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福島恵一

Author:福島恵一
プログレを振り出しにフリー・ミュージック、現代音楽、トラッド、古楽、民族音楽など辺境を探求。「アヴァン・ミュージック・ガイド」、「プログレのパースペクティヴ」、「200CDプログレッシヴ・ロック」、「捧げる-灰野敬二の世界」等に執筆。2010年3~6月に音盤レクチャー「耳の枠はずし」(5回)を開催。2014年11月から津田貴司、歸山幸輔とリスニング・イヴェント『松籟夜話』を開催中。

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タダマス、周期律表を原子番号1の水素から29の銅まで暗記する  "TADA-MASU" Memorize the Periodic Table from Atomic Number 1 (Hydrogen) to 29 ( Copper)
 前回までに28回を踏破し、7年目という大きな節目を乗り越えた「四谷音盤茶会(通称『タダマス』)」は、いよいよ新たな次元に踏み出そうとしている。ホストを務める益子博之は今週末に迫った次回『タダマス29』について「なんと前半は女性ヴォーカル特集」とFacebookでひっそりつぶやき、一方、相方の多田雅範は「現代ジャズシーンを特集する雑誌」の長時間取材に先日応じたばかりだ……と自身のブログで告白している。

 さらに多田はブログで次のように述べている。
 「それまで Jazz / Improv としてきた脳内が improvised jazz と統合されたパラダイムシフトによって感覚が変容したのであろうか、モチアンとプーさんがいなくなってからどうもなあチャーリーパーカーでさえ引き出しフレーズ連射にしか聴こえなくなってねえサウンドの風景はちっともインプロしてないじゃないかと与太をかますばかりになっている、」

 『タダマス』に通い始めた最初のうちは、一瞬で「ジャズ」出自とわかるサックス・ソロほとばしる演奏が、「完全即興」あるいは「フリー・インプロヴィゼーション」と呼ばれていることに強い違和感を覚えた。当時の私は、コンポジションとインプロヴィゼーションの間に線を引くだけではなく、イディオム的なインプロヴィゼーションと非イディオム的なそれの間にも越えがたい深い溝を見ていた。デレク・ベイリーの提唱したように、イディオムの枠内に閉じこもらない非イディオム的なインプロヴィゼーションこそが、演奏コミュニティを前提としない開かれた演奏、「フリー・ミュージック」としか呼びようのない新たな音楽のかたちを描き出し得ると、さして疑いもなく信じていた。
 それゆえ、たとえ演奏がサウンドの質感、特にサウンド・マチエールに焦点を合わせ、聴くことに潜む触覚的側面を顕微鏡的に拡大した音響的な交感や「物音」インプロヴィゼーションへと踏み出していたとしても、それが所詮は表面的な装飾だったり、「余白」や「余興」に過ぎず、本筋/本気の演奏は「ジャズ」の地平に立ち戻って行われるのであれば、何故にそれを「ジャズ」ではなく、フリー・インプロヴィゼーションと呼ばねばならないのだろうかと訝しく思っていた。

 しかし、その後も『タダマス』に通い続けたのは、やはりそこに何かが開けている感覚があったからにほかなるまい。毎回かかる未聴の音源に耳をなぶられ、翌朝になっても身体に残る(いや一層明らかとなる)まるで打ち身のようなずきずきとした痛みを、毎回、言葉へと引き渡していくことを続けているうちに変化が生じてきた。自分にとって確固たるものと思われていたフリー・インプロヴィゼーションの輪郭が揺らぎ、薄れ、溶解しはじめたのだ。
もちろんそれは『タダマス』だけの「効能」ではなく、たとえば田中珉との共演の録音である『Music and Dance』を通じて、ベイリーの放つ音が耳をつんざく周囲の環境音に叩きのめされるのを聴き、あるいはミッシェル・ドネダのソプラノが踏まれた草の茎が折れる音や枝葉のざわめきに身を沈めていく様に耳を澄まし続けたことの結果でもあるだろうし、フランシスコ・ロペスやジル・オーブリーによるフィールドレコーディングのうちに、決して作曲者/演奏者/制作者の意図には還元することのできない、豊かなざわめきや振動する生成を探り当て、それがベイリーやドネダの音世界と強力に結びついたことの産物でもあるだろう。

 いまやインプロヴィゼーションとは、イディオムの有無どころか、作曲やあらかじめ記された譜面の有無にすらかかわらず、あらゆる瞬間に潜在するもの/力能となった。「即興的瞬間」と呼ぶ所以である。これまでの『タダマス』音源において、こうした演奏のあり方を象徴するものとして強く印象に残っているのは、やはり菊池雅章『Sunrise』だろうか。

