チョン・ウンヘ「Absence of space - time passes without of sound」 展@INSAアート・センター Jun Eunhee Solo Exhibition “Absence of space - time passes without of sound” at INSA art center, Seoul, Korea
2012-03-18 Sun
昨年末のソウル滞在時に見た絵画展について書いてみたい。観光客で混雑するインサドン(仁茶洞)の通りに面して立つ INSAアート・センターは、その名の通り、ギャラリーとして展示に専念することにしたようだ(一時はスーベニール・ショップも展開していた記憶がある)。古くからの文化的記憶を持ち、陶磁器や書画、家具等の骨董を扱う店も多いこの周辺で、耕仁美術館とともに気軽に立ち寄れるスポットでもある。今回の訪問時には、各階で5つほどの展示が開催されていたのだが、最も印象に残ったのがこの「Absence of space – time passes without of sound」展だった。だが、どこに惹かれたのか自分でもよくわからず、語るべき言葉を持たなかった。そのため、これらの作品について書くことがなかったのだが、前回、ピラネージを巡っていろいろ考えを巡らすなかで、記憶の隅に埋もれかけていた本展に改めて想いが届いた次第である。
おとなしめの照明を施された空間に、油彩作品がひっそりと展示されている。幅1mを超す作品が多いにもかかわらず、圧迫感はなく、タイトル後半通りに静謐な印象。スペースの中央部分にトップライトを採りいれた「坪庭」的な造りの光庭があるため、その周囲を巡りながら、外周に架けられた絵を眺めることになる(展示作品数は全部で20点ほど)。
今回、アーティスト名でウェブ検索したところ、うち9点の写真を入手することができた。以下、それを掲げながら論を進めよう。


彼女の作品全体に共通するの静謐さは、画面を波立たせない静かな筆致や、ジョルジョ・モランディの静物画を思わせる平坦で均等なまぶしさのない光と外形/輪郭の処理(並べられた植木鉢を描いた作品等に顕著)のせいももちろんあるのだが、やはり何よりも画題の選択によるだろう。たとえば、最初に掲げた中央奥に白いドアのある作品では、枯れたツタの蔓が、そのドアがもう長いこと開けられていないことを示している。ドアに至るステップもまた枯葉に埋もれており、そこには風だけが伝う物悲しさが漂っている。かつては間違いなく人が往来し、暮らしてすらいたかもしれない場所が、いまや訪れる人もないままに放置されている。見捨てられたちっぽけな風景。だが、そこに廃墟へ向けられるロマンティシズム-畏敬や崇高-はない。ここにあるのはもっと別の小さく柔らかい感情だ。手前に描かれた模型飛行機はまだ色あせていない。にもかかわらず、そこから遊ぶ子どもたちの声は聞こえてきそうにない。おそらくこれは記憶の中に置き去られた光景だろう。いまここで鮮やかによみがえる記憶と、時間的にも空間的にも遠く離れた距離の彼方で朽ちていこうとしている場所(=ここにはない空間)。作者の分身は閉じられた白いドアの向こうで、じっと息を殺しているように思えてならない。


続いて掲げた横長の2作品を見ると、朽ちかけた灰色の壁割れ目や窓から、向こう側の空間がのぞいていることに気づく。一方の作品では向こう側の空だけでなく緑も壁の上に見えているのだから、描かれた壁は中途半端な区切りに過ぎないのだが、それでも「向こう側」の空間をいったん切り離し遠ざけることにより、それは一層強く思いによみがえるとでも言うように、律儀に壁は描かれ続ける。窓のある作品では壁の手前に旧式のラジオが置かれていることに注意しよう。これは先の模型飛行機と類似した働き(個人的な生活の記憶との関係を示しながら、それを切り離し遠ざける。ここにはない空間として)を持つ記号と考えることができるだろう。

その次に掲げた縦長の2作品でも、見る者の視線は、壁に穿たれた穴を通じて、あるいは左側の壁の開口部から差し込む光に導かれて、「向こう側」の空間へと誘われる。すぐそこにありながら、手の届かないもどかしさとともに。
実のところ、この日に見ることのできた彼女の作品はすべて(ここに掲げるべき写真を入手できなかった作品を含めて)、見る者が思わず手を伸ばしたくなるような魅惑的な「向こう側」の空間を有していた。壁に設けられた窓や穿たれた穴、ドアや曲がり角のそのまた先に。それは先に述べたように記憶の「向こう側」でもあるだろう。

次の2作品では珍しく色彩が浮かび上がっている。左の緑と右のピンク。右側の作品ではこれまた珍しくドアに樹木が影を落としている。パートカラーの夢。一瞬、ある感覚を手がかりにして鮮やかな記憶がよみがえる時の魔法の呪文。思わず眼に飛び込んできた色彩やちらつく影のざわめきが、無意識の引き金を引く。その時、音は視界から消え失せるだろう。

