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福島恵一

Author:福島恵一
プログレを振り出しにフリー・ミュージック、現代音楽、トラッド、古楽、民族音楽など辺境を探求。「アヴァン・ミュージック・ガイド」、「プログレのパースペクティヴ」、「200CDプログレッシヴ・ロック」、「捧げる-灰野敬二の世界」等に執筆。2010年3~6月に音盤レクチャー「耳の枠はずし」(5回)を開催。2014年11月から津田貴司、歸山幸輔とリスニング・イヴェント『松籟夜話』を開催中。

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フリー・インプロヴィゼーション/フィールドレコーディングのパラタクシス あるいはキスの作法 ― Les Trois Poires @ OTOOTOライヴ・レヴュー  Parataxis of Free Improvisation / Fieldrecording OR the Manner of Kissing ― Live Review for Les Trois Poires @ OTOOTO
1.Les Trois Poires 2017/07/29 OTOOTO東北沢
 降り出した雨の中、演奏はすぐに始められた。照明を落としたホワイト・キューブに響きの層が広げられる。テーブルクロスに形のない薄い染みとなって広がる低音の震え。大型のデザートドラムに張られた皮が、ゴム球でゆっくりと撫ぜられて挙げるくぐもったうなり声。ギターの弓弾きの植物質のかすれが放つ新しい畳のつんとした匂い。響きの各層は弛みを排し、緊張や硬さを遠ざけて、何より鋭敏であることを目指しながら、手の甲同士を微かに触れ合わせ、「徴候」を探り続ける。

 ベース弦と指先が触れ合い、小さく「ビン」と鳴った後を、追いかけて低音が湧き上がり、鋭いさわりを身にまとうに至る。その間、かざされたデザートドラムの皮にベース音がブルルッと鳴り響き、ギターの弓弾きがガサガサとささくれていく。

 ギターの弓弾きの遠く深い響きが、遥か彼方を半眼で見詰めている。時折混じる軽く希薄なかすれ音が視界をすっと横切る。乾いた紙に触れ、落ち葉をゆっくりとかき混ぜるカサカサした音がしばし聴こえたかと思うと、タタタタタ‥‥と岩から滲み出る湧き水の滴りに波紋音(ハモン:表面にひび割れ状に入れたスリットにより、部位により音高の変わる金属打楽器)を差し出したかのように、粒立ちが涼やかに鳴り響く。ベースは低く言葉少なにつぶやき、次第にその背後から低音が浮上してくる。

 短い沈黙を挿みつつ、クロッキー帳のページをめくるように、その度ごとに新たに始められ、終わりへと向かう演奏。始まってすぐ、全員が最初の一音を出し終わった時点で、三人の立ち位置はもう決まっている。儀礼めいた探り合いも、予定調和の盛り上がりもここにはない。丁々発止の掛け合いも、ケイオティックなエナジーの噴出も、我慢比べみたいな持続合戦(音を出さないことを競い合うのも含む)もない。彼らは誰の指図も受けず、目線も合わさず、すっとそれぞれの持ち場に着いて、確実に「チームとして」すべき仕事をこなす。
 この「チームとして」という表現の意味合いを、きちんと説明しておかねば誤解を生むことになるだろう。というのも、そこにある「集団としての同期性」は、通常の「チーム」という概念からは程遠いからだ。まず彼らは決して同じ方を向かない。それぞれが違うところを見ている。冒頭の部分に見られるように、各層を敷き重ねはするが、溶け合わせることはしない。寄り添うこともしない。ぶつかり合うことはないでもない。しかし、がっちりと組み合って事態が膠着へと陥らないよう、すっと身をかわし離れる術を心得ている。たとえ収斂しながらも、必ず隙間を残し、風通しの良さを保つ。変化/転換への道筋を残しながら、その角を曲がらず、終わりへと歩みを進める。それゆえ誰かが演奏を始めないうちに、終わってしまうこともある。だから変化は知らぬ間にすっと生じるのであって、三人がタイミングを測り、調子を合わせて動く‥‥などということはない。誰かが動いても、自分が場所を移し、あるいは行動を変える必要がなければ動かない。それでは、その「判断の基準」とは何か。
 もちろん、それをひと言で指し示すことはできない。できるとしたら演奏がつまらないか、そのひと言がどうとでも都合良く解釈できるマジック・ワードであるかの、どちらかであるに過ぎない。ただひとつ言えるのは、最近の彼らは演奏の度に、コンポジションと言うはおろか、ルールとすら呼べない、ごく簡単な「取り決め」を用いてインプロヴィゼーションを行っている(津田の弁)のだが、先ほど触れた「判断の基準」は、その取り決め自体がもたらした結果ではなく、その度ごとに変わる取り決めが次第に明らかにしてきた、チームとしての生理/倫理そのものではないかということだ。

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写真:神原弘志  twitterから転載させていただきました


2.パラタクシス
 ギター、ベース、パーカッションと、楽器編成こそ典型的なスリー・ピースのギター・トリオであるにもかかわらず、彼らの演奏がそのようにコンヴェンショナルに響くことはない。何より、ベースがボトムを支え、パーカッションがリズムを刻み、ギターが旋律を奏でる‥‥といった固定した役割分担が存在しない。かと言って、フリー・インプロヴィゼーションによくある全員がひたすらソロを取るとか、コール&レスポンスをさらに断片化してミラー・ニューロン全開の鏡像の強迫的分裂/反射に至るとか、空気を読みまくって希薄なドローンや、あるいは極端な点描による「沈黙」の共有に傾くこともない。そうした安易な解決を選ぶことにより、音が凛とした高潔さを失って安逸さの中に眠り込んでしまうことを、彼らは何より嫌っているに違いない。特に初期の演奏にあっては、「あ、終わるな」と感じたところから、またさらにtamaruが、改めて弾き始める場面がよく見られた。

 3〜4分程度の短い場面を連ねた今回前半の演奏においては、お互いの距離を緊密に保ち、密着しながら絡みあって終わりへと向かう展開が多く見られた。彼らは予定調和にはまらぬよう、巧みに身を入れ替える。各自の描く動線が重複/衝突せぬよう、すっと身をかわしつつ、手の甲を微かに触れ合わせる触覚のつながりは、決して途切れることがない。他へ従属し、固定した階層化に陥ることを拒否しつつ、同一平面状で交わり合うことを避けるため、言わば彼らは常に互いに「ねじれの位置」(三次元空間において直線が平行も交差もしない場合。この時、これらの直線は同一平面上にない)を取っているのだ。
 そのことによって、各自が互いに異質なままでありながら、同じひとつの時空間内で共存を図ることができる。「確固として異なる視点を持つ演奏者たちが、にもかかわらず共演できる」という彼らの高らかな宣言は、まさにこのことを意味している。

 この「ねじれの位置」という表現はあまりに直感的であり、このままでは、これ以上考察を深めることができない。何か別の捉え方はないかと考えていたところ、『表象』10号の岡田温司との対談「新たなるイメージ研究へ」で、田中純がモンタージュとパラタクシスを比較しているのに出会った。同じ異質要素の共存であっても、モンタージュは意図的な構成であり、エイゼンシュタインによれば記号の組合せにより意味を生成する方法、すなわちメッセージの伝達手法にほかならない。これに対しパラタクシス(並列)は、サリヴァン〜中井久夫によれば、イメージ中心の幼児型記憶の渾然一体(プロトタクシス)の中から、関連付けや階層性なしにバラバラに切り出されてくる様態を指す。発達段階としては、この後に、言語を通じた合意によりエピソード記憶が社会化されるシンタクシスが来るのだが、言語とイメージに二股をかけたパラタクシス性が潜在し続けているのではないか‥‥と中井は「発達的記憶論」(『徴候・記憶・外傷』所収)で述べている。
 一方、田中はモンタージュ嫌いの映画監督テオ・アンゲロプロスを例に挙げ、ワンシーン・ワンショットのリアリズムのうちにリアルな「もの」の論理の露呈を見る。ワンシーン・ワンショットとは「視野の周縁」でうごめいているものを捉えようとする撮影法であるというわけだ。ここのところは中井の議論とまっすぐにつながっていて、彼は顔貌記銘を例に挙げ、それが網膜中心部での「質」に関わる情動喚起的な色彩感覚記憶と、網膜周縁部での非情動的な形態的記憶のパラタクシス(重ね合わせ)であることを述べ、さらに暗闇で歩く際の警戒感覚による網膜周縁部の活性化から、聴覚へと話を進め、さらに漢字の記銘が手の運動感覚を巻き込んでいることに言及している。

 長々と文献を参照してきたが、ここでフィールドレコーディングに眼を転じれば、一挙に視界が開けよう。そこで音世界は、異質なものが混在/共存しているが、誰かの意図に基づいてモンタージュされているわけではない。この意図なきモンタージュ、すなわちパラタクシスを録音作品として聴取するためには、メッセージの伝達図式を排し、異質なものの並列を許容し、受容する必要がある。そこでうごめくリアルな「もの」の論理に、深々と身を沈める必要がある。この姿勢が、通常の世界との接し方、たまたま、その場に居合わせて、音が聞こえてくるという場合と全く異なっていることに注意しよう。そうした場合、私たちは行動に必要な情報だけを一方的に抽出し、自らに都合良くモンタージュするに過ぎない。フォン・ユクスキュルが動物について述べた「環世界」とは、まさにそのようなものだった。そうではなく、環境世界のパラタクシス性に留まり、全身を耳にしてそばだて、澄まし続ける必要があるのだ。
 それは一方的に受け身であることを意味しない。昆虫が触覚を揺らめかせるように、コウモリが超音波を放つように、能動的に探ることが必要となる。チューバ奏者の高岡大祐がよくFacebookやブログで釣りの話を書いている。彼の釣りは、ただ浮子だけを見詰めるとか、あるいは竿を何本も立てて、先端の鈴が鳴ったら、それを合図に取り込む‥‥というようなものではなく、まさに釣り糸を垂らすことによって水中や水底の在り様を探るものにほかならない。水深、底の起伏、根掛かりの原因となる障害物、浅い部分と深い部分では異なる水の動き、深さによって異なる魚の種類と密度、食欲や注意力・回避能力等を含めたエサ取り行動の水準‥‥等々。だから彼の釣りには「待ち」が存在しないことになる。

