2012-09-30 Sun
前回の論稿「多田雅範の文章世界-疾走する眺めは人生の本質的なランダムネスを思い出させる」に対し、多田雅範が自身のブログで早速レスポンスを返してくれた(*1)。*1 http://www.enpitu.ne.jp/usr/bin/day?id=7590&pg=20120930
「音楽のことなのに日常生活の記述が入り込むスタイル」は、友人とカセット・テープの交換をしていた18歳の頃からのものだという。「キチンと音楽のことを書ききれないので雑談するのだ」と彼は書いている。確かに最初はそうだったのかもしれない。しかし、そうした記述が継続の中で練り上げられるにつれ、それはむしろ音楽を聴くことが日常生活の一部であり、「いま・ここ」を離れた記憶に結びついていることを見出すに至ったのではないか。
私の場合、音楽/音について書くことは、単に目の前で起こっていることをとらえるだけでなく、それを言葉に置き換えるために、音/響きの綱を伝って、意識の深みへと潜行し、同質の感覚/体験を表す言葉や情景を探り、それをつかんで再び浮上し、それを文章として配置し直すプロセスを必ず含むものである。書くこととはすべてそうなのかもしれないが、身体の奥底深くに積もった記憶の層をくぐり抜けることを必要とする。多田の文章は、その「夢」的な記述を通じて、そうした記憶の層に深く強く結びついていることを明らかにしている。
前回の論考の中で、自分(=福島)が書いたディスク・レヴューの一節が、多田に引用されることによって変容する旨を記した。それはたとえば言葉を抽象的なイメージの連なりから引き剥がし、具体的な体験の断片へと変えてしまう。「うつらうつらとした夢うつつのうちに気がつくともう遠く通り過ぎている夜汽車の踏み切り」は、列車の座席の固さや窓ガラスの冷たさを思い出させ、「鳴り終わってから気づく階下の大時計の打刻鳴鐘」は古い家屋の軋みや遠い風鳴りを伴い、「とうに灯明を消したはずの仏間から漂ってくる香の匂い」は湿った畳や古い座布団の匂いと混じりあって眼に見えるほどはっきりとした際立つ強い香りとなる。
そうした感覚を、多田の許しを得てブログ掲載の家族写真を並べることにより、視覚の助けを借りて幾分かでも補足しようとしたのだが、あまりうまく行かなかった。多田は「この夏のお墓参りの集合写真、40年前の親族写真が、他人の読みと手によって、ぼくの目の前に現れるとき、この写真の人たち(この世にいない人も多数)が、ぼく(のテキスト)に会いに来てくれたような」感情を持ったと記しているが、それは私の論稿に対する過大評価で、私は単に、見かけ上は音盤を語る彼の文章の背後に「彼ら」が、「彼ら」と過ごした記憶が、深いドローンのように鳴り響いていることを指摘したに過ぎない。
前回の論稿では私の力不足で、多田による夢の記述の素晴らしさを充分に描き出すことができなかった。幸いなことに、今回、多田は自身が以前に記した夢の記述の幾つかに、今回掲載の記事(前掲のURL参照)の最後でリンクを張ってくれている。ぜひ、彼によるオリジナルの、とりとめなくかたちを変えながら、足元から崩れ去っていくような記述を実際に読んでみていただきたい。
夢の記述と言えば思い出すのが内田百『冥途』





