2010-10-31 Sun
心配していた台風も去って、本日(10月31日)、「アンビエント・リサーチ」第3回です。テーマは「ディストピアの音楽」。今年2月末に行われた「アンビエント・リサーチ」第1回で、虹釜さんがふと口にした「ディストピア・アンビエント」という耳慣れない語にピピッと反応してから、ずいぶん長い時間が経ちました。その間、「アンビエント・リサーチ」第2回で金子さんが採りあげたFrancisco Lopezにも、やはりピピッと(すでに聴いてたにもかかわらず)。もともとは吉祥寺のSound Cafe dzumiで昨年11月に開催されたシンポジウムにお誘いいただき、「フリー・フォームの今日的可能性」というお題(当日の議論は必ずしもこのお題に沿ったものにならなかったけれども)を与えられたのがきっかけでした。その時にずっとMichel Donedaの過酷な達成のことを考えていて、それが「ディストピア・アンビエント」という語と偶然に遭遇することにより、別の輪郭を獲得したことになります。その一部は今年3月から同じSound Cafe dzumiで私が行った音盤レクチャー「耳の枠はずし」1~5回の中でお話しすることができました。今回お話しするのは、さらにそのグレードアップ版ということになります。
フリー・ミュージックについて考える時に、「アンビエント」のことを考え合わせるという視座を与えてくれた「アンビエント・リサーチ」の場で、虹釜さん・金子さんとお話できることを、とてもうれしく思います。お二人の探求に何か別のきっかけを持ち込むことができればと考えています。
話だけでなく、音源も動画もかかります。数量限定(予約者優先)ですが、事前に参加者各自が執筆したテクストも用意しました。音楽や音について考えることは、それらを小難しくしたり、細分化されたジャンルにしまいこんで厄介払いするためではなく、異なる耳の視座を探り、新たな補助線を引いて「聴くこと」を深めるためであり、思考を、聴くことを、アクションを、「問題」そのものを作動させる(set in motion)ためだと思っています。川のほとりで公園の隣、がらんと広い、「風通し」のいい場所という絶好のロケーションを得て、きっとそうした思考と「聴くこと」の「交差点」を提供できるのではないかと考えています。前にもお知らせしたように、今回は「GTS観光アートプロジェクト」の一環として開催されるため、参加費無料です。どうぞ皆様お誘い合わせのうえ、おいでください。お待ちしています。
アンビエント・リサーチ 第3回 ディストピアの音楽
主催:虹釜太郎 & 金子智太郎
ゲスト:福島恵一
日時:10月31日(日) 17:00~20:00
場所:マイタワークラブ
http://mytowerclub.tumblr.com/ http://mytowerclub.tumblr.com/map
都営浅草線「本所吾妻橋」より 徒歩5分、東武線「業平橋」より徒歩10分、東武線・銀座線「浅草駅」より 徒歩13分、東武線・京成線・半蔵門線「押上駅」より徒歩20分
料金、定員:なし
会場では冊子『Ambient Research vol.3』を20冊程度配布する予定です。予約がなくても入場できますが、冊子は予約していただいた方を優先してお渡しします。
「ソラリス」とともに、今回話題に上るだろう
「風の谷のナウシカ」(漫画版)

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2010-10-30 Sat
フィンランドの歌姫2人の来日とあって、激しい雨風の中、六本木まで行ってまいりました。Israjaは不思議系の1stと2nd、Lau Nauは倍音が繁茂した1stだけしか聴いてないけど(共にその後作品を出していることを知りながら、入手できないでいました)。まずは粉末ソーダの素の妖精のようなmeso mesoの声とオモチャとギターとアコーディオン(それと足首に結んだ鈴)。サポートの女性2人組「畔」はトイピアノ鳴らしたり、リコーダー二重奏したり、オモチャを奏でたり(ふだんは影絵もやるとのこと)。こちらはアラレの吹き寄せ感覚。続いてギター・ノイズに青ざめた女声が光臨するHELLLに、Lau NauのパートナーAntti Tolviによるピアノ黒鍵トレモロ・ハレーション。
みんな悪くないんだけど、ライヴハウスの空間のまずさを上回れない。タバコの煙、休憩のたびにグラスを割る粗忽者、曲が始まってもナンパをやめない恥知らず、演奏中ずっと世間話している大馬鹿者(どーも登場バンドの知り合いらしい)。お前らみんな帰れ!と思うけど、きっとライヴハウスの経営を支えているのは、こうした方たちなのでしょう。だから来なければいいのはこっちの方で、だからずっと行かなかったんだけどね。
