2010-09-28 Tue
26日の「純喫茶ECM」では司会の原田さんに振られるがままに、いろいろなことをお話したのですが、その中でも一番長く熱く語ってしまったのがLester Bowie「The Great Pretender」(ECM 1209)について。当日は時間やタイミングの関係もあって語れなかった部分も含めて、ここに掲載させていただくことにします。当日ご来場の皆様には、話ばっかりで曲をあまりお聴かせできなくて申し訳ありませんでした。気になる方はぜひご購入ください。名盤です。1.爆発
ポスト・フリーの諸傾向を探求した初期30枚の「広がり」志向から、Ralph Towner「Diary」を契機として、アイデンティティの確立に向け、「深さ」志向へと転換したECMは、78年頃から再び「広がり」へと向けて舵を切る。Art Ensemble of Chicagoとの契約がその象徴だろうか。リアル・ジャズに手を伸ばすECM。Jack DeJohnetteもグループにLester Bowieを迎え、New Directionsの旗頭を掲げる。やがて、この旗の下にDavid MurrayやArthur Blytheが集うことになるだろう。あるいはLeo SmithやSam Riversの参加。NYロフト・ジャズ・シーンの最良の部分が移植されたかのようだった。
こうした広がりは、より大規模な広がりの一部ととらえることもできる。同じNYのダウンタウンで活動していたSteve ReichやMeredith Monkにもアイヒャーの触手は伸び、New Seriesの基礎が築かれる。また、Collin WalcottからDon Cherryへと伸びる線は、一方でOld And New Dreamsによりフリー・ジャズの流れに接続しながら、他方でNana Vasconcelosを捕らえて魅惑的なトリオであるCodonaを産み落とし、さらにはBengt Berger Band「Bitter Funeral Beer」の冷ややかなアフリカン・アンビエントへと結実する。カンブリアン・エクスプロージョンにも似た、眼の眩むような、まさに「爆発的」な広がり。Shankarのインド古典音楽や、Steve Eliovson,Steve TibbettsによるFolk/Improvもこの爆発のふりまいた輝きのいとおしいかけらのように思われる。
この時期、ECMからリリースされたリアル・ジャズ系の作品群は一様に高い評価を受けた。「汗をかかない」、「冷房の効きすぎた」と常にECMを非難していた「ミュージック・マガジン」さえ9点・10点を付けていたのを覚えている。NYロフト・ジャズ・シーンが経済的に破綻し、Ronald Shannon JacksonやJames Blood Ulmerたち、ハーモロディクス一派が活躍を始めるまでの間(御大Ornette Colemanの作品を制作できなかったことはアイヒャーにとって痛恨の極みではなかったか)、ECMはリアル・ジャズの「希望の星」だったかもしれない。
2.距離
だがしかし‥と思わずにはいられない。ECMが放ったリアル・ジャズの作品群には、ECM独特の「マジック」が希薄だ。それらは確かに素晴らしい作品だが、ECMからリリースされるべき必然性は、実は薄いのではないだろうか。それこそNYロフト・ジャズ・シーンが健全に機能していれば、そこを取り巻くマイナー・レーベルからリリースされていたのではないか‥と。
ECMはヨーロッパを拠点とするレーベルとして、アフリカン・アメリカン・ジャズに対する一定の距離感のもとにスタートしている。それは初期30枚によるポスト・フリーの探求が、Anthony BraxtonやMarion Brownの参加作品を含みながら、その演奏はブラック・パワーの横溢からは遠く離れ、むしろ空間の手触りを確かめ、幾何学的な構成に憧れの視線を向けていることにも現れているだろう。この「距離」こそがECMの「マジック」を生み出す。距離は演奏者の肉体を遠ざけ、音/響きに注目し、空間を浮かび上がらせる。あるいは距離はサウンドの輪郭を解きほぐし、声を溶け合わせ、色斑の明滅へと変貌させる。さらには距離を「遠く離れていること(帰り着けないこと)」と変奏すれば、時間軸における「距離」からは、幼年/少年時代へのノスタルジアから古代幻想までが浮かび、一方、地理的軸における「距離」からは、異文化への憧れと危うい香りを放つエキゾティシズムがこぼれ落ちる。両者が再び交わるところに亡命者(故国喪失者)の凍てついたノスタルジアを思い描くことも可能かもしれない。
3.The Great Pretender
Art Ensemble of Chicagoをはじめとする者たちが触れることのできなかった、この「距離」の「マジック」を実に巧みに使いこなしているのが、Lester Bowie「The Great Pretender」(ECM 1209)にほかならない。ここでは15分もの長さに拡大された表題曲を見てみよう。
原曲は人気黒人コーラス・グループPlattersによる「Only You」に続く1956年のミリオン・セラー。もはやR&Bの古典と言っていいだろう。Dolly Parton,Roy Orbinson,Sam Cooke,TheBand,Fredy Mercury等、多くのアーティストがカヴァーしている。そして、Lester Bowieの演奏はそのどれよりもスロウで、ゴージャスで、ドリーミーだ。演奏はもったいぶった調子で音数を惜しみながら、たっぷりとした響きの光彩をひらめかせ、ゆっくりと時の流れをさかのぼる。オリジナルの発表年をはるかに超えて、プレ・モダンでアーシーな響きの奥深くへと。
ここで「距離」はノスタルジアへと転換されている。Bowieはこのためにかつての盟友Phillip Wilson(dr)やFontella Bass(vo)を呼び寄せる念の入れようだ。一方、サックスはバリトンのHamiet Bluiett。高音(トランペットとコーラス)と低音(バリトンとベース)に二極分解したサウンドは、中音域をぽっかりと空け(ピアノ/オルガンは決してこのスペースを埋め尽くそうとはしない)、そこにオールドタイミーな幻想を映し出す。まるでブードゥーの魔女のようなFontella Bassの押し殺した黒い笑いとかすれた語り。「I'm the great pretender」。トランペットのテーマ変奏に入っても空気は変わらない。しかし、続くバリトンのソロに耳を傾ければ、アーシーなサウンドを踏まえながら、いかにもポスト・フリーなアブストラクトに再構成された見事なソロとなっている(決して歌メロのひねりやクリシェの泣き/雄叫びではない)。このソロを抵抗感なくするすると聴かせてしまうために、この壮大な音のセノグラフィが仕組まれたのではないか。
セノグラフィとは演劇用語で、語の直訳としては舞台装置、舞台美術を意味する。しかし概念としては、19世紀後半以前の「読む」演劇(テクストとしての戯曲中心の演劇)に対する「見る」演劇(舞台装置、衣装、照明、俳優の姿勢/動き等により重層的に視覚化される演出中心の演劇)を支えるものであり、「演出家の時代」をもたらしたものにほかならない。スタンダード等の古典的な楽曲レパートリーに対するカヴァーについても、同様の対比が可能かもしれない。メロディ解釈(及びこれに基づくアレンジメントの変更)を中心とするカヴァーとサウンド全体をセノグラフィとして再構築するカヴァー。Bowieの試みは、まさに後者の優れた一例と言っていいだろう。
