2010-05-30 Sun
来る6月6日(日)には、福島恵一音盤レクチャー「耳の枠はずし」第5回(第1期最終回)として、現在出版準備中の「ECM Catalog」(河出書房新社)の執筆陣から、ECMコンプリート・コレクターの原田正夫さん(月光茶房店主)と元ECMファンクラブ会長の多田雅範さん(音楽サイトmusicircus主宰)のお二人をゲストにお迎えして、「複数のことば② ECMカフェ」をお送りします。どうぞご参加ください。もともと「フリー・ミュージックのハードコア」(第1回~第3回)と「複数のことば」(第4回・第5回)の2部で構成している本シリーズですが、ECMレーベルの諸作品を聴き込み、議論を重ねる中で、響き、空間(の広がり/侵食)、不定形/輪郭のにじみ、アンビエント等の前半でキーとなった概念が、そのままECMの音世界に通底していることが見えてきました。その意味では、清水俊彦さんを特集し、フリー/ポスト・フリーの切断面を扱った第4回以上に、前半との関係性は強いかもしれません。そういえば、清水俊彦さん自身が批評文の中で、ポスト・フリーの枠組み探求の試みとして、70年代初頭のECM作品やマンフレート・アイヒャーの発言に触れていましたね。
その一方で「カフェ」と銘打つ以上、レクチャーが陥りがちな一方通行の「情報注入」型の関係を離れ、談論風発/相互交通の催しにできたらいいな‥と。話し手/聞き手の区別なく、共同体を離れたことばが対等に飛び交うのが、都市に生まれたカフェ空間の本来の姿ですから。そのため、進行の都合上とりあえず音盤をかける順序だけ決めておいて、後はその場のやりとりに任せることとし、メインのPowerpointもあえてその分しかつくっていません。その代わりサブの資料として、初期30作品のリストとか、全作品のジャケットとか、その他関連ヴィジュアル資料を用意し(恒例の美術史も出てきます)、随所で活用しながら複線的な展開を図りたいと考えています。
「キース、チック、パット‥」とか「クリスタル・サウンド」といった型にはまったECMイメージが、いかに本質から離れた貧しいものであるか、耳に「枠」をはめるものであるか、今回の企画から感じ取っていただけるのではないかと思います。その一見優美に洗練された「オシャレ」な外見とは裏腹に、ECMは「不定形の聴取」を要する「フリー・ミュージックのハードコア」への直通回路でもあるのですから。
【補足情報】今回は配布物(おみやげ?)がいっぱいあります。いまや貴重な「musee」のECM特集号、原田・多田・福島が選ぶECMベスト(原田は50選! 多田・福島は20選×2)。その他マル秘資料などなど。お楽しみに。v(*^^*)
■6月6日(日) 15:00~18:00
第5回 複数のことば② ECMカフェ in Sound Cafe dzumi
ECMレーベル全作品をレヴューした「ECM Catalog」の出版に聴き手/書き手として参加した原田正夫氏(月光茶房)と多田雅範氏(元ECMファンクラブ)をゲストに迎え、各々持ち寄ったECM音源を聴きながら、都市空間におけるカフェの本来の機能である複数のことばの響きあいを実践し、聴き手の側から「聴くこと」の公共性の構築を目指す。音盤:Jon Balke,Joe Maneri,Alfred Harth,,,
なお、各回定員25名のため、予約をおすすめします。
料金:各回1000円(1ドリンク付き)
会場:Sound Cafe dzumi
武蔵野市御殿山1-2-3 キヨノビル7F
JR吉祥寺駅南口から徒歩5分
電話:0422-72-7822
予約先:event@dzumi.jp
件名「耳の枠はずし:日付」、本文「氏名、人数、電話番号」
をメールで送付してください。
実は今回の議論の展開で結構重要な役割を果たす絵。ふふふ‥。

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2010-05-29 Sat
「アジアの絃~5つの類」 沢井一恵ライヴ・イン・ロゴバ輸入家具店ロゴバのショールームを活用したコンサート・シリーズ「平河町ミュージックス」第1回として、5月28日、沢井一恵の演奏による「アジアの絃~5つの類」が行われた。プログラムは次の通りで、古代の復元楽器から「現代楽器」まで5種類の楽器による構成となっている、。
1.六段/八橋検校作曲(十三絃箏)
2.畝火山/高橋悠治作曲(復元・五絃箏)
3.神絃曲/三宅榛名作曲(復元・七絃箏)
4.風がおもてで呼んでいる/高橋悠治作曲(琉球・三線)
5.華になる/沢井忠夫作曲(十七絃箏)
吹き抜けの高い天井と道路に面した2面に大きなガラスの開口部を持つ空間は、にもかかわらず布地の手触りを感じさせる壁紙や、あちらこちらに配されたアジア系生地の壁掛けや敷物のせいか冷たさを感じさせず、また全照明の明るさにも不思議とまぶしさを覚えない。沢井が奏する各楽器もまた、この空間のあちらこちらに配され(響きを考慮した結果だという。後に述べるように、部分的に張り出した2階のスペースまでもが利用された)、その結果、演奏は沢井が空間を経巡りながら、途中休憩をはさむことなく(移動する際に簡単な曲や楽器の説明はあったものの)一続きに進められた。プログラムのハイライトは、太い柱の前に設えられた十七絃箏に彼女が手をかざし、音が放たれるやいなや、重厚な音の柱がたちのぼった終曲「華になる」だとやはり言うべきだろうか。低音のグリッサンドが、強烈なクラスターが、強靭なドライヴにも凛とした響きの輪郭を揺るがすことなく、均質な層となって積み重なり、粒の揃った輝きを放つ様は、コンサート・フルグランドのピアノが鮮やかに弾ききられる様を眺めるようだった。もちろん、絃をたわめ、「さわり」を奏する箏はピアノとは全く異なる楽器だが、にもかかわらず、それが現代的なピアノ演奏に聞こえてしまうほど、それに先立つ演奏(特に最初の2曲)は、まさにいまここでしか聴くことのできない驚きを与えてくれたように思う。
