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福島恵一

Author:福島恵一
プログレを振り出しにフリー・ミュージック、現代音楽、トラッド、古楽、民族音楽など辺境を探求。「アヴァン・ミュージック・ガイド」、「プログレのパースペクティヴ」、「200CDプログレッシヴ・ロック」、「捧げる-灰野敬二の世界」等に執筆。2010年3~6月に音盤レクチャー「耳の枠はずし」(5回)を開催。2014年11月から津田貴司、歸山幸輔とリスニング・イヴェント『松籟夜話』を開催中。

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複数の耳のあわいに-「タダマス2」レヴュー Between Plural Ears - A Review for “TADA-MASU 2”
 7月24日に行われた四谷ティー・パーティ第2回(タダマス2)のリポートをしたい。今回は益子による選盤に加え、多田によるセレクションも披露され、さらに市野氏の演奏者ならではの指摘もあり、それに聴衆からの意見が加わることによって、前回以上に多角的な聴取の場となった。集客が少ないのは相変わらず課題だが、これについては、ある種の社会的「症状」も影響しているように思う(これについては後述)。

 当日のプレイ・リスト(簡略版)は次の通り(このうち9~11が多田による選盤)。益子による選盤は前回の続きで、今年第2四半期のNYダウンタウン・シーンからの10枚となっている(およそ50枚の新譜からの選りすぐりだという)。なお、レーベル、規格番号、曲名、パースネル等は、元リスト(http://gekkasha.jugem.jp/?cid=43767)を参照のこと。

1.Ambrose Akinmusire / When The Heart Emerges Glistening
2. Okkyung Lee / Noisy Love Songs (for George Dyer)
3. Michael Dessen Trio / Forget The Pixel
4. Ingebrigt Håker Flaten,Håkon Kornstad,Jon Christensen / Mitt hjerte altid vanker - I
5. Nicolai Munch-Hansen / Chronicles
6. Ben Allison / Action-Refraction
7.Jeremy Udden’s Plainville / If The Past Seems So Bright
8. Craig Taborn / Avenging Angel
9.Bojan Z / Xenophonia
10.Paul Motian / The Windmills of Your Mind
11.Lee Konitz,Brad Mehldau,Charlie Haden,Paul Motian / Live at Birdland
12.Travis Reuter / Rotational Templates
13. Berne, Black & Cline / The Veil
14. Farmers by Nature / Out of This World's Distortions


 前回同様、多くのことを触発されたが、ここでは次の3点に絞って論じたい。

(1)思いがけない叙情
 2からは冒頭の「百歳の雨」がかけられた。ぱらぱらと空を打つ雨音(を模したサウンド)に導かれて、もやがけぶるように弦の響きが浮かび、緩やかな息遣いを編み上げていく。そこにOkkyung Lee自身の奏でるチェロが、平らかでうつむき加減の、だが意志の強さを感じさせる流れを付け加える。情景喚起力豊かなサウンドトラックを思わせる音の運び。倍音領域を小鳥のように移ろう弦のフラジオと、遠くでカンカンと鳴るピアノの透明水彩画風の対比は、キム・ギドク「春夏秋冬そして春」の幽玄な景色(人を寄せ付けぬ凛とした厳しさと奇妙な人懐っこさを併せもった)によく似合うことだろう。
 バス・サックスによる太古の祭儀を思わせる深々とした響きで幕を開けた4は、持ち替えられたテナーがノルウェーの伝承聖歌をピュアに響かせていく。そのどこかカリプソに似た軽やかで喜悦に満ちた旋律の動きは、私にアルバート・アイラー「ゴースト」のテーマを連想させた。このことは、彼の類稀なる才能を発見したのが、楽旅で訪れた北欧であったことと関連しているのだろうか。
 いずれも「NYダウンタウン」の既成イメージ(ブランド・イメージと言うべきだろうか)から遠く隔たった、瑞々しく透き通った叙情が、演奏のただなかから、滾々と尽きることなく湧きだしていた。

(2)建築へのゆるぎない意志
 前回、Gerald Cleaver(dr)と共に大活躍だったCraig Taborn(pf)は、今回も注目すべき演奏を聴かせてくれた。ECMからのソロ・アルバム8では、音が放たれるたびに、響きが光となって天高くたちのぼり、一本ずつ柱を建立していく。前回、彼のエレクトリック・ピアノ演奏を「グリッドのオン/オフだけでできている」ととらえ、楽器としてのピアノの本質を研ぎ澄ます仕方に注意を促しておいた。これを受けて、今回、彼のライヴ演奏を聴いている益子から、彼の演奏が弱音から強音まで、ダイナミクスの変化に関わらず音色が一定であることを指摘する発言があり、また、益子・多田とも彼の演奏を「音が積み上がる」と表現していた。サウンドが平準化されたエレクトリック・ピアノに比べ、はるかにコントロールの難しい(それゆえ多彩な音色を奏でられる)アコースティック・ピアノにおいても、こうしたモノクロームの美学を厳しく探求する、彼の突き詰めた眼差しを感じずにはいられない。
 ここで興味深かったのは、(おそらくはポスト・プロダクションにより)加えられたリヴァーブの過剰さを指摘し、このCDで聴ける音は、演奏時にテイボーンが耳にしていたものとずいぶん異なっているだろうとした市野氏の発言である。彼は単にリヴァーブの有無を問うているのではなく、ピアノの音の減衰をリヴァーブが引き延ばしてしまうため、演奏の間合いが変わってしまっているであろうことを問題にしていた。もちろん、録音作品である以上、録音現場でどう聞こえたかはさして重要ではない(完成した映画作品が、セットの脇で見ていたのと違うと言ってもしょうがない)。しかし、この演奏が響きを探りながらのインプロヴィゼーションであることを思えば、市野氏の批評は核心を突いている。私が聴いたところでも、右手と左手で残響のたちのぼり方が異なるなど、リヴァーブ操作にはかなり作為的なものが感じられた。その一方で、この演奏が「ECMピアノ・ソロの典型」からずれていることも指摘しておきたい。キース・ジャレット「ケルン・コンサート」の記憶によるのだろうか、この「典型」のポイントは「アイヒャー・エコーによる美音づくり」にあると見なされがちだが、実際には「美フレーズ」の方がはるかに重要であり、そうした「美フレーズ」を最大限効果的に演出するために、音数が絞り込まれ、音の動きが切り詰められ、「間」が重要視され、響きが精緻に磨き上げられる。「沈黙の次に美しい音」をキャッチ・フレーズに掲げながら、ECMにおける「沈黙」はうっすらとした響きの残り香、美フレーズの残像にすでに満たされている。対して、ここでのテイボーンの演奏においては、フレーズを織り成すことなく放り出され、柱として屹立しながら自らを照らし出す音が随所に見られる。より深く沈黙に身を浸し、その強度を肌で受け止めていると言うべきか。そうした演奏の手触りから判断して、先に触れた市野氏の指摘は正鵠を射ていると考える。「ここはすでに弾かれた音が鳴り止み、沈黙に呑み込まれて、響きがリセットされた後に、新たな音が弾かれるべきところだろう」と感じる時に、リヴァーブによる響きが依然として中空を漂っていて、後から弾かれた音が、その響きに(つまりは直前の音に)連なってしまう場面が何度も見られたからだ。
 前回聴くことのできたエレクトリック・ピアノによる演奏では、音の均質化/平準化のための操作もあって、前述のようにグリッドのオン/オフによる構成が見えやすかった。しかし、今回はアコースティック・ピアノの響きの多彩さとタイム感覚の自由度の高さゆえに、そこにマンハッタンの市街のように縦横に張り巡らされたグリッドを見て取ることは難しい。にもかかわらず、そこには確実にオン/オフへの感覚が働いている。ちょうど池の水面に小石を投げ込み、波紋の広がりを見詰めながら、次の小石を投じるタイミングを測るように。弾かれた音が減衰し、次第におぼろに透き通っていく。そこへ新たな響きが折り重ねられる。フレーズを奏でるのではなく、音の柱を打ち建て、響きの層を折り重ねながら、空間を息づかせていくテイボーンの姿は、「建築するピアニスト」と呼ぶにふさわしかろう。
 そのことがより明確に示されたのが、William Parker(b), Gerald Cleaver(dr)とのトリオ編成による14にほかならない。浮き上がるようなピアノの和音の連なりに、ベースの弓弾きが切り込んでいく冒頭部分からして、打ちのめされるような感覚を覚えた。 これはモノが違う。この日のハイライトであるのは明らかだった。いま「和音の連なりに切り込んでいく」と書いたが、実際の響きのコントロールはより精妙で、壁のようなものに切りかかるのではなく、中国の故事に言う包丁の名人のように、骨と肉の間にある隙間に、厚みのない刃を差し込んでいく趣がある。と言いながら、ベースの響きは決して一様に滑らかではない。押し当てられた弓の圧力を、石を彫り進めるノミの跡のようにとどめ、幾重にも折りたたまれた響きの襞をたたえた、手触れるものとなっている。こうして空間に薄絹を垂らしていくピアノと、沈黙自体を掘り進むベースによる「舞い」を前面に押し立てながら、舞台袖の暗がりに身を潜めたドラムスが、画面の外からかそけき響きを振りまく。長谷川等伯「松林図」を思わせるジャケットの印象そのままに、「幽玄」とすら形容したくなる響きの味わいは、昨年6月に亡くなったフレッド・アンダーソンに手向けた鎮魂歌ゆえだろうか。いずれにしても、この盤は入手して聴き込まなければなるまい。

