2012-11-27 Tue
S.O.S ~Studying of Sonic~
予約受付がすでに始まっています。
定員が30名と少ないため、
お早目のご予約をおすすめいたします。
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2012-11-26 Mon
S.O.S ~Studying of Sonic~2012 12/23(Sun) @CALM & PUNK GALLERY
OPEN : 14:00 START : 14:30
adv.¥2,800 door.¥3,500 (1 drink service)
定員:30名
予約受付:office@critical-path.info
(ご予約は上記E-mailアドレスへ氏名、人数を明記の上、お送りください。確認後に予約完了の返信を致します。)
■Live Performance & Artist Talk (with 飯島 淳)
sawako + hofli
Yukitomo Hamasaki + yui onodera
carl stone + christophe charles
■The Way to Ambient Music ~Talk ~
金子 智太郎 + 福島 恵一
企画・制作 : CRITICAL PATH
協力 : 枯山水サラウンディング, 株式会社PHONON
参加者プロフィール等は下記URLをご覧ください。
http://www.critical-path.info/event.html

2012-11-17 Sat
来る12月23日(日)、都内で興味深いイヴェントが開催される。フィールドレコーディング、アンビエント、エレクトロ・アコースティック・ミュージック、フリー・インプロヴィゼーション等が重なり合った、いま最もヴィヴィッドに動き続ける音楽領域を対象に、ライヴとトーク/レクチャーを組み合わせることで、一見難しげに感じられる音への距離を縮め、さらにはそこから他の分野へ横断的に想像力を羽ばたかせることにより、理解をも深めようとという試みだ。企画・主催は、and/ORからの『suisei』では様々な水音を素材に繊細極まりない音響世界の構築を見せ、またCelerとの共作『Generic City』(タイトルは建築家レム・コールハースからの引用か)では多種多様な時間/空間/速度/密度がモザイク状に混在しつつ、さらに日々ダイナミックに変転/生成を続ける都市のイメージを描き出した小野寺唯。彼の企画意図は次の通り。
「新しい音楽を好きになろうとする努力には、ときに時間と忍耐が必要となり、早く簡単に成果を出せる手立てがない点で、新しい人間関係を築くのに似ています。「S.O.S」は、音楽体験を”冒険”や”出会い”のように心がワクワクしてしまうひとつの機会として捉えることで、啓蒙的なコンテンツとの出会いの場、カンファレンスとして機能します。作品を紐解くための手掛かりとなる独自のルールや形式、文脈から音楽についての理解を深め、知覚の認知処理のための経験の枠組としてのスキーマによって、より深度のある理解を促します。本企画を通じて、日常における音との関わり方を受け手と共に再考し、音とのより豊かな関係性を築くことを目的に、音楽によるコミュニケーション・デザインの可能性を探ります。」
実は私もこのイヴェントにトーク/レクチャーで参加させていただくことになった。お相手は、虹釜太郎と「アンビエント・リサーチ」を、城一裕と「生成音楽ワークショップ」を主催する金子智太郎(美学・聴覚文化論)。
さらにライヴ出演者としては次のような注目の名前が並ぶ。sawako, hofli, Yukitomo Hamasaki,yui onodera, carl stone, christophe charles。
ぜひ次のURL(※)でイヴェントの詳細を確認してみていただきたい。フライヤー等の新たな情報が届き次第、本ブログでも改めてご紹介したい。
※http://www.critical-path.info/event.html
※http://www.critical-path.info/

