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福島恵一

Author:福島恵一
プログレを振り出しにフリー・ミュージック、現代音楽、トラッド、古楽、民族音楽など辺境を探求。「アヴァン・ミュージック・ガイド」、「プログレのパースペクティヴ」、「200CDプログレッシヴ・ロック」、「捧げる-灰野敬二の世界」等に執筆。2010年3~6月に音盤レクチャー「耳の枠はずし」(5回)を開催。2014年11月から津田貴司、歸山幸輔とリスニング・イヴェント『松籟夜話』を開催中。

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共振する息、蘇りの空間 ― Dead Man's Liquorライヴ・レヴュー  Resonant Breath, Revenant Space ― Live Review for Dead Man's Liquor
 「Dead Man's Liquorは俺の人生最後のバンドになる」と高岡大祐がFacebookに書き込むものだから、「これは体験しておかないと一生後悔しそうだし、行かなかったせいで、あんなデカいのに化けて出られてはたまらない」と初めて訪れた阿佐ヶ谷Soul玉Tokyo。トロンボーン、チューバ、ギター、ドラムという、チューバがフロントとベースを目まぐるしく兼任する4人編成での彼らの初ライヴは、「なるほど」と納得させる素晴らしい出来だった。ただ、その時に高岡が「次からはベースの瀬尾高志が入ります」とアナウンスしたのが、ずっと気になっていた。

 チューバがフロントに徹すると、アクロバティックな「綴じ目」が消失して、何というか「フツー」になってしまうのではないか‥‥などと危惧していた私がバカだった。今回、高岡の現在の「地元」(居所かつ勤め先)たる十条に現れた5人組の彼らは、以前とは全く別のイキモノだった。まず馬力が違う。冒頭のローランド・カークの曲で、チューバとトロンボーンががっちり四つに組んだテーマ吹奏の分厚いこと。「ゴジラ、ニューオリンズに現る」だ。ソロでは天井に向けて音が噴き上がり、ベルがこちらを向けば波動砲が飛んでくる。コントラバスはアンプをつないで、ラインを深く彫り刻み、ブローで内側を鋭くえぐる。エレキ・ギターはブラス2本の波間からイルカのように鮮やかに身を躍らせるかと思えば、リズミックなリフを執拗に繰り返し、ここぞとばかりにドラムを煽りまくる。

 ドラムの藤巻鉄郎こそは本日のMIPだろう。客席も、ステージ上の演奏者たちも熱狂の渦に巻き込んだ、スティックを折るほどの底なしの叩きまくりドラム・ソロは、確かに絶賛に値する。しかし、私としてはそれ以上に、高岡や後藤篤のオリジナル曲ではなく、「朝日の当たる家」や「ヘイ、ママ」といった「構造化されていない曲」で、思いっきりフレーズをうねらせ、音を揺すり、サウンドを濁らせて厚みを増し、地響きを立ててのしかかってくる他の面々の「濃い」サウンドに対し、決して隙間を埋めてしまうことなく、切れ味鋭い打撃でくっきりと空間を確保し続けた(「リズムをキープし続けた」ではないことに注意)営為を何よりも高く評価したい。これにより互いの音が風通し良く「交通」する空間が生まれ、この奇跡のアンサンブルが成立し得たといって過言ではない。影のMVP。

 一方、バンマスの高岡は、曲間にトイレに行ったメンバーが戻るまでMCで穴埋めし、「サイコー」を連発して、感極まって叫び踊り出すだけでなく、ステージ上でのリアルタイムのアレンジメントに冴えを見せていた。律儀なまでに順番にソロ回しをするかと思えば、いきなりリズム隊(ギターを含む)だけを放り出して自力で局面を切り開かせ、後藤に耳打ちして2管の短い掛け合いを挿入し、自らのフレージングでテンポの加減速を仕掛ける。

 話を再びフロントの2管に話を戻すが、後藤篤が当日の感想をFacebookに書き込んでいて、「あんな息の量にスピードかけて吹く事はそう無いんだけど、高岡大祐のチューバと2管だと単純にああなるんだよ」と告白している。フレーズでも、音色でも、音量でも、ましてや音程でもなく、息の量とスピード。素早く手が動いて頬を叩き、優しく髪を撫でる‥‥それと同じように熱く火照った息が聴き手の身体に触れてくる。楽器を鳴らすために息を吹き込むのではなく、身体から息が走り出て、息同士ぶつかり合い絡み合い、噴き上がり舞い降りて、押し合いへし合いし、別の息と混じり合う。ここで楽器の管は、演奏者と聴き手を、そしてもちろん演奏者同士を結ぶ「伝声管」にほかならない。

 だが、この日のMVPは、藤巻でも、高岡でも後藤でも、桜井でも瀬尾でも、瀬尾の幼い愛娘でもなく、会場となった十条cinecafe sotoの空間ではないか(Most Valuable Place)。阿佐ヶ谷の倍以上幅のあるゆったりとしたステージと天井の高さ、客席の奥行きとのバランス、エア・ヴォリュームの大きさとアコースティックが、すべて確実にプラスの方向に働き、彼らの特質を引き出していた。客席左手に広がるバー・スペースも、響きが充満・飽和しないために重要な役割を果たしていたと思う。店名通り、フィルムによる映画上映を行うために据えられた35mm用映写機が、ステージ後ろの壁にくりぬかれたガラス張りの開口部の向こうに、守護神のように鎮座していたことも、高岡がMCで何度も語ったように、酒と死に彩られた生、生と音楽に縁取られた死、この一瞬に蘇りとめどもなく噴出する「記憶」をテーマとする彼らにはふさわしかった。最高の環境と舞台装置。屈託なく歓声を挙げ、手拍子をする聴衆も決して内輪ノリではなく良かった。ぜひまた、この場所で演奏してほしいと願っている。

180220シネカフェソト縮小
写真は仲摩武二郎様のFacebookより転載させていただきました。


2018年2月20日(火)
十条cinecafe soto
Dead Man's Liquor
 高岡大祐tuba
 後藤篤tb
 桜井芳樹g
 瀬尾高志b
 藤巻鉄郎ds


【オマケ】
 十条が新宿から埼京線で11分と意外に近いことを知ったのも今回の成果だった。それでも出発が遅れ、高岡がFacebookで紹介していた店で腹ごしらえしようと考えていたのだが、それでは開場時刻に間に合わずオアズケに。でもそれがかえって幸運で、cinecafe sotoのフードのうまさを知ることができた。今回、2ドリンクか1ドリンク・1フード付きとのことで、最初、1フードとしてパイ生地から手作りだというキッシュを注文。ゴロリと大きめの具材のうまさに、調子に乗ってチリコンカンのバターライス添えも追加オーダー。これもうまかった(かなりホット)。鶏唐揚げのポテトサラダ添えにも惹かれたが、さすがに自粛。
 なお、前述のように空間の面白さは特筆モノ。駅前ロータリーからいきなり地下へと降りる階段は後から取り付けたらしく、階段を上がって左手に回り込むトイレへの動線空間があり得ない形状をしている。劇場の舞台裏とかに近い。地下の壁沿いにあった階段(LP置き場になって封鎖されている)も、それ風だった。本当に映画館だったのかもとスタッフに訊いてみると、元は牛乳屋で、地下はその倉庫だったとのこと。だけど牛乳屋の倉庫ってこんなに広いのか。乳牛でも飼ってたのか。まったく訳が分からない。バー・カウンター周りはラウンジ風の仕上げで、手製と思しきピカピカの管球アンプがセッティングされている。ステージの裏側にある映写室を覗くと、フィルム・リールの置台が不思議な形をしていて、レトロ・フューチャーなオブジェみたい。フランソワ・バシェの音響彫刻にも似ている。
十条cinecafe soto(シネカフェ ソト)
東京都北区上十条2-27-12 スズキビルB1
TEL/FAX 03-3905-1566
http://www.cinecafesoto.com/




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ライヴ/イヴェント・レヴュー | 00:15:35 | トラックバック(0) | コメント(0)
補助線の効用―『タダマス28』レヴュー  Additional Lines Are Useful― Review for "TADA-MASU 28"
 前回欠席したため半年ぶりとなった『タダマス28』は、益子による選択・配列と多田の放言が冴え渡る回となった。前半が「ギター特集」で後半が「ピアノ特集」と紹介された、この日のプログラムは、その「分割」を越えて、幾つもの照応の線を縦横に走らせ、聴取の豊かな可能性を明らかにしていたように思う。
 このことを示すため、今回のレヴューでは『タダマス28』で採りあげられた全作品に言及するが、それでも特定の視点/切り口からの紹介であり、「タダマス」の特長であるホストとゲストのやりとりを含めた全貌を示すものとはなっていないことを、あらかじめお断りしておく。


 開幕はMary HalvorsonとMiles Okazakiのツイン・ギターによるMasada曲集『Paimon - Book of Angels Volume 32』(Tzadik)。Masadaとはジョン・ゾーンがオーネット・コールマンのオリジナル・クワルテットのピアノレス編成をあえて引用しながら、徹底的な解体/再構築によりクール・ジャズ化=ジャズの白人化を極限まで推し進め、これによりジャズにオマージュを捧げるという、ジェイムズ・ジョイス的とも言い得るハイ・モダニズムの欲望を露わにしたプロジェクトだった。しかし、ここにはもはやそうした針の振り切り加減はなく、色とりどりの線が互いに速度を競いつつ、表裏が不断に入れ替わり、ねじれながら伸長していく極めて抽象的な世界が開けていた。続くHalvorsonとBrandon Seabrookのツイン・ギターがダブル・トリオ編成に組み込まれたTomas Fujiwara『Triple Double』(Firehouse)では、各演奏者の関係性が縦横に整理されてしまうが故か、演奏の駆動力がいささか欠けるように感じられた。
 