(3)複数の耳の間で
 テイボーンの演奏に対して、人は自分の出遭った未曾有の事態に打ちのめされながら、耳に残る確かな手触りを手がかりに、何とかしてそれを語ろうとする。だが、そうした事態ゆえ、なかなか言葉を紡ぐことができない。巷に溢れた借り物の言葉で、ぺらぺらと饒舌に(社交的に/世間話的に)語ることを、辻褄合わせにより曖昧に体験を収拾することを固く禁じる厳しさが、彼の演奏にはある。それでも語らずにはいられない魅力と、人を寡黙にさせる演奏の屹立した力。辛うじて吐き出し得た言葉が、各人の「聴くこと」の違いを明らかにし、対象の姿をぼんやりと照らし出す。ホストを務めた益子・多田、ゲストの市野氏、そしてこの日集った聴衆が、ぽつりぽつりと語り合った時間こそが、この日の真のハイライトだったのではないだろうか。この貴重な試みが、今後も継続されることを望んで止まない。


Okkyung Lee /
Noisy Love Songs(For George Dyer)
(Tzadik) 


I.H.Flaten,H.Kornstad, J.Christensen /
Mitt Hjerte Altid Vanker-1
(Compunctio)


Craig Taborn / Avenging Angel(ECM)
「これは歴史的な盤だろう。ピアノ・ソロの革命を、
またECMが、というのに近い。」 多田雅範


Farmers by Nature /
Out of This World's Distortions
(AUM Fidelity)


長谷川等伯「松林図屏風」
(東京国立博物館蔵)
上段:右隻 下段:左隻 幽玄の極み。



Telje Rypdal / Waves(ECM)
これも似てますね。
どこか遠くへと誘われる風景。



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ライヴ/イヴェント・レヴュー | 18:48:23 | トラックバック(0) | コメント(0)
「タダマス」の二丁拳銃  ”TADA-MASU” with Two Handguns
 多田雅範と益子博之による批評ユニット「タダマス」(勝手に命名)が、再び音盤コンサートを開催する。通産10回目のNYジャズ・シーン定点観測から先月帰国したばかりの益子のホットなリポートを絡めた新譜紹介に、ポール・モチアンにヘンリー・スレッギル、あるいは「少女時代」からジル・オーブリーまで、「すげー演奏にはいち早くすげーと反応する」同時代音楽のガイガー・カウンター多田が鋭く切り込むという、ラディカルにしてランダム、予測不能な可能性満開の一夜がいまここに。


masuko/tada yotsuya tea party vol. 02: information
益子博之=多田雅範 四谷音盤茶会 vol. 02

四谷喫茶茶会記(新宿区大京町2-4 1F) tel:3351-7904
※最寄り駅は四谷三丁目
2011年7月24日(日) 
open 18:00/start 18:30/end 21:00(予定)
ホスト:益子博之・多田雅範
ゲスト:市野元彦(ギタリスト/作曲家)


益子博之によるリポートはこちらのコラム欄を参照。
http://com-post.jp/

多田雅範によるNYジャズのアイコン選はこちらを参照。
http://www.jazztokyo.com/column/tagara/tagara-21.html
http://www.enpitu.ne.jp/usr/bin/day?id=7590&pg=20110715

月光茶房店主原田大人もご自身のブログで今回の催しを紹介されています。
「NYを観てきた男 vs NYが認めた男」という惹句はいいなあ。
http://timbre-and-tache.blogspot.com/ (7月22日の記事「タダマス2」)


 今後も継続して、「タダマス」の海底探検とか、「タダマス」と魔法の壷とか、「タダマス」の若大将とか、不思議の国の「タダマス」とか、いろいろ頑張ってほしいものです



 「近づく嵐の予感」

  撮影:多田雅範

ライヴ/イヴェント告知 | 23:49:15 | トラックバック(0) | コメント(0)
生成音楽ワークショップのサイト完成! Generative Music Workshop Has Come !
 「アンビエント・リサーチ」を虹釜太郎さんと共に主催する金子智太郎さんが、ある環境や仕掛けを設定することによって、それが自動的に音楽を生み出す「生成音楽」のシステムを、実際に作成し作動させ体験してみる「生成音楽ワークショップ」を開催してきていることは、以前にブログでお知らせしました(2010年6月27日「Music on Long Thin Wire」)。何とこのたび、その「生成音楽ワークショップ」のサイトができました。
http://generativemusicworkshop.wordpress.com/


 「生成音楽ワークショップ」の説明や今後の活動のお知らせのほか、アーカイヴでこれまでの活動の記録を見ることができます。 フランシスコ・ロペスのワークショップ@東京芸大はホントはぜひ参加したいんだけどなー‥。(T_T)うぅ


 【コンセプト】
 「生成音楽」は装置やルールを使う自動作曲の音楽です。
 生成音楽ワークショップは 過去の生成音楽の名作を「再演」します。
 城一裕と金子智太郎により2010年から活動しています。

 【これまでの活動】
 第1回 スティーヴ・ライヒ「振り子の音楽」
 第2回 アルヴィン・ルシエ「細長いワイアーの音楽」
 第3回 リチャード・ラーマン「トラヴェロン・ガムロン」

 【今後の活動予定】
 第4回 聴く装置としてのエオリアン・ハープ(黄金町バザール2011に参加)
     フランシスコ・ロペス ワークショップ「The World as Instrument」



第1回 スティーヴ・ライヒ「振り子の音楽」



第2回 アルヴィン・ルシエ「細長いワイアーの音楽」



第3回 リチャード・ラーマン「トラヴェロン・ガムロン」



音楽情報 | 22:47:40 | トラックバック(0) | コメント(0)
トラッドとの出会い~奈落への転落(続き) Encounter with Trad Music - Downfall to the Depth (continued)
 前回言及した月光茶房店主原田さんのブログが更新されて、ブラックホークのお話の続きが掲載されている(7月17日分。前回言及したのは7月13日分)。「ブラックホーク後期」と題された記事を読んで驚いたのは、そこで話題となっている「ブラックホーク・ニュース」の発行日が1980年7月20日で、私が前回ブログで書いたトラッドの出会いとほとんど同時期(私の方は1980年6月から)であることだ。さらには、私が前回「マリコルヌ・ショック」の端緒として採りあげたMalicorne / Almanachが、そのニュースに掲載されており、ブラックホークが従来方針から踏み出した象徴となっている。私たち一人ひとりはそれぞれに異なる人生を歩んでいて、時折、いろいろな出会いがあったりするわけだが、同じ世界に生きている以上、様々な社会条件の変化に同時にさらされていくことになる。たとえ出会わずとも、そこには一種の同期が存在している。たいいていの場合、それは大きな社会現象であって、オリンピックのようなイヴェントであったり、何かの流行であったり、社会制度の変更であったりするのだが、ここでは、それから30年後に出会うことになる2人が、それぞれに東京の片隅で同じ1枚のレコードに出会い、そこにこれまでとは異なる風景を感じ取るということが起こっている。当時、そうした事態に遭遇した人なんで幾らもいないだろうから、本当にマイナーでミクロな次元の話だけれども。まるで映画のマルチ・スレッドの語りのようで面白いな‥と。

 さて、と言うわけで前回の続きを。
「マリコルヌ・ショック」にときめいた私だが、その後、トラッド探求は一時減速してしまう。ブラックホークのような「礼拝所」を持たなかった私にとっては、雑誌記事等が唯一の情報源だったわけだが、当時、トラッドを積極的に紹介しているものなどなかったし、トラッド系に強い専門レコード店も知らなかった。なので、前回紹介した広川氏のレヴューで名前の挙がっていたClannadのフィリップスからの第1作を入手し、その硬質で躍動感のある演奏にしびれたりしたものの(当時の彼らは本当に素晴らしかった※)、当のマリコルヌは「Le Bestiaire」をリリースして行くところまで行ってしまい(その「中世暗黒マグマ」というべきヘヴィさは怖ろしいほど)、続く「Balancoire en Feu」では、中途半端なNW色に失望することになる。
※70年代後半のClannadは本当に輝いていた。 後のニュー・エイジ色はまだなく、インプロヴィゼーションによる演奏の拡大、立体的なコーラス、鮮やかな場面転換は、ペンタングルとマリコルヌの「いいとこ取り」をした感がある。特に第1作冒頭に収められたA①「Nil Se Ina Ia」には彼らの魅力が詰まっている。この曲は彼らの代表作であり、後に発表されるライヴ・アルバム「Clannad in Concert」では倍以上に拡大されるのだが、この熱演がまたすごい。
 
