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福島恵一

Author:福島恵一
プログレを振り出しにフリー・ミュージック、現代音楽、トラッド、古楽、民族音楽など辺境を探求。「アヴァン・ミュージック・ガイド」、「プログレのパースペクティヴ」、「200CDプログレッシヴ・ロック」、「捧げる-灰野敬二の世界」等に執筆。2010年3~6月に音盤レクチャー「耳の枠はずし」(5回)を開催。2014年11月から津田貴司、歸山幸輔とリスニング・イヴェント『松籟夜話』を開催中。

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二人だけができること - 蛯子健太郎ライブラリ ライヴ・レヴュー  Only Two Can Play - Live Review for Kentaro Ebiko's Library
 もうひと月前のこととなるが、蛯子健太郎(bass)率いるライブラリのライヴを聴いた。音楽家と聴衆がひとつの場に集い、眼の前で演奏される音楽に耳を傾けるという機会が、その頃にはまだ残っていたのだ。今ではもう、はるか遠い昔に廃れてしまった風習のようにも感じられ、到底信じられないことなのかもしれないが。

ライブラリ1縮小


 かつてのライブラリは詩人の三角みづ紀がヴォーカルを務め、橋爪亮督(ts,ss)、井谷享志(dr,per)、飯尾登志(pf)と腕達者な演奏者たちが、そのプレイヤーシップを自由闊達に迸らせるのではなく、作品に内在する物語の語り口に全力を傾けるという贅沢にして特異なアンサンブルを有しており、そこには蛯子が本来的に有しているミュージシャンシップではない何かが、強力に息づいていた。それに魅せられた私は、その在りようを見極めようと、えらく間を空けて行われる貴重なライヴに続けて通い、ほぼ毎回レヴューを記した(*1)。演奏されるのは基本的にすべて蛯子の作曲作品であり、ほぼ同一の曲目が並ぶのだが、毎回新たな発見があり、底知れぬ奥深さと豊かな可能性を感じずにはいられなかった。しかし、結局、その「何か」を見定めることのできないまま、この編成によるライブラリは活動を停止してしまう。途中で蛯子がアコースティック・ベースからエレクトリック・ベースに楽器を持ち換えるという大きな「転換」があったが、彼らの本質は変わらなかった。いや、こうした言い方は誤解を与えかねない。改めよう。彼らの音楽の毎回の変貌ぶり、その重心の移動の大きさは、アコースティックからエレクトリックへの転換として要約できるようなものでは到底なかった。
 何やら結論めいたことを記しているが、実のところ、私が知るのは、彼らが2作目のCD『Lights』を出した後のことでしかない。それ以前から知る益子博之の話では、蛯子がライヴでベースを担当せず、サインウェーヴを演奏していた時期もあると言う。そもそも、その益子と多田雅範による四谷音盤茶会、通常「タダマス」に蛯子がゲストで招かれたことが、彼との、そしてライブラリの音楽との出会いだった。その「タダマス」も、つい先頃、9年に及んだ活動に幕を下ろしてしまい、何もかも遠い遠い昔のようで、本当にあったことかどうかすら、不確かに感じられてくる。

 蛯子が自身のベースとピアノのデュオ編成により、ライブラリの活動を再開するとの報せを聞き、慌ててライヴの予約をしたが、結局行くことができなかった。今回は彼らの2回目のライヴであり、活動再開後、初めて聴くことのできたライヴのレヴューとなる。しかし、以前のように細密な記述をすることはできない。それには聴取した時点での私自身のブランク、ライヴ体験からの時間経過、特に最近の世界の変貌による過去や記憶の感覚の変容など、多くの理由が挙げられるが、一番大きいのは私自身がその日のライブラリの演奏を、適切な画角・焦点で捉えきれなかったことにある。
 何回もライヴで聴いたレパートリーの、聴き覚えのあるメロディが、5人編成のライブラリによる演奏の記憶をたちどころにフラッシュバックさせる。もちろん耳は眼の前で放たれる音を聴いているのだが、それは過去の多重記憶への更なる重ね描きのように響いてくる。おそらくは続けてライヴに通い、レヴューを記すことの繰り返しの中で、そうした比較対照の回路を、知らず知らずのうちにつくりあげていたのだろう。だが、そうした語り口の違いを鋭敏に捉える回路は、歌ありの器楽アンサンブルと、歌なしのベースとピアノだけの演奏の「落差」を、過去の演奏のイメージを自動的に再生して埋めていたようにも思われ、自分が本当に聴いていたのが何であるのか、甚だ心もとない。

 今回のライヴが始まる直前、ライブラリのホームグラウンドである綜合藝術茶房喫茶茶会記の福地店長が、「これから行われるライブラリの演奏、そして蛯子健太郎の音楽は、文学的というか、通常のジャズ演奏が基づいているコード進行とかリズムといった楽理を超えたところにある」といった趣旨の、何か言い訳めいて聞こえる不思議な前口上をしていたが、ここまで書き進めてきて、私自身も何やら言い訳めいたことを長々と書き連ねていることに気づき、苦笑してしまう。
 誤解のないように急いで付け加えれば、今回初めて聴いた二人編成のライブラリの音楽は、それ自身、何らエクスキューズを必要としていない。こうした「言い訳」は、その音楽の持つ豊かさを充分に捉えられず、適切に言い表せないために、聴き手の側が思わず漏らしてしまう「ぼやき」に過ぎない。もし二人が超絶技巧を駆使して、かつての5人編成のアンサンブルをそのまま忠実に再現したのなら、聴き手はわかりやすく驚嘆し、賞賛することができただろう。また、管弦楽曲のオーケストラ・スコアをピアノ一台(四手によるものを含む)による演奏版へと書き換えるように、かつてのアンサンブルをデュオ編成版へと解体/再構築し得たのならば、その編曲の妙にやはり手放しで感心し、心から拍手を送ることができただろう。
 しかし、実際にはそうではなかった。5人編成による演奏とデュオによる演奏はまったく別物となっていた。デュオにより、かつての5人編成のアンサンブルの再現や解体/再構築が目指されているわけでは一切なかった。かと言って、テーマ・メロディだけを残して、それを素材に対話型のデュオ・インプロヴィゼーションが繰り広げられるわけでもなかった。ソングのアレンジでよくあるように、歌の部分をそのまま残して、他のアンサンブル部分を、すべてピアノやギター等のひとつの楽器だけで表現してみせるというのでもなかった。
 ここで蛯子がよく使う「物語」の一語をあえて用いるならば、最初にオリジナルの物語があり、それを五つの物語の絡み合いとして展開したのがかつてのアンサンブルであり、二つの物語の並走/入れ替わりとして繰り広げたのが今回のデュオなのだと言えるかもしれない。いや、それでは単にオーケストラ原曲の室内楽版編曲とピアノ四手版編曲の違いではないか……との誤解を与えてしまいそうだ。前述のようにそれはまったく「別物」にほかならない。しかし、同じ曲であれば物語は共通している。同じメロディが顔を出し、共通する場面や情景が映し出される。F.スコット・フィッツジェラルドが『夜はやさし』で行ったように、語りの順序、場面の配列を入れ替えるのとも違う。強いて言うならば、五枚の絵画の連作で示されていた物語が、二人芝居で上演された感じだろうか。

ライブラリ2縮小


 たとえば以前から決まって演奏されている代表曲「4PM at the Victor's」(レイモンド・チャンドラー『ロング・グッドバイ』の一場面に基づく作曲であることが今回説明された)において、リズムの刻みをベースでサンプリングした後に演奏が始まるが、メロディの出方が前とは全く異なることに気づかされる。かつてのアンサンブルがカットの切り替わる映画であるとすれば、今回のデュオ版はサイレントの一人芝居のようだ。ストーリーのナラティヴをベースが担い、場面や情景の推移をピアノが描き出す。両者は別の層を動きながら、総体として映画のサウンドトラックの全体、すなわち画面の中(いわゆる「オフ」を含む)で生じる音響(登場人物の声や様々な物音)と付帯音楽(いわゆる「映画音楽」)を足し合わせた全体を担っている。
 通常のアンサンブルにおいては、各楽器は縦に重なり同期している。対位法的に動く場合においても、この枠組み自体は変わらない。しかし、デュオ編成版ライブラリにおいてはそうとは限らない。しかもそれは、「ポリリズミックなズレをもたらすため」というような「音楽的」な発想に基づくものではない。この日の演奏から、もうひとつ別の例を見てみよう。

 「乗っている飛行機がどこにも着陸せず、ずっと飛び続けたら怖いだろうな」という、いささかスティーヴン・キング的(?)な発想から生まれたという「ひこうき」では、シャッフル・リズムを刻み続けるベースが、そのテンポや強弱の揺れにより心理的な内面描写を担うのに対し、絢爛と繰り広げられるピアノ演奏は物語の状況設定や情景描写を展開し続ける。これが映画ならば、先に状況が描写され、それから主人公の表情のクローズアップになるなり(あるいはその逆)、両者のカットバックで展開されるところだろう。しかし、ここで両者は同時進行的に重ねられ、どこまでもどこまでも並行に流れ続ける。

 こうした物語のナラティヴが、本来ならA→Bと線的に展開せざるを得ないところを、同時進行で縦に重ね合わせてしまうというのは、デュオ編成版ライブラリの基本的なアイデアのようにも思われる。しかし、5人編成版ライブラリでも随所にダブル・ソロ的な展開が見られたから、その時には裏に隠れていた部分が、見やすく表面に浮き出てきただけなのかもしれない。「空が歪む時」で、彼らには珍しくベース・リフとピアノが同時にスタートし、以降、互いに互いをモザイク状に編み込んで、組紐細工的にその都度異なる面を見せていく仕方(バッハ作品のヴェーベルン編曲版のような……と言うと、かえって混乱させてしまうだろうか)もまた、このアイデアのヴァリエーションのように思われる。

 「空が歪む時」について「彼らには珍しく…」と述べたのは、彼らというか、何よりも蛯子自身にとってのテンポの重要性は、5人編成版と二人編成版を貫く太い共通軸だからである。今回冒頭に演奏された「オタトクラン」(やはりチャンドラー『ロング・グッドバイ』に出てくるメキシコの架空の街の名前だという)では、最初、聴衆に背を向けて足元のディレイを操作し、ベースのサンプリングによるループを作成していたからわからなかったが、二曲目の「The Angel Will Return」では、眼を瞑り、やや顔を仰向けにして呟きながら(その間に楽曲を脳内再生して、そのテンポが適切かどうか確認しているのではないかと推察される)、時には結構長い時間をかけて、ようやく実際にカウントを開始するに至る、いつもの「テンポ設定の儀式」が行われていた。5人ならともかく、二人ならばこのようなテンポ提示の必要性はそれだけ薄くなるように思われるが、それでも律儀に(というより、ほとんど執拗に)「儀式」は繰り返され、いったん唱え始めたカウントを途中で取り止めて、改めてやり直すことすらあった。
 「The Angel Will Return」では、ベースとピアノが共に間を空けて単音を放ちながらゆっくりと交錯していくから、互いに引き寄せられてしまうことなく別の層を動き続けるためには、より一層テンポが重要なのかもしれない。一方、「オタトクラン」では、リズム・ループのそれ自体が一定速度を保っているはずにもかかわらず、後ろ足に重心を残すようなリズムの運びのせいか、次第に遅くなっていくように感じられる足取りの重さを軸として、ピアノが等速で水平に滑走していくのに対し、ベース・ソロがウードやサズを思わせる「鳴り」を含んだ響きでやはり引き摺るように旋回しながら煽り立てるという、三層がズレを来して方向感覚を喪失させる不安な宙吊り感を与えていく。アンサンブルの随所に顔を出す、大小の歯車を複雑に組み合わせた、どこかカラクリ時計を思わせる奇妙な「機械仕掛け」感覚は、5人編成版ライブラリの魅力の源泉のひとつだったが、二人版ではそうした力の伝達と拮抗は、機械式時計の正確さをつくりだす、ムーヴメント中の雁木(ガンギ)車とアンクルとの僅かな、しかも間歇的な一瞬ごとの接点へと、よりピンポイントに絞り込まれている。

 誰もいない夜更けのメトロポリタン美術館に子どもたちが忍び込むE.L.カニグズバーグ『クローディアの秘密』(*2)に基づくという『Angel』 (*3)もまた、5人編成で何度も聴いたお馴染みの曲だ。丸く柔らかく輪郭を際立たせないタッチで、エレクトリック・ベースがテーマをソロで奏で始める。落ち着いた低い声が、簡潔に物語の始まりを告げる。響きの影が足元から長く伸びていく。それを引き継いでピアノが高い音域でテーマを繰り返す。靴音が高い石造りの天井にアーチを描いて響き渡る。続いてピアノがテーマの変奏に掛かる間、ベースはずっと同一音高を弾き続けている。それは編曲/コード進行上の要請というより、先に触れた重ね合わせによる圧縮の結果ではないかと思わせる。ピアノのきらびやかな変奏が物語の展開、場面の推移を余すところなく映し出す一方、ベースはそれを下から支えるというより、傍らに佇んで見守っているように感じられる。それは物語の世界に入り込んだ読者の視点なのだ。出来事の連鎖に揺さぶられる読者は、その度に心臓の鼓動を高鳴らせ、呼吸を荒くする。そうした身体的な変化は、物語の平面に投影されるが故に、平坦に圧縮され音の高さを変えることはないが、その速度の微妙な揺らぎに刻一刻映し出されて行く。それゆえピアノとベースは、作品の終わりで共にゆったりと歩調を緩め、ほっとした表情で外へと歩み出していくことになる。

ライブラリ4縮小


 もちろん、二人編成になってまだ2回目のライヴであり、練り上げ不足かもしれないところは幾つも散見される。そうした部分では、どうしても聴き覚えた5人編成時の演奏がフラッシュバックしてしまう。それは例えば「なかまわれのうた」で三角のヴォーカルが、あるいは「Desperate for Ritual」で井谷のドラムが欲しいと思ってしまう瞬間なのだが、それもまた冒頭に述べたように聴き手の問題かもしれない。例えば師であるチャーリー・ヘイデンの死に際し蛯子が書いた「Out of the Depth」では、シンバルやスネアを繊細に響かせる井谷のブラシ・ワークが聴こえてきてしまう一方で、ベース・ソロ部分の口ごもる感じや複数弦のコード弾きに転じた瞬間の言葉に詰まる絶句感などは、これまでに体験したことのない感じだった。それらは演奏者と聴衆が今後共に育てていくべき「伸びしろ」ととらえたい。
 もうひとつこれまでとの違いとして、杉山に促されて(あるいは鋭く突っ込まれて)、蛯子が曲のタイトルや作曲の経緯等について、ごく僅かだが説明をし始めたことがある。とりわけ「なんで天使が好きなんですか?」は的確な問いかけと言うべきだろう。(蛯子自身は意識していなかったというが、タイトルに「Angel」が入る曲が幾つもある)。曲間のMCでは茶化されていたが、リハーサル時に「この曲はいったいどこがいいんですか」とよく真顔で訊いてくるという杉山のあっけらかんとした「他者」ぶりは、今のライブラリにとって必要不可欠な要素なのだと思う。

*1 音楽がつくられているとき ― 「ライブラリ」ライヴ@喫茶茶会記 2017.3.31
   http://miminowakuhazushi.blog.fc2.com/blog-entry-425.html
   いつもとは違う場所で − ライブラリ@横浜First 2016.10.1
http://miminowakuhazushi.blog.fc2.com/blog-entry-411.html
時間の純度、テンションの密度 ライブラリ@喫茶茶会記 2015.10.19
http://miminowakuhazushi.blog.fc2.com/blog-entry-377.html
溶ける時間、滲む響き − 蛯子健太郎「ライブラリ」ライヴ・レヴュー 2015.3.6
http://miminowakuhazushi.blog.fc2.com/blog-entry-344.html
日常が文学に飛躍する瞬間 − 「ライブラリ」ライブ@喫茶茶会記 2014.11.28
http://miminowakuhazushi.blog.fc2.com/blog-entry-328.html
*2 岩波少年文庫の一冊。フィリパ・ピアス『トムは真夜中の庭で』と同様、岩波少年文庫に収められているがゆえに「お子様向け」と勘違いされて読まれないとすれば、何とももったいない。
*3 当日の演奏の録音がyoutubeにアップされている。
https://www.youtube.com/watch?v=26muml_sstw&feature=share&fbclid=IwAR2BLJLiGaN4PJyZwN02tkpkaL-hcJZL3e66sHIslWpHzJpaMKOS_Zj6_PY