開演間際、数少ない空席に滑り込んだ私は、まず「六段」を、正座して十三絃箏を奏する沢井のほぼ正面で聴くこととなった。音が放たれ、余韻がたなびく。手の動きの後を音が追うにつれ、聴き知った曲が次第に姿を現していくかに思われた。しかし、むしろ眼前に浮かび上がったのは、ひとつひとつの音/響きの、聴いたことのないような裸の姿にほかならなかった。中空に一筆ですっと引かれたまっすぐな線。正弦波にも似た抽象的な響きは、旋律へともたれかからずに直立し、それぞれの音の質を保ったまま、やがて消えていく。私は沢井の動きを眼で追うのをやめ、響きに耳を澄ますことにした。旋律へとつなぎとめられない音。文字へと至らぬ筆の運び。高域の張り詰めた音との対比を通じて、その「硬質な輪郭」を演奏の特徴ととらえることも可能だろう。しかし、私をとらえたのは、むしろ、本来なら旋律をそのまま担うはずの、ストレス・フリーに弾かれた音たちの振る舞いだった。様々な色合いの和紙の帯がすうっと広げられ、端をにじむように漂わせながら、次第に色あせ湿気にくるくると丸まっていく様子。あるいは池に放たれた黒や金や緋や錦の鯉たちが、一瞬交錯し、また思い思いに離れ去っていく軌跡。それを旋律の解体、あるいは脱構築的な解釈と受け止めるのは、この音の涼やかな肌触りにふさわしくないように思われる。
続く「畝火山」で彼女は2階に上がって演奏を始めた。私はちょうど彼女のほぼ「真下」あたりで演奏を聴くこととなった。ここでもCD「高橋悠治リアルタイム6 鳥のあそび」(フォンテック)で聴き知った高田和子の演奏とは、全く異なる響きが聞こえてきた。二人は共に木戸敏郎(国立劇場)が復元した楽器を用いているはずだが、CDに収められた音は、先の「ピアノ」のたとえで言えば、「ギター」のように聞こえる。それゆえ演奏は弾き語りのように、すなわち五絃箏が声の伴奏をしているように聞こえる。対して、この日の沢井の演奏では、五絃箏は手元で手繰る何物かの音と聞こえた。たとえば数珠やお手玉のような。その律動が手繰る指先を通じて身体に流れ込み、一方、放たれた響きはうっすらと手元を照らし出す。漏らされる息や声は、この律動に浸された身体から放たれたものではあるが、決して五絃箏の響きに伴奏/伴走されているわけではない(性交時の抽送の速度が、決してそれに浸された身体の漏らす息/声を伴奏することがないように)。
手繰られる音は、そのかそけき響きのゆえか、呪具のたてる祭儀的な音とは聞こえず、むしろ童女か狂女の手遊びのように響く。低いつぶやきもまた呪文というより、たとえば幼子を亡くして気の触れた母親の繰り言のように聞こえてくる。こうして沢井の(シャーマニックな資質を存分に秘めた)身体を媒介としながら、放たれる2系列の音(手繰られる音と漏らされる息/声)は、共に聞こえるかどうかの微かな音量ながら、互いに互いを伴奏しないことによって、さらには別の物語的想像力をはらむことによって、シャーマニックな強度を共に高め、周囲のざわめきにも動じない独立した強度を獲得するに至る。実際、私の隣席の老婦人が咳き込み、取り出したハンカチーフを口元に当てて繰り返していた荒い呼吸さえも、私の耳には、この音楽にふさわしいもののように感じられた。
五絃箏を立てて奏していたという沢井の姿を見られなかったことは、かえって幸運だったかもしれない。もし姿が見えたならば、先の独立した2系列はひとつに統合され、その分、豊かさと強度を減じてしまったのではないだろうか。作曲者である高橋悠治はこの作品について次のように述べている。「この楽器は音量がきわめて小さい。もともと夜の静寂のなかで、トランスにはいるための楽器なら、反復される開放絃の振動と無限につづく単調な拍をもつ音楽がそれにふさわしい」と。もしそうであるならば、それは人払いをした離れ屋で、あるいは人々が寝静まった後に人目を忍んで行われるのだろうから、隙間から覗き見るか、あるいは壁越しに聴き耳を立てるかしか、聴く手立てはないだろう。「床下」から姿を見ることなく聴き耳を立てるというのは、もしかすると最もふさわしい聴き方だったのではないだろうか。
沢井一恵さんの写真は平河町ミュージックスのウェブページから転載しました。
平河町ミュージックスURL
http://sites.google.com/site/hirakawachomusics/home

2010-05-25 Tue
「ユリシーズ」3号出ました。今回、私はディスク・レヴューのほかに、恐れ多くも巻頭の「ユリシーズ・オピニオン」に書かせていただいております。内容はまさに「耳の枠はずし」の話で、3月22日のブログで書いたことの拡大版です。その拡大した部分では、具体的な作品として、昨年のベスト20に選んだうちから、Cuushe / Red Rocket TelepathyとAnnelies Monsere / Maritについて書いています。どうぞ店頭でお手に取ってご覧ください。全体構成はこんな感じ。
浅川マキ
追悼・浅川マキ「ちょうど一冊の本のような完全犯罪」 五所純子
浅川マキ Discography/Bibliography 小川真一/五所純子/平 治/南部真里/山口元輝
魔術から魔術
東京で、デヴェンドラ・バンハートとともに 河添剛
ウィルコは変化を恐れない
米国ロック最重要バンドが携える冒険心と歌心の秘密 五十嵐正
最も妖しいロック
2010年、蘇るサンハウス 中山義雄
ULYSSES OPINION
ロックDJの受難 大貫憲章
耳の枠はずし──「聴くこと」をいま/ここから始めるために 福島恵一
特集
フリクション
今の人たちに欠けているのは、信じる、ということ
関係性の思索者レックとの一夜 鈴木泉
花のようなレック 『2013』の領域 河添剛
“好きなだけ書き続けたまえ”(M・ブランショ)
フリクションは選択することを拒否する 金村修
FRICTION Discography/Bibliography
Bob Dylan In The Kaleidoscopic Eyes
万華鏡の中のパノラマ 室矢憲治/五十嵐正/鈴木慶一/小川真一/石永成子/河添剛
「よい音楽」「売れる音楽」をめぐって
「特別アンケート」レコード・レーベルで日々音楽とかかわる25人に訊いた10の質問
荒井俊洋/井内隆幸/石橋正二郎/岩崎朗太/大澤啓己/小澤博文/角張渉/勝間田美和/神谷一義/国井央志/小林英樹/佐久間達也/下村雅美/白木哲也/高木洋司/高見一樹/田島慶介/田村明洋/中上雅夫/新実裕太/沼田順/福田教雄/松谷健/薮下晃正/山崎浩司
レコード・ショップの現場から 河野洋志
[ユリシーズ レ・ヴァリエテ]
●ノイズのなかの神 玄侑宗久
●ただモンタージュだけがホタルたちを舞い輝かせる 廣瀬純
● DOMMUNEが実現する「第三のアウラ」 栗原裕一郎
●CAUTION DISPERSION AREA 南部真里
●熊野とレゲエ、あるいは「路地」からのエクソダス 今理織
●全身音楽家キム・ドゥスの衝撃 杉本卓也
●HIP HOPとはなにか? 佐藤雄一
● 完成間近! ルーサン・フリードマンの新作 河添剛
● 爆音映画祭2010への誘い
●ユリシーズのオフィシャル・ブログを開設しました!
