2011-10-28 Fri
前回レヴューしたNYジャズ最先端定点観測イヴェント「四谷ティー・パーティ」に会場を提供してくださっている「綜合藝術茶房 喫茶茶会記」店主福地さんから、ブログに次のようなコメントをいただきました。益子さんと多田さん、周辺各位から「シンクロニシティ」というキーワードから得られるような瑞々しいなにか(抽象的すぎますね 笑)を得られるようです。それはお仕着せのものではなくて、自分だけで思案して一人旅をして、まったく偶然に絶景ポイントで出会った人たちとの共感のようなものだと思います。それぞれ孤高なのですが、それ故に先天的な美意識の共有が得やすい。そんな旅をする者の関所。それがタダマスですね。
う~ん。うまいことをおっしゃいますね。自分だけが発見したとの喜びとともに、絶景に思わず見とれていると、他にも同じ景色を見詰めているものがいるのに気づく。最初から徒党を組んだり、同じ情報源にアクセスして「ネタ」が共通であることを確認しあったりするのではなく、別々の方角から歩いてきて、またいずれ別々の方向に散っていくのだが、いまたまたま同じ景色を見ている。だからこそ、いまこの瞬間も、見ているこの景色もかけがえのないものと感じる‥‥そんなところでしょうか。
ちなみに「タダマス3」については、すでに月光茶房店主・原田さんのレヴューがブログに掲載されています。私みたいに自分のことばっかし書いてるんじゃなくて、ちゃんと出演者の発言をフォローした大人(たいじん)の風格溢れるリポートになっています。
http://timbre-and-tache.blogspot.com/2011/10/blog-post_25.html#!/2011/10/blog-post_25.html
さらにホストのお二人による振り返りもまた、すでにそれぞれのブログに掲載されています。益子さんのものは最近通ったライヴ・レヴューも併せて読むことができます。
多田さん http://www.enpitu.ne.jp/usr/bin/day?id=7590&pg=20111025
http://www.enpitu.ne.jp/usr/7590/diary.html
益子さん http://gekkasha.modalbeats.com/?cid=43768
同じ時間、さして広くも無い同じ空間にいて、同じ音を聴きながら、みんな違うことを感じ、異なる風景を思い浮かべているんだなー‥と。この辺が「まず一体感ありき」みたいな「ハコ」と違って、カフェのいいところだと思います。そこに集う者をひとつに束ねてしまわず、思い思いに夢想する余地を残しておく「寛容さ」。それこそは、いま私たちのまわりに一番欠けているものではないでしょうか。
喫茶茶会記店主の福地さんは、ご自身のブログで「藝術喫茶を営んでいると選りすぐりのメンバーが集まるので高尚な店と思われる節があるが、私が高尚でないのでバランスが取れている」と謙遜していらっしゃいますが、確かに様々な活動の交差点/プラットフォームとしてのカフェは、「目利きの店主が厳選した‥」ではダメかもしれません。セレクト・ショップではないのだから。それぞれの活動の交流/発展はもっと自然発生的なプロセスであり、店主にはそれを見守る「寛容さ」こそが求められるのでしょう。
喫茶茶会記アクセスマップ
四谷三丁目駅からほど近い。

こんなものも展示されていたり‥。
知らないオトナの世界の魅力。

photo:Masao Harada
スポンサーサイト
ジャズにちっとも似ていないジャズの出現可能性-「タダマス3」レヴュー Possibility of Appearance of Jazz which is quite unlike "Jazz" - Review for "TADA-MASU 3"
2011-10-25 Tue
第3回四谷ティー・パーティが無事終了し、今回も当日プレイされた演奏から、あるいはコメントから、様々な触発を受けることができた。今回特筆すべきは、ゲストの池長一美(dr)が請われるままに、かなり柔軟に、また縦横にコメントされていたことだろう。日本のミュージシャンの中には、同時代の音楽を全然聴いていなかったり(あるいは聴いていないふりをしたり)、あるいはコメントを求められても「他人は他人、自分は自分」みたいな話になってしまう人も多いのだが、その点、池長はそのようにガードを固めることなく、率直に感想を述べていた。ミュージシャンが演奏している時には、当然、様々な感覚が入り込んでいるし、多種多様なイメージが脳裏を去来しているはずなのだが(「空っぽになって磨き上げたスキルだけが動いている」などというのはフィクションに過ぎない)、それを言葉にしてしまうと嘘臭くなるからか、人脈とか奏法とかについては語っても、音楽から受ける印象やイメージについて語りたがらない人もいる。今回かかったThe Clarinetsの演奏に対し、「雲の隙間から光が射すような‥」と彼が印象を語ったのは、だからとても新鮮だった。ミュージシャンがもちろんミュージシャンならではの聴き方をしつつ、聴き手と同じことを聴いてもいるという「当たり前のこと」を改めて確認できたことも、今回の大きな収穫だったと言えるだろう。この場を借りて感謝したい。池長さん、どうもありがとうございました。さて、以降は当日プレイされた10音源(実際には参考としてかけられたものもあるので10+α)から、特に印象に残ったものをピックアップしてコメントしていくこととしたい。なお当日の詳しいプレイリスト(パースネル入り)は次を参照のこと。
■http://gekkasha.modalbeats.com/?cid=43767

Pi Recordings PI 38
track 3:Fire-Ogbe[Odu Ifa suite] 5:21
前作では自ら集めた俊英たちに遅れを取ったが、本作品では明るくポップ化したことにより見事に復活した‥との紹介通り、実に軽やかでポップに弾けている(微炭酸)。Seve Colemanといえば、M-Baseでの変拍子の導入等によるサウンドの複雑化/重層化で知られるが、ここでは従来のジャズ・アンサンブルを前提とした複雑化というより、ハード・ディスク・レコーディングによるレイヤーの敷き重ねをモデルとしたつくりこみのように思われる。変拍子とシンコペーションだらけのリズム・アンサンブルも、むしろギクシャクとしたトンガリ具合よりも、滑らかさの中の味覚変化を目指しており、それがMPBの香り高いヴォーカル・ラインともよくマッチしている。だから全体の印象は、奇妙なことにステレオラブ「ミルキー・ウェイ」のジョン・マッケンタイアがプロデュースしたトラック(たとえば冒頭曲)に近い。だがここで重要なのは、もともと編集で生み出された動きが生の演奏する身体を通過することにより、動きをそして身体を組み替えていくことの可能性だ。黒人によるストリート・ダンスの世界でも、明らかに早送りやスロー再生、ループといった動画編集からサンプリングした動きがモンタージュされるようになってきているが(Les Twins, Marquese Scottなど)、そうしたこととの同時代性も感じられる。

Pi Recordings PI 40
track 1:Twenty 7:24
上記作品でも叩いていたTyshawn Sorey のソロ作品。前作まではやたら音数が少なくて現代音楽みたいだったが、本作では叩きまくりと紹介された通り、実に見事な演奏を聴かせてくれた。Tyshawn Sorey自身が影響の源としてシェーンベルク等を挙げているだけあって、アルト・サックスのラインなど無調っぽく動く。そこへ「食って入って、後へも残す」式の不均衡をバシバシと叩き込む音数の多いドラミング。しかし体温は低いままで、決して熱くはならない。そこに突き放した対象化の視線の強度が感じられる(この2人に比べるとピアノとギターはやや弱いが)。このドラムとアンサンブルの在りようは、私にクリス・カトラーのいたヘンリー・カウを思い出させた。さらには70年代末のアンソニー・デイヴィスのアンサンブルに、竹田賢一がやはりヘンリー・カウとの同質性を見ていたことを思い出した。

Skirl Records SKIRL 013
track 6:Drop Off 4:55
開演前にかかっていた彼らの前作に耳が立った。クラリネット(またはバス・クラリネット)3本による演奏は、フレーズの幾何学的な断片を投げ交わすのではなく、空間に精確にちりばめ、象嵌していくクールな緻密さをたたえていた。対してこの演奏では、各演奏者はひたすらに息を磨き上げ、音になるかならぬかの危うい均衡の中で水平なたなびきに徹している。磨き上げられた息の積み重なりは笙にも似た響きを生むが、ここで演奏者たちはそうした響きの輪郭を整えるよりも、水平に広がる響きの肌をすりあわせることから演奏を織り成しているように感じられる。それゆえ、時に生々しい息音が混じり、あるいはモジュレーションによる音響の変化が生じる。冒頭に記したようにゲストのドラム奏者池長一美が、「雲の隙間から光が射すような‥」と印象を述べた後、「自分ではもうコントロールできないところへ行って、ただ音を見詰めている」、「演奏の中で、たとえば終わる直前にほんの一瞬だけ起こるようなことを、意識して引き延ばしてやっている」と語っていたのが興味深かった。私も同様のことを感じていたからだ。もちろん楽器/サウンドはコントロールされている。だが、それは演奏者の意図を反映するためのコントロールではもはやない。自転車の速度をどんどん遅くしていって、もはや到底まっすぐは走れないが倒れない‥という中で重心の移ろいを、ペダルに置かれた足の裏の感触とギアの遊びを、タイヤの摩擦とハンドルの軋みをまっすぐに見詰め、肌で感じているような。この盤の中でも最も極端なトラックとのことだが、昨年のベスト30にも選んだクラリネット・デュオThe International Nothingと共通の手触りも感じられる。益子の指摘するクラリネット復権をまざまざと感じさせる1枚。前作ともども入手してぜひ聴き込みたい。

