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福島恵一

Author:福島恵一
プログレを振り出しにフリー・ミュージック、現代音楽、トラッド、古楽、民族音楽など辺境を探求。「アヴァン・ミュージック・ガイド」、「プログレのパースペクティヴ」、「200CDプログレッシヴ・ロック」、「捧げる-灰野敬二の世界」等に執筆。2010年3~6月に音盤レクチャー「耳の枠はずし」(5回)を開催。2014年11月から津田貴司、歸山幸輔とリスニング・イヴェント『松籟夜話』を開催中。

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即興演奏のパラタクシス、ポスト・ベイリーの地平 ― 大上流一の演奏を巡って  Parataxis of Free Improvisation, Horizon of Post-Derek Bailey's Visions ― Over Ryuichi Daijo Guitar Playing
 10月22日に行われる彼らのライヴへの予習として、もうひと月以上前になってしまった特別な一夜のことを思い出すとしよう。


1.Ftarri水道橋 2017年8月27日 ファースト・セット
 ドラム・セットの配置に押し出される格好で椅子の置かれたステージ左奥の隅から、周囲の空気を揺らすことなく、すらりと立ち上がったアルトの響きに、ちょうどスペースの対角線となるレジの奥の方で、何かが微かに共振して震えている。音圧が高まると響きが上ずって輪郭を露わにし、例の共振の震えも強まって、Ftarri店内スペースの対角線に響きの橋が架かる。眼に見えない波動が走り、部屋を満たしている。
 倍音がさらに色を成し、新たに付け加えられたキューキューという軋みと混じり合って、部屋の中のさっきとは違う場所を揺すぶりたてる。リードの鳴りが高まって濁った厚みを増し、倍音の層を押し出しつつも、その前に踏み出したかと思うと、今度は倍音の層の輪郭がすうっと薄れ、まるで霧が晴れるように透明さを増して澄み渡り、リードのちっぽけな泡立ちだけが後に残される‥‥と思いきや、一転、ぶるぶると震え、ごうごうと鳴る轟音の柱がそびえ立つ。真夜中に強風に揺すぶり立てられ、大枝を軋ませ、小枝を打合せ、ちぎれんばかりに葉々を振りたてる巨木のように。
 指先も含め、ほとんど動きを見せない上半身とは対照的に、靴も靴下も脱いで床のカーペット・タイルに着けている裸足の指先が反り返り、あるいは爪先を着いたまま踵が持ち上がり、足裏の緊張と指先に込められた力の推移を明らかにする。たとえ響きが凪いだ時であっても、それは決して弛緩ではなく、そこにも、いやそこにこそ、恐るべき強度が秘められていることを、浮き上がる静脈が示している。蚊柱や蜂の群れの羽音の集積を顕微鏡的に拡大したが如き響きのモノリスの陰から、循環呼吸で思い切り吸い込む鼻息や、ぷちぷちした唾液の泡立ちが聴こえてくる。

 いつの間にかドラム・セットに近づいていた外山が、バッグを置き、椅子に座る。腰を下ろす際に部屋の隅の徳永にギロリと鋭い一瞥を投げかける。もともと舞台左手に据え置かれたアップライト・ピアノの前に、横向きにドラムをセッティングした結果、大上、徳永が自然と押し出され、いつもの配置からすると時計回りに45度回転したような不思議な配置となったのだった。
 呼吸に身体をチューニングすると、やにわにパチンと柏手を打ち、スキンの張り具合を診るようにタタンとスネアを軽打する。少し俯き加減だったアルトが再び轟音に移行する。まるでアジトの張り込みを続ける刑事のように、時折鋭い視線を送りながらも、外山は音を出さない。眼差しを向けずとも、音は全身の皮膚で感じ取っていて、吹き終わるや否や、間断なくスティックを垂直に振り下ろし、スネアのリムを一撃する。「次」と促すように。パンソリの上演で杖鼓(砂時計型の両面太鼓)が声に対して入れる「間の手」にも近い。やがてスティックの先でシンバルを擦り始めるが、決して安定した層を構築してしまうこことのないよう、きめ細やかに気が配られていた。不安定に浮かぶ擦りの持続と、それを断ち切る鋭い一撃。アルトの響きを全身で注視し、常に傍らに佇みながら、決して持続的に「支える」ことはせず、アルトの響きの満ち引きとは全く違った仕方で時間を分節する。

 大上がおもむろに歩み出て、二人の中間に置かれた椅子に座り、床に置かれたギター・ケースからアコースティック・ギターを取り出すと、パチンと蓋を閉める。それが最初の決定的な一音であったかのように長い間が訪れる。
 ギターを構えた大上がやがて何事もなかったように弦に触れ、弦を爪弾き、あるいはすっと擦って、彼がいつもしているように、他の誰にも出来ない仕方で、研ぎ澄まされ、彫琢され、磨き抜かれた弦の震えそれ自体を中空に結像させる。シンバルの震えの推移とフロアタムのスキンの擦り、引き延ばされた弱音のロングトーンの移ろいがそれと混じり合い、相互に浸透し、ミクロな次元で噛み合いつつ変転し、全体はどこかから空耳のように聴こえてくる、顔もなくとりとめもないつぶやきのようなものとなる。一見一様で平坦な抑揚のない広がりの中に、高まったかと思うと、すっと引いて行くドラムの満ち引きがあり、それが波打つ線を紡いで先導し、ギターのパルスや粒立ちの変化がこれに応じて、アルトの持続音の水平なたなびきが色合いの推移をかたちづくっていく。

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撮影:原田正夫  この日のライヴを撮影したものではありません


2.約束
 この日のライヴは、これまで見てきたように、ソロで始まり、およそ10分経過した時点でひとり、さらに10分ほどしてもうひとりが加わって、合計約30分の演奏を行う約束となっていた。あきれるほど簡単な取り決めだが、これが実に有効に機能した。それは各演奏者が実によく音を聴き、自らの身体がそれらの音に逃れようもなく浸されてあることを、深く理解しているからにほかならない。端的に言えば、ソロが終わって、さてと‥‥とデュオが始まり、デュオが終わって、「せーの」でトリオが始まるわけではない。ひとり加われば、ふたりの音が重なり、融けて、響き合う。それは通常「デュオ」と呼ばれもする、二つのソロの対話を装った交互の、あるいは同時の演奏ではもはやない。そうではなく、すでにそこにある線に、形に、色彩に、何かを描き加えることにより、別のかたちが動きだし、異なる次元が息づき始める。ちょうど連歌の宴のように、前の句に付け加えられた新たな句は、前の句の意味を書き換え、新たな物語の扉を開く。
 今回の三人の演奏をそれぞれ知る者にとっては、彼らが共有し得る演奏の平面など果たして存在するのかと心配になってしまうほど、彼らはシーンの中で見かけ上(「ジャンル」やミュージシャン人脈等)離れた地点に位置し、スタイルもまた大きく異なっている。それゆえに未曾有のサウンドを聴けるのではないかとの期待と、探り合いや行き違いで終始してしまうのではないかとの不安があった。今回採用された「約束」は、新たに加わる演奏者を、すでにある演奏の場にいきなり飛び込ませることにより、探り合いの時間をスキップさせ、サウンドの化学変化を触発していた。


3.東北沢OTOOTO 2017年3月18日 ラスト・セット
 一瞬一瞬を鮮やかに刻み付けながら、いつの間にか別の場所にするりと移動し、別物に転生を遂げている大上流一のギターの核心を捉え得たように感じたのは、彼が自身の企画したライヴ・シリーズを定期的に行っているFtarri水道橋ではなく、初めて訪れた東北沢OTOOTOのホワイト・キューブで、彼のソロ演奏により放たれた音に刺し貫かれた時だった。Ftarriに比べて天井が低く、横幅も狭く、演奏者との距離も近いOTOOTOの空間は、彼の放つ音響を拡散させずに、聴き手の身体に直接ぶつけてくれるように感じた。

 ほとんど動かない指先から、抑制された響きが頭をもたげ、ゆっくりと空間に滲みを広げる。右手がすっと水平に動く。ためらいなく喉を搔き切るように。擦られた弦の鋭い輝きが淡い滲みの上にくっきりとした線を走らせる。音はずり上がり、さらにはずり下がって、いずれも次第に解け、静寂に沁み込んでいく。新たに生み出された微細な音の連なりがもつれ絡まり折り重なって、さらにそれがゆるやかに結んでは開け、また繰り返し、響きのゆったりとしたたゆたいを広げる。その中で弦の響きが時間差で後から浮かび上がるかのように聴こえる。引き伸ばされ、ゆるく弛緩した時間の中で、どこかがまだきりきりと引き絞られ張り詰めたしこりが手触れる。アタックの鋭利さと丸みの対比。たちのぼる余韻が感じさせる微かな空気の動きの変化(もちろんスペースに窓などなく、空調も停められていて、風などあるはずもないのだが)。鞭で打つようなしなり。ブーンと無愛想にざらついて唸るさわり。

 曖昧な半透明の厚み/広がりの中に、様々な感触の断片が浮かんでは消えていく。そうした点在する感触を手がかり、足がかりにしながら、耳が響きの深淵を下降していくと、次第に色彩が薄らいで、まぶしさのないモノクロームに沈んだ空間が現れてくる。音がすべて「運動」へと写像され、細部までくっきりと見渡せる無声映画の世界。びっこのロバが坂道を登るようなリズム/テンポの不均衡さ。それは常に足元を踏み外し、掘り崩しながら進められる危なっかしい綱渡りにほかならない。メタリックに歪んだアタックが一方では不定形の混濁したアマルガムをもたらし、他方では多方向への不均質な多角的反射を生み出す。異なる視点/パースペクティヴから、異なるフォーカス/焦点深度で撮影された写真の貼り合わせ。演奏者/楽器の本来の生理が働いて、演奏のノリが収斂し、整合化・等質化・均等化・単色化して、同一平面に凹凸なく収まりそうになると、彼は出来かけた「世界の結び目」をすっと解いてしまう。「繰り返し」ではなく、連続して新たに同じ課題に取り組むこと。ハーモニクスでサウンドを宙に浮かし、文字通り事態を宙吊り/棚上げして天国的な夢想に委ねること。ようやく築き上げた「トランプの城」のような危うい均衡を、傾けて溶かし去ってしまうこと。滑らかな一連の動作の中に一瞬の間/切断を持ち込むこと。再生不良的にやせ細っていき、突然息絶えてしまう、中断/中途放棄にも似た「終わり損ない」を心から受け入れること。

 大上のギターの、限りなく研ぎ澄まされ張り詰めた、と同時にもろく、はかなく、傷つきやすく、壊れやすい美しい弦の鳴り。旋律を担い、和音を構築し、律動をかたちづくることからこぼれ落ち、逃げ延びた音の輝き。これらの「逃亡奴隷」としての音は、また、「実験音楽」の身勝手なコンセプトにも、「フリー・インプロヴィゼーション」という硬直した制度にも、ましてや演奏者の想いにも囚われてはいない。時間の経過と共に、ますます剥き出しになっていく弦の震え。


4.Ftarri水道橋 2017年3月12日 大上流一・tamaru デュオ
 大上の企画するライヴ・シリーズShield Reflectionの決まり事として、同じメンバーで3回演奏し、組合せを変えるというのがある。このためtamaruとのデュオが最終回を迎えたこの日、大上はアンプもラジオもなしに、アコースティック・ギター一本で演奏に臨んだ。すっと軽やかに、だが鋭く刻まれた音が間を置いて置かれ、そこに弦を擦るさわりが混じる。弦の感度がいつもの数倍に上がったように感じられる。ベース弦のぼあーんと丸みを帯びた深い鳴りが、暗くおぼろな魚影となって、その間をすり抜けていく。面相筆でぴっと引かれた細く鋭い線が、響きの香りとともに空間に滲んでいく。「ぶっ」と、半紙に置かれた太筆の墨跡が、長く尾を引きながら余韻を揺らめかせる。細やかな響きがちらちらと揺れ、揺らぎ、幻惑的な光の移ろいを生み出す。左手の指が振動している弦に伸び、微かに触れてさわりを引き出し、響きの余韻にディレイ風の陰影を施す。陽射しを映しきらめく水面と、重く冷たい水の動きが体表面に圧力として感じられるだけの盲いた水底の対比。