重層的なセノグラフィはまた重層的/多面的な読みを誘う。本作品の視覚的セノグラフィを担うジャケットを見てみよう。暗い空のあり得ないほどに深く透明な青。高い空を更に持ち上げる鬱蒼とした木々のシルエット。中間にぽっかりと開けた湖面に映る景色が、やはり中音域をぽっかりと開けたサウンド配置を思い起こさせる。そこに佇む男の白いシャツが夢の中の情景のように、くっきりと鮮やかに浮かび上がる。しかし、その下半身は透き通るように風景に飲み込まれている。妙だ。何かおかしい。こんな写真が本当に撮れるだろうか。いったい照明はどうやって‥。合成ではないのか。そうした疑念をたしなめるように、右側にはこれがフィルムそのものであることを示すAGFA CHROMEの黄色い文字が。しかし、よく見れば下と右側の辺はすっきりとシャープな直線であるにもかかわらず、上辺は不自然にトリミングされていて、そこには「The Great Pretender(大嘘つき)」の文字が‥。そこで「読み手」は仕組まれていた仕掛けを一挙に理解することだろう。ECMの「距離」をアドヴァンテージとして見事に使い尽くしたBowieの鮮やかな手口に半ばあきれながら、それでも賞賛の声を惜しむことはないだろう。
ちなみに原曲の歌詞を見ると、The Great Pretenderとはさびしいのに、自らの心を欺いて明るいふりをしたり、去ってしまった彼女が今でもそばにいるふりをしたりする哀しい男ということで、他人をだましているわけではありません。念のため。
Lester Bowie「The Great Pretender」(ECM 1209)

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2010-09-27 Mon
昨晩の「純喫茶ECM」、多数の皆様にご来場いただき、どうもありがとうございました。「実演」につきものの、トラブルや手違いは多数あり、反省すべきところですが、時間内でちゃんとプログラムを終えられたし、まずは良かったかなと。当日のセットリストは以下の通りです。もともと終曲(2-7)として予定していたJan Garbarek “The moon over Mtatsminda” from Rites (ECM 1685-86) (CD)がトラブルでかけられなかったのは残念。これはNan Madol→Solsticeという「ECMのハードコア」体験で、「向こう側」へ行ってしまった意識を現世に連れ戻すためのプロセス(厄落とし?)として想定していた曲なので、当日来場された皆様が、ちゃんと還ってこれたかちょっと心配です。
ちなみに次のURLで聴くことができます。
http://www.youtube.com/watch?v=eP-BHfmotwY
純喫茶ECM セットリスト (2010年9月26日)
開演前 Just Music "Stock-Vol-Hard 2+1" from Just Music (ECM 1002) (LP)
1−1 Ketil Bjørnstad “The Sea” from The Sea (ECM 1545) (CD)
1−2 Ralph Towner “Icarus” from Diary (ECM 1032) (LP)
1−3 Paul Bley “Memories” from Fragments (ECM 1545) (LP)
1−4 David Darling “Cycle Song” from Cycles (ECM 1219) (LP)
1−5 Lester Bowie “The Great Pretender” from The Great Pretender (ECM 1209) (LP)
1−6 Richard Beirach “Elm” from Elm (ECM 1142) (LP)
休憩時間 Arild Andersen "305 W 18 St", "Last Song", "Outhouse" from Clouds In My Head (ECM 1059) (LP)
2−1 Lena Willemark, Ale Moller “Trilo” from Nordan (ECM 1536) (CD)
2−2 Meredith Monk “Gotham Lullaby” from Dolmen Music (ECM 1197) (LP)
2−3 Wolfgang Dauner “Output” from Output (ECM 1006) (LP)
2−4 Paul Giger “Zauerli” from Alpstein (ECM 1426) (LP)
2−5 Edward Vesala “Nan Madol” from Nan Madol (ECM 1077) (LP)
2−6 Ralph Towner “Oceanus” from Solstice (ECM 1060) (LP)
2−7 Richard Beirach “Ki” from Elm (ECM 1142) (LP)
閉演後 Pat Metheny Group "Are You Going With Me ?" from Offramp (ECM 1216) (CD)
当日は月光茶房店主にしてECM完全コレクターの原田さん作成のスライド(後掲)を見ながらの話でした。「ECM Catalog」からのテキストも入って、レイアウトもばっちり。原田ワールド全開です。ジャケット写真への言及も多かったのですが、こちらも解像度の高い美しいスライドが用意され、話を引き立てていました。「ブレ」ジャケットの話なんて、写真自体の解像度が低いとお話にならないですからね。その「ブレ」ジャケットの話では、私は「ECMの音の眺め①」の抜粋のようなことをしゃべったのですが、原田さんは同じブレ/ボケでも、傷の多い金属板に映った景色を撮影した例(細かな傷にはピントが合っていて鮮明に見えるが、風景はぼけている)に言及するなど、さすが写真を再加工/再構成した作品を作成するアーティストらしい指摘がありました。
一方、直前まで寝込んでいたという体調最悪な中、駆けつけてくれた多田さんも、随所で多田節を披露。その雰囲気を多少なりとも伝えるために、セットリスト裏面に再録した文章を引用しておきましょう。
The Sea (ECM 1545)
可笑しい。たしかジャズライフ誌のレビューで「脳死」なんていう語句が使われていたのだ。
輸入盤CDのジャケを見ただけで、何物かであることは告知された。ダーリング、リピダル、クリステンセン、というECMスタープレイヤーたちの、しかし、このまったくレアな取り合わせ、500枚を超えるECM盤のすべてのサウンドを演繹したわたしの耳はさまざまな可能性を当時最先端のスーパーコンピューターをも凌駕するスピードで計算している。しかもリーダーはピアノ。そしてタイトルは『海』。「たださん、さっきから止まってますけど、だいじょうぶですか?」 ディスク・ユニオンの四浦さんの声で。新宿歌舞伎町の夕刻。