 しんと張り詰めた闇から、その闇をいささかも揺らすことなく、月光に照らし出された冷ややかな打鍵がふと浮かび上がり(吐息が白く映るように)、響きが尾を引いて、束の間、闇の底を白く照らし出す。重ねられた音は「和音」と呼ぶべき磐石さを持たず、宙に浮かび、そのまま着地することなく消えていく。それとすれ違いにブラシの一打が姿を現す。音は互いに触れ合うことなく、一瞥すら交わさずに、黙ったまま行き違う。
 ピアノ自体も同様に、次に現れた打鍵は先に放たれた打鍵と音もなくすれ違う。両者の間を線で結ぶことはできない。間を置いて打ち鳴らされる音はフレーズを編み上げない。そこに受け渡されるものはなく、ただ、余韻だけを残して現れては消えていく音。その只中に突き立てられたベースの一撃が、それらがやがて星座を描くかもしれないとの直感を呼び覚ます。
 ジャン=リュック・ゴダール『気狂いピエロ』冒頭のタイトル・クレジットは、クレジットの各単語がそれを構成するアルファベットの単位に分解され、A・B・C‥‥と順に映し出されていく。だが、そうした「コロンブスの卵」的な単純な仕掛けに気づいたのは、始まってしばらくしてからで、最初のうちはそれがクレジットであることにすら気がつかず、モールス信号を思わせる離散的な配置で、赤い布石や青の石組みが、間を置いてすっと画面に現れていくのを、はらはらしながら、ただ黙って見詰めていることしかできなかった。原色によるフォントのオフビートな明滅に、観ている自分が次第に照らし出されていく感覚がそこにはあった。『Sunrise』冒頭曲の始まりの部分は、その時の張り詰めた気分を思い出させる。
 出来上がりの絵柄に向けて(彼らは寸分違わず同じ「景色」を見ている)、各演奏者が一筆ずつ、セザンヌにも似た矩形の筆触を並べていく。その順序は決してものの輪郭に沿っているわけではなく、連ねられて線を描くわけでもなく、まさにゴダール『気狂いピエロ』冒頭の、あの明滅の感覚で筆は置かれていく。もちろん音は虚空に吸い込まれ、スクリーンに映し出されるフォントのように積み重なることがない。しかし、それでも消えていく余韻を追い、それとすれ違いに現れる次の音の響きを心にとどめることを繰り返せば(通常これはゆったりと引き伸ばされた旋律を追う時のやり方だが)、ピアノの打鍵、ドラムの一打、ベースの一撃が互いに離散的な網の目をかたちづくりながら、それをレイヤーとして重ね合わせている様が見えてくる。
 「網の目」と言い、「レイヤー」と言い、いかにも緊密な組織がそこにあるように感じられてしまうとしたら、それは違う。繰り返すが、音はフレーズを紡ぐことがない。別の言い方をすれば、閉じたブロックを形成しない。ピアノの、ドラムの、ベースの、それぞれ先に放たれた音とこれから放たれる音の間は、常に外に向けて風通しよく開かれていて、幾らでも他の音が入り込めるし、実際入り込んでくる。しかし、そこでは線が交錯することはない。もともと彼らは線など描かないからだ。
ここで菊地たちは先に述べたように寸分違わぬ同じ「景色」を眺めながら、「同期すること」の強度を究めようとしていると言えるだろう。【同じ景色を見詰めること―菊地雅章トリオ『サンライズ』ディスク・レヴュー(※)】
※http://miminowakuhazushi.blog.fc2.com/blog-entry-170.html

 ジャズが痛いほどに「しん」と透き通り、白く光る骨や薄青い血の流れが浮かび上がり、眼前を横切るインプロヴィゼーション。『サンライズ』がかかったのは『タダマス5』の時だから、もう6年も前のことになるのか。

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 津田貴司と続けてきたリスニング・イヴェント『松籟夜話』(その発想の源のひとつは、もちろん『タダマス』である)がめでたく10回を迎えたところで、これまでの成果を振り返りつつ文章にまとめようとして、ずっと苦労している。各回、いずれもかなり深いところまで潜れた手応えがあるのだが、それをなかなか言葉にできない。
 その津田やtamaru、大上流一や高岡大祐の演奏を最近ずっと追いかけてきて、こちらも演奏の豊かさを、距離を隔てた視点から凝視し克明に記録するのではなく、あるいは音へと身を投じ響きに溺れてまぐわうのでもなく、両者を往還し包摂して聴くことの「厚み」がようやく触知できてきたように思うのだが、こちらもそれを叙述できない。
 困り果てて、何かヒントはないものかと手当たり次第に本のページを繰っているうちに、次のようなくだりに行き当った。

 「アンリ・ミショーは、クレーの色はまるで緑青や黴が『しかるべき場所に生えてくる』ように、原初の奥底から発生し、ゆっくりとカンヴァスのうえに生まれくるように思われるときがある、と語っている。芸術は構築、技法、空間と外部世界への技巧的関係ではない。それはまさしくヘルメス・トリスメギストスが『光の声に類似した』と言った『不分明な叫び』である。そして、その叫びはいったん発せられると、日常の視覚のなかに、ひっそりと眠り込んでいた〔物質化される以前の〕先在的諸力を呼び醒ます。水の厚みを通してプールの底のタイル床を見るとき、私は水や水面の反射にもかかわらずそのタイル床を見るのではなく、まさに水や反射を通して、水や反射によって見るのである。」【モーリス・メルロ=ポンティ『眼と精神』 富松保文訳】

 「さらに言えば映画においては、画面が一つの意図に収束することなど皆無であり、むしろ意図せぬ様々な細部が映りこんでしまっているものこそ、フィルムなのだ。(中略)蓮實重彦は、それをよく『フィルム的現実』『複数の要素の同時共存の場である映画』と形容していた。まさに『フィルム的現実』に寄り添うために、ひたすらスクリーン上にある光と音に身を晒し、視界を横切る運動、網膜の奥を突く光の明滅、脳髄を刺激する音声の抑揚……つまりは、現在進行形のすべての刺激に、無媒介的にオープンであり続けること。作者がどんな意図でそれを作ったのかは『どうでもよろしい』わけで、フィルムが映写機にかけられるより《過去》の出来事(作品の制作)と、フィルムが映写されている《現在》を切り離すことこそ、映画批評であるべきスタンスではないか、とずいぶん早い時期より看破していたのではなかろうか。」【舩橋淳「蓮實重彦/峻厳な切断」 『ユリイカ』2017年10月臨時増刊号「蓮實重彦」】

