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福島恵一

Author:福島恵一
プログレを振り出しにフリー・ミュージック、現代音楽、トラッド、古楽、民族音楽など辺境を探求。「アヴァン・ミュージック・ガイド」、「プログレのパースペクティヴ」、「200CDプログレッシヴ・ロック」、「捧げる-灰野敬二の世界」等に執筆。2010年3~6月に音盤レクチャー「耳の枠はずし」(5回)を開催。2014年11月から津田貴司、歸山幸輔とリスニング・イヴェント『松籟夜話』を開催中。

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「アンビエント・リサーチ」冊子販売のお知らせ
 虹釜太郎さんと金子智太郎さんのお二人が主催されているレクチャー・イヴェント「アンビエント・リサーチ」は、毎回、参加者に充実した冊子資料をお渡しするのが、大きな特徴になっています。これまで会場参加者しか入手できなかった冊子が、このたび販売されることになりました。私は1・2回目と連続して参加し、3回目は何とゲストを務めさせていただきましたが、この冊子はすごく価値あるものだと思います。読み応えもあるし。アンビエント・ミュージックとか音楽に関心のある方だけでなく、アートと社会、あるいは人間と環境の関係等について、無意識に前提とされてしまいがちな人間(主体)中心主義の枠を批判的にとらえつつ考えてみたい方に、ぜひおすすめします。

 販売は金子智太郎さんのブログ(http://d.hatena.ne.jp/tomotarokaneko/)で行っています。以下の説明は、そこから抜粋・転載したものです。



 2010年に3回開催したアンビエント・リサーチの冊子をすべて販売します。会場で配布したものを若干修正したバージョンです。

 Ambient Research とは..
 誰でも参加できるアンビエント・ミュージックについての連続研究会型イベント。毎回テーマを定め、アンビエント・ ミュージックを聴くときに参考になる国内外の参考図書、資料等を見ながら、音源を聴いていく。


「Ambient Research vol.1」
 28頁
金子智太郎「アンビエントの想像力を支えるシステム」
デヴィッド・トゥープ「人間は本当に必要か:サウンド・アート、オートマタ、音響彫刻」[要約]
「人間は本当に必要か」ブックガイド
虹釡太郎「なぜアンビエントを聞くのか(連載第1回)」

「Ambient Research vol.2」
 23頁
金子智太郎「聴覚的パノプティコン:フランシスコ・ロペスの「絶対具体音楽」」
フランシスコ・ロペス「エンバイラメンタル・サウンド・マター」
虹釡太郎「なぜアンビエントを聞くのか(連載第2回)」

「Ambient Research vol.3」
 42頁
金子智太郎「四つのディストピア:『風の谷のナウシカ』とディストピア文化史ノート」
金子智太郎「植物としてのカセット:ドメイン・ポエティーク試論」
福島恵一「ディストピア・アンビエント論のためのノート:「空間」への転回」
虹釡太郎「ディストピアアンビエント」


 「vol.1, 2」のPDFファイルは600円、コピー冊子は900円です。「vol.3」のみPDFファイルが800円、コピー冊子1100円になります。
 購入希望の方は金子智太郎(tomotarokaneko@gmail.com)までメールでご連絡下さい。件名を「Ambient Research」として、本文に[氏名(フルネーム)]、[形式(PDFまたはコピー冊子)]、コピー冊子を希望の方は[購入冊数]、[住所]を記載してください。支払い方法を記載したメールを返信します。お送り戴いた情報は本冊子販売以外の目的には使いません。お問い合わせも金子まで。
 これまでのアンビエント・リサーチにご予約いただき、来場の際に冊子をお渡しした方には、その回のPDFファイルを無料でお送りします。お手数ですが金子までメールにてご連絡ください。



「Ambient Research vol.1」から    「Ambient Research vol.2」から

        


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音楽情報 | 00:45:42 | トラックバック(0) | コメント(0)
「TOHUBOHU」と「雑誌」的な場
1.音楽と言葉 
 「あまりにもね、場当たり的に創作する人が多いような気がしたんですよ、昨今。自分の頭の中にある作り上げたイメージがあるんじゃなくて、なんとなくパラメータをいじっていれば良くなってきた。で、そっちに自分をすりよせていくんだな。それはそれで楽しみがあるんだけれども、やっぱり自分の中で、ある作り上げたい音楽的なビジョンというのをまずイメージとして熟成させるってことが大事だと思ってて。」と岸野雄一は柳川真法(アメフォン)に講義を依頼した理由の説明を始める。二人による「TOHUBOHU」巻頭対談の冒頭部分のことだ。最初に決まったイメージを持たずに始め、プロセスの中で何かが生まれてくるのは素晴らしい快感だ。だが思うほどにはうまく行かない。何回か繰り返すうちに、すぐにパターンにはまる。何も考えずに「自由に」動かしているはずの指が、きゅうくつな枠組みを逃れられない。知らず知らずのうちにビギナーズ・ラックの記憶をたどっている。意識はゆるやかに漂うようでいて、堂々巡りの繰り返しのうちに囚われている。それは「投影」と「構成」による「ギヴ・アンド・テイク」が効果的なサイクルを形成することができず、つまりは「内面」の外へ出ることができず、まるで心室細動を起こしたように、ただぴくぴくと痙攣しているからだ。あらかじめ作り上げた明確なイメージや考え抜かれた言葉によって、この忌まわしき循環を断ち切る必要がある。

 「この冊子はNPO法人映画美学校で2009年10月に開講された音楽美学講座クリティック&ヒストリーコース高等科の受講生によって制作されました。(中略)1年にわたる講義では、音楽を言葉で考えること、音楽を言葉で輝かせること、異なる音楽同士を言葉でつなぐこと、音楽の聴き方を言葉で変えること、音楽のまわりにコミュニケーションを組織すること、などの実践が試みられました。」と「はじめに」の中で、彼/彼女たちは「TOHUBOHU」の成立について説明する。「音楽批評」の似姿をつくりあげるために、音楽をテーマに幾らでも文字を並べられることを目指すのではなく(某批評ミニコミ誌を読んだ際に、「どんなテーマでも10ページ書くスキルがあります」と口々に訴えられているような印象を覚えた)、目的を持ち、一定の効果を目指して言葉を用いること。

 「TOHUBOHU」の目次構成は次の通り。
岸野雄一×柳川真法(Amephone) 対談
中条護『(民族音楽に言及しない神話学者の)都市と星-スプートニクの愛人』
佐藤暢樹『日々の泡』
クリティック高等課座談会 『音楽に癒される?』
服部レコンキス太『ヒルデガルト・フォン・ビンゲン ある女性と音楽』
虹釜太郎特別寄稿 『ソノヴァック』
西山恵美『食べ合わせイラスト』
佐伯一彦『本当のことはとうとうわからなかった』(「アフロディズニー2」書評)
原雅明インタビュー
佐伯一彦『センチメンタルジャーニー歌詞分析』


2.「雑誌」的なもののありか

 実際に読み進めてみると、いささかとりとめのなさを感じる。ゆるやかにたゆたい浮き沈みする言葉の群れ。だが、それは決して岸野の言う「場当たり的」の結果ではなく、彼/彼女たちのねらいにほかなるまい。
 特集テーマを掲げず、柱となるべき実績ある書き手たちの対談やインタヴュー、寄稿に他の論考を寄り添わせず、一定の距離を保ち、隙間を空けて配置された言葉。急に興奮して何かに向かって走り出したり、熱狂的に信仰を吐露したりすることのない語り口。それは「癒し」をテーマとしながら、そこに浸りこむことなく、ことさらにゆるさを保ちながら、かと言って仲間内の雑談に堕すことなく、最後にいささか自虐的な仕掛けを設けた座談会をはじめ、本誌の至るところに見てとれる。
 「回答」に駆け寄るのではなく、むしろそれに至るプロセスを、小さな気づきや発見の連なりとして見せていくような。読み手の興味関心を、自分の興味関心だけに一方的に惹きつけるのではなく、代わりに順路図(「地図」の一望性は注意深く避けられている)を渡して、自由に散策してもらうような。
 彼/彼女たちは決して従来の「音楽雑誌」の似姿を求めてはいない。しかし、「雑誌」的な場、言葉が異なる音楽同士を、異なる耳の間を結び、音楽のまわりにコミュニケーション(それはすれ違いや、後からふと気づくというような微妙なものを含んでいる)をかたちづくるような空間を大事にしているのは間違いないだろう。


3.結び合わされる風景

 そうした彼/彼女たちの特質がよく出ていて、虹釜による特別寄稿『ソノヴァック』を除けば私自身最も興味深く読んだのが、『ヒルデガルト・フォン・ビンゲン ある女性と音楽』である。なので、この論考については少し詳しく見ていくとしよう。

 本稿の特徴として、記録映画のナレーションを思わせる、文体の一貫して落ち着いた声音を挙げることができるだろう。ヒルデガルトの歩みを、その時代背景を、彼女の音楽の特質を、そこから連想される主に現代の作曲家とその作曲作品を語りながら、その声音は少しも調子を変えることがない。「地」と「図」の違いを際立たせることもなく、つねに適切な距離を保ちながら、一定の速度で歩み続け、どこにも行き着くことがない。服部はヒルデガルトの音楽を彼女の人生にも、時代背景にも、あるいはその幻視者としての能力や宗教性にも還元しようとしないし、また、その帰結/完成を現代の作品に求めて、彼女を始祖として崇めたてることもしない。自ら設立した修道院の生活、権力者との駆け引き、メシアンやスクリャービン、宗教音楽と音楽劇、グバイドゥーリナやシュニトケ、ペルト、教会音楽と世俗音楽の交錯、チェルノヴィン、多重構造による空間、サティやフェルドマン‥‥優美なカードのようにゆるやかに繰り出されるそれぞれの風景は、決して論旨を積み重ねることなく、物語的な連想の線に頼ることなく、色合いや匂い、味わいや肌触りの類似を手がかりに並べられ、互いの響きあい/映しあいを通じてホログラムのように淡く彼女の姿を浮かび上がらせる。

