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福島恵一

Author:福島恵一
プログレを振り出しにフリー・ミュージック、現代音楽、トラッド、古楽、民族音楽など辺境を探求。「アヴァン・ミュージック・ガイド」、「プログレのパースペクティヴ」、「200CDプログレッシヴ・ロック」、「捧げる-灰野敬二の世界」等に執筆。2010年3~6月に音盤レクチャー「耳の枠はずし」(5回)を開催。2014年11月から津田貴司、歸山幸輔とリスニング・イヴェント『松籟夜話』を開催中。

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『松籟夜話』第九夜来場御礼  Thank You for Coming to "Syorai Yawa" the Ninth Night
 6月11日(日)開催の『松籟夜話』第九夜「音響都市の生成」、多くの方にご来場いただき、ありがとうございました。「都市」がテーマということで、もっとライトな仕上がりになるかとも思っていたのですが、結局はいつも通り掘り下げに掘り下げて、ハードコアかつディーブ極まりない内容に成り果てました(笑)。特に後半のクライマックスの連続は、これまでの中でも出色の展開ではなかったかと思います。
 ここでは、当日ご紹介した音源をリストアップし、コメントを添えます。コメントは当日のままではなく、また企画の性格上、当然のことながら、プログラムの流れの中に位置づけての説明となっておりますので、その作品の全体像をニュートラルに伝えるものではありません。なお、試聴トラックはあくまで雰囲気を感じ取っていただくためのもので、必ずしも当日プレイしたトラックと同一ではないことにご注意ください。

蠖捺律・神convert_20170616173057
撮影:原田正夫


開演前BGM

V.A.『エチオピアの音楽』tr.11「エチオピアの教会音楽」
試聴トラック:https://www.amazon.co.jp/%E3%82%A8%E3%83%81%E3%82%AA%E3%83%94%E3%82%A2%E3%81%AE%E9%9F%B3%E6%A5%BD-%E6%B0%91%E6%97%8F%E9%9F%B3%E6%A5%BD/dp/B0017GSGHK
 エチオピアのコプト教会聖歌。前回の「聖なる場所に集う声」でご紹介したOcora音源とはかなり音の手触りが異なり、ゆったりとした御詠歌調。重なり合うレイヤーが揺らぐ様が今回紹介する音源と共通する耳の視点を要求する一方で、カテゴリー的には前回企画とつながっていることから、ブリッジ役を務めてもらった。


開幕

Colette Magny『Vietnam 67 / Mai 68』tr.13
試聴トラック:https://www.youtube.com/watch?v=CdGVMsoivhg
 聴覚による都市イメージを探るにあたり、「音の絵葉書」的なかっちりした枠組みに到底収まらない溶解/流動状態の都市音響を「最初の一撃」として。タイトル通り、パリ「五月革命」の街頭実況録音を含む。飛び交う怒号、沸騰するパロール、ただならぬ気配の中、「インターナショナル」の決して勇ましくはない歌声が流れる。

蠖捺律・農convert_20170616173126
撮影:益子博之



第1部 スナップショットが浮かび上がらせる都市像

 都市が大規模化・多様化し、一望の下にはとらえきれなくなったことを前提に(「見えない都市」)、スナップショットによる一瞥の断片の集積が浮かび上がらせる光景に耳を澄ます。もちろんそれは一部に過ぎず、「群盲、象を撫でる」が如く、決して全体像には行き着かない試みであるのだが。

Christina Kubisch&Eckehard Guther『Mosaique Mosaic』tr.1~2
試聴トラック:http://www.gruenrekorder.de/?page_id=10742
カメルーンで現地学生に教えてもらった「音が面白い場所」のサウンド・スナップショットによる構成。がやがやと埃っぽい市街の喧噪、下世話な生活感が溢れる。怒鳴り合う(?)声の応酬と、日向ぼっこする猫のように脱力しきった街角の讃美歌。拡声器やラジオの電気的歪みが最初から風景の一部として瀰漫している。レム・コールハース「ジェネリック・シティ」の猥雑な強度。洗練されたハイ・アート作家のイメージが強かったKubischによる思いっきり生々しい達成。

Craig Shepard『On Foot:Brooklyn』tr.1
試聴トラック:https://craigshepard.bandcamp.com/album/on-foot-brooklyn
タイトル通り、ブルックリン地区内をあちこち徒歩で巡りながらの街頭演奏録音集。なかなか始まらない演奏に向けてそば立てられる耳が、「何もない」街角の景色を思わず映し出してしまう。後から添えられるクラリネットの細い線も、「食いだおれ人形」みたいなドラムも、そうして成立した都市の聴覚イメージを、ふっと浮かび上がらせるものとして機能する。

近藤譲『ブルームフィールド氏の間化』B-1「夏の日々」
試聴音源なし
 コンサート終了後の拍手から始まる、彼には珍しいテープ・コラージュ作品から、目線の高さを飛行するクラリネット(前掲トラックからの連続性)に導かれて路地に入り込み、降り注ぐ蝉時雨の下に佇んで、子どもたちの言葉遊びを見守る部分を抜粋。穏やかな慈愛に満ちた、しかしノスタルジックでしかあり得ない耳の視点。

Carl Stone『Kamiya Bar』tr.4+tr.5
試聴トラック:http://www.allmusic.com/album/kamiya-bar-mw0000892540
 対して同じ「街角の声」(日本語)に着目しながら、「社会鍋」の呼びかけや市場の売り立ての連呼を採りあげるカール・ストーンの手つきは「クール」そのものだ。日本語を解するにもかかわらず、あえて意味にとらわれず、サウンドのフェティシズムに溺れる彼は、そのポップ&キッチュな耳の鋭さによって、凡百のエキゾティシズムを軽々と乗り越える。フィールドレコーディング音源によるセッションにおいても、彼の「空気を読まないこと」が微温湯的な閉域を切り裂く場面を何度も目撃した。

AMEPHONE『Retrospective』tr.2
試聴トラック:https://amephone.bandcamp.com/
 前々回特集したAMEPHONEから。駅まで近道をしようとして、不案内な住宅街に迷い込み、あたりを見回した瞬間、どこかの家の開け放たれた窓からふと聴こえてきそうな弦アンサンブルの音が、テープ速度の操作で歪み、すっと音もなく崩れ落ちる。何気ない日常の中で足元が揺らぎ、見慣れたはずのものが見知らぬ何物かに変貌する。

蠖捺律・胆convert_20170616173145 蠖捺律・点convert_20170616173201
撮影:原田正夫


第2部 俯瞰と転送 ― 都市空間における身体の位相

 先に見たスナップショットの集積に対し、俯瞰による眺め、あるいは聴き手を一瞬のうちに包み込む響き(J.J.ギブソン「包囲光」を踏まえて「包囲音」とでも呼びたいところ)により、別の場所へと一瞬のうちに送り届けられ、その場に投げ込まれる感覚の作品群を。

V.A.『エチオピアの音楽』tr.9「皇帝の到着」
試聴トラック:https://www.amazon.co.jp/%E3%82%A8%E3%83%81%E3%82%AA%E3%83%94%E3%82%A2%E3%81%AE%E9%9F%B3%E6%A5%BD-%E6%B0%91%E6%97%8F%E9%9F%B3%E6%A5%BD/dp/B0017GSGHK
 ラスタファリアニズムが熱狂的に称えたエチオピア皇帝ハイレ・セレシエの到着の模様の現地録音。俯瞰的視点から、見渡す限りの人の波の広がりが大河の流れのようにゆったりと進み、厳かに鐘が鳴り渡り、あちこちで歓声が上がるかと思えば、手前では何やら話し込んでいる‥‥という、多層/多重なレイヤーの重なりがじりじりと動いていく。圧倒的な音後景の顕現。前半のハイライトのひとつ。

V.A.『Streets of Lhasa』tr.17
試聴トラック:https://www.youtube.com/watch?v=PBbEn-fdB0o
 タイトル通り、チベットのラサ市街における現地録音。四方八方から襲い掛かる混濁した雑踏音に、方向感覚を喪失し、くらくらと酩酊してしまう。Sublime Frequenciesレーベルらしい猥雑なストリート感覚。アルバム全体の編集はSun City GirlsのAlan Bishopが務めている。

前林明次『I/O Distant Place』tr.4+tr.10
試聴音源なし
 やはり異国の地のフィールドレコーディング音源。タイトル通り、自分の部屋に居ながらにして、別の場所に瞬間転送され、その場所に立ちこめる響きや匂い、温度/湿度の只中に放り込まれる感覚。自身の頭部にマイクロフォンを装着して、街を歩き回ったバイノーラル録音。