今回のイヴェントでライヴ用に用いられる
先端解放型スピーカー
PHONON「KAMOME」
2012-11-15 Thu
灰野敬二の初めての単行本『捧げる 灰野敬二の世界』が11月21日に、河出書房新社から出版される。私の手元にも出版社からの献呈本がいま届いたばかりだ。なので、ロング・インタヴューや活動記録、完全ディスコグラフィを収録した内容については、彼のライヴに通いつめる熱狂的ファンであり、今回の編集作業でも活動記録の集成に参加したmiro氏が、自身のブログ『A Challenge To Fate(運命への挑戦)』(これも灰野敬二のCDタイトルからの引用である)でレヴューしているもの(※)をご参照いただこう。※http://blog.goo.ne.jp/googoogoo2005_01/e/afb5e8fd7c92a07789a2ffa395b11342
miro氏の記述にもあるように、今回の編集作業に私は完全ディスコグラフィーのディスク・レヴュー担当者として参加している。通常のような分担執筆ではなく私一人で書かせていただいた。これはおそらく珍しいやり方だろう。170枚を超える全ディスクを聴き通す中で見えてきたものについては、ディスク・レヴュー本文、あるいは前書きに記したつもりだ。そこから引用を始めると止め処もなくなりそうなので、ここではともかくもそれが得がたい経験であったことを記すに留めておこう。
灰野敬二は固定したイメージというか、記号の断片だけで語られてしまいやすいアーティストだと思う。黒、夜、轟音ギター、サングラス、ジャパノイズ、長髪‥‥。そのことの不幸は、聴いていないのに聴いたような気に、知らないのにすでに知ってしまったような気になってしまうことだ。「聴かず嫌い」で彼を遠ざけている人たちも、そして彼の忠実な信者/崇拝者たちも。以前にレヴューした映画『ドキュメント 灰野敬二』とともに、この本がそうした「迷信」を打ち破る力になればいいなと思う。これはお世辞でも追従でもなく、音楽批評に携わる者として躊躇なく断言できることだが、彼はもっと聴かれ/知られてよい、いや聴かれ/知られるべきアーティストなのだから。

2012-11-10 Sat
2012年第3四半期ディク・レヴューの第2回は、前回と同じく即興演奏の分野から作品を採りあげる。両者の違いは、前回の作品群が各演奏者の放つ音響の混成体がひとつの場/広がりをつくりだし、これが変容されていくプロセスを主とした「音場型」であるのに対し、今回の作品群ではより個々の演奏者に焦点が当たり、開かれた空間の中に音像が点在し、それらの絡み合いとして演奏をとらえ得る「音像型」であることに求められよう。前者を「音響派」以降のニュー・スタイル、後者をそれ以前のオールド・スタイルととらえる向きもあるが(後者を「ポスト・ウェーベルン的」とひとくくりに批判するRadu Malfattiはそのひとりである)、それは随分と乱暴な「世代論」と言うべきだろう。フリー・インプロヴィゼーションの黎明期から、Derek Bailey, Hugh Davies, AMM, Gruppo di Improvvisatione uova Consonanza等、前者の方向性で探求を進めていた演奏者たちがおり(フリー・ミュージックは最初から音響を取り扱っていた)、また、今回の選出作品でも、Another TimbreやCreative Sources等、基本的に前者の方向性を示すレーベルから、前者の世代の演奏者たちによる、後者の枠組みでとらえるべき作品(特に『Nie』や『Outwash』)がリリースされているからである。さて、それでは個々の作品を具体的に見ていくとしよう。

Splitrec 22
Magda Mayas(piano), Monika Brooks(accordion), Laura Altman(clarinet)
試聴:http://soundcloud.com/magdamayas/great-waitress-grain
凍りついたように引き締まった輪郭を有するピアノの打弦。クラリネットがもたらす息の流れ、かすれ、よどみ、軋み。そのさらに底流で揺らめき、超低域を吹き抜け、ふと浮かび上がるアコーディオンに込められたふいごの吐息の奔流。この演奏は、三人の演奏者が、各々明確なヴォイスと鮮明な音像を確立するところから始まっている。それゆえかこの演奏は、空間を共有し、音色を溶け合わせるアンサンブルよりも、各々がスクリーンに異なる形象を映し出す影絵の世界を思わせる(投射される音響の一断面)。ロウソクの炎の揺らぎとともに、かたちも伸び縮みし息づいて、音の輪郭をおぼろに、あるいはくっきりと跡づける。音は加速度的に細密さを増しながら、弦の鈍いきらめきとリードの微細な震えと蛇腹による唇の端からこぼれ落ちるかすかな吐息は、見分け難くひとつになろうとする。そこにはほとんどエレクトロニックな音像と音色の変化があるが、それでもなお、絡まり、もつれ、敷き重ねられた音色の向こうには、依然として別の景色を透かし見ることができる。演奏が進むにつれ、巻紙を解くように次第に音色の全容を明らかにしていく演奏の推移には、不思議と二人が向かい合う対面の構図を見ることができない。

