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福島恵一

Author:福島恵一
プログレを振り出しにフリー・ミュージック、現代音楽、トラッド、古楽、民族音楽など辺境を探求。「アヴァン・ミュージック・ガイド」、「プログレのパースペクティヴ」、「200CDプログレッシヴ・ロック」、「捧げる-灰野敬二の世界」等に執筆。2010年3~6月に音盤レクチャー「耳の枠はずし」(5回)を開催。2014年11月から津田貴司、歸山幸輔とリスニング・イヴェント『松籟夜話』を開催中。

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ディスク・レヴュー2011年4~5月 Disk Review Apr. to May 2011
【前口上】
 今年2回目の新譜レヴューをお届けする。もともと3か月ごと、年4回掲載の予定で、第1回目は1~3月分を4月中旬に掲載したので、次は4~6月分を7月中旬‥と思っていたのだが、当初のこちらの想定をはるかに超えて優れた作品が集まってしまい、急遽4~5月分を6月に掲載することにした。演奏者やレーベルがあまり偏るのもどうかとの判断から、次の作品群は別途採りあげることとしたが、白状してしまえば、こうした措置を図らなければ、とても7枚まで絞り込めなかっただろう。
■別途採りあげることとした作品
 ・ミッシェル・ドネダの近作
 ・コーネリアス・カーデュウ「大学」全曲版はじめBoltレーベルの作品※
  ※コーネリアス・カーデュウ作曲作品として採りあげるかも。
 ・Unfathomlessレーベルの作品



1.声の身体を取り巻くもの


Barre Phillips,Catherine Jauniaux,Malcom Goldstein / Birds Abide
(Victo cd 119)

Barre Phillips(contrabass),Catherine Jauniaux(voice),Malcom Goldstein(violin)
試聴http://www.squidco.com/miva/merchant.mvc?Screen=PROD&Store_Code=S&Product_Code=14102&Product_Count=&Category_Code=
 低弦への鋭い一撃が切り開いた空間に、するりと身を滑り込ませる声のはばたき。この冒頭の一瞬に象徴されるように、各人は同時並行的にそれぞれの層を推移しながら、視線すら交わさず、ましてやコール&レスポンスの身振りなどに頼ることなく、手練の集団スリのように水も漏らさぬ緊密さで事を運ぶ。それゆえ切断が強調されることはない。各人はそれぞれにある状態を産出し、それを重ね合わせ、推移させる。ジョニオーは様々な声音を駆使しながら、むしろ「歌手を演じる女優」のようだったかつてのイメージを離れ、その場限りの演劇的対応や新奇なサウンドの応酬へと立ち位置をずらすことなく(凡百のヴォイス・パフォーマーたちと比べてみること)、身体/感情の持続と切り離されることのない、声が声である地点にこだわり続ける。そのことが弦楽の束の間つくりだすこわれやすい平面を自在に蹴立てることを可能にしていよう。紛う方なき傑作。


Tiziana Bertoncini,Thomas Lehn / Horsky Park
(another timbre at-40)

Tiziana Bertoncini(violin),Thomas Lehn(analogue synthesiser)
試聴 http://www.anothertimbre.com/page87.html

 いまここに刻み付けられた鋭い傷口であったり、あるいはおぼろに漂うあえかな揺らめきであったりしながらも、ヴァイオリンの「声の身体」の確かな手触りが、耳の焦点となるべき輪郭を与えることによって、レーンの奏する電子音が空間自体を変容させる手つきが生々しく立ち現れてくる。共に変幻自在の声の使い手であるフィル・ミントンやウテ・ヴァッサーマンと共演した時以上に(ここではグリッチも爆音の放出も、空間に響き渡るというより、「媒質に刻まれた傷」と映る)。ヴォイスと電子音の組合せはベリオやシュトックハウゼンの昔から、なべてマターナルな相互浸透的調和へと向かいがちであり、そうしたなかで異物を埋め込まれた環境の変容をシミュレートした本作は、特筆すべき水準を示している。なお、サウンド・プロセッシングを施した2曲目は、明らかに演奏の強度を減じている。