などとぐちぐち考えているうちにIsraja登場。白いパーカーのフードに透き通った金色の髪を包んだ彼女は、まるで変装した天使。愛らしい線画の絵本を題材にした「Pete P」の胸を締め付ける哀しみから始まった歌唱とキーボードのメモリを切り替えながらの演奏は、次第にラウドさを増し、マシニックなビートを強め、エッジを切り立てて、どんどんダーク&ヘヴィになっていく。線は細いが剄さを秘めた声はテンションを高め、サウンドに埋もれてしまうことがない。フードを脱ぎ、髪をかき上げ、またフードをかぶり‥。意識的なパフォーマンスがかき立てる、北欧と言うよりロシア的な狂おしいゴシック世界。
カリスマティックな空気をまとったIsrajaに比べ、ギターを抱えてステージに現れたLau Nauは、最初、垢抜けない田舎娘のように見えた。赤みを帯びた髪と母性3割増しの横顔。その彼女が脇の小テーブルから取り上げたベルを振ると、さあーっと響きが振りまかれ、空気の色が変わる。こうしたリトル・インストゥルメントや息、手拍子、口笛など、細かいサウンドをサンプル&ホールドを使って重ね合わせるやり方はもはや常套手段だが、彼女はまるでキッチンの魔術師のようににこやかに、見たことのない不思議な空間を開いて見せる。背景に投影されている意図的に粒子を荒くして、輪郭をおぼろに解体し、運動をアブストラクトな色斑の明滅/遷移へと変換した映像同様、音もまた、うすくうすく広がり、互いに浸透しあいながら、ざらざらとした手触りをつくりだす。
その手触りを足裏で確かめるように、声がゆっくりと渡っていく。輪郭を際立たせることなく、粉雪のような舌触りを残してあっさり溶けていく声の、氷砂糖のような透明さ。うすくうすくおぼろにひろがって、どこまでもどこまでもただよっていくひんやりとしたひびき。気まぐれにオモチャに延びる手と、慈しみに満ちたサウンドの取り扱い。ここではいろいろなものが、ひとつになっている。その時、彼女は誰よりも魅力的だった。
終曲ではオモチャのヴォイス・チェンジャーを使って、蝙蝠の悲鳴のような軋みで空間を埋め尽くし、それに荘厳なオルガンを加えて、聖なるヴォイスを聞かせる茶目っ気も見せてくれた。
‥というわけで、やっぱり来てよかったかも。手に入れられなかった彼女らの作品も買えたし。持参したCDにサインももらえたし(何とミーハーな‥)。Lau Nauはアフターアワーズに少し咳き込んでましたね。タバコに弱いんじゃないかな。かわいそうに(別会場では全面禁煙とのこと)。そう言えば彼女は、まだ小さなお子さん連れでしたね。握手してくれた掌の柔らかさは「お母さんの手」だから?
Lau Nau 1stのリーフレット内側の写真
多種多様な植生がひとつになる
「雑木林」系の魅力

2010-10-25 Mon
とりあえず、以前に某誌(「ユリシーズ」じゃないよ)に書いた「Open Silence」のディスク・レヴューを再録しておきます。参考になれば‥ということで。みずにゆれるうすいひふ
陰影を持たずまぶしさもない不思議な明るさで満たされた、永遠に続くかと思われるたゆたいのなかで目覚める‥。ホソミサカナ(細海魚)を聴くことは、いつだってそうやって始まる。ほの暗く暖かな深みへと引き込まれながら、はるか高みで甘やかなきらめきが織り成す文様がかたちを変えながら遠ざかるのを見詰めていると、更なる深奥へとダイヴ・インしていく意識と、鋭敏さを増していく皮膚感覚の間で、身体が音もなく引き裂かれていくのがわかる。深度を増すにつれ、まるで顕微鏡が倍率を上げていくように現れては消える構造/形象。引き延ばされますます希薄になっていく身体。さらさらとしたさざめきへと解体され、マリン・スノーのように降り積もる音響。未生以前の記憶にも似た、どこか懐かしいこの温もりは、この世界を遍く満たし、存在の足元を洗い続ける「サイレンス」の本来の姿にほかならない(それは決して聴覚を遮断して得られる閉塞状態などではない。『オープン・サイレンス』とはよく言ったものだ)。彼が以前から主宰する音響ユニット「繭」の、本作品とほぼ同時にリリースされた新作『Maju-5』において、音響が陰影/輪郭に縁取られ、重さと硬度・密度を有し、色彩の対比をかたちづくる様を聴けば、ホソミを含め両作品の参加者がほぼ同じにもかかわらず、なぜ本作品が彼のソロ名義の第一作とされたかがわかるだろう。SAROや新居昭乃など彼の参加作品にも注目のこと。