 それに自宅からほど近かった池袋西武アール・ヴィヴァンに通うようになり、店頭でスタッフにあれこれ教えていただきながら、現代音楽やフリー・ミュージックを聴きはじめ、さらには「フールズ・メイト」直営のレコード・ショップであるイースタン・ワークスが代々木に開店し、もともと廃盤中心の中古盤店だった下北沢エディソンが新譜ショップであるUKエディソン(当初は神保町、後に西新宿)を開いたことにより、プログレ中心だった興味関心の範囲が、所謂「アヴァンギャルド」方面へと大きく展開してしまい、日々拡大して手が着けられなくなってきたこともある。インターネットなどなく、雑誌も「フールズ・メイト」や「マーキー・ムーン」しかなかった時代に、これらのお店のスタッフからいろいろ教えていただいたことは、その後音楽を聴き続けていくうえで大きな財産となっている。この場を借りて、芦川さん、田島さん、山谷さん(以上、アール・ヴィヴァン)、明石さん(イースタン・ワークス)、佐藤さん、森さん(UKエディソン)に感謝したい。どうもありがとうございました。

 そうして停滞したトラッド熱に再び火がついたのは、1984年も秋になって、雑誌「包(パオ)」の発行が始まってからではなかったろうか。アジアン・ポップス、ラテン・ミュージック、米国SSW等といっしょの取り扱いではあったが、英国を含むヨーロッパのトラッドやOcoraやAudivis、Nonsuch等から出ているようなエスニック・ミュージック(「エスノ・ポップ」ではない)を主たる対象に見据えたこの雑誌は、貴重な情報を与えてくれた。編集スタッフに「トラッド/SSWの専門店」である通販レコード店タムボリン店主の船津潔氏が参加していたことが大きい。それまで、まったく通販を利用したことのなかった私は、早速タムボリンにアクセスし、またまた奈落への新たな扉を開けてしまうことになる。
 現在でこそ、米国SSWと英国トラッドに対象をやや絞り込んだ感のあるタムボリンだが、当時はヨーロッパの未知の音源を次から次へと紹介してくれていた。そこで出会ったのが、南仏オクシタンのRosina de Peira e Martinaであり、スペインはバスクのOskorriであり、ハンガリーのMakam Es Kolindaであり、イタリアのNCCPであり、あるいは英国のJune Tabor等である。

 Rosina de Peira e Martina / Trobadors (Revolum)は私にとって何重にも衝撃的な1枚であると同時に、「その後」を準備してくれた貴重な出会いでもある。まずはヴィエル・ア・ルーをはじめとする中世・民族楽器とエレクトロニクスが生み出す過剰な倍音のうねりと、ぶつかりあう2人のしなやかにして強靭な声。「こりゃあMalicorne / Le Bestiaireよりスゴイかも」とクレジットを見ると、そこには同作品に参加して多大な貢献を果たしながら、すぐにマリコルヌを脱退してしまったDominique Regefの名前が記されていた。彼はここでもヴィオールやチェロ、レベック等を奏するとともに、ロジーナ、マルティナの2人と共にアレンジメントを担当しており、さしずめ音楽監督役と言えよう。彼の脱領域的な活動は、この後、Michel Doneda, Ninh Le Quanとのトリオや、ヴィエル・アー・ルーによるエレクトロ・アコースティックなソロ作品へと結実していくことになるのだが、この時点では久しぶりの再開を喜ぶにとどまった。
 マリコルヌのリーダーは、もちろんAlain Stivellの下でギタリストを務めたGabriel Yacoubなのだが、前期においては編曲に秀でたHughes de Coursonがいたし、後期には中世音楽を見事にプログレ化したGryphonからBrian Gullandが参加し、さらにはDominique Regefがいて‥と、才能あるメンバーに恵まれたグループであったことを痛感する。特にマリコルヌ脱退後、しばらくプロデューサー活動に専念したHughes de Coursonは、Makam Es Kolindaの前身であるKolindaを世界に紹介したことで、長く記憶されるべきだろう。Kolindaの音楽は変拍子を駆使した切迫したリズム・ワーク、遠近のある立体的なアレンジメントと劇的な場面転換、むせかえるほど濃密にたちこめる倍音とエキゾティシズム、切れば血の吹き出すような異常なまでのテンション等を特徴とし、マリコルヌを知らなければ間違いなく腰を抜かして立ち上がれなかっただろう、ものすごい代物だった。メンバーが多数交替した(Makamのメンバーと入れ替わった)Makam Es Kolindaは、熟成して角が丸くなり、上質のなめし皮のような艶すらたたえているが、それでもたぎるような血の熱さ/濃さはやはり争えない。

  Rosina de Peira e Martinaから受けた恩恵の2つ目は、オクシタンという「交通の場」にして、「国家に抗する地域」の視界への浮上である。原田さんはマウロ・パガーニの作品に対する私のレヴューにブログで引用してくださっているが、私とて当初から「古来から交通の網の目であり、様々な文化の交錯する地中海の姿をいきいきと活写した歴史的名盤。(中略)彼らはさらに深く掘り進み、複数の文化的源流が絶え間なく交錯/衝突/変容する力動の場へとたどり着いている。」との認識を持っていたわけではない。Rosina de Peira e Martinaの活動を知り、オクシタンについて調べ、地中海に開けていたことにより、現在のフランスにあたるエリアの中では文化先進地域だったオック語圏が、カタリ派信仰を理由にアルビジョワ十字軍の派遣により徹底弾圧されたことを知った。同時にアラン・トゥレーヌやピエール・クラストルの著作に触れ、「国家に抗する地域」について考えたりもした。こうした経験がなければ、90年代になってから出会う仏Silexの作品群に敏感に反応することはできなかったろう。特にカタリ派弾圧を題材としたValentin Clastrier / Heresieのしめやかな強度と魔術的な奥深さに。

 すでにLluis Liachを聴いていて、カタロニアやバスクの地域闘争について聞き知ってはいたのだが(そのは話はまた別の機会に)、そうした「プロテスト・ソング」的な音楽(一刀両断切り捨てているつもりはなく、その中にはもちろん素晴らしい音楽も含まれていることは承知している。念のため)とは異なる文化的なスタンスがそこには確かにあった。もちろんそれは一面ではワールド・ミュージック商法とも関係しており、フランスの国家戦略の一部でもあるのだか。
 先のマウロ・パガーニ作品への評価は、パガーニとファブリツィオ・デ・アンドレによる地中海音楽探求、アレアによる「インターナショナル・ポップ・ミュージック」のための素材渉猟、ブルターニュ/ケルトにこだわったアラン・スティーヴェルから汎フランスへ歩みだしたマリコルヌ、NCCPがあぶりだした地中海音楽におけるアラビア的要素(サラセン人の文化)の重要性、Louis SclavisやMichel Donedaによるトラッドへの先鋭的アプローチ(ドネダの作品にはバスクのトラッド歌手Benat Achiaryが参加しているが、他方、Achiaryの作品にはDonedaとともにDominique Regefが参加している)、Silexの多面的な作品展開等々を知って、ようやく立ち至ったものである。なお、こうした視点からの地中海音楽論を、言わば「裏イタリア」に焦点を合わせたかたちで、今は亡き音楽雑誌「アウトゼア」に執筆したことがある(「長靴の中の小石」)。


 「いやー実はコレがいいんだよね」と、「ディスク・レヴュー」なんだから、おすすめトラッド作品を個別に紹介していくこともできたはずなのだが、トラッドとの邂逅を一期一会のものとして受け止め、いまの自分の音楽の聴き方への影響を考え始めたら、このようなものとなってしまった。おすすめディスクのリストはまた今度ということでご勘弁をいただきたい。ごめんなさい。
自分としては、マリコルヌとの出会いの影響の大きさ、そこから枝分かれしながら伸びていった探求の線の多さに、今更ながらに驚いているところ。ちなみに、マリコルヌは先頃、再結成ライヴを行っており、CD等も発売されている。その様子はyoutube等でも見ることができるが、ここでは再結成に合わせてつくられたと思しき「マリコルヌ 音楽の伝説」なる非公式サイト(http://malicorne.legende.chez.com/)を紹介しておこう。ヴィジュアルが美しいので一見の価値あり。メンバー紹介が再結成参加者だけなのが少し悲しい。ライヴもちょっと「同窓会」的だし。再結成ライヴだけで彼らを評価しないようにご注意ください。