Christina Kubisch&Eckehard Guther『Unter Grund』tr.1
試聴トラック:http://www.gruenrekorder.de/?page_id=14340
 このパートの冒頭にプレイした『Mosaique Mosaic』チーム再び。こちらは独ルール地方を支える地下揚排水システムのフィールドレコーディングから、地下水位の上下に即して、いったん停止した巨大機械が再び作動を開始するまでの間を抜粋して聴取。動作音と入れ替わるように暗騒音が揺らめき立ち上り、暗闇を見詰める視線に閉所恐怖が充満する。


休憩

Moondog『Viking of Sixth Avenue』
試聴トラック:http://honestjons.com/shop/preview/27437
 ムーンドッグ活動初期の街頭録音から。チャカポコとしたドンカマ的リズムとハンマー・ダルシマーの音色。ムーンドックの演奏する姿は都市の一点景である一方で、やはり録音は演奏する彼へと向かい、環境音は単に背景に過ぎない。


Michael O'Shea『Michael O'Shea』 A-1
試聴トラック:http://www.sheyeye.com/?pid=50059285
 ハンマー・ダルシマーを改造した創作楽器「モ・カラ」を演奏するストリート・ミュージシャン。WIREのB. C. GilbertとG. Lewisがプロデュースし、彼らの起こしたDomeレーベルからリリースされた。緩やかな打撃が弦の上をどこまでも移ろう。



映像解説「生成/浮上する都市のイメージ」
音源の聴取とコメントが織り成す文脈に、視覚イメージにより補助線を引く試み。ここではボードレールの愛したGiovanni Battista Piranesi(1720-1778)とCharles Meryon【1821-1868】をまず採りあげ、前者による古代ローマの想像的再現『Campus Martius』をヘテロトピックな「コラージュ・シティ」(Colin Rowe)の先取りと評価し、後者によるパリ市街図の幻想による侵食とその再抑圧を、「表象の空間」(Henri Lefevre)の視点からとらえた。続いてWOLS(Alfred Otto Wolfgang Schulze)【 1913-1951 】と難波田史男 Fumio Nambata【1941-1974】において無意識から浮上する都市イメージに関し、難波田の愛好したPaul Klee【1879-1940】の分割と反復による構築と対比させた。
 
            Giovanni Battista Piranesi ジョバンニ・バッティスタ・ピラネージ

 
                     Charles Meryon シャルル・メリヨン

 
             WOLS  ヴォルス             難波田史男 Fumio Nambata


第3部 路傍の芸

藤本由紀夫『Ears on the Rooftop』
試聴トラック:http://www.geocities.jp/paganrail/omegapoint/editionOP-2.html
 屋上に据えられた金属パイプを通して聴く周囲の音響。ごーっという管の共鳴のうちに環境音の断片が浮き沈みする。大道芸の沸き立つイメージに冷水を浴びせかけ、しかるべき距離と冷静さを確保するための1ステップ。

Willem Breuker『Lunch Concert for Three Barrel Organs』B-1
試聴トラック:http://www.sheyeye.com/?pid=90378353
 大道で懐かしい響きを奏でるはずのストリート・オルガンが、広場に3台も集められて、口角泡を飛ばしながら議論し合うゲリラ的パフォーマンス。すわ何事かと慌てる市民。ブロイカー本人の証言によれば警官まで駆けつけたという。


里国隆『路傍の芸』tr.1~3
試聴音源なし
 盲目の伝説的ストリート・ミュージシャン(奄美出身)。沖縄那覇の市場アーケードでの演奏に幸運にも出くわした宮里千里による貴重な録音(彼は『イザイホー』の録音者でもある)。鋭く律を刻む四ツ竹、繊細にしてグラマラスな箏の音、地を這い胸を刺し貫く声の強度、周囲を取り囲む聴衆のざわめき、そしてその向こうから聞こえる買い物客の賑わい‥‥何もかもがくっきりと墨色鮮やかに生々しい。歸山幸輔特製スピーカーがまた新たに潜在能力を解き放った。里と宮里の曲間の会話も収録されており、「空間を丸ごととらえる」宮里ならではの仕事。

Satomimagae『Awa』tr.4+tr.9
試聴トラック:https://satomimagae.bandcamp.com/album/awa
tr.9 Official MV https://www.youtube.com/watch?v=9aP5lMtVZRc
 街頭演奏の現地録音ではないが、フィールドレコーディングによる都市のざわめきを挿入する特異な女性SSW。「これはギターの弾き語りではない」と自ら主張するように、ライヴでも流される都市の音響は、単なる装飾や背景にとどまることなく、鋭く張り詰め彫り刻まれた声/ギターと拮抗して、ざらざらと粗く冷ややかに耳にやすり掛けして、どこまでも聴き手の覚醒を促す。私や津田の愛聴盤である本作品でもまた、歸山スピーカーはこれまで聴いたことのない異次元の再生ぶりを見せた。

hofli『Lost and Found』tr.11
試聴トラック:http://www.pastelrecords.com/koencafe/?p=218
参考文献:http://miminowakuhazushi.blog.fc2.com/blog-entry-265.html
 市街の片隅で演奏を繰り広げるバスキングを何度も見かけ、これに刺激され、ヨーロッパの地下鉄駅通路でのフィールドレコーディングにオモチャのスティールパンを重ねたものだという。都市のざわめきの向こうの(フィルタリングされた)演奏風景ではなく、演奏音によって紗を掛けられ、その網目に浮き沈みする都市の光景。「たったひとつの現実」が「もうひとつの現実」への回路をすっと開いてみせる。


第4部 音響都市の生成

 一瞥=スナップショットの集積による第1部に対し、こちらは腰を据え、たじろぐことのない凝視=持続により、都市が生成していく様をとらえる試み。第3部の里国隆あたりから大きく押し広げられた耳が、未曽有の事態を目撃するに至る。

津田貴司:未発表音源
試聴音源なし
 公園の池の水位調節用地下水路の空気抜きの穴に、マイクロフォンを下ろして収録した音響とのこと。水音と広がる響きが空間のヴォリュームを明らかにする(身体の中で『Unter Grund』や『Lost and Found』と響き合う)。覗き込む闇の奥にある広がり。しかし、途中から響きは聴き手の背後にも広がり、あたり一面に立ちこめて、耳は空間の内部へと引き込まれ立ち尽くす自分自身を発見する。何の抵抗もなく足を踏み外すように、微かな兆候すらなく世界の色合いが一変する瞬間。ここでもまた歸山スピーカーの力が際立った(聴き手を包み込む背後の音まで再生できるなんて。モノラルなのに)。

Gilles AubryStéphane & Montavon『Les Ecoutis, Le Caire』
試聴トラック:http://www.gruenrekorder.de/?page_id=2301
 以前から様々な機会にプレイしてきた音源だが、今回初めてしかるべきプログラムに組み込めた気がする。茫漠とした響きの雲の広がりが、動き揺らめいて次第に濃淡を明らかにし、やがてそこに見知った風景を映し出す。この占い師の水晶玉を覗き込むような体験を引き起こすのは、オーブリー自身が「間接的聴取」と名付けた手法(というより姿勢か)であり、おそらくは直前にプレイした津田の音源同様、対象/外界からの距離の異なる複数のマイクロフォン間のミキシング・バランスを連続的に変化させることにより得られる効果なのだろう。しかし、そこに生じる現象は左右のステレオ・パンニングなどとは異なり、体感総体を耳を通じて揺さぶりたてる世界認知(そこにいる/外部がある感覚)の変容にほかならない。その初期の中平卓馬の写真を思わせる、冷ややかにモノクロームで凝縮された「覚醒感」は、Satomimagaeと確かに通じるものがある。

『イザイホー』tr.6+tr.10
試聴トラック:http://www.reconquista.biz/SHOP/BsF006.html
 前回、冒頭に聴いた音源を再び。「最初に聴いてしまったために、そのすごさがじゅうぶん伝わらなかったのではないか」との反省に基づいての再演だったのだが、いやあ驚いた。最初の声の揺らめきの艶めかしく濡れたような輝きなど、絶対これまでの再生では聴いたことがなかったし、本当にこの世のものとは思われないような美しさだった。民俗学/民族学に大きく傾いた前回の聴取モードが、やっぱりアートより伝統/生活のがすごいよね‥とか、お婆ちゃんて最強無敵だよね‥というところに話を落とし込んでしまうのはツマラナイと感じていたのだが、それは結局、いま耳にしている響きの在処を、その向こうの実体に、そのキャラクターや物語に求めてしまうからだ。そうではなく、あくまでも「手前」にとどまって響きを構成するレイヤーを聞く‥‥という行為を、藤本由紀夫を導入に里国隆、Satomimagae、hofli/津田貴司、Gilles Aubryと強力極まりない音源に対して繰り返し続け、耳をつくってきたことが、こうした輝かしい「奇跡」をもたらしたのだろうか。なお、今回は締めくくりの「区長挨拶」も聴き、録音者である宮里の意識した「丸ごととらえる」ことをフォローした。

