2010-06-27 Sun
金子智太郎さんからメールをいただいて、彼が城一裕さんと共同で主催している「生成音楽ワークショップ第2回」に行ってきました。前回、東工大で行われた第1回は、スピーカーの上でマイクロフォンを揺らすスティーヴ・ライヒ「振り子の音楽」の実演でした(残念ながら行けませんでした)。
今回は何とアルヴィン・ルシエ「Music on a Long Thin Wire」を実演とのこと。どんな壮大なことになっているのかと会場の原宿VACANTへ。ちなみにこの企画はInterferenze Seeds Tokyo 2010の一環として行われています。
会場は木張りのカフェみたいな空間。ヴィデオ・インスタレーションのモニターが壁際に並ぶ中、スペースの中央付近に「Long Thin Wire」がありました。ワイヤーの長さは3mというところでしょうか。録音されたヴァージョンでは確か24mだったから、1/8程度のスケールということになります。
作品の傍らに待機していた金子さんから発音原理を説明してもらいました(装置全体の構成は下図を参照)。2つのテーブルの間に長く張り渡された針金の両端がアンプに接続され、さらにアンプには正弦波発振機(オシレーター)が接続されていて、出力は電気信号として針金に流され、針金の一方の端に置かれた磁石に反応して(電磁誘導の原理)、針金が振動します。これ自体でも音は出ているのだけれども、それをさらにコンタクト・マイクで拾って増幅し、スピーカーから会場に流します。振動する針金は空間にさらされているので、このスピーカーの振動をはじめ、会場全体の様々な振動の影響を受けて、その音は刻々と変化していきます。
金子さんの説明をうかがいながら、ワイヤーの音に耳を傾けていると、確かに響きが揺らいでます。周期的なうねりとも違って。会場に人が多くなった時の方が、揺らぎが大きいかな。面白いのは磁石を動かして、磁力の影響を変えても音があまり変化しないこと。電磁誘導の原理からすると、磁石との距離は影響が大きいはずなのに。あとオシレーターのダイアルを回して振動数を変えると、これは「ウニューン」という感じで明らかに音が動きます。ダイアルを動かし続ければ、ある種の「演奏」はできるけど、これは単にエフェクトかましてる‥という感じで、あまり面白くないなー。むしろ、放っておいた方が、急に陰から違う音が立ち上ってきたりして、予測不可能な面白さがあります。
この作品に対してもともと持っていたイメージとして、振動が畳重しながらだんだん響きが豊かに厚くなっていくのかなと思っていたけど、今回はワイヤー自体の振動の弱さもあって、むしろ周囲からの影響のランダムネスが効いているみたいですね。人が増えると振動が増すけど、それだけ音も吸うから、ワイヤーへのフィードバックは強まるのか弱まるのかよくわからない。これは一筋縄では行きませんね。ポジティヴとネガティヴのフィードバックの綱引き。これはまさに周囲の環境が、この細いワイヤーの振動に映り込み、このワイヤーを通して鳴っているということでもあります。
金子さんによれば、ルシエはこの作品を「ポータブルなもの」と言っているとのこと。長さ24mの巨大インスタレーションがポータブル?と思うけど、今回の「エコノミー」ヴァージョンを体験すると、なるほどと感心します。ある空間に設置することで、その空間の性質-それは広さやヴォリュームはもちろん、反響特性、伝播特性(気温に関係)、ノイズや振動の特性などが織り成す複雑な関係性なわけだけれど-が細い針金を通して姿を現していく。この装置の大きさだったら、実際どこへでも運んでいって鳴らせそうですね。設備点検日で人のいないコンサート・ホール、地下貯水池、廃校の教室、展示準備中のがらんとしたギャラリーなどなど。
それともうひとつ感心したのは、今回の装置をセッティングして試したら、すぐに音が出たんだそーです。通常のサウンド・アートのインスタレーションだと、そんなことほとんどないんだって。そうした「汎用性」は、発音と相互干渉による変化の原理を全て眼の前にさらしている「透明性」とともに、この作品の完成度の高さを物語るものでしょう。たいていの場合、サウンド・アートをはじめメディア・アート系のインスタレーションって、発生原理の部分がデジタルにブラックボックス化されていて、結局、アーティストの意図のプレゼンテーションになってしまい、しかも再現性(=汎用性)がないから、そこでの体験が特権的に神話化されてしまいやすいですよね。実は経験としては全然たいしたことないのに、コンセプトだけ評価されてしまうみたいな(最近出たアラン・リクトの本もそうした神話/伝説型ですね)。その点、ルシエは偉いな。そうしたルシエの偉さは、むしろ今回の「エコノミー」ヴァージョンに鮮明に示されていると思います。