最後に掲げた作品でも右端にドアの一部が描かれ、「向こう側」への通路は確保される。珍しく鮮やかな植木鉢の茶色は、壁の色で覆い隠される。記憶の中の植木鉢はこんなに鮮やかではなかった‥とでも言うように。それは記憶の距離がもたらす混濁/錯誤であるだろう。少なくとも照りつける陽射しが浮かび上がらせた素焼きの鮮やかさが、この光景を呼び覚ましたきっかけではなかったということだ。むしろそれは概念に×印を付けて抹消する行為に近いように思う。
手元にある個展のカタログとウェブ上の写真を見ながら、ソウルでの時間の記憶を呼び覚ましつつ、ここまで書いてきたのだが、ひとつ思い出したことがある。冒頭に述べた展示スペースの説明のところで、中央に設けられた光庭について書いているが、一部ガラス張りのそのスペースの内部には、天窓から差し込む光の下、小さなベンチが置かれ、その傍らには、並んだ植木鉢を描いた(ここに掲出した作品とは別の)作品が展示されていた。そこは展示スペース本体から見れば半分室外であり、通常は展示には用いられない場所だろう。日がかげれば、彩度の低いおぼろな作品は薄闇の中に溶けてしまうことにもなる。にもかかわらず私には、それが彼女の作品にとてもふさわしい展示の仕方のように思われた。
末尾ながら、がらんとしたギャラリーでしげしげと絵を見詰める日本人観光客を珍しく思ったのか(客は私と妻の二人だけだった)、立ち去り際にわざわざ呼び止め、個展のカタログをプレゼントしてくれたチョン・ウンへ(전은희)に感謝したい。
スポンサーサイト
2012-03-17 Sat
国立西洋美術館版画素描展示室で開催中の「ピラネージ『牢獄』」展見てきました。もともと由良君美『 椿説泰西浪漫派文学談義 』(青土社)でド・クウィンシーの阿片幻想の視覚化として、あるいはジョン・マーティンやギュスターヴ・ドレと並ぶメガロマニアックな幻視者として、彼の名前が頭に刻み込まれて以来(何と30年前のことです)、ずっとずっと気になっていた存在でした。それがここに来て建築や都市論を調べていく中で、彼による古代ローマの想像的再構築の試みが視界に浮上し、さらに素晴らしいとは思いながらも、単にねじれた暗い幻想世界と片付けていた「牢獄」のシリーズが、遠近法の濫用による多視点化と質の異なる空間の隣接/接合/共存によるヘテロトピックな実践として見えてきました。そこへ実にタイミングよく今回の展示が。国立西洋美術館の今回期間中(3/6~5/20)のメイン展示は、実はピラネージではなく、「ユベール・ロベール-時間の庭-」展です。彼も実は「廃墟のロベール」との異名を取り、画業だけでなく、庭園設計にも秀でた才人。そちらの展示の中でも、ピラネージが触れられている部分がありました。両展共に以下にレポートします。
1.「ユベール・ロベール-時間の庭-」展
仏ヴァランス美術館(現在改装中のため休館)からの貸出作品を中心に、ユベール・ロベール(Hubert Robert)の歩みを、影響関係や同時代の傾向にも目配りしながら、130点以上にも及ぶ作品展示でたどる企画展。
ロベールの展示作品の多くはサンギーヌ(sanguine)と呼ばれる酸化鉄が発色した赤褐色のチョークによるドローイング(もちろん油彩の大作もあるが)。作品の様子はチラシ【図1】掲載の作品を参照のこと。興味深かったのは、いわば風景画の基準点としてクロード・ロランの明るく平坦に澄み渡った牧歌的な田園風景(彼の油彩はいつも遠くの空が明るいなあ)や、当時の流行であったピクチャレスク絵画の寵児と言うべきサルヴァトール・ローザによる暗く重くラギット(ギザギザゴツゴツした荒々しい)な風景があわせて展示されていたこと。彼らがいて、その傍らにユベール・ロベールがいた‥という感じが、すごくよくわかる。
そのロランの作品にも廃墟は登場するが、あくまで画面の片隅の点景に過ぎない。ロベールの作品も最初うちはやはりそうだが、だんだん廃墟やローマの遺構が前面にせり出し、コンポジションの主たる対象となっていく。一方では繁茂する植物に侵され、あるいは庶民の日々の暮らしの中で価値を下落させていく(粗末な木の扉を付けて貯蔵庫に転用され、あるいは男女グループの遊興-釣りや川遊び-の舞台となる)はかない存在として描かれ、もう一方では、古代ローマの遺構(の断片)が、門を正面からとらえた構図による奥行きの強調(開口部の向こうに広がる空間が遠く見通せることにより、距離/空間の巨大さを印象づける)や手前に大きく描かれて視界をふさぐ柱の存在感(重々しいマッスの量感。加えて、柱の左右で異なる質/遠近法的構図の空間を接合する技も)によって壮大なヴィジョンとしてプレゼンテーションされる。
しかし、サンギーヌによる画面の淡さ、あるいは油彩の画面の典雅な明澄さによって、それらはピラネージの息苦しいほどの量感/圧迫感には到底届かない。ピラネージによる「フランス・アカデミー」(『ローマの景観から』所載)【図2】の延々と彼方まで続く重厚なファサードの連なり(もちろんそれは彼の幻視に過ぎない)。画面内に消失点を持たない極端な遠近法がそそりたつ壁面がマッスとなってこちらに迫り来る量感を、さらに強調している。
一方、ロベールはさらに画題となるべきモティーフの渉猟を続け、神話的なコンポジションに走っていく。それらは庭園を彩るファブリック(一定の雰囲気を醸し出す装飾のためのエレメント)として、画面を抜け出して実体化していくことにもなる(彼は造園家/庭園設計者としても活躍した)。たとえばチラシに掲載されている「古代遺物の発見者たち」の映画「インディ・ジョーンズ」を思わせる物語的な奇想であり、あるいはエジプト、ギリシア、ローマの彫像のエキゾティックな神話混交的な配置である。なお、後者の感覚は後にルイ16世がヴェルサイユ庭園再整備の一環として、彫像群の再配置をロベールに委ねた際に、新たに設けた人工のグロッタ(洞窟)内部に、既存彫像群の劇的な再構成により「アポロンの帰還」の場面を再現した試みへと活かされているだろう。ちなみにこの業績は高く称えられ、彼は「国王の庭園デザイナー」と呼ばれるまでになった(こうした権力との接近が災いして仏革命時には投獄されてしまうのだが)。
だが、こうした幻想風景を現出させながらも、たとえば古代ローマが舞台の作品であるのに、そこにはすでに風化した建物やモニュメントの残骸が横たわっているという、死や崩壊への注視、歴史の重層性の感覚が常にあることに注意しよう。プッサン「アルカディアの牧人たち」(ロベールにも同題の作品あり。チラシ参照)で有名となった「我もまたアルカディアにありき」の文言、すなわち「理想の始原郷にもすでに死が存在している」という箴言がそこにはずっと鳴り響いており、それが「廃墟のロベール」の通奏低音となっているのだ。
図1 「ユベール・ロベール-時間の庭-」展案内ちらし

図2 ピラネージ「フランス・アカデミー」(『ローマの景観から』所載)

【追記】
ユベール・ロベールは、当時は実現に至らなかったもののルーブル美術館の改造案【図3】を油彩で残しており、さらに同時にそれが廃墟化した想像図【図4】を描いている。同様の意趣として、ジョン・ソーンによるバンク・オヴ・イングランド設計に当たり、助手のジョセフ・ガンディがソーンの指示で廃墟図を描いた事例があるが、できればこの2作品も、今回実物を見てみたかった。


図3 ルーブルのグランド・ 図4 廃墟化したルーブルの
ギャラリー改造計画案 グランド・ギャラリーの想像図
※「ユベール・ロベール-時間の庭-」展の構成
http://www.tokyo-np.co.jp/event/bi/robert/kousei.html
※同出品リスト
http://www.nmwa.go.jp/jp/exhibitions/pdf/120301_hubert_robert_list.pdf
2.「ピラネージ『牢獄』」展
ジョヴァンニ・バッティスタ・ピラネージ(Giovanni Battista Piranesi)の銅版画(エッチング及びエングレーヴィング)作品集『牢獄』の第1版と第2版に所載の全作品(14+16=30点)を展示したもの。この第2版は、ピラネージが自ら制作・出版したもので、新作2点の追加のみならず、ほぼ全作品に多くの改変を加えていることが知られている。その相違を比較対照しながら見ることの出来るまたとない機会。
全般的な傾向としては、より素描的で空間の多い第1版に比べ、第2版は陰影が濃く、全体が暗く重いばかりか、新たな構築物やオブジェ、モニュメント等が描き加えられ、空間はさらに錯綜を極めている。もともと、暗く冷たい強迫的な閉塞空間として「牢獄」が舞台に選ばれ、そこに奇怪なオブジェ群が配置されていくわけだが、同じく閉ざされた空間に様々な珍奇なオブジェが配列されていくヴンダーカマー(Wunderkammer=独語で「驚異の部屋」)【図5~7】と呼ばれる博物誌的な収集空間(高山宏や荒俣宏がよく採りあげるところの)と次の2点において異なっている。
まずピラネージ『牢獄』においては、それがそそりたつ巨大な壁、何層にも渡る階段、空間を浸食する圧倒的な強度の闇といった、メガロマニアックな空間構築に向け、幻視的想像力がとりわけ垂直方向に駆使されている点である(『牢獄』の各作品も本の版型/装丁もあってほとんどすべてがタテ構図)。ヴンダーカマーの図版は部屋の広さや展示空間の奥行きなど、せいぜい水平方向にとどまり、闇などない透明極まりない空間である。もうひとつは、少なくとも図版に残されているヴンダーカマーは、その驚異を一望の下にさらすため、まさにミシェル・フーコー言うところのタブロー(表)の空間を現出させている。それは分類体型や進化系統への認識の有無の問題ではなく、様々な事物が混沌と隙間なく、だが、ある意味整然と均等に並べられている‥ということだ。これは閲覧の便宜を考えれば当然のことであるし、体系の構築のための網羅ではなく、客に見せびらかしたいがゆえの奇物コレクションであればこそ、当然のことと言えるだろう。これに対し、ピラネージ『牢獄』の空間は、後で詳しく見るように、2次元のタブローになど展開しようもない(いや3次元空間ですら完遂しかねる)驚くべき錯綜空間にほかならない。