Gilles Aubry『The Amplification of Souls』tr.2
試聴トラック:http://www.adocs.de/buecher/sound/amplification-souls
 最後は今回のシンボルとなるアーティスト、ジル・オーブリーの新作から。キンシャサでのキリスト敦礼拝のフィールドレコーディング。まるで空爆のように炸裂する説教師の歪みまくったアジテーション。それに呼応して叫び、沸騰する民衆の怒号。レイヤーを切り出すことなどかなわず、ひたすら量子化してマイクロフォン/耳に襲い掛かる音の爆発/激流。「五月革命」より混乱/液状化し、『イザイホー』よりトランスした究極音源。初めて聴いた時は、小冊子に付属した体裁もあって、何だ、文化人類学/社会学調査のリポートかと失望したりもしたのだが、この日、この流れの中でようやく本領を発揮してくれた。


サルヴェージ

Satomimagae『Koko』tr.3「Niji」
Official MV https://www.youtube.com/watch?v=SbzGx_fy_wM
 響きの深淵へと深く深く沈潜した耳を(魂を?)現実世界へと浮上させるための儀式。今回は第3部でプレイしたSatomimagaeからもう1曲。不愛想に低く呟く声が、次第に高揚し、深い深い井戸の底から頭上に小さく開けた明るみを目指して、各層を貫いて力強く浮かび上がる「浮上感」にすべてを託して。

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今回も驚異的なパフォーマンスを見せた歸山幸輔制作の特製スピーカー  撮影:多田雅範   


【参考文集】

 今回も関連文献からの引用をちりばめた参考文集を配布した。0~7の8節で構成されるが、これもまた映像資料同様、テクスト/アーカイヴの視点から新たな補助線を引く試みであって、今回のプログラム自体の解説/絵解きではないことに注意されたい。引用元はご覧のように多岐に渡るが、今回のプログラムの背骨として、やはりヴァルター・ベンヤミンの視線/思考の存在が大きかったことを告白しておこう。ベンヤミン読解としては近森高明『ベンヤミンの迷宮都市』(世界思想社)が新たな視点を与えてくれた。合わせて感謝したい。


0.都市の時間・空間
 高祖岩三郎『ニューヨーク烈伝』
 ジェイン・ジェイコブズ『大都市の死と生』
 福島恵一「ロワー・イースト・サイド」 『アヴァン・ミュージック・ガイド』所収

1.見えない都市
 磯崎新『空間へ』
 磯崎新『いま、見えない都市』
 ヴァルター・ベンヤミン著作集11『都市の肖像』
 イタロ・カルヴィーノ『見えない都市』

2,溶解/沸騰する都市
 西山長夫『パリ五月革命私論』
 佐伯隆幸『最終演劇の誘惑』

3.写真都市
 鈴木一誌「廃墟のまなざし」 東京都写真美術館編『森山大道論』
 森山大道・鈴木一誌『絶対平面都市』

4.地図、抽象空間、都市計画
 永井荷風「日和下駄」
 ルイ・アラゴン『パリの農夫』
 アンリ・ルフェーブル『都市革命』
 レム・コールハース「都市計画に何があったのか?」 『S, M, L, XL+』所収
 コーリン・ロウ、フレッド・コッター『コラージュ・シティ』

5.都市の諸相/多層、年代の積み重ねた地層
 永井荷風『日和下駄』
 ルイ・アラゴン『パリの農夫』
 川田順造『母の声、川の匂い』
 矢作俊彦「夢を獲える檻」 『複雑な彼女と単純な場所』所収

6.都市の暗黒
 金子光晴『どくろ杯』
 平岡正明「満州貧民街における小悪魔の飽食」 『官能武装論』所収
 洲之内徹「掌のにおい」 『洲之内徹文学集成』所収

7.大道芸人たち
 金子光晴『どくろ杯』
 宮里千里「漂泊のマレビト」 里国隆『路傍の芸』CDライナー所収

松籟夜話第九夜ちらし縮小
デザイン:川本要




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ライヴ/イヴェント・レヴュー | 21:47:45 | トラックバック(0) | コメント(0)
渇望の向こうに ― 「タダマス25」レヴュー  Beyond Thirsty for Something More- Live Review foe "TADA MASU 25"
 遅ればせながら、今からもう1か月前、4月23日に行われた第25回四谷音盤茶会(タダマス25)のレヴューをお届けする。今回は珍しく、当日プレイされたほとんどの音源に対し言及しているが、それでも例によって、ひとりの参加者の個人的な視点からの報告であることには変わりない。必ずしも主催者の意図に沿った理解ではないどころか、往々にしてこれに反するものとなっていることを、あらかじめお断りしておく。なお、当日プレイされた音盤に関する詳しい情報は、以下のURL(*)を参照していただきたい。
*http://gekkasha.jugem.jp/?cid=43767


 前半が導入部としての「ポップ・サイド」、後半が本領発揮の「ダーク・サイド」を構成し、後半のハイライトをNY勢のECM録音が飾ることの多い最近の「タダマス」だが、この日のプログラムはそれとは真逆に、Theo Blackmann『Elegy』、Craig Taborn『Daylight Ghosts』の2枚のECM盤を皮切りに、Jim Black『Malamute』、Eivind Opsvik『Overseas Ⅴ』と、後半の常連を連ねて進んだ。実は配られたセットリストを見て、開演前に益子に尋ねたのだが、いやポップ・サイドとかダーク・サイドとか特に意識してないから‥との答が返ってきたところだった。しかし、実際に音を聴いてみると、やはり後半に向けて深みを増していく構成はいつもと変わることはなかった。
タダマス25-1 タダマス25-2

 すなわち、これらの諸作品は、その豪華なラインナップにもかかわらず、私にはどこか食い足りなかった。いつものTabornのピアノに顕著な、焼き締めた煉瓦や鉛のインゴットを積み上げる、そそり立ち仰ぎ見る「建築力」はここにはなく、Chris Speedのテナーと絡み合い、二重ラセンを描きながら昇り詰めていく。一方のJim Blackは、ビートをNeu!風の単調な定型の近傍へと絞り込むことで、畳み掛ける「叩き込み」の勢いに新たな息を吹き込んでいた。だが、あえてジャンクなシンバルを用いることにより、打音の減衰を速め、空間の風通しを良くするやり方は、適用する場面こそ異なるものの、80年代にDavid Mossがすでにトレードマークになるまで試みていたことだし、そこにかぶせられるChris Speedそっくりのかすれた吐息による棒読みテナーと混信だらけの短波ラジオを思わせる電子音の雲のブレンドはなかなか効果的だが、ハンマー・ビート以外を寄せては返す波音だけに切り詰めてみせた、かつてのNeu!の突き抜けた蛮行を聴き知る耳には、いささか甘口に感じられた。そうした中では、ダブルベースのアルコのフラジオ音とエレクトリック・ギターのサステインを敷き重ね、音数を切り詰めたピアノの重い打鍵及びリズムボックスと組み合わせたEivind Opsvikの創意が光るが、演奏が最初に描かれたラフ・スケッチの枠組みから果敢に踏み出していくことはなかった。
タダマス25-3 タダマス25-4


 多田はこの日のプログラムについて、「聴衆の評価は3・4と9・10の二者にはっきりと分かれた」と自身のブログで書いている。ここで3・4とはJim Black『Malamute』とEivind Opsvik『Overseas Ⅴ』を指す。


タダマス25-6 後半は「ピアノ・サイド」と言うべき構成。Vitor Goncalves(pf)のクワルテットは、Todd Neufeld、Thomas Morgan、DanWeissと「タダマス」常連がサイドを固める。冒頭、ピアノの右手と左手のフレーズをずらしながら重ね合わせ、さらにドラムスの長短のシンコペーションが敷き重ねられ、ギターが網を投げかける場面は、なるほどHermeto Pascoalのバンドにいたと言うだけはあると思わせるもの。ただ、そうして思わず耳をそばだてさせられるイントロが終わると、急に「さわやか」になってしまう。多田が「カクテル・ピアノ」と言うのもわかる。

タダマス25-7 続くRema Hasumi(pf)は最近の「タダマス」の最注目株。「懐石料理?」、「奥ゆかしい」(以上、大村)。「ポール・ブレイ?」、「音の細部のコントロールが従来のレヴェルを超えている」(以上、多田)、「音を呑み込んでいる」、「言いよどんでいる」(以上、益子)と場に豊かな言葉を引き出すこととなった。いずれも感覚的な表現だが、むしろそれがゆえに像を結びやすいのではないか。その死を看取った菊地雅章との類似性を示唆されることも多いが、私の考える菊地の真骨頂とは、「ジェンカ」というゲームのように、支えるべき音を抜き去っていくことにより、張り詰めたテンションと危機的なリリシズムを限りなく高めていくところにあるので、それと彼女のピアノの本性は明らかに異質であるように思う。ただ、ではその「彼女のピアノの本性」なるものをまっすぐに名指せるかと言えば、これは難しい。コード感的には「ジャズあるある」でありながら、音の選び方は決してジャズっぽくなく、タッチはクラシカルで、ムード音楽的にエコーもたっぷりとかかっていながら、饒舌に走ることなく、抑制/抑圧を感じさせる指さばき。その指を音が伝うような感覚は確かに異色だと思う。