 「対比」と言えば、この日、彼らは、およそ考え得る限りの様々なサウンドの対比のヴァリエーションを奏でたのではなかったか。微細な破片の散乱や点描的なアタックに、床から湧き上がってくるようなアタック感のない極低音のたゆたいが応え、弦の搔き鳴らしが倍音を充満させる中、ベースのフレットに弦を打ち当てるカチッとした打撃音と、振動している弦に指を微かに当てて引き出す、シタールにも似たビーンと鋭く輪郭を際立たせたさわりが浮かび上がる。
 特にデュオを構成する二人が、向かい合うのではなく、同じ方向を向いて互いの影を視界の端にとらえながら疾走し、歩き回り、立ち止まり、抜きつ抜かれつしたかと思うと、むしろ遅さを競い合うような、ダブル・ソロとでも言うべき奇妙な並走関係が生じた第二部の演奏において、それは顕著だった。
 抽象的な音列がするすると走り出し、上りと下りのエスカレーターのように行き違う。二つの異なるリズムの交錯が台地(プラトー)を形成して固着化しようとすると、アクセントをずらし、間合いを伸び縮みさせる動きが、ふっと視界が揺らぐように、左右に同時に生じる。一方が歩速を緩め、ややゆったりと音を引き伸ばしながら、呼吸を深めると、他方はわずかに加速して、揺れ幅を小さくし、きびきびと浅く速い呼吸へと移行しつつ、刃先を鋭く尖らせて、音をより深く彫り刻もうとする。じゃらじゃらとしたギター弦の搔き鳴らしとベースのトレモロが刻み/音数では同期しつつ、絞り込まれた単純さにおいて相反し、搔き鳴らしから珍しくふとフォーキーなコードが浮かび上がると、ベースは音の密度を高めながら、解像度を下げて音像の曖昧化を図り、同期/同調からの離脱、アンサンブルの解体へと向かう。

 即興で踊る際には、必ず意識して身体の中で動かさない部分をつくり、次にそこを動かすことで展開を図る‥‥とは、ダンサー山崎広太の発言だが、インプロヴィゼーションについて考察する際に大きなヒントとなる。「15ゲーム」の空いたマスが可能とする移動、配置の転換、構造の組み替え。と同時に身体の運動を飽和させないこと。身体を消費しきらないこと。身体のうちに不動の軸を残しておくこと。
 先に見てきたように、この日の大上とtamaruの演奏は、あるパラメーター/運動軸の回りを旋回しつつ、次々にピポットの軸足を置き換えるように進められた。進路に立ちふさがられても、ライン際に追いつめられても、身体の軸を自在にずらし、密着してくるマーカーとするりと身体を入れ替え、窮地を抜け出すジネディーヌ・ジダンのターン。
 だがラインの独立性を保ち、淀みなくしなやかに演奏の線を伸ばしていく大上とtamaruは、同時に両者の放つ音響の深い相互浸透を可能とする、ひとつの太い軸=体幹を共有しているように思われた。ジダンの右脚と左脚のように。それこそは弦の震え/振動を凝視し、そこから生起して漂泊を続け、そこへと回帰することにほかなるまい。

 tamaruのペダル操作が、高域と低域のヴォリュームを変化させるだけのものであることは以前に彼の演奏に関するレヴュー(※)で述べた。これにより音色が変化するだけでなく、倍音帯域の有無により響きの密度や輪郭の強さ、さらには広がりや遠近感も変化する。これを連続的に切り替えることによって、あたかもディレイのようなエフェクトが可能となるが、tamaruはそれがディレイを含まない回路であることを強調していた。すべてはリアルタイムの操作/変化であり、耳の視線の対象/視界が変わるだけで、サンプリングされた別の音源、異なる時間軸が混入することはない。ありとあらゆる響きが弦の(時にはベースのボディの)震えから生じる。弦は三次元的に振動し、他の振動と干渉して時間的に変動しつつ、やがては減衰していく。極めて高い増幅度により、この震えを顕微鏡的に拡大して投影することにより、その揺るぎない凝視ぶりとともに、凝視の対象である弦の振動が振る舞いの細部に至るまで明らかにされ、その表面の質感や温度までが手触れる。

 大上の演奏においても同様に、研ぎ澄まされ磨き抜かれた音響のピュアリティは、あるいはフォーカス/焦点深度を自在に操作して、くっきりとした彫琢から不定形の広がりまで連続的に推移し、さらには眼前を圧して視界を占領するかと思えば、かそけき物音に混じり合い、その背後に身を隠す変幻自在の変貌ぶりは、すべて弦の振動に始まり、弦へと還っていく。

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tamaruのツイッターから転載


5.Ftarri水道橋 2017年8月27日 セカンド・セット 最初の部分
 続く演奏は大上のソロから始まった。フレーズの破片が振り撒かれ、散り散りに広がっていく。それらの描く軌跡と空間に残す波紋。そこから音響の発生源である振動する弦の上でせめぎあう幾つもの力と、その勢力図の時間的な移り変わりが浮かんでくる。まるで気象衛星がとらえた雨雲の動きと、これによって浮かび上がる気圧配置やその時間変化のように。
 「雲母の破片」(津田貴司による形容)のように硬質で透明な輝きをたたえた弦の響きは、時にしなやかに勁く、時に脆く壊れやすいが、いずれの場合も見事な透徹/浸透力を有している。しかし、にもかかわらず、ここでいま音は次第にとりとめなく解けていこうとしている。一音一音の輪郭は希薄化し、それらの集合体もまたかげをおぼろにして、曖昧でおぼろな響きの中に溺れ、今にも沈んでしまいそうだ。それでも響きは一様化することなく、重なり合いながらも完全には溶け合ってしまうことのない複数の響きの層が、小津安二郎が幾重にも仕切られた日本間の空間構成により生み出した、重層的な奥行きをつくりだす。そこにパキーンと鋭い切り裂き音が放たれ、速度により響きの堆積から身をもぎ離す。ここで大上は音の「入」よりも「出」の方を細心にコントロールしているように見える。イクジット・ストラテジーの重視。速度を落とすことなく駆け抜ける道筋と余韻の射出方向の選択。音色が帯びる虹色の歪みは、身をひねって障害物をかわす際の屈曲の産物であり、力の刻印にほかならない。


6.ポスト・ベイリーの地平
 イディオムによる閉域を生み出すことのないノン・イディオマティックなインプロヴィゼーションを掲げ、複数の音を結びつける線(それこそがメロディ、リズム、ハーモニーを仮構する)を、多方向から交錯/散乱する音響のつくりだす束の間のコンステレーション(星座)へとさらさらと崩し去っていくデレク・ベイリーDerek Baileyの演奏。大上の演奏世界の出発点には、明らかに彼が位置している。
 ベイリー自身は、1970年代に自らの語法(彼の言うところのランゲージ)を確立し、80年代からは活動を異なる水準へと移行させる。録音音源で跡付けるならば、『Pices for Guitar』(Tzadik 録音1967年)を遥かな前史として、『Solo Guitar volume 1』(Incus 録音1971年)、『Incus Taps』(Incus 録音1973年)、『Domestic & Public Pieces』(Emanem 録音1975〜1976年)と聴き進めれば、その語法の深化、サウンドとタイミングの組合せが豊かさを獲得していく様を看て取ることができるだろう。こうした探求のひとつの頂点として位置づけられるのが、『Improvisation』(Cramps 録音1975年)であり、ここで彼は、先にエレクトリック・ギターのペダル操作によるステレオ効果で得た成果を、アコースティック・ギターによるちょっとした「ほのめかし」により達成している。アクション自体のカタログは厳しく絞り込まれ、代わりに無限のニュアンス、徴候、暗示、素早い参照、一瞬のうちに引かれすぐまた掻き消される照応の線等が導入される。キング・クリムゾンのロバート・フリップは「エレクトリック・ギターとアコースティック・ギターはヴォキャブラリー(語彙)が異なる」と発言していたが、ベイリーが言及しているのが、常にランゲージであることに注意しよう。ここでランゲージはパロール(発話行為)と対照される「固定化した国語の体系」ではなく、創造的発話を含めた「言語を操る力」を指し示していよう。
 一方、80年代の新たなステージは、Company『Epiphany』(Incus 録音1982年)に始まる。即興演奏者のプールであるCompanyの活動は以前からあったが、それらはいずれもEvan Parker, Tristan Honsinger, Anthony Braxton, Han Bennink, Steve Lacy等、志を同じくする者たちの交感だった(ただし、音に向かう姿勢や語法は極端に異なっている)。これに対し本作には、Kieth Tippett, Julie Tippets, Fred Frith, Anne Le Baron, 鈴木昭男, 吉沢元治ら、明らかに異なる即興演奏の血脈に属する者たちを招き、その中にはFrederic Rzewski「『不屈の民』変奏曲」の初演者である現代音楽のスペシャリストUrsula Oppensのように、即興演奏を経験したことのない者すら含まれていた。これは1982年に開催された「カンパニー・ウィーク」の記録であり、デュオからセプテットに至る各演奏者の任意の組合せのみならず、以降のCompanyでは見られなくなる10人のメンバー全員が参加した長大な演奏も収められている。
 本作が新たなステージの扉を開いたというのは、決してフリー・インプロヴィゼーションがネットワークの拡大、語法や演奏マナーの普及に転じたということだけを意味するものではない。以降のベイリーにとって即興演奏とは、すでに自らを確立した演奏者との個と個の交感であるよりも、得体の知れない他者(それはこれまでの意味で「個」であるとは限らない。いや、むしろ違う)に自らを横切られたいという欲望の場に変貌を遂げたと思われるからである。もっとも彼の望みは十全には叶うことなく、Company に招かれたゲスト演奏者たちはたいていの場合、まるで宮廷舞踏会に招待された下層貴族のように、自らがノン・イディオマティック・インプロヴィゼーションの語法や演奏マナーを身に着けていることを誇らしげに披瀝し、他人の前を横切ったり、ましてや足を踏みつけることなどないよう、ことさらに慎み深く振る舞ってしまうのだが。


7.空間/隔たりがもたらす混信/変容
 大上の演奏が、その出発点とそこからの拡大/深化という点で、ポスト・ベイリーの地平に属していることに疑いの余地はない。それは彼の演奏を聴けばたちどころにわかる。このことは彼のソロによる探求の軌跡を跡付けたCD5枚組による『Dead Pan Smiles』(※)にも明らかであるし、また、ここに掲げた彼の演奏の描写からも看て取れることだろう。しかし、それは決して語法の洗練という次元にとどまるものではない。ベイリーに憑き纏っていた「他者に横切られることへの欲望」が、形を変えながら彼にもやはり逃れ難い業として憑いているように私には思われるのだ。
※『Dead Pan Smiles』については次の拙レヴューを参照のこと。
http://miminowakuhazushi.blog.fc2.com/blog-entry-366.html

 よりわかりやすい形としては、彼がFtarri水道橋で続けているライヴ企画「Shield Reflection」がある。メンバーを固定したデュオあるいはトリオで3回だけ演奏するというスタイル、いや「取り決め」は、先の欲望の具現化でなくて何だと言うのだろう。だが、それだけではない。彼はよく演奏にラジオを用いる。アンティーク・ショップで手に入れたらしい、ヨーロッパ映画のワンシーンで、戦時中に家族みんなでこっそりBBCニュースを聞く際に暖炉に上に置いてあるような古風な外観。彼はこのラジオにギターの出力を直接つなぐのではなく、トランスミッターを介して電波として飛ばし(わずか50cmほどの距離を)、ダイヤルをチューニングしてラジオに拾わせる。がさがさした荒れがひどくて、いつもたいてい途中で止めてしまうのだが、それでも何度も試みている。開演前にその調整をしているところを眺めていると、彼は照れくさそうにはにかんで「電波って何でか好きなんですよね」とつぶやくが、これは決してかつての「ラジオ技術少年」の名残だけではあるまい。

 そこで欲望されているのは、眼に見えない電波が飛び交う空間に、一瞬とは言え、全くの無防備でギターの出力を旅立たせることである。ギターの音が素肌で外界にさらされ、顔も姿もわからない者たちに自由に襲いかかられ、触れられ、汚され、傷つけられ、陵辱されるのを待ち望むことである。もちろん彼は、空間に音を放つこと自体が、空間/隔たりによる不可避の変容を被ることであるのをよく知っていて、潔い覚悟の上で音を空間に、そして聴き手の身体に委ねている。だが、それ自体を視覚にも聴覚にもとらえることのできない電波は、音とはまた違う存在だ。耳で聞いたように感じられる幻聴よりも、脳内に直接響き渡る見知らぬ他者の言葉が「電波」と形容され、より侵襲力が高いことはよく知られていよう。そこには自らの放つ音に、別の何かを混入させたい、そのことによって自らを暴力的に押し開きたいという切なる願いがこもっている。

 このことは彼の楽器の選択からも裏付けられる。ふだん演奏に用いているエレクトリック・ギターについて彼に尋ねたところ、Gibson L-4という機種で、アコースティックとしても使用できるよう、ピックアップがきちんと固定されておらず(「開閉可能」とでもいうようにパカパカしている)、そのため電気増幅すると、簡単にハウリングを起こしてしまうという。それを彼はフル・アコースティックのボディを活かして、ほとんど電気増幅せずに演奏することが多い(前述のラジオの使用も電気増幅により音量を得るためではない)。通常のアコースティック・ギターよりも反応が早く、胴体を共鳴が満たすのを待たずに、弾くそばから音がすっと手元を離れて飛び立つ感覚がある。もともと「受信機」としての感度が高く、他に影響を受けやすい(=汚染・変容されやすい)だけでなく、自ら厚く鎧を纏い、完全防護で戦地へ赴くのではなく、素肌をさらすのも厭わず軽やかに走り出し、狭い隙間を鮮やかに駆け抜け、厚い暗闇を鋭く切り裂いて、繊細で希薄な響きしか残さない無防備な楽器を選び取るとは、彼の演奏の志向性になんとふさわしいことだろうか。