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多田雅範の文章世界-疾走する眺めは人生の本質的なランダムネスを思い出させる Masanori Tada's Composition World-Views Running in Full Career Remind Me Essntial Randomness of Life
2012-09-28 Fri
多田雅範のブログ『Niseko-Rossy Pi-Pikoe Review』にウェブ・マガジン『Jazz Tokyo』掲載予定の「タガララジオ31」の元原稿がアップされている(*1)。執筆している本人は「CDジャケット写真の掲載やレイアウトあっての連載コラム」と謙遜(自嘲?)しているが、むしろレヴュー対象盤のジャケット写真はおろか、アーティスト名も作品名もなく、ましてやレヴューの区切りすらわからないノンストップ・パワープレイのこの掲載方式の方が、彼の言葉の力、文章世界のマジカルな魅力が伝わってくるように思う。*1 http://www.enpitu.ne.jp/usr/bin/day?id=7590&pg=20120924
それは「疾走」の力だ。言葉が走っているのではない。描き出され浮かび上がる眺めが場面が風景が、矢継ぎ早に後ろへと飛び退り、疾走しているのだ。以前にも例えた「笑わない喜劇王」バスター・キートンの疾走のように、彼自身は走り続けながらも画面の中央から動かず、背景だけが物凄い速さで流れ、くるくると入れ替わり、彼は切り立った急な崖を転がり落ち、汽車に追われながら鉄道線路をひた走り、さらには走る列車の屋根の上を爆走し続ける。
だからまわりの景色は気がつくともう変わっている。筆者の眼差しも、口調も、話題も、それに対する読み手の位置関係も。事実とフィクションの垣根を軽々と跳び越え、美化されているだろう思い出を散りばめ、錯誤を含んだ記憶のかけらを振り落としつつ、風景はあてもなくひた走る。以前に彼の「ノルウェー大使館コンサート事件」を例に挙げて、事件を出来事をドミノ倒しのように起こし続け、地球の自転の速度を遥かに追い越していく彼の爆発的な行動力を伝えたが、今回の速度はさらに言葉/文章の力に拠っている。
この「いつの間にか変わっている」滑らかな不連続性、切断面を明らかにしない飛躍は、まるで夢の展開を思わせる。気がつくと場面が転換し、物語が変容して、物の形や大きさ、有無さえ移り変わり、忘れかけていた誰かがふと姿を現し、自分だけしか知らないはずの記憶が「みんな」によって繰り返され、「私」はいつの間にかそのひとりとなって私の視界の中に姿を現し、何やら聞き覚えのないセリフを話している。
実際、多田はよく夢の話を書いている。そこに横たわる夢にしかありえない「リアル」な手触りは、背筋をぞくりとさせ、胸をぎゅっと締め付ける。他人の夢なのに、まさに「夢である」そのことによって私の中に入り込んできてしまう夢の不思議さが、そこには確かに保たれている。
「ふと気がつくと変わっている」からには、時間の経過が飛躍あるいは圧縮され、そこで起こっている移動や変形、出現や消失の瞬間が欠落しているのではないかと、後から訝しく疑ってみたりもするのだが、そのようには感じられない。夢の世界を支配しているのは夢の論理や夢の感覚なのだから。そうした夢の論理をフロイディズムやバイロジックがどれほど明らかにできているのか私にはわからないが、多田の夢には性的な隠喩/象徴があからさまに欠けているのは確かなように思う。あるいは(無意識的な)事後の検閲によるものかもしれない。たぶんそうなのだろう。だがそれでも、そこには後から順序付けられた夢の「わざとらしさ」が感じられない。話題は、場面は、言葉は、自由気ままに散乱しながら、常に思い出や記憶と強く結びついている(たとえそれが仮に事実とは異なる誤った思い込みである場合でも)。ここで「いつの間にか変わっている」唐突さは、人生そのものの剥き出しの唐突さ、ランダムネスにほかならないと言うかのように。
といって、それは決して拾い集めただけの記憶のかけらのブリコラージュではない。それは彼による引用の特異さ、再文脈化の力の強さを見ればわかる。今回の文中に「あるいはうつらうつらとした夢うつつのうちに気がつくともう遠く通り過ぎている夜汽車の踏み切りや、鳴り終わってから気づく階下の大時計の打刻鳴鐘、とうに灯明を消したはずの仏間から漂ってくる香の匂いを。古井由吉の作品から聴こえてくる誰のものともつかぬ(死者の)声を思わせる音の手触り」と私(=福島)自身によるJakob Ullmannの作品に対するディスク・レヴューからの一節が引用されているが、もはや書いた本人にすら身に覚えがないような変貌した固有の輪郭、不可思議な独特の響きをたたえている。もともとの書き手が自らの書いた文章の自身への帰属を希薄に感じ、誰か他人の言葉のように思えてしまうのは、それだけ文章が遠く奪い去られ、新たな文脈に深く埋め込まれているからだ。そして多田の場合にはもうひとつ、先に述べた疾走する風景の一片としてたちまちのうちに通り過ぎ、そこへ他の異なる景色がひしめきあうように押し寄せてくるからにほかならない。彼は「これは夜中の天空の集会所で鳴っている音楽だ」と高らかに宣言するや否や、その響きのかそけさが静かな場を要することを指摘し、虫の音の喧騒さに言及し、宮沢賢治や稲垣足穂を召喚し、「タルホロジー」を歌うあがた森魚を連れてきて、彼がプラネタリウムでライヴを行った際の限定CD「雪ヶ谷日記」が聴きたいと言い出す。多田の記憶を介して、回想/想起/連想の一部として再浮上することにより、書き写された言葉はまったく別の輝き/手触りを放っている。
喪失を笑い飛ばし、出会いに涙しながら、記憶の風景は疾走を続ける。偶然を喜んで受け入れ、錯誤を深く愛しながら。それは以前に述べたように踏み外しの連続でもある。そうした中から、夢を、記憶を、人生を、高らかに肯定する宣言が力強く響いてきて、読み手の背中をドンと叩いて元気づけてくれる。





※写真はすべて多田雅範のブログから転載
2012-09-22 Sat
前回のFtarriインタヴュー記事に応えて、鈴木美幸さんからFtarri水道橋店の店内の写真が送られてきましたので、さっそく掲載させていただきます。
まずは入口の二重ドアを開けて、店内のショップ・スペースを見込んだところ。
この左側にカウンターがあります。
キチネットもあってちょっとバー・スペースぽいですが、
ライヴ時のドリンク等の提供は行っていません。
CDが並んでいる棚の下段には茶道具等が並べられていて、
不思議に落ち着いた雰囲気をつくりだしています。
写真の左側にはTシャツが壁に掛けられていたりするのですが。
左奥のヒョウタンの右側には、100円均一の文庫本コーナーのカゴが置いてあります。
ここだけちょっと露店感覚。

さらに進んで手前にある平置台を含め、ショップ・スペースの全体をとらえた1枚。
よく見れば何のCDが並んでいるか、ジャケット・デザインでわかる方もいるはず。

さらに一歩進んで、真横からショップ・スペースをとらえた1枚。
ちょうど背中側がライヴ・スペースに当たります。
そのライヴ・スペースでのライヴの様子はたとえば下の写真のような感じ。

