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福島恵一

Author:福島恵一
プログレを振り出しにフリー・ミュージック、現代音楽、トラッド、古楽、民族音楽など辺境を探求。「アヴァン・ミュージック・ガイド」、「プログレのパースペクティヴ」、「200CDプログレッシヴ・ロック」、「捧げる-灰野敬二の世界」等に執筆。2010年3~6月に音盤レクチャー「耳の枠はずし」(5回)を開催。2014年11月から津田貴司、歸山幸輔とリスニング・イヴェント『松籟夜話』を開催中。

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Diatribes(Cyril Bondi / D'Incise)+Jacques Demierre + Jonas Kocher来日情報2
Diatribes(Cyril Bondi / D'Incise)+Jacques Demierre + Jonas Kocher 来日情報2

■情報は昨日掲載したので、今日はメンバーの写真を大きなサイズで載せてみました。


 
Cyril Bondi




 
Diatribes(Cyril Bondi / D'Incise)





D'Incise




 
Jacques Demierre





Jonas Kocher



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ライヴ/イヴェント告知 | 23:02:21 | トラックバック(0) | コメント(0)
ヨナス・コッヘル来日!!  Jonas Kocher Live in Japan !!
 以前にブログ記事「ミッシェル・ドネダの近作群について」(http://miminowakuhazushi.dtiblog.com/blog-entry-130.html)でご紹介したアコーディオンの内部機構/気候に耳を澄ますエレクトロ・アコースティック世代のインプロヴァイザーにして、現時点でのMichel Donedaの最高の共同作業者であるJona Kochel ヨナス・コッヘルが来日する。

 実際にはdeatribesというCyril Bondiとd'inciseのデュオに、Jonas KocherとJacques Demierreが加わっての4名での来日となるのだが、実は私もImprovised Music from Japanの鈴木美幸さんから「Jona Kochel 来月に日本に来ますね」とうかがって「えーっ」と驚いたところなので、たぶん情報が充分周知されているとは言い難いだろう。「Jonas Kocherスゴイ!」と騒いでいるのは日本で私だけかと思ったら、さすがにそんなことはなくて、彼のソロ作品も結構注目を集めているようなので、少なくとも興味関心をお持ちの方に情報をお届けしようと、ここに告知記事を掲載することにした。
 日本語でツアー情報をまとめたサイトもなく、メンバー4人のHPの掲載情報も微妙に違っていたりするのだが、ここはツアーの軸になると思われるdiatribesの2人のHPからの情報を中心に整理することにしたい。
  

【来日メンバー】
 jonas kocher - accordion : http://www.jonaskocher.net
 jaques demierre - piano : http://www.jacquesdemierre.com
 cyril bondi - percussions : http://www.insubordinations.net/cyrilbondi
 d'incise - electronics objects: http://www.dincise.net

【ツアー日程】 ※現時点での情報。詳しくは各会場HP等を参照してください。
 3月5日(月)  東京阿佐ヶ谷 Next Sunday
           http://nextsunday.jp/
 3月6日(火)  東京四谷三丁目 綜合藝術茶房喫茶茶会記
           http://sakaiki.modalbeats.com/
 3月7日(水)  千葉稲毛 Candy
           http://blog.livedoor.jp/jazzspotcandy/
 3月8日(木)  京都 アーバンギルド
           http://www.urbanguild.net/
 3月9日(金)  滋賀 酒游館
           http://www.shuyukan.com/sakedelic/


 スイスのアート・カウンシルPro Helvetiaの支援によるツアーのようで、おそらくは日本側の招聘元がないため、ツアー全体の案内文やメンバー紹介のようなものは見当たらない。ここでは喫茶茶会記でのコンサート「四重奏、三重奏」の案内文(http://gekkasha.jugem.jp/?cid=42172)とフライヤーを転載させていただくとともに、多少、情報を補足することでご案内に替えることとしたい。

【ツアー案内文】
 世界中で演奏を展開するスイス人デュオdiatribes(cyril bondi+d'incise)を中心にし、ピアノ奏者jaques demierreとアコーディオン奏者jonas kocherが参加した四重奏が初来日致します。東京からは即興ギターの名手、秋山徹次さんとエレクトロニクスとギターを駆使し或る種アコースティックな音質を追求する原田光平さんと、茶会記で独演・即興の会croisements (東京版)を主催するsound performer松本充明が三重奏として演奏します。
 jonas kocher - accordion : http://www.jonaskocher.net
 jaques demierre - piano : http://www.jacquesdemierre.com
 cyril bondi - percussions : http://www.insubordinations.net/cyrilbondi
 d'incise - electronics objects: http://www.dincise.net

 秋山徹次 - guitar : http://www.japanimprov.com/takiyama
 原田光平 - electronics, guitar : http://www.kouheiharada.com
 松本充明 - prepared sitar : http://www.4-em.org

(L,S room)
2012年 3月 6日(火) start 20:00
¥2,500(including 1 drink)
新宿区大京町2-4 1F
お電話 03-3351-7904
メール sakaiki@modalbeats.com

ライヴの案内フライヤー
※クリックすると拡大されます


喫茶茶記案内図



【補足情報】
 来日メンバー4名による編成の録音はないのだが、次の編成での録音は試聴や無料DLが可能なので、ぜひアクセスしてみていただきたい。ご覧いただければおわかりのように、insuboardinations(netlabel)がdiatribesの活動拠点となっているようだ。

diatribes & abdul moimeme
complaintes de maree basse
insuboardinations insubcd02
http://www.insubordinations.net/releasescd02.html
abdul moimeme(two prepared guitars,metalic objects,springs,cymbals,metronome)
d'incise(laptop,objects,various instruments,snare drums,bow,cymbals,gramophone)
cyril bandi(drums,percussions,bow,cymbals,objects,small instruments)




diatribes & phonotopy
partielle d'averse
insuboardinations insubcdr10
http://www.insubordinations.net/releasescdr10.html
d'incise(laptop,objects)
cyril bandi(drums,percussions)
phonotopy(tennis sythar,electric racket)




d'incise, ludger henning, jonas kocher, sciss
d'incise / henning / kocher / sciss
insuboardinations insubcdr11
http://www.insubordinations.net/releasescdr11.html
d'incise(laptop)
ludger henning(laptop)
jonas kocher(accordion)
sciss(laptop)



jonas kocher
solo
insubordinations insubcd03
http://www.insubordinations.net/releasescd03.html
jonas kocher(accordion)




michel doneda , jonas kocher
action mecanique
Flexion flex_001
http://www.flexionrecords.net/?page_id=97
michel doneda (soprano & sopranino saxophone)
jonas kocher (acoordion & objects)





michel doneda , jonas kocher, christoph schiller
/// grape skin
another timbre at42
http://www.anothertimbre.com/page89.html
michel doneda (soprano saxophone & radio)
jonas kocher (acoordion & objects)
christoph schiller (spinet & preparations)
※上記URLにJonas Kocherのインタヴュー(英文)も掲載。



Thee plus one
http://www.jacquesdemierre.com/threeplusone.html
jaques demierre(epinette)
charlot hug(viola,voice)
urs leimgruber(saxophone)
thierry simonot(sound)
※ライヴの記録映像



6ix
http://www.jacquesdemierre.com/6ix.html

jaques demierre(piano)
okkung lee(cello)
thomas lehn(analog synthesizer)
urs leimgruber(saxophone)
dorothea schurch(voice,singing saw)
roger turner(percussion)
※ライヴ演奏からの抜粋



ライヴ/イヴェント告知 | 18:44:27 | トラックバック(0) | コメント(0)
ディスク・レヴュー 2011年ポップ・ミュージック選  Disk Reviews for Pop Music Favorites 2011
 【前口上】
 これまでの四半期ごとのディスク・レヴューで採りあげてこなかった、よりポップな視点から12枚のセレクションをお届けしたい。とはいえ、フリー・インプロヴィゼーションやフィールドレコーディングのように、関連レーベルやブログ等も押さえて、それなりに網を張ってチェックしている(それでも漏れは多いが)わけではないし、だいたいが幅が広すぎて、そんなことできるはずもない。好みによる偏りも当然あるので、ベスト・セレクションではなくて、あくまでフェイヴァリッツということでご理解いただきたい。なお、2011年リリース作品のみを対象とし、再発作品は初発時に極めて入手困難だったものだけに限定した。2011年になって初めて聴いて感銘を受けた作品ももちろん多数あるので、これは通常のディスク・レヴューの視点からの作品を含め、追って補足したい。
 なお、購入にあたり頼りにしている情報源は、信頼しているレコード店の入荷情報(作品紹介や試聴トラックを含む)と友人からの口コミが主。レヴューに付した試聴トラックもそうしたお店のものが主になっている。以下の各店には、この場を借りて改めて感謝したい(通常のディスク・レヴューで張っている〈網〉についても、以前に多少触れたが、いずれ詳しくご紹介したい)。
  Meditation http://meditations.jp/
  pastel records http://www.pastelrecords.com/
  p*dis http://www.inpartmaint.com/shop/
  Record Shop Reconquista http://www.reconquista.biz/
  Taiyo Record http://taiyorecord.com/
 なお、韓国ソウルではシンチョンの次のお店を愛用している。
  Hyang Music http://hyangmusic.com/



Mark Fry, The A. Lords / I Lived In Trees
Second Langage SL013
MarkFry(vocals,acoustic guitar,cello), Nicholas Parmer(Spanish guitar,piano,
harmonium,accordion,recorders,autoharp,bouzouki,clarinet,bells,percussion),
Michael Tanner(mellotron,12-string guitar,banjo),
Aine O'Dwyer(harp), Jess Sweetman(flute), Steve Bentley-Klein(viola,violin,cello)
試聴:http://www.pastelrecords.com/SHOP/mark-fry_pl-743.html
 アシッド・フォーク名盤『Dreaming with Alice』(1972年)で知られる(というより、ほとんどそれでしか知られていない)Mark Fryの新譜は、はかない期待をはるかに裏切る、驚くべき傑作となった。風にそよぐ葉ずれのように、心地よくさわさわと耳を撫で続ける細やかなアコースティック・サウンドには、マルチ楽器奏者Nicholas Parmerの多大な貢献が明らかだが、彼のソロ活動である Directorsoundと聴き比べれば、どうしてもジャンルの枠組みを参照して「それらしく」仕立ててしまう後者に対し、ここではMark Fryがそうした既成の枠組みには到底収まりきれないファンタジーの大樹を広げ、リスのように遊び心豊かなParmerの演奏力を、天まで伸びる幹、生い茂る枝々へと解き放っていることがわかる。ゆったりとしたヴォーカルと演奏の息遣い、歌詞からサウンドの入念なつくりこみ、蛇腹状態に折りたたまれ、開くと夕陽に照らされた木がするするとお月様まで伸びていくジャケットの意匠(中には種子の入った小袋まで封入されている)、イラストレーションに丁寧に描き込まれた小動物たち‥‥この作品いっぱいに詰まった「小さきものへの愛情」にAnthony Phillipsとの共通点を感じる(彼の音楽の最良の瞬間がここにも確実に存在している)。

※蛇腹状のジャケットを開くと下のように‥




Aspidistrafly / A Little Fable
Kitchen Label KI-007
April Lee(vocal,acoustic guitar,glockenspiel,programming, string arrangement),Ricks Ang(electric guitar, programming),Kent Lee(electric bass),Janis Crunch(piano,chorus),Junya Yanagidaira(piano),Hongayoko(piano),Akira, Kosemura(piano),Haruka Nakamura(guitar),Wakako Hanada(violin),Nina Furukawa(viola), Fumiko Kai(viola),Segen Tokuzawa(cello),Kyo Ichinose(string arrangement)
試聴:http://shop.ameto.biz/?pid=37518097
 シンガポールの男女2人組による作品。滞日中に録音され、日本人ミュージシャンが多くサポートしている。ささやくような歌声。さざめく音彩。陽だまりの暖かさ。隅々まで行き届いたアレンジメント。水彩とチョーク。頬に風を感じ、ふと視線を上げるとまぶしさのない穏やかな眺めが窓の向こうに広がる。グループ名はジョージ・オーウェルの小説『Keep the Aspidistra Flying』から採られたというから「節度ある(羽目を外さない)夢想・冒険」といったところか。居心地の良いカフェか骨董店に流れるゆったりとした時間。セピアにくすんだアート・ブック仕様の装丁もまた愛らしい。

※アート・ブックを開くと‥     最後の頁に美麗なCDが
 



Federico Durand / El Extasis De Las Flores Pequenas
Own Records ownrec56
all melodies and field recordings by Federico Durand
試聴:http://www.pastelrecords.com/SHOP/federico-durand-pl-632.html
 クレジット通りにフィールドレコーディングされた環境音が多用されるが、それは〈外〉を手探るのではなく、ひたすらに〈内〉を見守り、その手触りを確かめるためだけに用いられる。浮かび上がる見たことのない風景。綿菓子のように溶けていく懐かしさ。思い出の糸をどこまでもさかのぼる音の魔法。聴き続けていたら現実感を喪失して、そのまま朽ち果ててしまいそうな、あまりにも危うい甘やかさ。現実逃避型フィールドレコーディング/セピア系アンビエントの極致。