今回、他の展示と混在して設置されたために、会場を訪れても、この装置や装置が立てていた響きに気がついた人は少なかったかもしれません。でも、リチャード・マックスフィールドがNYのマンホールから流した響きに、当時リアルタイムで気がついた人だって少なかったはず。本当はたまたま通りかかった理科実験大好き小学生が音に気付き、何の音だろうと探っていって装置を見つけ、傍らに座り込みじっと眺めている‥なんてことが起こるといいんだけどなー。これはむしろ「でんじろう」先生の世界ですね。ほとんどのサウンド・アートは、「でんじろう」先生に負けていると、小学校で理科部に所属し、理科実験教室にも通っていたワタシとしては強く思います(小学生の頃のワタシが好きだったのは、化学実験の方でしたが)。
実は明日(もう今日か。韓国惜しかったなー)27日(日)もやってます。ぜひ体験してみてください。
会場や時間等の詳細は、次の金子智太郎さんのブログを参照してくださいね。http://d.hatena.ne.jp/tomotarokaneko/
城一裕画伯による今回の装置の図解。うーん。わかりやすい。

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2010-06-21 Mon
写真展「古屋誠一 メモワール.」(東京都写真美術館)を見た。よい意味で予想を裏切られたので、ここに採りあげておきたい。この写真展を知った毎日新聞6月15日夕刊の展覧会評も、後からyoutubeで見た産経新聞のPRも、写真家古屋誠一の主要な被写体である妻クリスティーネが(おそらくは精神の病により)自殺していることを報じ、その破局へといたる日々の記録として、ここに展示された作品群をとらえている。これは写真展自体が7つのパートに分けられ、彼女と関係のない作品を含めて展示しながらも、展示を彼女の遺影(戒名も読み取れる)から始め、全体として彼女の姿を、時をさかのぼるようにとらえている以上、ある意味「正当」なとらえ方と言ってよいかもしれない。写真展のフライヤーに用いられている写真(後掲)も死の影を濃く宿したものであり、美術館にいたるアプローチに掲げられたもうひとつの写真は、元気だった頃の彼女が陽光を浴びて水辺にたたずむものである。「こんなにも明るく幸せそうな彼女が自殺による死へ至る」という落差が、観客たちに向けて用意された物語の枠組みであることは疑い得ない。
だが、にもかかわらず、冒頭に述べたように、展示された作品はそうした物語の枠組みを明らかに裏切るものだった。1枚1枚の写真がとらえた彼女の多様な表情や仕草は、決して単線的に病の悪化を示すことはない。むしろ、出会った頃の写真にすでに彼女の危うさ(秀でた額と深い眼窩がつくりだす鋭く脆い眼差し)はとらえられており、他方、入院して坊主頭になった彼女は、かえって屈託がない。
途中、「円環」のセクションに挿入される兎や鴨の死体を撮影した作品も、先の紹介文が論じる「生と死」といった観念的イメージよりも、確かな造型感覚/技術によりモノクロームな質感の差異のうちに触覚的な視覚を鮮やかに喚起する。ここに「繰り返される生と死」を見ようとするのは観念的に過ぎるというより、眼前の作品を、そこにとらえられた明暗や、あるいは面と線のせめぎあいを見ていないのではないかとすら思われる。実際、幾つかのぞいたブログの中には、自殺するしかなかった母と彼女の死後も成長していく息子の姿に感動した旨を記しているものもあった。人は自ら見たいものしか見ようとしない。
様々なシチュエーションで撮影されたクリスティーネの写真には、顔面に草の茎が影を落としていたり、ひび割れたガラス越しにとらえられていたり、不吉さ/不穏さよりもイメージの興味深さを選び取らずにはいられない、古屋の写真家として救いのない業(ごう)の深さを感じさせるものも少なくない。座り込み悲嘆にくれる彼女をただ黙ってとらえた2枚など、写真家の残酷さを際立たせるものと言えるかもしれない。
だが、そうした写真家の残酷さは、やがて「写真の残酷さ」に復讐されることとなる。撮影された多くの写真は「確かにかつてあった現在」を記録しているにもかかわらず、いやだからこそ、まだ健康だった妻と過ごした幸せな日々から危機的な状況や一時的な回復を経て自殺に至る経緯を、記憶にあるようなかたちでは少しも跡付けてくれない。1枚1枚の写真は、それぞれが別の時間と空間に所属し、ますますくっきりと自らを明らかにしながら、決してひとつの物語に収斂することなく、はらはらと拡散していくばかりである。最終セクションが「記憶の復讐」revenge of recollectionと名づけられているのは象徴的だ。断片を再び集め組み立てることが、内なる記憶とは決定的な差異をもたらす。集めなおし、組み立てなおすたびに現れる、これまでとは違ったかたち。我々が見ていないもの、意識していないものすら写し取る写真とは、まさにそうしたものであるだろう。
