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福島恵一

Author:福島恵一
プログレを振り出しにフリー・ミュージック、現代音楽、トラッド、古楽、民族音楽など辺境を探求。「アヴァン・ミュージック・ガイド」、「プログレのパースペクティヴ」、「200CDプログレッシヴ・ロック」、「捧げる-灰野敬二の世界」等に執筆。2010年3~6月に音盤レクチャー「耳の枠はずし」(5回)を開催。2014年11月から津田貴司、歸山幸輔とリスニング・イヴェント『松籟夜話』を開催中。

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想定外の事態 ― 「タダマス30」レヴュー The Unexpected Situation ― Review for "TADA-MASU 30"
 散々書きあぐねての難産レヴューとなった。最初の「アタリ」をとらえ損なうと、その後、耳は空を切り、聴取は出会い損ないを繰り返すことになる。たとえ、ほんのわずかバットにかすっただけでも、「(タイミングが)合っている」と感じられれば、そのうち真芯でとらえることができるのに。それは「読み」や「見立て」が当たっているということではない。何かの到来を想定し、緊張に身を強張らせて待っていては、十中八九「アタリ」を取り逃がしてしまう。一点、一方向に注意を集中せず、身構えることなく、不意に訪れる衝撃に素早く、かつしなやかに、竿の穂先を撓ませ、走らせること。そうした出会いが聴き手の身体を軽く柔らかくし、次の出会いを準備する。

  「前半が女性ヴォーカル特集、後半が鍵盤奏者複数参加盤特集」とFacebookで益子博之が「タダマス30」の内容の告知をすると、多田雅範がブログでツッコミを入れる。
「特集になるのってどうなのよ、タダマス30、と思ったんだが、2018年の第二四半期に入手した新譜音源からこれはとセレクトしたトラックを並べてみたら、結果、”女性ヴォーカル”と”鍵盤奏者複数参加盤”と括れることに気付いたと言うべきだったのだ、むしろ様相が異なるトラックを括りの振幅幅にあって発見が促されるというような、予習打ち合わせ試聴をしてみて、これは面白い現象だと思った、現代ジャズのリアルを伝えているトラックたちだ、」

 「タダマス」での曲の配列には注意を払っている‥‥と、益子は以前語っていた。それは決してテーマ別ではないし、ジャンルの細目別でもなく、まして人脈やスクールの別でもない。ありふれた編成別ではないし、もちろんベストテンを10位から順番に紹介しているのでもない。DJのようにBPMや曲のムード、あるいは起承転結の物語り的な構成によるのでもない、強いて言えば、料理のコースを組むのに似ているかもしれない。基本は口当たりの良い軽めのものから、噛み応えのある重厚なものへ。調理の仕方の違いが類似の素材から異なる持ち味や食感を引き出し、隠し味のハーブやスパイスが、異なる皿の間に橋を架け、連続した推移を浮かび上がらせる。
 だから「前半が女性ヴォーカル特集、後半が鍵盤奏者複数参加盤特集」が言わば「プレテクスト」であり、聴くべきはそこではないことはわかっていた。にもかかわらず、「鍵盤奏者複数」と言われて、近くは前々回の「タダマス28」で紹介された2台のピアノの共演にして2人の女性ピアニストの「対決」でもあるEve Risser, Kaja Draksler『To Pianos』(Clean Feed Records)の、遠くはFred Hersch & Benoit Delbecq Double Trio『Fun House』(Songlines Recordings)の記憶が思わず呼び覚まされた。
 「e-bowによるのだろうか空間に滲みを拡げる強靭な持続音と、ワニ口クリップ等の素材によるプリペアドを想像させる足元が傾くような低音の揺らぎに、各種内部奏法や筐体各部を鳴らす音響が細かな傷を付けていく。共演/対決が前提としている2台のピアノ、2人のピアニストという輪郭を脱ぎ捨てた、自他未分の曖昧で薄暗い混合領域に向けて、全身の皮膚感覚がそばだてられているのがひしひしと感じられる。カヴァーの絵柄に描かれている2台のピアノから流出するエクトプラズム(?)が混じり合う位相に。グランドピアノの降霊術。」Eve Risser, Kaja Draksler『To Pianos』
 「ピアノとプリペアド・ピアノによる足のもつれたリズムの交錯。トリオの交感がつくりあげる本来は閉じた三角形を外へと開き、溢れ出す音の流れ。手前と背後で、右手前と左手奥で緊密に呼応しながら、異なる平面を推移する響き。ものの動きとかげの移ろい。光線の翳りと輪郭のちらつき。ピクニックのバスケットを囲む家族の団欒の後ろで、ふと風にそよぐ樹々の揺らめき。時折ピアノからドビュッシー的なきらめきが香るのは、そうした光に鋭敏だからかもしれない。決して場所を占めすぎることのない、各楽器の冷ややかに抑制された端正なタッチは、空間を埋め尽くすことなく、確かな余白の広がりを指し示す。小鳥の羽ばたきにも似た、粘度の低いさらりとした素早い動きが、磨かれた表面を滑走していく。そぼ降る雨の中、音もなく行き交う人の群れを、四角く切り取る窓のガラスに、弾ける水滴の予測し難い振る舞い(ズームの寄りと引きを繰り返すキャメラの視線による)。」Fred Hersch & Benoit Delbecq Double Trio『Fun House』
 

 素晴らしい達成の甘美な思い出だからだろうか、耳が思わず幸運の再臨/反復を望んで身構える‥‥。しかし、それが落とし穴だった。
 この日のハイライトと期待したHenry Threadgill『Doble Up, Plays Double Up Plus』(Pi Recordings)とは、見事に出会い損ねてしまった。
 投げ上げたドーナツに、四方八方から螺旋状に巻き付いて、ゆっくりと回転しながら浮遊し続ける息の調べ。巡り続けるゾエトロープの幾つもの輪の重なりが生み出す、伸び縮みする影の息づき。息の震えや巡る呼吸なしにはあり得ないと思われた、彼のアンサンブル生成の魔法が、端からポキポキと折れ砕けてしまうピアノの音色により、いかなる転生を遂げるのだろうか‥‥というこちらの勝手な問題設定が、David Virellesが弾き続けたハーモニウムによって、てきめんにはぐらかされてしまったためかもしれない。
 Matt Mitchel, Craig Taborn, Ben Monder, Trevor Dunnと、これでもかとばかりに豪華メンバーをそろえたDan Weiss『Starebaby』でも、「メタル」との評判に高まる重金属質の密度/強度への期待が、はでに空振りすることとなった。これじゃTaborn単独による構築の堅固さにも、Mitchelのソロによる急峻な疾走感にも及ばないのではないか。ヘヴィさも、次にかけられたRafiq Bhatia『Breaking English』により、たちまちのうちに色あせてしまう。それともツェッペリンの稠密さやメタリカの錯綜を求める、私の「メタル」観が古すぎるのか。
  

 会場では肯定的に受け入れられていたRafiq Bhatia『Breaking English』だが、私にはかなりの問題作と感じられた。先に触れたように、その重厚な構築ぶりは見事と言うほかはない。重層的に重なり合う音塊が上空を制圧するように旋回し、音圧の波状攻撃を仕掛けてくる。ゴリッとした硬い角のあるベースをはじめ、たとえサウンドが飽和/充満に至る時であっても、個々の音は積み重なる音響の地層のうちに埋もれてしまうことなく、尖ったエッジを失わない。むしろ、ざらっとした粒子の荒れや粗さを活かした感触と言えるだろうか。ここで私は初期の中平卓馬の「アレ・ブレ・ボケ」写真やスピルバーグ「プライヴェート・ライアン」の脱色されたコマ落とし映像の緊迫した不安を思い浮かべている。
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 サウンドの造り込みの完成度と壮大なスケールの広がり、ドラマティックな展開力は、ハンス・ジマー、ジェームズ・ホーナーといった映画音楽作曲の手練れにも決して引けを取るまい。‥‥と、これだけベタ誉めしておいて、何を問題視しているのかと言えば、まさにその映画のサウンドトラック的な「完成度」にほかならない。ポスト・クラシカル人脈からの参加を仰ぎ、ポスト・プロダクションを尽して仕上げられたであろう作品は、「これしかない」という揺るぎない決定稿に至っている。詰め込まれた圧倒的な情報量に比して、極端に圧縮され切り詰められた短さもまた、そのことを証し立てている。当初の演奏段階ではふんだんに盛り込まれていたであろう即興的な展開、ああも行ける、こうも行けるという無限のヴァリエーション感覚は、あくまでも素材の1ピースへと貶められている。たとえ綿密なフライト・プランを描いたとしても、飛び立ってしまえば、後は常に眼に見えぬ気流や気団と繊細に対話し続けなければならない「飛行」の感覚が、持続の震えを、この演奏から感じ取ることはできない。と同時に、偶然や失敗を受け入れて、それをその瞬間以前には思いつきもしなかった新たな局面へのジャンピング・ボードとするしなやかな冒険心もまた。かつてそうした気概に溢れていたプログレッシヴ・ロックの残党が、CMやヴィデオのための音楽を作り始めた際と同じく、どこか饐えたような頽廃の匂いがしないだろうか。Rafiq Bhatia『Breakig English』は、いわばエッジを研ぎ澄まし、角を尖らせたアディエマスではないのか。
ジャズが果敢に自らを更新することにより生き延び、「ジャズとは似ても似つかない新たな『ジャズ』」へと変貌を遂げていくとしたら、そこで途切れなく持続している「ジャズなるもの」、あるいは「ジャズの創造性」とは、ジャズ固有のフレージングやスタイルでも、サクソフォンのヴォイスでも、ブラックネスでもなく、こうしたリアルタイムの飛行感覚ではないか‥‥、私はそう考えている(だから「ジャズの新たな章」とは、いつまでたっても自己を更新できない旧来のジャズの、延命のためにだらだらと書き継がれ続ける「続編」でしかないとも)。とすれば、本作品はジャズの「未来」にとって危険な「寄り道」となるように思う。
 本作品が当日の会場で極めて好意的に受け止められた背景には、いささか不完全燃焼気味だった後半の停滞を一掃するカタルシスを与えてくれたことがあるかもしれない。だが、このところの「タダマス」では最後の10枚目は後半の総決算ではなくBon Iverやthe Hiatusが紹介されるなど、番外編的な役回りをあてがわれていたことを思い出そう。本作品は、むしろそれまでに披露された9枚を相対化するために、ここに置かれたのではないか。