2012-09-20 Thu
このブログでも以前にお知らせしましたように(*1)、オンライン・ショップFtarriが水道橋に実店舗をオープンしました。これを機会に店舗としての、レーベルとしての、そして「場」としてのFtarriについてメール・インタヴューを試みることにしました。鈴木美幸氏から寄せられたご回答を以下にご紹介いたします。実店舗開店後まもなくで、御多忙の中、インタヴューに御協力いただいた鈴木氏に感謝いたします。どうもありがとうございました。この記事がこの素敵なお店を皆さんに知っていただくことに、少しでも貢献できればうれしいです。*1 http://miminowakuhazushi.dtiblog.com/blog-entry-180.html
まずFtarriのショップ・ポリシーというか、なぜオンライン・ショップFtarriを始められたのかという点についてお聞かせください。
Improvised Music from Japan のサイトは1996年にスタートしましたが、日本で活動する即興演奏家を海外に紹介するのが目的だったので、当初は英語版だけでした。日本語版はミュージシャン自身か他の人がそのうち作るのでは、なんて考えてました。でも当時はホームページを作ることがまだまだ珍しくて、どこからか日本語版が出現する様子もなかったので、じゃあ日本語版も作ろうということになりました。2001年にはレーベルを立ち上げて、CDのリリースも始めました。オンライン・ショップは2002年の春にスタートさせ、同年12月に年刊誌『Improvised Music from Japan 2002-2003』を出版しました(結局、毎年出版する計画は数年で頓挫しましたが)。
2000年代に入って活動が慌ただしくなりますが、これには理由があります。90年代後半はIMJサイトの更新だけをやっていましたが、それでも紹介するミュージシャンの人数が増えるにつれて、どんどんと時間が足りなくなってきました。当時、私はフリーランスで翻訳の仕事をやっていましたが、仕事とサイトの作業との間で時間のやりくりがどうにもならなくなってきたので、いっそ、IMJでやっていることを仕事にしてしまおうと決断しました。その結果がレーベルであり、オンライン・ショップであり、年刊誌なのですが、なかでもオンライン・ショップは商売の中核と位置づけてました。アマゾンが日本でネットでの書籍販売を始めたのが2000 年、CDの販売は2001年からです。ネット通販が一気に市民権を得た頃で、それでいて当時アマゾンでのインディ・レーベルのCD販売は皆無に等しい状況でしたから、案外いけると結構楽観的でした。
それでオンライン・ショップを立ち上げたのを機に、翻訳の仕事は辞めました。ただし、この時、まだ FTARRI という名前は生まれていません。オンライン・ショップも Improvised Music from Japan の名の下におこなっていました。Ftarri の名前を使い始めたのは、2007年からです。
オンライン・ショップは当初、IMJのサイトで紹介しているミュージシャンの作品をできる限り常備し販売することを目指してました。海外のレーベルからのリリースもかなりありましたから、彼らのCDを揃えるだけでも結構な品数になりました。海外のミュージシャンのCDはあくまでついでに発注するというスタンスで、品数はそれほどでもなかったです。ただ、私自身が海外シーンの動向に対する興味を増していくに連れて、海外ミュージシャ ンのCDの品揃えが増えてきています。それでもFtarri のショップになった今でも、IMJサイトとの連動は維持したいという気持ちはまだあって、IMJ サイトで扱っているミュージシャンはできるだけ常備したいし、さらにはIMJ、Hitorri、Ftarri、Meenna の各レーベルからリリースのあるミュージシャンの作品もなるべく揃えたいと思ってます。
とは言っても、資金面や置き場所には限りがありますからどこまで可能かはわかりませんが、まあ、これらは定番の品揃えですね。それ以外には、欧米の即興音楽シーンの動向やインディ・レーベルの情報に目を向けながら、これはと思う新譜を大体レーベルに直接発注して取り寄せています。
【Hitorriレーベル作品】


【Ftarriレーベル作品】







【Meennaレーベル作品】


Improvised Music from Japan の活動の一環としてFtarriの活動があるのではないかと思うのですが、Improvised Music from Japanは他にどのような活動を行っていますか。簡単にご紹介いただけないでしょうか。
現在、Improvised Music from Japan (IMJ) の活動は、日本で活動する即興演奏家(一部、海外で活動している日本人ミュージシャンを含みます)に関する情報(略歴、ディスコグラフィー、コンサート・ スケジュールなど)を提供するサイト運営のみです。スケジュールやディスコグラフィー以外は更新が思うように進んでおらず、不満だらけです。もっと他サイトへのリンクを充実させて、情報検索の利便性を向上させたいと常々考えているのですが、なかなか進まなくて。今後の大きな課題です。
Ftarri は IMJ の活動の一環ではありません。IMJ が情報提供の場であるのに対して、Ftarri は商売の場です。Ftarri の名前を使い始めた2007年以来、Hitorri、Ftarri、Meenna の3つのレーベルを設けて、IMJ の名前でのCDリリースはやめました。また、オンライン・ショップの名前も Ftarri に変えました。
実は英語版のオンライン・ショップは今も IMJ のサイトにあるのですが、これも近いうちに Ftarri に移すつもりです。商売に直接関わることは、Ftarri の名前の下におこなうことにしています。ほかには、フェスティヴァルを2回、開催しました(そのうち、1回は doubtmusic との共催です)。また、日英バイリンガルの本を数冊出版していますが、これらはすべて「Improvised Music from Japan」の名前をタイトルに付けています。情報提供の意味合いが強いと考えて、Ftarri を始めてからも、本のタイトルには敢えて IMJ を使い続けています。
【IMJバックナンバー表紙】