 「彼女の音楽で印象的なのは、ドローンとリリースの長い楽器群および声がレイヤーされた、独特の音響効果である」というように、音楽史的な用語ではなく、録音や編集を当然の前提とした現代の用語を用いて、耳元に届く音を対象化したのも適切な方法だったろう。それゆえにこそ、次のような微妙な色合いをとらえた「共感覚」的な描写分析が、神秘化・内面化に落ち込むことなく、説得力を持ちうるのである。「合唱されるパターンが教会特有の深い残響で色付けされる。複数の声で歌われる旋律は、個々の声質の差で微細に揺らめく。(中略)フレーズごとの休符では残響が淡く変化し、高揚する箇所ではフレーズごとの休符がつめられ、旋律は万華鏡のように変化していく。ドローンの微細な動きと旋律の変化が干渉して混ざりあい、色彩的な変化に深みを増している。」
 いま「共感覚」と書いたが、それはヒルデガルトの中に起こっていることであって、服部が「共感覚」の持ち主であることを必ずしも意味しない(もちろん別にそうであっても一向に構わないのだが)。音を思考の対象とする場合、中立・客観的な描写がまずあって、次に分析が発動するといった手順にはならない。常に分析を含んだ(先取りした)描写にしかなりえないのだ。その時に聴覚の描写に視覚をはじめ、他の感覚の次元を持ち込むことは非常に有用である。本稿における服部の描写分析は、耳の〈視線〉や皮膚の〈味覚〉を十二分に駆使したものとなっている。そうした描写分析の感覚的強度が、ここでの一見坦々とした叙述を支え、「複数の耳を結ぶ」力の源となっていることを評価したい。
 フェルドマンの音世界に対して、彼は一方に、静謐な弱音がゆったりと広がり(マクロな空間)、永遠に続くかのような緩やかな時間の流れを聴きとり、もう一方で顕微鏡的に拡大された(ミクロな空間)音の刻々と変化する運動の細かく複雑な運動がもたらす速い時間の流れをとらえるが、この対比はそれだけで取り出されることなく、ヒルデガルトの音の世界に、あるいは他の言及された作曲家たちの作曲作品の時空間に響いていくことによって、遥かに豊かなイメージ/感覚の広がりを生んでいる。

 あえて注文をつけるとすれば、最後の部分でこれまでの豊かな響きあいを、「多面性」、「過渡期ならではの葛藤」という概念に落とし込んで結論付けてしまうのは、いささかもったいない気がする。もちろん、いつか曲/演奏は終わりを迎えるのであり、いつまでも響きの交錯と時間/空間の混交のうちに浸っているわけにはいかないのだが。


4.終わりに

 もともと「卒業文集」的な性格を持っているわけで、当然拙さは残る。しかし、そうした減点法では評価できない特質が、この「TOHUBOHU」には確かに手触れるように思う。ぜひ多くの方に読んでいただきたい。以下の店舗で入手可能とのこと。なお、TOHUBOHUとはラテン語由来の英語で、混沌と空虚、無と無秩序等を表すとのこと。旧約聖書にも言及があるらしい。やはり最初から「雑誌」的な場が目指されていたのだろうか。ぜひ、その初志を継続してもらいたい。
 なお、本誌収録の虹釜太郎『ソノヴァック』(素晴らしい)については、後日、稿を改めて採りあげることとしたい。


「TOHUBOHU」取り扱い店舗一覧
中野 タコシェ(http://ht.ly/1aqCMl)
下高井戸 トラスムンド
吉祥寺 バサラブックス(http://basarabook.blog.shinobi.jp/)
西新宿 ロスアプソン(http://www.losapson.net/)
    LOS APSON? Online Shop(http://losapson.shop-pro.jp/?pid=25565081)
新宿 模索舎(http://www.mosakusha.com/voice_of_the_staff/)



「TOHUBOHU」
A5版150p 700円



書評/書籍情報 | 02:41:43 | トラックバック(0) | コメント(0)
RATIO special issue「思想としての音楽」
 ようやく読みました。どこかに書評は出てるのかな。私の感想を正直に記せば「思った以上のヴォリュームだが、読み通して新たな発見はなかった」というところだろうか。ただ、音楽を巡る最近の思考の、ある種特徴的な部分が出ていると思うので、その辺を中心に論じてみたい。なので、全体を正面から受け止めたレヴューとはなりえません(もとよりそれは私の能力を大きく超えている)。あしからず。

1.全体構成

 まず、400ページ弱の厚さを誇る本誌のラインナップは次の通り。最初と最後を飾るA・Cが対談で、中央に位置づけられたBが座談会。これらすべてに責任編集の片山杜秀が参加している。その他はすべて論考(①~⑪)でグラフィック系のページはない。論考を幾つかにグループ分けすれば、まず⑦⑧を座談会の補足として位置づけることができるだろう。「東」と「西」、そして間をつなぐオスマン~トルコという形で。座談会に先立つ⑤⑥もむしろ「西」の音を考察する上で不可欠な視点として、ここに置かれた感が強い。これらがまず1グループ。
 次いで⑨~⑪をレコード(録音)が開く空間を取り扱ったものとしてグループ化することができるだろう。この流れは実際にはコンサート体験を語っているにもかかわらず、レコード演奏評ように読めるCへとつながっていく。
これに先立つ論考は、巻頭対談のロック軽視へのエクスキューズのように見える①を別として(アファナシェフの参加自体が、日本人だけで「東と西」を「思想として」論じることへのエクスキューズなのかもしれない)、残りの3編(②~④)を、それぞれ「構造」、「システム」、「行為」の3つの視点からとらえた音楽論と位置づけることができるだろう。
 なかなか壮大な3部構成だが、本書の特徴として、執筆者にいわゆる「音楽ライター」が少ないことが挙げられる。そう呼べるのは対談に参加している特別扱いの3人、片山、菊地、許ぐらいで、残りのほとんどは音楽学の研究者たちである(レーベルを運営する沼田は貴重な例外と言えるだろう)。そうした点では「○○スタディーズ」的な論文集を思わせるが、本誌はあくまでも「雑誌」として発行されていることに注意しておこう。

A 菊地成孔vs.片山杜秀 ポップと退屈―退行の時代の批評
① V・アファナシェフ The Body―プログレッシヴ・ロックをめぐる哲学的省察
② 大和田俊之 反復と制御―ポピュラー音楽における<黒さ>について
③ 田村和紀夫 音楽はシステムである Music is system
④ 沼田順 即興音楽とは何か-インプロヴィゼーションの現在
⑤ 阪上正巳 狂気と音楽
⑥ 稲垣良典 神と音楽
B [誌上シンポジウム]「いい音」は普遍か?─近代西洋音楽の外側から
⑦ カルロ・フォルリヴェジ 「東」の音と「西」の音を合わせることは可能か? 
                 -西洋と日本の音楽的「習合」のための試論
⑧ 斎藤完 近現代における”かの地”の音楽-オスマン帝国、そしてトルコ共和国
⑨ 谷口文和 レコード音楽がもたらす空間-音のメディア表現論
⑩ 渡邊未帆 カットアップの快楽-大里俊晴音楽論にかえて
⑪ 輪島裕介 《東京行進曲》《こんにちは赤ちゃん》《アカシアの雨がやむとき》
         -日本レコード歌謡言説史序説
C 許光俊vs.片山杜秀 最高の演奏を求めて

 とりあえず、全体の「見取り図」を描いたところで内容に入ろう。とはいえ、全ての論考に言及する余裕はない(冒頭に述べたように、その能力もない)。幾つかの論考を採りあげながら、全体に関わる特徴的な点を指摘しつつ見ていくこととしよう。

2.「反復と制御-ポピュラー音楽における〈黒さ〉について」

 まずは②「反復と制御-ポピュラー音楽における〈黒さ〉について」。この論考を採りあげる理由は、最近の批評に共通する特徴を備えているように思われるからである。まず、ロジックの流れをざっと追ってみたい。
2008年のヒップホップ・シーンから、リル・ウェインのシングル「ア・ミリ」が採りあげられる。その理由を大和田は次のように説明する。「よく聴くとかなり変わっているにもかかわらず、この曲が爆発的に売れたことが問題なのだ」と。次いで、その「変わっている」点が、「これはもはや〈音楽〉と呼べないのではないか」というほどの極端なシンプルさ-メロディとハーモニーを欠き、リリックすら内容に乏しい-にあるとして、そこから〈(ビートの)反復〉を21世紀黒人音楽の主たる要素として取り出す。続いて黒人音楽史を溯り、ブルースの12小節AABとティンパン・アレーの32小節AABAを対比させ、〈反復構造〉による黒人音楽と〈物語構造〉による白人音楽の対へと類型化し、ジェームズ・ブラウンらによるファンクとジミ・ヘンドリックスらによるロック、さらにはヒップホップとパンク・ロックを、この対の変奏と位置づける。
 大和田はさらに「黒人音楽にはもうひとつ重要な特徴がある」として、〈反復〉と密接に関わる〈身体の制御〉=ボディ・コントロールを挙げ、これを黒人男性の支配的価値観である「クールさ」と結びつけながら、「グルーヴに身を任せる自分」と「グルーヴに身を任せる自分を見つめる自分」の均衡という「二重意識」(アメリカ人でありニグロである)の効果ととらえ、これをパノプティコン=一望監視施設を巡るミシェル・フーコーの議論(「監獄の誕生」)に接続する。そして、黒人音楽の浮上と監視社会の進行が時期的に符合していると指摘し、「先進国を中心に『監視社会』化が進行する過程で私たちが『二重意識』を内面化したとき、黒人音楽は「黒人の音楽」であることはるかに越えて普遍性を獲得したのだ」とし、「私たちは『黒人』化する社会に生きている」と結論付けてみせる。

 この論考を特徴的と私が考えるのは、最近の批評に共通する次のような特質(私はそれらを欠点と評価している)を、本稿がわかりやすく備えていることによる。
(1)身近なところに極端な(もはや音楽と呼べない)ものを見出し、しかし、それが「売れている」ことを分析の対象として採りあげる契機としていること。
(2)(1)の分析から採りだした類型を、その極端さを成り立たせる「原理」ととらえ、それが最終的に現代社会に大きな影響を投げかけているとする「原論志向」。
(3)描写分析が少なく、細部への注目を排して概念操作に重きを置く点。これは比較参照を排した論理展開の単線化とともに、「原論志向」の副産物と考えられる。
(4)政治的視点の意識的排除が、意識しない政治性を呼び込んでいる点。