 そう考えると、さらりと聴き流せるほどに軽みを帯びた前半「女性ヴォーカル特集」の充実度が、まざまざと甦ってくる。Sun Speak with Sara Serpa『Sun Speak with Sara Serpa』で、ドラムの変拍子パターンの上で早く遅く巡りながらほどけていくスキャット・リフの足元が心もとない浮遊感。Diaspora『Diaspora』における声の肌と肌の、産毛が触れるか触れないかの繊細極まりない(かつエロティックな)すりあわせ感覚(Maggie Nicolsによる女性ばかりのヴォイス・ワークショップ的取り組みMechantes!を思わせる)。
  

 Jozef DumoulinとのデュオLily Joelで夢幻的なヴォイスを聴かせたLynn Cassiersは『Imaginary Band』で、はらはらと薄く剥がれ落ちてしまう雲母で、壊れやすいモザイク空間をつくりあげた。ばらばらに切り離されたコンパートメントの中で、ピアノも、ドラムも、ユーフォニウムも、不意に浮かび上がっては沈み込み、駆動電圧を不安定化したように瞬間瞬間に速度を変化させる。ヴォイスもまた、1曲の中で多重人格的に録り方を変えている。こうしたモザイク構造や微細な速度変化にまるで気づくことなく、のっぺりと平面上を這い続けるテナー・サックス。「ここでは滞留と解放というか、速度が溜まっているんだけれども、サックスはそれを意識せず外部に立っている」とは当日の多田の発言。前半の最後に、その前のMaria Grand『Magdalena』からのMary Halvorsonつながりで置かれたTumbscrewによるカヴァー曲集『Theirs』は、やはりどこが宙に浮いている。リズムを速度を不均衡に揺らすベース&ドラムと、テープ・ゴーストを思わせる雲をつかむようなエフェクトを駆使しながら、リズムの刻み目からスリップし続けるギターが相俟って、着いた指先が果てしなくツルツルと滑り続ける「Stablemates」。一方、ドリス・デイも唄った「Scarlet Ribbons」では、廃屋に置き去られたベビーベッドの上の壊れたメリーが突然に回り始める。水中でふやけたセロファンの揺らめきを思わせるセルロイド的なビニョビニョ感を伴いながら(下敷きを撓ませた時の影が歪むあの感じ)。チープでノスタルジック。イノセントにしてホラー。
  





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ライヴ/イヴェント・レヴュー | 14:29:22 | トラックバック(0) | コメント(0)
影を聴く、音を視る ― 坂本宰・津田貴司『docozo』ライヴ・レヴュー  Listening to Shadows, Looking at Sounds ― Live Review for "docozo" Performed by Osamu Sakamoto & Takashi Tsuda
1.昼公演1
 開始の時刻になって、背後でガラガラとシャッターが下ろされる。天井の照明は点けられていないが、漏れ入る外光のために真っ暗とはならず、右前の壁際に座った観客の横顔が見える明るさ。暗くなった室内に慣らし、前方の白幕にこれから映し出されるであろう影に備えて、しばし眼を細めていると、外の子どもの声が、先ほどまで以上にはっきりと聞こえてくる。暗くなった分、聴覚が研ぎ澄まされたのかもしれず、あるいはあらかじめ半ば閉ざされていたシャッターが完全に下ろされることによって、かえって音が伝わりやすくなったのかもしれない。隣りの公園の入口部分で交わされる子ども同士のやりとり、すーっと駅方向へ通り過ぎる車、子どもに呼びかける母親の声がそれとは逆向きにゆっくりと動き、おそらくは道の向こう側からこちらに向かって投げかけられた女子中学生の問いに、教師らしい若い男性が答え、向こう側でひとしきり笑い声が立って、自転車がカタカタと通り抜ける。

 と、眼の前の白幕上の模様が音と合わせて横に滑っていったのに気づく。白幕の明度分布が決して一様ではないことは、暗くなってすぐに気づいていたのだが、郵便受けか、あるいは引き上げ時のグリップか、シャッターに二つ並んだ細長い開口部の像以外は、光線の干渉がつくりだしたおぼろな抽象模様とばかり思っていて、いささかも注意を払ってはいなかった。だが、いったん気づいてしまうと、眼の前の「上映」からもはや眼が離せなくなる。シャッターの下端、接地部分の隙間のスリット効果なのだろうが、他にも光の漏れ入る隙間はあるから、ピンホールカメラのように鮮明な像を結ぶことはない。だから風景を写した「静止画」としては最初感知できなかったのだが、動く像はそれとすぐわかる。ある「まとまり」が右から左へ、あるいはその逆方向に、速く遅く画面を横切っていく。歩行者の脚の動きらしきものが上に見えるから倒立像なのだろう。それすらも自動車や自転車の像からはわからない。解像度の低いおぼろな映像で、大きさすら確かではないが、それでも運動速度と音との連動で、それが何であるかはすぐにわかる。白幕に投影された薄く青みがかった「かげ」の明滅がつくりだす、ゆるやかな推移と運動に魅せられ酔いしれる。微かな鈴の音が奥から聞こえた気がしたが、定かではなかった。風や車の振動でシャッター自体が揺すられるからだろう、像は揺れ、ピントや濃度が揺らぎ、あたかも幕自体が震えているかのように、像が波打ち、一瞬、平面から浮き上がる。だが、そこに陽炎のめらめらとした熱気はなく、もっと涼しげな静けさに満ちていた。ただこれだけが昼公演の演目なのではないか……との想いが頭を過り、それでも全然構わないとさえ感じていた。

 暗がりを見詰めていると気づかぬうちに目蓋が落ちてきて、闇が次第に濃くなっていくことがある。だから、白幕に投影された「かげ」のほぼ中央に、縦にうっすらと液晶画面の不調にも似た染みが生じた時にも気にはならなかった。幕のたるみにより生じた窪みか、あるいは誰かが表のシャッターの前で立ち止まり、内部に射し込む光を遮っているのだろうと。たとえ染みが次第に濃さを深め、輪郭を明らかにし始めても、それは依然として髪の毛の束や鉛筆の殴り描きの集積を思わせる不定形でしかなかった。風の吹き過ぎる音が聞こえた気がした。エレクトリック・ギターの弦の弓弾きによる持続音かとも思ったが、確かめようがなかった。

 眼の端に何かを感じた方が先だった。気づくとぼうっと立ち尽くす人影らしきものが傍らにあった。坂本はすでに私のほぼ真横にいて、前方に向かい音もなく微速度で歩みを進めていた。先の染みはまさに彼の身体の影にほかならなかった。彼が白幕に近づくにつれ、染みの丈は短くなり、不定形の滲みが次第に人型を浮かび上がらせ始める。音はもう疑いの余地なく、はっきりと聞こえている。やがて坂本の後ろ姿は白幕の向こうへと消え、響きがややくぐもる。