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「汀」 原田正夫


 言葉を書きつけ、そこに何かを引き渡し、委ねる。思考を外化することの利点は、それを「対象」として分析・操作できることにあるが、無論ご利益はそれだけではない。考えに行き詰ったことがあるものなら誰でも身に染みて知っているように、場所を明け渡し空っぽにすることにより、煮詰まった脳内にスペース(余白、隙間)が生まれるのだ。これにより強迫的な堂々巡りが止んで、鬱血/硬直していた思考がまた柔らかく揺らぎ始め、違う風を感じ、新たな香りに鼻をうごめかし、別のことに思いを巡らすことができる。
 『タダマス』は思考を触発し、何より言葉を誘う。それは確かな耳が選び取った強度に満ちた演奏のためかもしれないし、思いがけぬ類似を浮かび上がらせ、あるいは対比を際立たせる趣向を凝らした構成/配列のためかもしれないし、紹介される音源がすべてパッケージされた録音作品からの抜粋であるという共通の枠組みのためかもしれないし、あるいはやはり多田の予測不能に疾走するボケと益子の鋭く乾いたツッコミ、その外側を衛星のように巡りながら異なる視点を提供するゲスト、それぞれの眼差しや表情の雄弁な交錯と変化、そしてもちろん言葉が多方向から衝突/散乱し、さらにそれを取り巻く参加者が思い思いの方向に乱反射させるためかもしれない。

 この週末、4月22日(日)は『タダマス29』に行って、そこで一期一会の音との邂逅に身を沈め、一瞬ごとの「現在」に集中し、その残響を言葉へと譲り渡すこととしよう。そうすればいい加減慢性化した脳髄の腫れも引いて、その隙間に、別の角度から新たな光が射し込むかもしれない。

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益子博之×多田雅範=四谷音盤茶会 vol. 29
2018年4月22日(日) 
open 18:30/start 19:00/end 22:00(予定)
ホスト:益子博之・多田雅範
ゲスト:則武 諒(ドラム奏者)

今回は、2018年第1 四半期(1~3月)に入手したニューヨーク ダウンタウン~ブルックリンのジャズを中心とした新譜CDをご紹介します。
ゲストには、ドラム奏者の則武 諒さんをお迎えすることになりました。バークリー音楽大学出身で、ストレート・アヘッドなジャズから即興音楽まで幅広い領域で活躍される則武さんは、現在のニューヨークを中心としたシーンの動向をどのように聴くのでしょうか。お楽しみに。


 すでにお気づきと思うが、上に前掲している『タダマス29』のフライヤの写真素材は、中ほどに掲載している原田正夫「汀」にほかならない。「汀」はFacebookに投稿された写真だが、本作に先立って投稿されたコンクリート壁面のペンキ跡だという写真(氷が張った上に薄雪が積もった水面を覗き込んでいるようにしか見えない)、そして本作に続く「潬」と題された写真と共に、実際には存在しない奥行き方向(前後/浅深)に行きつ戻りつ視線が揺さぶられる感覚に魅了されるとともに、先に挙げた津田貴司やtamaru、大上流一や高岡大祐の演奏に感じた透明・半透明な層/厚み/深さの感覚との共振ぶりに驚かされた。白川静によれば「潬」のつくり部分は、壺状の器中にものを満たしているかたちを示し、長期にわたって味付けし、醇熟する意味であるという(うまい、ふかい、おおきい)。これにさんずいが伴う「潬」は水に関連し、「ふかい」、「ふち」を意味する。この感覚がメルロ=ポンティの指差す「プールの底のタイルの床」や蓮實の言う「複数の要素の同時共存の場である映画」(それは決してスクリーンという同一平面上の並置ではなく、パン・フォーカスな奥行きの中での共存、あるいはフォーカスや画面の枠からも外れた中での共存をも含んでいよう)に私の指先を立ち止まらせたのだろうか。
 しかし、それにしても、何と不可思議なシンクロニシティであることか。







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ライヴ/イヴェント告知 | 23:15:11 | トラックバック(0) | コメント(0)
はるか前方を疾走する自分の見知らぬ背中  Unfamiliar Back of Myself Running Fast Far Ahead
 前回掲載の「タダマス28」の案内記事に対し、ホストのひとりである多田雅範が、自身のブログで素早く鋭いリターンを返してきた。
 http://www.enpitu.ne.jp/usr/bin/day?id=7590&pg=20180125

 冒頭からいきなり、思っても見ない方向から球が飛んでくる。

 タダマス(益子博之+多田雅範)、7年、これだけ性格も耳の特性も女性の好みもチガウ二人が一度も仲違いせずに、耳の経歴も愛聴曲もチガウ二人が、こと現代ジャズに関しては”ほぼ一致した見解に”到達し続けていて、それが世界のメディアやジャーナリズムとほぼ同じ風景となっていることは、「亀戸ホルモンたべてえなあ」「月光茶房いつ行こうか」とだらだらしている不良中年二人のユルさからは想像もできないくらい、すごいことなのではないのか、

 ‥‥って「自慢するのはそこかいっ」と、思わずモニターの前でツッコミを入れてしまい、まんまと多田の術中にはまってしまう。


 打ち合わせで益子さんちで新譜チェックをしていると、ああこの人は音楽の神さまに選ばれているなと思う、畏怖さえ感じることがある、つまりはタダマス四谷音盤茶会とは益子セレクトそのものが批評なのだ、どうやって知ったの、どうしてこの曲なの、これは何の音なの、矢継ぎ早に質問をしてはオレは手にしていない耳の着眼点を探ってゆく、

 ‥‥と多田の書き込みは続く。最後の部分に注目。彼は矢継ぎ早に質問を発する。だがそれは「(彼がまだ)手にしていない耳の着眼点」を探るためであって、聴取の体験を音源に関する情報の束に還元するためでは決してない。ここで質問を発した彼は、答を待つ彼の身体を置き去りにして、発せられた質問を追いかけて疾走しているのだと思う。次々に発せられる質問は、多方向に伸びていくセンサーの触手であり、ここぞという箇所にたどり着いては、深々と探査のためのゾンデを挿し込み、内部のうごめきを聴診する。