 三枚目、Seabrook の参加したVinnie Sperrazza Appocryphal『Hide Ye Idols』(Loyal Label)でいよいよエンジンが暖まってきた印象。アルト、ギター、ベースが一体に溶け合った持続音が水平にたなびき、時折打ち鳴らされるシンバルの余韻が輝きを放つ。誰とクレジットされていない電子音の細やかなさざ波が空間を遷移し続ける。ここでエレクトロニクスはそれ自体ひとつの音響として鳴り響くだけでなく、他の楽器の響きの一部を採取して、空間の各所に転移/増殖させているように感じられる。順に一次元、二次元と来て、響きの奥行きが三次元的に感じられる本作品の空間性は、だがこの電子回路の作用により、暗闇に仕込まれた幾つもの合わせ鏡のような不可思議な反射/転写ぶりを示しており、虫食い穴だらけの、きっちりと割り切れない余剰の次元を持つように感じられてくるのだった。そのSeabrookのリーダー作『Brandon Seabrook's Needle Driver』(Nefarious Industries)では、三枚目で遍在していた電子の雲はギターのエフェクトへと集約され、弦から迸り出る渦巻きねじれるリフレインから、破片となって改めて四方へと飛び散っていく。これだけを聴いたら「空間系エフェクト使いの巧みさ」とだけとらえられかねない達成が、ここまでの一連の展開により細部まで照明を当てられることになる。だがしかし、益子が「オルタナ・メタル的」と紹介していたように、フランク・ザッパの曲をロバート・フリップが演奏しているような、複雑な構成が眼前で組み変わる「合体ロボ」的快感が魅力なのも確かだ。
 

 対してTodd Neufeldを含むas, tb, gのトリオによる『In Formation Network』(Nuscope)は、全く異なる方向から空間に眼差しを送る。ジョン・ゾーンのプロジェクトNews for Lulu同様、Jimmy Giuffre, Bob Brookmeyer, Jim Hallのトリオに範を得た演奏は、オリジナルの二管が織り成す対位法的な絡みと推移するギターとのリズミックな照応とも、News for Luluの変形自在な速度溢れる流動感覚とも異なる達成を成し遂げていた。それはひとことで言うと、異なる温度の空気が相互に浸透しあうような、気体同士が入り混じる感触だ。ぶつぶつと静かに唾液が泡立つアルトがフレーズをどこまでも引き伸ばし、ゆるみほどけて音自体の重みで落下してしまいそうなところをトロンボーンの持続音が裏打ちし、煙が漂うように支えている。上下に重なり合っていることは明らかながら、輪郭が溶けて曖昧な二管の音色に満たされて深さの見通せない空間の奥の方で、ギターの点滅が奥行きを構成する。演奏が進むにつれ、三者の音はさらに脆く壊れやすさを増しながら、谷へと舞い降りる雲や霧が溶け合うように入り混じる。濃霧に視界が閉ざされる中でもつれ合う息の指先。実はここでプレイされたトロンボーンのヴァーチュオーソSamuel Blaserのペンによる曲「Pieces of Old Sky」は、本作中に2テイク収録されており、比較のために益子もうひとつのテイクの冒頭部分を披露してくれたが、そちらはフィギア・スケートに「トリオ」という種目があったらかくや‥‥と思わせる自在に役割を交替しながらの滑らかな運動性を、オリジナルやNews for Luluと共有するものだった。そちらがtr.2なのに対し、採り上げられた音源が最後のtr.9に置かれていることが、その特異さを示しているように思われる。
TD28-5縮小



 後半の幕開けはManasonics『Foley』(dStream)。「ピアノ特集」と言いながらBenoit Delbecqのピアノは決して前景化することはない。「映画の音響設計を担当している」と紹介されたNicolas Beckerの手腕なのだろう、シンバルの震え、ピアノの遠い響き、シンセサイザーの不気味な屈折が、粒子の粗いモノクロ画面の中で野外の音や鐘の響き、語られるセリフと対等に混じり合う。実に見事な音響空間の構築ぶりではあるのだが、これならDelbecqがピアノを弾く必要はなく、Steve Stapleton(Nurse with Wounds)にファウンド・テープを渡せば済んでしまうのではないかとも思う。その一方で、一見、器用貧乏風にいろいろ風変わりなことに節操なく手を着けているように見えるかれが「同じことを繰り返しながら深めている」(多田)のも確かなのだが。
 このように曖昧な不透明性を有する本作が後半の冒頭に置かれ、実は続くBorderlands Trio『Asteroidea』(Intakt Records)及びそれ以降への巧みな補助線となっていることに、後から気づかされた。Kris Davisのピアノのプリペアドによりミュートされくぐもった響きと、音高を微妙に揺らし泳がせるベース&ドラムが空間の広大さを際立たせるように希薄に配置される。Nicolas Beckerの仕事ぶりを先に聴いているせいで、録音やミックスがごく普通で、音場としてステージの限定された広がりを浮かび上がらせてしまうがゆえに、もっと遠近の隔離をはじめ入り組んだ空間構築を欲する演奏者の想いが果たせていないのではないか‥‥とどうしても想像してしまうことになる。潜在的な可能性を可視化する見事な配列と言えよう。
 2台のピアノの共演であり、2人の女性ピアニストの「対決」でもあるEve Risser, Kaja Draksler『To Pianos』(Clean Feed Records)から、このトラックだけは他の収録曲と全く違うという「To Pianists」を選んだところにも、同じ耳の眼差しは働いているように思う。e-bowによるのだろうか空間に滲みを拡げる強靭な持続音と、ワニ口クリップ等の素材によるプリペアドを想像させる足元が傾くような低音の揺らぎに、各種内部奏法や筐体各部を鳴らす音響が細かな傷を付けていく。共演/対決が前提としている2台のピアノ、2人のピアニストという輪郭を脱ぎ捨てた、自他未分の曖昧で薄暗い混合領域に向けて、全身の皮膚感覚がそばだてられているのがひしひしと感じられる。カヴァーの絵柄に描かれている2台のピアノから流出するエクトプラズム(?)が混じり合う位相に。グランドピアノの降霊術。
  

 Miya Masaoka, Zeena Parkins, Myra Melford『MZM』(Infrequent Seams)もまた、ピアノを「一人オーケストラ」たる「楽器の王様」の地位から引き摺り下ろし、21弦箏とハープの間に放り込んで、「枠組みに長い弦を何本も張り巡らせた弦打楽器」という自らの生理/出自に目覚めさせる試みととらえたい。弦を直接こする音の応酬となる中でも、箏のゴツゴツとしたマテリアルな輪郭を持つ響き、ハープのエレクトロニクスに変形/溶解された流体的な滑らかさ、プリペアドによりトイ・ピアノを思わせる愛らしく優美な天上的な希薄さを獲得したピアノが、それぞれ浮上と潜行を繰り返し、「奥行きを探る構え」(多田)を見せる。


 本編の締めくくりはエクストラ・トラック的にヴォイスをフューチャーしたJen Shyu『Song of Silver Geese』(Pi Recording)。Mat Maneriのヴィオラが笙の如く鳴り響き、フルートが竹の掠れを帯びて、東アジアの民族楽器を擬態しつつ、呪術的ヴォイスの周囲を取り巻く。しかし、アンサンブルの要はここぞという経絡に正確に鍼を打ち込み、揺らぎ広がる時の流れをピッと引き締めるThomas Morganのベースにほかなるまい。台湾と東ティモールにルーツを持ち、東アジア圏でのフィールドワークで得た素材を活用して、NYで活動する彼女については、その学究的な姿勢は高く評価するものの、「アジア系の出自(しかも女性)を持つが故に、(西欧)世界の中心たるNYにおいて、アジアの文化を特権的に発信し得る」‥‥というポリティカル・コレクトネスを誰にも対抗し得ない「伝家の宝刀」として背負っているように感じられて、黒人文化に関するMatana Roberts同様、どうにも居心地の悪さを感じてしまうことを白状しておこう。



 この日は7年目の締めくくりとあって、2017年のベスト10があわせて発表された。そのラインナップについては益子のページ(※)をご覧いただくとして、選出作品を振り返りながら益子が何度も漏らしていた「長く聴かないとわからない」というつぶやきを書き留めておきたい。これは作品/演奏の価値を示す、聴き取るべきポイントが、ちょっと聴けばわかるようなサウンドの新奇さ、スタイルの斬新さ、新たな演奏技術や語法、アンサンブルの組織や統御のシステムにはもはや存在せず、一定程度の持続に注視し続けて初めて感得し得る領域へ移行していることを示している。そこで進行しているのは、音響の淵に深く身を沈め、空間の隅々にまで感覚を張り巡らせ、しかも時間経路に沿って絶え間なく微積分を繰り返えさなくてはとらえ得ない事態なのだ。30秒あるいは1分の試聴で耳目を惹き付け、すぐにわかるように下線を引かれた特質をさらに経歴や人脈やトレンドにひも付けして、これでもかと貧しく記号化してやまない「音楽ジャーナリズム」と彼らが鋭く一線を画するのは、まさにこうした必然的な相違の結果であって、海外事情通のエリート主義やマニアックなオタク気質の産物ではないことを何度でも確認しておきたい。そしてそれこそが、私にとって「タダマス」に毎回通う理由になっていることを。
※http://gekkasha.jugem.jp/?cid=43767


益子博之×多田雅範=四谷音盤茶会 vol. 28
2018年1月28日(日)
綜合藝術茶房 喫茶茶会記(新宿区大京町2-4 1F)
ホスト:益子博之・多田雅範
ゲスト:加藤一平(ギター奏者)




ライヴ/イヴェント・レヴュー | 19:30:39 | トラックバック(0) | コメント(0)
声の震え、息の歩み ― 池間由布子・高岡大祐ライヴ・レヴュー  Voice Vibration, Steps of Breeath ― Live Review for Yuko Ikema and Daysuke Takaoka
 おかげさまで、また、素晴らしい歌い手と出会うことができた。
 今回初めて共演することになった高岡大祐がFacebookに何度も「素晴らしい」と書くものだから、このところずっと気になっていた。youtubeにアップされているライヴ音源では、いまひとつピンと来なかったのだが、行ってみてよかった。やはり拙い録音ではわからないことがある。それに高岡の演奏が彼女の本質を、潜在能力を含め、思う存分引き出したということもきっとあるだろう。
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高岡大祐のFacebookより転載


