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福島恵一

Author:福島恵一
プログレを振り出しにフリー・ミュージック、現代音楽、トラッド、古楽、民族音楽など辺境を探求。「アヴァン・ミュージック・ガイド」、「プログレのパースペクティヴ」、「200CDプログレッシヴ・ロック」、「捧げる-灰野敬二の世界」等に執筆。2010年3~6月に音盤レクチャー「耳の枠はずし」(5回)を開催。2014年11月から津田貴司、歸山幸輔とリスニング・イヴェント『松籟夜話』を開催中。

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禁欲的空間に流れる享楽的時間 ― 内田・大上・森重ソロ・ライヴ@ペルミアン  Epicurious Time in Stoic Space ― Live Review for Solo Improvisation of Uchida, Daijo, Morishige@Permian
 東急目黒線不動前駅から山手通りに出たあたりを歩いていると、環状6号線として後から整備された道路が、先にあった細街路網を斜めに貫いたからだろう、通り沿いに薄く削がれたような細長い三角形の敷地があちこちにあることに気づく。そうした敷地に建てられたカステラの切れ端みたいなテナント・ビルの鋭角に尖った角に、まるで巨大な掘削ドリルのように突き刺さった狭くて急な螺旋階段を降りると、何の表示もない殺風景なドアに突き当たる。先ほどまでの交通騒音と飲食店の賑わいが入り混じったざわめきは、もはや頭の上を吹き抜けるばかりで、ここはどこか取り残されたようにひっそりとしている。ドアを開けると、ピアノ用の椅子と小型のモニタースピーカーだけが置かれた、さらに音も色もない空間が広がっていた。

 まったく気持ちいいくらいに何もない。大上流一と増渕顕史という二人のギター奏者が運営する目黒・不動前のライヴ・スペース「Permian」は、彼らが希求しているストイックな集中をそのまま具現化した空間にほかなるまい。コンクリート・ブロックが積み上げられた壁、パイプが剥き出しのスラブ裏、小劇場にありそうな長いまな板様の板を渡した座席。モルタルの床は黒く塗られ、すぐ下に分厚いコンクリートがあるのか、叩いてもコツコツと鳴るばかり。30センチ四方の蓋状の部分だけが虚ろな響きを返して、下に空間があることを教えてくれる。スペースは居抜きのままなのかと大上に尋ねると、天井を剥がして高さを確保したとのこと。改めて見上げると、確かに2メートル程度のところに跡があって、そこから約50センチ上がっている。パイプをむき出しにしたものだから、最初、排水管の音がすごくて‥‥とこぼす。音が漏れないように工事をしてもらったが、それでも結構聞こえる時があるのだそうだ。そう話している時に、ちょうど暴れた音が噴き出してきた。決して大きい音ではないのだけれど。

 開演までの間、目を閉じて耳を澄まし、会場の響きに身を沈める。ライヴ前に行ういつもの個人的な儀式。コンクリートで密封された、エアー・ヴォリュームの小さな箱だけれど、音の行き場がなく響きすぎて鳴りやまないということはないようだ。先ほど話していても不自然さは感じなかった。1階の店舗で椅子を引く音がわずかに聞こえる程度で、外の音はほとんど入ってこないけれど、密閉された息苦しさを感じることはない。それでもコンビニのレジ袋の立てるパリパリいう音、新聞か何かをめくるさわさわした紙の響きが大きく耳元で響くのに気づく。これは以前に宇都宮の大谷石地下採掘場跡で体験したのと似た現象だ。擦れる音に多く含まれる高域成分の反射率が高くなっているのだろう。

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 最初に演奏する内田がヴォリューム・ペダルやエフェクター類の準備を始める。あまりの静かさに振り返って、「緊張するなあ」ときまり悪そうに笑う。
アコースティック・バス・ギターのソロ演奏。右手と左手がパシッと弦をとらえ、振動させると同時にミュートする。ブーンとPAから小さく鳴り続けるノイズの手前で、一瞬だけまたたく光源。けっしてまぶしくはない明滅を見詰め続けると、閃きの後に広がる余韻の揺れが見えてくる。ふっと浮かんでは、すぐに薄らいでいくほのかな明かるみ。メロディを紡ぐことも、リズムを刻むこともなく、一音一音、ふっと浮かんでは、すぐさま薄らいでいくほのかな明かるみは、琵琶の響きが丸くなったようにも聴こえる(あの張り詰めた彫りの深さはない)。暗闇で次第に眼が冴えてくるように、先ほどまでは気づかなかった外の音が聴こえ始める。車の通行音の向こうに山手通りを高架で渡る目黒線の車両らしき音が浮かぶ。ふと現れるアルペジオのもたらす叙情。階上から響く椅子の音。複数の弦をこねくり回す右手と指板の上を子ネズミみたいにパタパタと走り回る左手。左手のポジショニングが指定した音高を右手が顕在化させるというより、ある一瞬に右手と左手が交錯し、ぶつかり合う。だが、それは決して身体の運動に任せた、行き当たりばったりなオートマティズム(自動筆記)ではない。そこには一瞬ごとのゆるやかな切断がある。さらさらした水音が浮かんでくる。結局彼は1回もペダルを踏み込むことなく、接続したエフェクター類をまったく使わぬまま演奏を終えた。


 使われることのなかったスピーカーが後ろの壁際に片付けられ、大上はピアノ用の椅子の高さを慎重に調節すると、ケースからアコースティック・ギターを取り出し、そのまま何気なくすっと音を出し始めた。弦の調子を確かめているのかと思ったら、単音の連なりに弦を擦る音が混じり、すでに演奏が走り出していることに気づく。
音の明瞭度は凄まじく、ギターの輪郭が消え失せ、中空で何の支えもなく、音だけが鳴っている。弦の振動に放たれた音響は、通常のように周囲の空気を震わせ、波となって空間を渡り、聴き手の耳へと届けられるのではなかった。中心部で何かが爆発し、四方八方に閃光が迸り、その瞬間に聴き手の身体を貫き通す。途中でこぼれ落ちるものの何もない「ロスレス」な空間。
ここでゆるやかに連なり、大きな弧を描き出すひとつひとつの音は、決してメロディやフレーズに組み込まれ/囚われた「部品」的存在ではない。あるかたちを描き出しながらも、それらはそれぞれ異なる距離に位置し、互いに違う方向に動いている。星座を構成する星々のように。あるいは一見脈絡なく、切れ切れに想起される夢の中の場面のように。ゆったりとした運び、深い呼吸。ゆるゆると密やかに進められる演奏は、だが断固として、あらゆる瞬間に、あらかじめ敷設された木道を外れ、音響の原野へとさまよい出ることをやめない。
 振り下ろされたピックが弦に触れることなく空を切る。通常、「空ピック」とはリズムをキープするための手法なのだが、ここではむしろリズムを音のもつれや交錯に、あるいは異なる間合いの重ね合わせへとほどいていくために用いられている。きらきらと鮮やかに輝く音列の陰にぼんやりと滲んだ文様が沈み、音のかけらがはらはらと散り落ちていく。かすかな水音が床を這うようにずっと続いている。


