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福島恵一

Author:福島恵一
プログレを振り出しにフリー・ミュージック、現代音楽、トラッド、古楽、民族音楽など辺境を探求。「アヴァン・ミュージック・ガイド」、「プログレのパースペクティヴ」、「200CDプログレッシヴ・ロック」、「捧げる-灰野敬二の世界」等に執筆。2010年3~6月に音盤レクチャー「耳の枠はずし」(5回)を開催。2014年11月から津田貴司、歸山幸輔とリスニング・イヴェント『松籟夜話』を開催中。

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複数の視点から from multiple viewpoints
 3月20日に綜合藝術茶房喫茶茶会記で行われた「Tactile Sounds vol.1」について私が書いたレヴューが、当日の記録として「Tactile Sounds」のブログに転載されることとなった。あわせて多田雅範によるレヴューも転載されているので、ぜひ次のURLでご覧いただきたい。企画者のひとりである益子博之撮影のライヴ・フォトも掲載されているので、私のブログで見るよりも、当日の様子がさらにわかりやすいと思う。

 http://com-post.jp/index.php?catid=2&subcatid=53

 こちらは転載されていないが、当日のライヴの様子については、喫茶茶会記店主による文言(http://gekkasha.modalbeats.com/?cid=42168)もあれば、ウッドベーシストの「たけっち」さんによる感想(http://blog.livedoor.jp/bamboobass/archives/1576118.html)もある。読めば、それぞれがそれぞれに充実したひとときを過ごしたことがわかるが、その感じ方/とらえ方は、当然のことながら異なっている。「ブログに書く」となると、無意識のうちに読者の眼を意識してしまったりもするので、どうしてもある枠がはまってくるのだが、それでも自ずと視点の違いが浮かんでくる。 ましてや、その間に各人が実際に何を見て、何を聴き、何を思ったかは、さらに千差万別異なっていることだろう。

 そうした差異を都合よく抹消して、「同じ感動を分かち合った」などとは言いたくない。リヴィング・ルーム程度の部屋に居合わせても、それぞれ感じ方が違うことにむしろ意義を見出したい。それは個性とか、解釈とか、どちらが正しいとかいう問題ではなくて、そうした複数の視点からはじめて浮かび上がること、そうした複数の視点からしかとらえ得ないことがあると改めて確認したいだけなのだ。

 幸いにも、ここに採りあげた4人は、クラシック・コンサートの演奏会評によくあるように、演奏者の経歴(文化的出自を含む)とか、これまでの評価とかに、自らの評を着地させようとはしていない。それぞれが、そうした権威的な根拠を持たない自分なりの言葉で、充実したひとときを与えてくれた音/響き/空間に礼を返そうとしている。ここで連ねられた言葉の匂いや手触りには、それぞれが当日体験した音/響き/空間の色合いや温度、肌触りや香りが確かに映り込んでいる(もちろん一部に過ぎないのだが)。それを照らし合わせ、透かし見ることによって、そうした音/響き/空間が一体となった当日のあり様がホログラムのように浮かび上がりはしないだろうか。とりわけ、幸運にも当日そこに居合わせた者にとっては、これらの言葉と自分の記憶とが干渉しあい、より豊かな文様を多面的に描き出すことだろう。



ライヴ開始前のがらんとした空間。
しかし、もうそこには淡い響きがたゆたっている。

(C) hiroyuki masuko

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ライヴ/イヴェント・レヴュー | 22:42:36 | トラックバック(0) | コメント(0)
「カフェの空間」の潜在的可能性 potentiality of “cafe” spaces
 綜合藝術茶房喫茶茶会記におけるライヴ・シリーズ「Tactile Sounds」の企画意図について、企画者のひとりである益子博之はこう書いている。


 「tactile sounds」とは、「触知できる音」「触覚で感じる響き」......触れられるような距離で音とその空間の響きを聴くこと、感じること。耳で聴いてはいても、視覚的に音楽を捉えるような習慣を一旦止めて、皮膚感覚、肌の触覚を通じて捉えるような音楽の聴き方をしてみること。音楽家同士の、音楽家と聴き手の、聴き手同士の、異なる感覚が出逢い、触れ合い、響き合うことで、互いの肌を通じて届くような音楽を生み出す場所と時間となること。「tactile sounds」という言葉には、そんな私たちのささやかな願いが込められています。


 実際にライヴ演奏が行われる空間を、そしてその場における演奏を体験して、改めて思い当たるのは、この中の「触れられるような距離で」というフレーズだ。ライヴ・レヴューで述べたように、演奏空間は広めのリヴィング・ルーム程度のもので、聴衆は生活感覚を携えたまま音楽と出会うことができる。「演奏者たちが聴き手の居場所を訪ねてくる」感覚がそこにはある。客電が落とされず、演奏者と聴き手が明暗で分断されないことも重要だ。聴き手は暗闇の中に潜むのではなく、身体像をさらしながら音と触れ合う。窃視者のように眼と耳だけの存在と化してしまうのではない。また、演奏空間と聴取の空間がひとつながりであることにより、演奏は手の届かない向こう側にある「像」として対象化されることがない。それは単に親密さを生むだけでなく、ともすれば意識しないうちに視覚に譲り渡されてしまいがちな「聴くこと」を、空間の手触りや響きの肌触りとともに、しっかりと身体に引きつけてとらえることができる。ライヴに行くことを、よく「○○を見に行く」というが、それは今回の体験にふさわしくない表現だ。まさに「演奏に触れに行く」と言うべきだろう。