 Les Trois Poiresの3人の演奏者にも「待ち」は存在しない。彼らは音を発していない時にも探査/聴診を続けており、反対に音を発している時にも全身を耳にして聴いている(音を放つことを通じて「聴いて」いるのだ)。それは決して他の演奏者の意図を探ったり、フレーズを聴いて応答しようとしているのではなく、先にフィールドレコーディングの例を挙げたように、世界のパラタクシスな現れを、そこにうごめくリアルな「もの」の論理に触れているのだ。
 およそ出自も年齢層も、制作してきた作品の方向性も異なるLes Trois Poiresのメンバーについて、かつて津田貴司がこう語ったことがある。「メンバー全員、演奏だけでなく録音も手掛けていて、フィールドレコーディングもするんですよ。そこが結構大きなポイントかな」と。


写真:オルーカ  twitterから転載させていただきました


3.フリー・インプロヴィゼーションとフィールドレコーディング
 彼らの演奏は、もともと誰がどの音を出しているか判別が困難であるだけでなく、個々人のヴォイスの枠組みから音が滲み出し、空間の中で不可分に混じり合うことを最初から前提にしている。その響きの混淆体に対して、モニターの色調や彩度、明度、輝度等を相互に操作しあうような集合的な演奏がそこにはある。いつもの水道橋Ftarriよりは空間ヴォリュームが小さく、それだけ音の明瞭度や分離度が高いように感じられる東北沢OTOOTOにあっても、そこのところは変わらなかった。個がばらばらに切り離されて析出してくることはなかった。これはやはり会場の音響特性ではなく、彼らの生理/倫理によるものなのだ。
 特に今回前半、短い場面を連ねる展開においては、演奏が途中で大きな転換点を経ないこともあって、音景の提示にフィールドレコーディング的な感覚が強く感じられた。演奏性(演奏する身体)の突出を許さず、岩肌一面から滲み出す清水のようにミクロな生成を続ける仕方。淡々とドローンの見かけを保ち、アブストラクトな音列を紡ぎ続けるエレクトリック・ベースや弓弾きとパルス状の打撃音に素材を絞り込んだエレクトリック・ギター。ルーレットのように金属球を投げ込まれ回転させられるデザートドラム、スティックのしなりを効かせた連打により、まるで規則的な雨垂れを響かせる水琴窟のように響く波紋音。そこには自動/他動性に演奏を託して演奏者の身体性を希薄化し、手の跡を消し、熱量を下げ、すでに以前からそこにあった連続的な環境音やふとした物音に身を寄せて、たとえ大音量であっても響きをひっそりと空間に沁み込ませるしなやかな静謐さが宿っていた。それゆえ黒々としたたゆたいも、かすれた広がりも、淡く層を成している滲みも、点々と散らばった滴りも、すっと引かれた細くくっきりと勁さをはらんだ線も、雨にけぶり、霧に閉ざされ、風に揺すられ、闇に沈む林の樹々の諸相を、つまりは同じ風景の移ろいを思わせた。

 tamaruのエレクトリック・ベースのソロ演奏のレヴューを経て振り返ると、これまでLes Trois Poiresのライヴ・レヴューを書けなかった理由がほの見えてくる。
 デュオやトリオのインプロヴィゼーションを聴く時、耳は自然とメロディやリズムのフレーズを追い、音高と音価の推移を時間軸に沿ってスキャンしながら、それを個々の演奏者の移り変わりと演奏者間の照応関係の二つの軸でとらえる。演奏者同士が反応しあって演奏が進むわけだから、当然のことながら、ある時点で生じた事象は、それより後、未来に向かって影響を及ぼす。それが個々の演奏の変化や演奏者間の対応関係に現れるというわけだ。それは演奏を会話のようにとらえること、すなわち言語コミュニケーションにおいて意味内容が伝達/変容され、論理が構築/変型される様を観察するかのようにとらえることにほかならない。
 熱帯雨林のフィールドレコーディングを聴く時、耳は何を追うだろうか。獣や鳥の甲高い鳴き声、昆虫の羽音やクリック、滴り流れる水音、風とそれに揺すられる樹々、理由もなくガサガサと音を立てる下草の茂み、窪地のような起伏や寄生植物に巻き付かれた幹による奇妙な反響を、空間に点在する無数の音源の分布として、あるいは幾重にも敷き重ねられた音響のレイヤーとして聴くことだろう。「それは何の音/声か」という罠にさえはまらなければ、ぼんやりした浮かび上がる音響複合体の斑紋と、さらにそれらの間に生じる不思議な響き合いに、あるいは明らかに異なる系の間に生み出される、とても偶然の産物とは思えない、整然たる音響構築や緊密な照応に驚くことだろう。まるで会話しているみたいだと。でも結局のところ、耳はそれを会話としてはとらえない。時間軸上のリニアな推移はここでは重要ではない。意味内容や論理構築の変容も。ここで耳は時間の流れを追っているのではなく、空間の中を眺め回し、探っているのだ。だからAの次に来るのが、Bか、それともCかは、まったく重要ではない。

 〈環境・音響・即興〉をキーワードに掲げ、フリー・インプロヴィゼーションをフィールドレコーディングの耳で聴くと宣言しながら、Les Trois Poiresの演奏をフリー・インプロヴィゼーションとして記述しようとしていたのだ。初回の演奏は何とかそれでとらえ得た(と思ってしまった)ことが、誤りの始まりだったのだろう。耳はすでに彼らが別の世界に遊んでいることを聴き取っていた。それゆえに深く揺すぶられ、打ちのめされた。けれど言葉が紡げず、事態を書き記すことができなかった。
 tamaruのベース・ソロをとらえるための視点をようやく設定したところで、彼らのライヴの当日を迎えた。まだ、tamaruに関するレヴューは書けていなかったが、新たに立ち上げた眼差しを通して眺めると、別の世界がそこにあった。音高と音価に基づく体系、その時間軸上の展開としてサウンドをプロットし(それこそはまさに差異の体系としての言語になぞらえて、音をとらえようとすることにほかなるまい)、触覚や視覚、あるいは体幹や運動感覚上のイメージを補助的に用いるのではなく、バランスを逆転させること。ここで顕著なパラタクシス性に沿って、言語とイメージに二股をかけながら、後者に属する手触り、肌理、密度・濃度、粘性、硬軟や重み等の質感、色彩、温度、匂いや香り、分布や勾配、流れの速度(BPMではなく)、広がり、奥行き、深さ、厚み、トポグラフィックな変形等への感覚を研ぎ澄まし、圧倒的に前景化すること。それにより、時の流れに沿った「物語」ではなく、イメージの膨大な集積を顕現させること。たとえば触覚的音響への注目は、決して音色表現の語彙拡大に留まるものではなく、音楽/演奏を触覚的なものの変容としてとらえるところまで突き抜けなければなるまい。


写真:オルーカ  twitterから転載させていただきました


4.弓を持つ左手
 後半の切れ目なく進行した演奏においては、随所で曲がり角を経るために、前半よりは演奏性が多少前景化することとなったが、それでも基本として、各演奏者の音の間の、そして空間にすでに漂っている響きへの相互浸透の色合いの強さは変わることがなかった。2音や3音のフレーズがいつの間にか移ろい変化し、ゆったりと深く打ち込まれていくベース。振動させた音叉を弦に触れさせて接触不良系の断続音を放つギター。柔らかく触れられ遠くから風に乗って運ばれるガムランを響かせる波紋音。
 だから、松本が急に波紋音を連打して前面に躍り出て、そのまま続けたのにはいささか驚かされたが、その結果として演奏はしばし「協奏曲」風のバランスに移行したものの、それによって演奏の基本的な性格や存立のための基底が揺るがされることはなかった。

 ここで特筆したいのは、津田が左手に弓を持ち替えての演奏である。その前から触れるか触れないかギリギリの接触を保ちつつ、超弱音で緩やかに弓を運び、そのまま、すうっと引き抜いて、余韻を垂直に立ち上らせる精妙さに感服していたのだが、右手で音具を扱っていた時だったろうか、立てかけてあった弓へと左手を伸ばし、そのまま指板上にあてがった。彼は右利きだから巧緻性は当然劣る。にもかかわらず、ゆっくりと垂直に往復する弓は、安定した平らかな広がりのうちに、精緻な粒立ちと軽やかな散乱を生み出した。これは決して収斂の賜物でも、偶然訪れた幸運の産物でもあるまい(後で津田に訊いたら、以前に練習中に試してみて、結構行けそうだから、これは本番用に取っておこうと思ったと言う)。右手に持った弓が、意図した音を放つために透明化すべき「道具」であったならば、不器用な左手はその回路を障害していただろう。そうではなく、弓と弦の接触面で圧力と張力、摩擦/抵抗が繰り広げるミクロな闘争の状況をまじまじと見詰め、感得することなら、これは演奏スキルではなく、身体の認知/感覚スキームの問題であるから、右手を左手に移すこともただちに可能となるだろう。

 興味深いことに、中井久夫が先に参照した「発達的記憶論」の中で、観測主体と観測対象をつなぐ線において切断の位置は任意であるとして、「ボーアによる有名なステッキの比喩」を引いている。それを参照しよう。「ステッキをゆるくもてば、ステッキは路の凹凸を反映し、固く握ればステッキは身体の動きに従ってそれを反映する。ステッキは主体に属することもあり、対象に属することもあるというわけだ。」
 津田にとって、ギター(の弦)を探査する弓は、さらにはギター自体が、「ゆるくもったステッキ」にほかならない。観測主体と観測対象の切断面は、ギター・アンプの発音部位からどんどん後退して、弦と弓の接触面へ、弓と指先の接触面へ、さらには身体の奥底へと遡っていく(その一方で、音の響き渡る室内空間へ、さらには聴き手の身体へと侵食・憑依していく)。前回のレヴューでtamaruのエレクトリック・ベースを「受信機」と呼んだが、津田のギターもまた同じ性質を色濃く有している(そう言えば、彼もまたストラップなしにギターを抱えている)。松本のパーカッション群もまた。
 Michel Donedaの息音もまた、ソプラノ・サックスのベルからまっすぐな管の中へ、リードへ、口腔内へ、喉の奥から身体の深奥へ‥‥と、先の切断面をどこまでも後退させ、「外」を身体の内側へと攻め込ませるための「方法」として、「受信機」や探査ゾンデの性質を帯びている。それは決してサウンド・パレットの増強であるとか、楽器演奏テクニックの拡張ではなく、むしろ「音響」を通じて「環境」と深く交わる(=「即興」)ための通路の開拓/掘削なのだ。もちろん、その一方で彼は、室内の空間ヴォリュームに直接マウスピースを接続したかのように、直に部屋の空気を吹き鳴らしてみせるのだが。

 個々で誤解のないよう、すぐさま付言しておけば、弓の表面で起こるミクロな事象をセンシングし、それを出音の変化を介してフィードバックさせ‥‥というような、システマティックな回路構築について語っているつもりは毛頭ない。もしそうであるならば、フィードバック・ループへの介入を容易にするために、ディレイやエコーを回路に挿入することが必要不可欠となるだろう(ここで私は小杉武久『キャッチ・ウェイヴ』やタジ・マハール旅行団の演奏を思い浮かべている)。これに対し、Les Trois Poiresの3人が、いずれもディレイを使用しない方向に歩みを進めていることを指摘しておこう。
 ここでは接触面での圧力や摩擦、速度と抵抗の知覚が、言わば中枢の大本営による言語判断を経ずして、そのままリアルタイムでの運動の変化/調整に結びついているのだ。もしそうでなかったら、私たちはいったいどのようにキスやセックスをしていると言うのだろうか。頭の中をマニュアル本に書かれた注意事項で一杯にして?