しかし、それにしても‥と思わずにはいられない。どうして、このようにしてまで作品を個人史へと送り返さずにはいられないのか。最近読んだ東京と写真美術館企画・監修による「森山大道論」(淡交社)に次のような一文があった。
「写真自体において対象の意味が失われていくから、写真そのものよりも、撮った写真家を問題にしないと写真が意味不明になる部分があったんじゃないか。そこでどうしても(中略)森山さんの生き方とか、森山さんという人間の方に目がいってしまうことになるのではないか。」
写真は対象を、いや世界を、あるがままに(細部まで正確に)とらえるのだから、そこには世界を切り取る「見方」だけがある‥ということなのだろう。そう考えた時、見る者の視線は、眼の前の写真をあっけなく素通りして、背後にある(と思い込んでいる)作者の意図をすら越えて、人生へと向かわずにはいられない。
優れた作品はある力を持ち、作者の意図を超え、人生すら超え出て、作者の死後ですら見る者、読む者、聴く者を触発してやまない。それは作者だけに所属するのではなく、多くの者の人生を横断する。それに比べれば作者の個人史なんて、たかだかひとつの人生に過ぎない。
「耳の枠はずし-不定形の聴取に向けて」では、演奏者の意図に帰着させることなく、音の運動をとらえることを提案している。それは演奏者の「自ら意識せざる意図」を、彼/彼女の人生から引き出すということではない。むろん、聴き手の自分勝手な我有物にするということでもない。それは演奏者の(そして聴き手の)人生などという狭く閉じた場所から音を解き放つことにほかならない。
写真展のフライヤーに用いられた作品。今回展示された作品の中では数少ないカラー写真。あらかじめ用意された物語のシンボルとして選ばれたのだろうが、明らかに「美しい死体」をイメージした構成は、演出過剰により、言わば語りすぎることによって、かえって作品の表出力を弱めているように感じられる。モノクロ写真がその精緻な質感により、どこか明け方近くに見る夢にも似た静謐な、だが強い喚起力/浸透力を示すのに対し、彼のカラー写真はそのような力を持ち得ていないように感じられた(葉野菜とカタツムリを鮮やかな原色でとらえ、ぬるっとした触感や匂いまでしてきそうな1枚の、他とは異質な騒々しい猥雑さ)。

2010-06-09 Wed
本来は閉店日の月光茶房に、原田さん、多田さんと集まって打合せをしている時に、以前からアイデアとして出ていた「各自がECMベスト20を2種類選び、カフェ当日、来場者に配布する」という計画が本決まりになりました。実際に聴いているECM作品の数がお二人に比べ圧倒的に少ない私は、原田さんからNew Seriesを中心に10枚ほどお借りしたりして、ようやく仕上げたのが、今回掲載のECMベスト20×2です。なお、原田さんはさらに10枚上乗せしてECMベスト50を選び、一方、多田さんは規定のベスト20×2に加えて、ECMベスト202を選ぶという快挙(暴挙かも)をかましてきました。や・やるな‥。
6月6日のECMカフェではブレイリストのほかに、これらのECMベスト、さらにはもはや貴重な「musee」のECM特集号3冊セットなど、おみやげが盛りだくさんでした。
原田さんのECMベスト50は原田さんのブログで、多田さんのECMベスト20×2は多田さんのブログで、それぞれ見られます。左のリンクからどうぞ。
原田さんのは、コンプリート・コレクターらしく、全体をバランスよく見渡したうえで、お客様の好みも踏まえて選んだ、いわばテーラーメイド・ベスト。カフェのマスターとして大人の余裕を感じさせる選盤です。対して多田さんのは、ジャズでも、現代音楽でも、フリー・インプロでも、トラッド/エスニックでもないECM独自のカラーを打ち出した「ECMの中のECM」ベスト20と「ジャズ耳」で選んだベスト20の二本立てとなっています。
ちなみに私のはC.D.フリードリヒからマーク・ロスコへの北方ロマン主義(ドイツ・ロマン派もここに含まれます)の流れを念頭に置いて選んだ、メランコリックに北へと向かう20枚と、プログレDNAなサウンド配置によりアブストラクトな強度をはらんだ20枚(むしろ英国的かも)ですー。
ECM-北方ロマン主義な名盤20枚【福島選】