Clannad / Clannad(左)とClannad / In Concert(右)
ゲール・リン時代の味わいも捨てがたいが。
  


Malicorne / Le Bestiaire (Ballon Noir)
泣いても許してくれないくらいヘヴィでハードです。



Rosina de Peira e Martina / Trobadors (Revolum)とDominique Regef / Tourneries
サウンドがうねり倒し、内圧を天井知らずに高め、果てはプラズマ発光に至る。
  


Makam Es Kolinda / Makam Es Kolinda (Stoof)とKolinda / 1514 (Hexagone)
KolindaはHexagoneに3枚あるが、みんなジャケットがちょっとアブナイ。
  


Valentin Clastrier / Heresie (Silex)
もうどうしようもないくらい名盤。



Quintet ClarinettesとAndre Ricros,Louis Sclavis / Le Partage des Eaux
Silexの最初期(1番と3番)のルイ・スクラヴィス参加作品。
六本木WAVEでこのオシャレな装丁に引っかかったからこそ、今がある。
おかげでARFIを知らないのに、トラッド方面からスクラヴィスをとらえられたし。
後から考えると、これって奇跡的な大正解。
  


Michel Doneda / Terra (Nato)
上掲のSilex作品を正しくとらえられたのは、本作が先にあったからかも。



ディスク・レヴュー | 20:17:41 | トラックバック(0) | コメント(0)
トラッドとの出会い~奈落への転落 Encounter with Trad Music - Downfall to the Depth
 月光茶房店主の原田さんが、渋谷にあった伝説的なロック喫茶「ブラックホーク」におけるトラッドとの出会いを、ご自身のブログで書かれている。貴重な資料も掲載されたリポートを読みながら、「ブラックホークでトラッドと初めて出会った自分」を想像してみたりするが、私自身は実のところブラックホークの名を知るのみで、一度も行ったことがない。そうした「人生の曲がり角」をみんな幾つか持っていて、曲がったり通り過ぎたり、すれ違ったり行き止まったりしながら、いまここに至っているのだろう。

 というわけで、今回は私のトラッド遍歴、特にその入口部分についてお話ししてみたい。


 LPを買い始めた頃は、簡単な記録をつけていたので、初めて手に入れたトラッドのレコードが何だったか調べがつく。ノートをひっくり返すと、1980年6月にペンタングル「クルーエル・シスター」(日本コロンビア)を大学の生協で買ったのが最初らしい。ディスク・レヴュー論の中で、「フールズ・メイト」を初めて読んだのが12号のファンタジー特集だったと書いたが、「ロック・アポカリプス」特集と題して、RIOやディス・ヒートを採りあげた続く13号には、英国トランスアトランティック・レーベルの紹介記事も掲載されていた。ペンタングルの存在を知ったのは、おそらく山岸伸一氏が執筆した(氏は「クルーエル・シスター」のライナーも書いている)、この記事でではないだろうか。この辺の幅広さが雑誌のありがたいところだ。さらに編集長北村昌士は同号の国内盤レヴューの1枚としてペンタングル「クルーエル・シスター」を採りあげ、「イギリスのトラディショナルを題材とした最高の音楽を演奏するこのグループの魅力の全てが、この作品の中に収められている」と記している。「そーかあ。これは聴くっきゃないかー」とトラッド初心者は思ったわけです。

 次に購入したのがOssian / Ossian,Ossian / St. Kilda's Weddingの2枚(6月24日・新宿レコード)。気品豊かなスコティッシュ・トラッドを奏するオシアンを知る方は、ペンタングルからの飛躍(マイナー度の極端なアップ)に驚かれることだろう。ロック・ダイヴィング・マガジン編「ラビリンス/英国フォーク・ロックの迷宮」で言えば、ラビリンス2からラビリンス7への三段(五段か?)跳び。種を明かせば、バック・ナンバーで手に入れた「フールズ・メイト」10号のディスク・レヴューで、広川裕氏が前者を次のように絶賛されていたからにほかならない。
 「1977年に発表された、オシアンのデヴュー作にあたるこの作品集は本当に素晴しい。とにかく、トラッドに少しでも興味を抱いている人、もしくはトラッドを聞き始めて間がなく、まだこのバンドを知らずにいる人達、さらに望むべくは、音楽を愛する良識ある人達、全てに聞いていただきたいアルバムだ。アルバム全体に溢れている、その深みのある暖かな歌と演奏は、音楽が本質的に持つ感動そのものの表現に他ならない。」
 どーです。こりゃあ聴くしかない!って気になるでしょ。それと私の場合、由良君美先生のウィリアム・ブレイク講義で、英国ロマン派の源泉たる「オシアン」(ジェームズ・マクファーソンがスコットランド・ゲール語による古資料から英語に訳したと称した詩集)について聞いていたことも大きかったかもしれない。まさにこの記事は自分に向けて書かれたような気がしたものだ。ちなみに同レヴューの最後の部分には、「この新進バンドや、同じく最近頭角を表してきた「クレナド=Clannad」など、個性的で魅力的なバンドが続いて現れ‥」と書かれており、私の記憶にはOssianと並んでClannadの名が刷り込まれたのだった。

 しかし、現時点から冷静に振り返ると、大学生協のペンタングルから「ユーロ・ロックの人外魔境」新宿レコードのオシアンへというのは、やはり飛躍がすごい、すごすぎる。三段跳びどころか、いきなり崖の上から滝壷にダイヴするくらいの落差がある。それにしても誰か止めるヤツはいなかったのか。

 これに続くのが、マリコルヌ・ショック。Malicorne / Almanachを下北沢エジソンで6月27日に購入している(中古)。見開きジャケットにリーフレットが挿み込まれた豪華な装丁に魅せられたことも大きかったろう。彼らの作品の中では、むしろ鄙びた感じを与える1枚だが、それでも甲高く鼻にかかった独特の硬質な発声、中世音楽の薫り高い立体的なコーラス・ワーク、倍音をぶつけあわせるような切り立ったアンサンブルには、ガツンと頭を殴られるような衝撃を受けた。このショックは9月にディスク・ユニオン御茶ノ水3号店 で手に入れた簡素なジャケットのライヴ盤 Malicorne / En Publicでさらに増幅される。エレクトリック・ベースのヘヴィなうねりに、ヴィエル・ア・ルーの倍音が渦を巻き、つるはしで掘り出したばかりの岩塩のように荒々しく尖った演奏と鋭利に張り詰めた声がぶつかりあう。
 この頃には、小学生の頃から通っていた文京区立小石川図書館所蔵のレコード・コレクションにももう手を着けていたはずだが、これと似た音は、これまでどこでも聴いたことはなかった。まさに異世界のサウンド。そうしたこともあって、7月に手に入れたフェアポート・コンヴェンションの代表作2枚、「フル・ハウス」と「リージ&リーフ」(共に英国盤。後者は中古)にはあまりピンと来ず、その後すぐ手放してしまうことになる。

 その背景には幾つかのことがあるように思う。冒頭にご紹介したブログ記事で原田さんは、トラッドが好きになった理由をフォーク・ダンスの思い出に結び付けているが、同じことは私の場合にもあったかもしれない。しかし正反対のかたちで。
 私がフォーク・ダンスを踊らされたのは小学生の頃だったが、嫌いだったことしか覚えていない(ちなみに中高は男子校のためフォーク・ダンスなし)。どうやら、この「忌まわしい記憶」は、「アコーディオンが刻むダンス・チューンが嫌い」という症状に姿を変えて現在に至っており、ジグとかリールとかはどうも好きになれない(なのでアルビオン・カントリー・バンドとかぜんぜん駄目。ボシー・バンドぐらいまで行くとまた話は別なのだが)。オシアンの奏でる叙情馥郁たるスロー・エアーに魅せられる由縁である。
 もうひとつは中世音楽への好みがあるだろう。もともとポリフォニーは好きだったのだが、それに加えて前述の小石川図書館から借り出して聴いた「スペイン古楽集成」シリーズ(原盤は西イスパヴォックス)の、簡素にして滋味豊かな味わいと、遠くで小鳥の声が聞こえる不思議な響きに魅惑されてしまったのだ。特に第1集のアルフォンソ賢王によるカンティガは繰り返し聴いたように思う。ここで聴くことのできる旋律は、その後に中世音楽やそれを題材としたトラッド・フォーク系の作品を渉猟する中で何度も懐かしく出会うこととなり、まるでデジャヴのように私を導いてくれた。と同時に、世俗音楽としての古楽へと道を開いてくれることにもなった。ゴシック聖堂に響き渡る荘厳な合唱ではなく、鼻が詰まったようなクルムホルンやノイジーなさわりを豊かに含んだ打楽器類が鳴り渡るけたたましいドンチャン騒ぎの魅力。The Boston Camerata / A Medieval Christmas (Nonsuch) とか、長岡鉄男が優秀録音として紹介したJoculatores Upsaliensesなど。当時は中世音楽のLPを買うのに、クルムホルンが入っているかどうかで判断していた記憶がある。さらには、これはまあ今から思えばだが、構造計算を駆使した建築物にも似たバッハ的な構築(それはきっぱりとした自己完結性を有している)とは明らかに異なる、響きやにじみにより輪郭を曖昧にした空間親和的な組み立て(それはまた空間に溶け出したり、侵食されたりすることでもあるのだが)に触れ、それを楽しんでいたということでもあるのだろう。



