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福島恵一

Author:福島恵一
プログレを振り出しにフリー・ミュージック、現代音楽、トラッド、古楽、民族音楽など辺境を探求。「アヴァン・ミュージック・ガイド」、「プログレのパースペクティヴ」、「200CDプログレッシヴ・ロック」、「捧げる-灰野敬二の世界」等に執筆。2010年3~6月に音盤レクチャー「耳の枠はずし」(5回)を開催。2014年11月から津田貴司、歸山幸輔とリスニング・イヴェント『松籟夜話』を開催中。

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「耳の枠はずし」第4回の要約・再構成(2)
 遅くなりましたが、「耳の枠はずし」第4回「複数のことば① 清水俊彦を聴く」の要約・再構成を、前半・後半の2回に分けて掲載します。なお、これはあくまで資料に基づく要約・再構成であり、レクチャーそのものの再録ではありませんので、ご了解ください。


 前半の最後手アート・アンサンブル・オヴ・シカゴの演奏を聴いていただきましたが、平岡正明は先ほどの「ジャズ」所収の「フランツ・ファノンのバップ革命」において、AACMを「冗談音楽であり、こむずかしく論じるのはイナカッペ」と評価しています。また、油井正一はやはり「ジャズ」所収「日本のジャズの世界的地位」において、「フリー・ジャズによる音楽的束縛の拒絶が「手くせ」だけを残した。そこで民族自覚の時代が到来した」とのジャズ史観を示しており、さらに平岡正明が紹介するところのスピーチでは「ジャズは戦勝国アメリカの白人の音楽だと思っていたら、黒人の音楽だった」と話しています。
 こうしたことと平岡正明「フランツ・ファノンのバップ革命」の主旨である「バップ革命は黒人革命に先行した」を重ね合わせると、日本におけるジャズ受容のねじれが浮かび上がってくるように思います。「アメリカという現象」(谷譲次)により米国文化が大量流入し、関東大震災(1923年)以降、日本の都市モダン文化(映画、ジャズ、ミステリ)が急速に形成されていきます。(1926年生まれの清水のジャズ履歴とあわせて年表化した資料を見ながら)大戦による中断を経て、60年代にバップとフリーが同時に流入し、その結果「ジャズの顔が黒くなり」(マイク・モラスキー)、また、世相(叛乱の時代)と重ねあわされ、ジャズは時代の象徴(と同時にインテリ・学生層の必須教養)となっていきます。ここでソロイストの先鋭化(バップ)と、全体の流動化(フリー/ポスト・フリー)のどちらに重要性を置くかで、大きく見方が違ってくるわけです。
 平岡は明らかに「バップ革命」という切断面を強調/特権化しており、彼の黒人暴動に対する先鋭化論(スナイパーの出現を望む)と重ね合わせれば、演奏全体のフリー化ではなく、ソロイストが飛翔しさえすればよいと彼は考えていたのではないだろうか。だとすれば天才チャーリー・パーカーがいればよいことになります。すなわち前者を選んだ場合、ジャズが時代の象徴でなくなった時点で、現在進行形のジャズ(フリー/ポスト・フリー)は意味を失ってしまいます。実際、相倉久人はニュー・ロック等(他の都市文化)へ、平岡正明は他の被抑圧者の戦線(在日韓国人、パレスティナ等)へと、その後、活動の舞台を移していきました。むしろ、ここで植草甚一がヨーロッパの同時代の動向に着目する中で、AACMやヨーロッパのフリー・ミュージックへ向かう動きを追っていたことに注目しておきたいと思います。

 清水のジャズ史観のコアは、次の3点に要約できるように思います。
①ビバップをジャズにおける最初のモダニズムととらえる。
②60年代のフリー・ジャズをジャズ史上最初のアヴァンギャルドととらえる。
③他の芸術のアヴァンギャルドが《反伝統》であるのに対し、ジャズ・アヴァンギャルドは伝統を袋小路とは見なさず、逆にそれを源泉/出発点として、いまだ定式化されていない、発語されていない、未知のものへと向かおうとしたことを重視する。

 清水俊彦はどのようにしてこうした認識に至ったのか、また至ることができたのか、その理由は清水の背景を成す次の2つの流れに求められるのではないかと考えます。
A(海外)都市モダン文化(映画、ジャズ、写真、喫茶店、ミステリ‥)の紹介者たる高等遊民の系譜→双葉十三郎、野口久光、油井正一、植草甚一‥
Bアヴァンギャルド(ジョイス、未来派、ダダ、構成主義、シュルレアリスム‥)の同時代的体験→西脇順三郎、瀧口修造、北園克衛‥