 順に見ていくとしよう。まず(1)は「ア・ミリ」を特権的なサンプルにして、時代(社会の趨勢)を象徴するものとして採りあげる手つきのみならず、これに先立って語られる「個人的な話」により、LPレコードの針飛びの聴取体験が、〈反復〉の原体験として位置づけられる点にも及んでいる。この「極端さ」が、にもかかわらず「売れている」ことで、そこに重要な原理が潜んでいるという思考回路は、極めて「社会学的」、あるいはマーケティング・リサーチ的なものだと言えよう。以降、大和田はむしろ美学的にロジックを転回するにもかかわらず、マイケル・ジャクソンが「キング・オブ・ソウル」ではなく「キングオブ・ポップ」と呼ばれていることに注意を促すなど、最後まで「売れている」ことに根拠を求める姿勢を崩そうとしない。そして「売れている」からこそ、それは現代社会に大きな影響を及ぼし得るとして、この点は彼の「原論志向」の(おそらくは唯一の)支えとなっている。
 描写分析が少ないのは、最近の「批評」の大きな特徴である。細部に魅力のありかを求めることをせず、新たなジャンルの誕生の必然性(「現代社会がそれを求めたのだ」)だけで押していく論の運びが、その結果もたらされる。筆者は対象作品の魅力を直接語ることなく、注目すべき社会現象(だから「売れている」と「極端さ」は重要だ)を、それを引き起こした原理から説明していくという「評論家」的=ニュース解説者的姿勢がそこにはある。「何でこのような事件が起こってしまうのでしょうか」というキャスターの問いかけに応え、お茶の間に向けわかりやすく説明するコメンテイターの役割。こうして見ていくと、「原論志向」が執筆者側の動機だけによるものではなく、社会的需要、さらに言えば消費のモードに基づくものであることがわかる。「原論」により手っ取り早く問題を片付け、さっさと消費してしまいたいのだ。もともと批評とは、そのような思考停止への抵抗としてあったのではなかったか。
 この時、論理の展開は、ただただスタートとゴールを結ぶ単線的なものとなりやすい。それがエコノミーというものであり、消費という「カタルシス」を求めるものの特質であるだろう。幾つか具体的に指摘すれば、「二重意識」はマイナーな存在全般に見られる。たとえばティンパン・アレーの屋台骨を担ったユダヤ人にも。あるいはゲイ・ピープルにも、文化先進地域から里帰りしたエリートにも。これをアメリカ黒人に特有の意識というのはいささか無理がある。次いで、この「二重意識」をパノプティコンと結びつけるならば、これは「不在の視線の内面化」として近代的主体全般に当てはまってしまうことになる。ここで浅田彰「構造と力」に描かれた「ふたつの教室」の話が即座に思い浮かんだと白状すれば、年齢がばれてしまうな。
 さらに付言するならば、そうした「内面化」が通用しなくなって(動物化?)、校門に金属探知機を設置するとかって話にまで世の中進んでるわけで、今さら「内面化」を2008年のシングルから説き起こして2010年に宣言している場合ではないだろう。おそらく大和田はそんなことは百も承知で「私たちは『黒人』化する社会に生きている」と結論付けてみせたのではないか。とすれば、これこそは政治的な選択にほかなるまい。論中で〈反復〉に「大量生産のメタファー」を見るのも、「システムへの抵抗」を見るのも、おなじように「安易」であり、結局は己の見たいものを見るという形で、自らの政治性を明らかにしているだけだと、彼自身そうした立場を退けているにもかかわらず。

3.「思想として」とは何か

 ②ほど特徴的・典型的ではないにせよ、ほとんどの論考に同様の「原論志向」と細部への注目=描写分析を排した概念操作の弊害が見られる。③はわざわざストーンヘンジまで時間を溯りながら「ドレミは移動可能なシステムである」で終わってしまうし、④は言葉で伝えにくいものを何とか伝えようという執筆者の思いは痛いほど伝わってくるのだが、その思いとは裏腹にやはり概念操作に終始してしまう。冒頭から「言語化しえないものを語る」と課題提起してしまっては、筆が重くなるのもいたしかたないだろう。
 ⑤の坂上正巳については、彼の著書「精神の病と音楽」(廣済堂出版)を以前に読み、とても興味深く思っていたので(冒頭の誰もいない暗い部屋に急に流れ出したウェーベルンを「暗闇の中の植物の営み」へと結び付けるイメージの流れは鮮やかだ。たとえウェーベルンがゲーテの「原植物」を参照していたという史実が連想の下敷きになっているとはいえ)、今回の論の乱暴な運びは残念だ。狂気と音楽を巡るエピソード的記述に飽き足らず、精神病理学的視点として「緊張病性エレメント」(内海健の著作はぜひ各自で読まれたし)を導入するのはよいとして、そこからの展開が坂上自身も文中で再三述べているように、ここで取り扱う「狂気」が通常の意味の狂気とかけ離れたものになってしまうというのは問題だろう。ただし、「何と音楽的な表現であろうか」という賛辞とともに引用されるのが中上健次「枯木灘」の一節で、つるはしをふるう主人公秋幸が、彼を取り巻く自然にまみれ、浸透されていく場面であるのは興味深い。蓮實重彦による「彼は自然に対しては、全身でそれにまみれてしまう」という指摘に導かれて、私もミッシェル・ドネダ論に同様の場面(別の箇所ではあるのだが)を引用したことがあるからだ。身体のアクションを通じて(ここがポイント)、環境が身体へと浸透してくる経験は、音楽/演奏にとって非常に重要だが、それをあえて「狂気」の名の下に語らなければならない理由はない。
 今回の特集のテーマとして掲げられている「思想としての音楽」の、「思想として」という〈枕詞〉がこのような思考の硬直を招いているのだろうか。すなわち〈思想〉=〈哲学〉=〈概念の操作による思考〉という枠組みの強制である。創刊以来「RATIO」が目指してきたという「根本から問い直す」ことを音楽に適用した成果が、この「思想としての音楽」だとすれば、これはやはり違うのではないだろうか。
 「思想としての音楽」が本来目指すべきは、音楽を巡る思考に幾つもの補助線を引いて、音楽を従来の思考の枠組みから解き放つことだろう。それは単に音楽や音との合一化体験に言葉を捧げることではもちろんない。むしろ、思考によって「聴くこと」を深め、深められた「聴くこと」によって露わにされた新たな光景を、また新たな思考によって読み解くという、「聴くこと」と思考の二人三脚的な歩みである。それは顕微鏡の倍率を上げていくにつれ、あるいは地表からの高度を高めていくにつれ、光景が段階的に移り変わっていく様に似ている。

4.「雑誌」的な場

 補助線を引き、外部に参照項を設け、思考を外へと開きながら「聴くこと」を深める。音や音楽を巡る世界が、こんなにも混沌と多様化し、広大に、また荒涼として広がっている現在、そうした取り組みを一人の執筆者が一つの論考(あるいは著作)の中で行うことは難しいに決まっている。本来なら、全体の見取り図を提示したり、まとめをしたりして、中身へのアクセスを容易にするはずの巻頭・巻末の対談が、ほとんどその機能を果たせていないのも、こうした現状をそのまま表したものと言えるだろう(それこそが「見取り図」なのだ‥という逆説的言い方もできなくはないが)。
 そのためにはまず、これらの論考がそれぞれに読者を触発し、さらには論考同士が互いに関連/触発しあって、更なる「聴くこと」へ、あるいは音楽を巡る思考へと誘うことが求められる。今回のRATIO「思想としての音楽」を読んで、音を音楽を改めて聴きたくなったかと言えば、私はならなかった。むしろ、ある種の結論めいた言葉(「聴くこと」をそして音楽を巡る思考を終わらせるための)を求めている読者は、望みのものを何か得られたかもしれないが。「僕たち『黒人』化する社会に生きてるんだってさー。知ってたー?」 みたいな。
 もうひとつ求められるのは、そうした「回答」を求める読者に対して、行き止まりの「回答」ではなく、次の部屋への扉を用意することだろう。「雑誌」とはもともとそういう場ではなかったか。検索エンジンが求めているものしか探せないのに対して、求めてはいなかった、知りもしなかった、思わぬものに遭遇してしまうきっかけを与える場。隣接性による創造的誤配。今回、巻頭対談の中で、「食えるもの、甘いものしか盛られていない皿」が現在の情報メディア環境のイメージとして提出されるが、求められているのは、〈面白い/面白くない〉の混在だけでなく、〈求めている/求めていない〉の混在であるだろう。こう書いていて思い出すのは、かつての「ユリイカ」臨時増刊「総特集 ワールド・ミュージック」で大里俊晴が書いたゲダリア・タザルテスの紹介文である。大里自身が後から「思いっきり他の論稿から浮いていた」と振り返るこの文章は、大里俊晴著作集「マイナー音楽のために」(月曜社)に収録されているので、ぜひ読んでみていただきたい。初出時、わずか見開き2ページのこの文章に、思わず惹きつけられた読者は多かったのではないだろうか。必ずしも肯定的評価ではなく、ここに私の知らない何か異質なものがあるという「異物感」の刻み込みであったにしても。当時パリ・ペキン・レコーズを開いていた虹釜太郎は、この紹介文に感激し、大量にコピーして配りまくったという。私はといえば、ゲダリア・タザルテスの名前は聞いていて、盤も確か1枚所有していたものの、そのあまりに怪しげな空気にいささか敬遠していたところで、この記事を見てあわてて聴き返し、重要なミュージシャンとして深く認識しなおした覚えがある。こうした得体の知れない別世界(それは必ずしも遥か遠くではなく、ほんの隣に開けているのだが)へ通じる扉に出くわすことが(たとえ扉を開けて中に入らずとも)、人生には絶対に必要だ。本誌が「雑誌」として編集されながら、そうした扉を持ち得なかったことは致命的な欠陥と言えよう。これはもしかすると(日本の)音楽学の問題なのかもしれないのだが






書評/書籍情報 | 21:59:54 | トラックバック(0) | コメント(0)
Captain Beefheart died/牛心隊長死す
 キャプテン・ビーフハート(=ドン・ヴァン・ヴリート)が、12月17日に多発性硬化症の合併症のため、69歳で亡くなった。私は時々のぞいているBrian Olewnickのブログ「Just Outside」(http://olewnick.blogspot.com/)の記事で知った。今回掲載の彼の写真も同ブログから転載したもの。
 初めて聴いたビーフハートの作品が「美は乱調にあり」だから、古くからの聴き手ではない。だが、ビーフハートの声と背後のアンサンブルからまざまざとたちのぼる手触りと匂いに、(音楽における)「生(raw)」なものの力を知らされたように思う。その「生」ということは、また「野生」とか「プリミティヴ」というところにもつながっている。もともと彫刻を手がけていたという彼のドローイング、たとえば「美は乱調にあり」のジャケットを飾る作品は、大ぶりのナタで叩き割ったような、きっぱりとした力に溢れており、現れた形象は簡素でありながら、いまだそれぞれの線を突き動かしてやまない軋轢の中に置かれている。ZNRのファーストのジャケットもまた彼の作品だ。そのことに触れた拙稿(Locus Solusからの国内盤用ライナーノート)を、参考に掲載しておくとしよう。