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撮影:原田正夫


8.ポスト・ベイリーの地平【補足】
 「ポスト・ベイリーの地平」との表現が、誤解により大上の演奏を狭い枠組みに押し込んでラベリングすることにならないよう、なくもながの補足を記しておきたい。
 多くの即興演奏者はベイリーの提起した課題を引き受けていないし、発展させてもいない。多くの者たちはベイリーらが切り開いた地平を、ルールを守れば安全と栄誉が保証される、伝承芸能のようなものととらえている。そこでは「ポスト」との接頭辞は、大いなる空白と弛緩を示すものでしかない。今更言うのも恥ずかしい当たり前のことだが、「ポスト」とは単に時間的な後であることだけを要件としているわけではない。ベイリーの死後に即興演奏を始めれば、それが「ポスト・ベイリーの地平」になるなどということはない。
 ましてや、あらかじめ何も準備しないことが即興演奏だとか、聴き手の期待を裏切って驚かせることが即興演奏の真髄だなどというのは、発言者が即興演奏をまるで理解していないことを示しているだけの、とんだ茶番に過ぎない。それはベイリーの地平などとは何の関係もないことだ。
 これもまた当然のことだが、中には別の道を歩んで大きな成果を挙げえた者もいる。同じギター奏者であるというだけの理由で、「ベイリーのコピー」呼ばわりされたフレッド・フリスについて、先にCompany『Epiphany』に関する説明で「明らかに異なる即興演奏の血脈に属する者たち」としたのは、私の彼に対する評価を表している。
 それでは「ポスト・ベイリーの地平」という語を適用すべき即興演奏者とは、大上流一以外に誰がいるのだろうか。ここでは話をわかりやすくするためにギター奏者に限定しよう。私が思い浮かべているもうひとりは、意外かもしれないがChristian MuntheやTodd Neufeldではなく、Bill Orcuttである。「ポスト・ベイリーの地平」はフリー・インプロヴィゼーションの旧来イメージを大きく超え出ていく。それは単に旧来イメージが先に述べた伝承芸能を、安全圏をかたちづくるためだけのものであり、こんな枠組みなど、当のベイリー自身が遥かに超え出ていたからにほかならない。

螟ァ荳翫・tamaru縺。繧峨@・胆convert_20171009211428
tamaruのツイッターから転載


9.Ftarri水道橋 2017年8月27日 セカンド・セット 5に続く部分
 椅子を片付けて床に正座した徳永が構えるアルトから、ドライアイスの冷気のように微音が滴り落ち、床全体に広がって空間をひたひたと浸し始める。大上による音の破片が、急に窒息を来したように、さわりを含んで慌ただしく跳ね回り始める。これまで一点透視的だった音響空間に、それには到底収まりきれないパラタクシス(ねじれの位置をも含む平行/並行関係)が持ち込まれる。しばらくして外山がおもむろに素手でアフリカ風のリズムを叩き出して加わる。いきなり襟首を掴むように、荒々しく空間の縁に手が伸び、ぐいっと引き延ばし拡げにかかる。やはり最後に加わる三人目がトリオ演奏の構図/構造を明確化する。合わせにいくのではなく、それまでの演奏の平面を包含した新たな広がりをつくりだす感覚。靴のまま足を乗せて、スキンをミュートしつつ張りを高めたフロアタムが、小気味よい鳴りを示す。

10.Ftarri水道橋 2017年8月27日 サード・セット
 自ら提示したリズム・パターンを外山が端からずらし崩していく。ゆったりと踏み外すようなシンコペーションやアクセントが随所に仕掛けられる。口ごもり、やがてふっと溜め息をつくハイハット。ちらばったリズムのかけらをかがるように大上が入ってくると、加減速を繰り返して揺すぶり立てる。そうしながらも外山はくっきりと隙間を保ち、大上の繊細極まりない出音をマスクしてしまうことがない。
 椅子に座り直した徳永が聴き取れないほどの弱音から始め、ロングトーンを揺らめかせる。視線を他に配らない二人とは対照的に(徳永に至っては眼を瞑ってサキソフォンの内部に沈潜している)、外山は、ねめつけるような半眼の視線を二人から外そうとしない。やがてアルトの持続が背景の隅々まで満たし、次第に前景に沁み出してきて、耳のそばまでたどり着く。もはや外山は徳永に視線を送ることなく、黙々とサウンド全体のトーンに対してアクトしている。大上はそれらに半ば覆い隠されながら、後景へと退いて繊細な音響を紡ぎ続ける。

 先に外山が演奏空間をぐいっと引き伸ばした様を見たように、トリオ演奏のダイナミズムにおいては、三者の間に張られた空間の広がりや質が重要となる。その点で、この日の演奏を直接比較すべきは、森重靖宗やtamaruとのデュオではなく、大上が村井啓哲、藤巻鉄郎と繰り広げたトリオだろう。このトリオ、エレクトロニクスを操る村井がサウンドアートや電子音楽、ドラムを担当する藤巻がロック、ジャズ、ラテン音楽等に出自を持つなど、メンバーの「畑違い」度では今回の外山、徳永とのトリオといい勝負だが、各自が他のメンバーとの接点を求めて、繊細かつ微細な音響構築の方へと歩み寄った感がある。その分、交感は深まったが、先の空間はいささか広がりを欠いた平坦なものとなった。
 対して、今回の外山、徳永とのトリオにおいては、ソロから始め、後から一人ずつ加わっていくやり方が功を奏したこともあって、それぞれが自らの「前線」から一歩も引くことなく、最大限のテンションを張り合って、その間に開ける空間を広々と保つものとなった。普通、各自が「前線」から一歩も引かないと確実に密集戦となるわけだが、この逆説が、互いに異なる方向を向いて戦闘を繰り広げるという、即興演奏の持つパラタクシス的な特質を存分に発揮したこのトリオの特異性を物語っている。そして、このことは、演奏の始まる前から、冒頭に記述した不可思議な楽器の配置が、すでに暗示していたのではないかとすら思うのだ。

 サード・セットを終えた大上は、思わず「次回は今日の逆でトリオから一人ずつ抜けていくようにしましょうか」と口走って、外山に「それっていま決めないといけないの」と冷やかされていたが、それだけ、この日の演奏に手応えを感じたのだろう。

 次回のライヴ、このトリオによる演奏の最終回は、冒頭に記した通り、10月22日(日)にFtarri水道橋で行われる。

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撮影:原田正夫  この日のライヴを撮影したものではありません


2017年8月27日 Ftarri水道橋
大上流一(guitar)、外山明(drums)、徳永将豪(alto saxophone)

2017年3月18日 東北沢OTOOTO
大上流一(guitar,radio)

2017年3月12日 Ftarri水道橋
大上流一(guitar)、tamaru(electric bass)


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     『Reach Out to Touch』                 『Dead Pan Smiles』

 2015年12月20日と2016年2月21日にFtarri水道橋で行われたライヴ演奏からの抜粋が、大上流一、村井啓哲、藤巻鉄郎『Reach Out to Touch』(Meenna meenna-991)としてCDリリースされていることを付け加えておこう。ここでは批判的に言及したが、2016年のライヴから抜粋されたトラックは、深く静謐な(だが時に禍々しく不穏な)奥行きをたたえており素晴らしい。
大上流一(guitar)、村井啓哲(electroacoustics)、藤巻鉄郎(drums)





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ライヴ/イヴェント・レヴュー | 21:54:03 | トラックバック(0) | コメント(0)
『松籟夜話』第十夜来場御礼  Thank You for Coming to Listening Event "Syorai Yawa" Tenth Night
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撮影:原田正夫


 『松籟夜話』第十夜にご来場くださった皆様に、厚く御礼申し上げます。『ジャジューカ』のCDがかからなかったり(たまたまLPも用意していたので事なきを得ましたが)、急にスピーカーの下に挿んでいたスペーサーが飛んだりと、怪奇現象に悩まされながらもどうにか無事終えることができ、お陰様で今回も充実した回となりました。以下に当日のプレイリストをジャケット写真及び試聴リンク付きで掲載させていただきます。なお、試聴リンクにつきましては、必ずしも当日プレイした部分ではないものも含まれていますので、ご注意ください。

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撮影:原田正夫


 今回の第十夜は、三回シリーズ「漂泊する耳の旅路―現地録音を聴く」の最終回ということで、移動、距離、伝播、転地‥‥といったいささか抽象的なテーマを掲げることとなりました。こうした語が指し示す茫漠とした広がりから、何に注目して音源を採りあげ、何を導きの糸としてそれらを配列していくのかについては、大層苦労することとなりましたが、その結果、むしろ音源の配列については、ヴァリエーションを拾い集めるよりも類比と連想の線を追うことに集中した、明確に筋を貫いたものになったのではないかと自負しております。確かに音盤の「ジャンル」としては、初期カリプソの復刻からインダストリアル・ノイズ、アパラチアン・ミュージックに沖縄ポップス、『アンソロジー・オヴ‥‥』や『ジャジューカ』といった伝説的作品や仏サラヴァの名盤、ポリティカルなサンプリング・ミュージックにフリー・ジャズ戦士の未発表ライヴと、月光茶房原田店主が驚いていたように、やたらと幅広いのですが。

まずは「距離/隔たり」をしっかと見据える眼差しをそこに感じ取り、移動や伝播とは、ピンと張り渡された細い綱をゆるゆると伝っていくことにほかならないと踏まえつつ耳を傾けていただければ、きっとそこには、情報にしろ、モノにしろ、あるいは形を成しようのない想いにしろ、何物かが響いていく様々な「渡り」の光景が連なり合って得噛んでくるのではないでしょうか。

 音(聴覚資料)だけでなく、文章や映像による資料も用意し、互いに照らし合うよう努めてきた『松籟夜話』ですが、今回はテーマ自体の幅広さと、それと表裏一体の展開の絞込みにより、映像はなし、文章資料もいつものように小説やエッセイ、詩からの引用は果たせず、今回の特集を陰で支えてくれた参考書目からの抜粋のみで構成することとなりました。とは言え、アフリカン・ディアスポラと洞窟壁画とアビ・ヴァールブルクが並べて論じられる機会もそうそうないはずなので、これはこれで少しは興味深いものになったかとは思います。

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撮影:津田貴司


 最後にプログラム内容を最終的にまとめる段階で、心棒となってくれた相方を務めてくれている津田貴司の書き込みを掲げたいと思います。今回の『松籟夜話』に私たちが込めた想いが凝縮されています。


ビセカツさんの言葉を思い返す。云く「糸満発祥の漁法は琉球弧のほとんどにみられるが、本部の備瀬集落にしかない独特の漁法がある、といったことから文化伝播の痕跡を考える手がかりはある。しかし唄の場合は本土の流行歌をもじったり聞き伝えに変化したりして、伝播の痕跡を辿ることができない」。

音楽という「遠さ」。
伝播の「飛び火」。

線をたくさん引くこと。
軸をたくさん想定すること。
重力からできるだけ自由になること。


 それでは『松籟夜話』第十夜のプレイリストをどうぞ。次回以降も続きます(たぶん)。

譚セ邀溷、懆ゥア10-4L_convert_20170926215016 譚セ邀溷、懆ゥア10-4R_convert_20170926220437
撮影:原田正夫



 開演前BGM
 
Various Artists『Music of Morocco Recorded by Paul Bowles 1959』CD2
 すでに彼の地への永住を始めていたボウルズが、連邦図書館等の委託により手掛けた現地録音の集成(CD4枚にモロッコ皮装丁を模した分厚い冊子を収めた美麗ボックスセット)。異国への憧れに突き動かされ、「現地」へと赴いた者だけが眼差し得る魅惑の音風景。だが、それだけが唯一の「真実」や「正解」なのではない。
試聴:https://www.youtube.com/playlist?list=PLTVge1pZNBduHSXQhskA3Kmgdgytt63zQ



1.移動/交通による生成と距離のもたらす断絶 あるいは甘さと苦さ

(01)登川誠仁『Howling Wolf』tr.7【2:59】
 試合開始のゴングが鳴るや否やの強烈な一撃。これをパロディととらえ得るのは、安全圏にいる第三者の視線であり、耳での聴き取りだけによる再現がもたらす「錯誤の豊かさ」を聴き逃し、正統な文化伝統と演奏者の意図という二つの「純粋さ」に事態を還元してしまう。当事者たちはもっと切羽詰まっている。
試聴:https://www.youtube.com/watch?v=u1n7vc1QQwU