Charalambides / Exile
Kranky Krank158
Christina Carter(voice,electric guitar,piano),Tom Carter(electric guitar, acoustic guitar, acoustic resonator guitar, electric piano,moog,bass guitar)
Helena Espvall(cello),Margarida Garcia(Upright bass)
試聴:http://www.pastelrecords.com/SHOP/charalambides_pl-717.html
ふらふらと震え漂う漂泊の響きを奏で続けて20年。音を絞り込んで移ろうべき余白を充分にたたえた本作は、タイトルからして彼らの原点/本質に回帰した感がある(現実喪失感の強さならこちらも負けてはいない)。Christinaのソロ『Original Darkness』のあらゆる輪郭を溶かす真っ白に輝く虚ろな闇(「白暗淵」と呼ぶにふさわしい)に比べ、こちらは霧状に重く垂れ込め虹のように弧を描くTomのギターが時の経過を引き延ばし、溶解の速度をずるずると遅れさせていく。2人の間に働く然るべきデュオの力学が、燃え尽きることのない活動を支えているのだろう。ハーディ・ガーディにも似た、チェロのノイジーにささくれだった倍音も効果的だ(1曲のみの参加ではあるが)。3:1の横長に区切られたグリッドに、画像をそれとはずらして反復したジャケットの意匠も素晴らしい。



Minamo / Documental
Room 40 RM443
Keiichi Sugimoto,Yuichiro Iwashita,Namiko Sasamoto,Tetsuro Yasunaga
試聴:http://www.pastelrecords.com/SHOP/minamo_pl-751.html
エレクトロニクスやコンピュータによるサウンドとアコースティックな楽器音等を共に活用することは、いまやポップ・ミュージックの現場で幅広く行われているのだから、エレクトロ・アコースティックな視点からサウンドを生み出すことを「実験音楽」とか「電子音楽」等のくくりでとらえることには賛成できない。その点でMinamoはポップ・ミュージックを演奏するグループだと言ってよいだろう(Mimeoの隣に置くのではなくて)。今回は原音忠実度の高いDSD 1bitレコーダーの導入により、彼らの生命線とも言うべきサウンドの質感が鮮明さを増し、よりナチュラルに響くようになった。さらにアコースティック楽器を多用し、前作で用いていたフィールドレコーディングによる環境音の使用を基本的に廃したことが、ここではプラスに働いているように思う。これはおそらく彼らの最終的な編集の感覚とも深く関わっているのだが、環境音という〈持続〉を排し、サウンドと沈黙の差異をきっぱり際立たせたことが、空間の響きに対する彼らの感覚の鋭敏さ/繊細さをより十全に引き出している。



Ben Frost, Daniel Bjarnason / Solaris
Bedroom Community HVALUR12CD
performed by Ben Frost & Daniel Bjarnason with Sinfonietta Cracovia
試聴:http://www.linusrecords.jp/products/detail/5934/
 タイトルはもちろんスタニスワフ・レムの傑作SFから。凍てつくほどに冷ややかな平坦さをたたえた弦のたなびきが、眠りを誘うようにゆっくりと潮を満たしては引き、プリペアド・ピアノがオルゴールのごとく時を刻む(本作が凡百の「ポスト・クラシカル」作品から一線を画すのは、この滑らかながらも覚醒した肌触りによる)。タルコフスキーがバッハ作品の使用に求めた高みを仰ぎ見る崇高さよりも、どこまでも水平に彼方を見詰める眼差し。そこに映るのは分厚いガラスの向こう側のモノクロームな風景であり、生々しい息遣いを欠いて後悔に沈んだ記憶であるだろう。



Balmorhea / Live at Sint-Elisabethkerk
Western Vinyl WEST092
Rob Lowe,Michael Muller,Aisha Burns,Travis Chapman,Kendall Clark,Dylan Rieck
試聴:http://www.pastelrecords.com/SHOP/balmorhea_pl-693.html
 ピアノ、ヴァイオリン、チェロ、コントラバス、ギター、ドラムの6人編成。各ラインのきっぱりとした彫りの深さ、力みなぎる描線の太さもあって、ポスト・クラシカルにくくられるグループによくあるふやけた微温湯加減は、ここには見られない。結構叩いているドラムがまったく浮いていない(バスドラムの強烈な響きが実に効果的)ことが、そのことを証明しているだろう。クラシカルな典雅さ/重厚さもさることながら、時折ヴォイスが導き入れるアメリカーナな空気が、このグループの本来の味わいなのかもしれない。ライヴ録音会場となった、ベルギーはゲントのエリザベート教会の極上の響きが、彼らの演奏をさらに力強いものにしている。



Julien Chirol, Ensemble Nord-Sud / Anya - L'Esprit Des Tambours Sacres
Music Unit ZZA 161803399
Julien Chirol(composition,direction,trombone),Ensemble Nord-Sud(vn,va,vc,cb,fl,sax,cl,tp,cor,perc,vo)
試聴:http://www.reconquista.biz/SHOP/AD1758.html
飛翔するフルート、うねる弦、咆哮する金管、ひたひたと畳み掛ける打楽器隊等によるアンサンブル(マリンバのソロが実に効果的)は、「聖なる太鼓の精」との副題の通り、アンリ・ルソーが描いた幻想のジャングルを思わせる。西アフリカ等に起源を持つキューバの民間信仰サンテリアの独自解釈とのことだが、音楽の組み立ては、バレエ音楽がプリミティヴな不定形の対象を取り扱う際に、多様な音楽言語/音響効果を引用・混交しながら、空間の推移とそこで舞い踊る複数のムーヴメントを統御する仕方(とてつもなく洗練されたモダニズムの暴力と野生のしなやかな優美さ)を思わせる。ストラヴィンスキーによるパレエ・リュス、NYコットン・クラブのデューク・エリントン、冨田勲による『(新)ジャングル大帝』等を参照のこと。



Viceversa En Octeto / Pulsion
レーベル/番号なし pulsion
Lucas Furno(violin), Juan Miguens(contrabass), Juan Pablo Saraco(electric guitar), Lautaro Greco(bandneon), Emiliano Greco(piano), Cesar Rago(violin), Ruben Jurado(viola), Adrian Speziale(cello)
試聴:http://taiyorecord.com/?pid=36934388
http://www.clubdeldisco.com/resena/354_viceversa_pulsion
 アルゼンチン・タンゴの新たな動向としてDiego Schissi Quintetoの先鋭的な演奏が注目を集めており、なるほどいかにも「ポスト・ピアソラ」的な無機質な怜悧さなど素晴らしいのだが、むしろViceversaの若さに任せた突っ走りぶりを買いたい。Greco兄弟を中心としたキンテートの楽器編成はSchissiあるいはピアソラとも同じであり、それにゲストの弦3人を迎えたオクテートも、SchissiのライヴDVD『Tangos:En Vivo』と同じである(ぜひ聴き比べてみて欲しい)。ヴァイオリンやバンドネオンの弾き込み具合に感じられる血の味の濃さ、アンサンブルの急加速/減速時の心臓の鼓動がひとつになるような「運命共同体」的とも言えるスリリングな一体感(Schissiのアンサンブルはもっと「車間距離」を確実に保って模範的)が聴きもの。



コハク / 消えた海、太陽と
pong-kong records 番号なし
miori(singing,guitar),Jules Marcon(bass),Eddie Corman(chorus,keyboard)
試聴:http://www.reconquista.biz/SHOP/PONGKONGKOHAKU1.html
 ポンコン・レコードと言えば「ゑでぃまあこん」のレーベルであるのは百も承知の上で、あえて彼らがサポートに回った「コハク」を採りあげるのは、ミノリのか細いが芯の勁さを秘めたまっすぐな声、近景を射通してはるか遠くを眺めやる眼差し、その場で(反動をつけず、溜めもなく、揺らぎもせずに)すっと立ち上がる歌の在り様、そして頭の中にそのまま流れ込んで静かに像を結ぶ言葉の簡潔な確かさ(「地図を描こう‥どこにもない街を」)による。おろしたての万年筆ですうっと引いた線のように水平なメロディをたどる、一歩一歩確かな足取りに、世界から電気がすべてなくなっても、この歌は残ると思わずにはいられない。



HAWAAII (하와이) / 티켓 두 장 주세요
SY01
Earip이아립 (vocal,guitar,xylophone,shaker)
Lee Ho Seok 이호석 (vocal,guitar,nmandolin,kazoo,tambourine)
試聴*:http://j1muzak.tumblr.com/post/11183001955/hawaaii-two-tickets-please
    http://www.youtube.com/watch?v=MtlVGxiPNnU
 ジャケットに映る女性ちょっとパンクな金髪/サングラス姿に反して、楽しげに「みんなのうた」やボサノヴァを弾き歌う韓国のフォーク・デュオ。ソウルで毎冬に開催されるレーベル・マーケットで購入したので、インディーズであること以外詳しいことはわからないのだが、何しろ女性ヴォーカル(Sweaterのヴォーカルらしいが、こっちの方がステキ)の天真爛漫な伸びやかさが素晴らしい。ハスキーなかすれを少しだけ帯びてジャズも似合いそうなのに、そうした憂いは表に出さずに、雲ひとつなく晴れ渡ったメロディを、もっともらしく気取ったポーズ(はしゃいだり、ささやいたり、アニメ声だったり、R&B風に揺らしたり、不思議ちゃんだったり‥)をつけずにあっけらかんと歌ってしまう自然体が、美しく健康的な素肌の魅力を最大限に引き出している。他の作品に比べ情報が入手困難と思われるので、「試聴*」欄には、彼らを紹介しているブログ記事(英文)とライヴ動画のURLを載せておくことにしたい。



Sandstone / Can You Mend a Silver Thread ?
Lion Production LION648
David Robert Scheirer(guitar,mandolin,vocals),Lourie Brounstein(guitar,vocals),Mario Grella(guitar,mandolin,vocals)&guests(flute,recorder,electric bass,drums,violin,viola,cello,piano,harpsichord)
試聴:http://www.youtube.com/watch?v=CbKNBszXKzA
   http://www.meditations.jp/index.php?main_page=product_music_info&products_id=21
 誰も手に取らないぐらいダサいジャケの中には、70年代に米国ペンシルヴァニアで夢見られた過去の英国の幻が魔法のように詰まっている。慎ましやかなハープシコードと弦、リコーダーのアンサンブルに柔らかなコーラスが重ねられる冒頭からすでに、トラッドからさらに古楽へと溯りつつ、〈いま/ここ〉とは異なるゆるやかな時が流れ始める。「祖母の嫁入り道具をしまい込んだ屋根裏部屋」に忍び込んだ子どもの、埃の積もった家具や黴くさいドレス、セピア色に退色したアルバム等を巡る、はるか彼方にまばゆく輝くあり得ない記憶への、束の間の夢の旅路。当時300枚程度のプレスだったものの再発作品。






ディスク・レヴュー | 22:11:44 | トラックバック(0) | コメント(0)
ディスク・レヴュー 2011年10~12月(第2部)  Disk Review Oct. to Dec. 2011 (part 2)
 【前口上】
 第1部に続いて、よりエレクトロ・アコースティックな視点からの7枚をお届けする。どうしても評文が長くなってしまうのだが、これはエレクトロ・アコースティックな即興演奏やフィールドレコーディングを素材とした作品が、そのサウンド自体を簡単に語らせてくれない(そこに肉薄するために様々な迂回を強いられる)ことが大きい。たとえばPatrick Farmer『Like falling out of trees into collectors' albums』(Consumer Waste 04)は、今回のレヴュー掲載作品に並ぶ優れた作品だが、その素晴らしさを言葉にする術をうまく探り当てることができず、結局採りあげるのを断念した(彼自身によるフィールドレコーディングに対する一見シンプルな、その実複雑に込み入った問題提起も原因しているのだが)。こうした試行錯誤を通じて、サウンドに対する描写分析の深化や新たな批評言語の開拓に努力していきたい。
 なお、以前に予告したように2011年のポップ・ミュージックからの選盤レヴューについても、追ってお送りしたいと思う。ご期待ください。

Patrick Farmer
『Like falling out of trees
into collectors' albums』
(Consumer Waste 04)





Haptic / Scilens
Entr'acte E127
Steven Hess, Joseph Clayton Mills, Adam Sonderberg
試聴:http://soundcloud.com/experimedia/haptic-scilens-album-preview
 盤を真空封入したラミネート・パック(Entr'acteおなじみのパッケージ)の裏側には、使用された音源がピアノや弦楽器、打楽器から、エレクトロニクス、ラジオ、CDプレーヤー、果てはワイングラスや様々な厚さの紙類まで50種類以上も記されている。そのことが如実に物語るように、作品は繊細緻密極まりないミュジーク・コンクレートとなっているのだが、音色の配合や空間への配分のみならず、切断と転換、音の軌跡の交錯と衝突への眼差しが行き届いていることにより、きめ細かなレイヤーの敷き重ねによるスタティックなドローン/サウンドスケープにとどまることなく、即興的な強度をたたえている。音がある眺めに収まりそうになると、そこに亀裂/隆起/陥没/断裂/流出/沸騰/析出/凝固/散逸/沈殿等が生じ、常に過剰さが景色を突き動かし、そこに絶え間ない生成流動を継起させていく。それゆえ、前もって枠組みとしての空間が先にあり、そこにアクターとしての音が去来するのではなく、音が現れ変形を遂げるたびに、新たに空間のモザイクが誕生し、歪み変形しながら、他のモザイクに侵食されて(あるいは侵食して)いくドラマがここにはある。通常のエレクトロ・アコースティックな即興演奏と比較するならば、サウンドの手触りこそさして変わらないものの、各演奏者の輪郭は役割分担のレヴェルですら全く見定め難くなっている(それぞれが持ち楽器であるハープとチェロを手放して、匿名的なエレクトロニクスとオブジェを操作しながら、サウンド特性の均質化がかえって役割分担の固定化を招くに至ったRhodri Davies, Mark Wastell『Live in Melbourne』(Mikroton cd10)と比べてみること)。