「Open Silence」
カヴァーのペインティングも
また彼の作品。

2010-10-24 Sun
今日、当日進行の打合せを兼ねて、会場であるマイタワークラブの下見に行ってきました。本所吾妻橋A3出口から橋を渡ってすぐ左側にあります。ちょうどいい写真がないので、感じを伝えられないのが残念です。(T_T)うぅ高架下ということで、ごつい倉庫みたいな建物を想像していたのですが、もともとは書籍用の倉庫だったという建物を改装して、かなり風通しよくなってます。手づくりの木のベンチやテーブルがすがすがしい。むしろ学生会館の部室みたい。建物自体が川に沿って長く延びているうえに、1階の川に面した側は一部半透明のプラスチック波板なので、昼間明るいうちは川面の揺らめき/きらめきが透けて見えます。ときどき、屋形船も通ったりして雰囲気満点(高架下なので電車も通るけど)。正面側も大きく開け放たれて、こちらは細い道をはさんで隅田公園に面しており、いまだ濃い緑が眼に飛び込んできます。通りがかりの街の人たちが、何をしているんだろうとのぞいて行ったりとか。このロケーションだけでも味わう価値はじゅうぶんあるかと。建設中の東京スカイツリーも本当に間近に見えるしね。
現在、「GTS(藝大・台東・墨田)観光アートプロジェクト」として、いろいろな企画が同時進行中。数ある拠点のひとつであるマイタワークラブでも、いろいろなプログラムが予定されていて、今日も1階では子どもたちが巨大な街の地図にビルの模型を貼りつけ、その奥では藝大の学生さんたちが精霊流しのように川に浮かべる、巨大な紙風船をつなげたような「こよみのよふね」の制作を進めていました。
アンビエント・リサーチ第3回は2階のスペースを使用して、大きなテーブルをぐるりと囲んだラウンドテーブル方式でやれそうです。当日配布する冊子用の原稿も私が50枚弱(この後、さらに加筆予定)、虹釜さんに至っては80枚強(こちらは短くする予定だとか)書いています。テーマである「ディストピア・アンビエント」に三者三様、多方向から迫るものとなっているので乞うご期待。この冊子だけでも読み応えありますよ。なお、議論をわかりやすくするため、金子さんがイントロダクションとしてコンパクトにまとまった「ディストピアの文化史」を執筆。これは開催に先行して金子さんのブログで公開される予定です。これで予習もばっちり。
進行の打合せも順調に進みました。各自の提出論考を事前に読んで打合せできたのも良かったし、何より問題関心が単に重なってしまうのではなくて、それぞれの作業フィールドに根差しながら、複数のトピックスを共有したり、他の参加者の領域へと越境したりと、積極的に重ね描きしていった結果、話がうまく絡んでいると思います。
前述の「GTS観光アートプロジェクト」の一環として開催されるため、今回はな・なんと参加料が無料です。ぜひ、皆様お誘い合わせのうえおいでください。出演者一同お待ちしております。
アンビエント・リサーチ 第3回 ディストピアの音楽
主催:虹釜太郎 & 金子智太郎
ゲスト:福島恵一
日時:10月31日(日) 17:00~20:00
場所:マイタワークラブ
http://mytowerclub.tumblr.com/ http://mytowerclub.tumblr.com/map
都営浅草線「本所吾妻橋」より 徒歩5分、東武線「業平橋」より徒歩10分、東武線・銀座線「浅草駅」より 徒歩13分、東武線・京成線・半蔵門線「押上駅」より徒歩20分
料金、定員:なし
会場では冊子『Ambient Research vol.3』を20冊程度配布する予定です。予約がなくても入場できますが、冊子は予約していただいた方を優先してお渡しします。
予約方法:メールにて予約を受け付けます。予約メールは tomotarokaneko@gmail.com(金子智太郎まで)宛てに、件名を「アンビエント・リサーチ第3回」として「参加者氏名(フルネーム)、参加者数、電話番号」を記入してお送り下さい。お送り戴いた情報は当イベント予約以外には使いません。問い合わせ先も tomotarokaneko@gmail.comまで。
マイタワークラブ改装中の写真
マイタワークラブHPより

2010-10-24 Sun