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 「集まって聴く、と、音楽は様相を変える、のは、スピーカーや空間特性のせいだけじゃないだろう」(多田雅範)。
  ”それは人目を気にするとか、「同調圧力」などとは異なる。他の者が同じ対象を注視していると肌で感じながら聴くことにより、音の出し手と受け手の1対1幻想が崩れ、対象への自分勝手な自己投影が成立しなくなる。聴取はナルシスティックに自己完結せず、不安定に移ろいながら開かれることとなる(映画館がなぜ今でも館内を暗くし続けているのか考えてみよう)。”(福島恵一)

 ‥‥と私の記述を引用しながら、多田は次のように高らかに宣言する。

 オレの武器は「1対1幻想」に属する比率がべらぼうに高いところ、何たって音楽は人格だからね、その、独りで聴いている感想、が、タダマス会場では一瞬にして消失してしまい、まるで初めて聴いたかのような体験に晒されているような感覚になって、何かを口走っているようなのだ、ワタシはそのワタシを後方から眺めているに過ぎない、ってカンジ、

 ここで「タダマス」の場は、「1対1幻想」という強力極まりない認識・思考の制度を解体・無化してしまう空間として描き出されている。これは通常のレクチャーが暗黙の前提としている「教室型」の空間スキームとは正反対だ。「教室型」では正解はただひとつであり、それは「教師」が隠し持っている。正解の愉悦も、不正解の落胆も、正解にたどり着いたと信じる者たちの交わす親密な目配せも、逆にたどり着けていない者たちがあからさまに共有する床に落とされた視線と丸まった猫背も、この秘匿された正解のもたらす権威の産物にほかならない。
 しかし「タダマス」では、普通なら正解を背中に隠し持っているはずのホストが、「まるで初めて聴いたかのような体験に晒されているような感覚になって、何かを口走って」しまう。そのイタコの口寄せにも似た託宣は、初めて聴く音に触発されて各参加者の脳内に生じた不定形の思考を、さらに励起し解き放つことになる。多数の「1対1幻想」を束ねて、安定した「1対多幻想」のピラミッドを築くのではなく、「1対1幻想」からそれていくクリナーメンの運動を活性化し、錯綜する「雲」をつくりだすこと。

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 「タダマス」での「託宣」について多田はFacebookにこう書き込んでいる。「直前まで思ってもみなかったことを言っているなあと思うことがある」
その時、「直前まで思ってもみなかったことを言っている私」は、「直前まで思ってもみなかったことを言っているなあと思う私」のはるか前方を疾走しているのだ。矢継ぎ早に為される質問の射出速度よりも速く。次の瞬間、はるか遠くに小さく揺れていた見知らぬ背中が突然大きくなり、眼前に迫ったかと思う間もなく私の輪郭と重なり合い、いまここに座っている。益子が次の曲の紹介を始めている。「タダマス」はまだ終わらない。

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ライヴ/イヴェント告知 | 00:11:26 | トラックバック(0) | コメント(0)
タダマスは1月28日に28回目を迎える  " TADA-MASU " will mark the 28th on 28th January.
Iago ; I have looked upon the world for four times seven years. "Othelo"
Alice ; Let me see: four times five is twelve, and four times six is thirteen, and four times seven is–oh dear! I shall never get to twenty at that rate! "Alice in Wonderland"
TADA-MASU ; Yotsuya Tea Party will mark the 28th on 28th January.


 益子博之と多田雅範のナヴィゲートによるNYダウンタウン・シーンの定点観測「四谷音盤茶会(通称「タダマス」)」は、この1月28日に奇しくも28回目を迎える。第7シーズンの完了に伴い、2017年のベスト10が紹介されることだろう。前回は惜しくも参加できなかったのだが、採りあげた作品の充実ぶりが半端なかったとのことなので、今回のベスト10振り返りの中で、その一部を耳にできるのではないかと期待している。

 アルゼンチンの音楽サイト El Intrusoの国際批評家投票(*1)やポルトガルはコインブラに拠点を置くJazz ao Centro Clubeの選出(*2)に納得こそすれ、全然違和感を覚えないのは、Vijay IyerやTyshawn Soreyをはじめ、「タダマス」で聴き慣れた(しかし、なぜか他の日本語記事では眼にすることが少ない)名前がずらりと並んでいるからにほかならない。「世界標準」というと、何やら拝外主義的かつグローバリゼーション礼賛風で恥ずかしいが、視野狭窄/自家中毒に陥らぬよう、押さえるべきは押さえておいて悪いわけがない。しかもそれだけでなく、複数の耳の視点からの議論にさらされればこそ、新たに見えてくるものもある。
「集まって聴く、と、音楽は様相を変える、のは、スピーカーや空間特性のせいだけじゃないだろう」(多田雅範)。
それは人目を気にするとか、「同調圧力」などとは異なる。他の者が同じ対象を注視していると肌で感じながら聴くことにより、音の出し手と受け手の1対1幻想が崩れ、対象への自分勝手な自己投影が成立しなくなる。聴取はナルシスティックに自己完結せず、不安定に移ろいながら開かれることとなる(映画館がなぜ今でも館内を暗くし続けているのか考えてみよう)。
*1 http://elintruso.com/2018/01/05/encuesta-2017-periodistas-internacionales/
*2 https://jazz.pt/artigos/2017/12/26/melhores-de-2017/


 益子による口上を以下に転載する。

今回は、2017年第4 四半期(10~12月)に入手したニューヨーク ダウンタウン~ブルックリンのジャズを中心とした新譜CDと、2017年の年間ベスト10をご紹介します。
ゲストには、ギター奏者の加藤一平さんをお迎えすることになりました。ストレート・アヘッドなジャズからエレクトロニックな即興まで幅広い領域で活躍される加藤さんは、現在のニューヨークを中心としたシーンの動向をどのように聴くのでしょうか。お楽しみに。(益子博之)