Ferran Fages / Llavi Vell
l'innomable
Ferran Fages(composition,acoustic guitar,contact mics,speakers)
試聴:http://www.ftarri.com/cdshop/goods/linnomable/linnomable-19.html
 虹色に輝く昆虫の群れが一斉に翅を震わせ始めたような何とも豊穣な響き(アコースティック・ギターの弓弾きの重ねあわせとフィードバックによると言うが、とても信じられない)が湧き上がり、ゆっくりと巡り、ゆるやかにうねりながら、空間を息苦しいほど強烈な香りで満たしていく。直感的に近いのはRaphael Toralがギターとエレクトロニクスから引き出した無重力感だが、そうした浮遊する透明性とは異なり、こちらは微細なちらつき、ざわめき、きらめきに満ちて、むしろ羽虫の群れがつくりだすランダムな、しかし結果として構築的な(蚊柱を見よ)運動性をたたえている。聴き進めるうちに音はさらに軋轢と緊張を増し、響きの只中に金属質の「芯」がしこり始め、その切り立った危機的な鋭さをますます募らせていく。ロック・アルバム並みに「play it as loud as possible」の表記が添えられており、音量を上げれば上げるほど音は底知れぬ深まりを見せ(聴き手を呑み込もうとするような)、さらに闇の輝きを濃くしていく。40分以上に及ぶ1トラックのみ。150枚限定。


Hiroki Sasajima / Bells
Ahora Eterno Recording AE005
Hiroki Sasajima(all sounds)
試聴:http://ahoraeterno.bandcamp.com/album/bells
   http://www.art-into-life.com/?pid=37846169
 フィールドレコーディングした自然/環境音をあまり加工しないフォノグラフィー(=音による〈写真〉)的な作家ととらえていた笹島裕樹には珍しく(?)、分厚いドローンが前面に展開されており、物音はその向こうで暗闇を透かし見るようにかそけき響きを立てるばかりで、ほとんど現実の音とは思われない。まだ幼い頃、海で遊んでいて気付かぬうちに浜辺から遠く離れてしまい、懸命にもがく足先に深みに淀む冷たい水が触れた瞬間の、重苦しくまとわりつき、粘っこく引きずり込むような、底知れぬ〈虚無〉の感覚がここには宿っている。美麗にきらめくドローン・アンビエントが多数を占める中で、この胸にのしかかる重さ(「金縛り」時の息苦しさを思わせる)はほとんど異様と言ってよい。これまで数作聴いてきた彼の作品で最も素晴らしい。やはり40分以上に及ぶ1トラックのみ。ちなみにベルらしき音は聞こえない。


Philip Corner / Coldwater Basin
Alga Marghen plana-C alga037
Philip Corner(water running from a fauset into a sink), Bill Fontana(microphone)
試聴:http://www.art-into-life.com/?pid=38096227
 Philip Cornerを初めて聴いたのは、同じAlga MarghenからCDリリースされている『On Tape from the Judson Years』だった。60年代初めに彼がアパートの台所のシンクの中で繰り広げたあれやこれや(激しい勢いで注ぎ込まれる水流、たまった水をかき混ぜる荒々しい手の動き、排水溝に飲み込まれていく渦巻き、調理器具や食器類が引っ掻き回され、その他何物ともつかない金属同士が衝突する‥)の極端に暴力的な切断/構成(テープ・レコーダーを壊そうとしているような荒々しいGO/STOP)に眼を見張った。John Zornの先駆と言うべきアイディア以上に、その耳による注視の比類なき強度に。本作品も同じく60年代の発掘録音であり、タイトル通り、台所のシンクに水を滴らせているだけの「演奏」だが、まるでストロボの点滅のように切断された瞬間の運動だけがクローズアップされていた前者と異なり、ここでは澱んだ薄暗さの下、外部からのトラフィック・ノイズや空調の音等に〈汚染〉され、ぼんやりと混濁し染みだらけになった、あるいは切り裂かれ穴だらけになった音響の混成体が、かつてのような〈切断〉を経ることなく、前立腺肥大でちょろちょろとしか出なくなった小便のように、じくじくと垂れ流すままにされる(水音が聞こえない間の「残尿感」のやるせなさと言ったら、もう‥)。これをパフォーマンスの記録としてではなく、エレクトロ・ァコースティックなサウンドとして、つまりはヘテロトピックな音風景として聴くところに、新たな可能性が開けていよう。


Juan Jose Calarco / Aguatierra
Unfathomless U06
Juan Jose Calarco(construction from fieldrecordings & etc.)
試聴:http://unfathomless.wordpress.com/releases/u06-juan-jose-calarco/
 人の移動、列車の振動、機械の作動、鳥の声、水のたゆたい‥継ぎ目なく次から次へと移り変わる音の景色。自らは状況に関与せず、陰からそっと見守るように視点を固定する多くのフィールドレコーディング作品とも、切断の跳躍と断面のカッティング・エッジを見せ付けるコラージュ作品とも異なる音素材への手つきは、実験映画作家ブルース・ベイリー(Bruce Baillie)の「弥撒(ミサ)」や「カストロ・ストリート」等の多重露出による特殊効果を思わせる、キメラ状に入り組んだ、「目覚めているよりもはっきりした夢」にも似た音世界が繰り広げられる。それはタイトル(aguatierra=waterland)通り〈水〉と〈陸〉が入り組んだ決定不能な二重性を表してもいるだろう。ゲニウス・ロキとも言うべき「その場所に宿る多層的な記憶やアウラ」を反映したフォノグラフィーをコンセプトに掲げるUnfathomless(この語自体が否定の接頭辞un-と同じく否定の接尾辞-lessをはらみ持つ二重否定語にほかならない)レーベルならではの作品と言えようか。250枚限定。


Joda Clement / The Narrows
Unfathomless U09
Joda Clement(composition, fieldrecordings)
試聴:http://unfathomless.wordpress.com/releases/u09-joda-clement/
 同じく音風景の多重化を扱いながら、こちらは霧に咽び、雨に煙り、夢にまどろんで、輪郭が幾重にもぶれ、にじみ、色彩もセピアに退色し、あるいは煤け黒ずんで、すでにかたちが定かでない。というより、いくら眼を凝らしても、薄明かりの中、「アイリス」(映画効果の)のようにところどころ影が映る程度でありながら、時折、陽炎のように立ち騒ぐざわめきの中から、妙にはっきりとした物音がコツンと響く。音の焦点を視覚像へと結ばせることにより風景を伝達しようとするJuan Jose Calarcoに対し、Joda Clementが徹底して〈像〉を回避し、茫漠とした気配だけを伝えようとするのは、この音景色の多重化が、彼が子ども時代に父親に連れられて経巡った、録音採集の旅の思い出と重ね合わされているからにほかなるまい。すなわちここでは、原像がすでに夢の曖昧さをたたえているのだ。アーティストが撮影した「その場所」の写真を、レーベルを主宰するDaniel Crokaert(彼はかのMystery Seaレーベルのオーナーでもある)が加工したジャケットもまた常に素晴らしい。Semperflorence, Triple Bath等と並び、いつかまとめて紹介したいレーベルだ。本作は200枚限定。


Antoine Beuger / un lie pour etre deux
Copy For Your Records CFYR008
Barry Chabala(guitar), Ben Owen(synthesized tones,field recordings)
試聴:http://cfyre.co/rds/
http://soundcloud.com/rfkorp/antoine-beuger-un-lieu-pour
 何事もない環境音がずっと背景に流れ、そこに時折(ことさらに間を空けて音数を「節約」した)ギターや電子音が無造作にかぶさる‥‥。しかし、以前にレヴューした同レーベルからのAnne Guthrieの作品において、彼女のフレンチホルンが訥々と奏でるバッハが、環境音の指し示す風景を画面外から伴奏しているようにも、あるいは彼女がその環境音の鳴っている同じ空間の中にいて、まさにそこで演奏しているようにも聞こえ、さらに環境音のミクロな起伏や突如として起こるアクシデントにそばたてられる耳が、決して流麗には進まないバッハの演奏にそのまま差し向けられることにより、響きが粒立ち、ことさらに微分化/異化しながらとらえられることになるという、巧みな仕掛けが組み込まれていたことを思い出そう。本作品でもあまりにも都合よくリズミカルに通り過ぎる自動車、様々に異なる排気音やまれに鳴り響くクラクション、あるいは大音量のカー・ステレオの与える差異/変化、聞こえてくる集団(様々な性別/年齢層)の声の響き具合、何か工事をしているのだろうか、作業の物音や機械の作動音の多彩さ等を考えると、環境音も巧みに編集/抜粋されているものと想像される。さらにギターやエレクトロニクスによるサウンドは、ただ長い間を空けて奏でられるだけでなく、ある時は突如として眼前に立ち上がって環境音のコンテクストを切断し、あるいは環境音の陰に(例えば機械の作動音の合間に)ひっそりと身を横たえる。そして環境音の中からも、自動車の通過音のゆるやかな繰り返しという基調モードから、突如として声や物音が立ち上がり、風景を異化してみせる。そうこうするうちに、たとえば車の通過する向こうに通りがかりの者の話し声や歌声が聞こえる時、手前に掲げられる電子音やふと投げ込まれたギターのストロークは、画面に添えられたサウンドトラック(伴奏音楽)のように聞こえてくる。おそらくは時間指定がもたらしたのだろう最後の断ち切られ方(突然訪れた死にも似た)も、フェード・アウトすることなく、そのまま現実の時間に暴力的に接続するためではなかろうか。こうした多重に入り組んだ決定不能な厚みをAntoine Beugerの作曲(状況設定)がもともと意図していたものなのかはわからないが、少なくとも本作品の演奏者たちは、明らかにそうした可能性を引き出そうとしているように思われる。「ただ疎らに音がなっているだけ」というWandelweiser派への理解は、単なる都市伝説に過ぎない。150枚限定。



ディスク・レヴュー | 00:11:08 | トラックバック(0) | コメント(0)
背景としてのヒューマン・ネットワーク  Human Network As a Background
 前回、当ブログに掲載した「『演る音楽』と『聴く音楽』の間」に対して、益子博之が早速に自身のブログで反応を返してくれている(『益子博之のうたかたの日々:「知っていること」「知らないこと」と、「見て/聞いてしまうこと」「見えて/聞こえていないこと」と』 http://gekkasha.jugem.jp/?cid=43768)。議論を採りあげていただいたことに感謝するとともに、今回はこれについて多少補足することにしたい。


 先のブログで彼は、主として私が「ミュージシャンによる作品選定の背景にミュージシャン同士の人間関係を見すぎではないか」との旨を記したことに対して、なまじ「知って」いると「見えた」気になってしまう‥と自省したうえで、あらかじめ知っている/身に着いている情報や枠組みが、いかに知覚/認知に影響を及ぼすかについて、自論を展開している。

 ミュージシャン同士の人間関係が、ミュージシャンによる作品選定に背景として影響を及ぼすのは、言わば当然のことと言える。実際、自分自身あるいは自分のグループのメンバーが参加した作品しか挙げていない者もいる。また、一見、全く異なる作風の演奏をしているミュージシャンの間に共演のネットワークが張られていることも少なくない。たとえば、前回、ジャズから遠い存在の代表として挙げたMike PrideはNate Wooleyと別バンドをを組んでいたことがある(Nate WooleyはPeter Evansと共に現在のNYシーンを代表するトランペット奏者だろう)という具合。ここにNYの演奏者ネットワークの健全な脱領域性を見ることもできよう。その意味では、私の読みは所詮「裏読み」に過ぎない。

 むしろ私があそこで「背景にミュージシャン同士のネットワークを見ること」をあえて問題視した理由は、日本国内では音楽に限らず様々なシーンで、アーティスト間のネットワークというより露骨に言えば社交/交友関係等の人間関係だけで、すべてが語られてしまいがちだからである。そのような理屈に慣れた/染まった読者は「ああ、NYも結局は人間関係なのね」で終わってしまうのではないか。「現地へ赴いて現場を肌で知っている」益子博之が言うんだから‥と、むしろ益子の本来の意図が曲解されてしまうのではないか‥と不安に思ったからだ。

 NYのシーンの動向を人間関係だけに解消することなど、もちろん出来はしない。いまさら「人種の坩堝」と耳タコの表現を持ち出すまでもなく、人種の違いがあり、宗教の違いがあり、政治志向から性生活のパートナーの選び方まで幅広い文化や価値観の多様性があり、それらが公然と表明されている場合も多い。クラシックをはじめ「○○界で成功するためにはゲイでユダヤ人でなくては‥」と噂されているのも確かだが、もちろんそれだけではあるまい。

 別に「誰にでも平等に機会が開かれている」などと、色あせたアメリカン・ドリームを今更持ち上げようと言うのではない。ただ、何かを人間関係に解消しようという目論見は、これらの大小の差異にぶつかってあえなく破綻するであろうことを指摘したいのだ。逆に言えば、「ニッポンの○○」式の日本国内のシーンの整理が人間関係論だけで出来てしまうのは、それらのシーンの構成メンバーの〈均質性/等質性〉が前提として共有されているからにほかならない。つまりは所詮、狭く閉じた世界の中で繰り広げられるオママゴトに過ぎないのだ。