 演奏を終えた大上がギターと椅子を片付け、本当に空っぽの舞台が姿を現す。森重が改めて愛用の椅子を組み立て、床のチェロのエンドピンが当たる位置にスペーサーをセットし、ケースから楽器を取り出す(アンプは用意していない)。その都度、ゼロ・リセットされる空間。
 弦のかすれ。幽玄な響き。運弓の加減速が、磨き上げられた鏡面からごろごろと岩だらけのひび割れた大地に至るまで、音響表面の肌理を露わにする。直接ぶつかってくる音の鮮烈さが凄まじい。
彼の演奏は、垂直に立ち上がり、真っ逆さまに響きの深淵を覗き込む、たぎるような音の強度に満ちたものから、音響宇宙の探索を終えて、次第に音素材を限定し、それらを組み合わせる語法の洗練へと向かっているのではないか‥‥。ぼんやりとそんな風に感じていたところを、ソロ2作目となるCD『ruten』にいきなり横っ面を張り飛ばされた。圧縮され煮えたぎった、凍り付き張り詰めた、顕微鏡下で眼の眩むほど拡大された、どうやって録音したのかわからない、とても生では体験不可能な音響の強度が、そこには台風で水かさを増した濁流のようにうねっていた。
 Permianの「ロスレス」な空間は、彼の演奏の苛烈さを余すところなく曝け出した。弓を弦に打ち付け、そのまま弾き切る際の隆起と溶融。深く切り込む弓弾きに僅かに混ぜられるリュートの爪弾きにも似たピチカートの粒立ち。駒に当てられた弓が放つ裁断されたばかりの白木のつんとした香り。テールピースの上を繰り返し繰り返し折り返す弓の動き/滾々と湧いてくる深い深い響き/弓が駒に近づくと弦の鳴りがぼうっと燃え上がる。

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 この2月20日(火)のライヴの後、24日(土)にPermianでソロ演奏したtamaruが、この場所について、次のように述べている。
「ペルミアン」について演奏する側から感じたのは、心の鎮まり方が違う!本気度の高い空間です。あの地下空間に足を踏み入れること自体、特別な体験のような気がしてきます。

 ストイックな集中のために、余計なものをすべて取り除いた部屋。しんと静まり返りながら、ぴりぴりと励起し、張り詰めた中で常に何かが生じていて、それらの生成が全て音響/振動となり、身体へと漏れなく届けられる空間。耳だけで聴いていたのでは足りない、聴取の、聴取による、聴取のための場所‥‥。そんな風に言うと、禁欲的な誓いを立てた者だけが立ち入ることを許される修道院や禅寺の僧坊のような誤った印象を与えてしまうかもしれない(笑)。もちろんそんなことはない。頭も身体も空っぽにして、聴取にすべてを捧げ、音に身を浸し、満たす。それ以外何もない贅沢で享楽的な時間がここにはある。

 明日3月2日(金)は、この日、それぞれソロで演奏した大上と森重が、今度はデュオでPermianに登場する。彼らは以前に大上の企画するShield Reflectionのシリーズにより、水道橋Ftarriで3回に渡り演奏し、いずれも、思考の、呼吸の、皮膚感覚の推移が、そのまま音と化したような極端な純度の高さが素晴らしかった。参照項として、Derek Bailey&Barre Phillips『Figuring』(Incus)とDerek Bailey&Joelle Leandre『No Waiting』(Potlatch)を挙げておこう。彼らの演奏はPermianの「ロスレス」な音響空間との遭遇で、どのような変容を遂げるだろうか。楽しみだ。


2018年2月20日
目黒・不動前Permian
品川区西五反田3-14-4 Kakutani レイヴァリーB1
内田 静男(acoustic bass guitar)
大上 流一(acoustic guitar)
森重 靖宗(cello)
すべてソロ演奏

写真はいずれも2月24日tamaru撮影。




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ライヴ/イヴェント・レヴュー | 23:26:52 | トラックバック(0) | コメント(0)
共振する息、蘇りの空間 ― Dead Man's Liquorライヴ・レヴュー  Resonant Breath, Revenant Space ― Live Review for Dead Man's Liquor
 「Dead Man's Liquorは俺の人生最後のバンドになる」と高岡大祐がFacebookに書き込むものだから、「これは体験しておかないと一生後悔しそうだし、行かなかったせいで、あんなデカいのに化けて出られてはたまらない」と初めて訪れた阿佐ヶ谷Soul玉Tokyo。トロンボーン、チューバ、ギター、ドラムという、チューバがフロントとベースを目まぐるしく兼任する4人編成での彼らの初ライヴは、「なるほど」と納得させる素晴らしい出来だった。ただ、その時に高岡が「次からはベースの瀬尾高志が入ります」とアナウンスしたのが、ずっと気になっていた。

 チューバがフロントに徹すると、アクロバティックな「綴じ目」が消失して、何というか「フツー」になってしまうのではないか‥‥などと危惧していた私がバカだった。今回、高岡の現在の「地元」(居所かつ勤め先)たる十条に現れた5人組の彼らは、以前とは全く別のイキモノだった。まず馬力が違う。冒頭のローランド・カークの曲で、チューバとトロンボーンががっちり四つに組んだテーマ吹奏の分厚いこと。「ゴジラ、ニューオリンズに現る」だ。ソロでは天井に向けて音が噴き上がり、ベルがこちらを向けば波動砲が飛んでくる。コントラバスはアンプをつないで、ラインを深く彫り刻み、ブローで内側を鋭くえぐる。エレキ・ギターはブラス2本の波間からイルカのように鮮やかに身を躍らせるかと思えば、リズミックなリフを執拗に繰り返し、ここぞとばかりにドラムを煽りまくる。

 ドラムの藤巻鉄郎こそは本日のMIPだろう。客席も、ステージ上の演奏者たちも熱狂の渦に巻き込んだ、スティックを折るほどの底なしの叩きまくりドラム・ソロは、確かに絶賛に値する。しかし、私としてはそれ以上に、高岡や後藤篤のオリジナル曲ではなく、「朝日の当たる家」や「ヘイ、ママ」といった「構造化されていない曲」で、思いっきりフレーズをうねらせ、音を揺すり、サウンドを濁らせて厚みを増し、地響きを立ててのしかかってくる他の面々の「濃い」サウンドに対し、決して隙間を埋めてしまうことなく、切れ味鋭い打撃でくっきりと空間を確保し続けた(「リズムをキープし続けた」ではないことに注意)営為を何よりも高く評価したい。これにより互いの音が風通し良く「交通」する空間が生まれ、この奇跡のアンサンブルが成立し得たといって過言ではない。影のMVP。

 一方、バンマスの高岡は、曲間にトイレに行ったメンバーが戻るまでMCで穴埋めし、「サイコー」を連発して、感極まって叫び踊り出すだけでなく、ステージ上でのリアルタイムのアレンジメントに冴えを見せていた。律儀なまでに順番にソロ回しをするかと思えば、いきなりリズム隊(ギターを含む)だけを放り出して自力で局面を切り開かせ、後藤に耳打ちして2管の短い掛け合いを挿入し、自らのフレージングでテンポの加減速を仕掛ける。

 話を再びフロントの2管に話を戻すが、後藤篤が当日の感想をFacebookに書き込んでいて、「あんな息の量にスピードかけて吹く事はそう無いんだけど、高岡大祐のチューバと2管だと単純にああなるんだよ」と告白している。フレーズでも、音色でも、音量でも、ましてや音程でもなく、息の量とスピード。素早く手が動いて頬を叩き、優しく髪を撫でる‥‥それと同じように熱く火照った息が聴き手の身体に触れてくる。楽器を鳴らすために息を吹き込むのではなく、身体から息が走り出て、息同士ぶつかり合い絡み合い、噴き上がり舞い降りて、押し合いへし合いし、別の息と混じり合う。ここで楽器の管は、演奏者と聴き手を、そしてもちろん演奏者同士を結ぶ「伝声管」にほかならない。

