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福島恵一

Author:福島恵一
プログレを振り出しにフリー・ミュージック、現代音楽、トラッド、古楽、民族音楽など辺境を探求。「アヴァン・ミュージック・ガイド」、「プログレのパースペクティヴ」、「200CDプログレッシヴ・ロック」、「捧げる-灰野敬二の世界」等に執筆。2010年3~6月に音盤レクチャー「耳の枠はずし」(5回)を開催。2014年11月から津田貴司、歸山幸輔とリスニング・イヴェント『松籟夜話』を開催中。

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古屋誠一写真展「メモワール.」を見て
 写真展「古屋誠一 メモワール.」(東京都写真美術館)を見た。よい意味で予想を裏切られたので、ここに採りあげておきたい。

 この写真展を知った毎日新聞6月15日夕刊の展覧会評も、後からyoutubeで見た産経新聞のPRも、写真家古屋誠一の主要な被写体である妻クリスティーネが(おそらくは精神の病により)自殺していることを報じ、その破局へといたる日々の記録として、ここに展示された作品群をとらえている。これは写真展自体が7つのパートに分けられ、彼女と関係のない作品を含めて展示しながらも、展示を彼女の遺影(戒名も読み取れる)から始め、全体として彼女の姿を、時をさかのぼるようにとらえている以上、ある意味「正当」なとらえ方と言ってよいかもしれない。写真展のフライヤーに用いられている写真(後掲)も死の影を濃く宿したものであり、美術館にいたるアプローチに掲げられたもうひとつの写真は、元気だった頃の彼女が陽光を浴びて水辺にたたずむものである。「こんなにも明るく幸せそうな彼女が自殺による死へ至る」という落差が、観客たちに向けて用意された物語の枠組みであることは疑い得ない。

 だが、にもかかわらず、冒頭に述べたように、展示された作品はそうした物語の枠組みを明らかに裏切るものだった。1枚1枚の写真がとらえた彼女の多様な表情や仕草は、決して単線的に病の悪化を示すことはない。むしろ、出会った頃の写真にすでに彼女の危うさ(秀でた額と深い眼窩がつくりだす鋭く脆い眼差し)はとらえられており、他方、入院して坊主頭になった彼女は、かえって屈託がない。
 途中、「円環」のセクションに挿入される兎や鴨の死体を撮影した作品も、先の紹介文が論じる「生と死」といった観念的イメージよりも、確かな造型感覚/技術によりモノクロームな質感の差異のうちに触覚的な視覚を鮮やかに喚起する。ここに「繰り返される生と死」を見ようとするのは観念的に過ぎるというより、眼前の作品を、そこにとらえられた明暗や、あるいは面と線のせめぎあいを見ていないのではないかとすら思われる。実際、幾つかのぞいたブログの中には、自殺するしかなかった母と彼女の死後も成長していく息子の姿に感動した旨を記しているものもあった。人は自ら見たいものしか見ようとしない。
 様々なシチュエーションで撮影されたクリスティーネの写真には、顔面に草の茎が影を落としていたり、ひび割れたガラス越しにとらえられていたり、不吉さ/不穏さよりもイメージの興味深さを選び取らずにはいられない、古屋の写真家として救いのない業(ごう)の深さを感じさせるものも少なくない。座り込み悲嘆にくれる彼女をただ黙ってとらえた2枚など、写真家の残酷さを際立たせるものと言えるかもしれない。
 だが、そうした写真家の残酷さは、やがて「写真の残酷さ」に復讐されることとなる。撮影された多くの写真は「確かにかつてあった現在」を記録しているにもかかわらず、いやだからこそ、まだ健康だった妻と過ごした幸せな日々から危機的な状況や一時的な回復を経て自殺に至る経緯を、記憶にあるようなかたちでは少しも跡付けてくれない。1枚1枚の写真は、それぞれが別の時間と空間に所属し、ますますくっきりと自らを明らかにしながら、決してひとつの物語に収斂することなく、はらはらと拡散していくばかりである。最終セクションが「記憶の復讐」revenge of recollectionと名づけられているのは象徴的だ。断片を再び集め組み立てることが、内なる記憶とは決定的な差異をもたらす。集めなおし、組み立てなおすたびに現れる、これまでとは違ったかたち。我々が見ていないもの、意識していないものすら写し取る写真とは、まさにそうしたものであるだろう。

 しかし、それにしても‥と思わずにはいられない。どうして、このようにしてまで作品を個人史へと送り返さずにはいられないのか。最近読んだ東京と写真美術館企画・監修による「森山大道論」(淡交社)に次のような一文があった。
 「写真自体において対象の意味が失われていくから、写真そのものよりも、撮った写真家を問題にしないと写真が意味不明になる部分があったんじゃないか。そこでどうしても(中略)森山さんの生き方とか、森山さんという人間の方に目がいってしまうことになるのではないか。」
 写真は対象を、いや世界を、あるがままに(細部まで正確に)とらえるのだから、そこには世界を切り取る「見方」だけがある‥ということなのだろう。そう考えた時、見る者の視線は、眼の前の写真をあっけなく素通りして、背後にある(と思い込んでいる)作者の意図をすら越えて、人生へと向かわずにはいられない。
 優れた作品はある力を持ち、作者の意図を超え、人生すら超え出て、作者の死後ですら見る者、読む者、聴く者を触発してやまない。それは作者だけに所属するのではなく、多くの者の人生を横断する。それに比べれば作者の個人史なんて、たかだかひとつの人生に過ぎない。
 「耳の枠はずし-不定形の聴取に向けて」では、演奏者の意図に帰着させることなく、音の運動をとらえることを提案している。それは演奏者の「自ら意識せざる意図」を、彼/彼女の人生から引き出すということではない。むろん、聴き手の自分勝手な我有物にするということでもない。それは演奏者の(そして聴き手の)人生などという狭く閉じた場所から音を解き放つことにほかならない。



写真展のフライヤーに用いられた作品。今回展示された作品の中では数少ないカラー写真。あらかじめ用意された物語のシンボルとして選ばれたのだろうが、明らかに「美しい死体」をイメージした構成は、演出過剰により、言わば語りすぎることによって、かえって作品の表出力を弱めているように感じられる。モノクロ写真がその精緻な質感により、どこか明け方近くに見る夢にも似た静謐な、だが強い喚起力/浸透力を示すのに対し、彼のカラー写真はそのような力を持ち得ていないように感じられた(葉野菜とカタツムリを鮮やかな原色でとらえ、ぬるっとした触感や匂いまでしてきそうな1枚の、他とは異質な騒々しい猥雑さ)。



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アート | 22:06:29 | トラックバック(0) | コメント(0)