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福島恵一

Author:福島恵一
プログレを振り出しにフリー・ミュージック、現代音楽、トラッド、古楽、民族音楽など辺境を探求。「アヴァン・ミュージック・ガイド」、「プログレのパースペクティヴ」、「200CDプログレッシヴ・ロック」、「捧げる-灰野敬二の世界」等に執筆。2010年3~6月に音盤レクチャー「耳の枠はずし」(5回)を開催。2014年11月から津田貴司、歸山幸輔とリスニング・イヴェント『松籟夜話』を開催中。

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小野寺唯(yui onodera)さんと話したことから
 小野寺唯さんと先日少し話す機会があった。と言っても、インタヴューなどという改まったものではなく、雑談を交わした程度なのだが、その時印象に残ったことを書いてみたい。


 彼によれば、今のやっているようなアンビエント、フィールドレコーディング、あるいはエレクトロニカ敵な音楽を制作するきっかけとなったのは「イーノ体験」なのだと言う。イーノを初めて聴いたのは学校の授業でのことで、午後の陽だまりの中、食後のまどろみに『ミュージック・フォー・エアポーツ』がゆったりとかぶさりしみこんでくる体験が、とても不思議で今までにない新鮮なものだったと。これを「イーノによってもたらされるアンビエントへの道程」ととらえればあまりにも当たり前過ぎるが、私に強い印象を残したのは、バンドをやっていて、ギターを学んでもいた、音楽をはじめ文化に強い関心を持つ若者が、それまでイーノを聴いたことがなかったという事実の方だ。私が「青春」を過ごした80年代、イーノが「神」だった時代には、到底考えられないことだろう。しかし、前世紀末の日本は80年代からそれだけ深く断絶していたのだ。

 イーノに魅せられた彼は、彼を出発点として、ミニマル・ミュージックやエレクトロニカを同時に発見していくことになる。そうした時期に「アヴァン・ミュージック・ガイド」が良きガイドブックになったのだろう。彼はバンド活動を休止し、ひとりPCに向って音楽をつくり始める。やがて第二の転機となる「リュック・フェラーリ体験」が訪れる。
 こちらにはイーノの時のようなシチュエーションの記憶は伴っていないようだ。その意味で前者が生活時間的なものとすれば、後者はよりテクスト的なものと言えるかもしれない。それではフェラーリがもたらしたものとは何か。彼によればそれは「素材となる音をあまりプロセッシングしてしまわず、「生」のまま用いる」ことだそうだ。フェラーリの師であるピエール・シェフェールが、切断/変形により音をもともとの文脈から「根切り」し、文脈によってもたらされる意味から解き放って、抽象的な造型/運動へと向ったのに対し、フェラーリがむしろ断ち切りがたく残存してしまう文脈/意味に注目し、それをこそ操作する「寓話的音楽」を方法論として掲げたことは、広く知られていよう。それはある種の「逆転の発想」なのだが、ここではむしろ、PCによる音響加工を最初から前提にして、加工による整除された均質化からヘテロトピックな(あるいはアノマリーな)混在へ。それは思考/視点の転換と言うよりは、むしろ音の「手触り」や音風景の「見え」の転換と言うべきだろう。

 彼は気持ちいいだけの音楽をつくる気はないと言う。「もっとコンセプチュアルなものを‥‥」という彼の弁を聞いていると、彼が求めているのは別にかつてのフルクサスのようなコンセプチュアル・アートではなくて、心地よさをはみ出す過剰さ、思考を刺激/触発する何物か、あるいは構築へと向う意志とでも言うべきものであることがわかってくる。Celerとのコラボレーションによる『Generic City』がレム・コールハースを参照していたように、彼が建築に惹きつけられていくのは、この構築性への志向ゆえだろう。『Generic City』のレヴュー(彼の自主レーベルCritical PathのHPで読むことができる。http://www.critical-path.info)を金子智太郎に依頼したのも、彼が建築系雑誌「10+1」に執筆した文章を見てのことだと言う。