Clean Fead CF 232
track 2:Floral and Herbaceus 7:44
「即興演奏のための素材に近い」と益子が評するTony Malabyの作曲を、9人編成のアンサンブル(ベースレスでチューバが入る7管)に編曲するというかなり無理筋の1枚。細かくパタパタと鳴るドラムスをはじめ、寸断された、あるいは薄くのめされた響きが次第に積み重なり、ゆっくりと香りがひろがるように、あるいは植物が繁るように(これは曲題通りのイメージ)、底の方から空間を満たしていく。ここでKris Davisは指揮に専念してピアノを弾いていないので、ドラムス以外はすべて管楽器なのだが、むしろ西洋のハーブの中に、東洋の香木が混じるような、異質なものを潜在させた濃密さを志向しているように感じられた。とはいえ、中間のばらけた部分など、いかにも「ソロ取ってください」と言わんばかりだし、そうして演奏されるソロもいささか窮屈となれば、編曲の意義はどこにあるのかともなりかねない。しかし、ラストの解き放たれた「鳴りっぱなし感」はとても面白いし、ある可能性を感じさせる。アンサンブルにソロ(のための空間)をスーパーインポーズするのではなく、前半のような制御の中で、各演奏者が自ら動き回れる空間を見つけ出していくような工夫が求められよう。

Cuneiform Records RUNE 327
track 1: Showtime/23rd Street Runs into Heaven 9:11
ケネス・パッチェンの詩に曲を付けたとの説明を聞いて「へー」と驚いた。いまどき、そんな酔狂なことをなんでまた‥と(調べたら生誕100年を記念した作品なんですね)。朗読による話言葉の抑揚/リズムを作曲化するやり方は以前からあるが、ここでは前半部分がその応用から成っている。ベースが、ヴィブラフォンが、テナー・サックスが、ナレーションに寄り添い絡みついて、ひとしきり踊った後、それを踏まえたソロを取る。体幹のしっかりしたベースが生み出すリズムの小気味よいこと。対して後半では朗読に寄り添わず、むしろ響きのかけらが斜めに空間を横切りながら、色合いを切り替えていく。この対比はなかなかに鮮やかだ。ビートニクの流れを汲み、ポエトリー・リーディングでジャズの即興演奏ともしばしば共演したパッチェンならではの演出というべきだろう。John Hollenbeckの知能犯ぶりがうかがえる。
今回はドラマーがリーダーだったり、作曲したりの作品が多かったのだが、かつてのように「ドラマーが作曲」=「パーカッション・ソロ」とか、=「変拍子ばりばり。ただしメロディはペンタトニック一発」といったことはもはやない。ジャズにおいても自らのソロではなく、サウンドを、音世界をプロデュースする時代なのだ。
そうした中で、益子が録音された作品においても、完成品を求めず、むしろ試行錯誤的な実験性を打ち出すものが多くなってきていることを指摘し、そもそも彼らは作品を完結させることを重要視していないのではないか‥と投げかけると、池長もこれに同意していたのが興味深かった。
日々のライヴが日常であり、ひとりの演奏者が数多くのグループやユニットに属しているジャズの現場があるのに、改めて録音でも実験性が打ち出されるのはなぜだろうか。それを考えるためには、いま日本で「実験音楽」などと言われる時の「実験」との違いを明らかにしておく必要があるだろう。後者の「実験」が俗流ケージ主義に基づく、語の一番悪い意味での「パフォーマンス」、すなわち健忘症が可能にしたコンセプトだけの「ネタ」に過ぎないのに対し、前者は決してそうした新奇さを求めることのない、まさに自らの身体が新たに通り抜けるための環境設定である。先日の記事で少し触れたウィリアム・バロウズ風に言うならば「新たなヤクを試してみる」ということだ。その「ヤク」自体は以前からある。効果も文献には載っている。けれど自分の身体に使ってみてどうかはわからない。そこで実験が必要となる。結果はうまく行ったり、行かなかったり。それは「ヤク」の精製純度や、その時の自身の体調や精神状態、周囲の環境等によっても異なる。しかし、身体は確実に学んでいき、経験は積み重なる(後者の場合は「ネタ」が古くなるだけだ)。
これからもジャズの世界では、様々な実験が、再検証と再創造が繰り広げられていくことだろう。それはジャズの定型や通念が厳しく問われていることにほかならない。もし「ジャズのふり」をしているだけならば、それが「ジャズに似ていない」ことは致命的な欠陥である。だが、ジャズそのものは「ジャズにちっとも似ていない」ことを、何ら恐れる必要はない。だとすれば、「ジャズにちっとも似ていない」ジャズが世界で一番出現しやすい場所はニューヨークなのかもしれない。
【追記】新たなヴィンテージ
四谷ティー・パーティの会場である「綜合藝術茶房 喫茶茶会記」は四谷三丁目駅からほど近いにもかかわらず、(大人になりきれない)大人の隠れ家的雰囲気が絶妙な空間だが、最近、喫茶/バー・スペースのスピーカーが入れ替えられた。以前のB&W805の後には、某氏のお手製というエンクロージャにマウントされたヴィンテージ・ユニット。うかがったところによるとグルンディッヒとジーメンスだという。おおっ、独逸の銘機ではないか。音はむしろ北欧系のように響く。中域をやや抑えた気品あるドンシャリ・バランス。そんなに帯域が伸びているはずはないのだが、繊細で甘さをたたえながら透明感を失わない高域と、ベースの輪郭を格調高い雰囲気とともに描き出す低域の質感は見事なものだ。ゆったりとした余裕はエンクロージャの大きさが効いているのだろうか(底面にロードのかかったポートのある長岡式バスレフとのこと)。音の伝え方/描き方に優れていると言うべきだろう。記憶を頼りに比べると、以前のB&Wがずいぶん素っ気無く感じられる。途中かかったデヴィッド・シルヴィアンのヴォイスから判断するに、あの鬱陶しい色気がややあっさりしていたから、中低域も量的には多くないはず。だが、ピアノ・トリオや女性ヴォーカルはお手の物だろう。いずれにしても、この場に似つかわしい造りに感心した。原田氏撮影の写真でも、もう何年も前からここにいたような顔をしている。
■綜合藝術茶房 喫茶茶会記 http://sakaiki.modalbeats.com/