 「ライヴハウス」という制度がいつ頃、どのように成立したのかは知らない。しかし、劇場モデルが先にあったことは想像に難くない。日常世界から切り離された「ハレ」の時間のための異空間として、それはつくられていったのだろう。「ライヴハウス」が「小屋」とか「ハコ」と呼ばれるのは、そうした日常からの切断を前提とした完結した空間であることを物語っていよう。もちろん、ドラムの導入や電気増幅により音量が増大したことも、ライヴ演奏がそうした孤立した空間に封じ込められることになった社会学的な(?)要因ではあるだろう。

 最近またライヴ演奏を聴くようになって驚くのは、聴衆における関係者比率の高さだ。企画者あるいは出演者の友人知人か、ライヴハウス(あるいはクラブ)自体の常連か、いずれにしてもそうでないのは私だけではないかと感じたのも一度や二度ではない。おそらくはクラブ・ミュージックの習慣が、ジャンルとしては異なる種類の音楽へとあふれ出しているのだろう。明らかに「演奏を聴く」より前に「友達に会いに行く」感覚がそこにはあり、そのための理由として音楽があるという印象。だから、自分の出番でない出演者が、他の出演者の演奏中、仲間とずっと私語しているのも当然なんだろう。だって音楽は付け足しの理由に過ぎないのだから。これがギャラリーでの個展なら、壁に掛けられた作品を前にして、それとは何の関係もない業界のゴシップを延々と垂れ流していても誰も困らない。むしろそれがパーティの流儀ですらあるかもしれない。しかし、ライヴハウスに、場違いにも演奏を聴きに出かけた部外者(私のことだが)は困ることになる。

 ミシェル・フーコーは具体的なエテロトピー(混在郷=ヘテロトピア)空間のひとつとして、劇場を挙げている。権力による制度的な分割を超えて、異質なもの同士が出会う場所として。そうした劇場の流れを汲むはずのライヴハウスは、いま果たして、そうした異質なもの同士が出会う場となり得ているだろうか。

 より日常的な「カフェの空間」に可能性を感じるのは、そうした異種混交性においてである。文化的亡命者たちが集ったロマーニッシェス・カフェやキャバレー・ヴォルテールを引き合いに出すまでもなく、カフェは都市空間におけるアジールを形成するが、それは必ずしも「悪場所」的な周縁的空間とは限らない。むしろ、日常の生活空間のすぐ隣に、その延長として開けている異空間なのだ。そこにこそ出会いの、あるいは「誤配」の可能性は開けている。
 インターネット空間の検索が、何でも即座に調べられるようでいて、雑誌の拾い読み等と異なり、「目当てのものしか取ってこない」ことにより、広がりを欠くことがようやく問題とされるようになってきている。カフェの空間でたまたま異質のものと出会う、隣り合わせる体験は、これからますます重要なものとなっていくだろう。



在りし日のRomanisches Cafe



その他 | 22:16:08 | トラックバック(0) | コメント(0)
聴取における「触覚」の次元について  sense of touch on listening
 前稿でレヴューした橋爪たちの演奏は、コンポジションを採りあげたこともあって、作曲/曲想に対して「透明」であることを目指していた。個々の音の手触りや質感/温度感よりも、それらが紡ぎ出す旋律や、それらが絡み合いながら織り成す作品世界の成立の方が重要であり、聴き手に音や響きよりも「作品」を届ける演奏と言えるだろう。そこには過剰さやマテリアルの露出はない。実際、マテリアルな手触りが多少なりとも感じられたのは、コントラバスのアルコの軋みとテナー・サックスのざらつき成分くらいであり、特にギターは物質的な手触りを、極端なまでに響きから排除していた。彼はヴォリューム・ペダルを用いていたが、物質的な手触りが生じるほどサステインを効かせることはなかった(ビル・フリゼールがサステインの長い尾を揺らめかせて、当初「コンニャク・ギター」と呼ばれたのと比較してみること)。

 聴取において「触覚」が働く要因のひとつとして、こうした物質感の露呈があるだろう。たとえばページ上の文字が、文章の意味の運び手であることをやめて、黒々とした線の集積として独自の手触りや重さ、質感等を持ちはじめる様を想像してみること。しかし、通常の楽曲演奏では、それはノイズとして排除され、メディウムのあるべき「透明性」が保たれる。たとえばアコースティック・ギターの演奏における指板上の軋みや楽器各部の部分的な共鳴/共振がそうだ。だが、フリー・インプロヴィゼーションにおいては、デレク・ベイリーの演奏に顕著なように、むしろ音が帰属すべき文脈を切断することにより、個々の音を路頭に迷わせ、その手触りや質感、かたちや色、匂いや温度の違いにスポットを当てる。これにより個々の音は透明なメディウムであることをやめ、それぞれに異なる雑多なマテリアルの集積、つまりは「音響」として析出してくる。その時、「文脈」という頼るべき枠組みを失った聴覚は、自分だけでは「音響」を受け止めることができず、それがより下位の感覚である「触覚」の方へあふれ出していくのではないだろうか。

 もちろん、より端的に「触覚」を震わせる音がある。物の表面をこする音がそうだ。水滴の落ちる音から渓流のせせらぎ、波しぶきが砕け散る轟音に至るまでの水音のヴァリエーションも、この部類に属すると言えよう。そうした響きが、物の表面をこする/撫でる/触れるという動作をただちに連想させ、「触覚」を作動させるのだろう。しかし、その一方で、そうした音の生じる原因となる運動、たとえば物の表面を「演奏者」がこする動作や、水が滴り流れ落ちる様の視覚イメージが与えられたとたん、聴取に伴い「触覚」が揺さぶられる際の、何とも言い表し難い「ざわめき」が、すっと消えてしまうように感じられるのは、私だけだろうか。音の生じる原因が示されることで、因果関係の文脈が形成され、物音のマテリアルな過剰さは去勢され、音は「透明」なメディウムに立ち返る。