(02) Various Artists『Marvellous Boy Calypso from West Africa』tr.2【3:22】Bobby Benson And His Combo「Taxi Driver (I Don't Care)」
tr.5【3:01】Mayor's Dance Band「Bere Bote」
 街頭音のギミックで始まり舌足らずのビジン英語によるコロニアルな甘美さに溢れるtr.2とよりアフリカ音楽的でしゃっきりした、ハイ・ライフを思わせるtr.5で、移動/交通がもたらす豊かさと甘さをまず。
試聴:https://www.youtube.com/watch?v=IXdAD4ucHws

(03)Various Artists『The World Is Shaking Cubanismo from The Congo,1954-55』
tr.1【3:06】Laurent Lomande「Maboka Marie」
tr.2【3:05】Adikwa Depala「Matete Paris」
 前作同様、カリブ海から「故郷」たるアフリカを振り返るのとは逆向きの眼差し。かつての日活映画で流れそうな無国籍キャバレー音楽tr.1は、こうした交通による混交がすでに世界を覆っていたことを示している。tr.2はよりアフリカ的な乾いた硬質さを明らかに。
試聴:https://www.youtube.com/watch?v=m3YXxhFdBxE

(04) Various Artists『My Intention Is War Trinidad Calypsos 1928-1948』
A-1【3:00】The Lion「Death」
 声音と演奏はコロニアルな甘美さを極めながら、どこか気だるく陰鬱に響き、曲題通り、歌詞は永遠、憂鬱、哲学等の語をちりばめて不可解に暗い。甘さのうちに忍び込む苦さ。
試聴:http://www.reggaerecord.com/en/catalog/description.php?code=69104

(05) Various Artists『Anthology of American Folk Music』CD5 tr.6【2:56】Dock Boggs「Sugar Baby」
 弾むバンジョーの中華的な喧噪とお決まりの性的な歌詞にもかかわらず、声は突き放したように無表情。甘さと表裏一体の痺れるような苦さ。
試聴:https://folkways.si.edu/anthology-of-american-folk-music/african-american-music-blues-old-time/music/album/smithsonian
  https://oldweirdamerica.wordpress.com/2012/03/15/62-sugar-baby-by-dock-boggs/

(06)Various Artists『Classic Mountain Songs』tr.3【5:27】
Old Regular Baptists*「I Am A Poor Pilgrim Of Sorrow」
 揃わぬコーラスによるホワイト・ゴスペルtr.3は、うねりやコブシを伴うことなく、互いの声の肌を擦り合わせる。まるで血の滲む痛みにより生きていることを改めて確認するかのように。アパラチアン山脈に行く手を阻まれ、孤立し、食い詰め、どん詰まった嘆きが刺すような剥き出しの苦味を放つ。
試聴:https://www.youtube.com/playlist?list=PLzPfZr0tOrsdvj8UXbN7SI7WYOebEoSwS

(07) Various Artists『MYAHK 宮古 多良間 古謡集1』tr.5【3:10】「雨乞いぬ唄」(
 やはり揃えることを至上としない合唱。複数の起源の異なる旋律を組み合わせたような混交ぶりを示す。張り詰めた前曲に比べ、より柔和な表情を見せるが、童歌を思わせるユーモラスな繰り返しにもかかわらず、つらさを背負った塩辛さが滲む。
試聴:https://www.youtube.com/watch?v=tw_FXrL3g18

(08) Various Artists『PATILOMA 波照間 古謡集1』tr.3【1:40】「中皿ぬアヨー」
 ゆったりと引き伸ばされた声の足取りは、波音に洗われながら、曲や旋律自体は共同体の文化に属しつつも、歌はそこを離れてひとり歩むしかない重いつらさと凛とした気高さを、塩辛く物語っている。
  試聴:http://www.ahora-tyo.com/detail/item.php?iid=8043
     http://elsurrecords.com/2013/04/22/v-a-%E3%80%8E%E6%B3%A2%E7%85%A7%E9%96%93%E5%8F%A4%E8%AC%A1%E9%9B%86-1%E3%80%8F/

(09) Various Artists『Classic Mountain Songs』tr.13【5:00】
Berzilla Wallin「Conversation With Death」
 女声による無伴奏ソロ。旋律的にはアパラチアン民謡でありながら、オールド・グッド・タイム・ミュージック的なハッピーさとは無縁な、渋柿をかじったような口中が引きつる極限的苦さ。そのルーツである英国トラッドと異なり、共同体に所属し得ない孤独さを全身から放っている。
試聴:https://folkways.si.edu/classic-mountain-songs-from-folkways/american-folk-old-time/music/album/smithsonian
https://www.youtube.com/watch?v=pSf4-DCDtkc



2.隣接する異郷、変調される音響/変容するリアリティ

(10)Higelin & Areski『Higelan & Areski』tr.1~3【5:07】
 ヨーロッパ世界が「内海」地中海を隔てて相対する最も身近な他者たる北アフリカからの砂漠の乾いた風が、絞り込まれた音の隙間を吹き抜ける(Areskiはモロッコ出身)。ループすることなく微細に移り変わるリズムと空間配置の絶妙の構成はAreskiと録音技師Daniel Vallancienの真骨頂。途中に現れるバンジョーのリフレインは先ほどのDock Boggsに通じるものがある。
試聴:https://www.youtube.com/watch?v=j51DIOPvQiA

(11) Ghedalia Tazartes『Diasporas』tr.1【2:40】
  出身地未詳のさまよえるユダヤ人Tazartesの張り上げる、引き裂かれた悲しみにまみれた濁声が、積層されたヴォイスのテープ・ループに吹き惑わされる。ディアスポラの象徴的音像化。
試聴:https://www.youtube.com/watch?v=nURr8ma2KWI



(12) Bob Ostertag『Sooner or Later』tr.1【3:10 F.O.】
  政府軍に射殺された父親の遺体を埋葬する少年の姿(エル・サルバドルでの現地録音)。土を掘り掛けるシャベルの音と少年の涙にむせぶつぶやき、早くも寄って来た蠅の羽音が、決して単純なループではなく、トラウマ的に強迫反復され、現地録音が抽出した「現実のちっぽけなかけら」を際立たせつつ、前曲の構造を照らし出す。
試聴:https://www.youtube.com/watch?v=nFOWPZEj-3E

(13)『Brian Jones Presents The Pipes of Pan at Joujouka』tr.1【3:20 F.O.】
  不審死を遂げた初期ローリング・ストーンズの中心人物Brian Jonesによるモロッコ現地録音のスタジオ加工作品。通常、「現地録音を素材にスタジオで構築された作品」と説明されるが、実際には現地での邂逅を再体験すべく、録音に定着し得なかった音響を補充し続けた結果ではないのか。
試聴:https://www.youtube.com/watch?v=LwEoDGeNyrE

(14)Gilles Aubry『And Who Sees the Mystery』B-1【途中5分程度】
  現地演奏家のサウンドチェック時の録音を電子的に加工。マイクロフォンのハウリングが呼び起こす刹那の感覚。短波放送の混信。街路の雑踏のスナップショット。様々な記憶が去来して過去に呼ばれ、またすぐ現在に引き戻される。前作の冷徹を極めた現代版と言うべき作品。
試聴:http://corvorecords.de/release/gilles-aubry-and-who-sees-the-mystery/

(15)Zoviet France『Shouting at the Ground』tr.6-8【7:50】
  「インダストリアル・ノイズ」に位置付けられながら、サウンドは他と隔絶した唯一無比なもの。民族音楽等を素材としながら、その遺伝情報を解析して古代へと遡る緻密な想像力が、先史時代の古い地層から「古代音響」を電子的掘削探査する。ノイジーにざらついた不透明な音響は、地層の褶曲をもたらす巨大な圧力に押しつぶされ、異様な高密度に至っている。
試聴:https://www.youtube.com/watch?v=TLIbVMAGzBY
https://www.youtube.com/watch?v=gh9sPLw9-QQ

(16)Evan Parker『As the Wind』tr.1【6:20 ~ 12:00 F.O.】
  リトフォン(石琴)の水の滴りや火花を思わせる響きと細く紡がれるソプラノ・サックスの呼吸が暗闇を手探りし、そこに潜む眼に見えない広大な空間を照らし出す。「芸術の起源」たる洞窟壁画の描かれた聖なる空間における音響・環境・即興に向けて遡行する想像力。
試聴:http://www.squidco.com/miva/merchant.mvc?Screen=PROD&Store_Code=S&Product_Code=22651

(17) Various Artists『Music of Morocco Recorded by Paul Bowles 1959』CD4-tr.6【1:30】
 彼方から響いてくる祭礼の喧噪。辺り一面に集く虫の音。眼前から発進する車のエンジン音‥。夜明けまで至る儀式をとらえた録音から切り出された断片に映り込むフィールドレコーディング/サウンド・アート的光景。それはこれら一連の録音が「訪問者」による距離を置いた醒めた(と同時に狂おしいほどに魅せられた)視点によることを明らかにする。件のボックスセットのエピローグ。
試聴:https://www.youtube.com/playlist?list=PLTVge1pZNBduYC249uFC1SvFq-5fatGBY

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休 憩

Pacific 231『Miyashiro』tr.6-7,10
 蓮実重臣らメンバー2人がハワイに暮らした日系人作曲家を模してつくりあげた仮想世界。日本ではなく、ハワイでもない、あり得ない記憶の感覚に満ちた曲集。
試聴:https://www.youtube.com/watch?v=p8jFta3d6J0





3.幻想の大陸の彼方へ

(18)Bengt Berger『Bitter Funeral Beer』tr.1【3:00 F.O.】
 ガーナで現地録音された伝統的葬儀の様子(女たちの泣き声)にスウェーデン人ミュージシャンのスタジオ演奏が重ねられ、彼方へと送り届けられる。辺り一面に立ち込め、混じり合い、相互に浸透していく音響。
試聴:https://www.youtube.com/watch?v=fIB0i8tmk1U



(19)Kelan Phil Cohran & Legacy『African Skies』強調文tr.1【4:15】
 異世界への扉を開ける開幕曲。「アフリカ回帰」というにはあまりにも透明に澄み切ったケルト的音響は、「いまここ」とは別のいつか/どこかへの憧れに満ちている。演奏風景もどこかSF的な異世界感覚に満ちている。彼はシカゴを拠点とする黒人ジャズ・ミュージシャンで、サン・ラのアーケストラに参加した経験を持ち、ステージではサン・ラ同様、エジプトのファラオ姿の扮装も見せる。
試聴:https://www.youtube.com/watch?v=mB58izkmArc

(20)Count Ossie & the Mystic Revelation of Rastafari『Grounation』CD1 tr.1【4:50】
 ラスタファリの儀式音楽ナイヤビンギ。アフリカン・ディアスポラをユダヤ人の宿命と重ね合わせ、バビロンからザイオンを、ジャマイカからエチオピアを、カリブ海からアフリカ大陸を眼差し、幻想の起源へと遡る想像力。
試聴:https://www.youtube.com/watch?v=dfJFh4t_HmA

(21)Town and Country『Up Above』tr.1【7:42】
 ハーディ・ガーディの唸りとヴァイオリンの軋みにも似た甲高い響きにより、ミニマルに織り成されるドローン的な音響は、明らかにアパラチアン・ミュージックの記憶を枠組みとしている。最後に聴かれるハープの音色は聴き手を(15)で垣間見たケルトの幻へと連れ戻す。アメリカーナの安逸さに流れることのない、レコードの針飛びにも似た強迫反復的音響。
試聴:https://www.youtube.com/watch?v=dYy-ye7wjCs

(22)Albert Ayler『Holy Ghost』CD5 tr.2【6:00 F.O.】
 これは「破壊者アイラー」が撒き散らしたフリー・ジャズ的混沌なのか。否。ここまで長い旅路を続けてきた耳は、そこにマーチとスコットランド民謡とニューオリンズ・ジャズと教会音楽(ニグロ・スピリチュアル?)がメリー・ゴー・ラウンドのように巡り続ける様を看て取るだろう。子どもの頃に高熱に浮かされて見る夢。今際の時に巡る思い出の走馬灯。テーマの器楽的な変奏へと飛び立つ代わりに、異なるテーマをメドレー風に繰り返す特異なインプロヴィゼーションのあり方は、ちりばめられた異質な記憶の断片にその都度囚われ、その度ごとに異なるテーマ・メロディを強迫反復せずにはいられないことの現れととらえられよう。1966年ベルリンでのライヴ。
試聴:https://www.youtube.com/watch?v=inaJpgH11X4

(23) Various Artists『Various Instruments of Indonesia』tr.13【2:00】
 ホラ貝楽器によるアンサンブル。くぐもった音色による揃わない千鳥足の演奏のうちに、ニューオリンズ的とも言える大らかな讃美歌風のメロディを聴くことができる。アルバート・アイラーの高熱に浮かされた密度からの帰還/沈静のために(と同時に彼の鎮魂のために)。
試聴:https://www.amazon.co.jp/%E5%A4%9A%E5%BD%A9%E3%81%AA%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%8D%E3%82%B7%E3%82%A2%E3%81%AE%E6%A5%BD%E5%99%A8-%E6%B0%91%E6%97%8F%E9%9F%B3%E6%A5%BD/dp/B0017GSGUM