 「音楽をアートにしたい」と彼は言う。誤解を受けやすそうな発言だが、別に「音楽の村上隆」になりたいということではないはずだ。あるいはクラシック音楽の延長線上で星になりたいわけでも。サウンド・アートが旧来のアートの枠組みに素材として音を持ち込んだだけなのに対し、音そのものをアートにしたいとも。と同時に、これからも様々な機会をとらえて、コラボレーションを続けていきたいと語る。彼によれば『Generic City』に対するレヴューの多くは、「今までのOnoderaの作品にもCelerの作品にも似ていない」と評していると言う。確かにそれは、きらめく音のレイヤーを敷き重ねた美麗なドローン・アンビエントにも、『Suisei』の繊細なプロセッシングによる物語性を排したコンクレートな構築にも、あるいはCelerがいつも見せる柔らかく暖かな風合いの色の帯のにじみ/重なりの無時間的な(金太郎飴的な?)移ろいとも異なっている。彼は手っ取り早く「小野寺印」を確立するよりも、共同作業を通じて自分の新たな側面が開かれていくことを楽しんでいるようだ。『Generic City』で聴かれる狭い路地に迷い込んだ眼差しがとらえたスナップショットのような音の点景は、Celer的なゆるやかさを身にまとうことにより、自らを吊り支える。コラージュ的な多視点よりも、気ままにゆったりと街路を経巡り、時とところを移していく視点を思わせる。あのように音風景をポンッと切り出し、さりげなく大胆に置いてしまうことは、おそらく彼だけだったらできなかったろう。Celerとサウンド・ファイルをやりとりする中で、いろいろな変化があったと彼は語っていた。ただ音を重ねていくのではなく、そこで見えてくるもの、紡がれた関係性に眼を凝らすこと。厚塗りの装飾を剥ぎ取って、加工していない音素材をそのまま配置してしまうこと。プロセッシングよりも空間/時間的な配置に配慮し、やりとりの中で2人の関係を変えていくこと。そうしている限り、彼は外の風に新しい皮膚をさらし続け、新たな可能性を開いていくことができるだろう。



Brian Eno / Music for Airports


yui onodera / suisei


yui onodera
the beautiful schizophonic
/ Radiance



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音楽情報 | 02:20:51 | トラックバック(0) | コメント(0)
サイモン・フィン Simon Finn 来日に寄せて
 「伝説のアシッド・フォーク・シンガー」サイモン・フィンが来日する。前回お伝えしたように、音楽誌「ユリシーズ」が来日公演に関わっていて、その関係で私のところにポスター/パンフレットへの執筆依頼が舞い込んだ。すでにサイモン・フィン自身のインタヴューも取れて、バイオグラフィ、ディスコグラフィと共に掲載予定となった時点で、これだけではあまりにも「閉じている」との印象を与えてしまうのではないか、彼を孤高の存在に祀り上げてしまうことになるのではないか‥との疑義が芽生え、言わばサイモン・フィンという存在を外に開くための「補助線」を引く企画が求められることとなった。結局、それは「サイモン・フィンと一緒にこれを聴け」的なものにまとまり、締め切りまで間のない中で、私のところにも依頼が来たという次第。「300字で参考ディスクを1枚挙げる」という枠組みに対し、私が提出した原稿は次のようなものだ。


 サイモン・フィンはずっと私の〈護符〉だった。岡崎京子「リバーズ・エッジ」の白骨死体のように。おそらく彼自身にとっても。人生の第一歩を守るべき境界が溶解し悪夢化するジャケットがそれを物語る。花々がしおれ、夢が嘘に変わる時代、「スローターハウス5」や「結ぼれ」と共に危険な深淵を指し示す心優しき作品。線が細くおぼろな音はアンビエンスと共にとらえられ、ノイズも鳥の声と同様、世界の透明なざわめきと化す。聞こえてくるのは今へとつながらない奇妙な過去。「エルサレム」はウィリアム・ブレイクを突き抜け、ベドラムを脱け出した吟遊詩人の幻に至る。ハリー・スミスが同じ奇妙さを封じ込めた箱を傍らに。
 参考ディスク/Anthology Of American Folk Music(Smithsonian Folkways Recordings)