以前に7月18日に代々木20202で開催された第1回をレヴューした(7月23日の記事を参照)フィールド・レコーディング/サウンドスケープと即興演奏をクロスさせる試み「Possible Spaces=可能空間」の第3回が渋谷アップリンク・ファクトリーで開催されます。前述のレヴューにコメントをいただいたヤマミチアキラさんも出演されます。個人的には英国フォークの香り高いSAROでその存在を知り、新居昭乃作品への助演に驚き、ソロ作品「Open Silence」が良かった細海魚さんの出演にも注目ですー。日時:11月4日(木) 19:00開場/19:30開演
会場:渋谷アップリンク・ファクトリー
出演:Marcos Fernandes / mori-shige DUO
Montage(ヤマミチアキラ) / Hosomi Sakana / Aen TRIO
料金:予約2,000円/当日2,300円
詳細は次のURLを参照。
http://www.uplink.co.jp/factory/log/003748.php
渋谷アップリンク地図

2010-10-23 Sat
高橋悠治作品など~多種類の調弦によるギター音楽以前に沢井一恵のライヴをレヴューしたコンサート・シリーズ「平河町ミュージックス」の秋季公演第1回は若き「ペルー音楽の伝承者」笹久保伸を迎えての一夜。プログラムは次の通り。
1.メタテーシスⅡ(作曲:高橋悠治)
2.重ね書き(作曲:高橋悠治)
3.しばられた手の祈り(作曲:高橋悠治) ゲスト:金庸太(ギター)
4.ジョン・ダウランド還る(作曲:高橋悠治) ゲスト:高橋悠治(朗読)
~休憩~
5.3つのペルー伝承音楽(音源採集・編曲:笹久保伸)
6.プリペアドギタ-の為の3つ(作曲:笹久保伸)
時間とプロセス/蜘蛛の糸/人魚への捧げ物
「平河町ミュージックス」の会場である輸入家具店ロゴバのショールームは、吹き抜け同様の高い天井を持つ、開放感にあふれた居心地のよいスペースである。そして演奏中も客電は落とされない。スポットライトやフットライトもない。演奏者と聴衆は同じ照明による同じ明るさ、同じ高さの床の上で共に同じ空気と温度を呼吸し、同じ時間を過ごすことになる。穴倉のようなライヴハウスの暗闇に身を忍び込ませるのとは、明らかに異なる感覚がそこにはある。言うなれば、ライヴハウスの暗闇(それはステージのまぶしさからの切断/隔離と対面型の同一方向を向いた客席により構成されている)が一種の共犯幻想(ここにいる皆はいま私と同じ夢想を対象に投影している)を生むのに対し、柔らかな明るさに満たされ、かげのないロゴバがもたらすのは「白昼感覚」とでも呼ぶべきものである。
前回、沢井が「六段」の演奏を始めたスペースに、今回は横長のベンチが設置され、ギターが横たえられている。様々なかたちや色の椅子やソファーが、それを半円状に(端では後ろ側にやや回り込むように)取り囲むように設置されている。椅子やソファーのかたちや色が様々であるのは、ショールームの展示品を利用しているからなのだが、そこにこれまた様々な年齢、容貌、服装、立ち居振る舞いの男女が腰を落ち着ける姿が見えることにより、この空間が複数の異なる視線によって刺し貫かれていることを、聴衆はあらかじめ知ることになる。少なくとも人数分だけの異なる視点(それは必ずしも空間的な差異だけを意味しない)からの、異なる聴取と観察、投影と構成、把握と夢想、経験と理解が生じることを。
前回は1曲ごとに沢井が演奏の場を移し、空間をあちらこちらと経巡るごとに、私との位置関係もその都度変化し、むしろそのことに気を取られていたが、今回、笹久保が場所を変えずに演奏したことで(まあ、それが普通なのだろうが)、改めてロゴバのコンサートの特異性に気が付かされることとなった。主催者は「演奏者と聴衆の眼が合うコンサート」であることを強調するが、実はそうした幻想はライトアップされたステージと客席の暗闇の対比により強調されるものであって(たとえドーム球場におけるコンサートでも、お目当てのミュージシャンと眼が合ったと語るファンの群れ)、ロゴバの空間は、むしろそうした幻想を解体するものとしてあるのではないだろうか。ある意味残酷な「白昼の空間」として。
そうした空間に、感情移入を排する構造の剄さを持った高橋悠治の作曲作品はふさわしいものだと言えるかもしれない。「メタテーシスⅡ」で弾くそばから別々の方向にはじけ、炒り豆のように空間に散らばっていく音。切り詰められ張り詰めた高音と、ミュートされ空中に滲みを広げながら重なりあう低音の対比がもたらすランダムネスは、デレク・ベイリー風のフレーム・アウトへと至ることなく、たおやかに風にそよぎ、ゆらゆらと水底に揺れる。ひらがなの散し書きにも似たゆるやかな統御。操作される単音や音群は、数学的変換により音空間を転移するが、ひるがえる旗が刻々とかたちの「見え」を変化させながら、同じ旗だとわかるように、どこかいつも懐かしい手触りを残している。