Pentangle / Cruel Sister


ペンタングルの演奏風景
この写真はいいですね。youtube等で動画もどうぞ。



Ossian / Ossian
気品あるたおやかさ、典雅さが際立つ1枚。



Malicorne / Almanach (Hexagone)


Malicorne / En Public (Hexagone)
これはCDのジャケット。
LPは右下隅がめくれているのだが、
写真が見つからず残念。



スペイン古楽集成第1集
アルフォンソ賢王のカンティガ



Boston Camerata / A Medieval Christmas



Joculatores Upsalienses /
Skogen, Flickan och Flaskan (BIS)
森、女、酒というすごいタイトル。



ディスク・レヴュー | 14:53:09 | トラックバック(0) | コメント(0)
知子ソヴァージュさんからのメッセージ Message from Tomoko Sauvage
 レクチャー「耳の枠はずし」の冒頭で、参加していただいた皆さんの「耳の枠」をいったんリセットさせていただくためにかけたTomoko Sauvage「Ombrophilia」(either/OR)の知子さんご本人からブログにコメントをいただきました。私の耳をアンビエント/ドローン/フィールドレコーディング等へと開いてくれた大恩人からのメッセージにびっくりするやら、うれしいやら、大人気なくおろおろしてしまいました。
 いただいた内容がとても興味深いものだったので、その後、改めてメールでいただいたメッセージを含め、ご本人のご了解を得て、再編集して皆様にお届けいたします。
 まず、レクチャー「耳の枠はずし」の告知として、コンセプトを説明した昨年3月22日のブログ記事を再録します。


1.「耳の枠はずしについて」(2010年3月22日)

 「ユリシーズ」3号のディスク・レヴューで採りあげるRichard Skelton「Landings」(Type)やTomoko Sauvage「Ombrophilia」を繰り返し聴いている。音から香りのように風景が立ちのぼり、くっきりとあるいはゆらゆらと像を結ぶ。それは自然が勝手に生成する人間のいない世界だ。もちろん、作品をつくったのは人間で、楽器を演奏したり、PCの前に座って編集に悪戦苦闘したり、あるいは床に座って、水の入った茶碗をスプーンでかき回していたりすることは知っている。Tomoko Sauvageの演奏なんてyoutubeでも簡単に見られるし。けれど出来上がった音響、再生装置を通して私の耳に届けられるサウンドは、決してそうした営みに還元、あるいは解消できるものではない。そこにはどうしようもなく他の何かが宿っている。本当はそう言いたくないけれど、仕方ない、それを「神秘」と呼んでもいいだろう。

 音は我々の外にある。音は決してコミュケーションの道具ではなく、相手の意図を運ぶ乗り物でもない。たとえある意図を込めて発信したとしても(たとえば言葉のように)、必ず他の何かが紛れ込み、憑依する。発信者の意図を推し量ることで、音をわかった気になるのはやめにしよう。それは「聴くこと」を貧しくすることにほかならない。だいたい「聴くこと」は、そんな風に人間の自由になんてならないのだ。

 Tomoko Sauvageの生み出した音の不可思議な手触り、揺れる息遣い、おぼろに移ろう色合いを、「水を張った茶碗をかき混ぜる」動作やそれをコンタクト・マイクで拾う仕掛けに還元してしまえば、それはひとつの「ネタ」へと矮小化され、見て、あるいは知ってさえいれば、「ああ、あれね」と片付けることもできる。それが情報消費のやり方だ。こうしたことを続けている限り、人は「聴くこと」の豊かさへたどり着くことはないだろう。たとえライヴに行ったとしても事情は変わらない。聴衆は音を聴く代わりに演奏者の像(身体の運動)をとらえ、あるいは意図を探り、体験をそこへ帰着させようとする(それゆえ「聴くこと」は貧しく限定される)。演奏者の意図を超えて、様々な亀裂や断層をはらんだ音は、誰にも聴き届けられることなく、むなしく空中に吸い込まれていく。過剰な残滓として。

 もともと我々はあらかじめ知っているものしか、あるいは当面必要とするものしか眼に入らないし、耳にも聞こえない。そこには何重にも枠がはめられている。しかし、我々はそのことをふだん意識しない。音楽を聴くような場合にさえ。不均等な符割のせいで、実際にはとてもそうは聞こえないJ-POPの歌詞を歌詞カードで読み取って話題にすることに、何の不思議も感じていない人々。J-POPなど型にはまった音楽だとして、より「前衛」的なサウンドに耳を傾ける人たちも、先に述べた「演奏者/作曲者への還元」の罠にはまっていないだろうか。

 音盤レクチャー「耳の枠はずし」で、私がフリー・ミュージックを題材に採りあげたいのは、決してデレク・ベイリー論やフリー・ミュージックの歴史ではなく、まさにこのことなのだ。


2.知子ソヴァージュさんからのメッセージ(1)

美しい批評に大変勇気づけられています。日本でこういう聴き方をしてもらえるのは本当に嬉しいです。「意図された」音でないもの、ということ、読んだ当時、とても共感し勇気づけられました。
 ウォーターボウルは楽器の性質上、uncontrollableな要素が多いのですが、偶然性と意図する方向との間をバランスをとりながら演奏する楽器だと感じています。
 「完璧なコントロール」が賞賛される向きのある「即興音楽」シーンがメインであるヨーロッパにおいて、その辺をなかなか受けて入れてもらえない部分があるかもしれません。より「サウンド・アート」シーンに近づいている理由です。「アンビエント/エレクトロニカ」シーンでは、私の作品はポップさに欠けるといったところでしょうか。もちろんレコーディング作品ではコントロールされる部分が強くなっていますが、その辺、日本でこういった批評を頂き、びっくり嬉しいところでした。

 最近、あたらしい手法をとりいれた作曲をやっています。これはハイドロフォンとスピーカーのフィードバックを利用したもので、純粋にエレクトロニックな現象であるフィードバックを、水波の揺れを通じてオーガニックに扱うもので、手法としては斬新なんじゃないかと自負しております。 


3.いま聴くことのできるTomoko Sauvage作品

 「Ombrophilia」(either/OR)がレーベル品切れのため、いま彼女の作品をCDで聴くことは難しくなっている(なお、彼女からの情報では「Ombrophilia」は現在フランスのレーベルから再発準備中とのこと)。彼女のつくりだす何とも夢幻的な音世界を体験していただくために、ここではウェブ上で聴くことのできる音源をご紹介しよう。
 まず、次の3曲をsoundcloudにアップされたサウンド・ファイルで聴くことができる。①②が「Ombrophilia」からの抜粋であり、③が2で彼女が触れている「あたらしい手法をとりいれた作曲」による作品。まずは①を聴いていただいて、「世界が風にそよぎ、足元が揺らぐ」感覚を味わっていただければと思う。

①Amniotic Life (http://soundcloud.com/tomokosauvage/01-amniotic-life-1) 6:09
②Making of a Rainbow (http://soundcloud.com/tomokosauvage/making-of-a-rainbow) 5:18
③Nagi(calm)-rough mix (http://soundcloud.com/tomokosauvage/nagi-calm) 17:31

 一方、③は前2曲とずいぶん音の景色が変わり、風が止み、水面が平らかになるなかで、実は一方向からの風に煽られていた時よりも、さらに複雑で豊かなさざなみの交錯が、一見平坦な起伏のうちに開けている「凪(なぎ)」のたゆたいの微妙な表情/手触りの移り変わりを細やかに映し出している。サウンドの領野は前2曲よりも、はるかに微細なレヴェルに移行しており、響きに耳を、身を浸す感覚が求められるだろう。calmという単語からは、何となく早朝のぴんと張り詰めた静けさを思い浮かべてしまうが、ここでは彼女が思い描いているのは、決して鏡のように磨き上げられた水面ではなく、一見動きがないように見えながら、ゆるゆると生成を続ける状態なのだろう。