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写真:津田貴司


2017年7月29日(土)
東北沢OTOOTO
Les Trois Poires:津田貴司(electric guitar), tamaru(electric bass), 松本一哉(percussion)





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ライヴ/イヴェント・レヴュー | 12:42:50 | トラックバック(0) | コメント(0)
震えへの凝視 ― tamaruのエレクトリック・ベース演奏  Gazing at Quiver ― tamaru's Electric Bass Playing
 前々回に「星形の庭(津田貴司+佐藤香織)」の演奏を振り返ってレヴューしたのに続き、今回はtamaruの演奏について書いてみたい。今回のレヴューはもともと7月29日(土)に東北沢OTOOTOで行われるLes Trois Poires(津田貴司+tamaru+松本一哉)のライヴに向けて書かれる予定だったことをお断りしておく。

 まず告白しておこう。前々回のレヴューの中で触れたように、特に『松籟夜話』第六夜で360°Records特集の第一回としてtamaruを採りあげて以降、彼の演奏はLes Trois Poiresや大上流一とのデュオで何度となく聴いてきた。むしろ、意識して追いかけてきたと言っていい。そしていずれの演奏にも深く揺すぶられ、打ちのめされた。今までに体験したことのない事態が眼の前で起こっており、それが途方もなく輝かしい素晴らしいものであることは、ずきずきと身体に響く衝撃と感銘から明らかだった。にもかかわらず、それを言葉に出来ないもどかしさに苛立った。もちろん、各演奏者のアクションを書き留めたり、サウンドを形容したりすることで、演奏の推移を描写することはできる。しかし、それは単なる「事実」や「印象」の羅列に過ぎず、そこで起こっている事態の核心、すなわち「真実」に迫り得るものではなかった。分析/記述のための視点を設定できず、それゆえ掘り下げが浅く、演奏の強度を受け止め、核心を射抜く言葉を紡げないでいた。
 何か少し掴めたような気がしたのは、水道橋Ftarriでtamaruのソロを聴いた時だった(「星形の庭」の対バンでの出演)。彼のライヴ演奏を聴く以前に、彼の映像作品の上映に接した際に感じた匂いがふと甦ったような気がした。東北沢OTOOTOで聴いた大上流一のソロ演奏との間にも、素早く照応の線が走った。
 さらに吉祥寺Liltで聴いた「星形の庭」の演奏を苦労して「言語化」したことにより、tamaruの演奏の言葉にできていない、思考し得ていない部分の輪郭がほの見えた気がした。そうした感覚を梃子にして、tamaruの音世界をぐいっとたぐり寄せてみたいと思う。


 tamaruはエレクトリック・ベースを抱えると、すっと音を出す。たとえその前に長い沈黙が置かれていたとしても、間合いを計るような素振りは一切見せない。指先だけが僅かに動き、音が鳴り響く。その音はおよそ撥弦楽器の音らしくない。長く張り渡された弦が弾かれて振動する際の、弦の撓む(伸び縮みする)感覚がないのだ。
 たとえば指腹を弦に垂直に打ち付けて奏でられる音は、まるで細く硬い金属棒を叩いたように聴こえる。大型の柱時計の中に仕込まれた「棒鈴(ぼうりん)」が鳴り響かせる時報、あるいはHarry Bertoiaのつくりだした音響彫刻。素早く垂直に立ち上がる、撓みのない、固い芯を持つ音は、立ち上がりの瞬間に放たれるチェンバロに似た金属質の輝きの華やかな散乱が、響きと化して長く尾を引くとともに次第に澄み渡り、しかし決して周囲の空気に滲み沁み渡ることなく、鋭く研ぎ澄まされたサーベルの切っ先のように聴き手の身体を貫いて、振動を直接伝える。

 通常、音を空間に滲み沁み渡らせることによって得られる響きの豊かさ(それゆえそれは常に濁りと共にある)は、彼の演奏にあって、すでに振動している弦に指先で微かに触れることで生じる「さわり」に取って代わられている。ビィーンと鋭い響きが頭をもたげる。角の尖った粒子の粗さ。琵琶やシタールのそれにもちろん似てはいるが、打ちっぱなしのコンクリートに落ちる水銀灯の光を連想させる、即物的でモノクロームな冷ややかさが際立っている。それぞれ低音域と高音域のヴォリュームをコントロールする左右足元のペダルが、前者から後者へと踏み替えられ、響きを照らし出す照明が切り替わって、細部の肌理を、明暗の鋭い対比を、より鮮明に浮かび上がらせる。あるいはその逆により、面相筆のくっきりとした筆致が次第に解け、曖昧にまどろんで、やがて闇に沈む。

 弦に触れる時点ではヴォリューム・ペダルを踏み込まず、音量を絞って立ち上がりを消し、弦の振動が安定した定常状態へと移行してから、それをクローズアップし、線香の煙のように繊細にくゆらせるという奏法も聴かれる。輪郭も芯もない広がり。灯りをつけずに暗闇の中で入る露天風呂のように、ぬるい湯の柔らかく細やかなたゆたいは確かに感じられるのだが、どこまでが外でどこからが内部なのか、皮膚表面が画定するはずの境界が曖昧に溶解し、もはや定かではない。聴き手の身体を浸潤する響き。超低域の音程のよくわからない音圧が黒々と波立って膝下を揺すり、そこから頭をもたげたパルスが、ボディ・ブローのように下腹に鈍く響いてくる。
 ペダルによるアタックの消去を行わずとも、そっと弦に触れるだけで魔法のように柔らかな震えを引き起こし、さらにはそれを絶えず供給し続けることによって、音の輪郭を感じさせない丸く深い響きが放たれる。最初は奥まって聴こえていた「ぽーん」という音が、次第に大きくなり、厚みを増して「ブゥーンン」といううなりを生じたかと思うと、ついには飽和して耳元でビリビリと響き渡り、やがて静まりつつ底なしに沈んでいく。
 あるいは弦に直接触れることなく、ベースのボディを親指の腹で擦ることにより、張り渡された弦の全体を揺らし、重くくぐもった色のない響きの質感だけをつくりだす。

 こうした演奏において、聴取上の外見は電子音によるドローン・ミュージックに似ているが、その本質はまったく異なっている。むしろtamaruのつくりだす映像作品に近い。どういうことか。
 彼の映像作品については、以前にレヴューしている(※)。その特徴は、何気ない日常の光景をとらえた一見変化のない画面の中で、細部のちらつくような揺らぎが常に生成し、揺るぎなく安定しているはずの視覚のうちに潜む、さらさらとした粒子やぼんやりと浮かぶ色彩の斑紋へと瓦解していくミクロで緩慢な「運動」― それを「震え」と呼ぼう ― を、大いなる不安とともに提示することにある。彼のベース演奏にも、マテリアルな音響を取り扱いながら、それを素材として何かを構築していくというより、聴取の体験自体を掘り崩していくものである。
 ※光と影は共に闇から生まれた ―『New Year Silence』ライヴ・レヴュー
  http://miminowakuhazushi.blog.fc2.com/blog-entry-333.html

 もちろん映像作品とベース演奏の間には基本的な相違がある。前者の場合、あらかじめ撮影したローファイな映像をモニタで再生し、それを改めてハイファイで再撮影することにより、システム間に生じる「誤認識」が作品制作のカギとなっていた。これに対し、後者にはそうしたシステマティックな仕掛けはない。これは映像作品が必然的に含まざるを得ない記録/再生プロセスが、ライヴ・パフォーマンスである後者には含まれていないためである。
 しかし、にもかかわらず、両者の間には重要な類似がある。「震え」への凝視がそれだ。奏法の違いにより、音が立ち上がる際の音色を特徴づける「暴れ」(ミュジーク・コンクレートの創始者ピエール・シェフェールは、音色の特徴が周波数のフーリエ解析では再現し得ない理由をここに見ていた)を際立たせるか、打ち消すかの選択が、tamaruのベース演奏で大事な役割を果たしていたことを思い出そう。また、指先による鋭く硬質な「さわり」の付加や、それと対極的な輪郭を持たず、聴き手の身体を浸潤する低音の広がりが、いずれも「震え」に対する直接的な身体感覚を呼び覚ますことを改めて確認したい。通常、触覚的な音とは、「ガサガサ」とか「カリカリ」とか、音の生み出される物体同士の接触面の摩擦を、あるいは音表面の手触りを、触感になぞらえて表現してしまう(表現せざるを得なくなる)音響を指す。しかし、tamaruのベース演奏の場合、そうした「触覚」は音響の表象を超えて、音という力の聴き手の身体への作用そのものとしてある。すなわち震えや揺れとして。そこに彼の演奏の基底面を見たい。


