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福島恵一

Author:福島恵一
プログレを振り出しにフリー・ミュージック、現代音楽、トラッド、古楽、民族音楽など辺境を探求。「アヴァン・ミュージック・ガイド」、「プログレのパースペクティヴ」、「200CDプログレッシヴ・ロック」、「捧げる-灰野敬二の世界」等に執筆。2010年3~6月に音盤レクチャー「耳の枠はずし」(5回)を開催。2014年11月から津田貴司、歸山幸輔とリスニング・イヴェント『松籟夜話』を開催中。

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〈風景〉と〈建築〉に関するノート - 正弦波が描き出してしまう〈風景〉【補足】  Notes on "Landscape" and "Architecture" - Sinewaves End Up Drawing "Soundscapes"[supplement]
 多田雅範の問題提起を受けて前回掲載した「正弦波が描き出してしまう〈風景〉」について、早速、彼が自身のブログで反応を返してくれた(*1)。その中で、採りあげたLucio Capece / zero plus zero (Potlatch)について、allaboutjazzにディスク・レヴューが掲載されていること(*2)やyoutubeにCapeceの演奏動画があること(「3.見ることと聴くこと」参照)も教えてくれた。今回はそれらに聴取/思考を触発されて、聴き思い巡らしたことを少し書いてみたい。
*1 http://www.enpitu.ne.jp/usr/7590/diary.html
*2 http://www.allaboutjazz.com/php/article.php?id=41879


1.humanity

 Capece自身のブログには、ウェブ上に掲載された『zero plus zero』のディスク・レヴューのURLが3件紹介されているが、そのうち英語で読めるのは前記のallaboutjazzのものだけである。これについてまず見てみよう。
 レヴュー執筆者はJohn Eyles(*3)でFree Improv / Avant-Gardeの担当。最近ではちょうどPotlatchからの前作Keith Rowe & John Tilbury / E.E.Tension and Circumsance(RoweのAMM脱退後、しばらくぶりの2人の共演とあって話題を読んだが、私の印象では出来は今ひとつだった)等について書いている。
*3 彼のプロフィールについては次を参照。
http://www.allaboutjazz.com/php/contrib.php?id=112

 彼は『zero plus zero』におけるCapeceの使用楽器/音源について説明しながら、Capeceがソプラノ・サックスとバス・クラリネットの演奏にますますプリパレーションを加えるようになり、さらにシュルティ・ボックスによるドローンを採用することとなった変化を指摘し、本作の各トラックで中心になっているのは、管楽器ではなくシュルティ・ボックスとエレクトロニクスのサウンドであるとする。そしてさらにシュルティ・ボックスの演奏(特に微妙な音色の変化)が人間性(humanity)と創造性を要すること、Capeceの演奏が管楽器から離れ、様々な音素材を扱いながら「音風景の異なる要素をひとつに織り成す」ことで、その音楽性の高さを証し立てているとしている。
 ここで「人間性(humanity)」という語は注釈が必要だろう。おそらくここでEylesはラップトップPCによるエレクトロニクス(即興)演奏(あらかじめ設定された正弦波音やグリッチ・ノイズだけを用いたり、あるいは何らかのソフトを走らせて演奏を「自動生成」させることも多い)を思い浮かべながら、そうした〈機械〉による演奏に〈人間〉を対比させ、〈人間=演奏者〉が楽器/音源の音を出し変化させるプロセスに直接関わり、微妙で多様な、そしてもちろん変化に富んだ豊かな結果をそこから引き出すことを、この語に込めているものと思われる。そうしたことは、本作でhumanityの要素が一番薄い、正弦波だけを用いた「Spectrum of One」について、彼が組曲「Inside the outside」の中に置かれた「口直し」だと軽く片付けていることにもうかがわれよう。