撮影:原田正夫
楕円形がグルンディッヒ製のウーハー。
何だか手塚治虫の描いたロボットみたいなかたちがカワイイ。
2011-10-25 Tue
昨日、BSで観たので、頭に浮かんだことをちょっとメモしておきます。最初にお断りしておけば、TVで観ただけで書いているので、本格的な映画評になどなるはずもありません(時間短縮のためにカットもされているだろうし)。それとネタバレを含みますので、未見の方はご注意ください。原題は『母』、邦題は『母なる証明』と、全編に渡って描き出される「母性の暴走」を強調しているが、これはむしろ「記憶」の映画と言うべきだろう。障害を持つトジュンがこめかみに指を当ててぐるぐると回す「呪われたこめかみ」のポーズをするたびに、過去が脈絡無くフラッシュバックする。
作品の展開において重要なのは、このうち彼が母に殺されかけた(農薬を飲まされ無理心中させられるところだった)場面を思い出すシーンと、ラスト近く、母がトジュンによる殺人現場の唯一の目撃者である老人を殺害し(彼の目撃が見間違いでないことが「呪われたこめかみ」のポーズにより証し立てられる)、放火した焼け跡で見つけた母の鍼箱を、慰安旅行に出発するバスの待合室で渡すシーンの2つ。ここでトジュンは、あたかも母の罪を告発しているように見える。しかし、それは説話論的な役割=機械仕掛けとしてそうなのであって、彼に告発の意志などあるはずもない。彼は自分自身が少女を殺害したことすら自覚していないのだから(「真犯人」の発見により釈放されて、死体がわざわざ屋上に放置されていた理由を推理してみせるトジュン)。
先の2つのシーンでトジュンは「童形をした神」のように現れている。どこまでも純真で罪無く、無垢であるがゆえに、かつかつと日々を生きる人間の小さな罪を告発してやまない存在として。
ここで私は萩尾望都『訪問者』のことを思い浮かべている。新雑誌「プチフラワー」の創刊号に掲載された作品は、やはり彼女による作品『トーマの心臓』の登場人物オスカーの「前日譚」とでも言うべきもので、『トーマ』の舞台となるシュロッターベッツ・ギムナジウムへの転校以前、父親と過ごした子ども時代を描いていた。気弱な芸術家である父は、母を殺害し、一人息子オスカーを連れてあてのない旅に出る。早熟なオスカーは、それ以前から険悪な夫婦仲に責任を感じ、居場所の無さ(自分は「家の中の子ども」ではない)を感じていた。そしてついに、父親の眼に自らが罪の告発者として映っていることを知る。無垢な子どもの姿をして家々を訪れる神=「訪問者」として(やはり「家の中の子ども」ではなく)。結局、父は知り合いの寄宿学校校長(彼こそはシュロッターベッツの主であり、オスカーの実の父親だった)に彼を引き渡し、帰らない旅に出てしまう。
『訪問者』においては、「ちっとも神ではない」オスカーの内面が描かれることで、「童形をした神」は言わば物語上の機能として登場するに過ぎない。しかし『母なる証明』においては、トジュンの内面が描かれず、理解/共感不能な不気味さをたたえていることから、そうした「神性」がより生々しく立ち現れてくることになる。それは「記憶」の寓意にほかならない。抑圧しても、忘却しようとしても、また別のかたちでよみがえり、自らを責め苛む「記憶」が人の形をして現れたもの(ウォンビンの底の知れない眼差しや生臭さを感じさせない肢体は、見事にその役割を果たしている)。
通常のストーリー・テリングなら、例えば復讐者の悪意や突然のアクシデントにより明らかにされていく忌まわしい「記憶」が、ここではトジュンの「障害」を介することにより、意図でも偶然でもない、あるズレをはらんだタイミングにより暴かれていくことに注意しよう(一方、前半の2件の交通事故に見られるように、この作品では「アクシデント」は本当に唐突に偶然の結果として、サイコロの出目のように起こる。殺人事件すらも)。言わば何者かによって与えられた「運命」として。
そうした酷薄な「運命」への、ちっぽけな、だが精一杯の抵抗として、母の「イヤなことを忘れるツボ」に鍼を打つ行為を位置づけることができよう。それはこれまでも繰り返されてきたし、これからも繰り返されていくのだ。
だから、私にはこの作品が「母のどこまでも深く、狂気に満ちた愛を描こう」とつくり始められたようには思えない。障害により、シャッフルされ、あるズレを持った、並べ替えられたかたちでしか記憶がよみがえらない‥というアイデアがまずあり、そこに「忌まわしい記憶を消す」魔法という仕掛けが加わり、母と子と殺人といった要素は、それらをプロット化するために後から要請された要素なのではないだろうか。本作品の脚本における伏線の張り方はとても見事なものだが、「母の異常な愛情」という線で組み立てたと考えるよりも、先のように見立てた方が、すうっとひとつの見通しが浮かんでくる気がする(もちろんこれは後知恵に過ぎないが)。
俳優陣の演技もまた素晴らしい。おそらくは確信犯的にブサイクな顔ばかりを選んでいたりするので、消化不良を起こす方もいるだろうが。
ネット上にアップされた感想を見ると、「母の愛情の異常さ」に胃もたれを起こした方も多いようだが、もし、この作品からそうした異常さしか感じ取れないとすれば、それは身の回りの親子の愛情の異常さから眼を逸らしているか、その方自身が偏狭で異常な愛情の中にあってそのことに気がついていないかのどちらかだろう(もちろん、映画には慰撫的な心地よさ以外を一切求めない向きもあるだろう。それも立派な「異常」ではある)。
本作品は、むしろ異常というか「切断」の少ない映画だ。同じポン・ジュノによる「殺人の追憶」が田舎町の中に突如として現れる大規模な土木工事現場のシーン(人寂しい暗がりから一瞬のうちに転じて、煌々とライトに照らされ大勢が行き来する、本当に眼の眩むような異空間が出現する)を持っていたのに対し、本作品はひとつの街の同質性の中に封じ込められたまま進む。風景の手触りの切断は基本的に無い。それゆえ、死体の放置された屋上からの均質化した街の眺めが効いてくる(簡単に一望できる、まるで水滴のように閉ざされた、ちっぽけな世界)。
唯一の切断は、風景の中の母の姿によってもたらされる。例えば母がジンテの家、あるいは廃品回収業者のところに向って田舎道を歩くのを超ロングでとらえたショット。母の姿は本当にちっぽけで、広がりのある景色の中では映像のシミのようですらあるが、それまでの姿が投影されることにより、景色と拮抗し得る存在となる。映像の力の溢れる場面だ。そのことは枯れ草が風にたなびく草原を母が歩くショットでも現れる。それらの源泉に位置しているのが、やはり冒頭に置かれた奥行き深い景色の中で母が舞うショット(タイトルバック)だろう(途中、母の見詰める山裾に立つ一本の樹木を、同じようにカメラが回り込みながらとらえるショットがあり、この辺は確信犯的なうまさではある)。なお、誤解の無いように付言すれば、これは決して「閉塞」に対する「開放」ではない。先に挙げた各場面において、期待されるような開放感/解放感を得ることはできない。風景のホリゾントは高く掲げられ、視線を解き放つことはかなわない。むしろ眼は景色と母とが拮抗する「つばぜり合い」を見詰め続けること、そうした強度の圧迫に耐え続けることを強いられる。それは「見たいものだけを見る」ことが映画を観ることだと考えている観客には無縁の体験である。たとえば廃品回収業者の居所に近づき、ショットが切り替わると、足元がぬかるんでいる。ここでの触覚性の急浮上を味わうことができるのは、先の緊張に耐え続けた者だけの特権であるだろう。
この点で撮影の素晴らしさを了解しながら、その画面の強度を、様々な生成の線を自在に結び合わせ、注意深い瞳をとらえて放さない編集/構成の見事さを賞したい。派手なシーンやあからさまな切断がないだけに目立ちにくいのだが。音楽もまた、楽曲の出来以上に、抑制された効果的な使い方を評価することとしたい。


2011-10-23 Sun
ごめんなさい。先日掲載したディスク・レヴュー2011年6~9月(第1部)に、試聴用URLが漏れていたので追加しました。改めてご覧いただければ幸いです。なお、第2部も現在鋭意執筆中ですので、もうしばらくお待ちください。http://miminowakuhazushi.dtiblog.com/blog-entry-133.html

10月23日(日)は「タダマス3」の日。
2011-10-22 Sat
前回「映像によるLAFMS」でご紹介いたしましたイヴェント「Slow Life Avant=Garde Tochigi」の模様が、主催されたArt into Lifeさんのブログに写真で掲載されています。以下のURLをご覧ください。http://artil.exblog.jp/14796557/

最初の写真は壁の鏡に写った会場であるカフェの店内。物販コーナーになっていて貴重なブツがずらり。ちらりと「Darker Scratcher」のLPが見えているのに、目ざとい方はお気づきのことでしょう。かかっているTシャツは、イヴェント終盤のインターミッション時にばんばん売れてました。
その後は開場前の店内の様子、ごくごく秘密裏に小規模で‥という感じが伝わって来ます。スクリーンも白布を張っただけの即席のものですが、ご覧のように充分見やすいプレゼンテーションでした。ジョー・ポッツ個展のちらしとか、今となっては超貴重映像ですよね。こうした画廊・ギャラリー系からマイナー音楽が入ってくるということはままあって、ジャン・デュビュッフェの自主制作アナログ・ディスクなども、60年代当時にこの流れで日本に入ってきていたようです。
上記ブログ掲載の写真をみていくと、いきなりエロい女性の顔のアップが出てきてびっくりしますが、自動販売機で売られていた伝説の雑誌「Jam」の表紙写真です。科補(科伏)=坂口さんがLAFMSや米国西海岸NW等の紹介記事を書かれていました。エロ雑誌の衣をまとった過激アングラ文化マガジンというところでしょうか。現在の衛生的な「サブカル」よりも、もっとヤバイ感じ。工作舎「遊」からの流れもあるし。この「Jam」の後身がガセネタ→タコの山崎春美編集による「Heaven」。「自販機 Jam Heaven」とかで検索すると、いっぱい情報が出てきます。70年代末から80年代にかけてですね。この辺の流れが「ピテカントロプス教養主義」みたいな形で浮上して、「Heaven」も「フールズ・メイト」に雑誌内雑誌の体裁で載ったりしてました。この辺の事情は自身、当事者の一人である(「Heaven」等に書いていた)香山リカ「ポケットは80年代がいっぱい」(バジリコ)が詳しいです。
LAFMSに限らず、Art into Lifeの品揃えはスゴイですよ。ぜひのぞいてみてください。