【MIKE PRIDE 七変化】


Mike Pride(dr)とNate Wooley(tp)が共演する「Evil Eye」


フォノグラフィーにも関わるMarcos Fernandesと共演


グループ名もスゴイし、中央の本人もブラック・メタル風


Mike Prideがゲスト・キュレーターを務め、
Bunda Loveで出演するイヴェントのフライヤー


Mike Prideと日本人ヴォーカル/ギターの絶叫ノイズ・ロック
なぜかこれにもNate Wooley参加


Bunda Loveにもゲスト参加するJamie Saft(key)とMike Prideのデュオ
グループ名も過激だがサウンドもノイジー


これはブルース・バンドだそう。グループ名はお菓子の名前なのに。

批評/レヴューについて | 23:45:25 | トラックバック(0) | コメント(0)
「演る音楽」と「聴く音楽」の間  Between "Music to Play" and "Music to Listen to"
 益子博之が自身のブログ『益子博之うたかたの日々』(*1)で、「地球の裏側と、地球のこちら側と」と題し、南米アルゼンチンの音楽サイト”El Intruso”による2011年ベスト選を紹介している。そこでとても興味深いのは、ミュージシャンによる投票結果と批評家による投票結果の両方が示されていて、その内容が結構異なっていることだ。今回はそれについて考えたことを簡単に記してみたい。
 *1 http://gekkasha.jugem.jp/?cid=43768


1.ミュージシャンによる投票結果

 まず驚かされるのは投票に参加しているミュージシャンの顔ぶれの多彩さだ。益子が指摘しているように「ジャズ」というくくりではなく、「New Creative Music」と冠されていることもあるのだろうが、確かに通り一遍「ジャズ・ミュージシャン」でくくれる面子ではない。というのは、ジャズには全然詳しくない私にも明白に「非ジャズ」系とわかる演奏者が、多数含まれているからだ。
 たとえばAndrea Centazzo。無調ジャズの先駆者Giorgio Gasliniのグループの元メンバーだったのは確かだが、どちらかと言えばDerek Bailey, Evan Parker, Steve Lacy, Alvin Curran, John Zornらとの共演作を自身の主催するIctusレーベルからリリースするフリー・インプロヴィゼーション畑の演奏者だろう。ポルトガルの誇る名ヴァイオリニストCarlos Zingaloの名前にふむふむと頷きながら、自身のアンサンブルを率いて意欲的なコンポジションに挑戦するなど、密かに注目していたハンガリー出身のSzilard Mezei(vn,va)の名前が挙がっているのには驚かされた。Anthony Braxtonの下で研鑽を積むJason Kao Hwang(vn)もいるし。そうやって見ていくと、やはりインプロ畑のJohn Butcherあたりは、むしろ当然のように思えてくる。それでもJason Kahn(per,electronics)の音響作品にフツーのジャズ・ファンは顔をしかめるだろうし、Tony Conrad等との共演作があるC.Spencer Yeh(vn,vo,electronics)の奇天烈なノイジーさには眼を白黒させかねまい。ましてやMike Pride(dr,vo,electronics)率いるBunda Loveの騒々しいお下劣ぶりは悶絶死モノだろう。そしてWandelweiser流のコンセプチュアル・ミュージックからより美麗なサウンドスケープへと転じたコンポーザーMichael Pisaroまでが名前を並べている。日本で対象者を選定・依頼するとしたら、こうした広がりはとても望めないのではなかろうか。
 選ばれた作品の多彩さもなかなか一筋縄ではいかない。実はNY系の作品は、ほとんど益子博之/多田雅範の選出したベスト10やその他注目盤と重複していて、彼らの耳の確かさを世界水準で立証するものとなっているのだが、他にはP.J.Harvey, Radiohead, Bjork, Tom Waitsなど、結構ロック系が入っている。ちなみに、5票以上を集めた21作品中、私のレヴュー対象作品との重複は1枚(Farmers by Nature)のみ。うう‥(T_T) これには先に挙げた「異端」の連中が1作品しか挙げていなかったり、フリー・インプロヴィゼーションやフィールドレコーディング等に積極的に投票していないこともあるのだが。

  
    Andrea Centazzo        Szilard Mezei         Jason Kahn

  
     C.Spencer Yeh           Mike PrideによるBunda Love(CD,DVD)


2.「演る音楽」と「聴く音楽」
 
 さらに各ミュージシャンが何を選んでいるか見ていくと、Kate BushにAC/DCにJohn Cageに‥ともうバラバラでますます面白いのだが、これが何を意味しているかと言えば、原田正夫が2月7日に自身のブログに記しているように(*2)、「演る音楽」と「聴く音楽」の分け隔てのない地続き状態ということだろう。このことはその記事がレヴューしている「タダマス4」にゲストとして招かれたドラマー橋本学が「ミュージシャンもまた音楽を聴く時は1人のリスナーに過ぎない」と発言して裏付けていた。彼はまた「演奏している時って、必ずしもフレーズがこう‥とか、コードがこう‥って言う風に〈音楽的〉に考えているわけじゃなくて、もっと視覚的なイメージを思い浮かべていたり、あるいは「ちょっと暗くなってきたから、もう少し明るくしよう」とか、そんな風に考えていることもある」旨の発言もしていた。
 それでは「演る音楽」を持つミュージシャンたちは、「聴く音楽」をどのようにとらえているのだろう。もちろん「ミュージシャンもまた‥‥」は絶対の真理なのだが、おそらくそれでは事は済まない。
 益子は先のブログ記事の中で、誰が誰を評価しているか、誰が誰と近いか‥といったミュージシャンのネットワークを、その背景に見立てているようだが、果たしてそれに尽きるものだろうか。むしろ、ミュージシャンと言う音楽のフィールドの中をどこかへ向かって移動している人種が、他の音楽(あるいはミュージシャンないしはサウンド)とすれ違ったり、傍らをすごいスピードで追い抜いてあらぬ方向へ舵を切ったり、あるいは反対に相手の進路を横切ったりする時に、「おや」とか「へえ~」と思うのではないだろうか。「おや、面白いじゃないか」とか、「おや、勢いがあるな」とか、「へえ~、こんなの見たことないぞ」とかいう風に。それはミュージシャン同士の直接のつながりを必ずしも前提(あるいは結果)としない。ポイントは〈移動〉中に〈遭遇〉することにある。だからこそ〈知識〉や〈情報〉としてではなく、〈体感〉として刻印されるのだ。
 *2 「masuko/tada yotsuya tea party vol.04」http://timbre-and-tache.blogspot.com/#!/2012/02/masukotada-yotsuya-tea-party-vol04.html


3.批評家による投票結果

 ミュージシャンによる投票が基本的に作品部門だけであるのに対し、批評家による投票は、ミュージシャン、作品、楽器別演奏者など細かく分類されており、また、1作品しか投票しない者も見られた前者と異なり、みんな律儀に投票している。その上位作品を見比べてみると面白いことがわかる。

 【ミュージシャンによる投票結果】
1位 Craig Taborn / Avenging Angel
2位 Tyshawn Sorey / Oblique-I
3位 Julius Hemphill / Dogon A.D. (re-edition 2011)
4位 Anthony Braxton / Trillium E
4位 PJ Harvey / Let England Shake
4位 Gerald Cleaver Uncle June / Be it As I See it

【批評家による投票結果】
1位 Peter Evans Quintet / Ghosts
2位 Bill Dixon / Envoi
3位 Craig Taborn / Avenging Angel
4位 Wadada Leo Smith’s Organic – Heart’s Reflections
5位 Mostly Other People do the Killing / Live in Coimbra

 一見するとCraig Taborn以外、全く一致しないように見えるが、再発作品であるJulius Hemphill『Dogon A.D.』とロック歌手であるPJ Harveyを除いて、なおかつGerald CleaverとTyshawn Soreyが批評家投票によるドラマー部門でダントツの1位・2位であること、またAnthony Braxtonが同じくコンポーザー部門で2位に入っていることを考えれば、両者は最初思った以上に重なり合っていることがわかる。と言いながら、後者の1・2・4・5位についてネットで音源を捜して聴いてみると、私のような門外漢にも「ああジャズだ。それ以外の何者でもない」と思わせるところがある。もちろん、それは単なる定型のなぞりなどではなく、ちょうど「電化」の時期へと至るマイルス・デイヴィスの軌跡のように、歴史を踏まえつつ、しかるべき〈発展〉の方向性を見定めた批評性(時として5のようにパロディックな)を確実にたたえてはいるのだが。
 でも、それは決定的にジャズに〈似て〉いる。「タダマス3」のレヴューで書いたような「ジャズにちっとも似ていないジャズ」になってしまう、あるいはいつの間にか〈ジャズ〉の境界を踏み越えてふらふらとどこかへ旅立ってしまう、さらにはそもそも〈ジャズ〉ではまったくないその外部から出発する‥‥といった可能性を感じさせない。おそらく批評家たちは前述のように、これまでのジャズの歴史を踏まえつつ、しかるべき〈発展〉の方向性を見定めて、未来のジャズがかくあるべき、かくあって欲しい「あらまほしきジャズ」(ヴェテランは相変わらず元気で、中堅はそれを乗り越えるべく意欲的で、若手は‥)をヴィジョンとして思い描き、それとの距離で作品を評価しているのだろう。過去に根ざした固定座標での評価(批評家)と移動する視点からの相対的な速度/運動(躍動)感覚あるいはフレッシュネスによる評価(ミュージシャン)。
 もちろん、彼らがジャズ批評家である以上、こうした営為はまったく正しい。だが私のような門外漢には、その正当性がとっても退屈なものに思えてしまうのだ。


4.オルタナティヴな評価軸を

 「それでは『音楽批評』の看板を掲げるお前はどうなのか」との自問を避けられまい。自分がレヴューしているような音楽、ジャズの近傍でもあるようなフリー・インプロヴィゼーションやフィールドレコーディング/サウンドスケープ等と総称される音楽、あるいはさらにその周辺等について、やはりあらかじ定めた固定座標で評価しているだけなのではないか‥と。もちろん、日々、更新を心がけてはいるのだが、それは世の批評を行う者の当然の努めでしかない。むしろ重要なのは、評価軸を新たなオルタナティヴにより複数化し、ずらしてみることだろう。
 私の場合、まず一貫して〈強度〉が評価の基準軸としてある(もっとも〈強度〉というヤツはなかなか他人に説明できるものではなく、描写/分析によって指差すしかないようなものなのだが)。通常フリー系だと次いで〈対話〉が重要視される(「楽器同士が互いにおしゃべりしているように聞こえればと良い演奏」という話)のだが、私の場合、John Zornたちの実践を踏まえて、この問題系について、衝突/交錯、散乱/散布、断片化/コラージュ(ブリコラージュ)、交換/速度、ランゲージ/ゲーム等の諸概念による置換/充実を図っている。
 さらに、Michel Donedaの苦闘の跡をたどり、改めてECMの諸作品やエレクトロ・アコースティックな即興演奏を再発見したり、あるいはフィールドレコーディング等と出会うことにより、空間/風景/遠近法(的構図の変容)、視覚/触覚、図/地、希薄化/充満、生成/流動/変形、視点の移動/体感の移動、多視点/多焦点/オールオーヴァー、コラージュ/レイヤーの重ね合わせ/ヘテロトピア、情報処理/情報消費(象徴的消費を含む)、メディア/媒介性/処理速度の違い、アフォーダンス/機械による知覚/視覚的(聴覚的)無意識‥‥といった問題系を、この間に出会った方たちからの豊かな触発もあって、強く意識するようになってきたのは、これまでブログで書き進めてきた通りだ。
 これらの問題系については、最近になって、モダニズム絵画の空間/視覚論とそこからはキッチュと見なされがちなシュルレアリスムの空間/視覚論が、大きな思考のヒントになるのではないかと考えている。だから、いよいよ開催されるジャクソン・ポロック展はとても楽しみにしている。

 さて、最近、もうひとつ興味関心を抱き始めたこととして、〈プリミティヴ〉ということがある。もともとトラッド・ミュージックからMichel Doneda、さらにはギリシャ正教アトス山の典礼等を結びつけて〈野生の音景〉などと言っていた時から頭に引っ掛かっていたのだが、シュルレアリスム周辺を〈掘り〉始めてますます気になりだし、ついには次に掲げるような音楽作品にも行き着いて、プリミティヴでなければ達することのできない(モダニズムでは行き着けない)優雅な洗練というものがあることを、改めて思い知らされた次第である(これらの作品についても、いずれディスク・レヴューをアップすることを宿題としておこう)。
 なお、ここで言う〈プリミティヴ〉とは「そうした問題意識に引っ掛かってくるものの総称」なので、ずいぶんと包括的で混乱した、およそ概念やテーマとは言いがたいものであることをあらかじめお断りしておく。「〈プリミティヴィスム〉と〈プリミティヴィズム〉」(大久保恭子)の違いも、ここでは全く意識していない。それゆえ下記のリストも現地録音による「純正な」エスニック・ミュージックなどではなく、レコード盤制作のための録音のアンソロジーだったり、人々に深く愛される歌謡だったり、遡行的な(幻想の)コミュニティ探求だったり、「アメリカの民族音楽だった」と名指されるような実験音楽だったり、フルクサス的なパフォーマンスだったりと、いささかとりとめがないことに注意されたい。

