2010-11-29 Mon
Machinefabriekと小野寺唯に注目して聴きに行ったもの。私にとっては、やはりその2つのセットが良かった。なお、演奏はWink→Yui Onodera+Celer→Liondialer→ Machinefabriekの順。1.Machinefabriek
幾何学的とも言うべき、ストイックな構築主義に特徴のあるRutger Zuyderveltのソロ・プロジェクト。坊主頭に厚い眼鏡をかけて、がりがりにやせたナードな風貌の彼が、エレクトリック・ギターを抱えて、エフェクター類(後で本人に確認したところではディレイやループ・マシン、ミキサー等)とコードが絡まりあって山になったテーブルに着く。
足元のペダル操作でアタックを消去した、青白く冷ややかな音色が中空に浮かび上がる。ホタルの光の明滅を思わせる響き。ここでメロディやフレーズは、聴く者が勝手に投影する輪郭にほかならない(天空に瞬く数多の星々に「星座」の姿を見出すように)。しばらくすると、彼は弾く手を止め、テーブルの上のつまみの操作に専念しはじめる。響きは重ねあわされ、陽炎にも似た幽玄なモアレをつくりだすかと思えば、身をよじりながら空中ににじみ、不定形に溶け広がる。操作の手を止めて、生まれつつある音の景色を眺めやる彼の眼差しは、庭師のそれを思わせる。
音は変調され、重ねあわされるうちに、劣化し、濁りを生じて、不透明な重さをはらみ始める。回路のトラブルなのだろうか、ハム・ノイズに似た耳障りなうなりが現れ、繰り返し繰り返し空間を横切る。彼は最初、そうした濁りを削除すべく試行錯誤していたようだったが、やがてハム・ノイズを欠かせない一部として含み、むしろ劣化によりぼろぼろなった音色を前面に押し立てたシークェンスをつくりあげる。数回試した後、結局、このシークェンスはほぼ丸ごと廃棄されてしまうのだが。
その後、彼は携帯ラジオのスイッチを入れ、アナウンサーが読み上げるニュース(日本語)をローファイな音質で低く流しながら音響工作を続けるが、しばらくして、これもまた放棄してしまう。最後は再びギターを手に取り、弦の振動を空中に解き放たず、ただ回路にだけ取り込んで、彼は再びラジオ少年的な情熱を持って工作に取りかかり、冒頭の透明さとは異なる、パチパチ・ノイズに伴われた半透明に劣化した音響が、悲しげに辺りを眺め回す。
結局、この日の演奏で彼だけがPCを用いなかった。音源はエレクトリック・ギターと携帯ラジオのみ(これも本人に確認)。素材と回路の操作性のストイックな限定。操作結果やラジオ放送内容の不確定性。ノートPCから数限りないサウンド・ファイルを引き出し、自在に加工してみせる現在一般的な手法に比べ、こうしたやり方はむしろ新鮮に映るかもしれない。だがそれはライヴ・エレクトロニクスの時代への先祖帰りでもある。あらかじめ答を知っている昔の問題を解くだけではしょうがない。むしろ、ここで試されているのは、ただただ混沌に落ち込むのではなく、常同行動/強迫反復に囚われるのでもなく、フラストレーションを爆発させるのでもなく、いかにクールな構築を図るかであり、また、運動の自在さを引き出してみせるかだろう。そうした視点からすると、機器トラブルから「偶然」生じたであろうハム・ノイズを、単にノイジーな爆発に解消するのではなく、積極的に「構築」に取り込もうとした姿勢は高く評価したい。その挑戦は今回実を結ばなかったけれども。その一方で、LPのサーフェース・ノイズを連想させるパチパチ音は抵抗なく使いこなすあたりに、「セピア感覚」的なフィルタの存在を感じる。ここは下手をすると、安易な心象風景化に流れやすいところだ(周囲の若い聴き手の評判はすこぶる良かったが)。
2.Yui Onodera+Celer
小野寺唯が2007年にand/OARからリリースした「suisei」は、タイトル通りに「水音」を素材として用いながら、「水音」が持つ強い情景喚起力に頼ることなく、抽象的な強度みなぎる構築を目指していたことが印象的だった。
今回のライヴはCelerとの共同作品「Generic City」(Two Acorns)のリリースを踏まえたもの。正面に2台のテーブルがセッティングされ、向かって左側の小野寺はPCを、右側のCelerは2台のカセット・マシーンを操作する。