 幕の向こうに淡い暖色系の明かりが灯り、「坂本宰の影」がうっすらと浮かび上がって、外の光がもたらす「かげ」と重なり、相互に体液を交換し合う。時折、白幕の右端や続く壁面に光輪が映るから、光源を直接に幕へと向けず、平行に配したり、あるいは奥の壁面に反射させるなどして、分散による柔らかな広がりを得ているのだろう。光が移ろい、身体が動き、影が揺らぎさまよう。固定されていない光源は、身体の運動をそのまま幕へと写像せず、そこに幾らかなりともズレを付け加える。それゆえ影の動きは日常の身体所作にも、ひたむきな集中による舞踏にも、静止像としてのポーズにも収まらない、形の定まらぬ過剰さをはらむことになる。音はその過剰さを調停することなく、透明な倍音をさらに際立たせながら、しばしその傍らに佇み、やがて折り重なってきらびやかに呼吸するドローンと化して、途切れることのない子どもの声と重なり合うに至る。いつの間にか横を向いたシルエットを外の「かげ」が横切っていく。次第に高まる倍音が胸騒ぎを呼び起こすのは、サスペンス/ホラー映画のサウンドトラック的な音響効果、すなわち心理学的なエフェクトのゆえではなく、外の「かげ」と幕の向こうから映し出される影、外から入り込む環境音と演奏の音が、そうした安定した区分を欠いて混淆し、相互に浸透し合いながら、しかし決して三次元的なパースペクティヴをつくりだすことなく、薄い白幕の上で「奥行き」を欠いたまま戯れていることの結果ではないだろうか。幾重にも入り組んだ空間が平面へと圧縮されながら、どこまでも希薄であえかな移ろいでしかないことが、アブストラクトな不安を連れてくる。

 ふっとカンテラの影が浮かび上がり、点灯されたのか、幕が少し明るさを増し、これまでの「かげ」と影が薄くおぼろになって、天井まで届く大きな歪んだ人影が加わる。高まったドローンが小さくなり、弦をはじき、あるいは引っ掻く音が増幅によりつくりだす点描と揺らぎへと移り変わり、それが次第にパターンを浮かび上がらせる。潮騒に似た響きが聞こえる。ラジオの局間ノイズだろうか。突然カンテラの影が大きく揺れ、これに合わせて身体の影も揺れ動く。天井から吊るされブランコのように振り子運動するカンテラとぐるぐると巡る影。二重化された影の交錯による、子どもの頃に遊園地で味わった「回転とめまい」の体験。坂本が操るカンテラの揺れが前後へと変わり、また左右に戻り、円錐を描きながら回転し……頭の片隅では事態をそのように俯瞰的にとらえながら、視覚とこれに連動する身体運動感覚は四方八方に遷移する影の動きにすっかり眩惑され、いっしょに揺れ乱れている。ギターの寸断されたノイズにとらわれた聴覚も、また幻惑のうちにある。細かな弓弾きが加わり、積み重なって深々としたドローンを形成し、ごうごうと鳴り響く。ここでも三次元の回転運動は平面へと縮減され、その結果、外惑星の逆行にも似た乱流や渦に満ちた複雑怪奇な推移を示す。

 カンテラの明かりが消され、二つの影の交差/交錯によるハレーションが掻き消えて、画面のざわめきがすっと静まる。ひとつ残された影の動きが次第にゆるやかになり、音が弱まって、やがて共に止まる。幕の向こうの明かりが消えて、外の「かげ」がすっと戻ってくる。ついさっきまで、一体どこへ連れて行かれていたのだろうか。興奮による身体のほてりを感じながら少し青みがかった「かげ」を見詰めていると、外の音がだんだん大きくなってくる。耳は少し遅れて帰ってきたようだ。かすかに浮かぶ人影が外の「かげ」と重なり合う。演奏の音はもうとうに止んでいる。光と影が消え失せた後に帰り着く先は、決して闇ではない。この薄明なのだ。音が消えた先に現れるのが、無音の沈黙ではないように。
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写真は福家由美子様のTwitterから転載しました。


2.上池袋anoxia
 初めて訪れる上池袋anoxiaは何とも不可思議な場だった。閉まりかけたシャッターの脇に上階へと直接昇る、梯子のように細く急な階段。コンクリートの床と木組みが剥き出しで窓のない壁面。天井が比較的高いので圧迫感はないが、およそ営業しているスペースには見えない。古民家を改装したカフェや取り壊し前のビルを占拠したギャラリー・スペースのような「転生」感がまるでなく、私の子どもの頃(昭和30〜40年代)に近所にあった、急ごしらえでつくられ、そのまま使い続けられている、物置をそのまま大きくしたような簡便な倉庫が、老いさらばえ、がさがさに乾き切った素肌をそのままにさらしている。表の看板に「○○紙器」とあるから、紙箱が積まれていたのだろうか、木製の棚がベニヤの壁材に取り付けられ、その向こうにブロックを積んだ外壁が覗く。奥に続く空間を遮断するように、ビニールの白幕が天井から張られていて、その向こうは取り壊し作業中であっても全然おかしくないくらいなのに、なぜか不思議と埃っぽさや黴の匂いはしない。それゆえ中に足を踏み入れると、軽いタイムスリップ感に襲われる。振り返るとさして道幅はないがそれでも歩道の整備された道路が広がり、先ほどまで自分がいた「いま・ここ」から切り離され隔てられた非現実感が強まる。
 おそらく初めて訪れた上池袋は、東武東上線とJR埼京線の線路が隣接・平行して走っているにもかかわらず、前者の駅(北池袋)だけがあるエアポケットのようなところで、新しいビルが建ち、死角が生じないよう背の低い植栽が周囲に追いやられた、遊具のひとつもない、いかにも今風の児童公園がある一方で、ブリキ張りの雨戸を閉めたモルタル造りの家、狭い路地にひしめく植木鉢、トタン波板で囲われた材木置き場など、anoxiaと同じく50年前の風景がそこかしこに残る、都市再整備の汀と言うべき場所だった。
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写真は加藤裕士様のTwitterから転載しました。


3.夜公演
 さすがにもう陽は落ちて暗くなっており、昼公演の再現は到底望めない。anoxiaに着くと、坂本と津田がまだ準備中で、白幕の位置は同じながら、昼の部で置かれていた椅子が総て取り払われている。しばらくして開場となり、すでにシャッターは閉められているので、階段から通じる横のドアより入場し、白幕の向こう側にセッティングされた席へと案内される。昼の部と夜の部では同じ投影幕を挟んで、客席が反対側に移動したことになる。

 客席の照明が次第に暗くなり、闇が満ちてくる。シャッターの下端の隙間や郵便受けからの光が微かに浮かぶが、もう景色を映し出すことはない。外の音は昼間のようににぎやかではないが、耳の向きゆえか、あるいは環境音のレヴェルが下がっているからか、バイクの音はむしろより大きく鋭く、切っ先を突きつけるように迫ってくる。いつの間にかラジオの局間ノイズらしき音が鳴っており、次第に高まり、少し静かになり……を繰り返し、やがて消える。通行人の声が通り過ぎていく。幕に古壁の染みがうっすらと浮かび上がる。上空を通過する飛行機の音だろうか。何かぶわーんと鳴り響いている。そこから微かな弓弾きの響きが浮かび、染みはだんだんはっきりと濃くなり、人影が横を向いて、弓弾きの断片が上下左右に散らばり、黒々とした影がまたおぼろにぼけていく。低音が重ねられるなか、大きくはっきりとした影が二重に浮かび、光源の移動や切り替えにより不安定に移ろう影に何かを打つ音が伴う。もはや光は幕のほぼ全面に当たっており、客席の私たちを照らし出しながら、エスニックなリズムに乗せて影が人形のように揺れ動く。ギターが弦の弓弾きに移行すると、幕への光をそのままにイーゼルらしき影が現れる。幾何学的な組立が、光源とイーゼルの距離や向きを変化させることによって、部分的に拡大されて歪み、さらに光の不規則な明滅による変奏が加わる。弓を弦に強く押し付けて発せられる圧縮された響きがビシビシと爆ぜ、ねじ切れた不定形の断片が飛び散る。影が激しく流動し、明滅が移ろって、何台も続けて通過するトラックやバイクに遮られながら、弓が荒々しく動いて小爆発を繰り返す。

 シャッターが上げられ、揺れる水の「かげ」の投影が始まる。さっき準備していたのはプロジェクターだったのだろうか。波の交錯、波紋の広がり、浅く満たされた水の揺れ動きが水面につくりだすわずかな凹凸が、幕に映し出された幾何学的文様の推移・変容として現れる。ギターはペダルを用いてふうわりと中空に浮遊し続ける。拡大された指先の影が水面に微かに触れ、震えが波紋となって広がる。指先は水を激しくかき混ぜ、影の運動と「かげ」の流動が衝突し、お互いを切断しあう。巻貝に入れられた水がぽこぽこと鳴り響き、ラジオ・ノイズの水面を見下ろすようにラファエル・トラルを思わせる電子音響が離陸する。水の運動の諸相が高速モンタージュにより消尽されるなか、突然、横顔のシルエットが大きく浮かんだかと思うと、明かりが消える。闇の中で再びシャッターが下ろされる。