ところでFtarriというネーミングは何に基づいているのでしょうか。
Ftarri は「ふたり」です。元々、レーベル名としてスタートしていて、IMJに代わるレーベル名をずっと考えていて、2年ぐらい経ってもいい名前が見つからなかったのですが、ある時、ふと、ソロは「ひとり」、デュオは「ふたり」ってのはどう?、と頭に浮かびました。2年もかかってこれかよ、と言われそうですが、まあ何事もシンプルなのがいいと勝手に満足して決めました。ただ、これだとトリオ以上のCDをリリースできません。かといって、トリオを「みたり」、カルテットを「よたり」とやっていたら、レーベル数が際限なく増えてしまいます。それで、3人以上は「みんな」レーベルにしました。次に、インターネットのドメイン名として空きがあり、しかも発音が日本 語と似たものとなることを考慮しながら、ローマ字綴りを適当に作りました。結局、ドメイン名を取ったのは Ftarri だけでしたけど。
実店舗不調の時勢の中で、あえて実店舗を開店された理由は何でしょうか。やはり様々な活動の拠点となるスペースの確保を目指したものなのでしょうか。
何よりも、実店舗を持ちたかったからです。とにかく最初に実店舗を持ちたいという希望があって、それから、じゃあ、実店舗を持ったらなにができる?、どんな場所でどのくらいの広さがいい?、いくらの儲けが出ればやっていける?、とかいろんなことを考えてきて、ちょうどよさそうな物件が見つかったので一気に契約へと進めました。契約した以上、もちろんここを活動拠点にしなければならないわけで、確かに、活動拠点の確保が大きな目的と言えなくもありません。ずっとネット・ショップだけをやってきて家に籠った生活を続けてきましたから、お客様にしろ、取引先にしろ、ミュージシャンにしろ、実際に会って話をするのに都合のよい場を手に入れたいという願望が強くなっていたのも、大きく影響していると思います。
拠点スペースということだけなら、ライヴ・スペースだけで店舗を併設する必要はなかったのではとも考えられます。店舗の併設により、ライヴに来る人たちとディスクとの出会いという「新たな遭遇の機会の創出」を期待していらっしゃるのでしょうか。
ネット・ショップを運営してましたから、CDの在庫は十分あります。ですから、これを実店舗で売らない手はありません。もともと物を売るお店を持ちたかったので、まずは小売店です。そのうえで、なるべく多くの方に足を運んでもらうにはどうしようかと考えて、じゃあライヴ・スペースも、という具合に決めました。仕事上、既に多くのミュージシャンと付き合いがありましたから、やれるだろうと判断しました。それに、私自身がライヴ演奏を聴きたいというのもあります。自分のお店で演奏してもらえば、間違いなく聴けますから。
今後、ライヴはどれくらいの頻度で開催される予定ですか。場所柄音量には制限がある(ドラム・セットは不可等)のではとも思いますが、いかがでしょうか。
週に2~3回、ひと月に10回ぐらいを考えています。それほど防音ができていないので、爆音は無理です。ドラム・セットが普通にビートを刻むような、バンドものも無理ですね。
これまでのライヴや今後の予定を見ると、すべて企画がFtarriではなく、別に企画者がいる形になっています。今後も企画持ち込み型(あるいは企画者へのオファー型)で運営していくことになるのでしょうか。あるいは貸しスペース的な運営も想定していくことになるのでしょうか。
私のほうで企画することはほとんどないと思います。私としてはレンタル・スペースとみなしているのですが。
今後のライヴやイヴェントの内容としてはどのようなものを想定していますか。今後もFtarriのショップで取り扱っているような音楽が主となっていくのでしょうか。あるいはそうした枠をはみ出したライヴ企画、たとえばダンス、演劇、映像、レクチャー、展覧会等も実施していくお考えはありますか。
別に想定はしていないのですが、レンタル・スペースの売り込みを何もしていないので、当分はFtarri の存在を知っているミュージシャンなりオーガナイザーが企画するライヴばかりで、Ftarri が取り扱っているような音楽がメインになると思います。私自身は企画しないので何とも言えませんが、いずれ、それ以外の企画が持ち込まれることもあるかとは思いますし、それらを拒むつもりもありません。
店舗で取り扱っている商品のうちオススメのものを何点かご紹介ください。個別の作品でなく、アーティストやレーベル、あるいはジャンルやシーン、傾向等でも結構です。
オススメと言ったら、IMJ、Hitorri、Ftarri、Meenna の各レーベルの作品ということになってしまいます。まあ、それはさておき、最近は、いわゆるヴァンデルヴァイザー派の作曲ものと、フィールド・レコーディングもののリリースが特に目を引きますね。前者では、総本山の Wandelweiser(ドイツ)と作曲家Michael Pisaro のレーベル Gravity Wave(米国)のレーベルがありますが、ほかにもヴァンデルヴァイザー派の Antoine Beuger、Manfred Werder、Michael Pisaro らの作曲を即興演奏家が演奏するCDが近年、色々なレーベルからリリースされています。後者のフィールド・レコーディングものは、ピュアなものから加工を施したものまで様々ですが、Engraved Glass(英国)、Unfathomless(ベルギー)、3Leaves(ハンガリー)などのレーベルはリリースが活発です。このほか、英国の Another Timbre とポーランドの MonotypeRec.のふたつの即興音楽レーベルは、ここのところ単にリリース数が多いだけでなく質も高くて、特に勢いを感じますね。
【推薦レーベルHP】
Wandelweiser http://www.timescraper.de/wandelweiser_records.html
Gravity Wave http://michaelpisaro.blogspot.jp/
Engraved Glass http://engravedglass.blogspot.jp/
Unfathomless http://www.unfathomless.net/
3Leaves http://www.3leaves-label.com/releases.html
Another Timbre http://www.anothertimbre.com/
MonotypeRec. http://www.monotyperecords.com/
最後にFtarriから皆さんに発信したいメッセージがあればどうぞお願いします。
メッセージじゃなくてすみません、少し宣伝させてください。Ftarri のオンライン・ショップ同様、CDはすべて消費税抜きの価格です。また、ポイント・カードも用意しております。ライヴの入場料でもポイントがたまります。 場所柄、結構アクセスもいいですので、近くに来ることがあれば、ぜひ寄ってみてください。ドアがいかついので、ちょっと入りづらかったりするかもしれませんが、入ってしまえばなんてことはないです。皆様のお出でをお待ちしております!!
ありがとうございました。ぜひ一度、Ftarriの実店舗やオンライン・ショップを訪れてみてください。オンランイン・ショップはつい最近、新入荷情報が更新されたばかりです。関連ページのURL等を以下に掲げておきます。
Improvised Music from Japan http://www.japanimprov.com/japanese/index.html
Ftarriオンライン・ショップ http://www.ftarri.com/cdshop/index.html
Ftarri水道橋店 http://www.ftarri.com/suidobashi/index.html
IMJのCDと雑誌 http://www.japanimprov.com/imjlabel/index-j.html