 前回批判の対象とした「演奏の素材として正弦波を選択した時点で終わってしまっている、演奏の名に値しない『演奏』」が、ラップトップPCを用いた即興演奏に(場面として)よく見られることを思えば、「人間の関与が足りない」という主張はよくわかる。レディ・メイドの音素材を用いるのではなく、演奏者が探求を通じて音をつくりあげていく姿勢を彼はCapeceに見て取り、それが管楽器のプリパレーションと同様、シュルティ・ボックスやエレクトロニクスの「演奏」にも及んでいることを高く評価しているのだろう。このことには同意できる。しかし、こうした見方では、Capeceの演奏においてプリパレーションやドローンが、音の不確定性を高め、より顕微鏡的な微細な変化に焦点を当てることを目指して採用されていることをとらえそこなってしまうのではないだろうか。操作性を高め、楽器/音源を意のままにコントロールすることよりも、音が演奏者の手を逃れ、指の間から溢れ出てしまうことが、むしろそこでは求められているのだ(もちろん、それは偶然に頼ることとは異なる)。
演奏が演奏者の手によってつくりだされることを認めた上で、そこで生み出された音を、空間を、時間を、すべて「演奏者の手」に送り返してしまうのではなくとらえることが必要なのではないか。そうした演奏/聴取を成り立たせるものとして、前回、〈風景〉というキーワードを、今更のように持ち出したところだ。

 ここで〈風景〉と言う時、その対概念が何であるがが問われるだろう。これまでこのブログでは繰り返し〈風景〉をテーマにしてきた。そこでは、フリードリヒの絵画やフランシスコ・ロペスのフィールドレコーディングを参照しながら、「人間の姿のない崇高な風景」について多くを語ってきたように思う。それでは〈風景〉とは〈人間〉に対するものなのだろうか。
多田雅範は前掲のブログ記事で、森本恭正「西洋音楽論・クラシックに狂気を聴け」(光文社新書)の記述を思い浮かべながら、彼一流の直感に従って「日本の音楽は風景なのだ、自我ではないのだ。」と書きとめている。それもひとつの答だろうと思う。
このことについては、これからも引き続き考えていかなければいけない。しかし、ここは多田の直感に触発されて(突き動かされて)、私もとりあえず頭に浮かんだ語を「えいやっ」とばかりに思い切って書き付けて、自らに宿題を課してしまうとしよう。それは〈建築〉の一語である。なにゆえ〈風景〉と二項対立をかたちづくるべきものとして、〈建築〉が召喚されねばならないかについて、とりあえず頭に浮かんだこと、いま考えていることを、以下で走り書き風に述べてみたいと思う(「ノート」とする所以である)。





2.〈風景〉と〈建築〉
(1)〈建築〉とは

 最初に断っておけば、ここで〈建築〉とは、語を囲む〈 〉が示すように、具体的な建築物(建物等)を指すものではない。あえて定義を試みるならば、それは次のa~cの3点により画定されるような対象である。
a ひとまとまりの理念/原理に基づいていること
b 限りのあること、輪郭のはっきりしていること
c 体系的であること、寄せ集めでないこと