 Various Artists / The Rhythms of Black Peru (Secret Stash LP 273)
 Jesus Vasquez / Con la Guitarra de Oscar Aviles (Xendra Music XM-1039)
 Kelan Phil Cohran and Legacy / African Skies (Captcha Records HBSP-2X-010CD)
 The Mystic Revelation of Rastafari / Grounation (Recording Arts 2X604)
 Juma Sultan's Aboriginal Music Society / Father of Origin (Eremite MTE05456LP)
 Joe Jones / Joe Jones in Performance (Harlekin Art Records 01038)
 Angus MacLise, Tony Conrad, Jack Smith / Dreamweapon Ⅰ (Boo-Hooray SMRGS-1)
 Angus MacLise, Tony Conrad / Dreamweapon Ⅲ (Boo-Hooray SMRGS-2)
 Philip Corner / Piano Work (Slowscan vol.10)

  
The Rhythms of Black Peru      Jesus Vasquez    Kelan Phil Cohran and Legacy

  
  The Mystic Revelation        Juma Sultan's            Joe Jones
     of Rastafari        Aboriginal Music Society

  
    Dreamweapon Ⅰ        Dreamweapon Ⅲ         Philip Corner

 中井久夫は『分裂病と人類』の冒頭部分で、S(分裂病)親和性と強迫症親和性を対比させ、エティオピアを「私の知るかぎりもっとも非強迫的社会であったのではなかろうか」と記しており、もっとも強迫性の高いヴェトナム平地民の文化と比較している。後者の例としてヴェトミン軍の徹底した鉄道破壊(レールをジャングルに持ち帰り、土堤を崩し、まわりの水田と同じ高さにして稲を植えてしまう)を、前者の例として戸籍も結婚届もなく、外国人以外に対する殺人は、まず加害者・被害者の実在性が問題となってしまう(この辺は諸星大二郎の不条理な佳作「黒石島殺人事件」を思わせる)ことを挙げる。彼によれば「言語的な伝達に信を措かないこの社会の人々は、しかし、一瞥にして相手の信頼性を正確に把握秤量する比類ない直感力をもち、生のよろこびは、徹夜で踊り、ついには乱交するコーヒーハウスの夜々にある。わが国人からみれば怠惰とだらしなさの極致だろう。しかし、彼らの価値とするものは別のところにあり、生の甘美さもまた別のところにある。それを象徴するのは、一本の木から切り出され、一個の製作に数ヵ月を要し、もっとも幾何学から遠く、もっとも坐り心地のよい椅子である」とのことだ。
 中井の著作からの引用は極端な一例に過ぎないが、こうした〈プリミティヴ〉を巡る視線/思考が、新たなオルタナティヴとして、思わぬ補助線を引いてくれるのではないかと、目下のところ勝手な期待を抱いている。

      
中井久夫『分裂病と人類』  「黒石島殺人事件」収録の
                   諸星大二郎作品集


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ディスク・レヴュー2011年10~12月(第1部)  Disk Revivew Oct.to Dec.2011 (Part 1)
 【前口上】
 本来なら1月中に掲載すべき2011年ディスク・レヴューの締めくくりを遅ればせながらお届けしたい。‥‥と言いながら今回では終わらず、少なくとも3回以上に分けて掲載することをお許しいただきたい。これも2011年の締めくくりとあって、いろいろと漁った結果、紹介すべき作品が多くなってしまったためである(それでもトラッド系やECMなどなど、漏れは山ほどあるのだが)。
 とりあえず今回は「アコースティック・インプロヴィゼーション篇」ということで7作品を選定した。次回はよりエレクトロ・アコースティックな視点から、さらに次々回はこれら2つの領域にかまけていて全く紹介できないできたポップ・ミュージックの分野から、それぞれおすすめの作品を採りあげることとしたい。それらひっくるめての年間ベスト選は、昨年に引き続き多田雅範、堀内宏公両氏による音楽サイトmusicircusのご厚意で、そちらに掲載していただけることになった(記事がアップされた後、改めてURLをお知らせします)。この場を借りて感謝したい(いつもお世話になっております)。なお、2010年は自分のブログでディスク・レヴューをしていなかったので、ここぞとばかり30作品も掲載させていただいたが、今回は規定通りの10作品(+α)ということで。
 それでは早速始めることにしよう。


Kang Tae Hwan / Sorefa
Audioguy Records AGCD0031
Kang Tae Hwan(alto saxophone)
試聴:

 床に胡坐をかいて、床面に接しそうな低い位置に楽器を携える独特のフォームを編み出してから二十余年。その間にカン・テーファンが生み出してきた様々な様態の流動と充満-ちらつき、たゆたい、ひたひたと足元から満ちてきて、ゆらり揺らめいたかと思うと突如として沸騰し、裂け目から隆起して、空高く潮を噴きあげる-を、ここに聴き取ることができる集大成(2CD)。サイレンにも似た素早い回転の底の方から、ゆるやかにうねり脈打つ何者かがゆっくりと頭をもたげてくる。同じくノンブレス・マルチフォニックスを操りながら、倍音の上澄みを泡立たせるEvan Parkerとの違いはここにある。それゆえ限りなく引き延ばされた一音にも、一段抜かしで上昇下降する各音にも多声のざわめき(叫び、つぶやき、吐息等)がひしめいている。大河を思わせる一見滔々たる流れの内奥で複数の振動がせめぎあい、ミクロな戦闘が絶え間なく繰り広げられている様は、フィールドレコーディングが幅広く聴かれるようになり、ドローンが解像度の低いぼやけたミニマル・ミュージックではなく、刻一刻生成するものと認識された現在の方が看て取りやすいだろう。さらに凍りつくほどに透き通った最高音が日本刀のように張り詰めた弧を描き、リードの軋みが陽炎の如く背後で立ち騒いで、無重力状態で漂う複数の音色がにじむように溶け合う場面は、前回採りあげたThe Clarinetsの最良の瞬間をも凌ぐかと思われる。レーベル名通り録音もまた素晴らしい。音圧が増すほどに静けさが滲みてくるようだ。ともあれ必聴作品。


Christian Munthe, Christine Sehnaoui / Yardangs
Mandorla MAN CD002
Christian Munthe(acoustic guitar), Christine Sehnaoui(alto saxophone)
試聴:http://www.ftarri.com/cdshop/goods/mandorla/man-cd002.html

 沈黙を鋭く切り裂き、さえずり、ふつふつと泡立ち、弧を描いて、砕け散り、中空を漂い、あるいは低く地を這う多様多彩なサウンドを、直立させて捧げ持ったアルトからサンプラーなどとても敵わぬ速度で瞬時に引き出してみせるSehnaouiの演奏には、やはり多彩なサウンドを追求し(アルト・サックスをゲーム・コールズ=呼子笛の束に分解し尽くしてしまうほど)、それらを高速でパッチワークしてみせたJohn Zornが宿命的に背負っていた、あの加速へのオブセッションが感じられない。アナログなテープのパンチ・インではなく、デジタルなレイヤーの敷き重ねによるサウンドのミクロな起伏のあり方が、彼女にとってはもうデフォルトとなっているからだろうか。その演奏は、ナノ・レヴェルの微細構造をリアルタイムでスキャンしていくような冷ややかさに満ちている。同様の手触りはMuntheの演奏にも感じられる。発音体としてのギターに様々な視点/角度からアクトしながら、そこにはDerek Baileyのランゲージ感覚も、あるいはFred Frithの楽器のコントロールに対する万能感も見られない。あるべき点にあるべき音が置かれ、その強度が空間を変形しながらしかるべき起伏をつくりだしていく。素晴らしく鮮明な録音も手伝って、インプロヴィゼーションの〈解像度〉が一桁上がっていることに驚かずにはいられない。それは〈即興〉について回るミスティシズムの霧を晴らすものにほかなるまい。エレクトロ・アコースティックを経験したことで、より繊細に刷新された純アコースティックな即興演奏の姿がここにある。


Anthea Caddy, Magda Mayas / Schatten
Dromos Records dromos007
Anthea Caddy(cello), Magda Mayas(piano)
試聴:http://soundcloud.com/dromosrecords/sets/madga-mayas-anthea-caddy

 昨年のベスト30に選出した『Teeming』のデュオ、Magda MayasとChristine Sehnaouiが互いに新たなパートナーと組んで、ここでの揃い踏みとなった。ピアノの内部奏法やプリペアドをはじめとする特殊奏法を当然の前提として使い尽くし、微細な起伏を正確無比につくりだす冷ややかな手触りは、彼女たちにも共通している。違いがあるとすれば、ピアノ弦のうなりや筐体の響きによるくぐもった暗騒音、チェロの持続音と生々しく切り裂かれた空間の余韻等を介して、空間の広がりと奥行きがまざまざと感じ取れるあたりか。雪の結晶の如く、たちまちのうちに消え去ってしまうことが音を二人の間に留め、ピュアリティを確保していた『Yardangs』に対し、こちらの二人は長く尾を引く持続のうちに空間に侵食され、沈黙に蝕まれて劣化/腐食していく音すらも聴く者の眼前に突きつけて止まない。しかし、『Yardangs』が砂丘等に見られる風の浸食による隆起地形を表し、『Schatten』が影を意味する(カヴァーもタイトルを反映して、藍色の和紙に同色のヴィニールのオブジェを貼り付けた1点ごと異なる造形作品)というのも、何やら因縁深い。ともあれアコースティック・インプロヴィゼーションの最先端を示すデュオ2作である。


Hors Ciel [live] / En Sa Propre Nuit
Amor Fati FATUM 020
Benat Achiary(voice), Didier Lasserre(drums)
試聴:http://jazzaparis.canalblog.com/archives/2011/09/27/22103125.html

 バスク地方のトラッドを出自とし、Michel Donedaとの共演等で知られる即興ヴォイス界の伊達男Achiaryの新作は2011年4月パリ公演のライヴ録音。即興ヴォイスとドラムのデュオとなれば、叫びまくり叩きまくりの応酬という「悪しき定型」を予想してしまうが、彼らはそれを快く裏切り、能の謡いやギリシャ悲劇の朗誦、パンソリの胸を締め付けるような物語性、オペラティックな高揚、しめやかな悲歌に至るまで、超人的な集中で身体に過剰な負荷をかけながら歌い語るAchiaryに対し、Lasserreもまたほとんどシンバルとタム(ティンパニのように聞こえる)に限定して厳かに音数を絞り込み、終始張り詰めた舞台を現出させることに成功している。1枚ごとに絵の具をなすりつけた手描きジャケット(当然、1点ごとに微妙に絵柄が異なる)もそうした舞台に似つかわしい。


Greg Kelley, Olivia Block / Resolution
Erstwhile Records erstwhile 063
Greg Kelley(trumpet), Olivia Block(electronics,piano)
試聴:http://www.ftarri.com/cdshop/goods/erstwhile/erstwhile-063.html

ほぼ切羽詰った息音しか発しないトランペットを、プリペアドされ、あるいは内部を掻き回され、筐体を叩かれるピアノと、ざらざらしたコンクリートの床面にぶちまけられる木材やガラス瓶、メタル・チューブ等のせわしない響き(おそらくはエレクトロニクスに取り込まれたフィールドレコーディングによる)が窒息させにかかる(あたかも巨大なハイパー・プリペアド・ピアノのように両者は等価に奏される)。地を這いながら水かさを増すピアノの低弦の振動に、トランペットは金属板の震えをもって応答する。響きの上で類似性のあるLethe(桑山清晴)と異なり、彼らはあえてサウンドの次元に留まり、空間の広がりを決して重視しないため、響きが空間でとぐろを巻くような物質性(まざまざと触覚に訴える重みや手触り)はさして感じられないが、その代わりにトランペットの、とてもこの楽器から生み出されるとは思えない不可思議な響きが、このエレクトロ・ァコースティックな〈(抽象)空間〉に様々な速度/強度を注入して止まない。


Toshimaru Nakamura, John Buthcher / Dusted Machinery
Monotype Rec. mono041
Toshimaru Nakamura(no-input mixing board), John Buthcher(soprano sax,tenor sax,feedbach sax)
試聴:http://monotyperecords.com/en/mono041.html

 もともと通常の楽器音とは限りなく遠いところに位置している中村のサウンド(最近のソロ作品『Maruto』(Erstwhile)同様、ガサガサしたとても即物的な音色となっている)を、Butcherはその驚異的な模倣能力で捕獲しにかかる。距離をもって対峙し、相手を対象化しつつ、互いの輪郭を明らかにする代わりに、ここではいきなり相手の懐に飛び込み、渾然一体ひとつとなってサウンドを発する戦略が選び取られている。それゆえ向かい合う二人の演奏者は視界から消え去り、ひとつの音響機械の作動不良や各部の暴走が姿を現わす。3曲目でソプラノ・サックスが突然サイレンのようにけたたましく鳴り響いてからの殺伐としたやりとり(保護回路のパニック的な作動と聴こえる)や4曲目でのサキソフォンによるフィードバックとの肌をすり合わせての鋭敏かつ繊細な並走など実に素晴らしい。


Keiji Haino / Un autre chemin vers l'Ultime
Prele Records prl007
Keiji Haino(ether)
試聴:http://art-into-life.com/?pid=33329409
http://www.meditations.jp/index.php?main_page=product_music_info&products_id=6249