 300字ということで思い切り圧縮したので、なくもがなの「解題」をさせていただこう。まず、サイモン・フィンという強力な〈神話的〉磁場を有する存在を外に向って開いていくためには、まずは「アシッド・フォーク最高峰」とか「デヴィッド・トゥープ参加」といった既存の受容の文脈から、彼と彼の作品をいったん引き剥がす必要がある。それゆえ与えられた300字を、私は極めて私的な告白から始めることとした。初めて彼の『パス・ザ・ディスタンス』を聴いた時の鮮烈な体験は、同時代の記憶である岡崎京子の漫画作品「リバーズ・エッジ」へと結び付けられる。彼女の代表作のひとつである本作品において、誰のものとも知れぬ白骨死体は、学校の近く(川のそばでもある)深い草むらの奥に横たわっていて、壮絶ないじめを受けている少年の「護符」となっている。「何かこの死体をみるとほっとするんだ。」、「自分が生きているのか死んでいるのか、いつも分からないでいるけど、この死体をみると勇気が出るんだ」と少年はつぶやく。

 『パス・ザ・ディスタンス』に針を落としたとたんに流れ出す高純度の実存不安。冥府へと降りていくような得体の知れない声の深さ、震えるようなアンサンブルの揺らぎ、突如としてほとばしり出る怒気の奔流、荒れ果ててばらばらに解けていく音の軌跡、それらを吸い込む底の知れない虚ろな空間、死の川に浮かび漂うような安らかさ‥。そこに生臭い身体の痕跡はない。疲れ果て、荒れ果てて、雨に洗われ、からからに乾き尽くした果ての清々しい美しさ。荒れ果てた部屋に訪れる夜明けにも似た、張り裂けんばかりの轟音の核のしんとした静けさや、どきどきするような不安、放心状態であてもなく漂うやさしさは、行き着いた果ての確かさのようなものを感じさせた。
 それはおそらくサイモン・フィン自身にとっても同様だったのではないか。『パス・ザ・ディスタンス』のジャケットには、よちよちと歩みだす幼児の姿が描かれているが、これには明らかに「原画」が存在する(どうも子ども靴の広告の図柄らしいのだが、詳細は確認できなかった)。その「原画」をそのまま写したとおぼしきセカンド・ヴィジョン『ファースト・ステップス』のジャケットと比較するならば、それがよれよれと歪んでいく描線による「稚拙な」模写であることがわかるだろう。整然と設えられた柵と並木に護られて踏み出す、祝福すべき人生の第一歩は、強迫的な高い塀に閉ざされた、どこへ向うのかわからない不安な道行きへと置き換えられている。さらにこの図柄は『パス・ザ・ディスタンス』の裏ジャケットにおいて反復されるのだが、そこでは拙さを通り越して、決定的な悪夢化を来たしている。禍々しい悪夢に飲み込まれないために、その彼方にある狂気や死をまっすぐに見つめること。

 そこまで見ておいて、改めて作品を元の時代の中に置きなおすとしよう。『パス・ザ・ディスタンス』が制作された70年は、華やかなフラワー・ムーヴメントが終わりを告げ、「五月」を賑わした政治の季節が去って、すべてが剥き出し資本の論理に飲み込まれていく時代だった。破綻した「ユートピア」の夢に「がっかりするな。人間は昔からそうだった。」と苦く酸っぱいなけなしの希望が提示される。たとえば連合軍のドレスデン爆撃を(捕虜として爆撃を受けた側から)描いたカート・ヴォネガット「スローターハウス5」(1969年)や反精神医学を標榜したスコットランド生まれの精神科医R.D.レインが対人関係の結び目にとらわれた人間の姿を見つめた「結ぼれ」(1970年)がそうだろう。また、この時期はカート・ヴォネガットの長男マークが、自ら「エデン急行」(1975年)で振り返っているように、彼のユートピックなドロップアウト生活が狂気(急性精神病)へと至る期間でもある。