Eugene Chadbourne,Tatsuya Nakatani / Bigger Country Boobs
(Chadula chadBigger)

Eugene Chadbourne(guitars,banjos,voice),Tatsuya Nakatani(percussion,voice)
試聴 http://www.squidco.com/miva/merchant.mvc?Screen=PROD&Store_Code=S&Product_Code=14196&Product_Count=&Category_Code=
 アメリカの狂気の根へと沈潜していくような、チャドバーンによるフリー・カントリーの探求は、ここで中谷達也という最強の相方を得て、既成曲を題材としながら、試行錯誤的な「崩し」ではなく、フリー・インプロヴィゼーションによる解体の彼岸から事態を見据えた、砂漠の果ての再構築に至っている。演奏にみなぎる覚悟と度胸、考え抜かれたやかましさと臆面のない繊細さは驚くばかりだが、とりわけ素晴らしいのは、超絶的な速弾きや早口ヴォーカルをはじめ、至るところから突如として噴出する身体の「過剰さ」(それは身体の本来的な性質てあるだろう)を決して抑圧することなく解き放ち、互いに食い合うに任せた野生の(去勢されない、出っ張りだらけで不整形の)アンサンブルを成し遂げたことにある。カラーコピーをテープで貼り合わせただけのチープ極まりない装丁に包まれたCD-Rというのもまた本作に似つかわしい。



2.ピアノという機械仕掛け


Sophie Agnel / Capsizing Moments
(Emanem 5004)

Sophie Agnel(piano with variable preparation)
試聴 http://www.squidco.com/miva/merchant.mvc?Screen=PROD&Store_Code=S&Product_Code=11561&Product_Count=&Category_Code=
 同じく多様なプリペアドや内部奏法を駆使しながら、Magda Mayasがサウンドの表面を高速で疾走していくのに対し、アニェルはピアノの複雑な機構に魅入られたように、入り組んだ音響の襞の内奥へと分け入っていく。胴への鋭い一撃により一瞬の刻み目を入れながら。まるでピアノの「肉」に溺れるように。指先を這わせ、粘膜を擦り付け、体液を塗り付ける、あるいはピアノの「肉」の欲望に思うがままに身体を突き動かされる‥‥「ピアノと交合する」とは陳腐な形容に過ぎないが、それがこのように文字通り生きられたことはかつてなかっただろう。演奏は一見フリー・ジャズ的な不透明な厚みをたたえながら、だらしなく肥大したエゴが楽器を包み込む代わりに、楽器の「肉」に埋め込んだ身体をプリパレーションによって飛び散らせ(いつまでもぴくぴくとうごめき続ける肉片の軌跡)、あるいはオルゴールにも似た機械仕掛けがつくりだす倍音の交錯を、透徹した眼差しが冷ややかに見詰め、強烈な打鍵により叩き壊す。


Altenburger,Blondy,Gauguet / Vers l'ile Paresseuse
(Creative Sources CS182cd)

Martine Altenburger(cello),Frederic Blondy(piano),
Bertrand Gauguet(alto&soprano saxophone)
試聴 http://www.squidco.com/miva/merchant.mvc?Screen=PROD&Store_Code=S&Product_Code=14180&Product_Count=&Category_Code=
 弦の毛羽立つ震えを凝視し、胴の奥深くへと沈潜していくチェロ。息の乱れをもつれ合わせて管が張り裂けんばかりに内圧を高めていくアルト。引き絞った鋼線の振動で空気をかき乱し、目にしみるほどスパイシーな香気をたちのぼらせるピアノ(内部奏法)。ここで音の行き先を決めているのは、個々のラインの変化ではなく、層と層の間に生じる眼に見えぬ軋みであり、それを百枚敷き重ねた寝具の下の針のようにまざまざと感じ取る皮膚感覚にほかならない。眼をつむり、耳をふさぐことにより、鋭敏さをいや増した皮膚/粘膜のための触覚的音楽。それぞれの楽器の発声は継起的というよりは間欠的であり、ふと終わり(その瞬間、今まで音が鳴っていたことに気付く)、また何事もなかったかのように始められる祈りにも似ている。暗闇の中で花が開くように、響きがふっと匂い立ち、空間いっぱいに広がる瞬間が素晴らしい。