 灰野敬二が仏ノルマンディー地方の洞窟及び教会で行った無伴奏ヴォイス・ソロを、レーベル主催者で自身フィールドレコーディング作品も多く手がけるEric Cordierが録音し、場の空気を封じ込める。灰野のクレジットが「ヴォイス」でなく「エーテル」と記されているのは、彼らがそこに始原へと遡る灰野の霊的感応力を感じ取ったからだろう。少なくとも作品を聴く限り、演奏/録音のロケーションから想像するほど圧倒的な残響がたゆたうわけではない(その点、大谷地下採石場跡や地下貯水場とは異なる)。とはいえアコースティックな起伏に富んだ環境を率直に活かそうとすれば、まずは朗々と声を響かせればよいのだが、灰野は自らの武器のひとつである聖歌隊のボーイ・ソプラノにも似た澄んだ高音を、ここではほとんど封印しており、代わりに放たれるのはむしろ獣の唸りや咆哮である。私は灰野をまず何よりもヴォーカリストであると考えているが、彼の声による演奏は、何かを表現/表象するというより、声が息苦しいほどに充満し、あるいは跡形もなく蒸発しさって、匂いがたちこめるように空間を染め上げ/染み渡り、空間そのものと化すことにあるように思う。ここで彼は残響が空間を満たし、サウンドの充満が彼の身体を埋もれさせる前に、身体の内側から吐息を、唸りを、叫びを、嗚咽を、異言を、吠声を放つことにより、それらへの抵抗として在る身体の輪郭/限界をまず崩し去ろうとしているようだ(広々とした空間の片隅のちっぽけな窪みに、切れ切れに喉を鳴らしながら苦しげにうずくまる身体)。カヴァー及びリーフレットに掲載された写真は、みな素晴らしく美しいことを最後に付言しておきたい。


『Un autre chemin vers l'Ultime』
裏ジャケット写真


『Un autre chemin vers l'Ultime』
内ジャケット写真

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クラリネット・ルネッサンス-クラリネットを巡る耳の個人史から  Clarinet Renaissance-From Personal Ear History around Clarinet
 綜合藝術茶房喫茶茶会記での四谷音盤茶会の時だったと思うが、益子博之から「NYダウンタウン・ジャズ・シーンにおいてクラリネットが復権してきている」と聞かされて、私の脳裏にはすぐさま、昨年のベスト30に選んだクラリネット・デュオThe International Nothingのことが浮かんだ。まるで暗い水の中を泳ぎ回る黒い魚のように、暗がりからすらりと立ち上がり、輪郭をおぼろにしたまま、滑らかな肌をすり合わせる息遣いのアンサンブル。それからしばらくして、やはり四谷音盤茶会で益子が聴かせてくれたThe Clarinetsの演奏には、それと共通する今にもほどけてしまいそうな、あえかな手触りがあった。それは共演者の身体のアクションにアクションをもって応え、生み出されるサウンドはそうした反復強迫的なアクションの連鎖(マス・ヒステリー的な集合身体)の結果でしかないような「即興演奏」には望み得ない世界だ。そのとき私は、ここへと至るクラリネットの足取りを、私の耳の記憶を通じて改めてたどり直してみようと思った。


1.前史~Eric Dolphy

 とは言え、所詮は私の耳の記憶だから、それほど遠い過去まで溯るわけにはいかない。かつて、ジャズ・エイジの初期、Benny GoodmanやSidney Bechetが花形スターだったクラリネットの黄金時代については、知識としてしか知らないことを白状しよう。
 やがて音量/音圧に優るサキソフォンの誕生とビバップによる小編成化の浸透が、クラリネットをまばゆいフットライトから遠ざける。そうした中で、まるで古代生物のようにでかい図体をして、不器用にのそのそと這い回るバス・クラリネットが、マルチ・リードの一環としてEric Dolphyにより見出される。これ以降、この扱いにくい楽器が、まさに扱いにくいがゆえの潜在的可能性の豊かさによって、たとえば先鋭的なジャズやフリー・インプロヴィゼーションのシーンで注目を集めていくことになるわけだが、後で詳しく見るように、そうした後の探求とDolphyの演奏には根本的な違いがあることに注意しよう。ひとことで言えば、後の探求がメカニックな奏法の開発による表現領域拡大であり、そうした奏法/サウンドのモジュールの獲得であったのに対し、Dolphyのそれはそうした水平的な拡大ではなく、〈別人格〉としての新たなヴォイスの獲得/憑依だったのではないだろうか。彼にとって、アルト・サックス、フルート、バス・クラリネットは、それぞれ異なる仕方で世界と〈交信〉する〈交信機〉にほかならない。〈交信機〉が変われば、そこに現れる〈世界〉も様相を一変し、これに対する主体の在りようも変わってくる。だから『Charles Mingus Presents Charles Mingus』(Candid)に収められた「What Love」におけるMingusのベースとDolphyのバス・クラリネットによる不可思議なデュオが、「宇宙生物同士の会話」にたとえられるのはまったく正しい。ここでのDolphyの演奏は楽器の機能の新たな拡大に向かう代わりに、むしろジャズ的な語法の洗練(それはいかに振舞えばカッコイイかという膨大な決まりごとの集積である)を脱ぎ捨て、ジャズ・コミュニティで承認されているコミュニケーションのコードを放り投げた、サウンドのざらざらした(あるいはのっぺりした)生地を無様に露呈させるものとなっている。

  
『Mingus Presents Mingus』  Eric Dolphy on bass clarinet
                     後ろはMisha Mengerbergか


2.NYダウンタウン・シーン

 後の探求の例として、ここでは80~90年代にNYダウンタウン・シーンで進められたNed RothenbergやElliott Sharpによる実践に触れておこう。彼らはバス・クラリネットの豊穣な倍音や同様に豊かな楽器本体の共鳴/共振(これらは様々な表現可能性を開くト同時に、それだけ制御しにくく、音色を不安定にしやすい)に果敢にアクトし、特殊タンギングによる分厚い鉈を振り下ろすような破裂音や重音、尺八を思わせる極端な音の跳躍と鋭く甲高い響き、ノンブレス・マルチフォニックスによる濃厚な倍音の渦等を次々に獲得していった。これらの特殊奏法の獲得が、単に楽器の機能/表現領域の拡大にとどまらなかったことに注意を促しておきたい。すなわちRothenbergにおいて、それは広がりのあるサウンドスケープの中に高域/中~低域/破裂音やキーによる打撃音の対比と重音を含む構成を持ち込むための回路として機能したのだし、また、Sharpにおいてはオールオーヴァーな音響構築に打/弦楽器のみならず、管楽器による金属質の肌理を導きいれるための水路となっている。
 ここでひとつおさらいをしておきたい。彼らは(即興)演奏者であると同時に作曲家でもある「コンポーザー/パフォーマー」としてシーンに登場した。その背景には当時のNYダウンタウン・シーンが、従来の即興共同体が崩壊した後に演奏者間の交感をどのように成立させるかを模索していたことがある。互い異なる音楽的出自を持ち、それぞれにユニークな語法を個々に探求してきた演奏者たちを、「ゲーム・ピース」(John Zorn)や「コンダクション」(Butch Morris)といった規則によって構造化されたメディア空間において出会わせることが、とりあえずの解決としてもたらされた。シーンのメンバーたちは、即興共同体が崩壊し、これまで積み上げられてきた前述の決まりごと(イディオムもまたそのひとつである)が灰燼に帰した時に、楽器/サウンドをDIY的に解体/再構築すること(John Zornのゲーム・コールズ、Elliott Sharpの自作楽器、David Mossのジャンク打楽器、Christian Marclayのターンテーブル等)を彼らなりの再出発点とした。こうした解体によるサウンドの断片化と新たな文脈による再構築(コラージュ/ブリコラージュ)という方向性は、言わば演奏/サウンドの量子化=情報化の側面を有しており、もともとメディア空間と親和性が高い(さらにはその後のサイバー・スペースとも)。これによりシーンは「情報戦争」的な様相を呈し、ほとんど自滅的な消費の加速へとのめりこんでいくことになる。だが、少なくともその初期においては、この解体/再構築のパンクなDIY性が、情報消費の加速に対する一種の抵抗拠点たり得ていたように思う。すなわち、映像を早送りで眺めるような、距離を置いた一方的な対象化の眼差しの下での視覚的情報消費に対し、いちいち皮膚に触れ、指先にひっかかるような、距離を欠いて相互的な触覚による読み取り/書き込みとして。
 さて話を元に戻そう。バス・クラリネットの〈発展的開発〉の一方で、John Zornが「ラディカル・ジューイッシュ・カルチャー」と呼んだ界隈では、クラリネットは依然としてクレズマー・バンドの花形楽器だった。例えばThe KlezmaticsにおけるDavid Krakauerがそうした代表として挙げられるだろう。そこにはディアスポラにより様々な場所で生活することを余儀なくされたために、ユダヤ文化にしみこんだ多様な民族文化(主に東欧ということになるのだろうが)や大道芸、マーチング・バンドや結婚式や葬式の賑わいの遠い記憶が鳴り響いているように思う。こうしたクラリネットへと流れ込んだ過去の記憶の堆積については、また後で触れることになるだろう。
 実は当時、初期のChris Speedのクラリネット演奏も耳にしているのだが、Tiny Bell Trio等の東欧系マイクロ・ミュージック(硬い鉛筆で描かれたデッサンの感触)の一種として、こうした過去の記憶を投影しつつ、また読み取りながら聴いていたことを白状しておかねばなるまい。

      
  Ned Rothenberg   Ned Rothenberg『Trespass』   Elliott Sharp『(T)HERE』


  
   David Krakauer   David Krakauer's Klezmer Madness
                        『Klezmer,NY』


3.Luis Sclavis~Trio de Clarinettes

 実を言うと(告白ばかりだな‥)、私の「クラリネット初体験」はアンサンブル・タッシによるオリヴィエ・メシアン「世の終わりのための四重奏曲」である。もちろん、それ以前にクラリネットを聴いたことがないわけではない。幼稚園で「クラリネットをこわしちゃった」を歌い、小学校で「ラプソディ・イン・ブルー」を聴かされ、テレビでクラリネットをくわえた北村英治の姿だって見ているのだから。
 それでも、クラリネットという楽器が私の耳に改めて刻み込まれたのは、この作品を通してだろう。冒頭曲、クラリネットは輪郭を淡くして、薄闇に溶け込むように鳴り響き、遠くでカリヨンのようにおぼろにたなびくピアノの和音と、手前で時の流れに端正な刻み目をつける弦との間の空間を曖昧に満たす。およそ抵抗というものを感じさせず、空間ににじみ広がるように自在にかたちや容積を変え、時の流れを伸び縮みさせる音色。対して2曲目では、眼前で炸裂するピアノに続き、とてつもない危機を告げるかのように鋭く鳴り響くクラリネットは、谷を渡る角笛に、天使のトランペットに、弦アンサンブルの一員に見事になりすましてみせる。自分自身の個性/輪郭を浮き立たせず、背景に溶け込んだまま、何にでも姿かたちを変えてみせるトリックスター的な万能の語り手‥。私は久しぶりに出会ったクラリネットに対して、勝手にそんなイメージを持ったのだった。
 そうしたイメージが一瞬よみがえったのは、Louis Sclavisを初めて聴いた時だった。曲は「Duguesclin」(『Chine』(IDA)の冒頭曲)ではなかったろうか。乾いた風が運んでくる異国の気配。曲がりくねったフレーズが紡いでいく濃密なエキゾティシズム。さしずめアーラーブに当たりそうな前奏部分のゆったりした息遣いが、テーマ部分ではがらりと声音を変えて端正な口調となり、さらに続く急速調の即興部分では、音色は輝きと鋭さをいや増して、自らを切り刻みながら疾走し、振り返れば砂漠の逃げ水にも似たおぼろな像を結んでいる。次々と移り変わる場面転換に合わせて、鮮やかに生成変化を遂げながら、魅惑的な物語を紡ぎ続けるシェヘラザードの如き不可思議な語り手。あるいはソロ第1作『Ad Augusta Per Angustia』(Nato)のやはり冒頭に収められたライヴからのひとこま(「La Signification des Choix Musicax」)で、息つく暇もない早口の繰り返しを、そのまま続けてバス・クラリネットで「声態模写」し、満場の笑いを取るトリックスターぶり。
 当時でもSclavisの主楽器はむしろバス・クラリネットだったが、先に見たNYダウンタウン・シーンの演奏者とは異なり、それは確かにクラリネットと地続きの土地だった。トルコからバルカンを抜ける横軸とイタリアから北アフリカに至る縦軸を自在に組み合わせて仮想の「汎地中海音楽」をつくりあげていた彼にとって、クラリネットという硬い鉛筆や面相筆に似た「筆記具」はきっと使い勝手が良かったのだろう。ここで彼は、クラリネットに流れ込んでいる過去の記憶を想起しているのではなく、あくまでそうした過去の記憶を素材の一部として新たな物語を書き進めているのだ。
 Sclavis絡みでもうひとつ特筆すべきものに、クラリネット・アンサンブルの活動がある。まずはJacques Di Donato、Armand AngsterとのTrio de Clarinettes。90年のトータル・ミュージック・ミーティングのライヴ録音がFMPからリリースされている。現代音楽畑でも活躍する2人(この盤でもピエール・ブーレーズ「ドメーヌ」をデュオで演奏している)を引き込んで、クラリネットからバス・クラリネットはもちろん、コントラバス・クラリネットまで持ち出して演じる名人芸の数々は、もう「ごめんなさい」と平伏するしかないほど素晴らしい。
 同種楽器のアンサンブルという点では、すでにThe World Saxophone QuartetとRova Saxophone Quartetが70年代末から活動を始めており、Julius Henphil, Oliver Lake, Hamiet Bluiett, David Murrayとそれぞれ単独で活動する奏者が集ったソロ中心の前者と、グループでの活動がメインで構造的なアンサンブル演奏に基本を置く後者という二大類型
示されていたのだが、このTrio de Clarinettesはそのどちらにも当たらない。鮮やかな超絶技巧と卓抜なヒューモア、思いがけないひらめきに溢れた彼らの演奏は、楽器の同質性を基盤としながら、むしろそれゆえに明らかになる僅かな抑揚の差異や声音の違い、息のかすれや響きのにじみが、各人の〈声〉を交感不可能なものとしてしまうような地平を前提としている。これにより可能となる身体性を刻印された〈語り〉の卓越こそが、3人が共にクラリネットを携えて点描的なフレーズを投げ交わす中から、楽器を投げ捨ててヴォイスの応酬となる場面や、他の2人の寝息の上でか細く紡がれるオーヴァートーンといったパフォーマティヴな演奏を支えているのだ。
 興味深いのは、SclavisがTrio de Clarinettesとほぼ同時期にSilexレーベルの第1作Quintet Clarinettes『Music Tetue』にゲスト参加していることだ。汎地中海的なトラッド・ミュージックの先鋭的な探求を進めたSilexレーベルの偉業については、私のトラッド体験を披露した時に多少触れたが、あの程度ではとても語り尽くせるものではない。ここでもそれはさておいて、ブルターニュ・トラッドの演奏者5人で編成されたQuintet Clarinettesについてだけ述べておこう。彼らはトラッド曲を素材に演奏を繰り広げるが、メンバーにはErik Marchandのようにむしろ歌手が本職の者も含まれており、複雑な編曲や超絶技巧を駆使するわけではない。むしろ彼らの特色は、トラッドならでは特徴ある節回しや息遣い、あるいは痙攣するような素早いリフや甲高い音域での重ね合わせ等により、クラリネットという楽器の特質を変貌させ、クラリネットによるアンサンブルを様々な民族楽器を映し出すための〈鏡〉として用いていることだ(ただし、一部でtreujenn-goalなる民族楽器を使用している。これがどのようなタイプの楽器かは調べがつかなかった)。ここにはラディカル・ジューイッシュ・カルチャーの箇所で述べた「クラリネットに流れ込んだ過去の記憶の堆積」と響きあうものがある。ちょうど封印されたDNAが近親交配によってよみがえり、系統樹をさかのぼる「先祖帰り」を来すように、近代化以前の音風景がパノラマのように現れては消えていく。

