2010-12-23 Thu
ようやく読みました。どこかに書評は出てるのかな。私の感想を正直に記せば「思った以上のヴォリュームだが、読み通して新たな発見はなかった」というところだろうか。ただ、音楽を巡る最近の思考の、ある種特徴的な部分が出ていると思うので、その辺を中心に論じてみたい。なので、全体を正面から受け止めたレヴューとはなりえません(もとよりそれは私の能力を大きく超えている)。あしからず。1.全体構成
まず、400ページ弱の厚さを誇る本誌のラインナップは次の通り。最初と最後を飾るA・Cが対談で、中央に位置づけられたBが座談会。これらすべてに責任編集の片山杜秀が参加している。その他はすべて論考(①~⑪)でグラフィック系のページはない。論考を幾つかにグループ分けすれば、まず⑦⑧を座談会の補足として位置づけることができるだろう。「東」と「西」、そして間をつなぐオスマン~トルコという形で。座談会に先立つ⑤⑥もむしろ「西」の音を考察する上で不可欠な視点として、ここに置かれた感が強い。これらがまず1グループ。
次いで⑨~⑪をレコード(録音)が開く空間を取り扱ったものとしてグループ化することができるだろう。この流れは実際にはコンサート体験を語っているにもかかわらず、レコード演奏評ように読めるCへとつながっていく。
これに先立つ論考は、巻頭対談のロック軽視へのエクスキューズのように見える①を別として(アファナシェフの参加自体が、日本人だけで「東と西」を「思想として」論じることへのエクスキューズなのかもしれない)、残りの3編(②~④)を、それぞれ「構造」、「システム」、「行為」の3つの視点からとらえた音楽論と位置づけることができるだろう。
なかなか壮大な3部構成だが、本書の特徴として、執筆者にいわゆる「音楽ライター」が少ないことが挙げられる。そう呼べるのは対談に参加している特別扱いの3人、片山、菊地、許ぐらいで、残りのほとんどは音楽学の研究者たちである(レーベルを運営する沼田は貴重な例外と言えるだろう)。そうした点では「○○スタディーズ」的な論文集を思わせるが、本誌はあくまでも「雑誌」として発行されていることに注意しておこう。
A 菊地成孔vs.片山杜秀 ポップと退屈―退行の時代の批評
① V・アファナシェフ The Body―プログレッシヴ・ロックをめぐる哲学的省察
② 大和田俊之 反復と制御―ポピュラー音楽における<黒さ>について
③ 田村和紀夫 音楽はシステムである Music is system
④ 沼田順 即興音楽とは何か-インプロヴィゼーションの現在
⑤ 阪上正巳 狂気と音楽
⑥ 稲垣良典 神と音楽
B [誌上シンポジウム]「いい音」は普遍か?─近代西洋音楽の外側から
⑦ カルロ・フォルリヴェジ 「東」の音と「西」の音を合わせることは可能か?
-西洋と日本の音楽的「習合」のための試論
⑧ 斎藤完 近現代における”かの地”の音楽-オスマン帝国、そしてトルコ共和国
⑨ 谷口文和 レコード音楽がもたらす空間-音のメディア表現論
⑩ 渡邊未帆 カットアップの快楽-大里俊晴音楽論にかえて
⑪ 輪島裕介 《東京行進曲》《こんにちは赤ちゃん》《アカシアの雨がやむとき》
-日本レコード歌謡言説史序説
C 許光俊vs.片山杜秀 最高の演奏を求めて
とりあえず、全体の「見取り図」を描いたところで内容に入ろう。とはいえ、全ての論考に言及する余裕はない(冒頭に述べたように、その能力もない)。幾つかの論考を採りあげながら、全体に関わる特徴的な点を指摘しつつ見ていくこととしよう。
2.「反復と制御-ポピュラー音楽における〈黒さ〉について」
まずは②「反復と制御-ポピュラー音楽における〈黒さ〉について」。この論考を採りあげる理由は、最近の批評に共通する特徴を備えているように思われるからである。まず、ロジックの流れをざっと追ってみたい。