 ウィトルウィウスの建築論が「用強美」の理念のもとに各部位の配置と比例寸法を確定し、建築の輪郭を明らかにし、さらにアルベルティが建築を基礎づける要素として円柱のオーダーに着目し、この比例配置によりそのシンタックスを確定・遂行していったとすれば、この3点はそもそもの建築の原理に適うもののはずである。そして、近代建築の機能主義が、必要な機能を個別かつアドホックに付加し寄せ集めていくのではなく、それらの関係性を整理し、適正な配置/空間を配分していくことである以上、たとえことさらに各歴史様式のコラージュやグリッドに対するデコンストラクションが強調される現代の「ポスト・モダン」建築であっても、建築である以上、常にそうしたものであり続けていると考えることができる。そのことが建築を主体的な営為の産物としているのだし、建築家という存在を成り立たせているのだとも言えよう。
ここで話を整理するために、建築物、あるいは見かけ上「建築的なもの」でありながら、上記の定義に当てはまらない例を挙げて考えてみよう。たとえば郵便配達人フェルディナン・シュヴァルが黙々とつくり続けた理想宮や、クルト・シュヴィッタースがやはりつくり続けたメルツ建築(メルツバウ)等について。
 シュヴァルがつくり続けた奇怪な建物(写真1・2)は、確かに建築物=建物であることは疑いない。だが、しかし、それが基づいているのが、たとえ彼の妄想/強迫観念という「ひとまとまりのもの」であろうと、その際限のなさ、限りない増殖による絶え間ない輪郭の描きなおしによって(それはドゥルーズ/ガタリ「アンチ・オイディプス」の冒頭に引用されたいつまでも制作し続けられ、もはや机ではなくなっていく「分裂症患者の机」のエピソードを思い出させる)、そして何よりもその体系の不在により、やはりここで言う〈建築〉には当てはまらない。また、シュヴィッタースのメルツ建築(写真3)は、むしろ大きさとしてはオブジェやモニュメントと呼ぶべきものであるが、その各部分の寄せ集めぶり、特に彼が拾い集めたクズや友人知人から集めたオブジェ類(吸殻やペンや尿!)を収めた各スペースの立体コラージュ的構成から、その名称にもかかわらず、やはり〈建築〉とは呼べないものとなっている。

【写真1】              【写真2】              【写真3】
  

(2)〈風景〉とは

 そうした〈建築〉との対比でとらえるならば、〈風景〉とは、あるひとつの「相貌」を浮かべることにより、見る者に語りかけながら、単一ではない複数の原理によりかたちづくられており、本来的に寄せ集め、出会いにより構成されたものと考えることができる。
 d ひとつの「相貌」を持ち、見る者に語りかけること
 e 単一ではない複数の原理によりかたちづくられること
 f 体系を成しておらず、各部分が出会ったことによる寄せ集めであること

 別に「風景デザイン」を否定しているわけではない。たとえばアラン・レネの映画作品「去年、マリエンバートで」に登場する左右対称な整形庭園(写真4)は、風景の中で最も建築的なものであるだろう。だが、そうしたフランス式整形庭園の代表と言うべきヴェルサイユ宮殿の庭園は、かつて管理のための予算が底を突き、樹木は勝手に伸びあるいは枯れて荒れ果てていた時期があるが、そうして数学的な対称/均衡が崩れたからといって、庭園が風景であることを止めるわけではない。むしろ廃墟化することによって、風景としての魅力をいや増すことになるだろう。しばらく前にこのブログで採りあけたピラネージ(図版1)やユベール・ロベール(図版2)、あるいは何度も触れてきたカスパー・ダーフィト・フリードリヒ(図版3)らが、建築物の廃墟を魅惑的な風景画に仕立てていたことを思い出そう。〈建築〉と言うひとつの原理に基づく確かな輪郭/体系が、他の原理(腐食、浸食、崩壊、植物の繁茂等)によって不可逆な変化を遂げ「廃墟化」することにより、そこに魅惑的な〈風景〉が現れてきたのではなかったか。
 通常「環境音楽/アンビエント・ミュージック」の語が用いられる場合、そこでの風景は聴き手/視点との関係付けをあらかじめ色濃く含んでいる。それは言わば「風景に棲みつく」ことを前提にしている。「廃墟化」はそうした親密な関係性、安心して憩える「ライナスの毛布」を剥ぎ取り、見慣れぬ〈風景〉を現出させる(以前に「アンビエント」のディストピア化として示した理路である)。
 もちろん、「廃墟化」だけが〈建築〉を〈風景〉にするわけではない。視野を広げて、周囲の環境を取り込んでいくだけでよいだろう。森の深さが、土地の起伏が、空/雲の表情が、天候の変化が、それを〈風景〉にする。それらが〈建築〉の単一性/体系性を崩し、複数化/ブリコラージュ化するならば。それは〈建築〉のある一部分をクローズ・アップし、他から切り離すことによつても可能だ。

