2013-03-31 Sun
2012年第4四半期ディスク・レヴュー第4弾は、エレクトロ・アコースティックより音の輪郭が明確な「器楽的」インプロヴィゼーションからの7枚。次回に英国Another TimbreからのCD6枚組大作『The Wandelweiser Und So Weiter』を採りあげて2012年レヴューを完結させることとしたい。
Intakt Records CD 190
Gunter Baby Sommer(dr,perc),Savina Yannatou(voice),Floros Floridis(ss,cl,bcl),Evegnios Voulgaris(Yayli Tambur,Oud),Spilios Kastanis(b)
試聴:http://www.squidco.com/miva/merchant.mv?Screen=PROD&Store_Code=S&Product_Code=16916
第二次世界大戦終戦間際、ギリシャ西岸の村Kommenoを占領したドイツ軍が住民300人以上を虐殺した事件を題材として、ドレスデン出身のGunter Sommerの音楽監督の下、4人のギリシャ人ミュージシャンが集って完成させた本作には、ちょうどテオ・アンゲロプロスのフィルムがたたえるような凝視の強度がみなぎっている。ロングネック・リュートのような形状で膝に立てて弓奏するYayli Tamburの、倍音豊かな音色の言葉にならない心情の襞に寄り添う微細な揺らぎを基調として、かすれたつぶやきから声を宙に舞わせ粘膜を引き裂くように震わせるヴォイス、音程/強弱/音色を激しく移ろわせ時に激情をほとばしらせるソプラノ・サックス、太く揺るぎない芯棒となりながら足下を見詰め身を震わせてすすり泣くアルコ・ベース。細やかに音色を散らしながら音を刻むパーカッションが一体となって、歴史の重圧に耐えながら寡黙に糸を紡ぐように、遥かな哀しみを語り継ぐ。激昂したり声高に語ることを避け、言葉少ななゆるやかな歩みのうちに溢れかえる想いを映した演奏の密度が素晴らしい。住民の証言や現地で収録した民謡等の挿入も効果的であり、静謐にして劇的な高揚をもたらす。ドイツ/ギリシャ/英語の3か国語による分厚いブックレットが付属。なお、ドキュメント・フィルムからの抜粋を次のURLで見ることができる。http://www.youtube.com/watch?v=II3bVckRx6I

Northern Spy Records NSCD032
試聴:https://soundcloud.com/experimedia/john-butcher-bell-trove-spools
サキソフォンの各部を鳴らし分け、この楽器から自在にポリフォニーを引き出す彼の演奏は、これまで、楽器の表面にハリネズミのようにセンサーを取り付けて、オシログラフに映る振動モードや表面温度を測定しつつツマミを調整する科学者のように見えた。とりわけ楽器を鋭敏な受信機/発信器としてアコースティック・フィードバックのもつれあうループの中に挿入する場面において。そこでは画面いっぱいに顕微鏡的に拡大された視覚が映し出され、楽器を操作する彼自身は画面の外に位置し、振動の場に無防備に身体をさらすことがない(たとえば『Invisible Ear』を参照)。しかし本作では強靭な響きが聴き手のみならず奏し手である彼自身もとらえて放そうとしない。自ら振動に巻き込まれることで視界は揺らぎ歪み、時間は乱れ、身体は見通しの効かない不透明で重苦しい響きに捕らわれることになる。彼はぬかるみにずぶずぶと踏み込み、深みへと沈み込んで、息詰まる濃密さと格闘する。耳はその様に圧倒されながら、後を付き従うよりほかはない。かつては希薄な響きの層へと分解され尽くして、無際限な空間の中に宙吊りされた分子模型やワイヤー・モデル、あるいは断層撮影イメージのように立ち現れていた音は、ここでそうした透過性を失い、輪郭をまとい表面を閉ざし質量を伴って地へと降り立つ。見通すことのできない響きの肉襞の奥に潜む硬いしこりが耳の指先に触れてくる。

Emanem 5026
Charlotte Hug(viola,voice),Frederic Blondy(piano)
試聴:http://www.squidco.com/miva/merchant.mv?Screen=PROD&Store_Code=S&Product_Code=17121
ここでも音は聴き手に迫り呑み込もうとする。まるで響きの花弁の奥を覗き込んでいるかのように。ピアノの低弦への打撃はプリペアドにより、振動をそのまま空間に解き放つことなく内にこもらせる。毒は全身に回り、毛穴という毛穴から汗が噴き出し、筐体は鬱血して、くぐもった声にならない叫びを挙げる。一方ヴィオラは弓の張りを緩めて複数の弦を同時に弾くことにより、厚みを持ったねじれた音色を立ち上げる。あるいはヴィオラのリフレインと重ねられた彼女の喉を震わせる「声」が斜めに行き違い、冷ややかにそそり立つピアノの高音の連打にピアノ弦の搔き鳴らしが襲いかかる。近距離で向かい合いながら、二人は矢継ぎ早に音のかけらを投げつけ合うのでも、身体の強迫的な痙攣を鏡に映し合うのでもなく、まずは音の混成体をつくりだし、その色合いや疎密の程度を見極めながら、ミキサーのフェーダーをいじるように自らの演奏をコントロールする。こうした演奏する自分をその背後からもう一人の自分が見ているような感覚(「離見の見」)は、空間に充満させた倍音を揺らがせるようなドローン的演奏においてはまま見られたところではあるが、ここにはそうした緩衝材はない。至近距離における自動運動の乱反射でも、分厚い空間に隔てられた響きのクロマトグラフィックな滲みあいでもない、いわば中距離の交感は、先に見たJohn Butcherの場合と同様、虚空で音粒子が衝突/交錯するといった透明性を離れ、互いの音ははなから見分け難く混じり合い溶け合っている。というより、それぞれの演奏自体が、ここではすでにして分裂/解離した複数の身体/運動の混合物なのだ(とりわけBlondyがピアノから引き出す響きの多様な色彩と速度/濃度は驚くべきものだ)。音響的なインプロヴィゼーションを突き詰め突き抜けることにより、Derek Bailey,Evan Parkerによる『London Concert』や『Company 1』の地平に改めてたどり着いた感がある。