2011-10-19 Wed
10月15日(土)、人知れず貴重な催しが行われた。ロサンジェルス・フリー・ミュージック・ソサエティ (LAFMS)の超貴重秘蔵映像を、日本一のオーソリティたる科補(シナプス)氏ことT.坂口氏の解説付きで5時間(!)に渡り観ることができるというもので、限定31名(!!)。主催は知る人ぞ知る特殊音楽限定取扱音盤店「田畑に囲まれた田舎町より日常の中に何かしら変化をもたらしてくれる音楽 & 映像作品を発信するオンライン・ミュージックショップ」Art into Life(!!!)。私もたまにLAFMSのアーティストを採りあげたりしますが、元はと言えば、池袋西武アール・ヴィヴァンで入手したフリー・ペーパー「AMALGAM #8」(ピナコテカ・レコード発行)に掲載された「科補おもしろニュース(2)」におけるLAFMS紹介記事(*1)が、LAFMSとの最初の出会いだったのではなかろうか。アール・ヴィヴァンでは、当時、コンピレーション「Darker Scratcher」やLe Forte Four「Spinin' Grin」など、彼らの作品も取り扱っていたし。前者は手に入れたけど、後者は試聴させてもらって迷曲「Japanese Super Heroes」でめげた記憶が‥。それでも懲りずに注目し続け、なぜか大学生協主催の中古盤セールで「Live at Brand」とか拾ったりするのだけれど。
*1 なんと、次のURLで見ることができます。
http://f.hatena.ne.jp/chairs_story/20110204193906(p-2)
http://f.hatena.ne.jp/chairs_story/20110204193908(p-3)
http://f.hatena.ne.jp/chairs_story/20110204193910(p-4)
http://f.hatena.ne.jp/chairs_story/20110204193912(p-5)
V.A./ Darker Scratcher

Le Forte Four / Spini'n Grin

V.A./ Live at Brand


そうした有り難い「恩師」である坂口氏のお姿も拝めるとあって、イヴェントのご案内をいただき次第、これを逃してなるものかと気合を入れて即予約し、はるばる宇都宮まで行ってまいりました。
まずは坂口氏による口上をArt into Lifeブログから転載させていただきます。
Slow Life Avant-Garde Tochigi October 2011
栃木県は福島県に隣接しており、3月に発生いたしました東日本大震災・福島原発事故の影響を大きく被っています。その栃木県から全国に先鋭的な音楽を配給しているArt Into Lifeの青柳伸吾さんから、5月中旬にご連絡がありました。私はこれまでロサンジェルス・フリー・ミュージック・ソサエティ (LAFMS) の活動を映像や音楽などで紹介する “Slow Life Avant-Garde” (原題 『プレLAFMS展』) と題した一連の催しを、大阪・心斎橋に在る FUKUGAN GALLERY 様のご厚意に基づき 2007 年より行なっています。昨秋に青柳さんとお会いした際にこの “Slow Life Avant-Garde” を栃木の地でも開催したいのだがとのご相談を受けており、愈々それを実現したいとのご連絡でした。私はこの要請をお受けしましたが、情況を考慮すれば栃木復興支援を目的とするチャリティ企画として行うのが適切ではないかと思い至ります。前記 “Slow Life Avant-Garde” とは別に、私は 1990 年代の後半から阪神淡路大震災からの復興支援を目的とするチャリティ・コンサートを行なって来ました。そして、本年の春に開催されたこのコンサートは東日本大震災からの復興支援をも目指すものとして行われています。その様な経緯がありましたので、栃木で行うのなら是非ともチャリティ企画として行いたい気持ちが湧いて来たのであります。
この意見を送りますと、青柳さんも同じ趣意を持っておられることが判明しました。「それならば、早速催しの準備へ移りましょう」と、話は決まります。会場が栃木なので、設営に関する諸々の仔細は専ら青柳さんにお任せする次第となりました。私の方はLAFMSの方々と話を進め、嬉しいことに 「全面的に協力する」 との有難い申し出を頂戴しております。彼らが昨秋ロンドンにおいて行なった“The Lowest Form Of Music” フェスティヴァルは大成功を収めましたが、その際に公開された映像を提供して下さいます。これに私が持っている映像を併せ、映像とスライド・ショーにてLAFMS の歴史を辿るプログラムを構成いたしました。催しは、午後 3 時から 8 時迄という長丁場にて行います。ご来場頂いた方々と緩やかに交流を持ちながら、楽しく進めたいと思っています。まず、下記の様なコンテンツを用意いたしました。他に、スライド・ショーを用いた解説も行います。
スメグマ “Live In Pasadena” (1973)。
スメグマ “Live In Pasadena” (1975)。
ドゥドゥエッツ “3-2 Minute Segments” (@ Le Forte Four Studio 1976)。
トム・レッシオン映像作品 “Drums By Magic” (1978)。
ドゥドゥエッツ “On Close Radio” (1979)。
トム・レッシオン、リック・ポッツ映像作品 “It’s Halloween” (1980)。
リック・ポッツ 作品 “Shadow Puppets” (1983)。
ダグ・ヘンリー作品 “Red Wrec. Said” (1983、音楽: ドゥドゥエッツ)
ダグ・ヘンリー作品 “Blue Period” (1985、音楽: ジョー・ポッツ、リック・ポッツ、トム・レッシオン、ジョセフ・ハマー)
ダイナソー・ウィズ・ホーンズ映像作品 “Fever Flowers 2” (1987)。
スメグマ “Live in San Francisco” (1992) からの抜粋。
マイケル・イントリエール映像作品 “Extended Organ Debut Concert”(1995)。
ジョー・ポッツ、リック・ポッツ、ジョセフ・ハマー、ギャビー・ストロング、ドン・ボールズ “Sacred Ground” (1999)。
ジョナソン・ローゼン映像作品 “Apartment Thunder” (2006、音楽:ディヴィッド・トゥープ、トム・レッシオン)。
ジョナソン・ローゼン映像作品 “Sleep” (2007、音楽: トム・レッシオン)。
催しの収入 (利益ではありません) からの 50% は、栃木県の市へ寄付されます。
申し訳ございませんが、会場スペースの都合でお客様の数を 31 と限定させて頂きます。
なお、ご参加に際してはご予約をお願いいたしたく存じます。
文責 坂口卓也
イヴェント案内ポスター

拡大画像(下をクリック)
どーです。すごいプログラムでしょう。途中、結構、休憩が挿まれたので、トータルで4時間強くらいかな。これでもか‥とばかりにLAFMSでした。ご存知のように、彼らの音楽/演奏はなかなか一筋縄では行かず、高純度のサイケデリアに激しく揺すぶられたり、ノイズに金縛りにされたりするだけでなく、何を聴かされて(見せられて)いるのか判然とせず、頭の上に?マークが入道雲のように沸きあがったり、これはもう力なく笑うしかないみたいな超脱力系の展開もあったりするわけです。今回の映像でもそうでした。エスニックな香り漂うサイケデリアがあるかと思えば、巨大芋虫を電話で呼ばれたヒーローが退治し、手品で操られたマレットが宙に浮いたまま太鼓を叩くという‥。
坂口氏の解説は飄々淡々とした味わい深いものでした。LAFMS結成のくだりで、彼らが生まれたころの音楽状況とか、結成と同時代の日本の音楽状況とかをスライドで見せてくれたり(そーか。あの曲が流行った頃か‥みたいな)とか。原雅明氏の紹介で、ラス・Gからブーバー・レコードつながりでLAFMSを知ったような最近の若い衆には、こうした背景知識が必要でしょうね。それから「日本のLAFMS受容」として、ジョー・ポッツの銀座ルナミ画廊での個展開催から現在に至る流れを紹介してくださったのも良かったです。たとえば「ジャズ・マガジン」での竹田賢一氏による紹介とか、雑誌の表紙はマックス・ローチだし、ちょうど間章がミルフォード・グレイヴスを招聘した時で、その記事が巻頭(この号は以前に古本で入手していました)。そうした中で輸入盤レヴューのページにはLAFMSが紹介されているという、この「落差」。雑誌というメディアの醍醐味てすね。せっかくなのでディスク・レヴューの最後の部分を引用しておきます。
このジャケットでもわかるとおり、L.A.F.M.S.のミュージシャン(?)たちは、その出発点を60年代後半のザッパやビーフハートに代表されるロックの異化ムーヴメントに持っているのに違いない。次々と輩出したサイケデリック・ロックのグループが、コマーシャルに、また風俗的ファッションへと風化していく中で、フリー・ジャズやヨーロッパのフリー・ミュージック、あるいは電子音楽、テープ音楽などの現代音楽と出会いながら、音楽に与えられる定義を片っ端から反故にしていった人たち。ミドル・ホワイトの自己解体の実験としては。パンクよりはるかに衝撃的な行為がここにはある。そして、これらもフリー・ミュージックなのだ。(「ジャズ・マガジン」1977年11月号)
「ジャズ・マガジン」1977年11月号

見せていただいた中で、文句無く素晴らしかったのは、最後を締めくくったExtended Organの初ライヴの映像でしたね。ものすごく暗くて粒子の荒れたハイキーでモノクロームな映像が、地の底から沸きあがり、床を這い回るようなヴォイスとエレクトロニクス(ドローンとループ)の混成体のエッジを強調し、サウンドのノイジーなうごめきが、暗い中からハイライトがぬっと現れ、事物の形が浮かび上がる画面を生き物のように息づかせる相乗効果。これはとてつもなくカッコよかった。家へ戻って彼らのCDを聴き返してみて、おそらく同じ演奏を収めたトラックもあったんだけど、これは映像付きの方がはるかにインパクトありました。
Extended Organ / XOXO