  
   オリヴィエ・メシアン       Louis Sclavis『Chine』       Louis Sclavis
『世の終わりのための四重奏曲』                   『Ad Augusta Per Argustia』

  
  
  Trio de Clarinettes         Quintet Clarinettes


4.クラリネット・ルネッサンス

 部屋の隅の暗がりから漂う何者かの気配、暗い水の底から浮かび上がる巨大な影、輪郭の不確かな茫漠とした広がり、後頭部にのしかかる得体の知れない重さ、距離感のない曇り空、いつの間にか耳を塞いでいる空気の厚み‥。メシアン「世の終わりのための四重奏曲」でクラリネットに魅惑された私にとって、クラリネットの特質とは、ジャズ・エイジ初期に人々を熱狂させたピロピロと軽快に跳ね回るリード・ラインの明快さよりも、こうした薄暗く不確かな希薄さにあるようだ。そしてまさに、The International NothingやThe Clarinetsの演奏も、こうした領域に照準を合わせているように感じられる。
 Anthony Burr, Oscar Noriega, Chris Speedの3人により結成されたThe Clarinetsは2006年に第1作を発表している。BurrとNoriegaの2人はバス・クラリネットも奏するが、その演奏はバス・クラリネットがクラリネットに対して有する「過剰さ」に焦点を当てたものではなく、聴き取りにくいつぶやきにも似た低音のうごめきであったり、暗い水の流れを思わせるドローンであったりする。クラリネットにおいても、音色の希薄さが多用されており、たとえ素早いパッセージがあったとしても、それがスウィング・ジャズのように明確に独立したラインを奏でることは極めて稀であって、小鳥の羽ばたきが瞬間の痕跡を残す‥というような点描的な演奏が大部分を占めている。複数のクラリネットが素早く交差する場面でも、それぞれのライン、各人のヴォイスが際立つことはない。むしろそれらは多方向から同時進行で組み上げられた幾何学模様の印象を残す。編み上げられた組み紐や精緻なアラベスク模様が網膜に刻む鮮やかな残像。
 暗がり/沈黙になじみ、そこから少ない光量/息の量で素早く立ち上がり、また空間に溶けるように還っていく演奏は、閉管構造ゆえに偶数次倍音を持たず、波形上は矩形波になるというこの楽器について、明らかに特定の側面を戦略的に選び取っている。それがこの輪郭/距離感が曖昧で、背景に溶け込み、空間に溶け広がる甘味/苦味を感じさせる音色である。この選択はChris Speedにとって首尾一貫したものではないだろうか。彼のサックス演奏の特質として多田雅範が指摘する「不機嫌なトーン」、「棒読み」を私は次のように解釈している。ジャズにおいては、いかに振舞えばカッコイイかという細部の決まりごとの膨大な集積としてジャズ語法が、書道でいう「永字八法」のように定められており、あのフリー・ジャズの破壊的経験ですら、これを拡張こそすれ、廃棄することはなかった。
 これに対し、それらの細部に抗い、「一」の字の入筆から終筆に至る力と速度の配分、「はらい」の力の抜き方、「はね」の角度と長さ等々を組み替えてつくりあげたオルタナティヴがSpeedの「棒読み」ではないか。それは「フレーズからトーンへの転換」(益子博之)の一環を成すと同時に、「フォルムからマチエールへの転換」に相当している。クラリネットからイディオム的なフレーズを排し、トーンすなわちサウンドのマチエールの探求を進めた結果が、水彩絵の具の滲んだ広がりのようなThe Clarinetsの音世界ではないだろうか。The Clarinetsの演奏には、互いの響きの肌をすり合わせる、ただそれだけで成り立っている(触覚による反応の軌跡がミクロなフレーズをかたちづくる)と思われる場面が数多くあるが、サウンドのマチエールの露呈が触覚を招き寄せるとすれば、何の不思議も無い。
 こう考えていくと、John Zornがクール・ジャズやハード・バップを熱愛し、前述のジャズ語法をむしろスタイリッシュに強調したかたちでモジュール化し、自らの演奏に取り込んでいることとの対比には興味深いものがある。それはやはり伝統の中にいると自覚している者(Chris Speed)と伝統に憧れながらその外にいる者(John Zorn)の違いなのだろうか。

 NYジャズ・シーンでのクラリネット復権に対応するヨーロッパの動きとしては、Xavier Charles , Kai Fagashinski, Michael Thiekeらの活躍が挙げられるだろう。
 Xavier CharlesはJohn Butcher, Axel DornerとのトリオThe Contest of Pleasuresにより、個々の演奏者が対話を交わすと言うより、響きを溶け合わせ(各演奏者の輪郭はそれだけ曖昧になる)、その溶け合わせた響きを流動変化させる音響的なフリー・インプロヴィゼーションに先鞭をつけた。彼の近作『Invisible』では、気息音による演奏が管の内壁を舌で這い進むような鋭敏さをたたえながら、通常よくあるようなドローンへと至らず、素早く差し替えられ、キーの打撃音やタンギングの爆発、管の各部の共鳴と交錯しながら、細密なミュジーク・コンクレートをつくりあげている。そのスウィッチングの速度は C.A.Sehnaoui 以上と言えるが、彼女のような超高性能サンプラー演奏的な感触はなく、むしろ管の内部に渦巻く息のミクロな乱流に眼を凝らし、微細な変化をピックアップし続ける流体力学の研究者を思わせる。環境音に薄いレイヤーを敷き重ねる2トラック目の演奏は、対象空間を管の内部から部屋の内部へと拡大したものととらえられよう。ここではサウンドのマチエールの露呈が、痛々しくも鋭敏な粘膜/センサーの露出に結びつき、空間に震えるような神経網を張り巡らすに至っている。
 Kai FagashinskiとMichael Thiekeの2人はクラリネット・デュオThe International Nothingを結成し、暗闇に息づくような演奏を進めている。Ftarriからリリースされた作品を見てみよう。息を精妙にコントロールされたクラリネットは表面のざらつきを全く持たず、それゆえ輪郭の定かでない、ウナギのようにぬらりとしたとらえどころのないサウンドに至る。ここで2本のクラリネットは、暗い水の中を泳ぐ黒い深海魚のように(ジャケットに描かれた一見音楽と不似合いな図案は、このことの寓意なのだろうか)、その輪郭/所在を明らかにしないまま、ぬらぬらと絡みあい、するりとすり抜けながら、そのおぼろげな軌跡によって、解きほぐし難い空間的文様を編み上げていく。
 もうひとつ紹介したいのが、The International Nothingの2人がメンバーとなっているThe Magic I.D.である。The Magic I.D.はChristof Kurzmann(vo,computer)とMargareth Kammerer(vo,guitar)の男女ヴォーカルによるソング・ピースを演奏するグループで、神経質で気難しいエレクトロニクス奏者とばかり思っていたKurzmannが、案の定生真面目な声で歌うのも興味深いが(Kammererの情熱的でソウルフルな声と鮮やかな対比を成している)、さらに注目すべきはThe International Nothingの2人がデュオの演奏を、そのままソング・ピースに持ち込んでいることだ。もちろんオブリガードやリフレインを提供する場面もあるのだが、茫洋としたハーモニクスで空間を染め上げ、声にうっすらとヴェールをかけ、あるいは木漏れ日にも似たちらつく照明を当てるあたりは、これまでのソング・ピースの演奏にはなかなか見られなかった、声と楽器の関係性のあり方と言えよう。誰かかArt Bearsを例に引いていたが、確かにDagmar Krauseの凍てついた声にFred FrithとChris Cutlerがつくりだすざらざらしたノイズがかぶさっていく際の衝撃の余韻が、ここには鳴り響いているのかもしれない。

         
The Clarinets『The Clarinets』      The Clarinets
                     『Keep On Going Like This』

  
The Contest of Pleasures    Xavier Charles『Invisible』

  
The International Nothing         The Magic I.D.           The Magic I.D.
                     『Till My Breath Gives Out』  『I'm So Awake / Sleeples I Feel』

5.クラリネットの〈本質〉

 ここまで私個人の耳の歴史に沿って、クラリネット復権までを跡付けてきたが、こうしてたどり直してみて、仮初めに「クラリネット・ルネッサンス」と名づけてみた今回のクラリネットへの注目が、これまでの行われてきたバス・クラリネットの過剰さや過去の記憶の堆積といった、クラリネットの+α部分ではなく、そうしたものを削ぎ落としたクラリネットの〈本質〉へと向かうものであることが、改めて明らかになったように思う。その点でクラリネットへの注目は一過性の〈流行〉で終わることなく、底流に沈みながらも、ずっと継続していくことだろう。
 今回のたどり直しの中で用いた分析枠組みはまだまだ鍛錬が足りず、たとえば昨年6~9月分のディスク・レヴュー(※下記URL参照)で採りあげたJoe McPheeをフィーチャーしたクラリネット・クインテットIrchaによる『Lark Uprising』の魅力には、その刃が届かないところがある。そこで演奏者たちは、たとえばバス・クラリネットの軋轢に満ちた音色を最大限に活用し、あるいはクラリネットの上澄みを溶けあわせ、ため息やつぶやきにも似たちっぽけな響きを、そこかしこに配置して音楽を息づかせていくのだが(つまりは今回の分析はあちこちかすってはいるのだが)、同時に機関車のようなリフレインを多用した役割分担も駆使しているのであって、ここで音楽に豊かさをもたらしている魔法のような何かをひとことで名指し解明することなど、とてもできそうにない。少しだけ思うところを述べて、残りは今後の宿題としたい。
 ひとつありうるのは、クラリネットがサックスに対して本質的に持つサウンドの等質性/無名性の効果である。サックスが演奏の場に姿を現す際に、すでに演奏者の名を刻印された個性豊かな〈個人名のヴォイス〉を獲得しているのに対し、クラリネット演奏にはそうした差異は少ない。ましてや、フレージングを排したマチエール中心の演奏となれば、なおさらヴォイスは個人の署名を欠いた無名なものとなる。このことがクラリネット・アンサンブルが集合的なヴォイスを獲得するために役立っているのではないだろうか。
 ここで各クラリネットのヴォイスは、切り離された各個人としてソロに精出すわけでもなければ、無名性の中に完全に埋没してしまうわけでもない。声音の微妙な違いがアンサンブルに厚みをもたらし、無名性に軸足を置いていることがホケットにも似た一音ずつの投げ交わしによるフレージングを可能とし、屋外の開けた空間とあいまって、我彼の区別の無い祝祭的な空気を運んでくる。これは同種楽器による即興アンサンブルに特有の現象かもしれない(先に見たようにサックス・クワルテットには機能分化した先例がすでにあるわけだが)。同じ回のディスク・レヴューの中で、やはりポーランドのFoton Quartetの演奏について「彼らは、互いに命を預けあって十数年を共に過ごした炭鉱夫仲間のように、視線すら交わさず仕事にかかる。それでも信頼に裏付けられた阿吽の呼吸が、途切れることのない息の長いアンサンブルを生み出していく」と評したが、そうした文化の固有性も無視できないところである。
※http://miminowakuhazushi.dtiblog.com/blog-entry-133.html


