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福島恵一

Author:福島恵一
プログレを振り出しにフリー・ミュージック、現代音楽、トラッド、古楽、民族音楽など辺境を探求。「アヴァン・ミュージック・ガイド」、「プログレのパースペクティヴ」、「200CDプログレッシヴ・ロック」、「捧げる-灰野敬二の世界」等に執筆。2010年3~6月に音盤レクチャー「耳の枠はずし」(5回)を開催。2014年11月から津田貴司、歸山幸輔とリスニング・イヴェント『松籟夜話』を開催中。

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フランシスコ・ロペス賛江① Homage to Francisco Lopez①
 7月22日の記事「生成音楽ワークショップのサイト完成!」で、「ホントはぜひ参加したいんだけどな‥(T_T)うぅ」と書いたフランシスコ・ロペスのワークショップ@東京芸大に受講者として参加することになりました。当初は「無理‥」とあきらめていたのだけれど、月光茶房店主の原田さんから「申し込みました」との知らせを受け、どうしてもあきらめきれずに申し込み期限の7月29日夜に東京芸大のページをのぞくと、何と期限が1週間延長されているではないですか。「これは神の思し召しに違いない」と信じ込んだ私は家族を説得し、何とか申し込みに漕ぎ着けたというわけです。


 ちなみに「The World as Instrument」と名づけられたロペスのワークショップの内容は次の通り。

 2011年9月5日から9日までの5日間にわたり、東京芸術大学公開講座としてサウンド・アーティスト、実験音楽家のフランシスコ・ロペスが主催するワークショップ「The World as Instrument(楽器としての世界)」を開催します。環境音を録音して鑑賞する、または音楽や美術制作に素材として使用する、「フィールド・レコーディング」の理論を学ぶワークショップです。この手法は写真のようにごく手軽に始められますが、その先に奥深い技術・知識・思想が広がっています。
 ロペスがすでに世界各国で開催してきたこのワークショップでは、膨大な音のサンプルとディスカッションを通じて、参加者をフィールド・レコーディングの世界に招待します。また締めくくりには暗闇のライブ・パフォーマンスでこの世界の深部を体験させてくれるでしょう。
以上 生成音楽ワークショップのサイト(http://generativemusicworkshop.wordpress.com/)から転載。


 平日5日間連続ということで、社会人にはハードルが高いだろうから、やはり学生の参加が多いのかな。とすると原田さんと私の50代コンビは最年長かも。いやいや、何しろ相手がフランシスコ・ロペスだから、百歳超えの「音響仙人」が山から降りてきたりとか、「戦前、ボルネオやスマトラのジャングルを、重いテープレコーダー背負って調査した」っていう大老とか参加してきたりして‥。んなわけないか。


 閑話休題。ここでフランシスコ・ロペスの来日を祝すとともに、ワークショップ参加記念ということで、今後、何回かに渡り(断続的になるかもしれないけど)、彼の紹介を試みたいと思います。本来なら、もっと早くから始めれば良かったんだけど、そこはそれ、注目度を高めてワークショップ申込者が増えて競争率が上がり、自分が参加できなくなったらどうしよう‥と心配したりして、踏ん切りがつきませんでした。小心者の私をどうかお許しください。
 ということで1回目です。