●連載 DJ SUPERNATURALISM 大貫憲章
●連載 Check the Wardrobe 松井清
短期集中連載
LOST IN THE '80s
[第1回]ニッキ・サドゥン
クロストーク|廃墟の上に掛かる虹ニッキ・サドゥンと80年代 河添剛×清水久靖×平 治
ニッキ・サドゥン、その音楽と人生 河添剛
Nikki Sudden Discography 河添剛/清水久靖/平 治
EXILE ON MAIN ST.
ローリング・ストーンズと共産党 市田良彦
リゴドン 主張する「ギョーカイの張本人」
【第3回】天野龍太郎(『Cue』編集者)
Greetings from ULYSSES
DISC REVIEW
河添剛/平 治/清水久靖/松山晋也/サラーム海上
高橋芳朗/磯部涼/小川真一/五十嵐正/福島恵一

2010-05-19 Wed
5月15日(土)開催の金子智太郎&虹釜太郎「アンビエント・リサーチ」行ってきました。いろいろと触発され、考えさせられました。貴重なレクチャーだと思います。というわけで遅ればせながらのレポートです。第1回目は吉祥寺Sound Cafe dzumiでの開催でしたが、今回は場所を移して代々木20202。席に着いて当日配布の資料を読んでいると、産業ノイズの陰から幽玄なリコーダー・アンサンブルが‥「こ・これはMnemonists / Hordeではないか‥」。当たりでした。本日のテーマであるFrancisco Lopezの愛聴盤なんだそーです。自宅以外でMnemonistsを聴くのは初めての体験でした。
今回の進行は、金子さんの書かれたテクスト「聴覚的パノプティコン:フランシスコ・ロペスの『絶対具体音楽』」に沿って、ロペスの作品や関連作品を聴いていくというもの。当日のプレイリストは金子さんのブログを参照(http://d.hatena.ne.jp/tomotarokaneko/)。音源ではやはりLopezのSelva,Wind,Warzawa Restaurantあたりと、あと思いのほか地下調整池のテープが良かったですね。
今回の批評的/理論的ハイライトは、金子さんがキム・コーエンによるロペス批判(デリダのフッサール批判を援用)をばっさりと批判しているところでしょう。この批判には同感です。
コーエンはデリダのフッサール批判を引いて、瞬間でなく持続がある以上、純粋ではなく記憶等が混在してくるというわけですが、ロペスがいわば原型にしているシェフェールの構成的作品と異なり、ロペスが密林の音を使った「La Selva」等の作品は、制作者の意図に帰着させることができず、さらに音群のどこに焦点を合わせればよいかわからないため(彼は音の発生源となる動物種を特定するような録音/編集をあえて避けている)、記憶や予想を用いながら聴けないように思います。ある意味、像をとらえられないまま、聴かされてしまうというか。そうした不意討ちされ途方にくれた状態を、ロペスは目指しているようにも思えます。
ロペスによる「La Selva」の自作自解ライナー(訳文が資料に掲載)を見ると、自分が「耳の枠はずし」で「不定形の聴取」として考えていたこととのシンクロ率の高さに驚かされました。たとえば次のくだり。
「前景/背景に意図的でアプリオリな区別はなく、耳と同じようにマイクの位置にもとづく音の不可避の出現だけがある。私は客観主義をとるのではなく、注意の『焦点』が音環境全体にあると考える」
あるいは「ここで擁護したいのはサウンド・マターそれ自体の超越的次元だ。私の考えでは、録音の本質とは音よりも豊かで重要な世界の記録や表象ではなく、音の内的世界に焦点をあわせ、接近する方法である。表象的/関係的レベルが協調されると音は限られた意図や目的を帯び、音の内的世界は浪費されてしまう」
う~ん。フランシスコ・ロペスって、ローワーケースとかやってる、やたら多作なワケのわからない人って印象だったのが、急に像を結んできました。やはり金子さんがブログに掲載している彼の愛聴盤(Mnemonists,Werkbund(=Asmus Tietchens),”Erazerhead”Soundtrack)にも親近感を覚えるし。
彼が愛読しているというシオランでも読んで勉強することにしましょう。
なお、虹釜さんの連載テクスト「なぜアンビエントを聴くのか」は、大きく「ディストピア・アンビエント」に踏み込んでいて、これにも大変触発されました。「ソラリスの陽のもとに」も読み返さないと‥。たぶん私の「ディストピア・アンビエント」理解は間違ってるんですけど、それでもいいんです。触発されて思考が動き出せば。入力がなけりゃ出力もないんだから。
虹釜さんは興味深い問いを投げかけることができる稀有な批評家だと思います。つまんない答を言って回る人はたくさんいるけど。
ということで、ちゃんとしたレポートになってませんがご勘弁ください。
フランシスコ・ロペス「ラ・セルヴァ」

2010-05-18 Tue
遅くなりましたが、「耳の枠はずし」第4回「複数のことば① 清水俊彦を聴く」の要約・再構成を、前半・後半の2回に分けて掲載します。なお、これはあくまで資料に基づく要約・再構成であり、レクチャーそのものの再録ではありませんので、ご了解ください。前半の最後手アート・アンサンブル・オヴ・シカゴの演奏を聴いていただきましたが、平岡正明は先ほどの「ジャズ」所収の「フランツ・ファノンのバップ革命」において、AACMを「冗談音楽であり、こむずかしく論じるのはイナカッペ」と評価しています。また、油井正一はやはり「ジャズ」所収「日本のジャズの世界的地位」において、「フリー・ジャズによる音楽的束縛の拒絶が「手くせ」だけを残した。そこで民族自覚の時代が到来した」とのジャズ史観を示しており、さらに平岡正明が紹介するところのスピーチでは「ジャズは戦勝国アメリカの白人の音楽だと思っていたら、黒人の音楽だった」と話しています。