撮影:原田正夫


 そこから改めて見直すと、これまでとは別の景色が浮かんでくる。tamaruのベース演奏において、フレージングは常に断片的であり、変奏による発展の契機を持たない。音程が定かではない音も頻繁に用いられる。高音域と低音域に分割されたヴォリューム・ペダルを操作することで、同じ一つの鳴り響きの中から、バランスの異なる倍音配合が引き出されてくる。すなわち彼の演奏にあっては、音高の時間的配列による旋律構成と、これに基づく構築自体が重要ではないのだ。このことは調律が不要であることを意味しない。実際、彼は毎回きちんと調律を行う。基音のずれは倍音列に影響を及ぼすのだから、これは当然のことだ。
 その結果、彼の演奏は、一音一音の振動を、「震え」を、凝視し続けることの繰り返しとなる。前述のレヴューで採りあげた彼の映像作品が、同質の視点設定から、雪の舞う住宅街の道路、窓の並ぶ建物、見上げる空に張り渡された電線、公園の池で泳ぐ鯉の群れといった対象をとらえた視角の直列接続であったことを思い出そう。すなわち彼のベース演奏とは、弦の、あるいはボディ各部の異なる「震え」が、入れ替わり立ち替わり、耳による凝視の下に立ち現れることなのだ。そう言うと極めて特異な演奏と思われるかもしれないが(実際、極めて独創的なものであることは事実だ)、そうではない。そのことは、たとえばLe Quan Ninhによる水平に置かれたバスドラムの演奏、様々な音具による楽器各部の多様多彩な振動のカーニヴァルをその隣に置いてみれば明らかになるだろう。特異なのはむしろ、かつては一部用いていた音具を捨て去り、ディレイすら外して、ただただ剥き出しの「震え」だけを見詰め続ける、tamaruのストイックな集中の方である。

 これらの演奏は、実はある基本的な仕掛けと、そのことを出発点として、無駄をそぎ落とし、研ぎ澄まされた一連の演奏マナーによって成り立っている。何より、彼のエレクトリック・ベースは途轍もない高増幅度に設定されているのだ。それは決して爆音再生のためではなく、まさに「震え」を凝視するためにほかならない。通常あまり用いられない極細の弦を張り、高感度のピックアップが弦の振動を鋭敏に拾い上げる。それゆえフレットを押さえることによりその都度指定された弦長(これが基音を規定する)だけでなく、弦が三次元的にどう振動するかが重要となる。指板に対する水平・垂直のみならず、弦の張られた方向に駆け抜けていく波や渦も含めて。だから彼はまるで顕微鏡下で細胞操作を行う実験技師のように弦を取り扱う。水平に揺らし、斜めに引っかけ、垂直に打ち付け、弦に沿って指を滑らし、あるいは振動している弦に指先を、指の腹を、爪の表面を僅かに触れさせる。そうした作業/動作に向けて、身体の可能性が等しく開かれているためには、楽器と身体の関係は固定されていてはいけない(情動失禁に至るまで、演奏者の感情の起伏を「透明」に音響に反映するためには、むしろ逆で、楽器は身体に深く埋め込まれなければならない)。だから彼は肩からストラップを掛けることなく、裸のエレクトリック・ベースを抱えて、いつも演奏に臨む。特に即興演奏の場合、楽器と身体との関係を固定することは、特に即興演奏の場合、特定の傾向を固定してしまうと彼は語っている。演奏の最中に楽器を取り落としてしまう危険さえ、演奏の欠くべからざる一部なのだと。

 こうした演奏マナーの在り方は、大音量を目指し続けた撥弦楽器の歩みとはいささか異なっているむしろ息を吹きかけただけで鳴ってしまうほど細く鋭敏な弦を張り巡らし、鍵盤を揺らすことでヴィブラートすら可能だったグラヴィコードを思わせる(そうした過剰な鋭敏さは、チェンバロからピアノフォルテへの「進化」の過程で捨て去られてしまった)。Derek BaileyやJohn Buther、Michel Doneda、Le Quan Ninhをはじめ、優れた即興演奏者たちが見詰め続けた、鋭敏な「受信機」としての楽器の側面。それは演奏者の自己表出のためのパワード・スーツに徹し、大音量や安定した音色を求め続けた楽器の歴史にとっては、切除され続けた危険な「病巣」でしかない。演奏者の意図の外部にはみ出した音を「聴いて(聴き、かつ生じさせる回路を開いて)」しまうからだ。しかし、そうした外部を欠いて、意図の中だけに封じ込められた音楽は貧しいものとならざるを得ない。それ以外を切り捨て、聴こうとしない聴取もまた。tamaruをはじめ、大上流一、津田貴司、高岡大祐、徳永将豪、Satomimagaeなど、最近注目している演奏者たちが、すべてこうした傾向を共有しているのは、決して理由のないことではないだろう。


 ‥‥と、ようやく言葉の形に吐き出し得て、7月29日(土)、思いのほか強い雨に降られた夜に、いつもの水道橋Ftarriとは異なる、東北沢OTOOTOのホワイト・キューブで聴いたLes Trois Poiresの演奏について書き始められるかもしれない。冒頭に記したように、Les Trois Poiresや大上流一とのデュオでtamaruの演奏を聴いていた時は、その音世界に深く魅せられながらも、言葉にはとても移せない、写し取れない正体の掴めなさに当惑していた。彼のソロを聴いて、その弦の震えを彼と共に凝視することによって、何かが垣間見えたような気がした。その時のヴィジョンをとりあえず綴ったものが本稿ということになる。もちろん、分解した各パーツがわかれば、それらを組み合わせた全体像がわかるなどというものではない。音楽とはそんなものでは決してない。しかし、それでも、書きつけた言葉が新たに照らし出すものはあるはずだ。宿便のようにとぐろを巻いた思考がやっと排泄された後の隙間に、新たに芽生える直感もあるかもしれない。ここから、弦の震えを通じて照らし出される、大上流一の演奏の在り様についても、いつか改めて書いてみたいと思う。


2017年6月25日(日)
水道橋Ftarri
星形の庭(津田貴司+佐藤香織)、tamaru





ライヴ/イヴェント・レヴュー | 23:19:24 | トラックバック(0) | コメント(0)
ピアノという解剖台、口ごもれる資質 ― 『タダマス26』レヴュー  Piano As a Dissecting-table, Ability of Hesitation in Saying ― Review for "TADA-MASU26"
 自身がプロデュースするライヴ・シリーズ『tactile sounds』について、「今度のピアノ、初めて聴いたんだけど、すごく良いですよ」と益子博之が興奮気味に語っていたのを覚えている。そのピアノ奏者が今回の『タダマス26』のゲストであるリン・ヘイテツだった。ゲストにちなんで‥というわけではないだろうが、プログラムはピアニストを大きくフィーチャーしたものとなった。そうした中から、特に印象に残った部分を書き記しておきたい。
 いつものことながら、レヴューは一夜の内容の全貌を伝えるものではないし、企画者の意図を代弁するものでもない。あくまでも私の関心に沿って切り取られた視角であることを、あらかじめお断りしておく。
 なお、当日のプレイリストについては、次のURLを参照されたい。
 http://gekkasha.modalbeats.com/?eid=955542


タダマス26-13.Aaron Parks 『Find the Way』(ECM)
 Billy Hartのドラムはパルスに限定することなく、時にはほとんど因習的とすら言えるジャズ・イディオム的なリズム・フィギアを叩き出しながら、Aaron Parksのピアノの音の運びに対し、常にズレた地点に設置していく。細やかに編み上げられたサウンド・レイヤーを滑らかにずらしていく‥‥といった最近のデスクトップ的な精緻な編集感覚とは異なる、もっとラフでざっくりとした感触がもたらす、どこか人を食ったようなヒューモア。益子の「老人力」との形容には思わず膝を打つところがある。

タダマス26-24.Soren Kjaergaard, Ben Street, Andrew Cyrille 『Femklang』(ILK Music)
 Billy Hart同様、NYダウンタウン・シーンで最近「再ブレーク」中のAndrew Cyrilleについて、「この盤の演奏が彼に対する高評価のカギではないか」と語りながら、Soren Kjaergaardのピアノ・トリオをかける(Aaron Parksのトリオとベース奏者が同じという周到さ)。音と音との間がだんだん広がり、たちこめる闇が次第に深さを増していく。遠くで幻の如く虚ろに響くカウベル(か、あるいは‥)が、手前のピアノやシンバルをほのかに照らし出す。

タダマス26-35.Roscoe Mitchell 『Bells for the South Side』(ECM)
 続くRoscoe Mitchell作品も大人数のパースネル表記にもかかわらず、披露された12分以上に及ぶ冒頭曲は、コーダ部分でまるで篠笛のように鋭く一文字に引かれたピッコロ(Roscoe Mitchell自身による)を除けば、Craig TabornとTyshawn Sorey(!)による2台のピアノの凍てついた交響とそこに影のようにひっそりと付き従うWilliam Winantのチューブラー・ベルズ等の金属打楽器しかない。間を置いて沈黙を切り裂き空間にそそり立つピアノの打撃音、さらにはピアノ弦を直接掻き鳴らし、あるいは筐体を叩いて生み出される高密度の音響は、明らかに音高や音価の組織化ではなく、空間を満たす強度/濃度の勾配によって導かれている。シカゴ現代美術館の硬く張り詰めた床や壁、はるかに仰ぎ見る天井、空間の圧倒的なヴォリュームと遠くまで渡っていく響き。深海を思わせる暗闇は、霧にも、むせ返る香りにも似た分厚い静寂にねっとりと充填され、もはや新たな音を解き放つことなどできようはずもない。ただ、たゆたい続ける響きの濃度を、浮かび上がる音粒子の軌跡を、捻じ曲げ、撓ませるだけだ。途中から微かな鈴の音が止むことなく鳴り続ける。それまで暗闇に沈んでいた静寂の襞に、しゃらしゃらと銀粉を振り撒いて、不可視の起伏を浮かびあからせ、最後、ピッコロが一文字に線を引くための舞台を整える。
 おそらくあらかじめ記された「楽譜」があるのだろうが、それは単なる指示書に過ぎない。どのように作戦を遂行し、成果を挙げるかは、一瞬ごとの状況判断、すなわち「即興」に委ねられる。ここでTabornやSoreyたちが開いてみせる世界の豊かさに比べ、あらかじめ用意された「書かれたもの」の構造は、それほど精緻でも複雑でもあるまい。逆に言えば、作曲は自己完結しておらず、演奏の豊かさを決して保証してはくれない。それが「ゲンダイオンガク」としての完成度の低さであると言うのなら、それはそうなのだろう。だが、それがいったいどうしたと言うのか。「たとえ楽譜を見て演奏しているとしても、(所謂「現代音楽」の演奏とは)時間の過ごし方、役割の果たし方が違う」という多田雅範の指摘は、まったくその通りだと思う。
※以下で録音時のライヴ演奏からの抜粋映像を見ることができる。
 https://www.youtube.com/watch?v=dMQ4WOGoMdQ