 だが、この日のMVPは、藤巻でも、高岡でも後藤でも、桜井でも瀬尾でも、瀬尾の幼い愛娘でもなく、会場となった十条cinecafe sotoの空間ではないか(Most Valuable Place)。阿佐ヶ谷の倍以上幅のあるゆったりとしたステージと天井の高さ、客席の奥行きとのバランス、エア・ヴォリュームの大きさとアコースティックが、すべて確実にプラスの方向に働き、彼らの特質を引き出していた。客席左手に広がるバー・スペースも、響きが充満・飽和しないために重要な役割を果たしていたと思う。店名通り、フィルムによる映画上映を行うために据えられた35mm用映写機が、ステージ後ろの壁にくりぬかれたガラス張りの開口部の向こうに、守護神のように鎮座していたことも、高岡がMCで何度も語ったように、酒と死に彩られた生、生と音楽に縁取られた死、この一瞬に蘇りとめどもなく噴出する「記憶」をテーマとする彼らにはふさわしかった。最高の環境と舞台装置。屈託なく歓声を挙げ、手拍子をする聴衆も決して内輪ノリではなく良かった。ぜひまた、この場所で演奏してほしいと願っている。

180220シネカフェソト縮小
写真は仲摩武二郎様のFacebookより転載させていただきました。


2018年2月20日(火)
十条cinecafe soto
Dead Man's Liquor
 高岡大祐tuba
 後藤篤tb
 桜井芳樹g
 瀬尾高志b
 藤巻鉄郎ds


【オマケ】
 十条が新宿から埼京線で11分と意外に近いことを知ったのも今回の成果だった。それでも出発が遅れ、高岡がFacebookで紹介していた店で腹ごしらえしようと考えていたのだが、それでは開場時刻に間に合わずオアズケに。でもそれがかえって幸運で、cinecafe sotoのフードのうまさを知ることができた。今回、2ドリンクか1ドリンク・1フード付きとのことで、最初、1フードとしてパイ生地から手作りだというキッシュを注文。ゴロリと大きめの具材のうまさに、調子に乗ってチリコンカンのバターライス添えも追加オーダー。これもうまかった(かなりホット)。鶏唐揚げのポテトサラダ添えにも惹かれたが、さすがに自粛。
 なお、前述のように空間の面白さは特筆モノ。駅前ロータリーからいきなり地下へと降りる階段は後から取り付けたらしく、階段を上がって左手に回り込むトイレへの動線空間があり得ない形状をしている。劇場の舞台裏とかに近い。地下の壁沿いにあった階段(LP置き場になって封鎖されている)も、それ風だった。本当に映画館だったのかもとスタッフに訊いてみると、元は牛乳屋で、地下はその倉庫だったとのこと。だけど牛乳屋の倉庫ってこんなに広いのか。乳牛でも飼ってたのか。まったく訳が分からない。バー・カウンター周りはラウンジ風の仕上げで、手製と思しきピカピカの管球アンプがセッティングされている。ステージの裏側にある映写室を覗くと、フィルム・リールの置台が不思議な形をしていて、レトロ・フューチャーなオブジェみたい。フランソワ・バシェの音響彫刻にも似ている。
十条cinecafe soto(シネカフェ ソト)
東京都北区上十条2-27-12 スズキビルB1
TEL/FAX 03-3905-1566
http://www.cinecafesoto.com/




ライヴ/イヴェント・レヴュー | 00:15:35 | トラックバック(0) | コメント(0)
補助線の効用―『タダマス28』レヴュー  Additional Lines Are Useful― Review for "TADA-MASU 28"
 前回欠席したため半年ぶりとなった『タダマス28』は、益子による選択・配列と多田の放言が冴え渡る回となった。前半が「ギター特集」で後半が「ピアノ特集」と紹介された、この日のプログラムは、その「分割」を越えて、幾つもの照応の線を縦横に走らせ、聴取の豊かな可能性を明らかにしていたように思う。
 このことを示すため、今回のレヴューでは『タダマス28』で採りあげられた全作品に言及するが、それでも特定の視点/切り口からの紹介であり、「タダマス」の特長であるホストとゲストのやりとりを含めた全貌を示すものとはなっていないことを、あらかじめお断りしておく。


 開幕はMary HalvorsonとMiles Okazakiのツイン・ギターによるMasada曲集『Paimon - Book of Angels Volume 32』(Tzadik)。Masadaとはジョン・ゾーンがオーネット・コールマンのオリジナル・クワルテットのピアノレス編成をあえて引用しながら、徹底的な解体/再構築によりクール・ジャズ化=ジャズの白人化を極限まで推し進め、これによりジャズにオマージュを捧げるという、ジェイムズ・ジョイス的とも言い得るハイ・モダニズムの欲望を露わにしたプロジェクトだった。しかし、ここにはもはやそうした針の振り切り加減はなく、色とりどりの線が互いに速度を競いつつ、表裏が不断に入れ替わり、ねじれながら伸長していく極めて抽象的な世界が開けていた。続くHalvorsonとBrandon Seabrookのツイン・ギターがダブル・トリオ編成に組み込まれたTomas Fujiwara『Triple Double』(Firehouse)では、各演奏者の関係性が縦横に整理されてしまうが故か、演奏の駆動力がいささか欠けるように感じられた。
 

 三枚目、Seabrook の参加したVinnie Sperrazza Appocryphal『Hide Ye Idols』(Loyal Label)でいよいよエンジンが暖まってきた印象。アルト、ギター、ベースが一体に溶け合った持続音が水平にたなびき、時折打ち鳴らされるシンバルの余韻が輝きを放つ。誰とクレジットされていない電子音の細やかなさざ波が空間を遷移し続ける。ここでエレクトロニクスはそれ自体ひとつの音響として鳴り響くだけでなく、他の楽器の響きの一部を採取して、空間の各所に転移/増殖させているように感じられる。順に一次元、二次元と来て、響きの奥行きが三次元的に感じられる本作品の空間性は、だがこの電子回路の作用により、暗闇に仕込まれた幾つもの合わせ鏡のような不可思議な反射/転写ぶりを示しており、虫食い穴だらけの、きっちりと割り切れない余剰の次元を持つように感じられてくるのだった。そのSeabrookのリーダー作『Brandon Seabrook's Needle Driver』(Nefarious Industries)では、三枚目で遍在していた電子の雲はギターのエフェクトへと集約され、弦から迸り出る渦巻きねじれるリフレインから、破片となって改めて四方へと飛び散っていく。これだけを聴いたら「空間系エフェクト使いの巧みさ」とだけとらえられかねない達成が、ここまでの一連の展開により細部まで照明を当てられることになる。だがしかし、益子が「オルタナ・メタル的」と紹介していたように、フランク・ザッパの曲をロバート・フリップが演奏しているような、複雑な構成が眼前で組み変わる「合体ロボ」的快感が魅力なのも確かだ。
 