ライブラリ3縮小


当日の演奏曲目
1  オタトクラン
2  The Angel Will Return
3  Desperate for Ritual
4  Out of the Depth
5  4PM at the Victor's
6  Angel
7  空が歪む時
8  なかまわれのうた
9  237
10 TDDN(Through the Deepest Depth of the Night)
11 ひこうき
12 The Other Side of Story

2020年3月15日 四谷三丁目綜合藝術茶房喫茶茶会記
ライブラリ(蛯子健太郎el-b、杉山美樹ac-p)
※写真は蛯子健太郎氏のFacebookから引用させていただきました。



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ライヴ/イヴェント・レヴュー | 16:09:42 | トラックバック(0) | コメント(0)
アリカ『キオスク』双眼レヴュー ― 優雅な動きが最高の復讐である  ARICA『KIOSK』 Binocular Review ― Moving Well Is the Best Revenge
※ARICA『KIOSK』出演の安藤朋子の指摘を受け、2020年3月28日に「9-3 『記憶違い』を覗き込む」を追記しました。



はじめに
 今回のレヴューは複合的な成り立ちをしている。
 ARICAの舞台『KIOSK』の初日、2月9日の公演を観て記した初稿を、事実確認のため、演出を担当した藤田康城に一連の公演が終了した後に見てもらったところ、初日における映像や装置の不具合に関する幾つかの指摘とともに、今回最後の公演(5回目)となった2月11日夜公演を収録した映像の提供を受けた。最終的なレヴューは、この記録映像を観て追記した部分を含んでいる。
 ARCAの前回公演『孤島』については、先に行われた東京公演をまず観てレヴューを執筆し、その後、横浜公演を観て、改めてもう一本レヴューを書きあげることができた。映画研究者がDVDを何度も再生するように、同じものを見直して、細部を確認し直すということではなく、それぞれのライヴ体験に応じながら、かつ、場の違いに応じた身体の在りようの差異に着目して、ひとつの作品を多角的に掘り下げることにより、舞台の充実ぶりを幾らかなりと伝えられたのではないかと思う。
 また、ARICAの舞台をレヴューするにあたり、映像を参照するのは、実は今回が初めてではない。『Ne ANTA』に対するレヴュー「バスター・キートン走り、ヨゼフィーヌ歌う、ジョン・フェイヒーのギターに伴われて ARICA『Ne ANTA』演劇レヴュー」(※)執筆時に、原作となったサミュエル・ベケット『Eh Joe』の上演をテレビ番組として制作したものを参照している。だが、それはあくまでも参考に過ぎない。
 今回のように、一連の公演とは言え、別の上演を映像で参照し、それをレヴューの対象に繰り入れることは異例であるだろう。ライヴ至上主義者からは「不純」との誹りを受けるかもしれない。もちろん記録映像を観ることがライヴの演劇体験の代わりになるわけではない。そんなことは承知している。しかし、私は観ることにした。それはレヴューとは字義通り「再び観ること」であり、イメージの脳内再生により、あるいは手探りの言葉選びを通じて、何度となくその場、その瞬間に立ち返り、当初の印象や記憶をさらに深め、思考/記述のサイクルの中で乗り越えていくことが、「批評」の本質であると信じているからにほかならない。
 その結果、今回の公演に対する認識を変えざるを得なかった。その転換をひとことで言えば、「機械への組み込み/隷属」による「哀しみ」から「復讐」へとなるだろうか。
 しかし、この転換に基づいて初稿を書き改めるとして、新たな結論に向けてただ整序してしまうのでは面白くない。ここでは混乱を招くかもしれないことは承知の上で、初稿をそのまま残した上で11日夜公演を観た後での思考を追記するという方法をあえて選んだ。なお、追記した箇所は、枝番で「-2」及び「-3」と記した部分である。
 また、表題を差し替えた。ちなみに初稿の表題は「アリカ『キオスク』 身体と重力 ― あるいはもうひとつの時間と空間  ARICA『KIOSK』 Body and Gravity ― Or Another Time and Space」だった。
※http://miminowakuhazushi.blog.fc2.com/blog-entry-382.html



0.通路
 みなとみらい線の駅はどこもサブライムに、かつ空疎に巨大過ぎる。中空に張り出したエスカレーターは、まるでかつてのファシズム建築のようだ。そんなことを思い出しながら、新高島駅に初めて降りる。会場のBankART Stationは駅直結とのことだが、ホームにも改札口にも、どこにも案内表示がない。地上の駅ビルにあるスペースなのかとエスカレーターで上がると、突然ポスターが眼に飛び込んできた。
 アート関連の書籍を扱うガラス張りのショップ・スペースがあり、清掃員への嫌がらせとしか思えない、無闇に幅広の通路の中程を壁で仕切った展示スペースがある。ショップ・スペースの奥に受付があり、会場はさらにその奥だった。



1-1 装置
 客席とは段差のない舞台の中央に、盆栽の展示台のような2段になった「カウンター」が置かれ、白い表面にキオスクの店頭の写真がモノクロで映し出されている。実際のキオスクを撮ったもので、駅のホームも写り込んでいる。そのすぐ後ろ、中央部に人ひとりが入るスペースを空け、周囲三方を取り囲んで段ボール箱が天井近くまで積まれている。また、段ボール箱はオブジェとして、パイプや配線用のトレイが剥き出しの天井からあちこちに吊るされ、淡い照明を当てられて、それぞれ異なる速度でゆっくりと回転している。
 「カウンター」の両脇にはロープが結ばれ、その先は天井に取り付けられた滑車を介して砂袋のおもりが吊り下げられている。その脇にはドラム缶が置かれ、横の壁にはやはりキオスクの店先の写真が投影されている。よく見ると写り込んだホームの角度からして、こちらはキオスクの店舗の側面のようだ。正面の映像には店員のいるスペースがあるが、こちらは一面商品で覆われ尽くしている。
 その先、先ほどの天井まで積み上げられた段ボール箱の裏側に当たる部分には、一部しか見通せないけれども空間が広がっており、奥の壁にはまた並べられた商品の写真が投影されている(そのおかげで、カウンターになぜか両側2個ずつ丸い穴が空けられているのに気づく)。そのスペースの中程の両端に音響担当用の作業机が置かれている。

1-2 画角
 11日夜公演の記録映像の画角は、客席右奥から舞台正面と左手の壁面を見込むものであり、9日公演で私の座った客席の右側の席とは対照的な眺めとなっている。



2-1 開幕
 客電が落とされ開演が告げられる。駅ホームの環境音が斜め後ろからわっと湧き上がる。音響は混濁し飽和しているが、それでもアナウンスや足音、ドアの開閉音等が聴きとれる。そうした充満にさらに寸断されたギターの音や拡大されたひそひそ声を思わせる電子音が重ねられる。
 数えきれないほど多数の発音体により構成される鉄道駅の環境音は、P.D.が『Alltag』で明らかにしているように、普段はアンビエンスとして聞き流しているものの、実は極めて強迫的なノイズにほかならない。と同時に、Charles Haywardが日本滞在の印象として述べているように、列車の到着/発車により分節化された規則的な変動でもある。
 ここでの演奏はギター演奏による別の分節化や電子音の重ね塗りによる厚みの追加、さらには列車のブレーキ音やドアの開閉音のディレイ処理等により、不透明さを増す方向に進められた。おそらくは即興的に演じられるサウンドの重ね描きに耳をそばだてながら、眼は主演の安藤の登場を見逃すまいと舞台を隈無くスキャンしていた(『孤島』の時には「島」の下に潜り込む人影が見えたような気がした)。ふと、正面に映し出されているキオスク店頭の映像が変化していることに気づく。そう思って見ていると、電光掲示板の数字が変わり、ホームの人波がコマ落としで動いており、カラーに色づいたかと思ったら、またすっと色が消え、モノクロに戻っていった。列車の音がそうした変化を掻き消し、より一層ノイジーに高まる。

2-2 音響と映像
 「初日は映像操作に手違いがあり、途中で色が消えてしまった。映像操作に気を取られ、サウンドの音量が大きくなりすぎた」との説明を藤田から聞いていた。確かに11日夜公演の記録映像では、舞台に投影されている駅ホームの映像は最後になって色づき、そのまま安藤の登場へとつなげられる。確かにこの方が、つながりが滑らかに感じられ、当惑させられることがない。また、天井や左手の壁面に到着/出発する電車の移動する影が、うっすらと映り込んでいる様子が確認される。このことはまったく記憶にない。おそらくは襲い掛かる音響と正面に投影されたスローモーション映像の重苦しさに、すっかりとらわれていたからだろう。逆に外側を滑る薄い影に気づいたならば、空間はもっと風通しの良いものと感じられたのではないか。
9日の音響について改めて確認しておけば、本レヴュー初稿で、緻密にして攻撃的な音響構築集団P16.D4(その後、サウンド・アーティストとして名を挙げるRalf Wehowsky(RLW)が在籍した)の前身であるP.D.( Permutative Distortion)のノイズ・コンクレート作品『Alltag』を例に引いていることからもわかるように、過飽和で混沌とした、かなり強迫的なものとなっていた。描写しているように各サウンドを聴き取ることはできたから、決して一様なノイズ塊と化していたわけではないが、圧倒的な情報量によるサブライムな音響と感じられたことは事実である。さらに投影される映像から一瞬色彩が消え失せたことも、ノイジーな不安定性、人間を翻弄する情報/機械‥‥といった感触を強調することとなった。これらのことが「演劇機械」の途方もない巨大さを観ている私に印象として刷り込むことになったのは間違いない。




3-1 登場
 突然、バンッと大きな音がして、「カウンター」の上段が前に倒れ、安藤の上半身が姿を表す。あらかじめそこに潜んでいたのだろうか。緑と薄緑のキオスク店員の制服に身を包んでいるが、なぜか腹回りに赤黒のロープを巻いて、どこか不機嫌そうに音を立ててガムを噛みながら、こちらをねめつけている。
 すると、すっと音もなく、彼女を取り囲んでいた段ボール箱が動き出し、注意が一瞬そちらに引き付けられる。あわてて視線を戻すと、彼女は何かに気づいたかのように、身じろぎもせず正面を向いている。その背後では段ボール箱の塔が、おそらくはあらかじめプログラムされたロボット台車に運ばれて、奥の壁際に整列していく。彼女はまたガムを噛み始めるが、視線は依然としてまっすぐに何かをとらえ続けている。

3-2 持続
 11日夜公演の記録映像では、段ボール箱の塔は途中で鉢合わせしたりして、決してスムーズに背後の壁面へと退いていくわけではない。その間、安藤は前面で視線を惹きつけ、間を保つことになるが、そうした役割を押し付けられているとは感じられない。9日の体験は、ひとりでに動き出す段ボール箱に驚き、そちらに奪われた視線を戻すと、安藤の眼差しが何かをとらえている‥‥という順序で進み、その「機械」として一体化した連携ぶり、作動の見事さが印象に残ったが、11日夜公演では、ポーズを組み替えながら客席を睥睨する安藤の視線の圧倒的な強さが場を支配している。ポーズを組み替える度に挿入される「静止」が緊張を高め、場をコンダクトしていることがまざまざと感じられる。それゆえに「4-1 拘束」で空っぽな空間に響き渡る増幅された紙の音が、より際立って感じられる。
 9日公演をとらえたレヴュー初稿では、段ボール箱の塔が整列し終わり、吊るされた新聞の束が空中ブランコのように大きく揺れて視界に飛び込んでくる時点を、節の切れ目として描写しているが、11日夜公演の記録映像を観ると、句読点の位置が明らかに違っていて、車輪付きの椅子を滑らせて、ゴムひもを結びにかかる時点に打たれているのがわかる。安藤の動き出しは、背後で揺れる新聞の束の動きを背中で見ているかのように、余裕たっぷりで正確極まりない。



4-1 拘束
 段ボール箱の塔が整列し終わり、腰掛けた彼女の上半身が平らになったカウンターの向こうに見えるだけで周囲が空っぽになると、右側から突然何かが視界に飛び込んでくる。天井から吊るされた新聞の束が、彼女の背後から壁までぽっかりと開けた空間で、空中ブランコのように大きく揺れている。それを合図に(いやそれは順序が逆だったか)、彼女が噛んでいたガムを紙に出す。くしゃくしゃと丸められる紙の音が増幅されて、空っぽな空間に響き渡る。
 彼女は車輪付きの椅子を左に滑らせて、腰に巻いていた赤黒のロープをドラム缶に結びつける。今度は右端へ動き(ロープが実は太いゴムひもであったことが判明する)同様に。彼女はもはや脚で床を蹴るだけでなく、装置の一部として、ゴムひもの反動を利用して移動することが可能となり、そのことを嬉しげに、また得意げに示してみせる。すべてがにわかに遊戯的な色彩を帯びる。
 ゴムひもの反動を利用して滑りながら、カウンターの端から端までハタキをかける動きが、ハッハッハッという掛け声とともにサイレント喜劇でおなじみの乗馬ムチを振るう動きへと変容していく。気怠いギターの爪弾き、トロピカルな電子リズムや口腔をぺちゃくちゃと鳴らす音に伴われて、場面に不思議な陰影を与える。

4-2 遊戯
 機械の一部として組み込まれ作動を強いられているのではなく、機械の動作を正確に予期し「従えて」いる安藤の動きからは、自らの動作を楽しんでいる様子が伝わってくる。かけ声とともに開始されるゴムひもとの戯れは、より遊戯的な色彩を増し、自分だけのための儀式/ルーティンのように見える。ハタキをかける身体の動きは機械仕掛け(乗馬ムチの動きは、まさに「乗馬機械」の作動の一部分にほかならない)を超えて、ダンサーの身体の優美な揺らめきを見せる。その一方で、ハッハッハッという掛け声はほとんど絶叫に至り、躁的に弾けた身体が姿を現す。



5-1 セリフ/声
 地上を歩くときでも綱の上を歩いているのだ‥‥と安藤が語り始める。抑揚をおさえ等速を保って感情を遠ざけながら、モノローグに陥らぬよう一音一音をはっきりと、だが柔らかく切り分けたマルカートで。テクストは会場で配られたリーフレットに掲載されている。彼女がかつてサーカスの女綱渡りであったこともまた記されている。気怠げなギターと口笛が陰影を差す。TRAMフリンジ参加公演であるためか、男声による英訳テクストの読み上げが同時通訳風に録音で流される。消えてなくなった‥‥との安藤のセリフに続き、It's gone outと英訳が流れ、最後の部分にエコーがかかってリフレインされる。スティーブ・ライヒ『カム・アウト』が一瞬頭をよぎる。

5-2 声の歩み
 静かに語り始める声の音調は、11日夜公演の記録映像でも基本的に変わることがないが、より重心を落とし、深く彫り刻んでいる。機械の一部として与えられた作動を十全に果たすだけでなく、少しだけ過剰に何かを付け加えることにより、それを自らへと取り返す仕方。



6-1 作業
 彼女はやおら立ち上がり(腰にエプロンを巻いているのがわかる)、天井を見上げてから、カウンターの端に結ばれたロープを解きにかかる。落ちてきたおもりを外し、変わりに給水機用の大きな水のボトルを取り出してカウンターにドンと置き(エコー付きの効果音が響き渡る)、ロープに結びつけて引き上げる。蓋を外された空のペットボトル、小さな台秤のような装置、円盤にぐるりとペットボトルの蓋が円く置かれた装置が、次々に取り出され並べられる。台秤の上にペットボトルが置かれ、吊るされた大きなボトルの口に取り付けられた蛇口が開かれて水が滴り落ち、ペットボトルの中にたまっていく。首尾を確認してから、カウンターの反対側の端で同じ作業を繰り返す。
 床を蹴ってぐいと後退し、吊り下げられた新聞の束(もう揺れは止まっている)を取り、新聞をカウンターの上に並べ始める。戴冠式の伴奏を思わせる壮麗なオーケストラ(ベートーヴェン『運命』の第四楽章とのこと)が流される。新聞紙は4本の長い筒状に丸められ、カウンターに丸く空けられた穴(開演前に奥の壁を覗かせていた穴はこのためのものだった)に突き刺される。
 疲れ果てて(?)カウンターに突っ伏した彼女が語り始める。地中に埋もれてじっとしていればいいのだがそれでは綱渡りができなくなる‥‥英訳もやはり。