Creative Sources CS203CD
Ernesto Rodorigues(viola), Christine Abdelnour(alto saxophone), Axel Dorner(trumpet)
試聴:http://www.ftarri.com/cdshop/goods/creativesources/cs-203.html
希薄な音色の軽やかな重ね合わせの中から、〈言語〉的なものが再びつくりだされようとしている。2本の管の息音のコントロールには、音同士の触覚にのみ特化した盲いたあり方だけではなく、コール&レスポンス的な明滅を通じて、〈言語〉的なものをやりとりする過程を感じ取ることができる。ここで息音(げんにる無声音を含む)は、各楽器の音色が分化してくる以前の原初的な基底と位置づけられているのではないか。個々人の表現を超えた無名性や世界の生成してくるざわめきに身を沈めていくのではなく、かつてフリー・インプロヴィゼーションがイディオム化され得ない要素として、音になりきらぬ断片や楽器音の周縁領域、さらには弾き間違え等の「失敗した発声・発音」に着目/注目したように。その結果、彼らは1周巡って『Company 1』の瑞々しい自由闊達さに再びたどり着いているように見える。彼らはもはやリダクショニズムにより音を削り痩せ細らせたり、希薄な響きのかげに身を潜めることに執着しようとはしない。彼らは演奏の場に(不用意に)身をさらしながら、同時に同じ空間に入れられた複数の身体間の強迫的反応(アクションのとめどもない反射/連鎖)を離れ、エレクトロ・アコースティックな入り組んだ精妙さやフィールドレコーディングの尽きることのない多様性の方に歩みを進めていく。

Creative Sources CS215CD
Frantz Loriot(viola,objects), Hughues Vincent(cello,objects)
試聴:http://soundcloud.com/bobun-1
中空で溶け合っていた弦の響きは、やがてより一層張り詰めて天高く昇り詰めていく高弦と暗闇にとぐろを巻き深い呼吸を繰り返す低弦のうなりへとはっきりと分裂していく。二極分解していた音は、しばらくしてチェロがフラジオに転じ、自らを細かく刻んでいくにつれ、再び見分け難くひとつに混じり合い、かさかさとした乾いた震えの集積に至る。
ここで二人の踊り手は、様々な音具を用いて、弦からありとあらゆる音色の可能性を引き出そうとする。したたかに打ちのめされ歪んだ悲鳴をあげ、あるいは限界まで引き絞られ声にならない呻きを漏らす。サキソフォンの息音、バス・ドラムの深々とした鳴り、膨らませたヴィニール風船をこするギュッギュッという摩擦音、トランペットのざらざらとかすれた吐息、ハーモニカの人懐っこい温もり、古びた織機の動作音‥‥。あるいは考えられる限りの運動と体勢を。急に走り出し、つんのめるように立ち止まり、爪先で伸び上がり、床に伏して、転げまわり、激しく首を手足を痙攣させ、全身を硬直させ、倒れ込み、何事もなかったように歩き出す‥‥。そのようにして連続的にメタモルフォーゼを引き起こしながら、二人は決して〈弦楽器奏者であること〉をやめようとしない。あるいは〈二人〉であることも。

