fc2ブログ
 
■プロフィール

福島恵一

Author:福島恵一
プログレを振り出しにフリー・ミュージック、現代音楽、トラッド、古楽、民族音楽など辺境を探求。「アヴァン・ミュージック・ガイド」、「プログレのパースペクティヴ」、「200CDプログレッシヴ・ロック」、「捧げる-灰野敬二の世界」等に執筆。2010年3~6月に音盤レクチャー「耳の枠はずし」(5回)を開催。2014年11月から津田貴司、歸山幸輔とリスニング・イヴェント『松籟夜話』を開催中。

■最新記事
■最新コメント
■最新トラックバック

■月別アーカイブ
■カテゴリ
■リンク
■検索フォーム

■RSSリンクの表示
■リンク
■ブロとも申請フォーム
■QRコード

QR

大里俊晴著作集「マイナー音楽のために」
 「大里さんが撮った写真を少し見せてもらったんですが、これがいいんですよ」と、以前に月光茶房店主の原田さんから聞いていた。この本の表紙を飾る彼の写真を見て、なるほどと思う。
 おそらくはビルの空調の排気塔だろう。鏡餅型UFOのような愛らしいかたちが斜めに傾いで、手前のひとつには乾いた汚れが不思議な文様を描いている。その下を走る大小のパイプ群も同じ視角にとらえられてはいるが、「工場萌え」のように存在を際立たせることなく、水平の広がりの獲得にただ黙って貢献している。よく見ると、向こうには同じかたちが縮小転写したようにリズミックに繰り返され、さらにその向こうには新宿の街の輪郭がわずかにのぞいている。彼が最後の5年間を過ごしたという「新宿九龍城」からの眺望なのだろうか。いつくしみもしない代わりに、締め出すこともしない。「都市の無関心なやさしさ」を感じさせる1枚だ。
 「京橋のINAXブックギャラリーに置いてある建築書のような装丁」‥これが幸福な第一印象。ちなみにカヴァーを剥ぐと仏スイユ社のシリーズを思わせる禁欲的なほどにシンプルな白地が姿を現す。文字は背に記されたすべて小文字による仏語表記のみ。

 大里俊晴のことをよく知っているわけではない。しかし、本書を読んでみたら、結局ほとんどの原稿は初出の際に眼を通していた。読み進めるうちに、いろいろな記憶がよみがえる。同じ雑誌に書いていたこともあり、ジョエル・レアンドルの来日に当たっては、斎藤徹を迎えて鼎談をしたこともあったし、公開インタヴューの通訳をお願いしたりもした。鼎談を終えての帰り道、駅へ向かう途中の信号待ちで、彼から「ジュヌヴィエーヴ・カバンヌって‥」と訊かれて、「ああ、あのピエ・ド・プールの‥」と答えたやりとりが本書に載っていたりもする。ライヴで顔をあわせたことも何度か。当時の我が家の近く、駒沢の喫茶店アポロで豊住芳三郎とフィル・ミントンのデュオが行われた時、彼は配られたシュークリームをおかわりして3個も食べていたし、ミッシェル・ドネダとカン・テーファンの出会いを目撃しようと大阪に出向いた時は、「ここまで追いかけてくる奴は俺たちぐらいのもんだ」と部屋の外から聞き覚えのある声がしたので、振り向いたら眼が合った。まだ、アップリンクが以前の場所にあった頃、ピエール・シェフェールに捧げる彼のパフォーマンスを観ていた(例のCDボックスセット付属のブックレットにいっぱい附箋を貼って、頁を繰り、仏語で読み上げながら、様々なサウンド/ノイズを発する)し、四谷のジャズ喫茶では仏フリー・ジャズに関するレクチャーも聞いていた(彼は「五月革命」の季節に象徴的な節目を見出すよりも、それに先立つポストモダン的な実践や70年代後半に訪れるフリーな叫びの失効に重要な切断を見ていた)。
 そうしてたぐり寄せた記憶の中で、最も印象深いのは彼の声である。時として極端なまでに自己韜晦が過ぎる書きぶりや、いつも外さない黒眼鏡から知れるように、彼はとてもシャイな人柄なのだが、ゲストに呼ばれて行ったFM東京のスタジオでは、びっくりするぐらい饒舌だった。それはCS放送用の音楽番組だったのだが、彼はパーソナリティとして話を進め、自在に脱線し、アシスタントに茶々を入れ、こちらに話題を投げかけた。深夜放送を聴いていたわけでもなく、とんとラジオに縁の薄いこちらは、せいぜい要領よくコンパクトにメッセージを伝えるだけで精一杯で、まさに水を得た魚だった彼を、とてもうらやましく思ったのをよく覚えている。そうした彼の自信に満ちた振る舞いを支えていたのは、彼の甘く深みのある声と、少年ぽいいたずらな笑いをかみ殺しているような話しぶりだったのではないだろうか。ジャク・ベロカル「フェイタル・エンカウンターズ」で、ベロカルの曲を紹介する彼の声を聴くことができる(なぜそのようなトラックが収録されるに至ったかについては、本書p.415を参照)。