図5~7 〈表(タブロー)〉の空間としてのヴンダーカマー(驚異の部屋)
実際に第1版と第2版を比較対照しながら見ていくとしよう。対象としては写真を入手できた「煙を噴く火」、「跳橋」、「鎖のある迫持台」の3点とする(2点目は第2版のみ検討する)。
まずは「煙を噴く火」から見てみよう。まず全体の印象として、第1版【図8】に比べ第2版【図9】はさらに細部が克明に描き込まれ、また陰影がその濃さを増し、画面/空間の閉塞感/圧迫感を強めている。さらに細部に眼を凝らすならば、構造物としては中央の大きな柱の手前と向こうをつなぐブリッジとその上に並行して張られたライン、右下のアーチ部分に見えるはしごやロープ、鎖をかける梁のようなもの、また、オブジェとしては、右下隅の拷問具(?)や左手前下から中央下にかけて配置された砲弾型の物体(錘のように見える)等が新規に追加されていることに気がつくだろう。これらの構造物やオブジェは先に指摘した画面全体の陰鬱化に貢献するだけでなく、描かれた空間の性質を変えてしまっている。
第1版では、空間は2層の直交するアーチで構成されており、2層目アーチの右の開口部からは、おそらくは牢獄の外部にあるだろう尖塔のようなものがうっすらと一部を覗かせている。しかし、第2版では、前述のブリッジにより2層目の空間はさらに垂直に2つの部分に分断されてしまう(第1版でもうっすらとした線が階層を暗示してはいるが実体化していない)。もともと奥の壁は画面内に遠近法上の消失点を持たず、視界を塞ぐようにそそり立ち、両側にどこまでも際限なく続いているように見える。この画面をとらえた視点の背後にあるはずの壁も同様と考えれば、奥の壁、中央の柱の列、視点の背後の壁にそれぞれ仕切られた2つの細長い空間が浮かんでくる。第1版ではこれが上下2層に別れてはいるが、2層目は床があるわけではないので、視点さえ変えれば、広大な空間を、あるいは外部をすら見通すことが出来るだろう。しかし、第2版では、画面手前と奥を結ぶブリッジが描き込まれ、空間はタテヨコに仕切られ、見通しを失って稠密化し、外部もまた消去されてしまう。


【図8】「煙を噴く火」第1版 【図9】「煙を噴く火」第2版
ブリッジの新設により、単に仕切りがひとつ増えたというだけでなく、眼前に立ちはだかる「向こう」の壁と不可視の「こちら(実際には背後の)」の壁が接続されることが重要である。この作品に限らず『牢獄』の第1版と第2版の相違を検証していくと、新たに描き加えられているのは、アーチ、ブリッジ、橋げた(その他構造物の支えとなるべきカンティレバー)、階段、柱、窓の格子、そしてロープや鎖、植物の蔓等、空間を貫通あるいは横断しながら、水平あるいは垂直に「向こう」の空間と「こちら」の空間を、新たに(それまでには描き込まれていなかったかたちで)接合させるものばかりであることに気づかされる。
繰り返しになるが、ピラネージ『牢獄』においては、閉塞感を強調するため、立ちはだかる向こう側の壁が画面内に消失点を持たない(すなわち奥を見通すことのできない)、極端に偏ったパースペクティヴが採用されている。にもかかわらず、細部まで克明に描き込まれた付属的構築物やオブジェ類は、そこから立体的に浮かび上がる。偏ったパースペクティヴに従属して、不自然に歪んだ姿形を見せることはない。それらの事物が自然な「見え」で浮かび上がるのは、それらが濃い陰影により自らを周囲から孤立させつつ、各々固有のパースペクティヴを確保しているからにほかならない。私たちが何かを見る時、その「見え」は暗黙の前提としての(無意識に設定されてしまう)パースペクティヴに拠っている。言わばピラネージ『牢獄』の空間は、そうした個別の事物がそれぞれに持つ固有のパースペクティヴのモザイクなのだ。
異なる視点からとらえた空間/見えのモザイクと言えば、すぐにピカソやブラックが探求した分析的キュビスムによる作品が思い出されよう【図10】。あれは多視点からの立体の「見え」を切子状の面として、画面(=平面)上で接合したものだった。そこでは各断片の切断/接合面が切子の辺として明瞭に浮かび上がる。しかし、ピラネージ『牢獄』においては、モザイクの各断片の切断/接合面は明らかにされない。前述のように個々の事物は互いに切り離され、孤立した状態で陰影から浮かび上がる。そして分析的キュビスムにおいては、個々の切子面を統合するのは(作成者の意図/配置と)対象の一体性だけであり、それ以外に各断片を結びつけるものはない。しかし、ピラネージ『牢獄』の場合、先に掲げたアーチやブリッジ、階段からロープや鎖等に至る範列が、まさに離れた事物/空間同士を結びつけるのである。これにより、実際の3次元空間では実現不可能なねじれた空間構築が生じ得ることになる。
遠近法上異なるパースペクティヴを事物間の結び付けにより撹乱した例として、ホガースのだまし絵【図11】を挙げておこう。


図10 パブロ・ピカソ 図11 ウィリアム・ホガース
「カーンワイラーの肖像」 「誤った遠近法」
このように異なる質の空間の断片を結びつけ、モザイク上に構成された空間に不整合やねじれを生じさせた顕著な例として「跳橋」【図12】を挙げることができる。ここでは「向こう」と「こちら」の壁の間の吹き抜け状の空間自体がねじれて分裂を来しているだけでなく、「向こう」の壁自体も確固たる輪郭/面を持たず、波打つように歪んでいるように見える。そこで中空に漂う跳橋は、まるで大地震に引きちぎられた鉄筋のように所在無い姿をさらしている。

図12 「跳橋」第2版
最後に変わった変更の例を挙げておこう。『牢獄』の最後の図版である「鎖のある迫持台」は、全編中最も改変の著しい一葉だが、わけても第1版【図13】の中央下部分に見られる階段を降りる2つの人影が、第2版【図14】ではデスマスク(?)入りのモニュメントに取って替わられている。その他にもモニュメントから伸びるパイプ状の構造物やら、その奥に描き込まれた上に何も載っていない装飾的な柱やら、古代ローマ的なエレメントが縦横に詰め込まれ、空間は錯綜の極みに達している。


図13 「鎖のある迫持台」第1版 図14 「鎖のある迫持台」第2版
※「ピラネージ『牢獄』」展出品リスト
http://www.nmwa.go.jp/jp/exhibitions/pdf/piranesi2012_list.pdf
3.ピラネージ『牢獄』の視点で世界を見詰めるレッスン