 何も「共通感覚」の基底に「触覚」を位置づけるという、アリストテレス~スコラ哲学の蒸し返しをしたいわけではない。しかし、にもかかわらず、視覚や聴覚においてとらえきれない過剰さが、「触覚」へとあふれ出していることは疑い得ないように思われる。というより、それはたぶん手指において極度に発達したような狭義の触覚ではなく、むしろ「内臓感覚」とでも呼ぶべきものに近いのだろう。視覚や聴覚が知覚へと送り込めない過剰さ、ロウなマテリアル感覚が、身体において「触覚的なもの」と受け止められているのではないだろうか。「文脈」という「時間的なもの」の切断が「空間化」ととらえられるのも、これに似ている(ただし、ここで言う「空間化」は次節で触れるように、視覚的なパースペクティヴへの配置とはまったく異なることに注意)。

 ジル・オーブリー(Gilles Aubry)が彼の言う「間接的聴取」の哲学/方法論に基づいて作成した作品を聴くと、あえて室内で録音された交通騒音や雑踏のざわめきといった都市の環境音が、視覚的なパースペクティヴを結び得ず、輪郭を曖昧にし、互いに融合分離しながらもうもうと立ち込める様に圧倒される。2010年ベスト30のレヴューでも述べたが、視覚的対象と強く結びついた音から視覚的パースペクティヴ(とは強固な「文脈」にほかならない)を剥奪することが、こんなにも聴き手を無防備に音と向かい合わせることになるとは思わなかった。これらの音を耳にする時には、もうすでに身体はそれらの音に刺し貫かれ、浸され、ずぶずぶと澱みの底に沈められていってしまう。ふだん音を聴いている時に、当の聴き手はまったく意識することなく、いかに身体が聴くことに対する構えを敷いているか、改めて気づかされる。

 このように考えていくと、一聴した際の質感はまったく異なるのだが、文脈の剥奪によって音のマテリアルな強度をそのまま聴き手にぶつける点で、ジル・オーブリーとデレク・ベイリーを並べてみることが可能なのではないかと思う。昨年のレクチャー「耳の枠はずし」ではデレク・ベイリーから「音響」以降の即興演奏に至る線と、ミッシェル・ドネダたちが追い求める野性のカコフォニーの線を結び合わせ、その延長線上に(むしろ「原点に」というべきか)アトス山の典礼の録音に聴くことのできる音のヘテロトピアを位置づけてみせた。対して「アンビエント・リサーチ」第3回にゲスト参加した際には、フランシスコ・ロペス(Francisco Lopez)や「ソラリス」に言及することにより、これをアンビエント・ミュージックやフィールドレコーディングの側からとらえ返してみせた。
 ジル・オーブリーやジェフ・ジャーマン(Jeph Jerman)の作品を手がかりに、実際の聴取を通じて、先のふたつの思考をさらに発展させられないだろうか。これは「耳の枠はずし」第2期のテーマとなるかもしれない。いずれにしても、今後の宿題とさせていただくとしよう。



Jeph Jermanの近作。
物音のマテリアルな粒立ちが肌に触れてくる。



音楽情報 | 16:21:49 | トラックバック(0) | コメント(0)
音のうぶ毛、響きの肌触り Tactile Sounds vol.1@SAKAIKI, Yotsuya 20th Mar,2011
 昨日ご案内したTactile Sounds vol.1を聴きに行った。ヴィンテージ・オーディオに飾られた隠れ家風という喫茶茶会記にも行ってみたかったし。
 結論から言えば、優れたコンポジションを優れた演奏により、居心地の良い空間で、響きに触れるように聴くことができた。その点で上出来のライヴと言ってよいだろう。特に橋爪によるコンポジションは、日本音階とか、オールディーズの引用といった記号操作に頼らずに、アドレッセントな叙情を鮮やかに(しかもすらりとさりげなく)描き出す点で、「日本のジャズ作品として優れている」という次元ではなく、普遍的な価値を有していると思う。NHK-BSあたりの質の高いドラマ作品のエンド・ロールで流れて、それを耳にし打たれた視聴者が音楽担当者のクレジットに注目すると、そこに彼の名前がある‥‥というようなことが、いますぐに起きても何の不思議もあるまい。
 今回の演奏に限って言えば、「触覚」というコンセプトをあまり重くとらえる必要はないのではないか。むしろそこに耳の焦点を当ててしまうと、かえっていま眼前で演奏されている音楽を取り逃がしてしまうように思う


 四谷三丁目の交差点から少し歩いて、児童遊園の角を曲がり、専門学校と敷地続きの、学生寮なのか、ちょっと不思議な構造をした白い建物を横目に見ながら通り過ぎると、私道の入り口に立てられた喫茶茶会記の小さな案内が眼に止まる。その奥に喫茶店やカフェらしき店は見当たらないが、恐る恐る進むとそれらしきドアがある。ドアを開けると、どこか遠く離れた別の場所につながっているように、カフェのカウンターを含むウッディな空間が姿を現す。なるほど「隠れ家」とはよく言ったものだ。確かにここなら通りがかりの客はまず入ってこないだろう。このラウンジ的なスペースには、Goodman Axiom150のアンティーク家具のような風合いの大きな箱とB&W805Signatureの近未来的な高精度のシルエットが並び、ドアの向こうのライヴ・スペースからは巨大なアルテックのヴィンテージ・スピーカーが、しっとりとしたジャズを陽だまりのような暖かい音で流している。