 光の点滅。身体の速い動き。痙攣的なアクションとポーズが、光の明滅と運動によりさらにズタズタに細断される。弓弾きの断片がランダムに放射され、やがて繰り返しに収斂する。大きな物音がして脚立が引き出され、イーゼルに似た幾何学的組立をしばしさらした後、ランタンを手に持った人影がぐるぐると回転し始める。回転はいよいよ加速し、影は極端に歪んで、ゾートロープみたいに伸び縮みし始める。夜公演の終了。
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写真は福家由美子様のTwitterから転載しました。


4.昼公演2
 いったん終了したかに思えた休止の後、籠なのか網なのか、網目の影が浮かび上がる。抽象文様の推移にギターの微細なトレモロ(ゴム球で弦を擦っていると思われる)が寄り添い、明かりが明滅し、やがて消える。外の「かげ」が再び浮かび上がり、そこに光の輪が投げかけられ、ぐるぐると回転する。ギター弦のさわりがふと頭をもたげ、コンビニ袋を丸めるようなざわつきに引き継がれる。光の回転が止まり、うっすら/くっきりと二重化した人影が映し出される。人影は幕に近づき、端をめくって坂本が姿を現す。手にはパチパチと火花を散らす電気花火。火薬の匂いが遅れて立ち込める。彼はそのまま歩み、シャッターを開けて、外の光を注ぎ込む。昼公演の終了。
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写真は福家由美子様のTwitterから転載しました。


5.『docozo』の向かう先
 この日の昼公演(特に1として描写した部分)が、この場所と時間帯の特性を活かしたスペシフィックな上演であるだけでなく、伝説化してしまいそうなほど高度な達成であったことは疑う余地がない。前日に行われたリハーサルでは場所の下見時に見込んでいた影がまったく得られず、二人とも途方に暮れていたというし、あるアイデアを得て上演に至るも、シャッターの隙間から漏れ入る光が解析効果により映し出す景色については、上演が始まってから気づいたというから、本当にその場でブリコラージュされたものなのだろう。だが、映し出される外の景色や聴こえてくる声の「豊かさ」が、二人の上演/演奏をしっかりと支えていたことも事実である。

 以前に津田と笹島裕樹によるスティルライフのライヴ・レヴューで、音の響きが翼を広げる空間のヴォリュームを擁し、虫の声が聞こえ、床が軋み、窓枠が鳴る立川セプティマに対し、音がさして響かずそのまま手元にとどまり、都会の密室で隣室のくぐもった話し声しか聞こえてこない四谷三丁目喫茶茶会記での彼らの演奏の苦闘ぶりについて語り、これらのさらに先に石神井公園に隣接したスペースでの黄昏時の野外ライヴをとらえた。
 演奏により音を配置/配列するのではなく、音や響きを息づかせようとする彼らにとって、すでにそこに風が通い、ざわめきが満ちているかどうかは大きな問題である。もしそこが外へと開かれて、豊かなざわめきに満ちているのなら、まずはそれに聴き入り、身を沈めて、草むらに寝転ぶような低い目線から、その場に沸き立つ生成に自ら入り込んで、音を放てばよい。もしそうでないとしたら、まずはそうした環境自体を、貧しいながらも自らの手でつくりださねばならない。そこでは、その分だけ「聴く」ゆとりと楽しみが減ぜられてしまうことになる。

 このことを別の角度から眺めてみよう。高橋悠治は『ことばをもって音をたちきれ』でタージ・マハル旅行団の演奏について、次のように述べている。
 「たとえばだれかが電気ヴァイオリンの弦をこする。振動はコンタクト・マイクをとおして電気的エネルギーとして増幅され、はるか向こうにおいてあるスピーカーから聞こえてくる。また音の一部はエコー・マシンの中に記憶され、さまざまな時間的ずれをもって再生される。こうして空間的・時間的距離をへだてて自分の作った音にききいる時、それはすでに自分から離れて世界の一部になっている。この演奏音との間で起こるフィード・バックが、人間と機械の相互作用あるいは対話のシステムの基本である。電子装置によって、どこかを指でかるく触れるとはるか向こうで大音響がバクハツするということは、重大な思想的変換なのだ。ここにあるゆとりが、音楽を盲目の手の運動から解放して、耳を未知の世界に開くのである。」
 ここで高橋はやはり演奏中の「聴くこと」のゆとりと喜びについて書いている。ただ、自ら放つ音を電気増幅やエコー・マシンにより異化するだけでは、依然として自閉による自家中毒を起こしやすい。この後、タージ・マハル旅行団の中心人物であった小杉武久が『キャッチ・ウェイヴ』で、電気増幅やエコー・マシンに加え、さらに扇風機の風とヘテロダイン現象により「音の釣り」と言うべき不確定な揺らぎを導入していることに注目しよう。

 白幕に映る外の景色と自在に通う外のざわめきに身をさらし、見詰め聴き入ることで、彼らは上演/演奏を「盲目の手の運動」から開放し、もっとゆったりと息づかせることができるようになる。外/他なるものと間合いを計りながら、それらと自らの影/音を敷き重ね、あるいはせめぎあわせることができる。その結果として、上演と演奏、影と音の関係もよりフレキシブルなものとなり得る。
波が寄せては返す様を見ていると、そのリズムは決して一様ではなく、水の推移もまた行きと帰りのそれぞれ一方通行ではない。先を争うように複数の方向から水が押し寄せることもあれば、引く流れと満ちる動きが衝突することもある。水が引き切って砂地が露出する瞬間ですら、波に引きずられて転がる砂粒と浸透する水分に引き込まれて吸着される砂粒と、それによる光の反射の差異が複雑な文様を描き出す。汀のごく薄い表層で繰り広げられるミクロな変転。ここで上演は劇やドラマのふりをする必要はないし、演奏もまた曲やあからさまな「即興」を模することはない。上演が音を絵解きし、演奏が影を伴奏することもまた。

 これに対し、夜公演において彼らは、まさに場を仕立てることから始めなければならなかった。空っぽの空間/時間を充填しなければ。上演がフリー・インプロヴィゼーションにありがちな強迫的なせわしなさを分泌し、演奏が影にぴったりと寄り添ってしかるべき距離を取れなかったのは、決して理由の無いことではない。だが、このことだけをもって昼公演は「成功」で、夜公演は「失敗」だなどと決めつけることはできない。昼公演の「成功」を再現しようとすれば必ずや罠にはまるだろう。他方、夜公演の苦闘は必ずや彼らの、そして観客/聴衆の瞳と耳を高め研ぎ澄ます得難い体験/財産となるだろう。
 昼公演の最後に「余分に」付け加えられた部分(「昼公演2」として記述した部分)が、そこまでの昼公演が前提条件としていた場の「豊かさ」を捨て去って、独力での構築を目指したものであり、それゆえ夜公演に向けた試行/挑戦となっていることに、彼らの誇り高い貪欲さ、決して「高度の達成」に満足せず、そこに安住しない志の高さを、私は看て取りたいと思う。

 ここしばらく、Les Trois Poires(津田貴司、tamaru、松本一哉)や大上流一、高岡大祐らがつくりだす〈環境・音響・即興〉の交差する空間/時間を、「パラタクシス」を鍵概念に奥行き/厚みにおいてとらえようとしていたのだが、今回の坂本と津田による『docozo』では、サウンドの次元にとどまらぬ「影」と「音」の交差(そこで〈環境・音響・即興〉に相当するものが十全に作動しているのは明らかだ)が、奥行きや厚みを全く欠いた幕上に縮減され実現していたことは、私にとって大きな驚きだった。新たな視点を切り開いてくれた二人に厚く感謝したい。
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2018年5月26日(土) 15時:昼公演 20時:夜公演
上池袋anoxia
坂本宰(影)、津田貴司(音)




ライヴ/イヴェント・レヴュー | 00:04:11 | トラックバック(0) | コメント(0)
音は自らの響くべき空間を必要とする  Sounds Need Spaces Where They Ought to Actualize Themselves
 「7年」という1つの周期を終えて(前回タイトルの「周期律表」とは、そのことへのオマージュにほかならない)、新たなステージへと踏み出した「タダマス29」は、音源の選定・構成・配列において洗練の度合いを増しながら、同時に、これまで築き上げてきた視点に安住することなく、果敢にも多くの問題を提起する回となった。この充実した一夜をこれから振り返るにあたり、その全体像をバランスよく再現することを目指すものではないことを、あらかじめお断りしておかねばならない。総ての論点を採りあげるわけではなく、また、言及したテーマについても、主催者のねらいを読みとるというよりは、その場に放たれた音響や言葉、ホストの二人やゲストのやりとりや反応に触発された思考やそのいささか恣意的な展開であることを。
 なお、当日のプレイリストについては、次を参照していただきたい。
http://gekkasha.jugem.jp/?cid=43767