タダマス26-46.Craig Taborn, Ikue Mori 『Highsmith』(Tzadik)
 Craig TabornとIkue Moriのデュオと聞かされると、「ジャンル違い」というよりも、むしろ、隙間なくみっちりと石垣を積み上げる前者の「建築性」と、ソーダの泡が弾け、クリームが散乱し、色とりどりのチョコレート・スプレーが噴出する後者の女子会的「非建築性」の極端な対比が思い浮かぶ。間を置いて打ち鳴らされるピアノに対し、興奮して「沸いた」頭の中のように、空間のあちこちから噴き出し吹き荒れる電子音のつぶやき/ざわめきが、次第に静まって、空間がたゆたいながらも見通しを取り戻す様には、「音楽」を経由しない(「音楽」へと迂回しない)音の感覚/生理のより直接的な交感を見る思いがした。コメントを求められて「二人の音がまったく混じり合っていない」ことを指摘しつつ、さらに「音が混じり合うこと自体をよいとする価値観は、日本のシーンの方がアメリカよりもはるかに強い」としたリンの指摘が心に残った。

タダマス26-59.Plug and Pray 『Evergreens』(dStream)
 Erik Hove Chamber Ensembleのスペクトル楽派の影響(応用?)だという滲み感の強い管アンサンブル、不協和というよりは色彩の不透明な濁り感をブリッジとして、Benoit DelbecqとJozef Dumoulinのデュオ「Plug and Pray」へとエレクトロ・アコースティックな「空間のたゆたい感」が引き継がれる。スリラー映画で風もないのに揺れるカーテンにも似た、実体を欠いたナイトメア的なストリングス・キーボードの閃き。突如として制御不能に陥り、どもり続け、あるいはテーブの早回しを思わせるガラクタに壊れたリズム・フィギア(多田はアメリカン・クラッカーの痙攣発作的なビートに喩えていた)を噴出させるeドラミング(電子リズムボックス)は、「響き感」の操作により、リズムの刻みだけでなく、存在自体を極端に不安定化されている。ピロビロと輪郭を溶かし、ペラペラと厚みを欠いたまま、無限/夢幻に巡り続けるフェンダー・ローズ。息苦しいほどに濃密な飽和感/デジャヴ感。プールの底に足が届かず、宙を蹴る頼りなさ/救いの無さ。
 対してキーボードもドラムもエレクトリックにささくれざらついた質感へと思いっきり針を振りながら、切れ味の良いタイトなリズムが、Kate Gentileの作品を「Plug and Pray」とはまったく異なる感触に仕立てている。地に足を着け、足早に前へ進む時間。

タダマス26-0縮小
撮影:原田正夫


 Ryosuke Hashizume Groupの演奏の2拍目が引き伸ばされて宙に浮く3拍子を「3+5+3の11拍子」と鮮やかに分析し、あるいは先に触れたように、国内シーンの「音が混じり合うこと」への称賛ぶりに対して醒めた眼差しを向け、さらには変奏により新たなフレーズを紡ぎ出すよりも、同じフレーズを繰り返す方がカッコイイとされる最近の風潮を、「フレーズを繰り出しているうちに、既視感のあるジャズ・フレーズが出てくると、そこでテンションが下がってしまう」というわかりやすい理由説明付きで的確に指摘してみせる(なるほどThe Necksがもてはやされるわけだ)など、今回のゲストであるリン・ヘイテツは、五線譜に視覚化される音高・音価中心の体系を、そのまま具現化した楽器「ピアノ」の演奏者にふさわしい資質を、如何なく発揮してみせた。

 だが私が注目したいのは、彼が今回の『タダマス26』で何度か見せた「口ごもれる資質」である。これは決して皮肉ではない。いきなり(未聴の録音も多数含まれているであろう)新譜からの抜粋音源を聴かされてコメントを求められ、まるで知らないこと、あるいは未知のものにたじろぎ、打ちのめされることが恥でもあるかのように、「ああ、彼の演奏はNYで聴きましたよ」、「メンバーとして参加している○○のことなら、友達なのでよく知っていますよ」と、話をすぐさま既知の体験や人脈関係に着地させようとする者たちがこれまで多くいた中で、彼は違っていた。そもそもインプロヴァイズド・ミュージックなのだから毎回異なるはずの演奏を、あたかも聴く前からわかっていたかのように語ることは、そこに潜む未曽有の事態に耳を不意討ちされることを最初から回避するための身振りではないのか。その点、リンは率直過ぎるほど正直に口ごもっていた。

 それはもちろん、事態が不明であったり、頭が真っ白になって途方に暮れたりしたためではあるまい。むしろ演奏の底知れぬ豊かさを確かに受け止め、そこに潜む「未曽有の事態」にしたたかに打たれながら、その一瞬に彼が受信して/注入されてしまった膨大な情報量を限られた語数でどう伝えればよいのか、懸命に高速演算しているように思われた。色とりどりのランプをけたたましく点滅させながら、なかなか回答をテープに吐き出してくれない巨大コンピューターのイメージ。

 そこに私は彼の「批評」の力を見ている。作曲性と即興演奏性が、空虚な空間に放たれる孤独な音の軌跡と「音響粘土」をこねあげる造形力が、ざわめきと沈黙が、ズレと同期が、音高・音価体系と音色の質感や音自体の強度が、「ピアノ」という異質なものの出会いをかたちづくる「解剖台」の上でせめぎ合い、相互に浸透する様を見詰めた今回の企画 ― それはピアノを俎上に載せるというより、ピアノを俎板=解剖台としたと言うべきものだった ― に、彼は実にふさわしいゲストだった。彼の「口ごもり」を受け止め続けた益子と多田を含め拍手を送りたい。

masuko x tada yotsuya tea party vol. 26: information
益子博之×多田雅範=四谷音盤茶会 vol. 26
2017年7月23日(日)
四谷三丁目 綜合藝術茶房 喫茶茶会記
ホスト:益子博之・多田雅範
ゲスト:リン ヘイテツ(ピアノ奏者/作曲家)



ライヴ/イヴェント・レヴュー | 01:28:47 | トラックバック(0) | コメント(0)
猫の腹を撫でる ― 「星形の庭」ライヴ・レヴュー  To Stroke Cat's Belly ― Live Review for the Pentagonal Garden
 吉祥寺駅の階段を降りて、狭いバス通りを左手に折れて進む。意欲的な古書店Basara Booksに立ち寄り(店内のレイアウトがずいぶんと様変わりしていた)、ひとめで羽良多平吉デザインとわかる『VARIETE』を購入。佐藤重臣が書いているのに惹かれたのだが、目次をよく見ると間章も書いている。ガード下の交差点まで来ると、向こう側に「いせや」の賑わい。その煙と匂いの向こうに目指すスペースLiltの入ったビルがある。かつてSound Cafe dzumiへと通った道。
 ビルはやはりかつてとは随分様変わりしていたが、エレベーター・ホールまで螺旋階段を昇らねばならない不便さは変わらない。5階の扉が開くと、もうそこから店内。これはズミと同じ。ズミとは階が違うが、基本的な間取りは変わらない。奥のカウンターの位置取りも共通だが、それなりに場所を取っていたオーディオやレコード棚がない分、少し広く感じられる。天井から設えられた棚でマッキントッシュのインテグレーテッド・アンプが涼しげな青い光を放ち、英国ハーベスのミニ・モニターが瑞々しく香る静けさを奏でている。聴き覚えのある津田貴司の作品。ズミでも「メイン」スピーカーは同じBBCスタジオ・モニター系列の英国ロジャースLS3/5Aが用いられていたことを思い出す(JBLスピーカーと同時に鳴らすという、かなり無茶なセッティングだったが)。不思議な縁。

 所狭しと並べられた椅子は、もう9割方埋まっている。仕方なく最前列、ギターを構える津田のすぐ眼と鼻の先に腰を下ろす(決して圧力をかけるつもりはないのだが)。井の頭公園の樹々がズミよりも近く見える。程なくして演奏が始まった。
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撮影:原田正夫


 音を立てずにギター弦上を往復する弓。リードを鳴らさずに畳まれていくアコーディオンの蛇腹のパチパチと焚き火が爆ぜるような軋み。下の通りの交通騒音がふーっと浮かび上がり、やがてそこに微かな音が敷き重ねられていく。次第に水かさを増す響きに耳を浮かべていると、ふっと音が止み、一瞬、正体不明の深淵が口を開ける。緊張のせいか、聴衆の椅子がぎいっと大きな軋みを立てる。
 運弓が再開され、がさがさした引っかかりが徐々に滑らかさへと転じ、それにつれて倍音がたちのぼり始める。蛇腹の往復もまた加速され、すうすうと漏れる「息」に比して、パチパチした軋みはだんだんと小さく軽くなっていく。路線バスのエンジン起動音がふっと飛び込んできて、リードの微かな鳴りに受け止められる。
 ここでギターとアコーディオンの音色はほとんど見分け難く溶け合っている。それは互いに中間点へと歩み寄り音を近づけた結果ではなく、沈黙のキャンヴァスに音の絵具を積み上げ盛り上げる代わりに、音に厚みを持たせず、ひたすら周囲の空間へと滲み沁み込ませる、クロマトグラフィックな広がりを選んだことの帰結としてある。希薄で極薄の空間の中で、弓の圧力の微細な揺れ動きが筆致の変化となって現れ、蝋燭の炎のように不安定に揺らめきながら消え入る和音が、水たまりの表面に浮かぶ油膜を思わせる玉虫色の響きの変容を見せながら、あたりの静寂へと沈み埋もれていくのとすれ違って、またパチパチという響きが微かにぼおっと浮かび上がる。

