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福島恵一

Author:福島恵一
プログレを振り出しにフリー・ミュージック、現代音楽、トラッド、古楽、民族音楽など辺境を探求。「アヴァン・ミュージック・ガイド」、「プログレのパースペクティヴ」、「200CDプログレッシヴ・ロック」、「捧げる-灰野敬二の世界」等に執筆。2010年3~6月に音盤レクチャー「耳の枠はずし」(5回)を開催。2014年11月から津田貴司、歸山幸輔とリスニング・イヴェント『松籟夜話』を開催中。

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「タダマス」のための32年次報告書 ―― 「タダマス32」への案内及び「タダマス31」の振り返り  The Thirty-second Annual Report ( Throbbing Gristle ) for "TADA-MASU" ―― Invitation for "TADA=MASU 32" and Retrospective for "TADA-MASU 31"
 益子博之と多田雅範によるNYダウンタウン・シーンを中心とした同時代音楽の定点観測「四谷音盤茶会(通称「タダマス」)」は、今月末、1月26日(土)に32回目を迎える。1月に開催される回は、通常の四半期分への注目だけでなく、前年をトータルに振り返り、前年のベスト10が公表されるのが恒例となっている。特に今回は、超大作にして、超注目作であり、2018年ベストとの呼び声も高いTyshawn Sorey『Pillars』がラインナップされることが予想され、いよいよ期待が高まるところだ。
 「other musicに捧げる」を標榜するアルゼンチンの音楽サイトEl Intrusoが毎年実施しているミュージシャン・批評家投票による年間ベスト選出は、その見識の高さ、そして「タダマス」とのシンクロ率の高さで知られているが、主に合衆国やヨーロッパのミュージシャン・批評家で構成されている投票者に、今回から新たに益子が加わる(アジアからは初めての選出であるという)。そのベスト選出結果とコメントにいち早く触れられる機会ともなる。なお、今回の開催は日曜日ではなく、土曜日なのでご注意を。
 新年初めてのゲストは、ベース奏者/作曲家の蛯子健太郎が「タダマス15」に続き二度目の登場を果たす。前回の登場時に、彼の「ミュージシャンシップでもプレイヤーシップでもない何か」を感じさせるコメントには深く打たれた。その時の様子については、拙レヴュー(※)を参照していだきたい。その後、彼のグループ「ライブラリ」のライヴに何度も足を運ぶことになるのも、ここでの出会いがきっかけだった。あらかじめ譜面に書き込まれた作曲や作品としての歌詞があるにもかかわらず、しかも「どんでん返し」を図るようなあざとい構成・演出など一切なく、音楽だけを目指して脇目も振らずひたすら誠実に、むしろ禁欲的なほどに淡々と演奏を進めながら、にもかかわらず、すでにある像のなぞり、完成されたモデルの再現ではなく、各メンバーが持ち寄った素材により、眼の前で料理がつくられていく新鮮な感動は比類のないものだった。現在の「ライブラリ」の活動休止が何とも残念である。しかるべき再始動を待つことにしたい。
 ※http://miminowakuhazushi.blog.fc2.com/blog-entry-324.html


 以下、「タダマス」情報ページから転載する。

益子博之×多田雅範=四谷音盤茶会 vol. 32
2019年1月26日(土) open 18:30/start 19:00/end 22:00(予定)
ホスト:益子博之・多田雅範
ゲスト:蛯子健太郎(ベース奏者/作曲家)
参加費:¥1,500 (1ドリンク付き)

今回は、2018年第4 四半期(10~12月)に入手したニューヨーク ダウンタウン~ブルックリンのジャズを中心とした新譜CDと、2018年の年間ベスト10をご紹介します。
ゲストには、2度目の登場となるベース奏者/作曲家の蛯子健太郎さんをお迎えすることになりました。ストレート・アヘッドなジャズから電子音響や詩の朗読を含む作曲まで幅広い表現で活躍される蛯子さんは、現在のニューヨークを中心としたシーンの動向をどのように聴くのでしょう。お楽しみに。

タダマス32ちらし縮小



 女性ゲストへの注目度の高さ故か盛況を極めた前回「タダマス31」は、私にとって極めて問題の多い回となった。もちろんそれは私個人の受け止め方に過ぎないが、そのことを自分なりに咀嚼するのに随分と時間がかかってしまった。
 そのの「問題」は結局のところ「作曲と即興」を巡る議論に行き当たるのだが、そんなことを一から掘り返していてはいくら時間があっても足りない(何とかコンパクトに取り扱えないかと試行錯誤したが、結局挫折し断念した)。結論を先取りしてしまえば、私は益子や多田と同様に、「作曲と即興」という枠組み、作曲/即興という二分法自体がもはや失効していると考えており、「作曲の外部/余白としての即興」というように、作曲を基準として即興をとらえるのではなく、即興という行為自体をその過程/軌跡に根差しつつ、直接に思考したいと思っている。
 ここで断っておかねばならないのは、作曲/即興という二分法の失効が、直ちに即興演奏の自立/自律を保証したり、即興演奏の新たな地平(新章?)を開いたりなどしないことだ。世の中というものは、それほどオメデタクは出来ていない。しかし、世間にはそう考える(考えたい)人たちが少なからずいて、妙に浮かれ騒いでいたりするのだが、そんなものは冷ややかに無視しておけばよろしい。
 自分にとって、「即興/音響/環境」や「即興的瞬間」といった用語、あるいはフリー・インプロヴィゼーションとフィールドレコーディングをひとつながりのものとして聴くという視点は、「即興という行為自体をその過程/軌跡に根差しつつ、直接に思考する」ための構えであり、当ブログに執筆してきたライヴ・レヴューにおいては、演奏の過程/軌跡の持続と各瞬間を聴診しつつ、この構えに基づいて様々な角度から分析・記述を進めてきたところである。
 津田・歸山・原田と続けてきたリスニング・イヴェント『松籟夜話』(現在「作業中」)もまた、そうした構えを共有しており、特に私の場合はこの意味合いが大きい。『松籟夜話』で聴く音源は、すべて録音されたものであり、なおかつジャンルで括れば、フリー・インプロヴィゼーション以上に、民族(民俗)音楽やフィールドレコーディングの比率が高いが、それゆえに聴取に対して現れる持続の各瞬間において、音や響きの衝突/交錯/変容を、演奏者の意図や元となる作曲とその解釈に還元することなく、力動的に触知することができる。そこにおいては、演奏/録音された「場」の作用、歴史や文化の流れ、地形や気候、生活様式や空間特性等が、時としてあからさまに前景化してくるが、無論のこと、そこで聴取できるものをそれらに還元してしまえるわけではないし、また、すべきでもない。

 前置きが長くなったが、10月28日に開催された前回「タダマス31」の振り返りを以下に掲載する。前述の自分なりの「咀嚼」の到達点である「1」と、そこから派生した、むしろ先に触れた「浮かれ騒ぎ」の内実の戯画(笑劇?)的なスケッチとしての「2」の二幕から構成されている。それではどうぞ、お読みください。


1.「作曲/即興」の二分法の失効 「タダマス31」を振り返る
——いわゆるインプロの面白さはどのように考えていらっしゃいますか。
多田 そもそもインプロヴィゼーション/コンポジションっていう二分法が有効かどうかが疑わしいよね。
益子 全く有効じゃない。
多田 そういう二分法はもう無いんだよ。