ギターを持ち替えると音が変わる。それは調弦が異なるせいもあるだろう。「重ね書き」ではより太くはっきりとした声音による単音が、空間に浮かび上がっては、尾を引いて消えていく。ハンマリングやハーモニクスが透き通った香りをたちのぼらせる。ギターらしい音の慈しみ方。
ギターは2台しかないので3曲目の前に調弦を変更する。空間の色合いや匂いが移り変わり、やがてだんだんピントが合ってくる。これは今回とても貴重な時間だった。「しばられた手の祈り」の絶唱(と言いながら、すっくと立ったゆるぎなさは失われてはいない)のビブラートから、「ジョン・ダウランド還る」の嘆息への距離は、その間の調弦の変更で、あたりの空気が次第に暗く肌寒い鈍色に移り行く中でたどられる。高橋悠治のゆらゆらとした語りと雲の垂れ込めた明け切らぬ寒空のようにくぐもった弦の響き。
後半は、2004年からの3年間、単身ペルーで暮らした笹久保が、ひとり育んできた世界。英国の重い外套を脱ぎ捨てて、音が軽やかに跳躍する。草の葉にたまった朝露がすっと流れ落ちるように、清新な音がほとばしる。こちらが彼の本領なのだろう。弾くそばから音は背後へと飛びすさり、まるで甲高い笛の音のように、たちまち空気に溶けてしまう。空間をかがる金糸銀糸の刺繍にも似た一瞬のきらめきを残して。あるいはギターの胴を叩き、弦を掌ではたくリズミックなダンス。ラテン・フュージョン風の能天気なポップさに接近してしまうことを、彼は全く恐れていないようだ。それは紙や綿棒、ペルーで民族舞踊に用いるというはさみを2つに分解した祭具等によるプリペアドにおける、ほとんどリズミックな対比だけによる演奏にも見ることができる。
この日の演奏を聴く限り、「ペルー音楽の伝承者」といったしかつめらしい権威主義的な呼び方は、彼には似合わないだろう。まずは、この軽やかさを寿ぐこととしたい。そして、この軽やかさが音楽や時間の「重さ」に耐え、あるいは逃れ続けられるかを見守ることとしよう。
日時:2010年10月22日(金) 19時から
会場:ROGOBA DESIGN ON LIFE_Tokyo(ロゴバ)
今回の公演のポスター

平河町ミュージックス
http://sites.google.com/site/hirakawachomusics/
2010-10-15 Fri
表参道のカフェ月光茶房の店主にして、おそらく日本唯一のECMレーベル作品のコンプリート・コレクターである原田正夫さんによる、私設ECMライブラリーが、いよいよ開館の運びとなりました。正式には明日の「ECM Catalog」出版記念祝賀会(於:青山 月見ル君想フ)にて発表されます。※「ECM Catalog」出版記念祝賀会は一般参加が可能です。豪華メンバーによるECM座談会やECMアーティストによるシークレット・ライヴなど魅力的な企画が盛りだくさん。詳しくはこちらをご覧ください。
http://www.moonromantic.com/?p=3402
さて、このECMライブラリー、原田さんが手持ちの資料を公開し、ECMの全作品に加え、関連書籍塔が並ぶ音楽ファン垂涎のスペースですが、な・なんと名称がビブリオテカ・ムタツミンダ。この聖なる呪文のような名称は、書物を集めた場所を示すラテン語 Bibliothecaと、グルジアはトビリシにある聖なる山 Mtatsmindaを組み合わせたものです。先日の「純喫茶ECM」で終曲に予定していた「ムタツミンダの月」から採っています。ライブラリーの詳しい内容はこちらをご覧ください。
http://timbre-and-tache.blogspot.com/
多田雅範さんによる記事「月光茶房併設ECMライブラリー、ビブリオテカ・ムタツミンダと確定!」もあわせてご覧ください。リンク先にある多田さんによるガルバレク論は必読モノです。
http://www.enpitu.ne.jp/usr/7590/diary.html
