行錯誤してきたひとたちが演奏するのを聴くことになるよね。彼らの演奏がもたらす情報はとても濃密だから、むちゃくちゃ頭がよくないかぎり、その場で起きている思考の流れをすべて把握することなど無理だろうからね。」
【デヴィッド・グラブス『レコードは風景をだいなしにする』(フィルムアート社)p.206】

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ライヴ/イヴェント告知 | 14:37:20 | トラックバック(0) | コメント(0)
足下に口を開ける深淵 ― tamaruの無謀な企て  Dark Depth Gaping at Our Foot ― tamaru's Reckless Attempt
 だいぶ間が空いてしまったが、前稿に引き続き、『阿部薫の冬』を巡るtamaruのツイートに言及したい。

 tamaruは次のように書いている。

 福島さんが述べている疾走展開も魅力的に感じるが、当初思い描いていた「の」の世界は、吐出で外に開かず、内に籠めたまま背景としての共有感が生じるか、というロマン。「冬」テーマで企画するうちに後から降ってきた「阿部」の自分なりの収め方だった。もっと阿部を語らなかったら何が見えていたか。

 ここで「『の』の世界」とは、「阿部薫と冬」ではなく、イベントのタイトルとなった『阿部薫の冬』を指す。対象をそれとして名指すことなく、語らずして背景に浮かび上がらせる。一見不可能と思われるこの企ては、tamaruの本質と深い関わりを持っている。

 誤解を招かぬよう、先にまず言っておかねばならないのは、ここで「名指すことなく」あるいは「語らずして」とは、決して叙述の紡ぎ方や語り口の問題ではないということだ。たとえば主人公たるマクシム・デュ・カンの名を挙げることなく、冒頭から延々と語り継いでいく『凡庸な芸術家の肖像』の蓮實重彦とは。


1.震えの凝視、振動の触診
 これまでこのブログでは、何度となくtamaruの演奏に触れてきた。そこでは私が初めてライヴで見た「演奏」が、映像作品の「上映」だったことも手伝って、常に「震えの凝視」がキーワードとして浮上することとなった。
 それが何物であるかを見極めるために眼を細め、あるいは見開き、視線を凝らすのではなく、むしろそうした判別/弁別を能う限り遠ざけながら、不定形/決定不能に移ろい続ける持続にどっぷりと身を浸し続けること。
 視覚において、滲みやちらつきは脳によりノイズとして排除され、確定不動の輪郭がもたらされる。このことは聴覚においても変わりない。見る、あるいは聴くという行為そのものの中に、本来的/不可避的に含まれている決定不能性/不確定性は、生命を維持するために、あるいは主体の統一性を維持するために排除/抑圧される。
 だが、世界は震えに満ちている。現実世界は揺るぎなく確固として不動/不変を保ち、確定しているにもかかわらず、不確定な揺らぎが生じてしまうのは、対象と受信者をつなぐメディアが、たとえば低解像度である等、世界の豊穣さをとらえるのに不充分だからに過ぎない……と、そう考えるのは間違っている。そうした間違いは、だからここで揺らぎは言わば付加されたエフェクトである……という更なる間違いを呼び寄せ、そこでそうしたエフェクトを施したアーティストの意図の詮索へとめでたくたどり着く。何と言う予定調和。凡百のメディア・アートは、まさにこうした貧しい図式の上に繁茂している。

 対してtamaruはエレクトリック・ベース弦の震えを見詰め続ける。共振共鳴の少ないソリッドのボディの上に張り渡された鋭敏なエクストラ・ライトの弦を、顕微鏡的に増幅度を高めたピックアップがとらえ続ける。しかし、彼は電気増幅され空間に投影される拡大音響だけでなく、すなわち耳だけではなく、弦の振動に爪を短く切りそろえた指先によって、弦の振動に耳を澄ましている。
 彼は弦の振動には、ボディの面に平行、あるいは垂直な揺れだけでなく、弦に沿って螺旋状に走り抜けるものがあるという。弦をZ軸と見立てれば、通常認識されているX軸、Y軸成分の振動だけでなく、撓むことによるZ軸方向の僅かな伸縮を介して、確かにそのような運動が生じているのかもしれない。しかし、彼の言う「走り抜けるもの」とは、そうした座標空間に還元し、分解した各成分を合成して構成できるものではないだろう。それはそのように分離できない触覚的なものなのだ。
 ここで「触覚的」とは、決して指先と弦との触れ合いから産み出されたことだけを意味するものではない。指先が弦に触れ、はじき、あるいは押さえ込まれた弦が「くっ」と離される。するとその瞬間に思った音が出る。tamaruは修練を積んだミュージシャンだ。

 そのとき感じるものが指先を通じて出ていけるようなからだの状態になるというか。対象があって、それに近づいて行くのじゃなくて、ある音を感じる、感じるときにはもうその音が出ている。そういうことが各瞬間に起こっているような、ということかな。(中略)意識までいかないで、フィードバック回路をつくるということ。こういう音を出すためにこういう手の形をするという考え方じゃない。自分の弾いている音が聴こえなくても、こういう音とイメージすればその音が出ていると言うことなのね。意識でコントロールはしないけれども、からだはそのようにフィードバック回路をつくりあげる。それが技術ね。【(対談)浅田彰・高橋悠治「カフカ・音楽・沈黙」より高橋の発言】