図15 冬のある晴れた日の新宿
【撮影:原田正夫】
まず、上の写真【図15】をご覧いただきたい。これは私のブログにもよくご登場いただく原田正夫氏(月光茶房店主)が今年2月27日に、「すごく乾燥していて、しかも強い北風がスモッグを吹き飛ばしたのか、見たことがないくらい遠くまで見渡せる日だったので、その覚えとして」撮影した新宿の写真である。JR山手線で新宿近辺を通りかかったことのある方なら、「ああ、あそこだ」とすぐにわかってしまう風景だ。これを「ああ、あそこだ」と合点してしまわず、すなわち確認/想起のモードに移行してしまわずに、「見ること」にとどまってみたい。ティエリー・ド・デューヴは『芸術の名において』において、火星から来た人類学者として「芸術」をとらえる思考実験を行っているが、ちょうどあんな感じで(コントとかでは「○○の体(てい)で‥」ってよく言いますね)。
この写真を見る者が日本語を解さなければ、あるいは日本語がわかったとしても、周囲の風景との調和を破壊するようなけばけばしい原色が、屋外広告物(看板)だとわからなければ、赤や緑のアコムやレイク、エスパス日拓の広告看板がいったい何であるのか、きっとわからないだろう。この写真には道路が写っていないので、建築物の向きもわかりにくい。どこが正面かと探しても、日本特有の細長いペンシルビルは「ファサード」の感覚がほとんどないし、ましてや屋上広告以外に建物に取り付けられた広告看板や幕の存在が、建物の輪郭をますます不分明にしてしまう。実際のところ、これを見慣れた風景だと感じている私でさえ、広告の境界線と建物の境界線の関係はよくわからない。こうした風景を初めて見る者にとっては、街路に沿って並ぶ建物の列があり、それに屋外広告群が一種の皮膜としてオーヴァーラップしているようにはとても見えず、ただ、青い空の下に、商業サイトのポップアップ広告のような原色だけが「図」として浮かび上がり、ところどころに無機質な白やグレーが(「地」として?)覗いているようにしか見えないのではないだろうか。もちろん部分部分は(屋外広告がその目的を果たすために強化されたアイキャッチ力によって)痛いほどの強さで眼に飛び込んでくる。しかし、それらが全体として像を結ぶことはないだろう。まさに異なるパースペクティヴの断片を組み合わせたモザイクだ。ピラネージ『牢獄』との違いは、陰影/陰鬱さを徹底的に欠いている点だろう。晴れた日の昼間の新宿は、まるでラスヴェガスのような蜃気楼都市なのか。
さらにもうひとつ。画面は下部を水平に走る緑色の線と、それ並行する何本もの黒い細い線、さらにそれらと斜めに交わるグレーあるいは銀色の太い線で仕切られている。形態の連続性からして、先ほど見た原色群よりも、これらの線が手前にあることは確実だが、それらがJRの線路(のガード)やこれに付属する電線、さらに線路をまたぐゲートのような形態の構築物であることがわからなければ、これらの線と写真に写っている空間の関係には首をひねることになるだろう。おそらくレンズの焦点距離のせいで、画面は手前から奥までピントの合ったパンフォーカスであり、そこから奥行きを判断することは難しい。前後が圧縮されて、ひとつの平面にたたみ込まれることにより、これらの線、とりわけ最後に挙げた斜めに交わる線は、ピラネージ『牢獄』の跳橋等のブリッジや階段、鎖やロープと同じ効果を発揮することとなる。
異なるパースペクティヴのモザイクが、各断片を貫き接合する〈斜線〉により、切り離され、結び付けられる。遠近法的構図の撹乱、空間のヘテロトピアは、我々のすぐそばにいつも存在している。我々はふだんからそれらを眼にしながら、注視せずにやり過ごし、あるいは自らに都合よく、無意識に辻褄を合わせている(改竄している)だけなのだ。風景写真やフィールドレコーディングは、そうした裂け目をこそ明らかにしてしまうだろう。
2012-03-17 Sat
2011年ディスク・レヴューの補遺として、昨年新たに出会った音盤から、2011年以前のリリースであるために新譜レヴューで採りあげられなかった作品をご紹介したい。新譜レヴューと同様の7枚枠で、まずはポップ・ミュージック篇から。即興演奏やフィールドレコーディング系の作品についても、追って採りあげる予定。乞うご期待。
Drag City DC434CD
試聴:http://www.dragcity.com/products/bruises-and-butterflies
http://www.reconquista.biz/SHOP/DC434CD.html
やや低めで落ち着きをたたえたジェントルな声に乗った、かすかな「かすれ」が輪郭を際立たせ、さらにその魅力を高めている。この気品漂う声音、なだらかなメロディ・ライン、牧歌的な寛ぎと磨きぬかれたアンティーク家具のような艶をたたえたアレンジメント(弦とラップ・スティールのアンサンブルなんて、もうため息ものだ)を耳にすれば、英国音楽好きだったら誰もが伝説の歌姫Bridget St.Johnのことを思い浮かべるだろう。そして本作のクレジットを見て、彼女がゲスト参加していることに改めて驚くだろう。念のためお断りしておけば、もちろんBridgetとの関係で本作品に感銘を受けたのではない。Elisaは自ら弦アレンジを行うほど、彼女自身の個性を確立している。いま、こうした音楽の馨しさは本当に貴重なものになってしまった。

Blackest Rainbow RR214CD
試聴:http://www.meditations.jp/index.php?main_page=product_music_info&products_id=7386
男女デュオNatural Snow Buildingの男性の方。2011年にリリースされた2作目『Then Fell the Ashes...』も素晴らしいのだが、後から入手したこの第1作の方により彼らの本質を感じる。ダビングを重ねた隠し録りテープのように、もこもこと湧いてくるローファイな霧の向こうから、ゆらゆらとした揺らぎを従えて響いてくる子守唄、あるいは呪いの呪文の魔力を秘めたセイレーンの歌声(男性が歌っているとは信じられない)。ここに収められたすべてのサウンドが、妙なる歌声のようにも、母性を濃縮した洗脳テープのようにも(Third Ear Bandのような展開も聴かれる)、19世紀末の降霊会のシリンダー録音のようにも、あざといリヴァーブの充満のようにも、単なるテープの劣化がもたらした幻のようにも聞こえる。内ジャケットに描かれた、草むらに寝そべってざわざわした蛇や蟲と戯れる少女の姿(虫愛ずる姫君?!)も、「腐食の美学」を象徴しているようで、彼には似つかわしい。

Margerita Records NORA-09
試聴:http://www.reconquista.biz/SHOP/nora09.html
前掲作同様、こちらも2011年にリリースされた2作目『Then Fell the Ashes...』も素晴らしいのだが、やはりこの第1作の方に、より骨太で思い切りの良い、味わいの濃さを感じてしまう。ソロでも活躍しているNora Sarmoria(piano,vocal)が「南米音楽楽団」の看板通り、 Hermeto PascoalからEduardo Mateoを経てトラッドに至るまで(さらに自作曲をプラス)見事に編曲・指揮してみせる。女声スキャットの使い方などPascoal門下生のビッグバンドとの類似性も感じるのだが、こちらの方がより情が深い。Carlos Aguirreの活躍(私にはちょっと優等生的で薄味に感じられてしまうのだが)をはじめ、最近のアルゼンチン音楽は本当に元気で創造的だ。