タダマス25-8 続く8はSylvie Courvoisier(pf)とMary Halvorsonのデュオ。私にとってのこの夜のハイライトのひとつ。端正で重厚な打鍵と内部奏法による音色の不定形な変容。ギター弦のトレモロとエフェクターの変化により、急に溶け出して流れ伝い、空間へと滲みを広げる響き。すらりと整った楷書の筆文字きっちりと並んだ手紙が、音もなく炎に包まれ、燃え落ちていく感覚。床を傾け、時を歪ませるHalvorsonのエフェクター変化が、「いつもはフレーズの頭や尻尾に限っているのに、ここでは中間部分でやっている」という益子の的確な指摘通り、ソロで爆発する派手派手しさを抑える代わりに遍在化/潜在化し、いつどこで足元が液状化するか知れない脆弱な不安定さを生み出しており、その感覚はCourvoisierにも深く静かに、だがきっぱりと共有されている。それが「インタープレイしている」(大村)、「やっている行為自体はとても楽しそう」(多田)という指摘を産み出すのだろう。

タダマス25-9 Cory Smythe(pf)、Stephan Crump、Ingrid Laubrockによる9もまた私にとってのハイライトだった。テナーのかすれたフラジオと豊かに倍音を香らせるダブルベースの弱音の弓弾き。ピアノの冷ややかな打鍵。深々としたアルコに転じたベースにピアノの内部奏法が鋭く長い針を突き刺す。絞り込まれた音のアブストラクトな強度が際立つ。個々の音色自体の強さもさることながら、それらが的確に配置されることにより生み出される「カラーフィールド」の奥深くしめやかな強靭さ(ここで私はマーク・ロスコの大作群を思い浮かべている)が素晴らしい。音高と音価ではなく、振動と持続の配合による構成。「抽象の力」の輝かしさが見事に示されている。

タダマス25-10 最後を飾るMatt Mitchel(pf)のピアノ・ソロによるTim Berne作品集は、何よりその強靭極まりない打鍵とアブストラクトな速度において際立っている。すごい勢いで背後へと飛び退る景色はもはや色彩を欠いて、冷酷なモノクロームに閉ざされている。ノンペダルのまま、パーカッシヴに叩きのめされる弦の震えは、ピアノの本質が鋳鉄のフレームに張り渡された金属弦の集積であることを、隠しようもなく明らかにしてしまう。ここでは筐体の優美な曲線も、黒檀と象牙の規則正しい配列も、ハンマーやダンパーに組み込まれたフェルトも、所詮、狼のかぶった羊の皮に過ぎない。それゆえ、テーマとそのヴァリエーションといった、もともと曲が持っていたであろう構造も、内側から粉々に破砕され、跡形もなく吹き飛ばされてしまう。その結果として残るのは、獰猛にして俊敏な個々の音の運動に過ぎない。「血塗れのCraig Taborn」と評された彼が、本来持っていたはずの切り立った構築性は、ここには見当たらない。あらかじめ書かれた曲の構造をかなぐり捨てることに、すべて費やされてしまったのだろうか。そのほとばしる熱量を最大限に評価しながらも、個人的には先立つ8・9を高く評価したい所以である。それとは別に、このMitchelの凄絶な演奏に確かな希望を感じ取れるのも確かだ。それは演奏後の彼が、充足しきった(とことんやり尽くした)「ドヤ顔」ではなく、依然として渇きや飢え(渇望感とでも言おうか)を全身から放っているように感じられることだ。「これだけ弾いても言い切れていない。まだまだ湧いてきている」との益子の指摘は、この録音の彼方にさらに開けるであろう、彼の演奏の新たな地平を、しっかりと見通し指差している。


masuko x tada yotsuya tea party vol. 25
益子博之×多田雅範=四谷音盤茶会 vol. 25
2017年4月23日(日) 綜合藝術茶房喫茶茶会記 
ホスト:益子博之・多田雅範
ゲスト:大村亘(ドラム・タブラ奏者/作曲家)




ライヴ/イヴェント・レヴュー | 21:15:11 | トラックバック(0) | コメント(0)
はなればなれに ―― 渋谷・関島・高岡・外山@kakululuライヴ・レヴュー  Bande à part ―― Live Review for Takesi Shibuya, Takero Sekizima, Daysuke Takaoka, Akira Sotoyama@kakululu
 池袋サンシャイン60の裏手ということになるのだろうか。ビルの谷間に小さな公園が開け、その傍らにストロベリー・ショートケーキみたいな不思議な形をした建物が姿を現す。今回初めて訪れるkakululuだ。
 テラスとカウンターのある1階を抜けて、螺旋風に回り込む狭い木の階段を昇ると、2階にライヴ・スペースが用意されている。部屋の入口部分から見て、左手側は梁と柱がつくりだした壁の窪みに、音楽と料理の本がずらりと並ぶ本棚が設えられ、家具調の柔らかい茶のアップライト・ピアノもまた、その窪みに身を落ち着けている。その奥に2本のチューバが並び、右手側の木の仕切り壁が弧を描いた先には、シンプルなドラム・セットがセッティングされている。ピアニストの背中をにらみつける位置。星座を思わせる不思議な配置。
 床は柔らかな木、壁は打ちっぱなしの上に白いモルタルを掛けているのか、わざと粗目の凹凸のある仕上げとなっている。天井はやや高め。響きは比較的ライヴだろうか。向かいの壁の大きな窓には厚めの硬い遮光カーテンが引かれ、右手奥の水平窓から切り取られた外の景色が覗いている。天井から吊り下げられた鳥のモビールが、その手前でゆらゆらと揺れている。
私は奥の壁際の、前から2列目の席に腰を下ろした。そこは先ほどの星座を見込む軸線上に位置しているように思われた。並んだ2本のチューバのうち、やや小ぶりの方が本日の企画者である高岡大祐の楽器に違いなく、しっかりとしたソファー・チェアはやや内振りに置かれていて、その席からは高岡と渋谷をほぼ中央に、そして外山と関島をその左右にとらえることができる。
 それにしても居心地の良い魅力的な空間だ。今回の企画のため、場所探しに精を出した高岡は自身のFacebookに次のように書き込んでいる。
  「打ち合わせがてらお茶しに来た最初の訪問で、あ、ここだ、と。店主高橋さんからひしひしと伝わる音楽好きの空気、海外の図書室のようなピアノのある二階の部屋。まだ音は出してないけど、ここだ、と。」
 
高岡大祐のFacebookより転載


 冒頭に奏でられたDuke Ellington「Dual Highway」に、いきなり胸をときめかされた。色褪せた写真から聴こえてくるようなピアノの古風な調べ。チューバ2本の柔らかなふくらみ。縦に区切らず、小節線などないかのように、どこまでもするすると優雅に横滑りしていくドラムス。チューバの響きの雲の中から、まず関島のソロが現れ、高岡がウォーキング・ベース風のバッキングを受け持つ。速いパッセージへと昂まっていった関島から、ソロのバトンが高岡に引き継がれると、ことさらになだらかにゆったりと引き伸ばされた息がグルーヴィに尾をうねらせる。コロニアル様式のアーリー・アメリカンな邸宅の空気。渋谷の柔らかいタッチと音色は、まさにこの眺めにふさわしい。
 だが、それにしても、外山のドラム・ワークの何と見事なことか。シンバルやスネアの上にセットしたカウベルの金属質の打撃が、ふっと「リズム」を離れ、誰もいない静まり返った部屋に甲高く響き渡るスチームの鳴りや自動織機の動作音といった「物音」へと憑依する。あるいはマーチング・ドラムの遠い響き。チューバ2本の生み出す豊かな倍音が回り込むのだろうか、壁際から湧いてきたり、天井から降ってきたりする響きと相まって、チャールズ・アイヴズの父ジョージが、2組のブラスバンドをそれぞれ街の反対側から向かい合わせに行進させ、異なる響きを現実の空間の中でミックスしてみせた‥‥というエピソードが頭を過る。シンバルの中央部分の硬く詰まった響きが、リズミックな「ノリ」へと自らを(そしてアンサンブルを)縛り上げることなく、むしろ砂粒のようにさらさらとほぐれ、花びらの如くはらはらと舞い落ちる。それでいて、チューバという「巻かれた長い管」の抵抗が引き起こす息の流れのよどみやもつれに、すっと寄り添い、手を携える。手を結び合うがゆえに、ふらふらと揺らぐ歩み。音素材を、音数を絞込みながら、豊かな滋味溢れるこの演奏を、シンコペーションやポリリズムだけで語ることはできまい。