Another Timbre at51
Angharad Davies(violin), Tisha Mukarji(piano), Dimitra Lazaridou-Chatzigoga(zither)
試聴:http://www.youtube.com/watch?v=S6m618N7Mzc
http://www.ftarri.com/cdshop/goods/anothertimbre/at-51.html
空間に離れ離れに点在する三つの発音体の明滅。寒々とかすれたヴァイオリンのひと弓も、ピアノの冷ややかに重くくぐもった打鍵も、チターの一瞬のきらめきも蜘蛛の糸を思わせる細く銀色の振動も、すぐに暗闇に吸い込まれてしまう。重なり合うことのない、行き交いすれ違うだけのアンサンブルは、徹底した三者の間の切断/孤立を前提としている。充満や混交状態とは無縁な、あらかじめ分離されたものの間の交通。はるばると距離を渡っていく音の歩みが、互いを隔てる空気の層の厚みを明らかにする。苔むす庭に設えられた鹿おどしの点景。自らの上に折り重なり、高さを増して、ゆらゆらと揺れる響きの塔。離れて呼び交わす音は、眼を細め、耳を凝らし、音の軌跡の残像を浮かび上がらせることなくしては、テクスチャーを織り成すに至らない。演奏が進むにつれ、各演奏者の放つ音はますます研ぎ澄まされ、輪郭を鋭く鮮明にしながら、ちっぽけな明かりで広大な空間をうっすらと照らし出し、細心の注意を払ってあえかな手触りとともに浮かび上がらせる。それこそが演奏の核心であるというように。

Bocian Records bc12
Chris Abrahams(piano), David Brown(prepared acoustic guitar, prepared semi-acoustic guitar)
試聴:http://www.bocianrecords.com/releases.html
楽器に対するプリペアド操作は、通常、音具の挿入により新たな音色を付加することを目指すが、ここではむしろギターを裸に剥いていく趣がある。たわみ、弾き絞られ、激しく微細な弦の震えが生々しく螺旋状にねじれながら空間に解き放たれる。これは内部奏法を駆使したピアノについても同様である。優美な曲線を備えた筐体を打ち壊され、剥き出しにされた厳つい鋼線や恐竜の骨格のような金属フレーム。蓋をはぎ取られ、風雨にさらされて骨のように白くなった鍵盤。もはや廃墟と化した打弦やペダリングの機構。かくも剥き出しであるがゆえに、音はより冷ややかに即物的強度を増して、眼前でビリビリと震え、空間を深く掘り刻む。
ここで繰り広げられている二人の交感は、まさにこの音を剥き出しにし、空間を深く掘り刻む身振りの共通性を基盤としている。それゆえ音は自ら散乱し、ワシリー・カンディンスキーを思わせる抽象的/幾何学的/重工業的な軌跡を描きながら、きっぱりとした明暗の対比をかたちづくる。

Pi Recordings PI43
Henry Threadgill(flute.bass flute,alto saxophone),Liberty Ellman(guitar),Jose Davila(trombone,tuba),Christopher Hoffman(cello),Stomu Takeishi(bass guitar),Elliot Humberto Kavee(drums)
試聴:http://www.youtube.com/watch?v=NgGj-UcCBns
Henry Threadgillの弛むことのない探求にも、ようやく完成が近づいているのではないかと思わせる傑作。遊園地のメリー・ゴーラウンドのように異なる速度で巡り続ける幾重にも重ねられた円環を思わせる演奏は、色鮮やかな組紐細工が、回転しながら新たな編み目を次々に露にしていくような印象を与える。マルチ・リードをフロントとして、最後尾をドラムスが押したて、中盤でギター、チェロ、ベース・ギター、チューバが対称形に絡む陣形は、より完成度を高めてひとつとなり、ヨハン・クライフ流のトータル・フットボールを達成している。ここで目指されているのは「中心なき流動」であり、各楽器は常に運動/移動し続けながら、オーヴァーラップにより配置を交換し、軌跡を推移させ、次々とスペースを生み出しながら、それを有効に活用していく。要素の入れ替わりが構造の組み換えを促す動的平衡。グループに参加している武石務が「禁則がいっぱいある」と語っていたと益子博之が以前紹介していたが、おそらくそれらの「禁則」がローカルな視界に基づいて演奏する個々の演奏者を全体として統御し、野放図な散乱や団子状の停滞、密集による自閉等を遠ざけ、あたかも全員が俯瞰的な「鳥の眼」を持っているかのように滑らかに変遷することを可能にしているのだろう。