Mirrorball Music MBMC-0104
試聴:http://www.youtube.com/watch?v=1w60cjEO6U0
http://www.youtube.com/watch?v=-3Bxjos4sy0
以前のアルバム(これも佳作ではあった)では今井美樹「Pieces of My Wish」をカヴァーしていた韓国女性シンガー。今回の作品は7トラック中、3曲は韓国語版と英語版を併せて収録(だから作品としては4曲しか入っていない)という変則的構成。だが、口に入れた途端すっと溶けてしまうような透き通った甘さと鼻に抜ける柑橘系の「青酸っぱい」香りが素晴らしい。珈琲をハンドドリップするように、ゆるやかに紡がれていく息とこれに寄り添う弦の艶やかさ。韓国のインディ・ロック・グループNell(メンバーの兵役で活動を停止していたが、いよいよ再開するという)のヴォーカルが1曲(韓・英ともだから計2トラック)参加してデュエットしているが、こちらは2011年ポップ・ミュージック選で採りあげたHawaaiiと共通する肩の力の抜けた魅力。

op.01
試聴:http://www.youtube.com/watch?v=9CCuOh1ED-0
http://www.youtube.com/watch?v=iErHNJzkrq0&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=pxStvpKFkJE&feature=related
「あなたが幸せなら、この音楽は聴かないでください」といささかショッキングな注意書きを付されたMorrieのデビュー・アルバムは、ムクゲの花をあしらった純白のカヴァー(表面には型押しのみで線は入っていない)に、綿菓子のように軽やかな束の間の喜びを包み込んでいる。深々としたチェロによる導入部に続いて、夢見るようにふわふわとキュートな声、すべて舌足らずな英語によるヴォーカル、オールドタイミーなミュージカル・ナンバーを思わせる洒脱なメロディ、シャンパンのように軽く弾けるジャジーなアコースティック・アレンジは、K-POPというより、むしろかつての台湾ガールズ・ポップ、特にMavis Fan(范暁萱)あたりを思わせる(「Bartender Angel」とか)。透き通った甘さと真っ白で滑らかな舌触りに、つんとした爽やかさの香るライチ・ソルベの味わい。徹底的にオシャレでポップな曲調は、しかしまぶしさやあざといしつこさを周到に排しており、聴き手のうちにわだかまる悲しみを、音もなく降り積もる雪のようにそっと包み込んでくれる。

無番号
試聴:http://www.youtube.com/watch?v=Rg0wKlPW77Q
http://www.youtube.com/watch?v=d1Z9TT5m5HQ
平らかにゆったりと歩む声の足取り(このことは呼吸と音程の確かさの証しでもある)は、昨年のベスト30に選んだMysterious(Mystery) Curtain(수상한 커튼)を思わせるが、彼女の都会的な洗練に対し、Siwaにはどこか地方都市の少女の純朴さ(まだ頬の赤い垢抜けなさ)が漂っており、また、舗装された歩道ではなく、草ぼうぼうのあぜ道を一歩ずつ、足元を確かめながら歩く際の揺らぐような踊るような感覚の変化がある。2011年にミニ・アルバム『Down to Earth』をリリースしているのだが、やはりそれに先立つ、この第1集(フル・アルバム)が忘れがたい。決して張り上げられることのない声の、だがその眼差しにしっかりととらえられた遠い山並みへと、まっすぐに届くだろう勁さが素晴らしい。ピアノ、ギター、チェロ等による、飾り気のない最小限に研ぎ澄まされた演奏も彼女の声の魅力をよく引き立てている。

Siren Voices SVCD04
試聴:http://www.reconquista.biz/SHOP/svcd04.html
もともとは1995年にハンガリー国立博物館のカルパチア盆地征服1000年記念展示のために制作された楽曲のリミックス。Hortobagyi LaszloはこれまでにもGayan Uttejac Orchestra名義で民族音楽の断片が電子音の海に浮かぶコラージュ作品を多数リリースしている。ここでもハンガリーの伝統音楽やそれに影響を与えたであろうした周辺古代文化(彼はマジャールの源へと想像力たくましく溯り、倍音唱法や雅楽にも眼を向ける)に題材を渉猟し、「曼陀羅的」とも言うべき鮮烈にして荘厳な音絵巻をつくりあげている。それがありがちなニュー・エイジ風の安逸に堕さないのは、狂言回し役を務めるLovasz Irenの凛とした誇り高い声が、揺ぎ無い緊張を貫いているからにほかならない。
「悠久の光彩 東洋陶磁の美」展@サントリー美術館 ”The Eternal Beauty and Luster of Oriental Ceramics” at SUNTORY MUSEUM of ART
2012-03-14 Wed
大阪は中ノ島にある大阪市立東洋陶磁美術館は、安宅コレクション(※)を核として、東洋陶磁に関し、非常に質の高い作品を収蔵しています。以前にフェルメール「青いターバンの少女」を見に大阪に出かけ、その際にそうした沿革とかを知らずにふらりと入って、展示作品の充実ぶりに驚いたことがあります。今回のサントリー美術館の展示「悠久の光彩 東洋陶磁の美」はその出張版(調べてみたら、東洋陶磁美術館自体はいまちょうど設備工事で閉館中なんですね)。なので質の高さは折り紙つきです。それに東洋陶磁美術館は施設自体が小さく、一度にいっぱい展示できないということもあって、今回の展示は名品をいっぺんに見られる貴重なチャンスです。どうぞお見逃しなく(東京ミッドタウンの中を歩かされるのがウザイけど)。4月1日までです。金・土は午後8時までやってます。
※大商社だった安宅産業の経営破綻については、松本清張が小説「空の城」で描き、さらにそれが和田勉によって「ザ・商社」としてNHKでTVドラマ化されました。山崎努や夏目雅子が出ていたやつです。あれってもう30年以上も前なんですね‥。

同展チラシ
本展は「第1章 中国陶磁の美」、「 第2章 韓国陶磁の美 」という2部構成で、それぞれ基本的には古い時代のものから並べられています。130点以上に及ぶ展示品から特に強く印象に残り、また、ウェブ上で写真を入手できた作品12点を選んで以下に感想を書いてみます。ちなみに配列は展示番号順です。

まず最初にガツンとやられたのがコレ。「唐三彩」って高校の世界史の授業で習ったけど、こんなに強烈なものだったなんて‥(絶句)。サイケデリックの世界に足突っ込んでます。かけられた釉薬の流れの生々しさ。エキゾティックな文様(東洋起源とは思えない)はカメオみたいな浮き彫りになっています。

ドシーンとした存在感に圧倒されます(とってもひとりでは持ち上げられなさそうな‥)。肩の張った独特のフォルム。青磁なのに緑が強く、しかも彫られた溝の部分に釉薬がたまって、深く濃い陰影をつくりだしています。文様も含めて、やはりとてもエキゾティックな強い香りを感じてしまいます。

全体通じてのベスト1はやっぱりコレですね。展覧会ポスターにも採用されてるし。ポスター掲載の写真だと、表面が何だか白粉でも塗ったみたいな微粒子感があって、何だかコスメティックですが、実物はもっと深く青く、肌も硬質で凛としています。だからこそ挿されている紅の部分が傷口みたいに生々しく、ずきっと痛々しいんですね。そこがまたそそる‥という(なぜか、火のついたタバコを押し付けさせる特別サービスで、客からチップを取るうらぶれた娼婦の話を思い出しました。倉田江美のマンガだったような気も‥)。上から下まで完璧なフォルム/プロポーションと、シンメトリーではなくランダムな斑紋の散らし方の調和にもほれぼれします。

深く落ち着いた色合い。底に向けて急にすぼまっていくフォルムの、まるで宙に浮いたような、得がたい美しさ(成形技術的にも難しい)、不安定なこわれやすさが魅力の一品。

これは色合いにやられました。外側のラズベリーのような(鉱物系というよりは植物系に感じられる)赤紫が、縁から内側に折り返してブルーベリーの青みに転じ、さらに中央部(内側の底)に至ると、それが白々と明けていくという、黄昏から曙に至る時の流れを封じ込めたが如き景色の流れが素晴らしい。

内側から光っているような肌の輝く白さ/きめ細かさを、浅い線刻と縁の黒が引き立てています。側面のゆるやかな曲線も素晴らしい。持ってみると(もちろん触れられないけど)、意外と軽そうな感じもいい。高貴な方の洗面器なのかな。「この中で1個もらえるならこれが欲しい」と妻が言ってました(笑)。