Intakt CD 202
Maya Homburger(baroque violin),Barry Guy(bass)
試聴:http://www.squidco.com/miva/merchant.mv?Screen=PROD&Store_Code=S&Product_Code=16917
たおやかな聖歌の調べをイントロダクションとしてビーバーによるミステリー・ソナタ3曲とクルタークの作品が、バリー・ガイの作曲を間にはさんで並べられている。ビーバーの作品では、通常は鍵盤楽器による伴奏をコントラバスが務めている。通常のヴァイオリンではなくバロック・ヴァイオリンを用いることでより豊かに倍音が立ち上り、結果として主旋律の占める空間は感覚的に上方へと引き揚げられ、そこに開けた低域から中高域に至る幅広いスペースを、コントラバスはアルコによるフラジオや鋭い打弦を自在に駆使して、サッカーにおける「リベロ」のように縦横無尽に活用する。残響や倍音を空間いっぱいに振り撒き、あるいは濃密な響きのうちに車のフロントガラスを推移する圧縮された風景を映し出して。優雅さを身にまとった2本の幅の異なる響きの帯が、頭上高くドームのそびえる空間にはためき、旋回し、もつれあう。

Sacred Realism SR002
Ann Adachi(fl),Adam Diller(ts),Tucker Dulin(tb),Kenny Wang(va),Andrew Lafkas(b),Margarida Garcia(el-g),Gill Arno(electronics),Keiko Uenishi (electronics) ,Barry Weisblat(electronics),Bryan Eubanks (electronics),Sean Meehan(snare drumm,cymbals)
試聴:http://www.sacredrealism.org/label/sr002.html
http://www.ftarri.com/cdshop/goods/sacredrealism/sr002.html
Andrew Lafkasのコントラバスが、床面すれすれにゆっくりと引き続ける一本の線から、余白へと滲みが広がり、クロマトグラフィーのように色合いを次第に淡く変化させながら、響きを立ち上らせていく。線はこうして響きの織りなす幅をたたえた音の帯となり、空間を渡っていく。前掲作におけるMaya Homburger,とBarry Guyのデュオにも見られたこうした生成的な広がりが、ここではアンサンブルを組織する唯一の原理となっている。原画における水彩の滲みの淡い広がりを、糸の色合いを変えながら織りが写していく。そのようにして再構築された風景は、響きが重層化され、偶然がもたらす揺らぎやもつれはアンサンブルの必然的な変化として再構築されて、より豊かで濃密なものとなっている。

Innocentrecords icr-019
高橋悠治(piano,laptop),内橋和久(acoustic&electric guitar)
試聴:http://www.ftarri.com/cdshop/goods/innocent/icr-019.html
基本的には音のかけらを投げ合う器楽的なインプロヴィゼーションなのだが、二人の演奏者の「より多く聴きより少なく演奏する」耳の視線の強度が、演奏を張り詰めたものとしている。内橋はエフェクターを多用して音色を多彩なものとしながら、音を重ねず、溢れさせず、加速よりも減速へと向かい、希薄な響きの広がりや微かな傷跡で沈黙を際立たせようとする。対して高橋はラップトップにしてもピアノにしても音色を絞り込み、時には傍若無人なまでにだんまりを決め込み、たとえピアノを弾き散らかしたとしてもやはり加速へとは向かわず、気ままなデッサンととしてすぐに破り捨てて、あるいは冷ややかに響きを突き放しながら、つっかえつっかえたどたどしく進んでいく。先を争うことなく、自分自身にさえ「遅れ」ようとする冷ややかな距離の視線は、音が指され打たれる「盤面」を照らし出し、指し手/打ち手の身体を暗がりへと沈める。大阪の今は無きライヴ・スペースBRIDGEにて2007年に行われたライヴ。奥行きのある空間に彫りの深い音像を立たせる見事な録音は、アフター・ディナーへの参加等で知られる音響マイスター宇都宮泰による。この録音が本作の価値を高めているのは確かだ。

Quiet World qw35
Philip Corner(piano)
試聴:http://www.art-into-life.com/product/2442
http://www.youtube.com/watch?v=xAlaSF6seDA
『From the Judson Years』に収められたキッチン・シンクでの手仕事を録音に打ちのめされて以来、彼の「耳力」というか耳の視線の強度にはたびたび驚かされてきたが、本作もまた凄まじい。4日間に渡るピアノ・インプロヴィゼーションからの抜粋は、鍵盤に指を叩き付け、弦を直接掻きむしり、ピアノの躯体を拳で殴りつける等、暴力的極まりないものだが(ジャケット写真に傷だらけになった両手が写っている)、これだけなら山下洋輔がいれば用が足りる。恐るべきはそうした爆音を生み出す身体の運動の軌跡ではなく、最初に述べた通り、それをたじろぐことなく凝視し続ける耳の視線の強度の、張り詰めた揺るぎなさである。このことは録音の方がよくわかるだろう(ライヴに居合わせたならば身体動作に眼が釘付けになってしまうだろうから)。録音機材の感度を高めているため、冒頭から盛大なテープ・ヒスが聴き手の身体を緊張で縛り付ける。そこに蹂躙されるピアノの悲鳴が響き渡るが、彼は一瞬たりとも、自らの身体の運動に熱中して我を忘れてしまうことがない。鞭を振るい、針を突き通し、刃物で皮膚を切り裂きながら、常に獲物の脈を計り、失神や恍惚状態に達しないよう苦痛を与え続ける冷徹さがそこにはある。この一瞬に堰を切ったように噴出しながら、冷ややかに抑制され決して飽和へと至らない響きは、だがしかし、レコーダーのVUメーターをいとも簡単に振り切って見事なまでに歪んでしまうのだが、彼の視線はそのことも当然のように見通しつつ、まったく動じることがない。聴き手もまた、マイクロフォンの向こうに広がる演奏の空間に手を伸ばすのではなく、スピーカーのこちら側に送り届けられる傷だらけのマイクロフォンによる凄惨な報告に向かい合い、身じろぎすることなくしかと受け止めることを求められていよう。
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2013-03-17 Sun
2012年第4四半期ディスク・レヴュー第3弾はポップ/ロックの分野からの7枚。ポップ/ロック系は4~6月分にしか掲載していないので、2012年後半分ということで。
Handmade Birds HB-045
Mehdi Amesiane(vocal,guitar,electronics)
試聴:https://soundcloud.com/theinarguable/sets/twinsistermoon-bogyrealm
http://www.meditations.jp/index.php?main_page=product_music_info&products_id=9673
男女デュオNatural Snow Buildingの片割れ(男性の方)のソロ3作目。ハイトーンのヴォーカルはとても男性のものとは思えない。すぐに充満し響きが歪みざらざらとささくれるキーボード。共振で震え滲んで向こうを見通すことができないエレクトロニクスの壁。過剰なリヴァーブとマイクロフォンの近接効果で輪郭が曖昧なギター。かすれた息遣いと分ち難くひとつに溶け合ったまどろむようなヴォーカル。夢見るようにはかなく、うつむき思い詰めた切なさに満ちたメロディ・ラインはどこかで聴いたことがあるようでいて、まったく思い出せない。薄汚れた壁に残るしみの跡がふと浮かび上がらせる幻の景色にも似て、眼を離したらたちまち消え失せてしまいそうな幻想世界。ヴォーカル曲だけでなく、最後の一音がただウワンウワンとこだまし続けるようなインストゥルメンタル曲を随時挿しはさむことにより、いつも以上に作品全体がおぼろに歪んだひとつの世界(だがしかしそれにしても、この音質が極端に劣化した古いカセットテープのような音場に、聴き手が見出している世界とはいったい何なのだろう)へと結実している。500枚限定。