 開演時間を間違え、最寄り駅で降りてからは以前に訪れたはずの店の入り口を見つけられずに通り過ぎ、着いた時には第一部が終わりかけていた。暗がりに潜む段差につまずきながら店内に足を踏み入れ、ドアのところに立ち尽くしたまま、音に囚われる。向かって左側に腰かけた高岡はチューバを垂直に構え、リズミックなベース・リフをノンブレスで懸命に吹き鳴らす。間合いや強弱、立ち上がりをきめ細かく操作しながら。そして右側にはやはり腰かけてギターを掻き鳴らしながら歌う池間由布子の声の震え。
 ここで「震え」とはもちろん、音程の揺れやブレスの不安定さを意味するものではない。そうではなく、声の不思議な、かけがえのない魅力/魔力としてある。ひとつには音域による声音の変化であり、声の輪郭の鋭敏な移り変わり―場面によりくっきりと像を結ぶかと思えば、中空に溶けてしまいそうになる―であり、さらには倍音成分の響きの豊かさとそのあえかな揺らぎである。そうした特徴が最もわかりやすいのは、ゆったりとした曲調で声を引き伸ばした部分だろう。高岡もまた息を長く保ち、水平にうっすらたなびくように線を引いて、柔らかく滲んだ声のホリゾントをつくる。池間の声は子音のエッジを感じさせることなく、すっと力みなく、だが速度感を感じさせないほどの素早さで立ち上がり、チューバの音と並行に声の指先をどこまでも伸ばしていく。声を張るのではなく、外に向けて響かせるのでもない独自の仕方で。それは言わば内側に負荷をかけて声を内に引き込み、体幹で声を吊り支える感覚だ。声は、言葉は、そこにありながら、彼女の内部にぽっかりと空いた暗く深い淵に飲み込まれていくように感じられる。
 だが、こうした注目すべき達成も、この日の彼女にとっては、まだまだ暖機運転に過ぎなかったと、すぐに知ることになる。

 短い休憩を挿んで第二部が始まる。池間は立ったままギターを構えている。後半は立って演るんですかと高岡。いや、ちょっと離れてみた方がわかることもあるかと思って‥と池間。その後、二人のユーモラスなやりとりが続き、リハーサルにはなかった曲(「雨はやんだ」)をいきなり歌えと、高岡が無茶ぶりされる場面となるのだが、そうした打ち解けた親しみやすさと何が起こるかわからない「野生の空間」のあり方以上に、ここではアコースティック・ギターの弦を強く弾(はじ)く池間の身体の運動に注目したい。リズミックにビートを刻む一律な縦ノリでは決してない、空中に身体を浮かせ揺らがすような動き。それが「めっちゃくちゃ難しい」と高岡の言うメロディの不可思議な動きと、歩調をゆるめ、立ち止まって語りになったかと思うと、急にスキップを始める天衣無縫な声の歩み、さらに高岡の演奏と自在に呼応しながら、即興的に声を散らばせて、空間のあちこちに貼り付けていく運動神経は、すべてこの身体の揺れ動きから分泌されているようだ。そして、先に見た彼女の特異な声のあり方も、ここではもはや声の身体各部のバラバラな諸特徴としてあるのではなく、「歌を歌う」という運動のうちに余すところなくすべて奉仕し、その中で息づき輝くものとなっている。見事なものだ。
 高岡もまた、そうした彼女の変容に突き動かされ、実に見事な共演をした。舌を巻くソロを取ることよりも、鮮やかに彼女の声の本質を引き出す仕方で。しばしチューバを置いて、歯笛(口笛ではなく)で伴奏した場面では、口笛の鋭さの代わりに歯に砕かれて輪郭を滲ませ、豊かな倍音を揺るがせる歯笛の震える音色に、池間の声の秘密を「ほら」といきなり指し示された気がして驚かされた(実際、高域を長く保つ部分の感触など驚くほどに通っている)。また、持続音をゆったりとくゆらせる箇所では、空の色が刻々と変わるように音色を移し、ここぞと言う場面で音量をすっと絞り、池間の声をひとり立たせて、その声の勁さをまざまざと明らかにしてみせる。と同時に、ことさらに構えることのない、一見何気ない歌詞に描き出された、日常のありふれた点景に潜む、ぞくっと手足を痺れさせる深い闇を覗き込ませる。「その踏切を渡ってはいけない。その踏切の音だけは聴いてはいけない。」
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高岡大祐のFacebookより転載


 高岡が激賞する歌い手として、もうひとり華村灰太郎がいる。高岡の新バンドDead Man's Liquorを聴きに行った際に、彼らに先立って灰太郎と福島ピート幹夫のデュオを体験することができた。ギター弾き語りとアルト・サックスのデュオと言うと、かつて目撃した三上寛とジョン・ゾーンの邂逅がいまだに衝撃として自分の中に鳴り響いていて、どうしようもなくそれと比べてしまうのだが(これがとんでもなく高いハードルであることはご理解いただけよう)、彼らは決してそれにひけを取らなかった。
 剥き出しでガツンと来る声の生な手触りが、叩きつけるギター・カッティングと衝突して弾け飛び、アルト・サックスがノンブレスで絶え間なく放出し続ける呼子にも似た甲高いノイズと、千々に入り乱れる。ノイジーに散乱しても互いに音の輪郭は揺らぐことなく、それゆえ「溶け合う」のではなく、撹拌された水と油のように「混じり合う」のだ。歌詞やメロディ、あるいはフレーズをなぞるのではなく、声/息が走り抜け彫り刻む溝が、そのまま線となり伸びていく。溢れ出る声、振り絞る息の軌跡として。
 二人とも演奏開始直後は調子が出ず、共演のピントも合わず、途中、ようやく「温まった」感がしてから、俄然ヴォルテージが上がったのが面白い。高岡の評価する歌い手はみんな暖機運転を必要とするのだろうか(笑)。

 今回は池間と高岡の初共演に捧げたレヴューである。灰太郎と福島のデュオに続いて披露されたDeadman's Liquorの素晴らしかった演奏について語るのはまた次回としたい。また、当の池間と高岡のライヴの模様についても、最初の聴き逃した部分について触れようもないのは当然のこととして、それだけでなく聴いた部分についても、あえて二人の間の、あるいは客席との微笑ましい交感等には触れておらず、むしろ視野とフォーカスは鋭く絞り込んでいる。決して全容を伝えるものではないことを改めてお断りしておきたい。


2018年1月12日(金)
祖師ヶ谷大蔵 Cafe MURIUWI(カフェ ムリウイ)
池間由布子(歌、ギター)、高岡大祐(チューバ)

2017年10月31日(火)
阿佐ヶ谷Soul玉Tokyo
華村灰太郎(歌、ギター)、福島ピート幹夫(アルト・サックス)


なお、近々、関連ライヴの予定があるので情報を記載しておく。

2018年1月16日(火)
八丁堀 Sound & Bar HOWL
東京湾ホエールズ(池間由布子, 纐纈雅代, 高岡大祐)

2018年1月21日(日)
阿佐ヶ谷Soul玉Tokyo
華村灰太郎カルテット(華村灰太郎、今福知己、高岡大祐、つの犬)





ライヴ/イヴェント・レヴュー | 17:38:33 | トラックバック(0) | コメント(0)
残存の中ですり減ることと積み重なること―日本美術サウンドアーカイヴ | 堀浩哉《Reading-Affair》レヴュー  Wearing Off and Piling Up in Surviving / Afterlife ― Review for Japanese Art Sound Archive ; Kosai Hori《Reading-Affair》
1.《わたしは、だれ?―Reading-Affair 2018》
 眠っている猫の腹部のように、海面がゆっくりと上下している。
 海面の映像は正面の白壁いっぱいに映し出され(床から天井まで)、白いシーツを敷かれた上に置かれたソファ(やはり白いシーツで覆われている)に座る白装束の男女(顔もまた白塗りしている)にも投影されている。二人は手元の用紙に記された名前をかわるがわる読み上げていく。潮騒の音が小さく流れている。
 全体の仕立てと静謐な空気から、これが東日本大震災に向けられた追悼のパフォーマンスであり、読み上げられているのは被災者の名簿であろうことはすぐに想像がつく。しかし、それだけではなかった。
 二人の前には一本のマイクロフォンが置かれ、さらにその前方には二台のオープンリールのテープ・デッキが設置されている。マイクロフォンから入力された音声は、片方のデッキで録音され、テープは2mほど離れたもう一台のデッキに送られて、そこで再生され、二人のすぐ前に置かれたスピーカーから放たれる。読み上げの発声から録音された音声が再生音として放出されるまで約10秒の間隔が生じていた。再生された音声は、リアルタイムで読み上げられる声と入り混じるだけでなく、再びマイクロフォンに捉えられテープ・デッキへと送られる。録音・再生によるループ。

 この簡素な仕掛けからすぐに思い出されるのはAlvin Lucier『I Am Sitting in a Room』だろう。この作品では、「私は部屋の中に座っている」という男の声が冒頭に流れ、それがテープ・デッキで録音されて、その再生音が部屋の中に放たれ、再び録音され、再生され‥‥というループが巡り続ける。録音・再生が繰り返されるうちに部屋の空間の響きが乗っていって、言葉の輪郭は次第に不明瞭になり、ディレイとは異なる、周囲の空間に滲んだような反響音が積層して、ついにはせせらぎにも似た、鈴を転がすように涼やかな音響へと変貌を遂げてしまう。その状態からは元の素材が人の話し声であるなどとは、とても想像がつかないほどに。その一方で、ループの繰り返しによる変容のプロセスが時間軸上に展開されており、積層による変化は聴衆の耳に対し余すところなく「視覚化」されている。
 冒頭に描写した堀浩哉+堀えりぜによる《わたしは、だれ?―Reading-Affair 2018》と『I Am Sitting in a Room』の端的な違いは、前者においてはリアルタイムで新しい声の層が常に追加されていくことである。回路を閉じることにより、変容のプロセスだけに純化した後者と異なり、眼の前で名前を読み上げ続ける声は、再生される自身の声とぶつかり合う。その代わり、ループが積層していく「声の地層」の深さを覗き込むことはできなかった。原理的には、再生音はまた再びマイクロフォンを通して録音・再生されるわけだから、ループが巡るにつれ明瞭さを失うにしても、最初に録音された音声はループのうちに永遠に残るはずなのだが、その痕跡を求めていくら耳をそばだてても、片鱗さえ掴むことができなかった。