Ftarri水道橋店MAP Ftarri水道橋店入口部分写真
地下へ階段を降りると左側にドアがあります。
沸騰する「イズム」の中の交流/交換機-村山知義展レヴュー A Switchboard in Seething "ISM"-Review for Exhibition of Tomoyoshi Murayama
2012-09-01 Sat
【前口上】世田谷美術館で9月2日(日)まで開催されている村山知義展「村山知義の宇宙 すべての僕が沸騰する」を観てきたのでレヴューしたい。私がもともと村山知義を知ったのは、クルト・シュヴィッタースのことを通じてだった。その時点では彼の多様な活動の全体像など知るはずもなく、単にシュヴィッタースと類似した、「メルツ」的な(ということはまったくマックス・エルンスト的でない)ジャンクなコラージュ作家としてだった。代表作のひとつ「コンストルクチオン」も言わば立体コラージュと見なしていた。今となれば、シュヴィッタースの場合には、彼の作品群を総称する「メルツ」という語自体が、もともとコラージュ用に切り取られた紙片にたまたま残されていた印刷文字から採られているように、語/文字へのこだわりが非常に強く、これは村山との非常に大きな違いだと思うのだが。やがて『マヴォ(Mavo)』の活動の多様な広がりを知り、彼に対する関心をますます深めていくことになる。決定的だったのは音盤レクチャー「耳の枠はずし」で清水俊彦のことを調べていた時、第一次大戦後の各イズムの百花繚乱が日本国内でもほぼ同時期にすでにして展開されており、その中で村山が大きな役割を果たしており、さらに清水の先達にして盟友というべき植草甚一が前衛・舞台美術に興味関心を持ったきっかけが、村山の作品との出会いであったことを知ったことだった。
村山の全体像はとらえ難い。今回の展覧会を観て、収拾がつかないほど、ますますイメージが拡散してしまった感すらある。それでも逆に言えば、それこそが村山知義なのだろう。ずらりと並べられた彼が表紙デザインを担当した雑誌の数々に象徴されるように、ある意味とりとめなく並列的な展示も、彼の活動を素直にとらえたものと言えるのではないだろうか。それらを収めた図録も、大判の写真が少ない等の不満もあるが(「コンストルクチオン」なんて見開き写真もあってよかったと思う)、多くの資料点数を収録した労作であることは間違いない。


村山知義展ちらし 同図録
1.イズムの沸騰
村山知義展の第Ⅰ章「前兆:1920」は、彼の子ども時代でも、初期作品でもなく、束の間の雨季の訪れた砂漠地帯のように、各種イズムが一斉に花開いた、第一次世界大戦後の時代状況から始まる。イズムは互いに咲き誇るだけでなく、入り乱れ、互いに影響を与えあった。それは遠くヨーロッパの話だけではない。マリネッティが1909年2月20日に仏フィガロ紙に掲載した「未来派宣言」が、同年5月1日発行の『スバル』に掲載された森鴎外「椋鳥通信」でいち早く日本に紹介されたように、すでに世界は打てば響く鋭敏な同時代性のうちにあった(あるいは電子メディアの発達した現代よりもはるかに。むしろ現代においては《同時代性》なるもの自体が解体し、不可視の存在となってきているのではないか)。当時の日本でも、ダダが、シュルレアリスムが、未来派が、ロシア構成主義が、それぞれに機関誌を発行し、活発にしのぎを削りつつ、新たな交流と運動を芽吹かせていた。
これらの各種イズムはヨーロッパの地にあっても、後にアルフレッド・バーが作図したツリー状の系統図(事前から事後への一方的な影響関係の連鎖と不可逆な分岐)に到底収まるものではなく、その中で活動していた、いやこの沸騰する鍋の中に否応なく放り込まれることとなった者たちにとっては、そうしたイズムを超えた横断的な、いやむしろ個々人の偶然遭遇を含む、とりとめのないほど多重な交流と相互の影響関係があった。遠く離れた日本においても、幾人かが個人的な窓口となり、たとえばW.B.イエイツやエズラ・パウンド等との個別の交流が始まっていた。
展示はまさにこうした同時代のイズムの渾然たる沸騰を事実の羅列として物語るべく、カンディンスキーの繊細な力学に基づく抽象を、ジョージ・グロッスの真実を赤裸々に描き出すがゆえに眼を背けたくなるような野卑な描線を、エル・リシッキーの簡明な幾何学的構成を、クレーの暗いファンタジーを、語や文字列に偏執的なこだわりを見せるクルト・シュヴィッタースのメルツ作品(コラージュ)を、ダダや未来派の機関誌類を、我々を取り囲むように並べ立てていく。