【写真4】


【図版1】              【図版2】              【図版3】
  

(3)〈風景〉をかたちづくる〈空間〉

 前述の〈建築〉の定義a~cと〈風景〉の定義e,fの対比について、「廃墟化」による多元化、輪郭の崩壊に即して述べてみた。残るdは「相貌」を持つことが風景の成立する当然の前提であるというだけでなく、サウンドスケープとしての〈風景〉の成立を意識している。
 ある音の集まりをサウンドスケープと呼ぶには、ただ複数の異なる音が〈真空〉中に切り離されて点在しているだけではなく、それらの関係性としての〈あいだ〉、響きとしての〈空間〉、奥行きとしてのパースペクティヴの存在が求められる。実際、フィールドレコーディング作品を聴いている時、私たちはそこで発せられる音だけでなく、発せられた音がたなびき、重なり合い、溶け合いながら希薄化し、沈黙へと還っていく〈空間〉をいっしょに聴いている。と言うより、音の周辺に広がるそうした〈空間〉の感触こそが、それが〈風景〉であることを保証し、サウンドスケープを成立せしめているのように思われる。もちろん、これまで何度も述べてきたように、ここで〈空間〉とは遠近法的均質空間ではない。むしろ、音/響きがそれぞれにかたちづくる固有の空間(それぞれ質の異なる)のモザイクであり、ヘテロトピックなものであるだろう。
 これは聴き方/とらえ方の問題ともなってくる。4人のミュージシャンによる演奏を、同一の空間を共有した(実際には空間はほとんど意識されないことになるが)4つの音と見るか、あるいは多様な空間のモザイクを奥行きとして持つ、ひとつの響きの〈風景〉ととらえるか。Derek Bailey, Michel Doneda, Le Quan Ninh, John Butcher, Rohdri Davies,Jonas Kocherらによるフリー・インプロヴィゼーションを、Francisco LopesやGilles Aubryによるフィールドレコーディング作品と同じく、後者の視点から聴き取ることができるだろう。
 先に述べた多様な質の〈空間〉の存在は、決してサウンドスケープだけに当てはまるものではなく、ピラネージについてみたように〈空間〉を描いた絵画作品にも(一部の風景画はもちろん、ジャクソン・ポロックにも)、そして、おそらくは実際の風景の眺めにも当てはまるように思う。たとえばヴァルター・ベンヤミンが「アウラとは何か」について、「どれほど近くにであれ、ある遠さが一回的に現れているものである」とし、夏の午後の静かな憩いの中の「地平に連なる山なみ」と「憩っている者の上に影を投げかけている木の枝」について語りだす時(「複製技術自時代の芸術作品」)、彼はそこに均質ではない、多様な質/手触りを持った空間を見ていたのではないだろうか。

(4)〈風景〉と〈建築〉二題

 ここでサウンドスケープに関する〈風景〉についてさらに明らかにするために、具体的な作品を2点採りあげてみたいと思う。共に最近聴いたCDだが、言わば1点目が「〈建築〉の〈風景〉化」、対して2点目が「〈風景〉の〈建築〉化」と対比的にとらえられるように思う。