数年後。ケティル・ビョルンスタが来日するらしい、公演情報はない、という報せが、南方プログレ左派もしくはジャズ批評社方面から、群馬県太田市金山町の失業手当受給中の3児の父親にもたらされる。セミの鳴き声で充満する8畳間のリスニングルームからノルウェー大使館に電話をする。「ムンクの講演のために来日するケティル・ビョルンスタさんですか?」 「いやこのひとはピアノも弾くんです、すごいひとなんです。」 数日後。大使館内でミニ・コンサートを催すという。何場所もともに大相撲中継をテレビで観ていた義父が「大使館に就職するのか?」ときく。「遊びに行ってくるだけだ」とこたえると哀しそうな顔をした。そんなところに就職できるわけないだろ。居候の身は夏の吹雪。
クラシックとオリジナルを丁寧な、文学的とも言えるタッチで披露したビョルンスタだった。広く関心を集めつつあったノルウェー・ジャズ・シーンに触れようと集まったジャズ業界の大御所のみなさま。ジョー・マネリってすごいのが出たよね! レーナ・ヴィッレマルクてのはスウェーディシュ・トラッドの文脈で、とか、おれはいつも声がでかい。
コンサートが終わって、え? ぜんぜんジャズじゃないじゃん、でもパーティのオードブルはおいしーし、早く帰りたいな、という大多数の沈黙の観客の中、おれとビョルンスタだけが大使館ソファーに座り、大使のカーリ・ヒルトさん若い女性と同じく若い女性の通訳と。これは近年稀にみるECMの奇跡だ、と、ビョルンスタに伝えようとカーリさんに言うと、わたしもこれがほんとうに好きなの、と、鮮やかな水色の虹彩が海のようなのにうっとりと永遠を感じる刹那の見つめ合い。ビョルンスタは満足そうなうなずきをして、この本にはわたしのレコーディングがすべて載っている、と、彼の名前がタイトルであるノルウェー語の分厚い大型本を見せてくれる。ちょっとこれを今日貸してくれ、と言うおれ。どよめく大使館の日本人スタッフ。大使のカーリさんが特別な許可を出す。
ノルウェーの石。北海道の海辺の石。手紙。新潟。鎌倉。
ビョルンスタのECM作品に対する評価や音楽のスタイルについての話題から、ジャズだ、非ジャズだ、という物言いや、抑圧とか欠如とか妙な話の展開をしたことがあった。その音楽がジャズであるかジャズでないか、気になるひとたちはいつもいる。ジャズの審美軸、ジャズ耳、そんなものは漬物の汁のように誰の耳をも侵してゆくものだし、そのことで聴こえなくなってしまう音楽もある。そういう自分もミイラになって、ジャズ耳を掲げて作品を断定したりしている。わたしたちはいつも多様ないびつを目指している真珠のようでありたいとECMを聴きはじめた頃は思っていたのに。『海』について、ECMカタログで最強の標題音楽だと啖呵を切るとき、そんなことを考えた。
数年後、小野好恵の遺稿集が出たとき、この『海』が、船上からの散骨の際に流されたことを知る。
彼らは The Sea Quartet としてノルウェーやイギリスで公演をした。
海は、この音楽のようだ。 (WEBサイトmusicircus ECMカタログ完成記念企画『11人のレビューワーにこっそりおききした 偏愛ECMベスト11』より抜粋)
当日レコード係を担当してくださった新宿HAL'S Recordの池田さん、「ECM Catalog」出版元である東京キララ社の皆様、渋谷アップリンクのスタッフの皆様、そして当日ご来場いただいた皆様、どうもありがとうございました。
1曲目のためのスライド
編集者/アート・ディレクター魂が伝わってきます。

2010-09-26 Sun
さて、渋谷アップリンク「純喫茶ECM」を明日に控え、こうした「共に音を聴く」イヴェント(演奏会を含む)の効用について考えてみたい。ついでに、以前に書きかけた萩尾望都カミング・アウトの続編も。CD売り上げが落ち込む中、電車の中で耳にイヤホンをしている人の比率は増えている。mp3プレーヤーの普及の結果である以前に、音楽を個別に聴くことが一般化しているのだろう。そこで、ライヴの効用が説かれる。単に「みんなで」聴くことの楽しさだけでなく、隣の誰かの反応が自分の「聴くこと」を触発するなんて意見もある。本当にそうなのだろうか。
この国には家族でコンサートに行く習慣なんてなかった。日曜は家族揃って教会に出かけるような敬虔なクリスチャンの多い国、例えば身近なところで韓国との違いはそこにある。だから、音楽は昔から個別に聴かれていた。なかなかレコードが買えないから、友人宅のステレオで聴かせてもらったりすることはあるにしても、かつては一家団欒の中心にあったテレビだって、いまは個別に見ているのだ(これは食事時に家族が顔を揃えなくなった「孤食化」の結果でもあるだろう)。ましてや音楽においておや。
にもかかわらず、音楽は共同体験の基盤となる、流行歌は時代の鏡となり、時のアイドルは記憶の物語に欠かせないアイテムだ。ビートルズのリマスターCD発売時には、日本国民全員が何らかの形で「ビートルズ世代」になったようだった。実際には、ビートルズの現役時代、すべての若者がビートルズに耳を傾けていたわけではなかった。むしろ、少数派だったかもしれない。にもかかわらず、「ビートルズを聴いていなかった彼ら」も、「我らの青春を彩ったビートルズ」について語ってやまない。
自分が同じところに属している(仲間外れでない)ことを確認するために、ライヴの共同体験を求めるのだとしたら、そんなものはいらない。むしろ、同じ時に同じ空間に居合わせながら、一人一人が異なるものを見て、異なるものを聴いて、違う経験をしていることに意味があるのだ。
小林秀雄はスクリーンに映る一本の樹木を見ながら、いま同じ映画館で同じシーンを見ている大勢の中で、自分と同じことを考えている人間は一人もいないと考えたという。それはその通りだが、別に「私だけが違う」ことを確認したいわけではない。実際に、一人一人が異なるものを見聞きし、違う感じを受けていることに触発されたいのだ。「自分の人生」という枠組みを超えたクロスオーヴァーを夢見るために。
3月から行ったレクチャー「耳の枠はずし」にしても、今回の「純喫茶ECM」にしても、コメント付きで音を聴くことにより、聴き手は様々な違和を感じるだろう。「なるほど気が付かなかった」という反応もあれば、「いいや、それは違うな」という反駁もある。そこに起こる音楽の体験が深ければ、それは聴き手の人生をそれだけ揺り動かす。その力動の源は音楽それ自体の衝撃だけでなく、その音を自分とは違った視点で聴いている他者との出会いにもあるのだ。自分が興味を惹かれない音楽/言葉に食い入るように耳を傾けている聴き手もいるだろう。反対に自分が魂を奪われそうな瞬間に、つまらなそうな顔をしている者もいるだろう。もちろん、イヴェントだから参加を決めた時点で一定のフィルターはかかっている。それでも聴き手の反応は千差万別だろう。共同体験幻想をもたらす会場一体となった盛り上がりよりも、それぞれの違いが明らかになり、それゆえに互いに触発しあえるような場のあり方を目指せればと思う。