 ちなみに植草甚一をコラージュの制作や演劇の舞台美術にのめりこませ、早稲田大学建築学科を落第してしまう原因となる大きな影響(アヴァンギャルド体験)を与えたのは村山知義(1901-1977)です。彼は1922年にベルリンに渡り、現地で構成主義美術等の同時代アヴァンギャルドに遭遇し、翌年帰国すると、日本未来派を経てきた連中とマヴォを結成し、その後、機関紙発行、美術、舞台設計、空間設計、デザイン、絵本等と縦横無尽の活躍をします。もう、この時点で日本のアヴァンギャルドは世界との同時代性を獲得していました。1904年にマリネッティが仏フィガロ紙に「未来派宣言」を掲載すると、森鴎外によるその全訳が3か月後の「昴」に載るし、芥川龍之介は丸善で買ってジョイスを読んでいました。こうして未来派、ダダ、キュビズム、構成主義、表現主義、シュルレアリスム等の同時代アヴァンギャルドを受容/活動していた流れを集約したのが、北園克衛(1902-1978)が結成したVOUで、清水はこれに属していました。実際、VOUは結成当初からエズラ・パウンドと連携し、世界的な活動展開を図っていたわけです。北園は日本前衛詩の先頭を走り続け、コンクリート・ポエムやプラスチック・ポエムに至るとともに、ハヤカワ・ポケット・ミステリの表紙デザインを手がけるなど、都市モダン文化の領域でも活躍していました。また、VOUは形象展やコンサートを開くなど、視覚/聴覚表現も盛んに手がけています。清水自身もVOUや同じく北園が設立した前衛詩人協会の年刊誌に、詩作品のほか、写真、詩・美術・音楽に関する批評等を寄せています。

 こうしたことを背景とした清水の批評の特徴を要約すると、次のようになるかと思います。
①モダニズムを前提。ただし、ジャズの即興性、身体性を重視。絵画を平面性に還元したグリーンバーグと比べてみること。
②アヴァンギャルドを評価。
③意味やシンボルに直ちに向かうのではなく、音(サウンド/ソノリティ)に注目。
④批評の対象である音楽/演奏に対応する強度を持った、詩的な構成物をつくあげることを目指す。

 ④については、清水俊彦追悼のために行われた大里俊春と青土社の担当編集者だった水木康文の対談(http://www.boid-s.com/talks/271.php)でも指摘されているところです。この対談は、間章がスティーヴ・レイシーを招聘する時に立ち上げた「スピリチュアル・ユニティ」が清水宅を事務所代わりにしていたという話も紹介されていたりして、とても面白いものです。実は清水俊彦は前衛詩人協会発行の「鋭角・黒・ボタン」の編集委員をしているのですが、この事務局も清水宅に置かれています。

 それではまた音源に戻りましょう。先に清水により、ポスト・フリーの流れは、アルバート・アイラーやセシル・テイラーではなく、彼らの側にあると評されていたジュセッピ・ローガンたちの演奏を聴いてみましょう(清水によるジュセッピ・ローガン評を紹介)。
■Guiseppi Logan Quartet/Guiseppi Logan Quartet(ESP) 1964
 フロントは単純ななラインを繰り返し、その後ろでリズムがフリーにやりとりするという「ネフェルティティ」型のアンサンブルですが、よく聴くと相当に複雑なことをやっています。続いて清水が高く評価する、このクワルテットのピアノとドラムスのデュオを聴いてください。
■Milford Graves ,Don Pullen/Nommo(SRP) 1966
 破片が砕け散るような圧倒的な流動性の獲得へと至る演奏は、よく聴くと先ほどのジュセッピ・ローガン・クワルテットでの演奏と通底しています。むしろ、先ほどの盤では演奏が燃え尽きてしまわないよう、フロントがある種の制動をかけていたのがわかるかと思います。確かにセシル・テイラーの行き方とは違いますね。続いては同じくジュセッピ・ローガンで、声との共演を聴いてください。
■Patty Waters/College Tour(ESP) 1966
 パティ・ウォーターズの「声」とジュセッピ・ローガンの「息」が、共に肉を削がれ、湿り気を失って、ひゅうひゅうと鳴る喉だけになっていく様が聴けたかと思います。
 最後にレイシーの演奏を聴いてください。やはり清水俊彦にとって、レイシーは特別な演奏者だったのではないかと思います。まず、レイシーによるポスト・フリーの試みの最先端というべき「ラピス」における、「他の音楽の余白にかろうじて書き込まれた演奏」を聴いてください。
■Steve Lacy/Lapis(Saravah) 1971
 環境音ごととらえられた即興演奏の試みはいろいろありますが、これはレコードがかかっていて、しかもそれがセンターにあって、レイシーの演奏は端に追いやられている。まさに「余白に書く」演奏になっています。では最後にレイシーの日本公演時の録音から聴いてください。
■Steve Lacy/The Kiss(Lunartic Records) 1986
 清水にとって、批評とは対象となる音楽にふさわしい強度を有する私的な構成をつくりあげることでもあったことを先にお話いたしました。次のレイシー評はその代表的なむものと言えるでしょう。「レイシーの楽器は最高の宝石職人の道具である。彼はどんなかたちにでも細工できるフレーズのようなものにノミをあてる。そのエビグラム(テーマ)を反復し、試しに軽くたたき、裏返しにして、前後に揺する。それから二つに、四つに、いくつかに分割する。でなければ、粉々に砕いてしまう。そうしておいて、あたかもいじくりまわしたのを後悔するかのように、またそれを一つにつなぎ合わせるのだ。」