 しかし、演奏の現場で起こっているのはそれ以上のことだ。tamaruの指先が産み出した弦の震えは、事前には想定し得ない豊穣さをはらんでいる。そのことが顕微鏡的に拡大された音響により明らかにされる前に、彼は指先によりその振動の襞を触知する。そして再び指先で、指先の横側で、あるいは爪で弦に触れ、より詳細に振動を触診するとともに、新たな振動を付け加え、あるいはミュートによって差し引く。
 眼の前の不定形の広がりから個体偏差を取り除いて種を同定したり、ノイズを除去して輪郭を明確にし、対象をそれと名指したりするのではなく、不定形/決定不能な豊穣さの移ろいをそのままにとらえる。その時、距離を介さない触覚の鋭敏さは、この不定形の広がりを感覚野の視界いっぱいに浮かび上がらせることになるだろう。これこそは、冒頭に引用したtamaruのツイートが描き出すところの当初思い描いていた『阿部薫の冬』のあり方そのものではないのか。
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2.足下に口を開ける深淵
 そのtamaruは、以前に使っていて、その後はずっと押し入れ内に封印されていたエレクトリック・ベースを、最近急に思い立って改造し、何とアコースティック化してしまうという「暴挙」に及んだ。この週末、11月25日(日)にソロ・ライヴ(@目黒・不動前Permian)で初披露されるこの楽器について、勝手に考えてみることにしたい。

 tamaruのエレクトリック・ベース演奏は先に見た通り、共振共鳴の少ないソリッドのボディの上に張り渡された鋭敏なエクストラ・ライトの弦を、顕微鏡的に増幅度を高めたピックアップがとらえるもので、言わば弦の振動だけを見詰め続けるストイックなものである。自身、今回改造の対象としたセミ・ホロウ・ボディのエレクトリック・ベースについて、かつては「鳴りが邪魔」と言って内部にウレタンを詰めたと告白しているから、こうした傾向は以前からあったと言えるだろう。
 ただし、ここで注意しておかなければならないのは、そこに「余剰を取り除いて弦の振動だけを純粋化して抽出する」というような発想は微塵もないことだ。音響派 → リダクショニズム → 正弦波というような盆栽的ダイエット志向は彼にはない。だいたいにして、そのような形で混じりけなしに濾過された弦の振動を取り出したいのなら、純正律に調弦された一弦琴をずらりと並べればよかろう。
 彼における凝視が、むしろそうした純粋さからはみ出しずれていく、微細な肌理や粒立ちを可視化するものであることは、先に触れた通りである。そこで用いられているのが、鋭敏な触覚とともに、電気増幅による顕微鏡的な拡大であることも。

 ここで補助線として、同じく複数の弦を張り渡した楽器であるハープでフリー・インプロヴィゼーションを奏するRhodri Daviesを対照例に引こう。同じくハープの即興演奏者でありながら、弦をサウンドのトリガーと見なすZeena Parkinsと違い、彼は楽器を多様で異質な各部の複雑な構成として取り扱う。多種多様な部分共鳴/共振のアンサンブルとして。各種プリペアドや弓やe-bow等の様々な音具の使用により、各部の差異を際立たせつつ、さらに分割振動や相互干渉を引き起こしながら演奏は進められる。ここで演奏の資源として用いられる「複雑性」が、決してプリペアドや音具の使用といったエクステンデッド・テクニックによって新たに産み出されたものではないことに注意しよう。それは以前から存在していながら、正統な演奏方法によりノイズとして排除/隠蔽/抑圧されていたものなのだ。彼は足下の直下に豊かな水脈を掘り当て、そこから音響を汲み上げている。それはエクステンデッド・テクニックが目指す領土の拡大、水平方向の踏査ではなく、垂直方向の探査の産物である。足下に開けている深淵を覗き込むこと。気がつけば深淵はあちらこちらに不気味な黒い口を開けている。

 Derek Baileyの試みもまた、ギターを拡張(extend)するのではなく、ギターの「運命」である脆弱さ、不安定さを垂直に掘り下げ、そこから汲み上げた、通常の演奏からは排除されてしまう発音のぶれ、音の粒の揃わなさ、ミスタッチ、付随的な演奏ノイズ等をランゲージに取り込むものととらえることができる。それらは外宇宙ではなく、J.G.バラードの言うところの「内宇宙」探査の取り組みなのだ。
 ちなみにBaileyは、少なくともディスコグラフィ上『Solo Guitar vol.1』(1971年)から『Improvisation』(1975年)に至る期間において、エレクトリックで開拓した語法を必ずアコースティックでも達成できるよう、常に試していた。ここでも加工により新たにつくりだすのではなく、すでにありながら埋もれ隠されているものを掘り当て、明るみに出すことが一貫して継続されている。ギターを改造するのではなく、アコースティック・ギターという楽器の元来の輪郭を保持しつつ、その足下を掘り下げて新たな世界を開く、「内宇宙」探査の試み。