もちろん、比較的最近のSolid EyeやExtended Organ、あるいはかつてのAirwayといったハードエッジな音響だけを切り分けて評価するのは、おそらくLAFMSに対する適切な接し方とは言えないでしょう。奇妙奇天烈なコラージュや酩酊したグルーヴ、幼児退行症的なヴォイスやおバカなパフォーマンス、各トラックの時間配分に基づく負担金制度によるレコード作成や社会的タブーへの苛烈な攻撃、コミューン的な共同生活‥‥といった要素/特徴を、あるひとつの精神のあり方の多種多様な発露/展開ととらえる視点が必要なのではないかと。そうした精神の現われは、たとえばかつてのESPレーベルなどにも見られたかもしれないけど、彼らは60年代的なシーンの高揚が消え失せた70年代後半からこうした活動を始め、その後、現在に至るまでしぶとくやり続けている点は、本当に賞賛すべきものだと思います。
旦敬介は「ライティング・マシーン-ウィリアム・S・バロウズ」(インスクリプト)で、バロウズの使命は「自由のパトロール」だった。彼の本はその報告書で、そこには敵地の見取り図や自由の処方箋が添付されることになっていた‥と書いています。また、彼はシュタイナーのような霊的な世界が見える人ではないにもかかわらず、自らの身体を実験場とした様々な試みを通じて、我々が常に見ている「現実」以外の次元が確実に存在することを確信しており、それを手探りで探し当てるために作品を書いていた‥と。LAFMSの面々にも似たようなところがあるかもしれません。彼らはバロウズのように孤独ではなく、古くからの仲間たちがいて、そのネットワークを通じて活動しているという違いはあるけれど。そこには靴底に貼り付いたガムのような、「柔らかな不定形の信念」が確かに貫かれているように思えて仕方がありません。
旦敬介
「ライティング・マシーン-ウィリアム・S・バロウズ」
(インスクリプト)

2011-10-13 Thu
【前口上】前回の続きで、6月から9月までに聴くことのできた作品群から選盤してお届けするのだが、今回は4か月分となったため、7作品×2=14作品の選出となった。まずは第1部として、ジャズ及び作曲作品からの7作品をお届けし、続いて第2部として、フリー・インプロヴィゼーションやフィールド・レコーディング、ドローン等からの7作品をお届けすることにしたい。なお、Farmers by Nature / Out of This World's Distortionは、別稿でレヴューしたため、ここでは対象から外している。

邦楽ジャーナル HJCD0006
沢井一恵(十七絃、五絃琴)、沢井比可流(十七絃)、齋藤徹(コントラバス)
http://www.farsidemusic.com/acatalog/KOTO.html#aFSD5793
低音のグリッサンドが、強烈なクラスターが、強靭なドライヴにも凛とした響きの輪郭を揺るがすことなく、均質な層となって積み重なり、結晶格子にも似た整然たる輝きを放つ。通常はドライヴすればするほどディストーションがかかり、「らしく」なるのだが、彼女はそれを潔しとせず、熱く噴きこぼれる響きを受け止める空間は、いささかの乱れも見せず、しんと静まりかえっている。こうして、低音弦を増強した〈エクステンデッド〉箏としての十七絃の可能性を、冒頭に置かれた沢井忠夫「華になる」で鮮やかに燃やし尽くした後、彼女の想像力は始原へと溯る。高橋悠治「畝火山」では復元楽器である五絃琴を手繰る身体の律動と、放たれる息と声は、遠い古代の巫女がひとり座する暗闇への通路を開く。対して西村朗「覡(かむなぎ)」では引用されたクッコリのリズムを通じ、齋藤徹を従えて韓国巫楽の深淵へと降りていく。かつてジョエル・レアンドルとの共演において、箏はコントラバスと共に木枠に弦を張り渡しただけの古代の祭具へと変貌し、ベニャ・アシアリ、ミッシェル・ドネダとの交感では、ギリシャ悲劇のコロスのように集合的な多声を映していたことを思い出す。そして締めくくりに置かれた「六段」。この誰もが聞き知る古典が、彼女の手にかかると(2010年5月のライヴ)、旋律の衣を脱ぎ捨てた各音がストレス・フリーに飛翔し、その様は池に放たれた黒や金や緋や錦の鯉たちが一瞬交錯し、また思い思いに離れ去っていく軌跡を思わせた。ここでの十七絃による演奏は、はるかにゆったりと重く遅く、まるで暗い水の中を歩むようだ。音は遥か遠くからはるばると空間を渡り、影のように尾を引いてなかなか消えていかない。あるいは一度沈み込んだ後、響きとなって浮びあがり、匂いが立ちこめるように再び還ってくる。あの時、水面から覗き込んだ景色が、ここでは冷たく重い水ののしかかる水中から見上げたもののように感じられる。彼女は弦や胴、空気の震えをきっと〈側線〉で感じ取っているのだろう。〈今/ここ〉だけでなく、人間の感覚の枠組みからも流出してしまう傑作。
できれば以下のURLで2010年5月のライヴ・レヴュー(奇しくも「華になる」、「畝美山」、「六段」の3曲の演奏を採りあげている)も参照していただきたい。
http://miminowakuhazushi.dtiblog.com/blog-entry-34.html

Jinyadisc B-25
高柳昌行(ギター、テープ、エレクトロニクス)
http://www.squidco.com/miva/merchant.mvc?Screen=PROD&Store_Code=S&Product_Code=14769&Product_Count=&Category_Code=
ここに収められた高柳の北海道ツアーの様子を、副島輝人撮影の8mmの映像で垣間見たことがある。副島のレクチャーに高柳がゲストで招かれた時で、高柳は石油缶を叩いたり蹴飛ばしたりした音や漁船の焼玉エンジンの音を、後で演奏に使おうと思ってテープレコーダーにみんな録音したと、うれしそうに話していた。その時に聴くことのできたライヴ演奏の録音は強烈で(たぶん1分足らずだったろう)、後にLPが出たソロによる「アクション・ダイレクト」(以下ADと表記)よりずっと凄かった。その演奏を再び聴くことができたことを、まずは喜びたい。
ここでの演奏はソロでありながら、かつての「ロンリー・ウーマン」に比べ、はるかにフリー・フォームかつノイジーであり、後のADにつながるものと位置づけられようが、そこには大きな違いがある。後のADがサウンドの空間への散布を目指したのに対し、ここで音は固いしこりを伴って中央にわだかまり、膿汁のような独特の粘性をもって這い回る。ラジオからの朝鮮語や部分的なエレクトロニクスの導入もあって、サウンドはそれまでのソロやグループ演奏に比べ、はるかにAD的な雑色化を果たしているが、ADの演奏の特徴と言うべき「操作する身体」はまだここには現れていない。演奏は高柳自身の身体所作との連動性/一体感を色濃く残している。それゆえ、この「前史」的演奏との対比において、ADにおけるアクションからの操作的/批評的距離が、反語的に浮かび上がることになる。対して、ADのライヴにおける弓や数珠等の音具を用いたアコースティック・ギターの即興演奏が、痛々しいほどに「浮いて」いたことをも思い出さざるを得ない。
グループ演奏「マス・プロジェクション」において、他のメンバーが極限的な加速に苛まれて互いに(自らを含め)寸断しあう地獄絵図を眺めやりながら、高柳はそうした「万人の万人に対する闘争状態」をひとり抜け出して、水底でフィードバックの長い尾をくねらせ、サウンドの濃度勾配を操作し、演奏全体をコンダクトしていた。ADにおける「操作する身体」にまっすぐつながっているのは、むしろそうした手法・感覚だろう。対して本作に収められた演奏では、高柳の〈操作〉に反応する演奏者は不在であり、〈操作〉により相互作用を起こし、描き出す光景を様々に変化させる持続音のレイヤー(それこそがADの演奏の核心にほかならない)もまたない。必然的に自らを切り刻み、責め苛むと同時に、彼方へと解き放とうとする身体、ギターとテープを同等に演奏/操作しようとする身体が現れることになる。この身体の引き裂かれたあり方は本当に貴重だ。
当時、高柳のボーヤを務め、北海道ツアーにもそのまま同行した大友良英による長文ライナーは、この84年のツアーを、60年代末のフリーへの転進に続く2度目の転換期ととらえている。それはその通りだろう。だが、その転換は、先に見たように、必ずしもまっすぐに次なるモードであるADに続くものではない。この転換の中で束の間姿を現し、成熟することなく消えてしまった可能性もまた多い。転換期とは、まさに〈折れ目〉にほかならず、だからこそ露出する本質がある。先に指摘した分裂的な身体にぜひ注目して聴いてほしい。そこに耳が届けば、本作は高柳の代表作のひとつとなり得るだろう。