2008年のヒップホップ・シーンから、リル・ウェインのシングル「ア・ミリ」が採りあげられる。その理由を大和田は次のように説明する。「よく聴くとかなり変わっているにもかかわらず、この曲が爆発的に売れたことが問題なのだ」と。次いで、その「変わっている」点が、「これはもはや〈音楽〉と呼べないのではないか」というほどの極端なシンプルさ-メロディとハーモニーを欠き、リリックすら内容に乏しい-にあるとして、そこから〈(ビートの)反復〉を21世紀黒人音楽の主たる要素として取り出す。続いて黒人音楽史を溯り、ブルースの12小節AABとティンパン・アレーの32小節AABAを対比させ、〈反復構造〉による黒人音楽と〈物語構造〉による白人音楽の対へと類型化し、ジェームズ・ブラウンらによるファンクとジミ・ヘンドリックスらによるロック、さらにはヒップホップとパンク・ロックを、この対の変奏と位置づける。
大和田はさらに「黒人音楽にはもうひとつ重要な特徴がある」として、〈反復〉と密接に関わる〈身体の制御〉=ボディ・コントロールを挙げ、これを黒人男性の支配的価値観である「クールさ」と結びつけながら、「グルーヴに身を任せる自分」と「グルーヴに身を任せる自分を見つめる自分」の均衡という「二重意識」(アメリカ人でありニグロである)の効果ととらえ、これをパノプティコン=一望監視施設を巡るミシェル・フーコーの議論(「監獄の誕生」)に接続する。そして、黒人音楽の浮上と監視社会の進行が時期的に符合していると指摘し、「先進国を中心に『監視社会』化が進行する過程で私たちが『二重意識』を内面化したとき、黒人音楽は「黒人の音楽」であることはるかに越えて普遍性を獲得したのだ」とし、「私たちは『黒人』化する社会に生きている」と結論付けてみせる。
この論考を特徴的と私が考えるのは、最近の批評に共通する次のような特質(私はそれらを欠点と評価している)を、本稿がわかりやすく備えていることによる。
(1)身近なところに極端な(もはや音楽と呼べない)ものを見出し、しかし、それが「売れている」ことを分析の対象として採りあげる契機としていること。
(2)(1)の分析から採りだした類型を、その極端さを成り立たせる「原理」ととらえ、それが最終的に現代社会に大きな影響を投げかけているとする「原論志向」。
(3)描写分析が少なく、細部への注目を排して概念操作に重きを置く点。これは比較参照を排した論理展開の単線化とともに、「原論志向」の副産物と考えられる。
(4)政治的視点の意識的排除が、意識しない政治性を呼び込んでいる点。
順に見ていくとしよう。まず(1)は「ア・ミリ」を特権的なサンプルにして、時代(社会の趨勢)を象徴するものとして採りあげる手つきのみならず、これに先立って語られる「個人的な話」により、LPレコードの針飛びの聴取体験が、〈反復〉の原体験として位置づけられる点にも及んでいる。この「極端さ」が、にもかかわらず「売れている」ことで、そこに重要な原理が潜んでいるという思考回路は、極めて「社会学的」、あるいはマーケティング・リサーチ的なものだと言えよう。以降、大和田はむしろ美学的にロジックを転回するにもかかわらず、マイケル・ジャクソンが「キング・オブ・ソウル」ではなく「キングオブ・ポップ」と呼ばれていることに注意を促すなど、最後まで「売れている」ことに根拠を求める姿勢を崩そうとしない。そして「売れている」からこそ、それは現代社会に大きな影響を及ぼし得るとして、この点は彼の「原論志向」の(おそらくは唯一の)支えとなっている。
描写分析が少ないのは、最近の「批評」の大きな特徴である。細部に魅力のありかを求めることをせず、新たなジャンルの誕生の必然性(「現代社会がそれを求めたのだ」)だけで押していく論の運びが、その結果もたらされる。筆者は対象作品の魅力を直接語ることなく、注目すべき社会現象(だから「売れている」と「極端さ」は重要だ)を、それを引き起こした原理から説明していくという「評論家」的=ニュース解説者的姿勢がそこにはある。「何でこのような事件が起こってしまうのでしょうか」というキャスターの問いかけに応え、お茶の間に向けわかりやすく説明するコメンテイターの役割。こうして見ていくと、「原論志向」が執筆者側の動機だけによるものではなく、社会的需要、さらに言えば消費のモードに基づくものであることがわかる。「原論」により手っ取り早く問題を片付け、さっさと消費してしまいたいのだ。もともと批評とは、そのような思考停止への抵抗としてあったのではなかったか。