1032 Ralph Towner / Diary
低く垂れ込め凍てついた「北」の空/海に向けて放たれた馨しいメランコリー。
1060 Ralph Towner / Solstice
中空に広げられた幾つもの色の帯が、次第ににじみ、溶け合って、ひとつになる。
1075 Jan Garbarek/Bobo Stenson Quartet / Dansere
枯葉のように砕けやすいサウンドを踏みしめる、うつむいた、だが強靭な眼差し。
1077 Edward Vesala / Nan Madol
寄せては返す太古の混沌からの絶え間ない生成。「うた」のかたちの芽吹き。
1083 Terje Rypdal / After the Rain
この透き通った繊細な慈しみは、果たして人類に向けられたものなのだろうか。
1198 Steve Eliovson / Dawn Dance
何人にもただ一度限りしか許されない瑞々しくもはかないアドレッセンスの輝き。
1251 Dino Saluzzi / Kultrum
おぼろな夢の底をまさぐる声と打撃。荒れ果てた世界の彼方に響くバンドネオン。
1264 Alfred Harth / This Earth !
死の淵へと吸い寄せられるように鏡の中に降りていくポール・ブレイのピアノ。
1320 Pau Bley / Fragments
暗がりへ、静けさへ、自らの精神の深みへとゆっくりと歩みを進めていく者たち。
1325 Arvo Part / Arbos
のびやかな声/たなびく弦がゆるゆると枝を伸ばし、天蓋に沿って弧を描く。
1384 Stephan Micus / The Music of Stones
ほの暗く重くしめやかな聖なる空間それ自体の息づき/鼓動/体温が触れてくる。
1399 Meredith Monk / Book of Days
モノクローム世界で互いの肩に手を置き、触れあい、睦みあう声の肌触り。
1426 Paul Giger / Alpstein
碧天にくっきりと鋭利な北の稜線が浮かび、張り詰めた音が幾重にもこだまする。
1446 Tamia,Pierre Favre / Solitudes
匂うようにたちのぼる声が描き出す、夜空にかかる虹のようにありえない光景。
1610 Lena Willemark,Ale Moller / Agram
しんしんと降り積もる静寂の重みを、切り裂き突き破る声/打撃の呪術的強度。
1669 Giya Kancheli / Magnum Ignotum
地の底深く降りていく弦の響きと大地から立ちのぼる声(グルジア正教の詠唱)。
1692 Eleni Karaindrou / Eternity and a Day
冷たく降り積もる時間と引き延ばされ重くのしかかる雪による孤独な北の情景。
1774 Bach/Webern / Ricercar
色合いを変えながら受け渡される響き。発芽による原植物のメタモルフォーゼ。
2057 Savina Yannatou / Songs of an Other
張り詰めた音の綱の上で、薄く滑らかな声の刃が静かに空間を切り裂いていく。
2070 Eleni Karaindrou / Dust of Time
「南国」に降る雪と吹きすさぶ寒風に向かい、かじかむ指先を暖める音の灯火。
ECM-プログレDNAな名盤20枚【福島選】
1004 Marion Brown / Afternoon of a Georgia Faun
暗闇の中、手探りで(響くか/響かないか)繰り広げられる音響触覚実験。
1005 Music Improvisation Company / Music Improvisation Company
Jamie Muirの参加ゆえか「太陽と戦慄」期クリムゾン的交感が随所に聴かれる。
1136 Egberto Gismonti / Solo
音を思い描く意識の速度を超えて、弦の震えをそのまま空間に刻みつけるわざ。
1179 Bengt Berger / Bitter Funeral Beer
現地録音の不思議なアンビエント感に溶け込んでいくサイクリックな運動の高揚。
1187 Rainer Bruninghaus / Freigeweht
車窓に映る街の灯を眺めるうち、いつの間にか空高く飛翔している音の眺め。
1190 Pat Metheny&Lyle Mays / As Falls Wichita,So Falls Wichita Falls
幾つかの場面だけ妙にはっきり覚えているいつか見た夢(いつだったか)。
1336 Meredith Monk / Do You Be