背後の壁面3面に青空が映し出される。やがて雲の切れ目から都市が姿を現す。視点はさらに下降し、ひとつひとつの建物の姿が浮かび上がる。画面は12に分割され、移動する人々のシルエットや様々な視角から切り取られた街の風景が変調され、緩やかな速度で動いていく。ヴィジュアル・イメージは都市が多様な細部から成り、常に動き続けていることを最後まで提示し続ける(演奏とヴィジュアルが連動して変化するわけではない)。
海鳥の声が壁面に投影された青と響きあい、交通ノイズと子どもたちの声が、移動し続ける人々のシルエットを照らし出す導入部に続き、旋回する何物かがひゅんひゅんと風を切る音を、オルガンに似た端正な音色の電子音がゆっくりと浸していく。この電子音は今回の演奏/展開のひとつの基調となっており、提示される環境音など様々な具体音に対し、ゆったりとうねりながらゆるやかなヴェールをかけることにより、冷ややかな距離を導入し、浮かび上がる景色を透明なガラスの向こう側へと隔離して対象化する作用を持つ。それゆえ、この音がかぶせられると、具体音によって喚起される情景は、猥雑な生々しさを欠いて、モノクロ写真のスナップのような静謐さをたたえるに至る。夢の中の眼差しのようなスローモーション。
カラスの鳴き声、遠くで響くアナウンス、強く弱く響く人の話し声、うっすらとディレイをかけられた街頭音(おぼろににじんで聞こえる)、甲高い読経、不穏な金属音、砂利を踏む足音‥。様々に移り変わりながら次々に情景を喚起していく具体音は、対象をクローズアップしてとらえた「切り取られた点景」(おそらくはサウンド・ファイルによる)と「包括的にひとまとまりにとらえられた空間」(おそらくはカセット・テープによる)を巧みに配合し、耳の焦点を絞らせない。さらにざらざらと粒子を荒くしたストリング音(先の電子音よりも情感的)の高まり、突如として眼の前に放り出されたようなオルゴールの響きなど、耳が思わず惹きつけられる音を配して、それまでの印象をあいまいにリセットするあたりも見事なものだ。
私にとって、この日のハイライトであり、一番の収穫となったこの演奏に、あえて課題を求めるとすれば、タイトルとして掲げられた「Generic City」との関係だろうか。彼らの演奏は、ちょうど都市をさまよい歩くうちに様々な異質な風景に出会い、その遊歩を通じて都市の多様性を発見し、映し出していくものである。そこで確かに「遊歩者の視線」の下に都市の風景は「生成」していくと言っていいだろう。しかし、先に述べた電子音に象徴されるように、それらの風景はひとつひとつ対象化され、対象化された風景はひとつひとつゆるやかに切り離された点景(微妙に隣り合うにしても)として浮かび上がる。ひとつの風景の中で異質なもの同士が出会うことはない(このことは作品化されたCDでも基本的に変わらない)。演奏はまさに夢見心地のうちに進み、聴衆の耳を覚まさせることがない。同じく「Generic City」をキーワードに掲げた建築家レム・コールハースが描き出したのは、資本の圧倒的な流動と民衆生活の生々しいパワーのぶつかり合いによって、都市計画なぞ乗り越えて劇的に変貌を遂げていくシンガポールや上海、あるいはラゴスの風景、ノスタルジックな視線などはねつけて、沸騰するが如く野放図に生成していく都市の姿ではなかったか。
彼らの見事な「プレゼンテーション」(「演奏」というよりも、そう呼んだ方が適切なように感じられる)を、「心象風景的」とは言えない。彼らの提示する音世界の豊かさは、決して甘やかに自閉したものではない。にもかかわらず、都市の喧騒を縫いながら、時折聞こえてくる子どもの声に、読経の響きに、懐かしくも変わらない人々の暮らしの物音に、ふっと安らぐ‥という心性が、演奏の基調として揺るぎなく据えられていることは、やはり疑いを入れないように思われる。サウンドスケープ的な作品が、無意識のうちに自らに課してしまう枠組み(暗黙の前提)について、今後も引き続き考えていくことにしたい。
3.Wink, Liondialer
Winkは流れ続けるドローンにギターの弓弾き等でなくもがなの彩を添え、ヴォイスが何やら詩的なことを大儀そうにつぶやくという、まあ、よくある「自己陶酔の垂れ流し」というヤツですが、気になったのは3人のメンバーが、みな「自己陶酔」に自信がないらしく、周りを気にして不安げなこと(「挙動不審」というか)。だったら、最初からやらなければいいのに。