この時、論理の展開は、ただただスタートとゴールを結ぶ単線的なものとなりやすい。それがエコノミーというものであり、消費という「カタルシス」を求めるものの特質であるだろう。幾つか具体的に指摘すれば、「二重意識」はマイナーな存在全般に見られる。たとえばティンパン・アレーの屋台骨を担ったユダヤ人にも。あるいはゲイ・ピープルにも、文化先進地域から里帰りしたエリートにも。これをアメリカ黒人に特有の意識というのはいささか無理がある。次いで、この「二重意識」をパノプティコンと結びつけるならば、これは「不在の視線の内面化」として近代的主体全般に当てはまってしまうことになる。ここで浅田彰「構造と力」に描かれた「ふたつの教室」の話が即座に思い浮かんだと白状すれば、年齢がばれてしまうな。
さらに付言するならば、そうした「内面化」が通用しなくなって(動物化?)、校門に金属探知機を設置するとかって話にまで世の中進んでるわけで、今さら「内面化」を2008年のシングルから説き起こして2010年に宣言している場合ではないだろう。おそらく大和田はそんなことは百も承知で「私たちは『黒人』化する社会に生きている」と結論付けてみせたのではないか。とすれば、これこそは政治的な選択にほかなるまい。論中で〈反復〉に「大量生産のメタファー」を見るのも、「システムへの抵抗」を見るのも、おなじように「安易」であり、結局は己の見たいものを見るという形で、自らの政治性を明らかにしているだけだと、彼自身そうした立場を退けているにもかかわらず。
3.「思想として」とは何か
②ほど特徴的・典型的ではないにせよ、ほとんどの論考に同様の「原論志向」と細部への注目=描写分析を排した概念操作の弊害が見られる。③はわざわざストーンヘンジまで時間を溯りながら「ドレミは移動可能なシステムである」で終わってしまうし、④は言葉で伝えにくいものを何とか伝えようという執筆者の思いは痛いほど伝わってくるのだが、その思いとは裏腹にやはり概念操作に終始してしまう。冒頭から「言語化しえないものを語る」と課題提起してしまっては、筆が重くなるのもいたしかたないだろう。
⑤の坂上正巳については、彼の著書「精神の病と音楽」(廣済堂出版)を以前に読み、とても興味深く思っていたので(冒頭の誰もいない暗い部屋に急に流れ出したウェーベルンを「暗闇の中の植物の営み」へと結び付けるイメージの流れは鮮やかだ。たとえウェーベルンがゲーテの「原植物」を参照していたという史実が連想の下敷きになっているとはいえ)、今回の論の乱暴な運びは残念だ。狂気と音楽を巡るエピソード的記述に飽き足らず、精神病理学的視点として「緊張病性エレメント」(内海健の著作はぜひ各自で読まれたし)を導入するのはよいとして、そこからの展開が坂上自身も文中で再三述べているように、ここで取り扱う「狂気」が通常の意味の狂気とかけ離れたものになってしまうというのは問題だろう。ただし、「何と音楽的な表現であろうか」という賛辞とともに引用されるのが中上健次「枯木灘」の一節で、つるはしをふるう主人公秋幸が、彼を取り巻く自然にまみれ、浸透されていく場面であるのは興味深い。蓮實重彦による「彼は自然に対しては、全身でそれにまみれてしまう」という指摘に導かれて、私もミッシェル・ドネダ論に同様の場面(別の箇所ではあるのだが)を引用したことがあるからだ。身体のアクションを通じて(ここがポイント)、環境が身体へと浸透してくる経験は、音楽/演奏にとって非常に重要だが、それをあえて「狂気」の名の下に語らなければならない理由はない。
今回の特集のテーマとして掲げられている「思想としての音楽」の、「思想として」という〈枕詞〉がこのような思考の硬直を招いているのだろうか。すなわち〈思想〉=〈哲学〉=〈概念の操作による思考〉という枠組みの強制である。創刊以来「RATIO」が目指してきたという「根本から問い直す」ことを音楽に適用した成果が、この「思想としての音楽」だとすれば、これはやはり違うのではないだろうか。