これは別冊ele-kingのために益子博之と多田雅範が行った対談「タダマス番外編」の誌面に掲載されなかった部分からの抜粋である。この対談を企画した細田成嗣が自身の主催した「即興的最前線」なるイベントの配布資料に「インプロの消滅、あるいはフィードバック現象としての即興」と題して掲載している。掲載された部分は多田のブログ(*1)に再録されており、そこで読むことができる。
*1 http://www.enpitu.ne.jp/usr/bin/day?id=7590&pg=20181126

これに対し、相方の益子がFacebookでこうコメントを寄せている。「別冊ele-king掲載「タダマス番外編」の番外編。こういう話を載せて欲しかったのだが...。」
それは無理な注文というもので、本来生成的な厚みを有する事態を、人脈図とディスク・ガイドに薄っぺらく解消することしか考えていない編集企画としては、ミュージシャン名にも、作品名にも、あるいはサブ・ジャンルやスクールにも紐づかない抽象的な見解は、およそ価値のないものと映るに決まっている。そして、そこで不要とされた「廃棄物」が、今度は音響の記録やそれを巡る歴史や言説のアーカイヴから全く切り離されたところで、各自が勝手な思い込みやファンタジーを「原理論」としていいように投影する、別のマーケットに出品され、「消費」されるのだ。ここでは、シーンの動向や音響の記録に対する個別具体的な分析と、「即興」を巡る原理的な思考を切り離し、全く別物として流通・消費させることが、市場のメカニズムとして機能している。

 いや、そんなつまらない話がしたいのではなかった。
 冒頭の益子と多田の対談を読んで、10月28日開催の「タダマス31」へのもやもやとした疑念が一気に晴れた思いがしたということが言いたかったのだ。というのも、「タダマス31」終了時点では、これまで体験した29回の「タダマス」(よんどころない事情で2回欠席しているため)の中で、ぶっちぎりで最低最悪の回だと感じていたからだ。
 これまでにも例えば「タダマス16」のように、当日プレイされた10枚中、私にとって採りあげるべき作品が3枚しかなかったこともあった(*2)。だが、今回は何と1枚もなかった。益子が以前に述べていたように、もちろん見解が一致すればよいと言うものではない。しかし、それにしても、なぜ、この選曲で、この配列で、このコメントなのかについては、いったん腑に落ちた上で、しかし、それとはあえて異なる自分ならではの視点を設定する……という、いつもの「了解」の作業が今回は果たせず、頭上に「?」印をおぼろに浮かべたまま、途方に暮れることとなった。
http://miminowakuhazushi.blog.fc2.com/blog-entry-336.html

 今回は現在注目を集める有名ミュージシャンをゲストに招いたため、彼女目当ての参加者も多く、進行役の益子が途中何度も「今日は彼女のトーク・ショーではないので…」と客席をなだめなければならなかった。そうしたざわつきにいらいらして、音に耳が届かなかったのではないか……とも考えたが、やはりそれだけではないように思われた。次回に超注目作Tyshawn Sorey『Pillars』が控えているために、今回はそれとは違う論点を立てようとして、議論が分散してしまったのだろうか……とも思い悩み、そのことに自分なりの見解を出せなくてはレヴューを記すことはできないと考えた。

 そこで話は冒頭部分に戻ることとなる。「タダマス31」よりも随分前に行われた対談で、益子と多田の二人は、揃って「作曲/即興」の二分法の失効について語っている。にもかかわらず、「タダマス31」でゲストに差し向けられる質問のカギとなり、それだけでなく折りに触れて言及され、全体を通しての主要な軸線となっていたのは、紛れもなく、この「作曲/即興」の二分法だった。そこに齟齬が生じるのは当然のことと言えよう。

 振り返れば「タダマス31」の告知記事で、益子はこの回の趣向を次のように記していた。
 「ゲストには、NY在住の挾間美帆さんをお迎えすることになりました。作曲家・編曲家、そして指揮者として、多彩な分野で世界を舞台に活躍する挾間さんは、『即興的瞬間』をどのように捉えているのでしょうか。」
 「即興的瞬間」などという、読者にとって馴染みの薄い語をあえて用いる意図はいったい何なのだろうと、自分のブログに「タダマス31」の告知記事を書き込みながら、いぶかしく思ったことがよみがえった。
 おそらく、「タダマス」が定点観測を続けているNYダウンタウン・シーン(それは決してエリアや人脈、ジャンルを限定するものではなく、彼らが注目するコンテンポラリー・ミュージックのあり方を象徴するものとしてあるのだが)で活躍する、しかも演奏者としてよりも作曲家として活動している挟間美帆をゲストに迎えることにより、「作曲と即興」の二分法の「失効」を現場の感覚で裏付けたいとの狙いがあったのではないか。そう私は想像する。

 だが当日、その目論みは空振りを繰り返すことになる。これは用語法の問題もあったのだろうが、挟間にとって即興演奏は作曲作品の演奏とはまったく別物であり、(録音を)聴くよりはライヴを体験するものであると言う。また、彼女自身の作曲作品の演奏の中で行われる即興演奏については、メンバーを厳選し、演奏特性や作品解釈の仕方が作品の作曲意図に適合するミュージシャンを選ぶと答えている。「彼/彼女がこの部分をどう演奏してくれるか楽しみだ」という調子だ。こうしたことなら、クラシックのオーケストラでも、作品により各管楽器セクションのトップを交替させるといった形で、よく行われている。すなわち、ここで即興演奏とは、作品解釈のプレゼンテーションに過ぎず、楽譜の余白を魅力的に埋めてくれるものでしかない。
 一般に「ジャズ」由来の作曲作品は、即興演奏を当然の、いや必然的な要素と見なす傾向がある。これは「クラシック」由来のゲンダイオンガク系作曲作品が、即興演奏を用いることを「不確定性の導入」手法の一つとして、つまりはゼンエイ的な「実験」として有り難がったのとは異なり、伝統あるいは慣習、ないしはマーケティング上の必要性/必然性としてとらえることができよう。すなわち作曲と即興が演奏の中で同居することは、昔からずっと行われ続けてきた当たり前のこと、それがなくては「ジャズ」ではなくなってしまうことであって、それがなぜなのか、その区分自体がどうなのかといったことは意識されないし、いまさら問題にしてもしょうがないことなのだ。

 だから、あえてこのテーマを挟間にぶつけるのであれば、ケンカを売る覚悟で「なんで作曲家なのに、作品に即興部分を入れるんですか」、「即興演奏が自由でいいのだとしたら、何で作編曲なんてするんですか」と、むしろ「作曲/即興」二分法原理主義者として、ツッコミを執拗に繰り返すべきだった。そこで二分法の失効を明らかにした上で、二つに分けられないとすれば、それはどういう状態としてとらえられるのか。不純物を取り除けないということなのか、効果的な配合があるということなのか、それとも生成の過程で特異点が生じるといった何か特別な事態なのか……と議論を進めることもできたかもしれない(たぶんそんなことはあり得なかったろう。その前に彼女は腹を立てて退席してしまうだろうから)。そこに至ってはじめて「即興的瞬間」といった語も活きてくることになる。

 そのように考えると、ゲストとの互いを慮ったような、何だか煮え切らぬやりとりの繰り返しだけでなく、この日の選曲が共通して「○○っぽい即興演奏の(あるいは作曲作品演奏の)サンプル」であり、その結果としてプログラムが平板化していたのも必然と思えてくる。「タダマス」のプログラムに関し、基本的に聴取に対する演奏の強度で作品や曲を選び、それを配列する際に、そこから浮かび上がってきた「物語」と組み合わせて、適宜取捨選択や入替を行う……と、以前に益子は説明していたが、この日のプログラムは「ゲストの挟間に作曲と即興の関係性について問う」ための「素材」という視点が強過ぎたのではないか。