無番号
Takumi Akaishi(hurdy gurdy)
試聴:http://losapson.shop-pro.jp/?pid=49134832
曲を演奏するのではなく、「音響」としか呼びようのない仕方で空間へと音を放ちながら、ここで古楽器ハーディ・ガーディはその倍音を徒に繁茂させることなく、古めかしい奥ゆかしさを保ち続ける。そこにはSP盤から再生されたヴァイオリンにも似た蠱惑的な輪郭の震えや不明瞭な遠さが常につきまとい、蜜のようにほのかに甘く、燻したようにどこかほろ苦い響きは、香りとなって空間に漂い広がる。その様は「アンビエント」と呼ぶにふさわしいが、しかしそうしたカテゴライズがもたらす安逸なイメージをアーティスティックに裏切って、音はいつも突如として断ち切られ、昼下がりの明るみの中、死体が優雅に横たわるに任される。切手の貼られた使用済み郵送用ダンボールを油紙で包み、写真の印刷された大判のインサートを封入したパッケージの意匠には、制作者のオブジェに対する透徹した美意識が感じられる。100枚限定LP。

Flau FLAU31
Masayoshi Fujita(vib),Hoshiko Yamane(vn),Atsuro Martinez Steele(vc)
試聴:http://www.flau.jp/releases/31_jp.html
せせらぎが走り、風がそよぎ、湖面に波紋が広がって、木の葉が揺れる。朝の光に照らされて、まだ霧にむせぶ世界がざわざわとした揺らぎとともに生成し、ゆっくりと伸びをする。el fog名義でも活動するベルリン在住のヴィブラフォン奏者Masayoshi Fujitaのソロ第1作は、そうした早朝の森の心地よいざわめきに満ち満ちている。金属質のアタックよりも残響の揺らぎを重視したサウンドは、優しく頬に触れ、耳をなぶり、まぶしさのない柔らかな光で暖かく部屋を満たす。軽やかに駆け抜けるトレモロとゆったりとうねり息づく余韻。鍵盤の弓弾きによる持続音が中空に浮かび、あるいはゆるやかに床を這う。遠くにほのかに浮かぶ軋みが空間の広がりを明らかにする。ここに収められた8編の物語の中で、時間はそれぞれ異なった進み方をする。

Reverb Worship RW190
Heidi Harris(all instruments?)
試聴:http://heidiharris.bandcamp.com/album/sand-in-the-line
NYブルックリンで活動する女性SSWによる2作目は100枚限定という極少部数リリースが信じられない傑作となった。やはり本作に満ち溢れているのも様々な揺らぎにほかならない。バスクラのうねり、エレピの揺らめき、ギターのピッキング/カッティングのぶれ、あるいはスライドやリヴァーブ、通り過ぎるヴァイブのきらめき、弦やハーモニカのポルタメント、なだらかに上昇/下降しながらオーロラのようにひらめく電子音、そしてフィールドレコーディングされた子どもの声や虫の音がもたらすざわめきもまた‥‥。Josephine Fosterを思わせる声のオールドタイミーな抑揚と息遣いは、ダブルトラック録音により自らの声のうちに開けた裂け目へと落ち込み、タバコの煙とアルコールにまみれながら、この揺らめきの中に身を沈めていく。最後まで水面に残った手がいつまでも「おいでおいで」と揺れ続けるのを見詰めていると、船酔いにも似た甘美な酩酊が襲ってくる。6曲目の最後で音像が動き、逃げるように部屋から出ていく声の背後で外のトラフィック・ノイズが沁み込んでくるあたりの精妙さにも恐れ入る。

無番号
Kayla Cohen(vo,g)
試聴:http://www.youtube.com/watch?v=g3fJ0zt6Erw
https://soundcloud.com/itasca/satyr
http://www.meditations.jp/index.php?main_page=product_music_info&products_id=9931
宮廷音楽風の典雅な響きのアコースティック・ギターの爪弾きが、対位法的な動きを多用しながら編み上げた舞台に、感情の抑揚を押し殺した冷ややかな眼差しの女声が降り立つ。聖堂のように深いエコーがふうわりと裾をひるがえしつつつくりだす奥深くしめやかな空間を、民衆的な記憶の古層へと沈み込んでいく米国フォーク調の乾いたメロディ(そこには60年代サイケデリックの甘美な蜜がひと垂らしされている)が静かに歩みを進めていく。時折テープの逆回転によるオルガンに似たサウンドやエレクトリック・ギターの霧に見え隠れするようなくぐもったトーンが、沁み込んでくる冷気や外の気配と交錯する。300枚限定。

Unseen Worlds UW08
Maria monti(vo),Steve Lacy(ss),Roberto Laneri(bs),Alvin Curran(arr,syn),Luca Balbo(g),Tony Ackerman(g)
試聴:http://www.meditations.jp/index.php?main_page=index&artists_id=4550&typefilter=artist
イタリアの映画女優によるヴォーカル作品(1974年)の再発。注目はやはりMEVのメンバーAlvin Curranの参加。本作でも聴かれる軽やかな浮遊感のあるあてどころなく漂うようなドローンは、かつてAnanda等からリリースされていた彼の70年代作品(『Solo Works:The 70's』として再発されている)でおなじみのもの。もうひとつは彼女の女優らしい演劇性を活かしたキャバレー・ソングやトーキング・ヴォーカル作品の堂々たる仕上がり。ちょっと調子外れなおどけた曲調にラグタイム風のピアノ(クレジットはないがやはりCurranによるものだろう)が絡み、Steve Lacyのソプラノ・サックスが突っ込みを入れる様は、意外なほど絵になっている。全体としては、アコースティックなアンサンブルや電子音、環境音や各種SE(混信する無線等)に異化されることにより、さらに輝きを増しているフォーク調メロディの佳曲群が見事。Alvin Curran「Live in Rome」によればTVドラマや映画のために書かれた曲であるようだ。