 対してTodd Neufeldを含むas, tb, gのトリオによる『In Formation Network』(Nuscope)は、全く異なる方向から空間に眼差しを送る。ジョン・ゾーンのプロジェクトNews for Lulu同様、Jimmy Giuffre, Bob Brookmeyer, Jim Hallのトリオに範を得た演奏は、オリジナルの二管が織り成す対位法的な絡みと推移するギターとのリズミックな照応とも、News for Luluの変形自在な速度溢れる流動感覚とも異なる達成を成し遂げていた。それはひとことで言うと、異なる温度の空気が相互に浸透しあうような、気体同士が入り混じる感触だ。ぶつぶつと静かに唾液が泡立つアルトがフレーズをどこまでも引き伸ばし、ゆるみほどけて音自体の重みで落下してしまいそうなところをトロンボーンの持続音が裏打ちし、煙が漂うように支えている。上下に重なり合っていることは明らかながら、輪郭が溶けて曖昧な二管の音色に満たされて深さの見通せない空間の奥の方で、ギターの点滅が奥行きを構成する。演奏が進むにつれ、三者の音はさらに脆く壊れやすさを増しながら、谷へと舞い降りる雲や霧が溶け合うように入り混じる。濃霧に視界が閉ざされる中でもつれ合う息の指先。実はここでプレイされたトロンボーンのヴァーチュオーソSamuel Blaserのペンによる曲「Pieces of Old Sky」は、本作中に2テイク収録されており、比較のために益子もうひとつのテイクの冒頭部分を披露してくれたが、そちらはフィギア・スケートに「トリオ」という種目があったらかくや‥‥と思わせる自在に役割を交替しながらの滑らかな運動性を、オリジナルやNews for Luluと共有するものだった。そちらがtr.2なのに対し、採り上げられた音源が最後のtr.9に置かれていることが、その特異さを示しているように思われる。
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 後半の幕開けはManasonics『Foley』(dStream)。「ピアノ特集」と言いながらBenoit Delbecqのピアノは決して前景化することはない。「映画の音響設計を担当している」と紹介されたNicolas Beckerの手腕なのだろう、シンバルの震え、ピアノの遠い響き、シンセサイザーの不気味な屈折が、粒子の粗いモノクロ画面の中で野外の音や鐘の響き、語られるセリフと対等に混じり合う。実に見事な音響空間の構築ぶりではあるのだが、これならDelbecqがピアノを弾く必要はなく、Steve Stapleton(Nurse with Wounds)にファウンド・テープを渡せば済んでしまうのではないかとも思う。その一方で、一見、器用貧乏風にいろいろ風変わりなことに節操なく手を着けているように見えるかれが「同じことを繰り返しながら深めている」(多田)のも確かなのだが。
 このように曖昧な不透明性を有する本作が後半の冒頭に置かれ、実は続くBorderlands Trio『Asteroidea』(Intakt Records)及びそれ以降への巧みな補助線となっていることに、後から気づかされた。Kris Davisのピアノのプリペアドによりミュートされくぐもった響きと、音高を微妙に揺らし泳がせるベース&ドラムが空間の広大さを際立たせるように希薄に配置される。Nicolas Beckerの仕事ぶりを先に聴いているせいで、録音やミックスがごく普通で、音場としてステージの限定された広がりを浮かび上がらせてしまうがゆえに、もっと遠近の隔離をはじめ入り組んだ空間構築を欲する演奏者の想いが果たせていないのではないか‥‥とどうしても想像してしまうことになる。潜在的な可能性を可視化する見事な配列と言えよう。
 2台のピアノの共演であり、2人の女性ピアニストの「対決」でもあるEve Risser, Kaja Draksler『To Pianos』(Clean Feed Records)から、このトラックだけは他の収録曲と全く違うという「To Pianists」を選んだところにも、同じ耳の眼差しは働いているように思う。e-bowによるのだろうか空間に滲みを拡げる強靭な持続音と、ワニ口クリップ等の素材によるプリペアドを想像させる足元が傾くような低音の揺らぎに、各種内部奏法や筐体各部を鳴らす音響が細かな傷を付けていく。共演/対決が前提としている2台のピアノ、2人のピアニストという輪郭を脱ぎ捨てた、自他未分の曖昧で薄暗い混合領域に向けて、全身の皮膚感覚がそばだてられているのがひしひしと感じられる。カヴァーの絵柄に描かれている2台のピアノから流出するエクトプラズム(?)が混じり合う位相に。グランドピアノの降霊術。
  

 Miya Masaoka, Zeena Parkins, Myra Melford『MZM』(Infrequent Seams)もまた、ピアノを「一人オーケストラ」たる「楽器の王様」の地位から引き摺り下ろし、21弦箏とハープの間に放り込んで、「枠組みに長い弦を何本も張り巡らせた弦打楽器」という自らの生理/出自に目覚めさせる試みととらえたい。弦を直接こする音の応酬となる中でも、箏のゴツゴツとしたマテリアルな輪郭を持つ響き、ハープのエレクトロニクスに変形/溶解された流体的な滑らかさ、プリペアドによりトイ・ピアノを思わせる愛らしく優美な天上的な希薄さを獲得したピアノが、それぞれ浮上と潜行を繰り返し、「奥行きを探る構え」(多田)を見せる。


 本編の締めくくりはエクストラ・トラック的にヴォイスをフューチャーしたJen Shyu『Song of Silver Geese』(Pi Recording)。Mat Maneriのヴィオラが笙の如く鳴り響き、フルートが竹の掠れを帯びて、東アジアの民族楽器を擬態しつつ、呪術的ヴォイスの周囲を取り巻く。しかし、アンサンブルの要はここぞという経絡に正確に鍼を打ち込み、揺らぎ広がる時の流れをピッと引き締めるThomas Morganのベースにほかなるまい。台湾と東ティモールにルーツを持ち、東アジア圏でのフィールドワークで得た素材を活用して、NYで活動する彼女については、その学究的な姿勢は高く評価するものの、「アジア系の出自(しかも女性)を持つが故に、(西欧)世界の中心たるNYにおいて、アジアの文化を特権的に発信し得る」‥‥というポリティカル・コレクトネスを誰にも対抗し得ない「伝家の宝刀」として背負っているように感じられて、黒人文化に関するMatana Roberts同様、どうにも居心地の悪さを感じてしまうことを白状しておこう。



 この日は7年目の締めくくりとあって、2017年のベスト10があわせて発表された。そのラインナップについては益子のページ(※)をご覧いただくとして、選出作品を振り返りながら益子が何度も漏らしていた「長く聴かないとわからない」というつぶやきを書き留めておきたい。これは作品/演奏の価値を示す、聴き取るべきポイントが、ちょっと聴けばわかるようなサウンドの新奇さ、スタイルの斬新さ、新たな演奏技術や語法、アンサンブルの組織や統御のシステムにはもはや存在せず、一定程度の持続に注視し続けて初めて感得し得る領域へ移行していることを示している。そこで進行しているのは、音響の淵に深く身を沈め、空間の隅々にまで感覚を張り巡らせ、しかも時間経路に沿って絶え間なく微積分を繰り返えさなくてはとらえ得ない事態なのだ。30秒あるいは1分の試聴で耳目を惹き付け、すぐにわかるように下線を引かれた特質をさらに経歴や人脈やトレンドにひも付けして、これでもかと貧しく記号化してやまない「音楽ジャーナリズム」と彼らが鋭く一線を画するのは、まさにこうした必然的な相違の結果であって、海外事情通のエリート主義やマニアックなオタク気質の産物ではないことを何度でも確認しておきたい。そしてそれこそが、私にとって「タダマス」に毎回通う理由になっていることを。
※http://gekkasha.jugem.jp/?cid=43767