 もうひとつ、ビーフハートに関して強く印象に残っているのは、彼のオーネット・コールマン評価だ。
 「ビーフハートは自分は音楽家ではなく絵描きだと語っている。ビーフハートの「天才/芸術家」の形姿は「絵描き」という事に集約されるだろう。かなり以前のインタビューで彼はこう云っている。『‥‥オーネット・コールマン。彼は最高だ。彼より凄い奴はいない。しかし彼はジャズミュージシャンではない。絵描きだね。たいていの奴は彼と一緒にやるのをこわがる。みんな天才の域ってやつには入り込むのがこわいんだ。何でもかんでも秤にかけなきゃならないなんて信じてるから。天才は量れるもんじゃあない。計量なんてのは天才にとって単なるユーモアだ。だからセシル・テイラーみたいのは天才とはいわない。テイラーはただピアノを計ってる。それにどんな意味があるんだい。ロバート・ジョンソンとサンハウスは本当の天才だ。彼らは素朴な絵描きだ。』」(秋田昌美「キャプテン・ビーフハートは偉大である-ビーフハートの歩みと現在」 フールズ・メイト24号掲載)
 ビーフハートによるこの評価は私の中で、微分化されたシンバル・ワークの上に、仕切り紙のように差しはさまれる弦楽合奏により何度なくリセットされる荒涼とした音空間に、ジャジューカ音楽の頭の中を真っ白にしてしまう倍音の沸きかえりに、多方向に散乱し交錯するハーモロディック・ファンクの揺らめきに、オーネットがすらすら/うねうねとサックスの線を走らせる様にまっすぐにつながっている。

  キャプテン・ビーフハート      「美は乱調にあり」       ZNR「Barricade 3」




ZNR/Zazou et Racailleあるいは高貴な野蛮人

 一分の隙もなく洗練されて、まさにサティ的な優美さのうちにまどろむ、続く第二作『Trait De M canique Populaire(人民機構概論?)』に比して、“ZNR”の第一作たる本作は、まだ磨かれぬ原石の美しさに満ちている。
 冒頭曲のピアノこそ、しばしサティ風のたたずまいを見せるものの、それはすぐにテナー・サックスのいらいらとフリーキーなソロにさえぎられ、続いて繰り広げられるユーモラスな人形劇中の戴冠式は、シンセサイザーの落ちつききなく跳ね回り、あちこちに引っ掻き傷をつける高音と、重く胃にのしかかり、鉛のような異物感を残す低音によって、グロテスクな強調を施されている。
 こうした耳障りなエレクトロニクスの突出(特に無骨な音色設定)は、次作のけぶるように繊細で平坦なアコースティック・アンサンブルと好対照を成しており、本作の特徴のひとつと言えるだろう。無論これは仕上げの拙さ故ではない。両者は作品世界の構成に関して、全く異なった方法論に基づいているのだ。
 その違いは両者の装画に端的に表れている。すなわち、次作を包む、病的なまでに繊細で不安定に移ろう木炭画(まるで煤けた磨り硝子を通して眺めたような、セピア色の幻燈世界は、細部が決定不能に揺らめいて、不可思議なデジャ・ヴュをすら引き起こす)と、本作に添えられたドン・ヴァン・ヴリート(キャプテン・ビーフハート)による、荒々しく走り描きされたアンフォルメルなデッサンに。前者においては、ひとつひとつは等価な要素のアンサンブルが、なだらかな濃度の起伏のうちに、全体として幾つかの形象を織り成すのに対し、後者にあっては、描く身体の狼のような疾走や跳躍が、一本一本の線を各々独立した運動の軌跡としてつくりだすのであって、画面はそれらの線が息づき、気ままに伸展し、急角度に折れ曲がり、不連続な跳躍を繰り返して、衝突/交錯するフィールドに過ぎない。濃度/分布に対する速度/運動。
 すなわち、本作において、サウンドは個々の音色の独立したムーヴメントの集合体として現れている(本作の初発である仏Isadora盤の楽器クレジットは、華麗な/控えめな/酔っ払ったピアノ、熱狂するテナー、豪華なソプラノ、望み通りのバス・クラリネット、動じないヴァイオリン、申し分のない/ぐったりしたヴォーカル、悲惨な歌....というように、その楽曲における「配役」に合わせて、性格付けの形容を使い分けている)。それは個々の音色が演じるサーカスのようなものだ。
 ジェローム・サヴァリ率いる劇団“グラン・マジック・サーカス”をはじめとして、「五月革命」(68年5月)以降の表現の中には、サーカスや大道芸が大胆に取り込まれ、道化芝居やアクロバットのブリコラージュを介して、カーニヴァル的なものが多く目指された。バリケードの中の祝祭は、囲いを取り払われたことによって、ストリートへと踏み出していったのだ。フレンチ・ロックの領域では、「五月」のバリケードの中で演奏したという「政治参加」ロック・グループ“Komintern”の『Le Bal Du Rat Mort(死んだ鼠の舞踏会)』(71年)がそうした傾向を代表する作品と言えるだろう。
 そして本作も、随所に見られる大道芸的なものの参照と多言語のカーニヴァル的な濫用(曲題に気取って使われている伊語を別にしても、例えば「Solo Un Dia」の歌詞は、唐詩=中国語から少なくとも英・仏・西の三ヵ国語混用で訳出されている)、そしてパロディックでコラージュ的な構成によって、明らかにこの系譜に連なっている。
さらにキャプテン・ビーフハートのデッサンは、彼らのカーニヴァル的なものへの傾向のみならず、もうひとつ、彼らの野蛮な動物性/無垢な幼児性/メカニックな肉体への憧憬をも明らかにしている(この点、やはり彼の絵をカヴァーに採用しているのが、L.A.F.M.S.による『Blorp Esette』(77年)及び『Blorp Esette vol.2』(80年)であることは興味深い)。シンセサイザーの音色の、むしろキネティック・アートを思わせるメカニックな「運動」ぶりや、「Saynete」における、エレクトロニクス変調により不気味な共振をきたして、昆虫人間のようになったヴォイスの使用(声は次第に混信をきたし、最後は上空をヘリコプターが旋回する。まるで『トワイライト・ゾーン』だ)を、その一例として挙げることができるだろう(また、本作の世界に最も近い演奏として、私が最初に思い浮かべるのは、キャプテン・ビーフハート『美は乱調にあり』に収められた、ざらざらとした野生の気高さに溢れる器楽曲「A Carrot Is As Close As A Rabbit Gets To A Diamond」である)。
 次作においてコンセプチュアルな世紀末的美学と緻密に書き込まれた室内楽的アレンジメントにほとんど覆い隠されてしまう、こうした高貴な野蛮さこそが、むしろ“ZNR”の本質であり、可能性の中心ではなかろうか。
 しかし、考えてみれば、本作は奇妙な位置にある。タイトルの『Barricade 3』とは、この作品が“ZNR”以前にエクトール・ザズー及びジョゼフ・ラカイユの属していたグループ“Barricade”の三作目であることを示している。
 “Barricade”(バリケードの意)は「五月」の余韻さめやらぬ69年に、ソルボンヌ大学のコミュニスト学生を中心に結成された、やはり「政治参加」するロック・グループである。メンバーにはミュージシャンだけでなくノン・ミュージシャンを含んでおり(“Schizo”結成以前のリシャール・ピナスもまたそこにいた)、楽器以外にも手近にあるありとあらゆるものを用いて、フリー・インプロヴィゼーションを繰り広げたという。なお、彼らは72年に『Barricade Ⅰ』『Barricade Ⅱ』の2枚のディスクを制作している(録音時のメンバーは、ザズー、ラカイユ、そしてこの後“Clearlight”を結成することになるシリル・ヴェルドーの三人である)。
 その後、Virginレーベルのオーディションのためのグループ再結成(結局オーディションは失敗に終わるのだが)を経て、75年に“ZNR”が結成され、そしてDisjunctaからリリースするはずだったLPが、レーベルの倒産によりIsadoraからリリースされたのが本作である。
 バリケードという閉域から「外」へと走り出た高貴な野蛮さを、カーニヴァルという形式ならざる形式によりかろうじて囲い込んだだけの、ほとんど放埒とも言うべき仕上がりの本作が、初発当時、仏国内合計で155枚きりという悲惨な売上しかもたらし得なかったことは、時代の趨勢を思えば、あるいは当然のことなのかもしれない。それ故か次作において彼らは、いささか自己完結的なサロン風審美主義により、ジョリス・カルル・ユイスマンスやレーモン・ルーセルが思い描いたような密室的ユートピア(実際にルーセル『ロクス・ソルス』は歌詞として引用されている)、すなわち妖しいエキゾティズムと綺想的な機械仕掛けに満ち溢れた母胎空間へと、再び引きこもってしまったように思われる(その意味で本作は、彼らの本質が束の間殻からはい出し、その姿を外部にさらした瞬間を捉えた希有な作品と言えよう)。
 しかし、本作を体験した後で次作『Trait De …』にもう一度耳を傾けるならば、張り巡らされたペダンティックな引用や言語遊戯の網の目の下に(あるいは着色写真の厚化粧の下に)、抑圧されながらも未だ飼い馴らされぬ誇り高き野性の息づく様を、また一見鏡のように滑らかに磨きあげられた精緻なアンサンブルのうちに、鋭く耳を刺す微小な棘の存在を感じ取れることだろう(今までそれとは知らず、これらの音に安逸に耳をなぶらせていたのなら、気をつけた方がいい。きっとあなたの耳は血だらけになっているだろうから)。

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大里俊晴「マイナー音楽のために」2
 大里俊晴が開いてくれた扉のうち、最も豊かで魅力的なものとして、フランスで展開されていた「想像的民俗音楽」(フォルク・イマジネール)の世界がある。「Music Today」11号「特集 Jazz Extended」に掲載された「エクレクティズムを展望する あるいは90年代の傾向と対策」の中で紹介された「故デメトリオ・ストラテスを想起させずにはおかない」仏バスクの民族歌手ベニャト・アシアリと、「信じられない電子音的音響を生み出す」超絶的なヴィエル・ア・ルー奏者ヴァランタン・クラストリエの名前は、それまでまったく耳にしたことのないもので、彼の想像力をいたく刺激する形容により私の記憶に深く刻み込まれた。当時、入荷し始めた仏ナトー・レーベルを探っていて、ミッシェル・ドネダ「テラ」のエスニックな香りに魅せられていた私は、創設されたばかりの仏シレックスの作品にも手を伸ばしており、そこでこの大里による魅惑的な一文に出会って、一挙に取り返しのつかない深みにはまることとなる。もともとマリコルヌ等の仏トラッドを聴いていた耳にも、彼らの演奏はとてつもなく強烈だった。このあたりの流れは、「耳の枠はずし」第2回「野性の耳がとらえた音景」で紹介したところである。
 その後しばらくして、前回お話したように、まさにその「フォルク・イマジネール」をテーマとして、私は大里と鼎談のテーブルを囲むことになる(「ジャズ批評」88号掲載)。以下にその時の原稿を再録しよう。その中での発言「シャンソンでもなく、ジャズでもなく、「ブリジット・フォンテーヌ」自体がジャンルって感じですね。まるで孤島のようにあって」は、まさに大里俊晴ならではの名言だと思う。
 ちなみにコレット・マニーのことは、仏シャン・デュ・モンドの音源をコンパイルした日本編集盤「帰らぬ兵士の夢(平和のための世界の歌~ヨーロッパ編)」で知った。池袋西武アール・ヴィヴァンで見かけたそのLPを、ヴラジミール・ヴィソツキーとシャン・デュ・モンドの名前に惹かれて手に入れたことにより、私はコレット・マニーのほか、リュイス・リャックやルイス・シリア、フランシス・クルト等の歌声を教えられることとなる。