6-2 ダンサーの後ろ足
 装置を台の下から取り出す際に、屈み込む安藤の後ろ足がバレエ・ダンサーのように高く掲げられる。また、装置を台上に置く際には、念を押し言い聞かせるような仕草が付け加えられる。吊るされた新聞を取って頭に乗せて戻る際の、ラテン・ダンサーのように大きくジクザグな軌跡。束ねたひもをハサミで切る際の、あるいは拡げた新聞を束にする際のことさらに大仰な動き。単調な奴隷労働に日々心身をすり減らすのではなく、そこに過剰に何かを吹き込み、自分だけの楽しみに変える技。リズムに合わせて‥‥というより、オーケストラを指揮するように新聞を折り畳んでいく様を観ていると、ベートーヴェンは演劇機械の一部たる舞台音楽として流れているのではなく、彼女が自らの仕事を彩る格好のBGMとして、その場でプレーヤーでかけているか、あるいは脳内再生しているかのように聞こえる。頭をゴツンとぶつけて台上に突っ伏す姿も「疲れ果てて」というより、彼女のお気に入りのルーティン動作と見えてくる。
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7-1 プログラム
 突然、ピーピーピーとアラーム音が鳴り始める。ペットボトルが一杯になると、その重さを検知してアラームが鳴るようにプログラムされているのだ。突っ伏す前に左側の大ボトルの蛇口の開き具合を調節して、滴りを速くしていたのはそういうわけだった。
 ペットボトルを差し替え、円盤の装置に触れると、おそらくは圧縮空気によって蓋が注高く打ち上げられる。それをキャッチして水の満たされたペットボトルにはめる。これで一作業が終了。セリフが中断したところから続けられる。椅子を後ろに滑らせて、掛けてあった竿を取るところでまたピーピー音。今度は左端で一作業を手早く済ませると、再度後ろに下がり、塔状に積まれた段ボール箱の一番上を引っ掛けて取り、そのままカウンターにドスンと置く。またピーピー音。「どっちだ?」と安藤。
 以下繰り返し。ジャングル・ショー的なBGMとディスコのミラーボール風に煌めく照明(実は無数のペットボトルの蓋を動かしながら透過光で撮影した映像が奥の壁に投影されていたのだった)、打ち鳴らされるシンバルが、チャップリン『モダン・タイムス』を思わせるコメディを煽り立てる。

7-2 あらかじめ定められた手順の中で
 ピーピーピーとアラーム音は突然にやってくる。「14-2 予期できない不正確さ」で改めて論じることになるが、そのタイミングは基本的に誰にも予測できない。しかし、いったん鳴り始めてしまえば、することは決まっている。11日夜公演の記録映像で見る安藤は、ICUのモニターが甲高く鳴り響く中、表情ひとつ変えず、点滴のパックを交換し、強心剤をターミナルから注入するベテラン婦長のように落ち着いていた。一連の工程を淀みなく果たし終えて、彼女は段ボール箱との沸騰する交感へと戻っていく。竿の先に引っかけた段ボール箱を振り回しながら、彼女はヴォードヴィルショーの花形ダンサーとして自在に舞ってみせる。そこには機械の歯車に巻き込まれる哀れなチャップリンではなく、「あらかじめ定められた手順の中で」業務を遂行しながら、脳内ではサーカスの女綱渡りを生き続ける姿があった。



8-1 ソング
 段ボール箱を取り終え、カウンターの上に並んだ箱のテープを剥がし始める。"I'm waiting for you..."と、気怠い悲しみを帯びた女声が、しかし80年代的なポップさをたたえたメロディを歌い始める。シンディ・ローパー? (確認したらパティ・スミス「ディスタント・フィンガーズ」とのこと)。箱からはテープで梱包された空のペットボトルの束が出てくる。
 誰もいらないと言っている みんながもういらないと口をそろえて言っているのに それでも すべてが 供給される‥‥箱から取り出したペットボトルの束をカウンターに並べながら再びセリフが始まる。ものすごい早口で。流される英訳が声と重なり合い、ブンブンというノイズがジャミングに拍車をかける。英訳は奥の壁にも映し出される。突然に作業とセリフが中断され、サウンドも一瞬途絶えて、滴り落ちる水音だけが浮かび上がる。固まった安藤の身体にも英訳が投影される。映像はペットポトルの列へと切り替わる。すぐにすべてが再開される。こうした寸断が何度も、おそらくは即興的に仕掛けられる。混沌が頂点に達する。

8-2 ストリップティーズ
 レヴュー初稿の批判的なトーンを決定づけているのは、舞台中の、とりわけ、この部分に関する認識である。「15-1 ソングの重力圏」で論じているように、9日公演の客席で私は、『モダン・タイムス』におけるチャップリンの悲哀から脱しようともがく身体が、パティ・スミス「ディスタント・フィンガーズ」の重力圏に否応なく引き込まれ、蜘蛛の巣に捕らわれた蝶の如く身動きできなくなっていく様を見詰めている。
 11日夜公演の記録映像は、この印象を大きく覆すものとなっている。まず、このセクションに突入する時点の身体の初速度がまったく違う。この日の動きははるかにスピードに乗っている。「7-2 あらかじめ定められた手順の中で」に述べたように、そこには機械の歯車に為す術もなく蹂躙されるチャップリンの哀れさを誘って止まぬ身体はない。代わりに満場の視線を誇らしげに浴びながら、タイトロープの上を歩む女綱渡りの身体がある。それゆえ現実逃避の異星人へのラヴソングは、夢見るように甘やかでエロティックなストリップティーズのBGMのように響く。それは演劇機械の一部として音響再生装置が作動を開始したというより、いつも通りの自身のための儀式を彩るために、彼女が自らラジカセのボタンを押して始まったかのように聴こえる。
 段ボール箱に貼られたテープを勢い良く剥がし、それを見せびらかすように振り回し、自身の太腿部分に貼付けていく姿は、脱ぎ捨てたベビードールの残り香を客席に振り撒くように揺らがせ、チップとして受け取った紙幣をストッキングに挟んでいく踊り子を思わせる。フェリーニが『アマルコルド』で描いたように、サーカスの女空中ブランコ乗りの尻は、少年の性的妄想のアイコンにほかならなかった。女綱渡りもまた。
 この「作業」の途中に、安藤が左右に張られたゴムひものうち片方を取り外す場面がある。機械への隷属からの解放を企てる極めて象徴的な瞬間だが、9日の公演では、それが前後を分かつ印象はなく、このシンボリックな行為に触れることが、ますます「機械に隷属した労働」というテーマ系を強化してしまうように思えて、あえて言及せずにいた。言わば「悪しきシンボリズム」ととらえていたことになる。
 しかし、11日夜公演の記録映像において、この行為は、床を蹴って離れては、またゴムひもをたぐって近づくという、じらすように遊戯的な反復の極としてもたらされており、外したガーターベルトを名残惜しげに床に落とすエロスに満ちていた。ここで、この行為は、「隷属からの解放」という抽象的な、いささか絵解きめいたシンボリズムをあっけらかんと乗り越え、女綱渡りの脳内妄想の中で目映く輝いている。あらかじめテクストによって引かれた下図の細い線が、それをなぞり直すのではなく、舞台を生きる身体のいきいきと奔放な動きによって、荒々しく太々と描き直される。安藤の身体は明らかにこの場を支配していた。




9-1 閉幕
 カウンターの端から端までペットボトルの束を並べ終えると、安藤は手早く蛇口を閉じ、装置のスイッチもすべてオフする。背後の映像も消える。突然に、だがきっぱりと終わりがやってくる。それでも、投影されていた壁のさらに向こうにも段ボール箱が吊るされ、回転している(ことに改めて気づく)。
 安藤は大ボトルの蛇口を改めて開き、ペットボトルに水を注ぐと、ごくりと飲み干す。並べられたペットボトルの束の列を見渡しながら、もう一口。ギターの悲しげなアルペジオ。口の端から息がヒューヒューと漏れる音が束の間の安息と寂寥を縁取る。閉幕。

9-2 移行
 11日夜公演の記録映像で確認できる「終わり」は、9日公演と異なっている。まず、蓋の射出装置を片付ける際に「エアーを抜く」という工程が加わっている。コンプレッサーで注入された空気が勢い良く噴出して安藤の顔に当たり、顔面を歪ませ髪を乱す。疲れを知らない子供の飽くなき遊戯の残酷さがここでも顔を出している。
 もうひとつ、それに比べれば一見ほんのわずかな、しかし決定的な違いに注目したい。舞台左手側の蛇口を閉め、装置を片付けて右手側に移るという手順は同じながら、自身が飲む水を汲むために再び大ボトルの蛇口を開くのは、9日公演が左手側だったのに対し、11日夜公演の記録映像では右手側となっている。彼女が舞台を去るのは両日とも左手側なので、11日公演では台の横幅(それはほとんど舞台の左右の幅に等しい)分の移動が生じることになる。
 彼女の身体は舞台の左手側を見詰めたまま、立ち止まって静かに水を飲み、やがてゆっくりと、だが一切の上下動なくなめらかに滑るように歩み続ける。映像が周囲を巡り、9日公演と同様の音響が加わるが、それは「束の間の安息と寂寥を縁取る」代わりに、彼女の身体の凛とした佇まいを際立たせる。

9-3 「記憶違い」を覗き込む
 加筆した掲載稿を読み直した『KIOSK』出演の安藤朋子から「9-2」の記述について、以下の旨の指摘を受けた。
 「確かに初日の舞台では『エアーを抜く』場面がなかったが、これはその後に演出が変更されたのではなく、私が忘れたため。これまでの『KIOSK』上演では足踏み式の空気ポンプで蓋を打ちあげており、今回初めてエアー・コンプレッサーを用いた。装置が運び込まれたのは初日の前日であり、その日のゲネプロの中で『エアー抜き』の場面が付け加えられた。」
 「最後の水を飲む場面も、途中で演出が変更になったわけではなく、9日の初日も舞台右手で水を汲み、飲んでいる。これは照明、映像、音楽のきっかけから、最後の左手のドラム缶のところでの立ち位置まで決められているので間違いない。」

 「2-2」で、「初日は映像操作に手違いがあり、途中で色が消えてしまった。映像操作に気を取られ、サウンドの音量が大きくなりすぎた」ことが、映像と音響に共通して禍々しさを与え、それが「演劇機械」のサブライムな巨大さの印象を強めたのではないかと述べた。ここでは情報量の多さ、不穏にささくれた攻撃性、見通しの効かぬ不安定さが、知覚・感覚に強迫的に圧力をかけ、見落としや上掲のモノクロ化を引き起こしている。

 それでは「9-2」での見落としあるいは記憶違いを引き起こしたものは何だろうか。もちろん、私たちは舞台を観尽すことはできないのだから。どのように注意を払い、懸命に凝視を続けても、見落としや記憶違いは生じる。これもまた、そのような誤りだったのだろうか。私はそうは思わない。この「誤り」にこだわって、その底を覗き込んでみたい。

 ここで、もう一度上演を振り返ってみるとしよう。私は「9-2」で、安藤が水を汲み、飲むのが舞台右手であると気づいたことについて、「それ(筆者注:「エアー抜き」の場面が初日にはなかったこと)に比べれば一見ほんのわずかな、しかし決定的な違い」だと述べている。ラストの重要なシーンであるにもかかわらず、初日舞台の演劇体験において、この部分が明確な印象として忘れ難く刻まれることはなく、私は11日の記録映像を観て、初めてこのことに気づいた。それは決して何度も再生可能な録画だったからではなかろう。舞台を横切る眼差しの強さ、舞台を右手から左手に向かって移動していく身体の喫水の深い船を思わせる揺らぎの無さに、ここで出遭えたのは、その動き自体の強度と、そうした動きの生じる必然性が相俟って、まさに「必然」として、私の身体に強く刻まれたからにほかなるまい。
 ここで「必然」とは、いま22時42分を指している時計の針が、その3分後には22時45分を指しているというような「機械的必然」のことではない。単に合理的だったり、整合的であったりすることでもない。言うなれば、それは生物だけが果たしうる行為としての必然である。

 再び開栓され、ペットボトルに注がれた水が、これまでとは異なり安藤によって飲まれることにより、スイッチを切られて停止させられた装置は、以前に継続していたのとは異なる作動を開始し、新たな時間が流れ始める。
 蛇口を開け、水を注ぎ、ごくりと一口飲みほして、静かな力を帯びた眼差しをそのまままっすぐに送り、滑るように水平に移動して、照明が落ち、音響が消えても、その運動/移行が止むことはない。この動作プロセスにおいて、あるいは一連の行為の中で、ある動きをとらえた瞬間の「これだ」という思いは、それに続く動きをとらえた瞬間に「そうでしかあり得ない」へと変わる。
 これは「登場人物の心理の動きがわかった」というレヴェルの論理的な、あるいは共感的な理解にとどまるものでは決してない。「身体がそのように動いてしまうことが、我が身のこととして感じられてしまう」という感得を含んでいる。いわゆる感情移入の問題ではない。水を飲むためにやや上向きになった顔面が、飲み終えて水平に戻ると眼差しが向こう側の何かと結びつき、視線が水平に張り渡される。顔の前に掲げられていた腕は、ペットボトルとともに下降し、その落差が滑らかな前進を準備するためのスイッチを入れる。水平に張り渡された視線を巻き取るように進む身体は、上下動なく滑るように一定速度で移動していく‥‥。身体の動きにおける関節や筋肉の連動が、(遥かに鍛えられていないとはいえ)同様の機構を有する観る者の身体の内的な運動感覚(キネステーゼ)を呼び覚ます。
 そうした瞬間が幾つも連ねられ、身体による継続的な追認が積み重ねられて、確かさが手応えを増していく。当初の切り立った驚きは、テンションをいや増しながら、いつの間にか揺るぎなく張り詰めた確信へと変容を遂げている。為すべきことが為され、起こるべきことが起ったと。それこそがここで言う「必然」の内実にほかならない。

 それは即興演奏において感じられる「必然」と似ている。それは演奏者の意図にすべてを還元し得ることにより明らかとなる、合理的な説明可能性としての必然性ではない。放った一音の減衰していく様に耳をそば立て、全身を総毛立たせて、その一音がもたらす世界の変容を鋭敏に映し出す受信機と化すことにより、次の一音がかたちづくられるプロセスの作動により生み出される「必然」なのだ。ここで安藤の身体も鋭敏な受信機と化し、身体の運動のもたらす世界の変容を一瞬ごとに鋭敏に受信し、動きが空間に拡げる波紋や響きに突き動かされることにより、「必然」を歩んでいる。彼女の身体の動きの鮮やかな即興性は、装置の作動のランダムネスに柔軟かつ俊敏に対応する時にとてもわかりやすく現れるが、決してそうした時のみならず、装置をオフした後においても、いやむしろそちらにおいてこそ、見事に発揮されていることに注目したい。



10-1 弁明
 以上、開演(前)から閉幕までを時系列に沿って記述してみた。通常レヴューにおいては、論点を絞り込んで抜き書きをしていくが、この後、今回の公演についての違和感を述べることになるため、そこに絞り込んで舞台内容を記述してしまっては、優れたものであることは疑いのない上演を、不当に格下げしてしまうことになる。それゆえ、このような構成を採用した次第である。
 さらに言えば、これは劇評なるものへの批判でもある。映画やヴィデオと異なり、演劇はライヴでしかない。それゆえにせいぜい舞台写真やシナリオが残されるだけであり、特にARICAが上演してきた「テクストに抗する身体の演劇」においては、これでは何も残らないに等しい。しかし、彼女らの公演の毎回の質の高さにもかかわらず、これに対して紡がれる言葉は、たいていの場合ツイッターのつぶやきの群れにとどまる。音楽に対して差し向けられるのと同様、演劇に対しても、風潮や傾向、つまりは流行に関する言及は、時に社会学的な、時には「原論」めいた何やら哲学的な装いをまとって垂れ流されても、個々の優れた達成への記述/分析はほとんど為されてはいないように思う。
 以下では今回の『KIOSK』の上演に対する違和感を表明することにより、彼女らの提示しているものの価値を逆照射できればと考える。