さて、若干補足しておきますと、「Bibliotheca Mtatsminda」と私が命名したというのは正確ではありません。「ECM Library」以外にどんな名前があるだろうか? という原田さんからのオファーを受けた関係者があれこれアイデアを出した中で、たまたま私の案が採用になったということです。偉大な指揮者ヤンスク・カヒーゼが、彼自身が心臓疾患から生還したという極めて私的な生の喜びを、初々しい含羞を込めて歌う「ムタツミンダの月」は、そのなだらかな情感に満ちた旋律や柔らかな月光にも似たオーケストレーションによって、「現世に生きること」のかけがえのない素晴らしさを、切々と私たちに語りかけます。暗く冷たい「Oceanus」の深淵から「この世」へと還りつき、皆様を我が家へと無事送り届けるために、先日の「純喫茶ECM」で、この曲を最後に用意させていただいたことは、以前にお話した通りです。逆に言えば、ムタツミンダの月の光に照らされている限り、遠い無限の彼方に遊び、切り立った死の淵をのぞきこむことだって可能だ‥。そんな思いから、言わば音楽に魅せられることの危うさに対する「守護神」になってほしいとの願いを込めて、この名前を選んだ次第です。思いついた最初は、「いい名前だ」とひとりコーフンしていたのですが、少し冷静になると「言いにくい」、「覚えにくい」、「略せない」、「意味わからない」との四重苦で、「これはダメかも‥」と他の案の間に忍ばせて提出したら、原田大人のお気に召してしまったというわけです。
「ビブリオテカ・ムタツミンダ」と唱えると何か出てきそうですが、別に召喚の呪文ではありません(でも、ちょっと「クトゥルー神話」ぽいかも)。北方の響きと東方の香りを両方兼ね備えているところがいいかなー‥とか。自分の案が採用になるとうれしいものです。えへへ。
また、このスペースを活用して、ラウンドテーブル型の打ち解けたレクチャー(というよりは音盤茶話会?)など、今後、様々な活動が展開されていく予定です。テーマも必ずしもECM限定ではないとのこと。これは眼が離せませんよ。
ビブリオテカ・ムタツミンダ開館宣言チラシ
水面下に渦巻く力動のざわめきが、形象を結ばんと立ち上がってくる、
その禍々しい瞬間が見る者の視線へと手を伸ばす‥。
photo:Hiroko Saitoh
art direction:Masao Harada

2010-10-11 Mon
あまり広くはないビルの地下室。とはいえ、コンクリート打ち放しの冷たさはなく、漆喰等で仕上げられた壁に圧迫感はない。天井が低いのが少し気にかかるが、少なくとも話し声は自然に聞こえる(不自然なエコーはない)。客席と同じ平面に、左の壁際に笙をくるくると回しながら電熱器にかざす石川、そこから右にパンダをイラストしたマッキントッシュのカール・ストーン、ミキシング・ボードとテーブル・ギターを含む機材と配線がテーブルいっぱいに広がる中村、そしてアコースティック・ギターをアンプ(近接設置のマイクで拾った音を増幅)の脇に立てかけた康が反対側の壁際に位置する。PAはカールのすぐ左後ろとカールと中村の間の2か所(だから左右対称ではない)。笙は増幅なし。1時間半1セットの演奏であることが、冒頭、企画者である康から告げられる。時間指定と聞いて、一瞬、かつて某所で出くわした時間指定楽譜によるお粗末極まりない演奏の忌まわしい記憶(このせいで何年かライヴから足が遠のいた)がフラッシュバックするが、今回は楽譜もなければ、ストップウォッチもないから、たぶん大丈夫だろう。
空調を止めて始めるのは弱音系のお約束だが、実際には結構ラウドな部分もあったし(笙のあんなに大きい音は初めて聴いた)、PAからは終始サー・ノイズが流れていたから、それほど神経質になる必要はなかったかもしれない。
開始してまもなくカール・ストーンのPCから音が出ていないことが判明し中断。再開後はカールの断続的な電子音から始まり、ギターの爪弾きが添えられ、中村の放出するノイズに後押しされる。石川は笙を口に当てているが、音は聞こえない。カールと中村が互いの持続音のON/OFFを巧みに繰り返し、ぽつりぽつりと音のしずくを垂らすギターを、軌跡として浮かび上がらせると、いつの間にか笙が鳴っているのに気づく。知らぬ間に忍び込み、畳の縁から湧き出るように部屋をゆっくりと満たす音色/香り。この希薄な充満を背景として、他の演奏者の動きが活発化し、その断続の合間に笙が音もなく浮かび上がる。この繊細な浮遊は同時にどこへも行き着かない平衡状態でもある。アラビア風の詠唱が一瞬浮かび上がり、遠のいて繰り返される。このカールの挑発に誰も応えようとしない。演奏は早くも膠着状態に陥った。
楽器編成を見ても、4人のうち持続音系が3人を占める。素早い転換は得意ではないだろうし、もともと彼らの目指すところでもないだろう。ある種のサウンドスケープを描きあげながら、次第に構成要素を入れ替え、音の眺めを移り変わらせていく‥というのが、すぐに思い浮かぶ常套手段だろうか。飲食店のフィールド・レコーディング素材等を駆使した、時にあざといほどパロディックなカールの音響構築、細い隙間から入り込んで空間を満たす笙独特の輪郭のない音、腺病質の希薄さから野太い重厚さ、あるいは持続音からパルスに至る中村の幅広いサウンド・スペクトル等の各演奏者の特質を活かして、それをどう超え出ていくかが期待されるところだ。