 冒頭のEmma Frank『Ocean Av』の生ギターの響きが、スピーカーの重力圏をするりと脱し、ぽっと中空に浮かび上がり、香りを広げる。録音のせいだろうか、以前とだいぶ鳴り方が違うと感じられた。響きが漂う自由度が高い。まるで大型スピーカーではないような軽やかさと点音源的な音場表現。「前半は女性ヴォーカル特集」との益子の事前予告通りに幕が開く。タダマス的にはAaron ParksとJim Blackの参加がキモとなろうが、ヴァイブのきらめきで空間を横切り、駆け抜ける前者のエレピは確かに効果的。優美なメロディをたたえた70年代フォーキーあるいはアコースティックへの回帰と、さらりと流されてしまいそうなところを、多田が「『アコースティック』の一語ではくくれない。どのような空間に響いているのか、響き方の志向/思考を見なければならない」と食い下がっていたのが印象に残っている。

 続いては、タダマスで言及されることの多い女性歌手Sara Serpa『Close Up』。益子が決して「歌もの」ではなく、むしろ器楽的というか、声を楽器のひとつとして取り扱っており、なおかつ超絶技巧スキャットとかヴォイス・インプロヴィゼーションの方へと向かおうとしていないと紹介する。声、サクソフォン(Ingrid Laubrock)、チェロ(Erik Friedlander)という腕達者を集めた特異な編成。ワードレス・ヴォーカルが提示したリフレインにチェロの刻みがアクセントを付け、その上にソプラノがさらさらとドローイングの線を走らせ、次いで上下をリフレインに挟まれた声が、声だからといってトップを取らず前面へと進み出ないで、まるでヴィオラのように味わい深い展開を見せる。続く曲では、ハミングや鼻歌にも似た、倍音を多く含み輪郭を溶かした音色で、声がゆったりと歩みだし、北欧サーミ族の民族歌唱ヨイクを思わせる仕方で空間を渡っていく。やがてチェロがピチカートで、テナーがやはりアクセントで加わり、一瞬、声が上層に浮かびかけるが、すぐまた室内三重奏の一部に収まる。ここで紹介した二曲ではワードレスだが、作品には歌詞の付いた曲も収められているとの益子の弁。(特に声の)役割が変わっているとゲストが指摘する一方で、共に声がスキャット風にならず、まるでハナモゲラ語みたいに半分言語っぽいことに益子が言及する。私には、言葉の発声にどこまでも寄り添うことで、音高の動きやリズムとしては器楽へと向かいながら、音色の変化や立ち上がりという点では声の独自性を活かすことを目指しており、それが成功しているように感じられた。

 続いては「懐かしい名前」と紹介されたSusie Ibarraだが、冒頭、大太鼓の皮のどこかざらりと乾いた鳴り響きがぽっと浮かんだ瞬間、耳がピンと立つ。全体としては、先の太鼓のリズムにたおやかな南国楽園風の弦と女声が木陰をつくり、時に枝葉をしなだれかからせて、一見、ペンギン・カフェや周防義和に似た無国籍エスニック音楽へと着地するのだが、注意深い耳は「遅さ」や「遅れ」を構築する打楽器をはじめ、複数の層がずれ合いながら押し引きする様を看て取ることだろう。多田が「三層のレイヤーがずれながら、ところどころピタリと合ってくる」と表現し、益子がMilford Gravesを引き合いに出して、Ibarraを「やはりジャズ・ドラマー的ではない」と指摘することに、同様の眼差しを感じる。続いて披露された2分半ほどの短い曲で、グラス・ハーモニカの重なりのようなエレクトロニクスに、弦のフラジオと金属打楽器の弓弾きが重ねられた雲状の音響には、多田が陶器の糸底を摺り合わせる音が生理的に駄目なんだと白旗を挙げていたが、視界ゼロの中を、触覚だけを頼みに手探りで進む感じは、むしろ前曲のずれ合いの感覚がどこから来ているかを、正確に照らし出していたように思う。作品のタイトルである『Perception』=「知覚」とは、そのような各層の不安定な重なり合いのうちに、微細な差異を揺れや震えととらえ、ある像を浮かび上がらせずにはおかない、我々の知覚の本性=限界を指し示したものではないだろうか。「タダマス」の場では言及がなかったが、執筆の際に本作の演奏者クレジットがDreamtime Ensembleと総称表記されていることを知った。ベタの名前だが、なるほど、そういうことか……とひとりごちずにはいられない。夢とはまさに浮遊する情報の断片から、像を物語を捏造することにほかなるまい。

 Bobby Previteの名前はさらに懐かしい。『Godard / Spillane』や『Film Works』シリーズの初期など、ある時期のJohn Zornの作品群(それらは「ヴィデオ的」と言うべきNaked Cityに先立ち、「映画的」としか呼びようのない共同作業の奇妙な幸福感に満たされていた)に無くてはならないドラマーだった。今回披露された『Rhapsody - Terminals Part Ⅱ, In Transit』からの9分を超える「All Hands」では、Nels ClineのギターとZeena Parkinsのハープが見事にブレンドされ、中国箏の滑るような輝きを映し出すうちに、どんどん楽器が重ねられ、Jen Shyuの情感滴るほどのヴォイスや二胡まで加わって、息苦しいほどのエキゾティシズムと、戦乱渦巻き群雄割拠する中原を一望するが如き壮大さと、手に汗握るどころか露骨に心臓に負担をかけるドラマティックな劇的展開が、これでもかとばかりにメガ盛りに積み上げられていく。「これSteve Howeじゃないの」との多田のボケに深くうなずくほどにプログレ的であり、一時のPat Metheny風であり、またハリウッド・サントラ風でもある。胃もたれ感は半端ないが、どブルース的な乾いてささくれ立ったスライド・ギターと濡れたようにまばゆい中国箏の間に、思いがけない類似の線を走らせる鋭敏な感度も有している。

 前半最後はおなじみ「タダマス」常連Mary Halvorsonの『Code Girl』。ベースの弓弾きの太い音色が深々とした流れをつくりだし、屋根に弾ける春の雨のようにパタパタと軽く砕けるドラムスやギターに伴われて、インド系だというAmirtha Kidambiの声が深い悲しみをたたえ、しかし前をきっと見据えながらゆっくりと歩みだす。ヴィブラートを排した詠唱と、ゴスペルやトラッドを思わせる旋律は、その血統を感じさせない(幕間にエスニック色が強いと紹介された彼女のソロ作も、むしろ私にはR.I.O.風に思われた)。トランペットの飛翔が悲しみと厳かさを倍加させる。かつて聴いたMichael Mantler『The Hapless Child』がこんな感じではなかったと、ふと記憶が甦る。こちらのヴォーカルはRobert Wyattが務めていたから、もっと線は細かったが、益子の指摘する「感情の抑揚を前面に出す」という点は当てはまっていよう。

 「女性ヴォーカル特集」と言いながら、確かに各作品とも女声はフィーチャーされているものの、ジャンルとしての「女性ヴォーカル」に当てはまるのは、おそらく1枚目だけだろう。その辺も「ジャンル」でものを考えない「タダマス」らしい。そして、その一方で、リーダーが歌っていない3〜5枚目についても、決して声が添え物ではないトラックが選ばれ、アンサンブルの中で声がどのように位置づけられ、他とどのような関係を築いているのか、きちんと聴かせようとしているのが、また同じく「タダマス」らしい。
 Mary Halvorsonはこれまでの作品で自らヴォーカルを取ることもあったのだが、自らのヴォーカリストとしての能力の限界をわきまえていて、今回の作曲を演奏するにあたっては別途ヴォーカリストを招くこととしたとインタヴューで述べている旨を、益子が紹介していた。彼女独特のエフェクトの使い方についても、機械をあれこれいじっていて偶然出たものだが、人間の声みたいで面白いと思ったと語っているとのこと。


 この日の前半が佳曲揃いだったのに比して、後半は賛否が分かれることとなった。冒頭のMegumi Yonesawa/Masa Kawaguchi/Ken Kobayashi『Boundary』は、ESP-Diskからのリリースということで全編即興によるフリーとのことだが、「合わない/合わせない」ことへの恐怖が先にあって、それにフリーらしき外見をまとわせようとするから、どこへ行くにもみんな寄り添って、3人の間が少しも広がらない惨めな有様をさらすこととなった。「ダメな例」として採りあげたとのことだが。
 続くThomas Stronen Time Is A Blind Guide『Lucus』も、かすれた弦の断片が繰り返し現れ、ガラス窓を叩く雨粒のようなピアノ/ドラムと重なり合って、寄せ手は返す波の映像を経て、ガラスの表面をつーっと走る水滴に至る変容/構成はなるほど巧みであり美しいと言ってよいが、やはり何と言っても強度が低く人畜無害に過ぎる。「みんなで聴くのは気持ち悪い」との多田の言に同感。