〈想像的民俗音楽〉(フォルク・イマジネール)を巡って
ローカルに編み直されるフランス音楽シーンを聴く


 ■BYGからNatoへ
福島
 かつてヨーロッパのフリー・ミュージックは、ECを先取りするようなかたちで、普遍を目指し統合へと向かっていたのが、現在はむしろEC統合とは裏腹に、ローカルに編み直されてきているように見える。それがもっともわかりやすく、また面白いかたちで現れているのがフランスのシーンではないか。そこを中心に紹介できればと思います。読者の興味をかきたてると同時に、じゃ何から聴いたらいいかというガイドにもなるようなかたちで話を進められればと考えています。
大里
 おそらくフランスのシーンが初めて活性化したのが、かつて植草甚一さんがとりあげたBYGのへん、つまり六〇年代の終わり頃です。アメリカのブラック・ミュージシャンたちが大量にフランスに行きましたよね。アンソニー・ブラクストンとか。“アート・アンサンブル・オヴ・シカゴ”もフランスで結成されたし。アーチー・シェップとかのバックにベブ・ゲラン(b)とかジャック・トロー(dr)が入っていて、それで注目されてきた。そこからちょっと切れるんだよね。まあミッシェル・ポルタル(sax)なり、ヴィンコ・グロボカール(tb)⑭なり、ジャン=フランソワ・ジェニー・クラーク(b)なり、現代音楽をやる人たちの即興というのはあったけれども。七〇年代というのが全くなくて。やっぱし、Natoなんですね。あれがどかっと「ディスク・ユニオン」に入ってきた。一番最初にデレク・ベイリーの入ったジョエル・レアンドル①を買った覚えがあります。
福島
 Natoはジャケットが実にカラフルなんですね。同じ人が、実に器用にいろんな画風を描き分けていて。どれか一枚買って帰りたいという気にさせる。そうすると誰か知ってる奴が入ってるのがいいや、となって、その点レアンドルのはジョージ・ルイス(tb)にイレーネ・シュヴァイツァー(p)にベイリーも入ってお徳だった。
大里
 あのへんで既に、アメリカやイギリスとも結んだNatoのネットワークができあがっているのがわかる。レーベル・オーナーのジャン・ロシャールは最初フェスティヴァルをやって、そこからのつながりでいろいろ録っていったんです。イギリスのIncus、ドイツのFMP、オランダのICPやBVHAASTみたいな中心となるレーベルが、フランスにはそれまでなかったけど、Natoができて七〇年代にやってたことがだんだんと見えてきた。

 ■民族音楽とのつながり
福島
 Natoにはこれから言及しようという人たちが一斉に出てきますね。一方にスティーヴ・ベレスフォードがやってるみたいな「オモチャなフリー・ミュージック」があるんだけど、その一方でミッシェル・ドネダ(ss)の『テラ』③とか、アンドレ・ジョーム(ts)がギリシャの民俗コーラスといっしょに演ってるのとか、民族音楽とのつながりが濃厚に出てきて、非常に新鮮でした。あのへんはどうなんでしょう。もともとやってたものが出てきたということなのか。ドネダにインタヴューしても、本人としてはあまり意識してないよ、ということになってしまうんだけど。
斎藤
 ドネダなんかと話してて思うのは、フランス人の反アメリカ意識の強さです。特にミュージシャンは強い。ポップコーン食べながら、コーラ飲んで、ソファーでTV見てるとバカにしている。それに対抗したものを大事にするという姿勢があるような気がする。
大里
 ドネダは確か南仏ですよね。人に聞いたら南仏訛りがあるんだって。もともとフランスは地元意識がすごく強い。地元文化復興運動というのが、だいたい六〇年くらいです。それに音楽的先鞭をつけたのが北仏ブルターニュ出身のアラン・スティーヴェル(hp)。その後、南仏ではロジーナ・デ・ペイラ(vo)とマルティナ(vo)のデュオとかが出てくる。
福島
 スティーヴェルのところから出て、より汎フランス的なトラッドを探求した“マリコルヌ”とかね。
大里
 そう。もともと地方に根付いている文化があって、誇りに感じていたりもして、冠婚葬祭とかあれば、フォーク・ミュージックが演奏されているわけだし。盆踊りみたいなもんで。
斎藤
 ドネダは俺はあまり金がないから田舎に住むと言ってた。そこで文化が起こってくると高くなるから、また田舎に行くというのを続けている。みんなそうみたい。この間、人里知れない田舎に演奏に行ったら、サニー・マレー(dr)とエバーハルト・ウェーバー(b)が住んでいて驚きました。別に芸術家村とかじゃないんだけど。
大里
 フランスは中央集権の国だとも、地方分権の国だとも言える。地方には地方のユニークな文化がある。バカンスの三ヵ月間、文化が活性化するってのもあるし。現代音楽でもそう。電子音楽にしたって、選ばれた超エリートたちがやってるパリのIRCAMだけじゃないんですよ。リヨンのグザヴィエ・ガルシアとかマルセイユのミッシェル・ルドルフィとか。
福島
 バール・フィリップス(b)とアラン・ジュール(perc)が『アクエリアン・レイン』⑧で電子音楽と共演してますが、それもそうしたローカルなものなんですかね。
斎藤
バールのやってるああした音楽、フリー・ミュージックは、もうそれ自体現代音楽ととらえられているみたい。少なくともフリー・ジャズではない。フリー・ジャズっていうのは、もうエネルギー・ミュージックのことなんだよね。
福島
 そのへんは“AEOC”みたいな本物が来て、しばらく活動していたというのが大きいのかもしれない。
斎藤
 バールに言わせると、フリー・ジャズのミュージシャンは時間には遅れるし、女・博打・薬。僕たちはちゃんと時間を守る(笑)。実際その通りですね。ドネダもアランもすごくマジメですよ。
大里
 レアンドルにしたってクセナキスにケージ…。特にジャチント・シェルシなんか一手に引き受けているという意識がある。彼女が主催したシェルシのフェスティヴァルを観たけど、もう「私がやってるのよ」って感じでしたね。
斎藤
 ヴェトナム系のレ・カン・ニン④も、むしろ現代音楽の方が名が知れているかもしれない。
福島
 “エリオス四重奏団”という打楽器アンサンブルですね。
斎藤
 そう。ナンシーのフェスティヴァルでも、デヴィッド・モス(vo,perc)とデュオした翌日に、アンサンブルでケージをやってた。レ・カンはソロもいいんだよね。
大里
 あのリズムって、何か乗るんだよね。
斎藤
 すごく色彩的なんですよ。
福島
 韓国のシャーマン・ミュージックのようなサウンドが随所に出てきますけど、あれは勉強してやってるんですか。
斎藤
 昨年のヨーロッパ・ツアーの時、彼の車で移動した沢井一恵さんの話では、ずっとコリアン・ミュージックを聴いてたって。
福島
 じゃ前から勉強してたんだ。ドネダは、その時に斎藤さんのテープで初めて金石出を聴いたって話でしたね。
斎藤
 そう聴いた途端、こんな直立不動になっちゃってね。俺はこの人が来たら、カバン持ちでも何でもするって。純粋なんですよ。有名になって…みたいな上昇志向ないし。だから平気でストリートでもやるよ。レ・カンもね。それはすごく誇り高くやるんですよ。ストリートではショーロだって言ってピシンギーニャとかやる。それがすっげえ上手いんですよ。僕も好きだけど。
大里
 民族音楽に関しては、ヨーロッパ、特にフランスにはレコードがいっぱいあるんですよ。そこから得る知識というのは相当大きい。例えばドーニク・ラズロ(as)とドネダの『ジェネラル・グラモフォン』に、ユーゴとどこかのトラッド曲が入っているんだけど、あれは僕、元の曲を持ってますよ。明らかにこのレコードのこの曲を聴いてコピーしたなというのがわかる(笑)。
福島
 つまりOCORAとかAUDIVISの蓄積の成せる業だと。
大里
ええ、相当聴き込んでいる。もちろん知らないうちに民族音楽が入り込んでいるというのもあるだろうけど、あるところから、そういうものからネタを拾おうと意図的にやっている。というのは、フリー・ジャズはもう終わっているから。つまりブラック・ミュージシャンがぶきーっと吹きまくった後に何があるかというところから、彼らは始まっている。フランソワ・テュスク⑬『インターコミューナル・ミュージック』はめちゃくちゃやってるけど、あれ以降無軌道にぶきぶきやってるやつはほとんど出てないでしょう。『オペラシオン・リノー』という、沖至(tp)もジャック・ベローカル(tp)⑪もこの辺全員入った七六年のアルバムがあるんだけど、ぶきーって吹いて、それがそのまま政治的な抵抗を表すかというおそらく最後の作品。そこから先は、政治と音楽の結びつきがもっと微妙なかたちになっていく。『ジャズ・フリー』という本があるけど、あれは初版が七二、三年頃で『フリー・ジャズ、ブラック・パワー』が原題。ブラック・パワーの音楽としてのフリー・ジャズがありましたよという総括なんです。それが終わったところからフランスというかヨーロッパは出発している。そこから先、何をとりいれてやっていくかとなった時に、民族音楽は使えるなと思ったんでしょう。

 ■アンガジェする音楽
福島
 コレット・マニー⑫やロシアのヴィソツキー、カタロニアのルイス・ラックといった権力に抵抗する歌手たちを集めたChant du Mondeレーベルからの『世界の新しい歌手たち』シリーズも、それと平行していますね。このレーベルは民族音楽とかも出している総合レーベルなんですが、もう一方でやはりアンガジェ(政治参加)する音楽ということでフリー・ジャズを出している。70年代前半くらいかな。そういう意味で、すごく時代を象徴してるレーベルですね。けれど、そうした抵抗としてのフリー・ジャズみたいなものの中に、もう次の芽がしっかり組み込まれているようなところがある。演劇的なものであったり、複雑に入り組んだ構成であったり、エネルギー・ミュージック、破壊のための音楽というだけでない別の音楽がもうスタートしている。
大里
 コレット・マニーは五月革命(六八年)のルポルタージュのレコードをつくってる。彼女自身は二曲くらいしか歌ってなくて、ほかは全部街頭録音とかのドキュメンタリーなんです。もう左翼的良心の産物(笑)。これは最初マイナー・レーベルから出たのを、Chant du Mondeが再発したんですね。
斎藤
 ドネダの話ばっかりなんだけど、家で子供といっしょ歌っているのはブラッサンスなんですよ。ああいう反権力みたいな素地は脈々とあって、そういう中から政治的盛り上がりが出てくるんでしょう。そういうのもともとある。毎日「リベラシオン」読んでるし。
大里
 はいはいはい。「リベラシオン」紙は学生は絶対読まないといけないの。「ル・モンド」は読まなくても「リベラシオン」は買うと。私もずっとそうでした。そういう流れってあるんですよ。