結論を言えば、この日、そうした期待がかなえられることはなかった。まず、中村、石川、カールの3人のうち、2人の呼応/絡みは見られても、4人のうち3人が絡む場面はほとんどなかった。また、それぞれの絡みも持続せず、演奏は花占いのように、花びらを散らしながら進められた(もちろんそれは「徒に盛り上がらないようにしよう」という自己抑制の結果かもしれないが、だがそれにしても)。特にカールが提示した視覚的なサウンドスケープ(例えばカラスの群れの鳴き声や遠くから揺らめくように聞こえてくる祭りのにぎわい等)への対応がほとんど見られなかった(無論、すぐにあきらめてしまったカールにも責任はあるだろう。開園時の機器のトラブルで彼は少し神経質になっていたのかもしれない)。
特にコンダクター役が期待された康が、その役目を全く果たさなかったことが大きいように思われる。彼の演奏は、ゆっくりした、あるいは中程度の速さの爪弾き、弦の引き搾り、ハウリングの3つに大別できるが、どれも効果的ではなかった。例えば爪弾きはデレク・ベイリー風のランダムネスを持ち込むかに見えて、そのアタックの彫りの浅さ、様々な度合いのミュートによる音色のぼんやりした無表情さ(鳴りっぱなしの音)等により、いつも同じ均質な(色や匂い、表情のない)時間/空間を連れてきてしまう。これは他の演奏者たちが、ひと連なりの持続音やサウンド・ブロックで、ほとんど一瞬のうちにある特定の空間を開いていく仕方と、大きく異なっている。中村がぶつぶつとつぶやくように照らし出す手元のちっぽけな広がり。突然に低い音が入り込み、厚みを増し押し広げられるサウンドスペース。あるいはパルスによって生み出すどきどきと脈打つ何か生暖かいもの。カールが魔法のように呼び出し、すぐにかき消してしまう景色。ざわめきの繰り返しが細胞分裂して増殖し、あるいは発芽して枝を伸ばす様。そして石川がかすかな息遣いによって示すちらつくような動き。香を焚きしめるような静寂の充満。他の音と重なり混じりあうことにより(たとえサー・ノイズとでも)、不思議なくらいに透き通った厚みを増し豊かになる響き。細い竹管の束が張り裂けんばかりに息を吹き込んでつくりだす滔々たる流れ。
あるいは秋山徹次のアコースティック・ギターが中村としまるとつくりだす音世界が念頭にあったのだろうか。そこで秋山は決して音を連ねることなく一音一音を切り立って奏でることにより(あるいは危ういほどに甘い旋律へと傾くことにより)、中村の電子音を身にまとい、時に足元をすくわれながらも、それを蹴立てて、「地」の上の「図」として浮かび上がることを介して、同時に「地」となる中村の電子音を照らし出すことができるのだ。今回の康のように、ぱらぱらと(あるいはだらだらと)弾いてしまっては、ギターのサウンドはある閉域をつくりあげてしまい、他の演奏者の音との相互浸透に身をさらすことはできないだろう。今回のような解体/再構築的な文脈での演奏では、楽器としての固有の完成度や表現能力が高ければ高いほど、かえって越えるべき壁が高くなることは自明なのだから。
そうしたなかで、中村の電子音がかつ消えかつ結びて、繊細な結ぼれをつくりあげては、それを解きほぐす流れに、康のギターが同じ音高の音を、まるで精霊流しのように送り出しなびかせた瞬間は、今日のハイライトのひとつだった。
2010年10月10日(日) 於:七針・八丁堀
中村としまる(ノー・インプット・ミキシング・ボード、テーブル・ギター)、石川高(笙)、カール・ストーン(コンピューター)、康勝栄(アコースティック・ギター)

2010-10-06 Wed
金子智太郎さんと虹釜太郎さんによるアンビエント・リサーチ第3回の予定が決まりました。今回は何とわたくし福島恵一がゲストとして参加させていただきます。いーのか。ホントに。もともとは吉祥寺Sound Cafe dzumiで第1回が行われたアンビエント・リサーチを聴きに行ったのが最初です。他では見たことない独自の切り口/アプローチと、お二人の脱力系のお話に惹かれ、代々木20202での第2回(特集Francisco Lopez)も聴きに行きました。ほとんどデジャヴというくらいに、ロペスの言ってることに共感したりして。また、お二人は私のレクチャー「耳の枠はずし」を聴きに来てくださり、いろいろと元気づけていただいたり、また鋭いご指摘にいろいろ触発されました。そんなこんなで、今回のゲスト参加とあいなったわけです。