Heartfast HFCD-014
灰野敬二(g,vo),ナスノミツル(b),高橋幾郎(dr)
試聴:http://www.youtube.com/watch?v=3RBZMi1m0kU
担当した『捧げる−灰野敬二の世界』所収の全作品ディスコグラフィは、ちょうど本作の前、不失者のメンバーが交代し映画『ドキュメント灰野敬二』のサウンドトラックがリリースされた時点で終わっていた。本作は前メンバーによる演奏で『光となづけよう』の続編となるが、ヴォーカルが叫び、リズムが衝突する前作が「動」だとすれば、本作は「静」のアルバムである。声はいつになく優しく柔らかに語りかけるようだが、一音一音を切り離し、道しるべのパン屑のように置き散らしながら進む発語は、情念をはらむことなく、意味を宙吊りにし、メッセージを気化させて、聴き手の掌からこぼれ落ちていく。演奏もまた緩やかにたゆたいながら、決して互いに同調することなく、視線すら交わさず、孤独に自らの道を歩み、ひたすらすれ違い続ける。速度を落とし、深みへと沈み、瞬間への感覚を研ぎ澄ましながら、決して手を取り合うことのない音は、聴き手に焦点を結ぶことなく、傍らを通り過ぎ、充満に至ることなくその場に屹立しながら、遥か彼方へと向かう。張り上げられた叫びが筋肉の緊張をつくりだし、その反射で反対側の腱が無意識に伸び、身体的なリズムをつくりだした前作と異なり、ここで音は限りなく引き延ばされながら、決してまどろむことなく、次々と蘇るフラッシュバックにも似た異なる速度と呼吸を生きている。強烈なまぶしさがまぶたの裏に刻む残像を思わせる、藤色と銀色を重ね合わせた色合いのジャケットも印象的。
2013-03-10 Sun

2月18日にケヴィン・エアーズが亡くなったことを遅ればせながら知った。68歳だった。ここでは彼の作品に関する思い出を語ることで哀悼の意を表したい。
私は彼のよい聴き手ではなかった。最後の作品となった『Unfairground』も聴いていないし。それでも初期の作品やBBC等のライヴ音源には何度となく耳を傾けた覚えがある。
彼独特のノンシャランな洒脱さとノンセンスなヒューモア感覚は極めて英国的なものだが、だからといって英国に彼のようなミュージシャンが何人もいるわけではない。「オリジナル」ソフト・マシーンの盟友であるデヴィッド・アレンやロバート・ワイアットも、幾つも共通する資質を持ちながら、ケヴィンに似ているとは到底言えない。さっさとイビサ島に隠遁を決め込んだり、『スウィート・デシーヴァー』を制作してキング・クリムゾン「グレート・デシーヴァー」をやんわりと(だが核心をとらえて)揶揄したり、バナナで作った駒で大真面目にチェスを指したりする「優雅なだらしなさ」と言うべきエピキュリアンぶりは、おそらく誰にも真似できない。そのしどけなく長椅子に横たわるような脱力した歌い方も、そしてぞくっとするようなセクシャルな深みをたたえた声音も。
彼の音楽を初めて聴いたのは、たぶん80年代初めに池袋西武アール・ヴィヴァンで購入した『ジョイ・オヴ・ア・トイ』と『シューティング・アット・ザ・ムーン』を併せて収めた2枚組LP(ジャケットを差し替えての再発盤)だったと思う。スズの兵隊やテディ・ベアのぬいぐるみが渾然一体行進しているような幕開けから一気に引き込まれた。にもかかわらず、その後すぐに彼の作品の収集に走らなかったのは、当時手に入りにくかったという理由からだけではなく、キング・クリムゾンやヘンリー・カウ、シェーンベルクやヴェーベルン、デレク・ベイリーやエヴァン・パーカーらの張り詰めたテンションの高さに耳の焦点を合わせていた当時、彼の底抜けに明るい楽天性に耳を浸すことに何となく後ろめたさを感じていたからかもしれない。
それから随分たって彼の作品のCD再発が進んでからは、以前に本ブログに追悼記事を掲載したロル・コックスヒルの参加に着目して、ライヴの音源を幾つか手に入れたりした。ステージ上でコミカルな寸劇が繰り広げられたりして、なかなか一筋縄では行かない、凝った、そして「モンティ・パイソン」的に何でもありの脱線だらけの構成となっている。ロル・コックスヒル、デヴィッド・ベッドフォード、マイク・オールドフィールドが顔を揃えた「ホール・ワールド」は、ロックとかジャズとかポップスといった既成の枠組みにとらわれることなく音楽を溢れ出させる、本当にクリエイティヴなすごいバンドだったんだなと改めて思わずにはいられない。
そんなわけで私が選ぶ彼の代表作5枚は、結局のところ初期作品+ライヴということになってしまい、すでに彼を知っているファンには何ら目新しい点のない、まったく代わり映えのしないものなのだが、それでも一応挙げておこう。ジャケット・デザインの不思議ぶりを見ているだけでも楽しい。



Joy of a Toy Shooting at the Moon Whatevershebringswesing



The Confession of Dr.Dream BBC Radio 1 Live in Concert 最初に手に入れた再発盤
and Other Stories