Mikroton Recordings mikroton CD 8
Clare Cooper(harp), Chris Abrahams(piano), Christof Kurzmann(lloopp), Tobias Delius(clarinet&tenor saxophone), Clayton Thomas(double bass), Werner Dafeldecker(double bass), Tony Buck(drums)
http://soundcloud.com/clarecooper
シドニー生まれ、ベルリン在住の女性ハープ奏者Clare Cooperが、アリス・コルトレーンに捧げたプロジェクトから生まれた本作品は、選ばれた題材と演奏メンバーから予想されるように、「再構築されたスピリチュアル・ジャズ」とでも言うべきものとなっている。インド古典音楽のアーラーブにも似た、定型的なビートを持たずに各楽器が絡まりあう組んづ解れつの演奏は、アリス由来の宇宙的な広がりを志向しつつ、解像度が飛躍的に高まったことで、黒くどろどろとした粘液質の充満を離れ、さらさらとより流動性の高い透明なものとなっている。とは言え、表面を模倣しただけのファンクラブ仕様に終わっていないのが、彼女らの素晴らしいところだ。〈音響〉以降の研ぎ澄まされた感覚(音色への注視、音構成の細分化、沈黙/空間の重視等)により演奏を掘り下げ、グループのサウンドを彫琢し、充分聴き応えのある水準に至っている。冒頭に置かれた10分以上に及ぶ「Second Stabbing(Ohnedaruth)」のとりわけ力の入った演奏をぜひ聴いてみてもらいたい。

Constellation CST079
Matana Roberts(as,cl,voice), Gitanjali Jain(voice), David Ryshpan(p,org), Nicolas Caloia(vc), Ellwood Epps(tp), Brian Lipson(bass tp), Fred Bazil(ts), Jason Sharp(brts), Hrair Hratchian(doudouk), Xarah Dion(prepared g), Josh Zubot(vn), Marie Davidson(vn),Lisa Gamble(musical saw), Thierry Amar(bass), Jonah Fortune(bass), David Payant(dr,vib)
http://www.pastelrecords.com/SHOP/matana-roberts-pl-674.html
「Time Out New York」選出による「The 25 essencial New York City jazz icons」で彼女は19位。ちなみに20位がTony Malabyだから、これはかなり高評価と言えるだろう(GSYBEの作品への参加は後から知った)。サックス奏者としてよりも、コンポーザー、サウンド・プロデューサー、ヴォイス・パフォーマーとしての力量を買いたい。大編成のバンドを切り回すだけでなく、歌でもラップでもない、枠にはまらぬ不定形な生々しい声の噴出(それは語りであったり、絶叫/悲鳴であったり、言葉にならないつぶやきであったり、いずれにしても切羽詰った危機的な流出にほかならない)を見事に組織し、聴かせ切る手腕は並大抵のものではない。流れの構築は自然と演劇的な場面転換を呼び込み、それゆえ音楽は時に「書割」として扱われるが、それでも単なる「劇伴」に堕さない強度と品位をたたえている。長大な作品の第1部ということだが、ポリティカル・コレクトネスの陥穽にはまることなく継続してほしい。

Not Two MW847-2
Gerard Lebik(tenor sax,contra alt clarinet), Arthur Majewski(trumpet), Jakub Cywinski(bass), Wojclech Romanowski(drums)
http://www.squidco.com/miva/merchant.mvc?Screen=PROD&Store_Code=S&Product_Code=13989&Product_Count=&Category_Code=
ポーランドはクラクフに拠点を置くNot Two Records関係から2作品を紹介したい。まずはピアノレスのクワルテットによるフリーな演奏。この張り詰めた冷ややかさ、凍てついた重苦しさはどうだろう。演奏は決して走らず、また、歩みを止めることもない。各楽器はみな口数少なに、だが、ずしんと腹にこたえる重みに満ちた言葉を、このうえない誠実さで語り出す。だからこそ、ふと遠くを見詰めたようなメロディアスなフレーズが、かけがえのない魅力をたたえて胸に迫るのだ。寡黙さの美学。彼らは、互いに命を預けあって十数年を共に過ごした炭鉱夫仲間のように、視線すら交わさず仕事にかかる。それでも信頼に裏付けられた阿吽の呼吸が、途切れることのない息の長いアンサンブルを生み出していく。〈黒人性〉を〈東欧性〉に置き換えたジャズとでも言うべきか。「世界音楽としてのジャズ」(ここで「世界」とは「世界宗教」と言う時のそれであり、ワールド・ミュージックのことではない)について思いを巡らせずにはいられない。

Multikulti Project MPT001
Joe McPhee(alt clarinet), Waclaw Zimpel(bass clarinet,clarinet,taragot), Pawel Szamburski(clarinet,bass clarinet), Michal Gorczynski(bass clarinet), Mikolaj Trzaska(alt&bass clarinet)
http://www.squidco.com/miva/merchant.mvc?Screen=PROD&Store_Code=S&Product_Code=14683&Product_Count=&Category_Code=
musicircus掲載の「2010年ベスト30」に選んだクラリネット・デュオInternational Nothingが、いささかのざらつきもない、ぬらりとした音の輪郭の不確かさを、組み紐にも似た抽象的な空間文様に結び付けていたのに対し、こちらのクインテットは陰りに満ちた息の長いメロディを操りながら、バス・クラリネットの軋轢に満ちた音色を多用し、ざらついた手触りとかすれた筆触を前面に押し立てる。屋外ステージでの録音なのだろうか、空気の動く気配が常にしていて、そうした熱のこもった息遣いに、くっきりとした輪郭を与え、5人の〈声音〉を浮き上がらせる。ことさらにソロをフィーチャーせずとも、縁の下の力持ち的なリフやドローンを担っていても、すぐにそれとわかる抑揚や〈声音〉がアンサンブルを骨太で豊かなものとしている。なお、Zimpelによるコンポジション「The Passion」(MPI011)も、Bobby Fewの砕け散るようなピアノの効果的参加もあって、実に魅力的な作品だったことを付記しておこう。

Alga Marghen plana-T alga036
Ghedalia Tazartes(voice,tape,electronics&etc), Raphael Glucksmann(voice)
http://www.meditations.jp/index.php?main_page=product_music_info&products_id=4868
Alga Marghenからの発掘・再発を2枚で1組として採りあげることにしたい(ちょっと反則)。まずはGhedalia Tazartes。「voyage a l'ombre」(1997)はノスタルジアの甘美な毒に首まで浸かった傑作だったが、その後10年の沈黙を経た「Hysterie Off Music」、「Jeanne」、「Repas Froid」、「Ante-Mortem」等の諸作品は、クリアで滑らかなデジタル・デヴァイスとの相性が悪いのか、若者に奉られるのが災いしたのか(Keith Roweはこのパターンですね)、いささか毒気が抜けて薄味になったように感じられた(「Ante-Mortem」の大道芸的ロック・ビートの空疎なこと!)。対して本作では、かつての臭気にまみれ、呪詛を振りまく彼が見事に帰還している(80年代初頭の未発表作品だが、同様の触れ込みの「Repas Froid」よりもはるかに優れている)。

Alga Marghen plana-P alga035
Michel Potage(voice,instruments), Jac Berrocal(tp,valve tb,Tibetan oboe,dr), Bernard Vitet(bugle,tp,reeds,vn,voice), Pierre Bastian(bass,Tibetan reeds,tp), Claude Parle(acc,reeds,voice) & etc.
http://www.meditations.jp/index.php?main_page=product_music_info&products_id=4869
仏フリーの文脈では、Jac Berrocalの協力者として知られるMichel Potageを中心としたセッション集‥‥と言うよりは彼のアトリエでの乱痴気騒ぎから断片を拾い集めて、彼のクールな語りをかぶせた超アート物件。老女の手の甲のようにささくれひび割れたアコーディオン、虫歯の穴をかき回すような金属質の軋み、古代祭儀を思わせる管楽器の不揃いな咆哮、日曜大工めいたジャンク・パーカッション‥と、とっ散らかった演奏は、外部の騒音と混ぜ合わされ、喧騒の度合いを増しながらも、決して熱くなることなく、斜に構えた洒脱/空疎/退廃を保ったまま青ざめた貧血の症状を亢進させていく。参加メンバー多数のため、有名どころに限定して表記。Daniel Deshaysが録音・編集を担当していることに注目。
2011-10-09 Sun
益子博之・多田雅範による四谷ティー・パーティの第3回がいよいよ決行される。NYジャズ・シーンの最前線に照準を絞り込んだ選盤にはいつも唸らされるが、特に今回は「わたしの年度代表盤にほぼ確定したスゴイ盤をかける。おれはこういうJAZZ演奏を待っていたのだ、21世紀に」(多田雅範)と言うのだから聞き逃せない。表参道「ECMカフェ」月光茶房店主の原田正夫氏推薦のジム・ブラックによる新譜「ソウマティック」(何とピアノ・トリオ!)もかかるらしい。そう言えば、益子は今年6月のNY滞在で、ブリガン・クラウス、モリ・イクエ、ジム・ブラックのライヴをリポートしていたなあ。Jim Black / Somatic
(Winter & Winter)