10-2 弁明の追加
 11日夜公演の記録映像を観た後、レヴューを追記している時点においても、弁明すべき内容は基本的に変わっていない。レヴュー初稿で違和を表明し、批判的に言及している箇所が、追記により肯定的な評価へと転じたとしても、その探求の契機となった違和自体が消滅するわけではない。それを消去・隠蔽せず、そのまま残しておくため、煩雑を承知で今回このような構成を採ったことは、冒頭に記した通りである。



11 被膜
 私は『ネエ アンタ』の上演を観て以来、ARICAの特質を一貫して「テクストに抗する身体」の演劇として評価してきた。この方向性については今回も基本的に変わることはないと考える。しかし、ここで展開されるキオスク店舗の開店前の準備作業は、あまりにも機械的労働と搾取、苦役と奴隷、生産と流通、欲望と必要といった語で表象される系列に収斂し過ぎているのではないか。
 会場で配布されたリーフレットには次のように記されている。

 「ARICAは、2001年のカンパニー創立以来、労働をモチーフとした作品が大きなテーマの一つだった。『KIOSK』も、肉体労働のルーティン性をクローズアップすることで、労働をある特定の所作の反復強迫的な身体運動と捉えてきた。」

 「誰もいらないと言っている みんながもういらないと口をそろえて言っているのに それでも すべてが 供給される」という資本主義の無為な生産・供給過剰、「すでに引かれた線の上をただたどっているだけ。少しはずれてもたいしたはずれではない。危険はない。」という安全への幽閉/拘束、「わたしは振り込まれる」という個人の身体の受動化/自己疎外化‥‥。やはりリーフレットに記載されたセリフは、先の表明と寸分の狂いなくピタリと嵌り合う。
 今回の公演はこれらのテクストの見事な具現化となっている。しかし、これまでのARICAの舞台の素晴らしさは、常にこうしたテクストによる表明を鮮やかに裏切って、それを超え出てしまうところにあったのではなかったか。「資本と労働」、「機械と身体」を巡る設定やテクスト構築は実によく出来ている。しかし、それは書き付けられた瞬間から「ウェルメイド」のための枠組みともなるだろう。それらがつくりだす強靭な被膜を突き破ることが上演には求められるはずだ。これは観客による感受にも同じことが言い得る。ほのめかされたつくり手のメッセージを過不足なく受け止める「正解」を超えて、いかに豊かに演劇を体験するか。これはすなわち私自身の問題でもあることを確認しておきたい。



12-1 スプラスティック
 「丈夫な被膜を突き破れなかった」と私が感じた理由は、ARICAの公演が常に有していた身体動作のスプラスティックな噴出が、今回観られなかった(私が感じ取れなかった)ことにある。たとえば『UTOU』であれば、身体同士のぶつかり合いからピンボールマシンのように弾け飛んで、腹這いのままコマのように鮮やかにクルクルと回転する安藤の姿に呆気にとられた場面を挙げよう。それは思いがけぬ身体の動きが人間であることを裏切って噴出し、場面や文脈を一瞬の下に切断し、宙に吊る瞬間である。それは観客がそれまで安住していた、テクストが構築する抽象性、俳優の身体が担う象徴性、それら一切の記号の配列による世界が粉砕され、踏みしめていた床が抜けて、観客自身が宙に放り出されることにほかならない。この瞬間により、演劇はあらかじめ書かれたテクストの再現や解釈であることを止め、いま・ここに出現して、観客に突きつけられる。それは音楽における「即興的瞬間」に等しい。
 本来なら「資本と労働」、「機械と身体」を巡るメタファー/シンボルであることを振り切る速度が、身体には必要であった。しかし、舞台上の身体は(また、それを見詰める私は)、バスター・キートンのスプラスティックな疾走ではなく、チャップリン『モダン・タイムス』の悲哀に絡めとられ着地してしまった。これは決して安藤の演技の問題ではない。続けて見ていこう。

12-2 加速による「復讐」
 今回の『KIOSK』において、ARICAの他作品に比べ、「被膜」の強度が著しく高いことは間違いない。「テクストに抗する身体」の強度を余すところなく引き出すためには、それだけ「被膜」も厚く固く強くなければならないのだろう。「6-2」、「7-2」、「8-2」で示したように、安藤の身体の動きから受ける印象は、9日公演と11日夜公演の記録映像で大きく異なっている。しかし、これまで、そこでカギを握ってきたスプラスティックな速度の噴出は、やはり今回観られなかったと思う。その代わりに安藤の身体はより巧妙な作動ぶりを見せた。
 身体によるスプラスティックな速度の噴出が、テクストの描く線の進展に対し、垂直方向に為されるのに対し(それゆえコンテクストの切断が生じる)、今回の『KIOSK』における安藤の身体は、線の進行方向に沿って加速し、はるかに太く深くいきいきと彫り刻む。ここで舞台上の身体は、テクストが強いてくるコンテクストに抗うのではなく、それを過剰に推し進め享受することによって、テクストに「復讐」している。

 「復讐」の語が唐突と感じられるかもしれない。少々長くなるが、この語に担わせた意味合いについて説明しておこう。
 ここで「復讐」の語は、カルヴィン・トムキンズによるジェラルドとセーラのマーフィ夫妻の評伝『優雅な生活が最高の復讐である』から採っている。彼らはF.スコット・フィッッジェラルドの長編小説『夜はやさし』の主人公ダイヴァー夫妻のモデルとして知られ、作中に次のように描かれている。
 「一つの階級の最も進化した形を体現しており、彼らの横に並べば、たいていの人間はぶざまに見えるほどだった。」(作品社版p.34)
 マーフィ夫妻は黄金の1920年代をパリで過ごし、ピカソ、レジェ、コクトー、ディアギレフ、ストラヴィンスキー、コール・ポーター、ヘミングウェイ、そしてもちろんスコットとゼルダのフィッツジェラルド夫妻等の華やかな交流の中心にいたが、その後、一転して、二人の子どもの相次ぐ死に見舞われ、また、家業の立て直しに奔走させられることになる。しかし、彼らはスペインの諺だという「優雅な生活が最高の復讐である」をモットーに、優雅に(決して豪奢にではなく)暮らし続ける。すなわち、ここで「復讐」とは特定の誰かに対するものではなく、人生が容赦なく強制してくる苦難、悲劇的な運命へと向けられている。
 「11 被膜」で述べたように、私はARICAの舞台の特質を、一貫して「テクストに抗する身体」の視点からとらえてきた。「抗する」とは、通常、抵抗や反抗であり、いずれの場合もテクスト自体の作動を減速/遅延させ、場合によっては停止させてしまう。しかし、今回の『KIOSK』では、テクストは映像、音響、装置と緊密に組み合わされ、組み立てられた「演劇機械」として一体的に作動しており、身体はその機械の一部として深く組み込まれながら、その作動を減速/遅延させるのではなく、むしろ加速することにより、行為の享受を極め、その結果、「演劇機械」が枠組みとして強制してくる「機械に隷属する身体」の哀しみを突き抜けているのではないか。この「裏返された反抗/抵抗」を表す語として、「復讐」を用いた次第である。
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13-1 結合する諸機械
 ツイッターでつぶやかれた感想のうち幾つかが指摘していたように、今回の『KIOSK』の上演においては、セリフを語る声や音響、身体動作、装置の機械的運動がそれぞれ独立した層を成しながら、随所で結合・貫入しあい、まさに全体が一個の演劇機械として見事な作動ぶりを見せていた。換言すれば、この機械の一部として安藤の身体を組み込み、一体として機能させることが目指されていた。
 安藤の登場とともに壁際へと退く自走式の段ボール箱の塔をはじめ、ドラム缶にゴムひもでつながれた車輪付きの椅子、滑車仕掛けで吊り上げられる蛇口付きボトル、充填完了通知アラーム、キャップの発射装置、さらには間断なく切り替えられ、切断される音響や映像に至るまで、今回の上演はいつになく「機械仕掛け」に満ちていた。そして各機械と安藤の身体の接触/関係づけもまた濃密なものとなっている。
 ひとつ例を引こう。発射装置が打ち上げたキャップを、彼女は首尾よく受け止めてボトルにはめなければならないのだが、安定しない軌跡は予断を許さず、初めから手の届かないところへ飛んでしまったりもして、何度となく失敗する。この時彼女は、本来「僕(しもべ)」であるはずのちっぽけな機械に翻弄される「主人」となる。観客は彼女の成功に歓声を挙げ、失敗に溜息をつき、何事もなかったようにテーブル上に置かれていたキャップをはめる彼女にくすくす笑いを漏らす。ここには否応なく機械に蹂躙される『モダン・タイムス』と同様の喜劇フレームが起動されている。
 一方、『孤島』の不安定な「島」の上で、ポケットから取り出した豆を投げ上げ、口で受け止める安藤に対し、観客はよく似た反応を示すが、そこに先のフレームは立ち上がってこない。ここでも装置であり「機械仕掛け」である「島」の不安定さが、彼女を翻弄しているにもかかわらず、それは「僕」に振り回される哀れな「主人」とは映らない。それゆえ、そこには機械文明の進展により「機械化」を強制され苦しめられる人間‥‥という『モダン・タイムス』の悲哀は生じてこない。そうした機械の圧政に対する人間のささやかな抵抗・反乱への快哉もまた。

13-2 身体の論理
 この節の議論も、一点を除いて基本的に変更を要さないと考える。その一点とは「この機械の一部として安藤の身体を組み込み、一体として機能させることが目指されていた」という部分である。「12-2 加速による『復讐』」で述べたように、機械の一部として組み込まれた身体を、想定を超えて加速させることにより、システムの破壊や機能停止をもたらすことなく、別の意味合いが産出/獲得されてしまうのを目の当たりにした以上、もはや「目指されていた」とは言い得ない。これは決定的な違いである。

 だが、本来苦役である単純労働を楽しむことさえできれば、それで問題が解決するわけではもちろんない。そのことは、人格をすり減らすどころか、ほとんどすりつぶしてしまう、この国の「ブラック」な労働現況を見ればわかる。
 では11日夜公演の記録映像で観ることのできる、安藤の身体による労働の享受ぶりについて、どう考えればよいだろうか。少し長くなるが、シモーヌ・ヴェイヌ『工場日記』を補助線に考えてみたい。
 高等師範学校を卒業し、哲学の大学教授資格を獲得したヴェイユは、地方の女子高等中学で哲学やラテン語を教えた後、個人的研究のための休暇を申請し、現代技術が労働にどのような影響を及ぼしているか実地に検証するため、1934年から新米の未熟練工として工場で働き始める。その「実地検証」の記録が『工場日記』である。
 記述は工場の非合理なシステム、加工機械の不具合、上司や同僚の気紛れな指示や度重なる罵倒、披露や倦怠、頭痛やけがに満ちたつらく苦しいものだが、何よりつらいのが、何も考えられなくなる、考えたくなくなることだという。
 「しばらくすると、ある種の機械〔無意識〕的な幸福感をあじわう。むしろ品位を落とす兆候」(シモーヌ・ヴェイユ『工場日記』みすず書房p.34)
 「あまりに疲れはて、自分が工場にいるほんとうの理由を忘れてしまい、こうした生がもたらす最大の誘惑に、もはや何も考えないという誘惑に、ほとんど抗えなくなる。それだけが苦しまずにすむ、たったひとつの手だてなのだ」(同p.45)

 その一方で、製作すべき部品のサイズ、割当個数、出退勤時刻、労働時間、待ち時間、達成率、時間賃率、給金額‥‥等々の数字が強迫的に溢れた記述の中に、工場機械に対し人間が採るべき姿勢がふと姿を現す。
 「ギヌエフ。数学を学ばなければ、機械は工員〔労働者〕にとって神秘となる。機械において維持されている諸力の均衡が理解できない。ゆえに、機械について安心できない。例、金属に合わせてそのつど工具を交換するのではなく、鋼鉄とニッケルの両方をローラーで円筒化する工具を、手当りしだいに捜しだしてきた旋盤工。ギヌエフにとっては、たんなる切断にすぎないので、さっさと仕事にかかる。くだんの旋盤工は、迷信じみた敬意をもって機械に接する。うまく作動しない機械についても然り。」(前掲書p.172)

 機械の神秘、機械への迷信じみた敬意を、数学という知/知識がきっぱりと拭い去る。ここでまさに蒙を啓く知/知識の光として数学が称えられているのは、シモーヌ・ヴェイユの3つ違いの兄アンドレが20世紀を代表する数学者であるからだろうか。そうかもしれない。シモーヌは子どもの頃から天才ぶりを発揮していた兄の才能に打ちのめされ、死すらも考えたという。
 ヴェイユは、まるで呼吸やまばたきをするかのように、機械を操作する熟練工に身体と精神の一体化を見ていたという(佐藤紀子「解説」 前掲書p.216)。熟練労働者とは「賃金を得てはいるが、機械に奉仕するたんなる生きた歯車ではなく、道具をあやつる職人と同種の自由と創意と知性とで機械をあやつって仕事をこなす人びと」であり、彼らは知識と関連した技術を持っているのだという(富原眞弓「工場の火花に照らされて−『工場日記』をめぐる追加考察」 前掲書p.248)。
 実際、ヴェイユは『工場日記』の中に、フライス刃による加工機械の構造図を手描きで残しており(前掲書p.139)、それだけでなく、機械や素材の背後に隠れたメカニズムを解明し、知識として身に着けながら作業を進めていたことが、『工場日記』の記述の細部に読み取れるという(佐藤紀子「解説」 前掲書p.216)。
 確かに機械の構造原理やさらにその背後で作動しているメカニズムを知ることは、作業に視点と展望を与え、質を高めるだろう。しかしそれだけでは、回転するフライス刃に金属製の素材を押し当てながら、その指先の下で絶えずミクロに変化していく指先の感触に応じて、刃に押し付ける強さをしなやかに変えていく熟練工の「行為する身体」には至るまい。そこには何より「身体の論理」、「行為知」が必要なのではないか。

 河本英夫は知覚を次の二系列に分けてとらえている。
  観察者―理論知―知覚(本質の把握)―類種概念の把握―関係概念の設定
  行為者―行為知−―覚(予期)―身体行為の調整―気づきを介した行為の選択
   (河本英夫『システム現象学 オートポイエーシスの第四領域』青土社 p.114)。
 すなわち、「行為知」とは行為をしている最中に身体行為の調整、体制やキネステーゼ(身体運動感)の調整を行うためのリアルタイムの予期であり、行為能力に応じて環境情報をより詳細にとらえることができる。河本はその例としてロクロを回転させながら指の圧力で粘土の形を整えていく場面を挙げている(前掲書p.115)。
 行為、活動、体験の全貌は、見ること、知ることによって、そのごく一部しか取り出せない。行為を遂行している時、見る、知る、わかるだけでなく、現に「できる」ことに関わる広大な領域が作動している。