こうしたことと平岡正明「フランツ・ファノンのバップ革命」の主旨である「バップ革命は黒人革命に先行した」を重ね合わせると、日本におけるジャズ受容のねじれが浮かび上がってくるように思います。「アメリカという現象」(谷譲次)により米国文化が大量流入し、関東大震災(1923年)以降、日本の都市モダン文化(映画、ジャズ、ミステリ)が急速に形成されていきます。(1926年生まれの清水のジャズ履歴とあわせて年表化した資料を見ながら)大戦による中断を経て、60年代にバップとフリーが同時に流入し、その結果「ジャズの顔が黒くなり」(マイク・モラスキー)、また、世相(叛乱の時代)と重ねあわされ、ジャズは時代の象徴(と同時にインテリ・学生層の必須教養)となっていきます。ここでソロイストの先鋭化(バップ)と、全体の流動化(フリー/ポスト・フリー)のどちらに重要性を置くかで、大きく見方が違ってくるわけです。
平岡は明らかに「バップ革命」という切断面を強調/特権化しており、彼の黒人暴動に対する先鋭化論(スナイパーの出現を望む)と重ね合わせれば、演奏全体のフリー化ではなく、ソロイストが飛翔しさえすればよいと彼は考えていたのではないだろうか。だとすれば天才チャーリー・パーカーがいればよいことになります。すなわち前者を選んだ場合、ジャズが時代の象徴でなくなった時点で、現在進行形のジャズ(フリー/ポスト・フリー)は意味を失ってしまいます。実際、相倉久人はニュー・ロック等(他の都市文化)へ、平岡正明は他の被抑圧者の戦線(在日韓国人、パレスティナ等)へと、その後、活動の舞台を移していきました。むしろ、ここで植草甚一がヨーロッパの同時代の動向に着目する中で、AACMやヨーロッパのフリー・ミュージックへ向かう動きを追っていたことに注目しておきたいと思います。
清水のジャズ史観のコアは、次の3点に要約できるように思います。
①ビバップをジャズにおける最初のモダニズムととらえる。
②60年代のフリー・ジャズをジャズ史上最初のアヴァンギャルドととらえる。
③他の芸術のアヴァンギャルドが《反伝統》であるのに対し、ジャズ・アヴァンギャルドは伝統を袋小路とは見なさず、逆にそれを源泉/出発点として、いまだ定式化されていない、発語されていない、未知のものへと向かおうとしたことを重視する。
清水俊彦はどのようにしてこうした認識に至ったのか、また至ることができたのか、その理由は清水の背景を成す次の2つの流れに求められるのではないかと考えます。
A(海外)都市モダン文化(映画、ジャズ、写真、喫茶店、ミステリ‥)の紹介者たる高等遊民の系譜→双葉十三郎、野口久光、油井正一、植草甚一‥
Bアヴァンギャルド(ジョイス、未来派、ダダ、構成主義、シュルレアリスム‥)の同時代的体験→西脇順三郎、瀧口修造、北園克衛‥
ちなみに植草甚一をコラージュの制作や演劇の舞台美術にのめりこませ、早稲田大学建築学科を落第してしまう原因となる大きな影響(アヴァンギャルド体験)を与えたのは村山知義(1901-1977)です。彼は1922年にベルリンに渡り、現地で構成主義美術等の同時代アヴァンギャルドに遭遇し、翌年帰国すると、日本未来派を経てきた連中とマヴォを結成し、その後、機関紙発行、美術、舞台設計、空間設計、デザイン、絵本等と縦横無尽の活躍をします。もう、この時点で日本のアヴァンギャルドは世界との同時代性を獲得していました。1904年にマリネッティが仏フィガロ紙に「未来派宣言」を掲載すると、森鴎外によるその全訳が3か月後の「昴」に載るし、芥川龍之介は丸善で買ってジョイスを読んでいました。こうして未来派、ダダ、キュビズム、構成主義、表現主義、シュルレアリスム等の同時代アヴァンギャルドを受容/活動していた流れを集約したのが、北園克衛(1902-1978)が結成したVOUで、清水はこれに属していました。実際、VOUは結成当初からエズラ・パウンドと連携し、世界的な活動展開を図っていたわけです。北園は日本前衛詩の先頭を走り続け、コンクリート・ポエムやプラスチック・ポエムに至るとともに、ハヤカワ・ポケット・ミステリの表紙デザインを手がけるなど、都市モダン文化の領域でも活躍していました。また、VOUは形象展やコンサートを開くなど、視覚/聴覚表現も盛んに手がけています。清水自身もVOUや同じく北園が設立した前衛詩人協会の年刊誌に、詩作品のほか、写真、詩・美術・音楽に関する批評等を寄せています。
こうしたことを背景とした清水の批評の特徴を要約すると、次のようになるかと思います。
①モダニズムを前提。ただし、ジャズの即興性、身体性を重視。絵画を平面性に還元したグリーンバーグと比べてみること。
②アヴァンギャルドを評価。
③意味やシンボルに直ちに向かうのではなく、音(サウンド/ソノリティ)に注目。
④批評の対象である音楽/演奏に対応する強度を持った、詩的な構成物をつくあげることを目指す。
④については、清水俊彦追悼のために行われた大里俊春と青土社の担当編集者だった水木康文の対談(http://www.boid-s.com/talks/271.php)でも指摘されているところです。この対談は、間章がスティーヴ・レイシーを招聘する時に立ち上げた「スピリチュアル・ユニティ」が清水宅を事務所代わりにしていたという話も紹介されていたりして、とても面白いものです。実は清水俊彦は前衛詩人協会発行の「鋭角・黒・ボタン」の編集委員をしているのですが、この事務局も清水宅に置かれています。
それではまた音源に戻りましょう。先に清水により、ポスト・フリーの流れは、アルバート・アイラーやセシル・テイラーではなく、彼らの側にあると評されていたジュセッピ・ローガンたちの演奏を聴いてみましょう(清水によるジュセッピ・ローガン評を紹介)。
■Guiseppi Logan Quartet/Guiseppi Logan Quartet(ESP) 1964
フロントは単純ななラインを繰り返し、その後ろでリズムがフリーにやりとりするという「ネフェルティティ」型のアンサンブルですが、よく聴くと相当に複雑なことをやっています。続いて清水が高く評価する、このクワルテットのピアノとドラムスのデュオを聴いてください。
■Milford Graves ,Don Pullen/Nommo(SRP) 1966
破片が砕け散るような圧倒的な流動性の獲得へと至る演奏は、よく聴くと先ほどのジュセッピ・ローガン・クワルテットでの演奏と通底しています。むしろ、先ほどの盤では演奏が燃え尽きてしまわないよう、フロントがある種の制動をかけていたのがわかるかと思います。確かにセシル・テイラーの行き方とは違いますね。続いては同じくジュセッピ・ローガンで、声との共演を聴いてください。
■Patty Waters/College Tour(ESP) 1966