 長方形のライヴ・スペースは、木貼りの床の中央に大きなアンティーク・テーブルがあって、さながら広めのリヴィングのようだ。まぶしさのない抑え目の照明。演奏時も客電がすべて落とされることはない(少し光量が絞られるけれど)。あまり高くない天井や表面を丁寧に仕上げたコンクリートの壁も、15人程度の聴衆が音を吸うので、響きの上で気になることはない。以前に書いたロゴバのショールームとは広さも明るさも異なるけれど、ステージ上だけがライトアップされ、聴衆は窃視者のように暗闇に身を潜めるライヴハウスとは、明らかに異なる空間がここにはある。むしろ、こちらから出かけていくのではなくて、自分たちのいる空間に演奏者たちが訪ねてきてくれる‥‥そんな感じだ。

 演奏はゆったりと始められた。舌の上に落ちた粉雪のようにすぐに溶け、消えうせてしまうエレクトリック・ギターの単音。息の成分を多く含み、遠くを見つめているテナー・サックスの揺らめき(この日の前半、橋爪は椅子に腰掛けたまま楽器を操った)。コントラバスがアルコによる豊かな響きを、空間にしみこませながら、ゆっくりと波紋を広げていく。この場にある空気をかき乱すことなく、透明水彩のようににじみ広がりながら溶け合う響き。ゆったりとした呼吸/時間/眼差し。
 たとえリズミックな局面があっても、それは時間/空間を切り刻みはしない。かき混ぜるだけ。ちょうどムビラ(親指ピアノ)の繰り返しを楽しむように。

 「The Color of Silence」とECM風のタイトルを付けられた3曲目は、疑いなく、この日のハイライトのひとつだったろう。ギターが音をくゆらせる深々とした広がりの中に、テナーによるテーマがコントラバスのアルコを伴って現れ、緩やかに解けていく。すうっと溶けて消えうせてしまうギターの響き(あまりの口溶けのよさに、名残惜しくて、思わず耳が後を追いかけてしまう)とテナーの鳴りと息が擦れ合うミクロなざらつきの対比が、昼間の空にかかる月のように、淡くおぼろに崩れてしまいそうな音世界の輪郭を、かろうじてつなぎ留めている。

 橋爪が立って演奏した後半は、こうした薄明の移ろいやすさはやや退いて、響きはよりはっきりとした輪郭を持った実体感のあるものとなった。それでも弓弾きされたコントラバスがつくりだす水面を浮き沈みするギターや、サックスの引き延ばされたロング・トーンが生み出す水彩的な「にじみ感」は共通している。演奏は押し立てるような推進力を排し、漂うような、足元から満ちてくるようなあえかさを一貫して信条としていた。

 この日の彼らの演奏の「触覚的」な面を指摘するなら、楽器の音を部屋の空気にしみこませ溶け合わせる響きのあり方だろう。音は何もない真空を飛んでくるのではなく、クロマトグラフィのように、空気にしみこみながら耳元へと届けられる。ここで音はステージ上に焦点を持たない。それゆえ聴衆の耳がとらえた音は、演奏者の身体像や運動イメージに還元されない。同じことが、もしかすると演奏者にも起こっていたのではないだろうか。通常のライヴハウスにおける、「客席に向ってサウンドを放射する」音の出し方を離れ、互いの音が同心円状に広がり、部屋の空気にしみこみながら溶け合うのを見たならば、互いの演奏の関係は、触れ合う肌のうぶ毛を感じあうものとなるだろう。それはまた演奏者自身にとっても稀有なことなのではないか。リズムや「ノリ」で構築するアンサンブルでは、そうした「うぶ毛」は擦り切れてしまうだろうから。

 この日の彼らの演奏は素晴らしいものだったが、聴取における「触覚」の次元の茫漠とした広がりの、ほんの片隅を掠めただけであることも指摘しておきたい(これについては思ったより長くなりそうなので別稿で述べることとした)。
 もうひとつ触れておきたいのは、「ライヴハウス」というライヴ演奏聴取に特化した空間から、もっと聴き手の日常の方へ歩み寄っていくライヴ演奏のあり方についてなのだが、これも今回の企画意図に賛同する旨だけを述べて、別稿に譲ることとしよう。

 2011年3月20日(日) 15:00~
 橋爪亮督(ts,ss) 市野元彦(el-g) 吉野弘志(b)
 於:綜合藝術茶房 喫茶茶会記



英国の老舗オーディオ・ブランド
Goodman のAxiom 150。
口径30cmのフルレンジ。
右端にちらりと見えるB&W805Signatureと
同時に駆動しているとのこと。



ライヴ/イヴェント・レヴュー | 14:31:20 | トラックバック(0) | コメント(0)
触覚の音   Tactile Sounds
 明日、3月20日(日)午後3時から、注目すべきライヴが行われる。サックス奏者/作曲家である橋爪亮督(はしづめ・りょうすけ)とNYダウンタウンの先鋭にスポットを当てて音楽批評を進める益子博之(ますこ・ひろゆき)の2人が企画する「Tactile Sounds」の第1回目である。