 その後、二人の響きは様々な局面を経巡った。ギター弦の爪弾きが北欧の民族楽器カンテレにも似た凍てつくように張り詰めた音色を聴かせ、アコーディオンによる平らかな和音のふるふると震えるたなびきがせせらぎの水音に聴こえ、雪解け水みたいに足元を流れ行きながら、時折、ざわざわと高まり、沸き立つ。あるいは指先ではじかれた弦からこぼれ落ちた破片が、珍しく不透明な不協和音の壁の前を、初夏の宵の羽虫のように飛び交う。ここで鍵盤を押さえる指のポジションはコードの変化/進行というより、舞台照明の切り替えに似た効果をもたらす。増幅されない生のギター弦のか細くかそけき響きが、続いて踏み込まれたヴォリューム・ペダルの操作により、空間に拡大投影され大きく揺らめかされる。アコーディオンの蜘蛛の糸の如く細い細い音が、空間に張り渡されたかと思うと、ふっと掻き消える。耳の集中をたぐり寄せ、すっと解き放って、目印なしの空間に聴き手を向かい合わせる「オフ」の感覚の冴え。ギターのアルペジオにアコーディオンの和音が乗るフォーキーな展開にあっても、そこには響きの細部の細やかな揺らぎへの感覚が常に行き届いており、私はMark Fry『I Lived in Tree』の木床の軋みや部屋のつぶやき、空間のざわめきに満ちた音の肌触りを思い出していた。窓の外でだんだんと高く明るく大きくなっていく満月に照らし出されながら。
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撮影:原田正夫


 実を言うと、前回月日に水道橋Ftarriで聴いた彼/彼女らのライヴでは、津田が弓弾きやゴム球による摩擦で演奏する部分とアルペジオを奏でるフォーキーな部分との落差/乖離に対し、聴き手であるこちらに、どう受け止めればよいかとのとまどいがあった。この夜の演奏では、それは解消されていた。どういうことか。
 弓弾きやゴム球でのギター演奏は、チューニングされた音高を連ねてフレーズ/メロディとして聴き取るのとは別の次元で展開される。言葉を換えれば、聴き手は耳のスイッチを無意識のうちに切り替えて、時間軸状に音高をプロットするよりも、いま鳴っている音自体へと集中を向かわせる。ミクロには音色を構成する音響の粒子の密度(濃度)・速度・運動の方向やパターン、マクロには手触りや色合い、流動性、空間の奥行きの中での重なりや分離の具合。『松籟夜話』のキーワードである〈即興・音響・環境〉で言えば、ここで即興性は、音響と環境との間でリアルタイムかつ刻一刻織り成される動的平衡の軌跡として現れる。
 この夜のゴム球によるギター演奏は、弦の素早いトレモロが倍音の雲を沸き立たせながら、左手指の的確なずらしとミュートがサウンドの飽和を阻み、水道橋Ftarriよりも天井が低くエアー・ヴォリュームの小さい空間でありながら呼吸可能な隙間を確保していた。それゆえ、充満したギター・サウンドの只中に、鎧戸の隙間から漏れ入る光の如く、アコーディオンの細くまっすぐな音(例えば最高音とその半音下の2音の不協和がつくりだす甲高い響き)が射し込むといういつもの構図を離れ、次第に満ちてくるアコーディオンの和音の下にギターが潜り込むという挙動を見せた。アコーディオンのたなびきを、底流に位置したギターの高まりが下から突き動かし、あるいはゆったりと引き延ばされた呼吸のうちにディレイの色合いを移ろわせながら、アコーディオンの響きをゆるゆると降り積もらせる。
 そこには津田が(hofli名義の作品を含め)録音された作品世界で行う、情景提示の感覚に共通するものがあった。そこで情景は眼に沁みるほどくっきりと像を結びながら、決して揺るぎなくそこに在り続けるわけではなく、眼の覚める間際に見る夢にも似て、一瞬の閃きがもたらす残響、無意識のうちに再構成された残像であるに過ぎない。そこで環境音のフィールドレコーディングがもたらす「外」のマテリアルで不確定な揺らぎは、この「星形の庭」の演奏において、弓やゴム球の往復が弦にもたらす、あるいは細く引き延ばされ、あえかに紡がれた息のムラが細いリードに吹き込む、不安定でこわれやすい移ろい、揺れ、濁り、滲みや染みの広がりに取って代わられている。あるいは一音の微細な変化が、例えば強弱のほんの僅かな揺らぎが遠近の感覚を揺さぶり、一瞬のうちに構図を描き変えてしまう鋭敏さの感覚。そうした身体感覚が、音響的な演奏にも、フォーキーでメロディアスな演奏にも通底していることを、確かに手触ることができる。

 ここではゆったりとしたアルペジオも、切なく胸に響く和音も、常に生成変化のプロセスの途上にある。あらかじめ紙に記された、あるいは頭に思い描かれた記号を再現するための「パッケージされた」、「ピンで留められた」音ではない。常に不均衡に移ろう弓の圧力と張られた弦の抵抗のせめぎあいの下でうごめく微細な音の脈動、かつ消えかつ結びて生成消滅を繰り返す無数の「音芽」。蛇腹の伸縮/抵抗と開口部となる各リードの振動/抵抗の拮抗がつくりだす「気圧/気流のドラマ」(アコーディオンにおいては、ピアノのようにひとつの鍵盤ごとに発音体を操作することができず、いま奏でられている和音に一音加えるだけで開口部が増え、内部の圧力と振動の均衡モードが変化してしまう。それゆえそこで繰り広げられるのは、常に逸脱をはらみ、展開が予測不可能な群衆劇にほかならない)。演奏者の意図やその運び手である記号相手ではない、徹底的にマテリアルでロウな(生な)音との交通がそこにはある。

 横たわった飼い猫の腹を撫でる。毛並みの手触り。体温や湿り気の感覚。内臓の脈動。筋肉の緊張。眼を瞑っていても注意深くそばだてられ、休みなく向きを変える両耳の動きに合わせ、時折走る神経の緊張(身体の各部へのあるいは全身への)。ひげの震え。尻尾の規則的な(リズミカルに横に振る)、あるいは不規則な(じっとしていたかと思うと急に鞭のようにしなって床をパタンと打つ)動き。掌や各指への力の入れ方、手の動きの速度や強さ、撫でる部位の変化、こちらが姿勢を変えれば互いの距離や位置関係が変わり身体の投げかける影も動く。背後からは夕食の準備をする妻の足音や調理器具の金属音や外を自転車が通る音がして、時折、猫が薄目を開けたり、ひげを震わせたりする。窓から吹き込む風は、カーテンをたなびかせ、私と猫を共に撫でていく。
 ここではリアルタイムかつ刻一刻のミクロな交通が成立している。それは別に猫の意識と私の意識の間で起こっているわけではない。接している腹部と掌の間の相互浸透として、いや私たちが共有しているこの空間の中の様々な場所で同時多発的に生じているのだ。

 ヴォリューム・ペダルとディレイ1台をグレッチのエレクトリック・ギターにつないだだけのシステム(そのディレイすらも極一部でしか使わない)。最近は音具も弓とゴム球と六角レンチに限られてきた。そして何のエフェクターも音具も用いない、友人から譲り受けたという年季の入ったアコーディオン。
 削ぎ落とし絞り込むことが目的ではない。極北を目指す過激な(往々にして自己破壊的な)ロマンティシズムやミニマリズム/リダクショニズム等のコンセプトも重要ではない(むしろそれこそが余計な邪魔物だ)。ひとつの奏法の中に、ひとつの音のうちに、幾つもの豊かな響きを、多方向からの多様な力の交錯/衝突を聴き取れることが、音のロウな局面に、すなわち物体/身体/空間の震えや揺らぎの深淵へと沈潜できるようになったことが、そのことを通じて共演者とだけでなく、周囲の物音や空間自体の在り様と交感できるようになったことが、場面とじっくりと向かい合う覚悟をしっかりと支えている。そこで楽器は、雑音を排して楽音を抽出する機械としてではなく、その鋭敏さによって周囲の物音を映し出す受信機ととして、さらにはそれ無しではたどり着けない深みから音を通じて世界を探査する聴診器として現れることになる。
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津田貴司のFacebookページより転載


 ミクロな震えに始まり、指先から全身、さらには空間を経めぐって、再び震えへと還ってくる演奏のあり方について、ここでは「星形の庭」の演奏に「託して」書かせていただいた。
実はこうした感覚は、津田貴司、松本一哉、tamaruによるトリオLes Trois Poiresや大上流一とtamaruのデュオに対して覚えたものだったが、なかなか言葉にすることが出来ないでいた。その後、先に触れた水道橋Ftarriでの「星形の庭」と同じライヴに出演したtamaruのソロ演奏に深く揺さぶられ、これはもう言葉にせざるを得ないと切羽詰まっていたところを、今回の「星形の庭」の演奏をきっかけとして、一気に吐露させていただいたところである。「託して」とは、そうした事情である。それゆえライヴのレヴューとしては、いささか偏った穿ち過ぎの部分があることをお断りしておく。

星形の庭(津田貴司E.Guitar+佐藤香織Accordion)
日時:2017年7月9日(日)
会場:Lilt 東京都武蔵野市御殿山1-2-3 5F
http://lilt.tokyo/
※自家製のジンジャーエールが絶品だったことを付記しておきたい。

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撮影:原田正夫


なお、先に触れたLes Trois Poiresのライヴが7月29日に行われる。必聴。

Les Trois Poires@OTOOTO
2017年7月29日 18:30
OTOOTO 世田谷区北沢3-13-10 エコロニー東北沢B1F
tamaru+津田貴司+松本一哉による演奏です。ベースギター、ギター、パーカッションという編成ですが、通常のトリオとは全く違う発想で、即興/音響/環境という演奏と聴取の結び目、音楽の向こう側の名付けられない領域を探ります。 会場は、東北沢から先鋭的な音楽を発信するスペースOTOOTO。Les Trois Poiresとして初登場となります。 どうぞご期待下さい。