 私にとっての後半のハイライトは、続くJozef Dumoulin & Orca Noise Unit『A Beginner's Guide to Diving and Flying』だった。最近、やはり「タダマス」常連になった感のあるDumoulinに、Louis Sclavisの初期を支えたBruno Chevillon(cb)、Evan Parkerとの共演も素晴らしかったToma Gouband(dr,perc)、さらにEve Risserのオーケストラから若手管楽器奏者2名という期待しない方がおかしい垂涎モノの編成。果たして、暗闇の中にうごめく何物かの気配、漂う吐息、たちのぼる倍音、鉱物質のちっぽけな、だが鋭い打撃、剛直な弦の震え、消え入る残響、肌に触れてくる多多種様な息のかすれが、空間に巧みに配置され、揺れ、震え、滲んで、溶け出し、渦を巻いて、沈潜と遡行を繰り返す様がありありと浮かぶ「盲目の劇場」となった。Marion Brown『Afternoon of A Georgia Faun』(ECM)の体感温度を下げて、息が白く見えるほどにし、より精密繊細にしたと言えば通じるだろうか。
 ここで面白い議論の展開があった。「音楽が鳴り響く空間の可能性はまだあることを示した」との多田に対し、ゲストの則武が「統一された質感の存在」を指摘した後、こうした音をライヴで眼の前で聴くのと、CDで録音だけを聴くのと、どう違うか、どちらが良いかとホスト2人に問いを投げかけたのだ。回答をまとめれば、録音の限界というか、演奏の現場では音が様々な方向から聴こえたりする聴取の豊かさが、録音を聴く際には失われてしまうのは確かだとして、眼の前で演奏しているのを見てしまうと「なるほど、ああして、その結果、こういう音が出て……」という理解が先行してしまって、音自体を聴いて想像力を膨らませることができない……というところだろうか。個人的には、「フィルム体験をフィルムの制作される過程から切り離すことが批評の提要である」との蓮實重彦の言明通り、「聴取体験を音や響きの生み出される過程から切断すること」を掲げたい。だがそれにしても、前回も触れたように、「体験」に関する蓮實の言明には深く頷かされるのだが、彼の唱えるアメリカ映画中心主義には全く同意できない。
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 続いては、Keisuke Matsuno/Moritz Baumgartner/Lars Graugaard『Crumble』。現在、Jim Blackのバンドで活動しているというMatsunoのギターとBaumgartnerのドラムを、音数を絞り、増幅度を高めて希薄化し、リヴァーブを効かせて空間一杯に響かせ、背後の空間を横切りざわめかせるエレクトロニクスと共に変容させていく13分以上の長尺のトラックが披露された。ギターは壊れやすく不安定な遷移を取り扱い、不均衡な移ろいやテープ・ゴーストや陽炎のようなあえかな変化に感覚を集中する。それゆえ離れて見ると、マクロなフレーズ自体は結構ベタだ。これの内圧をレッドゾーンの彼方まで高めていくとMiles Davis「He Loved Him Madly」になるのだろう。

 「タダマス」では、「最後は気楽に聴いてほしい」と言って、ヴォーカルものがかかることがよくあるが、これがまた結構問題含みで安穏とは聴いていられない。この日の締めくくりはSon Lux『Brighter Wounds』。もともとRyan Lott=Son Luxであったところが、「タダマス」でも評価の高いRafiq Bhatiaと彼と活動しているIan Changの2人が参加してバンド形態になってから、面白さを増したのだという。確かに紹介された2曲は共に3人の連名クレジットとなっている。
 深い水の底から形を成さない何かが滾々と湧き上がり続けている。切れ端、揺らめき、退色、劣化……。間を空けたスネアのアタックが硬化処理を施され、細部を削り落とされて揺るぎない鮮明さ/リジッドさを獲得しているのに対し、イノセントな子どもの合唱や昔のディズニー映画風の弦は、記憶の中から響いてくるように揺らぎ、鮮明さを欠いている。ヴォーカルやピアノも、そうした記憶の不確かさ不鮮明さに侵食され、不可逆な劣化を来している。背後の空間で浮き沈みする様々な響きのかけら。この「Labor」に続く「The Fool You Need」では、一転してドラムが不整脈を来たし、ダブ処理とキーボードの不鮮明な揺らぎやホーンのサンプリング的な使い方が不均質さをさらに強調する。確かに見事な造形ではある。

 ここでも興味深い深い議論が展開された。多田がSufjan Stevens -『The Age of Adz』を引き合いに出し、「何もかもポップスに回収されてしまう」と溜息を漏らしたのに対し、益子が「むしろ何もかもポップスになって、日常化してほしい。AKBとかではなく、タダマスでかかるような音源がラジオでいつでも聴けるように。」と応じたのだ。それは「もっとアコースティックなものが聴きたい」という多田に対し、「録音された時点ですでに電気が入っている。脳内にだって電気が走っている」と前回ゲストとして招かれた加藤一平のつぶやきを引いて応じたあたりから、いささか論点がそれてしまったが。

 私は「Labor」を聴いていて、Mercury Rev『All Is Dream』(2001年)を思い出した。家で聴き返すとディズニー・サントラ風のノスタルジックな弦とフラジャイルというか、ヴァルネラブルな声の揺らぎが、聴き手を深い水底に誘い、沈めていくような感覚は確かに似ていると思う(それにしても今回は、こうした「これは○○ではないか」というフラッシュバックにも似た瞬間が多く訪れた。一体なぜなのだろう)。無論、もう20年近く前の作品だから、細かい電子的トリートメントによる3Dアニメーション的な変容操作はないのだが、触発力・喚起力においては、決して劣らないどころか、むしろ上回っているとさえ思う。問題はまさにここで、ポップスへの「回収」は結果として、不可避的に角を丸め、鋭く切り立ったエッジをスムーズにして、「無害化」をもたらしてしまうのだ。

 むろん、「いや、ポップスにも尖ったものはある。そもそもMercury Revだってポップスだ」、「ポップス化せずに、旧来の「ジャズ」に踏みとどまればよいと言うのか」、「『良いものは売れない』というのは一部当たっているとしても、『売れないものが良い』は明らかに倒錯であり、間違っている」……等々、様々な反論は可能だし、これらの反論はすべて正しい。要は「ポップス」の定義の仕方だという意見もあるだろう。たとえば「ポップス」の代わりに「紅白歌合戦」を代入したらどうなるか。しかし、論点をこうずらすと、際限がなくなってしまう。掲示板のスレッドのネタとしてはいいかもしれないが。

 ここでは、とりあえず「聴きたい」という聴取の欲望と「消費」の間に一線を引きたい。ここで「消費」とは、作品や楽曲を購入する、あるいは聴取すること自体を指すものではない。耳が不意打ちされ、聴覚が拡張され、視界で揺れ動くマチエールの差異に、風景の豊穣さに、反覚醒の記号の過剰に困惑し、揺さぶられ、突き落とされ、足元をすくわれ、深みへとずぶずぶと沈められ、主体の動揺/変容を余儀なくされる体験、すなわち「邂逅」を回避し続け、安穏と傷一つ負わず聴き流して大音量に鼓膜をすり減らし、あるいはジャンル分けや流行の度合いに従って情報処理し、あるいは文学的な、心理学的な、社会学的な、文化人類学的な「物語」だけを読み取り、あるいはBPMだけに反応してニワトリのように首を揺すり、果ては満員の通勤電車の中で「隔離された個室」を確保するためだけに「障壁」として用いるような、儀礼的・象徴的消費を指す。

 少なくともこの国では、「ポップス」とは、聴取の欲望を喚起/触発しないことによって、よりスムーズに「消費」の対象となるもののことではなかろうか。例えば、付属の投票券欲しさに、同じCDを10枚、20枚と購入するとか。そのことは録音の質にも深く関わっていて、例えば、この日の前半に披露された音源は、みなそれぞれの仕方で「自らの響くべき空間」を的確に眼差していた。「ラジカセMIX」から「ケータイMIX」へと、「自らが響くことを余儀なくされる空間」に合わせて平板化・低質化を施される、この国の「ポップス」と、何と異なることか(もちろん例外は無数にあるにしても)。

 この国の惨状はひとまず措くとしても、「ポップス」への期待は、「芸術」への憧れと同様、やはり無効なのではないか。「孤高」や「異端」を気取ることも、「正統」へと撤退し引きこもることも、「実験」や「前衛」、あるいは「脱領域」を標榜し正当化することも、また。
 音は自ら響くべき空間を必要とし、音楽演奏とはそれを切り拓く営為である。とすれば、ジャズが切り拓くべきは「ポップス」ではなく、ジャズの「余白」にほかなるまい。そしてジャズの「余白」が依然としてジャズの一部であるのか、それとも、それを超えた外側に位置しているのかは、実のところどうでもいいことなのだ。