撮影:益子博之


 以降、今回の4人の共通レパートリーである「エッセンシャル・エリントン」の曲目、カーラ・ブレイ「ローンズ」、大原裕「ディノ」、取り決め無しのインプロヴィゼーション等が奏されていく。響きが飽和気味になったり、ドラムのスキンが共振して鳴りまくったり、フレーズが危なっかしく階段を踏み外す場面も見られたが、柔らかく張り詰めた音色と、「アンサンブル」として隊列を組んで自分たちを窮屈に囲い込むことなく、空間をたっぷりとはらんで混じり合う仕方が本当に心地よい。がらんとした人気のない居間で女主人が手慰みに爪弾くピアノ、地下室で剥き出しの配管を軋ませるドラムス、街頭で葬列の尻を叩き、あるいは張り出しバルコニーの上でファンファーレを奏でるチューバが、庭先の芝生に寝転んでまどろむ耳へと風に運ばれてくる‥‥といった風情。まさに夢見心地。

 通常、チューバの生息場所であるアンサンブルやオーケストラは、群れあるいは組織にほかならず、邪魔臭い図体のデカさ、集団特有の内向きの鈍感さ、小回りの利かない慣性質量の大きさ、セクショナリズムのもたらす無責任さを不可避的に有している。総身に知恵の回りかねる恐竜的存在。では、フリーに解体されれば良いのかと言えば、もちろんそうではない。これは新聞で読んだのだが、最近は休日に家族でショッピングモールに出かけたとして、到着するなりバラバラに単独行動して、途中、LINEで連絡を取り合うだけなのだと言う。これではそもそも一緒にいる意味がない。
回りに合わせるのでも、指揮者に従うのでもなく、ひとりで素早くしなやかに動き回ること。今回の彼らの演奏では、2本のチューバが「ブラス・セクション」として、あるいはベース・パートを担うチューバとドラムスが「リズム・セクション」として、互いを拘束/結束する場面が出てこない。そうでありながら緊密に呼応/連動し、すっと向きを変える。肌を触れ合わせながら、異なる「現在」を見詰めている。
 ここで指揮者の任務から解き放たれた渋谷のピアノは、軽やかな自在さに満ちている。リズムを縁取って縦の線を揃えたり、ソロのラインを裏打ちしたりする必要は、もはやないのだから。

高岡大祐のFacebookより転載


 そうした中で、やはり圧倒されたのはラストの2曲。「Take the A Train」で急速調に歩みを速めながら「ブラス・セクション」として徒党を組むことなく、息の素肌をさらしながら鋭敏にステップを切るチューバ、湧き上がる響きの上で軽く泡立ちながらはじけるピアノ、そしてドラムの不断に組み替わるフラクタルなドライヴ。さんざん演奏され尽くし、手垢の付きまくった超有名曲が、たったいま皮を剥いたばかりの果物のように瑞々しく響き渡った。
 そしてラストは、高岡によって「僕が好きなニューオリンズの‥」と紹介されたRahsaan Roland Kirk「The Black and Crazy Blues」。高岡率いるトリオ「歌女」の演奏からも強く立ち上るプレ・モダンな匂いが、さらに濃密さを増し、立ちこめる。ロールをかましまくるドラムが、四角形、三角形、五角形、六角形‥‥とかたちを変えながら坂道を転がり落ち、ダークな音色で床を這っていた高岡のチューバがやおら立ち上がると、響きの粒子が光と風となって、あるいはぬるい雨となって、あたり一面、天井から降り注ぐ(あり得ない恩寵のように)。引き伸ばされたコーダの後、いつまでもいつまでも部屋の空気はふるふると柔らかく震えていて、天井から吊り下げられた鳥のモビールもまた、くるくると回り続けていた。

撮影:益子博之


2017年4月17日(月) 東池袋kakululu
渋谷毅(piano)、関島岳郎(tuba)、高岡大祐(tuba)、外山明(drums)



ライヴ/イヴェント・レヴュー | 22:58:07 | トラックバック(0) | コメント(0)
音楽がつくられているとき ― 「ライブラリ」ライヴ@喫茶茶会記20170311レヴュー  Music in Making - Live Review for Library@Kissa Sakaiki March 11th, 2017
 後半の6曲を一気呵成に駆け抜けた彼らを、止むことのない拍手が包む。蛯子の音楽に対する誠実さ、真摯さがまっすぐに伝わってくるライブラリのライヴは、いつだって聴衆の暖かな賞賛に迎えられているのだが、この日、彼らのホーム・グラウンドと言うべき四谷三丁目喫茶茶会記に詰めかけた、以前より増えた聴衆は、明らかにいつもと様子が異なり、身体の内側からこみ上げる何物かに突き動かされ、熱に浮かされたように一心不乱に掌を打ち合わせていた。

 彼らは昨年10月1日に、ふだんは蛯子がセッションの受け皿を提供している横浜ファーストという、「いつもとは違う場所で」で演奏した(※)。包容力のあるベース奏者としてセッションの場を変わることなく支えている蛯子を、古くからの友人のように歓待した横浜ファーストの聴衆たちは、「あまりに個人的な音楽」であるライブラリの演奏に明らかにとまどい、頭上に疑問符を浮かべていたように思う。その「違和感の匂い」に包まれて体験した彼らの演奏は、ピアノがグランドになったり、カホン中心のパーカッションが簡素ながらもドラム・セットの体裁を纏ったりという変化もあって、そのさらに1年前に行われた、蛯子が初めてエレクトリック・ベースを持ったライヴからの「成長」を如実に感じさせるものとなっていた。
※当日のライヴ・レヴューを参照。
http://miminowakuhazushi.blog.fc2.com/blog-entry-411.html

 その後、彼らにしては珍しく短いインターヴァルで、11月30日にホームである四谷三丁目喫茶茶会記に戻ってライヴが行われた。この時の彼らの演奏が、自分の中で鮮明な像を結び得なかったことを白状しよう。それは彼らのライヴ演奏を、1回1回完結するものとしてではなく、時の推移の中で変容していくものとしかとらえられなくなっていた、私自身の問題なのかもしれなかった。
 以上を前置きとして、この日、3月11日の彼らの演奏に触れるとしよう。

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 メンバーの配置は前回の茶会記ライヴと同じ。すなわち中央奥に三角が座り、左手の隅に井谷のドラム、右手の壁際に飯尾のピアノ、右手前に橋爪のテナーとソプラノ、そして左手前にエレクトリック・ベースの蛯子。蛯子の足元のエフェクター類が以前より随分増えてるね…という話を益子博之とする。いやあこれだったらもっとラウドに歪ませたらいいんじゃないのって前に彼と話したんだよね…とは益子の弁。それは楽しみだと応じながら、そう言えば、蛯子の前の譜面台って以前からあったっけと思う。しかも内向きに建てられている。
 程なく控え室からメンバーが現れ、それぞれ所定の位置に着く。やはり蛯子は横(内側)を向いて演奏するようだ。これによりメンバーの配置はV字型ではなく、ゆるやかに円環を閉じる形になる。譜面を見るためか、蛯子は今日、眼鏡をかけている。

 この日の彼らの演奏がどんなものだったか、どれほど素晴らしかったか、どこからどのように説明すれば伝えることができるだろう。

 まず、ドラムとピアノが思い切りシンプルに音を絞り込み、太くはっきりとした筆致でリズムを打ち出して来た。ドラムはシンバルの叩き分けやシンコペーションの効いたアクセントを抑え、バスドラとスネアを中心にビートの軸線を刺し貫き、力強い打鍵によるピアノのリフレインがそこにかっちりと重ねられる。音像は決して滲むことなく、切れ味の鋭さも変わらない。テナーもまた音数を極端に絞り込み、フレーズを簡素化して、リフレインでリズムに加担するかと思えば、時には抑揚の変化だけでソロを吹き切る「最短距離」の演奏を見せる。こうしたパンキッシュな加速にもかかわらず、そこに騒々しさはない。音に粗雑な暴れがないからだ。一見無骨でありながら、構造と形態の一致した建築の示す優美な繊細さがそこにはある。
 一方、エレクトリック・ベースは、時に頻繁にエフェクターのスイッチを踏み替えながら(※)、太い中にも芯を感じさせる剛直な音から、茫洋としたアタック、湯気のようにもうもうと立ち上る音色、混沌としたドローン……と相貌を変えながら、激しく搔き鳴らされてゔわーんと空間を埋め尽くすに至るまで変幻自在に響き渡り、ぶいぶいとアンサンブルを追い立て、ぐいぐいと構築されたリズムに食い込み、ひとり直立して震え、ビリビリパチパチと放電したかと思えば、マッシヴな厚みで津波のようにすべてを押し流し、ついには覚めない悪夢のように聴衆にのしかかる。
※後で蛯子に確認したところ、特に頻繁にオンオフしていたのは「フリーズ」というエフェクターで、その場の出音をサンプル&ホールドするものだとのこと。オンして保持した土台にさらに音を上書きし、またオフして描き直す場面が多かった。