 ■シャンソン
大里
 さっき出たシャンソンの話だけど、Natoではベレスフォードとかロル・コックスヒル(ss)とか法貴和子(vo)とか、フランス人じゃないミュージシャンを使って、外から異化しようとしている。やはり中からだと身近過ぎてできないのかもしれない。レオ・フェレやブラッサンスで遊ぼうとは思わなかったんでしょう。そのへんNatoは上手かった。初期の頃はもっとフランスのシーンに密着していたんです。何と言っても一枚目はベブ・ゲランの追悼アルバムですからね。ヴィオレッタ・パラとかもあるけど、あれは異化というより正統派左翼音楽だから。後になるとどんどん異化する方向が入ってきて、例えば『ゴダール』に至る。『ゴダール』はやっぱりポイントですよね。ジョン・ゾーンのカットアップもここで初めて出現したわけだし。

 ■シドニー・ベシェ
斎藤
 ドネダがシドニー・ベシェをやったのは出たの?
福島
 出てますよ。トリビュートのオムニバスですね。
斎藤
 あれはエルヴィン・ジョーンズとのデュオで、呼ばれていって、一時間くらいフリーでリハーサルをして録ったんだけど、そのリハーサルがすごかったんだって。で、ドネダはベシェはもちろん知ってるんだけど、他にもすごく勉強してるのね。トリスターノ・ラインのコニッツなんかを指ならしでぱーっと吹くんですよ。あれはちょっと聴いたことないくらい正確に速く吹いた。しかもソプラノで。基礎的なものは相当やってますね。蓄積している量というのは日本のミュージシャンとだいぶ違う。しかもそれを出さない。
岡島
 スクラヴィスも技術的に相当なところまで行ってる。
大里
 アンリ・テクシェ(b)⑦のところで随分鍛えられたみたい。
福島
 彼の操るエキゾティズムっていうのは、身体や記憶の中から出てくるっていうより、かなり確信犯的に外からとりいれてやってる感じですね。その完璧な技術でもって。
岡島
 ベシェって、フランス人の中にはジャズってものと分かち難くあるんでしょうね。古典として。
大里
 だってフランスの名前だし。ジャズってルイジアナから出てきて、あのへんてフランスからの移民がいっぱいいて、だからジャズの創成にはフランスが関わっていると確信している人たちがいるのね。俺たちがジャズを生んだんだって。だいたいニュー・オリンズって言わないでヌーヴェル・オルレアンだからね(笑)。ベシェはそうした典型的存在ですね。
岡島
 その次がジャンゴ。

 ■SILEXレーベル
福島
 Natoが外からの視点をうまくとりいれて、言わば複眼的に相対化や異化を進めていったのに対し、SILEXレーベルは最初から民族音楽、トラッド・ミュージックに的を絞って、一方でスクラヴィスのような即興のできる演奏能力も非常に高いミュージシャンを入れて、フリー・ミュージックとも融合させながらものすごく洗練されたものを出し、もう一方で聴きやすさなんか気にとめずに、非常に突き詰めたかたちでピュアなものを出していった。八〇年代末から九〇年代にかけて、これも非常に面白いレーベルだと思うんです。
大里
 彼らはジャズとは思ってないでしょうね。フォークの変容という風に位置付けてると思う。
福島
 SILEXから出てるヴァランタン・クラストリエ⑯あたりから、ドネダやルイ・スクラヴィス⑤なんかまで含んで「フォルク・イマジネール(想像的フォーク・ミュージック)」という言い方をよくしますね。これは大里さんが連載で紹介されていたARFIなんかともつながる。僕なんかは、このへんがフランスのシーンの面白さの核心という感じがするんですけど。

 ■ワールド・ミュージックの先駆
大里
 例えばマダガスカルのミュージシャンを最初に使ったのは、ジェフ・ジルソン(p)なんですよ。ヴァリハという竹製の楽器をとりいれている。バルネ・ウィラン(ts)も『モシ』で、映画撮る人とアフリカ回った時の現地録音に、そのままグループの演奏をかぶせている。全く文化帝国主義なんだけど、その組合せ方は非常に面白い。そういう意味で、やはりワールド・ミュージックの先駆なのがブリジット・フォンテーヌ。旦那のアレスキはアルジェリアかどこかのカビールという少数民族の出身で、そのへんがはっきり出ているのは、むしろ有名な『ラジオのように』じゃなくて、サラヴァの四枚目⑮やそれに続くBYGからの作品ですね。シャンソンでもなく、ジャズでもなく、「ブリジット・フォンテーヌ」自体がジャンルって感じですね。まるで孤島のようにあって。
福島
 でもジャン・ケリエ(cor anglais)とかシャルル・カポン(vc)とかが参加していて、実は結構緊密につながっていたことが、後から見えてくる。
大里
 本当は「サラヴァ」レーベルが背景にあるんですね。「サラヴァ」はどの程度日本に入ってきたかわからないけど、一般には例の『男と女』の「ダバダバダ」でしょう。シャンソンの好きな人は知ってたけど、彼らは「サラヴァ」のジャズは知らなかった。一方、ジャズの好きな人は「サラヴァ」を知らなかった。スティーヴ・レイシー(ss)とか出てたのに。

 ■ワールド・ミュージックの風景
福島
 フリー・ジャズの運んでくる幻想の風景としてのブラック・アフリカが、フリー・ジャズといっしょに終わっちゃうと、今度は抑圧されていたオクシタンやブルターニュ、バスクとかの地域文化が、トラッド復興ですれ違うように現れてくる。その一方で移民を通じて旧植民地の音楽がワールド・ミュージックに加工されてくる。
大里
 いわゆるワールド・ミュージックというのは、まず圧倒的に地元の音楽だよね。例えば、西アフリカ出身の移民のコミュニティでは誰も北アフリカのワールド・ミュージックを聴いてない。サリフ・ケイタだって、マリの人たちはおらが国の音楽として聴いている。ボーダーレスに楽しむというのは白人や日本人のディレッタントだけでしょう。
斎藤
 僕の好きなミュゼット⑲だって、もともと移民の音楽。イタリアとかポーランドとか。でもフランスの音楽ということになってる。リシャール・ガリアーノ⑱はいいですよ。ジャズを感じさせます。アルゼンチンの軍政から亡命してきたタンゴ演奏家も多い。モサリーニ⑳とか。
大里
 実際移民が来て、居て、するとそこには何か音楽があってしまう。ムーヴメント云々の問題より先に。

 ■これからのシーンへの期待
斎藤
 インプロヴィゼーション自体が破片化していってしまって、みんな打楽器的にぷちっぷちっと。これはどうしてという話をよくしたんだよね。哲学的に不可能性の問題とかいうより、もっと身体的にとらえたい。現場の人間だから。自分が韓国で救われたようなものを、彼らはどう考えるのだろうかという。そういう意味でドネダとかアラン・ジュール(perc)とか、いっしょにやりたい人がいますから、これを韓国や日本のミュージシャンと結びつけていきたい。
大里
 今まで移民や何かで人が動いたから、それに音楽がくっついてとなっていたけれども、そうじゃなく触媒ということですね。
斎藤
 そう触媒。おおげさに何をぶつけようということじゃなくて、個人的に知っているもの同士を会わせようということですね。アランは既にケンガリとチンを持ってるし、ドネダはホジョクを持ってる。そういうところからですね。
大里
 いまさら「東洋の神秘」という発想はないだろうし。
斎藤
 そうですね。でも東洋のエキセントリズムみたいなものへの憧れは残ってるみたい。フランス人は特にかもしれないけど。やっぱり、そういうものはいつまでも持っていて欲しくはない。
大里
 この間斎藤さんからお話をうかがって面白かったのは、金石出って神を見たことないって言うんでしょ(笑)。シャーマンでありながら、なんかもう自分を脱構築、脱神秘化してるよね。そういうものをぶつけていけば、西洋の側も認識が変わってくるんじゃないかな。
斎藤
 リズムとかビートに戻ることをインプロヴァイザーは避けてる。なのに民族音楽系でやる時は、それを入れていく。
福島
 使い分けている。
斎藤
 そう。いろいろ触媒していけば、そのへんがすっきりするんじゃないか。例えばバールとドネダたちとでは世代が違う。バールはパルスものまではいいんだけど、それがグルーヴをつくりだすと、「ああロックンロール」っていって嫌がるのね。
大里
 クラシックで最近顕著なのはネオ・ロマンに帰る動きです。ポスト・モダンだから何をやってもいいと言いながら、古いものに安住して、美しいメロディや心地よいビートに至る。アルヴォ・ペルトとか気持ち悪くてたまんない。堕落してると思う。その時に民族音楽を通じて、しかも自前のだけじゃなくて、身についていない民族音楽も入れて、しかも文化帝国主義じゃなくやっていけたらいいんじゃないか。
福島
ポスト・モダンなパッチワークにしろ、ノイズへの傾倒にしろ、いいかげん飽和/閉塞してきている。そうした加速や断片化の強制に抗う骨太な音がここにはある。もちろん、旧来の「伝統」へと回帰/自閉してしまう恐れもあるんだけど、いま別の可能性が確かに開けている。これからも注目していきたいと思います。

①Joelle Leandre/Les Douze Sons
②Joelle Leandre/Urban Bass
③Michel Doneda/Terra
④Michel Doneda,Le Quan Ninh,Dominique Regef/Soc
⑤Louis Sclavis/Ad Augusta Per Angustia
⑥Louis Sclavis Sextet/Ellington On The Air
⑦Henri Texier/
⑧Barre Phillips/Aquarian Rain
⑨Tamia/Sensa Tempo
⑩Un Drame Musical Instantan /Urgent Meeting
⑪Catalogue/Insomnie
⑫Colette Magny/Visage-Village
⑬Francois Tusques/Free Jazz
⑭Vinko Globokar/Globokar By Globokar
⑮Areski Et Brigitte Fontaine/Brigitte 4
⑯Valantin Clastrier/Heresie
⑰Benat Achiary/Arranoa
⑱Richard Galliano/Solo In Finland
⑲Richard Galliano Quartet/New Musette
⑳Mosalini-Beytelmann-Caratini/La Bordona