益子博之×多田雅範四谷音盤茶会(通称:タダマス) Vol.31
2018年10月28日(日) 18:30 start

綜合藝術茶房 喫茶茶会記(四谷三丁目)


ホスト:益子博之・多田雅範

ゲスト:挾間美帆(作曲家/編曲家)

参加費:\1,500 (1ドリンク付き)

今回は、2018年第3 四半期(7~9月)に入手したニューヨーク ダウンタウン~ブルックリンのジャズを中心とした新譜アルバムをご紹介します。

ゲストには、NY在住の挾間美帆さんをお迎えすることになりました。作曲家・編曲家、そして指揮者として、多彩な分野で世界を舞台に活躍する挾間さんは、「即興的瞬間」をどのように捉えているのでしょうか。お楽しみに。(益子博之)


2.「聴かないための音楽」としての即興演奏
 「作曲/即興」の二分法の失効という当たり前の状況認識が理解されないのは、「即興」なるものが、依然として、通常ではあり得ない特別な、それだけで価値のある存在として、排除と崇拝の対象となっているからにほかならない。すなわち「即興」は誰にでもひと目でそれとわかる有徴性を帯びており、場違いなマイナーなものとして抑圧/排除されるからこそ、ゼンエイ的でジッケン的でチ的でゲイジュツ的なものとして高値で取引されるのだ。聖別の原理。

 冒頭に掲げた「タダマス」対談で、益子が「記譜された音楽でも即興性がゼロの音楽って存在し得ないですからね。機械がやるんじゃない限りは。音量が少し変わるとか、音の長さが少し変わるとか、毎回違うわけですよね。だから人間が演奏する限りは即興の余地がない演奏にはなり得ない」と指摘しているように、常にそこに存在しているにもかかわらず、なぜ「即興」が依然として特別扱いされ続けるのかと言えば、もっともらしい顔をして耳を傾けている聴き手の多くが、実は何も聴いていないからに過ぎない。
 それゆえ、譜面が無かったり、わかりやすいメロディやリズムが出てこなかったり、携えた楽器を通常の仕方で演奏しなかったり、本来は楽器ではないものを演奏したり、携えた楽器はそっちのけで何か別のことを始めたりするのが、「即興」のわかりやすい目印で、それをもって先の聴衆たちは「これは即興だ」と理解し、安心して聴くことをやめてしまう。逆に言えば「これは即興演奏ですよ(だから聴かなくていいですよ)」ということを、いかに演奏開始早々、いやステージに登場次第、いや告知の時点から、わかりやすくあからさまに伝えるかということが、「即興」のお約束であり、最大の重要事なのだ。
 これさえ忘れなければ、聴衆は何も聴かずとも「自由」や「可能性」について声高に語り合うことができ、あるいは「やっぱりさ、即興演奏って、うーん、どうなのかな……」と否定的に述べることも出来る。しかも、その場で共通の体験をしたことを暗黙のうちに相互に認め合いながら、ゼンエイ的でジッケン的でチ的でゲイジュツ的なワタシとアナタに共に敬意を払いつつ。
 文学や美術のように現物(の複製)を前にして理解が問われることもなく(だって演奏の痕跡は消え失せてしまって記録も無いから。即興演奏を録音しようなんて即興に対する冒涜にほかならない……とみんな口を揃えて言う。果たしてそうだろうか*)、映画や演劇のように物語や主題の理解を確かめられることもない。何て安全極まりない「みんなが特別なワタシになれる時間」であることか。
*補足
前述の試行錯誤の中でジョン・ケージ関連の書物を読み返したりもしたのだが、そこに次の発言を発見した時は、びっくりすると同時に、大層うれしかったことを記しておこう。
 ジム・オルーク「即興音楽のコンサートなんて行きたくない。(中略)それよりレコードを買うほうがいい。つまり、コンサートでは、この種の音楽を長年考え、試行錯誤してきたひとたちが演奏するのを聴くことになるよね。彼らの演奏がもたらす情報はとても濃密だから、むちゃくちゃ頭がよくないかぎり、その場で起きている思考の流れをすべて把握することなど無理だろうからね。」
【デヴィッド・グラブス『レコードは風景をだいなしにする』(フィルムアート社)p.206】

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ライヴ/イヴェント告知 | 14:37:20 | トラックバック(0) | コメント(0)
足下に口を開ける深淵 ― tamaruの無謀な企て  Dark Depth Gaping at Our Foot ― tamaru's Reckless Attempt
 だいぶ間が空いてしまったが、前稿に引き続き、『阿部薫の冬』を巡るtamaruのツイートに言及したい。

 tamaruは次のように書いている。

 福島さんが述べている疾走展開も魅力的に感じるが、当初思い描いていた「の」の世界は、吐出で外に開かず、内に籠めたまま背景としての共有感が生じるか、というロマン。「冬」テーマで企画するうちに後から降ってきた「阿部」の自分なりの収め方だった。もっと阿部を語らなかったら何が見えていたか。

 ここで「『の』の世界」とは、「阿部薫と冬」ではなく、イベントのタイトルとなった『阿部薫の冬』を指す。対象をそれとして名指すことなく、語らずして背景に浮かび上がらせる。一見不可能と思われるこの企ては、tamaruの本質と深い関わりを持っている。

 誤解を招かぬよう、先にまず言っておかねばならないのは、ここで「名指すことなく」あるいは「語らずして」とは、決して叙述の紡ぎ方や語り口の問題ではないということだ。たとえば主人公たるマクシム・デュ・カンの名を挙げることなく、冒頭から延々と語り継いでいく『凡庸な芸術家の肖像』の蓮實重彦とは。


1.震えの凝視、振動の触診
 これまでこのブログでは、何度となくtamaruの演奏に触れてきた。そこでは私が初めてライヴで見た「演奏」が、映像作品の「上映」だったことも手伝って、常に「震えの凝視」がキーワードとして浮上することとなった。
 それが何物であるかを見極めるために眼を細め、あるいは見開き、視線を凝らすのではなく、むしろそうした判別/弁別を能う限り遠ざけながら、不定形/決定不能に移ろい続ける持続にどっぷりと身を浸し続けること。
 視覚において、滲みやちらつきは脳によりノイズとして排除され、確定不動の輪郭がもたらされる。このことは聴覚においても変わりない。見る、あるいは聴くという行為そのものの中に、本来的/不可避的に含まれている決定不能性/不確定性は、生命を維持するために、あるいは主体の統一性を維持するために排除/抑圧される。
 だが、世界は震えに満ちている。現実世界は揺るぎなく確固として不動/不変を保ち、確定しているにもかかわらず、不確定な揺らぎが生じてしまうのは、対象と受信者をつなぐメディアが、たとえば低解像度である等、世界の豊穣さをとらえるのに不充分だからに過ぎない……と、そう考えるのは間違っている。そうした間違いは、だからここで揺らぎは言わば付加されたエフェクトである……という更なる間違いを呼び寄せ、そこでそうしたエフェクトを施したアーティストの意図の詮索へとめでたくたどり着く。何と言う予定調和。凡百のメディア・アートは、まさにこうした貧しい図式の上に繁茂している。