 清水俊彦が私たちに残してくれたものとは、幾つかの考え抜かれた興味深い問いではないか‥と私は思います。批評には答を出すものと問いを掲げるものとの2種類あります。むしろ、つまらない答を掲げる人の方がいっぱいいるわけです。そうしたなかで考え抜かれた魅力的な問いかけを発する批評こそが、人を精神/思考の運動へと誘うのだと思います。今回採りあげたフリー/ポスト・フリーの切断面を巡る清水俊彦の思考は、まさにそうした魅力的な問いかけなのではないでしょうか。【後半終了】



清水俊彦が表紙写真を担当した黒田維理詩集「Something Cool」




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レクチャー内容 | 21:57:18 | トラックバック(0) | コメント(0)
「耳の枠はずし」第4回の要約・再構成(1)
遅くなりましたが、「耳の枠はずし」第4回「複数のことば① 清水俊彦を聴く」の要約・再構成を、前半・後半の2回に分けて掲載します。なお、これはあくまで資料に基づく要約・再構成であり、レクチャーそのものの再録ではありませんので、ご了解ください。


 これまでの3回は「フリー・ミュージックのハードコア」と題し、デレク・ベイリーから「音響」以降、トラッドからミッシェル・ドネダへという2つの可能性の線をたどり、さらにそれを距離/空間の中に置いて眺めるということをしてきました。そこでは共通して、音を演奏者の意図に還元/着地させるのではなく、まさに不定形な音の運動として聴いてみようという姿勢をとってきました。そうすると聴き手はみんな、それぞれ違う「こと」を聴いていることになります。それでは誰とも何かを共有することはできないのか。そこでポーンと体験の共同性に行くのではなく、ことばを介して互いの違いを確かめ合い、聴くことを豊かにするという「聴くことの公共性」へ向かうべきではないか‥というのが私の主張です。そのためには複数の言葉を響き合わせる空間、それも共同体に属さない空間ということで、都市に設けられたアジールというべきカフェの空間のあり方に注目し、次回「ECMカフェ」ということで実践してみようというわけです。今日はその前段として、亡くなられた清水俊彦さんの音楽批評のことばを採りあげ、それと対象となる音楽/演奏やまた別の言葉を重ね合わせて聴いてみたいと思います。(以下敬称略)

 清水俊彦については、「アメリカの芸術」(弘文堂)所収の「ジャズ 不完全な芸術」が剽窃であることが判明し、書籍が回収されるという事件がありました。そのことが明らかになって、さらに引用文として明示した箇所以外にも引用があるということで、これまで書かれたものすべてが疑わしいと言い出す人もいます。けれど清水俊彦が書いたものから、多大な恩恵と影響を受けている私としては、先ほどの剽窃は事実として認めたうえで、なお清水俊彦が何を成し遂げたのか、そのための条件や背景は何だったのかを示したいと思います。ここではフリー/ポスト・フリーの切断面に関する議論に的を絞り、ちょうど清水俊彦が編者となった「ジャズ 感性と肉体の祝祭」(青土社)に収められた批評を切り口として、事態を切開してみたいと思います。