2013-03-09 Sat
3月2日(土)に観てきた演劇「ネエアンタ」について感じたことを書いてみようと思う。もとより演劇にはほとんど縁がないし、この作品はサミュエル・ベケットによるテレビ・ドラマ脚本「ねえジョウ」を下敷きにしているとのことだが、正直ベケットのこともよく知らない。だから後に述べる舞台装置の簡素さや人物のミニマルな運動に「ベケットらしさ」を感じたりはするものの、場面設定やテクストが属するもともとのコンテクストはまったくわからない。しかし、そのような予備知識の持ち合わせのない観客にとっても、この作品/上演は充分に興味深く、優れたものであると感じられた。それゆえレヴューの題材とする次第である。1 空間(1)
黒い幕で覆われた空間に設置されたL字型の白い床。正面の白い壁(左側の窓には白いカーテンがかかっており、右側には壁に沿って白いベッドが置かれている)と右手前の白いドアだけが「外」と室内を隔て、またつなげる仕切りとなっている。他に壁はつくられていない(照明のせいで黒い壁があるように見えるが実際には開け放たれている)。左側の端には白い冷蔵庫。ベッドと冷蔵庫以外に家具はなく、上から灯りがひとつ吊り下がっている(天井はない)。ぎりぎりまで禁欲的に切り詰められた簡潔な装置。
2 男の身体(1)
客電が落とされ照明も消されて訪れたしばしの闇が明けると、白いパジャマに褪せた赤のガウンを羽織った裸足の男がベッドに腰掛けている。男は動かない。動こうとしないのでも、動くまいとじっとしているのでもなく、以前からそこにあった置物のように空間にすっとはまり込んでいる。これはダンサーの身体ならではの業だ。
やがて男はゆっくりと左手方向を向くが、ヴィデオの再生をジョグ・ダイアルで操作するように、時折ふっと動いて、それ以外は動いているかいないかの超微速度で移ろっていく。そうした動きにもかかわらず動作は滑らかで段差がない。連動して動く身体の各部を巻き戻していく印象。これもやはりダンサーならではの身体技法と言えよう。
3 男の身体(2)
彼=山崎広太を初めて観たのは今から16年以上も前、1996年に行われたコントラバス奏者斎藤徹の企画によるシンガポール公演だった。日本からは二人のほかに沢井一恵(箏)が、フランスからはミッシェル・ドネダ(ss)とアラン・ジュール(perc)が、韓国からは巫楽を奏する打楽器奏者キム・ジョンヒ、チョン・チュルギの二人、さらに地元シンガポールからパフォーマーのザイ・クーニンが参加する一大プロジェクトだった。山崎はさほど広くないステージの端から端まで優雅な足の運びですたすたと歩き、そうした下半身に乗せて運ばれる上半身においては、多方向からの力線に刺し貫かれ突き動かされる高速の運動を、恐ろしい高密度に圧縮して重ね合わせてみせた。機銃掃射に跳ね上がり痙攣する死体を思わせる仕方で、コマ落としのフィルムのようにぶれ、輪郭を多重化する身体。それはたとえばジョン・ゾーンのゲーム・コールズによる速度と強度、切断と衝突に満ちたソロ演奏の視覚的等価物とでも言うべきもので、徹底して物語の次元を欠いたブロックの接合である。
4 時間(1)
吊り下げられた部屋の灯りが点滅して消え、薄暗くなった室内で男は立ち上がり、窓の方に歩いていってカーテンを開け、また閉める。一方、そうした彼の動きとはまったく関係がないかのように左手前のドアが開き、そこから外の明るさとともにきらきら輝く砂粒のような音が流れ込んでくる。カーテンを閉めた彼は冷蔵庫に歩み寄り、扉を開け中を覗いて、扉を閉める(そのとたんに流れていた音のある部分がふっと消える)。それから部屋を横切り、ドアノブに手を掛け、外を覗いてからドアをばたんと閉める。音が止み、男は元の位置・姿勢に戻り、部屋には再び灯りがつく。以降、このサイクルは上演中4回繰り返されることになる。換言すれば上演の時間はそのように分節化されている。
5 女の声
「ねえあんた‥」とどこからか女の声が響く。男が振り向く。「ねえあんた、全部よく考えてみた? 何も忘れていない?」
女の声はどうやら男に語りかけているらしい。抑揚をやや平坦にした、どこか息の漏れるような力ない発声。現代詩の改行のように本来あるべきでないところにブレスが配置され、声が一瞬止まり、意味に沈黙のナイフが入って、呼吸の運びはうわずるように宙に浮き、メッセージを宙吊りにする。まるで自動機械が話しているようにも聞こえる。テクストの内容は男の過去や現在を暴き続けるが、この声のつくりがそこに恨みや後悔といった情念の入り込む余地を与えない。ちらしに印刷された解説は、女が男と以前に付き合っていて、その後別れ、今はもう死んでいる可能性を指摘するが、虚ろに響くこの声の感触を、そうした関係性の網の目に解消してしまうことはできない。あるいは声は男の頭の中だけで鳴っていて、私たちはそれを覗き込んでいるだけなのかもしれない。だがやはりこの声を、男の自責の念がつくりだした幻聴と片付けてしまうこともできない。どうにも始末しようのない厄介な存在(まるでゴロンと横たわった身体/死体のように)として、女の声はただそこにある。
6 女の身体
声が止み、部屋の明かりが点滅して、男がゆっくりと立ち上がり、前述の一連の動作を反復する。動作は繰り返すたびに抵抗/負荷を増していくようだ。カーテンを開け閉めし、れいぞうこと格闘する時間がだんだん長くなっていく。と同時に女の身体が舞台上に少しずつ姿を現すようになる。最初は冷蔵庫の陰に隠れており、次いでドアの向こう側から伸び立てが部屋の内側のドアノブに触れ、さらに後ろ姿の半身をさらし、ついには部屋へと入ってきて男とすれ違い、冷蔵庫に首を突っ込む男の顔を今にも触れんばかりの近さで覗き込み(男には女の姿は少しも見えていないようだ)、からのベッドに倒れ込む。白いドレス、顔を隠す長い銀髪、誇張された動作、時にさらす異形(竹馬(?)を履いてとてつもない大女の姿で現れたりする)により、女が既にこの世のものではなく、声の主である死んだ女であろうことはたやすく想像される。しかし、にもかかわらず、声と女の身体を結びつけるものは何もない。むしろ舞台上に現れる女の身体は、声との関係を持つこと、声の重みを背負うことを注意深く回避している。
7 時間(2)
男が一連の動作を反復する「暗い時間」には女の声は流れない。声が現れるのは決まって男がベッドに腰掛け、部屋の灯りがついている「明るい時間」だ。その「暗い時間」に流れる音には前述の「きらきら輝く砂粒のような音」だけでなく、ざわめきを伴う持続音や音響的なブルース・ギター(ローレン・マザケイン・コナーズを思わせる)の断片の反復等が重ねられていく。時間を差別化するための舞台装置的なアンビエンスや記号的な効果音ではなく、かと言って情感やメッセージを濃密に担うこともない、精密に設計され巧妙に仕組まれた、たいそう魅力的でありながら決してどこかに着地することのない「どっちつかずの音」。
8 男の身体(3)
「明るい時間」に語りかける女の声は、男の身体に様々な事実や関係性を投げかけていく。それらは意味や文脈の重さで男の身体を縛り付けようとする。しかし男=山崎の身体はこれに抵抗する。声のながれる「明るい時間」には空間にぴたりとはまり込んで声をやり過ごし、「暗い時間」には意味/文脈の重みに抗いながら動作を反復する。それゆえドアへと向かう最後の行程は大変な力業となった。暴風雨に幹がしなり枝が折れ葉々が引きちぎられるように、多様な力線の交錯に翻弄される身体(実際、その動きは「暴風に向かって歩く人」のパントマイムのようだった)。そのプロセスは堆積するテクストの重みを洗い流す高圧シャワーでもあっただろう。
9 空間(2)
最後になって気づいたのだが、「暗い時間」が訪れるたび(実際には最初と最後を除いた3回)、私たちが男の身体の格闘に眼を奪われている間に、正面の壁が手前へと押し出され、部屋の奥行きが浅くなり、男の戻るベッドがだんだん客席に近づいていた。「暗い時間」における男の動作がだんだん引き伸ばされていった理由として、ひとつには空間の圧縮による意味の充満=負荷の増大を、もうひとつには観客からの距離の短縮による細部の拡大を挙げることができるかもしれない。
10 時間(3)
最後の「暗い時間」では音響は流れず、手前に迫り出していた正面の壁が急に元の位置まで後退し、鈴の音のような不思議な響き/変調をまとった女の声が姿を現した。女の身体もまた姿を現し、男と並んだかと思うと、ベッドを叩き叫び声を挙げ、その途端、それまでの抽象的/構築的な音響ではなく、大音量でジャズが再生され、上演は終了した。
ここでのジャズ・サウンドの突然の登場には、カタストロフあるいは「外」の世界の露呈の象徴など、様々な意味を読み取ることが可能だろうが、そうした意味性/象徴性の濃密なサウンドのいきなりの使用に正直当惑したことを告白しておきたい。意味/文脈の重みに埋もれてしまうことなく屹立し続けるダンサーの身体と、声の現前と身体の不在、声の不在と身体の現前を巧みに演じた俳優(かつて転形劇場で活躍した安藤朋子)の技量の上に組み上げられた、それまでの削り込み張り詰めた構築が、このジャズの使用(及びそのきっかけとなるように見える女の叫び声)によって、一気に押し流されてしまう(注意深い宙吊り状態がある特定の感慨へと短絡的に結びつけられ解消してしまう)危うさがそこには横たわっているようにかんじられたからである。それともこれはどうしてもジャズを特権化し、そこに含意を読み取ってしまう私自身の耳の偏差によるものなのだろうか。
ARICA第24回公演「ネエアンタ」 inspired by Samuel Beckett
2月28日(木)〜3月3日(日)
森下スタジオ Cスタジオ
演出・テクスト構成:藤田康城
テクスト協力:倉石信乃
出演:山崎広太・安藤朋子
主催:ARICA
http://www.aricatheatercompany.com/