Briggan Krauss, Ikue Mori, Jim Black

photo:Hiroyuki Masuko
「辺境ジャズ」とか、「どマイナーな廃盤」というと、いかにも情報が少なくて貴重な感じがする。しかし、そこは情報社会。検索すれば結構情報は出てくるし、思いもよらぬブツがネット上にアップされていたりする。一方、「NYジャズ」というと王道も王道、だから情報なぞ腐るほどあると思いがちだ。実際調べてみると山のように情報が引っかかる。でも、よく見れば「コピペの嵐」なんだな、これが。レコード会社あたりが流したネタが増殖してるだけ。感想や評価をしたためているブロガーも、そうした情報に引きずられ、単に相槌打ってるだけだったりする。もちろん、そうでない価値ある情報、確かな耳がとらえた情報もある。それは否定しない。けれど、それらは大量のクズ情報に埋もれてしまって、見つけるのはなかなか難しい。
いま貴重なのは、見かけ上「希少な」情報よりも、そうした玉石混交、大量の情報の中から「玉」を見つけてくれる「目利き」の存在なのだ。とりわけ王道中の王道の中から。‥と言うわけで、「NYジャズ」の最前線に照準を合わせた四谷ティー・パーティの企図が活きてくる。長きに渡り定点観測を続ける「NYを見詰め続ける男」益子博之と、現在シーンの中核を成す面々の資質を早々に見抜き、見守り続けた「NYが認めた男」多田雅範のタッグは、まさに最上の「目利き」と言っていいだろう。
「タダマス」の2人がドラマーをゲストに、ドラマーのアルバムを語る第3回に、ぜひ注目したい。
masuko/tada yotsuya tea party vol. 03: information
益子博之=多田雅範 四谷音盤茶会 vol. 03
2011年10月23日(日) open 18:00/start 18:30/end 21:00(予定)
ホスト:益子博之・多田雅範
ゲスト:池長一美(ドラマー/作曲家)
参加費:1,200 (1ドリンク付き)
壊滅的な集客にもめげず、第三回を敢行します。内容は、2011年第3 四半期(7~9月)に入手したニューヨーク ダウンタウン~ブルックリンを中心とした新譜CDのご紹介です。ジム・ブラックを筆頭に注目すべき「作曲するドラマー」のリーダー作が目白押しです。
そこで今回のゲストは、ドラマーの池長一美さんにお願いしました。非常に美しい音色や響きを生み出すドラミングで知られていますが、独特のメロディ感覚を持つ作曲家としても大変魅力的な方だからです。今回も、豊富な経験に裏付けられた深いお話を引き出すべく、トークにじっくり時間をかけたいと考えています。お楽しみに。(益子博之)
詳細は次のページをご覧ください。
http://gekkasha.jugem.jp/?cid=43767
http://www.enpitu.ne.jp/usr/bin/day?id=7590&pg=20110930

2011-10-08 Sat
エオリアン・ハープ張られた弦を吹き抜ける風が振動させることにより、人が演奏するのではなく、自然に鳴りだす楽器で、ギリシア神話の風の神アイオロスにちなんで名づけられています。Aeolian Harpで検索すると画像や動画がいっぱい見つかります(「エオリアン・ハープ」で検索すると、この楽器の名前を愛称とするショパンの曲の関連情報ばっかり出てきてしまうので注意)。この「自動楽器」エオリアン・ハープを自分たちで作ってみようというワークショップが開催されます。もちろん、ひとりでつくって持ち運べるような小型のものですが、それでも結構鳴るらしいですよ。うまく鳴らすコツは風向きと風の強さにあるんだとか。橋の欄干のところとかがいいんだそーです。ということで、ご案内。なお、詳しくは「生成音楽ワークショップ」HP(http://generativemusicworkshop.wordpress.com/)をご覧ください。
エオリアン・ハープ制作ワークショップ
黄金町バザール2011での展示「「聴く」装置としてのエオリアン・ハープ」関連企画として、10月15日に制作ワークショップを開催します。
参加者ひとりひとりが自分のエオリアン・ハープ(会場に展示してあるものの携帯版)を制作するワークショップです。この楽器を研究されている杉山紘一郎さんを講師に招き、この楽器が鳴る原理から制作のノウハウまでていねいに解説していただきます。制作のあとは自分のエオリアン・ハープを持って黄金町バザール会場をまわってみる予定です。
日時や場所、申込方法などの詳細は以下の通りです。
[エオリアン・ハープ制作ワークショップ]
日時:10月15日(土)9:00-16:00
場所:黄金町バザール2011会場 かいだん広場
対象年齢:小学生以上
定員:20名
料金:2,000円(材料費等)
申込方法:お名前、ご連絡先、人数をご記入の上、info@koganecho.net までメールでお申し込みください。
申込〆切:10月14日(金)
※応募多数の場合は申し込みを締め切らせていただくことがあります。
黄金町バザール2011:http://www.koganecho.net/koganecho-bazaar-2011/
黄金町バザール会場に展示されたエオリアン・ハープ。
もちろん、参加者が作るのはもっと小さいものです。

PHOTO:Yasuyuki Kasagi
2011-10-02 Sun
齋藤徹との共演というより、ぶつぶつとつぶやきながら歩き回る劇団員、建物の入り組んだ空間等、自らを取り巻く環境/外界との相互浸透をそのまま〈演奏〉した「春の旅01」(Scissors)の前人未到の達成をひとつの頂点として、その後も「Places dans l'air」(Potlatch)、「Strom」(Potlatch)、「Une Chance Pour l'Ombre」(Victo)等の優れた作品をリリースしながら、私にはどこかドネダが孤独を深めていくように感じられていた。それは息音の探求を通じて無名性の淵に身を沈めていく「Anatomie de Clef」(Potlatch)以降、「Sopranino/Radio」(Fringes)、「Montsegur」(Puffskydd)等に聴かれるソロ演奏がほとんど苦行にも似た禁欲的な厳しさを、ますますたたえるようになってきており(この傾向はクレジット上はトロンボーン奏者とのデュオ演奏ながら、事実上は風力発電用のプロペラの風切音へのドンキホーテ的挑戦である「Salsigne」(Puffskydd)へと、ついには至ることになる)、これに伴って共演者の顔ぶれもまた限定されてきているように思えたからである。「誰もドネダには付いていけないのではないか」、「このまま世捨て人のように〈行〉を続けていては、やがてわれわれは彼の演奏を聴く術を失ってしまうのではないか」と、当時、本気で心配していたことを思い出す。実際、少なくとも録音作品としては、2005年3作品、2006年4作品(うち2作品は日本制作)、2007年1作品と来て、2008年のリリース作品は、ついにゼロとなってしまったのだった。その後、2009年になって、エレクトロニクスと共演した「Dos d'Ane」(Ronda)、Rohdri DaviesやPhil Minton等、豪華メンバーによる「Midhopestones」(Another Timbre)がようやく届けられたが、かつての彼を聴き知る耳には、いささか精彩を欠き、影が薄いように感じられたことを白状しよう(無論、その背景には共演者たちがドネダの演奏感覚を共有していないことがある)。そうした不安を打ち破ってくれたのが2010年になってから聴き、ディスク・レヴューでも採りあげた「Le Terrier」(Monotype Records) や「Kirme」(Improtest)だった。前述の過酷な探求を通じて開かれた地平は、すでに熟成して自家薬籠中のものとなり、強度や鮮やかさをいや増しながら、突き詰めた息苦しさを和らげて、より生々しく(肉の手触り)、むしろ軽やかになった印象がある。ここでは、それに続く作品群をレヴューすることにより、彼の久方ぶりの来日を寿ぐこととしたい。

(nakatani-kobo kobo-1)
Tatsuya Nakatani (percussion), Michel Doneda (soprano & sopranino saxophone)
叩き、こすり、息を吹きかけ、ひっかき、撫で回す‥‥。中谷はマテリアルの表面に対し、〈触れる〉ことのスペクトルを端から端まで駆使して、猛烈果敢にアクトする。演奏のための身体各部の動作が、そのままマテリアルの表面で弾け、身体動作の軌跡と速度がそのまま空間に飛び散る。対してドネダもまた、リードの振動を鮮やかに突破し、鋭い息の流れを直接管の内壁にぶつけ、やはり乱流の軌跡と速度をそのまま空間に飛び散らせる。通常は倍音領域で繰り広げられるミクロな戦闘が、ここでは一気にマテリアル・レヴェルに引きずり下ろされ、乾燥した音の破片を互いに激しく打ち付けあう。打楽器/管楽器という発音原理の境界は鮮やかに消滅し、飛び交う粒子と表面の衝突/遭遇だけが耳を完膚なきまでに叩きのめす。ジャック・ライト(Jack Wright)を加えたフロム・ビトウィーン・トリオをはじめ、数々の共演を重ねてきたドネダと中谷ならではの〈直接性〉と速度/強度に溢れた交感。