2.《MEMORY-PRACTICE(Reading-Affair)》
 実はこの日、《わたしは、だれ?―Reading-Affair 2018》に先立ち、同じテープ・ループ・システムを用いたパフォーマンスの、より1977年の初演に近いヴァージョンが《MEMORY-PRACTICE(Reading-Affair)》として上演(再制作)された。こちらは白いシーツや白装束、顔の白塗りは共通だが、男女のパフォーマーは堀夫妻ではなく若い俳優が演じ、発声も拡げた新聞を一文字ずつ読み上げるもので、映像もなかった。こちらでは読み上げが一音だけであり、また交互の発声がゆっくりと間を置いて為されたため(かわるがわる読み上げていた堀夫妻との対比)、第二あるいは第三世代の録音音声(らしきもの)を聴き取ることができた。そのようにして「声の地層」の深さ/積み重なりを垂直方向に覗き込む耳の視線に対し、眼の前を遮るように浮上し横切る不定形の影がある。フィードバックが生じているのだ。始めは時折浮かぶだけだった影は次第に床に立ち込め、とぐろを巻いて、さらには頭をもたげるようになってくる。第二あるいは第三世代の録音音声の姿を掻き消すばかりか、読み上げられる声にまで襲いかかり、いま録音されたばかりの音声すら歪ませてしまうようになる。空間を汚染したフィードバックがいよいよ水位を高めようとしたところで、スタッフがテープ・デッキのヴォリュームを操作し、フィードバックはいったん姿を消すが、しばらくすると、また床から頭をもたげてくる。

 《MEMORY-PRACTICE(Reading-Affair)》と《わたしは、だれ?―Reading-Affair 2018》の上演の大きな差異として、声の姿勢の違いがある。これはおそらく元々の指示なのだろうが、前者では二人の演者はほとんど発声の仕方を変えることなく、淡々と文字を読み上げていた。これに対し、後者においては特に堀えりぜが、感情の自然な昂まりを反映させ(決して芝居っ気が勝っていたということではない)、伏し目がちに声を漏らしたり、斜め上方へ放り上げたり、涙を堪えたり、口ごもりあるいは言い澱んだりしていた。
 流れ続ける潮騒のせいか、最初のうちは生じなかったフィードバックが、《わたしは、だれ?―Reading-Affair 2018》にも現れ始めた。いったん起き始めると、その増殖は速く、ちょうど潮騒が場を明け渡して入れ替わったように、たちまち連続的な層を形成し、大きく息づき始め、ついには先ほどの上演を超える音量にまで至った。ノイズに洗われながら、二人は名前を読み上げ続ける。「名前」という語の性格のせいか、あるいは堀浩哉とえりぜがそこに込める感情や意志のせいか、二人の声は思わず人を振り向かせるような、強い呼びかけの力に満ちていた。フィードバック音響は二人の声に襲いかかり、録音音声を歪ませるだけでなく、激しく渦巻きながら、声自体をすら沈めてしまおうとしているのだが。そうした激烈な力に晒されながら、堀浩哉は立ち上がって叫び出したい衝動を押さえつけ腹に響かせるように、堀えりぜは感情を静かに解き放ち、声を幾分揺らがせつつ、噴出/爆発を押し殺しつつ、苦難に耐え声を放ち続けた。すると突然、テープ・デッキには誰も触れていないにもかかわらず、フィードバック音響がすーっと水位を下げ、急に雲が晴れたように潮騒が戻ってきた。後で聞いたスタッフの話では、潮騒が聞こえなくなったのでそちらのヴォリュームを上げたら、急にフィードバックが減衰したようだ。リミッターが働いたのかもしれないとのこと。奇跡/恩寵とも言うべき瞬間。

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©堀浩哉 撮影者不明


3.残存の中ですり減ることと積み重なること
 二つの上演の間の休憩時に解説リーフレットが配布された。堀浩哉自身による覚書、金子智太郎と畠中実という主催者二人による解説・論考が掲載されており、充実した労作である。上演に先立って金子によるイントロダクションと畠中による解説があったが、前者はむしろ今回の企画シリーズ「日本美術サウンドアーカイヴ」全体の説明であり、後者についてはリーフレット掲載の論稿と基本的には同内容ではあるものの、パワーポイントの投影ではなく印刷された文章で読めるので情報量が格段に違う。また、初演に近い再制作は白紙の状態で提示し、そこにさらに要素をプラスした新作上演に先立って背景を説明するという手順もよく考えられている。さらには上演終了後に三人によるトークが用意され、堀の最近のパフォーマンスの映像なども紹介しながら、堀による1970年代のパフォーマンスと1990年代以降のパフォーマンス(その二つの期間を20年以上に及ぶパフォーマンス活動の中断が隔てている)の違い、その連続と切断、継続と変容を縦軸と横軸から明らかにしていった。

 今回の企画で前提となるパースペクティヴとして示された、堀のパフォーマンスの歴史的位置づけ、特に大阪万博以降凋落していくテクノロジー・アートと「つくらないこと」を標榜する「もの」派の間での配置については、ここでは評価を保留したい。単純に言えば、そこで暗黙の前提とされている、堀の創作活動におけるパフォーマンスと絵画の対比に関し、堀の絵画活動についてほとんど知らないからである。もうひとつには、「もの」派とテクノロジー・アートを対立的に捉える構図に疑問を感じるためであり、これは特に「もの」派について、作品を作者の意図に沿って理解・評価することへの根本的な懐疑による。

 さて、その上で《Reading-Affair》を論じるに当たり、まず「記憶」に着目したい。これは当日のトークの中で、畠中が1998年にパフォーマンスを再開した堀が立ち上げた「ユニット00」について「これは『日本ゼロ年』展に対する反応なんですよね」と発言し、これに堀が応じて「歴史をリセットするなんてとんでもない。記憶は残っていくんだ」と語る場面をはじめ、随所で語られていた。堀は自身のパフォーマンスの70年代と90年代以降の差異についても、前者がそれぞれ一回限りの実験であったのに対し、後者は「絵画を取り戻す」のと同様、「パフォーマンスを取り戻す」として、一回だけでなく、何回も繰り返す中で、そこにいろいろなものを乗せていきたいと語っており、その例として、福島県の避難区域にある誰もいない小学校の映像に、いまここにある展示の影が映り込んだり、あるいは震災直後に訪れた宮城県で瓦礫の山を抜けてたどり着いた海が不気味なくらいに穏やかに凪いでいた様子を撮影した映像(この日用いられていた海面の映像もこれだという)に、パフォーマーの堀夫妻や参加者の影が映り込んでいるパフォーマンスを、「地層のように重ねて」と紹介していた。
 《Reading-Affair》において、「記憶」とは何よりもテープによる録音として示されている。本来、録音は「記憶」というより、機械的な「記録」だが、ここでは先に見たテープ・ループの仕掛けを通じて重層化され、否応なく変容を来していくことになる。原理的には読み上げられた音声が消失してしまうことはないが、実際にはすぐに語としての輪郭を失い不明瞭化してフィードバックに呑み込まれてしまう。声がすり減っていく一方で、それは澱となって積み重なりフィードバックをもたらす。ここではそれを「残存の中ですり減ることと積み重なることの拮抗/共存」と捉えたい。なお、ここで「残存」という語にはNachlebenにアビ・ヴァールブルクが込めた意味合い、すなわち「歴史の経過を超えて生き延びること」を含意している。
 なお、当日配布されたリーフレットに掲載された金子智太郎「波状の境界 堀浩哉《MEMORY-PRACTICE(Reading-Affair)》」の中で、金子は堀のパフォーマンスに対する峯村敏明の評語「収縮と膨張」に注目し、次のように論じている。
 「峯村の議論は、堀のパォーマンスをたんなる一方向の解体ではなく、収縮と膨張の間の危ういバランスをとることとして理解する。このような理解は《Reading-Affair》に向かう堀のパフォーマンスの展開を検討するために不可欠なものではないか。彼のパフォーマンスの展開は、収縮と膨張のバランスをとっては、あえて崩し、再調整するという作業の反復に見えるからだ。」
 さらに、この「収縮と膨張」と反復は「収縮と膨張の往還」と捉え直され、「往還」を「堀のパフォーマンスの展開にとって重要」と位置づけ、次のように述べている。
 「ギャラリー・カドで上演された《Reading-Affair》では、こうした往還とハウリングがさらに強調された。2人のパフォーマーの往還運動にはリズミカルな流れがある。また、パフォーマンスの経過とともに相手の声が聞きとりづらくなるために、行為することと聞くことの関係が一定の緊張感を保ち続ける。さらに、ハウリング・ノイズがだんだん声に混じり、声を覆って、これまでにない存在感を発揮する。パフォーマー2人の往還、堆積していく声、ハウリングが次第にあらわれて声と入れ代わっていく流れ、これらが《Reading-Affair》に幾つもの波動を濃密に共存させていく。」


4.《Reading-Affair》上演におけるプロセス
 作品を「プロセスを通じて生成してくるもの」と捉えるならば、作者が記したコンセプトや「意図」のみによって作品を評価したり、あるいは作品に遭遇した体験をそれらの絵解きに還元することはできない。《Reading-Affair》は音楽でもサウンドアートでもないが、この視点からすれば「上演」の問題を考えないわけにはいかない。
 《Reading-Affair》の作品構造からしても、また、堀浩哉における「記憶」、「重層化」、「往還」等の重要性から言っても、先に掲げた「残存の中でのすり減ることと積み重なることの拮抗/共存」は重要なポイントであると考える。これを上演環境において見るならば「テープ・ループの中ですり減っていく言葉と積み重なっていくフィードバックのバランスをどう達成するか」となる。
 たとえば録音された直後の再生音だけが聴き取れればよいのか、再生音がさらにマイクロフォンに拾われた第二世代、さらには第三世代の再生音も聴こえた方がよいのか。多くの層を透かし見られるならば、それだけ地層の深さ/奥行きを覗き込むように体験することができる。
 また、フィードバックはどのように詰み上がればよいのか。先に述べたその場で発せられる声と再生される声のつくりだす地層の深さを覗き込み充分体験した後に、その深みから湧き上がってきた方がよいのか。それとも、すぐにでも空間を満たし、声を水没させてしまってもよいのか。
 フィードバックの音量はどうあるべきか。ずっと小さい音量で足元を洗っていてもよいのか。あるいはパフォーマーの発声自体を聴こえなくしてしまうほど大音量になってもよいのか。この日の一回目の上演では途中でテープ・デッキのヴォリュームが操作されたが、そもそもそうした途中介入は望ましいのか。フィードバックが暴走し、パフォーマーの声が聴こえなくなるどころか、スピーカーのボイスコイルが飛んでしまい、システム自体が破壊されてしまうような事態に陥っても、それは会場の音響環境等がもたらしたものなのだから、それはそれとして放置すべきであり、手を出してはいけないのか‥‥。