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ライヴ/イヴェント・レヴュー | 23:16:30 | トラックバック(0) | コメント(0)
禁欲的空間に流れる享楽的時間 ― 内田・大上・森重ソロ・ライヴ@ペルミアン  Epicurious Time in Stoic Space ― Live Review for Solo Improvisation of Uchida, Daijo, Morishige@Permian
 東急目黒線不動前駅から山手通りに出たあたりを歩いていると、環状6号線として後から整備された道路が、先にあった細街路網を斜めに貫いたからだろう、通り沿いに薄く削がれたような細長い三角形の敷地があちこちにあることに気づく。そうした敷地に建てられたカステラの切れ端みたいなテナント・ビルの鋭角に尖った角に、まるで巨大な掘削ドリルのように突き刺さった狭くて急な螺旋階段を降りると、何の表示もない殺風景なドアに突き当たる。先ほどまでの交通騒音と飲食店の賑わいが入り混じったざわめきは、もはや頭の上を吹き抜けるばかりで、ここはどこか取り残されたようにひっそりとしている。ドアを開けると、ピアノ用の椅子と小型のモニタースピーカーだけが置かれた、さらに音も色もない空間が広がっていた。

 まったく気持ちいいくらいに何もない。大上流一と増渕顕史という二人のギター奏者が運営する目黒・不動前のライヴ・スペース「Permian」は、彼らが希求しているストイックな集中をそのまま具現化した空間にほかなるまい。コンクリート・ブロックが積み上げられた壁、パイプが剥き出しのスラブ裏、小劇場にありそうな長いまな板様の板を渡した座席。モルタルの床は黒く塗られ、すぐ下に分厚いコンクリートがあるのか、叩いてもコツコツと鳴るばかり。30センチ四方の蓋状の部分だけが虚ろな響きを返して、下に空間があることを教えてくれる。スペースは居抜きのままなのかと大上に尋ねると、天井を剥がして高さを確保したとのこと。改めて見上げると、確かに2メートル程度のところに跡があって、そこから約50センチ上がっている。パイプをむき出しにしたものだから、最初、排水管の音がすごくて‥‥とこぼす。音が漏れないように工事をしてもらったが、それでも結構聞こえる時があるのだそうだ。そう話している時に、ちょうど暴れた音が噴き出してきた。決して大きい音ではないのだけれど。

 開演までの間、目を閉じて耳を澄まし、会場の響きに身を沈める。ライヴ前に行ういつもの個人的な儀式。コンクリートで密封された、エアー・ヴォリュームの小さな箱だけれど、音の行き場がなく響きすぎて鳴りやまないということはないようだ。先ほど話していても不自然さは感じなかった。1階の店舗で椅子を引く音がわずかに聞こえる程度で、外の音はほとんど入ってこないけれど、密閉された息苦しさを感じることはない。それでもコンビニのレジ袋の立てるパリパリいう音、新聞か何かをめくるさわさわした紙の響きが大きく耳元で響くのに気づく。これは以前に宇都宮の大谷石地下採掘場跡で体験したのと似た現象だ。擦れる音に多く含まれる高域成分の反射率が高くなっているのだろう。

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 最初に演奏する内田がヴォリューム・ペダルやエフェクター類の準備を始める。あまりの静かさに振り返って、「緊張するなあ」ときまり悪そうに笑う。
アコースティック・バス・ギターのソロ演奏。右手と左手がパシッと弦をとらえ、振動させると同時にミュートする。ブーンとPAから小さく鳴り続けるノイズの手前で、一瞬だけまたたく光源。けっしてまぶしくはない明滅を見詰め続けると、閃きの後に広がる余韻の揺れが見えてくる。ふっと浮かんでは、すぐに薄らいでいくほのかな明かるみ。メロディを紡ぐことも、リズムを刻むこともなく、一音一音、ふっと浮かんでは、すぐさま薄らいでいくほのかな明かるみは、琵琶の響きが丸くなったようにも聴こえる(あの張り詰めた彫りの深さはない)。暗闇で次第に眼が冴えてくるように、先ほどまでは気づかなかった外の音が聴こえ始める。車の通行音の向こうに山手通りを高架で渡る目黒線の車両らしき音が浮かぶ。ふと現れるアルペジオのもたらす叙情。階上から響く椅子の音。複数の弦をこねくり回す右手と指板の上を子ネズミみたいにパタパタと走り回る左手。左手のポジショニングが指定した音高を右手が顕在化させるというより、ある一瞬に右手と左手が交錯し、ぶつかり合う。だが、それは決して身体の運動に任せた、行き当たりばったりなオートマティズム(自動筆記)ではない。そこには一瞬ごとのゆるやかな切断がある。さらさらした水音が浮かんでくる。結局彼は1回もペダルを踏み込むことなく、接続したエフェクター類をまったく使わぬまま演奏を終えた。


 使われることのなかったスピーカーが後ろの壁際に片付けられ、大上はピアノ用の椅子の高さを慎重に調節すると、ケースからアコースティック・ギターを取り出し、そのまま何気なくすっと音を出し始めた。弦の調子を確かめているのかと思ったら、単音の連なりに弦を擦る音が混じり、すでに演奏が走り出していることに気づく。
音の明瞭度は凄まじく、ギターの輪郭が消え失せ、中空で何の支えもなく、音だけが鳴っている。弦の振動に放たれた音響は、通常のように周囲の空気を震わせ、波となって空間を渡り、聴き手の耳へと届けられるのではなかった。中心部で何かが爆発し、四方八方に閃光が迸り、その瞬間に聴き手の身体を貫き通す。途中でこぼれ落ちるものの何もない「ロスレス」な空間。
ここでゆるやかに連なり、大きな弧を描き出すひとつひとつの音は、決してメロディやフレーズに組み込まれ/囚われた「部品」的存在ではない。あるかたちを描き出しながらも、それらはそれぞれ異なる距離に位置し、互いに違う方向に動いている。星座を構成する星々のように。あるいは一見脈絡なく、切れ切れに想起される夢の中の場面のように。ゆったりとした運び、深い呼吸。ゆるゆると密やかに進められる演奏は、だが断固として、あらゆる瞬間に、あらかじめ敷設された木道を外れ、音響の原野へとさまよい出ることをやめない。
 振り下ろされたピックが弦に触れることなく空を切る。通常、「空ピック」とはリズムをキープするための手法なのだが、ここではむしろリズムを音のもつれや交錯に、あるいは異なる間合いの重ね合わせへとほどいていくために用いられている。きらきらと鮮やかに輝く音列の陰にぼんやりと滲んだ文様が沈み、音のかけらがはらはらと散り落ちていく。かすかな水音が床を這うようにずっと続いている。


 演奏を終えた大上がギターと椅子を片付け、本当に空っぽの舞台が姿を現す。森重が改めて愛用の椅子を組み立て、床のチェロのエンドピンが当たる位置にスペーサーをセットし、ケースから楽器を取り出す(アンプは用意していない)。その都度、ゼロ・リセットされる空間。
 弦のかすれ。幽玄な響き。運弓の加減速が、磨き上げられた鏡面からごろごろと岩だらけのひび割れた大地に至るまで、音響表面の肌理を露わにする。直接ぶつかってくる音の鮮烈さが凄まじい。
彼の演奏は、垂直に立ち上がり、真っ逆さまに響きの深淵を覗き込む、たぎるような音の強度に満ちたものから、音響宇宙の探索を終えて、次第に音素材を限定し、それらを組み合わせる語法の洗練へと向かっているのではないか‥‥。ぼんやりとそんな風に感じていたところを、ソロ2作目となるCD『ruten』にいきなり横っ面を張り飛ばされた。圧縮され煮えたぎった、凍り付き張り詰めた、顕微鏡下で眼の眩むほど拡大された、どうやって録音したのかわからない、とても生では体験不可能な音響の強度が、そこには台風で水かさを増した濁流のようにうねっていた。
 Permianの「ロスレス」な空間は、彼の演奏の苛烈さを余すところなく曝け出した。弓を弦に打ち付け、そのまま弾き切る際の隆起と溶融。深く切り込む弓弾きに僅かに混ぜられるリュートの爪弾きにも似たピチカートの粒立ち。駒に当てられた弓が放つ裁断されたばかりの白木のつんとした香り。テールピースの上を繰り返し繰り返し折り返す弓の動き/滾々と湧いてくる深い深い響き/弓が駒に近づくと弦の鳴りがぼうっと燃え上がる。

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 この2月20日(火)のライヴの後、24日(土)にPermianでソロ演奏したtamaruが、この場所について、次のように述べている。
「ペルミアン」について演奏する側から感じたのは、心の鎮まり方が違う!本気度の高い空間です。あの地下空間に足を踏み入れること自体、特別な体験のような気がしてきます。

 ストイックな集中のために、余計なものをすべて取り除いた部屋。しんと静まり返りながら、ぴりぴりと励起し、張り詰めた中で常に何かが生じていて、それらの生成が全て音響/振動となり、身体へと漏れなく届けられる空間。耳だけで聴いていたのでは足りない、聴取の、聴取による、聴取のための場所‥‥。そんな風に言うと、禁欲的な誓いを立てた者だけが立ち入ることを許される修道院や禅寺の僧坊のような誤った印象を与えてしまうかもしれない(笑)。もちろんそんなことはない。頭も身体も空っぽにして、聴取にすべてを捧げ、音に身を浸し、満たす。それ以外何もない贅沢で享楽的な時間がここにはある。