Tactile Sounds Vol. 01:3月20日(日)
Vol.01 :3月20日 (日) open 14:30/start 15:00

橋爪亮督 - tenor & soprano saxophones
市野元彦 - guitar
吉野弘志 - double bass

■会場
綜合藝術茶房 喫茶茶会記
東京都新宿区大京町2-4 1F 〒160-0015
http://sakaiki.modalbeats.com/

■料金  ¥2,800(1ドリンク付き)

■予約・お問い合わせ
綜合藝術茶房 喫茶茶会記
mail:sakaiki@modalbeats.com(標題をtactile sounds vol.01としてください)
tel:03-3351-7904(15:00~23:00)
※なお、会場の都合でご予約は先着30名様で締め切らせていただきます。



 以下はフライヤー裏面(左)に記載された益子博之による前口上のテキスト。


音は、空気の振動です。
本来、音楽は身体全体の肌で感じることができるものだったはずです。
ところが、iPod等のヘッドフォンを通じて聴く音楽は、 残念ながら小さな耳穴の中だけに閉じこめられてしまっているのです。
たった今、そこで生まれたばかりの生きている音を、肌で感じたい、感じて欲しい。

tactile sounds 〜触れ・逢う・響き〜

「tactile sounds」とは、「触知できる音」「触覚で感じる響き」......
触れられるような距離で音とその空間の響きを聴くこと、感じること。

耳で聴いてはいても、視覚的に音楽を捉えるような習慣を一旦止めて、 皮膚感覚、肌の触覚を通じて捉えるような音楽の聴き方をしてみること。
音楽家同士の、音楽家と聴き手の、聴き手同士の、異なる感覚が出逢い、触れ合い、響き合うことで、互いの肌を通じて届くような音楽を生み出す場所と時間となること。
「tactile sounds」という言葉には、そんな私たちのささやかな願いが込められています。



 橋爪亮督の演奏については、以前から彼に注目していた多田雅範のレヴューをJazz Tokyoに連載のコラム「タガララジオ」第17回から引用しよう(http://www.jazztokyo.com/column/tagara/tagara-17.html)。


Jugo-ya Moon on 15th Night (Ryosuke Hashizume) / Ryosuke Hashizume Quartet Live at Pit Inn on September 26th, 2010

記念すべき100曲目に偶然入手することができた橋爪亮督グループの9月26日新宿ピットインでのライブ音源の。

橋爪亮督 (ts,ss,loops)
市野元彦 (el-g, electronics)
吉野弘志 (b)
橋本学 (ds,per)

「十五夜」と題されたトラック。

ベースのつまびきに続いてカチャ、カチャと金属音、この打音の空間が支配するしじまの交感に彼らは揺れるトーンで漂い、じきに時間が静止する。
響きの断片だけが置かれる。そこでは梵鐘が鳴っているようだし、遠く山の向こうからの空気が振動してくるようだし。密教寺の儀式とも東大寺の修二会とも地続きだ。

14分38秒。

橋爪亮督のサックスが世界標準化したことは認知していた。トリスターノ学究を経てポスト・マーク・ターナーへ至る歴史的必然をまとった独特なトーンは、おれはそのままニューヨークに行ってターナーとツインでポール・モチアンとヴィレッジヴァンガードに立つものだと思っていたが、この現代ャズ不毛の日本において、これまた市野元彦というポスト・ビル・フリーゼルを世界標準でになう天才、天才は天才は知るのである、さっき荻窪ベルベットサンで市野元彦・渋谷毅・外山明トリオを聴いて激しく納得したが、と、橋爪はすごいグループ表現を拓いていた。

ニューヨークにしかないと思っていた現代ジャズが、日本人の歴史的な感性の現代化とのアダプトを果たせるなどと誰が想像できただろう。そう、まさに「侘び寂び」の世界だ。十数年前、橋爪はガルバレクが好きだと言っていた。おれはもうガルバレクの壮大な歩みは見届けたような気分でいるけど、それにしても橋爪亮督はすごいところまで来てしまったものだ。



 一方、 益子博之の耳と眼差しがどこに向けられているかについては、musicircusに掲載した「2010年に聴いた10枚」が雄弁に語ってくれることだろう。参考にリストを以下に転記しておく。http://homepage3.nifty.com/musicircus/main/2010_10/でジャケット写真とレヴューを見ることができる。

1.Chris Lightcap's Bigmouth : Deluxe
2.Gerald Cleaver Uncle June : Be It As I See It
3.Ches Smith and These Arches : Finally out of My Hands
4.Dan Weiss Trio : Timshel
5.Rob Garcia 4 : Perennial
6.Jacob Anderskov : Agnostic Revelations
7.Benoit Delbecq Trio : The Sixth Jump
8.Hugo Carvalhais : Nebulosa
9.Ben Monder / Bill McHenry : Bloom
10.Michael Pisaro : A Wave and Waves

 NYダウンタウンの趨勢にフォーカスしながら、Benoit Delbecqやエレクトロ・アコースティック系の演奏への目配りも欠かさず、Michael Pisaroもちゃんと押さえているあたり、彼の耳の幅広い指向性と柔軟さ、そして対象を射通す視線の強度を感じ取ることができる。彼が音に感じている「触覚」と私の言う「触覚」とは、おそらく異なっているのだが、そのこと自体が「触覚」の持つ原初的な茫漠とした厚みやとらえとせころのない幅広さ、多面性を表しているだろう。



 ライヴについて詳細は以下のURLをご参照いただきたい。演奏者のプロフィールなどのほか、今回の悪条件の下にライヴを敢行する彼らの想いを伝えるメッセージも読むことができる。
 http://tactilesounds.dtiblog.com/