 サルヴェージ

Washington Phillips『What Are They Doing in Heaven Today ?』A-1【1:59】
 音響の深淵から現世へと浮上するためのプロセス。ベビーベッドの上で回るメリーにも似たドルセオーラの夢幻的な音色は、自身のアンサンブルにハープシコードを導入したAlbert Aylerが追い求めていた天上の響きではないだろうか。
試聴:https://www.youtube.com/watch?v=EtLfSknVW3M

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今回もその力を如何なく発揮してくれた歸山幸輔設計の反射板スピーカー
「奈落の底を覗き込むスピーカー」(多田雅範 撮影も)


『松籟夜話』第十夜参考文集 引用文献一覧

1.距離 遠さと近さ
 篠山紀信・中平卓馬『決闘写真論』朝日新聞社
 ジェイムズ・クリフォード『文化の窮状』人文書院
 ポール・ギルロイ『ブラック・アトランティック』月曜社

2.移動、伝播、転移、再配置、転位、位置喪失
 アンドレ・シェフネル『始原のジャズ』みすず書房
 ポール・ギルロイ『ブラック・アトランティック』月曜社

3.手つかずの無垢で純粋な民族文化という幻想
 田中純『アビ・ヴァールブルク 記憶の迷宮』青土社
 ジェイムズ・クリフォード対談集『人類学の周縁から』人文書院

4.アフリカン・ディアスポラ 
 ポール・ギルロイ『ブラック・アトランティック』月曜社】
 レナード・E・ベレット『ラスタファリアンズ』平凡社】
 ポール・ギルロイ「Could You Be Loves ?」
  赤尾光春・早尾貴紀編『ディアスポラの地からを結集する』松籟社
 ジェイムズ・クリフォード対談集『人類学の周縁から』人文書院

5.残存、記憶の「生き残り」
 キャリル・フィリップス『新しい世界のかたち』明石書店】
 村田勝幸『アメリカン・ディアスポラのニューヨーク』彩流社
 ジョルジュ・ディディ=ユベルマン『残存するイメージ』人文書院
 ハンス・ベルティンク『イメージ人類学』平凡社

6.イメージの人類学
 ハンス・ベルティンク『イメージ人類学』平凡社】
 田中純『アビ・ヴァールブルク 記憶の迷宮』青土社】

7.メディアへの記録(写真や録音)によってつくりあげられる配置の平面
 ジェイムズ・クリフォード『文化の窮状』人文書院
 田中純『アビ・ヴァールブルク 記憶の迷宮』青土社
 ジョルジュ・ディディ=ユベルマン『残存するイメージ』人文書院
 カルロ・ギンズブルグ『ミクロストリアと歴史』みすず書房

8.洞窟壁画、感覚遮断、内部光学、環境・音響・即興
 江澤健二郎『バタイユ 呪われた思想家』河出書房新社
 アンドレ・シェフネル『始原のジャズ』みすず書房
 デヴィッド・ルイス=ウィリアムズ『洞窟のなかの心』講談社
 ニコラス・ハンフリー『喪失と獲得』紀伊国屋書店】
 中井久夫『徴候・記憶・外傷』みすず書房


『松籟夜話』第十夜

◎音楽批評・福島恵一とサウンドアーティスト・津田貴司がナビゲートする、「聴く」ことを深めるための試み。◎会場は青山・月光茶房隣設のビブリオテカ・ムタツミンダ。歸山幸輔によるオリジナルスピーカーで様々な音源を聴きながら「音響」「環境」「即興」の可能性を探ります。
◎第十夜は、三回シリーズ『漂泊する耳の旅路 - 現地録音を聴く』の第三回。「移動する音、生成途中の音楽」と題し、空間/時間的な「遠さ」を隔てて飛び火していく音や響きに焦点を合わせ、距離がもたらす変化や思いがけない類似へと耳を澄ます中で、これまで自明の前提としてきた「現地」とは何かを問い直し、聴取の「現場」を新たに切り開きます。

福島恵一 音楽批評/「耳の枠はずし」 http://miminowakuhazushi.blog.fc2.com/
津田貴司 サウンドアーティスト http://hoflisound.exblog.jp/
歸山幸輔 オリジナルスピーカー

日時:2017年9月24日(日)18:00 ~ 21:00
会場:Bibliotheca Mtatsminda(ビブリオテカ・ムタツミンダ:青山・月光茶房隣設ECMライブラリー)

事前03
季節の星座をテーマにした川本要デザインのフライヤーは『松籟夜話』の顔と言うべき存在。



ライヴ/イヴェント・レヴュー | 23:27:08 | トラックバック(0) | コメント(0)
フリー・インプロヴィゼーション/フィールドレコーディングのパラタクシス あるいはキスの作法 ― Les Trois Poires @ OTOOTOライヴ・レヴュー  Parataxis of Free Improvisation / Fieldrecording OR the Manner of Kissing ― Live Review for Les Trois Poires @ OTOOTO
1.Les Trois Poires 2017/07/29 OTOOTO東北沢
 降り出した雨の中、演奏はすぐに始められた。照明を落としたホワイト・キューブに響きの層が広げられる。テーブルクロスに形のない薄い染みとなって広がる低音の震え。大型のデザートドラムに張られた皮が、ゴム球でゆっくりと撫ぜられて挙げるくぐもったうなり声。ギターの弓弾きの植物質のかすれが放つ新しい畳のつんとした匂い。響きの各層は弛みを排し、緊張や硬さを遠ざけて、何より鋭敏であることを目指しながら、手の甲同士を微かに触れ合わせ、「徴候」を探り続ける。

 ベース弦と指先が触れ合い、小さく「ビン」と鳴った後を、追いかけて低音が湧き上がり、鋭いさわりを身にまとうに至る。その間、かざされたデザートドラムの皮にベース音がブルルッと鳴り響き、ギターの弓弾きがガサガサとささくれていく。

 ギターの弓弾きの遠く深い響きが、遥か彼方を半眼で見詰めている。時折混じる軽く希薄なかすれ音が視界をすっと横切る。乾いた紙に触れ、落ち葉をゆっくりとかき混ぜるカサカサした音がしばし聴こえたかと思うと、タタタタタ‥‥と岩から滲み出る湧き水の滴りに波紋音(ハモン:表面にひび割れ状に入れたスリットにより、部位により音高の変わる金属打楽器)を差し出したかのように、粒立ちが涼やかに鳴り響く。ベースは低く言葉少なにつぶやき、次第にその背後から低音が浮上してくる。

 短い沈黙を挿みつつ、クロッキー帳のページをめくるように、その度ごとに新たに始められ、終わりへと向かう演奏。始まってすぐ、全員が最初の一音を出し終わった時点で、三人の立ち位置はもう決まっている。儀礼めいた探り合いも、予定調和の盛り上がりもここにはない。丁々発止の掛け合いも、ケイオティックなエナジーの噴出も、我慢比べみたいな持続合戦(音を出さないことを競い合うのも含む)もない。彼らは誰の指図も受けず、目線も合わさず、すっとそれぞれの持ち場に着いて、確実に「チームとして」すべき仕事をこなす。
 この「チームとして」という表現の意味合いを、きちんと説明しておかねば誤解を生むことになるだろう。というのも、そこにある「集団としての同期性」は、通常の「チーム」という概念からは程遠いからだ。まず彼らは決して同じ方を向かない。それぞれが違うところを見ている。冒頭の部分に見られるように、各層を敷き重ねはするが、溶け合わせることはしない。寄り添うこともしない。ぶつかり合うことはないでもない。しかし、がっちりと組み合って事態が膠着へと陥らないよう、すっと身をかわし離れる術を心得ている。たとえ収斂しながらも、必ず隙間を残し、風通しの良さを保つ。変化/転換への道筋を残しながら、その角を曲がらず、終わりへと歩みを進める。それゆえ誰かが演奏を始めないうちに、終わってしまうこともある。だから変化は知らぬ間にすっと生じるのであって、三人がタイミングを測り、調子を合わせて動く‥‥などということはない。誰かが動いても、自分が場所を移し、あるいは行動を変える必要がなければ動かない。それでは、その「判断の基準」とは何か。
 もちろん、それをひと言で指し示すことはできない。できるとしたら演奏がつまらないか、そのひと言がどうとでも都合良く解釈できるマジック・ワードであるかの、どちらかであるに過ぎない。ただひとつ言えるのは、最近の彼らは演奏の度に、コンポジションと言うはおろか、ルールとすら呼べない、ごく簡単な「取り決め」を用いてインプロヴィゼーションを行っている(津田の弁)のだが、先ほど触れた「判断の基準」は、その取り決め自体がもたらした結果ではなく、その度ごとに変わる取り決めが次第に明らかにしてきた、チームとしての生理/倫理そのものではないかということだ。

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写真:神原弘志  twitterから転載させていただきました


2.パラタクシス
 ギター、ベース、パーカッションと、楽器編成こそ典型的なスリー・ピースのギター・トリオであるにもかかわらず、彼らの演奏がそのようにコンヴェンショナルに響くことはない。何より、ベースがボトムを支え、パーカッションがリズムを刻み、ギターが旋律を奏でる‥‥といった固定した役割分担が存在しない。かと言って、フリー・インプロヴィゼーションによくある全員がひたすらソロを取るとか、コール&レスポンスをさらに断片化してミラー・ニューロン全開の鏡像の強迫的分裂/反射に至るとか、空気を読みまくって希薄なドローンや、あるいは極端な点描による「沈黙」の共有に傾くこともない。そうした安易な解決を選ぶことにより、音が凛とした高潔さを失って安逸さの中に眠り込んでしまうことを、彼らは何より嫌っているに違いない。特に初期の演奏にあっては、「あ、終わるな」と感じたところから、またさらにtamaruが、改めて弾き始める場面がよく見られた。

 3〜4分程度の短い場面を連ねた今回前半の演奏においては、お互いの距離を緊密に保ち、密着しながら絡みあって終わりへと向かう展開が多く見られた。彼らは予定調和にはまらぬよう、巧みに身を入れ替える。各自の描く動線が重複/衝突せぬよう、すっと身をかわしつつ、手の甲を微かに触れ合わせる触覚のつながりは、決して途切れることがない。他へ従属し、固定した階層化に陥ることを拒否しつつ、同一平面状で交わり合うことを避けるため、言わば彼らは常に互いに「ねじれの位置」(三次元空間において直線が平行も交差もしない場合。この時、これらの直線は同一平面上にない)を取っているのだ。
 そのことによって、各自が互いに異質なままでありながら、同じひとつの時空間内で共存を図ることができる。「確固として異なる視点を持つ演奏者たちが、にもかかわらず共演できる」という彼らの高らかな宣言は、まさにこのことを意味している。

 この「ねじれの位置」という表現はあまりに直感的であり、このままでは、これ以上考察を深めることができない。何か別の捉え方はないかと考えていたところ、『表象』10号の岡田温司との対談「新たなるイメージ研究へ」で、田中純がモンタージュとパラタクシスを比較しているのに出会った。同じ異質要素の共存であっても、モンタージュは意図的な構成であり、エイゼンシュタインによれば記号の組合せにより意味を生成する方法、すなわちメッセージの伝達手法にほかならない。これに対しパラタクシス(並列)は、サリヴァン〜中井久夫によれば、イメージ中心の幼児型記憶の渾然一体(プロトタクシス)の中から、関連付けや階層性なしにバラバラに切り出されてくる様態を指す。発達段階としては、この後に、言語を通じた合意によりエピソード記憶が社会化されるシンタクシスが来るのだが、言語とイメージに二股をかけたパラタクシス性が潜在し続けているのではないか‥‥と中井は「発達的記憶論」(『徴候・記憶・外傷』所収)で述べている。
 一方、田中はモンタージュ嫌いの映画監督テオ・アンゲロプロスを例に挙げ、ワンシーン・ワンショットのリアリズムのうちにリアルな「もの」の論理の露呈を見る。ワンシーン・ワンショットとは「視野の周縁」でうごめいているものを捉えようとする撮影法であるというわけだ。ここのところは中井の議論とまっすぐにつながっていて、彼は顔貌記銘を例に挙げ、それが網膜中心部での「質」に関わる情動喚起的な色彩感覚記憶と、網膜周縁部での非情動的な形態的記憶のパラタクシス(重ね合わせ)であることを述べ、さらに暗闇で歩く際の警戒感覚による網膜周縁部の活性化から、聴覚へと話を進め、さらに漢字の記銘が手の運動感覚を巻き込んでいることに言及している。