 また、彼女のホームページ(http://www.o-o-o-o.org/o/)では、Gilles Aubryとの共同作業による作品「Apam Napat」(④~⑥)を聴くことができる(http://www.o-o-o-o.org/o/tomgil.html)。
④Halftone Dots 8:13  ⑤Undercurrent 20:44  ⑥ Apam Napat 11:23
 2007年6月ベルリンでの演奏だというから、こちらが「Ombrophilia」より前の作品ということになる。彼女によれば「ジルはNYのジャズスクール時代からの旧友で(私はピアノを弾き、彼はテナーを吹いていました)、彼の音楽性は唯一また共演したいと思うものなのですが、ベルリン在住で大忙しの彼となかなか会う機会がないのと、私も彼も5年前の音楽性からずいぶん変わり、何を一緒にできるか考え中です」とのこと。このところの私のアンビエント/ドローン/フィールドレコーディング探求は、ひとことで言うと「Tomoko SauvageからGilles Aubryへ」という趣きがあるのだが、それが実は大きな円環をかたちづくっていたということなのだろうか。


4.知子ソヴァージュさんからのメッセージ(2)

 たゆたい・・・!なんて美しい言葉なのでしょう。まさに、です。こんな言葉が存在している日本の感覚が私の源泉なのだなと感じました。日本的な感覚の豊かさに触れてとても嬉しく感じております。この類いの音楽に関するこちらの評論でこういった深い洞察や豊かな感性をもったものを目にすることは稀です。コンテンポラリーアートとなるとまた違うのですが。

 「世界が風にそよぎ、足下が揺れている感覚」と表現していただきましたが、
演奏していると、まさに、私が海風になったような気分になるのです。凪のときにフィードバックは増幅し、風で波がおこされると揺らされて減衰する。沖縄の美しい海の水面で、ゆらゆらと揺れながら浮かんでいたときに、この何とも言えない感覚を音楽で表現したいと思ったのですが、最近になって、そんなことはすっかり忘れていたのに実現してきたような気がしています。

 眼下に広がる珊瑚礁や生き物も波にゆらゆらと揺れていて、自分もそれに身を委ねて・・・。生物のそれぞれの意志はありながらも、波に風に揺らされながらのLife。思えば赤ん坊もそうやって生まれてくるんですね。羊水、揺りかご・・・。そんな単純なことを言っていては頭でっかちのヨーロッパ人には相手にしてもらえませんが、それでもいいんです。自分の思うことを徹底してできる超個人主義のフランス、その辺らくちんです。

 Ombrophiliaは色々な実験結果をまとめたデモンストレーション的な部分がありましたが、今度はアルバムトータルでまとまりのあるものを作りたいと思っています。


5.意識の網の目からこぼれ落ちていくもの

 「沖縄の美しい海の水面で、ゆらゆらと揺れながら浮かんでいたときに、この何とも言えない感覚を音楽で表現したいと思ったのですが、最近になって、そんなことはすっかり忘れていたのに実現してきたような気がしています」と彼女は書いている。
 「かくあれかし」と強く意識し、意図の実現として達成しようとしていた時にはとても無理と思えたものも、後からふと振り返ると、身体の方は知らぬ間に勝手になじんでいる‥そうしたことではないだろうか。unconsciousnessを「無意識」と実体的にとらえるのではなく、意識にとらえられない感覚/身体の微細な動き/揺らぎ(まさに「たゆたい」とでも言うべきもの)、あるいは意識の網の目からこぼれ落ちていくものととらえれば、そうした感覚が近いのかもしれない。
  演奏者と聴取者の、互いの意図だけによる、それ以外を排除したコミュニケーションは決して豊かなものとはなりえないだろう。意図を超えた〈響き〉や〈にじみ〉に、思いがけなく触発されることこそが、コミュニケーションの豊かさを開くのではないだろうか。
 
  「耳の枠はずし」が主な対象としているインプロヴァイズド・ミュージックやアンビエント/ドローン/フィールドレコーディング等、あるいは一部の現代音楽やトラディショナル・ミュージックだけでなく、さらには先日リポートしたアンフォルメル等の絵画や、あるいは優れて問題提起的な写真や映画においても、これは共通しているように思われる。

 Tomoko Sauvageの今後の活動には引き続き注目していきたい。知子ソヴァージュさん、どうもありがとうございました。



Tomoko Sauvage
「Ombrophilia」(either/OR)


Tomoko Sauvage&Gilles Aubry
「Apam Napat」


waterbowlsの演奏風景①
(photo:Tomoko Sauvage)


waterbowlsの演奏風景②
(photo:Tomoko Sauvage)


"waterbowls under the sun"
(photo:Tomoko Sauvage)

「Ombrophilia」のジャケットの
「原画」ですね
彼女のHPの写真ページは
とても素晴らしいので
ぜひご覧ください

追記:彼女の演奏する姿は、youtube等で見ることができる。
次の動画はご本人から教えていただいたもので、
インスタレーションとの組合せが素晴らしい。
http://vimeo.com/7297060




音楽情報 | 00:46:14 | トラックバック(0) | コメント(0)
私にとってディスク・レヴューとは(承前) What Is Disk Review for Me (continued)
4.聴覚テクストの特性と〈複数の言葉〉
 もともと文字テクストや、写真や映画等の視覚テクストに比べ、聴覚テクストははるかにそのイメージを確定しがたい。と同時に、この曖昧さが〈聴くこと〉の豊かさを生んでいることも事実である。〈聴くこと〉を深めるためには、この曖昧さへの対応がカギとなる。 
 「人それぞれだから‥」とこの曖昧さをそのままに放置するのでは、〈聴くこと〉は決して深まらない。こうした姿勢は、一見、〈聴くこと〉の多様性を認めているように思われがちだが、実際にはその多くはテクストの単一性を疑うことなく、その感情的消費の仕方が「人それぞれ」と言っているに過ぎない。J-POPによく見られる歌詞しか分析しない批評は、この典型である。
 作品を制作したアーティスト(ミュージシャンやプロデューサー等)のインタヴュー等に読み取れる〈意図〉に、テクストを還元してしまうのも、むしろ曖昧さに耐え切れず、貧しさを選択してしまう姿勢と言えるだろう。別に〈意図〉を無視しろとか、脱構築(あるいは「裏目読み」でも何でもよい)しろと言っているわけではない。〈意図〉に還元できない豊かさに注目すべきだというに過ぎない。これは以前にレクチャー「耳の枠はずし」でも、あるいは「ユリシーズ」3号掲載の「〈聴くこと〉をいま/ここから始めるために」でも述べたことだが、演奏者のアクションや〈ネタ〉に還元するのも同様である(後者は〈意図〉から演奏者の権威を切り下げたものとしてとらえることができる)。

 輪郭を見定め難い聴覚テクストの曖昧な厚みに、批評の言葉が深くメスを入れる。その切り口/断面に触発された言葉が、また別の角度から深くゾンデを挿し込む。そうした道中において、別の地点から深く深く掘り進めた一群と出会うこともあるだろう。差し入れられた鋭い刃物の切っ先が脈絡を切り出し、ゾンデや探査針が同じ一つの〈核心〉を探り当てる。そうしたプロセスを通じて、言葉が、聴取体験が新たに組み替えられ、再構成され、改めて共有され、リサイクルされる。〈聴くこと〉はおそらくそのようにして深められる。それは言葉で音や響きを囲い込むことではなく、むしろ多様な聴き方に向け、開いていくことにほかならない。
 現代都市のアジールであり、また〈交通空間〉であるべきカフェ・スペースにおいて、そのような〈複数の言葉〉が切り結ぶ様を思い浮かべ、レクチャーでは、まず偉大な先達たる清水俊彦が遺した言葉を採りあげた。それに続く「ECMカフェ」、「純喫茶ECM」、「アンビエント・リサーチ」、「四谷ティー・パーティ」など様々な機会を通じて、多くの聴き手と語り合うことにより、たとえば〈音響〉以前/以後のインプロヴァイズド・ミュージックを、ECMレーベルの諸作品を、アンビエント/ドローン/フィールドレコーディングを、NYダウンタウンの先端ジャズを語る言葉が、不思議な符合を示すかのように通底し、まったく異なる視点から放たれた指摘が、実は同じ手触りを指し示していることにふと気がついて、何度驚いたことか。そうした体験の一部は、このブログでも報告してきた通りである。