 対してtamaruはエレクトリック・ベース弦の震えを見詰め続ける。共振共鳴の少ないソリッドのボディの上に張り渡された鋭敏なエクストラ・ライトの弦を、顕微鏡的に増幅度を高めたピックアップがとらえ続ける。しかし、彼は電気増幅され空間に投影される拡大音響だけでなく、すなわち耳だけではなく、弦の振動に爪を短く切りそろえた指先によって、弦の振動に耳を澄ましている。
 彼は弦の振動には、ボディの面に平行、あるいは垂直な揺れだけでなく、弦に沿って螺旋状に走り抜けるものがあるという。弦をZ軸と見立てれば、通常認識されているX軸、Y軸成分の振動だけでなく、撓むことによるZ軸方向の僅かな伸縮を介して、確かにそのような運動が生じているのかもしれない。しかし、彼の言う「走り抜けるもの」とは、そうした座標空間に還元し、分解した各成分を合成して構成できるものではないだろう。それはそのように分離できない触覚的なものなのだ。
 ここで「触覚的」とは、決して指先と弦との触れ合いから産み出されたことだけを意味するものではない。指先が弦に触れ、はじき、あるいは押さえ込まれた弦が「くっ」と離される。するとその瞬間に思った音が出る。tamaruは修練を積んだミュージシャンだ。

 そのとき感じるものが指先を通じて出ていけるようなからだの状態になるというか。対象があって、それに近づいて行くのじゃなくて、ある音を感じる、感じるときにはもうその音が出ている。そういうことが各瞬間に起こっているような、ということかな。(中略)意識までいかないで、フィードバック回路をつくるということ。こういう音を出すためにこういう手の形をするという考え方じゃない。自分の弾いている音が聴こえなくても、こういう音とイメージすればその音が出ていると言うことなのね。意識でコントロールはしないけれども、からだはそのようにフィードバック回路をつくりあげる。それが技術ね。【(対談)浅田彰・高橋悠治「カフカ・音楽・沈黙」より高橋の発言】

 しかし、演奏の現場で起こっているのはそれ以上のことだ。tamaruの指先が産み出した弦の震えは、事前には想定し得ない豊穣さをはらんでいる。そのことが顕微鏡的に拡大された音響により明らかにされる前に、彼は指先によりその振動の襞を触知する。そして再び指先で、指先の横側で、あるいは爪で弦に触れ、より詳細に振動を触診するとともに、新たな振動を付け加え、あるいはミュートによって差し引く。
 眼の前の不定形の広がりから個体偏差を取り除いて種を同定したり、ノイズを除去して輪郭を明確にし、対象をそれと名指したりするのではなく、不定形/決定不能な豊穣さの移ろいをそのままにとらえる。その時、距離を介さない触覚の鋭敏さは、この不定形の広がりを感覚野の視界いっぱいに浮かび上がらせることになるだろう。これこそは、冒頭に引用したtamaruのツイートが描き出すところの当初思い描いていた『阿部薫の冬』のあり方そのものではないのか。
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2.足下に口を開ける深淵
 そのtamaruは、以前に使っていて、その後はずっと押し入れ内に封印されていたエレクトリック・ベースを、最近急に思い立って改造し、何とアコースティック化してしまうという「暴挙」に及んだ。この週末、11月25日(日)にソロ・ライヴ(@目黒・不動前Permian)で初披露されるこの楽器について、勝手に考えてみることにしたい。

 tamaruのエレクトリック・ベース演奏は先に見た通り、共振共鳴の少ないソリッドのボディの上に張り渡された鋭敏なエクストラ・ライトの弦を、顕微鏡的に増幅度を高めたピックアップがとらえるもので、言わば弦の振動だけを見詰め続けるストイックなものである。自身、今回改造の対象としたセミ・ホロウ・ボディのエレクトリック・ベースについて、かつては「鳴りが邪魔」と言って内部にウレタンを詰めたと告白しているから、こうした傾向は以前からあったと言えるだろう。
 ただし、ここで注意しておかなければならないのは、そこに「余剰を取り除いて弦の振動だけを純粋化して抽出する」というような発想は微塵もないことだ。音響派 → リダクショニズム → 正弦波というような盆栽的ダイエット志向は彼にはない。だいたいにして、そのような形で混じりけなしに濾過された弦の振動を取り出したいのなら、純正律に調弦された一弦琴をずらりと並べればよかろう。
 彼における凝視が、むしろそうした純粋さからはみ出しずれていく、微細な肌理や粒立ちを可視化するものであることは、先に触れた通りである。そこで用いられているのが、鋭敏な触覚とともに、電気増幅による顕微鏡的な拡大であることも。

 ここで補助線として、同じく複数の弦を張り渡した楽器であるハープでフリー・インプロヴィゼーションを奏するRhodri Daviesを対照例に引こう。同じくハープの即興演奏者でありながら、弦をサウンドのトリガーと見なすZeena Parkinsと違い、彼は楽器を多様で異質な各部の複雑な構成として取り扱う。多種多様な部分共鳴/共振のアンサンブルとして。各種プリペアドや弓やe-bow等の様々な音具の使用により、各部の差異を際立たせつつ、さらに分割振動や相互干渉を引き起こしながら演奏は進められる。ここで演奏の資源として用いられる「複雑性」が、決してプリペアドや音具の使用といったエクステンデッド・テクニックによって新たに産み出されたものではないことに注意しよう。それは以前から存在していながら、正統な演奏方法によりノイズとして排除/隠蔽/抑圧されていたものなのだ。彼は足下の直下に豊かな水脈を掘り当て、そこから音響を汲み上げている。それはエクステンデッド・テクニックが目指す領土の拡大、水平方向の踏査ではなく、垂直方向の探査の産物である。足下に開けている深淵を覗き込むこと。気がつけば深淵はあちらこちらに不気味な黒い口を開けている。

 Derek Baileyの試みもまた、ギターを拡張(extend)するのではなく、ギターの「運命」である脆弱さ、不安定さを垂直に掘り下げ、そこから汲み上げた、通常の演奏からは排除されてしまう発音のぶれ、音の粒の揃わなさ、ミスタッチ、付随的な演奏ノイズ等をランゲージに取り込むものととらえることができる。それらは外宇宙ではなく、J.G.バラードの言うところの「内宇宙」探査の取り組みなのだ。
 ちなみにBaileyは、少なくともディスコグラフィ上『Solo Guitar vol.1』(1971年)から『Improvisation』(1975年)に至る期間において、エレクトリックで開拓した語法を必ずアコースティックでも達成できるよう、常に試していた。ここでも加工により新たにつくりだすのではなく、すでにありながら埋もれ隠されているものを掘り当て、明るみに出すことが一貫して継続されている。ギターを改造するのではなく、アコースティック・ギターという楽器の元来の輪郭を保持しつつ、その足下を掘り下げて新たな世界を開く、「内宇宙」探査の試み。

 そうしたことを念頭に措いて、言わば「Baileyの耳を通して」聴くならば、ありとあらゆるギター演奏に「ベイリー的瞬間」を聴き取ることができるだろう。演奏者も数多の聴衆も何事も無かったように通り過ぎて行く何気ない瞬間に、黒い深淵が口を開けている。フリー・インプロヴィゼーションとは、この深淵を通り過ぎることができず、否応無くつまずき、はまり込んでしまう歩みにほかならない。それは一種の脱構築(deconstruction)でもある。