パティ・ウォーターズの「声」とジュセッピ・ローガンの「息」が、共に肉を削がれ、湿り気を失って、ひゅうひゅうと鳴る喉だけになっていく様が聴けたかと思います。
最後にレイシーの演奏を聴いてください。やはり清水俊彦にとって、レイシーは特別な演奏者だったのではないかと思います。まず、レイシーによるポスト・フリーの試みの最先端というべき「ラピス」における、「他の音楽の余白にかろうじて書き込まれた演奏」を聴いてください。
■Steve Lacy/Lapis(Saravah) 1971
環境音ごととらえられた即興演奏の試みはいろいろありますが、これはレコードがかかっていて、しかもそれがセンターにあって、レイシーの演奏は端に追いやられている。まさに「余白に書く」演奏になっています。では最後にレイシーの日本公演時の録音から聴いてください。
■Steve Lacy/The Kiss(Lunartic Records) 1986
清水にとって、批評とは対象となる音楽にふさわしい強度を有する私的な構成をつくりあげることでもあったことを先にお話いたしました。次のレイシー評はその代表的なむものと言えるでしょう。「レイシーの楽器は最高の宝石職人の道具である。彼はどんなかたちにでも細工できるフレーズのようなものにノミをあてる。そのエビグラム(テーマ)を反復し、試しに軽くたたき、裏返しにして、前後に揺する。それから二つに、四つに、いくつかに分割する。でなければ、粉々に砕いてしまう。そうしておいて、あたかもいじくりまわしたのを後悔するかのように、またそれを一つにつなぎ合わせるのだ。」
清水俊彦が私たちに残してくれたものとは、幾つかの考え抜かれた興味深い問いではないか‥と私は思います。批評には答を出すものと問いを掲げるものとの2種類あります。むしろ、つまらない答を掲げる人の方がいっぱいいるわけです。そうしたなかで考え抜かれた魅力的な問いかけを発する批評こそが、人を精神/思考の運動へと誘うのだと思います。今回採りあげたフリー/ポスト・フリーの切断面を巡る清水俊彦の思考は、まさにそうした魅力的な問いかけなのではないでしょうか。【後半終了】
清水俊彦が表紙写真を担当した黒田維理詩集「Something Cool」

2010-05-18 Tue
遅くなりましたが、「耳の枠はずし」第4回「複数のことば① 清水俊彦を聴く」の要約・再構成を、前半・後半の2回に分けて掲載します。なお、これはあくまで資料に基づく要約・再構成であり、レクチャーそのものの再録ではありませんので、ご了解ください。これまでの3回は「フリー・ミュージックのハードコア」と題し、デレク・ベイリーから「音響」以降、トラッドからミッシェル・ドネダへという2つの可能性の線をたどり、さらにそれを距離/空間の中に置いて眺めるということをしてきました。そこでは共通して、音を演奏者の意図に還元/着地させるのではなく、まさに不定形な音の運動として聴いてみようという姿勢をとってきました。そうすると聴き手はみんな、それぞれ違う「こと」を聴いていることになります。それでは誰とも何かを共有することはできないのか。そこでポーンと体験の共同性に行くのではなく、ことばを介して互いの違いを確かめ合い、聴くことを豊かにするという「聴くことの公共性」へ向かうべきではないか‥というのが私の主張です。そのためには複数の言葉を響き合わせる空間、それも共同体に属さない空間ということで、都市に設けられたアジールというべきカフェの空間のあり方に注目し、次回「ECMカフェ」ということで実践してみようというわけです。今日はその前段として、亡くなられた清水俊彦さんの音楽批評のことばを採りあげ、それと対象となる音楽/演奏やまた別の言葉を重ね合わせて聴いてみたいと思います。(以下敬称略)
清水俊彦については、「アメリカの芸術」(弘文堂)所収の「ジャズ 不完全な芸術」が剽窃であることが判明し、書籍が回収されるという事件がありました。そのことが明らかになって、さらに引用文として明示した箇所以外にも引用があるということで、これまで書かれたものすべてが疑わしいと言い出す人もいます。けれど清水俊彦が書いたものから、多大な恩恵と影響を受けている私としては、先ほどの剽窃は事実として認めたうえで、なお清水俊彦が何を成し遂げたのか、そのための条件や背景は何だったのかを示したいと思います。ここではフリー/ポスト・フリーの切断面に関する議論に的を絞り、ちょうど清水俊彦が編者となった「ジャズ 感性と肉体の祝祭」(青土社)に収められた批評を切り口として、事態を切開してみたいと思います。
清水俊彦「ジャズ・アヴァンギャルド」は、コルトレーンの死による"革命"・"祝祭"・"躍進"といった《興奮》が頓挫したところから書き始められています。私たちもまたコルトレーンから始めることにしましょう。
■John Coltrane/Ascension(Impulse) 1965
この演奏を「フリー・ジャズ」と呼んでしまうのは、実はとても大雑把な言い方なのですが、一般的なイメージのレヴェルでは、これぞフリー・ジャズと言っていいでしょう。これを次の演奏と聴き比べてみてください(清水による「森と動物園」評を紹介)。
■Steve Lacy/Forest and the Zoo(ESP) 1966
熱気と充満によるフリー・ジャズのイメージと、冷ややかで硬質な異国の空気の中で孤独な音たちが行き交うフリー・ジャズの違いが肌で感じ取れたかと思います。実はレイシー自身は、この「森と動物園」の達成をフリーの頂点ととらえており、その後、映画に音楽を付ける仕事に関わることから、ポスト・フリーの枠組みを探求していくことになるのですが、この冷ややかなフリーには、充分に「ポスト」性が先取りされていると思います。
清水俊彦によるポスト・フリーのパラダイムの記述です。「フリー・ジャズの別の継承者である彼らは、個人的探求や新しい要素の効果をこの音楽にもたらしながら、その遺産を有利に用いようとしている。彼らは想像力に欠けたある種のフリー・ジャズの型にはまった行き過ぎにうんざりしている一族であり、(中略)ある意味でセシル・テイラーやアルバート・アイラーのフリーよりもジュセッピ・ローガン/ドン・ピューレン/ミルフォード・グレイヴスのフリーに羨望の眼差しを向けているような一族であり、とりわけ《空間》に熱中している一族である。ここでの空間とは、たとえば「フリー・ミュージックとはメロディ・ラインの自由のなかにサウンドのための空間がつくり上げられなければならない」(マンフレート・アイヒャー)という意味のそれである。」