 この点についてトークの終わりに設けられた質問コーナーで訊いてみた。時間が限られている中で、これほど丁寧に説明できたわけではないので、質問の意図が伝わりにくかった部分もあるだろう。それでも堀浩哉から次のような話を聞くことができた。

 これまで何度もやっていて、問題がなかったことはない。体験していない失敗はないんじゃないかと思うくらい、いろいろなことが起こる。フィードバックが欲しいのはその通りだが、それでもいきなりでは困る。バランスは重要だが、ちょうどよいところを想定して、それに合わせて調整するという発想はない。そもそもそんなにうまく調整できない。
 今日のパフォーマンスでも、演じているこちらからすると、果たしてこちらの声が会場に聴こえているのか心配になるくらい、フィードバックの音が大きかった。それでも聴こえなくても、それはそれで構わないと思って読み上げ続けた。パフォーマンスのプロセスの中で、そうした往還というのは常にある。えりぜの声との間を空けたりとか。
 手順や機器のチェックは必ず行うが、パフォーマンス自体のリハーサルはやらない。これは今までもずっとやったことがない。パフォーマンスというのはそういうものだと考えているから。

 この発言を聞いた限りでは、堀は言葉がすり減っていくプロセスを幾世代にも渡って聴かせることは考えていないようだ。ただ単にフィードバックが始まるまで、一定の時間が確保され、その間、パフォーマーの生の声と再生された第一世代の声が交錯する様だけを見せられればよいと。ここから彼が《Reading-Affair》のパフォーマンスをAlvin Lucier『I Am Sitting in a Room』に基づいて発想したのではないだろうと推察できよう。『I Am Sitting in a Room』を聴いていたなら、もっと言葉がすり減り、意味を脱ぎ捨て、声としての形状すら失って、ついには人の気配などしない空気の震えへと化していくプロセスに魅せられたはずだからである。それこそ私がかつてそうだったように。しかし、堀はそうではなかった。もちろん技術的な問題もあるだろうし(そもそもそんな風に積層化された光景を一望できるなぞ思いもよらなかったとか)、フィールドレコーディングされた音源に耳を傾け、眼前に広がる前景や中景をめくっていくと姿を現す、後景にたなびく音や響きに耳をそばだてた経験がなかったのかもしれない。

 ちなみに、畠中が堀の発言を補足して説明していたように、テリー・ライリーやロバート・フリップ等がテープ・ループのシステムを音楽演奏に用いる場合は、ミキサーを使用して音量を細かく調整できるようにし、コントロール不能の事態に陥らないようにしている。《Reading-Affair》のシステムには、そのような仕方でコントロールできる部分がない。これはその通りだ。また、この日のパフォーマンスにおいても、当初想定した人数に倍する観客が来場し、音響環境の見立てが全く狂ってしまったというのもその通りだろう。だが、そうしたサウンドの調整に関する部分が、パフォーマンスの本質的な部分ではなく付随的な部分に属するというのは、いささか認識が浅いのではないか。というのも、先の堀の発言にもあるように、また、ライヴの描写にも示されていたように、そここそが「往還」の、すなわちこのパフォーマンス=行為の核心部分であるからだ。
 あらかじめ誤解を生じないように説明するならば、このバランスは会場の選択によって運命的に定まってしまうものではないばかりか、決してテクニカルな問題に留まるものでもなく、上演に携わるパフォーマーが上演中にリアルタイムで関与することも可能な部分である。会場のエアー・ヴォリュームの変更が出来ない以上、音響特性を大きく変えることはできない。しかし、この場合、さして大きな会場ではないから、物を置いたり掛けたりすることにより吸音特性を変えることは可能だ。また、肝心なのは1本の再生用スピーカーと1本のマイクロフォンの間に成立する回路だから、位置や向き、パフォーマーの口元との距離の調節により大きく変えることができる。さらにはパフォーマーが声の強弱を変えたり、発声の間合いを調節したり、身体を傾けてマイクロフォンに口を寄せたり、上半身で、あるいは手を伸ばしてマイクロフォンをカヴァーしたりすれば、さらに音響は変化する。いずれの場合も、再生音のマイクロフォンへの返りを少なくすればフィードバック量は減少し、フィードバックは静まっていくことになる。

 おそらく、そんなことはよくわかっていて、畠中は「バランスは付随部分に過ぎない」と指摘したのだろう。だが、とすれば、パフォーマンスの間、私たちは何を聴いているのか。ただ単に事前に決められた手順が、何があろうと遂行されていくのを見守っているだけなのか。何のためにパフォーマーと同じ空間にいるのか。「一回性」の恩恵を受ける特権的な観客であるためか。それではプロセスを聴いたことにはなるまい。
 ここで「バランスを取る」とは単に暴走させないという意味ではないし、コントロール下に置くということでもない。そこで生成する事態に不断に接続し続けるということにほかなるまい。凝視・聴診・蝕知・探査・関与・距離・伝播‥‥、それこそは『松籟夜話』でキーワードに掲げる「音響」「環境」「即興」の謂である。

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堀浩哉《Reading-Affair》リハーサルから  撮影:梅沢英樹



日本美術サウンドアーカイヴ | 堀浩哉《Reading-Affair》1977年
2018年1月7日(日)
三鷹SCOOL

〈上演作品〉
堀浩哉《MEMORY-PRACTICE(Reading-Affair)》
出演:関真奈美 / 馬場省吾
堀浩哉+堀えりぜ《わたしは、だれ?―Reading-Affair 2018》
出演:堀浩哉 / 堀えりぜ

イントロダクション:金子智太郎
レクチャー:畠山実
トーク:堀浩哉、畠山実、金子智太郎


日本美術サウンドアーカイヴ特設ページ
https://cococara-minamiaoyama.jimdo.com/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E7%BE%8E%E8%A1%93%E3%82%B5%E3%82%A6%E3%83%B3%E3%83%89%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%82%AB%E3%82%A4%E3%83%B4%E7%89%B9%E8%A8%AD%E3%83%9A%E3%83%BC%E3%82%B8/

金子智太郎による日本美術サウンドアーカイヴ告知
http://d.hatena.ne.jp/tomotarokaneko/20171103/p1


日本美術サウンドアーカイヴ次回──稲憲一郎《record》1973年
会期 2018年1月14日(日)〜1月20日(土)
12:00-20:00(月曜休廊、最終日は12:00-17:00)
会場 南青山 Art & Space ここから
展示作品
稲憲一郎《record》(1973年)再制作 他

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©稲憲一郎 撮影:稲憲一郎





ライヴ/イヴェント・レヴュー | 22:30:08 | トラックバック(0) | コメント(0)
即興演奏のパラタクシス、ポスト・ベイリーの地平 ― 大上流一の演奏を巡って  Parataxis of Free Improvisation, Horizon of Post-Derek Bailey's Visions ― Over Ryuichi Daijo Guitar Playing
 10月22日に行われる彼らのライヴへの予習として、もうひと月以上前になってしまった特別な一夜のことを思い出すとしよう。


1.Ftarri水道橋 2017年8月27日 ファースト・セット
 ドラム・セットの配置に押し出される格好で椅子の置かれたステージ左奥の隅から、周囲の空気を揺らすことなく、すらりと立ち上がったアルトの響きに、ちょうどスペースの対角線となるレジの奥の方で、何かが微かに共振して震えている。音圧が高まると響きが上ずって輪郭を露わにし、例の共振の震えも強まって、Ftarri店内スペースの対角線に響きの橋が架かる。眼に見えない波動が走り、部屋を満たしている。
 倍音がさらに色を成し、新たに付け加えられたキューキューという軋みと混じり合って、部屋の中のさっきとは違う場所を揺すぶりたてる。リードの鳴りが高まって濁った厚みを増し、倍音の層を押し出しつつも、その前に踏み出したかと思うと、今度は倍音の層の輪郭がすうっと薄れ、まるで霧が晴れるように透明さを増して澄み渡り、リードのちっぽけな泡立ちだけが後に残される‥‥と思いきや、一転、ぶるぶると震え、ごうごうと鳴る轟音の柱がそびえ立つ。真夜中に強風に揺すぶり立てられ、大枝を軋ませ、小枝を打合せ、ちぎれんばかりに葉々を振りたてる巨木のように。
 指先も含め、ほとんど動きを見せない上半身とは対照的に、靴も靴下も脱いで床のカーペット・タイルに着けている裸足の指先が反り返り、あるいは爪先を着いたまま踵が持ち上がり、足裏の緊張と指先に込められた力の推移を明らかにする。たとえ響きが凪いだ時であっても、それは決して弛緩ではなく、そこにも、いやそこにこそ、恐るべき強度が秘められていることを、浮き上がる静脈が示している。蚊柱や蜂の群れの羽音の集積を顕微鏡的に拡大したが如き響きのモノリスの陰から、循環呼吸で思い切り吸い込む鼻息や、ぷちぷちした唾液の泡立ちが聴こえてくる。