 さて、ここでtamaruの楽器に眼を転じると、単にエレクトリック・ベースの電気回路を抜いて、中身を中空にしたのみならず、背面に大きな木製のボウルが取りつけられ、また前面には幾つもの丸い開口部が設けられていることがわかる。試行錯誤の結果であろうし、tamaru自身、これからどんどん変わっていくかもしれないと言っているが、興味を惹かれる形状である。ボウルの取り付けは、内部の共鳴空間のヴォリューム拡大を図ったものと考えられるが、演奏が難しく、現地でもあまり見かけないというインドの民族楽器ルドラ・ヴィーナを思わせるところがある(あのような極端な共鳴は引き起こさないだろうが)。密度の高い硬そうな材質は音をよく反射し、ドーム状の曲面の導入も手伝って、前面の開口部から音を前方へ押し出す効果があるのではないか。と同時に「受信機」としてのパラボラ・アンテナを内蔵しているようにも見える。
 いずれにしても、Rhodri Daviesのハープとは異なり、各部が別々に鳴らし分けられるのではなく、各部が緊密にアンサンブルした総体として鳴り響くこととなるだろう。それは決して弦の振動に筐体の共鳴が付加されたものではなく、指先の操作による振動が多方向に駆け抜け、隅々まで波及していくその都度ごとに、音は流動的な移ろい/変容として立ち現われてくるだろう。Permianの音を減速あるいは濾過することなく、聴き手の身体に直接ぶつけてくる空間特性は、この楽器にふさわしかろう。その演奏がどのようなものになるかは、もちろんまだわからない。しかし、tamaruのエレクトリック・ベース演奏でも随所に垣間見えた、前述の「深淵の開けた黒い口」が、アコースティック・ベース・ギターの演奏では、さらに度合いを増して、まざまざと迫ってくるのではないかと予感している。
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3.足下に開ける深淵【なくもがなの余録】
 この「何事も無かったように通り過ぎて行く何気ない瞬間に口を開けている黒い深淵」だが、思い出すエピソードが二つある。ひとつは子どもの頃にTVで観た特撮番組『キャプテンウルトラ』の最終回で、主人公たちがとある惑星の地表の割れ目を覗き込み、その深さを計測したロボットが「無限大です」と騒ぎ出し、その割れ目が外宇宙につながっていることがわかるシーンだ。今となっては他愛無い話だが、すでに宇宙好きだった7歳の子どもにとって、見上げた空に輝く星の彼方ではなく、足下に口を開けた割れ目の向こうに無限の宇宙が開けているという「転倒」は、ざわざわした不安感とともに強い印象を刻むこととなった。
 もうひとつは、中学生の頃に家にあった一松信『数のエッセイ』で読んだ数論のエピソードで、軍団の並び直しの問題である。兵隊が正方形に並んだ軍団がx個あり、それに総大将の王1人を加えて並び直したら、大きな正方形が出来たとして全体の人数を求めるもの。与えられた問題ではx=61なのだが、これが60だとすると961人、62だとすると3969人になるが、その中間の61だと何と3119882982860264401人というあり得ないほど巨大な数になってしまうと。整数問題だから解が不連続になるのは当然なのだが、これもまた、世界の何気ない隙間に魔が潜んでいるとの不穏な印象を刻むこととなった。ちなみに、この問題は有名な「アルキメデスの牛」の問題を説明する際のオマケとして紹介されていた。これは、アルキメデスが友人に宛てた手紙の中に詩の形で記された問題で、ある条件を満たす家畜の牛の頭数を求めるものなのだが、何とその解は20万桁以上に及ぶ超々巨大な数となる。
 こうしたことが、後にフリー・インプロヴィゼーションを熱心に聴き始める遠因になっているかどうかはわからない。たぶん関係ないだろう。だが、この「すぐそこに口を開けている深淵」の感覚は、例の「即興的瞬間」と、きっとどこかでつながっているのではないかと感じている。

tamaruのエレクトリック・ベースによる演奏については、以下で論じている。ご参照いただきたい。
http://miminowakuhazushi.blog.fc2.com/blog-entry-434.html
http://miminowakuhazushi.blog.fc2.com/blog-entry-435.html

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2018年11月25日(日) 20:00~
目黒・不動前 Permian
品川区西五反田3-14-4 KakutaniレイヴァリーB1
http://www.permian.tokyo/

tamaru(acoustic bass guitar)ソロ
杉本拓(guitar)ソロ




ライヴ/イヴェント告知 | 17:32:52 | トラックバック(0) | コメント(0)
「30歳以上の奴らは誰も信じるな」とチャールトン・ヘストンはタダマスに助言する  "Don't trust anyone over 30", Charlton Heston's character, astronaut George Taylor advices "TADA-MASU"
 聴き手と送り手の言葉が交錯することで、触発され、問い直される音楽の"聴き方"、"聞こえ方"。

 改めて見直すと、四谷音盤茶会(=タダマス)のフライヤーには、この一文が欠かさず刷り込まれている。アーティスト名、曲名、音源が試聴できるサイトのURLといったリストアップ可能な情報が浮遊しているのではなく、複数の異なる視点から発せられた言葉が交錯する空間。そしてメモリを食い、「既聴」のフラグを立てるのではなく、音楽の"聴き方"、"聞こえ方"を触発し、問い直す音の力。それは果たしてどこから来るのだろうか。

 8月18日(土)にFtarri水道橋で行われたイヴェントでサウンド・アーティスト角田俊也が近作『Somashikiba』について語った内容を、参加した津田貴司が教えてくれた。
 「『Somashikiba』を録音した時は、5年もかけて車もなく徒歩で彷徨いながら録音する場所を探し歩いた。そのことによってその場所に感覚が開かれていたから、録音したものをピックアップする段階までは、100年前の音が録音できたと思ったし、100年前の音がうまく録音できている箇所を選んだ。しかしCDが完成してから聞き返すと、もうその感覚はなくなった。」
 その音を録音することができなかったのではなくて、録音した音をそう聴き取ることができなくなっていたと。「場の力」ということを思わずにはいられないが、ここで「場の力」とは、イコールその場の環境、とりわけ視覚や聴覚ではとらえ得ない臭いや風の肌触りといった、その場に置かれた身体を四方から包み込み、五感を震わせるものというわけでは必ずしもないだろう。それでは、その場に行かなければ感じ取れない、メディアには記録し得ないものがある‥‥というだけのことになってしまう。

 「タダマス」のような、あるいは並べて語ることが許されるなら『松籟夜話』のような、「集合的聴取」の場もまた、別の形で「場の力」を持ち得るのではないか。たとえその場で会話がなされなくても、聴き手の中に浮かんだ言葉と送り手の言葉が交錯し、触発することがある。そして言葉によらずとも、送り手による音源の選択・配列によって、一筋の耳の視線が浮かび上がり、ある聴取の構えがまざまざと像を結ぶことがある。送り手の意図に沿ってでは必ずしもなく、むしろその意図を超えて、時には裏切りながら、聴くことの地平がみるみる広がっていくことがある。

 ここで「送り手」がイコール「作者」ではないばかりか、その代弁者も演じてはいないことは強調しておくべきだろう。インターネット・メディアの普及により、「生産者」と「消費者」の間を媒介する音楽メディアやいわゆる「ヒョーロンカ」の存在意義は消失した。インタヴューやSNSでの自主発信を通じて、「生産者」の声が、そんな「中間業者」をスキップして、ダイレクトに「消費者」に届けられる。ユートピアの達成? では訊こう。作者の声は唯一の「正解」なのか。批評とは、そうしてあらかじめ作者により確定された「正解」をなぞり、代弁し、図解することなのか。もちろん、そうではない。