 ここでひとつ強調しておかなければならないのは、彼は決して単なる好事家、「珍品愛好家」などではなかったということである。彼はむしろ頑固なまでに質に気を配り、反動的・抑圧的なまでに「良いものは良い」とした。前述の放送に関する打合せの際に、彼が「この番組では、ファン・ホセ・モサリーニの来日公演のテープを流せたんですよ」と胸を張ったことを覚えている。独身者の反社会的実験としての「エクスペリメンタル・ミュージック」にのみ彼の関心があったわけではない。
 そうした音楽の質への厳しい要求は、彼の性格や「批評と趣味の分裂」ともあいまって、「抑圧的反動オヤジ」といった一種の戯画的キャラを産みもするわけだが、その原点は「音楽に魂を奪われる」という二度と後戻りのできない体験にあるのだろう。本書で「前書き」の位置に置かれている「PRIVATE CHART 10」がそうした体験を垣間見させてくれる。そこで彼の言う「かつて誰にも見せたことのない、一番隠しておきたい、最も大切な場所」とは、そうした説明から連想されるような「ヰタ・セクスアリス」的とも言うべきアドレッセントな目覚めではなく、はるかに暴虐的な「侵入」体験にほかなるまい。なぜなら、阿部薫、アルトー、クセナキス、ヴェルヴェッツ、コレット・マニー、ジャックス、ティム・バックレー、パティ・ウォーターズ、ブルー・チアーと続くリストは、むしろ自己形成の契機として誇りうる「武勇伝」的なものであり、決して「恥ずかしい体験」などではないからだ。本書収録の「JZからの/への迂回」で、ジョン・ゾーンの少年時におけるアルトー、ヴァレーズ、アルバート・アイラー、特にマウリシオ・カーゲル体験に彼が触れる際に示す共感ぶりは、共に「聖痕」を有する者同士の親密な目配せが感じられる(だがスティグマとは、逃れられぬ運命を決定付けるマイナスの刻印でもあることを忘れてはなるまい)。

 編集は「ユリイカ」で担当編集者だった須川善行。巻末の解題、書誌の丁寧なつくりには細やかな愛情が溢れている。



大里俊晴著作集
「マイナー音楽のために」
(月曜社)



スポンサーサイト



書評/書籍情報 | 23:00:44 | トラックバック(0) | コメント(0)
金子智太郎さんの学会発表を聞いて考えたこと
 前回お知らせした金子智太郎さんの学会発表についてリポートします。私自身は学会にも大学にも研究機関にも属していない、単なる部外者ですが、そうした部外者の眼からはこう見えたということをご報告しておくことも必要と考えました。