これはまた不思議な世界。もともと天目は窯変(焼成中の化学変化)の最たるもので、全くの偶然が場合によっては宇宙の深さすら映し出すわけですが(九州国立博物館所蔵の油滴天目茶碗や静嘉堂文庫美術館所蔵の曜変天目茶碗なんて、もう‥)、これはさらに実際の木の葉を表面に貼り付けて(?)、その葉脈まで精緻に写し取った奇跡的作品。黄褐色と黒色の釉薬を二度がけするというから、確かに‥‥でも、そんなレイヨグラフ(カメラを用いずフィルムの上に直接物体を置いて感光させる技法)みたいにうまく行くものなんだろうか。

前述の九州国立博物館所蔵の油滴天目茶碗(TVで観ただけですけど)が、まるで高解像度のプラネタリウムのように宇宙を映し出すのに対し、こちらは黒/金の豪奢な対比だけが強烈に印象に残る(正直、胸が悪くなるほど)。豊臣秀次の愛した一品であったとか。さすが豪華絢爛、栄華の象徴たる聚楽第の主にして「殺生関白」らしい悪趣味の極み‥‥こんなイメージは宇月原晴明の歴史伝奇小説「聚楽」の悪影響でしょうか(笑)。

優美にして濃厚なエキゾティシズムが香る一品。葡萄の葉や蔓の文様にしたって、どうしたってシルクロードを通って、彼方から伝わった豊穣たるオアシスの象徴でしょう。上にへと引き上げられて鶴のように長く伸びた首とグラマラスにふくらんだ下部のバランスに、取っ手部分のねじれた曲線が加わって、何とも濃密にエロティック(まるでベリー・ダンサー!)。やはり注ぐは「珍酡の酒」(=赤葡萄酒 北原白秋「邪宗門秘曲」より)でしょうか。

大地から立ち上がってくるような造形の力強さと、動物のようなユーモラスな丸みの暖かさ、表面の線刻の生々しさはデュビッフェやフォートリエのアンフォルメルな厚塗り絵画を思わせます。形は儒教の祭器である簠(ほ)から取っているというから、本当は青銅器のための形なんじゃないかな。そう思って見ると、先日の北京故宮博物院展(陶磁に関しては展示品が寂しかった)で見た青銅器たちの、今にもガチャガチャと動き出しそうな「昔のロボット」型に確かに似ているな‥と。

これはまた不思議な色合いの移り変わりですが、上からかけた釉薬が首のところで止まってしまって、生地が露出してしまい、焼成にむらがあるんですね。言ってみれば、れっきとした「失敗作」。それを景色の妙から「名品」としてピックアップしてしまうところが東洋陶磁の美意識のスゴイところ(奥深いというか、懐が深いというか)。先に掲げた「飛青磁花生」の完璧なフォルムと比べると、首が引き上げられてすらりと長く伸び、下部のふくらみはむしろその頂点を心持ち下げる‥という「ドンシャリ」的バランスが、また別の美しさをたたえています。

端正なかたちと清楚な白い肌の落ち着いた風合い。凛とした冷ややかさを面取りした稜の丸さと底面まわりに広がる淡い景色が和らげています。景色って言ったって天目みたいな劇的な窯変ではなくて、どっちかと言えば雨漏りのシミみたいな(失礼!)印象ですが、その不定形な揺らぎと移ろいが何ともまた‥。愛すべき作品ですね。
大阪市立東洋陶磁美術館は多くの収蔵品の写真と解説をウェブ上にアップしています。
ぜひhttp://www.moco.or.jp/までアクセスしてみてください。
2012-03-14 Wed
自分のブログに掲載した四半期ごと及びこれに追加して時に応じて執筆したディスク・レヴュー掲載作品およそ60点から、さらに10点を選んだものを、多田雅範・堀内宏公両氏の主催する音楽サイトmusicircusに、昨年に引き続き掲載していただきました(※)。※http://homepage3.nifty.com/musicircus/main/2011_10/
そちらには改めてジャケット写真と簡単なレヴューがアップされていますので、こちらには英文リストのみ掲載いたします。私以外にも、このブログにもよく登場する多田雅範、原田正夫、益子博之の各氏をはじめとして、堀内宏公、若林 恵、長井明日香、岡島豊樹と錚々たる面々が執筆していらっしゃいます。musicircus「2011年に聴いた10枚」、ぜひ、ご覧になってみてください。
1.Kazue Sawai / The Sawai Kazue -17 Strings- (Hogaku Journal HJCD0006 )
Kazue Sawai(17 strings koto,5 strings koto),Hikaru Sawai(koto),Tetsu Saito(bass)
2.Masayuki Takayanagi / Meta Improvisation (Jinyadisc B-25)
Masayuki Takayanagi(guitar,tape,electronics)
3.Barre Phillips,Catherine Jauniaux,Malcom Goldstein / Birds Abide (Victo cd 119)
Barre Phillips(contrabass), Catherine Jauniaux(voice), Malcom Goldstein(violin)
4.Farmers by Nature / Out of This World's Distortion (AUM Fidelity 067)
Craig Taborn(piano), William Parker(bass), Gerald Cleaver(drums)
5.Keiji Haino / Un autre chemin vers l'Ultime(Prele Records prl007)
Keiji Haino(ether)
6.Anthea Caddy, Magda Mayas / Schatten (Dromos dromos007)
Anthea Caddy(cello), Magda Mayas(piano)
7.Christian Munthe, Christine Sehnaoui / Yardangs (Mandorla MAN CD002)
Christian Munthe(acoustic guitar), Christine Sehnaoui(alto saxophone)
8.Kang Tae Hwan / Soreia (Audioguy Records AGCD0031)
Kang Tae Hwan(alto saxophone)
9.Michel Doneda , Jonas Kocher, Christoph Schiller / /// Grape Skin (Another Timbre at42)
Michel Doneda (soprano saxophone & radio),
Jonas Kocher (acoordion & objects),
Christoph Schiller (spinet & preparations)
10.Mark Fry, The A. Lords / I Lived in Trees (Second Langage SL013)
MarkFry(vocals,acoustic guitar,cello),
Nicholas Parmer(Spanish guitar,piano,harmonium,accordion,
recorders,autoharp,bouzouki,clarinet,bells,percussion)
Michael Tanner(mellotron,12-string guitar,banjo),
Aine O'Dwyer(harp),
Jess Sweetman(flute),
Steve Bentley-Klein(viola,violin,cello)
extra.Cornelius Cardew / The Great Learning (Bolt BR1008)
もともと「2011年に聴いた10枚」なので、2011年にリリースされた作品だけではなく、2011年に出会った、2011年に繰り返し聴いた作品も入ってくるため、対象範囲はそれだけ幅広くなり、収斂しないのですが、それにしても各人の選定した盤がほとんど重なってないのにはびっくり。多田・益子両氏による「四谷音盤茶会」には4回皆勤し、原田氏とも結構メールのやりとりなどさせていただいているんですけど、私の選盤で他の方と一致したのは、沢井一恵『The Sawai Kazue』とFarmers by Nature『Out of This World's Distortion』の2枚のみ。
それにしても、皆さん、力の入った長文レヴューが読み応えがありますね。必ずしも音盤自体の紹介や分析評価ではなく、どのような問題関心の下でその盤と出会い聴いたか、あるいはその盤に耳が触れることで思考や聴き方がどう変化したかに重点が置かれています。そうした「個人としての視点/軌跡」なしに、ただトレンド・ウォッチャーとして「いま何が新しい」とか、「次は何が来る」みたいな聴き方って、もうほとんど成り立たなくなってきていると思います。もちろん、それこそが販売促進には必要だから、CDショップのPR誌や音楽雑誌(いまや両者の違いはほとんどない)には、常にそうした記事が掲載されているけど、実質的にはとっくに失効しているでしょう。
だからこそ、そうした「個人としての視点/軌跡」をぶつけ、重ね合わせて、互いに触発しあっていく必要があると思うんですよね。「どれが一番いいか」とか、「アレよりコレが優れている」とかじゃなくて。そもそもそうしたセレクションの前提となっているはずの「1年間のうちに国内盤が発売された米国ロック」なんて枠組みには、もうほとんど意味なんてないんだから。ヒョーロンカのセンセイ方によるベスト10選考のための協議だって、「ギョーカイのジョーシキ」を前提にしなければ、成立しようがないのは明らかだもんね。
私の選んだ10枚の中で、他の選者と重複した2枚。
今年のベスト・オヴ・ベストか!!