 以前に本ブログに、安藤朋子によるワークショップへの参加レボートを掲載したが(※)、その時に痛感したのがこのことだった。たとえば極端に遅い速度で歩くことについて、見ることを通じて知ることはかなりできる。それは単に外形をまねるだけでなく、それに伴う身体の各部位の位置と運動、各部位の連動によって可能となるバランスの維持と重心の移動について、キネステーゼ(身体運動感)的なレヴェルまで推察することは、ある程度可能だ。にもかかわらず、実際に試してみると、見る、知る、わかることと「できる」ことの間の絶望的な遠さ、決定的な違いに打ちのめされる。これは行為を振り返って、結果としてできなかったから、総括としてダメだったというようなことではない。身体運動のあらゆる瞬間、あらゆる場面で、「できる」に達しないことを体験し続けるのである。一方、いったんできてしまうと、今まで何がダメだったのかよくわからなくなる。もちろん、この動きをこう修正したから……とか、この点に特に注意を払ったから……と言ってみることはできる。でも、それはどうやら後付けの理屈に過ぎないようである。そこには言語の論理では掬い取りきれない「身体の論理」が作動している。言語を介さずに、おそらくは身体の視覚像自体も介さずに、身体から身体へ直接伝わるものがあり、わからずとも「できる」ようになることがある。むしろ、自転車の乗れるようになったり、泳げるようになったりという場面の方がわかりやすいだろう。自転車の「乗り方」を覚えた、「泳ぎ方」を覚えたと理解・記憶しているがそうではない。
※http://miminowakuhazushi.blog.fc2.com/blog-entry-465.html
身体の論理を体感してみること - 安藤朋子ワークショップ「自分のからだを訊く」参加体験記  To Experience the Logic of the Body Actually - Report on Tomoko Ando's Workshop "Ask Your Body"

 このように考えを進めてくると、機械への隷属が強いられる場面において、安藤が機械の神秘に怯えることなく、てきぱきと自在に作業をこなす「熟練労働者」へと達し、さらにそれを鮮やかに突き抜けて、そこに自分だけの楽しみ・喜びを生み出しているのは、この「身体の論理」の強靭さゆえであることが見えてくる。



14-1 同期/非同期
 『モダン・タイムス』との関連について、もうひとつ指摘しておきたい。『KIOSK』において、安藤はペットボトルが一杯になったことを知らせるアラーム音に、常に追い立てられているように見える。別の作業に勤しむ彼女に対し、アラームは突然無慈悲に鳴り渡り、彼女を意地悪く邪魔し、あるいは容赦なく追い立てているように見える。運命に翻弄される人間? しかし、大ボトルから滴り落ちる流量は蛇口により制御されており、空のペットボトルが満たされるまでの時間は同一であり、一定の周期を描いている。ここでは左右の装置の周期がズレているために、非周期的に予測し得ないタイミングでアラームが鳴っているように見えるに過ぎない。もし左右の装置が同期していれば、安藤の作業ははるかに楽な、つまりは観ていて面白みのないものとなっただろう。
 ここで『モダン・タイムス』から、ベルト・コンベアで次々に流れてくる製品のボルトを、チャップリンが次々に締めていく有名な場面を思い出そう。最初は快調に作業していた彼は、次第に追い立てられ、最後には錯乱を来すこととなる。そのきっかけは、途中で脇の下を掻いたことであり、それが原因で同期が保てなくなり、同一のリズムを刻み続ける機械によって追い立て追いつめられたのだった。
 「労働する身体の反復的な動きは、ときに無意味な単純さに還元される。それは子供がしばしばするような飽くなき身体反復に似ている。そして、それが児戯のようであればあるほど、人間の本質的な身振りとなるのではないか」と配布されたリーフレットには記されている。まさにその通りだろう。であるならば、同期がズレた時、遊戯であるべき身体反復は、強迫的な追い立てに晒されるしかないのだろうか。子供の飽くなき身体反復は、むしろ周期がズレてしまうことによって生じるアクシデントも含めて、その楽しさに興じているように思われる。

14-2 機械の悪意と子供の残酷さ
 もともと「14-1」を設けた理由は、安藤を翻弄するアラーム仕掛けが、決して確率的なランダムネスに基づいているのではなく、それ自体は正確な同期性を持っていたとしても、左右の周期の違い(非同期性)により予測し得ない結果を生み出してしまうと指摘することにあった。すなわち背後に「意地悪な神」がいなくとも、単純な機械仕掛けが相互のズレを介して「悪意に満ちた運命」を産出してしまうことが起こり得ると。
 藤田からは「大ボトルと蛇口の仕掛けは、流れ落ちる水量を正確に制御できる精度を持っておらず、それゆえこの仕掛け自体が単独でズレを引き起こし得る」との指摘を受けた。確かにそうかもしれない。しかし、その安藤を翻弄する原理は、この個々の不正確さよりも、左右の装置のズレ(非同期性)にあるとの基本的理解については修正を要しないと考える。この不正確さが、本質的な予測不可能性として、つまりは「機械の悪意」(それはヴェイユの指摘する「機械の神秘」と似ている)として立ち現れるまでには至っていないからである。

 安藤の身体がこうしたズレを期せずして即興的に乗り越えている場面が、11日夜公演の記録映像で確認できたので報告しておきたい。ペットボトルの蓋を圧縮空気で打ち上げる装置は、9日公演では2個同時に射出してしまう動作不良をたびたび起こしていたが、この日、それは修正されていた。その代わり、右手の装置の射出力が異様に強く、打ち上げられた蓋が天井に当たるなどしていたが、ある時、天井のどこかにそのまま引っかかって落ちてこなかった。安藤は口をぽかんと開いて天井を見詰めていた安藤の身体は、この不測の事態に対し、すかさず不帰還を悼んで合掌し、その後、しばらく立ち尽くしたまま件の装置を見詰め、やがてさっと蓋を取って栓を締めた(すかさず、会場からは笑いがわき起こっていた)。ここでの客席の笑いは、「13-1 結合する諸機械」で触れた観客のくすくす笑いとは明らかに異なっている。ここに「否応なく機械に蹂躙される『モダン・タイムス』と同様の喜劇フレーム」は起動していない。「運命に翻弄される人間」の哀しみはかけらもない。むしろアクシデントを楽しむ子供の残酷さがある。



15-1 ソングの重力圏
 これらのチャップリン的悲哀に対し、先に「7.プログラム」で描写した、積み上げられた一番上の段ボール箱を、竿で引っ掛けてひょいひょいと回収して回る場面では、安藤は無表情のまま、名人芸とも言える手さばきで鮮やかに作業をこなし、超人的な力で機械を超えていくキートン的なクールさを輝かせていた。
 ところが「8.ソング」の場面に移ると、機関銃のように撃ち出されるセリフと動作が、多様なサウンド・映像と重なり合い、なおかつ突然暴力的に寸断されるという全編のクライマックスを迎えながら、パティ・スミス「ディスタント・フィンガーズ」の夢見るような気怠さを押しのけることができない(彼女の歌もまた同時に寸断されているにもかかわらず)。暖かく湿った毛布が重力を何十倍にもして、身体をベッドにめり込ませているかのようだ。
 ソング・ピースにおいては、歌詞の描く情景やメッセージ、それを語る声音の温度や触感、メロディと抑揚、発音を含めたアーティキュレーションとリズム、速度と速度感の変容、器楽のアレンジメントやサウンドのコントロール、ソロの一音一音からドラムス各部のバランスに至るまで、ソング・ピース全体の調和を目指して、まるで結婚式の親族集合写真のように、厳しく刈り揃え整列させられる。もちろん、そうではないソングのあり方もある。声が軋み、張り裂けて、サウンドと衝突し、世界を押し広げながら、歌詞の世界に裂け目を穿つような。だが、パティ・スミス「ディスタント・フィンガーズ」は、そのような曲ではない。
 ランボーとブランクーシに捧げられた「ラジオ・エチオピア」〜「アビシニア」におけるギター・フィードバックの混乱で名高い2作目『ラジオ・エチオピア』のB面。「ディスタント・フィンガーズ」はその2曲の直前に置かれ、麻薬的に甘やかなたゆたいを提供している。女流ストリート詩人ならではの蓮っ葉さこそ失わないものの、いつもの声を放り出すようなエッジの効いた唱法は影を潜め、倦んだ地上から自分を救い上げてくれる異星人へのあてのない願望が、まどろむような猫なで声で歌われている。バンドの演奏もまた、バブルガム・ミュージックの味覚を麻痺させるような人工的な甘ったるさを演じ続ける。続けて現れる無機質なエレクトロニクス、鋭く切り立ったギター・リフと憑かれたようなポエトリー・リーディングの衝撃を際立たせるために。
 こうして安藤の身体は(そして私の眼差しは)「ディスタント・フィンガーズ」の重力圏に引き込まれ、機械と身体を巡る哀しい倦怠に染め上げられてしまうことになる。

15-2 反重力
 「15-1」で展開したソングの重力圏に関する議論自体は、「ディスタント・フィンガーズ」という曲の性格分析を含め、修正を要しないと考える。しかし、「8-2」で記述したように、9日公演で「夢見るような気怠さを押しのけることができずに、身体をベッドにめり込ませていた」安藤の身体は、11日夜公演の記録映像では、明らかにその場を支配していた。
 このシーンの後半で、安藤はセリフを急な早口で発話しつつ作業を続け、突然に中断し、身体をピタリと静止させる。中断/静止したところで音響は、高橋のギター演奏を含め休止し、映像も停止する。安藤は、沈黙と静止画像を背景にまたゆっくりと動き始め、段ボール箱からペットボトルの束を取り出し、ゆっくりと台の上へ持っていく。きわめてゆるやかに、まるでじらすようにペットボトルの束を身体の前で下ろしていき(観客・スタッフの注意が、弓の弦を引き絞るようにその一点に集中してくるのが、肌に痛いほど感じられる)、最後の最後で「ダンッ」と台上に置く(と同時に効果音が響き渡る)。それを合図に再び音響と映像が目まぐるしく動きだし、彼女もまた勢い良く次の作業のスタートを切る。この「だるまさんがころんだ」式の繰り返しにより、彼女の身体の動きは明らかにこの場をコンダクトしていた。
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16-1 もうひとつの時間と空間
 哀しい倦怠に浸された私の眼差しは、安藤の作業の断固とした終わり方にもかかわらず、また、水を二度飲む安藤の身体が、決してほっとした安堵を浮かべているわけではないにもかかわらず、そこに思わず束の間の安息と寂寥を見てしまっていた。そこに添えられる音楽/音響もまた、そうした感慨に異議を表明しているようには感じられなかった。
 ここに至るまで、安藤の身体を組み込んだ『KIOSK』演劇機械の精密な構築と緊密な作動ぶりについて記述/分析することにより、それらが主題の系列に向け、あまりにコヒーレントに同一方向に整列し、層を敷き重ねているがために、スプラスティックな速度の噴出や身体の特出を封じてしまっているのではないかと論じてきた。
 しかし、この最後の水を飲む安藤の身体、とりわけその「毅然とした」眼差しに軸足を置き直して、そこからオセロ・ゲームのようにすべてを裏返していくことも、あるいは可能かもしれない。しかし、とても脳内でそれを行うことはできない。また、「毅然とした」との印象に確証を持つことももはやできない。

 だが『KIOSK』という表題にもかかわらず、店舗を訪れる客が一人もいないという不可解な事態について、「誰もいらないと言っている みんながもういらないと口をそろえて言っているのに それでも すべてが 供給される」というセリフに引き付けて「客が一人も来ない店舗に、毎日決まった量の品物が配送される」不条理とも解釈できれば、これは開店前の準備作業『KIOSK 1』であり、この閉幕の後に客の応対、商品の売買による『KIOSK 2』の時間と空間が幕を開けるとの解釈も可能だろう。
 前者の解釈であれば、ここで舞台に乗せられた場面がKIOSKの時間のすべてであり、その反復だけがあることになる。水を飲む安藤の身体はその一部(たとえば文末を示すピリオド)であるか、せいぜいが余白に位置づけられるものとなろう。つまりはKIOSKの労働とはこうした作業なのだと。私の記述/分析はこの解釈に基づいていることになる。
 対して後者の解釈であれば、舞台には乗せられていないもうひとつの時間・空間があり、水を飲む安藤の身体は、こちらの時間・空間『KIOSK 1』からはみ出して、もうひとつの時間・空間『KIOSK 2』を眼差していると考えることもできよう。
 そうした論じきれなかった転倒の可能性を示唆することで論を閉じることとしたい。

16-2 そこにある『KIOSK 2』
 9日公演を体験して妄想を膨らませ、しかし論じきれなかった転倒が、11日夜公演の記録映像では、まさにそこにあると感じられた。安藤の身体の毅然さは揺るぎなく、視線がとらえ続ける舞台左手側には、明らかにもうひとつの時間と空間が開けていて、彼女の身体は『KIOSK 1』から『KIOSK 2』へゆっくりと、だが確実に移行していた。ここで音響は9日公演のように彼女を見送ってはいない。この場、すなわち『KIOSK 1』にとどまって、彼女に脱ぎ捨てられ、置き去られるものとしてある。その証拠に音響が消えても、照明が消されても、彼女は歩み続け、もうひとつの時間・空間への移行を続ける。
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アリカ『キオスク』  ARICA『KIOSK』
2020年2月9日〜2月11日 横浜BankART Station
※私が観たのは初日である2月9日の舞台です。また「はじめに」に述べたように、藤田康城氏から提供していただいた最終公演となる2月11日夜の舞台の記録映像を視聴しました。また、当記事に掲載の舞台写真についても、藤田康城氏から提供していただいた宮本隆司氏撮影の写真を縮小して使用させていただきました。ご協力に感謝いたします。

演出 藤田康城
テクスト 倉石信乃
出演 安藤朋子

音楽・演奏 福岡ユタカ 高橋永二郎
美術 西原尚
映像 越田乃梨子
衣装 安東陽子
機械装置製作 高橋永二郎



ライヴ/イヴェント・レヴュー | 15:48:02 | トラックバック(0) | コメント(0)
うねりと濁り 「星形の庭」@下北沢leteライヴ・レヴュー  Swells and Turbidity(Unclearness) Live review for "The Pentagonal Garden" @ lete , Shimo-Kitazawa
1.
 椅子をぴったり詰めて四脚分ほどしかないスペースに、三人の演奏者がどう入るのかと思っていたら、写真の通り、向かって右奥にVOXの小型ギター・アンプ、その左にヴァイオリン、手前にエレクトリック・ギターとディレイとペダル、さらにその左手前にアコーディオンと楽器が置かれ、その傍らに各演奏者用の丸椅子が配されていた。

 ほどなくして演奏者たちが登場し、椅子に腰を下ろす。津田が弓に松脂を塗る音が響く。気がつくと三人は狭い中に膝を突き合わせ、まるで正三角形の炬燵の鍋を囲むように向かい合っていた。
 津田がギター弦に当てた弓を垂直に引き上げる。珍しく太筆による幅と厚みのある線が引かれる。ヴォリューム・ペダルがベタに踏み込まれている。ややフラジオ気味のヴァイオリンがそれに寄り添い、響きを重ね合わせ、微かに揺らがせる。見分け難くひとつになってごうごうと鳴り響く音流の中に、幾つもの筋が浮かんでは消える。倍音がぶつかり合い、眼の前にそそり立つ音の柱とは別の「もうひとつの音」がふと鳴り響いては、また別のところに移り変わる。Tony Conrad『Early Minimalism』を思わせる増幅/濃縮された轟音の只中で、ギター弦と弓が擦れあうか細い金属質のささくれが、微かな音であるはずなのに、ふと聴こえてくる。この「音楽劇場」が永遠に続けばいいのにと夢想するうち、エレクトリックな轟音は次第に逆巻くうねりを抑え、ゆったりと左右に揺れ傾ぐようになり、そこにアコーディオンが加わって曲のイントロを奏でる。いつもより太く厚みのある音が思い切り良く放たれ、オブリガードを奏でるヴァイオリンもまた、それに寄り添うというよりは大胆に身体を預け、体重を乗せていく。弓奏ギターはその傍らでヴィオラ・ダ・ガンバを思わせる補足倍音の多い音を編んでいる。
 演奏は切れ目なく次の曲に移り変わる。ギターの爪弾きによるイントロに、食い入るように荒々しく波頭をもたげたアコーディオンが突っ込み、そのまま覆い被さっていく。いつもは細く絞り込まれ、禁欲的なまでに揺るぎなく水平に保たれる音が、あからさまにうねりを迸らせ、やがてヴァイオリンにバトンを引き継いでいく。