 録音に際し、サイモン・フィンを手助けしているのは、当時、彼の出演していたライヴハウス「ラウンドハウス」でバイトしていた若き日のデヴィッド・トゥープとポール・バーウェルである。揺らぎを多く含んで、まっすぐに積み上がっていかない演奏は、声にまるで幽霊のようにまとわりついて、聴き手の気分にさざ波を立て、ゆっくりとかき乱していく。サイケデリックの王道とは異なり、充満へと向わず、むしろ人を不安にさせるほどのアンビエントな広がりを志向した録音は、トゥープのその後の歩みを暗示しているようだ。もちろん、彼はいきなり「アンビエント・ミュージックの導師」となるわけではない。盟友バーウェルと共に創作楽器の演奏者としてオブスキュアから作品をリリースする一方で、デレク・ベイリーが創設した即興演奏者のプール「カンパニー」で常識外れなマラソン・コンサートを仕掛けるなど、スティーブ・ベレスフォードと共にフリー・ミュージックの制度製や高踏性を激しく攻撃するアンファン・テリブルとして活動し、民族音楽、ブルース、チープで粗野な手製のポップ・ミュージックに、共通する野生の香り、原石の輝きを見出していくことになるだろう。
 一方、サイモン・フィンはと言えば、彼の特異な音楽性がその後のムーヴメントに影響を与えることはなかった。彼は文字通り姿を消してしまったのだから。30年後にデヴィッド・チベット(カレント93)によって再発見されるまで。

 とすれば、彼は本当に突然変異的な「孤高」の存在でしかないのだろうか。彼のヴィジョンの根を求めて、彼がイエス・キリストのことを歌った「ジェルーサレム(エルサレム)」を見てみよう。そこでイエスは偉大なる神の子ではなく、不思議に人を惹きつける魅力を持った(コミューンの)「同志」として描かれている。そこには民衆革命的な「千年王国」のヴィジョンが確かに脈打っている。

 イエスはドロップアウトにして、王冠のない王様。髪を風になびかせている。
 イエスは漁師だった。彼はこう言いさえすれば良かった。
 「弟子たちよ私に続け。人生を違う道に導け」
 イエスはイチジクとワインで生きてるいいヤツだった。
 その時彼は2億人の偽善者たちが彼の名を褒め称えるなんて想像できただろうか。
 気が触れるまで涙を流し続け、私は叫んでいた。

 「ジェルーサレム」に千年王国と来れば、ウィリアム・ブレイクと彼の後期預言書「ジェルーサレム」が思い浮かべないわけにはいくまい。そして幻視者ブレイクは独自の終末論と千年王国への志向をたたえた17世紀の神秘主義的な過激セクト「ランターズ」の流れを汲んでいた。サイモン・フィンもまた、この想像力の地下水脈に連なるのではないか‥と言えば、誇大妄想に過ぎるだろうか。フラワー・ムーヴメントの甘い夢想としてのユートピア志向が、60年代末の挫折を経て先鋭化し、古から連なる秘められた地下水脈(エクスタシーによる神との合一を目指す)を掘り当てるに至ったのだと。ここでベドラムが14世紀半ば以降、癲狂院としての役割を果たし、後には狂人たちが見世物としてロンドン市民の娯楽に一役買っていたことは、今更説明するまでもないだろう。それは現在へとつながらない、切り離された奇妙な「過去」にほかならない。「魔術師」ハリー・スミスがレイス・ミュージックのSP盤を漁って掘り起こした「古く奇妙なアメリカ」のように。

 もちろん、ハリー・スミスとサイモン・フィンが直接的なつながりを持っているわけではない。アパラチアン・ミュージックに英国音楽が流れ込んでいることは確実であるにしても。けれど私には、ハリー・スミスがあの赤い箱に封じ込めた奇妙な古さが、サイモン・フィンという「亀裂」を通して、一瞬噴き出したように感じられるのだ。ぜひ、あなた自身の耳で確かめてみてほしい。「アメリカン・フォーク・ミュージック・アンソロジー」の重要性を知る者に聴かれるなら、きっとサイモン・フィンも喜ぶことだろう。「補助線を引く」とは元々なかった線を仮構して、世界の見え方を、物と物との関係を転換することであるならば、このイマジナリーな線はきっと「補助線」たり得ると思うのだ。

セカンド・ヴィジョン/ファースト・ステップス


サイモン・フィン/パス・ザ・ディスタンス(表)


サイモン・フィン/パス・ザ・ディスタンス(裏)


音楽情報 | 00:06:23 | トラックバック(0) | コメント(2)
サイモン・フィン Simon Finn 来日!
 「伝説のアシッド・フォーク・シンガー」サイモン・フィンが待望の来日を遂げる。来日公演の日程は次の通り。