Liondialerは18歳でデビューした若き天才Greg Hainesとマンチェスター音楽界の雄Danny Saulのデュオ(苦笑)。それぞれPCのほかにチェロとギターを演奏。ツィッターとか見ると彼らの演奏が最高だったという若者がいっぱいいるみたい。果たしてそうかなー。フェーズ・シフトかけてがーっとあからさまにノイジーに盛り上げて、その後、ギターをポロンと鳴らすとか、チェロを全開放弦で(要するに左手まったく押さえず)で弾きまくるとか‥‥あまりにあからさまでないかい。オヤジの耳には、70年代ジャーマン・ロックやECMが追及したドイツ・ロマン派美学を、かなり安直かつケーハクにパクっただけのように聞こえたぞ。たとえて言うと、彼らが文脈を設定して構築した大河小説を、クライマックスのセリフだけ借用して、ハーレクィン・ロマンスに仕立てたみたいな。嘘だと思ったら、ぜひ次の作品群を聴いてみてください。
Ralph Towner / Solstice
Eberhard Weber / The Colours of Chloe
Tangerine Dream / Zeit
Tangerine Dream / Rubycon
Klaus Schulze / Timewind
Klaus Schulze / X
yui onodera+celer
「generic city」(Two Acorns)

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2010-11-09 Tue
アップリンク・ファクトリーのステージ中央には椅子が1脚。その後ろにハの字型に左右に開いてテーブルが並べられ、机上では4台のノートPCが鈍い銀色の輝きを放っている。まるで裁判劇の舞台のようなセッティング。1.Montage(Akira Yamamichi), Sakana Hosomi, Aen TRIO
照明が落とされ、スクリーンに映像が映し出される。空、海、岸壁、停泊している貨物船、わずかずつ移動するタグボート(?)。画面外から犬の鳴き声、父親と子どもらしき話し声(何を話しているかはわからない)、蝉の鳴き声が遠く響く。気がつくと機影はもうはっきりとわかる大きさになっていて、こちらへぐんぐんと近づいてくる。飛行機の機体がフレームアウトし、頭上を通り過ぎると爆音が追いかけてきて、辺りを押し包む。それが止むと、また微かな環境音が画面外からしみこんでくる。風はないようで、海面はゆらゆらとしたうねりを繰り返す。波の音はしない。まぶしさもない。空には雲がないが、青く晴れ渡っているわけでもない。すべてはうっすら/ぼんやりとしていて、輝きやコントラストを欠いたまま、離れたところで黙っている。付け加えられたリズミックな軽やかさが、二度三度と通り過ぎる。また、機影が姿を現し、こちらへと向かってくる(ことさらにゆっくりと動いているように見える)。空間は自己主張することなく、時折通過する飛行機を無関心に眺めている。低音がもやもやとうごめき、柔らかなドローンをかたちづくる。爆音が通り過ぎると、貨物船がわずかに動いていることに気づく。滑らかに音もなく(まるで何かの機械仕掛けのように)すれちがう船と船。彼方に黒いもやのようなものが現れ、ふっと覆いを脱ぎ捨てたように飛行機の輪郭が現れる。
カットが少し変わり、横に長く延びた対岸の景色(と言っても岸壁と空だけだが)はそのままに、手前に柵にもたれる人の群れが映し出されると、中高域でのさざめきが繰り返されていることに気づく。カットの切り替えに伴ってサウンドが変化したのか、ずっと以前から鳴っていたのか、その時にもよくわからなかった。やがて再び映像は最初の画面に戻るが、今度は海鳥が中空を舞っていて、それと交錯するように機影が現れ、時々ピントが外れる。その一方では、低音にたゆたっていたドローンが次第にせり上がり、多層による奥行きをつくりだす。Ralph Towner『Solstice』にも似た、永遠へと向かって飴のように伸びていく中低音を軸として、間歇的なビープ音、千鳥足状にもつれたミニ・メロディ、再び現れた子どもの声等がすれ違い、響きの中にそれぞれ空間を開いていく。