 ここでは、これまでの「星形の庭」とは全く異なるアンサンブルのあり方が示されている。

190817星形の庭縮小
2019年8月17日のステージ配置



2.
 下北沢leteの、水道橋Ftarriはおろか、喫茶茶会記よりも、Permianよりも、「ここから」よりも、Liltよりも間口の狭いちっぽけなステージには、やはり魔法がかかっているのだろうか‥‥。そう思わずにはいられないくらい、昨日8月17日に行われた「星形の庭」のライヴは素晴らしかった。leteでの「星形の庭」ライヴと言えば、前回5月14日(火)のライヴを、このブログで激賞しているから、それも当然のことと思われるかもしれない。だが、それは違う。前回はデュオ編成であり、その演奏/交感の濃密さに打たれた。しかし、今回はトリオ編成による出演であり、その演奏に私はずっと不満と不安を感じていたからである。
 津田貴司のギターと林(佐藤)香織のアコーディオンのデュオによる結成時の「星形の庭」に林享のヴァイオリンが加わったトリオは、当然のことながら、アレンジや演奏の絡みの可能性を豊かにすることが期待される。しかし、私が横浜The CAVEや文京区立森鴎外記念館で聴いた演奏では、ヴァイオリンが本来持っている音色、「鳴ってしまう」響きの豊かさが、あるべき隙間を塗りつぶしてしまっているように感じられた。
 そこで楽器の音は、か細く不安定で脆く壊れやすい物音の段階を脱ぎ捨てて、最初から確かな「楽音」として現れる。その確かさを踏みしめて広げられる響きの翼は、アンサンブルにオーケストラ的な厚みと豊かさをもたらす。だが、その陰で失われてしまうものもある。ひとつ例を挙げるならば、私が「星形の庭」を初めて聴いて、思わず耳が惹き付けられた「ピシピシ、パチパチ‥‥」という囲炉裏の薪が爆ぜるような、しんしんと冷え込む夜中に洗面器の水が凍っていくような、鍵盤を押さえずに開閉されるアコーディオンの蛇腹が立てる微かな物音がそれだ。その音は私にとって「星形の庭」のシンボルと言うべき存在であり、前回、5月14日の演奏で、その音が回帰してきたことを無邪気に喜んでいる。
 私は単に自分が決めつけた古い鋳型を彼/彼女らに押し付けているのだろうか。そうは思わない。というのは、研ぎ澄まされた細く硬いペン先が刻み付ける筆蝕から次第に淡く広がるインクの滲みや、キャンヴァスに擦りつけられたほとんど乾きかけた筆が辛うじて残す掠れが、眼を凝らすうちにタブラ・ラサと思われた無垢なキャンヴァスに潜む凹凸や傷、微かな染みや汚れを浮かび上がらせ、そこに幾つもの不定形の形象を結びながら、さらに身を沈め交感を深めていく‥‥。そうした演奏の次元を有することが、彼/彼女らのかけがえのない特質ととらえているからである。それは「音響」の汲み尽くし難さにより、不可視の「環境」を浮かび上がらせ、それとの即時的な交感を通じて「即興」演奏の軌跡を産み出していく。そこには音を放つこと以前に聴くことの深みがあった。
 対して、そうした細部を有することのない均質な楽音は、前述の次元を持つことができない。メロディの変奏やリズムの変化、テンポやイントネーション、アーティキュレーションの変容といった、通常の楽曲解釈の「閉域」に留まることになる。逆に言うと、聴き手の耳は、「聴くこと」の深みへと、それ以上降りていくことができない。
 完成された古典楽器であるヴァイオリンを迎えた「星形の庭」の演奏に、私の耳は空振りを繰り返した。響きに触れようと伸ばした指先は空を掴み、オーケストラ的な絵柄の全幅を、引いたところから遠巻きに眺めるしかなかった。

190514星形の庭@lete縮小
2019年5月14日のステージ配置



3.
 この日の彼/彼女らのアンサンブルは思い切りの良い厚みをたたえ、勢いのあるうねりを保ち続けていた。それらが濁りや不透明さを招き寄せるのを恐れることなく。
 私が「星形の庭」の演奏に、前述の次元でフォーカスしていたのは、あらかじめ記譜された楽曲の演奏であろうとインプロヴィゼーションであろうと、まずは聴くことに身を沈める彼/彼女らの身体のあり方へのチューニングがあった。そしてもうひとつ、そうしたフォーカシング、微視的な耳の眼差しの接近を、どこまでも受け入れるサウンドの透明度の高さがあった。細く張り詰めた線、希薄な倍音の広がり、いやそれだけでなくもうもうと立ちこめるシューゲイザー的な充満にあってさえ、耳の視線はどこまでも響きに肉迫し、一様に塗りつぶされた音の壁に突き当たり行く手を塞がれることなく、その細部へ、襞の奥へと入り込むことができた。その象徴であり、また指標ともなっていたのが、先に述べたアコーディオンの蛇腹が立てる「ピシピシ、パチパチ‥‥」という微かな物音にほかならない。
 新たに加わったヴァイオリンが、そうした音の壁を持ち込んでしまった後ですら、彼/彼女らは「濁り」を嫌っているように思われた。空間を埋め尽くさぬよう音の懸隔を確保し、さもなくば寸分の狂いなく重ね合わせ、呼吸をゆったりと平らかに保ち、先を急がぬこと。にもかかわらず、「ピシピシ、パチパチ‥‥」は聴こえなくなっていた。

 しかし、この日の演奏は決して「濁り」を回避することなく、むしろ積極的に招き入れ、随所で効果的に活用していた。ヴァイオリンが能う限り細く希薄な音を放ち、それにアコーディオンの響きが寄り添って醸し出す朝もやを思わせる不透明さが、二人の呼吸のズレに促されてゆるゆると動いていく。あるいは思い切りよく立ち上がり、そのままダイヴして他の誰かの音に乗っかり、そのまま体重を預けていくヴァイオリンやアコーディオンの振る舞い。ヴァイオリンの参加による高音域へのシフトとバランスを取るギターの低弦のブンと撓んでうなるような強調。その結果生み出される乱れや歪み、うねりが音の厚みをいや増し、押し寄せ高まる波が交錯し波頭を打ち付けあう。
 別の言い方をすれば、デュオ編成で互いに分かち合う2分の1ずつを、トリオ編成では3分の1ずつに‥‥というような「換算」を彼/彼女らはもはやしていなかった。ヴァイオリンの出音のサイズが小さくならないのであれば、たとえ全体が過剰になろうと、まずはサイズを揃えてしまえばよい、という単純明快な(パンクな?)思い切りがあった。
 もちろん濁りを招き入れたからと言って、決して聴くことが蔑ろにされたわけではない。ここで「聴くこと」は、「耳の眼差し」が見通す透明性の次元から、水底の闇で水の動きを感じるようなより皮膚感覚的かつ全方位的なものへと歩みを進めている。考えてみれば、三人が膝詰めで向かい合う配置は、まさにまずは互いが聴き合うためのものであり、そしてそのように聴き合いながらミックスされたサウンドを、ステージの形をした「サウンド・ボックス(モニターにしてミキサー)」から客席に向け放射するためのものにほかなるまい。

 津田がツイッターやFacebookで引き合いに出していた(そしてこれまで私にはちっともピンと来なかった)Velvet Undergroundも、今ならすっと理解できる。ひとつにはTony Conradと共にLa Monte YoungのEternal Music Theatreに参加していたJohn Caleが持ち込んだ倍音が(近接音程での基音もまた)ぶつかり合うドローンの生成において、もうひとつにはパンク・ムーヴメントに遥かに先駆ける衝動の技術を介さぬダイレクトな発露において。



4.
 トリオ編成による「星形の庭」のことを記していて、なぜかふとTin Hat Trioの名前が頭に浮かんだ。サンフランシスコを拠点として活動する彼/彼女らは、アコースティックな器楽トリオ編成で、ラテン音楽をはじめ民族音楽まで幅広く素材を渉猟し、リズム・セクション無しの三人が自在に役割を取り替えながら「チェンバー・ポップ」などという呼称が野暮に感じられるほど、洗練の極みと言うべき洒脱な演奏を聴かせる。超絶技巧のひけらかしなどまったくなく、演奏マナーは極めてさりげないのだが、それでいて必要にして充分な表現を自由自在に生み出す技量の冴えにほとほと感心させられた。一時はよく聴いていた。最初はなんでそんな名前が急に浮かんできたのか訝しく思ったが、改めて確認してみるとTin Hat Trioもまた男性二人、女性一人によるギター、アコーディオン、ヴァイオリンの編成なのだった(ただし、こちらの紅一点はヴァイオリン奏者のCarla Kihlstedtだが)。ポップな親しみやすさをキープしながら、同一編成においてミュージシャンシップを極限まで発揮した感のあるTin Hat Trioを対極に置くと、今回の(もしかすると今後の)「星形の庭」のあり方が見えてくるような気がする。

  
Tin Hat Trioのアルバム



5.
 正直なところ、期待と不安では後者の方が大きく、それゆえ直前まで観に行くか決めかねていたライヴだったが、これまで記してきた通り、彼らの飛躍的成長を見届ける結果となったのはうれしい限りだ。もちろん大きな変化を迎えているがゆえに、まだ細部には綻びが多い。特にギターがフィンガー・ピッキングによる丸みのある、だが不定形にひしゃげたミュート気味の音色で、そぞろ歩くような三拍子を刻み続ける曲(新曲か?)では、蝋燭の揺らぐ炎のように伸び縮みする間合いを踏まえながら、水平にまっすぐたなびくアコーディオンのコード弾きとそれに斜めに交わっていくヴァイオリンのオブリガートが推進力を生み出していかなければならないが、長くは続かない。だが、それはむしろ「伸びしろ」の大きさを物語るものだろう。
 個人的なリクエストとしては、冒頭に記したTony Conrad『Early Minimalism』を思わせる部分を、トリオ全員の演奏に拡張し45分間やってもらいたいところだが、実現は難しいだろうか。

 これはまったくの余談だが、ライヴ前の夕食をleteの近くのタイ料理屋で取ったのだが、ソムタム(青パパイヤのサラダ)がとりわけおいしかった。この料理を初めて食べたのは、マレーシアの北部でタイ国境に近いコタバルの屋台なのだが、その後、国内で何度食べてもずっとピンと来なかった。細切りにした青パパイヤの固めの歯触り、歯応えとともに、辛味と酸味が立ち上がりよく鼻に抜け、ナンプラーや小エビを発酵させた蛯醤の混じり合った濁りのある重たい旨味が甘みを携えて舌の中央から根元にガツンと来る。内側から怖々と輪郭をなぞるのではない、手早く思い切りの良い調理ならではの見事な出来。店の雰囲気も常連が多そうであるにもかかわらず、私のような一見客にもとっても気のおけない感じで良かった。大層元気な女性店主によれば、leteのライヴ客もよく来るという。水道橋Ftarriの讃岐うどん(笑)ではないが、ライヴ演奏といっしょに食事も楽しみにできるというのは何とも幸せなことだ。

ティッチャイ縮小
http://tit-chai.com/


2019年8月17日(土) 下北沢lete
星形の庭(林享violin, 林香織accordion, 津田貴司electric guitar)

※当日のライヴからの抜粋録音を次のURLで聴くことができます。
https://soundcloud.com/tsuda-takashi/live-at-late-2019817





ライヴ/イヴェント・レヴュー | 00:09:12 | トラックバック(0) | コメント(0)
待つこととヒョウタン ― 宮本隆司『いまだ見えざるところ』展レヴュー  Wating and A Gourd ― Review for Ryuji Miyamoto Photo Exhibition "Invisible Land"
 宮本隆司による写真展『いまだ見えざるところ』を東京都写真美術館で観ることが出来た。そのことについて記しておきたい。

1.軍艦島(端島)1954〜56
 同じ東京都写真美術館で開催されている『場所をめぐる4つの物語』で観た奈良原一高『人間の土地』より抜粋された軍艦島(端島)の写真についてから、まずは始めることとしたい。作品自体に漲る強度もさることながら、何よりも宮本の作品を体験するのに格好の比較対称軸を与えてくれたからだ。

 1954年から56年に撮られたモノクロ写真だが、高い解像度と精度は、写真家の凝視の揺るぎない強さをひしひしと感じさせる。くっきりした明暗の対比がかたちづくる造形美。フォーカスではなく構図によってもたらされる空間の深さ。型押しされ、あるいは彫り刻まれたような建築物の輪郭線の強さと、たちこめる靄、荒波が跳ね上げる水しぶき、風雨に苛まれ荒れたコンクリート面のノイジーな感触の対比。逆光に陽炎のように浮かび上がる不安定な人のシルエット。
 鉄筋コンクリート建築の堅牢極まりないアパート群が、様々な視点からとらえられ、マッスの持つ巨大な質量を明らかにする。アパートを背景にしてとらえられた人物は、風景の作動させている造形的凝集力にまったく太刀打ちできず、その一部へと弱々しく呑み込まれてしまう。特に棟と棟の挟間に開けた空間を、ほとんど真上から見下ろした構図は卓抜だ。黒々とした建物の稜線の鋭さや垂直であるべき面の傾きが、強力な遠近法で視界を歪め、その底に沈む人の形を不確かな染みのようなものへと変容させてしまう。
 居住者がとらえられた写真は決して多くはない。それらでは決まって一人か、せいぜいが少人数で、皆弱々しく不安げで何かに怯えているようであり、決してこの土地の「主」などではなく、間違って迷い込んだか、あるいは「主」の眼を盗んで徘徊している侵入者のように見える(そこにはスクワッターたちが巡らせる反逆の眼差しはない)。もちろん、「海を見る少年」のように強い存在感を放つ人物像がないわけではない。しかし、それも風景の欠かせない一部へと造形され、画面に平坦に組み込まれてしまう。
 炭坑労働者たち撮った写真があるではないかと反論されるかもしれない。確かにそこで彼らは時に群像ととらえられ、他の写真における人物とは比べ物にならない存在感を放っている。しかし、炭塵で黒く汚れた顔はフェイス・ペインティングを施したようであり、やはりそそり立つ建築物の「主」には到底見えない。まるで「主」の下で作業に勤しむ「ハタラキアリ」であるかのように感じられてしまうのだ。

 荒海へと出航する一隻の巨大戦艦、あるいはあらぶる自然に深々と打ち込まれたくさびとしての土地は、それゆえ風雨波浪による苛烈な侵食作用に日々さらされ続ける。そこにはすでに、このそそり立つマッス群をかたちづくった「主」の姿はなく、何かに怯えるちっぽけな侵入者たちと「主」の不在を知らぬかのように黙々と作業を続ける「ハタラキアリ」がいるばかり。これを廃墟と呼ばずしてなんと言おう。

 しかし、これは史実に反する。石炭採掘の再前線基地としての端島は1960年頃にピークを迎える。これらの写真が撮影された1954年から56年は、まさに絶頂に登り詰めようという勢いの最も盛んだった時期に当たる。当時としては最先端の設備を備えた鉄筋コンクリート造のアパート群は国民の羨望の的であり、日本一のみならず世界一の人口密度を達成する人口を日本中から呼び寄せることとなった。彼/彼女らは決して単なる国策に殉じた「労働機械」などではなく、共に暮らし、祭りを祝い、空前の繁栄を謳歌していた。
 その後の「石炭から石油へ」というエネルギー政策の転換により、栄華を極めた国内石炭産業は斜陽化し、端島も閉山の憂き目を見ることになる。その後の端島は、(敗戦国の)「軍艦島」という名にふさわしく、まさに絵に描いたような廃墟としての姿をさらしていくだろう。それを知っている私達にとって、奈良原の視線は繁栄の只中にあって、その後の衰退と廃墟化、その底流に流れる巨大な「機械」による人間の疎外を優秀な猟犬のように嗅ぎ当て、さらには映像として幻視していたのだと、その預言者性を誉め称えることもできる。

 しかし‥‥と思わずにはいられない。映像として素晴らしい強度を放ち、また、幻視として驚くほど正確極まりないものであったとはいえ、これらの写真は、風景を見ることが本来持っている広がりを、あまりにも極端に方向付け、限定しているのではないか。
 端島は暗い空と海の間に突如として出現した、建築物や道路や岸壁や作業機械といった人工的構築物の、一層暗く巨大な集積として提示される。人はその隙間を不安げに徘徊するか、地下空間で苦役に従事するのみで、そこに「生活」などないかのようだ。
 そうした殺伐荒涼とした土地の姿は、画面に映し出された事態以上に、強迫的な構図により高密度に圧縮された視界の中で、鋳直され、焼き付けられ、型押しされ、彫り刻まれた鋭く重い線、ざらざらと凍てついた面、極端に強調されるか均一に平坦化された明暗により、ディストピックな廃墟イメージとして一挙に投げ与えられる。それ以外のことを思い浮かべる隙など与えることなく。