 清水俊彦「ジャズ・アヴァンギャルド」は、コルトレーンの死による"革命"・"祝祭"・"躍進"といった《興奮》が頓挫したところから書き始められています。私たちもまたコルトレーンから始めることにしましょう。
■John Coltrane/Ascension(Impulse) 1965
 この演奏を「フリー・ジャズ」と呼んでしまうのは、実はとても大雑把な言い方なのですが、一般的なイメージのレヴェルでは、これぞフリー・ジャズと言っていいでしょう。これを次の演奏と聴き比べてみてください(清水による「森と動物園」評を紹介)。
■Steve Lacy/Forest and the Zoo(ESP) 1966
 熱気と充満によるフリー・ジャズのイメージと、冷ややかで硬質な異国の空気の中で孤独な音たちが行き交うフリー・ジャズの違いが肌で感じ取れたかと思います。実はレイシー自身は、この「森と動物園」の達成をフリーの頂点ととらえており、その後、映画に音楽を付ける仕事に関わることから、ポスト・フリーの枠組みを探求していくことになるのですが、この冷ややかなフリーには、充分に「ポスト」性が先取りされていると思います。 
 清水俊彦によるポスト・フリーのパラダイムの記述です。「フリー・ジャズの別の継承者である彼らは、個人的探求や新しい要素の効果をこの音楽にもたらしながら、その遺産を有利に用いようとしている。彼らは想像力に欠けたある種のフリー・ジャズの型にはまった行き過ぎにうんざりしている一族であり、(中略)ある意味でセシル・テイラーやアルバート・アイラーのフリーよりもジュセッピ・ローガン/ドン・ピューレン/ミルフォード・グレイヴスのフリーに羨望の眼差しを向けているような一族であり、とりわけ《空間》に熱中している一族である。ここでの空間とは、たとえば「フリー・ミュージックとはメロディ・ラインの自由のなかにサウンドのための空間がつくり上げられなければならない」(マンフレート・アイヒャー)という意味のそれである。」
 ECMのアイヒャーが引用されているのに驚きますが、これはポスト・フリーを感じさせる作品が挙げられている中に、初期ECMからバール・フィリップス&ディヴ・ホランドとかサークルの作品が入っているためです。それでは続いて、清水俊彦がレイシーと共にポスト・フリーの主要な軸として挙げているアンソニー・ブラクストンを聴いていくことにしましょう。彼はブラクストンについてこう書いています。「それぞれの音が最大限の効果をあげるように選択し、論理的なフレーズのそばに突然の叫びを置き、怒りに静けさを連れ添わせるようにして、それらを組織的に組み立てながら、ブラクストンは完全な孤独から徹底した混沌へ、さらにはそれを突き抜けて真空の音楽へと全力疾走を行っている」
■Anthony Braxton/For Alto(Delmark) 1971
 一方、スティーヴ・レイシーは間章との対話の中で、ブラクストンをこう評しています。「彼はチェスのうまい男という感じだ。まるでチェスをやるように演奏する」。さらに清水俊彦の評を重ねてみましょう。「彼は、空間が意味をもつためには、それは満たされ、組織されねばならないという考えに熱中していたのだ。このことは『Saxophone Improvisations Series F.』でひとつの頂点に達し、強烈な内的無必然性を発揮することになる」
■Anthony Braxton/Saxophone Improvisations Series F.(America30) 1972
■Anthony Braxton/Anthony Braxton(BYG) 1969
 このBYG盤はAEOCの活躍の陰に隠れてしまいがちですが、AEOCの演奏の素晴らしさの多くの部分が演劇的な異化効果を活かしたアクション/サウンドの再構成としてとらえられるのに対し、ブラクストンはミクロで壊れやすいサウンドをまるでパペット・ショーのように構築していて、等身大の演奏との組合せがとても面白い、「演劇的」とだけでは説明できない盤になっています。こうした従来のフリーとは全く異質のサウンドの振幅をとらえるため、ダニエル・ヴァランシアンによる録音もまた革新的/創造的です。
 さて、清水俊彦はAACMの登場を次のように記しています。「1967年にコルトレーンが突然この世を去り、ジャズは大きく賃貸しはじめ、フリー・ジャズにおいても《叫び》の規格化が著しくなってきた。こうした状況のなかで、『ジャズはまだ自由ではない』(ロスコー・ミッチェル)とのラディカルな認識に立って、独自の立場から自由を追求しながら、それがどのように達せられるかということを知りはじめた一群の若い黒人ミュージシャンたちが台頭してきた」
 彼らの初期の代表作を、清水による描写/分析を曲と同時進行で紹介しながら聴いてみることにしましょう。
■Art Ensemble of Chicago/People in Sorrow(BYG) 1969
 いまB面の前半部分を清水俊彦の描写/分析と同時平行で聴いていただきました。批評の対象をどう批評文の中に召喚するかという時、文芸批評ならとりあえず書き写せますが、音楽ではそうはいきません。描写するよりない。そして描写においてすでに分析/批評的なものは発動しているのです。こうした描写/分析を回避してしまう批評も多い中で、清水の描写/分析の強度はやはり特筆すべきものでしょう。それでは前半の最後に、哀しみの極といった「苦悩の人々」とは対照的に、黒い哄笑に満ちた彼らの演奏を聴いてください。
■Art Ensemble of Chicago/Jackson in Your House(BYG) 1969  【前半終了】


スティーヴ・レイシー「森と動物園」
Sound Cafe dzumiでかかったオリジナルLPでは、ソプラノの軋み、トランペットの掠れ、ベースが指板の上で立てるスクラッチ、シンバルの倍音等の間に、まるでテグス糸のように精妙に張り巡らされた響きの連なりを聴くことができた。




レクチャー内容 | 21:50:30 | トラックバック(0) | コメント(0)