 いつの間にかドラム・セットに近づいていた外山が、バッグを置き、椅子に座る。腰を下ろす際に部屋の隅の徳永にギロリと鋭い一瞥を投げかける。もともと舞台左手に据え置かれたアップライト・ピアノの前に、横向きにドラムをセッティングした結果、大上、徳永が自然と押し出され、いつもの配置からすると時計回りに45度回転したような不思議な配置となったのだった。
 呼吸に身体をチューニングすると、やにわにパチンと柏手を打ち、スキンの張り具合を診るようにタタンとスネアを軽打する。少し俯き加減だったアルトが再び轟音に移行する。まるでアジトの張り込みを続ける刑事のように、時折鋭い視線を送りながらも、外山は音を出さない。眼差しを向けずとも、音は全身の皮膚で感じ取っていて、吹き終わるや否や、間断なくスティックを垂直に振り下ろし、スネアのリムを一撃する。「次」と促すように。パンソリの上演で杖鼓(砂時計型の両面太鼓)が声に対して入れる「間の手」にも近い。やがてスティックの先でシンバルを擦り始めるが、決して安定した層を構築してしまうこことのないよう、きめ細やかに気が配られていた。不安定に浮かぶ擦りの持続と、それを断ち切る鋭い一撃。アルトの響きを全身で注視し、常に傍らに佇みながら、決して持続的に「支える」ことはせず、アルトの響きの満ち引きとは全く違った仕方で時間を分節する。

 大上がおもむろに歩み出て、二人の中間に置かれた椅子に座り、床に置かれたギター・ケースからアコースティック・ギターを取り出すと、パチンと蓋を閉める。それが最初の決定的な一音であったかのように長い間が訪れる。
 ギターを構えた大上がやがて何事もなかったように弦に触れ、弦を爪弾き、あるいはすっと擦って、彼がいつもしているように、他の誰にも出来ない仕方で、研ぎ澄まされ、彫琢され、磨き抜かれた弦の震えそれ自体を中空に結像させる。シンバルの震えの推移とフロアタムのスキンの擦り、引き延ばされた弱音のロングトーンの移ろいがそれと混じり合い、相互に浸透し、ミクロな次元で噛み合いつつ変転し、全体はどこかから空耳のように聴こえてくる、顔もなくとりとめもないつぶやきのようなものとなる。一見一様で平坦な抑揚のない広がりの中に、高まったかと思うと、すっと引いて行くドラムの満ち引きがあり、それが波打つ線を紡いで先導し、ギターのパルスや粒立ちの変化がこれに応じて、アルトの持続音の水平なたなびきが色合いの推移をかたちづくっていく。

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撮影:原田正夫  この日のライヴを撮影したものではありません


2.約束
 この日のライヴは、これまで見てきたように、ソロで始まり、およそ10分経過した時点でひとり、さらに10分ほどしてもうひとりが加わって、合計約30分の演奏を行う約束となっていた。あきれるほど簡単な取り決めだが、これが実に有効に機能した。それは各演奏者が実によく音を聴き、自らの身体がそれらの音に逃れようもなく浸されてあることを、深く理解しているからにほかならない。端的に言えば、ソロが終わって、さてと‥‥とデュオが始まり、デュオが終わって、「せーの」でトリオが始まるわけではない。ひとり加われば、ふたりの音が重なり、融けて、響き合う。それは通常「デュオ」と呼ばれもする、二つのソロの対話を装った交互の、あるいは同時の演奏ではもはやない。そうではなく、すでにそこにある線に、形に、色彩に、何かを描き加えることにより、別のかたちが動きだし、異なる次元が息づき始める。ちょうど連歌の宴のように、前の句に付け加えられた新たな句は、前の句の意味を書き換え、新たな物語の扉を開く。
 今回の三人の演奏をそれぞれ知る者にとっては、彼らが共有し得る演奏の平面など果たして存在するのかと心配になってしまうほど、彼らはシーンの中で見かけ上(「ジャンル」やミュージシャン人脈等)離れた地点に位置し、スタイルもまた大きく異なっている。それゆえに未曾有のサウンドを聴けるのではないかとの期待と、探り合いや行き違いで終始してしまうのではないかとの不安があった。今回採用された「約束」は、新たに加わる演奏者を、すでにある演奏の場にいきなり飛び込ませることにより、探り合いの時間をスキップさせ、サウンドの化学変化を触発していた。


3.東北沢OTOOTO 2017年3月18日 ラスト・セット
 一瞬一瞬を鮮やかに刻み付けながら、いつの間にか別の場所にするりと移動し、別物に転生を遂げている大上流一のギターの核心を捉え得たように感じたのは、彼が自身の企画したライヴ・シリーズを定期的に行っているFtarri水道橋ではなく、初めて訪れた東北沢OTOOTOのホワイト・キューブで、彼のソロ演奏により放たれた音に刺し貫かれた時だった。Ftarriに比べて天井が低く、横幅も狭く、演奏者との距離も近いOTOOTOの空間は、彼の放つ音響を拡散させずに、聴き手の身体に直接ぶつけてくれるように感じた。

 ほとんど動かない指先から、抑制された響きが頭をもたげ、ゆっくりと空間に滲みを広げる。右手がすっと水平に動く。ためらいなく喉を搔き切るように。擦られた弦の鋭い輝きが淡い滲みの上にくっきりとした線を走らせる。音はずり上がり、さらにはずり下がって、いずれも次第に解け、静寂に沁み込んでいく。新たに生み出された微細な音の連なりがもつれ絡まり折り重なって、さらにそれがゆるやかに結んでは開け、また繰り返し、響きのゆったりとしたたゆたいを広げる。その中で弦の響きが時間差で後から浮かび上がるかのように聴こえる。引き伸ばされ、ゆるく弛緩した時間の中で、どこかがまだきりきりと引き絞られ張り詰めたしこりが手触れる。アタックの鋭利さと丸みの対比。たちのぼる余韻が感じさせる微かな空気の動きの変化(もちろんスペースに窓などなく、空調も停められていて、風などあるはずもないのだが)。鞭で打つようなしなり。ブーンと無愛想にざらついて唸るさわり。

 曖昧な半透明の厚み/広がりの中に、様々な感触の断片が浮かんでは消えていく。そうした点在する感触を手がかり、足がかりにしながら、耳が響きの深淵を下降していくと、次第に色彩が薄らいで、まぶしさのないモノクロームに沈んだ空間が現れてくる。音がすべて「運動」へと写像され、細部までくっきりと見渡せる無声映画の世界。びっこのロバが坂道を登るようなリズム/テンポの不均衡さ。それは常に足元を踏み外し、掘り崩しながら進められる危なっかしい綱渡りにほかならない。メタリックに歪んだアタックが一方では不定形の混濁したアマルガムをもたらし、他方では多方向への不均質な多角的反射を生み出す。異なる視点/パースペクティヴから、異なるフォーカス/焦点深度で撮影された写真の貼り合わせ。演奏者/楽器の本来の生理が働いて、演奏のノリが収斂し、整合化・等質化・均等化・単色化して、同一平面に凹凸なく収まりそうになると、彼は出来かけた「世界の結び目」をすっと解いてしまう。「繰り返し」ではなく、連続して新たに同じ課題に取り組むこと。ハーモニクスでサウンドを宙に浮かし、文字通り事態を宙吊り/棚上げして天国的な夢想に委ねること。ようやく築き上げた「トランプの城」のような危うい均衡を、傾けて溶かし去ってしまうこと。滑らかな一連の動作の中に一瞬の間/切断を持ち込むこと。再生不良的にやせ細っていき、突然息絶えてしまう、中断/中途放棄にも似た「終わり損ない」を心から受け入れること。

 大上のギターの、限りなく研ぎ澄まされ張り詰めた、と同時にもろく、はかなく、傷つきやすく、壊れやすい美しい弦の鳴り。旋律を担い、和音を構築し、律動をかたちづくることからこぼれ落ち、逃げ延びた音の輝き。これらの「逃亡奴隷」としての音は、また、「実験音楽」の身勝手なコンセプトにも、「フリー・インプロヴィゼーション」という硬直した制度にも、ましてや演奏者の想いにも囚われてはいない。時間の経過と共に、ますます剥き出しになっていく弦の震え。


4.Ftarri水道橋 2017年3月12日 大上流一・tamaru デュオ
 大上の企画するライヴ・シリーズShield Reflectionの決まり事として、同じメンバーで3回演奏し、組合せを変えるというのがある。このためtamaruとのデュオが最終回を迎えたこの日、大上はアンプもラジオもなしに、アコースティック・ギター一本で演奏に臨んだ。すっと軽やかに、だが鋭く刻まれた音が間を置いて置かれ、そこに弦を擦るさわりが混じる。弦の感度がいつもの数倍に上がったように感じられる。ベース弦のぼあーんと丸みを帯びた深い鳴りが、暗くおぼろな魚影となって、その間をすり抜けていく。面相筆でぴっと引かれた細く鋭い線が、響きの香りとともに空間に滲んでいく。「ぶっ」と、半紙に置かれた太筆の墨跡が、長く尾を引きながら余韻を揺らめかせる。細やかな響きがちらちらと揺れ、揺らぎ、幻惑的な光の移ろいを生み出す。左手の指が振動している弦に伸び、微かに触れてさわりを引き出し、響きの余韻にディレイ風の陰影を施す。陽射しを映しきらめく水面と、重く冷たい水の動きが体表面に圧力として感じられるだけの盲いた水底の対比。

 「対比」と言えば、この日、彼らは、およそ考え得る限りの様々なサウンドの対比のヴァリエーションを奏でたのではなかったか。微細な破片の散乱や点描的なアタックに、床から湧き上がってくるようなアタック感のない極低音のたゆたいが応え、弦の搔き鳴らしが倍音を充満させる中、ベースのフレットに弦を打ち当てるカチッとした打撃音と、振動している弦に指を微かに当てて引き出す、シタールにも似たビーンと鋭く輪郭を際立たせたさわりが浮かび上がる。
 特にデュオを構成する二人が、向かい合うのではなく、同じ方向を向いて互いの影を視界の端にとらえながら疾走し、歩き回り、立ち止まり、抜きつ抜かれつしたかと思うと、むしろ遅さを競い合うような、ダブル・ソロとでも言うべき奇妙な並走関係が生じた第二部の演奏において、それは顕著だった。
 抽象的な音列がするすると走り出し、上りと下りのエスカレーターのように行き違う。二つの異なるリズムの交錯が台地(プラトー)を形成して固着化しようとすると、アクセントをずらし、間合いを伸び縮みさせる動きが、ふっと視界が揺らぐように、左右に同時に生じる。一方が歩速を緩め、ややゆったりと音を引き伸ばしながら、呼吸を深めると、他方はわずかに加速して、揺れ幅を小さくし、きびきびと浅く速い呼吸へと移行しつつ、刃先を鋭く尖らせて、音をより深く彫り刻もうとする。じゃらじゃらとしたギター弦の搔き鳴らしとベースのトレモロが刻み/音数では同期しつつ、絞り込まれた単純さにおいて相反し、搔き鳴らしから珍しくふとフォーキーなコードが浮かび上がると、ベースは音の密度を高めながら、解像度を下げて音像の曖昧化を図り、同期/同調からの離脱、アンサンブルの解体へと向かう。