ワシリー・カンディンスキー ジョージ・グロッス エル・リシツキー クルト・シュヴィッタース
*展示作品の写真を掲載したため、かならずしも代表作ではありません。
2.《交流/交換機》
村山知義がヨーロッパのメトロポリスたるベルリンを訪れたのは、そうした最中1922年のことだった。第Ⅱ章「伯林(ベルリン):1922」の展示はこの時期を対象としている。彼は現地で様々な活動に参加し(というより慌しく駆け抜け)、一定の評価を得て帰国した。しかし、彼の画風は滞欧当時から一定せず、激しく揺れ動いている。女性の肖像の連作においても、フォルムのとらえ方もマチエールも違うばかりか、抽象/具象度すら大きく異なり、神経質な鋭い眼差しの印象だけが共通している。
翌1923年に帰国した彼は構成主義的な機関誌『マヴォ(Mavo)』を発刊し、絵画、コラージュ、立体構成、彼自身の両性具有的な身体を活かしたダンス/パフォーマンス、子ども向け雑誌からプロレタリア機関誌に至る表紙や広告のデザイン、ポスターやチラシのデザイン・制作、書籍の装丁、絵本や挿絵の制作、評論や理論的著作の執筆、演劇舞台装置の設計、劇場の内装、建築デザイン等を並行して、まさに同時多発的に展開する(後には小説すら執筆している)。第Ⅲ章「沸騰 1923-1931」で展開される、この極端に幅広い活躍ぶりは、あるいはレオナルド・ダヴィンチのようなルネサンス万能人を連想させるかもしれない(今回の展覧会の惹句でも「日本のダヴィンチ」とそのことを暗示していた)。
しかし私には、彼の縦横無尽な多面的活動は、世界/宇宙との照応関係を背景としたルネサンス万能人とは異なり、より具体的なネットワークによる《交流/交換機》を思わせる。「交流」などと言うと、宮沢賢治「春と修羅」序の「わたくしといふ現象は 假定された有機交流電燈の ひとつの青い照明です (あらゆる透明な幽靈の複合體)」との有名な一節がすぐに浮かぶが、宮沢賢治の「交流」がぼうっとしたおぼろな実体のなさ、ホログラム的な淡さ、希薄な熱のなさを示すのに対し、村山における「交流」は、あちらこちらで同時にけたたましく鳴り響く電話のベルに応えて、即座に切り替えられつなぎ替えられる電話交換機の、あるいは発信音を操作するためにコードがスパゲッティ状にパッチワークされる巨大なモジュラー・シンセサイザーのそれであり、実態的な電圧と熱量と回路と運動に満ち満ちた、様々な変化と結果を生み出さずにはいない生産的なものにほかならない。
ほとんどカオスに等しいイズムの錯綜/混乱から、状況の要求に応えて適切な帰結を引き出す。それはごく狭い周波数帯の中にひしめく短波の中から、クリアに放送を受信してみせる高感度のラジオを思わせなくもない。性格に信号を選び出し、適切なチャンネルに接続する。しかしそれは情報をそのまま情報として処理するのではなく、自らの身体を介し運動/活動へと変化させ、分岐させるものとなっている。『マヴォ』や「三科」の運動/活動をそうした枝分かれの軌跡ととらえることができる。と同時に、村山の画風/作風、色彩や形象への好み、活動領域自体が風に吹かれるようにころころと変化していく。これもまたひとつの軌跡にほかなるまい。もちろん彼のしていることは、単に要求に合わせてとっかえひっかえイズムや様式をアレンジしてみせることではなく、先に述べたように、そこから単なる課題に対する解決を超えた、見事と言うほかはない適切な帰結を引き出すことにあるのだが。