今回の特集テーマは「ディストピアの音楽」。私としては、やはり「空間」をキーワードに考えてみたいところです。今回は開催される場所も東京スカイツリーのそばで、芸大の学生さんたち手作りの不思議かつ魅力的なスペースになっているようです。そのうえ参加料金も無料。ぜひおいでください。
詳しくはコチラ→http://d.hatena.ne.jp/tomotarokaneko/
アンビエント・リサーチ 第3回 ディストピアの音楽
主催:虹釜太郎 & 金子智太郎
ゲスト:福島恵一
日時:10月31日(日) 17:00~20:00
場所:マイタワークラブ
http://mytowerclub.tumblr.com/ http://mytowerclub.tumblr.com/map
都営浅草線「本所吾妻橋」より 徒歩5分、東武線「業平橋」より徒歩10分、東武線・銀座線「浅草駅」より 徒歩13分、東武線・京成線・半蔵門線「押上駅」より徒歩20分
料金、定員:なし
会場では冊子『Ambient Research vol.3』を20冊程度配布する予定です。予約がなくても入場できますが、冊子は予約していただいた方を優先してお渡しします。
予約方法:メールにて予約を受け付けます。予約メールは tomotarokaneko@gmail.com(金子智太郎まで)宛てに、件名を「アンビエント・リサーチ第3回」として「参加者氏名(フルネーム)、参加者数、電話番号」を記入してお送り下さい。お送り戴いた情報は当イベント予約以外には使いません。問い合わせ先も tomotarokaneko@gmail.comまで。
マイタワークラブ地図

2010-10-06 Wed
多田雅範がブログで「音楽には演奏者がいるという神話」について書いている①。「Nan Madol」,「Solstice」,「This Earth !」,「Northern Song」‥ジャズ耳でもインプロ耳でも救うことのできない音を、彼は「ECMのハードコア」と名づけ、それらが「耳の枠はずし」で探求した「フリー・ミュージックのハードコア」と陸続きであることを発見する。響きが生み出す空間の広がり。空間を希薄に染め上げる音のたゆたい。大陸移動説を思いついたヴェーゲナーのように。思わず膝を叩く一撃が増幅し、タンタンタタンと講釈師よろしく畳み掛け、思考のリズムが論理を飛躍させる。彼はこともなげに言い放つ。「ECMもインプロも『誰かが演奏している』というふうには聴いていなかったのだな。極論すれば」と。それは決して瞬間の幻ではない。彼によるヤン・ガルバレク論「ガルバレクは二度死んでいた」②を見よ。彼の語りは、ほとんど自虐的な諧謔と突然の断定、手放しの絶賛とお気に入りの玩具をポイと放り捨てるような不機嫌さ、キートンばりに加速して止まない形容と冷ややかで醒めた視線を飛び移りながら続けられる(1つのセンテンスの中にすら、複雑骨折しそうな複雑なステップが仕込まれている)。それはそのまま彼のガルバレクへの偏愛の紆余曲折ぶりを、運動の軌跡として示している。この辺は私には逆立ちしても真似の出来ない芸当だ。
表題が示すところの、象徴的な「死」へと向かう物語よりも、乳白色にけぶるアルプスの山腹から広尾のマンションへ、ギリシャ神話から「イヤハヤ南友」へと駆け抜ける、この思考の足取りの疲れを知らぬ目まぐるしさ(それは「純喫茶ECM」で配布した彼の「The Sea」評にもくっきりと現れている)を味わうことの方が、よほど彼の独自世界を体験したことになるだろう。
ガルバレクのただ管が揺らめいているような響き、輪郭をにじませ、自ら生み出した響きに溶け込み、身体の重さや気配を薄れさせていく音の道行きを眺めていると、確かに「演奏者」の姿はおぼろに薄れていく。暗い水の中でぬらりと身を翻す黒い魚。口中で慌しく動き回り、自在に伸び縮みしながら、輪郭どころか位置やヴォリュームすら明らかでない舌の運動。
「ECMのハードコア」と「フリー・ミュージックのハードコア」に通底するキーワードは、やはり「空間」ということになるだろうか。アイヒャーがECM初期30枚でアンソロジー化したポスト・フリー探求の試みが、すべて空間の可能性探求のヴァリエーション(=変奏曲)にほかならないことに、改めて気付かされる。
①http://www.enpitu.ne.jp/usr/bin/day?id=7590&pg=20100927
②http://homepage3.nifty.com/musicircus/ecm/rarum/r_02.htm
Jan Garbarek Group / Wayfarer(ECM 1259)