益子博之×多田雅範=四谷音盤茶会 vol. 28
2018年1月28日(日)
綜合藝術茶房 喫茶茶会記(新宿区大京町2-4 1F)
ホスト:益子博之・多田雅範
ゲスト:加藤一平(ギター奏者)




ライヴ/イヴェント・レヴュー | 19:30:39 | トラックバック(0) | コメント(0)
声の震え、息の歩み ― 池間由布子・高岡大祐ライヴ・レヴュー  Voice Vibration, Steps of Breeath ― Live Review for Yuko Ikema and Daysuke Takaoka
 おかげさまで、また、素晴らしい歌い手と出会うことができた。
 今回初めて共演することになった高岡大祐がFacebookに何度も「素晴らしい」と書くものだから、このところずっと気になっていた。youtubeにアップされているライヴ音源では、いまひとつピンと来なかったのだが、行ってみてよかった。やはり拙い録音ではわからないことがある。それに高岡の演奏が彼女の本質を、潜在能力を含め、思う存分引き出したということもきっとあるだろう。
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高岡大祐のFacebookより転載


 開演時間を間違え、最寄り駅で降りてからは以前に訪れたはずの店の入り口を見つけられずに通り過ぎ、着いた時には第一部が終わりかけていた。暗がりに潜む段差につまずきながら店内に足を踏み入れ、ドアのところに立ち尽くしたまま、音に囚われる。向かって左側に腰かけた高岡はチューバを垂直に構え、リズミックなベース・リフをノンブレスで懸命に吹き鳴らす。間合いや強弱、立ち上がりをきめ細かく操作しながら。そして右側にはやはり腰かけてギターを掻き鳴らしながら歌う池間由布子の声の震え。
 ここで「震え」とはもちろん、音程の揺れやブレスの不安定さを意味するものではない。そうではなく、声の不思議な、かけがえのない魅力/魔力としてある。ひとつには音域による声音の変化であり、声の輪郭の鋭敏な移り変わり―場面によりくっきりと像を結ぶかと思えば、中空に溶けてしまいそうになる―であり、さらには倍音成分の響きの豊かさとそのあえかな揺らぎである。そうした特徴が最もわかりやすいのは、ゆったりとした曲調で声を引き伸ばした部分だろう。高岡もまた息を長く保ち、水平にうっすらたなびくように線を引いて、柔らかく滲んだ声のホリゾントをつくる。池間の声は子音のエッジを感じさせることなく、すっと力みなく、だが速度感を感じさせないほどの素早さで立ち上がり、チューバの音と並行に声の指先をどこまでも伸ばしていく。声を張るのではなく、外に向けて響かせるのでもない独自の仕方で。それは言わば内側に負荷をかけて声を内に引き込み、体幹で声を吊り支える感覚だ。声は、言葉は、そこにありながら、彼女の内部にぽっかりと空いた暗く深い淵に飲み込まれていくように感じられる。
 だが、こうした注目すべき達成も、この日の彼女にとっては、まだまだ暖機運転に過ぎなかったと、すぐに知ることになる。

 短い休憩を挿んで第二部が始まる。池間は立ったままギターを構えている。後半は立って演るんですかと高岡。いや、ちょっと離れてみた方がわかることもあるかと思って‥と池間。その後、二人のユーモラスなやりとりが続き、リハーサルにはなかった曲(「雨はやんだ」)をいきなり歌えと、高岡が無茶ぶりされる場面となるのだが、そうした打ち解けた親しみやすさと何が起こるかわからない「野生の空間」のあり方以上に、ここではアコースティック・ギターの弦を強く弾(はじ)く池間の身体の運動に注目したい。リズミックにビートを刻む一律な縦ノリでは決してない、空中に身体を浮かせ揺らがすような動き。それが「めっちゃくちゃ難しい」と高岡の言うメロディの不可思議な動きと、歩調をゆるめ、立ち止まって語りになったかと思うと、急にスキップを始める天衣無縫な声の歩み、さらに高岡の演奏と自在に呼応しながら、即興的に声を散らばせて、空間のあちこちに貼り付けていく運動神経は、すべてこの身体の揺れ動きから分泌されているようだ。そして、先に見た彼女の特異な声のあり方も、ここではもはや声の身体各部のバラバラな諸特徴としてあるのではなく、「歌を歌う」という運動のうちに余すところなくすべて奉仕し、その中で息づき輝くものとなっている。見事なものだ。
 高岡もまた、そうした彼女の変容に突き動かされ、実に見事な共演をした。舌を巻くソロを取ることよりも、鮮やかに彼女の声の本質を引き出す仕方で。しばしチューバを置いて、歯笛(口笛ではなく)で伴奏した場面では、口笛の鋭さの代わりに歯に砕かれて輪郭を滲ませ、豊かな倍音を揺るがせる歯笛の震える音色に、池間の声の秘密を「ほら」といきなり指し示された気がして驚かされた(実際、高域を長く保つ部分の感触など驚くほどに通っている)。また、持続音をゆったりとくゆらせる箇所では、空の色が刻々と変わるように音色を移し、ここぞと言う場面で音量をすっと絞り、池間の声をひとり立たせて、その声の勁さをまざまざと明らかにしてみせる。と同時に、ことさらに構えることのない、一見何気ない歌詞に描き出された、日常のありふれた点景に潜む、ぞくっと手足を痺れさせる深い闇を覗き込ませる。「その踏切を渡ってはいけない。その踏切の音だけは聴いてはいけない。」
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高岡大祐のFacebookより転載


 高岡が激賞する歌い手として、もうひとり華村灰太郎がいる。高岡の新バンドDead Man's Liquorを聴きに行った際に、彼らに先立って灰太郎と福島ピート幹夫のデュオを体験することができた。ギター弾き語りとアルト・サックスのデュオと言うと、かつて目撃した三上寛とジョン・ゾーンの邂逅がいまだに衝撃として自分の中に鳴り響いていて、どうしようもなくそれと比べてしまうのだが(これがとんでもなく高いハードルであることはご理解いただけよう)、彼らは決してそれにひけを取らなかった。
 剥き出しでガツンと来る声の生な手触りが、叩きつけるギター・カッティングと衝突して弾け飛び、アルト・サックスがノンブレスで絶え間なく放出し続ける呼子にも似た甲高いノイズと、千々に入り乱れる。ノイジーに散乱しても互いに音の輪郭は揺らぐことなく、それゆえ「溶け合う」のではなく、撹拌された水と油のように「混じり合う」のだ。歌詞やメロディ、あるいはフレーズをなぞるのではなく、声/息が走り抜け彫り刻む溝が、そのまま線となり伸びていく。溢れ出る声、振り絞る息の軌跡として。
 二人とも演奏開始直後は調子が出ず、共演のピントも合わず、途中、ようやく「温まった」感がしてから、俄然ヴォルテージが上がったのが面白い。高岡の評価する歌い手はみんな暖機運転を必要とするのだろうか(笑)。