 ●ディスク解説

 本文の補足をいくつか。豪華ゲストを迎えての即興セッション風な①(とはいえ軽やかなエスプリが香る)に対し、②はコンポーザー・パフォーマーたるレアンドルの面目躍如たる自作自演集。一方ドネダ(本誌前々号のインタヴューを参照)については、エスニックなスパイスの効いた瑞々しい③と、演奏がよりミクロな局面に戦場を移してせめぎあい、むしろシャーマニックな別空間へと転移してしまう④をやはり挙げたい。⑥は鮮やかに遺伝子を組み替えられたエリントン。⑤のほとばしるユーモアと共にスクラヴィス(及びその周辺人脈)の類い希な知性を味わって欲しい。多重録音による女性ヴォイスが、うたや即興とは別の古代的な時間を運んでくる⑨は、総毛立つほどに美しい。⑩は仏フリー界のVIP連がゲストに顔を揃えたUDMIとの緊密にして親密な共同作業。ベローカルの異能ぶりが甘く舌を刺す⑪は本リスト中の異色作。極度に洗練された野蛮な退廃。⑫~⑮は言わば必聴の古典。仏フリー・ジャズ界の言わば「産婆」役を務めたコレット・マニーの声の強靭な力。仏フリーの嚆矢⑬の幾何学的な明澄さ。過剰な身振りと苛烈なノイズの圧倒的流出⑭、⑮は『ラジオのように』の直接的で荒削りなプリミティヴ・モダニズムを離れて、むしろ優雅なモロッコ的迷宮世界をつくりあげている。もはや歴史的名盤というべき⑯からはさらに民族色が強まる。バスク出身の男性歌手ベニャ・アチアリによる⑰(本号新譜レヴュー参照)。アコーディオンの第一人者ガリアーノからは、ソロで「小さなオーケストラ」の可能性を追及した⑱とむしろピアソラ的に鋭利なミュゼット解釈⑲を。先頃来日し、素晴らしい演奏を聞かせた(その模様は大里氏によるCS番組『ワールド・オヴ・フォーク・ミュージック』でオン・エアされ、好評を博した)モサリーニ(bandoneon)はタンゴ・スタンダードで固めたトリオ第一作を。ミンガスとモンクを含んだ第三作『ヴィオレント』もお薦め。なお、選盤にあたっては入手の容易さも考慮したことを付け加えておく。


Valentin Clastrier / Heresie(silex)
何度でも挙げてしまう歴史的名盤。
この作品と巡りあえたのも大里俊晴のおかげ。



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大里俊晴著作集「マイナー音楽のために」
 「大里さんが撮った写真を少し見せてもらったんですが、これがいいんですよ」と、以前に月光茶房店主の原田さんから聞いていた。この本の表紙を飾る彼の写真を見て、なるほどと思う。
 おそらくはビルの空調の排気塔だろう。鏡餅型UFOのような愛らしいかたちが斜めに傾いで、手前のひとつには乾いた汚れが不思議な文様を描いている。その下を走る大小のパイプ群も同じ視角にとらえられてはいるが、「工場萌え」のように存在を際立たせることなく、水平の広がりの獲得にただ黙って貢献している。よく見ると、向こうには同じかたちが縮小転写したようにリズミックに繰り返され、さらにその向こうには新宿の街の輪郭がわずかにのぞいている。彼が最後の5年間を過ごしたという「新宿九龍城」からの眺望なのだろうか。いつくしみもしない代わりに、締め出すこともしない。「都市の無関心なやさしさ」を感じさせる1枚だ。
 「京橋のINAXブックギャラリーに置いてある建築書のような装丁」‥これが幸福な第一印象。ちなみにカヴァーを剥ぐと仏スイユ社のシリーズを思わせる禁欲的なほどにシンプルな白地が姿を現す。文字は背に記されたすべて小文字による仏語表記のみ。

 大里俊晴のことをよく知っているわけではない。しかし、本書を読んでみたら、結局ほとんどの原稿は初出の際に眼を通していた。読み進めるうちに、いろいろな記憶がよみがえる。同じ雑誌に書いていたこともあり、ジョエル・レアンドルの来日に当たっては、斎藤徹を迎えて鼎談をしたこともあったし、公開インタヴューの通訳をお願いしたりもした。鼎談を終えての帰り道、駅へ向かう途中の信号待ちで、彼から「ジュヌヴィエーヴ・カバンヌって‥」と訊かれて、「ああ、あのピエ・ド・プールの‥」と答えたやりとりが本書に載っていたりもする。ライヴで顔をあわせたことも何度か。当時の我が家の近く、駒沢の喫茶店アポロで豊住芳三郎とフィル・ミントンのデュオが行われた時、彼は配られたシュークリームをおかわりして3個も食べていたし、ミッシェル・ドネダとカン・テーファンの出会いを目撃しようと大阪に出向いた時は、「ここまで追いかけてくる奴は俺たちぐらいのもんだ」と部屋の外から聞き覚えのある声がしたので、振り向いたら眼が合った。まだ、アップリンクが以前の場所にあった頃、ピエール・シェフェールに捧げる彼のパフォーマンスを観ていた(例のCDボックスセット付属のブックレットにいっぱい附箋を貼って、頁を繰り、仏語で読み上げながら、様々なサウンド/ノイズを発する)し、四谷のジャズ喫茶では仏フリー・ジャズに関するレクチャーも聞いていた(彼は「五月革命」の季節に象徴的な節目を見出すよりも、それに先立つポストモダン的な実践や70年代後半に訪れるフリーな叫びの失効に重要な切断を見ていた)。
 そうしてたぐり寄せた記憶の中で、最も印象深いのは彼の声である。時として極端なまでに自己韜晦が過ぎる書きぶりや、いつも外さない黒眼鏡から知れるように、彼はとてもシャイな人柄なのだが、ゲストに呼ばれて行ったFM東京のスタジオでは、びっくりするぐらい饒舌だった。それはCS放送用の音楽番組だったのだが、彼はパーソナリティとして話を進め、自在に脱線し、アシスタントに茶々を入れ、こちらに話題を投げかけた。深夜放送を聴いていたわけでもなく、とんとラジオに縁の薄いこちらは、せいぜい要領よくコンパクトにメッセージを伝えるだけで精一杯で、まさに水を得た魚だった彼を、とてもうらやましく思ったのをよく覚えている。そうした彼の自信に満ちた振る舞いを支えていたのは、彼の甘く深みのある声と、少年ぽいいたずらな笑いをかみ殺しているような話しぶりだったのではないだろうか。ジャク・ベロカル「フェイタル・エンカウンターズ」で、ベロカルの曲を紹介する彼の声を聴くことができる(なぜそのようなトラックが収録されるに至ったかについては、本書p.415を参照)。

 ここでひとつ強調しておかなければならないのは、彼は決して単なる好事家、「珍品愛好家」などではなかったということである。彼はむしろ頑固なまでに質に気を配り、反動的・抑圧的なまでに「良いものは良い」とした。前述の放送に関する打合せの際に、彼が「この番組では、ファン・ホセ・モサリーニの来日公演のテープを流せたんですよ」と胸を張ったことを覚えている。独身者の反社会的実験としての「エクスペリメンタル・ミュージック」にのみ彼の関心があったわけではない。
 そうした音楽の質への厳しい要求は、彼の性格や「批評と趣味の分裂」ともあいまって、「抑圧的反動オヤジ」といった一種の戯画的キャラを産みもするわけだが、その原点は「音楽に魂を奪われる」という二度と後戻りのできない体験にあるのだろう。本書で「前書き」の位置に置かれている「PRIVATE CHART 10」がそうした体験を垣間見させてくれる。そこで彼の言う「かつて誰にも見せたことのない、一番隠しておきたい、最も大切な場所」とは、そうした説明から連想されるような「ヰタ・セクスアリス」的とも言うべきアドレッセントな目覚めではなく、はるかに暴虐的な「侵入」体験にほかなるまい。なぜなら、阿部薫、アルトー、クセナキス、ヴェルヴェッツ、コレット・マニー、ジャックス、ティム・バックレー、パティ・ウォーターズ、ブルー・チアーと続くリストは、むしろ自己形成の契機として誇りうる「武勇伝」的なものであり、決して「恥ずかしい体験」などではないからだ。本書収録の「JZからの/への迂回」で、ジョン・ゾーンの少年時におけるアルトー、ヴァレーズ、アルバート・アイラー、特にマウリシオ・カーゲル体験に彼が触れる際に示す共感ぶりは、共に「聖痕」を有する者同士の親密な目配せが感じられる(だがスティグマとは、逃れられぬ運命を決定付けるマイナスの刻印でもあることを忘れてはなるまい)。

 編集は「ユリイカ」で担当編集者だった須川善行。巻末の解題、書誌の丁寧なつくりには細やかな愛情が溢れている。



大里俊晴著作集
「マイナー音楽のために」
(月曜社)



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金子智太郎さんの学会発表を聞いて考えたこと
 前回お知らせした金子智太郎さんの学会発表についてリポートします。私自身は学会にも大学にも研究機関にも属していない、単なる部外者ですが、そうした部外者の眼からはこう見えたということをご報告しておくことも必要と考えました。


 「エントレインメントとしての作曲:デヴィッド・ダンの初期作品分析」と題された、この日の金子の発表は、次の2つの部分で構成されていた。②で2曲の作品が音源で紹介されたほかは口頭による報告であり、あらかじめ配布されたのは作品のタイトルや引用文等を記した簡単なレジュメだけだったので、発表内容の詳細を述べることはできない。デヴィッド・ダンについて、さして予備知識の無い私の理解した範囲でのリポートであることを最初にお断りしておく。
 ①再文脈化とシステム:70年代におけるデヴィッド・ダンの位置
 ②エントレインメントとしてのシステム


1.発表に関するリポート
 ①再文脈化とシステム:70年代におけるデヴィッド・ダンの位置
 音楽生態学者、あるいはサウンド・エコロジストとして紹介されるデヴィッド・ダンが、そうした肩書からすぐさま連想されるマリー・シェファー以上に、むしろジョン・ケージや彼の流れを汲む実験音楽の影響を強く受けていることを、金子はまず指摘する。ここで「実験音楽」とは何よりも19世紀以来ロマン主義的モダニズムからの切断であり、音を人間とそれ以外のものの共存を可能とする媒体としてとらえる見方である。たとえばラモンテ・ヤング、マックス・ニューハウス、アルヴィン・ルシエらは、作曲家(あるいは音楽家と言ってもいいだろう)がつくりだす以前から、そこに存在している音を「環境」とみなしている。これにより音を発する、あるいは音を聴く行為が、他の行為とどのように結びつくか、音と外部環境の関係が問題となってくる。
 ここでダン自身によるコメントが引用され、彼の関心が「ケージたちが脱文脈化した音」を「真にインタラクティヴな方法で再文脈化すること」にあることが明らかにされる。すなわち、「環境に立ち返り、音が単なる人間の音楽家の素材ではないという証拠を示すために、システムをつくりだすこと」が目指される。
 さらにダンのコメントの引用により、心象風景や自己表現に結び付けて「音楽的対象における表現の客観的内容を確定しようという試み」が「失敗したポスト・カント主義」として批判される。代わりに登場するのが、音を含む複数の要素から成る、より大きなインタラクションのシステムである。このことに関し、同時代的なシステム論への関心としてマイケル・フリードによる「演劇性」の理論やジャック・バーナムによる「システムとしての彫刻」論が、また、外部環境と作品との関係性についてロバート・スミッソンらのアースワーク、ランド・アートが参照され、さらに、作品を取り巻く身体状況設定(corporeal condition)が、60年代ミニマリズムから70年代、80年代と進むにつれ、性別や政治的・制度的な次元との関連など、さらに突き詰められていったというロザリンド・クラウスの指摘が引用される。