 「エントレインメントとしての作曲:デヴィッド・ダンの初期作品分析」と題された、この日の金子の発表は、次の2つの部分で構成されていた。②で2曲の作品が音源で紹介されたほかは口頭による報告であり、あらかじめ配布されたのは作品のタイトルや引用文等を記した簡単なレジュメだけだったので、発表内容の詳細を述べることはできない。デヴィッド・ダンについて、さして予備知識の無い私の理解した範囲でのリポートであることを最初にお断りしておく。
 ①再文脈化とシステム:70年代におけるデヴィッド・ダンの位置
 ②エントレインメントとしてのシステム


1.発表に関するリポート
 ①再文脈化とシステム:70年代におけるデヴィッド・ダンの位置
 音楽生態学者、あるいはサウンド・エコロジストとして紹介されるデヴィッド・ダンが、そうした肩書からすぐさま連想されるマリー・シェファー以上に、むしろジョン・ケージや彼の流れを汲む実験音楽の影響を強く受けていることを、金子はまず指摘する。ここで「実験音楽」とは何よりも19世紀以来ロマン主義的モダニズムからの切断であり、音を人間とそれ以外のものの共存を可能とする媒体としてとらえる見方である。たとえばラモンテ・ヤング、マックス・ニューハウス、アルヴィン・ルシエらは、作曲家(あるいは音楽家と言ってもいいだろう)がつくりだす以前から、そこに存在している音を「環境」とみなしている。これにより音を発する、あるいは音を聴く行為が、他の行為とどのように結びつくか、音と外部環境の関係が問題となってくる。
 ここでダン自身によるコメントが引用され、彼の関心が「ケージたちが脱文脈化した音」を「真にインタラクティヴな方法で再文脈化すること」にあることが明らかにされる。すなわち、「環境に立ち返り、音が単なる人間の音楽家の素材ではないという証拠を示すために、システムをつくりだすこと」が目指される。
 さらにダンのコメントの引用により、心象風景や自己表現に結び付けて「音楽的対象における表現の客観的内容を確定しようという試み」が「失敗したポスト・カント主義」として批判される。代わりに登場するのが、音を含む複数の要素から成る、より大きなインタラクションのシステムである。このことに関し、同時代的なシステム論への関心としてマイケル・フリードによる「演劇性」の理論やジャック・バーナムによる「システムとしての彫刻」論が、また、外部環境と作品との関係性についてロバート・スミッソンらのアースワーク、ランド・アートが参照され、さらに、作品を取り巻く身体状況設定(corporeal condition)が、60年代ミニマリズムから70年代、80年代と進むにつれ、性別や政治的・制度的な次元との関連など、さらに突き詰められていったというロザリンド・クラウスの指摘が引用される。

 ②エントレインメントとしてのシステム
 聞こえた音を模倣する習性のある鳥に、これまで聞いたことのない電子音を聞かせる作品『マネシツグミ(Mimus Polyglottos)』(1976)が音源とともに紹介される。電子音は矩形波を用いているとのことで、確かに自然界には存在しないタイプの「不自然極まりない音」である(私=福島はオモチャの光線銃の音を連想した)。繰り返される耳慣れない音に、最初鳥はヒステリックに反応し、その中で通常は見られない発声が生じる(「新しい声」の獲得)。鳥はしばらく沈黙した後、変わらずに繰り返される電子音の諧調の幅を見切ったように、自信を持ってこれに対応し鳴くようになる。
 さらにもう一作品『エントレインメンツ1(Entrainments 1)』(1984)がやはり音源とともに紹介される。エントレインメントとは異なる二つの系の同期化・同調化を意味する。ここでは鳥がやかましく鳴き騒ぐ森の中で、あらかじめ作成しておいた電子音(自然界には通常存在しない正弦波のランダムな再生。私=福島には映画「アンドロメダ病原体」のオープニングで流れるような「昔のコンピュータ」的音色と感じられた)を流し、これを録音し、この鳥の鳴き声と電子音の入ったテープをまた再生し、その様をまた録音し‥というプロセスを繰り返したものである。最終的には電子音と鳥の声が何重にも敷き重ねられて厚いドローンの層を形成することになる。ここには音響装置(テープの再生)とこれに対する鳥の反応のインタラクションがあり、最初、森の環境への新たな異物の侵入であった電子音が次第に受け入れられ、最終的に一種の定常状態に至って環境秩序の中に位置を得ていくプロセスの記録であり、インタラクションを通じてひとつのプロセスが形成されていく様子を示している。