ECMのアイヒャーが引用されているのに驚きますが、これはポスト・フリーを感じさせる作品が挙げられている中に、初期ECMからバール・フィリップス&ディヴ・ホランドとかサークルの作品が入っているためです。それでは続いて、清水俊彦がレイシーと共にポスト・フリーの主要な軸として挙げているアンソニー・ブラクストンを聴いていくことにしましょう。彼はブラクストンについてこう書いています。「それぞれの音が最大限の効果をあげるように選択し、論理的なフレーズのそばに突然の叫びを置き、怒りに静けさを連れ添わせるようにして、それらを組織的に組み立てながら、ブラクストンは完全な孤独から徹底した混沌へ、さらにはそれを突き抜けて真空の音楽へと全力疾走を行っている」
■Anthony Braxton/For Alto(Delmark) 1971
一方、スティーヴ・レイシーは間章との対話の中で、ブラクストンをこう評しています。「彼はチェスのうまい男という感じだ。まるでチェスをやるように演奏する」。さらに清水俊彦の評を重ねてみましょう。「彼は、空間が意味をもつためには、それは満たされ、組織されねばならないという考えに熱中していたのだ。このことは『Saxophone Improvisations Series F.』でひとつの頂点に達し、強烈な内的無必然性を発揮することになる」
■Anthony Braxton/Saxophone Improvisations Series F.(America30) 1972
■Anthony Braxton/Anthony Braxton(BYG) 1969
このBYG盤はAEOCの活躍の陰に隠れてしまいがちですが、AEOCの演奏の素晴らしさの多くの部分が演劇的な異化効果を活かしたアクション/サウンドの再構成としてとらえられるのに対し、ブラクストンはミクロで壊れやすいサウンドをまるでパペット・ショーのように構築していて、等身大の演奏との組合せがとても面白い、「演劇的」とだけでは説明できない盤になっています。こうした従来のフリーとは全く異質のサウンドの振幅をとらえるため、ダニエル・ヴァランシアンによる録音もまた革新的/創造的です。
さて、清水俊彦はAACMの登場を次のように記しています。「1967年にコルトレーンが突然この世を去り、ジャズは大きく賃貸しはじめ、フリー・ジャズにおいても《叫び》の規格化が著しくなってきた。こうした状況のなかで、『ジャズはまだ自由ではない』(ロスコー・ミッチェル)とのラディカルな認識に立って、独自の立場から自由を追求しながら、それがどのように達せられるかということを知りはじめた一群の若い黒人ミュージシャンたちが台頭してきた」
彼らの初期の代表作を、清水による描写/分析を曲と同時進行で紹介しながら聴いてみることにしましょう。
■Art Ensemble of Chicago/People in Sorrow(BYG) 1969
いまB面の前半部分を清水俊彦の描写/分析と同時平行で聴いていただきました。批評の対象をどう批評文の中に召喚するかという時、文芸批評ならとりあえず書き写せますが、音楽ではそうはいきません。描写するよりない。そして描写においてすでに分析/批評的なものは発動しているのです。こうした描写/分析を回避してしまう批評も多い中で、清水の描写/分析の強度はやはり特筆すべきものでしょう。それでは前半の最後に、哀しみの極といった「苦悩の人々」とは対照的に、黒い哄笑に満ちた彼らの演奏を聴いてください。
■Art Ensemble of Chicago/Jackson in Your House(BYG) 1969 【前半終了】
スティーヴ・レイシー「森と動物園」
Sound Cafe dzumiでかかったオリジナルLPでは、ソプラノの軋み、トランペットの掠れ、ベースが指板の上で立てるスクラッチ、シンバルの倍音等の間に、まるでテグス糸のように精妙に張り巡らされた響きの連なりを聴くことができた。

2010-05-10 Mon
5月9日(日)開催の「耳の枠はずし」第4回のPLAYLISTです。今回は亡くなられた音楽批評家の清水俊彦氏の文章を通して、音を聴いたり考えたりする回だったことから、前3回のような「音をして語らせる」構成となりませんでした。そのため、PLAYLISTだけ見ても内容が浮かばないと思います。そこで、当日の論の要旨を後日アップしたいと考えています。よろしくお願いします。当日ご参加いただいた皆様、どうもありがとうございました。
福島恵一音盤レクチャー in Sound Cafe dzumi
〈耳の枠はずし-不定形の聴取に向けて〉
第4回 複数のことば① 清水俊彦を聴く 音盤プレイリスト
■John Coltrane/Ascension(Impulse) 1965
■Steve Lacy/Forest and the Zoo(ESP) 1966
■Anthony Braxton/For Alto(Delmark) 1971
■Anthony Braxton/Saxophone Improvisations Series F.(America30) 1972
■Anthony Braxton/Anthony Braxton(BYG) 1969
■Art Ensemble of Chcago/People in Sorrow(BYG) 1969
■Art Ensemble of Chcago/Jackson in Your House(BYG) 1969
■Guiseppi Logan Quartet/Guiseppi Logan Quartet(ESP) 1964
■Milford Graves ,Don Pullen/Nommo(SRP) 1966
■Patty Waters/College Tour(ESP) 1966
■Steve Lacy/Lapis(Saravah) 1971
■Steve Lacy/The Kiss(Lunartic Records) 1986
主要参考文献
1.清水俊彦 主要編著作
□清水俊彦「ジャズ・ノート」 晶文社
□清水俊彦「ジャズ・アヴァンギャルド」 青土社
□清水俊彦「ジャズ・オルタナティヴ」 青土社