3.奥深い空間の不確かさ


Slavek Kwi (Artificial Memory Trace) / Collection 5
(Gruenrekorder GR 080)

Slavek Kwi (record&create all paticle of reality)
試聴 http://www.gruenrekorder.de/?page_id=4548

 震え揺らめく何物かのかたちが半闇にぼうっと浮かび上がる。たなびく気配があたりを満たすと、そこにおできの芯にも似た固いしこりが現れてくる。それはすぐに窓/開口部へと姿を変えて、その向こうに広がる空間を知らぬまま覗き込んでいたことに気付かされる。浮遊する電子音も、遠い彼方の響きも、眼前にありありと像を結ぶ動きも、すべては空間の広がりと奥行きを明らかにするために置かれているに過ぎない。様々な音響がそれぞれに照らし出す手触りの集積としての空間。フィールドレコーディング素材(彼の言う「リアリティのかけら」)の喚起する光景が移り変わるたびに、空間はその奥行きをスクリーンのように浅く、あるいは底なしの深淵のようにぞっとするほど深くする(ステレオグラムがつくりだす、あり得ない透明度をたたえた、果てしない「深さ」を思わせる)。それはどこか夢の明滅に似ている。「人工記憶の軌跡」とは良く言ったもので、我々の記憶を取り出して聴覚化すれば、確かにこのようなかたちをしているのかもしれない。


Lethe / Dry Ice on Steel Tables
(either/OR either/live2)

Lethe(dry ice,steel tables)
試聴 http://www.and-oar.org/pop_either_live2.html

 タイトル通り、4脚のスチール製スタンド・テーブルの上にドライアイスを置き、それによって生じる振動を「演奏」した作品。精妙にコントロールされた金属質の軋みの交響を聴くことができる。どこへも行き場を持たず、長く尾を引く「叫び」は、まるで空間が身をよじっているようだ。足音の長く伸びるかげ。最初から最後までこちらを見詰めている暗騒音(それは暗闇に潜む何者かの息遣いのように感じられる)。素材の生み出す音響を聴くのではなく、演奏者のアクションをとらえるのでもなく、ましてやアーティストの意図を詮索するのでもなく、その手前にある空間の響きに耳を傾ける。そこではすべてが表層にさらされていながら、とらえどころなく輪郭を欠き、にじみやしみのような不定形な広がりしか持ち得ないがゆえに、耳の視線は焦点を結ぶことができず、途方に暮れながら、あてもなくさまようことを強いられる。想起や反射等により聴く者の中から浮かび沸き上がるものがそこには避けがたく投影され、見分け難く刷り込まれてしまう。ここにある曖昧さや不確かさは、ノイズをキャンセルすれば取り除けるようなものではなく、「聴くこと」に本質的に含まれている〈不純さ/豊かさ〉にほかならない(そのことに耐えられない脆弱な精神は〈意図〉や〈アクション〉といった枠組みで、音を切り取ろうとする)。


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ディスク・レヴュー | 22:20:19 | トラックバック(0) | コメント(0)
「アンフォルメルとは何か?」@ブリジストン美術館  Postwar Abstract Paintings in France and Art Informel at Bridgestone Museum of Art
 京橋ブリジストン美術館で開催中の「アンフォルメルとは何か?」展(7月6日まで開催)を遅ればせながら見てきたのでリポートしたい。