2.発表に関する福島のコメント
 金子の発表は、「サウンド・アート」という語が、音を発するガジェットの展示やコンピュータを用いた「おままごと」的なインタラクション等に冠せられている現在のグズグズの状況において、ケージによる切断を踏まえながら、それを継承するダンの作品を分析することにより、そのコアとなる部分を示している点で有益なものと言えるだろう。彼はダンの作品を声高に褒め称えているわけではない。むしろ、同時代の美学・思潮との関係を示しながら(ということは、その限界と置き忘れられた可能性を暗示しながら)、その輪郭をクールに描き出している。私のダンに対する予備知識は「昆虫や小動物のコミュニケーションに注目し、いろいろなところにマイクを付けて録音している変な人」ぐらいのものだったので、「こんな変なことをしているアーティストがいます」的な単なる紹介(先頃翻訳の出たアラン・リクトの本やフィリップ・ロベール「エクスペリメンタル・ミュージック」は多分にそうしたところがある)にとどまらず、初期のダンが何を踏まえ、何を行おうとしていたのかを明らかにしたくれた金子の発表は、非常に得るところが大きかった。
 特に「人間以外のコミュニケーション」への注目が、ケージによる人間中心主義的なものへの切断を受けて、より大きなシステム、環境に埋め込まれた文脈への注目として現れてきたこと、その背景にはグレゴリー・ベイトソンによるインタラクションやプロセスに関する思考があることを教えてもらったのはありがたかった。一般にケージによる「音の脱文脈化」は依然としてきちんととらえられているとは言えず、たいていの場合、「脱文脈化しているから意味わからない」vs「脱文脈化しているからスゴイ」といった不毛な対立にとどまっていて、「脱文脈化」された音をちゃんと聴いて、実際にそこで起こっていることをきちんと観察し、記述/分析するという当然のことがされていない。それをきちんと行っている金子の発表は、それだけで充分評価に値するだろう。
 『エントレインメンツ1(Entrainments 1)』では、テープによる再生音と鳥たち(実際には他の様々な生物も含まれていよう)が一種の定常状態に至る。それはどちらか一方への「引き込み」ではない。「エントレインメント」の訳語として通常用いられることの多い「引き込み」ではなく、相互的な「同調化」を当てていたのはこのことを踏まえてのものだろう。ただし、このプロセスの振る舞いは別の要素(パラメータ)が顕著となれば、こう単純には定常状態へは至らないだろう。たとえば次のような例が考えられる。
 ア 急に雨が降り出した
 イ プロセス進行中に日が沈んだ(あるいは日が昇った)
 ウ 他の侵入者(大きな肉食の鳥類など)が現れた 等
 

3.当日の会場からの質疑について
 ところが、当日の会場からの質疑は違った。本来なら、こうした発表に対する質疑とは、発表内容を補強するために言い足りない部分を明らかにする建設的なものでなければならないと思うが、私の見るところでは、それらは悪意ある否定だった。主要な指摘事項は次の2点に集約されるかと思う。

A 『マネシツグミ』において、電子音は鳥の反応によって変化しないのだから、インタラクションは生じていない。インタラクションの用語法に見られるように、サウンド・アート等では言葉の使い方がルーズである。主体間のコミュニケーションではないのに使っている。