2013-03-09 Sat
2012年第4四半期ディスク・レヴュー第2弾はフィールドレコーディング、サウンドスケープ系からの7枚をお届けしたい。
Unfathormless U14
Yann Novak(fieldrecordings)
試聴:https://soundcloud.com/yann-novak/paradise-winchester-excerpt
水平に広がる圧縮されたアンビエンスの中に、口笛に似た響きやヴォイスの断片がかろうじて聴き取れるが像を結ぶには至らない。そのうちに飛行機の排気音を思わせる低音のドローンが次第に浮かび上がり、中高音域の摩擦音との間にスクリーンを張り渡し、そこに交通騒音やサイレンの音、アナウンス等がピンホール・カメラの映像のようにぼんやりと映し出され、慌ただしく行き交い始める。ゆっくりと幾重にも波紋を広げる希薄なアンビエンスと、その向こうに蜃気楼のように浮き沈みする曖昧で断片的な光景。夢うつつの耳のための都市のサウンドトラック。確かな耳の視線の強度と抑制された構築が風景の内面化/心象風景化を遠ざけ、硬質な手触りを生んでいる。このレーベルの作品は本当にみな水準が高い。200枚限定。

obs 033
Richard Garet(fieldrecordings)
試聴:http://abser1.narod2.ru/silver_mix.mp3
音の輪郭が高速で微細に振動し、それが波紋を生じ、何千何万の小魚の群れが渦を巻くように空間を銀色の波動で埋め尽くす。鈍い金属音も、探索のためのソナーを思わせる正弦波も、交信状態の悪い無線のようなヴォイスも、皆それらの波動に呑み込まれ、次第に輪郭を曖昧にしながら視界から遠ざかっていく。いやむしろ、耳の視界は奥行き方向への深さを持たず、聴き手の身体を照らし出しながらゆるゆると膨張し、こちらに迫り出してくるようにすら感じられる。陰影を侵食し、輪郭を溶かし、すべてを包み込んでさらさらとした砂粒に変えてしまう、まぶしさのない柔らかく冷ややかな光。300枚限定。

room40 rm448
Anthea Caddy(cello), Thembi Soddell(fieldrecordings,sampler)
試聴:https://soundcloud.com/experimedia/anthea-caddy-thembi-soddell
冒頭、彼方で水の滴り落ちる奥深く光の射さない地下空間が提示され、そこにチェロの軋みが舞い降りる。弦は灼き切れんばかりに弓に苛まれ、楽器は身をよじって悲鳴を上げる。エレクトロニクス操作が惨劇をクローズアップし、すぐに別の空間へとキャメラを切り替えたかと思うと、暗闇にストロボが輝くように一瞬だけチェロを網膜に焼き付け、その反転した残像がしばらく視界に浮かぶに任せる。無音や街頭の喧噪をカットアップし、すぐまた元の暗い地下の澱んだ空気へと舞い戻る空間操作と、聴き手に襲いかからんばかりに眼前を圧し、あるいは視界の隅にひっそりと佇み、冷たい床を這うようにひたひたと満ちてくるチェロ演奏は、互いにオーヴァーラップしながら、音に対峙する聴き手の身体に、いや「聴くこと」自体に激しく揺さぶりをかける。そうした空間/音響の流動状態の突き詰めた凄まじさゆえに、本作を器楽的な即興演奏の枠ではなく、サウンドスケープ的な構築の枠で選定した次第。想像を遥かに上回るハードコア。

Western Vinyl Small Music no.3
Rolf Julius(sound installation)
試聴:https://soundcloud.com/experimedia/rolf-julius-raining-album
せせらぎの水音、重々しくゆっくりと回転する水車の軋み、鳴き交わす小鳥たち、風が遠くから運んでくる牛の鳴き声、木立ちの幹や枝に反射する響き、風に揺らぎちらつく木漏れ日‥‥。覆い繁る下生えや木々の幹に巻き付く蔓植物の緑に遮られ、見通しの効かない深い森の情景は、実際にはカヴァーの写真が示すように、ほとんどすべて、自然環境のあちらこちらに配置されたスビーカーから流れる、あらかじめ構成された電子音のインスタレーションなのだ。互いに同期しないループのレイヤーを敷き重ねることにより、もつれながら生成してくる風景/空間。そこにはもやもやと濁り幻惑するような奥行きや音と音の隙間さえもが現出するよう組み立てられている。あるレイヤーが取り除かれる際の、耳の視界の一部が一瞬欠け落ちたような不思議な宙吊り感が、音響のプールに水没していた意識をふと引き戻す。