(CON-V CNVCD-2011)
Alessandra Rombora (flute, tiles & ceramic objects), Michel Doneda (soprano & sopranino saxophone, radio, objects)
楽器の構造上、リードを有しないため、より直接的に管の空気にアクトできるフルートが、響きが管の内部に閉じ込められることにより減速を強いられ、ドネダの息音の切り裂くような強度に及ばないという逆説が当初明らかになるが、以降、ロンボラは懸命にも響きのにじみや希薄さを活用し、むしろ運動や速度よりも、周囲の空間の色合いや密度を操る戦略へと向かう。対してドネダもまた、時にリードを鳴らした音の質量や色合いの手触りを導入し、あるいはラジオを操作して、空間をより「中身の詰まった」雑色性のものへと変容しながら、彼との渡りをつける。そうした線から面、さらには空間の広がりへと至る交感と並行して、金属片を打ち付け、あるいはこすりあわせ、また陶片をかき混ぜる響きが、点から空間へと散布され、それらと交錯する。最後のトラックでは、後者の〈演奏〉が多くを占め、その結果、空間は極めて豊穣な、と同時に見通しの効かない混沌としたヘテロトピックなものへと至っている。

(Flexion flex_001)
Michel Doneda (soprano & sopranino saxophone), Jonas Kocher (acoordion & objects)
鋭く息をほとばしらせて沈黙の喉を掻き切り、管を絞るように軋ませて空間を縛りあげ、血のにじむ粘膜の震えやふつふつとたぎる唾液の泡立ちを拡大する。輪郭を持った声/響きに至る前に脆くも崩れ、揮発し、砕け散るドネダの「声のない」音響、速度そのものと化した気流の強度に対し、ヨナス・コッヒャーは蛇腹の底に沈殿しそうな低音のうごめきや、電子音を思わせる冷たく張り詰めた高音を、サウンド・インスタレーションのように空間に配置し、ドネダのアクションを冷静に浮かび上がらせる。途中、互いを切り刻むような寸断されたアクションの応酬(フリー・インプロヴィゼーションのひとつの定型)も聴かれるが、それもすぐに空間を励起する静謐な強度に場を明け渡す。圧倒的に過剰な力にさらされ、もはや限界を超えてぴりぴりと震えながら、そのような状況下で息と「ふいご」がこのようにひとつになり得るとは思っても見なかった。ドネダは理想的な共演者を新たに手に入れたと言えよう(年齢は親子ほどにも異なるが)。バルカンからトルコへと抜ける楽旅中、ブルガリアはソフィアにおけるひとコマ。サンドペーパーに刷られたアートな装丁も内容に似つかわしい。

(Another Timbre at42)
Michel Doneda (soprano saxophone & radio), Jonas Kocher (acoordion & objects), Christoph Schiller (spinet & preparations)
上記デュオにさらに一人を加えたトリオ。各演奏者の音は時に見分け難く、互いに互いを映し出しながら演奏は進められる。と言うより、ここで繰り広げられているのは、前もって存在する演奏者が互いに意見を述べ合ったり、剣を打ちつけあったりするような演奏ではない。むしろフットボールの試合で時折現れるあの奇跡的瞬間、ボールを巡る動き、パスを受ける動き、ゴールへと向かう動きが鮮やかに連動し、あらぬ方向に放たれたパスの行方に理想的なスペースが出現し、そこに先ほどまでは全く別のポジションにいたはずのプレーヤーが走りこんでいる‥‥に近い(あるいはアメーバや粘菌が見せる原形質の流動に)。その時眼前でまざまざと繰り広げられているのは、各プレーヤーとボールの動きというより、幾つにも分岐し渦巻く力の流動であり、いきなり顕現する意外性に満ちた運動の線の交錯/衝突であり、速度と濃度のまばゆい変容である。ふいごの漏らす吐息と管の内壁を擦れ合う気流と摩擦による金属弦の震えがひとつに溶け合ってたちこめる中から、霧にけぶる遠い山並みや、木漏れ陽のちらつきや、ふと振り返りそうなつぶやきや、遠くから吹いてくる風が姿を現す。彼らはフリー・インプロヴィゼーションにおいてはほとんど類例のないヘテロトピックな豊かさを、かつての「春の旅01」とは全く異なる仕方で達成して見せた。
【参考】

(insubordinations insubcd03)
Jonas Kocher(accordion)
ドネダとの素晴らしい共演作が2作続いている、若きアコーディオン奏者(1977年生まれ)のソロ第二作(エレクトロニクスを多用した第一作「Material」はCreative Sourcesから。ただし研ぎ澄まされた耳の強度は本作が遥かに上回る)は、スイスはベルンにおける「ズーム・イン」音楽祭の実況録音。冒頭、鳴り渡る鐘の音が会場にも浸透し、その豊かな響きを背景に演奏は始められる。本来、蛇腹の伸縮でつくりだした空気の流れでリードを鳴らすことを発音原理とする楽器が、ちょうどドネダが息音を奏するように、リードを震わせることなく、言わば〈風音〉だけで流れを生み出していく。それが響きを伴って不定形ににじんだ鐘の音と溶けあう時の美しさは実に見事なものだ。その後は、リードも鳴らしていくが、レーザー・ビームを思わせる高音の鋭さと水平な広がり、蛇腹の底にわだかまる地鳴りのような低音など、ちょうどRohdri Daviesがハープを取り扱ったのと同じ眼差しの下、アコーディオンを複雑に入り組んだ発音/共鳴体の集積と見なし、解剖学的に音響をピックアップし、アセンブルしていく。電子音楽的な音色/空間構築と、さらにそれをドライヴしていくパフォーマティヴな身体アクションの連鎖。特殊奏法にのみ耽溺したり、いわゆる「音響」へと痩せ細る(その時、それとは裏腹にコンセプトはでっぷりと太っていくのだが)のではなく、その場を果敢に蹴立てていく一瞬ごとの〈覚悟〉(それこそが即興演奏を根っこで支えるものにほかなるまい)を評価したい。
なお、another timbreのサイトで、「/// Grape Skin」に関する彼へのインタヴューを読むことができる(http://www.anothertimbre.com/page89.html)。
【再録】

(Monotype Records mono028)
Michel Doneda (soprano & sopranino saxophone), Olivier Toulemonde (amplified objects), Nicolas Desmarchelier (acoustic guitar)
筆と紙が触れ合うその一点で、穂先の運動と紙の抵抗とがせめぎあう。速度と力戦の変化に応じて、穂先を構成する毛の一本一本が流れ渦巻き散り乱れながら、墨の粘性とそこから分離する水の浸透と絡みあって、どっぷりと太く重く、あるいは軽やかに弾みさざめいて、かすれ、にじみ、揺らめき波打って、黒々と(あるいは淡々と)した軌跡を残す。
本作において、Toulemondeが奏するamplified objectの多くは、テーブルに物をこすりつける音をコンタクト・マイクで兼備行的に増幅したものであり、リズミックなリフよりも、常に変化し続けるざらざらとした肌理と接地面で交錯/衝突する多様な力動の手応えを、サウンドに提供している。Desmarchelierのアコースティック・ギターが生み出すのも、楽器各部が擦られ打たれた結果としての擦過音にほかならない(時折ミュートされた弦へのアタックが聴かれるものの)。そしてDonedaが主に奏でるのも、まさに管と息の、あるいは口腔と呼気の流れの摩擦が引き起こす気息音であり、これら三者がミクロな肌理/粒立ちの次元から、筆の運びが残すマクロな墨跡の次元まで、様々に干渉しあいながら表情豊かな音景を描きあげる。Toulemondeが専ら接地面に張り付き、サウンドの微細な突起や起伏を指先で探るのに対し、Donedaは息の特性を活かし、必要に応じて響きに希薄なふくらみをもたせるため、演奏はモノクロームな視界におけるマイクロスコピックなノイズの交感から、吊るされて微風に揺らめく紙に走らせる筆先/墨跡が、紙を織り成す繊維の交錯をその都度照らし出す場面まで、尺度の階層を自在に飛び移りながら進められる。少なくとも音盤に限っては、「春の旅01」以降、共演者に恵まれなかった感のあるDoneda(この間の彼の演奏の凄絶な道行きを思えばそれもまた有り得べきことではあるが)からの、久しぶりのうれしい便りである。【「ユリシーズ」4号掲載のディスク・レヴューより抜粋】

(Improtest Records IMPRTCD03)
Michel Doneda (saxophone), Taavi Kerikmae (piano)
2008年と2009年のいずれもエストニアでの共演を収める。Doneda の変幻自在の息音に対し、ピアノ弦に直接アクトして同種のサウンドを即時に引き出してみせる Kerikmae という前者における交感は、後者でさらに熟成を深め、いったんフリー・ジャズ的な音の身体の衝突(張り手を飛ばしあうような)を経由して、いきなり未踏の境地に向かう。断ち切るような鋭利な気息に応ずるは傾いだ船のみしみしという軋み。その後もピアノとは思えぬ軟体動物的な音響(ピアノ弦を直接素手で操っているようだ)が、世界をぐにゃりと歪ませ傾けていく。幾度となく沈黙をさしはさみながら、自らの足場を崩し傾けて、二人は一切の視覚的パースペクティヴを欠いたまま内臓感覚へと下降し、聴く者の身体の深層を疼かせる。【「2010年ベスト30」(musicircus掲載)より抜粋】