Rumpsti Pumsti(Musik) Edition Nummer 13
試聴:http://www.meditations.jp/index.php?main_page=product_music_info&products_id=9374
ジャン・デュビュッフェが音楽演奏の録音を試みた期間は1960年から61年、1972年から74年と非常に短く、前者の記録として6枚の10インチ盤が残されている。すでにその中から9曲分の音源がCD化されていたが、今回、残りの音源11曲分が2枚組CDとして復刻された。もともと私は彼の演奏と『Musique Brut』なるタイム・レーベルからのリリースを模した海賊盤LPで出会い、そのあまりにも無垢な残酷さの強度に魅せられていた。今回の盤に収められた演奏を聴いても、その印象は変わらない。ピアノの鍵盤や民族楽器の上を、疲れを知らず騒々しく走り回る身体は、幼児が熱中する、ものに触れ、叩き、ついにはそれを破壊してしまう〈遊戯〉そのものである。さらにここにはテープによるひとり多重録音が施されているのだが、そこには触覚的なものの噴出だけではなく、同時に驚きに満ちた聴覚的な発見がある。発する音から耳をそむけ、加速するアクションの連鎖に埋没してしまうことなく、そこにアンチ・オイディプス的な去勢されない野生の音を見出し、さらに増殖させる強靭な耳が。アール・ブリュットから連想されるような空間恐怖による充満はなく、音はあくまで無垢に、そして残酷に重ね描きされ、乾いた風が吹き抜けるように、熱量だけを残して走り去っていく。
2012-11-09 Fri
遅ればせながら2012年第3四半期のディスク・レヴューをお届けしたい。まずはエレクトロ・アコースティック系のフリー・インプロヴィゼーションからの7枚。
Potlatch P212
Alfredo Costa Monteiro(accordion,objects), Jonas Kocher(accordion), Luca Venitucci(accordion,objects)
試聴:http://www.ftarri.com/cdshop/goods/potlatch/p-212.html
一寸先も見えない暗闇の中で何かひどく大きく重たいものがゆっくりと回転し、空間を圧していく。押しつぶされていく空気の重みが、微かなうなりや軋みを通じて、その震えを肌へと届ける。降り始めたばかりの雨粒が屋根に当たり、パラパラと乾いた音を立てて通り過ぎる。暗闇に眼が慣れてきたのか、次第にあたりの明るさが増して、暗がりで絡み合い、のたくる複数の蛇腹の輪郭がおぼろに浮かんでくる。
飴のようによじり、押しつぶして、引き伸ばし、捻じ曲げ、ついには引きちぎる。ゆっくりと軋みながら回転する巨大な輪に巻き込まれた物質の悲鳴がこだまする。アコーディオンから鍵盤楽器としてのフレーズを排除し、誰もいない機械仕掛けのようにぐるぐると巡る鳴りだけを置き去りにする。空っぽの何かを吹き抜けていく風の唸り。
その一方で屠殺場の阿鼻叫喚にも似た、噛み付くような喧騒が、聴き手を不安のただ中に突き落とす。ここではPotlatchからの前作品Lucio Capece『Zero Plus Zero』において目指されていたソロ・インプロヴィゼーションによる複数化/重層化が、メロディ、リズム、コードといった因習的な役割分担を経ることなく、顕微鏡的に微細な次元におけるサウンドの重ね合わせの綾を通じて、3人の奏者により探求されている。中空にぴんと張られた一本の線の様々な分割振動が生み出す多様な倍音の広がり、あるいは翅の擦り合わせによる虫の音を極限まで拡大したざわめき、笙のように澄み切らず僅かな濁りを浮かべた集合的なリードの震え/共鳴。そこには額を擦りつけんばかりに密集し、全身を耳にして互いの音に耳をそばだてる同種楽器同士ならではの凝縮された聴取のアンサンブルがある。