引き締まった声の身体を持つアスリートたちの一糸乱れぬコリオグラフィ。
1350 The Bill Frisell Band / Lookout for Hope
伝説の来日公演メンバーによるECM最終作。「アメリカ」に浸りこまない。
1451 Barre Philips / Aquarian Rain
コントラバスの弦の幾何学的ダンスを彩り、空間をたわませるテープと打楽器。
1490 Heiner Goebbels / Shadow/Landscape with Argonauts
街行く人々のつぶやきからバスのエンジン音まで音響部品の精密極まりない構築。
1524 Sidsel Endresen / Exile
ダグマー・クラウゼを思わせる硬質な声の輪郭と深々とした旋律の拮抗。
1525 Jan Garbarek,The Hilliard Ensemble / Officium
ガルバレクの走らせる筆の跡により、完璧な建築/天上の調べが地に舞い降りる。
1543 Italian Instabile Orchestra / Skies of Europe
イタリアではフリー・ジャズだってこんなにもメロディアス。カンタービレ!
1588 Louis Sclavis Sextet / Les Violences de Rameau
加速/増殖した細部が組織を食い破り輪郭をかき乱す。遺伝子組換18世紀歌劇。
1643 Maya Homburger,Barry Guy / Ceremony
コントラバスのひと弓に圧縮されて映し出される全方位の移りゆく景色。
1678 Joe Maneri,Barre Phillips,Mat Maneri / Tales of Rohnlief
意識のはるか下方にうごめく未加工の音響のたゆたい/音の生まれ出る現場。
1735 Luciao Berio,Kim Kashkashian / Voci
飛翔するヴィオラとだみ声の民俗ヴォーカルの絡みはオザンナの熱さを思わせる。
1852 Evan Parker Electro-Acoustic Ensemble / Memory/Vision
眼に見えぬ力が地を這い空を飛び四方八方から襲い掛かり渦を巻く集合的音響。
2042 Jon Balke,Amina Alaoui / Siwan
異なる文化の安易な「融合」ではなく、優美で精妙なモザイクによる力の均衡。
2086 Arve Henriksen / Cartography
ジャスミン(東洋への遠い憧れ)のつんと香る霧深い森のしめやかな空気。
Meredith Monk / Book of Days (ECM 1399)
少女の視線に射抜かれて流れを止める時間。
声の身体が折り重なるしめやかな空間。
ゆったりした衣服の襞やそこから香り立つ肌の匂いの響き。

2010-06-07 Mon
昨日6月6日(日)開催の第5回「複数のことば② ECMカフェ」をもちまして、福島恵一音盤レクチャー in Sound Cafe dzumi「耳の枠はずし-不定形の聴取に向けて」第1期を終了いたします。皆様のご参加、ご声援に感謝いたします。どうもありがとうございました。幸い、ご好評をいただけたこともあり、第2期を開催できることになりました。内容は詳細未定ですが、9月下旬頃の初回開催を目途に準備を進めてまいりたいと思います。日程・内容等は決定次第、このブログでお知らせいたしますので、よろしくお願いいたします。
昨日は特別の感慨にとらわれました。締めくくりのところでもお話したのですが、冒頭の「Solstice」から最後から2曲目の「Siwan」まで聴いてきたところで、本当に長く遠い旅をしてきた感じがしました。何でそんな感じを覚えたのか、それから考えてみたのですが、前回までのレクチャーでは、とにかく時間内に完走することだけを目指して(寝不足で疲労困憊だったし)黙々と走ってきたのに対し、昨日は何かに「運ばれたきた」感じがしました。それもゲストのお二人はもちろんのこと、それ以外の皆さんともいっしょに。いつも来てくださる方、初めてお会いする方、久しぶりに顔を会わせる方‥。そうしたいろいろな出会いや別れがあって、私はいまここにいる‥という感覚。
実は昨日の時点では、ちょっとデジャヴめいた「旅」の感覚にとまどって、どう受け止めてよいかわからなかったのですが、今日になってしみじみと胸に落ちてきて、何だかうるうるしています。そうすると都合よく、これまでのレクチャーの場面が断片的に浮かんできて‥って、「うるるん滞在記」かオマエは。すみません。何しろカンドーしています。