 


ライヴ/イヴェント告知 | 21:40:05 | トラックバック(0) | コメント(0)
「事の次第」について   The Way Things Go=Der Lauf Der Dinge
 地面の揺れに惑わされて、なかなか考えがまとまらない。いろいろ思うことはあるのだが、「書く」までに至らない。‥‥というわけで、ブログの更新が進まないので、ここはちょっと手抜きの補足情報提供で、更新回数稼ぎをさせていただきます。ごめんなさい。


 前回触れたヴィデオ作品「事の次第」(The Way Things Go=Der Lauf Der Dinge)は次のURLで観ることができる。ドミノ倒しのような物理的接触のみならず、燃えたり、引火したり、泡吹いたり、爆発したり‥‥という化学的変化が、アクションの連鎖に必要不可欠な一部としてプロセスに組み込まれているところが素晴らしい。

 http://www.youtube.com/watch?v=SIo6UGJ_zHc

 このアクションの連鎖のスプラスティックな一面を強調したものとして、次の4倍速ヴァージョンを参考に挙げておこう。軽快かつ能天気な「ウィリアム・テル序曲」に伴われた抱腹絶倒の7分間。

 http://www.youtube.com/watch?v=3tv-JbAurcg


ヴィデオからのスティル映像。
アクションが連鎖していく様子が伝わるだろうか。
「理科実験室」風の手づくり感がいいなー。





アート | 15:30:28 | トラックバック(0) | コメント(0)
家のテレビで見たアンドラーシュ・シフ I saw Andras Schiff on TV at home
0 前口上
 3月4日、ライヴから帰宅して、遅い夕食を摂りながらTVのチャンネルを切り替えていると、アンドラーシュ・シフがピアノを弾いているのに眼が留まり、そのまま見続けてしまった。その時に考えたことについて少し書いてみたい。

 最初に弁明しておけば、シフのことをさして知っているわけではない(まあ、ベートーヴェンのことだって知らないのだが)。70年代の終わりにコチシュ、ラーンキと並んで「ハンガリー若手三羽烏」と喧伝されていたのは覚えている。洋泉社から出ている「キーワード事典」シリーズの一冊「クラシックの快楽」のスペシャル版「ピアノ遊戯」(1989年)でも3人揃って採りあげられていた。読み返してみると「シフは英デッカでアシュケナージの後継者となる」と予言されている(ここは「くすり」と笑うところなのだろうか)。その後は「ECM Catalog」で彼がECMでベートーヴェンのピアノ・ソナタ全集を完成させたことを知り、つい最近になって、多田雅範から彼の来日のことを聞いて、音楽サイト「Jazz Tokyo」で来日公演のレヴューを読んだくらいのものだ。そして、今回の録画の視聴だって、古いテレビの高品質とは言い難い映像と音響によるものであり、さらに私が見たのは、ベートーヴェンの最後の3つのピアノ・ソナタ(30番、31番、32番)とアンコールのバッハで構成されたこの日のコンサート・プログラムのほんの一部、32番の第1楽章の途中から、アンコール曲の終了までに過ぎない。

 それなのに、なぜ彼のことを語りたいと思うのだろう。もちろん、彼の演奏に突き動かされたという事実が最初にある。それがなければ何も起こらなかっただろう。しかし、ただそれだけではない。そこで私は何に打たれたのだろう。ライヴ演奏の、コンサート会場での体験の、色あせた粗末な模造品に‥だろうか。このベートーヴェン・プログラムを多田雅範が聴きに行ったことも知っていたので、コンサート体験の「複製」とは別のかたちで、この視聴体験をとらえられないかと考えた‥‥ということがある。これが二番目の理由。そしてもうひとつ。後に詳しく述べることとなるが、シフの演奏に即興的な質や強度を感じたということがある。このことについて、その夜、私が見たライヴにおける即興演奏のあり方とも関連付けながら考えてみたら、「即興演奏の質」という、いわく言い難い問題を幾らかなりとも明らかにできるのではないか。この期待が三番目の理由である。


1 「自由」と「批評」

 演奏に引き込まれてすぐ、マンフレート・アイヒャーが彼の演奏をECMで録音したがる理由が、なんとなくわかった気がした。演奏の風通しが実にいい。縦の線を強調し音を煉瓦のごとく積みあげるのではなく、ひとつひとつの音が響きのための広がりをそれぞれ確保している。それゆえ音同士が膠着してしまうことがない。当たり前だろ。音と音を結びつけたり、組み立てるのはそれからさ。もしひとつひとつの音が自由でなければ、どうやって音楽が自由になれる? という声が聞こえてきそうだ。もちろん、これは作品の対位法的なつくりもあるのだろうけど。

 第1楽章では、粒をそろえて連ねていく音とぽーんと空高く投げ上げる音の対比が鮮やかだった。以前にテレビ番組で、ミッシェル・ベロフがそうした「音を投げ上げる」やり方を生徒に教えていたのを思い出した。その時の課題曲は確かドビュッシー「亜麻色の髪の乙女」だった。それを見ながら、まだ大学に通っていた頃、ベロフの来日公演を聴きに行って、やはりドビュッシーだったろうか、音が高らかに投げ上げられるのを目撃したなあ‥‥と感慨に耽ったっけ。ドビュッシーだから‥‥とばかり思っていたが、音を堅固に積み上げるイメージの強いベートーヴェンでも効果的だとは。こうしたところは通常のクラシックの聴き方だと、「音色の多彩さ」と表現される部分なのだろうか。だが縦の線や横の流れがかっちりとあって、それに彩色が施されるというより、そうした構造が一瞬解けてしまうような、あっけらかんとスリリングな瞬間が、ここには確かにある。対して高揚する部分での、楽しげに水しぶきを上げるような音をはね散らかす弾き方。アトムであるひとつひとつの音の運動/軌跡よりも、集合的な運動状態に向けられたコントロール。