□清水俊彦「ジャズ転生」 晶文社
□清水俊彦編「ジャズ 感性と肉体の祝祭」 青土社
□清水俊彦「直立猿人」 書肆季節社
□清水俊彦「一分間のシナリオ」 書肆季節社
□「講座20世紀の芸術7 現代芸術の状況」 岩波書店
□藤枝晃雄編「アメリカの芸術-現代性を表現する」第一版 弘文堂
2.日本現代詩
□中野嘉一「前衛詩運動史の研究」 大原新生社
□前衛詩人協会「鋭角・黒・ボタン1~3」
□北園克衛「2角形の詩論」 リブロポート
□金澤一誌編「カバンのなかの月夜 北園克衛の造型詩」 国書刊行会
3.ジャズの受容
□双葉十三郎「ぼくの特急二十世紀」 文春新書
□瀬川昌久「ジャズで踊って」 清流出版
□瀬川昌久+大谷能生「日本ジャズの誕生」 青土社
□マイク・モラスキー「戦後日本のジャズ文化」 青土社
□ユリイカ2007年2月号 特集「戦後日本のジャズ文化」 青土社
□中島河太郎編「新青年傑作選5 読物・復刻・資料編」 立風書房
□大石雅彦「『新青年』の共和国」 水声社
□瀧田佳子「アメリカン・ライフへのまなざし」 東京大学出版会
□川端康成「浅草紅団」
4.ジャズ批評ほか
□油井正一「ジャズの歴史物語」
□植草甚一「植草甚一主義」 美術出版社
□植草甚一「植草甚一の研究」 晶文社
□植草甚一「植草甚一読本」 晶文社
□植草甚一「フリー・ジャズの勉強」 晶文社
□植草甚一「『ジャズ・マガジン』を読みながら」 晶文社
□植草甚一「ジャズの前衛と黒人たち」 晶文社
□植草甚一「マイルスとコルトレーンの日々」 晶文社
□植草甚一「ジャズの十月革命」 晶文社
□植草甚一「ジャズは海を渡る」 晶文社
□植草甚一「衝突と即興」 スイング・ジャーナル社
□植草甚一「モダン・ジャズの発展 バップから前衛へ」 スイング・ジャーナル社
□マルク・ダシー「村山知義とクルト・シュヴィッタース」 水声社
□「水声通信3 特集 村山知義とマヴォイストたち」 水声社
□平岡正明「ジャズ宣言」 イザラ書房
□平岡正明「ジャズより他に神はなし」 三一書房
□平岡正明「戦後日本ジャズ史」 アディン書房
□平岡正明「チャーリー・パーカーの芸術」 毎日新聞社
□平岡正明「毒血と薔薇 コルトレーンに捧ぐ」 国書刊行会
□平岡正明「黒い神」 毎日新聞社
□平岡正明「ウィ・ウォント・マイルス」 毎日新聞社
□間章「時代の未明から来たるべきものへ」イザラ書房
□間章「非時と廃墟そして鏡」 深夜叢書社
□間章「この旅に終わりはない ジャズ・エッセイ」 柏書房
□リンディホップ・スタジオ編「間章クロニクル」 愛育社
□「音楽の手帖 ジャズ」 青土社
清水俊彦氏は生前に、「直立猿人」、「1分間のシナリオ」の
2冊の詩集を出版されています。
原田正夫様(月光茶房)のご厚意で2冊とも拝見することができました。
「直立猿人」に関しては原田様が入手されたのが5月5日、
私がお借りして拝見したのが、何とレクチャー前日の8日という慌しさでしたが。
そのような幸運にも恵まれたレクチャーでした。

左が「直立猿人」、右が「1分間のシナリオ」です。
写真はJazztokyoのページに掲載されていたものを、
使わせていただきました。
2010-05-03 Mon
Beat Sound 15号「プログレッシヴ・ロック特集」が出ます。私も選盤に協力したほか、ディスク・レヴュー、「私のプログレッシヴ・ロック観」、RIOや「プログレ進化形」に関するコラムなどを執筆しています。もともと、まず参加者が40枚ずつ選ぶところからスタートした企画で、私の40選は次の通り。ただし、「現役盤で入手可能なこと」という条件が付いています。なのでマイナーは外して、思いっきり基本線に絞ったつもりだったのですが、結果としては結構漏れました。その分、「RIO」や「進化形」で拾ったわけですが。赤岩さん、岩本さんとブリティッシュ派両巨頭がいるので、やはり英国中心で独・仏・伊は少なめになりました。いまやカンやアシュラ・テンプルは別文脈で有名だから落ちてもいいけど、マグマやアンジュ、オザンナやイル・バレット・ディ・ブロンゾ等はねー。う~ん。
なお、ステレオ・サウンド社発行の「ビート・サウンド」だけあって、リマスター情報等は充実してます。「また、プログレかよ‥」と言わずに、どうぞご覧ください。
福島選の40枚
> 【英国12枚】
> 1.キング・クリムゾン/宮殿
> 2.キング・クリムゾン/ザ・グレート・デシーヴァー
> 3.イエス/危機
> 4.ジェネシス/眩惑のスーパーライヴ
> 5.スティーヴ・ハケット/Voyage of the Acolyte
> 6.アンソニー・フィリップス/ギース・アンド・ザ・ゴースト
> 7.ソフト・マシーン/Volume 2
> 8.ピンク・フロイド/狂気
> 9.ハットフィールズ&ザ・ノース/ロッターズ・クラブ
> 10.ロバート・ワイアット/エンド・オヴ・アン・イヤー
> 11.ヴァン・ダー・グラーフ・ジェネレイター/スティル・ライフ
> 12.フリップ&イーノ/ノー・プッシーフッティング
> 【ドイツ4枚】
> 13.タンジェリン・ドリーム/ツァイト
> 14.アモン・デュールⅡ/神の鞭
> 15.ポポル・ヴー/ファラオの墓にて
> 16.クラウス・シュルツェ/X
> 【イタリア4枚】
> 17.PFM/友よ
> 18.アレア/1978
> 19.オザンナ/パレポリ
> 20.イル・バレット・ディ・ブロンゾ/YS
> 【フランス5枚】
> 21.マグマ/Hhai Live
> 22.エルドン/Un Reve Sans Consequence Speciale
> 23.アトール/組曲「夢魔」
> 24.アンジュ/Au Dela Du Delire
> 25.モナ・リザ/限界世界
> 【その他4枚】
> 26.アフロディテス・チャイルド/666
> 27.ロス・キャナリオス/四季
> 28.ペッカ/Mathematician's Air Display
> 29.バカマルテ/終末の後
> 【RIO6枚】
> 30.ヘンリー・カウ/Western Culture
> 31.アート・ベアーズ/Winter Songs
> 32.ユニヴェル・ゼロ/Ceux De Dumors
> 33.アクサク・マブール/無頼の徒
> 34.エトロン・フー・ルルーブラン/大道芸人稼業
> 35.ディス・ヒート/ディス・ヒート