 今回は池間と高岡の初共演に捧げたレヴューである。灰太郎と福島のデュオに続いて披露されたDeadman's Liquorの素晴らしかった演奏について語るのはまた次回としたい。また、当の池間と高岡のライヴの模様についても、最初の聴き逃した部分について触れようもないのは当然のこととして、それだけでなく聴いた部分についても、あえて二人の間の、あるいは客席との微笑ましい交感等には触れておらず、むしろ視野とフォーカスは鋭く絞り込んでいる。決して全容を伝えるものではないことを改めてお断りしておきたい。


2018年1月12日(金)
祖師ヶ谷大蔵 Cafe MURIUWI(カフェ ムリウイ)
池間由布子(歌、ギター)、高岡大祐(チューバ)

2017年10月31日(火)
阿佐ヶ谷Soul玉Tokyo
華村灰太郎(歌、ギター)、福島ピート幹夫(アルト・サックス)


なお、近々、関連ライヴの予定があるので情報を記載しておく。

2018年1月16日(火)
八丁堀 Sound & Bar HOWL
東京湾ホエールズ(池間由布子, 纐纈雅代, 高岡大祐)

2018年1月21日(日)
阿佐ヶ谷Soul玉Tokyo
華村灰太郎カルテット(華村灰太郎、今福知己、高岡大祐、つの犬)





ライヴ/イヴェント・レヴュー | 17:38:33 | トラックバック(0) | コメント(0)
残存の中ですり減ることと積み重なること―日本美術サウンドアーカイヴ | 堀浩哉《Reading-Affair》レヴュー  Wearing Off and Piling Up in Surviving / Afterlife ― Review for Japanese Art Sound Archive ; Kosai Hori《Reading-Affair》
1.《わたしは、だれ?―Reading-Affair 2018》
 眠っている猫の腹部のように、海面がゆっくりと上下している。
 海面の映像は正面の白壁いっぱいに映し出され(床から天井まで)、白いシーツを敷かれた上に置かれたソファ(やはり白いシーツで覆われている)に座る白装束の男女(顔もまた白塗りしている)にも投影されている。二人は手元の用紙に記された名前をかわるがわる読み上げていく。潮騒の音が小さく流れている。
 全体の仕立てと静謐な空気から、これが東日本大震災に向けられた追悼のパフォーマンスであり、読み上げられているのは被災者の名簿であろうことはすぐに想像がつく。しかし、それだけではなかった。
 二人の前には一本のマイクロフォンが置かれ、さらにその前方には二台のオープンリールのテープ・デッキが設置されている。マイクロフォンから入力された音声は、片方のデッキで録音され、テープは2mほど離れたもう一台のデッキに送られて、そこで再生され、二人のすぐ前に置かれたスピーカーから放たれる。読み上げの発声から録音された音声が再生音として放出されるまで約10秒の間隔が生じていた。再生された音声は、リアルタイムで読み上げられる声と入り混じるだけでなく、再びマイクロフォンに捉えられテープ・デッキへと送られる。録音・再生によるループ。

 この簡素な仕掛けからすぐに思い出されるのはAlvin Lucier『I Am Sitting in a Room』だろう。この作品では、「私は部屋の中に座っている」という男の声が冒頭に流れ、それがテープ・デッキで録音されて、その再生音が部屋の中に放たれ、再び録音され、再生され‥‥というループが巡り続ける。録音・再生が繰り返されるうちに部屋の空間の響きが乗っていって、言葉の輪郭は次第に不明瞭になり、ディレイとは異なる、周囲の空間に滲んだような反響音が積層して、ついにはせせらぎにも似た、鈴を転がすように涼やかな音響へと変貌を遂げてしまう。その状態からは元の素材が人の話し声であるなどとは、とても想像がつかないほどに。その一方で、ループの繰り返しによる変容のプロセスが時間軸上に展開されており、積層による変化は聴衆の耳に対し余すところなく「視覚化」されている。
 冒頭に描写した堀浩哉+堀えりぜによる《わたしは、だれ?―Reading-Affair 2018》と『I Am Sitting in a Room』の端的な違いは、前者においてはリアルタイムで新しい声の層が常に追加されていくことである。回路を閉じることにより、変容のプロセスだけに純化した後者と異なり、眼の前で名前を読み上げ続ける声は、再生される自身の声とぶつかり合う。その代わり、ループが積層していく「声の地層」の深さを覗き込むことはできなかった。原理的には、再生音はまた再びマイクロフォンを通して録音・再生されるわけだから、ループが巡るにつれ明瞭さを失うにしても、最初に録音された音声はループのうちに永遠に残るはずなのだが、その痕跡を求めていくら耳をそばだてても、片鱗さえ掴むことができなかった。


2.《MEMORY-PRACTICE(Reading-Affair)》
 実はこの日、《わたしは、だれ?―Reading-Affair 2018》に先立ち、同じテープ・ループ・システムを用いたパフォーマンスの、より1977年の初演に近いヴァージョンが《MEMORY-PRACTICE(Reading-Affair)》として上演(再制作)された。こちらは白いシーツや白装束、顔の白塗りは共通だが、男女のパフォーマーは堀夫妻ではなく若い俳優が演じ、発声も拡げた新聞を一文字ずつ読み上げるもので、映像もなかった。こちらでは読み上げが一音だけであり、また交互の発声がゆっくりと間を置いて為されたため(かわるがわる読み上げていた堀夫妻との対比)、第二あるいは第三世代の録音音声(らしきもの)を聴き取ることができた。そのようにして「声の地層」の深さ/積み重なりを垂直方向に覗き込む耳の視線に対し、眼の前を遮るように浮上し横切る不定形の影がある。フィードバックが生じているのだ。始めは時折浮かぶだけだった影は次第に床に立ち込め、とぐろを巻いて、さらには頭をもたげるようになってくる。第二あるいは第三世代の録音音声の姿を掻き消すばかりか、読み上げられる声にまで襲いかかり、いま録音されたばかりの音声すら歪ませてしまうようになる。空間を汚染したフィードバックがいよいよ水位を高めようとしたところで、スタッフがテープ・デッキのヴォリュームを操作し、フィードバックはいったん姿を消すが、しばらくすると、また床から頭をもたげてくる。

 《MEMORY-PRACTICE(Reading-Affair)》と《わたしは、だれ?―Reading-Affair 2018》の上演の大きな差異として、声の姿勢の違いがある。これはおそらく元々の指示なのだろうが、前者では二人の演者はほとんど発声の仕方を変えることなく、淡々と文字を読み上げていた。これに対し、後者においては特に堀えりぜが、感情の自然な昂まりを反映させ(決して芝居っ気が勝っていたということではない)、伏し目がちに声を漏らしたり、斜め上方へ放り上げたり、涙を堪えたり、口ごもりあるいは言い澱んだりしていた。
 流れ続ける潮騒のせいか、最初のうちは生じなかったフィードバックが、《わたしは、だれ?―Reading-Affair 2018》にも現れ始めた。いったん起き始めると、その増殖は速く、ちょうど潮騒が場を明け渡して入れ替わったように、たちまち連続的な層を形成し、大きく息づき始め、ついには先ほどの上演を超える音量にまで至った。ノイズに洗われながら、二人は名前を読み上げ続ける。「名前」という語の性格のせいか、あるいは堀浩哉とえりぜがそこに込める感情や意志のせいか、二人の声は思わず人を振り向かせるような、強い呼びかけの力に満ちていた。フィードバック音響は二人の声に襲いかかり、録音音声を歪ませるだけでなく、激しく渦巻きながら、声自体をすら沈めてしまおうとしているのだが。そうした激烈な力に晒されながら、堀浩哉は立ち上がって叫び出したい衝動を押さえつけ腹に響かせるように、堀えりぜは感情を静かに解き放ち、声を幾分揺らがせつつ、噴出/爆発を押し殺しつつ、苦難に耐え声を放ち続けた。すると突然、テープ・デッキには誰も触れていないにもかかわらず、フィードバック音響がすーっと水位を下げ、急に雲が晴れたように潮騒が戻ってきた。後で聞いたスタッフの話では、潮騒が聞こえなくなったのでそちらのヴォリュームを上げたら、急にフィードバックが減衰したようだ。リミッターが働いたのかもしれないとのこと。奇跡/恩寵とも言うべき瞬間。