 昨年行ったレクチャー、さらにはそれに先立つ一昨年のシンポジウムでの発言を行ううえで、重要なヒントになったのが、宮川淳「アンフォルメル以降」における〈フォルムからマチエールへ〉という指摘だった。もともと好きだったジャン・デュビュッフェについて、砂絵作成に至るアンドレ・マッソンの軌跡や、コラージュ、フロッタージュによるマックス・エルンストの達成、あるいは中井久夫による描画や箱庭作成による精神療法の研究等と比較しながらあれこれ考え直してみた。そうして考えながら、「いまアンフォルメルってどうとらえられているのだろう。もしかしたらまったく忘れ去られてるんじゃないか」と思わずにはいられなかった。その頃、ロザリンド・クラウスたちによる「アンフォルム」翻訳進行中とのニュースはあったものの、あれはむしろ運動/事件としての(平たく言えば流行としての)〈アンフォルメル〉と差異化を図りたくて、わざわざバタイユを導入して〈アンフォルム〉という語を用いているわけだし。
 そんなわけで、今回の展覧会開催の知らせには、率直に言って、虚を突かれた思いがしたのと同時に、何か不思議な符合があるようにも感じられた。

 今回の展覧会は次の3部で構成されている。
①抽象絵画の萌芽と展開
②「不定形」な絵画の登場-フォートリエ、デュビュッフェ、ヴォルス
③戦後フランス絵画の抽象的傾向と「アンフォルメルの芸術」
 
 ①ではマネからカンディンスキーに至る流れが示され、③では主としてミシェル・タピエが〈アンフォルメル〉と名づけた中で活動した作家たち(ジャクソン・ポロック等の例外を含む)が並べられる。やはり圧巻は②の〈アンフォルメル〉の先駆者である3人。特にジャン・フォートリエとジャン・デュビュッフェがやはり凄かった(ヴォルスは好きな作家なのだが、顕微鏡下の世界を思わせる彼の神経症的に繊細な線を楽しむには、いかんせん照明が暗すぎた)。

 フォートリエの作品において、絵具はまるでジオラマのように盛り上げられる。だが、そうした常軌を逸した厚塗りから連想されるような、暴力的な物質性はそこにはない。絵具は概ね平らな台地状に盛られ、その表面には荒々しく引っかかれた跡が刻まれているものの、マチエールの切断には至っていない。それゆえか、画面はむしろ静かで、色調もあって〈涼しさ〉さすら感じられる(〈寒さ〉や〈冷たさ〉ではないことに注意)。彼の作品は画集等で眼にしていたものの、「実存の時代の熱い抽象」との先入観にとらわれて、こうした静かさ、涼しさに気づくことはなかった。この嵐を突き抜けたような静かさはとても衝撃的だった。「長方形」のシリーズ作品など、それこそ焼き物や手拭いの図案になりそうなぐらいなのだ。
 一方、デュビュッフェは、画集で見て想像していたのを超えて暑苦しく騒々しい。オールオーヴァーな厚塗りは、局所的な厚みではフォートリエに負けるものの、剥き出しの土のようなモノの存在感、無言の圧力と息吹に溢れている。そしてその表面は、あらゆる方向から引っかかれ、あるいは突かれ、砕かれて、筆や刷毛、パレットナイフ等の軌跡を完璧に切断されている。「画面を土壌に見立てて、心ゆくまで耕し尽くした」とでも言えば、その感じが伝わるだろうか。そこには様々な色合い/質感の粒子が混ざり合い、鶏糞や石灰、あるいは砂や木の根や骨の破片等が土壌を肥沃なものとしていることが見て取れる。画面に立ち現れる形象は、こうした土壌の色合いや吸水率/反射率の違いとして浮かんでくるのだが、時には後から、粘度の低い黒絵具で、ほとんど一筆書きのようにへろへろと描かれることもある。灼熱の太陽に真上から炙られ、むせかえるような熱気と湿気と臭気を沸き立たせる大地のリズムの上に、多幸症的に柔らかにたなびく緩急自在なドローイングの線。それはまた「ダンシング・イン・ユア・ヘッド」以降のオーネット・コールマンの吹奏ラインにほかならない。プライム・タイムが生み出す多方向から衝突/散乱しあうポリリズムを、彼の「フリー・ジャズ」のジャケットからの連想もあって、ジャクソン・ポロックによるポワリングの線の交錯にこれまでたとえていたが、これからはデュビュッフェを持ち出さなければならないだろう。
 フォートリエとデュビュッフェの2人がまるで同類のように語られることに、ずっと違和感を覚えてきたのだが、たとえ数点ではあるにせよ、実際に作品を間近に見て、その大きな違いを確認できたことは、今回の大きな収穫だった。