 長々と文献を参照してきたが、ここでフィールドレコーディングに眼を転じれば、一挙に視界が開けよう。そこで音世界は、異質なものが混在/共存しているが、誰かの意図に基づいてモンタージュされているわけではない。この意図なきモンタージュ、すなわちパラタクシスを録音作品として聴取するためには、メッセージの伝達図式を排し、異質なものの並列を許容し、受容する必要がある。そこでうごめくリアルな「もの」の論理に、深々と身を沈める必要がある。この姿勢が、通常の世界との接し方、たまたま、その場に居合わせて、音が聞こえてくるという場合と全く異なっていることに注意しよう。そうした場合、私たちは行動に必要な情報だけを一方的に抽出し、自らに都合良くモンタージュするに過ぎない。フォン・ユクスキュルが動物について述べた「環世界」とは、まさにそのようなものだった。そうではなく、環境世界のパラタクシス性に留まり、全身を耳にしてそばだて、澄まし続ける必要があるのだ。
 それは一方的に受け身であることを意味しない。昆虫が触覚を揺らめかせるように、コウモリが超音波を放つように、能動的に探ることが必要となる。チューバ奏者の高岡大祐がよくFacebookやブログで釣りの話を書いている。彼の釣りは、ただ浮子だけを見詰めるとか、あるいは竿を何本も立てて、先端の鈴が鳴ったら、それを合図に取り込む‥‥というようなものではなく、まさに釣り糸を垂らすことによって水中や水底の在り様を探るものにほかならない。水深、底の起伏、根掛かりの原因となる障害物、浅い部分と深い部分では異なる水の動き、深さによって異なる魚の種類と密度、食欲や注意力・回避能力等を含めたエサ取り行動の水準‥‥等々。だから彼の釣りには「待ち」が存在しないことになる。

 Les Trois Poiresの3人の演奏者にも「待ち」は存在しない。彼らは音を発していない時にも探査/聴診を続けており、反対に音を発している時にも全身を耳にして聴いている(音を放つことを通じて「聴いて」いるのだ)。それは決して他の演奏者の意図を探ったり、フレーズを聴いて応答しようとしているのではなく、先にフィールドレコーディングの例を挙げたように、世界のパラタクシスな現れを、そこにうごめくリアルな「もの」の論理に触れているのだ。
 およそ出自も年齢層も、制作してきた作品の方向性も異なるLes Trois Poiresのメンバーについて、かつて津田貴司がこう語ったことがある。「メンバー全員、演奏だけでなく録音も手掛けていて、フィールドレコーディングもするんですよ。そこが結構大きなポイントかな」と。


写真:オルーカ  twitterから転載させていただきました


3.フリー・インプロヴィゼーションとフィールドレコーディング
 彼らの演奏は、もともと誰がどの音を出しているか判別が困難であるだけでなく、個々人のヴォイスの枠組みから音が滲み出し、空間の中で不可分に混じり合うことを最初から前提にしている。その響きの混淆体に対して、モニターの色調や彩度、明度、輝度等を相互に操作しあうような集合的な演奏がそこにはある。いつもの水道橋Ftarriよりは空間ヴォリュームが小さく、それだけ音の明瞭度や分離度が高いように感じられる東北沢OTOOTOにあっても、そこのところは変わらなかった。個がばらばらに切り離されて析出してくることはなかった。これはやはり会場の音響特性ではなく、彼らの生理/倫理によるものなのだ。
 特に今回前半、短い場面を連ねる展開においては、演奏が途中で大きな転換点を経ないこともあって、音景の提示にフィールドレコーディング的な感覚が強く感じられた。演奏性(演奏する身体)の突出を許さず、岩肌一面から滲み出す清水のようにミクロな生成を続ける仕方。淡々とドローンの見かけを保ち、アブストラクトな音列を紡ぎ続けるエレクトリック・ベースや弓弾きとパルス状の打撃音に素材を絞り込んだエレクトリック・ギター。ルーレットのように金属球を投げ込まれ回転させられるデザートドラム、スティックのしなりを効かせた連打により、まるで規則的な雨垂れを響かせる水琴窟のように響く波紋音。そこには自動/他動性に演奏を託して演奏者の身体性を希薄化し、手の跡を消し、熱量を下げ、すでに以前からそこにあった連続的な環境音やふとした物音に身を寄せて、たとえ大音量であっても響きをひっそりと空間に沁み込ませるしなやかな静謐さが宿っていた。それゆえ黒々としたたゆたいも、かすれた広がりも、淡く層を成している滲みも、点々と散らばった滴りも、すっと引かれた細くくっきりと勁さをはらんだ線も、雨にけぶり、霧に閉ざされ、風に揺すられ、闇に沈む林の樹々の諸相を、つまりは同じ風景の移ろいを思わせた。

 tamaruのエレクトリック・ベースのソロ演奏のレヴューを経て振り返ると、これまでLes Trois Poiresのライヴ・レヴューを書けなかった理由がほの見えてくる。
 デュオやトリオのインプロヴィゼーションを聴く時、耳は自然とメロディやリズムのフレーズを追い、音高と音価の推移を時間軸に沿ってスキャンしながら、それを個々の演奏者の移り変わりと演奏者間の照応関係の二つの軸でとらえる。演奏者同士が反応しあって演奏が進むわけだから、当然のことながら、ある時点で生じた事象は、それより後、未来に向かって影響を及ぼす。それが個々の演奏の変化や演奏者間の対応関係に現れるというわけだ。それは演奏を会話のようにとらえること、すなわち言語コミュニケーションにおいて意味内容が伝達/変容され、論理が構築/変型される様を観察するかのようにとらえることにほかならない。
 熱帯雨林のフィールドレコーディングを聴く時、耳は何を追うだろうか。獣や鳥の甲高い鳴き声、昆虫の羽音やクリック、滴り流れる水音、風とそれに揺すられる樹々、理由もなくガサガサと音を立てる下草の茂み、窪地のような起伏や寄生植物に巻き付かれた幹による奇妙な反響を、空間に点在する無数の音源の分布として、あるいは幾重にも敷き重ねられた音響のレイヤーとして聴くことだろう。「それは何の音/声か」という罠にさえはまらなければ、ぼんやりした浮かび上がる音響複合体の斑紋と、さらにそれらの間に生じる不思議な響き合いに、あるいは明らかに異なる系の間に生み出される、とても偶然の産物とは思えない、整然たる音響構築や緊密な照応に驚くことだろう。まるで会話しているみたいだと。でも結局のところ、耳はそれを会話としてはとらえない。時間軸上のリニアな推移はここでは重要ではない。意味内容や論理構築の変容も。ここで耳は時間の流れを追っているのではなく、空間の中を眺め回し、探っているのだ。だからAの次に来るのが、Bか、それともCかは、まったく重要ではない。

 〈環境・音響・即興〉をキーワードに掲げ、フリー・インプロヴィゼーションをフィールドレコーディングの耳で聴くと宣言しながら、Les Trois Poiresの演奏をフリー・インプロヴィゼーションとして記述しようとしていたのだ。初回の演奏は何とかそれでとらえ得た(と思ってしまった)ことが、誤りの始まりだったのだろう。耳はすでに彼らが別の世界に遊んでいることを聴き取っていた。それゆえに深く揺すぶられ、打ちのめされた。けれど言葉が紡げず、事態を書き記すことができなかった。
 tamaruのベース・ソロをとらえるための視点をようやく設定したところで、彼らのライヴの当日を迎えた。まだ、tamaruに関するレヴューは書けていなかったが、新たに立ち上げた眼差しを通して眺めると、別の世界がそこにあった。音高と音価に基づく体系、その時間軸上の展開としてサウンドをプロットし(それこそはまさに差異の体系としての言語になぞらえて、音をとらえようとすることにほかなるまい)、触覚や視覚、あるいは体幹や運動感覚上のイメージを補助的に用いるのではなく、バランスを逆転させること。ここで顕著なパラタクシス性に沿って、言語とイメージに二股をかけながら、後者に属する手触り、肌理、密度・濃度、粘性、硬軟や重み等の質感、色彩、温度、匂いや香り、分布や勾配、流れの速度(BPMではなく)、広がり、奥行き、深さ、厚み、トポグラフィックな変形等への感覚を研ぎ澄まし、圧倒的に前景化すること。それにより、時の流れに沿った「物語」ではなく、イメージの膨大な集積を顕現させること。たとえば触覚的音響への注目は、決して音色表現の語彙拡大に留まるものではなく、音楽/演奏を触覚的なものの変容としてとらえるところまで突き抜けなければなるまい。


写真:オルーカ  twitterから転載させていただきました


4.弓を持つ左手
 後半の切れ目なく進行した演奏においては、随所で曲がり角を経るために、前半よりは演奏性が多少前景化することとなったが、それでも基本として、各演奏者の音の間の、そして空間にすでに漂っている響きへの相互浸透の色合いの強さは変わることがなかった。2音や3音のフレーズがいつの間にか移ろい変化し、ゆったりと深く打ち込まれていくベース。振動させた音叉を弦に触れさせて接触不良系の断続音を放つギター。柔らかく触れられ遠くから風に乗って運ばれるガムランを響かせる波紋音。
 だから、松本が急に波紋音を連打して前面に躍り出て、そのまま続けたのにはいささか驚かされたが、その結果として演奏はしばし「協奏曲」風のバランスに移行したものの、それによって演奏の基本的な性格や存立のための基底が揺るがされることはなかった。

 ここで特筆したいのは、津田が左手に弓を持ち替えての演奏である。その前から触れるか触れないかギリギリの接触を保ちつつ、超弱音で緩やかに弓を運び、そのまま、すうっと引き抜いて、余韻を垂直に立ち上らせる精妙さに感服していたのだが、右手で音具を扱っていた時だったろうか、立てかけてあった弓へと左手を伸ばし、そのまま指板上にあてがった。彼は右利きだから巧緻性は当然劣る。にもかかわらず、ゆっくりと垂直に往復する弓は、安定した平らかな広がりのうちに、精緻な粒立ちと軽やかな散乱を生み出した。これは決して収斂の賜物でも、偶然訪れた幸運の産物でもあるまい(後で津田に訊いたら、以前に練習中に試してみて、結構行けそうだから、これは本番用に取っておこうと思ったと言う)。右手に持った弓が、意図した音を放つために透明化すべき「道具」であったならば、不器用な左手はその回路を障害していただろう。そうではなく、弓と弦の接触面で圧力と張力、摩擦/抵抗が繰り広げるミクロな闘争の状況をまじまじと見詰め、感得することなら、これは演奏スキルではなく、身体の認知/感覚スキームの問題であるから、右手を左手に移すこともただちに可能となるだろう。

 興味深いことに、中井久夫が先に参照した「発達的記憶論」の中で、観測主体と観測対象をつなぐ線において切断の位置は任意であるとして、「ボーアによる有名なステッキの比喩」を引いている。それを参照しよう。「ステッキをゆるくもてば、ステッキは路の凹凸を反映し、固く握ればステッキは身体の動きに従ってそれを反映する。ステッキは主体に属することもあり、対象に属することもあるというわけだ。」
 津田にとって、ギター(の弦)を探査する弓は、さらにはギター自体が、「ゆるくもったステッキ」にほかならない。観測主体と観測対象の切断面は、ギター・アンプの発音部位からどんどん後退して、弦と弓の接触面へ、弓と指先の接触面へ、さらには身体の奥底へと遡っていく(その一方で、音の響き渡る室内空間へ、さらには聴き手の身体へと侵食・憑依していく)。前回のレヴューでtamaruのエレクトリック・ベースを「受信機」と呼んだが、津田のギターもまた同じ性質を色濃く有している(そう言えば、彼もまたストラップなしにギターを抱えている)。松本のパーカッション群もまた。
 Michel Donedaの息音もまた、ソプラノ・サックスのベルからまっすぐな管の中へ、リードへ、口腔内へ、喉の奥から身体の深奥へ‥‥と、先の切断面をどこまでも後退させ、「外」を身体の内側へと攻め込ませるための「方法」として、「受信機」や探査ゾンデの性質を帯びている。それは決してサウンド・パレットの増強であるとか、楽器演奏テクニックの拡張ではなく、むしろ「音響」を通じて「環境」と深く交わる(=「即興」)ための通路の開拓/掘削なのだ。もちろん、その一方で彼は、室内の空間ヴォリュームに直接マウスピースを接続したかのように、直に部屋の空気を吹き鳴らしてみせるのだが。

 個々で誤解のないよう、すぐさま付言しておけば、弓の表面で起こるミクロな事象をセンシングし、それを出音の変化を介してフィードバックさせ‥‥というような、システマティックな回路構築について語っているつもりは毛頭ない。もしそうであるならば、フィードバック・ループへの介入を容易にするために、ディレイやエコーを回路に挿入することが必要不可欠となるだろう(ここで私は小杉武久『キャッチ・ウェイヴ』やタジ・マハール旅行団の演奏を思い浮かべている)。これに対し、Les Trois Poiresの3人が、いずれもディレイを使用しない方向に歩みを進めていることを指摘しておこう。
 ここでは接触面での圧力や摩擦、速度と抵抗の知覚が、言わば中枢の大本営による言語判断を経ずして、そのままリアルタイムでの運動の変化/調整に結びついているのだ。もしそうでなかったら、私たちはいったいどのようにキスやセックスをしていると言うのだろうか。頭の中をマニュアル本に書かれた注意事項で一杯にして?