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益子博之×多田雅範=四谷音盤茶会 vol. 28
2018年1月28日(日) 
open 18:30/start 19:00/end 22:00(予定)
綜合藝術茶房 喫茶茶会記(新宿区大京町2-4 1F)
ホスト:益子博之・多田雅範
ゲスト:加藤一平(ギター奏者)
参加費:¥1,300 (1ドリンク付き)




ライヴ/イヴェント告知 | 22:34:44 | トラックバック(0) | コメント(0)
タダマス ピアノ協奏曲第27番(モーツァルト作曲)を弾く  "TADA-MASU" Plays Mozart-Piano Concerto No. 27 in B flat Major KV 595
 本日、10月22日(日)に、益子博之と多田雅範がナヴィゲートするNYダウンタウン・シーンを中心にしたコンテンポラリー・ミュージックの定点観測「四谷音盤茶会(通称「タダマス」)」は通算27回目を迎える。
実は今日、どうしても駆けつけなければ気が済まないライヴ(前回レヴュー中で告知した大上流一、外山明、徳永雅豪によるトリオ@Ftarri水道橋)が出来てしまい、行けなくなってしまった。第10回に続く2回目の欠席である。残念。だが、26回中25回という出席率(=96%)は、自分で言うのも何だけど、かなりなものだと思う。そもそも私はいったい何の理由で、これほどまでに「タダマス」に入れあげ、通い詰めているのだろうか。

 もちろん、益子と多田の耳を高く評価しているということがある。それはこれまでの「タダマス」告知で繰り返し述べてきたことだ。だが、それだけではない。彼らが選び取る音盤や聴取体験に向けて放たれるコメントが、私にとってとても重要かつ切実なものであるのは、それが単に質が高いからではなく、私が探求したい、どこまでも掘り下げ、その核心を刺し貫きたいと念じている「即興演奏」という事態に、まったく別の角度から光を当ててくれるからにほかならない。
 ここで即興とは「あらかじめ準備していない」とか、「譜面に書かれていない」などと言うことは意味しない。クラシックの作曲作品のように、しっかりと楽譜に書き込まれた音楽でも、演奏においては即興的瞬間が忍び込まざるを得ない。それらによる揺らぎを、「作曲者の意図」に対する「演奏者の解釈」という写像関係においてとらえ、そこからはみ出る部分はノイズとして排除してしまうというのが、通常の作曲作品演奏に対する姿勢であり、この制度は、作曲者>演奏者>聴取者という階層を確固たる前提とし、これを保持するのに貢献している。

 今でこそ、こうした「即興」観に至っているが、かつてはフリー・インプロヴィゼーションの世界にその先端が存在し、その先にこそ可能性が開けていると考えていた。だが、音盤レクチャー「耳の枠はずし」で「フリー・ミュージックのハードコア」を採りあげた際に、デレク・ベイリーやミッシェル・ドネダのすぐ傍らに、フィールドレコーディングの照らし出す生成する音響環境が開けていることを知った。例えばベイリーなら『Music and Dance』で、演奏の足元を洗う交通騒音、空間に潜む田中珉の気配、それらをもろとも覆い隠してしまう激しい雨音に対し、それらを排除して「汚染されていない純粋な」ギターの音を復元するのではなく、それらを通して、それらと共にギターの響きを聴くこと。そしてドネダなら『Montagne Noire』で踏み込んだ野山において、掻き分けられる草の繁みや足下で折れる枯れ枝の立てる音と入り混じり、相互に浸透しあうソプラノ・サックスやパーカッションの響きに耳を傾け、音景の生成に浸ること。

 フリー・インプロヴィゼーションとフィールドレコーディングをシームレスに聴いていくことは、その後に津田貴司、歸山幸輔と始めたリスニング・イヴェント『松籟夜話』において、「即興・環境・音響」というキーワードにより掲げられることになる。その時にモデルとなったのが「タダマス」だった。音盤を聴きながら、掛け合いで話していくというスタイルももちろんだが、「現代ジャズ」に空間や響き、触覚や揺らぎを、積極的に聴き取っていく姿に、いかに触発され、勇気づけられたことか。
 誤解のないように付言しておけば、「タダマス」でかかる音盤を「現代ジャズ」とくくってしまうのは、あまりにも乱暴だ。例えばタイション・ソーリーの作品には、モートン・フェルドマン的な要素が多分に含まれている。彼をはじめ、「タダマス」に繰り返し登場するミュージシャンたちが言うように、コンテンポラリー・ミュージックとだけ呼んでおけばいいのかもしれない。しかし、にもかかわらず、それらの音楽がジャズ由来の要素を多く擁していることも確かだろう。そして、かつてのジャズの録音は(ECM等を例外として)音場や空間に注視を向けることはなかった。ジャズにおいてまず聴くべきは個々の演奏者のかけがえのないヴォイスであり、それはすなわち(ソロイストの)楽器の音にほかならないのだから、それは当然のことと言うべきだろう。しかし、にもかかわらず、益子や多田の耳は時代の変容をとらえ、空間や響きに焦点を合わせたのだった。最近、ジャズ再興が声高に語られるが、益子や多田のような認識の転換に至り、耳の視線を切り替えることのできた聴き手は少ない。