ファンクラブ(FC)の場は、本来ならそうした相互触発にとても適した場だ。同じ作品を読んだり(見たり聴いたり)、ライヴを経験した者たちが言葉を交わしあう空間として。だが実際には、信仰吐露の場、対象への絶対の忠誠を誓う場として抑圧的に機能しやすい傾向がある。異分子を排除して純粋性を目指す、閉ざされた聖なる空間に向かって。そうした抑圧志向は以前よりも強まっている気がする。
実は以前、萩尾望都のFCに入っていたことがある。彼女はマニア嫌いだから、いわゆる「公認FC」はない。かつて彼女のFCは多数あり、活動も極めて活発だったと聞いている。コミックマーケットが開催にこぎつけるにあたって、あるいは初期の開催/運営にあたっては、そうしたFCの力が大きかったとも。
私が入会したのは「えいりあん・てぃ~」という「訪問者」の発表を契機として創設された新興のFCだった。とはいえ、かつて活発だったFCの多くは、当時(80年代初頭)すでに活動を停止しており、当時、コミックマーケット等に参加している萩尾望都FCとしては唯一の存在となっていた。
後から思えばいい時期だったのだろう。70年代半ばに「ポーの一族」の単行本のヒット(連載時は不人気だった)で確固たる地位を確立した彼女は、その後、「百億の昼と千億の夜」、「ゴールデンライラック」、「スター・レッド」、「恐るべき子どもたち」と、かつての繊細で透明な世界とは異なる、実体感のある骨太な絵柄/作品世界へと足を踏み入れており、結果としてかつてのファンが相当離れていた。「プチフラワー」が創刊され、代表作「トーマの心臓」の登場人物オスカーのサブ・ストーリーを描いた「訪問者」は、かつてのファンたちに「夢よ、もう一度」と期待させたかもしれないが、その後も彼女は「メッシュ」や「銀の三角」へと、かつての世界に安住することなく、孤独に歩みを進めていく。もともとFC創設の理由が「『訪問者』対する周囲の不評・無理解に対抗するため」なのだった。
にもかかわらず、FCは「狂信者の集団」には程遠かった。むしろ、「今のモーさま(萩尾望都の愛称)の作品を本当に理解できているかどうか不安」という気持ちが、FC参加を促したという感じだろうか。彼女の作品世界の広がりに合わせて、ファンが知っているよう求められる知識・教養の領域も著しく広がっており、なかなか一人ではカヴァーが難しいことが、「他のファンがどのように読んでいるか知りたい」という率直な気持ちにつながったのかもしれない。
悪い癖を出して、入会早々に萩尾望都論を送りつけたりしたのだが、放置されることなく会誌に掲載され(ワープロ普及以前だから、長文を会長が手書きで清書)、他の会員からの反応も寄せられた。その度にいろいろなことを触発された。こうした経験が、現在の私の「書くこと」につながっていることは疑いない。
「みんな本当に違うことを感じて/考えているんだなあ」と改めて気付かされたのは、会長の交代が2度あって、とある事情から3代目会長として会誌の編集を担当することになってからだ。原稿集めの意味合いもあって、特集テーマに対応したアンケートを配布し、その結果集計と自由記入欄のコメントを素材として記事を編集するのだが、この自由記入欄の書き込み(書ききれなくて裏面にもびっしり書いてあったり)や同封の手紙に述べられた意見は、さらに興味深いものが多かった。私信的なものからも一部を抜粋編集して、1篇のエッセーに仕立てたりした。もともと作家/作品との出会いの経緯が異なり、人生経験も異なる(年齢層も幅広かった)以上、作品への感想が違ってくるのは当然と言えば当然だが、私にはそれらが響きあって、ひとつの織物を織り上げるように思われた。先の手順でエッセーを仕立て、それへの「反歌」を書いたり、そこに口を開けている世界への理解を促すべく補足資料をまとめたりと、一番触発されていたのは私だったかもしれない。当時、私の感じていた「豊かさ」を、会誌や会報を通じて、どの程度会員にフィードバックできていたかは甚だ疑問だが。刊行ペースもすっかり落ちてしまっていたし。
当時の会誌に次のようなことを書いている。今からもう20年も前の話だ。
日常が作品(創造)へと飛翔する運動と、その反対に作品が私たちの日々の営みを照らし出し元気付ける作用と、この両者をふたつながらとらえるには読み手の「読みの厚み」とでもいうべきものが必要になってくるように思います。様々な「読み」を、想いを、自らの身体の中で響き合わせるしかた。
もっともらしいことを言えば、ファンクラブというのは、「そうした想いの響き合う空間」を創りだすための知恵ではないでしょうか。会員のみなさんから送られてくるお手紙や原稿を読むたびに、なにかゆるやかな波の交錯のうちに揺られているような気持ちになります(これは編集者の特権ですね)。
暖かい陽の光を細やかに反射して、ゆるゆるときらめく春の海。一見のたりのたりと、動かずにただたゆたっているように見えながら、その実、そこでは様々な方向から寄せては返す波が、互いに互いを響かせ合いながらも素早く(白い牙を剥く冬の荒波よりも素早く!)彼方へと駆け抜けているのです。
一番最初の「Alien Tea 0」(思えばもう3年以上前のことです)で同じようなことを書いた気がしますが、そのときにはふと書き留めた夢想であったものが、いまや現実となってきた感があります(最近のお手紙の充実ぶりにますますその感を強くしているところです)。
この小さな、けれど居心地のいい部屋がより豊かになるように、またこの幸せな時間がもっと長く続くように‥と願わずにはいられません。
こうしたファンクラブ的な空間は、現在の通信テクノロジーを用いれば、ずっと簡単に実現可能なはすだ。たとえば「ミクシィ」のようなSNSサービスによって。だが、実際にはそうはなっていない。東浩紀は「思想地図vol.3」のアーキテクチャ特集で、招待制SNSである「ミクシィ」の閉鎖性を嘆きながら、基本的にオープンである「マイ・スペース」等のSNSに対して、日本国内では「ミクシィ」が一人勝ちしていることに、日本文化の特性を見ている。一方、「ネット社会の未来像」での宮台真司らとの鼎談では、セキュリティ・テクノロジーを異文化/異なるコミュニティとの接触/混交/共存のために用いるべきだと主張している。後者の考え方を適用すれば、「ミクシィ」内部における閉鎖的な棲み分けは解消し得るのではないだろうか。
もっと自分のアクションに引き付けて言えば、明日の「純喫茶ECM」に関する感想や意見が、ブログやツイッターに数多く書き込まれ、さらにそれへの反応が広がっていけばいいのだが。と言って、別に挑発的なことを発言するつもりもないのだけど。
『ECM Catalog』刊行記念「純喫茶ECM」
渋谷アップリンク・ファクトリー
日時:9/26(日)開場18:00/開演18:15
料金:¥1,500(1ドリンク付)
http://www.uplink.co.jp/factory/log/003691.php
「えいりあん・てぃ~24」 特集「ポーの一族」
1994年発行
23号に続く「ポー」特集でした。

2010-09-22 Wed