 「タダマス」のホスト役の二人、益子博之と多田雅範は作者の意図を代弁しない。ゲストとして招かれたミュージシャンもまた。積み上げられた新譜群から、二人は高い強度を備えた作品を選定し、周到に配列する。ただ、それは自説を検証するためではない。あるトラックが別のトラックを召喚し、夢のように移り変わり、ポキッと音を立てて切断され覚醒を促す。形態の相違を超えて類似と照応の線が走り、一見似た者同士の並列がくっきりとした対比を描き出す。新譜をレヴューするということは、決して「流行」をわかりやすく言葉にすることではないし、時代の寵児に対する全面的な帰依を明らかにすることでもない。自らの耳を不意討ちした「名づけ得ぬもの」を相手取り、自らの聴き方、聴く姿勢や耳の視線の移ろいを他者の眼に触れさせることなのだ。
「タダマス」は毎回、そうした批評の場、集合的聴取の場を生きている。つまりは「ライヴ」ということだ。

 先に触れた角田俊也の言明に関して、集合的聴取がかたちづくる「場の力」に言及した後、私は津田宛のメールに次のように書き記した。
  「一見飛躍しますが、フリー・インプロヴィゼーションの演奏時に、演奏者はその場の空間にすでにある音、自らが発した音、さらには発するであろう音等を、アナクロニックな混濁状態で聴いていると思いますが、そうした感覚を支えている要素のひとつは、聴衆が、すなわち自分以外の他者が、それを聴いていることではないかと考えています。」
 ここではフリー・インプロヴィゼーションを例に挙げているが、これはもちろん音楽ジャンルとして様式化したそれを指すものではない。反対に「即興的瞬間」を含む演奏なら、すべてに当てはまると言えよう。

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 以下、めでたく30回目を迎えた「タダマス」の、今回の案内文を転載する(※)。
 ※ http://gekkasha.jugem.jp/?cid=43767

益子博之×多田雅範=四谷音盤茶会 vol. 30
2018年8月26日(日) open 18:30/start 19:00/end 22:00(予定)
四谷三丁目 綜合藝術茶房 喫茶茶会記(新宿区大京町2-4 1F)
ホスト:益子博之・多田雅範
ゲスト:山田あずさ(鍵盤打楽器奏者/作曲家)
参加費:¥1,300 (1ドリンク付き)

 今回は、2018年第2 四半期(4~6月)に入手したニューヨーク ダウンタウン~ブルックリンのジャズを中心とした新譜アルバムをご紹介します。ゲストは、鍵盤打楽器奏者の山田あずささん、2回目の登場です。ジャズから即興、ポップスまで幅広い領域で活躍される山田さんは、女性ミュージシャンの台頭著しい現在のニューヨークを中心としたシーンの動向をどのように聴くのでしょうか。お楽しみに。(益子博之)





ライヴ/イヴェント告知 | 23:17:07 | トラックバック(0) | コメント(0)
タダマス、周期律表を原子番号1の水素から29の銅まで暗記する  "TADA-MASU" Memorize the Periodic Table from Atomic Number 1 (Hydrogen) to 29 ( Copper)
 前回までに28回を踏破し、7年目という大きな節目を乗り越えた「四谷音盤茶会(通称『タダマス』)」は、いよいよ新たな次元に踏み出そうとしている。ホストを務める益子博之は今週末に迫った次回『タダマス29』について「なんと前半は女性ヴォーカル特集」とFacebookでひっそりつぶやき、一方、相方の多田雅範は「現代ジャズシーンを特集する雑誌」の長時間取材に先日応じたばかりだ……と自身のブログで告白している。

 さらに多田はブログで次のように述べている。
 「それまで Jazz / Improv としてきた脳内が improvised jazz と統合されたパラダイムシフトによって感覚が変容したのであろうか、モチアンとプーさんがいなくなってからどうもなあチャーリーパーカーでさえ引き出しフレーズ連射にしか聴こえなくなってねえサウンドの風景はちっともインプロしてないじゃないかと与太をかますばかりになっている、」

 『タダマス』に通い始めた最初のうちは、一瞬で「ジャズ」出自とわかるサックス・ソロほとばしる演奏が、「完全即興」あるいは「フリー・インプロヴィゼーション」と呼ばれていることに強い違和感を覚えた。当時の私は、コンポジションとインプロヴィゼーションの間に線を引くだけではなく、イディオム的なインプロヴィゼーションと非イディオム的なそれの間にも越えがたい深い溝を見ていた。デレク・ベイリーの提唱したように、イディオムの枠内に閉じこもらない非イディオム的なインプロヴィゼーションこそが、演奏コミュニティを前提としない開かれた演奏、「フリー・ミュージック」としか呼びようのない新たな音楽のかたちを描き出し得ると、さして疑いもなく信じていた。
 それゆえ、たとえ演奏がサウンドの質感、特にサウンド・マチエールに焦点を合わせ、聴くことに潜む触覚的側面を顕微鏡的に拡大した音響的な交感や「物音」インプロヴィゼーションへと踏み出していたとしても、それが所詮は表面的な装飾だったり、「余白」や「余興」に過ぎず、本筋/本気の演奏は「ジャズ」の地平に立ち戻って行われるのであれば、何故にそれを「ジャズ」ではなく、フリー・インプロヴィゼーションと呼ばねばならないのだろうかと訝しく思っていた。

 しかし、その後も『タダマス』に通い続けたのは、やはりそこに何かが開けている感覚があったからにほかなるまい。毎回かかる未聴の音源に耳をなぶられ、翌朝になっても身体に残る(いや一層明らかとなる)まるで打ち身のようなずきずきとした痛みを、毎回、言葉へと引き渡していくことを続けているうちに変化が生じてきた。自分にとって確固たるものと思われていたフリー・インプロヴィゼーションの輪郭が揺らぎ、薄れ、溶解しはじめたのだ。
もちろんそれは『タダマス』だけの「効能」ではなく、たとえば田中珉との共演の録音である『Music and Dance』を通じて、ベイリーの放つ音が耳をつんざく周囲の環境音に叩きのめされるのを聴き、あるいはミッシェル・ドネダのソプラノが踏まれた草の茎が折れる音や枝葉のざわめきに身を沈めていく様に耳を澄まし続けたことの結果でもあるだろうし、フランシスコ・ロペスやジル・オーブリーによるフィールドレコーディングのうちに、決して作曲者/演奏者/制作者の意図には還元することのできない、豊かなざわめきや振動する生成を探り当て、それがベイリーやドネダの音世界と強力に結びついたことの産物でもあるだろう。

 いまやインプロヴィゼーションとは、イディオムの有無どころか、作曲やあらかじめ記された譜面の有無にすらかかわらず、あらゆる瞬間に潜在するもの/力能となった。「即興的瞬間」と呼ぶ所以である。これまでの『タダマス』音源において、こうした演奏のあり方を象徴するものとして強く印象に残っているのは、やはり菊池雅章『Sunrise』だろうか。