画面全体が沈んだ鈍色へといよいよ傾き、海も空も奥行きを失って、その境目を曖昧にし、おぼろに溶け合うなか、スクリーンに「光の鱗」が現れ、ゆっくりと回転しながら大きくなり、一瞬ピントが合って、両翼に明かりを灯した飛行機の輪郭が姿を現したかと思うと、すぐにまた描き消えてしまう(「周囲がだんだん暗くなってきて、ヴィデオ・カメラのオート・フォーカスの機能が低下したために、自動的にそうなった」と後で山道氏が教えてくれた)。音もまた輪郭をにじませ、水っぽくふやけた響きが半透膜の向こうから滲み込んでくる。子どもの声も、蝉の鳴き声も、足踏みオルガンのたそがれた響きも、ホルンのなだらかな息遣いも、ちりちりとしたノイズさえ、みんなはるか遠く、丘の向こうから聞こえてくるように感じられる。薄暮の中にとけていくうすいうすいひろがり。
時にはかなりの音量/厚みに達しながら、サウンドの希薄な手触りを失うことのなかった演奏は素晴らしいものだった。サウンド・ループの重ね合わせは、こうした場合の常套手段だろうが、それをはみ出したやりとりも随所に見られた。物語的な展開に寄りかからないだけでなく、耳/肌触りのよい音風景を編み上げることへも向かわなかった背景には、その場で収録した環境音を伴うヴィデオの上映というクレヴァーな確信犯的手法が、功を奏しているように思われる。一方に機械的な乾いた反復と言うべき、少しも物語的でない眺めが常にあることによって、音は心象風景的な縛りからあらかじめ開放されていたと言っていいだろう。しかも、その映像はカメラのオート・フォーカス機能の「エラー」による予期せぬ(人間のコントロールの外にある)変調/変形を含むことによって、まさにそれがヴィデオ・カメラという一つの機械による非中枢的な知覚であることを証し立てているのだ。
2.mori-shige&Marcos Fernandes DUO
中央の椅子に腰を降ろした mori-shigeがチェロを身体に当てたまま、軽く頭を垂れ、両手を開いて、これから訪れる音の流れに身を浸そうとする。 Marcos Fernandesは前回同様、苦しげに長身を折り曲げて、ノートPCのモニタに顔をすりつけている。虫の声、せせらぎ、水の滴り、枝を踏み折る足の運び‥。mori-shigeはおもむろに弓の両端を両手で握り、チェロの弦に水平に押し当て、わずかに滑らせる。その姿はまるで拡散しながら辺りを押し包む環境音に対し、結界を張っているように見えた。そのように固く結ばれていた身体動作がほぐれ、より伸びやかな動きへとほどけていくうちに、再生されるサウンド・ファイル(録音された環境音)と楽器がいま/ここで生み出す音の実体感の違いが目立ちはじめる。駒のすぐそばを弓で弾き、ごりごりとしたノイズと不可思議な倍音を引き出したり、指板上で「さわり」をはらませて、まるで口琴のように「びわ~ん」とループ状に響かせたり、あるいは指板をこすり、弦をひっかいたり‥と、mori-shigeは音をかるくもろくこわれやすいものとして、実体感を希薄化し、環境音と相互に浸透しよう、少なくとも共にあろうとするのだが、それでもチェロの音は、たとえどんなにかぼそくとも、「物音」をその背後に隠してしまう(むろんこれは聴き手の生理の問題かもしれないのだが)。
反対に環境音の側が音量や音像のサイズを大きくしてみても(祭りの練習風景だろうか、太鼓の音や子どもの掛け声が聞こえる)、今度は音景色内部のサウンドの結びつきの強さが災いし、やはりチェロのたてる「物音」はその内部へと浸透することができない。今度はむしろファウンド・サウンドの方が、平面的な分だけ、サウンドの輪郭が鮮明に感じられる。
韓国に古くから伝わるパンソリの発声の練習法として、滝に向かって声を通すというのがある(確か韓国映画「西便制(ソピョンジェ)」に出てきた)。滝は水の粒子の集まりであり、必ず隙間があるから、そこに声を通すという理屈なのだが、再び現れたせせらぎの音に対し、mori-shigeはことさらにのっぺらぼうなボウイングで返し、あるいは弦を強く引き絞って密度と緊張を高めた剛直な音色で応じるが、やはり「音を通す」ことができない。野外や野外の音が入り込んでくる空間での演奏(自然音との共演)とは、やはり勝手が違うのだろう、私にはチェロがもどかしさに身をくねらせているように見えた。
環境音が列車の振動(にディレイをかけて変調したもの)や踏切の警報機などパルス系へと移行し、チェロのアルコがそうした刻みに惑わされることなく、その上を滑るように奏でられた時、ようやくデュオはひとつの噛合いを得たように思われた。それ以降のmori-shigeは、それまでに比べ、はるかに自由闊達に弾きまくった。たぶんそれ以前の時間帯は、いつもと違う筋肉をかなり使ったことだろう(その点でそれは単なる探りあいや逡巡では決してなかった)。母親と子どもらしき声のやりとりに、指板を指先ではたいてマイクロフォンに物がぶつかるような音をぶつけ、海鳥の鳴き声にはかきむしるような弦のピツィカートが応える。そして最後、次第に音が小さくなっていく水の滴りを見送ったのは、音になるかならぬかぎりぎりのところに不安定に浮かんでいる、弓弾きによるフラジオ音だった。