多田雅範がかねてから指摘する通り、ECMは魔境とも言うべき迷宮なのだが、それゆえ幾つもの入り口を備えている。たまたま行き当たった扉から中に入り、すぐに外へと出てきてしまうのでももちろん構わないが(それはそれで充分楽しい)、その豊穣さをしっかりと味わうには、やはり何か導きの糸が欲しいところだ。その点、「ECM Catalog」はデータ・ブックに徹していることから、以前に記したように「道に迷うための地図」であり、何かお気に入りの風景を見つけた時に、あるいは可能性の鉱脈を発見した時に開いてみるといいだろう。
むしろ必要なのは「補助線」だと思う。この入り組んだ迷宮からわかりやすい形を切り出し、遠く離れた点と点を思いがけない仕方で結び付けてくれる魔法の線分。内容を解説/絵解きするのではなく、切り分け/結びつけること。以前の「ECMカフェ」でも、今度の日曜に開催する「純喫茶ECM」でも、ねらいは魅力的な補助線を引くことにある。
亡くなった父は高校の数学教師で、旧制高校世代なものだから幾何が得意だった。「数学Ⅰ」のベクトルの問題とかを、「これは○○の定理が下敷きになっているんだ」と言いながら、すらすらと解いてみせたものだ。息子はその才能を全然受け継がなかったけれども。
幾何の証明こそ、まさに補助線の活躍する舞台だ。辺ABと辺ACの中点を結ぶ線分。頂点Cを通り、辺ABに平行な線分。適切に引かれた線分は、世界の「見え方」を一変させ、それまでみえなかった形や関係性が、まざまざと浮かび上がる。そうした魔法を何回も見せられた。
ECMについても様々な視点から補助線を引くことができる。「空間と響き」、「響きとにじみ」、「北方ロマン主義」、「距離の美学」‥。「距離の美学」を例にとるならば、この補助線を引くことにより、ECMの米国ジャズに対する対象化の視線、録音方針の違い、距離を「遠く離れていること(帰り着けないこと)」と変奏すれば、時間軸における「距離」からは、幼年/少年時代へのノスタルジアから古代幻想までが浮かび、一方、地理的軸における「距離」からは、異文化への憧れと危うい香りを放つエキゾティシズムがこぼれ落ちる。両者が再び交わるところに「亡命者(故国喪失者)の凍てついたノスタルジア」を思い描くことも可能かもしれない。
原田正夫が「偏愛ECMベスト11リスト」で、お気に入りのLPジャケットについて書いている(※)。ECMが使用するヴィジュアル・イメージの素晴らしさは広く知られるところだが、ジャズ・レコードに付き物の、ミュージシャンのポートレイトやカヴァー・ガールを使わないという特異性ばかりが、レーベル・イメージの差別化戦略として評価(あるいは同様の理由で敵視)されているように思う。ECMのジャケット群がある共通のテイストを有していることを否定はしない。それはサウンド同様、アイヒャー・フィルターを経たものと言えるだろう。だが、それは決して一様ではない。そこから幾つもの異なる系列を引き出してくることができる。
それともうひとつ大事なことは、ECMのジャケットは当該作品の絵解き(イラストレーション)ではないということだ。ヴィジュアル・イメージはサウンドとは別の層、別のセリーを形成し、それがサウンドと立体的に交差/交錯する。それゆえ、ECMのヴィジュアル・イメージから特定の系列を浮かび上がらせること/読み解くことは、ECM世界に対し、とても効果的な「視覚的」補助線を引くことになる。原田正夫の試みはその嚆矢とも言うべきものだ。この試みは26日の「純喫茶ECM」で、さらに展開する予定である。ご期待ください。
※ http://homepage3.nifty.com/musicircus/ecm/e_hl/004tx_07.htm
『ECM Catalog』刊行記念「純喫茶ECM」
渋谷アップリンク・ファクトリー
日時:9/26(日)開場18:00/開演18:15
料金:¥1,500(1ドリンク付)
The Music Improvisation Company(ECM 1005)

2010-09-21 Tue
空間とECMの関係について考え始めたのは、ごく最近のこと、6月に開催した「ECMカフェ」の準備中のことだった。ECMの音世界に通暁した原田さん、多田さんに様々な音源を紹介してもらい、それを聴きながら、あちらこちらへと連想をさまよわせ、幅広く(時にあてもなく)議論を重ねる中で、ECM独自の空間哲学(と私の考えるもの)を見出していくこととなった。また、同じ音を複数で聴くことの大事さに改めて気付かされることにもなった。私の場合、ここでアクセントは「同じ経験をみんなでする」ことではなくて、「同じ場に居合わせ、同じ音を聴いたはずのみんなが、実は違う経験をしている」ことを発見することに置かれているのだが。一人では気が付かなかった視点に驚き、それに触発されて、新たな感覚/思考の道のりが始まり、見たことのない風景が開かれていく‥。26日(日)の「純喫茶ECM」も、そのようなものにしていきたい。さて、こうした「空間の探求」は、ミシェル・ドネダやジョン・ブッチャーの歩みをたどることに始まり、さらにそれを反対側から、つまりはECMの側から再度たどり直すことで、「ここには何かある!」というある種の確信を得ていくことになるのだが、その過程で思考を後押ししてくれた、私にとって重要なエピソードについて記しておきたい。
前回、空間に重点を置いた音世界の把握に対して、違和を表明するのはまずは演奏者たちであると書いたが、これは所謂「ジャズ・ファン」も同様だろう。彼らもまた演奏者の個性の発露こそが「演奏」であると信じているからだ。これは、ジャズ的な世界把握の延長上でフリー・インプロヴィゼーションをとらえる場合も同様で、演奏者の表明や演奏者同士の対話を主文脈として、音を聴いていくことになる(註を参照)。
それゆえ「耳の枠はずし」第3回で、ドネダやブッチャーの試みを追いながら、アトス山の礼拝に至る道のりは、「ジャズ・ファン」には過酷なものであるように思われた。もちろん、「ジャズ耳」にはわからないなどと言うつもりはない。ふだんと違う筋肉を使うことになるし、通常のジャズからフリー・ジャズへと「命綱」を張って移動しているとすると、その先まで伸ばすには「命綱」の長さが足りない(「えいやっ」とばかりに「命綱」なしで飛び移ることを余儀なくされる。貪欲な聴き手はこれを恐れないのだが)のではないかと考えたからだ。
「耳の枠はずし」全回を通して聴いてくれた女性がいて、先のドネダからアトス山に至る音の流れを、とても興味深く聴いたと話してくれた。フリー・ミュージック周辺をさぞ聴き込んでいるのかと思って尋ねると、全然そんなことはなくて、この手の音楽はECMに興味を持って聴きはじめてからだから、せいぜい2~3年だと言う。これにはちょっと驚かされた。ECMに独自の空間哲学があるのは先に延べた通りだが、ふつうECMはそのようには聴かれていない(まあたいていの場合、「おしゃれな音楽」としてですね)。
空間を志向するECMの音世界と彼女の感覚のある部分が、幸せな共鳴を果たしたということなのだろう。ECMという「迷宮」には、幾つもの入り口が開けている‥という所以である。しかし、そこから「迷宮」の奥深くへと分け入り、核心に達するには長く曲がりくねった見通しの効かない道のりが待ち構えている。そこを踏破するには、自らの感覚/意識の先端に集中し、それを導きの糸としながら、風景をかき乱さぬよう、少しずつ歩みを進めていくサイコ・ダイヴィングの技芸(アート)が必要となる。