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©堀浩哉 撮影者不明


3.残存の中ですり減ることと積み重なること
 二つの上演の間の休憩時に解説リーフレットが配布された。堀浩哉自身による覚書、金子智太郎と畠中実という主催者二人による解説・論考が掲載されており、充実した労作である。上演に先立って金子によるイントロダクションと畠中による解説があったが、前者はむしろ今回の企画シリーズ「日本美術サウンドアーカイヴ」全体の説明であり、後者についてはリーフレット掲載の論稿と基本的には同内容ではあるものの、パワーポイントの投影ではなく印刷された文章で読めるので情報量が格段に違う。また、初演に近い再制作は白紙の状態で提示し、そこにさらに要素をプラスした新作上演に先立って背景を説明するという手順もよく考えられている。さらには上演終了後に三人によるトークが用意され、堀の最近のパフォーマンスの映像なども紹介しながら、堀による1970年代のパフォーマンスと1990年代以降のパフォーマンス(その二つの期間を20年以上に及ぶパフォーマンス活動の中断が隔てている)の違い、その連続と切断、継続と変容を縦軸と横軸から明らかにしていった。

 今回の企画で前提となるパースペクティヴとして示された、堀のパフォーマンスの歴史的位置づけ、特に大阪万博以降凋落していくテクノロジー・アートと「つくらないこと」を標榜する「もの」派の間での配置については、ここでは評価を保留したい。単純に言えば、そこで暗黙の前提とされている、堀の創作活動におけるパフォーマンスと絵画の対比に関し、堀の絵画活動についてほとんど知らないからである。もうひとつには、「もの」派とテクノロジー・アートを対立的に捉える構図に疑問を感じるためであり、これは特に「もの」派について、作品を作者の意図に沿って理解・評価することへの根本的な懐疑による。

 さて、その上で《Reading-Affair》を論じるに当たり、まず「記憶」に着目したい。これは当日のトークの中で、畠中が1998年にパフォーマンスを再開した堀が立ち上げた「ユニット00」について「これは『日本ゼロ年』展に対する反応なんですよね」と発言し、これに堀が応じて「歴史をリセットするなんてとんでもない。記憶は残っていくんだ」と語る場面をはじめ、随所で語られていた。堀は自身のパフォーマンスの70年代と90年代以降の差異についても、前者がそれぞれ一回限りの実験であったのに対し、後者は「絵画を取り戻す」のと同様、「パフォーマンスを取り戻す」として、一回だけでなく、何回も繰り返す中で、そこにいろいろなものを乗せていきたいと語っており、その例として、福島県の避難区域にある誰もいない小学校の映像に、いまここにある展示の影が映り込んだり、あるいは震災直後に訪れた宮城県で瓦礫の山を抜けてたどり着いた海が不気味なくらいに穏やかに凪いでいた様子を撮影した映像(この日用いられていた海面の映像もこれだという)に、パフォーマーの堀夫妻や参加者の影が映り込んでいるパフォーマンスを、「地層のように重ねて」と紹介していた。
 《Reading-Affair》において、「記憶」とは何よりもテープによる録音として示されている。本来、録音は「記憶」というより、機械的な「記録」だが、ここでは先に見たテープ・ループの仕掛けを通じて重層化され、否応なく変容を来していくことになる。原理的には読み上げられた音声が消失してしまうことはないが、実際にはすぐに語としての輪郭を失い不明瞭化してフィードバックに呑み込まれてしまう。声がすり減っていく一方で、それは澱となって積み重なりフィードバックをもたらす。ここではそれを「残存の中ですり減ることと積み重なることの拮抗/共存」と捉えたい。なお、ここで「残存」という語にはNachlebenにアビ・ヴァールブルクが込めた意味合い、すなわち「歴史の経過を超えて生き延びること」を含意している。
 なお、当日配布されたリーフレットに掲載された金子智太郎「波状の境界 堀浩哉《MEMORY-PRACTICE(Reading-Affair)》」の中で、金子は堀のパフォーマンスに対する峯村敏明の評語「収縮と膨張」に注目し、次のように論じている。
 「峯村の議論は、堀のパォーマンスをたんなる一方向の解体ではなく、収縮と膨張の間の危ういバランスをとることとして理解する。このような理解は《Reading-Affair》に向かう堀のパフォーマンスの展開を検討するために不可欠なものではないか。彼のパフォーマンスの展開は、収縮と膨張のバランスをとっては、あえて崩し、再調整するという作業の反復に見えるからだ。」
 さらに、この「収縮と膨張」と反復は「収縮と膨張の往還」と捉え直され、「往還」を「堀のパフォーマンスの展開にとって重要」と位置づけ、次のように述べている。
 「ギャラリー・カドで上演された《Reading-Affair》では、こうした往還とハウリングがさらに強調された。2人のパフォーマーの往還運動にはリズミカルな流れがある。また、パフォーマンスの経過とともに相手の声が聞きとりづらくなるために、行為することと聞くことの関係が一定の緊張感を保ち続ける。さらに、ハウリング・ノイズがだんだん声に混じり、声を覆って、これまでにない存在感を発揮する。パフォーマー2人の往還、堆積していく声、ハウリングが次第にあらわれて声と入れ代わっていく流れ、これらが《Reading-Affair》に幾つもの波動を濃密に共存させていく。」


4.《Reading-Affair》上演におけるプロセス
 作品を「プロセスを通じて生成してくるもの」と捉えるならば、作者が記したコンセプトや「意図」のみによって作品を評価したり、あるいは作品に遭遇した体験をそれらの絵解きに還元することはできない。《Reading-Affair》は音楽でもサウンドアートでもないが、この視点からすれば「上演」の問題を考えないわけにはいかない。
 《Reading-Affair》の作品構造からしても、また、堀浩哉における「記憶」、「重層化」、「往還」等の重要性から言っても、先に掲げた「残存の中でのすり減ることと積み重なることの拮抗/共存」は重要なポイントであると考える。これを上演環境において見るならば「テープ・ループの中ですり減っていく言葉と積み重なっていくフィードバックのバランスをどう達成するか」となる。
 たとえば録音された直後の再生音だけが聴き取れればよいのか、再生音がさらにマイクロフォンに拾われた第二世代、さらには第三世代の再生音も聴こえた方がよいのか。多くの層を透かし見られるならば、それだけ地層の深さ/奥行きを覗き込むように体験することができる。
 また、フィードバックはどのように詰み上がればよいのか。先に述べたその場で発せられる声と再生される声のつくりだす地層の深さを覗き込み充分体験した後に、その深みから湧き上がってきた方がよいのか。それとも、すぐにでも空間を満たし、声を水没させてしまってもよいのか。
 フィードバックの音量はどうあるべきか。ずっと小さい音量で足元を洗っていてもよいのか。あるいはパフォーマーの発声自体を聴こえなくしてしまうほど大音量になってもよいのか。この日の一回目の上演では途中でテープ・デッキのヴォリュームが操作されたが、そもそもそうした途中介入は望ましいのか。フィードバックが暴走し、パフォーマーの声が聴こえなくなるどころか、スピーカーのボイスコイルが飛んでしまい、システム自体が破壊されてしまうような事態に陥っても、それは会場の音響環境等がもたらしたものなのだから、それはそれとして放置すべきであり、手を出してはいけないのか‥‥。