少女エルスベットの像 ヘルタ・ハインツェ像 あるユダヤ人の少女像




機関誌『マヴォ』表紙 1・2・3・7号



ダンス・パフォーマンス 山の手美容院 映画館葵館内装



電話交換機 モジュラー・シンセサイザー
3.キネティックな機械仕掛け
ここでカギとなるのが、彼がずっと手放さなかった構成への志向/手触りではないだろうか。立体構成作品「コンストルクチオン」を実際に観ると、さほど大きくないヴォリューム、一見簡素でバランスの取れた配分の中に、様々な雑多な要素が詰め込まれていることに驚かされる。主たる部分は木片で構成されているが、各部分は同一平面に揃うことなく微妙にせり出し、あるいは引っ込んで、でこぼこした不均一さをつくりだしている。そして木質や木目はモンタージュされた各ピースで異なり、枠の部分すら連続した一体のものではない。さらに織り目の異なる布地(もしゃもしゃと絡まりあう毛(?)の部分を含む)や色合いや光沢、反射等の表面の風合いが違った金属板が張り込まれている。
右上の写真モンタージュや右下のグリッドの中に刷り込まれた記号、あるいは他にも絵柄の配置があることを考えれば、この作品がグリッドやパネル、幾何学的形象の組み立て(単なる組合せではなく)による《視覚的構成物》であることは明らかなのだが、作品を構成する様々なピースの材質間の違いを間近でまざまざと見た後では、これはむしろそれ以前に《触覚的構成物》なのではないかと思わずにはいられない。すべすべと磨かれた表面とざらざらした切り口が接合され、指先に木目が浮かび、それがまた異なる角で組み立てられ、角が丸められていたり尖っていたり、布地の手触りの違いはもちろんのこととして、おそらくは金属板の手触りや温度感すら異なるのではないだろうか。もちろん展示物である以上、実際に作品に触れてみることはできなかったのだが。
そうした《触覚的構成物》への夢想は、本作品を構成する各パーツがすべて可動で、浮き上がったり沈み込んだり、傾いたり、回転して向きを変えたり、あるいは各部が単独で動くだけでなく、矢印の軸の部分がキューのように動いて先端部を突き動かしたり、グリッドがパタパタとからくり時計のように組み替わったり、円盤が回転して他の部分と歯車のように噛み合い運動を伝えたり‥‥というキネティックな《機械的運動》への空想へと膨らむ。いま眼の前にある「コンストルクチオン」はそうした各部の運動が連動して刻々とつくりだすバランスのうちのひとつの瞬間に過ぎないのではないかと(『マヴォ』の表紙が縦組み/横組みの混在のみならず、逆さの字組みもしていたことが思い出される)。
築地小劇場を興した小山内薫が「日本最初の構成派舞台」と賞賛した村山による「朝から夜中まで」の舞台装置も、単に様式的/意匠的に構成主義的であるというだけでなく、戦艦の甲板を思わせる舞台が登場人物たちの集合的な運動や照明の明滅/変化等によって、互いに離れた部分、異なる空間同士を新たに接合しながら、自らをいきいきと組み替え、ダイナミックな動きを生み出していくように思われる。そこには「コンストルクチオン」と同様のキネティックな機械仕掛けの感覚、ペーター・フィッシュリとダヴィッド・ヴァイスによるヴィデオ「事の次第」(※)が映し出していく「ドミノ倒し」的に様々な仕掛けが次々に連続し、衝突や転倒、燃焼や気化、物理的/化学的な変化による絶え間ない運動の伝播/連鎖のプロセス(ドゥルーズ/ガタリ的な「諸機械」)が確かに仕込まれている。それはまさに作品/舞台上に立ち騒ぐ様々な要素を適切につなぎ替え、接続し直す《交流/交換機》の作動ぶりにほかなるまい。
※「事の次第」については拙ブログの次の記事を参照
http://miminowakuhazushi.dtiblog.com/blog-entry-95.html
http://miminowakuhazushi.dtiblog.com/blog-entry-96.html


コンストルクチオン 「朝から夜中まで」舞台模型


「朝から夜中まで」舞台風景
4.不連続なモンタージュ
村山の代表的作品というべき「コンストルクチオン」や「朝から夜中まで」の舞台装置は、このようにして、キネディックな機械仕掛けの連続的なメタモルフォーゼから、ある瞬間を取り出したように見えてくる。ずらりと並んだ、彼がデザインを担当した雑誌の表紙群やポスターの数々を見ても、それらが彼の作品世界の全体像を明らかにする感じはしない。それは美術作品や舞台装置、建築作品をはじめ、多くの作品が失われ、写真パネルでしか展示されていないことによる「欠落感」のためではあるまい。むしろここで感じられるのは、恣意的に抜き取られ並べられた「不連続なモンタージュ性」とでも言うべきもので、先程「コンストルクチオン」や「朝から夜中まで」の舞台装置について述べた「キネディックな機械仕掛けの連続的なメタモルフォーゼから、ある瞬間を取り出した」感覚と同じもののように思われる。
そのことが最もわかりやすく示されているのが、彼が驚くほど数多く手がけた子どものための作品群ではないだろうか(第Ⅳ章「こどもたちのために」)。ヴィクトリアン調も、アール・ヌーヴォー風も、モダニズムのデザインも、様々なスタイルを見事に消化し、ほとんど1作ごとに画風/作風を変えて描かれていったこれらの作品群は、その1冊ずつ、1篇ずつを見るのではなく、まずはトータルに全体をとらえ、そこに立ち現れてくる横断的に構成された巨大なアーカイヴから、ランダムにあるいはテマティックに1枚ずつを選び出し、不連続なモンタージュとして眺めるべきものではないだろうか。それと言うのも、その方が彼が1枚1枚に仕込んだ構図の巧みさ、画面構成と色彩配置の鮮やかさ、総合的な造形の見事さが、不連続であるがゆえにより一層明確に景色として浮かび上がってくる気がするからだ。
これは彼がデザインを手掛けた雑誌やポスター群にも当てはまる。同じ雑誌のバックナンバーや上演作品の内容傾向からポスターを選び並べるのではなく、ほとんどランダムに配置され、互いが重なりあい衝突しあう中から様々な類似や相違が浮かび上がり、これらを通じて初めて、彼が一生手放すことのなかった「構成への手触り」が明らかになってくるように思われるのだ。
反対に村山の残した原稿や書簡、ハガキを見ると、そのデザイン性(における自己主張)のなさに逆に驚かされる。彼の作品に共通する「構成への手触り」はそこには一切見当たらない。字体に強い個性はなく、小さめのおとなしい文字が、やや間を空けて規則正しく並んでいる。そこには達筆やレタリングのデザイン性はおろか、余白を許さない強迫観念も押し付けられてくるグリッド性も、あるいはそうしたものから逃れた天衣無縫さや融通無碍ぶりも感じられない。「構成への手触り」が彼に逃れ難くまとわりついた運命や宿痾ではなく、あくまで彼自身によって選び取られた結果、《交流/交換機》による切替/接続の適切な帰結であることがわかる。