2011年1月28日(Fri) 吉祥寺 MANDA-LA2
★100名様限定スペシャル・ロングセット・ソロLIVE
■会場: 吉祥寺 MANDA-LA2
■open 19:00 / start 20:00
■チケット料金:前売 ¥4500(+1drink) / 当日¥5000(+1drink)
*前売りチケットのご予約数によっては、当日券の発売がない場合もございます。あらかじめご了承ください。


2011年1月29日(Sat) 東高円寺 U.F.O.CLUB
★サイモン・フィン初来日&U.F.O.club15 周年W記念ライブ
■会場: 東高円寺 U.F.O.club
■open 18:30 / start 19:00
■チケット: SOLD OUT!
■with: 割礼, 工藤冬里 + 赤石拓海


2011年1月30日(Sun) 恵比寿 TRAUMARIS <SPACE>
★ユリシーズ・プレゼンツ サイモン・フィン 40名様限定スペシャル追加公演
■会場: 恵比寿 TRAUMARIS <SPACE>
■open 17:30 / start 18:00
■チケット料金:前売 ¥5000(+1drink)(恵比寿公演限定お土産付き)
■定員:40名様限定
■Opening Act:kawol

追加公演のチケットをご予約の方は、メールにて下記の事項をご連絡下さい。受付終了次第、ご予約完了の返信をお送りいたします。代金は、当日会場での清算となります。

ご予約メールはこちらまで:simonfinn2011.ebisu@gmail.com
* チケット枚数
* お名前
* お電話番号
注)ご記入漏れがございますと、ご予約いただけない場合がございます。

音楽雑誌ユリシーズにつきましては、以下の公式ブログをご覧下さい:
http://ulyssesmagazine.blogspot.com/



 今回の来日公演には音楽誌「ユリシーズ」が協力しており、下に掲げるポスターの編集・制作等を行った(ライヴ会場で販売)。これは裏面にディスコグラフィ、インタヴュー、レア・フォト等が掲載されたすぐれもの。実は私も一本原稿を書いています(300字という短いものですが)。



音楽情報 | 22:33:13 | トラックバック(0) | コメント(0)
Yui Onoderaさんからコメントをいただきました
 Yui Onodera(小野寺唯)さんから以下のようなコメントをいただいた。ありがとうございます。


 遅ればせながらコンサートに足を運んで頂きどうもありがとうございました。「アヴァン・ミュージック・ガイド」は当時の私のバイブルで、日焼けしてボロボロになってしまいましたが、いまでも手を伸ばせばすぐに引っ張りだせるところに保管しております。あれから10年以上経過し、状況もゆるやかにそして大きく変化しております。ボリューム2の発行があるならばとても期待してしまいます!コールハースのGeneric Cityとの関連について気付いてくれたのは福島さんが初めてでしたので、大変嬉しく思っております!どんどんグローバル化してゆく世界で地域性をアイデンティティとしない(それよりももっとパーソナルは背景を基盤とした)建築・都市がスタンダードである現代都市の状況は現在の音楽状況にもすごく当てはまるような気がしています。かと言って簡単にオリエンタリズムに迎合するのではなく、状況を表現しようとしたという意味において福島さんのプレゼンテーションという表現にはすごくしっくりきました。ぜひ一度お時間許すときにでもゆっくりお話させていただければ幸いです!


 レヴューの対象としたのは、昨年11月23日に六本木Super Deluxeで行われたライヴ(レヴュー掲載は11月29日)。そこで私は小野寺さんとCelerのコラボレーションによる「Generic City」の演奏を「この日のハイライトであり、一番の収穫」としながらも、次のような欲張りな注文をつけていた。