 この点についてトークの終わりに設けられた質問コーナーで訊いてみた。時間が限られている中で、これほど丁寧に説明できたわけではないので、質問の意図が伝わりにくかった部分もあるだろう。それでも堀浩哉から次のような話を聞くことができた。

 これまで何度もやっていて、問題がなかったことはない。体験していない失敗はないんじゃないかと思うくらい、いろいろなことが起こる。フィードバックが欲しいのはその通りだが、それでもいきなりでは困る。バランスは重要だが、ちょうどよいところを想定して、それに合わせて調整するという発想はない。そもそもそんなにうまく調整できない。
 今日のパフォーマンスでも、演じているこちらからすると、果たしてこちらの声が会場に聴こえているのか心配になるくらい、フィードバックの音が大きかった。それでも聴こえなくても、それはそれで構わないと思って読み上げ続けた。パフォーマンスのプロセスの中で、そうした往還というのは常にある。えりぜの声との間を空けたりとか。
 手順や機器のチェックは必ず行うが、パフォーマンス自体のリハーサルはやらない。これは今までもずっとやったことがない。パフォーマンスというのはそういうものだと考えているから。

 この発言を聞いた限りでは、堀は言葉がすり減っていくプロセスを幾世代にも渡って聴かせることは考えていないようだ。ただ単にフィードバックが始まるまで、一定の時間が確保され、その間、パフォーマーの生の声と再生された第一世代の声が交錯する様だけを見せられればよいと。ここから彼が《Reading-Affair》のパフォーマンスをAlvin Lucier『I Am Sitting in a Room』に基づいて発想したのではないだろうと推察できよう。『I Am Sitting in a Room』を聴いていたなら、もっと言葉がすり減り、意味を脱ぎ捨て、声としての形状すら失って、ついには人の気配などしない空気の震えへと化していくプロセスに魅せられたはずだからである。それこそ私がかつてそうだったように。しかし、堀はそうではなかった。もちろん技術的な問題もあるだろうし(そもそもそんな風に積層化された光景を一望できるなぞ思いもよらなかったとか)、フィールドレコーディングされた音源に耳を傾け、眼前に広がる前景や中景をめくっていくと姿を現す、後景にたなびく音や響きに耳をそばだてた経験がなかったのかもしれない。

 ちなみに、畠中が堀の発言を補足して説明していたように、テリー・ライリーやロバート・フリップ等がテープ・ループのシステムを音楽演奏に用いる場合は、ミキサーを使用して音量を細かく調整できるようにし、コントロール不能の事態に陥らないようにしている。《Reading-Affair》のシステムには、そのような仕方でコントロールできる部分がない。これはその通りだ。また、この日のパフォーマンスにおいても、当初想定した人数に倍する観客が来場し、音響環境の見立てが全く狂ってしまったというのもその通りだろう。だが、そうしたサウンドの調整に関する部分が、パフォーマンスの本質的な部分ではなく付随的な部分に属するというのは、いささか認識が浅いのではないか。というのも、先の堀の発言にもあるように、また、ライヴの描写にも示されていたように、そここそが「往還」の、すなわちこのパフォーマンス=行為の核心部分であるからだ。
 あらかじめ誤解を生じないように説明するならば、このバランスは会場の選択によって運命的に定まってしまうものではないばかりか、決してテクニカルな問題に留まるものでもなく、上演に携わるパフォーマーが上演中にリアルタイムで関与することも可能な部分である。会場のエアー・ヴォリュームの変更が出来ない以上、音響特性を大きく変えることはできない。しかし、この場合、さして大きな会場ではないから、物を置いたり掛けたりすることにより吸音特性を変えることは可能だ。また、肝心なのは1本の再生用スピーカーと1本のマイクロフォンの間に成立する回路だから、位置や向き、パフォーマーの口元との距離の調節により大きく変えることができる。さらにはパフォーマーが声の強弱を変えたり、発声の間合いを調節したり、身体を傾けてマイクロフォンに口を寄せたり、上半身で、あるいは手を伸ばしてマイクロフォンをカヴァーしたりすれば、さらに音響は変化する。いずれの場合も、再生音のマイクロフォンへの返りを少なくすればフィードバック量は減少し、フィードバックは静まっていくことになる。

 おそらく、そんなことはよくわかっていて、畠中は「バランスは付随部分に過ぎない」と指摘したのだろう。だが、とすれば、パフォーマンスの間、私たちは何を聴いているのか。ただ単に事前に決められた手順が、何があろうと遂行されていくのを見守っているだけなのか。何のためにパフォーマーと同じ空間にいるのか。「一回性」の恩恵を受ける特権的な観客であるためか。それではプロセスを聴いたことにはなるまい。
 ここで「バランスを取る」とは単に暴走させないという意味ではないし、コントロール下に置くということでもない。そこで生成する事態に不断に接続し続けるということにほかなるまい。凝視・聴診・蝕知・探査・関与・距離・伝播‥‥、それこそは『松籟夜話』でキーワードに掲げる「音響」「環境」「即興」の謂である。

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堀浩哉《Reading-Affair》リハーサルから  撮影:梅沢英樹



日本美術サウンドアーカイヴ | 堀浩哉《Reading-Affair》1977年
2018年1月7日(日)
三鷹SCOOL

〈上演作品〉
堀浩哉《MEMORY-PRACTICE(Reading-Affair)》
出演:関真奈美 / 馬場省吾
堀浩哉+堀えりぜ《わたしは、だれ?―Reading-Affair 2018》
出演:堀浩哉 / 堀えりぜ

イントロダクション:金子智太郎
レクチャー:畠山実
トーク:堀浩哉、畠山実、金子智太郎


日本美術サウンドアーカイヴ特設ページ
https://cococara-minamiaoyama.jimdo.com/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E7%BE%8E%E8%A1%93%E3%82%B5%E3%82%A6%E3%83%B3%E3%83%89%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%82%AB%E3%82%A4%E3%83%B4%E7%89%B9%E8%A8%AD%E3%83%9A%E3%83%BC%E3%82%B8/

金子智太郎による日本美術サウンドアーカイヴ告知
http://d.hatena.ne.jp/tomotarokaneko/20171103/p1


日本美術サウンドアーカイヴ次回──稲憲一郎《record》1973年
会期 2018年1月14日(日)〜1月20日(土)
12:00-20:00(月曜休廊、最終日は12:00-17:00)
会場 南青山 Art & Space ここから
展示作品
稲憲一郎《record》(1973年)再制作 他

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©稲憲一郎 撮影:稲憲一郎





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