B 鳥に模倣等の反応を強制するのは虐待ではないか。(「鳥は電子音に興味を持ち、面白がって、主体的にこれに関わり、遊んでいるのではないか」との金子の回答に対し)強制ではない方がより深い支配であることを覚えておいた方がよい。


 Aから順に私なりにコメントしていこう。まず、わかりやすく人間を例にとって、人間とそれを取り巻く環境のインタラクションを考えてみよう。人間が歩く時、それによって視界が変わり、聞こえる音や漂ってくる匂い、肌への風の当たり方、足裏から伝わる傾きや表面の様子が変化する。これに基づいて人間は歩行を微調整する。環境自体は基本的に変化しないが、人間が受け取る情報は刻一刻と変化し、この情報により人間の運動もまた刻一刻変化する。これをインタラクションと呼ぶことに問題はあるだろうか。ただ道を歩いていて、「オレはいま地球とインタラクションしている」と言うと、たぶんまわりから白い眼で見られるが、たとえば視覚障害者の歩行について、彼/彼女が外界からどのような情報を受け取り、これを行動に反映させているかをプロセスとしてとらえる時には、これをインタラクションとして見るのは当然のことである。人間が鳥に変わったからインタラクションと呼ばないなどということもない。『マネシツグミ』の場合、歩行の例と異なり、電子音が変化しない以上、鳥が受け取る情報も変化しないのではないか‥と考える向きもあるかもしれない。しかし、そうではない。鳥は電子音を模倣し、これまでに発したことのない鳴き声を新たに獲得する。これにより、この鳥にとって電子音の「聞こえ」は確実に変化したはずである。泳げない子どもにとってのプールの水が、泳げるようになったら全く別物に変化するように。
 ここで金子がベイトソン「精神と自然」から引用した箇所は「精神的プロセス」について述べている章だが、同じ章の中でベイトソンは初期の蒸気機関の例を採りあげ、システムのランナウェイを防ぐには時間的変化のプロセスの視点が必要だったことについて述べている。ベイトソンに照らしてもインタラクションは主体間のみに限定されてはいないし、「電子音は変化しない」と決め付けてしまうのは、まさにこの時間的変化のプロセスが視野に入っておらず、初期条件の相関関係だけで考えるからである。金子の引用にはちゃんと「精神的プロセスは決定の循環的な(またはさらに複雑な)連鎖を必要とする」と述べられているにもかかわらず。
 最近の「メディア・アート」がインタラクションの大安売りになっているのは確かなことで、それこそおままごと的な仕掛けで喜んでいても仕方がない。そのことは認めよう。だが、だが、そうしたこと(テクノロジー楽天主義)は、ここで採りあげられたダンの初期作品にも、金子の発表にも当てはまらない。
 
 Bについては確かに虐待であるかもしれない。だが、それを言うのなら、ぜひ酵母菌にモーツァルトを無理矢理聴かせている造り酒屋にまず抗議してほしい。いわゆる「ミューザック」も当然ながら全廃してもらいたい。話はそれからだ。「強制でない方がより深い支配である」のは、ある文脈においてなら確かにそうだろう。たとえば文化的被抑圧者が抑圧者に対して主張する場合なら。しかし、日本の大学で美学を教えている人間に文化的被抑圧者を名乗る「資格」があるとは、私には到底思えない。それともこれは「自責・自戒の弁」なのだろうか。

 結局のところ、会場からの質疑は、金子の発表が、またその対象となったダンの初期作品が、ケージによる人間中心主義的なものからの切断を前提としていることを理解していないとしか思えない。もし、それでも現代の美学が語りうると信じているとするならば、それは自分がすでに死んでいることに気づかないゾンビの群れということになるだろう。


グレゴリー・ベイトソン「精神と自然」(新思索社)
佐藤良明が自ら旧版を改訳



ライヴ/イヴェント・レヴュー | 00:57:45 | トラックバック(0) | コメント(0)