 あえて課題を求めるとすれば、タイトルとして掲げられた「Generic City」との関係だろうか。彼らの演奏は、ちょうど都市をさまよい歩くうちに様々な異質な風景に出会い、その遊歩を通じて都市の多様性を発見し、映し出していくものである。そこで確かに「遊歩者の視線」の下に都市の風景は「生成」していくと言っていいだろう。しかし、先に述べた電子音に象徴されるように、それらの風景はひとつひとつ対象化され、対象化された風景はひとつひとつゆるやかに切り離された点景(微妙に隣り合うにしても)として浮かび上がる。ひとつの風景の中で異質なもの同士が出会うことはない(このことは作品化されたCDでも基本的に変わらない)。演奏はまさに夢見心地のうちに進み、聴衆の耳を覚まさせることがない。同じく「Generic City」をキーワードに掲げた建築家レム・コールハースが描き出したのは、資本の圧倒的な流動と民衆生活の生々しいパワーのぶつかり合いによって、都市計画なぞ乗り越えて劇的に変貌を遂げていくシンガポールや上海、あるいはラゴスの風景、ノスタルジックな視線などはねつけて、沸騰するが如く野放図に生成していく都市の姿ではなかったか。
 彼らの見事な「プレゼンテーション」(「演奏」というよりも、そう呼んだ方が適切なように感じられる)を、「心象風景的」とは言えない。彼らの提示する音世界の豊かさは、決して甘やかに自閉したものではない。にもかかわらず、都市の喧騒を縫いながら、時折聞こえてくる子どもの声に、読経の響きに、懐かしくも変わらない人々の暮らしの物音に、ふっと安らぐ‥という心性が、演奏の基調として揺るぎなく据えられていることは、やはり疑いを入れないように思われる。サウンドスケープ的な作品が、無意識のうちに自らに課してしまう枠組み(暗黙の前提)について、今後も引き続き考えていくことにしたい。


 この時、私は、その前に体験することのできた「可能空間 Possible Spaces」で感じたフィールドレコーディングを素材とした演奏(アンビエント・ミュージックとかサウンドスケープということになるのだろうか)が、暗黙のうちに前提としてしまうある枠組みの存在について考えていた。それを問題化し、ここでの彼らの演奏に投影しているわけで、いささか一方的/独断的かなとも思っていた(それゆえ最後に課題を引き取る形になっている)。そうであればこそ、こうした問題意識が、演奏者の当初からの問題意識やその後の発展の経路と触れ合っていたことを、とてもうれしく思っている。
 フィールドレコーディングによる環境音の録音が、いわば機械による記憶である以上、そこに人間の記憶に対する動機付けが重なって、「滅びゆく音に耳を澄ます」ことになるのは、ある意味避けがたいことなのかもしれないが、それが感傷で終わってしまったり、あるいは「録音に(あるいは映像に)残した記録は永遠に残る」みたいな話になってしまうのは、ちょっとどうかと思う。そうした点からも、街の路地裏を歩き回り、そこここの音風景にじっと佇み見守るような(そして表通りの雑踏や喧騒からも眼をそらさない)彼らの絶妙な距離のとり方を高く評価したい。それは彼らのコラボレーションの賜物であり、常に違う視点からプロセスを眺め検証することが、そうした強靭な眼差しを生んだのだろう。

 彼のウェブ・ページ(http://www.critical-path.info/)によれば、ライヴやニュー・アルバムの準備中であるようだ。今後の彼の活躍に期待したい。



レム・コールハース「S,M,L,XL」
とてつもなくでかい本。
建築本界のマツコ・デラックスか。



音楽情報 | 21:54:31 | トラックバック(0) | コメント(0)
冬のソウルのうまいもの2
 今回のソウルでは珍しく雪に降られた。気温は低くとも、空気が乾いているので、ほとんど雪にならないのだ。乾燥している証拠に道路の脇によけられた雪が、次の日になっても溶けないどころか、依然としてパウダーのようにさらさらのままである。

 市内を流れる清渓川(チョンゲチョン)の雪景色もステキだが、地下鉄6号線セジョル駅を出て、すぐ脇に広がるプルグァン川も素晴らしい。両河岸は遊歩道として整備されていて、子ども用の遊具の代わりに健康器具が設置されており、ウェアに身を包み、ウォーキングをしている人たちも多い。この日は雪の後ということで、ウォーキング組はさすがに少なかったが、そぞろ歩きをする人々でやはりにぎわっていた。川の中には水鳥がいっぱい。
 川を渡って、しばらく行った先にテリム(大林)の市場の入り口が開け、その手前に目指す店はある。黒田福美のガイドブックで知った元祖カムジャック屋。このエリアではなぜかカムジャタン=カムジャ湯ではなく、カムジャック=カムジャ汁と呼ぶ。ちなみにカムジャとはジャガイモのことで、カムジャタン=カムジャックとは、豚の背骨肉とジャガイモを辛いスープで煮込んだ鍋料理のこと。