 津田貴司が、Facebookに「即興」について次のような書き込みをしている。

 「即興」というときに、ほとんどの演奏者は、互いに向かい合ってそろそろと歩み寄り、やがてがっちりと互いの襟首か帯をつかんで組み合う「格闘技型」か、同じ方向を向いてありうべき全体像の中で自分のポジションを獲得し、その中で程よく目立ちながら破綻を来さないように振舞う「組体操型」に陥る。
 しかし、そうした「即興演奏の型」(それ自体が語義矛盾だ)が成立するのは、演奏者が共通認識として「音楽」という制度を頑なに信じ、その制度に基づいて互いに「合わせる」ことを尊んでいるからにすぎない。「即興」は、そうした制度を内部から瓦解させる野性の試みであったはずではないのか。
 そのように形骸化した「即興」に背を向け、演奏者が互いに我関せずとばかりに周囲に野性のアンテナを張り巡らせるとき、これから始まるのは格闘技でもなく組体操でもなく、聴取者にとっては未知の深海生物の様子を観察するような事態が立ち現れるはずだ。
 「即興」に関するこの考察、以前ftarriで森重靖宗さんと大上流一さんのデュオを聴いたことからヒントを得ている。自分の演奏を見直すきっかけにもなった。

 私には、津田のこの「即興」観が、高岡大祐の「釣り哲学」(というと彼自身は嫌がるだろうが)と緊密に響き合っているように思える。

 人は釣りといえば「待つもの」だと思うようだが、僕がやる釣りは全く待たない。とにかく忙しい。 道具は最小限で最小ならウエストポーチ一つで大きなクロダイやスズキも狙える。その場に合わせて仕掛けを作り直し、環境の変化による魚の食性を読み、釣りは釣り以外のことをやるほうが良く釣れる。ボーっと待ってるのは誰だって苦痛だ。
 要はどこに魚がいるか、どうやってその魚の口に鈎をかけるか。それだけだ。見えない水の中を、考え尽くすのだ。
 入り口は「ヘチ釣り/落とし込み」。 主に黒鯛を釣る方法で、全く投げない。魚は障害物につくので足元にたくさんいる。 最初は信じられなかったけど確かにいる。後はどの深さにいるか、つかめばいい。
 最終的にはそれらを含む「脈釣り」全般の釣り人となった。ウキなどを使わない、竿、糸、オモリ、鈎、餌。全感覚を集中してそれらの変化を、まさに脈を取るように感知して釣り上げる。

 イディオムによる閉域を生み出すことのないノン・イディオマティックなインプロヴィゼーションを掲げ、複数の音を結びつける線(それこそがメロディ、リズム、ハーモニーを仮構する)を、多方向から交錯/散乱する音響のつくりだす束の間のコンステレーション(星座)へとさらさらと崩し去っていくデレク・ベイリーDerek Baileyの演奏。『Improvisation』(Cramps 録音1975年)で彼は、当初はエレクトリック・ギターのペダル操作によるステレオ効果で得ていた成果を、アコースティック・ギターによるちょっとした「ほのめかし」により達成している。アクション自体のカタログは厳しく絞り込まれ、代わりに無限のニュアンス、徴候、暗示、素早い参照、一瞬のうちに引かれすぐまた掻き消される照応の線等が導入される。

 それを聴き取ることができるのは、未知の深海生物の様子を観察するために張り巡らされた「野生のアンテナ」であり、ウキなどを使わずに、竿、糸、オモリ、鈎、餌。全感覚を集中して、それらの変化をまさに脈を取るように感知して眼に見えぬ水底を探る「脈釣り」であり、空間や響き、触覚や揺らぎを積極的に聴き取る「タダマス」の耳にほかならない。

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益子博之×多田雅範=四谷音盤茶会 vol. 27
2017年10月22日(日) 
open 18:30/start 19:00/end 22:00(予定)
四谷三丁目綜合藝術茶房喫茶茶会記
ホスト:益子博之・多田雅範
ゲスト:田中徳崇(ドラム奏者)
参加費:¥1,300 (1ドリンク付き)

 今回は、2017年第3 四半期(7~9月)に入手したニューヨーク ダウンタウン~ブルックリンのジャズを中心とした新譜CDをご紹介します。
 ゲストには、ドラム奏者の田中徳崇さんをお迎えします。シカゴでの10年に及ぶ活動を経て、ジャズに留まらない多彩な領域で幅広く活躍する田中さんは、現在のニューヨークを中心としたシーンの動向をどのように聴くのでしょうか。お楽しみに。(益子博之)




ライヴ/イヴェント告知 | 00:37:15 | トラックバック(0) | コメント(0)
『松籟夜話』第十夜へのお誘い  Invitation to Listening Event "Syorai Yawa" the Tenth Night
 早いもので『松籟夜話』も今週末で記念すべき第十夜を迎える。今回は三回シリーズ「漂泊する耳の旅路—現地録音を聴く」の最終回、「移動する音、生成途中の音楽」と題し、移動や距離、隔たり、そこに生じる変容のプロセスを主題化する。ここでは開催に先立ち、内容を簡単に紹介したい。