ライヴ/イヴェント・レヴュー | 21:54:58 | トラックバック(0) | コメント(0)
『松籟夜話』第九夜来場御礼  Thank You for Coming to "Syorai Yawa" the Ninth Night
 6月11日(日)開催の『松籟夜話』第九夜「音響都市の生成」、多くの方にご来場いただき、ありがとうございました。「都市」がテーマということで、もっとライトな仕上がりになるかとも思っていたのですが、結局はいつも通り掘り下げに掘り下げて、ハードコアかつディーブ極まりない内容に成り果てました(笑)。特に後半のクライマックスの連続は、これまでの中でも出色の展開ではなかったかと思います。
 ここでは、当日ご紹介した音源をリストアップし、コメントを添えます。コメントは当日のままではなく、また企画の性格上、当然のことながら、プログラムの流れの中に位置づけての説明となっておりますので、その作品の全体像をニュートラルに伝えるものではありません。なお、試聴トラックはあくまで雰囲気を感じ取っていただくためのもので、必ずしも当日プレイしたトラックと同一ではないことにご注意ください。

蠖捺律・神convert_20170616173057
撮影:原田正夫


開演前BGM

V.A.『エチオピアの音楽』tr.11「エチオピアの教会音楽」
試聴トラック:https://www.amazon.co.jp/%E3%82%A8%E3%83%81%E3%82%AA%E3%83%94%E3%82%A2%E3%81%AE%E9%9F%B3%E6%A5%BD-%E6%B0%91%E6%97%8F%E9%9F%B3%E6%A5%BD/dp/B0017GSGHK
 エチオピアのコプト教会聖歌。前回の「聖なる場所に集う声」でご紹介したOcora音源とはかなり音の手触りが異なり、ゆったりとした御詠歌調。重なり合うレイヤーが揺らぐ様が今回紹介する音源と共通する耳の視点を要求する一方で、カテゴリー的には前回企画とつながっていることから、ブリッジ役を務めてもらった。


開幕

Colette Magny『Vietnam 67 / Mai 68』tr.13
試聴トラック:https://www.youtube.com/watch?v=CdGVMsoivhg
 聴覚による都市イメージを探るにあたり、「音の絵葉書」的なかっちりした枠組みに到底収まらない溶解/流動状態の都市音響を「最初の一撃」として。タイトル通り、パリ「五月革命」の街頭実況録音を含む。飛び交う怒号、沸騰するパロール、ただならぬ気配の中、「インターナショナル」の決して勇ましくはない歌声が流れる。

蠖捺律・農convert_20170616173126
撮影:益子博之



第1部 スナップショットが浮かび上がらせる都市像

 都市が大規模化・多様化し、一望の下にはとらえきれなくなったことを前提に(「見えない都市」)、スナップショットによる一瞥の断片の集積が浮かび上がらせる光景に耳を澄ます。もちろんそれは一部に過ぎず、「群盲、象を撫でる」が如く、決して全体像には行き着かない試みであるのだが。

Christina Kubisch&Eckehard Guther『Mosaique Mosaic』tr.1~2
試聴トラック:http://www.gruenrekorder.de/?page_id=10742
カメルーンで現地学生に教えてもらった「音が面白い場所」のサウンド・スナップショットによる構成。がやがやと埃っぽい市街の喧噪、下世話な生活感が溢れる。怒鳴り合う(?)声の応酬と、日向ぼっこする猫のように脱力しきった街角の讃美歌。拡声器やラジオの電気的歪みが最初から風景の一部として瀰漫している。レム・コールハース「ジェネリック・シティ」の猥雑な強度。洗練されたハイ・アート作家のイメージが強かったKubischによる思いっきり生々しい達成。

Craig Shepard『On Foot:Brooklyn』tr.1
試聴トラック:https://craigshepard.bandcamp.com/album/on-foot-brooklyn
タイトル通り、ブルックリン地区内をあちこち徒歩で巡りながらの街頭演奏録音集。なかなか始まらない演奏に向けてそば立てられる耳が、「何もない」街角の景色を思わず映し出してしまう。後から添えられるクラリネットの細い線も、「食いだおれ人形」みたいなドラムも、そうして成立した都市の聴覚イメージを、ふっと浮かび上がらせるものとして機能する。

近藤譲『ブルームフィールド氏の間化』B-1「夏の日々」
試聴音源なし
 コンサート終了後の拍手から始まる、彼には珍しいテープ・コラージュ作品から、目線の高さを飛行するクラリネット(前掲トラックからの連続性)に導かれて路地に入り込み、降り注ぐ蝉時雨の下に佇んで、子どもたちの言葉遊びを見守る部分を抜粋。穏やかな慈愛に満ちた、しかしノスタルジックでしかあり得ない耳の視点。

Carl Stone『Kamiya Bar』tr.4+tr.5
試聴トラック:http://www.allmusic.com/album/kamiya-bar-mw0000892540
 対して同じ「街角の声」(日本語)に着目しながら、「社会鍋」の呼びかけや市場の売り立ての連呼を採りあげるカール・ストーンの手つきは「クール」そのものだ。日本語を解するにもかかわらず、あえて意味にとらわれず、サウンドのフェティシズムに溺れる彼は、そのポップ&キッチュな耳の鋭さによって、凡百のエキゾティシズムを軽々と乗り越える。フィールドレコーディング音源によるセッションにおいても、彼の「空気を読まないこと」が微温湯的な閉域を切り裂く場面を何度も目撃した。

AMEPHONE『Retrospective』tr.2
試聴トラック:https://amephone.bandcamp.com/
 前々回特集したAMEPHONEから。駅まで近道をしようとして、不案内な住宅街に迷い込み、あたりを見回した瞬間、どこかの家の開け放たれた窓からふと聴こえてきそうな弦アンサンブルの音が、テープ速度の操作で歪み、すっと音もなく崩れ落ちる。何気ない日常の中で足元が揺らぎ、見慣れたはずのものが見知らぬ何物かに変貌する。

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撮影:原田正夫


第2部 俯瞰と転送 ― 都市空間における身体の位相

 先に見たスナップショットの集積に対し、俯瞰による眺め、あるいは聴き手を一瞬のうちに包み込む響き(J.J.ギブソン「包囲光」を踏まえて「包囲音」とでも呼びたいところ)により、別の場所へと一瞬のうちに送り届けられ、その場に投げ込まれる感覚の作品群を。

V.A.『エチオピアの音楽』tr.9「皇帝の到着」
試聴トラック:https://www.amazon.co.jp/%E3%82%A8%E3%83%81%E3%82%AA%E3%83%94%E3%82%A2%E3%81%AE%E9%9F%B3%E6%A5%BD-%E6%B0%91%E6%97%8F%E9%9F%B3%E6%A5%BD/dp/B0017GSGHK
 ラスタファリアニズムが熱狂的に称えたエチオピア皇帝ハイレ・セレシエの到着の模様の現地録音。俯瞰的視点から、見渡す限りの人の波の広がりが大河の流れのようにゆったりと進み、厳かに鐘が鳴り渡り、あちこちで歓声が上がるかと思えば、手前では何やら話し込んでいる‥‥という、多層/多重なレイヤーの重なりがじりじりと動いていく。圧倒的な音後景の顕現。前半のハイライトのひとつ。

V.A.『Streets of Lhasa』tr.17
試聴トラック:https://www.youtube.com/watch?v=PBbEn-fdB0o
 タイトル通り、チベットのラサ市街における現地録音。四方八方から襲い掛かる混濁した雑踏音に、方向感覚を喪失し、くらくらと酩酊してしまう。Sublime Frequenciesレーベルらしい猥雑なストリート感覚。アルバム全体の編集はSun City GirlsのAlan Bishopが務めている。

前林明次『I/O Distant Place』tr.4+tr.10
試聴音源なし
 やはり異国の地のフィールドレコーディング音源。タイトル通り、自分の部屋に居ながらにして、別の場所に瞬間転送され、その場所に立ちこめる響きや匂い、温度/湿度の只中に放り込まれる感覚。自身の頭部にマイクロフォンを装着して、街を歩き回ったバイノーラル録音。


Christina Kubisch&Eckehard Guther『Unter Grund』tr.1
試聴トラック:http://www.gruenrekorder.de/?page_id=14340
 このパートの冒頭にプレイした『Mosaique Mosaic』チーム再び。こちらは独ルール地方を支える地下揚排水システムのフィールドレコーディングから、地下水位の上下に即して、いったん停止した巨大機械が再び作動を開始するまでの間を抜粋して聴取。動作音と入れ替わるように暗騒音が揺らめき立ち上り、暗闇を見詰める視線に閉所恐怖が充満する。


休憩

Moondog『Viking of Sixth Avenue』
試聴トラック:http://honestjons.com/shop/preview/27437
 ムーンドッグ活動初期の街頭録音から。チャカポコとしたドンカマ的リズムとハンマー・ダルシマーの音色。ムーンドックの演奏する姿は都市の一点景である一方で、やはり録音は演奏する彼へと向かい、環境音は単に背景に過ぎない。


Michael O'Shea『Michael O'Shea』 A-1
試聴トラック:http://www.sheyeye.com/?pid=50059285
 ハンマー・ダルシマーを改造した創作楽器「モ・カラ」を演奏するストリート・ミュージシャン。WIREのB. C. GilbertとG. Lewisがプロデュースし、彼らの起こしたDomeレーベルからリリースされた。緩やかな打撃が弦の上をどこまでも移ろう。



映像解説「生成/浮上する都市のイメージ」
音源の聴取とコメントが織り成す文脈に、視覚イメージにより補助線を引く試み。ここではボードレールの愛したGiovanni Battista Piranesi(1720-1778)とCharles Meryon【1821-1868】をまず採りあげ、前者による古代ローマの想像的再現『Campus Martius』をヘテロトピックな「コラージュ・シティ」(Colin Rowe)の先取りと評価し、後者によるパリ市街図の幻想による侵食とその再抑圧を、「表象の空間」(Henri Lefevre)の視点からとらえた。続いてWOLS(Alfred Otto Wolfgang Schulze)【 1913-1951 】と難波田史男 Fumio Nambata【1941-1974】において無意識から浮上する都市イメージに関し、難波田の愛好したPaul Klee【1879-1940】の分割と反復による構築と対比させた。
 
            Giovanni Battista Piranesi ジョバンニ・バッティスタ・ピラネージ

 
                     Charles Meryon シャルル・メリヨン

 
             WOLS  ヴォルス             難波田史男 Fumio Nambata


第3部 路傍の芸

藤本由紀夫『Ears on the Rooftop』
試聴トラック:http://www.geocities.jp/paganrail/omegapoint/editionOP-2.html
 屋上に据えられた金属パイプを通して聴く周囲の音響。ごーっという管の共鳴のうちに環境音の断片が浮き沈みする。大道芸の沸き立つイメージに冷水を浴びせかけ、しかるべき距離と冷静さを確保するための1ステップ。