 そうしたことを念頭に措いて、言わば「Baileyの耳を通して」聴くならば、ありとあらゆるギター演奏に「ベイリー的瞬間」を聴き取ることができるだろう。演奏者も数多の聴衆も何事も無かったように通り過ぎて行く何気ない瞬間に、黒い深淵が口を開けている。フリー・インプロヴィゼーションとは、この深淵を通り過ぎることができず、否応無くつまずき、はまり込んでしまう歩みにほかならない。それは一種の脱構築(deconstruction)でもある。

 さて、ここでtamaruの楽器に眼を転じると、単にエレクトリック・ベースの電気回路を抜いて、中身を中空にしたのみならず、背面に大きな木製のボウルが取りつけられ、また前面には幾つもの丸い開口部が設けられていることがわかる。試行錯誤の結果であろうし、tamaru自身、これからどんどん変わっていくかもしれないと言っているが、興味を惹かれる形状である。ボウルの取り付けは、内部の共鳴空間のヴォリューム拡大を図ったものと考えられるが、演奏が難しく、現地でもあまり見かけないというインドの民族楽器ルドラ・ヴィーナを思わせるところがある(あのような極端な共鳴は引き起こさないだろうが)。密度の高い硬そうな材質は音をよく反射し、ドーム状の曲面の導入も手伝って、前面の開口部から音を前方へ押し出す効果があるのではないか。と同時に「受信機」としてのパラボラ・アンテナを内蔵しているようにも見える。
 いずれにしても、Rhodri Daviesのハープとは異なり、各部が別々に鳴らし分けられるのではなく、各部が緊密にアンサンブルした総体として鳴り響くこととなるだろう。それは決して弦の振動に筐体の共鳴が付加されたものではなく、指先の操作による振動が多方向に駆け抜け、隅々まで波及していくその都度ごとに、音は流動的な移ろい/変容として立ち現われてくるだろう。Permianの音を減速あるいは濾過することなく、聴き手の身体に直接ぶつけてくる空間特性は、この楽器にふさわしかろう。その演奏がどのようなものになるかは、もちろんまだわからない。しかし、tamaruのエレクトリック・ベース演奏でも随所に垣間見えた、前述の「深淵の開けた黒い口」が、アコースティック・ベース・ギターの演奏では、さらに度合いを増して、まざまざと迫ってくるのではないかと予感している。
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3.足下に開ける深淵【なくもがなの余録】
 この「何事も無かったように通り過ぎて行く何気ない瞬間に口を開けている黒い深淵」だが、思い出すエピソードが二つある。ひとつは子どもの頃にTVで観た特撮番組『キャプテンウルトラ』の最終回で、主人公たちがとある惑星の地表の割れ目を覗き込み、その深さを計測したロボットが「無限大です」と騒ぎ出し、その割れ目が外宇宙につながっていることがわかるシーンだ。今となっては他愛無い話だが、すでに宇宙好きだった7歳の子どもにとって、見上げた空に輝く星の彼方ではなく、足下に口を開けた割れ目の向こうに無限の宇宙が開けているという「転倒」は、ざわざわした不安感とともに強い印象を刻むこととなった。
 もうひとつは、中学生の頃に家にあった一松信『数のエッセイ』で読んだ数論のエピソードで、軍団の並び直しの問題である。兵隊が正方形に並んだ軍団がx個あり、それに総大将の王1人を加えて並び直したら、大きな正方形が出来たとして全体の人数を求めるもの。与えられた問題ではx=61なのだが、これが60だとすると961人、62だとすると3969人になるが、その中間の61だと何と3119882982860264401人というあり得ないほど巨大な数になってしまうと。整数問題だから解が不連続になるのは当然なのだが、これもまた、世界の何気ない隙間に魔が潜んでいるとの不穏な印象を刻むこととなった。ちなみに、この問題は有名な「アルキメデスの牛」の問題を説明する際のオマケとして紹介されていた。これは、アルキメデスが友人に宛てた手紙の中に詩の形で記された問題で、ある条件を満たす家畜の牛の頭数を求めるものなのだが、何とその解は20万桁以上に及ぶ超々巨大な数となる。
 こうしたことが、後にフリー・インプロヴィゼーションを熱心に聴き始める遠因になっているかどうかはわからない。たぶん関係ないだろう。だが、この「すぐそこに口を開けている深淵」の感覚は、例の「即興的瞬間」と、きっとどこかでつながっているのではないかと感じている。

tamaruのエレクトリック・ベースによる演奏については、以下で論じている。ご参照いただきたい。
http://miminowakuhazushi.blog.fc2.com/blog-entry-434.html
http://miminowakuhazushi.blog.fc2.com/blog-entry-435.html

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2018年11月25日(日) 20:00~
目黒・不動前 Permian
品川区西五反田3-14-4 KakutaniレイヴァリーB1
http://www.permian.tokyo/

tamaru(acoustic bass guitar)ソロ
杉本拓(guitar)ソロ




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