Erstwhile Records ErstLive 009
Barry Chabala(guitar), Dominic Lash(double bass), Ben Owen(electronics)
試聴:http://www.squidco.com/miva/merchant.mv?Screen=PROD&Store_Code=S&Product_Code=16751
室内の空気の対流音なのだろうか。ずっと鳴り続ける息漏れのような(あるいは耳鳴りのような)音響を背景として、薄暗がりの中を音のかげがゆっくりと横切る。耳はそのかそけき響きに、微かな揺らぎに、微細な振動のもつれに、引き伸ばされあるいはゆったりと繰り返される持続に惹きつけられてしまう。ふと浮かび上がる深々とした持続音、何物かの気配を伝える微かな物音、囚人同士の秘密の通信を思わせる冷たい石の壁をコツコツと叩く音、視線を交わすことなく重なり合いすれ違う音像。ここで〈沈黙〉とはすでにそうした音を透かし見るための複数のレイヤーの重ね合わせであり(遠くからぼんやりと浸み込んでくるトラフィク・ノイズ等)、巧みな彫琢を施されている。Wandelweiser楽派特有の放たれる音数の少なさではなく、その僅かな音が沈黙を、空間を、持続を、どのように変容させているかに耳を傾けなくてはならない。

Olof Bright OBCD 35
Christine Abdelnour(alto saxophone), Bonnie Jones(electronics), Andrea Neumann(inside piano,mixing board)
試聴:http://www.ftarri.com/cdshop/goods/olofbright/obcd-35.html
アルト・サックスの次々に弾けては消えるミクロな泡立ち。インサイド・ピアノの肌に食い込む冷ややかな切れ込み。パチパチとした接触不良ノイズから虫の音や降りしきる雨音に至るエレクトロニクス。各演奏者の放つ音色の類似性を通じて、全体は朦朧とけぶるような響きとなり、水をかき混ぜるような運動感覚が、ざらざらとした空間/沈黙の手触りを際立たせる。それゆえ演奏は音色の交換/代替可能性を足場にして、コール&レスポンスではなく、サウンドの重ね合わせやON/OFFにより進められる。その揺らぎに満ちた重層的な変化は、むしろ三者の重ね合わせというより、ひとつの振動の中から、そこに含まれる多様な倍音、あるいは分割振動のピークやディップが強調され析出してくるような印象を与える。かすれた無声音は極端に切り詰められ圧縮された一瞬の衝突/交錯/均衡が刻む傷跡であり、一方、ノイズにまみれたファウンド・ヴォイス(おそらくはNeumannが持ち込んでいるのだろう)をはじめ、ざらざら/すべすべ/つるつる/つぶつぶしたきめ細かな響きは、その意味性や象徴性(がもたらす雑色性)を剥奪/濾過されて、即応的/流動的にメタモルフォーゼを繰り返す触感/皮膚感覚の音楽となっている。

Creative Sources CS191cd
Abdul Moimeme(two electric guitars played simultaneusly,prepared with small and large objects), Ricardo Guerreiro(interactive computing platform)
試聴:http://www.squidco.com/miva/merchant.mvc?Screen=PROD&Store_Code=S&Product_Code=15039&Product_Count=&Category_Code=
演奏が進むにつれ、2台同時に奏されるギター(おそらくは解剖に付される死体のようにテーブル上に横たえられているのだろう)は、ギターと判別可能な音を発する機会が減少し、サウンドは全体としてハーフからシャドーに至る艶消しのモノクロームな、色彩を欠きながらもおぼろにして濃密なグリザイユの世界に沈んでいく。そこでは何物も重力を逃れることはできず、飛躍や切断とは無縁に、その場に降り積もり、輪郭を揺らがせて入り組んだ奥行きを構成していく。高熱にうなされる中、眼の前いっぱいに広がるぐるぐると回転し続ける歯車の群れ。巨大な機械仕掛けの作動音(軋みやうなり、果ては地響きまで)が常に響き渡り空間に充満し、さらに底の方から別の響きの輪がゆっくりと浮かび上がってくる。金属音の爆発が輝きを連ね、ジュゴク(竹製のガムラン)にも似た音色が空間を横切って、テープの回転数を変化させたようなピッチの変化がその後を追う。