 しんと張り詰めた闇から、その闇をいささかも揺らすことなく、月光に照らし出された冷ややかな打鍵がふと浮かび上がり(吐息が白く映るように)、響きが尾を引いて、束の間、闇の底を白く照らし出す。重ねられた音は「和音」と呼ぶべき磐石さを持たず、宙に浮かび、そのまま着地することなく消えていく。それとすれ違いにブラシの一打が姿を現す。音は互いに触れ合うことなく、一瞥すら交わさずに、黙ったまま行き違う。
 ピアノ自体も同様に、次に現れた打鍵は先に放たれた打鍵と音もなくすれ違う。両者の間を線で結ぶことはできない。間を置いて打ち鳴らされる音はフレーズを編み上げない。そこに受け渡されるものはなく、ただ、余韻だけを残して現れては消えていく音。その只中に突き立てられたベースの一撃が、それらがやがて星座を描くかもしれないとの直感を呼び覚ます。
 ジャン=リュック・ゴダール『気狂いピエロ』冒頭のタイトル・クレジットは、クレジットの各単語がそれを構成するアルファベットの単位に分解され、A・B・C‥‥と順に映し出されていく。だが、そうした「コロンブスの卵」的な単純な仕掛けに気づいたのは、始まってしばらくしてからで、最初のうちはそれがクレジットであることにすら気がつかず、モールス信号を思わせる離散的な配置で、赤い布石や青の石組みが、間を置いてすっと画面に現れていくのを、はらはらしながら、ただ黙って見詰めていることしかできなかった。原色によるフォントのオフビートな明滅に、観ている自分が次第に照らし出されていく感覚がそこにはあった。『Sunrise』冒頭曲の始まりの部分は、その時の張り詰めた気分を思い出させる。
 出来上がりの絵柄に向けて(彼らは寸分違わず同じ「景色」を見ている)、各演奏者が一筆ずつ、セザンヌにも似た矩形の筆触を並べていく。その順序は決してものの輪郭に沿っているわけではなく、連ねられて線を描くわけでもなく、まさにゴダール『気狂いピエロ』冒頭の、あの明滅の感覚で筆は置かれていく。もちろん音は虚空に吸い込まれ、スクリーンに映し出されるフォントのように積み重なることがない。しかし、それでも消えていく余韻を追い、それとすれ違いに現れる次の音の響きを心にとどめることを繰り返せば(通常これはゆったりと引き伸ばされた旋律を追う時のやり方だが)、ピアノの打鍵、ドラムの一打、ベースの一撃が互いに離散的な網の目をかたちづくりながら、それをレイヤーとして重ね合わせている様が見えてくる。
 「網の目」と言い、「レイヤー」と言い、いかにも緊密な組織がそこにあるように感じられてしまうとしたら、それは違う。繰り返すが、音はフレーズを紡ぐことがない。別の言い方をすれば、閉じたブロックを形成しない。ピアノの、ドラムの、ベースの、それぞれ先に放たれた音とこれから放たれる音の間は、常に外に向けて風通しよく開かれていて、幾らでも他の音が入り込めるし、実際入り込んでくる。しかし、そこでは線が交錯することはない。もともと彼らは線など描かないからだ。
ここで菊地たちは先に述べたように寸分違わぬ同じ「景色」を眺めながら、「同期すること」の強度を究めようとしていると言えるだろう。【同じ景色を見詰めること―菊地雅章トリオ『サンライズ』ディスク・レヴュー(※)】
※http://miminowakuhazushi.blog.fc2.com/blog-entry-170.html

 ジャズが痛いほどに「しん」と透き通り、白く光る骨や薄青い血の流れが浮かび上がり、眼前を横切るインプロヴィゼーション。『サンライズ』がかかったのは『タダマス5』の時だから、もう6年も前のことになるのか。

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 津田貴司と続けてきたリスニング・イヴェント『松籟夜話』(その発想の源のひとつは、もちろん『タダマス』である)がめでたく10回を迎えたところで、これまでの成果を振り返りつつ文章にまとめようとして、ずっと苦労している。各回、いずれもかなり深いところまで潜れた手応えがあるのだが、それをなかなか言葉にできない。
 その津田やtamaru、大上流一や高岡大祐の演奏を最近ずっと追いかけてきて、こちらも演奏の豊かさを、距離を隔てた視点から凝視し克明に記録するのではなく、あるいは音へと身を投じ響きに溺れてまぐわうのでもなく、両者を往還し包摂して聴くことの「厚み」がようやく触知できてきたように思うのだが、こちらもそれを叙述できない。
 困り果てて、何かヒントはないものかと手当たり次第に本のページを繰っているうちに、次のようなくだりに行き当った。

 「アンリ・ミショーは、クレーの色はまるで緑青や黴が『しかるべき場所に生えてくる』ように、原初の奥底から発生し、ゆっくりとカンヴァスのうえに生まれくるように思われるときがある、と語っている。芸術は構築、技法、空間と外部世界への技巧的関係ではない。それはまさしくヘルメス・トリスメギストスが『光の声に類似した』と言った『不分明な叫び』である。そして、その叫びはいったん発せられると、日常の視覚のなかに、ひっそりと眠り込んでいた〔物質化される以前の〕先在的諸力を呼び醒ます。水の厚みを通してプールの底のタイル床を見るとき、私は水や水面の反射にもかかわらずそのタイル床を見るのではなく、まさに水や反射を通して、水や反射によって見るのである。」【モーリス・メルロ=ポンティ『眼と精神』 富松保文訳】

 「さらに言えば映画においては、画面が一つの意図に収束することなど皆無であり、むしろ意図せぬ様々な細部が映りこんでしまっているものこそ、フィルムなのだ。(中略)蓮實重彦は、それをよく『フィルム的現実』『複数の要素の同時共存の場である映画』と形容していた。まさに『フィルム的現実』に寄り添うために、ひたすらスクリーン上にある光と音に身を晒し、視界を横切る運動、網膜の奥を突く光の明滅、脳髄を刺激する音声の抑揚……つまりは、現在進行形のすべての刺激に、無媒介的にオープンであり続けること。作者がどんな意図でそれを作ったのかは『どうでもよろしい』わけで、フィルムが映写機にかけられるより《過去》の出来事(作品の制作)と、フィルムが映写されている《現在》を切り離すことこそ、映画批評であるべきスタンスではないか、とずいぶん早い時期より看破していたのではなかろうか。」【舩橋淳「蓮實重彦/峻厳な切断」 『ユリイカ』2017年10月臨時増刊号「蓮實重彦」】

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「汀」 原田正夫


 言葉を書きつけ、そこに何かを引き渡し、委ねる。思考を外化することの利点は、それを「対象」として分析・操作できることにあるが、無論ご利益はそれだけではない。考えに行き詰ったことがあるものなら誰でも身に染みて知っているように、場所を明け渡し空っぽにすることにより、煮詰まった脳内にスペース(余白、隙間)が生まれるのだ。これにより強迫的な堂々巡りが止んで、鬱血/硬直していた思考がまた柔らかく揺らぎ始め、違う風を感じ、新たな香りに鼻をうごめかし、別のことに思いを巡らすことができる。
 『タダマス』は思考を触発し、何より言葉を誘う。それは確かな耳が選び取った強度に満ちた演奏のためかもしれないし、思いがけぬ類似を浮かび上がらせ、あるいは対比を際立たせる趣向を凝らした構成/配列のためかもしれないし、紹介される音源がすべてパッケージされた録音作品からの抜粋であるという共通の枠組みのためかもしれないし、あるいはやはり多田の予測不能に疾走するボケと益子の鋭く乾いたツッコミ、その外側を衛星のように巡りながら異なる視点を提供するゲスト、それぞれの眼差しや表情の雄弁な交錯と変化、そしてもちろん言葉が多方向から衝突/散乱し、さらにそれを取り巻く参加者が思い思いの方向に乱反射させるためかもしれない。

 この週末、4月22日(日)は『タダマス29』に行って、そこで一期一会の音との邂逅に身を沈め、一瞬ごとの「現在」に集中し、その残響を言葉へと譲り渡すこととしよう。そうすればいい加減慢性化した脳髄の腫れも引いて、その隙間に、別の角度から新たな光が射し込むかもしれない。