 と、その前に、リスニング・イヴェント『松籟夜話』について、まずはご案内いたしたい。今回の『松籟夜話』第十夜のフライヤーに、うっかり「聴取の現場を新たに切り開く」などと書いたものだから、虹釜太郎から「怖い ((((;゜Д゜)))」と言われてしまったが、決して怖かったり、痛かったり、服が汚れたりしません。「まだお前は新たな聴取の現場を切り開けないのか! よし、今から居残りで千本聴取だ!」なんてこともしません(笑)。ご安心ください。
 いつも決まって「コアでディープな」と形容するものだから、何やらマニアックな、カルトでヤバい集まりと誤解されているかもしれない(笑)。率直に言って、音楽マニア限定のイヴェントではさらさらない。音楽を聴くことが、いつからか音を聴くことを回避して、周辺に付随する情報を消費することにやっきになっている。そうした中で『松籟夜話』は「聴くこと」を深めることを目指す。だから、ジャンルとか、ミュージシャンの経歴・人脈とか、ましてや流行とか、レア音源とかは関係がない。それゆえ、そこで耳が眼差すものが「音楽」と呼ばれるものかどうかも、全く問わない‥‥というか、そもそも最初から関心がない。音楽の地平を拡大するとか、音楽ならざるもの(=ノイズ?)で音楽を撹乱するとか、そうした大言壮語にも興味がない。
 聴くとは結局、そうしたあらかじめ用意された枠組みを離れて、響きに耳を澄まし、空間に遊び、あるいは見知らぬ音に不意打ちされて驚くことなのだ。私と津田貴司はナヴィゲーターとして、最小限の道案内をする。けれど決して自説の傍証として音を聴いていただくのではない。これは肝に銘じているつもりだ。音をして語らしめること。そのために音源の選定と配列を工夫し、当日は何よりも率先して聴くことに沈潜する。歸山幸輔設計の反射板スピーカーは、その比類なき浸透力で正確に核心を刺し貫き、事態を信じられないほどくっきりと明らかにしてくれる。繰り返し聴き親しんだ音源が、プログラム作成のために直前にも打合せを含め複数回聴き返しているにもかかわらず、今まで聴いたことのない表情で鳴り響くのに、何度驚かされたことだろう。予想を遥かに超える響きの豊かさ/深さに打ちのめされているのは、いつだってまずナヴィゲーターの二人なのだ。



 余計な前置きがすっかり長くなってしまった。閑話休題、今回の内容の紹介に入ることとしたい。今回の企画内容をフライヤーでは次のようにご案内している。

 今回は三回シリーズ「漂泊する耳の旅路—現地録音を聴く」の最終回、「移動する音、生成途中の音楽」と題し、空間/時間的な「遠さ」を隔てて飛び火していく音や響きに焦点を合わせ、距離がもたらす変化や思いがけない類似に耳を澄ます中で、これまで自明の前提としてきた「現地」とは何かを問い直し、聴取の「現場」を新たに切り開きます。

 いさぎよく白状してしまえば、第八夜から続く三回シリーズ「漂泊する耳の旅路—現地録音を聴く」の企画を立ち上げた時には、三回目はMississippi Records等からリリースされているSP盤音源の復刻音源から「移民もの」を聴いていけばいいや‥‥くらいに軽く考えていたのだ。どういうことか、少し振り返ってみよう。
初回となる第八夜は、その少し前にリリースされた『イザイホー』の録音の素晴らしさに私も津田も二人揃って打たれたことを契機として、この作品を始点に声を軸に展開し、特にアーティストの個人的な表現や名人芸ではなく、祭儀に集う声の無名性を帯びた集合的な在りように耳を傾ける回とした。続く第九夜は、これと対照的に、「現地録音」というイメージと相反する都市のフィールドレコーディングを対象とし、様々な都市論、とりわけ都市の錯綜した重層的な空間の読み解きに随伴されながら、都市の多彩な/断片的な表情をとらえたサウンド・スナップショットから、路傍の大道芸人を周囲の空間を含めて丸ごと聴くことを経て、再び『イザイホー』録音を召喚して、Gilles Aubryによる音像としての都市の生成と聴き合わせることを行った。
地域コミュニティとメガロポリス、声とサウンドスケープという二項対立に基づく前二回に対し、三回目は特定の場所に縛られない「移動」や「伝播」それ自体を主題として掲げられないかと考えたのだ。そこでは同時に、距離、隔たり、遠さといったテーマが浮かんでくる。「聴くこと」を魅力的にするのは、いつだって「遠さ」の感覚だ。裸の胸に耳を当て、心臓の鼓動に耳をときめかせている時ですら、それは身体の奥深く、はるか彼方から気の遠くなる距離を渡ってくる響きに魅せられているのだ。あるいは凍えそうなほどに冷え切った電車の線路に耳を押し当てて、まだ影も形も見えない遠方をひた走る列車の音に耳をそばだてる時のぞくぞくする喜び。

 しかし、「移動」や「伝播」それ自体を主題化することは、予想以上に難しかった。演奏/録音の空間における、距離により響きが不可避的に被る変容については、『松籟夜話』で幾度も採りあげてきた。それを単に解像度の低下、不明瞭化、曖昧化、ノイズの増大等ととらえるのではなく、豊かな厚みとしてとらえること。余剰を削ぎ落とすことにより、発音体から発せられたばかり「原音」を追い求めるのではなく、変容をもたらす空間を丸ごと蝕知すること。だから今回は、異なる空間へと時間をかけて旅する音響を対象化しようとしたのだった。
 Mauro Pagani, Luis Sclavis, Cazoniere Del Lazio, Aktuala, Valantin Clastrier‥‥、文化の地層を深く深く掘り進み、民族音楽/民俗音楽を素材として、研ぎ澄まされたミュージシャンシップにより昇華させた数多の傑作があることはよく知っている。しかし、今回、それらの作品は採りあげなかった。単にレコーディング・スタジオは「現地」ではないというだけでなく、意図されたモンタージュによる作品構成は、今回の企図にふさわしくないと考えたからである。それでは結局、作成者の意図の読み解きになってしまう。むしろ、日常やふだん意識されないレヴェルでの文化の混淆/汚染が顕在化することに注目したかった。無意識のうちにすでに層として折り重なっている不純さに。解剖台の上ではなく、生活の現場での出会いに。それゆえ、起源の学術的探求には興味がわかなかったが、本来なら純粋さを志向するはずの起源幻想の中に、否応なく入り込んでしまう混淆には惹きつけられた。