沢井一恵 Farmers by Nature
The Sawai Kazue--十七弦- Out of This World's Distortion
ライヴ・レヴュー「四重奏、三重奏」@喫茶茶会記(2012年3月6日) Live Review for “Quartet, Trio” at Kissa Sakaiki on 6th Mar. 2012
2012-03-08 Thu
【御礼】おかげさまで、前回、前々回のブログで告知のお手伝いをさせていただいた喫茶茶会記における「四重奏 、三重奏」は、店主自らおっしゃるところの「集客における負の魔力」にもかかわらず(笑)、参加ミュージシャンを除いてなお30人超という大入り満員となりました。即興演奏系のライヴで、告知も充分とは言えず、演奏者の滞在も短期でライヴ数も少なく(ということは評判が伝わりにくい)、しかもメンバーはすべて初来日で「追っかけ」するような固定ファンもいないという、これでもかと重なり合う難条件をクリアしての30人超えは、「偉業」というか「奇跡」に属するのではないでしょうか。場所柄か女性のお客様も結構いらしたし。皆さんどーやって「行こう」って決めたのでしょーか。不思議な「同期」というのもあるもんだ‥と(笑)。これがシンクロニシティってヤツでしょーか(爆)。
後でレヴューするように演奏もなかなかよかったし。企画を持ち込まれた松本充明さんと前半で演奏されたミュージシャンたち、企画を快諾された店主福地さん、そしてもちろんスイスの文化基金の支援を獲得し、はるばる海を渡り来日して、優れた演奏をしてくれた4人のメンバーたちに、さらに来場された皆様にも感謝したいと思います。どうもありがとうございました。
1.場の空気
今回の会場はL Roomと呼ばれるバー・スペースとは仕切られた部屋で、このブログでも何回かレポートしている「タダマス」の2人による「四谷音盤茶会」等と同じスペース。全体としては小学校の教室の幅を少し狭くしたくらいだろうか。ただし、一方の長辺を巨大なスピーカーが占領しているので、実際に使える面積はさらに少ない。今回はアップライト・ピアノも演奏に用いるため、ふだんと異なり壁から少し離しているので、演奏スペースはさらに少し削られている。
内装がライヴハウスによくある「コンクリート打ち放し、天井の配管・配線剥き出し」ではなく、きちんと養生され、家具調のテーブルや椅子が配置されているため、いつもは「広めのリヴィングでのホーム・コンサート」の印象で、ミュージシャンたちが「来てくれる」感じが特徴のスペースなのだが、この日は大量の椅子と人が入ったために、ちょっと印象が変わることとなった。天井はさして高くないから、聴衆のせいで響きはだいぶデッドになっただろうし、もともと段差がなく、照明も落とさない、つまりは線引きのない「ステージ」と客席はいつもよりさらに近く、ミュージシャンは圧迫感すら感じたのではないだろうか。ここには珍しく開演前に大声で話していた客がいたのも、ライヴハウス風の雑然とした空気をもたらしていた。ただし、おそらくは様々なルートでライヴ情報を聞き及び、様々な期待を抱えて、吹き寄せられるように集まっただろう聴衆たちは、そこをある種のコンサートで見られるような「社交場」(「いやいや」、「これはこれは」とお辞儀と名刺交換が繰り返されるような)とすることはなかった。
2.四重奏
前半の三重奏(後述)終了後、演奏スペースの配置を転換しての後半。向かって左手壁際に長テーブルにラップトップPCとエレクトロニス、各種音具を並べたD'Inciseが内側を向き、その隣、中央奥左にアコーディオン(右鍵盤/左ボタン)を抱えたJonas Kocher(綴りからすれば独語系の名前だが、仏語圏で生活していて、発音もヨナス・コッヘルではなく、仏語読みでジョナス・コッシュとなるそうだ。お詫びして訂正いたします)、中央奥右にシンバルとフロアタム、音具類を並べたCyril Bondiが並んで正面を向き、向かって右手前には鍵盤から上の部分のはめ板を外して、弦やハンマーを剥き出しにしたアップライト・ピアノに向かうJacques Demierreという∩の字型の配置。
始まって一瞬の沈黙。少ししてピアノの弦を鳴らさずに鍵盤をカタカタ震わせる音が浮かび上がる。だが、もしかするとエレクトロニクスのピチピチコツコツいう音が先だったかもしれない。ドラムが打面をこすられうっすらとした振動をたちのぼらせ、そこにアコーディオンがやはりリードを鳴らさない「気息音」をふーっと吹き込む。その一瞬に場がぐらりと傾き、響きが動いて、景色がひとつに溶け合う。
Demierreが弦を鳴らさずに鍵盤をこすったかと思うと、ピアノの筐体を手で叩き、弦を直接指で弾いて、ハンマーを指先で押さえる動きに典型的に見られるように、彼らはスペースの大きさとメンバーの人数を考慮して、楽器を鳴らさない「静かな」、そして比較的間合いを取った「濃密でない」演奏を目指していた。ただし、先に挙げた各種の「特殊奏法」自体は、個別に見ればもはや単なる「クリシェ」のひとつに過ぎない。今更ピアノを斧で叩き割ろうが、ガソリンをかけて燃やそうが、いったい誰が驚くと言うのか(店主は青ざめるだろうが)。それが彼らの特徴でも、また目指すところでも決してない。
注目すべきはそうした断片がどのようなタイミングでどのように組み合わされるか、そのグループ・コントロール、リアルタイムの編集にある。この日の彼らの演奏では、先ほどの「気息音」による息継ぎの一瞬をはじめ、聴き手の身体の重心が揺らぐように、ふっと世界が傾き、色が変わる瞬間が幾度もあった。その時にはある〈運動〉がグループを貫き、メンバー全員を、いや聴衆を含めて、その〈場〉全体を突き動かしていた(それは皆が同時に同じ動きをするというような意味ではもちろんない)。それがあればこそ、Demierreが鍵盤を両手で引っ掻くような「瞬間クラスター」の乱打を見せ、それにタムの連打とエレクトロニクスのうなりとアコーディオンのクラスターの高揚が応じたラウドな場面が、わざとらしい盛り上がり、「浮いた」パフォーマンスに感じられないのだ。
グループの演奏に息を吹き込んで活きづかせ、あるいは場を傾けて方向や温度、色合いを変える役割は、やはりKocherが務めることが多かった。演奏メンバーのひとりとして音を出すだけでなく、メンバー全員が乗っている演奏の〈場〉に、(紙の力士を乗せた紙相撲の土俵をトントンと叩くように)息を直接吹き込み活きづかせる者。アニマトゥール(animateur ここでは原義通り「息=生命を吹き込む者」)。以前にMichel Donedaの演奏をそう賞賛したことがあるが、彼の現在最良の共同作業者である彼もまた、その資質を見事に有していた。