夢のくに あめがふってくりゃ せいの順


ブランコブラリン 童画集表紙
5.花森安治の《定点》
世田谷美術館では、村山知義展と同時開催で『暮しの手帖』の編集長を長く務めた花森安治による『暮しの手帖』表紙原画展を行っていた。この展示がまた村山の作品世界を別の角度から照らし出すように思われるので、そのことについて少し触れておきたい。
イラストレーターであり、デザイナーであり、編集者であり、エッセイストであり、ジャーナリストであり、コピーライターであった花森は、時代こそ違え、村山と同じく多様なメディアを活動の舞台としたアーティストと言ってよい。そこには類似点がある。
一方、相違点は花森の《変わらなさ》である。数多くの表紙原画を通して見ると、時期によってかなり画風が変化するだけでなく、ちろんモティーフが違い、絵具等のメディウムが異なり、時にはコラージュや写真のモンタージュに手を伸ばし、抽象的な色彩の広がりを描いてもいる。にもかかわらず、ここにはやはり《変わらなさ》の感覚が確かにある。それは女性、西洋風の塔のある城、キッチンやカップ、ポットといった幾度となく繰り返されるモティーフの枠組みを越えて、暖色系の色彩や柔らかな曲線的な形象/輪郭への好みであり、何より安定した配置への志向にほかならない。
村山の子どものための仕事が、同じく柔らかな色彩や形象を用いながら、ぽつんと立ち尽くすような奥行き/向こう側へと視線を誘うのに対し(そこには確かな「構成への手触り」がある)、花森の絵は視界を隅から隅まで安心と暖かさで満たし、見えない(あるいはあるかどうかすらわからない)向こう側へと視線を誘うことがない。ここで眼差しは心を許しきって画題/画面と向きあうことができる。
このことは、彼の絵が『暮しの手帖』という揺ぎ無い視点を据えた個性的な雑誌の評始原画であることと、当然深く関わっていよう。ましてや彼は雑誌の編集長だった。『暮しの手帖』において表紙は単に書店におけるアイキャッチや、雑誌の存在を示すファサードである以上に、生活に向けた提案/メッセージそのものであったろう。そこには《定点観測》的な眼差しの揺ぎ無さが込められている。

6.岡田史子のこと
さらに補足として、村山知義の作品を観ていた時にふと思い出した岡田史子のことを少し書いておきたい。第Ⅰ章の説明で述べたように、村山知義展の会場には彼と同時代の、彼に様々な影響を与えもした多くのアーティストたちの作品が展示されていたにもかかわらず、展覧会を観終わって私の頭の中に浮かんだ名前は、なぜか岡田史子だった。
『COM』でデビューし、萩尾望都はじめ多くの作家に衝撃を与え、すぐに筆を折り、やがて活動を再開するも、すぐに再度中断し夭逝した、この寡作の漫画家について改めて長々と説明する必要はないだろう。
幼い頃から世界文学全集に親しみ、各国の童話や民話をはじめ、児童文学、詩、小説に通じ、作中にはボードレールやトーマス・マン、宮沢賢治、吉本隆明等が引用される。それだけでなく、画風自体がレイモン・ペイネやエドアルド・ムンク、ビュッフェ等の幅広い影響を受けながら、ほとんど1作ごとに変わっていく(作者自身によれば1作でその絵柄に飽きてしまうからだそうだが)。画面表現上の効果に関する実験も、ロウケツ染めによる不定形な模様や黒コンテによるラフな線(陰影)、削って尖らせた割り箸によるかすれをはらんだ描線の利用など多岐に渡っている。
その作品はストーリーに導かれてキャラクターが動いていくドラマというより、1コマ1コマが独立した絵画/イラストレーションであり、隠喩/象徴であり、舞台装置のスケッチであり、肖像であり、モノローグであり、詩の断片であり、世界の片隅の風景であるような、独立したイメージの連鎖/モンタージュとなっている。そこではキャラクターは印象的なオブジェや点景、あるいは記号(文字や矢印)と同様、そのモンタージュを可能とする(イメージとイメージをかろうじて結びつける)換喩的装置のひとつでしかないように見える。その点、特に印象的なのが、そうした危うい綱渡りの連鎖をすら大胆に断ち切って挿入される大ゴマのカットである。そのひとつの頂点が萩尾望都も絶賛したという「墓地へゆく道」の列車に轢かれる幻想にふける少女の見開き一杯を使ったカットだろう。突進してくる列車の前に(というよりはどことも知れない薄明るい空間に)すべてを解き放ち、宙に浮かぶように投げ出される伸びやかな肢体。
私はそうした岡田史子に多様な文化/影響による精神/記憶の沸騰に突き動かされながら、それらをつなぎ替え、結び合わせて「不連続なモンタージュ性」を生み出していった、村山知義同様の孤独な《交流/交換機》の姿を見ずにはいられないのだ。



ガラス玉 ほんのすこしの水 「墓地へゆく道」扉絵

2ページ見開きの少女のカット