 そうした地点から振り返れば、同様の仕方で視覚テクストや文字テクストに向かうことも可能だろう。たとえば映画を論ずる際に、「物語への従属から映像固有の力を解き放つ」とするのはいいとして、特権化された画面/表層に映っているもの、見えている(はずの)ものは、果たして本当に我々が見ているものなのだろうか。〈見えているもの〉と〈見ているもの〉は異なる。映画の力が、むしろ〈見えているもの〉を別の仕方で〈見せる〉ことにあるのだとすれば(ヒッチコックがミルクのグラスに豆電球を仕込み、怪しく輝かせたことを思い出そう)、PCにDVDをセットし、クリックを繰り返して寸刻みに画面を停止させ、そこに映っているものを記述する仕方から、本当に動く映像の力を、不可思議な運動/変形の感覚をとらえることができるだろうか。サウンドの聴取において(サウンドを楽譜の不完全な再現と見なさなければだが)、常に問題になる「我々はいったい何を聴いているのか」は、視覚テクストにおいてもやはり重要な問題となり得るだろう。

 フランシスコ・ロペス「ラ・セルヴァ」において提示される、熱帯密林のフィールドレコーディングによる過剰な音響のオール・オーヴァーな広がりに、聴覚が対象を定め、耳の焦点を結ぶことができずうろたえる様を、たとえばスタン・ブラッケージの映像と比べてみること。あるいはジル・オーブリーの作品において、やはり街頭録音を素材とした厚い壁を通してしみこんでくる得体の知れない音響に対し、やはり耳が焦点を結ぶことができず、つかみどころのないもやもやとした暗騒音と向かい合いながら、交通ノイズや子どもの声が対象化の網の目をすり抜けて、否応なく「内部」へと入り込んでくる様を‥‥。


5.ディスク・レヴューの枠組み

 以上のことを踏まえ、ブログで掲載するディスク・レヴューでは、次のことを心がけている。

(1)定期的な新譜レヴューを基本とすること

 特定のシーンやアーティストを採りあげ、それに対する解説や批評を、ディスク・レヴューを中心に構成することはできるが、それはこれまでにブログでもやっている。今までブログでやってこなかったのは、むしろ定期的な新譜レヴューという最もスタンダードなかたちだ。それには理由があって、私にとってディスクを聴くことは〈日常〉に属しており、外部からの依頼による強制的な切断を経ないと、それを新譜レヴューのかたちに切り出せないできた。そこに挑戦してみようということがまずある。同時にそれは、新譜レヴューという流通可能な〈基本形〉において、ディスク・レヴューの可能性を問うことでもある。

(2)流通しやすい文章表現・文章量とすること

 これは(1)とセットの条件。とりあえずの枠組みではあるが、「ユリシーズ」のディスク・レヴューの規格だった「7作品で3500字」をひとつの目安にしている。ただし、アーティスト名、作品タイトル、レーベル名、演奏者クレジット等のデータについては字数に含めていない。「1作品あたり500字」は雑誌掲載の新譜レヴューとしてはかなり文字数が多い方である。と言いながら、ジャンル分け等によらずにサウンドを分析描写しようとすると、実際には文字数など幾らあっても足りない。そこで表現を折りたたんで圧縮することを余儀なくされるのだが、サウンドの与える印象が〈瞬間的〉なものであることを思えば、これはかえって妥当な方法と言えるだろう。私にとってディスク・レヴューの評文は韻文というか、短詩系の文章に属するようなところがある。

(3)作品の可能性の中心を採りあげること

いろいろとディスクを聴き漁る日常を文章化する方法もあるが、個人的にはつまらなかった作品のことは書きたくない(むしろそうした情報の方が実用性はあるのかもしれないが)。あくまでも聴くだけの価値のある作品を厳選して紹介するというスタンスは保ちたい。また、かつてのように特定のシーンやアーティストに定点観測的に注目していれば、そこから何かを発見できる時代は終わったように思う。それは作品を単独で語ることが力を持ちにくくなったということでもある。
 これは「ユリシーズ」でもしていたことだが、ジャンルや演奏者の出自から言えば離れている作品を結びつけることにより見えてくるものを語る方式を採用している。用意した論点が先にあって、そこに作品をむりやり当てはめていると思われるかもしれないが、実際にはレヴュー対象作品の選定が先である。ただ、最初聴いた時にピンと来なかった作品が、別の作品を聴いているうちに全く別の姿で立ち上がってくることがある。

(4)聴覚テクストと言葉の関わりを示すこと

 先に聴いていることの特権などもはやない中で、ディスク・レヴューが存在意義を持つためには、作品を聴いた後でも読む価値のある批評であることが必要だ。一例を挙げれば、レヴューを読むことによって、作品の聴き方、サウンドの聞こえ方が違ってくるような。そのためできるだけ試聴用の音源を示すようにした。実際に聴いてもらった方が、評文がサウンドのどこをどうとらえているかもわかるだろうし、当然のことながらオルタナティヴな視点や評価の提出もしやすいだろう。
  批評の根拠を示す場合、文字テクストなら該当箇所を引用し、これにコメントを加える。視覚テクストの場合もスティル写真を掲載するほか、そこに映っているものを描写し、引用に代える。聴覚テクストの場合、これは難しい。サウンドを描写することはできるが、それはすでに濃厚に書き手の主観性を帯びてしまうからだ。だから、聴覚テクストに関する場合、対象を描写した時から、それがいかにニュートラルに見えたとしても、それは分析や評価に基づいたものであり、すでに批評は発動しているのだ。試聴用の音源を併置することで、もちろん対象のニュートラルな姿を示せるなどとは思わない。しかし、描写がすでに担ってしまっている評価の発動ぶりを明らかにすることはできるだろう。そう考えた次第である。


ヒッチコックが仕込んだ
怪しく輝くミルクのグラス



スタン・ブラッケージ作品から
フィルムへの素材の貼り付けによる



同じくスタン・ブラッケージ作品から



スタン・ブラッケージの代表作
「ドッグ・スター・マン」
世界を撫で回すカメラ



ディスク・レヴュー | 00:21:58 | トラックバック(0) | コメント(0)
私にとってディスク・レヴューとは What Is Disk Review for Me
 前回アップしたディスク・レヴューの前口上をお読みになられて、訝しく思われた方もいらっしゃることだろう。自分のブログで、採りあげるディスクの枚数制限などいはずなのに、いったい何を気にしているんだろう‥と。そうしたことへの弁明も兼ねて、今回は私なりのディスク・レヴューの位置づけについて書いてみることにしたい。


1.ディスクという〈テクスト〉

 これまで数多くのディスクについて書いてきた。新譜レヴューをはじめ、ディスクに文章が1対1で付いている狭義のディスク・レヴューの形態以外でも、たとえば特定のミュージシャンや音楽シーンを紹介したり、論じたりする際にも参考ディスクを掲げることは多い。また、ライヴ・レヴューの執筆にあたっても、作品や演奏者の関連ディスクに触れたり、参考として掲げることは多い。音楽について語ることがディスクについて語ることになってしまっているのは、まず、「我々の音楽受容の多くはディスク(ここにダウンロード音源を含めても問題はないだろう)を通じてのものである」という現実の反映にほかならない。もちろん、そうした現状に対して「私はライヴ演奏以外聴かない」、「私はライヴで聴いたことのない音楽については書かない」という姿勢を選び取ることもできる。私はそうしていないというだけのことである。その理由のひとつはライヴで聴くことのできる音楽や演奏の種類、あるいは機会は極めて限られており、「ディスクを通じて音楽を聴くこと」を排除することが、そのまま私の音楽体験を貧しくしてしまうと考えているからである。さらには「ディスクに録音された音楽は、ライヴで(いまここで)演奏される音楽の(劣悪な)コピーに過ぎず、あくまで二次的なものでしかない」と私が考えていないことが、その背景にはある。

 別に「ライヴ派vsディスク派」なんて古臭い対立図式を持ち出すつもりはないし、そもそもポップ・ミュージックの制作が録音技術と切り離せないものになっている以上、もはや「ライヴがオリジナルで、ディスクはコピー」という主張など成り立たないことは明白なのだが、それでも即興音楽の聴き手の中には、ゴリゴリのクラシック・ファン同様、いまだにそうした図式を信仰している人がいる。「反復不可能な一回性の音楽」という観念(何やら「極北」的な匂いがする)にとらわれているのだろうか。だが、そうした「一回性」の純粋さを後生大事に守り抜くことはできない。なぜなら、前回掲載のディスク・レヴューのLetheの稿で触れたように、その演奏を聴取している間にも、様々な記憶が参照され、想起を通じて聴取に投影してしまうことは避けられないのだから。ましてや、演奏を聴いた体験を後から想起するとなればなおさらのことである。