Creative Sources CS220cd
Axel Dorner(trumpet), Ernesto Rodorigues(viola), Abdul Moimeme(prepared electric guitar), Ricardo Guerreiro(computer)
試聴:http://www.ftarri.com/cdshop/goods/creativesources/cs-220.html
乾いたフラジオや鋭い息音をはじめ、甲高い軋みの集積が、まるで結晶化した金属のような冷ややかな輝きをたたえる。音色として表に立つのはAxel DornerやErnesto Rodoriguesだが、この空間の骨組み/基本的性格をかたちづくっているのは前掲作『Kunettamu』で共演したAbdul MoimemeとRicardo Guerreiroにほかなるまい。
真空中にビット・マッピングされるのではなく、発せられた音は響きと共に空間を開きながら、すぐさまそこから軌道を逸らせて変形/変容し、異なる分布/配置をつくりだしていく。その結果生じたモザイク状の空間は、至るところで通底し、飴のように引き伸ばされ、うねうねとよじれ入り組んで、サウンドの模倣/転写により歪んだ鏡によじれた像を映し出しながら、多元的な相互貫入をかたちづくっていく。互いが互いを切り刻んで断片化の果てに至る代わりに、太く細く、あるいは澱みあるいは瀬を速めて、濁ったり澄み渡ったりしながら流れ続ける強靭な持続の感覚がここにはある。
中盤以降、演奏はますますうねりを増し、波頭を高く持ち上げ、重低音の速い鼓動をはじめ、時として音色を一色に染め上げてしまうことすら厭わず、ダイナミズムの変化を強烈なものとしている。ぐつぐつと煮えたぎる深々とした奈落の底を見せつけ、それにも飽き足らずその向こうに広がる凍てついた光景を垣間見せて、演奏は終わりを迎える。

Rhizome.S 01
Pedro Chambel(guitar,microphones,objects), Bruno Duplant(snare drum,objects,radio), Julien Heraud(alto saxophone)
試聴:http://www.squidco.com/miva/merchant.mv?Screen=PROD&Store_Code=S&Product_Code=16022
短波ラジオの混信した視界。もやのかかった不鮮明な夢の景色。濁った澱みからふつふつとあぶくが湧き上がっては弾けていく。短い気息音。カタカタと振れる金属音。澄んだベルの響き。ガイガー・カウンターを思わせるエレクトロニクスのつぶやき。ミュートされた弦の震え‥‥。寸断化された音風景の断片は、割れた鏡に映る光景のように散乱してとりとめがない。彼らは空間の共有/連続をまったく信じていないかのようだ。手元だけを照らし出すちっぽけな明るみの中だけで孤独に作業を続け、音はそのまま手元に留まるか、あるいは中空に浮かんで、しかるべき場所に落ち着くということがない。遠くのラジオによる語りや歌がもたらす粒子の粗いざらざらとした雑色性が沈黙を汚染し、空間の混乱にさらに拍車をかける。顕微鏡下の手術にも似た極端なマイクロ・ミュージックでありながら、壁に耳を着けて幾つもの部屋の音を同時に聴くような思いがけない広がりが耳を穿つ。

Creative Sources CS205cd
Fabrice Favriou(harmonium unprepared but with old crackled blades!)
試聴:http://www.squidco.com/miva/merchant.mv?Screen=PROD&Store_Code=S&Product_Code=16335
でこぼこと不均衡に重ねられた鳴り、響き、軋み、うなり、揺らぎ、うねり‥‥。故障した冷蔵庫を思わせる不調な機械音。しかし、各音色の重なり合いに耳を凝らせば、それが単純なループの組み合わせではなく、ミクロなちらつき/明滅の移ろう束であり、微妙に同期をずらした様々な音が、音のにじみや不安定な共振/共鳴、あるいは相互干渉を通じて、深さ/奥行きを持ったこわれやすい層をかたちづくっていることがわかるだろう。こうして1台の壊れかけたリード・オルガンという単純な仕掛けが、分裂生成により幾つもの異なる〈音楽機械〉を生み出していく。特に全景をロング・ショットでとらえた5曲目では、響きの総体がひとつの風景と見紛うばかりの広大なパースペクティヴと共に立ち現れてくる。