taus - tim blechmann & klaus filip / pinna
another timbre at49
tim blechmann(laptop computer),klaus filip(laptop computer),
試聴:http://www.youtube.com/watch?v=xObHq_di1w4&feature=related
参考:http://www.anothertimbre.com/page131.html
 奥行きを見通すことができない厚みのある手触り。暗闇に眼を凝らす時に現れるちらつきや波打つような震え。数多くの色の糸くずがひとつになってつくりだす暖かく毛羽立ったグレー。陽が傾いて影が伸び、急にものの輪郭が薄闇に溶け出すなかで何者かがうごめき、ざらざらした紙になすられた木炭のかすれ/肌理の中から、不可思議な形態が浮かび上がり動き出す‥‥。本作に耳を傾ける時、最初に惹きつけられるのは、そうした生々しい空間の息づき/ざわめきである。最初、それは当然フィールドレコーディングされた環境音の加工/演奏によるものと想像した。しかし、上記「参考」ページに掲載されたtim blechmannへのインタヴューによれば、彼らはフィールドレコーディング素材は一切用いておらず、それどころかfilipは正弦波のみ、blechmannはノイズ・テクスチャーとパチパチ音(crackle sounds)だけしか演奏していないと言う。そう言われて再度耳を傾けると、幾何学的形態にすら至らない、直交座標と点のプロットだけのような還元し尽くされた構築がほの見える。しかし、それは空間に広がる厚く混濁した闇に、にじみとにごりに、数知れないざわめきに解体/分解され、〈風景〉の中に紛れ込んでおり、魚の小骨ほどにも触らない。
再びインタヴューによれば、本作は教会で行われたデュオ・コンサートのライヴ録音で(写真5・6)、5~6台のスピーカーから空間に放出された音をマイクロフォンで収録したものであり、私が聴いていたのは、彼らの発した音だけではなく、客席を6割ほど埋めた聴衆の発する気配、屋外からしみこんでくる小鳥のさえずりやトラフィック・ノイズ等が、天井の高い石造りの空間が立てる物音(対流ノイズや軋み等)と混じりあい、さらに広大な空間に響きあうことを繰り返して織り上げた響きの総体(長い残響時間は、響きの織物をその織り目が判別できなくなるほど幾重にも敷き重ね、さらに薄闇に溶かしていく)にほかならなかった。ぎりぎりまで削ぎ落とした音響の構築がつくりあげるはずの〈建築〉は、〈空間〉の曖昧な豊かさに消化吸収されてかたちを失い、〈風景〉の一部となる。ただし、それは「演奏者の意に反して」ということではない。blechmannはこの録音をCDリリースの対象とした理由を「コンサートの雰囲気を本当にとらえていることにすごく驚いたから」と語っている。ゼロから始め、真っ白なキャンヴァスの上に何かを描き出すのではなく、すでにある響きに耳を傾け、そこに一筆を付け加え、あるいは差し引くことにより、注意を促す演奏。
【写真5】          【写真6】
 


Emmanuel Mieville / Four Wonderings in Tropical Lands
baskaru karu19
試聴:http://www.baskaru.com/karu19.htm
 川の流れ、犬の吠声、人の話し声、遠く離れた自動車の通過音、通過するサイレン、頭上を通り過ぎる飛行機、ニワトリの鳴き声、そしてその手前で繰り広げられるせわしなく金属片をかきまぜ、木製の筒を転がすアクションの生み出すランダムな音のしぶき。あるいは環境音にヴェールのようにかぶせられるエレクトロニクス。手前での「演奏」がそれ以外の音を背景に退けていく。背景に眼を凝らせば、それが空間的にも時間的にも、あまりにも「等間隔」でわざらしく配置されていることにすぐさま気付くだろう。過不足なく視界を埋め、間断なく生じる様々な響き。そこに時折クローズ・アップの効果が加わる。クレジットによれば、おそらくは金属製や木製の音響彫刻を叩いているらしい「演奏」は、独自の空間性を帯びてはいる(間近で聞こえたり、少し離れて距離を震わせたり)が、背景音のクローズ・アップの操作とよく似た軌跡を描くことで、その空間の独自性は薄められる。いや、それは話が逆で、演奏の構築性と同じ原理により、背景音を組み立てているのだ。水の流れ、彼方の交通騒音、雨音、小鳥のさえずり、カエルの合唱、蝉時雨といった持続音が地=遠景となって空間を塗りつぶし、通り過ぎるサイレン、犬やニワトリの鳴き声、人の話し声、観光客のあげる歓声、あるいは先の持続音からの部分的なクローズ・アップ等が、図=近景としての「演奏」と地=遠景の間を埋める緩衝地帯=中景となる。さらに一部で聞こえる中国語やマレー語による語りもMievilleにとっての「異国語」であり、動物の鳴き声同様、意味を伴わぬサウンドとして取り扱われていることに注意しよう(印象的に流れるコーランもまた)。すべては均等にサウンドで埋め尽くされる。ここに〈空間〉はない。近景/中景/遠景はひとつの枠の中にわかりやすく納まり、ひとつの平面をかたちづくっている。「演奏」の、そして中景の音の出入りのせわしなさは、むしろ彼の「空間恐怖」をすら感じさせる。ここに示されているのは、タイトル通りエキゾティシズムのふんだんに香る「塗り絵」にほかならない。風景は再構成され、紛れもない〈建築〉へと仕立てられる。なお、本作はコスタリカ、ペルー、香港、マレーシアで録音されている。