> 【プログレ進化形ポップ5枚】
> 36.マーキュリー・レヴ/All Is Dream
> 37.レディオヘッド/アムニージアック
> 38.ステレオラブ/ミルキー・ナイト
> 39.ブロンド・レッドヘッド/Misery Is A Butterfly
> 40.Efterklang/Performing Parades
刊化3号目となるNo.15の巻頭特集は「21世紀の音・迷宮への誘い」と題し、1960年代後半に誕生したプログレッシヴ・ロックの誕生から後年のフォロワーたちの功績を「52タイトル+α」の名盤・名作を通して俯瞰します。キング・クリムゾン、ピンク・フロイド、イエス、ジェネシス、ゴング、アレア、タンジェリン・ドリーム等々の代表作を、赤岩和美、岩本晃市郎、小原由夫、福島恵一の各氏が改めて真正面から耳を傾け、21世紀の音を追体験できるディスクの魅力について言及しています。
オーディオ特集は、今注目を集める「デジタルファイル・ミュージック」実践篇Part 2をお届けします。ここではiPodドックから、USB端子を装備したプリメインアンプ、D/Aコンバーター、さらに活況を呈してきたデジタルファイル・プレーヤーの話題製品をピックアップ。iPodとPCをソースのメインに据えながら、「デジタルファイル再生の最先端」をお伝えします。特別企画「ビートルズ・サウンド考現学」では、「ザ・ビートルズBOX USB」のFLAC音声の出来映えに加え、イギリス盤/ドイツ盤/ニンバス盤LP等の音を三浦孝仁、湯浅学の両氏が徹底的に掘り下げます。ビートルズ2009年版リマスターCDの総括も、各種LPを収集してきた2人のエキスパートによる発言だからこそ、説得力があると言えるのではないでしょうか。
季刊誌(2/5/8/11月の上旬発売)『ビートサウンド』は読者の皆さまに支えられながら、最新号も絶賛発売中です。(ビートサウンド編集長 武田昭彦)
さて、あなたは、この表紙に描き込まれているプログレ名作ジャケが何枚わかるかな。ちなみに私は15作品。

2010-05-01 Sat
「耳の枠はずし」第4回 複数のことば① 清水俊彦を聴く福島恵一音盤レクチャー in Sound Cafe dzumi「耳の枠はずし」第4回 「複数のことば① 清水俊彦を聴く」は5月9日(日)15::00~18:00に開催します。
今回のレクチャーの前半3回は「フリー・ミュージックのハードコア」と題してお送りしましたが、これは昨年11月にズミで開催されたシンポジウムに参加した際に、報告内容として考えたものが元になっています。だいぶいろいろ枝葉を出しましたが。
そのシンポジウムで話題になったのが、トラッドとか音楽を聴く場の問題で、私のとらえ方としては、おなじ場にいあわせて、時間/空間を共有することによる「体験の共同性」を巡る議論だったかと思います。その時に違和感を覚えたのが、「そんなに簡単に共同性へ行ってしまっていいのか」ということです。もちろんライヴな場の効果/効用ということについては、まったく否定するつもりはありません。けれど、それが切り離された個別の聴取の対立項として位置づけられ、本来的/根源的な聴取ということになってしまうと、どうなのかなと思わずにはいられません。
祭儀等で用いられる、いわば「大文字の音楽」には、ある種の共感作用/統合作用があるのは事実です。というか、そのために音楽を用いていると言っていいでしょう。けれど、そうした聴取はその後、個別化/内面化されていくことになります。コンサートという制度は、みんなが同じ時間/空間を占め、同じ体験をしていることを前提としているようでありながら、それぞれが別のことをしている/聴いていることが入り込んでいます。
オペラハウスなど、文字通り社交場だったわけで、横の壁部分にしつらえられたバルコニー席では、飲み食いはもちろん、権謀術策やあるいは性戯が繰り広げられていました。それを廃止して、観客/聴衆全員に前を向かせ、舞台に正対させ、オーケストラを隠し、舞台と瞳や耳の間には空間しかないようにしたのが、ワーグナーのつくりあげたバイロイトだった。
今度はこちらの方向で「体験の共同性」が確立されるかといえば、それは「作者の意図の完璧な理解」へと反転して、むしろ演奏者の介在など不必要で、楽譜を読み、脳内に音楽を鳴らせばよいというところまで行ってしまう。究極の個別化/内面化ですね。
映画というのは、やはり全員が同じ方向を見て、同じものを見るという制度ですが、そこに見ていることが文化的枠組みや個人の記憶/体験によって異なるのは、前回、小林秀雄を引いてお話した通りです。
「だからこそ、本当の『体験の共同性』を‥」というのはわかるのですが、むしろ、今はケータイやオンライン・ゲームによる結びつけをはじめ、ひとが共同性へと強力に引き込まれている時のような気がします。テレプレゼンスによる共同性みたいな。i-pod等による持ち運びできる聴取空間も、ウォークマンの時以上に、みんなが同じものを聴いている「共同性」の側に引き寄せられている気がします。特にJ-POPの歌詞に対する反応なんか見てるとね。「お前ら、そんなに説教されたいのか」とか思うもの。
‥ということで、いきなり無媒介に「体験の共同性」に行くのではなく、間にことばを介した「聴くことの公共性」を提唱したいと考えています。そこでは必ずしも同一性に向かう必要はなく、統合不可能な差異が確認されても、全然構わない。むしろそうしたことばのやりとりの場が確保されていれば、それでいいというものです。‥で「複数のことば」や都市空間の中のゆるい結びつきである「カフェの空間」へと話はつながっていきます。
「複数のことば」第1回に清水俊彦さんを選んだのは、自分が音を聴いて、ことばを頭の中に沸き立たせたり、あるいは紙の上に紡いでいく時に、そのことばを響きあわせた回数や密度が一番高かったのは、僕の場合、やはり清水さんではないかと考えた次第です。その点で、清水さんが書かれた文章を通じて、彼が聴いた音源へさかのぼると同時に、彼が書いた言葉がどこから来たのか、どこから生み出されたのかも見つめてみたいと思います。ご期待ください。
北園克衛が設立した前衛詩人協会による年刊誌「鋭角・黒・ボタン」
清水俊彦は評論、詩、写真作品を掲載するほか、編集委員も務めていた。
写真は1958年のものの表紙(多摩川美術大学図書館北園克衛文庫所蔵)。