高橋悠治は「かんがえのはじまり」(「たたかう音楽」晶文社所収)に、次のように書きとめている。
「かんがえるために、すでに頭の中にあって心をなやます、めまぐるしいことばの流れを追いはらう。自分の呼吸に注意をむけ、その周期をすこしずつゆるめる。自分が〈一個の呼吸器〉(デュシャン)になるまでこれをつづける。あるいは、指関節をかむ。タバコをふかす、口琴をならすなど、口もとにかたい物質が接触することに注意をはらう。(中略)どの場合も、対象物より自分の感覚器の先端に焦点をあわすことと、音がしないか、かすかな音を立てるものにかぎることがだいじだ。〈無心〉になったり、自己催眠で意識をねむりこませるためにこれらのことをやるわけではない。反対に、とりとめのない空転のなかに見うしなっていた意識が眼をさますのだ」
自らの意識の底へと下降しながら感覚を緩やかに解き放ち、一点に集中するのではなく、空間全体の広がりをとらえること。響きの希薄な広がりをつくりだしている(生成している)動き/明滅を、頬に風を感じるようにとらえること(軌跡を追うのではなく)。その時、プールの底から水面を見上げたように、揺らめく光と音、圧力と温度、甘酸っぱい息苦しさと心臓の鼓動は一つになり、世界は触覚的なものとして現れてくるだろう。
空間設計/デザインを仕事とし、写真も撮る(下に掲げた「純喫茶ECM」の扉写真は彼女の撮影!)彼女は、もともと空間感覚に優れているのだろう。だが、それだけではないはずだ。そこにはECMの「響き音に触発された、先に示した「深さ」の体験が、確実に息づいているように思われる。
【註】
興味深いのは、そこでサウンドが演奏者の肉声から遠ざかり、物音や正弦波を含む電子音等の「音響」へと漂流していっても、この図式が揺らがない(揺らぐことを認めない)ことだ。そこでは「演奏者たちはそれらのサウンドを肉声化/身体化しているのだ」との主張がなされ、あるいは「あえて」そのようなサウンドを自らの肉声として選び取った必然性が、演奏者の「意図」として最初に置かれることになる。これにより、サウンドのレヴェルでの切断は、「音響」を肉声として認めるか否かという「文学的」なレヴェルへ移項される。そして「こうした認識論的切断を経ていない者には、新たな演奏世界を聴き取ることはできない」との託宣が下される。これは「この服は愚か者には見えない」という、誰もが童話「裸の王様」でよく知っているのと同型のレトリックにほかならない。そして、それが通用するのは、走り出た一人の子どもが「王様は裸だ」と口走るまでなのだ。
『ECM Catalog』刊行記念「純喫茶ECM」
渋谷アップリンク・ファクトリー
日時:9/26(日)開場18:00/開演18:15
料金:¥1,500(1ドリンク付)
「純喫茶ECM」扉ページ

photo:Hiroko Saitoh
art direction:Masao Harada
2010-09-20 Mon
AMMのエディー・プレヴォー(perc)とジョン・ブッチャー(reeds)のデュオが、国内ツアーを始めた。デュオとしてはライヴ初日に当たる深谷エッグファームでの演奏についてリポートする。道路をそれ、木立の中に入ったところに建てられたホールは、手頃な広さにゆったりと椅子とテーブルが配されており、併設のカフェの窓からは周囲の木立が覗く。木張りの壁は吸音にも配慮しており、最も高いところで9mはあろうかという空間のヴォリューム(フラットな天井はなく、真ん中が山型に高くなっている)の豊かさが、自然な響き感を確保している。我々を乗せた送迎の車が到着した時、ちょうど二人はリハーサルを終え、カフェで食事をしているところだった。招聘元であるJazz&Nowの寺内氏によれば、二人はこのホールのアコースティックをたいそう気に入り、とても熱のこもったリハーサルになったとのことだ。
客席と同じ高さのステージ部分には、バスドラムが打面を上にしてスタンドに乗せられ、セットされているのが眼をひく。その右手にスネアと吊り下げられた大きな銅鑼。テーブルには各種のスティックや大小のシンバル等の音具が並べられている。通常のドラム・セットは組まれていない。PAも無しのフル・アコースティックのセッティング。
プレヴォーが銅鑼の調子を試すように軽く二・三度叩き、安定したうねりを引き出し、振動する銅鑼に金属片を触れさせて、甲高い震えを中空に漂わせる。一方、ブッチャーは力みなく直立した姿勢からテナーに息を吹き込み、引き延ばされたロングトーンのうちに、幾つもの音の層の積み重なりを示してみせる。こうして演奏は、ひとつの音の中に敷き詰められた複数の響きの層を、互いに重ね合わせ、透かし見るようにして始められた。音は匂うように立ちのぼり、馨しく空間を満たす。演奏者の姿はすぐそこに見えるのだが、音はその像から発せられるというより、空間から湧き出し、聴く者を取り巻くように感じられる(正対するのではなく)。それゆえ視覚的な距離感覚に頼っていては混乱を来たすことだろう。プレヴォーが銅鑼に対して施す、彫金職人のようなとてもちっぽけなアクションが、そのまま耳元でささやく。重ねあわされた音がねっとりと密度を増していっても、決して飽和せず、漂うような「希薄さ」(音の層や粒子がくっきりと隙間をはらみ、軽やかに運動/散乱している感じ)を失うことはない。
ブッチャーがノンブレス・マルチフォニックスに転じ、泡立つような性急さを持ち込んでも、あるいは飛び跳ねるようなフラッターや息のざらつき/ざわめきを注いでも、空間に漂う響きは薄暮の明るさを保ったまま、軽やかにさざめきながら、この新しい運動を受け止めていく。演奏は各々が繰り広げる新たなアクションに慌しく対応することなく、一定の状態を保持しながら、互いの音が浸透しあい、複数の層の生成が変化していく様を示し続けた。銅鑼の弓弾きが煙るように立ちのぼらせる倍音を、正弦波にも似た甲高い響きが横切り、シンバルの弓弾きによるつんとした芳香に伴われて、中低音を基底に美しく整えられたテナーの倍音列が、リング・モジュレーターを通したように眼の前でねじれていく。二人の音は時に聞き紛うほどに類似していながら、決して混濁することなく、空間を棲み分けている。
前半の演奏が一部の隙もない完成度の高さを誇ったのに対し、短いブレークをはさみ、ブッチャーがソプラノにも誓えて挑んだ後半の演奏は、試行錯誤の連続となった。
プレヴォーは前半ほとんど用いなかったバスドラの打面に大小のシンバルを並べ、これを叩いていく。乗せたまま叩けば軽やかで壊れやすい不安定な響きが、中央部を打面に押さえつけて叩けば、より深く安定した伸びやかな響きが得られる。前半のゆったりとしたたゆたいを欠いた、この移ろいやすい音色のアンサンブル(それは時に大時計の内部の機械仕掛けを思わせる)に対し、ブッチャーは噛みちぎったようなサウンドの破片の射出で応える。演奏は薄暮に身を浸す代わりに、淡い光のちらつきへと踏み出すこととなった。シンバルの連打は、互いの干渉により(そこにはバスドラの共鳴の揺らぎも含まれるだろう)、ある種の「濁り」を響きにもたらし、その結果として音は輪郭を明らかにし始める。エフェメラルに漂う希薄さから響きの「実体」が姿を現し、重力に捕われ、こぼれ落ちていく。