 行きつけの角の店に入る。メニューはカムジャックの小・中・大しかない。年季の入った鍋をガスコンロにかける。肉やジャガイモはあらかじめ調理されているので、後は上に山と盛られたシュンギクやエゴマの葉がしんなりするのを待つだけ。背骨に付いた肉をかじると、しっかりとした噛み心地ととろりとしたゼラチン質が応える。シュンギクやエゴマの葉のしゃっきりとした歯応え、さわやかな香りが鮮やかなコントラストを描く。だが、カムジャックを食べる醍醐味は、食べ進むうちに、このコントラストが渾然一体溶解して、とろとろの豊かで奥深い「ドローン」と化すところにある。辛さがふうわりと中に漂い、重みのある甘やかさがぐっと舌に乗ってくる。肉と野菜も溶け合って、舌触りと香りが幾重にも響きあう。
 この魔法のようなとろみを生んでいるのが、ジャガイモではないのがすごいところだ。黄色味を帯びた小ぶりの芋が二つ割にされて、鍋の底に潜んでいるのだが、身に水分が少なく(これは大根をはじめ韓国野菜の特徴だろう)、ねっとりと甘く、ぜんぜん煮崩れしない。渾然一体となった汁の味(汁を捨てずに具材を変えて鍋をやり続けると黄金のスープができるという中島らもの話を思い出す)も、このじゃがいもの中までは滲みておらず、口の中で割れるとほっこりと別の色をした空間が開ける。

 ずっと以前に日本で食べた(自称)カムジャタンはいったい何だったんだろうと思わずにはいられない。ただ赤いだけの平坦なスープは、やたらに辛くて味覚を麻痺させた。辛さの向こうに広がる、様々な味や香りの交錯がもたらすべき深い官能は、そこには全く存在しなかった。ただ激辛なだけの貧しい食べ物。新大久保に今もあるその店は依然として行列が絶えないらしい。
 料理でも音楽でも、奥深い文化は常に、表面的な刺激だけでなく、奥深い官能をたたえている。というより、その官能が文化をかけがえないものとして支えているのだ。料理を食べて「激辛だ」で終わってしまうのは、その向こうに広がる官能に感覚が届いていない(あるいは最初から存在しない)証拠である。しばらく前に、日本の即興音楽シーンで音数の少ない演奏が流行ったことを思い出す。そうした演奏を体験して「音数が少ない」と評するのは、「激辛だ」と言うのと同様、その少ない切り詰められた音が、沈黙をどのように浮かび上がらせ、空間を彫琢し、時間を変容させたかをとらえていないことを告白するに等しい。あるいは、そのようなことは何も起こらず、ただ一定時間に発された音の数が少なかったというだけであれば、これはよく言われるように「我慢比べ」にほかなるまい(20倍カレーより40倍カレー。1時間に3音より2時間に3音)。

 具材をあらかた食べ終わって濃厚なスープが残る。鍋の底には、はらりとほぐれた肉の切れ端やジャガイモのかけらが澱んでいる。この中にご飯とごま油をぶち込んで炒め、韓国のりをかけて食するしめ方もあるのだが、それはまた別の料理である。味と香りの濃厚な「ドローン」に浸りきる喜びをさらに深めたいならば、そのまま汁をご飯にかけることをおすすめする。高域に漂う繊細な辛味と香り、中低域をしっかりと支える濃厚な舌触りと甘やかさに、米の粒立ちと軽やかな甘みが加わる。至福のフィナーレである。



穴埋め記事が意外にも一部で好評だったので、図に載ってもう1回書いてみました。おしゃれに書けないのでグルメ・ライターにはなれそうにないなと。



お目当てのカムジャックと付け合せ、店構えなど。
ポテトサラダもおいしいです。


 ちなみに2人なら小で大満足。ジャガイモが少ししか入っていないことがあるので、そういう時はおばさんに「カムジャ、チョムジュセヨ(じゃがいもを少しちょうだい)」とおねだりしてみましょう。