もともと環境音/ファウンド・サウンドの側が自体の変化に即応しにくいことから、イマジナリーな物語展開や心地よい音風景の編み上げ、あるいは空間と提示と演奏の単なる併置に終わりやすい、リスキーな試みと言えるが、両者がそれぞれ放つ音のもともとの手触りの違いを見詰め、そこに横たわる断層/アポリアから決して眼をそらさなかったことが、演奏をスリリングな、しかも実のある挑戦としていたことを評価したい。
企画/演奏の充実に比べ、聴衆の少なさは残念だし、とてももったいなく感じた。今後も「Possible Spaces 可能空間」のシリーズは継続されるようなので、心ある聴き手にはぜひ体験してもらいたいと願わずにはいられない。
2010年11月4日(木) 19:30~
渋谷アップリンク・ファクトリー
【出演】
Marcos Fernandes http://www.marcosfernandes.com/
mori-shige http://www.mori-shige.com/
Montage(ヤマミチアキラ) http://www.myspace.com/montage_
細海魚(Maju/Neina) http://www.myspace.com/sakanahosomi
Aen(鈴木康文/Commune Disc) http://www.myspace.com/communedisc

2010-11-02 Tue
「アンビエント・リサーチ」第3回に参加の多田雅範さんが、さっそくリポートを書いてくれている(http://www.enpitu.ne.jp/usr/7590/diary.html)。オブスキュア・レーベルの思い出から語り起こし、浅草蛇骨湯の電気風呂で締めるという粋な流れのうちに、会場となったマイタワークラブの「アジール」的な場のあり方、再生されたサウンドの気配、そそり立つスカイツリーの放つ「キーン」とした崇高さ(それこそはディストピアに通じるものだろう)を活写するという、誰にも真似のできない名人芸に恐れ入ってしまう。「なるほど、大将は『アンビエント・リサーチてぇ湯に浸かってみたが‥』と言いてぇんですね」と思わず江戸弁で相槌を打ってしまう私だ。K馬君もお父さんの芸の幅広さを見習うように。未来派なんぞで世界がわかると思ったら大間違いだ。1909年2月20日付フィガロ紙にマリネッティが発表した「未来派宣言」が森鴎外によってすぐさま翻訳され、同年5月「スバル」誌の連載「椋鳥通信」に掲載されたことは知っておるかな。当時すでに、西欧アヴァンギャルドの動向は、さほどの時差なく日本に紹介され、それに同期する様々な活動を生んでいたのだ。詳しくは「耳の枠はずし」第4回「清水俊彦を聴く」のリポートを参照してねー。
懐かしいぞObscure。
Island盤LPで集めたのですが、
最後の10番Harold Buddだけ未入手。

2010-11-01 Mon
天候が不安定ななか、「アンビエント・リサーチ」第3回ご来場ありがとうございました。最初のうち電源が落ちまくったり、終盤は冷え込んだりといろいろありましたが、皆様のおかげで何とか無事終えることができました。どうもありがとうございました。倒産した会社の事務所みたいながらんとしたスペース、ほのかな明かり、電車の通る音、遠くで聞こえる子どもの声、ポルター・ガイスト現象としか思えない激しい物音(実は金子さんのかけたカセット作品の音ですが)‥と、「超常現象研究会」みたいなシチュエーションでの開催でしたが、個人的には場所の不思議さを充分味わうことができました。マイタワークラブのスタッフである森様のご協力にも感謝いたします。どうもありがとうございました。
冊子に掲載した講師3人の論考はいずれも力作ぞろいで、短い時間でそれをさらに深める議論は難しかったですが、少しばかり広げることはできたかと思います。今回ご参加いただいて、あるいはテクストをお読みになってのご感想・ご質問など、お寄せいただければありがたいです。
本当にどうもありがとうございました。
今日も話題となったタルコフスキー版「ソラリス」