 ……と、こう書いてしまうと、エフェクターによるベースの音色変化がポイントのようだが、実はそれだけではない。この日、蛯子はベース弦に対し果敢にアタックし、時に弦が歪むほどの強烈なピッキングを見せ、あるいはまるでシューゲイザーのように弦を搔き鳴らした。空間的なエフェクトとは異なる生々しいうねりやねじれ、歪みは、アンサンブルを強力に賦活するとともに、サウンド全体に「ライヴ・ミックス」的な、通常のジャズ・コンボやソング・フォームとは全く異なる音響配置への可能性を開いていた。と同時に、その強烈な存在感によりアンサンブルをコンダクトし、ギアを切り替え、激しい加減速を行った(作曲者である蛯子自身も譜面台を用意し、さらに蛯子の手元が見えるようメンバーの側を向いたのは、おそらくこのためではなかったか)。
 こうした変化は、単にリズムの強化やサウンド・パレットの拡張だけでなく、まったく新たな事態をグルーブにもたらした。逸脱の自由度が極端に高まったのだ。どういうことか。ライブラリのレパートリーは基本的にすべて蛯子の作曲によるものであり、メロディー、リズム、ハーモニーがあり、ソングがあって、ソロがある。複雑な曲構成は演奏者に豊かなイマジネーションを与える代わりに、各演奏者はあくまでアンサンブルの1ピースであることを求められるため、逸脱の余地は決して多くはない。しかし、今回、リズムの簡素化により運動空間が拡大された。さらに自在にスペースを生み出し、あるいは埋め尽くすベースの自在性は、他の演奏者のスペースをアンサンブルの枠内から解き放った。これにより可能となった局面を具体的に見てみるとしよう。

 「なかまわれのうた」で、立ちのぼるベースの響きの広がりが辺りを覆い尽くし、ソロに入った橋爪のソプラノのスペースを潮が満ちてくるように包み込み押し上げる。居場所を追われたソプラノはそのまま雲雀のように舞い上がり、遥か見上げる高みで凄まじい加速と飛翔を見せた。彼の演奏を追いかけている多田雅範が「何より作曲者として振る舞っている自身のグループでは封じている切れ味だ」と思わず唸ったプレイだ。煽られた井谷がリズムのシンプルさはそのままに、スパーンと鋭く日本刀で斬り立てるが如きドラム・ワークの冴えを見せる。あるいは「4pm@Victor's」における語りをピアノのコード弾きが支える場面。頻繁にエフェクトをオンオフし、さらには弦が歪むほど苛烈に楽器にアタックするベースをよそに、同一和音の繰り返しにシンバルがぴったりと寄り添い、さらにテナーが平坦に引き延ばされたロングトーンを敷き重ねて、催眠的なほど延々と繰り返しを続ける。満ち溢れる天国的愉悦。さらにはあらかじめ用意されたプログラムの最後を飾った「音がこぼれる草の話」で、シンバルとピアノによる、ことさらに単調化したリフレインが一気に減速する中で、テナーのソロがぐだぐだに軟体化し、駅のベンチから滑り落ちる酔っぱらいのように、リフレイン格子の隙間から輪郭を失って崩れ落ちていく。

 こうした局面に見られるように、今回の演奏は一昨年の10月以来継続されてきた「電化マイルス」ならぬ「電化ライブラリ」(笑)のひとつの到達点を示す説得力に満ちたものだった。冒頭に掲げた聴衆の反応が、このことを証し立てている。

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 撮影:益子博之



 個人的には、さらに別の感慨が浮かんだ。まだぼんやりとしていて、説明するのは難しいのだが、幾つかのモチーフを手がかりに、とりあえず言葉としてみるとしよう。

 これまた冒頭に述べたように、私は彼らの演奏を1回ごと完結するものではなく、もっと長い時のスパンの中で変容していくものととらえている。それはインプロヴィゼーションが含まれているから演奏が毎回少しずつ違う……というようなことではない。そうしたKing CrimsonやGrateful Deadのライヴ音源を漁るような理由からではなく、蛯子が繰り返し語っている「物語のスピードで」という視点に惹かれているのだ。
 それを以前に私は『ER』や『Downton Abbey』のような集団ドラマになぞらえ、登場人物一人ひとりが歩んでいる人生、背負っている主題が、それぞれの「物語のスピード」で展開し、その分岐/交錯が新たな事件を生み出し、彼/彼女らが共に直面している「現在」を織り上げるというイメージを提示した。それをコンポジションの側から逆照射すれば、前述のライヴ・レヴューで述べた「そこに内包された物語が自らを開陳するにふさわしい速度」ということになるだろう。
 だが、だとすれば、「決定版」と言うべき「物語のスピード」が確定してしまえば、それはもう更新されることはないのだろうか。ある意味、「電化ライブラリ」の試みは、そうした袋小路の突破を目指す挑戦だったのではないかと、今にして思う。そして、その試みはいまここに至って、アコースティック版とは異なる「もうひとつの」解釈/解決の獲得を遥かに超える成果を挙げることとなった。すなわち、「電化ライブラリ」が自らの出発点を探して、コンポジションの根元を掘り下げていった結果、構築すべきアンサンブルを相互に閉ざされた区画としてではなく、いくらでも交換可能な開かれた関係性の束としてとらえられる地点にたどり着いたのだから。考えてみれば、私の知る(アコースティック版)ライブラリのさらに以前には、ステージ上では蛯子とは別のベース奏者がコントラバスを奏で、当の蛯子はと言えば、その演奏にラップトップPCにより電子音をかぶせていた時期があったと言う。そうした「演奏」を、付加された電子音のもたらす響きの滲みや倍音の強調、空間への広がり等を通じて、平面状に区画されてしまうアンサンブルを架橋する試みととらえるならば、今回の「電化ライブラリ」はその狙いを果たしたことになる。
 
 科学社会学者ブルーノ・ラトゥールは『科学が作られているとき 人類学的考察』(産業図書)で、誰もが当然のこととして受け入れるブラックボックスとしての「既成の科学」と依然として開かれたまま揺れ動いている「作成過程の科学」を対比的に描いている。これまでブラックボックスとみなされていたものが開かれ、中身が改められることもある。
 記譜された楽曲はどうだろう。校訂の問題を除けば、それはテクストとして完結し、動かないように見える。後は「解釈」の余地が残されるだけ。「ジャズ」の作曲は、たいていクラシック音楽ほどガチガチに決められていないし、即興演奏を前提としているから、より自由な「過剰解釈」が許されよう。では、作曲者自身による演奏についてはどうか。曲が書きあがった時に、もう演奏イメージは完成しているのではないか。後はそれに息を吹き込むだけ……果たして、そうだろうか。
 私には蛯子による今回の「電化」の試みが、音楽を作成過程に押し戻すことを目指したもののように思えてならない(かつての電子音の付加による試みもまた)。テンポも、抑揚も、強弱も、アクセントも揺れ動き定まらず、メロディーも、リズムも、ハーモニーも、まだかっちりした輪郭を持たず、それどころかそれぞれの機能区分すら明らかではなく混沌としており、どっちつかずで移ろいやすく、時に重複している。その代り柔軟で決まったかたちを持たず、互いに相矛盾する幾つもの性格を同時に映し出すことができ、言わば何にでもなれる。
 それは所謂「ワーク・イン・プログレス(進行中の作品)」とは異なる。たとえばピエール・ブーレーズによって絶えず改定を加えられ続ける「未完」の作品は、だが彼方に望む「完成」に向けて、徐々に最終的に確定された部分を増やしていく。「作成過程に押し戻すこと」はそうではない。それは確定されたはずの枠組みを緩め、結合を解いて、可換性、変容可能性を高めることにより、原初化/胎児化/幹細胞化/原形質化/流動化/液状化することである。

 蛯子は今回のライヴに向けたリハーサルにあたり、喫茶茶会記のホームページ(※)に次のように記している。
 ※http://gekkasha.modalbeats.com/?eid=955345