 もともと私がロペスの名前を知ったのは、おそらく「ポスト・テクノ(ロジー)・ミュージック」(2001年)に収められた佐々木敦「『サイレンス』の解析-『小文字の音』を巡って」だったのではないだろうか。そこで佐々木はロウアーケース・ミュージック(弱音系音楽?)を、バーナード・ギュンターとフランシスコ・ロペスを嚆矢とするとして解説しており、ロペスの作品については「なかばドローンと化した空間的な音響が次第に音量を変化させつつ延々と続いていくというパターン」と「全編を通じてほとんどまったく何も聴き取れないというパターン」に大別し、後者についてはそれをジョン・ケージ「4分33秒」(出たよ‥)、アンビエント・ミュージック、エンヴァイロメンタル・ミュージック等を背景としたコンセプチュアルなものととらえている。そして、ロペスの作品のヘッドフォン聴取について「(作品の)大部分でリスナーが聴くことになるのはおそらく、単なる『無音』に限りなく近い状態であって、そこに何らかの観念的な意義でも見出さない限りは、鑑賞に値するとは言えない(もっともロペスが文字どおりの『無音=空虚』に没入する、という一種、倒錯的な行為を自らの作品の鑑賞の範疇として認めている可能性もないとは言えないのだが)。」と、「あ・あのな‥」と思わず突っ込みたくなるトンデモな説明に至る。まあ、音数が極端に少なかったり、音が極端に小さい演奏/作品に対し、ケージやら実験音楽やらを持ち出して、何やら象徴的な価値をそこに付与するという身振りは、いまや小島よしおの「そんなのカンケイねー」と同じくらいどーでもいい話なので、ここでは突っ込むことさえしないのだが、要はこうした不幸な「出会い」により、結局、当時の私はロペスの作品と出会い損ねてしまうことになる。どうした経緯だったか、ともかく「La Selva」を入手したのだが、そこから聴こえてきたのは熱帯雨林の自然音であって、観念的な「無音」などではなかった。あらかじめ植えつけられた先入観との食い違いにとまどいながらも、私の耳は、この不可思議な音の広がりに、どこかで惹きつけられていた。貴重な自然の記録(野性のアルバム!)という手つきとは異なり、「サウンドスケープ」と呼ばれたりもする「音の絵ハガキ」とも違い、ましてやエキゾティックな音の「芳香剤」などではありえない、何物ともつかぬ音の強度に。
 そうしてよくわからぬまま棚に仕舞い込んだCD(決して売り飛ばそうと思わなかったのは、やはり「ここには何かある」という気がしたからに違いあるまい)を、改めて取り出してしげしげと見詰め直したのは、金子智太郎・虹釜太郎による「アンビエント・リサーチ」の第2回がロペスを特集した時だった。



「The World as Instrument」のイメージ
世界をとらえる機械の知覚



フランシスコ・ロペス
彼のライヴでは、目隠しにより視覚を遮ることが求められる。



Francisco Lopez / La Selva
コスタリカの熱帯雨林のフィールドレコーディング



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音楽情報 | 23:54:30 | トラックバック(0) | コメント(0)
世界の歪みから生えるポプラの樹  Aspens Growing Out of This World's Distortions
 Farmers by Nature「Out of This World's Distortions」を早速手に入れ、自宅で聴き込んでみた。そこでの幾つかの発見についてレヴューしておきたい。

 「タダマス2」でもリポートした冒頭の「For Fred Anderson」。ピアノのけぶるような和音がそっと置き放たれるうちに、次第に気配を連ねてなだらかな丘の起伏をつくりだし、深々としたベースの弓弾きが、ふとあえかなフラジオに裏返って、はらはらとほぐれ落ち、また、どこからか清水が湧き出るように空間を満たしていく。両者の絡みはとても情景的だが、足元をひんやりとした水が浸し、遠い丘に雲が影を落とすように、見渡せる同じひとつの眺め/世界のうちにありながら、そこでは同じ時間が生きられてはいない。弦楽四重奏が鼻息でアンサンブルを合わせるような、同じ空気を呼吸する、測るような息遣いが感じられない。そのことは幕開けから2分を過ぎて、しゃらしゃらと暗がりに鳴り物がたなびくあたりから、いよいよ明らかとなる。ピアノの単音は、朝日に輝く山々の稜線のように、くっきりと硬質な輪郭を際立たせながら、目映いばかりの「音の柱」を打ち立てていく。「音の柱」はもはや先ほどのように気配を連ねることなどなく、ただただ凛と屹立する。その傍らをどこまでも水平にたなびくベースの弓弾きが、震えながら通り過ぎ、時間を自在に引き延ばしてみせる。一方、濾過されて響きだけとなったパーカッションが、闇のうちに沈みながら、かすかなきらめきで空間を照らし出し、その縁をなぞりながら、やはり暗がりに身を潜めた、かげろうのようにおぼろなピアノの左手とすれ違う。息も凍るほどしんと張り詰めた空間を共有し、肌が触れ合う至近距離で交錯しながら(ここで彼らは決して音域で棲み分けることをしない)、彼らは同じ時間を生きてはいない。と言うより、「同じ時間を呼吸しない」ことを、ここで彼らは唯一のルールとして共有しているかのように見える。それが同志フレッド・アンダーソンへの追悼にあたり尽くされた「礼」のかたちなのかどうかは知らない。しかし、この演奏に比類なき強度(全編で随一)を与えているのは、やはりこの決意であるだろう。