韓国 | 22:35:25 | トラックバック(0) | コメント(0)
冬のソウルのうまいもの
 昨年はクリスマスにソウル入り。前日のイヴは最高気温がマイナス8度だったらしい。とんでもない寒波。冬のソウルに通い始めてもう17年になる。やはり寒いところは寒い時の方が食べ物もおいしいし、街もいきいきしている。12月初めのキムジャン(キムチの漬け込み時期)の賑わい、クリスマスのイルミネーションの素晴らしさ。

 最初のうちはもっぱら明洞や鐘路をうろうろしていたが、最近はホンデ(弘益大学=Hongik University)周辺が一番楽しい。ごちゃごちゃしていた「駐車場通り」もずいぶんキレイになって、アートやデザインに強いホンデらしく、街には小さいながら個性的なブティックやカフェが多い。最近は、ずいぶん観光地化してきたような気がする。これは韓国政府の方針もあるかもしれない。「世界デザイン首都ソウル2010」のイヴェントを打ち出し、インチョン国際空港から都心への地下鉄は、ホンデ駅にアクセスするようになっている。元はソウル大学があったテハンノ(大学路)にはホンデの分校が建設中だ。

 韓屋や韓服を見ても、韓国文化は昔からパッケージ・デザインにこだわりを持っていたと言えるだろう。CDのブックレットやカフェのインテリアもステキなものが多い。空間を大づかみにとらえる力を感じる。ソウルのカフェについては、最近ガイドブックが出たけれど、この国の喫茶店文化が昔から充実していたことは強調しておきたい。韓国の人たちはみんな話し好き、議論好きだからね。

 ホンデでの夕食は決まってソグムクイ(豚肉の塩焼き)。韓国人の友人に教えてもらった店に毎年通っている。この店は焼き方に特色があって、炭火の上に碁石みたいな石を載せた金属の皿を載せ、その上で肉を蒸し焼きにする。あらかじめ少し火を通した大ぶりの肉を灼けた石の上に載せ、端から下のさらに水を注ぎいれるのだ。おそらくは蒸気と遠赤外線のせいで、肉はふっくらこんがりと焼きあがり、余計な脂も落ちている。これにごま油と塩をつけて食べる(もちろんコチュジャン等を添えてサニーレタスに包んでもよい)。テジカルビ(タレに漬けた豚肉の焼肉)よりも、最近人気のサンギョッサル(ハーブ等のタレに漬けた豚の三枚肉の焼肉)よりも絶対おいしい。もうひとつ面白いのは、食べ終わると最後に銀紙に包んだ黒い丸薬とスジョンカ(シナモンの香りを付けた干し柿味のジュース)を出してくれるところ。丸薬は匂いからするとクレオソート系かな。当たらないように‥というおまじないみたい。薬の苦味を和らげるために甘いものを食すというのは日本の「ういろう」の起源と同じですね。

 今回、少し早めの時間に行ったら、全然お客がいなくて心配したが、我々が帰る頃にはほぼ満員になっていた。メニューにはサンギョッサルもあるのだが、ほとんどの客は常連と見えて、みんなソグムクイを頼んでいる。やっぱりおいしいお店は大事にしないとね。実はこの隣の店(以前にこの店が閉まっていた時にやむなく入ったが、たいしてうまくない)が今回大繁盛していて、不思議に思って見てみると、どうやらニューヨーク・タイムスで紹介されたせいらしい。大したことないな。ニューヨークの舌は。
 その後も昼時にやたらと混んでいる店(スンドゥブ屋)を鐘路で見つけ(鐘路タワーのすぐそばのビルの2階)、ためしに入ってみる。こちらはどうやらクリストファー・ヒル国務次官補が来店した店ということで人気らしい。値段は高め。味はまあまあ程度。スンドゥブはもう少し煮つまり感があった方がいいなー。市庁のそばにある有名なコンクスス専門店の前を右へいったところの古い店の方が、ずっとうまいと思う。

 ‥というわけで、なかなかレヴューが書けないので、今回はソウルの食べ物話でした。また、穴埋めにやるかも。



おいしいソグムクイ屋の隣の店。
おいしい店の方は最近、日本語の看板を出しました。
店名は「テジチョブムトン」。ぜひどうぞ。


こちらは鐘路のスンドゥブ屋「カンチョン=甘村」。



韓国 | 23:41:07 | トラックバック(0) | コメント(0)