 そんな考えを巡らしながら、私は東京都写真美術館の階段を3階から2階へと降りていった。「廃墟写真家」として知られる宮本隆司による展示『いまだ見えざるところ』を見るために。


2.ロー・マンタン1996
 展示室に入ると、急に明るくなったように感じられた。珍しくホワイト・キューブではなく、明るいオレンジ色に塗られた壁面のせいもあったかもしれない。しかし、それ以上に、展示された作品のモノクロの画面が、不思議な風通しの良さ、明るさと軽やかさに満たされていることが大きかった。
 写真はネパールの奥地ムスタンに位置するロー・マンタンの街を写したものだった。画面のほとんどを丸石と高い土壁が占める構図にもかかわらず、そこに強迫的な圧迫感や息苦しさはなかった。そびえ立つ建築を仰ぎ見る時にも、壁や建物が一体となって空を切り取る時も、極端に奥行きが強調されるわけではなかった。また、画面が壁の落とす影で二つに分割される時も、あるいは両側に高く並んだ壁に光を遮られ間の部分が影に沈む時も、明暗が過度に際立たせられることはなかった。
 数人の人影が画面の下の方に写し出されていることがある。それらは画面のほんの一部に過ぎなかったが、壁や石と同様、かけがえのない細部であり、明暗や構図に埋没してしまうことはなかった。だからといって人物の姿が大きく映し出されたり、生活の一場面がとらえられることもなかった。

 ここで作品は「これをこう見ろ」と押し付けてこない。見る者の眼球に強迫的なイメージを挿し込もうとしない。画面は穏やかで静かな持続に満ちており、見る者の視線を自由に歩き回らせる。ここで視覚体験は邂逅の瞬間に訪れるのではなく(一瞬の閃光と共に刻まれる軍艦島の光景と比べてみること)、そうした遊歩とともに時間をかけて浸透してくる。眼をさまよわせるうちに、壁面の明るさが空に満ちる風と光を映していることが浮かび、それとともに石造りの建築物の静謐なマッス感が肌に沁みてくる。そうしたごくごく短い時間経過は、決して物語やメッセージを紡ぐのではなく、空間の奥行きや広がり、事物の間に走る無数の関係の線、光の多方向への反射と浸透(包囲光)、空気の流れや温度感を、順次触れていくように、足下から満ちてくるように伝えてくる。これは語本来の意味での「アンビエント」な聴取体験に似ている。
 ムスタンについて調べると、どこまでも青く抜けた空とチベット風の原色に眼を射られた。例のオレンジ色は城壁の色だった。赭(そほ)という伝統色だという。放射される色彩に手前で阻まれ遮られて、視線が奥まで入り込めない。波立つ海面が陽光を反射して水底を見せないように。底にガラス板をはめた箱を水中に挿し込むと、まぶしさが消えて透き通り、水底の様子が間近に浮かぶ。ここでモノクロームであることは、そのような働きを担っている。


3.東方の市1984〜92、建築の黙示録1990
 次のスペースに移ると画面は黒みを増し、乾いた明るさに湿度を帯びた暗さが取って代わる。台湾、中国、タイ、ヴェトナム、沖縄等の東南アジアのバザールを撮影した作品群は、先ほどより作品のサイズが小さくなる代わりに解像度が増し、より稠密な描写となる。
 結果として題材も描法も言わば『ブレードランナー』的な廃墟イメージに近づくが、その枠にはまることはない。画面は時に迷宮的な乱雑さをたたえながら、視線を奥に引き込んで捕えることをしない。生活の場面を眼差しながら、それ以上踏み込まない。
 スナップショット的な軽やかさだけに走らないのは、凝視のもたらすかっちりとした構図ともうひとつ。人物像の不可思議なブレによる。ブレることなく収められた人物もあれば、ブレが嵩じて消え入りそうになっているものまである。シャッタースピードが遅いのだろうか。だがなぜ。
 事後に催された宮本自身によるギャラリー・トークの中で謎が明かされた。植民地時代の建築の研究者と共に各地を回り、建築写真用にアオリが撮れる(建築物の垂直線・水平線を直交するように撮影できる)写真機を用いたため、露光に1〜2秒を要したという。長時間露光により、都市の街頭から雑踏や交通混雑を消し去り、不動の建築だけを撮影した写真を見たことがあるが、あのようなプレゼンテーション技法だけに走ったものではない。氷結した像により瞬間を記録するのではなく、僅かな時間の推移を導入すること。それは瞬間の切片の集積としてはとらえ難い運動の存在を明らかにし、なおかつ曖昧なブレや不定形の変容として画面に導入する。もちろんこれを活かすには、すなわち写真全体がブレの集積に還元されてしまわないためには、画面の堅固な構築が必要となる。

 『建築の黙示録』は中野刑務所をはじめ、解体中の建物を撮影した連作で、続く宮本の代表作として知られる『九龍城砦』と共に、彼の「廃墟写真家」としてのイメージをかたちづくった作品である。ここでは今回の会場となった東京都写真美術館にちなみ、「サッポロビール恵比寿工場」からの抜粋が一部展示された(同工場跡地の再開発によって生み出されたのが、美術館のある恵比寿ガーデンプレイスにほかならない)。
 ここでも通り一遍の廃墟イメージとは異なり、画面は不思議な明るさと軽やかさに満ちている。都市の廃棄物や残骸の集積といったダーク・イメージを強調された明暗の対比でシンボライズするのではなく、フラットな画面が細部の様々な関係性を無数に浮かび上がらせる。寄せ集められたコンクリート柱が多方向へヴェクトルを散乱させる様、歪んだ金属板の見せる多彩な反射の表情。「かつてここに○○があったのだ」と栄華衰退の運命論を投影して、そこには写っていない「かつてあったはずのもの」へと思いを誘導し、見ていないものを見たかのように錯覚させてしまう、廃墟へと収斂する神話的な物語性は、ここで注意深く取り除かれている。そうではなく、質感をフラットにし、アブストラクトな造形性を浮かび上がらせることで、「いまここにあるもの、起こっていること」を注視する。その注視が露わにする多方向への発散力が、「廃墟」という見る側の先入観、視覚にはめてしまう枠組みを静かに侵食していく。


4.九龍城砦
 ここで先に進む前に、今回の展示には採りあげられていない、宮本の「廃墟写真家」としてのイメージを決定づけた(と言うより、メディアがそのような言説を撒き散らす元となった)『九龍城砦』を一瞥しておきたい。初出であるペヨトル工房版(1988年)よりも収録作品数の多い平凡社版(1997年)からまず見ていくことにしょう。
 英国統治下の香港に残る「清朝」と言うべき魔窟。違法建築と犯罪の巣。ガン細胞のように増殖・隆起したスラム。1990年代に、言わばリアル『ブレードランナー』的廃墟として盛んに喧伝されたイメージとは裏腹に、1960年代半ばから犯罪浄化が進み、また同じ頃からコンクリートによる増築が始まって居住者は増え続け、1982年には4万人に達する。そして宮本が写真撮影を開始した1987年は、香港政庁によってその取り壊し計画が発表された年である。以降、人口は減り続け、1991〜93年にかけて段階的に立ち退きが行われ、その後僅か10か月で解体が完了し、1995年には跡地に整備された公園が完成を見る。これらは本書に収録された大橋健一による解説に述べられていることである。
 収録した写真を見ても、上空からの俯瞰が明らかにする異常な(当然違法な)極度の密集にたじろがされるものの、1987年に撮影された写真にもすでに、登校中だろうか、九龍城砦の看板群が覆い被さるすぐ前の道路(通りの反対側ではなく)を歩く小学生の姿がある。また、足下に開いた店やベランダに干された洗濯物の列など、生活感の漂う外観をとらえた写真も見られる。毛細血管のように張り巡らされた電線や水道管のチューブ類には驚かされるが、剥き出しに盛られた米やコンクリートの床の上でさばかれる豚等は中華市場には当たり前の光景であり、工場や食堂、食料品店、数多くの診療所等は、そこが何よりも生活の場であることを明らかにしている。写真は総じて暗いが、決して明暗を強調したものではなく、まだ明けきらぬ薄暗さの中におぼろに浮かぶ風景のようであり、闇は黒一色に染め上げられることなく、むしろ薄墨色に漂っている。暗さに眼が慣れるまで待ち続けたところにようやく浮かび上がる像。建物内は実際に暗いのだろうが、屋外での撮影も屋内と光の差異を際立たせないようにしている点で、ここですでに、世界を唯一の視線で染め上げ特定の一面のみを切り取って限定的に示すのではなく、そこに縦横に走る多様な関係の線を抑圧することなく浮かび上がらせる、フラットな視点を彼が選んでいることがわかる。
 
 ここでペヨトル工房版(1988年)に眼を移すと、明暗が極端に強調されていることがわかる。上空からの俯瞰は細部の定かでないごちゃごちゃとした集積が、禍々しい影の中で息を潜めており、周囲をトリミングされ外縁が見えないために、窒息するような閉塞感をもたらしている。壁面から騒々しく突き出した看板群をとらえた一枚でも、明部はほとんど飛んでしまい、対する暗部の得体の知れない深さが強調される。
 1987年撮影の写真に限定しても、収録点数は平凡社版に比べて半分以下とずっと少ないにせよ、人物がはっきりと写っている写真は2点のみであり(平凡社版では20点近く)、生活がとらえられている写真は皆無である。店先に群がる買い物客や店内の人物、明らかに稼働中の工場内等は、本書にはまったく登場しない。
 前述の豚をさばく場面は本書にも収録されているが、異なる写真が選ばれており、中華包丁を手にしゃがんだ男性が内臓の除去等の作業をしている写真(平凡社版)に対し、逆光の中で粗くぶれたシルエットが豚の四肢を持って床を引きずるという、殺人現場を彷彿とさせる刹那的な写真(ペヨトル工房版)に差し替えられている。これでは生活をとらえたとは言えまい。

 両者の差異は、端的に言えば明暗の強調により禍々しさを強調したペヨトル工房版に対し、強調なしにフラットにとらえた平凡社版という画調の違いということになるのだが、決してそれだけではないことを改めて確認しておきたい。
 ペヨトル工房版の明暗の強調、それに伴うアレやブレの前景化は、刹那的なセンセーショナリズムとして現れている。暗闇の中で、曲がり角の向こう側に腕だけを伸ばし、ノー・ファインダーで撮影して一目散に退散したかのような「一瞥」にすら至らない瞬間。それは見られないもの、見てはいけないものを一瞬垣間見る興奮を掻き立てる。対して平凡社版では、前述のように暗がりに身を潜め、暗さに目が慣れて闇に沈んでいたものが浮かび上がるまで待ち続け、シャッターが押されている。そこに浮かび上がり、写真に写し取られるのは、物の像だけでなく、生活の痕跡であり、歴史の積層であり、その他様々な関係の線にほかならない。それは凝視により、さらに多くを見極めながら、なお、いまだ見えざる部分について思いを巡らす視線にほかなるまい。


5.シマというところ
 今回の展示の目玉と言うべきが、宮本の両親の出身地である徳之島を題材にした、この「シマというところ」である。展示スペースに入ると大きなモニター画面に映し出される、刻々と移り変わるサトウキビの草むらの情景に出迎えられる。動画ではなくスティル写真をスライドショー形式で見せているのだという。しばらく前に立って眺めていたが、画面が切り替わるたびに少しずつ草の葉が位置関係を変えているのはわかるものの、この変化が何を意味しているのか、宮本の視線が何をとらえ映し出そうとしたのか、正直よくわからなかった。前述のギャラリー・トークで彼は「これは台風が去った後で、だから草がみんな横に寝てしまっている。まだ、かなり風が強かった」と語るのを聞いて、ようやく青々と繁るサトウキビがみんな横倒しになって、窮屈そうに重なり合っているわけがわかった。「風」という時に思い浮かべる強さが、徳之島と東京ではまったく違うのだろう。

 ここで「シマ」とは「島」ではなく、小さな共同体のことであると宮本は言う(ギャラリー・トークでは、ムラ、集落であるとも)。「共同体」というと人と人との関係性であり、そこに生まれる様々な伝統的しきたりや掟を指すように思われるが、徳之島にあってはそれ以上に人々を取り巻く自然/環境との関係であるだろう。南島の豊かにして過酷な自然は、それと全面的に対決するのではなく、何とか折り合いをつけ共存していくことでしか、生活を続けていくことを許さない。そのために人々は連帯して助け合う必要があり、自然との関係で守らなければならない決まりがある。こうした条件の下では、「共同体」は濃密な関係を周囲の環境と結ばざるを得ず、その結果として、環境を共同体の「外部」へと排除できず、霜降り状に相互浸透した部分を抱え込まざるを得まい。すなわち、ここで「シマ」とは、空間や気候、地質といった風土を含むものとならざるを得ない。

 集落ごとに分けられ、人物の全身像を中心とした作品が展示されている。ちょっと澄ましてカメラを見詰めるポートレートにも、服装や持ち物がさりげなく生活の中に息づく民俗を伝える。籠を背負った老婆の持つ細い棒は、杖ではなく、ハブを追い払うためのものなのだと、宮本がギャラリー・トークで説明してくれた。南国らしい色鮮やかさに溢れたカラーの画面は、アブストラクトな造形性へと視線を収斂させることなく、画面のあちらこちらへと突き動かし、さまよわせる。チベットの民族衣装のように、原色の布を幾つも腰から垂らした男性は、祭りの際に家々を巡って、そこでもらうタオルをベルトに挿しているのだという。
 そうした「揺らぎ」は至るところに見られる。人物のポートレート群と並んで浜辺での祭りの寄り合いの様子が掲出され、さらにその横には風葬の果てに剥き出しで転がる人の頭蓋骨をとらえた写真が並べられる。また、他方では人物のポートレート群と、その集落の浜辺で産卵するウミガメの写真が並べられる。ネット上で本展示について、とりわけこの「シマというところ」のセクションについて、混乱を極めており、共同体民俗調査として使えないと否定する評価を見たが、それは当然だろう。共同体民俗調査とか、自然環境保存のための記録とか、「個人史」的な探求とか、そうしたある一定の平面に収斂し得ない、フォーカスが収まり切らないことを当然の前提として、「シマ」の撮影や展示のための作品選定は行われたに違いないからだ。ここでもまた、1枚の写真の外側に広がる時間と空間、写真と写真の間に走る無数の関係の線がイメージされていたに相違あるまい。それゆえ各作品は何気なくフラットに撮られているように見える。しかし、その一方で、視線を限定するところまでは踏み込まず、かと言って関係性が希薄化するほどは遠のかず、微妙な距離感で作品が撮影されていることも確かだ。
 実はここにひとつ仕掛けが施されていて、ほとんどの写真は2010年から18年に撮影されているのだが、3点だけ1968年に撮影された宮本の祖父や家族のポートレートが紛れ込んでいる。展示を見ている限り、そのことはわからなかった。まだ学生時代に撮影されたその3枚が原点、ルーツ、写真家としての原風景であり、そこからの発展/展開として他の作品がある‥‥というようには展示されていなかった。それはその通りだろう。そうした始点や終点、つまりは全体を吊り支える収斂点を持たないことが、この展示の眼目であるだろう。