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写真:津田貴司


2017年7月29日(土)
東北沢OTOOTO
Les Trois Poires:津田貴司(electric guitar), tamaru(electric bass), 松本一哉(percussion)





ライヴ/イヴェント・レヴュー | 12:42:50 | トラックバック(0) | コメント(0)
震えへの凝視 ― tamaruのエレクトリック・ベース演奏  Gazing at Quiver ― tamaru's Electric Bass Playing
 前々回に「星形の庭(津田貴司+佐藤香織)」の演奏を振り返ってレヴューしたのに続き、今回はtamaruの演奏について書いてみたい。今回のレヴューはもともと7月29日(土)に東北沢OTOOTOで行われるLes Trois Poires(津田貴司+tamaru+松本一哉)のライヴに向けて書かれる予定だったことをお断りしておく。

 まず告白しておこう。前々回のレヴューの中で触れたように、特に『松籟夜話』第六夜で360°Records特集の第一回としてtamaruを採りあげて以降、彼の演奏はLes Trois Poiresや大上流一とのデュオで何度となく聴いてきた。むしろ、意識して追いかけてきたと言っていい。そしていずれの演奏にも深く揺すぶられ、打ちのめされた。今までに体験したことのない事態が眼の前で起こっており、それが途方もなく輝かしい素晴らしいものであることは、ずきずきと身体に響く衝撃と感銘から明らかだった。にもかかわらず、それを言葉に出来ないもどかしさに苛立った。もちろん、各演奏者のアクションを書き留めたり、サウンドを形容したりすることで、演奏の推移を描写することはできる。しかし、それは単なる「事実」や「印象」の羅列に過ぎず、そこで起こっている事態の核心、すなわち「真実」に迫り得るものではなかった。分析/記述のための視点を設定できず、それゆえ掘り下げが浅く、演奏の強度を受け止め、核心を射抜く言葉を紡げないでいた。
 何か少し掴めたような気がしたのは、水道橋Ftarriでtamaruのソロを聴いた時だった(「星形の庭」の対バンでの出演)。彼のライヴ演奏を聴く以前に、彼の映像作品の上映に接した際に感じた匂いがふと甦ったような気がした。東北沢OTOOTOで聴いた大上流一のソロ演奏との間にも、素早く照応の線が走った。
 さらに吉祥寺Liltで聴いた「星形の庭」の演奏を苦労して「言語化」したことにより、tamaruの演奏の言葉にできていない、思考し得ていない部分の輪郭がほの見えた気がした。そうした感覚を梃子にして、tamaruの音世界をぐいっとたぐり寄せてみたいと思う。


 tamaruはエレクトリック・ベースを抱えると、すっと音を出す。たとえその前に長い沈黙が置かれていたとしても、間合いを計るような素振りは一切見せない。指先だけが僅かに動き、音が鳴り響く。その音はおよそ撥弦楽器の音らしくない。長く張り渡された弦が弾かれて振動する際の、弦の撓む(伸び縮みする)感覚がないのだ。
 たとえば指腹を弦に垂直に打ち付けて奏でられる音は、まるで細く硬い金属棒を叩いたように聴こえる。大型の柱時計の中に仕込まれた「棒鈴(ぼうりん)」が鳴り響かせる時報、あるいはHarry Bertoiaのつくりだした音響彫刻。素早く垂直に立ち上がる、撓みのない、固い芯を持つ音は、立ち上がりの瞬間に放たれるチェンバロに似た金属質の輝きの華やかな散乱が、響きと化して長く尾を引くとともに次第に澄み渡り、しかし決して周囲の空気に滲み沁み渡ることなく、鋭く研ぎ澄まされたサーベルの切っ先のように聴き手の身体を貫いて、振動を直接伝える。

 通常、音を空間に滲み沁み渡らせることによって得られる響きの豊かさ(それゆえそれは常に濁りと共にある)は、彼の演奏にあって、すでに振動している弦に指先で微かに触れることで生じる「さわり」に取って代わられている。ビィーンと鋭い響きが頭をもたげる。角の尖った粒子の粗さ。琵琶やシタールのそれにもちろん似てはいるが、打ちっぱなしのコンクリートに落ちる水銀灯の光を連想させる、即物的でモノクロームな冷ややかさが際立っている。それぞれ低音域と高音域のヴォリュームをコントロールする左右足元のペダルが、前者から後者へと踏み替えられ、響きを照らし出す照明が切り替わって、細部の肌理を、明暗の鋭い対比を、より鮮明に浮かび上がらせる。あるいはその逆により、面相筆のくっきりとした筆致が次第に解け、曖昧にまどろんで、やがて闇に沈む。

 弦に触れる時点ではヴォリューム・ペダルを踏み込まず、音量を絞って立ち上がりを消し、弦の振動が安定した定常状態へと移行してから、それをクローズアップし、線香の煙のように繊細にくゆらせるという奏法も聴かれる。輪郭も芯もない広がり。灯りをつけずに暗闇の中で入る露天風呂のように、ぬるい湯の柔らかく細やかなたゆたいは確かに感じられるのだが、どこまでが外でどこからが内部なのか、皮膚表面が画定するはずの境界が曖昧に溶解し、もはや定かではない。聴き手の身体を浸潤する響き。超低域の音程のよくわからない音圧が黒々と波立って膝下を揺すり、そこから頭をもたげたパルスが、ボディ・ブローのように下腹に鈍く響いてくる。
 ペダルによるアタックの消去を行わずとも、そっと弦に触れるだけで魔法のように柔らかな震えを引き起こし、さらにはそれを絶えず供給し続けることによって、音の輪郭を感じさせない丸く深い響きが放たれる。最初は奥まって聴こえていた「ぽーん」という音が、次第に大きくなり、厚みを増して「ブゥーンン」といううなりを生じたかと思うと、ついには飽和して耳元でビリビリと響き渡り、やがて静まりつつ底なしに沈んでいく。
 あるいは弦に直接触れることなく、ベースのボディを親指の腹で擦ることにより、張り渡された弦の全体を揺らし、重くくぐもった色のない響きの質感だけをつくりだす。

 こうした演奏において、聴取上の外見は電子音によるドローン・ミュージックに似ているが、その本質はまったく異なっている。むしろtamaruのつくりだす映像作品に近い。どういうことか。
 彼の映像作品については、以前にレヴューしている(※)。その特徴は、何気ない日常の光景をとらえた一見変化のない画面の中で、細部のちらつくような揺らぎが常に生成し、揺るぎなく安定しているはずの視覚のうちに潜む、さらさらとした粒子やぼんやりと浮かぶ色彩の斑紋へと瓦解していくミクロで緩慢な「運動」― それを「震え」と呼ぼう ― を、大いなる不安とともに提示することにある。彼のベース演奏にも、マテリアルな音響を取り扱いながら、それを素材として何かを構築していくというより、聴取の体験自体を掘り崩していくものである。
 ※光と影は共に闇から生まれた ―『New Year Silence』ライヴ・レヴュー
  http://miminowakuhazushi.blog.fc2.com/blog-entry-333.html

 もちろん映像作品とベース演奏の間には基本的な相違がある。前者の場合、あらかじめ撮影したローファイな映像をモニタで再生し、それを改めてハイファイで再撮影することにより、システム間に生じる「誤認識」が作品制作のカギとなっていた。これに対し、後者にはそうしたシステマティックな仕掛けはない。これは映像作品が必然的に含まざるを得ない記録/再生プロセスが、ライヴ・パフォーマンスである後者には含まれていないためである。
 しかし、にもかかわらず、両者の間には重要な類似がある。「震え」への凝視がそれだ。奏法の違いにより、音が立ち上がる際の音色を特徴づける「暴れ」(ミュジーク・コンクレートの創始者ピエール・シェフェールは、音色の特徴が周波数のフーリエ解析では再現し得ない理由をここに見ていた)を際立たせるか、打ち消すかの選択が、tamaruのベース演奏で大事な役割を果たしていたことを思い出そう。また、指先による鋭く硬質な「さわり」の付加や、それと対極的な輪郭を持たず、聴き手の身体を浸潤する低音の広がりが、いずれも「震え」に対する直接的な身体感覚を呼び覚ますことを改めて確認したい。通常、触覚的な音とは、「ガサガサ」とか「カリカリ」とか、音の生み出される物体同士の接触面の摩擦を、あるいは音表面の手触りを、触感になぞらえて表現してしまう(表現せざるを得なくなる)音響を指す。しかし、tamaruのベース演奏の場合、そうした「触覚」は音響の表象を超えて、音という力の聴き手の身体への作用そのものとしてある。すなわち震えや揺れとして。そこに彼の演奏の基底面を見たい。


撮影:原田正夫


 そこから改めて見直すと、これまでとは別の景色が浮かんでくる。tamaruのベース演奏において、フレージングは常に断片的であり、変奏による発展の契機を持たない。音程が定かではない音も頻繁に用いられる。高音域と低音域に分割されたヴォリューム・ペダルを操作することで、同じ一つの鳴り響きの中から、バランスの異なる倍音配合が引き出されてくる。すなわち彼の演奏にあっては、音高の時間的配列による旋律構成と、これに基づく構築自体が重要ではないのだ。このことは調律が不要であることを意味しない。実際、彼は毎回きちんと調律を行う。基音のずれは倍音列に影響を及ぼすのだから、これは当然のことだ。
 その結果、彼の演奏は、一音一音の振動を、「震え」を、凝視し続けることの繰り返しとなる。前述のレヴューで採りあげた彼の映像作品が、同質の視点設定から、雪の舞う住宅街の道路、窓の並ぶ建物、見上げる空に張り渡された電線、公園の池で泳ぐ鯉の群れといった対象をとらえた視角の直列接続であったことを思い出そう。すなわち彼のベース演奏とは、弦の、あるいはボディ各部の異なる「震え」が、入れ替わり立ち替わり、耳による凝視の下に立ち現れることなのだ。そう言うと極めて特異な演奏と思われるかもしれないが(実際、極めて独創的なものであることは事実だ)、そうではない。そのことは、たとえばLe Quan Ninhによる水平に置かれたバスドラムの演奏、様々な音具による楽器各部の多様多彩な振動のカーニヴァルをその隣に置いてみれば明らかになるだろう。特異なのはむしろ、かつては一部用いていた音具を捨て去り、ディレイすら外して、ただただ剥き出しの「震え」だけを見詰め続ける、tamaruのストイックな集中の方である。

 これらの演奏は、実はある基本的な仕掛けと、そのことを出発点として、無駄をそぎ落とし、研ぎ澄まされた一連の演奏マナーによって成り立っている。何より、彼のエレクトリック・ベースは途轍もない高増幅度に設定されているのだ。それは決して爆音再生のためではなく、まさに「震え」を凝視するためにほかならない。通常あまり用いられない極細の弦を張り、高感度のピックアップが弦の振動を鋭敏に拾い上げる。それゆえフレットを押さえることによりその都度指定された弦長(これが基音を規定する)だけでなく、弦が三次元的にどう振動するかが重要となる。指板に対する水平・垂直のみならず、弦の張られた方向に駆け抜けていく波や渦も含めて。だから彼はまるで顕微鏡下で細胞操作を行う実験技師のように弦を取り扱う。水平に揺らし、斜めに引っかけ、垂直に打ち付け、弦に沿って指を滑らし、あるいは振動している弦に指先を、指の腹を、爪の表面を僅かに触れさせる。そうした作業/動作に向けて、身体の可能性が等しく開かれているためには、楽器と身体の関係は固定されていてはいけない(情動失禁に至るまで、演奏者の感情の起伏を「透明」に音響に反映するためには、むしろ逆で、楽器は身体に深く埋め込まれなければならない)。だから彼は肩からストラップを掛けることなく、裸のエレクトリック・ベースを抱えて、いつも演奏に臨む。特に即興演奏の場合、楽器と身体との関係を固定することは、特に即興演奏の場合、特定の傾向を固定してしまうと彼は語っている。演奏の最中に楽器を取り落としてしまう危険さえ、演奏の欠くべからざる一部なのだと。

 こうした演奏マナーの在り方は、大音量を目指し続けた撥弦楽器の歩みとはいささか異なっているむしろ息を吹きかけただけで鳴ってしまうほど細く鋭敏な弦を張り巡らし、鍵盤を揺らすことでヴィブラートすら可能だったグラヴィコードを思わせる(そうした過剰な鋭敏さは、チェンバロからピアノフォルテへの「進化」の過程で捨て去られてしまった)。Derek BaileyやJohn Buther、Michel Doneda、Le Quan Ninhをはじめ、優れた即興演奏者たちが見詰め続けた、鋭敏な「受信機」としての楽器の側面。それは演奏者の自己表出のためのパワード・スーツに徹し、大音量や安定した音色を求め続けた楽器の歴史にとっては、切除され続けた危険な「病巣」でしかない。演奏者の意図の外部にはみ出した音を「聴いて(聴き、かつ生じさせる回路を開いて)」しまうからだ。しかし、そうした外部を欠いて、意図の中だけに封じ込められた音楽は貧しいものとならざるを得ない。それ以外を切り捨て、聴こうとしない聴取もまた。tamaruをはじめ、大上流一、津田貴司、高岡大祐、徳永将豪、Satomimagaeなど、最近注目している演奏者たちが、すべてこうした傾向を共有しているのは、決して理由のないことではないだろう。