Kocherはフレーズを弾かない。持続する、あるいはクレッシェンド/デクレッシェンドする気息音のほかは、引き延ばされた高音の持続音や低音のクラスターによるドローン、そしてアコーディオンの蛇腹部分をこすったり、羽ばたくように激しく金具部分を打ち合わせて立てる摩擦音・打撃音がほぼすべてである(この日は見られなかったが、前回のブログに掲載した写真に見られるように、アコーディオン自体を弓弾きすることもあるようだ)。持続音やドローンはそれ自体が、摩擦音や打撃音は点描的な繰り返しにより、一定の層/レイヤーを構成/形成する。このレイヤーを切り替え/差し替えていくことが、そのままここでの彼の即興演奏の核となっていたが、こうした姿勢は他の3名の演奏者にもほぼ共通していた。4人の中でアクション志向が最も強く、「(反応する)身体の運動が楽器の表面に衝突して音が出る」式のところがないでもない(そのことが彼の演奏を他の3人より一世代古いものに感じさせる場面があった)Demierreにしても、やはりレイヤーへの意識はしっかりと持っているように見受けられた。
総体としては、アクションの応酬が時折姿を現す以外は、概ねレイヤーの構成/編集を軸に演奏が進められ、それをさらにKocherがコンダクトする展開だったと言ってよいだろう。Diatribesとしてデュオを組んでいるBondiとD'Inciseは、主にカサカサ、コトコトといったマイクロ・サウンドの探求/交感に深まりを見せ、顕微鏡的な音響世界を開いていた。その次元で他の2人を含めエレクトロニクスとアコースティックな楽器音や物音が混じり合い、あるいは倍音やドローンに浮き沈みして万華鏡のように輝く時が、最も彼ららしい繊細さの際立つ美しい局面だったように思う。だがそれも、決してありがちな箱庭/盆栽的なものにとどまるわけではなく、また単にひねもすのたりのたりした「春の海」状態で放置されるわけでもなかった。気息音により賦活され魅力を増す細部の輝き、あるいは転換を促されて瞬時に、また鮮やかに更新される局面、さらには鍵盤を引っ叩き、タムを乱打し、エレクトロニクスが暴走し、アコーディオンの金具をぶつけ合わせる暴力的な局面に至る「流動のダイナミズム」、リアルタイムの編集をやり遂げる固い決意が、そこに共有されていたことを忘れてはいけない。
Jonas Kocher - accordion
Jaques Demierre - piano
Cyril Bondi - percussions
D'Incise - electronics objects
3.三重奏
順序としては先立って行われた前半の演奏のレヴューを後に記すのは、その方が、そこにある問題が見えやすくなると考えたためである。ここで指摘する問題は、おそらく日本の即興演奏シーン(だけではないだろうが)全体に広く通底しており、彼らの演奏で垣間見えたのは、その微小な断面でしかないだろう。つまり、彼らの演奏が良くなかったというわけではない。「彼らに問題がある」というより、「私たちが問題を抱えている」のだ。
向かって左手前に位置取った松本が簡単に挨拶して、前半の三重奏が始まる。真ん中奥にエレクトリック・ギターを抱えた原田、右手前にはアコースティック・ギターの秋山が彼だけ内側を向いて腰掛けている。
演奏が始まってすぐに音が出ず、まず沈黙が広がるのは最近の流儀だろうか。しばらくして松本がプリペアド・シタール(自作楽器だと言う)のネックを指で探り、ガタゴトと音を立てる。原田が丸みを帯びた単音を疎らに発し、秋山もさほど鋭さのない単音(ガラスの破片のように鋭利な音色こそが彼の持ち味だろう)を幾つか発する。松本が左手のタッピングから弓弾きに転じると、原田が音の透明感を増し、秋山の音色にも鋭さが加わって、時に金属質の「さわり」が付け加えられる。プリペアド・シタールはプリペアドによって特徴的な共鳴弦の鳴りが抑えられるためか、まったくシタールらしい響きがせず、むしろチェロとより小型のヴィオラ・ダ・ガンバの中間のような音がする。それが弓弾きから円みのあるピチカートに転じ、原田がディレイによる光背を希薄にたなびかせ、秋山が手元で立てるノイズを幾つか試してみる。続いてシタールのフレット上のパタパタした軽い打音とエレクトリック・ギターによる最高音の点描が束の間相互に浸透し、その上にアコースティック・ギターが引き絞られた弦による研ぎ澄まされた音色を書き込むと、演奏はそのまま一種の硬直状態に陥った。
3人が束の間ではあるにせよ、時間空間を鮮やかに共有した体験を畏れるためか、それともそれを再現しようとしてしまうためか、3人は見えない壁で遮られているが如く、その外へ出ることができない。彼らはそれぞれに残りの手持ちカードを次々切っていくことになる。松本は弓弾きの音色を限りなく細め、さらにネック部分に弓を向かわせ、また低弦のピチカートを歪ませてみせる。原田はむしろ接触不良的なノイズを長い間を置いて短く放ち、ディレイをかけたアルペジオを際立たせる。秋山は筒状の音具によるボトルネック奏法や滑走音を、別の音具による切り詰めた音色と対比させる。それぞれの演奏の出来が必ずしも悪いわけではない。しかし、それが他の2人に伝播していかない。それゆえ全体を貫く流れが生み出されない。むしろ、そうすることを避けているように見える。具体的な音で示すのではなく、雰囲気で感じ取れと。わざわざ口で言うのは下品(あるいは失礼)だと。だが、それは言わば「空気を読みすぎた」演奏なのではないか。
子どもたちはそれぞれ別々に積み木のお城をつくる。つくってはこわし、少し積み上げては、またすぐ別の形を試してみる。ある〈かたち〉をつくりあげてしまうことを恐れているかのように。そうしたらもう遊びが終わりになってしまうかのように。横で遊んでいる他の子どもの手元は見ようとしない。いっしょに遊ぼうともしない。しかし、使う積み木の色や形、大きさは不思議なくらい似通っている。誰かがあらかじめ厳しいルールを定めたかのように。それはあまりに「too much Japanese」な光景ではないだろうか。「ベタとネタを自在に使い分ける高文脈依存文化」としてオタク的日本文化を手放しで賞賛する向きがあるが(この日演奏した彼らがそうだというわけではない)、本当にそれは喜ぶべきことなのか。
即興演奏の現場に放り込まれた演奏者は孤独である。演奏に向かう彼/彼女を救ってくれるものは何もない。自ら声を上げ、手を伸ばすしか方法はないのだ。ずっと周囲を迂回していたプリペアド・シタールが、ふと音色に鋭い切れ込みを見せると、エレクトリック・ギターの散布していたノイズがこれにすっと絡みつく。他人の土地へ横断するところにこそ対話は生まれよう。
あるいは禅寺の石庭のように枯れ切ったサウンドの点描配置で良いのだ、それをこそ目指しているのだと言うのだろうか。だが、それではあまりに禁欲的に過ぎるし、第一それならそれで別の探求の仕方があるはずだ。箱庭/盆栽的であることが洗練の極ではないだろう。
秋山徹次 - guitar
原田光平 - electronics, guitar
松本充明 - prepared sitar
2012年3月6日(火) 20:00~ 綜合藝術茶房 喫茶茶会記

喫茶茶会記 バー・カウンターからの眺め
撮影:原田正夫