3.見ることと聴くこと

 最後にLucio Capeceの演奏動画について簡単に触れておきたい。
冒頭に記したallaboutjazzのディスク・レヴューでは、彼がカーヴド・ソプラノ・サックスに様々なプリパレーションを施しながら演奏する様をとらえたyoutube掲載の動画(*4)を参考に掲げている。それは2006年の演奏の第2部で、youtubeを検索すると同じ演奏の第1部(*5)や、同じく2006年に別の場所でやはりカーヴド・ソプラノ・サックスを用いたフィードバック演奏(*6)の動画を見ることができる。
*4 http://www.youtube.com/watch?v=ZNXweQX1gnQ&feature=relmfu
*5 http://www.youtube.com/watch?v=DrRNLQCr7BY
*6 http://www.youtube.com/watch?v=YG3k6emxrxQ&feature=relmfu

 そこで行われている演奏では循環呼吸により音を出し続けながら、キーの操作を左手のみで行い、空いた右手で次のA~Cのようなプリパレーションを行っている。少し前の動画なので、その後に開発されたテクニックもあるだろう。たとえば『zero plus zero』では行っているボール紙製の管の使用はまだ見られない(たまたましていないだけかもしれないが)。
A サックス本体(リード部分を含む)を弓で弾く
B サックスのベルに音具(※)を挿入する、あるいはベルにふたをかぶせる(ON/OFF)
※プラスチックのカップ、金属の筒、プラスチックのふた、ピンポン玉、バイブレーター等
 C マウスピースを外し、直接、あるいは別のチュープをはめて吹く

 最初に動画を見た時、まるで台所のテーブルで小学生が夏休みの工作や実験をしているような、そのあまりにローテクなDIYぶりに驚かされた。動画では音がきちんと拾えていないため充分な確認は出来ないが、『zero plus zero』でも同様の手つきで演奏を行っているのは確かだろう。少なくともこれらの動画では、各プリパレーションがいかにもなサウンドを引き出しており、そこに意外性は少ない。逆に言うと、彼のアクションを見ていると妙に納得してしまい、響きの不思議さに惹きつけられる度合いが薄くなるような気がする(トリックの種明かしで興味が半減すると言うことではない)。
 彼の演奏する姿を見ずにCDに耳を傾けている時には、とらえ難い不定形の響きを追ってそばだてられ、懸命に手探りしていた耳が、動画を見ている間は、彼の身体の動きをとらえる眼の後を、うなずきながらおとなしく付き従っていく。もちろん、実際に眼の前で繰り広げられているライヴ演奏であれば、視線を分散させ、耳を眼の束縛から解き放つこともできるのだが、画面サイズが小さく、サウンドの貧弱な動画では、映像を追いかけることに注意が集中して、耳が置き忘れられてしまうように思う。
一方ではさんざん恩恵にあずかっているのだが、youtube動画で演奏を見ることの危うさを感じずにはいられなかった。



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ディスク・レヴュー | 21:46:40 | トラックバック(0) | コメント(0)