 ‥‥と、ようやく言葉の形に吐き出し得て、7月29日(土)、思いのほか強い雨に降られた夜に、いつもの水道橋Ftarriとは異なる、東北沢OTOOTOのホワイト・キューブで聴いたLes Trois Poiresの演奏について書き始められるかもしれない。冒頭に記したように、Les Trois Poiresや大上流一とのデュオでtamaruの演奏を聴いていた時は、その音世界に深く魅せられながらも、言葉にはとても移せない、写し取れない正体の掴めなさに当惑していた。彼のソロを聴いて、その弦の震えを彼と共に凝視することによって、何かが垣間見えたような気がした。その時のヴィジョンをとりあえず綴ったものが本稿ということになる。もちろん、分解した各パーツがわかれば、それらを組み合わせた全体像がわかるなどというものではない。音楽とはそんなものでは決してない。しかし、それでも、書きつけた言葉が新たに照らし出すものはあるはずだ。宿便のようにとぐろを巻いた思考がやっと排泄された後の隙間に、新たに芽生える直感もあるかもしれない。ここから、弦の震えを通じて照らし出される、大上流一の演奏の在り様についても、いつか改めて書いてみたいと思う。


2017年6月25日(日)
水道橋Ftarri
星形の庭(津田貴司+佐藤香織)、tamaru





ライヴ/イヴェント・レヴュー | 23:19:24 | トラックバック(0) | コメント(0)
ピアノという解剖台、口ごもれる資質 ― 『タダマス26』レヴュー  Piano As a Dissecting-table, Ability of Hesitation in Saying ― Review for "TADA-MASU26"
 自身がプロデュースするライヴ・シリーズ『tactile sounds』について、「今度のピアノ、初めて聴いたんだけど、すごく良いですよ」と益子博之が興奮気味に語っていたのを覚えている。そのピアノ奏者が今回の『タダマス26』のゲストであるリン・ヘイテツだった。ゲストにちなんで‥というわけではないだろうが、プログラムはピアニストを大きくフィーチャーしたものとなった。そうした中から、特に印象に残った部分を書き記しておきたい。
 いつものことながら、レヴューは一夜の内容の全貌を伝えるものではないし、企画者の意図を代弁するものでもない。あくまでも私の関心に沿って切り取られた視角であることを、あらかじめお断りしておく。
 なお、当日のプレイリストについては、次のURLを参照されたい。
 http://gekkasha.modalbeats.com/?eid=955542


タダマス26-13.Aaron Parks 『Find the Way』(ECM)
 Billy Hartのドラムはパルスに限定することなく、時にはほとんど因習的とすら言えるジャズ・イディオム的なリズム・フィギアを叩き出しながら、Aaron Parksのピアノの音の運びに対し、常にズレた地点に設置していく。細やかに編み上げられたサウンド・レイヤーを滑らかにずらしていく‥‥といった最近のデスクトップ的な精緻な編集感覚とは異なる、もっとラフでざっくりとした感触がもたらす、どこか人を食ったようなヒューモア。益子の「老人力」との形容には思わず膝を打つところがある。

タダマス26-24.Soren Kjaergaard, Ben Street, Andrew Cyrille 『Femklang』(ILK Music)
 Billy Hart同様、NYダウンタウン・シーンで最近「再ブレーク」中のAndrew Cyrilleについて、「この盤の演奏が彼に対する高評価のカギではないか」と語りながら、Soren Kjaergaardのピアノ・トリオをかける(Aaron Parksのトリオとベース奏者が同じという周到さ)。音と音との間がだんだん広がり、たちこめる闇が次第に深さを増していく。遠くで幻の如く虚ろに響くカウベル(か、あるいは‥)が、手前のピアノやシンバルをほのかに照らし出す。

タダマス26-35.Roscoe Mitchell 『Bells for the South Side』(ECM)
 続くRoscoe Mitchell作品も大人数のパースネル表記にもかかわらず、披露された12分以上に及ぶ冒頭曲は、コーダ部分でまるで篠笛のように鋭く一文字に引かれたピッコロ(Roscoe Mitchell自身による)を除けば、Craig TabornとTyshawn Sorey(!)による2台のピアノの凍てついた交響とそこに影のようにひっそりと付き従うWilliam Winantのチューブラー・ベルズ等の金属打楽器しかない。間を置いて沈黙を切り裂き空間にそそり立つピアノの打撃音、さらにはピアノ弦を直接掻き鳴らし、あるいは筐体を叩いて生み出される高密度の音響は、明らかに音高や音価の組織化ではなく、空間を満たす強度/濃度の勾配によって導かれている。シカゴ現代美術館の硬く張り詰めた床や壁、はるかに仰ぎ見る天井、空間の圧倒的なヴォリュームと遠くまで渡っていく響き。深海を思わせる暗闇は、霧にも、むせ返る香りにも似た分厚い静寂にねっとりと充填され、もはや新たな音を解き放つことなどできようはずもない。ただ、たゆたい続ける響きの濃度を、浮かび上がる音粒子の軌跡を、捻じ曲げ、撓ませるだけだ。途中から微かな鈴の音が止むことなく鳴り続ける。それまで暗闇に沈んでいた静寂の襞に、しゃらしゃらと銀粉を振り撒いて、不可視の起伏を浮かびあからせ、最後、ピッコロが一文字に線を引くための舞台を整える。
 おそらくあらかじめ記された「楽譜」があるのだろうが、それは単なる指示書に過ぎない。どのように作戦を遂行し、成果を挙げるかは、一瞬ごとの状況判断、すなわち「即興」に委ねられる。ここでTabornやSoreyたちが開いてみせる世界の豊かさに比べ、あらかじめ用意された「書かれたもの」の構造は、それほど精緻でも複雑でもあるまい。逆に言えば、作曲は自己完結しておらず、演奏の豊かさを決して保証してはくれない。それが「ゲンダイオンガク」としての完成度の低さであると言うのなら、それはそうなのだろう。だが、それがいったいどうしたと言うのか。「たとえ楽譜を見て演奏しているとしても、(所謂「現代音楽」の演奏とは)時間の過ごし方、役割の果たし方が違う」という多田雅範の指摘は、まったくその通りだと思う。
※以下で録音時のライヴ演奏からの抜粋映像を見ることができる。
 https://www.youtube.com/watch?v=dMQ4WOGoMdQ

タダマス26-46.Craig Taborn, Ikue Mori 『Highsmith』(Tzadik)
 Craig TabornとIkue Moriのデュオと聞かされると、「ジャンル違い」というよりも、むしろ、隙間なくみっちりと石垣を積み上げる前者の「建築性」と、ソーダの泡が弾け、クリームが散乱し、色とりどりのチョコレート・スプレーが噴出する後者の女子会的「非建築性」の極端な対比が思い浮かぶ。間を置いて打ち鳴らされるピアノに対し、興奮して「沸いた」頭の中のように、空間のあちこちから噴き出し吹き荒れる電子音のつぶやき/ざわめきが、次第に静まって、空間がたゆたいながらも見通しを取り戻す様には、「音楽」を経由しない(「音楽」へと迂回しない)音の感覚/生理のより直接的な交感を見る思いがした。コメントを求められて「二人の音がまったく混じり合っていない」ことを指摘しつつ、さらに「音が混じり合うこと自体をよいとする価値観は、日本のシーンの方がアメリカよりもはるかに強い」としたリンの指摘が心に残った。

タダマス26-59.Plug and Pray 『Evergreens』(dStream)
 Erik Hove Chamber Ensembleのスペクトル楽派の影響(応用?)だという滲み感の強い管アンサンブル、不協和というよりは色彩の不透明な濁り感をブリッジとして、Benoit DelbecqとJozef Dumoulinのデュオ「Plug and Pray」へとエレクトロ・アコースティックな「空間のたゆたい感」が引き継がれる。スリラー映画で風もないのに揺れるカーテンにも似た、実体を欠いたナイトメア的なストリングス・キーボードの閃き。突如として制御不能に陥り、どもり続け、あるいはテーブの早回しを思わせるガラクタに壊れたリズム・フィギア(多田はアメリカン・クラッカーの痙攣発作的なビートに喩えていた)を噴出させるeドラミング(電子リズムボックス)は、「響き感」の操作により、リズムの刻みだけでなく、存在自体を極端に不安定化されている。ピロビロと輪郭を溶かし、ペラペラと厚みを欠いたまま、無限/夢幻に巡り続けるフェンダー・ローズ。息苦しいほどに濃密な飽和感/デジャヴ感。プールの底に足が届かず、宙を蹴る頼りなさ/救いの無さ。
 対してキーボードもドラムもエレクトリックにささくれざらついた質感へと思いっきり針を振りながら、切れ味の良いタイトなリズムが、Kate Gentileの作品を「Plug and Pray」とはまったく異なる感触に仕立てている。地に足を着け、足早に前へ進む時間。

タダマス26-0縮小
撮影:原田正夫


 Ryosuke Hashizume Groupの演奏の2拍目が引き伸ばされて宙に浮く3拍子を「3+5+3の11拍子」と鮮やかに分析し、あるいは先に触れたように、国内シーンの「音が混じり合うこと」への称賛ぶりに対して醒めた眼差しを向け、さらには変奏により新たなフレーズを紡ぎ出すよりも、同じフレーズを繰り返す方がカッコイイとされる最近の風潮を、「フレーズを繰り出しているうちに、既視感のあるジャズ・フレーズが出てくると、そこでテンションが下がってしまう」というわかりやすい理由説明付きで的確に指摘してみせる(なるほどThe Necksがもてはやされるわけだ)など、今回のゲストであるリン・ヘイテツは、五線譜に視覚化される音高・音価中心の体系を、そのまま具現化した楽器「ピアノ」の演奏者にふさわしい資質を、如何なく発揮してみせた。

 だが私が注目したいのは、彼が今回の『タダマス26』で何度か見せた「口ごもれる資質」である。これは決して皮肉ではない。いきなり(未聴の録音も多数含まれているであろう)新譜からの抜粋音源を聴かされてコメントを求められ、まるで知らないこと、あるいは未知のものにたじろぎ、打ちのめされることが恥でもあるかのように、「ああ、彼の演奏はNYで聴きましたよ」、「メンバーとして参加している○○のことなら、友達なのでよく知っていますよ」と、話をすぐさま既知の体験や人脈関係に着地させようとする者たちがこれまで多くいた中で、彼は違っていた。そもそもインプロヴァイズド・ミュージックなのだから毎回異なるはずの演奏を、あたかも聴く前からわかっていたかのように語ることは、そこに潜む未曽有の事態に耳を不意討ちされることを最初から回避するための身振りではないのか。その点、リンは率直過ぎるほど正直に口ごもっていた。

 それはもちろん、事態が不明であったり、頭が真っ白になって途方に暮れたりしたためではあるまい。むしろ演奏の底知れぬ豊かさを確かに受け止め、そこに潜む「未曽有の事態」にしたたかに打たれながら、その一瞬に彼が受信して/注入されてしまった膨大な情報量を限られた語数でどう伝えればよいのか、懸命に高速演算しているように思われた。色とりどりのランプをけたたましく点滅させながら、なかなか回答をテープに吐き出してくれない巨大コンピューターのイメージ。

 そこに私は彼の「批評」の力を見ている。作曲性と即興演奏性が、空虚な空間に放たれる孤独な音の軌跡と「音響粘土」をこねあげる造形力が、ざわめきと沈黙が、ズレと同期が、音高・音価体系と音色の質感や音自体の強度が、「ピアノ」という異質なものの出会いをかたちづくる「解剖台」の上でせめぎ合い、相互に浸透する様を見詰めた今回の企画 ― それはピアノを俎上に載せるというより、ピアノを俎板=解剖台としたと言うべきものだった ― に、彼は実にふさわしいゲストだった。彼の「口ごもり」を受け止め続けた益子と多田を含め拍手を送りたい。

masuko x tada yotsuya tea party vol. 26: information
益子博之×多田雅範=四谷音盤茶会 vol. 26
2017年7月23日(日)
四谷三丁目 綜合藝術茶房 喫茶茶会記
ホスト:益子博之・多田雅範
ゲスト:リン ヘイテツ(ピアノ奏者/作曲家)



ライヴ/イヴェント・レヴュー | 01:28:47 | トラックバック(0) | コメント(0)
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