  Ircha 『Lark Uprising』

音楽情報 | 23:45:00 | トラックバック(0) | コメント(0)
「タダマス4」レヴュー-ジャズのヘテロトピックな空間  Review for "TADA-MASU4"-Jazz As Heterotopic Spaces
 益子博之と多田雅範のホスト2人が現役ミュージシャンをゲストに招いて、NYジャズ・シーンを多角的に語る「四谷音盤茶話会」も4回目を迎え、季節を一巡りした。年間ベスト10の発表等もあった一区切りの会が、10名以上の聴衆を得て「盛会」だったことをまずは喜びたい。
 繰り返しとなるが、我々の周りには情報が溢れているようでいて、その多くはマーケットが用意したものの薄まったコピーに過ぎず、「ある視点」を獲得したものはほとんどない。他の領域も幅広く踏査しながら、毎年渡米してまでNYジャズ・シーンの定点観測を粘り強く続ける益子と、糸の切れた小惑星のようにふらふらと漂いながら、NYジャズからECMの迷宮世界、果てはJ-POPやK-POPからフリー・インプロヴィゼーションまで聴き倒す多田の2人は、そうした「ある視点」を獲得していながら、それを外部へと開き、他の視点との闘争にさらそうとする。「帰朝者」として、あるいは「事情通」として、単に大所高所から情報を配給するのではなく、あえてそうした面倒を引き受ける背景には、事態を複数の耳の視点からとらえるという確固たる信念が横たわっているのだろう。
 そうした場にさらされてはじめて、音盤から再生されたサウンドやそれに付された(時に、あるいはしばしば大きく脱線する)コメントは、無味無臭な〈情報〉であることを止め、聴衆の参加を促す〈テクスト〉となることができる。と同時に、同じ時間空間を共有し、同じ再生装置で同じ音盤を聴きながら、実際には一人ひとりが「違ったこと」を聴いている事実を、まざまざと知ることにもなる。これが〈批評〉の出発点でなくて何だというのか。

 今回披露された音盤は、2011年第4四半期から選ばれた10枚と年間ベスト10作品(一部重複)。これまでの第1回~第3回で披露された中から自分なりの注目盤にレヴューで触れてきているが、年間ベスト10の1~6がそれと重なっており、さらに最も衝撃を受けたFarmers by Nature『Out of This World's Distortion』が、(おそらくは不動の)1位ということに「やはりいいものはいい」との意を強くした。

■2011年間ベスト10(1~6位)
1. Farmers by Nature『Out of This World's Distortions』
2. Tony Malaby's Novela『Novela』
3. Steve Coleman and Five Elements『The Mancy of Sound』
4. Tyshawn Sorey『Oblique - I』
5. Okkyung Lee『Noisy Love Songs』
6. The Clarinets『Keep on Going Like This』
※年間ベスト10及び当日プレイされた音源の詳しいリストは次を参照のこと。
http://gekkasha.jugem.jp/?cid=43767

 今回の話題は昨年末に死去したポール・モティアンをひとつの(隠された?)焦点として展開しており、益子・多田とも、彼への評価の高さ(と思い入れの強さ)ゆえに、コメントがブレイした音盤を離れることが多かった。ゲストの橋本学もまた、実に率直にコメントを語ってくれた。「ミュージシャンもまた一人の聴き手に過ぎない」という彼の発言は全くその通りだが、そこには後で触れるように、やはり事態に別の角度から照明を当てることのできる力があった。こうした事情から、議論は「モティアン以降のシーン」を巡って多くなされたが、それがトレンドの力学や若手の有望株などといった「業界話」方向へ走ることなく、興味深い論点を数多く散りばめながら、決定的なステートメントへと至らずオープン・エンドになっていたことも、この四谷音盤茶話会らしく感じられた。
 私が多く触発されたのも、今回は音盤以上に、これまでの3回の議論とつながりながら、かつ「モティアン以降」を論じることで浮上してきた事態、あるいはそれをとらえる視点のあり方であった。それらについて簡単に述べることにしたい。


1.音によって描き上げられる〈風景〉

 Michael Bates『Acrobat』からの1曲「Some Wounds」において、左右に振り分けられた音数の少ないシンバルの間に張られたスクリーンの中を、Chris Speedの細く絞り込まれたサックスの音色がゆっくりと沈み込んでいく。途中、厳かに終わりを歌い上げるトランペットとすれちがう際に、しばし響きを溶け合わせて余韻をたなびかせながら。フィックスでとらえた暮れなずむ空を思わせる、こうしたまさに「絵に描いた」ような〈風景〉の中を、ピアノが斜めに駆け抜け、そこに音楽の推進力/駆動力をもたらす。
 「音楽に前に進む力がある。やっぱりお国柄なのかな。彼らは最初に音楽に推進力を与えるにはどうしたらよいか、という練習をいっぱいやる。日本だともっと情景描写的/喚起的になるんじゃないか」と橋本が指摘する。多田が「神曲」と呼ぶ橋爪亮督グループの「十五夜」で、橋本は作曲者である橋爪から「虫」の役柄を割り振られたという。
 そぼふる雨音を背景として、弦のオスティナートがゆっくりと巡らしていく視線と時の歩みに、様々な楽器音が現れては雨空に滲むように物音化していくOkkyung Lee『Noisy Love Song』の水墨画的情景にたたずむ静寂と、The Clarinets『Keep on Going Like This』がもたらす顕微鏡下でふるふると震えるバクテリアの繊毛を見詰めているような沈黙の違いを、多田は前者が「たくさん説明し過ぎている」と指摘する。後者はもう何度となく聴き返したのに、前者はそうした気にならないとも。「向こうからこちらへ来てくれる音楽と聴き手が向こうへ出かけて中に入っていかなくてはいけない音楽がある。The Clarinetsは後者。一般的にはジャズは前者が多いのではないか」と益子が補足する。
 耳は眼と異なり前方だけの音を拾うわけではない。眼が世界をとらえる時、眼はその世界の端に位置せざるを得ないが、耳は中央にいる。それゆえ、音による風景は自らとともに生成してくるものととらえることが可能だ。しかし、あえて「音の風景」とか、「音が描きあげる風景」という時、視覚的な語彙である〈風景〉に引きずられて、こちらに視点があって、それとは切り離されたあちら(窓の向こう側)に対象化された風景があると、我々は考えてしまいがちだ。

  

Michael Bates『Acrobat』  Okkyung Lee『Noisy Love Songs』 The Clarinets『Keep on Going Like This』


2.〈触覚〉の浮上

 Chris Speedの「最初から斜めになって登場する不機嫌トーン」や「棒読み」のフレージングについて語る多田。フレージングからトーンへの転換により、演奏者の「系譜読み」が通用しなくなったことを指摘する益子。これらについては、ジャズ・コミュニティの中で共有されつつ更新されてきた「ジャズ的カッコよさの基準」としての語法=筆法を採用せず、それとは別のやり方を探求することが「棒読み」を生んでいるのではないか。だとすれば、フレージングからトーンへの変化は、フォルムからマチエールへの変化に相当することになるとの仮説を以前に述べておいた。そしてフレージング/フォルムよりもトーン/マチエールの方が、明らかに〈触覚的〉というか、触覚に訴える面を持つ。The Clarinetsの演奏には、互いの響きの皮膚をいかにすり合わせるかだけに集中した、言わば〈触覚的演奏〉による場面が多く見られる。そこでは、おずおずと伸ばす指先の動きや、触れ合った感触に驚いた手のぴくりとした震えの軌跡が、そのまま(ミクロな)フレージングとなるだろう。益子が指摘する「NYジャズ・シーンにおけるクラリネットの復権」の背景には、こうした〈触覚的演奏〉への試行錯誤があるのではないだろうか。


3.フロント・ラインの消失によりさまよう視線

 ポール・モティアンの演奏の特色を訊かれて、橋本は「ドラムで景色をつくる感じ。フロントの演奏をなぞらない。フロントが盛り上がるとドラムもいっしょにうわーと盛り上げるやり方はよくあるけど、彼はそうしない。彼はもういないけれど、彼の語法やアプローチは脈々と継承されていくと思う」と答えていた。多田は「モティアンの後は誰が継ぐんだ。実はオレなんじゃないかと思った」と発言して皆にたしなめられていたが(笑)、ロラン・バルトがシューマンの楽曲を分析し、そこから演奏における「打つこと」の決定的重要性を抽出して「最もシューマン的なピアニスト、それは私だ」と書いたことが思い出された。音楽技法に分解することができない決定的な質が、モティアンの演奏にはあるということなのだろう。Motian Sickness『The Music of Paul Motian』を聴くと、彼の作曲作品にも同じ種類の質が存在しているであろうことがわかる。もつれていくドラムの足取りの上で、ノスタルジックな思い出が切れ切れに浮かび、思い切り減速したヴィオラがこれをリセットして、馨しい芳香を放ちながら腐り果てていく。「ヴィオラの演奏が全然現代音楽的でないところを聴いてほしい」という多田を受けて、「即興部分のフレージングを見ても、ほとんどテーマをなぞるだけになっている。彼の楽曲はモンクの作品のような強い引力を持っているんだと思う」という橋本に、「モンクの曲を演奏したことがあるが、半音進行とか全く受け付けない。ものすごく強い作品世界を持っている」と益子が答える。この3人なら、時間さえ許せば「モティアンから見たジャズ」を語れたことだろう。
 その一方で、有望な若手をスカウトして自分のグループでデビューさせ、育成したモティアンの功績が語られる。あるいはJoe LovanoやBill Frisellとのトリオの先見性をはじめ、彼の周囲で起こった数々の変革について。もう、そうした場は無くなってしまった‥と。それはすなわち、そこを見ていればNYジャズ・シーンの最先端のヴィヴィッドな変化が見て取れるような〈フロントライン〉が無くなって(見えなくなって)しまったということだろう。しかし、これまで四谷音盤茶話会に参加してきて思うのは、もはやシーンが一枚岩で、あるモードから異なるモードに移行する‥というような存在の仕方をしていないことだ。もちろん、かつてだって、たとえばフリー・ジャズの時代だって、全員が全員フリー・ジャズを演奏していたわけではなかった。しかし、言わば前衛/中間/後衛といった構造は、おそらく見やすかったろう。しかし今は違う。同じ一人のトランペット奏者が部屋いっぱいにエレクトロニクスを充満させ、あるいは「音響派」よろしく息音を切れ切れに放ち、さらにはフォー・ビートでいかしたソロを取る時代なのだ。変革は様々なところで、様々な方向に向けて日々起こっている(我々の眼に見える大きさ/かたちにまで達しないものを含めて)。それを感じ取るには、シーンの風景の中へと入り込むことが必要だろう。もちろん現地に行けばわかるというものではない。複数の視点から観察/分析し、それを突き合わせ、仮説を立て、補助線を引き、他に(音楽以外の他領域を含めて)似たようなかたちや動きを探し出して類推する‥そうした取り組みが求められるだろう。
 これまで四谷音盤茶話会でプレイされた作品について、たとえばSteve Coleman and Five Elements『The Mancy of Sound』について、ステレオラブによるレイヤー的構築との類似性を、また、Tyshawn Sorey『Oblique-I』について、やはりHenry Cow(特にドラミングにおけるChris Cutler)との類似性を以前に指摘したが、これらは言わば無理やり2次元に平面化した〈音楽地図〉上の話であって、3次元で見れば、もっと別の方向に向かっているのかもしれないし、またシーン全体がそちらへ動いているわけでもない。所詮それらひとつひとつは「考えるためのヒント」でしかない。

  
    Motian Sickness  Steve Coleman and Five Elements  Tyshawn Sorey
『The Music of Paul Motian』   『The Mancy of Sound』       『Oblique - I』


4.共存のための〈空間〉

 Farmers by Nature『Out of This World's Distortion』をはじめ、年間ベスト10の作品の多くに共通する質として「合っているような、合っていないような感じ」が指摘されていた。これもジャズの音楽語法の中でだけ考えれば、同期/非同期の技法論にとどまってしまうだろうが、フィールドレーディングやこれを活用したエレクトロ・アコースティック作品等を視野に入れるならば、演奏者(のコントロール)にすべてを委ねない音楽のあり方が浮かんでくる。そして、一度そうした補助線を引いてしまえば、補助線を引く前とは世界に対する認識が変化し、様々な作品の至るところに制作者の意図(的コントロール)を外れた要素を見出すことができる(たとえば映画作品の中の風に揺れる風景)。
 「何でも取り込んで生き続けるジャズのたくましさ」を橋本が指摘し、「NYというシーンの中で人と人とが新たに出会っていく可能性」について益子が語った。「ジャンルとしてのジャズなんて、もうどうでもいいことだ」と多田は常々話しているように思う(もし違ったらごめんなさい)。様々な地点で様々な方向に変革の動きが進められようとしているとして、それらが排除しあうのでもなく、一本化を強制されるのでもなく、互いに共存し、時に結び合うためのヘテロトピックな〈空間〉をもし〈ジャズ〉と呼べるのであるならば、まったくジャズ・ファンではない私も、〈ジャズ〉の未来を祝福したいと心から思わずにはいられない。

 
    Farmers by Nature      Tony Malaby's Novela
『Out of This World's Distortions』    『Novela』



ライヴ/イヴェント・レヴュー | 01:25:27 | トラックバック(0) | コメント(0)