「思想としての音楽」が本来目指すべきは、音楽を巡る思考に幾つもの補助線を引いて、音楽を従来の思考の枠組みから解き放つことだろう。それは単に音楽や音との合一化体験に言葉を捧げることではもちろんない。むしろ、思考によって「聴くこと」を深め、深められた「聴くこと」によって露わにされた新たな光景を、また新たな思考によって読み解くという、「聴くこと」と思考の二人三脚的な歩みである。それは顕微鏡の倍率を上げていくにつれ、あるいは地表からの高度を高めていくにつれ、光景が段階的に移り変わっていく様に似ている。
4.「雑誌」的な場
補助線を引き、外部に参照項を設け、思考を外へと開きながら「聴くこと」を深める。音や音楽を巡る世界が、こんなにも混沌と多様化し、広大に、また荒涼として広がっている現在、そうした取り組みを一人の執筆者が一つの論考(あるいは著作)の中で行うことは難しいに決まっている。本来なら、全体の見取り図を提示したり、まとめをしたりして、中身へのアクセスを容易にするはずの巻頭・巻末の対談が、ほとんどその機能を果たせていないのも、こうした現状をそのまま表したものと言えるだろう(それこそが「見取り図」なのだ‥という逆説的言い方もできなくはないが)。
そのためにはまず、これらの論考がそれぞれに読者を触発し、さらには論考同士が互いに関連/触発しあって、更なる「聴くこと」へ、あるいは音楽を巡る思考へと誘うことが求められる。今回のRATIO「思想としての音楽」を読んで、音を音楽を改めて聴きたくなったかと言えば、私はならなかった。むしろ、ある種の結論めいた言葉(「聴くこと」をそして音楽を巡る思考を終わらせるための)を求めている読者は、望みのものを何か得られたかもしれないが。「僕たち『黒人』化する社会に生きてるんだってさー。知ってたー?」 みたいな。
もうひとつ求められるのは、そうした「回答」を求める読者に対して、行き止まりの「回答」ではなく、次の部屋への扉を用意することだろう。「雑誌」とはもともとそういう場ではなかったか。検索エンジンが求めているものしか探せないのに対して、求めてはいなかった、知りもしなかった、思わぬものに遭遇してしまうきっかけを与える場。隣接性による創造的誤配。今回、巻頭対談の中で、「食えるもの、甘いものしか盛られていない皿」が現在の情報メディア環境のイメージとして提出されるが、求められているのは、〈面白い/面白くない〉の混在だけでなく、〈求めている/求めていない〉の混在であるだろう。こう書いていて思い出すのは、かつての「ユリイカ」臨時増刊「総特集 ワールド・ミュージック」で大里俊晴が書いたゲダリア・タザルテスの紹介文である。大里自身が後から「思いっきり他の論稿から浮いていた」と振り返るこの文章は、大里俊晴著作集「マイナー音楽のために」(月曜社)に収録されているので、ぜひ読んでみていただきたい。初出時、わずか見開き2ページのこの文章に、思わず惹きつけられた読者は多かったのではないだろうか。必ずしも肯定的評価ではなく、ここに私の知らない何か異質なものがあるという「異物感」の刻み込みであったにしても。当時パリ・ペキン・レコーズを開いていた虹釜太郎は、この紹介文に感激し、大量にコピーして配りまくったという。私はといえば、ゲダリア・タザルテスの名前は聞いていて、盤も確か1枚所有していたものの、そのあまりに怪しげな空気にいささか敬遠していたところで、この記事を見てあわてて聴き返し、重要なミュージシャンとして深く認識しなおした覚えがある。こうした得体の知れない別世界(それは必ずしも遥か遠くではなく、ほんの隣に開けているのだが)へ通じる扉に出くわすことが(たとえ扉を開けて中に入らずとも)、人生には絶対に必要だ。本誌が「雑誌」として編集されながら、そうした扉を持ち得なかったことは致命的な欠陥と言えよう。これはもしかすると(日本の)音楽学の問題なのかもしれないのだが

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