 これらサウンドのレヴェルの「自由」に加え、意識/精神活動の高さに驚いた。例えば第2楽章の入りの夢うつつな感覚の提示。半覚醒の朦朧とした表情。まるで夢遊病者の足取りのような指さばき。子どもの頃よく見た米国製アニメ(今ならカートゥーン・チャンネルで放送しているハンナ・バーベラやワーナー・ブラザーズ)には、夢を見ながら(あるいは寝ぼけたまま)キャラクターが何の支えもなしに空中を歩いていって、眼が覚めると墜落してしまう‥というシーンが繰り返し出てきたが、ちょうどあんな感じ。夢から覚めたら踏み外してしまう、空中に引かれた架空の線の上を、どこまでもどこまでも目覚めることなく歩んでいく音の道行き。通常のピアノ演奏がもっぱら感情の振幅しか使っていないのに比べ、ここではまさに意識/精神状態の振幅が生きられている。

 アンコールのバッハもまた縦の線よりは横の流れを重視して、しかも各声部をそれぞれ独自の「速度」(テンポではない)でいきいきと(「全速力で」ではなく、子どもたちが思い思いに走り回るような)息づかせていた。
 こうした演奏を、作品のそもそもの性格(時代背景を踏まえつつ、作曲者の意図へとさかのぼる一方で、近現代の演奏史への目配りも忘れない)と演奏者の個性/解釈、さらにはそれを可能ならしめる演奏スキル等で語るのが、クラシック音楽評の「テンプレート」ということになるのだろうか。もちろん、一夜のコンサート・プログラムが作曲作品を並べて構成される以上、もうそこから(「何を弾くか」から)コンサートは始まっているのだろうし、解釈、表現、企画、プロジェクト‥の線は、当然欠かせない観点だと思う。しかし、それだけで演奏/音楽をとらえようとすれば、それはワインの鑑定にも似た「検証」作業にとどまってしまうのではないだろうか。まあ、それこそが、私たちが教科としての「音楽」の時間に教えられてきた「鑑賞」というものなのかもしれないけれど。


2 即興的瞬間

 プロ野球放送の解説ツールに「野村スコープ」というのがある。実際の試合画面にストライク・ゾーンを投影して、野村カントクが一球ごとに配球を解説するものだが、彼が解説するようなバッテリー/打者間の駆け引きが、野球の欠かせない一部として存在するのは当然として(得点や勝敗にしか関心がないような人は、これで少し勉強してもらった方が‥)、それで野球というゲーム/スポーツが完結してしまうなら、「野球盤ゲーム」と同じではないか。

 野球はサッカーに比べればはるかに「制度的」なスポーツだが(アメリカン・フットボールほどではないにしても)、実際の試合では、それこそ考えられないようなことが起こる。そこにあるのはプレーする(あるいは指示する)人間の意図とその誤差だけではない。ボールやバットの運動、グラウンド状態のミクロな勾配、風向きや大気の状態、その他多くの変動要因・影響要素があり、そして何より、それらを関連付ける、意図だけでは制御しきれない(誤差や失敗、疲労や故障による能力低下、さらにはメンタルな要素以外に、より本質的な問題として、身体は事物や状況に瞬時に、意図を超えて反応してしまう)身体の運動がある。世界はかくも未規定性に開かれている。にもかかわらず、それをプレーヤー間の駆け引き(裏を読む、裏の裏を読む、‥‥)に集約してしまうことは、結局、その未規定な広がりを「表と裏」の二元性のうちに封じ込めてしまうことにほかならない。

 蓮實重彦はスポーツ観戦の醍醐味として「圧倒的な流動性の顕在化」を挙げるが、まさにその通りだ。潜在的なものにとどまっていた線/運動が一挙に顕在化した時の、世界がひっくり返るような驚きこそが、スポーツの快楽にほかならない。そして、音楽もまた。

 アンドラーシュ・シフの演奏は、至るところ、そうした「圧倒的な流動性の顕在化」の予感/予兆に満ち満ちていた。そして、そうした各瞬間こそが、「即興」に向けて開かれているのだ。彼の演奏を「彼による作品解釈の具現化に向けた身体の精密なコントロールの結果」ととらえるよりも、そのような「即興的瞬間」に開かれたものとして受け止めた方が、演奏の強度を充分に受け止めることができるのではないか。いや、こうした言い方は後知恵だ。むしろ、彼の演奏に、優れた即興演奏と同質の輝きや馨しさを、まず(思わず)感じてしまった(不意討ちされた)‥と告白しなければ嘘になるだろう。