 ②エントレインメントとしてのシステム
 聞こえた音を模倣する習性のある鳥に、これまで聞いたことのない電子音を聞かせる作品『マネシツグミ(Mimus Polyglottos)』(1976)が音源とともに紹介される。電子音は矩形波を用いているとのことで、確かに自然界には存在しないタイプの「不自然極まりない音」である(私=福島はオモチャの光線銃の音を連想した)。繰り返される耳慣れない音に、最初鳥はヒステリックに反応し、その中で通常は見られない発声が生じる(「新しい声」の獲得)。鳥はしばらく沈黙した後、変わらずに繰り返される電子音の諧調の幅を見切ったように、自信を持ってこれに対応し鳴くようになる。
 さらにもう一作品『エントレインメンツ1(Entrainments 1)』(1984)がやはり音源とともに紹介される。エントレインメントとは異なる二つの系の同期化・同調化を意味する。ここでは鳥がやかましく鳴き騒ぐ森の中で、あらかじめ作成しておいた電子音(自然界には通常存在しない正弦波のランダムな再生。私=福島には映画「アンドロメダ病原体」のオープニングで流れるような「昔のコンピュータ」的音色と感じられた)を流し、これを録音し、この鳥の鳴き声と電子音の入ったテープをまた再生し、その様をまた録音し‥というプロセスを繰り返したものである。最終的には電子音と鳥の声が何重にも敷き重ねられて厚いドローンの層を形成することになる。ここには音響装置(テープの再生)とこれに対する鳥の反応のインタラクションがあり、最初、森の環境への新たな異物の侵入であった電子音が次第に受け入れられ、最終的に一種の定常状態に至って環境秩序の中に位置を得ていくプロセスの記録であり、インタラクションを通じてひとつのプロセスが形成されていく様子を示している。


2.発表に関する福島のコメント
 金子の発表は、「サウンド・アート」という語が、音を発するガジェットの展示やコンピュータを用いた「おままごと」的なインタラクション等に冠せられている現在のグズグズの状況において、ケージによる切断を踏まえながら、それを継承するダンの作品を分析することにより、そのコアとなる部分を示している点で有益なものと言えるだろう。彼はダンの作品を声高に褒め称えているわけではない。むしろ、同時代の美学・思潮との関係を示しながら(ということは、その限界と置き忘れられた可能性を暗示しながら)、その輪郭をクールに描き出している。私のダンに対する予備知識は「昆虫や小動物のコミュニケーションに注目し、いろいろなところにマイクを付けて録音している変な人」ぐらいのものだったので、「こんな変なことをしているアーティストがいます」的な単なる紹介(先頃翻訳の出たアラン・リクトの本やフィリップ・ロベール「エクスペリメンタル・ミュージック」は多分にそうしたところがある)にとどまらず、初期のダンが何を踏まえ、何を行おうとしていたのかを明らかにしたくれた金子の発表は、非常に得るところが大きかった。
 特に「人間以外のコミュニケーション」への注目が、ケージによる人間中心主義的なものへの切断を受けて、より大きなシステム、環境に埋め込まれた文脈への注目として現れてきたこと、その背景にはグレゴリー・ベイトソンによるインタラクションやプロセスに関する思考があることを教えてもらったのはありがたかった。一般にケージによる「音の脱文脈化」は依然としてきちんととらえられているとは言えず、たいていの場合、「脱文脈化しているから意味わからない」vs「脱文脈化しているからスゴイ」といった不毛な対立にとどまっていて、「脱文脈化」された音をちゃんと聴いて、実際にそこで起こっていることをきちんと観察し、記述/分析するという当然のことがされていない。それをきちんと行っている金子の発表は、それだけで充分評価に値するだろう。
 『エントレインメンツ1(Entrainments 1)』では、テープによる再生音と鳥たち(実際には他の様々な生物も含まれていよう)が一種の定常状態に至る。それはどちらか一方への「引き込み」ではない。「エントレインメント」の訳語として通常用いられることの多い「引き込み」ではなく、相互的な「同調化」を当てていたのはこのことを踏まえてのものだろう。ただし、このプロセスの振る舞いは別の要素(パラメータ)が顕著となれば、こう単純には定常状態へは至らないだろう。たとえば次のような例が考えられる。
 ア 急に雨が降り出した
 イ プロセス進行中に日が沈んだ(あるいは日が昇った)
 ウ 他の侵入者(大きな肉食の鳥類など)が現れた 等
 

3.当日の会場からの質疑について
 ところが、当日の会場からの質疑は違った。本来なら、こうした発表に対する質疑とは、発表内容を補強するために言い足りない部分を明らかにする建設的なものでなければならないと思うが、私の見るところでは、それらは悪意ある否定だった。主要な指摘事項は次の2点に集約されるかと思う。

A 『マネシツグミ』において、電子音は鳥の反応によって変化しないのだから、インタラクションは生じていない。インタラクションの用語法に見られるように、サウンド・アート等では言葉の使い方がルーズである。主体間のコミュニケーションではないのに使っている。

B 鳥に模倣等の反応を強制するのは虐待ではないか。(「鳥は電子音に興味を持ち、面白がって、主体的にこれに関わり、遊んでいるのではないか」との金子の回答に対し)強制ではない方がより深い支配であることを覚えておいた方がよい。


 Aから順に私なりにコメントしていこう。まず、わかりやすく人間を例にとって、人間とそれを取り巻く環境のインタラクションを考えてみよう。人間が歩く時、それによって視界が変わり、聞こえる音や漂ってくる匂い、肌への風の当たり方、足裏から伝わる傾きや表面の様子が変化する。これに基づいて人間は歩行を微調整する。環境自体は基本的に変化しないが、人間が受け取る情報は刻一刻と変化し、この情報により人間の運動もまた刻一刻変化する。これをインタラクションと呼ぶことに問題はあるだろうか。ただ道を歩いていて、「オレはいま地球とインタラクションしている」と言うと、たぶんまわりから白い眼で見られるが、たとえば視覚障害者の歩行について、彼/彼女が外界からどのような情報を受け取り、これを行動に反映させているかをプロセスとしてとらえる時には、これをインタラクションとして見るのは当然のことである。人間が鳥に変わったからインタラクションと呼ばないなどということもない。『マネシツグミ』の場合、歩行の例と異なり、電子音が変化しない以上、鳥が受け取る情報も変化しないのではないか‥と考える向きもあるかもしれない。しかし、そうではない。鳥は電子音を模倣し、これまでに発したことのない鳴き声を新たに獲得する。これにより、この鳥にとって電子音の「聞こえ」は確実に変化したはずである。泳げない子どもにとってのプールの水が、泳げるようになったら全く別物に変化するように。
 ここで金子がベイトソン「精神と自然」から引用した箇所は「精神的プロセス」について述べている章だが、同じ章の中でベイトソンは初期の蒸気機関の例を採りあげ、システムのランナウェイを防ぐには時間的変化のプロセスの視点が必要だったことについて述べている。ベイトソンに照らしてもインタラクションは主体間のみに限定されてはいないし、「電子音は変化しない」と決め付けてしまうのは、まさにこの時間的変化のプロセスが視野に入っておらず、初期条件の相関関係だけで考えるからである。金子の引用にはちゃんと「精神的プロセスは決定の循環的な(またはさらに複雑な)連鎖を必要とする」と述べられているにもかかわらず。
 最近の「メディア・アート」がインタラクションの大安売りになっているのは確かなことで、それこそおままごと的な仕掛けで喜んでいても仕方がない。そのことは認めよう。だが、だが、そうしたこと(テクノロジー楽天主義)は、ここで採りあげられたダンの初期作品にも、金子の発表にも当てはまらない。
 
 Bについては確かに虐待であるかもしれない。だが、それを言うのなら、ぜひ酵母菌にモーツァルトを無理矢理聴かせている造り酒屋にまず抗議してほしい。いわゆる「ミューザック」も当然ながら全廃してもらいたい。話はそれからだ。「強制でない方がより深い支配である」のは、ある文脈においてなら確かにそうだろう。たとえば文化的被抑圧者が抑圧者に対して主張する場合なら。しかし、日本の大学で美学を教えている人間に文化的被抑圧者を名乗る「資格」があるとは、私には到底思えない。それともこれは「自責・自戒の弁」なのだろうか。

 結局のところ、会場からの質疑は、金子の発表が、またその対象となったダンの初期作品が、ケージによる人間中心主義的なものからの切断を前提としていることを理解していないとしか思えない。もし、それでも現代の美学が語りうると信じているとするならば、それは自分がすでに死んでいることに気づかないゾンビの群れということになるだろう。


グレゴリー・ベイトソン「精神と自然」(新思索社)
佐藤良明が自ら旧版を改訳



ライヴ/イヴェント・レヴュー | 00:57:45 | トラックバック(0) | コメント(0)
本日の予定
本日はまず午後早くから東京藝術大学へ、「アンビエント・リサーチ」主催者である金子智太郎さんの学会発表を聞きに。


平成22年度第4回美学会東部会例会
研究発表
金子智太郎 (東京芸術大学)
エントレインメントとしての作曲: デヴィッド・ダンの初期作品分析


続いて6時からは、もう一人の「アンビエント・リサーチ」主催者である虹釜太郎さんプロデュースのイヴェント「5H」へ。今回がなんと「5H」最終回です。


虹釜さんのブログからの案内をどうぞ。

記念すべき最後の5Hは、松村正人さんです。
5H 松村正人編   5H最終回
日時: 2010年12月4日(土)  open/start 18:00ー23:00
会場: 円盤   JR高円寺駅徒歩2分
    http://enban.web.fc2.com/
杉並区高円寺南3-59-11五麟館ビル2F 
料金: 1,000円 ワンドリンク込み料金 

『STUDIO VOICE』最後の編集長を務められた松村正人さん5時間
松村正人
編集と執筆。72年、奄美生まれ。1999年より月刊誌
『STUDIO VOICE』に在籍。2007年に雑誌
『Tokion』編集長を、2009年から休刊した同年9月号まで
『STUDIO VOICE』の編集長をつとめた。オンデマンド・パブ
リッシング〈天然文庫〉編集者。湯浅学氏のバンド、湯浅湾のベース奏者でもある。共著に『ゼロ年代の音楽』(河出書房)

これで自分もイベント主催は終わりに。


David Dunn



ライヴ/イヴェント告知 | 11:10:26 | トラックバック(0) | コメント(0)