 即興で踊る際には、必ず意識して身体の中で動かさない部分をつくり、次にそこを動かすことで展開を図る‥‥とは、ダンサー山崎広太の発言だが、インプロヴィゼーションについて考察する際に大きなヒントとなる。「15ゲーム」の空いたマスが可能とする移動、配置の転換、構造の組み替え。と同時に身体の運動を飽和させないこと。身体を消費しきらないこと。身体のうちに不動の軸を残しておくこと。
 先に見てきたように、この日の大上とtamaruの演奏は、あるパラメーター/運動軸の回りを旋回しつつ、次々にピポットの軸足を置き換えるように進められた。進路に立ちふさがられても、ライン際に追いつめられても、身体の軸を自在にずらし、密着してくるマーカーとするりと身体を入れ替え、窮地を抜け出すジネディーヌ・ジダンのターン。
 だがラインの独立性を保ち、淀みなくしなやかに演奏の線を伸ばしていく大上とtamaruは、同時に両者の放つ音響の深い相互浸透を可能とする、ひとつの太い軸=体幹を共有しているように思われた。ジダンの右脚と左脚のように。それこそは弦の震え/振動を凝視し、そこから生起して漂泊を続け、そこへと回帰することにほかなるまい。

 tamaruのペダル操作が、高域と低域のヴォリュームを変化させるだけのものであることは以前に彼の演奏に関するレヴュー(※)で述べた。これにより音色が変化するだけでなく、倍音帯域の有無により響きの密度や輪郭の強さ、さらには広がりや遠近感も変化する。これを連続的に切り替えることによって、あたかもディレイのようなエフェクトが可能となるが、tamaruはそれがディレイを含まない回路であることを強調していた。すべてはリアルタイムの操作/変化であり、耳の視線の対象/視界が変わるだけで、サンプリングされた別の音源、異なる時間軸が混入することはない。ありとあらゆる響きが弦の(時にはベースのボディの)震えから生じる。弦は三次元的に振動し、他の振動と干渉して時間的に変動しつつ、やがては減衰していく。極めて高い増幅度により、この震えを顕微鏡的に拡大して投影することにより、その揺るぎない凝視ぶりとともに、凝視の対象である弦の振動が振る舞いの細部に至るまで明らかにされ、その表面の質感や温度までが手触れる。

 大上の演奏においても同様に、研ぎ澄まされ磨き抜かれた音響のピュアリティは、あるいはフォーカス/焦点深度を自在に操作して、くっきりとした彫琢から不定形の広がりまで連続的に推移し、さらには眼前を圧して視界を占領するかと思えば、かそけき物音に混じり合い、その背後に身を隠す変幻自在の変貌ぶりは、すべて弦の振動に始まり、弦へと還っていく。

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tamaruのツイッターから転載


5.Ftarri水道橋 2017年8月27日 セカンド・セット 最初の部分
 続く演奏は大上のソロから始まった。フレーズの破片が振り撒かれ、散り散りに広がっていく。それらの描く軌跡と空間に残す波紋。そこから音響の発生源である振動する弦の上でせめぎあう幾つもの力と、その勢力図の時間的な移り変わりが浮かんでくる。まるで気象衛星がとらえた雨雲の動きと、これによって浮かび上がる気圧配置やその時間変化のように。
 「雲母の破片」(津田貴司による形容)のように硬質で透明な輝きをたたえた弦の響きは、時にしなやかに勁く、時に脆く壊れやすいが、いずれの場合も見事な透徹/浸透力を有している。しかし、にもかかわらず、ここでいま音は次第にとりとめなく解けていこうとしている。一音一音の輪郭は希薄化し、それらの集合体もまたかげをおぼろにして、曖昧でおぼろな響きの中に溺れ、今にも沈んでしまいそうだ。それでも響きは一様化することなく、重なり合いながらも完全には溶け合ってしまうことのない複数の響きの層が、小津安二郎が幾重にも仕切られた日本間の空間構成により生み出した、重層的な奥行きをつくりだす。そこにパキーンと鋭い切り裂き音が放たれ、速度により響きの堆積から身をもぎ離す。ここで大上は音の「入」よりも「出」の方を細心にコントロールしているように見える。イクジット・ストラテジーの重視。速度を落とすことなく駆け抜ける道筋と余韻の射出方向の選択。音色が帯びる虹色の歪みは、身をひねって障害物をかわす際の屈曲の産物であり、力の刻印にほかならない。


6.ポスト・ベイリーの地平
 イディオムによる閉域を生み出すことのないノン・イディオマティックなインプロヴィゼーションを掲げ、複数の音を結びつける線(それこそがメロディ、リズム、ハーモニーを仮構する)を、多方向から交錯/散乱する音響のつくりだす束の間のコンステレーション(星座)へとさらさらと崩し去っていくデレク・ベイリーDerek Baileyの演奏。大上の演奏世界の出発点には、明らかに彼が位置している。
 ベイリー自身は、1970年代に自らの語法(彼の言うところのランゲージ)を確立し、80年代からは活動を異なる水準へと移行させる。録音音源で跡付けるならば、『Pices for Guitar』(Tzadik 録音1967年)を遥かな前史として、『Solo Guitar volume 1』(Incus 録音1971年)、『Incus Taps』(Incus 録音1973年)、『Domestic & Public Pieces』(Emanem 録音1975〜1976年)と聴き進めれば、その語法の深化、サウンドとタイミングの組合せが豊かさを獲得していく様を看て取ることができるだろう。こうした探求のひとつの頂点として位置づけられるのが、『Improvisation』(Cramps 録音1975年)であり、ここで彼は、先にエレクトリック・ギターのペダル操作によるステレオ効果で得た成果を、アコースティック・ギターによるちょっとした「ほのめかし」により達成している。アクション自体のカタログは厳しく絞り込まれ、代わりに無限のニュアンス、徴候、暗示、素早い参照、一瞬のうちに引かれすぐまた掻き消される照応の線等が導入される。キング・クリムゾンのロバート・フリップは「エレクトリック・ギターとアコースティック・ギターはヴォキャブラリー(語彙)が異なる」と発言していたが、ベイリーが言及しているのが、常にランゲージであることに注意しよう。ここでランゲージはパロール(発話行為)と対照される「固定化した国語の体系」ではなく、創造的発話を含めた「言語を操る力」を指し示していよう。
 一方、80年代の新たなステージは、Company『Epiphany』(Incus 録音1982年)に始まる。即興演奏者のプールであるCompanyの活動は以前からあったが、それらはいずれもEvan Parker, Tristan Honsinger, Anthony Braxton, Han Bennink, Steve Lacy等、志を同じくする者たちの交感だった(ただし、音に向かう姿勢や語法は極端に異なっている)。これに対し本作には、Kieth Tippett, Julie Tippets, Fred Frith, Anne Le Baron, 鈴木昭男, 吉沢元治ら、明らかに異なる即興演奏の血脈に属する者たちを招き、その中にはFrederic Rzewski「『不屈の民』変奏曲」の初演者である現代音楽のスペシャリストUrsula Oppensのように、即興演奏を経験したことのない者すら含まれていた。これは1982年に開催された「カンパニー・ウィーク」の記録であり、デュオからセプテットに至る各演奏者の任意の組合せのみならず、以降のCompanyでは見られなくなる10人のメンバー全員が参加した長大な演奏も収められている。
 本作が新たなステージの扉を開いたというのは、決してフリー・インプロヴィゼーションがネットワークの拡大、語法や演奏マナーの普及に転じたということだけを意味するものではない。以降のベイリーにとって即興演奏とは、すでに自らを確立した演奏者との個と個の交感であるよりも、得体の知れない他者(それはこれまでの意味で「個」であるとは限らない。いや、むしろ違う)に自らを横切られたいという欲望の場に変貌を遂げたと思われるからである。もっとも彼の望みは十全には叶うことなく、Company に招かれたゲスト演奏者たちはたいていの場合、まるで宮廷舞踏会に招待された下層貴族のように、自らがノン・イディオマティック・インプロヴィゼーションの語法や演奏マナーを身に着けていることを誇らしげに披瀝し、他人の前を横切ったり、ましてや足を踏みつけることなどないよう、ことさらに慎み深く振る舞ってしまうのだが。


7.空間/隔たりがもたらす混信/変容
 大上の演奏が、その出発点とそこからの拡大/深化という点で、ポスト・ベイリーの地平に属していることに疑いの余地はない。それは彼の演奏を聴けばたちどころにわかる。このことは彼のソロによる探求の軌跡を跡付けたCD5枚組による『Dead Pan Smiles』(※)にも明らかであるし、また、ここに掲げた彼の演奏の描写からも看て取れることだろう。しかし、それは決して語法の洗練という次元にとどまるものではない。ベイリーに憑き纏っていた「他者に横切られることへの欲望」が、形を変えながら彼にもやはり逃れ難い業として憑いているように私には思われるのだ。
※『Dead Pan Smiles』については次の拙レヴューを参照のこと。
http://miminowakuhazushi.blog.fc2.com/blog-entry-366.html