 すなわち「即興演奏の質」とは、こうした瞬間瞬間に訪れる(それは「深淵が口を開けている」ということでもある)未規定性に向けて開かれているということであって、「譜面を見ない」とか、「事前に決め事をしていない」ということではない。もちろん、即興演奏の定義だけを言うのなら、それでも事足りるかもしれない。しかし、仮にそうだとして、即興で演奏することが、それだけである質や水準を確保してくれるわけでは、いささかもない。ライヴやコンサートの告知を見ると、即興で演奏しさえすれば、それがすなわち「冒険」や「挑戦」、あるいは「実験」等となるという誤解が蔓延しているようだが、そんなことはありえない。デレク・ベイリーが言うように、人類が最初に演奏した「音楽」は即興演奏によるものだったはずだ。彼らは果たして「冒険」や「挑戦」、あるいは「実験」に勤しんでいたのだろうか。そんなはずはない。
 フレーズを排し、エレクトロニクスに頼り切って、いかにも「音響」ぽいサウンドの見かけをなぞることや、サンプリングされたループの重ね合わせをはじめ、その場に敷き詰められ響きをかき乱すことのないように、「空気を読んで」、当たり障りのない極薄のレイヤーをおずおずと重ねることの繰り返しが、即興演奏ならではの質や強度を獲得することは永遠にないだろう。なぜなら、そもそもそこには即興的瞬間が存在しないのだから。


3 「奇妙な機械」を走り抜ける何本もの力線

 TVクルーの操るカメラは、シフの読み取りがたい表情を真正面からとらえ、無駄のない(と同時に気まぐれな遊び心に満ちた)指先の動きを間近に覗き込む。前にも述べたように、彼は眉間にしわを寄せ恍惚とする、あるいは深く物思いに沈む‥‥といった表情をつくらない。それにより特定の感情へと「演奏する身体」をチューニングしよう(囲い込もう)としない(あのポリーニですらそうしていたのに)。音楽/指先の駆動力は、感情の(起伏/振幅の)源泉からではなく、身体/精神のもっと奥深いところから汲み上げられる。
 感情の起伏/振幅に束ねられることのない「演奏する身体」の運動は、奇妙な機械のように見える。それは音楽の生産にのみ従事/奉仕しているように見えない。ことさらに誇張された表情やアクセントのない動きは、多様な解釈を受け入れるだろう。テレビの音を消してしまえば、響きからも解き放たれて、いつまでもいつまでもカタカタと動き続けるのではないか。そんな不遜な(倒錯した?)夢想すら頭をかすめる。

 ゆっくりと回転する吊るされた黒いビニール袋が、下にセットされたタイヤに触れ、転がりだしたタイヤは机をひっくり返し、斜面に置かれた脚立を滑らせ、それがまた机を押し倒し‥と、ドミノ倒しの要領で、アクションが次々と(延々と)連鎖していく。1987年にドクメンタ8で喝采を浴びた 、ペーター・フィッシュリとダーヴィト・ヴァイスという二人組のスイス人による約30分の短編映画「事の次第(独語タイトル:Der Lauf der Dinge 英語タイトル:The Way Things Go)」。いや「ドミノ倒し」との形容は正確ではなかった。「ドミノ倒し」とは接触の連鎖にほかならないが、「事の次第」のブロセスは、ビンが倒れて中身の液体が他の容器に注がれるなど、運動の変奏以外にも、燃焼や溶解など、ありとあらゆる変化をリレーしていくのだから。
 「ドミノ倒し」は一時テレビの特番企画に採りあげられたこともあって、国旗が揚がったり、花火に火がついたりと、途中に様々なギミックをはさむようになった。けれど、その本質は接触の連鎖であり、並べられたドミノは倒れれば、その役目を終えてしまう。これに対し「事の次第」では、テーブルやバケツや台車等がプロセスの構成要素として用いられ、「作動」を終えた後も、テーブルやバケツであり続ける。実際、直接「接触」を伝播するのは装置のてっぺんに置かれた小さなビンであり、それが倒れることでバランスが崩れ、積み上げられた家具が崩れ落ちる場面など、その崩壊の大騒ぎとは裏腹に、家具は単なる支えでしかない。そこには常に過剰がはらまれている。

 幼い頃テレビで見た喜劇(「三バカ大将」とか)には、よく奇妙な「機械」(というより大掛かりな「仕掛け」と言うべきだろうか)が登場した。犬に追いかけられた猫が、逃げることにより結ばれた糸を切り、それを起点とする「事の次第」的な連鎖が、鶏に卵を産ませ、ガスコンロに点火し、その上に乗せたフライパンへと割られた卵の中身が落下し、確か最終的には、その家の主人を起こして、朝食用の目玉焼きを調理するくらいの成果しか産み出さないのだが、それはプロセスのひとつの流れ、ひとつの帰結でしかない。犬に追われ、あるいはネズミを追いかけて、次のアクションへの「導火線」となった猫は、そこで終わつてしまうわけではなく、そのまま逃走を続ける。この逃げ出した猫は別の「機械」を作動させるかもしれないし、「最終的生産品」と思われた目玉焼きだって、新たな運動/変化の引き金を引くかもしれない。ここには「最終的生産品」はなく、ただ変容しつつ運動を続けるマテリアルが、結合された「諸機械」の作動だけがある。

 アンドラーシュ・シフの「演奏する身体」は、いまテレビ画面の中でホールに備え付けられたピアノと接続し、ベートーヴェンのピアノ・ソナタを紡ぎだしている。だが、きっと次の瞬間には、まったく別の何物かと結びついて、全く違う状態をつくりだすのだろう(ベートーヴェンのピアノ・ソナタでも目玉焼きでもない何かを)。その運動は、やはり即興的な質と強度に満ち溢れていると言わねばなるまい。

NHK 芸術劇場
録画:2月20日 紀尾井ホール



Andras Schiff / Ludwig van Beethoven Piano Sonatas Volume Ⅷ
ECM 1949



ライヴ/イヴェント・レヴュー | 23:35:59 | トラックバック(0) | コメント(0)