 ディスクの特性・利点は、それがとにもかくにも流通し、反復聴取が可能であることから、原理的には誰でもアクセス可能なことにある。再生条件の問題があるとはいえ、テクストが参照可能な状態で開かれていることは極めて重要だ。これはある意味ライヴと対照的な特性である。情報メディアが発達すればするほど、何もかもが「いつでもアクセス可能」であるがゆえに、その価値をすり減らしているように感じられる。すると、そうしたメディアに乗らない要素に価値があるように見えてくる。ライヴの一回性・同時共通体験が改めて注目され、そこでの体験が、たとえ何らかの記録/メディア情報があったとしても、それを超えて特権化/伝説化されやすい(「いやいやそんなもんじゃないんだって。あれはライヴじゃなきゃ味わえないな‥」)ことには、そうした背景があるのではないだろうか。そうした〈伝説〉の競い合いをしていてもしょうがない。これまでライヴ・レヴューで何度となく述べてきたように、ライヴの場で一人ひとりが聴いていることは異なっている。そもそも、ちゃんと音を聴いてない聴衆も多い。(ライヴ)体験の共同性から、複数の言葉を介した〈聴くこと〉の公共性の確立へと向かう必要があるだろう。
 その時、音楽について、聴くことについて、ディスクという〈テクスト〉に基づき、言葉を通じて体験を深め、〈公共性〉を構築する場として、ディスク・レヴューが果たしうる役割は決して小さくないと考える。


2.ディスク・レヴューの没落

 だが、実際には、音楽専門誌をはじめ、多くのメディアに掲載されるディスク・レヴューは、ほとんどが販売促進のためのツールに過ぎない。それを「広告出稿」の増加に端的に見ることができるだろう。これについて原雅明は次のように書いている。

 (前略)それがいつ頃か明確に指摘することはできないが、雑誌で仕事をしてきた経験を振り返ってみるならば、少なくとも90年代後半くらいまでは、雑誌編集者もライターも読者も、雑誌は良い音楽を紹介すべきであるという理想を辛うじて共有しえており、またそれなりに実現できていたと思う。それすらがあっさりと崩れ去っていく光景を、2000年代前半に経験し、初めて日本の音楽関係者と音楽愛好者たちは現実主義に晒された。
 この現実主義は経済的な正しさを盾に、あっという間に、音楽雑誌を単なる広告出稿の受け皿としてマーケットへと放り出してしまった。雑誌が売れない、CDが売れないと言われ出したのもこの時期からである。売れないから広告出稿を増す、という現実的な選択がどの現場でも次々と採られていった。気がつけば、自分がかつてそれなりに熱心に執筆をしていた雑誌の大半は、廃刊をするか、ほとんどの記事が広告出稿で成り立つ媒体に変わってしまっていた。つまり、レコード会社やプロモーション会社が広告としてお金を出して記事ページを買うのである。明らかに広告と分かる記事ではなく、一見普通のインタビュー記事や特集記事に見えるものでも、その記事が成り立つための費用(記事を書く原稿料、デザインするデザイン費、写真撮影費等々)は、レコード会社なりが負担するわけである。そこでは、編集者が気に入った音楽素材を選び、適したライターに原稿依頼をするという、それまでごく当たり前とされていた編集プロセスが成立しなくなっていた。つまり、「メーカーさん」などという製造業のような呼び方をされるレコード会社から発注を受けて広告記事として書き、そしてレコード会社に「納品」をし、それが雑誌に載る、というプロセスに変化した。(中略)当然、そこで書かれる内容は「メーカーさん」の意向に沿ったものであるのが前提だ。やがて音楽雑誌の言説は、すべて、と言っては語弊があるが、大半はこの手の広告出稿記事に取って代わられていくようになる。媒体として辛うじて独自の言説を維持できたのは、過去の、すでにある程度の評価の定まった音楽について、さらに探求を深めるような趣味性の高い世界か、音楽制作に特化した(音楽制作機材などの広告がメインの)雑誌に限られていくようになった。
「音楽から解き放たれるために-21世紀のサウンド・リサイクル」(フィルムアート社)

 私自身は、書き手としてこのような現実をまざまざと体験したわけではない。むしろ読者として強く感じていたことを、原の指摘に触れ、関係者の証言により改めて確認したと言っていいだろう。それというのも、私が「ジャズ批評」誌でディスク・レヴューをレギュラー執筆していたのは2002年初めまでであり、また、同誌は基本的には原の言うところの「過去の、すでにある程度の評価の定まった音楽について、さらに探求を深めるような趣味性の高い世界」を扱う媒体であり、その中で私は担当編集者のおかげもあって、一種の〈治外法権〉状態で執筆させてもらっていたので(その代わり原稿料も無かったのだが)、レヴューの対象として採りあげるディスクやアーティスト、ライヴ等を自由に選択できていたからである(それらはほとんどの場合、「メーカーさん」からリリースの予定すらない作品やアーティストだった)。まあ、この〈特別待遇〉には、担当編集者の退社に伴い、「もう原稿依頼はしない。だいたい、お前の原稿が雑誌という公共の媒体に載ることを、これまでずっと苦々しく思っていた」という内容の手紙を社長からもらうというオチがつくのだが。

 雑誌掲載のディスク・レヴューが、読んでも触発されることの少ない、単なる情報の束と成り果てたのは、もちろん広告出稿システムだけが原因ではあるまい。国内レーベルからサンプル盤とプレス資料を借り受けたことが何度かあるが、その後に各雑誌に掲載されたレヴューを立ち読みして、ほとんどプレス資料の抜粋だけでできているのに気付いたことは一度や二度ではなかった。


3.ディスク・レヴューの役割

 今から30年前、「フールズ・メイト」のディスク・レヴューを、胸をときめかせて読んでいたのは、それが単に未知の情報だからではなく、そこに新たな世界が開かれていたからだった。特に最初のうちは、どこで入手できるのかもわからない、得体の知れない別世界の作品への言及であったため、購入や聴取を前提にした読み方ができるはずもなかった。そうした「お買い物ガイド」的な受容からはるか遠く隔たった、遠い異国の旅行記でも読むような受け止め方をしていたように思う。代々木に「フールズ・メイト」直営のレコード・ショップ「イースタン・ワークス」が開店してからは、取扱商品の解説的な側面も生じてくるのだが、それでも北村昌士、秋田昌美、明石政紀らによるレヴューは、それぞれに独自の批評的視点/切り口を持ち、また、他に参照すべき事項(それは当然、ロックあるいは音楽だけではなかった)を数多く示唆することによって、次から次へと新たな扉を開けてくれた。私のディスク・レヴュー観の原点には、おそらく、この「フールズ・メイト」体験があるだろう。

 開かれた扉に導かれ、そこから新たな世界に参入する。参照したレヴューは未知の世界を経巡るための導きの糸となるが、張られた糸の通りに定められた〈順路〉をたどって終わりというわけではない。むしろ、レヴューでは明らかにされていなかった風景の出現や気候の変化にとまどい、案内のない分岐や見通しの効かない脇道に当惑しながら、自分の耳でさまようにことにより、作品世界はその本来の姿を明かしてくれる。以前に「ECM Catalog」を〈道に迷うための地図〉と評したが、優れたディスク・レヴューはすべてそうした性格を有している。すなわち、まず新たな世界への誘いとして、魅惑/誘惑する力がなければならない。と同時に、いつまでも魅惑/誘惑し続け、レヴューの視点に縛りつけ、引力圏に閉じ込めることのないよう、読者を解き放たなくてはならない。
 すでに評価の定まった作品の読み直しを図るような論文形式の原稿であれば、このような〈リリース〉への配慮は不要かもしれない。しかし、読者にとってディスク・レヴュー、特に新譜レヴューは、採りあげた作品に対する初めての情報となることも多い。過度の〈刷り込み〉がなされないよう、やはり配慮は必要だ。それゆえ、語りつくさないこと、論旨のガードを固めすぎないことが求められる。
 加えて、長すぎないこと、元の文脈を離れて引用可能な印象的なフレーズがあることも重要である。これは情報の〈流通〉に関わる。先に述べたように、ディスク・レヴューが〈聴くこと〉の公共性の確立に役立つためには、それが書き手の権威(たとえば「お買い物ガイド」としての品質保証)を離れて受容され、読み手の聴取体験を反映しながら再発信されることを通じて、批判的/再創造的に流通していく必要があるからだ。ウェブ上には不法なものを含め多くの音源が溢れている現在、かつてのように「ディスクを聴くことができた」ことがそのままレヴュワーの特権を保証することはない。むしろ、ディスクを聴いた後に、レヴューの論旨や分析描写が聴き手/読み手の眼にどう映るかなのだ。レヴュワーの視点設定や言語化能力が厳しく問われると同時に、それとは異なるオルタナティヴな視点の設定や、それに基づく異なる角度からの分析描写をいかに触発するかが重要になってくる。もちろん、触発の対象がレヴュー対象作品の聴取に限定される必要はない。    【次回に続く】



原雅明
「音楽から解き放たれるために
 -21世紀のサウンド・リサイクル」
  (フィルムアート社)


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ディスク・レヴュー | 23:39:40 | トラックバック(0) | コメント(0)