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益子博之×多田雅範=四谷音盤茶会 vol. 29
2018年4月22日(日) 
open 18:30/start 19:00/end 22:00(予定)
ホスト:益子博之・多田雅範
ゲスト:則武 諒(ドラム奏者)

今回は、2018年第1 四半期(1~3月)に入手したニューヨーク ダウンタウン~ブルックリンのジャズを中心とした新譜CDをご紹介します。
ゲストには、ドラム奏者の則武 諒さんをお迎えすることになりました。バークリー音楽大学出身で、ストレート・アヘッドなジャズから即興音楽まで幅広い領域で活躍される則武さんは、現在のニューヨークを中心としたシーンの動向をどのように聴くのでしょうか。お楽しみに。


 すでにお気づきと思うが、上に前掲している『タダマス29』のフライヤの写真素材は、中ほどに掲載している原田正夫「汀」にほかならない。「汀」はFacebookに投稿された写真だが、本作に先立って投稿されたコンクリート壁面のペンキ跡だという写真(氷が張った上に薄雪が積もった水面を覗き込んでいるようにしか見えない)、そして本作に続く「潬」と題された写真と共に、実際には存在しない奥行き方向(前後/浅深)に行きつ戻りつ視線が揺さぶられる感覚に魅了されるとともに、先に挙げた津田貴司やtamaru、大上流一や高岡大祐の演奏に感じた透明・半透明な層/厚み/深さの感覚との共振ぶりに驚かされた。白川静によれば「潬」のつくり部分は、壺状の器中にものを満たしているかたちを示し、長期にわたって味付けし、醇熟する意味であるという(うまい、ふかい、おおきい)。これにさんずいが伴う「潬」は水に関連し、「ふかい」、「ふち」を意味する。この感覚がメルロ=ポンティの指差す「プールの底のタイルの床」や蓮實の言う「複数の要素の同時共存の場である映画」(それは決してスクリーンという同一平面上の並置ではなく、パン・フォーカスな奥行きの中での共存、あるいはフォーカスや画面の枠からも外れた中での共存をも含んでいよう)に私の指先を立ち止まらせたのだろうか。
 しかし、それにしても、何と不可思議なシンクロニシティであることか。







ライヴ/イヴェント告知 | 23:15:11 | トラックバック(0) | コメント(0)
はるか前方を疾走する自分の見知らぬ背中  Unfamiliar Back of Myself Running Fast Far Ahead
 前回掲載の「タダマス28」の案内記事に対し、ホストのひとりである多田雅範が、自身のブログで素早く鋭いリターンを返してきた。
 http://www.enpitu.ne.jp/usr/bin/day?id=7590&pg=20180125

 冒頭からいきなり、思っても見ない方向から球が飛んでくる。

 タダマス(益子博之+多田雅範)、7年、これだけ性格も耳の特性も女性の好みもチガウ二人が一度も仲違いせずに、耳の経歴も愛聴曲もチガウ二人が、こと現代ジャズに関しては”ほぼ一致した見解に”到達し続けていて、それが世界のメディアやジャーナリズムとほぼ同じ風景となっていることは、「亀戸ホルモンたべてえなあ」「月光茶房いつ行こうか」とだらだらしている不良中年二人のユルさからは想像もできないくらい、すごいことなのではないのか、

 ‥‥って「自慢するのはそこかいっ」と、思わずモニターの前でツッコミを入れてしまい、まんまと多田の術中にはまってしまう。


 打ち合わせで益子さんちで新譜チェックをしていると、ああこの人は音楽の神さまに選ばれているなと思う、畏怖さえ感じることがある、つまりはタダマス四谷音盤茶会とは益子セレクトそのものが批評なのだ、どうやって知ったの、どうしてこの曲なの、これは何の音なの、矢継ぎ早に質問をしてはオレは手にしていない耳の着眼点を探ってゆく、

 ‥‥と多田の書き込みは続く。最後の部分に注目。彼は矢継ぎ早に質問を発する。だがそれは「(彼がまだ)手にしていない耳の着眼点」を探るためであって、聴取の体験を音源に関する情報の束に還元するためでは決してない。ここで質問を発した彼は、答を待つ彼の身体を置き去りにして、発せられた質問を追いかけて疾走しているのだと思う。次々に発せられる質問は、多方向に伸びていくセンサーの触手であり、ここぞという箇所にたどり着いては、深々と探査のためのゾンデを挿し込み、内部のうごめきを聴診する。

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 「集まって聴く、と、音楽は様相を変える、のは、スピーカーや空間特性のせいだけじゃないだろう」(多田雅範)。
  ”それは人目を気にするとか、「同調圧力」などとは異なる。他の者が同じ対象を注視していると肌で感じながら聴くことにより、音の出し手と受け手の1対1幻想が崩れ、対象への自分勝手な自己投影が成立しなくなる。聴取はナルシスティックに自己完結せず、不安定に移ろいながら開かれることとなる(映画館がなぜ今でも館内を暗くし続けているのか考えてみよう)。”(福島恵一)

 ‥‥と私の記述を引用しながら、多田は次のように高らかに宣言する。

 オレの武器は「1対1幻想」に属する比率がべらぼうに高いところ、何たって音楽は人格だからね、その、独りで聴いている感想、が、タダマス会場では一瞬にして消失してしまい、まるで初めて聴いたかのような体験に晒されているような感覚になって、何かを口走っているようなのだ、ワタシはそのワタシを後方から眺めているに過ぎない、ってカンジ、

 ここで「タダマス」の場は、「1対1幻想」という強力極まりない認識・思考の制度を解体・無化してしまう空間として描き出されている。これは通常のレクチャーが暗黙の前提としている「教室型」の空間スキームとは正反対だ。「教室型」では正解はただひとつであり、それは「教師」が隠し持っている。正解の愉悦も、不正解の落胆も、正解にたどり着いたと信じる者たちの交わす親密な目配せも、逆にたどり着けていない者たちがあからさまに共有する床に落とされた視線と丸まった猫背も、この秘匿された正解のもたらす権威の産物にほかならない。
 しかし「タダマス」では、普通なら正解を背中に隠し持っているはずのホストが、「まるで初めて聴いたかのような体験に晒されているような感覚になって、何かを口走って」しまう。そのイタコの口寄せにも似た託宣は、初めて聴く音に触発されて各参加者の脳内に生じた不定形の思考を、さらに励起し解き放つことになる。多数の「1対1幻想」を束ねて、安定した「1対多幻想」のピラミッドを築くのではなく、「1対1幻想」からそれていくクリナーメンの運動を活性化し、錯綜する「雲」をつくりだすこと。

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 「タダマス」での「託宣」について多田はFacebookにこう書き込んでいる。「直前まで思ってもみなかったことを言っているなあと思うことがある」
その時、「直前まで思ってもみなかったことを言っている私」は、「直前まで思ってもみなかったことを言っているなあと思う私」のはるか前方を疾走しているのだ。矢継ぎ早に為される質問の射出速度よりも速く。次の瞬間、はるか遠くに小さく揺れていた見知らぬ背中が突然大きくなり、眼前に迫ったかと思う間もなく私の輪郭と重なり合い、いまここに座っている。益子が次の曲の紹介を始めている。「タダマス」はまだ終わらない。

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ライヴ/イヴェント告知 | 00:11:26 | トラックバック(0) | コメント(0)
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