 このセクションのシンボリックな存在として、垂れ幕大に拡大されたソテツの新芽の写真に触れておきたい。この写真を見て、カール・ブロースフェルトを思わない者はいないだろう。しかし、その外面的な類似は、実のところ相反する視線の下に生み出されている。
 ブロースフェルトはもともと彫刻家であり、造形を教える授業の素材として、植物の一部分の拡大撮影を行った。時に花弁をむしられるなど、本来の外見を加工され、言わば隠された本質を剥き出しにすることが求められ、撮影もまた、成長変容を続ける生物の特定の一瞬をとらえたものとしてではなく、まるでブロンズか何かでかたちづくられたような永遠不変の幾何学的造形としてフィルムに定着された。輪郭や細部を際立たせるため、当然モノクロである。
 対して宮本はカラーで撮影しており、輪を積み上げたような造形に加え、基調を成す緑に肉を思わせる赤みが混じっているため、植物でありながら、何かの幼虫か環形動物、あるいはより大きな動物の触手か感覚器官、生殖器にも似て、今にも身をくねらせて動き出しそうに見える。均整の取れた造形美を突き破る若く瑞々しい生命力。本作品は彼がプロデュースした徳之島アートプロジェクトのために撮影され、垂れ幕大に拡大してプリントされ、開催期間中、屋外に展示されたという。そのため作品は南国の強い日光や風雨にさらされ、退色し、汚れ、様々に変容してしまった。ソテツが南島の生活にとって持つ様々な複雑な意味合いはさて措くとして、宮本が新芽という成長の早い段階、すなわち素早い移り変わりの一瞬をとらえ、さらにこれを屋外に展示し、改めて異なる変容のプロセスの中に置いたことに注目したい。まさにこれは、瞬間の造形を永遠に留めようとしたプロースフェルトとは、真逆の姿勢である。
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6.ピンホールカメラ
 まだ建築中の東京スカイツリーをとらえた「塔と柱」、そして「シマというところ」のセクションにおいて、冒頭に触れたサトウキビのスライドショーと対面する位置に展示されていた超大判の「面縄ピンホール2013」が、共にピンホールカメラによる作品である。ピンホールカメラで使用できる印画紙は種類が極めて限られていて、「塔と柱」の強く青みがかった色調は、夜明け前の空の青みを映したものであると同時に、その印画紙の特性にもよるという。ピンホールカメラはその機構上、写真撮影の原点に帰るヴェクトルを持つことになるが、そこで本来的に立ち現れる、そうした技術的制約を受け入れることを、宮本は楽しんでいるようだ。

 会場の外に人が中に入れるサイズの大きなピンホールカメラが展示されているが、「面縄ピンホール2013」は、それで撮影したものだ。最初はピンホールの対面にだけ印画紙を貼っていたが、ピンホールのつくりだすイメージ・サークルはそれよりも大きく、左右上下の面にも像を結ぶことに気づき、それらの面にも印画紙を貼るようになった。下の面には、内側から印画紙を貼った後、身体を縮こめて床面に横たわっている私の身体がシルエットになっており、中央の大きな面には外の景色が上下左右逆さまに写っているが、そのまま展示している。その像の周囲にイメージ・サークルが広がっており、通常のカメラでプリントされる画像が、このイメージ・サークルの中央部分だけを切り取ったものであることがわかる。カメラの機構は眼の仕組みと同じだと言われるが、通常我々が写真で見る世界は、眼に映る世界の一部に過ぎない。見ようと思うものしか見ない。そして世界はこのイメージ・サークルの外側にも広がっている‥‥宮本はギャラリー・トークでそんなことを語った。

 宮本は『記憶表現論』(笠原一人・寺田匡宏編・昭和堂)所収のインタヴューでも、巨大なピンホールカメラによる撮影について語っている。まず設置できる場所を探すだけで大変であり、機構上、「始めから全部にピントが合っている」ために、ピントの操作も出来ない。おおよその方向を決めるだけで、何かを狙って撮ることはできない。露光には晴れた日の昼で3〜5分はかかる。その間、彼は床の部分に横になり、(対面の)印画紙の方を向いている。「眼がだんだん慣れてくると、印画紙にうっすらと像が映っているのが見えます。非常に暗いですけどね。暗いので、色みはあまりはっきりしませんが、外の風景が映っている。像を結んでいるというのはわかりますよ。ただし、天地さかさまです。裏返し、左右逆です。」(p.120)
 このピンホールカメラ体験が、闇の手触りを呼び寄せる。「ピンホールにしてもフォトグラムにしても、非常にシンプルで単純な写真なんだけれども、やってておもしろいんです。意外と奥が深い。それとデジタルカメラではなかなか味わえない身体感覚。五感を総動員して使うような写真撮影なんです。写真にとって闇が非常に重要だっていうのも、そういうシンプルな写真撮影をすることによって感じられることなんです。デジタルカメラで闇なんて、誰も気づかない。(中略)像を結ぶときは必ず闇の中に光を導き入れてるはずです。そうじゃないと像を結ばない。これは光の原理だから。」(p.131)
 闇の存在によって、光が原理的に持っている像を刻み付ける力が、初めて顕在化される。この認識に基づく思索は、ついに写真というものが本来的・原理的に有している受動性へと至る。「写真という形式は受け身である。受動。(中略)決定的なところでは、光景を受け入れる。光を受け止めるという、受け身の部分があるんです。(中略)写真の最終的な、像を感光材料に反応させるときは、受け身なんです。その受け身であるという状態のときに、ある時間 —−—− 動かしようのない時間といえばいいか —−—− が刻まれる。その操作できなさ、時間の動かしようのなさが写真にはありますね。」(p.130)
 ここで注意すべきは、ここで写真の受動性とは、単に「印画紙が感光する」という写真の原理の受動性にだけ基づいているのではなく、また、宮本がただ写真の原理へと遡り、それを鮮やかにプレゼンテーションするための装置としてピンホールカメラを用いているのではないことだ。むしろ探求は見ることの受動性へと向かい、ピンホールカメラやフォトグラムは、見ることにダイレクトに、レンズやミラー、フィルターを介さず出会い、触れるための機会(機械ではなく)となっている。それは耳をそばだて、澄まし、あるいは全身を耳にして、世界を受信し、聴診することに等しい。


7.いまだ見えざるところ
 今回の展示は『いまだ見えざるところ Invisible Land』と題されている。この表題を先に見た闇と光の関係と重ね合わせて、「見ること、見える部分は、見えない部分によって支えられている」ことを、宮本は写真の原初へと遡りながら見ることの探求を深める中で、ついに感得したのだ‥‥と読みとることも、あるいは可能かもしれない。そこに見えること、見えるものの彼方に広がる「見えざるもの」(宮本を語る際のキーワードのひとつとなっている「都市の無意識」になぞらえて、「視覚的無意識」(ロザリンド・E・クラウス!)とでも言うべきか)への志向を看て取る向きもあるだろう(それはあまりにも観念的な見方だと思うが)。しかし、ここでは邦語タイトルに付された「いまだ」の一語に注目して考察を続けたい。というのは、宮本の写真、あるいは見ることを巡る探求には、時間の経過というか、「待つこと」が深く関係しているように思われるからだ。

 彼が巨大なピンホールカメラの床部分に横たわって眺めた「天地さかさま、裏返し」の風景を私も見たことがある。anoxiaでの昼公演で閉められたシャッターの隙間から挿し込む光が、外界の様子をうっすらと幕に映し出していることに気づいた時のことだ。このことについては、坂本宰と津田貴司による公演『docozo』のレヴューとして、以前に本ブログに記したことがある(※)。ピンホール効果による反転像はシャッターを下ろした瞬間から映っていたはずなのだが、それと気づくまではずいぶんと時間がかかった。急に訪れた暗さに眼が慣れて、周囲の姿が浮かぶようになり、前方で何かが動いていることに気づき、それが外から入ってくる音と連動していることに気づくと、先ほどまでの光と闇の入り混じった歪みは、外の世界の姿以外には見えなくなった。
※http://miminowakuhazushi.blog.fc2.com/blog-entry-452.html

 眼が慣れてきて像が薄闇から浮かび上がるのを眺めること。その場で世界像が生成する様を凝視すること。何物かがかたちをとり、見えるようになるのを、じっと待つこと。宮本の写真の「均質な写しこみ」(林道郎)は、このじっと待つことの結果だと思わずにはいられない。外部からの濫入者によって巻き上げられた澱が沈み、眺めが澄み渡るのを、池の底で身じろぎもせず待ち続ける巨大なヌシ。この「待つこと」は、ピンホールカメラの露光時間の長さとは関係がない。本来、生成変容を続ける世界を一瞬のうちに切り取る写真において、その極端な時間の薄層の中に世界の存在と関係性を遍く封じ込めようとした時に、それは必要とされる時間なのだ。

 それはやはり聴くことに似ていると、改めて思わずにはいられない。たとえば散らかったモノたちのざわめき/おしゃべりに耳を傾けることに。語り終わるのを待って、おもむろにシャッターを切る。風景であれ、建築であれ、「廃墟」であれ、人物であれ、彼の写真が常に帯びている静けさは、語り尽くした後の(あるいはしゃべりが途切れた一瞬の)沈黙ゆえではないか。そこにはざわざわとしたざわめきや、ぎらぎらとしたまぶしさがない。部分がこれ見よがしに突出することもない。色彩が飛び散り乱舞することもない。穏やかに凪いだような視界の平坦さがある。そうであればこそ、すべての面や辺が空間の奥行きとともに浮かび上がり、その間を走る多様な関係の線もまた、余すところなく可視化されるのだ。

 対象に、あるいは世界に、カメラを向け、じっと応答を待ち、返答を確認してシャッターを切る。子どもの頃読んだ「孫悟空(西遊記)」に名前を呼んで、返事をしたものを何でもすべて吸い込んでしまう不思議なヒョウタンが出てきたが(たしか金角・銀角の出てくる話)、宮本にとってカメラとは、写真とは、見ることとは、きっと、この不思議なヒョウタンであるのだろう。

宮本隆司1縮小

宮本隆司 いまだ見えざるところ
東京都写真美術館
2019年5月14日(火)~7月15日(月・祝)
https://topmuseum.jp/contents/exhibition/index-3408.html
今回は写真展のレヴューのため、あえて展示写真の転載はしませんでした。
上記URLの東京都写真美術館ホームページでご覧ください。




ライヴ/イヴェント・レヴュー | 01:08:45 | トラックバック(0) | コメント(0)
「濃密さ」と「親密さ」- 星形の庭@下北沢leteライヴ・レヴュー  "Dense" and "Closeness" - Live Review for "The Pentagonal Garden" at lete SHIMOKITAZAWA
 5月14日(火)に下北沢leteで「星形の庭(津田貴司+林香織)」がライヴを行った。津田の言う通り場所との相性のよさゆえなのか(もちろんそれだけではあるまい)、特筆すべき格別の演奏となったので、はなはだ簡単ではあるが、ここにレポートしておきたい。

 白い塗りが剥げた木の床と壁。そこに掛かる空っぽの額縁。やや高めの天井。照明から垂れ下がる蔓枝。なぜかここでも空っぽの額縁が宙に浮いている。アンティークを後から取り付けたのだろう、サイズの合わない観音開き閂付きの手洗いの扉。窓にも同じくアンティークと思われる白塗りのアーリー・アメリカン風の扉がはまり、店の外、すぐ眼と鼻の先に広がる、下北沢は代沢三叉路付近の雑多な喧噪を遠ざけている。聴衆用に並べられた椅子の向かいに演奏者用の丸椅子が二つ置かれて段差のないステージとなり、その背後の壁には西脇一弘(sakana)の描いた絵が額装されずに画鋲でとめられている。彼は人物をよく描くが、これには珍しく風景が描かれており、その実在の風景というよりも、臨死体験で今際に垣間見るあの世の光景と思しき、静まり返った物音ひとつしない世界で、音を反射せずに奥へと吸い込むように、観る者の視線もまた、奥行きへと誘いつつ限りなく呑み込んで止むことがない。

 ずっと鳴っていた甘やかなロックンロールが止んで、「星形の庭」の演奏が始まる。耳がそばだてられ、幾分重心を下げつつ、手指を前へと伸ばす。鍵盤を押さえずに開閉されるアコーディオンの蛇腹が立てる、パチパチと薪が爆ぜるような音。初めて彼女の演奏を聴いた時の驚きがふっとフラッシュバックする。「星形の庭」の初ライヴで、その時はまだ、このパチパチ音は付随的なノイズかもしれないと疑いつつ、それでも耳は否応なく惹き付けられていた。それ以来、しばらくの間、彼女の演奏に耳を傾けるたびに、この音を待ち焦がれていたのだが、CDの録音〜リリースを経た後ぐらいからだろうか、この音が聴かれなくなり、どこか寂しく感じていたのだった。
 パチパチとした粒立ちに耳の視線が吸い寄せられ、そこに外からの子どもの声が淡く重なり、木の椅子の軋みが加わって、ギター弦を弾く弓のスースーと鳴る音を浮かび上がらせる。倍音のさざなみがたちのぼり、空間のあちこちに余白を際立たせるために置かれていた音と音の間の空っぽな広がりを、次第に眼には見えない何かが満たしていく。蛇腹の軋みが続いている。それでも中空にまたたきだけが浮かぶのではなく、床を踏みしめる脚が見えてきたような気がする。右手の指は相変わらず鍵盤を押さえていないが、左手指がボタンにかかっているのかもしれない。行き来する弓の下でギター弦が激しく震えている。弾き切って弓を弦から離し、響きをいったん解き放ってから、弦上で弓を弾ませる。

 この日、津田はVOXの小さなギター・アンプを用意し、フットペダルとディレイを加えて操作し、次々に切れ目なく「曲」を演奏していったが(この日はCDに収録していない曲ばかりだったという)、二人の演奏とサウンドのスケール感、温度感の設定/コントロールは絶妙極まりなかった。メロディアスなナンバーがそれゆえに浮くこともなく、深く安定した呼吸に支えられ、音の濃淡は緩やかに滑らかに推移し、ゆっくりと巡りながら音の深淵へと身を沈めていく。その感覚は、先に触れた西脇の「風景画」の表面を、眼差しが一点に留まることなく漂泊しつつ奥へと引き込まれていく感じに、あるいは似ているかもしれない。

 後半になっても、ゆっくりとたゆたうような緩やかさ、とろりと溶け合う何とも言えない柔らかな豊かさ、滑らかさは変わることがない。響きの密度が高いことは確かだが、それが息苦しい隙間のなさとか、自由度のない密集、不透明な厚ぼったさとは全く無縁に行われている。それゆえギターの弓奏のひと弓のうちに重なり合う多層を手触れるし、そこに的確に挿し込まれていくアコーディオンの刃の具合も看て取れる。冒頭に記した通り、蛇腹の立てる軋みの粒立ちもはっきりと聴き取ることができた。
 この「濃密さ」はなにによるものなのだろうか。結局、今に至るも私は答を出せないでいる。ただひとつ言えるのは、この「濃密さ」は「親密さ」と似ているように思われることだ。気の置けない、のびのびとした感覚。外殻や骨組みではなく、内側からの充実が屋根や壁を支え、空間を確保している。通常ステージから客席に向けて放たれる音の整えられ出来上がった感じ、放たれた音の扇状に拡散した感触とは異なり、演奏者同士が肌で感じながら取り交わしている、まだ生まれたての、可塑的な、出来上がっていないがゆえに豊かで瑞々しい音の中へと、こちらが首を伸ばし耳を突っ込んだ感じと言えば伝わるだろうか。
 津田が弓を置き、木串の先に刺したゴム球でギター弦を擦り始める。アンプが轟々と唸り、噴き上がる倍音がバリバリと音を立ててぶつかり合う。それでいて響きが見通しの効かない厚い音圧の壁となることはなく、むしろ音を消したスローモーションの映像のように、あるいはティーポットの湯の中でジャンピングする茶葉のように、音の細片が舞い上がり、交錯し、降り注ぐ様をはっきりと眼差すことができる。

 アンコールはCD収録曲から。ギターのアルペジオの上で、アコーディオンがフォーク調のメロディを奏でる。録音された版より、ずっとゆっくりした運びだったにもかかわらず、少しも弛緩することも不安定に揺らぐこともなく、荷物をたっぷりと積み込んだ喫水の深い船をゆるゆると押し進めるように、演奏は揺るぎなく進められた。このことはこの日のライヴの格別さは、決して選曲だけによるものではないことを示していよう。

190514星形の庭@lete縮小

2019年5月14日(火)
下北沢lete
星形の庭:津田貴司electric guitar + 林香織accordion



ライヴ/イヴェント・レヴュー | 00:33:03 | トラックバック(0) | コメント(0)
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