 明日3月2日(金)は、この日、それぞれソロで演奏した大上と森重が、今度はデュオでPermianに登場する。彼らは以前に大上の企画するShield Reflectionのシリーズにより、水道橋Ftarriで3回に渡り演奏し、いずれも、思考の、呼吸の、皮膚感覚の推移が、そのまま音と化したような極端な純度の高さが素晴らしかった。参照項として、Derek Bailey&Barre Phillips『Figuring』(Incus)とDerek Bailey&Joelle Leandre『No Waiting』(Potlatch)を挙げておこう。彼らの演奏はPermianの「ロスレス」な音響空間との遭遇で、どのような変容を遂げるだろうか。楽しみだ。


2018年2月20日
目黒・不動前Permian
品川区西五反田3-14-4 Kakutani レイヴァリーB1
内田 静男(acoustic bass guitar)
大上 流一(acoustic guitar)
森重 靖宗(cello)
すべてソロ演奏

写真はいずれも2月24日tamaru撮影。




ライヴ/イヴェント・レヴュー | 23:26:52 | トラックバック(0) | コメント(0)
共振する息、蘇りの空間 ― Dead Man's Liquorライヴ・レヴュー  Resonant Breath, Revenant Space ― Live Review for Dead Man's Liquor
 「Dead Man's Liquorは俺の人生最後のバンドになる」と高岡大祐がFacebookに書き込むものだから、「これは体験しておかないと一生後悔しそうだし、行かなかったせいで、あんなデカいのに化けて出られてはたまらない」と初めて訪れた阿佐ヶ谷Soul玉Tokyo。トロンボーン、チューバ、ギター、ドラムという、チューバがフロントとベースを目まぐるしく兼任する4人編成での彼らの初ライヴは、「なるほど」と納得させる素晴らしい出来だった。ただ、その時に高岡が「次からはベースの瀬尾高志が入ります」とアナウンスしたのが、ずっと気になっていた。

 チューバがフロントに徹すると、アクロバティックな「綴じ目」が消失して、何というか「フツー」になってしまうのではないか‥‥などと危惧していた私がバカだった。今回、高岡の現在の「地元」(居所かつ勤め先)たる十条に現れた5人組の彼らは、以前とは全く別のイキモノだった。まず馬力が違う。冒頭のローランド・カークの曲で、チューバとトロンボーンががっちり四つに組んだテーマ吹奏の分厚いこと。「ゴジラ、ニューオリンズに現る」だ。ソロでは天井に向けて音が噴き上がり、ベルがこちらを向けば波動砲が飛んでくる。コントラバスはアンプをつないで、ラインを深く彫り刻み、ブローで内側を鋭くえぐる。エレキ・ギターはブラス2本の波間からイルカのように鮮やかに身を躍らせるかと思えば、リズミックなリフを執拗に繰り返し、ここぞとばかりにドラムを煽りまくる。

 ドラムの藤巻鉄郎こそは本日のMIPだろう。客席も、ステージ上の演奏者たちも熱狂の渦に巻き込んだ、スティックを折るほどの底なしの叩きまくりドラム・ソロは、確かに絶賛に値する。しかし、私としてはそれ以上に、高岡や後藤篤のオリジナル曲ではなく、「朝日の当たる家」や「ヘイ、ママ」といった「構造化されていない曲」で、思いっきりフレーズをうねらせ、音を揺すり、サウンドを濁らせて厚みを増し、地響きを立ててのしかかってくる他の面々の「濃い」サウンドに対し、決して隙間を埋めてしまうことなく、切れ味鋭い打撃でくっきりと空間を確保し続けた(「リズムをキープし続けた」ではないことに注意)営為を何よりも高く評価したい。これにより互いの音が風通し良く「交通」する空間が生まれ、この奇跡のアンサンブルが成立し得たといって過言ではない。影のMVP。

 一方、バンマスの高岡は、曲間にトイレに行ったメンバーが戻るまでMCで穴埋めし、「サイコー」を連発して、感極まって叫び踊り出すだけでなく、ステージ上でのリアルタイムのアレンジメントに冴えを見せていた。律儀なまでに順番にソロ回しをするかと思えば、いきなりリズム隊(ギターを含む)だけを放り出して自力で局面を切り開かせ、後藤に耳打ちして2管の短い掛け合いを挿入し、自らのフレージングでテンポの加減速を仕掛ける。

 話を再びフロントの2管に話を戻すが、後藤篤が当日の感想をFacebookに書き込んでいて、「あんな息の量にスピードかけて吹く事はそう無いんだけど、高岡大祐のチューバと2管だと単純にああなるんだよ」と告白している。フレーズでも、音色でも、音量でも、ましてや音程でもなく、息の量とスピード。素早く手が動いて頬を叩き、優しく髪を撫でる‥‥それと同じように熱く火照った息が聴き手の身体に触れてくる。楽器を鳴らすために息を吹き込むのではなく、身体から息が走り出て、息同士ぶつかり合い絡み合い、噴き上がり舞い降りて、押し合いへし合いし、別の息と混じり合う。ここで楽器の管は、演奏者と聴き手を、そしてもちろん演奏者同士を結ぶ「伝声管」にほかならない。

 だが、この日のMVPは、藤巻でも、高岡でも後藤でも、桜井でも瀬尾でも、瀬尾の幼い愛娘でもなく、会場となった十条cinecafe sotoの空間ではないか(Most Valuable Place)。阿佐ヶ谷の倍以上幅のあるゆったりとしたステージと天井の高さ、客席の奥行きとのバランス、エア・ヴォリュームの大きさとアコースティックが、すべて確実にプラスの方向に働き、彼らの特質を引き出していた。客席左手に広がるバー・スペースも、響きが充満・飽和しないために重要な役割を果たしていたと思う。店名通り、フィルムによる映画上映を行うために据えられた35mm用映写機が、ステージ後ろの壁にくりぬかれたガラス張りの開口部の向こうに、守護神のように鎮座していたことも、高岡がMCで何度も語ったように、酒と死に彩られた生、生と音楽に縁取られた死、この一瞬に蘇りとめどもなく噴出する「記憶」をテーマとする彼らにはふさわしかった。最高の環境と舞台装置。屈託なく歓声を挙げ、手拍子をする聴衆も決して内輪ノリではなく良かった。ぜひまた、この場所で演奏してほしいと願っている。

180220シネカフェソト縮小
写真は仲摩武二郎様のFacebookより転載させていただきました。


2018年2月20日(火)
十条cinecafe soto
Dead Man's Liquor
 高岡大祐tuba
 後藤篤tb
 桜井芳樹g
 瀬尾高志b
 藤巻鉄郎ds


【オマケ】
 十条が新宿から埼京線で11分と意外に近いことを知ったのも今回の成果だった。それでも出発が遅れ、高岡がFacebookで紹介していた店で腹ごしらえしようと考えていたのだが、それでは開場時刻に間に合わずオアズケに。でもそれがかえって幸運で、cinecafe sotoのフードのうまさを知ることができた。今回、2ドリンクか1ドリンク・1フード付きとのことで、最初、1フードとしてパイ生地から手作りだというキッシュを注文。ゴロリと大きめの具材のうまさに、調子に乗ってチリコンカンのバターライス添えも追加オーダー。これもうまかった(かなりホット)。鶏唐揚げのポテトサラダ添えにも惹かれたが、さすがに自粛。
 なお、前述のように空間の面白さは特筆モノ。駅前ロータリーからいきなり地下へと降りる階段は後から取り付けたらしく、階段を上がって左手に回り込むトイレへの動線空間があり得ない形状をしている。劇場の舞台裏とかに近い。地下の壁沿いにあった階段(LP置き場になって封鎖されている)も、それ風だった。本当に映画館だったのかもとスタッフに訊いてみると、元は牛乳屋で、地下はその倉庫だったとのこと。だけど牛乳屋の倉庫ってこんなに広いのか。乳牛でも飼ってたのか。まったく訳が分からない。バー・カウンター周りはラウンジ風の仕上げで、手製と思しきピカピカの管球アンプがセッティングされている。ステージの裏側にある映写室を覗くと、フィルム・リールの置台が不思議な形をしていて、レトロ・フューチャーなオブジェみたい。フランソワ・バシェの音響彫刻にも似ている。
十条cinecafe soto(シネカフェ ソト)
東京都北区上十条2-27-12 スズキビルB1
TEL/FAX 03-3905-1566
http://www.cinecafesoto.com/




ライヴ/イヴェント・レヴュー | 00:15:35 | トラックバック(0) | コメント(0)
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