ECMはこうしたうるうる気分のBGMにうってつけです。どうぞお試しあれ。それでは昨日のPLAYLISTをご紹介します。【 】内は選盤者です。
福島恵一音盤レクチャー in Sound Cafe dzumi
「耳の枠はずし 不定形の聴取に向けて」第5回
「複数のことば② ECMカフェ」PLAYLIST
1.ECM-思い詰めた音、空間を満たす熱く冷ややかな沈黙
■Ralph Towner / Solstice(ECM1060)【多田】
■Ralph Towner / Diary(ECM 1032)【福島】
■Alfred Harth / This Earth !(ECM 1264)【福島】
■Edward Vesala / Nan Madol(ECM 1077)【福島】
■David Darling / Cycles(ECM 1219)【原田】
■Steve Tibbetts / Northern Song(ECM 1218)【多田】
■Ketil Bjornstad / The Light(ECM 2056)【多田】
2.ECM-「ジャズ」からの距離、そして別の物語へ
■Jack DeJonette Special Edition / Tin Can Alley(ECM 1189)【原田】
■Lester Bowie / The Great Pretender(ECM 1209) 【福島】
■Jimmy Giuffre 3 / 1961(ECM 1438/39)【多田】
■Jimmy Giuffre 3 / Fusion(参考)
■Joe Maneri,Joe Morris,Mat Maneri / Three Men Walking(ECM 1597)【多田】
■Evan Parker Electro-Acoustic Ensemble / Memory/Vision(ECM 1852)【原田】
■Mikhail Alperin,Arkady Shilkloper / Wave of Sorrow(ECM 1396)【原田】
■Bengt Berger / Bitter Funeral Beer(ECM 1179)【原田】
■Jon Balke,Amina Aloui / Siwan(ECM 2042)【原田】
■Meredith Monk / Book of Days(ECM 1399)【福島】
参考文献
□稲岡邦彌「ECMの真実 増補改訂版」河出書房新社
□稲岡邦彌編「ECM Catalog」(近刊)東京キララ社発行/河出書房新社発売
□ロバート・ローゼンブラム
「近代絵画と北方ロマン主義の伝統-フリードリヒからロスコへ-」岩崎美術社
□仲間裕子「C.D.フリードリヒ」三元社
参考ウェブサイト
□ECM Records (http://www.ecmrecords.com/)
□musicircus ECM (http://homepage3.nifty.com/musicircus/ecm/)
□ECM Discography (http://www2.famille.ne.jp/~itoh/ecmlist.html)
うるうると切ない気分のBGMとしてオススメ。
Steve Eliovson / Dawn Dance(ECM 1198)

2010-06-05 Sat
今日は虹釜太郎さん主催のイベント「原雅明5H」に行こうと思ってます。先日の「Abstract Workshop」に行けなかったリヴェンジとゆーか。内容はこんな感じ。
6/5(土)
”ひとり5時間塾 5H 原雅明編”
18:00‐23:00 at 円盤
日時: 2010年6月5日(土) open/start 18:00ー23:00
会場: 円盤 JR高円寺駅徒歩2分
杉並区高円寺南3-59-11五麟館ビル2F
料金: 1,000円 ワンドリンク料金
アクセス→ http://bit.ly/cVFdfn
原雅明著『音楽から解き放たれるために──21世紀のサウンド・リサイクル』を読まれた方も、原さんのミックスCDでトバされた人もぜひ
22時過ぎからでも
ついにこの5Hが実現!
どす黒いフリージャズを集中してかかるかもとのこと
ラシッド・アリ、アーサー・ドイル、ホレス・タプスコットらの浮かばれなかった音源たちが今夜
そーですか。「どす黒いフリージャズ」ですか。楽しみです。
明日は「耳の枠はずし」第5回「ECMカフェ」です。
こちらは青白く醒めきった耽美系フリー・ミュージックとかがかかります。
冷え切った空間のしびれるようなさびしさと沈黙の熱さをご堪能ください。
ほんと、泣いちゃうようなキレイな曲もかかります。(T_T)うぅ
もうジャケからして泣けてしまうECM。