プレヴォーはシンバルを片付け、バスドラの打面をばちの先端のゴム球でこすり始める。音は波打ちながら、いよいよ輪郭を明らかにする。ブッチャーのソプラノもまた、中音域の粒立ちと高音域の軋りを併走させながら、地表へと舞い降りる。以降、演奏は前半と打って変わって、「地に足を着けた」(ということは重力と身体の輪郭にとらわれた)サウンドの繰り出しあいの様相を呈することとなった。それはAMMの通常語法だったレイヤーの敷き重ねとも異なり、むしろ一時批判の的となった「ポスト・ウェーベルネスク」な性急さに近い。とは言え、サウンドの多彩さには眼を見張るものがある。プレヴォーがスネアを裏返し、響線を弓弾きすれば、そのざらざらとしたざわめきに、ブッチャーがやはりノイジーにざらついたノンブレスで応え、銅鑼の弓弾きを鋭い共鳴音が断ち切る。
いずれの響きも前半の演奏のようには空間を満たすことができず、一時、辺りを照らし出して燃え尽きてしまう。このことがサウンドの交替、新たなサウンドの渉猟を加速する。シンバルでバスドラを、銅鑼をこすり、ついにはゴム球でホールの壁をこすり始めたプレヴォーは、最も鳴りのよいドア部分に取り付いて「演奏」に没頭する。再びテナーを手に取り、太い濃い音色の実体感で演奏を支えようと懸命だったブッチャーは、再度ソプラノに持ち替え、ベルを床に密着させて、同じくホールを吹き鳴らそうとする。
結局、後半の演奏は最後まで安定した演奏平面(空間と言うべきか)を見出せずに終わった。しかし、互いに手持ちのカードを切りあいながら、演奏がどんなにパフォーマティヴな局面に傾いた時であっても、両者の視線が最後まで音が放たれ混じりあう場である空間に注がれ、サウンドの変容を見詰め続けたことは指摘しておかねばなるまい。そこでは「ポスト・ウェーベルネスク」からFMPあたりの典型的演奏によく見られる、フレーズを奏しきって進む、演奏者の身体の運動に根差した演奏のリズム/アクセントの付け方は最後まで見られなかった。
前半の演奏の完成度の高さは見事なものだったが、彼らにとってそうしたまとまった演奏を行うことは、おそらくさほど難しいことではないだろう。むしろ後半の試行錯誤の連続を、そうした演奏(の安全な閉域)にとどまることを潔しとしない、果敢な冒険心の表れとして評価したい。そこにはサウンドの自在な変容(ほとんどエレクトロ・ァコースティックな)のうちに解消されたかに見えた、演奏者の身体の輪郭やサウンドに働く重力が再び姿を現していた。前半に空間を馨しく満たしていた優雅な希薄さと、それを支えるために水面下でもがき続ける水鳥の脚の運動(疲弊し重力の魔に捕われていく身体)。
2010年9月18日(土) ホール・エッグファーム(埼玉県深谷市)
エディー・プレヴォー
Eddie Prevost(bass drum,snare drum,gong,small percussions)

ジョン・ブッチャー
John Butcher(tenor&soprano saxophone)

2010-09-16 Thu
「こんなにブレていても写真として成立している点が、とても新鮮な驚きでした。」月光茶房店主の原田さんにそう言われて、「Red Lanta」(ECM 1038)のジャケット(後掲の写真参照)をしげしげと見詰め直し、改めてブレていることに気付かされた。というのは、大地/草原から立ちのぼる「気」のようなものをとらえた1枚と思い込んでいたからだ。眺めの向こう、遥か遠くに、透き通って揺らめく景色。
それに写真の「ブレ」というと、連想はすぐに「アレ・ブレ・ボケ」(森山大道)へ飛ぶ。そこでブレとは対象の運動と振り向きざまのカメラの一瞬の邂逅/衝突であり、動き続ける世界をこの瞬間に刻み付けるドキュメンタルな強度と路地裏の速度に溢れたものだった。
「Red Lanta」のブレはそれとは明らかに異なる。ここに都市の速度はない。代わりに風景の静謐な生成があり、刻々と移り変わりながらも悠久たる奥深さが、こちらに手を差し延べている。前者が一瞥の残した生々しい傷跡だとすれば、後者は凝視がもたらす融解/浸潤と言えようか。一点を注視し、そのまま見詰め続けることにより、対象は視界の中で大きさを増し、次第に形/輪郭を曖昧にして周囲の空間へと滲みだし、おぼろな色斑となりながら、やがて溶け出して、にじみ、広がり、ついには視界を覆うに至る。その時、人は対象を見詰めていると同時に、対象に「見詰められている」(あるいは照らし出されている)と感じることになる。
「世界に眼があって私を見詰めている」というメルロ=ポンティ~ラカンの凝視論によるまでもなく、こうした感覚はたぶんに日常的なものだろう。こうした感じ方は聴覚の方が視覚よりも強いかもしれない。何物ともつかない不可思議な音に耳が引きつけられ、どうにも離れなくなる。たとえ微かな音であっても、世界を汚染し覆い尽す。その時、私はその音に繋ぎ止められ、また、その音によって照らし出されているように感じられる。不思議なのは、たとえ音の源が判明し、何の音か明らかになったとしても、依然として耳についてはなれない場合、その音はやはり明確な輪郭を持たず、位置も距離も定かではなく、明確な像を結ぶことのない、空間を曖昧に満たす不定形な広がりとして、すなわち色斑のにじみにも似た「響き」としか呼びようのないものとして感じられることだ。
ECMの録音は音像を重視しない。実体感よりも響きの空間的な広がりを採る。このことがまた「ジャズ的でない」と後ろ指差される理由のひとつともなるのだが、それは決してイージー・リスニング的な音色の美しさ/心地よさを目指したものではない。音を演奏者の身体の運動に囲い込むことなく、空間に解き放つこと。いや、こう言うべきだろうか。音を放つことにより、新たな空間を開くこと。音が切り開き、張り巡らす空間に、響きを羽ばたかせること。サウンドが交錯し、色斑が重なり合ってにじみ、響きが溶け合いながら広がる。カスパー・ダーフィト・フリートリヒ/マーク・ロスコの絵画にも似たオール・オーヴァーな生成へ向けて。メロディの「線」は解体され、色彩の海に破片を浮かべる。飛び散った首飾りは、天上の星座となって、音のない冷ややかな響きを放つ。
「アイヒャー・エコー」とは単なる音の化粧法ではない。それは言わばマンフレート・アイヒャーによる「響きとにじみの哲学」の産物なのだ。音を、世界の生成を、凝視して止まない耳と指先のための。
この哲学に最も反発を覚えるのは、おそらく音楽家、演奏者たちであるだろう。彼らは自分たちこそが音楽を生み出すと信じており、空間など単なる容れ物に過ぎないと見なしているのだから。凍りついた/干からびた動きのない「死物」たる空間に対し、時間はいきいきと脈打っており、我々こそが熱いアクション/ドラマを生み出せる主体であるのだと。しばしば「オーヴァー・プロデュース」を非難されるマンフレート・アイヒャーだが、それも仕方のないことかもしれない。何しろ彼の哲学を具現化するためには、演奏者の「通念」を一度切断する必要があるのだから。