 と同時に、文化を故郷/本土、移民コミュニティを準拠枠としてとらえないようにした。当初に想定していたように普通なら「移民の音楽」が大きく採りあげられるだろう。しかし、大里俊晴や昼間賢が言うように、「ワールド・ミュージック」とは、結局のところ「現地の音楽」なのだ。それを本国と移民先や植民地の距離/隔たりにおいてとらえることは、決して適切とは言えまい。だから、「西洋文明に汚染されていない手つかずの無垢で純粋な文化」を求めないし、移動/伝播の過程での変容を、元型に対する事後的な加工と考えないことにした。それはアビ・ヴァールブルクやジェイムズ・クリフォードが言うように、文化の残存/生き延びることにほかならない。
事前01


 人の大きな移動を伴わず、かたちやものだけが移動/伝播していって、内容や意味が書き換わることがある。楽器の構造が伝播し、奏法や音色がまったく変わってしまうことがある。記憶すらも書き換えられ、思い出すたびにその都度新たにつくり直される。それもまたあるべき姿なのだ。
 アメリカ黒人、カリブ系黒人の起源幻想としてのアフリカ。アフリカ幻想の中に特化して現れるエジプトとエチオピア。起源幻想が連れてくる儀式性/神話性が眼差す憧れと畏敬の念に満ちた「遠さ」。人類(白人)の起源幻想としての洞窟壁画(=芸術の起源)。洞窟による感覚遮断が掘り当てる内部の「光」。暗闇での不安な手探りがもたらす「遠さ」‥‥。手当たり次第に思いついた音源を聴き返し、前述のヴァールブルク、クリフォード、あるいはポール・ギルロイ、ハンス・ベルティンク、デヴィッド・ルイス=ウィリアムズ、ニコラス・ハンフリーらの著書を枕辺に積み上げて、そんなことをとりとめもなく考えるようになった頃、津田貴司が坂本宰の影との注目すべき共同作業を終え、すぐさま旅立った沖縄からFacebookに次のように書き込んだのを見つけた。


ビセカツさんの言葉を思い返す。云く「糸満発祥の漁法は琉球弧のほとんどにみられるが、本部の備瀬集落にしかない独特の漁法がある、といったことから文化伝播の痕跡を考える手がかりはある。しかし唄の場合は本土の流行歌をもじったり聞き伝えに変化したりして、伝播の痕跡を辿ることができない」。

音楽という「遠さ」。
伝播の「飛び火」。

線をたくさん引くこと。
軸をたくさん想定すること。
重力からできるだけ自由になること。


 東京と沖縄に遠く離れていながら、どうも同じような景色を思い浮かべていたらしい。このことに勇気づけられて、自分なりの選曲・選盤・プログラムづくりが一挙に進んだ。
 9月17日(日)に津田と行った最終打合せは順調に進んだ。5時間近くかかったけれど。最後の最後まで新たなアイデアを注ぎ込み、当初の想定を超えてなお、案を練り上げずには気が済まないのは、二人の生来の性分らしいので、もうあっさりとあきらめることにしよう。打合せの場を提供し、間近に迫った店の再開準備に追われながら、二人の話やかける音源に耳をそばだて続けてくれた月光茶房の原田店主は「今回はいつにもましてジャンルの幅が広い」と驚いていた。実際にはジャンルで選んでいるのではなく、あくまで作品で選定しているので、びしっと揺るぎなく筋は通っていて、クロス・ジャンルとか、領域の横断を標榜しているつもりはないのだが、確かに彼の言う通り、眩暈のするほど横断的なのかもしれなかった。それはきっと、津田の言う「線をたくさん引くこと。軸をたくさん想定すること。重力からできるだけ自由になること」の実践の結果であり、「遠さ」を隔てて飛び火していく様を追いかけたがゆえのことなのだろう。
事前Ossie


 ‥‥というわけで、スニーク・プレヴューを気取っているつもりはないのだが、相変わらずジャンルもアーティスト名も詳らかにしない、何とも不親切な紹介文となってしまった。それでも「遠さ」や「隔たり」に魅せられ、そこに豊かさを聴き取らずにはいない耳の在処は示し得たのではないかと思う。この週末、9月24日(日)の『松籟夜話』第十夜、ぜひおいでください。驚きの連続が襲います。なお、お席の確保のため、お手数ですが、ぜひ事前のご予約をお願いいたします。それでは当日、ご来場をお待ち申し上げております。
事前04


『松籟夜話』第十夜

◎音楽批評・福島恵一とサウンドアーティスト・津田貴司がナビゲートする、「聴く」ことを深めるための試み。◎会場は青山・月光茶房隣設のビブリオテカ・ムタツミンダ。歸山幸輔によるオリジナルスピーカーで様々な音源を聴きながら「音響」「環境」「即興」の可能性を探ります。

◎第十夜は、三回シリーズ『漂泊する耳の旅路 - 現地録音を聴く』の第三回。「移動する音、生成途中の音楽」と題し、空間/時間的な「遠さ」を隔てて飛び火していく音や響きに焦点を合わせ、距離がもたらす変化や思いがけない類似へと耳を澄ます中で、これまで自明の前提としてきた「現地」とは何かを問い直し、聴取の「現場」を新たに切り開きます。


福島恵一 音楽批評/「耳の枠はずし」 http://miminowakuhazushi.blog.fc2.com/
津田貴司 サウンドアーティスト http://hoflisound.exblog.jp/
歸山幸輔 オリジナルスピーカー

日時:2017年9月24日(日)18:00~(21:00ごろ終了予定)
料金:1500円
お席を用意する都合上、予約制とします。開催日前日までに、お名前・人数・当日連絡先を明記の上、下記までお申し込みください。
gekko_sabou@me.com(月光茶房)

会場:Bibliotheca Mtatsminda(ビブリオテカ・ムタツミンダ:青山・月光茶房隣設ECMライブラリー)
東京都渋谷区神宮前 3-5-2 EFビルB1F
03-3402-7537
http://gekkosaboh.com/

事前03


ライヴ/イヴェント告知 | 01:14:44 | トラックバック(0) | コメント(0)
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