Willem Breuker『Lunch Concert for Three Barrel Organs』B-1
試聴トラック:http://www.sheyeye.com/?pid=90378353
 大道で懐かしい響きを奏でるはずのストリート・オルガンが、広場に3台も集められて、口角泡を飛ばしながら議論し合うゲリラ的パフォーマンス。すわ何事かと慌てる市民。ブロイカー本人の証言によれば警官まで駆けつけたという。


里国隆『路傍の芸』tr.1~3
試聴音源なし
 盲目の伝説的ストリート・ミュージシャン(奄美出身)。沖縄那覇の市場アーケードでの演奏に幸運にも出くわした宮里千里による貴重な録音(彼は『イザイホー』の録音者でもある)。鋭く律を刻む四ツ竹、繊細にしてグラマラスな箏の音、地を這い胸を刺し貫く声の強度、周囲を取り囲む聴衆のざわめき、そしてその向こうから聞こえる買い物客の賑わい‥‥何もかもがくっきりと墨色鮮やかに生々しい。歸山幸輔特製スピーカーがまた新たに潜在能力を解き放った。里と宮里の曲間の会話も収録されており、「空間を丸ごととらえる」宮里ならではの仕事。

Satomimagae『Awa』tr.4+tr.9
試聴トラック:https://satomimagae.bandcamp.com/album/awa
tr.9 Official MV https://www.youtube.com/watch?v=9aP5lMtVZRc
 街頭演奏の現地録音ではないが、フィールドレコーディングによる都市のざわめきを挿入する特異な女性SSW。「これはギターの弾き語りではない」と自ら主張するように、ライヴでも流される都市の音響は、単なる装飾や背景にとどまることなく、鋭く張り詰め彫り刻まれた声/ギターと拮抗して、ざらざらと粗く冷ややかに耳にやすり掛けして、どこまでも聴き手の覚醒を促す。私や津田の愛聴盤である本作品でもまた、歸山スピーカーはこれまで聴いたことのない異次元の再生ぶりを見せた。

hofli『Lost and Found』tr.11
試聴トラック:http://www.pastelrecords.com/koencafe/?p=218
参考文献:http://miminowakuhazushi.blog.fc2.com/blog-entry-265.html
 市街の片隅で演奏を繰り広げるバスキングを何度も見かけ、これに刺激され、ヨーロッパの地下鉄駅通路でのフィールドレコーディングにオモチャのスティールパンを重ねたものだという。都市のざわめきの向こうの(フィルタリングされた)演奏風景ではなく、演奏音によって紗を掛けられ、その網目に浮き沈みする都市の光景。「たったひとつの現実」が「もうひとつの現実」への回路をすっと開いてみせる。


第4部 音響都市の生成

 一瞥=スナップショットの集積による第1部に対し、こちらは腰を据え、たじろぐことのない凝視=持続により、都市が生成していく様をとらえる試み。第3部の里国隆あたりから大きく押し広げられた耳が、未曽有の事態を目撃するに至る。

津田貴司:未発表音源
試聴音源なし
 公園の池の水位調節用地下水路の空気抜きの穴に、マイクロフォンを下ろして収録した音響とのこと。水音と広がる響きが空間のヴォリュームを明らかにする(身体の中で『Unter Grund』や『Lost and Found』と響き合う)。覗き込む闇の奥にある広がり。しかし、途中から響きは聴き手の背後にも広がり、あたり一面に立ちこめて、耳は空間の内部へと引き込まれ立ち尽くす自分自身を発見する。何の抵抗もなく足を踏み外すように、微かな兆候すらなく世界の色合いが一変する瞬間。ここでもまた歸山スピーカーの力が際立った(聴き手を包み込む背後の音まで再生できるなんて。モノラルなのに)。

Gilles AubryStéphane & Montavon『Les Ecoutis, Le Caire』
試聴トラック:http://www.gruenrekorder.de/?page_id=2301
 以前から様々な機会にプレイしてきた音源だが、今回初めてしかるべきプログラムに組み込めた気がする。茫漠とした響きの雲の広がりが、動き揺らめいて次第に濃淡を明らかにし、やがてそこに見知った風景を映し出す。この占い師の水晶玉を覗き込むような体験を引き起こすのは、オーブリー自身が「間接的聴取」と名付けた手法(というより姿勢か)であり、おそらくは直前にプレイした津田の音源同様、対象/外界からの距離の異なる複数のマイクロフォン間のミキシング・バランスを連続的に変化させることにより得られる効果なのだろう。しかし、そこに生じる現象は左右のステレオ・パンニングなどとは異なり、体感総体を耳を通じて揺さぶりたてる世界認知(そこにいる/外部がある感覚)の変容にほかならない。その初期の中平卓馬の写真を思わせる、冷ややかにモノクロームで凝縮された「覚醒感」は、Satomimagaeと確かに通じるものがある。

『イザイホー』tr.6+tr.10
試聴トラック:http://www.reconquista.biz/SHOP/BsF006.html
 前回、冒頭に聴いた音源を再び。「最初に聴いてしまったために、そのすごさがじゅうぶん伝わらなかったのではないか」との反省に基づいての再演だったのだが、いやあ驚いた。最初の声の揺らめきの艶めかしく濡れたような輝きなど、絶対これまでの再生では聴いたことがなかったし、本当にこの世のものとは思われないような美しさだった。民俗学/民族学に大きく傾いた前回の聴取モードが、やっぱりアートより伝統/生活のがすごいよね‥とか、お婆ちゃんて最強無敵だよね‥というところに話を落とし込んでしまうのはツマラナイと感じていたのだが、それは結局、いま耳にしている響きの在処を、その向こうの実体に、そのキャラクターや物語に求めてしまうからだ。そうではなく、あくまでも「手前」にとどまって響きを構成するレイヤーを聞く‥‥という行為を、藤本由紀夫を導入に里国隆、Satomimagae、hofli/津田貴司、Gilles Aubryと強力極まりない音源に対して繰り返し続け、耳をつくってきたことが、こうした輝かしい「奇跡」をもたらしたのだろうか。なお、今回は締めくくりの「区長挨拶」も聴き、録音者である宮里の意識した「丸ごととらえる」ことをフォローした。

Gilles Aubry『The Amplification of Souls』tr.2
試聴トラック:http://www.adocs.de/buecher/sound/amplification-souls
 最後は今回のシンボルとなるアーティスト、ジル・オーブリーの新作から。キンシャサでのキリスト敦礼拝のフィールドレコーディング。まるで空爆のように炸裂する説教師の歪みまくったアジテーション。それに呼応して叫び、沸騰する民衆の怒号。レイヤーを切り出すことなどかなわず、ひたすら量子化してマイクロフォン/耳に襲い掛かる音の爆発/激流。「五月革命」より混乱/液状化し、『イザイホー』よりトランスした究極音源。初めて聴いた時は、小冊子に付属した体裁もあって、何だ、文化人類学/社会学調査のリポートかと失望したりもしたのだが、この日、この流れの中でようやく本領を発揮してくれた。


サルヴェージ

Satomimagae『Koko』tr.3「Niji」
Official MV https://www.youtube.com/watch?v=SbzGx_fy_wM
 響きの深淵へと深く深く沈潜した耳を(魂を?)現実世界へと浮上させるための儀式。今回は第3部でプレイしたSatomimagaeからもう1曲。不愛想に低く呟く声が、次第に高揚し、深い深い井戸の底から頭上に小さく開けた明るみを目指して、各層を貫いて力強く浮かび上がる「浮上感」にすべてを託して。

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今回も驚異的なパフォーマンスを見せた歸山幸輔制作の特製スピーカー  撮影:多田雅範   


【参考文集】

 今回も関連文献からの引用をちりばめた参考文集を配布した。0~7の8節で構成されるが、これもまた映像資料同様、テクスト/アーカイヴの視点から新たな補助線を引く試みであって、今回のプログラム自体の解説/絵解きではないことに注意されたい。引用元はご覧のように多岐に渡るが、今回のプログラムの背骨として、やはりヴァルター・ベンヤミンの視線/思考の存在が大きかったことを告白しておこう。ベンヤミン読解としては近森高明『ベンヤミンの迷宮都市』(世界思想社)が新たな視点を与えてくれた。合わせて感謝したい。


0.都市の時間・空間
 高祖岩三郎『ニューヨーク烈伝』
 ジェイン・ジェイコブズ『大都市の死と生』
 福島恵一「ロワー・イースト・サイド」 『アヴァン・ミュージック・ガイド』所収

1.見えない都市
 磯崎新『空間へ』
 磯崎新『いま、見えない都市』
 ヴァルター・ベンヤミン著作集11『都市の肖像』
 イタロ・カルヴィーノ『見えない都市』

2,溶解/沸騰する都市
 西山長夫『パリ五月革命私論』
 佐伯隆幸『最終演劇の誘惑』

3.写真都市
 鈴木一誌「廃墟のまなざし」 東京都写真美術館編『森山大道論』
 森山大道・鈴木一誌『絶対平面都市』

4.地図、抽象空間、都市計画
 永井荷風「日和下駄」
 ルイ・アラゴン『パリの農夫』
 アンリ・ルフェーブル『都市革命』
 レム・コールハース「都市計画に何があったのか?」 『S, M, L, XL+』所収
 コーリン・ロウ、フレッド・コッター『コラージュ・シティ』

5.都市の諸相/多層、年代の積み重ねた地層
 永井荷風『日和下駄』
 ルイ・アラゴン『パリの農夫』
 川田順造『母の声、川の匂い』
 矢作俊彦「夢を獲える檻」 『複雑な彼女と単純な場所』所収

6.都市の暗黒
 金子光晴『どくろ杯』
 平岡正明「満州貧民街における小悪魔の飽食」 『官能武装論』所収
 洲之内徹「掌のにおい」 『洲之内徹文学集成』所収

7.大道芸人たち
 金子光晴『どくろ杯』
 宮里千里「漂泊のマレビト」 里国隆『路傍の芸』CDライナー所収

松籟夜話第九夜ちらし縮小
デザイン:川本要




ライヴ/イヴェント・レヴュー | 21:47:45 | トラックバック(0) | コメント(0)
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