革命的なアクションにすべてを賭けたフリー・ジャズがコルトレーンの死を象徴的な日付として停滞し、澱んでいく様(オーネット・コールマンをはじめとする何人かを貴重な例外として。だがしかし、オーネットが「フリー・ジャズ」を演奏したことなどあっただろうか)を目の当たりにしたアイヒャーは、アルフレート・ハルトたちによる、ヴォルフガング・ダウナーによる、アンソニー・ブラクストンによる、チック・コリアによる、マリオン・ブラウンによる、デレク・ベイリーやエヴァン・パーカーによる、多方向からの「ポスト・フリー」の探求を踏査し、それらを様々な「空間化」の試みと位置づけ、ECM初期30枚でアンソロジー化してみせた。そして、この過程を通じて編み上げた哲学を初めて具現化してみせたのが、これに続く「Diary」に始まる30枚にほかならない。
『ECM Catalog』刊行記念「純喫茶ECM」
渋谷アップリンク・ファクトリー
日時:9/26(日)開場18:00/開演18:15
出演:原田正夫、多田雅範、福島恵一
料金:¥1,500(1ドリンク付)
Art Lande, Jan Garbarek「Red Lanta」(ECM 1038)

2010-09-09 Thu
道に迷った挙句、だいぶ遅れて会場に着き、そっとドアを開けると、男がピアノの前で頭を垂れていた。残り香のように漂う響き。男は眼を瞑ったまま鍵盤を押さえた指を離そうとしない。音が中空に吸い込まれると、鍵盤から生えた腕がおもむろに動き、少し離れた白鍵をゆっくりと底まで押し下げる。すっと立ち上がった音が、次第におぼろに響きへと解けていく間、男は白鍵を押さえた指で弦の響きを探っている。アップライト・ピアノのハンマーの構造から言って、そんなことは原理的に不可能なのだが、それでも男は弦の響きを指先で探るのを止めようとしない。ピアニストの身体で最もエロティックなのは、鍵盤と接する指の腹だとロラン・バルトは書いたが、男はさらに遠くを見ている。針金で金庫の鍵穴を探る錠前師を思わせる、全身が耳となったかのような集中/沈潜。弦の振動の減衰を確かめ、振動が乗り移った別の弦へとつながる白鍵へ指を運ぶ。こうした右手の井戸掘り人夫にも似た間歇的な彷徨に、時折、外からやってきた左手が、全く違った歩幅の足跡を割り込ませる。男はますます深く頭を垂れ、指先はそこに点字が彫り込まれているかのように鍵盤をさすらい、かそけき音の柱を建てていく。最初の硬質な輪郭が切れ切れとなり、希薄な響きへと移ろう中から、他の弦の共鳴が姿を現し、幾重にも解けながら溶け広がる。震災で倒壊した高架柱の亀裂から覗くねじ曲がった鉄筋のように。音の透明な内臓。男はmori-shigeだった。彼の音と初めて出会ったのは、OMEGAPOINTで薦められて買った彼の初CD作「fukashigi」だった。この作品は「ユリシーズ」1号のディスク・レヴューで採りあげているので該当箇所を引用してみよう。
「同じくチェロによる即興演奏でありながら、先に見た翠川による視覚的構図の透明さに対し、mori-shige「fukashigi」は楽器の内臓に首を突っ込んだように息苦しく見通しが効かない。一聴「現代音楽的」な硬質な響きがこのような即興的強度をはらむのは、彼が自らに盲目であることを課しているためにほかなるまい。ただひたすら弦との接点に集中し、昆虫が触覚を揺らめかせるように弓をもって這い進む微視的演奏は、作品構成的なパースペクティヴの先行を徹底して拒絶し、充満するサウンドに溺れ身を委ねることなく、一瞬ごと垂直に沈黙から身をもぎ放つ。その結果、音の動きは紙面と毛先の接触が生み出す毛筆の雄渾な運びを思わせ、圧縮された音響はほとんど電子的な変調へと至っている。」
先のピアノは前半最後の演奏であり、短いインターミッションをはさんで、後半は彼とHugh Vincentが2台のチェロによるデュオを繰り広げた。
Vincentが洗濯バサミでプリペアした低弦をはじきながら、弦を撫でさすり、フラジオ音を滑走させる。mori-shigeが弓を強く弦に押し当て、顕微鏡的に圧縮されたポリフォニーを奏でれば、Vincentは駒の際に弓を当て、さらに情け容赦なく弦を責め苛んで重層化されたスパイシーなノイズを放ち、mori-shigeは胴から弦、エンドピンまで流れるように指を這わせ、チェロからあえかな吐息を引き出す。
演奏は2人のフィギア・スケーターの演技のように、互いの役割を滑らかに取り替え、映しあいながら進められた。音域の高低はもちろん、緩急や密度の対比、響きの彫りの深さの加減まで、2人の出入りの呼吸は素晴らしかった。通常の即興演奏デュオでも、一方が前面に出てソロを取る時に、他方が一歩下がってリフレイン等によりバッキングを付けることはよく見られる。しかし、ここではそうした主従関係ではなく、常に対等に振る舞いながら、相手を活かし、そのことによって自分も活きる工夫が見られた。
ここで2人の演奏の共通基盤をかたちづくっているのは、まずミクロな音響(圧縮された多様性)への関心の高さであり、それゆえフレーズの変奏やリズミックなフィギアにこだわらない演奏の自在さと「触覚的」な質であり、そして弦を滔々と震わせる悦びであるだろう。
このうち3番目の共通点は演奏の中盤で聴かれた。フレーズへと加工することなく、また、新奇なサウンドを求めることもなく、そうした「意図」で汚染されない、楽器から取り出されたばかりの健やかな響き。天井の高くないリスニング・ルームが、石造りの古城のように、豊穣な響きで満たされていく。それはまた他者の音と自らの音を、境目無く溶け合わせることの悦びでもあるだろう。デュオは最後、そのようにひとつになって終わった。
おそらくはここを基底として(「自己表現」中心の日本の即興演奏ではあまりないことだが)、その上に「触覚的」なサウンド・レイヤーが敷き重ねられていく。互いに相手との距離/呼吸を測らないのは、こうした「触覚的」サウンドを操る演奏者の特性と言えよう。彼らは音の焦点を競演の相手ではなく、はるかに近いところ、弦の振動をはじめ、自らの楽器の各部分に合わせる。先に見たように自らに盲目を課し、遠くを、相手を、直接に眼差すことなく、楽器の振動の向こうに透かし見る演奏。
デュオということもあってか、あるいは演奏活動による「成長」のためか、mori-shigeの演奏は、「fukashigi」よりもヴォキャブラリーを増し、その分、演奏のピュアリティと集中の強度を減じているようにも感じられた。その一方で、今回、彼とVincentの「触覚」の質の違いも垣間見ることが出来た。弦をプリペアし、胴を指先でキュッキュッとこすりたて、チェロを膝上に乗せて、胴をリズミックに叩きまくることも辞さないVincentに対し、mori-shigeはほとんど音にならない微妙さで、チェロの表面に指を走らせる。それは特定のサウンドを引き出すためと言うより、チェロの振動を指先で読み取るためなのだ。あるいは冒頭で見たピアノの鍵盤を押さえた指先から弦の振動を探る姿。彼は楽器/振動の核心、その内臓部分へと手を差し入れることはしない。慎ましく、そしてよりエロティックに、彼は表面を撫でさする。眼を瞑り、指先に集中して。皮膚の下の経絡を探るように。衣服に包まれた肉の熱さを味わうように。何十枚も敷き重ねた布団の下に置かれた一粒の豆を感じ取る鋭敏さ。ここで音は耳よりも、指先でとらえるべきものとなっている。
当日の演奏風景(松本渉氏撮影)
バーバー富士HP(http://members.jcom.home.ne.jp/barberfuji/)から