 今日2/3の昼は「図書館系ジャズユニット・ライブラリ」のリハーサルです。ライブは3月の11日土曜日四谷三丁目茶会記にて行います。メンバーに会うのも久しぶりですし、前回11月30日のライブ以降、自らがより深い所に入って行きました。それについては日記にもインスタントなSNSにも書ける様なことではありませんし、余程の事ではないと他人とも共有するのは難しい内容です。結果不可避的に孤独になります。でもそれでいいんだと思います。
 僕は写真も絵も下手くそですが地中深く伸びていく「根」のイメージが明確にありました。それだけを拠り所に、ネットで著作権フリーの写真を引っ張ってきて、フライヤーを作りました。そんな感じで、日々あらゆるもの、あらゆる人を大切に思い、深い道を歩いています、その結果が、なんらかの形で、他の人に伝わります様に!
 伝わらなかったら、当面は「愚か者」の被害妄想を抱きつつ生きるのかもしれませんね、でもそれも、ゆっくりと歩ければ、本当にゆっくりと歩いていければ、いいんじゃないかな、とも思います。人生って面白いのかつまらないのか、正直わかりません、でも最近、歩く事で、少なからず救われているのは間違いないのです。
 3月11日まで、歩き続けます。
 そのあとも歩き続けたいです。

 ここで語られている「根」のイメージは、言葉だけだと「自らの内面を覗き込む」という風に心理化されてとらえられてしまうかもしれない。しかし、蛯子がフライヤーに刻んだのは下のようなイメージであり、根は深みを一直線に目指す代わりに、もつれあいながら地表を覆い尽くし、同じように地下にも細密なネットワークを張り巡らして、自らを支え、養分を与えてくれる土壌と一体に溶け合おうとしているように見える。空に向かって幹を伸ばし、枝を広げ、葉を茂らせる大木が、地表に落ちた種子が種皮を開いて根を覗かせ、外を迎え入れ一体化した「目覚め」の瞬間を夢見ている。
 蛯子による「ライブラリ」の音楽は、まさに文字通り聴衆の前でつくられる。聴衆は「音楽がつくられるところ」を否応なく目撃させられる。それは「蛯子のイマジネーションがその場で音楽をつくりだす」ということとは異なる。先に掲げた『科学が作られているとき 人類学的考察』の中でラトゥールは、ディーゼル・エンジンの成立過程をディーゼルひとりに帰すことはできず、「考案」、「開発」、「革新」といった諸段階に分離できないことを述べた上で、そうしたことは光るボールのみが表示されたテレビでラグビーの試合を見るのに似ている。走り回り、絶妙なプレーを行い、エキサイトしているすべての選手たちは無味なジクザグに動く点に置換されてしまうと記している(p.185)。ここで「エキサイトしているすべての選手たち」には、「ライブラリ」のメンバーはもちろんのこと、スペースの提供者や聴衆たちも含まれることだろう。

 フリー・インプロヴィゼーションは、作曲作品や楽譜といった取り決めをあらかじめ何も用意しないことによって、自らは聴衆の眼の前でつくられる、いや、いままさにつくられている、その過程を舞台に乗せる音楽であると主張される。ラトゥール流の思考にかかれば、日時と会場を決め、参加演奏者を選び、楽器を用意している時点で、「あらかじめ何も用意していない」との主張はただちに否定されることだろう。反対に「ライブラリ」は念入りに準備したものを、「作成過程に押し戻すこと」により、即興の力を発動させる。そこで作曲とは、そしてそれを記した楽譜とは、あらかじめ考え抜かれ、細部まで入念に書き込まれているにもかかわらず、言わば複数の針の震えを書き留める心電図の記録紙にほかならない。ここで針の震えを生じさせているのは、もちろん心筋の放つ電気パルスではなく、発動した即興の力であるのだが。
 
 それゆえ蛯子による「ライブラリ」の音楽は、極めて「個的」でありながら、そのこと自体を通じて「共有的」なものとなり得る。別の角度から言うならば、自らを含めた演奏メンバーとその場に居合わせた聴衆を巻き込む強い力を有している。その力に襲われる時、人は極めて魅惑的な謎に見舞われた感じを持つだろう。

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 蛯子は今回のライヴの後、Facebookに次のように書き込んでいる。

 本日たくさんのお客様と、自分自身で個人的と思っているよりも、恐らく実際はもっと個人的な音楽を共有させて頂き、心より感謝の気持ちをお伝えさせて頂きます。今後も大地を踏みしめて、ゆっくりと歩いていければ、と思います。

 これに対して当日の聴衆のひとりとして、益子博之は次のように応じている。

 もっと歪んで、揺らいで、滲んで、無数の触手を伸ばして、浸蝕するように...

 一方、私は次のように書き込んだ。

 「個人的」という言葉になるほどと思いました。個人の思いを綴り、個性を打ち出していることを売り物にしながら、似たり寄ったり、実に大量生産画一消費財的な薄っぺらさしか感じられない数多のフォークやロックに対し、自らの内部に耳を澄まし、個の内部に深く深く潜行することにより、自分の物語をそうとしかあり得ない、それにふさわしい速度で読み/書き進めた音楽が、深く深く個人的であることによって、他者を響かせ揺すぶり、遠くまで届き広がる強さとやさしさを獲得するのだなあと。
 益子さんの示唆するようなライヴMIX的な感覚も随所に感じられた演奏でした。

 「自らの内部に耳を澄まし、個の内部に深く深く潜行することにより、自分の物語をそうとしかあり得ない、それにふさわしい速度で読み/書き進めた音楽が、深く深く個人的であることによって、他者を響かせ揺すぶり、遠くまで届き広がる強さとやさしさを獲得する」過程を、そこに潜む原理を、私は果たして解き明かせただろうか。もちろんそうではない。謎を解き明かすことを望みながら、考えはむしろ音楽を巡る思考を「作成過程に押し戻す」ように進み、ますます深く謎に魅せられている。そして次はいつになるか知れない「ライブラリ」のライヴを、いつかいつかと待ち侘び続けるのだ。


2017年3月11日セットリスト

1. Spherical
2. 237
3. Monofocus
4. Trains
5. 空が歪む時
6. なかまわれのうた
7. 悪事と12人の死人
8. Vitriol
9. あ いま めまい
10. 4pm@Victor's
11. Angel
12. 飛行機
13. 音がこぼれる草の話
14. Star Eyes【アンコール】

2017年3月11日(土)
四谷三丁目綜合藝術茶房喫茶茶会記
ライブラリ:蛯子健太郎(electric bass)、橋爪亮督(tenor saxophone,curved soprano saxophone)、井谷享志(drums)、飯尾登志(piano)、三角みづ紀(poetry)


 来る4月12日にはやはり蛯子がエレクトリック・ベースを奏するトリオの演奏が予定されている。今回の「電化ライブラリ」の原理を、ジャズ・スタンダードに適用するものなのだろうか。気になるライヴだ。

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ライヴ/イヴェント・レヴュー | 00:16:40 | トラックバック(0) | コメント(0)
霧は星形の庭に降りる ― フェデリコ・デュランド ライヴ@Ftarri  Milky Fog Descends into the Pentagonal Garden - Live Review for Federico Durand / El jardín de la armonía TOKYO session
 はるばるアルゼンチンから単身来日したフェデリコ・デュランドの、半月にも及ぶ国内ライヴ・ツアーの初日となったこの晩、会場となったFtarri水道橋には多くの聴衆が詰めかけた。明らかにいつもと客層が違うのは、彼の作品がフリー・インプロヴィゼーションやフィールドレコーディング、あるいは「実験音楽」(嫌な言葉だが)の聴き手以外にも、広くアピールしていることの証しと言えるだろう。このことを踏まえ、あえて3番手として登場した彼のソロ演奏から話を始めることとしよう。