 この異形のアンサンブルに比べると、プレイヤー・ピアノにも似たランダムな打鍵で始まる「Tail's Traced Traits」における音数の多い「フリー・ジャズ」的な演奏では、サウンドが稠密となる分、それだけ平均化し、三人が「異なる時間を生きる」ことのスリリングさはいささか目減りするように思う。とは言え、「フリー・ジャズ」特有の自我の肥大=サウンドの飽和が演奏を停滞させてしまうことを回避するため、ピアノとドラムスがリズム・フィギュアを幾何学的に絞込み、常に明澄さ/明晰さを保つよう仕向けていることは見逃せない。クレイグ・テイボーンによるグリッド的な構築(ジャズ的なリズムのシンコペーションを用いず、グリッド上へのON/OFFの配分による)を、ジェラルド・クリーヴァーもまた採用しているのだろう。特に後半における両者の「多形倒錯」的な絡み(複雑な幾何学的モザイクを思わせる)は見事だ。こうした幾何学的アプローチは、「Cutting's Gait」における、ピアノの素早い上昇下降フレーズから音のかけらを振りまくような散乱/モザイク構築に至る進行、あるいは「Mud.Mapped」での三者が各々リフレインを執拗に繰り出し、互いに縒り合わせながら演奏をかたちづくり、ピアノ・ソロがそうしたリフレインを幾何学的に切り開き「展開」するなど、彼らの「フリー・ジャズ」的な、一見放埓にも見える演奏の随所に仕込まれている。

 「For Fred Anderson」により近いのは「Out of This World's Distortions Grow Aspens and Other Beautiful Things」の音世界だろうか。それは小杉武久が「惑星」と呼んだという(このことは多田雅範から教えられた)ウィリアム・パーカーの、確かに惑星の運行を思わせる、何物にも動じない力強さをたたえたベース・ソロで始まる。突然に骨太の歌が沸きあがり、突如としてリズミックなリフレインが踊りだす演奏の流れ(それはもともと豊富な倍音を持ち、打弦の強さにより倍音構成が不揃いになりやすいというコントラバスの生理を活かしたもので、テイボーンたちのグリッドによる構築の対極にあるわけだが)に、ピアノとドラムスが薄絹を垂らすように寄り添ううち、テイボーンが和旋法や全音音階のフレーズの響きを試し、パーカーが高域でつぶやく3分半過ぎあたりから、三人が別々の時間を生きる様が明確になり始める。彼らは互いに背を向け合い、各々の手元の作業に専念する。彼らは異なる時間意識で音を刻み、意識の焦点をそれぞれ異なる方向に向ける。異なる時間を呼吸しながらも至近距離で交錯しあった「For Fred Anderson」と違い、ここで彼らは層を棲み分けているように感じられる。隣接した層/空間が、ある「綴じ目」へと引き絞られて歪み、その「綴じ目」に生じた「綻び」によって辛うじて通底しているとでも言うような。その隔たりが独特の静謐な強度を生み出す。

 だが、それにしても、曲題「この世界の歪みからポプラの樹やほかの美しいものが生まれてくる」(冒頭部分はそのままCDのタイトルとなっている)とは、何とすばらしい直感/ヴィジョンなのだろうか。醒めた諦観に根差しながら、世界の根源的な力強さへのゆるぎない信頼と明日への確かな希望が、そこには確かにあるように思われる。

 末尾ながら、素晴らしい作品を紹介してくれた「タダマス」の二人、益子博之と多田雅範に感謝したい。



この幽玄な風景に長谷川等伯「松林図屏風」や
Telje Rypdal / Wavesを思い浮かべたのは、
何とも正しい直感だったと自画自賛。



Farmers by Natureのメンバーたち
  


ディスク・レヴュー | 00:12:38 | トラックバック(0) | コメント(0)