Angklung Editions ANG01
Robert McDougall
試聴:http://robertmcdougall.bandcamp.com/album/unfinished-studies
打ち鳴らされる金属のくぐもった響きが空間を渡っていく。小さな泉となって湧き出る電子音と左右で揺れる金属音が溶け合う中に、金属をこすり合わせる音が浮き沈みし、さらに砂利を踏むような摩擦音が加えられる。その感触は前掲作『Raining』にどことなく似ている(音素材の編み込み方の繊細さ)。フィールドレコーディングされた環境音、楽器音、電子音等のレイヤーの敷き重ねによる構築において、選ばれている音色の好みはやや甘口だが、周期のずれた反復の抑制の効いた使用が、作品に聴き心地のよさだけでなく、確かな強度をもたらしている。LPは300枚限定(DL版の販売あり)。

Trust Lost 008
Francisco Meirino, Brent Gutzeit
試聴:http://www.franciscomeirino.com/fmbg
http://www.art-into-life.com/product/2801
Francisco MeirinoとBrent Gutzeitの2人が5年に及ぶサウンド・ファイルの交換を経てつくりあげた本作は、緻密なプロセッシングによる隙のない構築ぶりを見せている。砂利道を踏む足音と上空を通過する飛行機のジェット音が重ね合わされる冒頭から、統一的なパースペクティヴを欠いたまま切り刻まれたサウンドスケープが凄まじい速度で交代し、ざらついた電子音が視界を傷つけ、凄まじいハーシュ・ノイズが機銃掃射される。こうした過剰な放射が情動の垂れ流しに陥ること、冷徹にコントロールされ尽くしているところが本作の特筆すべき点と言えよう。それゆえ「押し」の場面だけでなく、「引き」の場面(たとえば9曲目の奥深くしめやかな空間)でもテンションが緩むことはない。Francisco Meirinoはソロ名義による『Undetected(untreated recordings from on-site testimonies archives』では金属板に雪が降り積もる音を録音して聴かせたりもしており、そうした凝視の強度が高速カットアップによる本作にも感じられる。

Consumer Waste cw04
Patrick Farmer(fieldrecordings)
試聴:http://www.youtube.com/watch?v=PB8kd_8Kg6I
以前に2011年第4四半期のディスク。レヴューで「その素晴らしさを言葉にする術をうまく探り当てることができ」ないとして掲載を断念した本作を改めて採りあげることにしたい。今回の執筆に当たっては、前回レヴューした同じくConsumer WasteからのリリースであるSarah Hughes&Kostis Kilymis『The Good Life』の聴取体験が導きの糸となった。
添えられた説明によれば、最初のトラックはプールに張った氷が溶けていく様をとらえている。だが耳にもたらされるのは手前で漏らされる低く乾いたつぶやきが、風の音と混じり合う様に過ぎない。そこに視覚的イメージが浮かぶことはなく、パースペクティヴも存在しない。突如として上空を飛行機が通過し、その音がサーチライトのように周囲の光景と聴いている私の身体を照らし出す。それまでの「包囲光」的なアンビエンスが浮かび上がらせていた、輪郭を持たず端からさらさらと崩れていく軽やかなざわめきとは異なる視界(放射された音がかたちづくる円錐形の空間以外の認知が相対的に弱まる)がそこに開ける。冷たい風に揺らぐ一面枯れ草で覆われた野原を思わせる響きの向こうに開ける別の世界。
頭上に張り渡された送電線の唸りをフェンスの振動を介して収録した2曲目において、音響はよりシンプルな振動に収斂した見かけをしているが、覗き込むほどに、顕微鏡の倍率が上がるように新たな視界が開かれていく感覚を覚えずにはいられない。3曲目は竹の中に巣を作る蜂の生態をとらえたものだが、対象に顕微鏡的にフォーカスするのではなく、たっぷりと余白を取っていることが、沈黙のざらつきを聴かせる結果となっている。100枚限定。
2013-03-05 Tue
遅ればせながらの2012年第4四半期のディスク・レヴュー。まずはエレクトロ・アコースティックなインプロヴィゼーションから。ここでひとつお断りしておかねばならないのが、本来ならまず採りあげるべき『Wandelweiser und so weiter』( another timbre)をCD6枚組というヴォリュームゆえに別稿扱いとしたこと。2012年のベストとも言うべき作品なのでぜひご注目いただきたい。
Consumer Waste cw08
Sara Hughes(zither,mosquito alarm), Kostis Kilymis(electronics)
試聴:https://soundcloud.com/syndromesuploadcloud/sarah-hughes-kostis-kilymis
表面に浮かび上がるざらざらとした粒立ちとその向こうで静かに爪弾かれる弦の震え。あるいは手前でゆるやかにたゆたう響きと背後で鳴り続ける息漏れ音やはるか遠くのブザー。ガラスの破片にも似た鋭い響きが雨だれや針飛び音のように周期を刻み続ける。音風景のオールオーヴァーな広がりを前にして、どこに焦点を合わせてよいかとまどい、あてもなく視線をさまよわせていた耳は、周囲の様子を風景としてスキャンする機能を発動する。
注意深く選ばれた繊細な響きは視覚的イメージを喚起することなく、空間を深い闇で一様に満たす。そこに配置される音もまた、特定の視覚像を描き出してしまうことをやはり注意深く回避しながら、空間を薄明るく照らし出し、その広がり自体をぼうっと浮かび上がらせる。あるいは手前で鳴る音が耳の視界に薄くヴェールをかけ、その向こうで響く音に不思議な香りをまとわせる。空間に遍く散布される音が沈黙を構成するざわめきと混じり合い、空間を変容させ、そこに広がる響きすら変化させる。100枚限定リリース。

absinth records 024
Chris Abrahams(pipe organ), Sabine Vogel(flutes)
試聴:http://absinthrecords.com/clips/024free.mp3
気流の鳴る音。パイプ・オルガンの引き伸ばされた持続音とフルートの重音奏法が層となって重なり合い、ずっと鳴り続ける音から時折倍音が硬く凝り頭をもたげる。パイプ・オルガンが呼び子を思わせる甲高い響きと広がりのある低音を付け加えると、それらに上下から挿み込まれたフルートの音色はちらつくような明滅へと移ろう。オルガンの各音は別々のところから響いてくるように感じられ、いっこうに均質な和音を形成しようとしない。全体としてはドローンの稠密さへと近づきながらも、ここでそれぞれの音はみな他の音の付帯音としてあり、溶け合うことなく別の層を保っている。このことがフィールドレコーディングによる音風景を敷き重ね、重なり合った余白を透かし見るように、不可思議な奥行きの感覚をもたらしている。500枚限定リリース。