 カンテレに似た小型の弦楽器、オルゴール、オモチャのような音具……。地球の裏側まで移動してのツアーということもあって、携行する荷物を絞り込んだ結果だろう、ちっぽけでわずかな仕掛け。そこからフェデリコ・デュランドの特質と言うべき、やさしさとぬくもりに満ちた簡素な音がかそけくたちのぼる……ように見えて、そこには考え抜かれた細密な仕掛けと、一点たりともゆるがせにしない完璧主義の職人気質による入念なコントロールが施されていた。
 碁盤に石を打つように、あるいは敷き詰められた白砂に石を立てるように、手前に音が配され、淡い陽炎にも似た響きが奥で揺らめく。床にラグを敷いて座る彼の手元は、前方の聴衆の陰に隠れて私の席からは見えない。しかし、置かれた音が彼の手元をすっと離れ、天井に反射して降り注ぐ音のかけらと行き交いつつ、奥行きの中で揺れ動く響きと溶け合い、まるで幻灯のように浮かび上がる「牧歌的」な音風景に吸い込まれて、そこに広がる別世界へと連れ去られてしまうのが手に取るようにわかる。そこにはミルクみたいに濃くて重たい霧がたゆたい、まどろみのうちに沈みながら、木々か、家々か、あるいは人影かと、点々と浮き沈みする形象を耳が追いかけ、飛び石伝いに奥へと誘われるうちに、間口がさほど広くないにもかかわらず、思いのほか深い奥行きをたたえていることに気づかされる。
 幾つもの空間が折り重ねられ溶け合いながら、先の奥行きの深さが物語るように、ここに音響レイヤーの敷き重ねが与える息苦しい閉塞感はない。立ちこめる濃霧が視界を奪いながら、音の柔らかく深い響きが空間のゆったりとした広がりを伝える。と同時に、あまりに良く出来ている、いや出来過ぎている気がしてならない。絵画のように完璧に仕立てられた配置/構図を、まるで絵画を鑑賞するように完璧に設えられた視点/視角からとらえている印象。それゆえ、いったん風景が完成すると、そこにそれ以上の動きや生成変化はなく、時はほとんど止まったかのようにただゆらゆらと浮遊し、聴き手の身体に響きが充分に沁み渡った頃合いで景色は薄らぎ、クロスフェードにより別の風景に場所を譲り渡していく。
 ふと弦を打つ音が輝かしく鳴り渡る。いささかオモチャな電子音がそれに続き、それまで身じろぎひとつせず、固唾をのんで音世界の移り変わりを見守っていた聴衆は、それまでの硬直が解けたようにみんなもぞもぞと身体を動かし、そこかしこで衣擦れの音を立て始める。





 彼のソロ演奏に続いて行われた、この日の演奏者全員によるセッションで、彼の「秘密」がまたひとつ解けたように感じた。
 彼のつくりだす音世界は、その音像のゆったりとした配置により、たっぷりと隙間をはらみ、そこに開けた空間を通じて自在に出入りできるように見える。しかし、実はそこは極めて高い「濃度」に満たされていて、彼の張り巡らす「結界」の中に他の音はなかなか入り込むことができない。もちろん、ソロ演奏とは異なり、彼はひとりで風景を描き上げるわけではない。しかし、彼の置いていく音と響きは、互いに固く結びついて切り離すことができず、響きはさらに次に放たれた音の響きと分ち難く溶け合って、強固な連続性/一体性を生み出してしまう。
 このことに気づかず無造作に音を放てば、彼の音世界の背景へと退くか、あるいは無作法にその前を横切って覆い隠すか、そのどちらかになってしまう。津田貴司はエレクトリック・ギターのハーモニクスを用いて、フェランドの音世界と直接重なり合うことなしに、淡く色づいた透過光を投げかけ、極めて希薄な「ヴェール」を掛けてみせた。セッションが開始されてからしばらく音を出さず、じっと耳を傾けていた佐藤香織は、雲間からすっと薄日が射すように、極めて細く薄く滑らかに引き伸ばされたアコーディオンの単音をデュランドの音世界へと刺し込み、向こうまで無抵抗にするっと貫き通した。耳の確かさと素早い判断に支えられた的確なアクションが、デュランドの音世界の特質を、ある手触りや手応えとともに触覚的に明らかにしていく。





 ここで時間を巻き戻し、フェランドのソロ演奏に先立って行われた津田貴司と佐藤香織のデュオ「星形の庭」の演奏に立ち返るとしよう。私にとっては、この演奏がこの夜のハイライトとなった。

 垂直に構えられた弓が僅かにギター弦に触れ、そこから空間に滲みを広げる。淡い滲みが広がるにつれて色合いが浮かび、ようやく耳が響きの輪郭をとらえる。弓と弦との接触が刻一刻変化するためか、あるいはディレイによる折り重ねの結果か、響きの表面に浮かぶ色彩が微かに震えながら移り変わる。希薄なハーモニクスがオーロラのように裳裾を翻し、それよりは重たい音色がかわるがわる浮き沈みし、さらにその奥からまた別の響きが頭をもたげる。
 それまでアコーディオンの蛇腹を軋ませたり、ボタンだけをカタカタと鳴らし、人形芝居を思わせる無機質な物音を立てていた佐藤が、ふっと薄く滑らかな和音を奏でる。その音はまるでギターの弓奏による響きの移り変わりの只中から浮かんできたように聴こえた。彼女の耳の良さと単刀直入ためらいなく核心部分へと刃を差し入れる「勇気」に驚かされる。弓の動きが加速し、湧き出す響きの水面から飛沫が跳ね上がり、外へと飛び出す音粒子が増え、やがて全体が沸騰して弾け、ふと沈黙へと至る。アコーディオンの和音がただいまの終着地点を的確に指差し、そこからまた歩みが始められる。増幅度を高められたギター弦がコキコキとしごかれ、水の滴りにも似た、だがそれよりはずっと鉱物質の輝きに満ちた音を放って、アコーディオンの広げる水面のたゆたいに小石を投げ入れる。
 次第に演奏は冷ややかな構図を離れ、揺れ動きを増しながら、二人の応酬による生成へと局面を移していく。間歇的なギターの弓奏にスライドやフラジオが挿み込まれ(津田の弓遣いは中国書道の運筆、筆を垂直に捧げ持つような筆遣いに似ていると感じる)、アコーディオンによる全音音階の浮遊感がさらに不安定な移ろいやすさを増幅しつつ、不協和に侵食されていく。
 アコーディオンの蛇腹の軋みが、氷が水面に張り詰めていく際に立てるぴしぴしとした緊張を放つ中、ゴム球で擦られたギター弦の硬く氷結したトレモロが、静かに、だがくっきりと響き渡る。

 津田によれば、佐藤は「バンド」での演奏経験はあるが、いわゆるインプロヴィゼーション畑での活動はないと言う。合わせ鏡のようにアクションを強迫的に加速/増殖させたり、あるいは空気を読んで迂回に迂回を重ねたり…という、いわゆる「即興演奏」の悪しき因習語法に染まっていないのは、そのせいもあるだろう。その一方で彼女は亡き大里俊晴の薫陶を受けており、授業ではジョン・ケージの貴重な映像を見せてもらったり、彼がどこかから掘り出して来た誰も知らないような音盤を「今週の収穫」として聴かせてもらったりしていたと言うから、当然、フリー・インプロヴィゼーションの録音にも数多く触れているのだろうが。
 津田が佐藤とのデュオを「星形の庭」と名付け(出典は武満徹「鳥は星形の庭に降りる」か、あるいはこの曲題の由来となったマルセル・デュシャンのエピソードにほかなるまい)、その演奏を「ミニマル」と語った時には、ライヒやグラスのイメージが災いして、きちんと像が結ばなかったが、二人の演奏を聴いた後ではよくわかる。ここで「ミニマル」とは、決して様式や技法のことでなく、文字通り「最小限」を意味する。だからと言って、「削ぎ落とす」ことだけを至上命題としたリダクショニズムではないし、「剥き出しにする」ことが陥りがちな露悪的な身体パフォーマンスでもない。そうではなく、虚飾を排し、無用な因習を斥け、もっともらしいコンセプトに寄りかかることなく、思い通りにならない音や予想を裏切る空間、なかなか過ぎていかない時間と向き合って、増殖/充満させた音の背後に身を隠す代わりに、静寂に身を浸し耳を澄ますこと。そこでは「音を放つ」ことは、「よりよく聴く」こととイコールであるだろう。
 無論、課題がないわけではない。しかし、それは今後、「音を放つこと」=「よりよく聴くこと」を積み重ねていく中で、自ずから解消されていくと思われる。佐藤香織という新たな演奏者の登場をまずは喜びたい。また、このところの津田の活動に注目してきた者として、楽器演奏をあえて排したstilllifeとはまったく異なる位相のデュオとして「星形の庭」が始まったことは、今後の活動を広げ深める中で大きなプラスになると信じている。いずれにしても、フェデリコ・デュランドという一見優しげで何でも受け入れる、しかし、その一方で、音に対する頑固で一徹な哲学/世界観を持ち、自分のパースペクティヴをまったく譲らない演奏者と共演できたことは、貴重な経験となったに違いない。コンセプトで防御を固め、敏感に空気を読み、「ハブ」や「ぼっち」にならないよう何しろ周囲に合わせる……という、この国に蔓延する「即興演奏スタイル」においては、そのような「哲学」はまさに邪魔物として排除されてきたのだから。


津田貴司のFacebookより転載(3月10日のライヴ時の写真ではありません)


2017年3月10日(金)
Ftarri水道橋
Chihei Hatakeyama(guitar,electronics)
星形の庭(津田貴司(guitar)+佐藤香織(accordion))
Federico Durand(electronics)


 フェデリコ・デュランドは3月25日まで国内ツアーを続け、3月24日には神戸・旧グッゲンハイム邸、25日には奈良・日+月+星で、津田貴司とのデュオにより演奏する予定である。







ライヴ/イヴェント・レヴュー | 22:46:57 | トラックバック(0) | コメント(0)
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