 よりわかりやすい形としては、彼がFtarri水道橋で続けているライヴ企画「Shield Reflection」がある。メンバーを固定したデュオあるいはトリオで3回だけ演奏するというスタイル、いや「取り決め」は、先の欲望の具現化でなくて何だと言うのだろう。だが、それだけではない。彼はよく演奏にラジオを用いる。アンティーク・ショップで手に入れたらしい、ヨーロッパ映画のワンシーンで、戦時中に家族みんなでこっそりBBCニュースを聞く際に暖炉に上に置いてあるような古風な外観。彼はこのラジオにギターの出力を直接つなぐのではなく、トランスミッターを介して電波として飛ばし(わずか50cmほどの距離を)、ダイヤルをチューニングしてラジオに拾わせる。がさがさした荒れがひどくて、いつもたいてい途中で止めてしまうのだが、それでも何度も試みている。開演前にその調整をしているところを眺めていると、彼は照れくさそうにはにかんで「電波って何でか好きなんですよね」とつぶやくが、これは決してかつての「ラジオ技術少年」の名残だけではあるまい。

 そこで欲望されているのは、眼に見えない電波が飛び交う空間に、一瞬とは言え、全くの無防備でギターの出力を旅立たせることである。ギターの音が素肌で外界にさらされ、顔も姿もわからない者たちに自由に襲いかかられ、触れられ、汚され、傷つけられ、陵辱されるのを待ち望むことである。もちろん彼は、空間に音を放つこと自体が、空間/隔たりによる不可避の変容を被ることであるのをよく知っていて、潔い覚悟の上で音を空間に、そして聴き手の身体に委ねている。だが、それ自体を視覚にも聴覚にもとらえることのできない電波は、音とはまた違う存在だ。耳で聞いたように感じられる幻聴よりも、脳内に直接響き渡る見知らぬ他者の言葉が「電波」と形容され、より侵襲力が高いことはよく知られていよう。そこには自らの放つ音に、別の何かを混入させたい、そのことによって自らを暴力的に押し開きたいという切なる願いがこもっている。

 このことは彼の楽器の選択からも裏付けられる。ふだん演奏に用いているエレクトリック・ギターについて彼に尋ねたところ、Gibson L-4という機種で、アコースティックとしても使用できるよう、ピックアップがきちんと固定されておらず(「開閉可能」とでもいうようにパカパカしている)、そのため電気増幅すると、簡単にハウリングを起こしてしまうという。それを彼はフル・アコースティックのボディを活かして、ほとんど電気増幅せずに演奏することが多い(前述のラジオの使用も電気増幅により音量を得るためではない)。通常のアコースティック・ギターよりも反応が早く、胴体を共鳴が満たすのを待たずに、弾くそばから音がすっと手元を離れて飛び立つ感覚がある。もともと「受信機」としての感度が高く、他に影響を受けやすい(=汚染・変容されやすい)だけでなく、自ら厚く鎧を纏い、完全防護で戦地へ赴くのではなく、素肌をさらすのも厭わず軽やかに走り出し、狭い隙間を鮮やかに駆け抜け、厚い暗闇を鋭く切り裂いて、繊細で希薄な響きしか残さない無防備な楽器を選び取るとは、彼の演奏の志向性になんとふさわしいことだろうか。

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撮影:原田正夫


8.ポスト・ベイリーの地平【補足】
 「ポスト・ベイリーの地平」との表現が、誤解により大上の演奏を狭い枠組みに押し込んでラベリングすることにならないよう、なくもながの補足を記しておきたい。
 多くの即興演奏者はベイリーの提起した課題を引き受けていないし、発展させてもいない。多くの者たちはベイリーらが切り開いた地平を、ルールを守れば安全と栄誉が保証される、伝承芸能のようなものととらえている。そこでは「ポスト」との接頭辞は、大いなる空白と弛緩を示すものでしかない。今更言うのも恥ずかしい当たり前のことだが、「ポスト」とは単に時間的な後であることだけを要件としているわけではない。ベイリーの死後に即興演奏を始めれば、それが「ポスト・ベイリーの地平」になるなどということはない。
 ましてや、あらかじめ何も準備しないことが即興演奏だとか、聴き手の期待を裏切って驚かせることが即興演奏の真髄だなどというのは、発言者が即興演奏をまるで理解していないことを示しているだけの、とんだ茶番に過ぎない。それはベイリーの地平などとは何の関係もないことだ。
 これもまた当然のことだが、中には別の道を歩んで大きな成果を挙げえた者もいる。同じギター奏者であるというだけの理由で、「ベイリーのコピー」呼ばわりされたフレッド・フリスについて、先にCompany『Epiphany』に関する説明で「明らかに異なる即興演奏の血脈に属する者たち」としたのは、私の彼に対する評価を表している。
 それでは「ポスト・ベイリーの地平」という語を適用すべき即興演奏者とは、大上流一以外に誰がいるのだろうか。ここでは話をわかりやすくするためにギター奏者に限定しよう。私が思い浮かべているもうひとりは、意外かもしれないがChristian MuntheやTodd Neufeldではなく、Bill Orcuttである。「ポスト・ベイリーの地平」はフリー・インプロヴィゼーションの旧来イメージを大きく超え出ていく。それは単に旧来イメージが先に述べた伝承芸能を、安全圏をかたちづくるためだけのものであり、こんな枠組みなど、当のベイリー自身が遥かに超え出ていたからにほかならない。

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tamaruのツイッターから転載


9.Ftarri水道橋 2017年8月27日 セカンド・セット 5に続く部分
 椅子を片付けて床に正座した徳永が構えるアルトから、ドライアイスの冷気のように微音が滴り落ち、床全体に広がって空間をひたひたと浸し始める。大上による音の破片が、急に窒息を来したように、さわりを含んで慌ただしく跳ね回り始める。これまで一点透視的だった音響空間に、それには到底収まりきれないパラタクシス(ねじれの位置をも含む平行/並行関係)が持ち込まれる。しばらくして外山がおもむろに素手でアフリカ風のリズムを叩き出して加わる。いきなり襟首を掴むように、荒々しく空間の縁に手が伸び、ぐいっと引き延ばし拡げにかかる。やはり最後に加わる三人目がトリオ演奏の構図/構造を明確化する。合わせにいくのではなく、それまでの演奏の平面を包含した新たな広がりをつくりだす感覚。靴のまま足を乗せて、スキンをミュートしつつ張りを高めたフロアタムが、小気味よい鳴りを示す。

10.Ftarri水道橋 2017年8月27日 サード・セット
 自ら提示したリズム・パターンを外山が端からずらし崩していく。ゆったりと踏み外すようなシンコペーションやアクセントが随所に仕掛けられる。口ごもり、やがてふっと溜め息をつくハイハット。ちらばったリズムのかけらをかがるように大上が入ってくると、加減速を繰り返して揺すぶり立てる。そうしながらも外山はくっきりと隙間を保ち、大上の繊細極まりない出音をマスクしてしまうことがない。
 椅子に座り直した徳永が聴き取れないほどの弱音から始め、ロングトーンを揺らめかせる。視線を他に配らない二人とは対照的に(徳永に至っては眼を瞑ってサキソフォンの内部に沈潜している)、外山は、ねめつけるような半眼の視線を二人から外そうとしない。やがてアルトの持続が背景の隅々まで満たし、次第に前景に沁み出してきて、耳のそばまでたどり着く。もはや外山は徳永に視線を送ることなく、黙々とサウンド全体のトーンに対してアクトしている。大上はそれらに半ば覆い隠されながら、後景へと退いて繊細な音響を紡ぎ続ける。

 先に外山が演奏空間をぐいっと引き伸ばした様を見たように、トリオ演奏のダイナミズムにおいては、三者の間に張られた空間の広がりや質が重要となる。その点で、この日の演奏を直接比較すべきは、森重靖宗やtamaruとのデュオではなく、大上が村井啓哲、藤巻鉄郎と繰り広げたトリオだろう。このトリオ、エレクトロニクスを操る村井がサウンドアートや電子音楽、ドラムを担当する藤巻がロック、ジャズ、ラテン音楽等に出自を持つなど、メンバーの「畑違い」度では今回の外山、徳永とのトリオといい勝負だが、各自が他のメンバーとの接点を求めて、繊細かつ微細な音響構築の方へと歩み寄った感がある。その分、交感は深まったが、先の空間はいささか広がりを欠いた平坦なものとなった。
 対して、今回の外山、徳永とのトリオにおいては、ソロから始め、後から一人ずつ加わっていくやり方が功を奏したこともあって、それぞれが自らの「前線」から一歩も引くことなく、最大限のテンションを張り合って、その間に開ける空間を広々と保つものとなった。普通、各自が「前線」から一歩も引かないと確実に密集戦となるわけだが、この逆説が、互いに異なる方向を向いて戦闘を繰り広げるという、即興演奏の持つパラタクシス的な特質を存分に発揮したこのトリオの特異性を物語っている。そして、このことは、演奏の始まる前から、冒頭に記述した不可思議な楽器の配置が、すでに暗示していたのではないかとすら思うのだ。

 サード・セットを終えた大上は、思わず「次回は今日の逆でトリオから一人ずつ抜けていくようにしましょうか」と口走って、外山に「それっていま決めないといけないの」と冷やかされていたが、それだけ、この日の演奏に手応えを感じたのだろう。

 次回のライヴ、このトリオによる演奏の最終回は、冒頭に記した通り、10月22日(日)にFtarri水道橋で行われる。

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撮影:原田正夫  この日のライヴを撮影したものではありません


2017年8月27日 Ftarri水道橋
大上流一(guitar)、外山明(drums)、徳永将豪(alto saxophone)

2017年3月18日 東北沢OTOOTO
大上流一(guitar,radio)

2017年3月12日 Ftarri水道橋
大上流一(guitar)、tamaru(electric bass)


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     『Reach Out to Touch』                 『Dead Pan Smiles』

 2015年12月20日と2016年2月21日にFtarri水道橋で行われたライヴ演奏からの抜粋が、大上流一、村井啓哲、藤巻鉄郎『Reach Out to Touch』(Meenna meenna-991)としてCDリリースされていることを付け加えておこう。ここでは批判的に言及したが、2016年のライヴから抜粋されたトラックは、深く静謐な(だが時に禍々しく不穏な)奥行きをたたえており素晴らしい。
大上流一(guitar)、村井啓哲(electroacoustics)、藤巻鉄郎(drums)





ライヴ/イヴェント・レヴュー | 21:54:03 | トラックバック(0) | コメント(0)
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