Insubordinations insubcd07
Jonas Kocher(accordion),Gaudenz Badrutt(electronics)
試聴:http://www.insubordinations.net/releasescd07.html
深いため息、オルゴールのきらめき、虫の音を思わせる甲高い響き、時計のカチカチ音、地下鉄が運んでくる超低音の揺らめき、紙を破り捨てるような蛇腹の軋み‥。ここにはふだん私たちが「演奏」ととらえる枠組み、「演奏」を構成する意識からこぼれ落ちてしまう音ばかりが集められている。皆既日食の時にだけ観測できるコロナの広がりのように、演奏の「本体」を消去することによって、初めて耳の視線が届き得る付帯音の集積。容赦なく削り取られ、極限まで研ぎすまされた結果、音は微かな痕跡を残すだけとなる。声帯を切除されたオペラ歌手が漏らす密やかな息のかすれ。トタン屋根に雪が降り積もる音。それらを聴きとるには意識のステージを更新して、ミクロなざわめきに耳を澄まし、僅かな痕跡も見逃さないようにしなければならない。それらのか細い音は沈黙を満たすざわめきに埋もれ、フレーズなど形成するはずもなく、透明な空間に振りまかれしばらく明滅を繰り返しやがて消えていく。その瞬間に鋭い目配せのように走る幾つもの力線を見逃さないこと。

Meenna meenna-999
Klaus Filip(ppooll), Toshimaru Nakamur(no-imput mixing boarf), Andrea Neumann(inside piano,mixing board), Ivan Palacky(amplified Dopleta 180 knitting machine,photovoltaic panels)
試聴:http://www.ftarri.com/meenna/999/index.html
演奏楽器のクレジットから推測できるように、ここで音は明確な輪郭を持たず、互いに侵食しあい、演奏は深い霧の中を手探りで進みながら、それでも次々と新たな音響世界の扉を開いていく。前掲作のKocherとBadruttの演奏においては、余白を重ね合わせながら空間自体はどこまでも見通せる透明で不動なものであったのに対し、ここでは劇中にセノグラフィを入れ替えるように、基盤となる空間自体が入れ替わっていく(これにはmixing boardがざらざらとしたざわめきを放出して、その都度空間を満たしてしまうことが大きいだろう)。ノイズの投影されたスクリーンの向こうで、ぼんやりとした影絵のように物音がうごめき、魅惑的なサウンドがスケッチされては次々に破り捨てられていく。

Drone Sweet Drone Records dsd007
d'incise(objects,sons trouves,instruments divers,processus digitaux)
試聴:http://dincise.bandcamp.com/album/ak-nes
揺れる花、流れる雲、震える水面、誰のものでもない視線が風景をゆっくりと眺め回し、白と黒を排した柔らかな階調でとらえられたモノクロ映像が、マルチ・ウィンドウの分割された画面の中を動いている。繊細な響きの編み目が幾層も重ねられ、瞑想的なエコーを伴って深い奥行きに沁み込んでいく。音は素早く浮かび上がり、さらさらと細かな破片に崩れ、あるいは掠め取られ、覆い隠される。そうした老成した緻密な職人芸とは裏腹に、わらべうたを思わせる叙情的なメロディがあからさまに奏でられるなど、無防備でイノセントな側面もうかがえる。

intonema int004
Ruth Barberan(trumpet,objects),Ferran Fages(acoustic turntable,objects),Alfredo Costa Monteiro(accordion,objects)
試聴:http://www.intonema.org/2011/02/int004-atolon-concret.html
彼らは互いに背を向け合ったまま、床を壁を天井を自らの音で照らし出し、指先で触れ探り続ける。空間を探査する持続音。それゆえ音は空間で交錯しながら、互いに触れ合おうとせず、視線すら交わさず、ましてや層を成して重なり合うことなどない。暗い夜の波が岩場を洗うようにアコーディオンの低音の持続が荒い息遣いを響かせ、金属質の軋みや薄い金属板のバリバリとした震えが空間を満たし、ゆっくりと音色の輝きの度合いを変移させていく。それらの響きが潮の引くように遠ざかると、ターンテーブルに乗せられた陶片がこすられる音が波間から浮かび上がり、空間に規則正しい傷跡を刻んでいく。少しも熱を感じさせない冷ややかに静まり返った世界の中で、何か巨大なものがゆっくりと立ち上がり、時間をかけてこちらを振り向こうとしている。音の輪郭は変わることなく、そこを占める音粒子の密度あるいはスペクトルだけが変化していく。こうした音の眺めはフィールドレコーディングによるサウンドスケープを思わせる。以前にディスク・レヴューで採りあげたRuth BarberanとAlfredo Costa Monteiro(何と今回のトリオのうちの2人)による『Luz Azul』(Flexion)において、音が放たれる深夜の畑や鉄道線路のざわめきが、ここでは演奏者によってつくりだされ、汲んでも汲んでも汲み尽くし得ない細部の豊かさをたたえている。

Rhizome.s 02
Bruno Duplant(electroacoustic device,phonographies), Pedro Chambel(microphone,objects), Jamie Droin(suitcase modular,radio)
試聴:http://rhizomes.bandcamp.com/album/field-by-memory-inhabited-1-2
闇の底を徘徊する電子音から、ふと鬼火のようにプラズマが発光する。次第に明るさを増していく視界の中で、何か見分け難いものがひしめき合っている。猫の鳴き声、靴底で砕ける凍った雪、水銀灯のノイズ、瓶の蓋を開ける軋み、呼び子にも似た持続音、何もない空間の広がり、しみこんでくる外の気配、マイクロフォンに衝突する空気の塊‥。音を切断する手つきの冷ややかな鋭利さは、外科手術のメス捌きを思わせる。その感触が、この演奏がインプロヴィゼーションではなく、あらかじめ作曲されたスコアのリアライゼーションであることを感じさせる。