 これに比べると、流行としての〈アンフォルメル〉の中で制作された作品は、どれも食い足りない。アンリ・ミショーの作品は、むしろ心理実験とでも言うべきものだから別枠として、アンス・アルトゥング、ピエール・スーラージュ、ジョルジュ・マチウらの作品は、完全にテンプレートがあっての量産品であることが一目で見て取れてしまう。なお、ここでテンプレートには2種類ある。ひとつはアクション(の軌跡)の転写として作品が出来上がるという原理であり、これはほとんどの作品に共通している。最も典型的かつある意味純粋なのはマチウで、身体にLEDを装着して絵を描き、光源の軌跡を録画して作品として提出しても、ほとんど同じようなものとなるだろう(そういえば19日のNHK「日曜美術館」で宮本三郎を採りあげる中で、マチウ来日時の公開制作の映像を束の間見ることができたのは、これまた不思議な偶然だ)。もうひとつは、個々人の〈様式〉に沿った作成過程に生じる不確定性への注目であり、筆の運びの揺らぎや刷毛目のずれが、まさに「不定形」を呼び込むものとして尊重されることになる。こうなると書道における筆のかすれ等を尊ぶ日本伝統の美的感覚は強力な武器であり、実際、堂本尚郎の作品の完成度の高さは群を抜いていたが、この作品をあえて〈アンフォルメル〉の名の下に評価する必然性は薄いように感じられた。
 別の意味で興味深かったのは北京出身のザオ・ウーキーの作品で、30歳前の作品は、いささか自閉症的ではあるが、夢想の中で宇宙と交信し、過去や未来へ旅しているような私的なファンタジーとそのかけらと言うべき繊細な形象/描線に溢れていて、今回の展示作品で言えばヴォルスに通ずる素晴らしさがある。それが後になると、東洋的な〈アンフォルメル〉に目覚め、まるで屏風絵のように雄大かつ空疎な作品を描き続けるようになってしまう。素敵な湯飲みやコーヒー・カップをつくってくれた陶芸作家が、百万円超の大きな絵皿(当然つまらない)しかつくらなくなってしまうような‥。これはアーティスト・ライフとしては出世であり、成功なのだろうが。


 展覧会の構成として、抽象へ向う流れがすべてアンフォルメルに流れ込むような図式はいささか乱暴だし、もともとの図式を作成したアルフレッド・バーの政治性に無頓着すぎると思うが、1950年代の日本におけるアンフォルメル・ショックの凄さなど、とうの昔に忘れ去られている現在、アール・ブリュットのようなゲテモノ扱いではなく、アンフォルメルを紹介するためにはやむを得ない取り扱いかなと思う。海外からの出展取りやめもあった中で、国内所蔵のフォートリエやデュビュッフェ、あるいはその他の作家の作品を、これだけきちんと集めてくれた主催者の努力に感謝したい。

 なお、美術館1階に併設のティールーム「ジョルジェット」は、なかなかおいしいスコーンやホットケーキと飲み物のセット(コーヒーはお代わり付き)を、800~900円という非常に良心的な値段と丁寧なサービスで提供してくれます。ご来館の際は立ち寄ってみてはいかがでしょう。オススメです。




ジャン・フォートリエ「旋回する線」


ジャン・デュビュッフェ「暴動」


堂本尚郎「絵画」


ザオ・ウーキー「21 Sep.50


ティー・ルーム「ジョルジェット」



アート | 22:18:55 | トラックバック(0) | コメント(0)