2013-07-31 Wed
触覚的な響きやレイヤー構造による異なる速度の重ね合わせ/ずらしといったサウンド傾向が広くシーンに浸透するにつれ、次第にポップな試みが出てくるようになった。これはいろいろな人に聴いてもらうために、より聴きやすいものを目指すミュージシャンの意図の現れととらえている‥とホスト役の益子が今回の選盤のねらいを説明する。今回のプレイ・リスト中、そうした説明に最もふさわしいのは冒頭を飾ったErimajだろう。ローズの奏でる各音の浮かび上がりとそれとは速度感の異なるドラムスのストロークがすれ違い、ベースとギターの絡みには、やはりドラムスが足を滑らせるようにタイミングを外しながら重ねられる。そうしたずれ/滑り/すれ違いはヴォーカルに対しても同様に仕掛けられる。
しかし、こうした取り組みはよくあるケース、すなわち普及の結果としての平板化あるいはマニエリスム化のように思えてならない。プログレッシヴ・ロックやニューウェーヴの末期がそうであったように。Jonathan Finlayson & Sicilian Defence(‥って将棋の矢倉や穴熊みたいなチェスの陣形じゃなかったっけ)の演奏がHenry Threadgill的だという指摘もまったくその通りだが、いささか糸巻きの糸が緩んでいると言わねばなるまい。Colin Stetsonによる一人多重奏的なポリフォニーを「ポップだ」と言うのもこれまた異論のないところで、たとえBon Iverへの参加がなくとも、長短のリフを自在に繰り出し重ね合わせる演奏は、まさにポップ・ミュージック的な快感に満ちている。大道芸の名人的なパフォーマンス。だが、私にはそれ以上のものは感じられなかった。
もちろんこうした「不満」が不当なものであることは承知している。益子は彼が魅せられている世界への入口を広げたいのだろう。それは疑いなく正しい。飽くなき挑戦を続けるミュージシャンたちを支えることにもなる。だがその一方で、今回の彼の手つきが、彼の魅惑されている音世界を「ある効果を得るための手法」のように見せてしまう危惧を感じた。後述するように、ここでの本質は明らかに結果ではなくプロセスにあるからだ。それも演奏の中でリアルタイムで繰り広げられる相互作用のプロセスに。
これらの音楽が今日の、あるいは明日の「ジャズ」として語られるべき必然性は、私にはそこにあるように思える。「タダマス」に召喚されるミュージシャンたちは、これまでのジャズ共同体の決まり事を次々に破り捨てながら、むしろこの「リアルタイムの相互作用のプロセス」については放棄するどころか、ますます深く身を沈めているように見える。と言うより、ポスト・プロダクションですべてがつくりだされるポップ・ミュージックに抗して「演奏の現場」にこだわる者たちが、互いに深く触発しあえる空間として見出したのが、冒頭に掲げた傾向ではないのだろうか。
今回、多田が珍しく益子と一見対立する「ジャズ耳」的な立場から「こんな音を聴かされて、いったい何を聴いたらいいんだってことですよ」といった旨の発言を繰り返していたのも、私には冒頭の益子の提言を反対側から補足していたように思える(当人は風邪のせいで頭がぼうっとしていたんだと言っているが)。ヴォーカルや明確なメロディ・ラインがあって取っ付きはいいが、それではその背後に広がる演奏の生成プロセスには耳が届かない。これはロック的な轟音の充満でも同様であり、サウンド・プロダクションの結果として造形/構築されたマスとしてのサウンドが提示されているのは事実としても、それだけに酔いしれていたのでは、飽和したサウンドから析出してくる音響のかけらや、うっすらとした変調が均質化した表面をふと過る素早い動きに注目することはできない。かつてのECMに特徴的だった「運動と空間」あるいは「構造と響き」を枠組みとして、前者を通して後者に耳を届かせる聴き方でも充分ではない。
休憩を挿んだ後半のブログラムは、まさにこのプロセスの重要性を明らかにする、思わず耳をそば立てずにはいられない充実した作品ばかりだった。
Bureau of Atomic Tourism / Second Law of Thermodynamics(かつて「Total Mass Retain ~ 」と歌っていたロック・グループがいたっけ)は、ちょうどガラスをはめられた額縁の中の絵画にも似た不思議な距離感があり、通常の録音のように演奏にフォーカスしたというより、演奏の周囲に広がるサウンドが滲むべき空間を併せて見込んだ視角が提示される。その中に輪郭を揺らめかせた管が漂い、パーカッションがちらちら瞬き、ローズの打鍵がきらめいて、それらの波紋をさらにどもるようなエレクトロニクスが空間の震えとして広げていく。庭先の水たまりに陽光が反射して薄暗い居間の天井に映し出す不思議な揺らめきを、ぼうっと眺めていた子ども時代の思い出がふとよみがえる。
揺らめきの強度という点では、最近の「タダマス」の最多登場ミュージシャンと言うべきMary Halvorsonも負けてはいない。濃密なエレクトロニクス操作を介してではなく、ほとんど化粧っ気のない線の細い音色で、神経が震えるような深い揺らぎをつくりだしてしまうのが彼女の真骨頂と言えるだろう。Stephan Crump(double bass)とのデュオによる『Secret Keeper』では、ベースがぐいぐいと弾き込む分、彼女の浮遊する「引き」の魅力がよく出ていたように思う。
Gerald Cleaverも「タダマス」の常連だが、Halvorsonと異なり、その本質を名指すのが難しいミュージシャンだ。2011年のジャズ系のベストと言いたいFarmers by Natureでも一番輪郭がおぼろで明度/彩度の低い、一種とらえ難い役回りを演じていたし、「タダマス」の初回でかかったGerald Cleaver 's Uncle Juneも、細部の切れ込みの深さにもかかわらず、全体としては像を結びにくい仕上がりだった。今回のGerald Cleaver Black Hostでもそうした底の見えなさは健在。アンサンブルのON/OFFの切り替え、ピアノとドラムスのサンプリング感覚のミニマルな繰り返し、アルト・サックスとギターのユニゾンと言うにはあまりに微妙な、触れ合うか触れ合わないかギリギリの持続、ピアノ・ソロ+α的な揺らぎ‥‥。実は今回、ホスト役の益子と多田の打合せに同席させてもらい、プレイ・リストの各曲を事前に一通り聴かせてもらったのだが、70歳近いヴェテラン・ピアニストCooper-Mooreによるいかにもなフリーっぽいソロは、その際に益子宅のスチューダー+マランツ+JBLというヴィンテージ銘機ながら、むしろカール・ツァイスのオールド・レンズを思わせる高解像度と丸みを持つサウンドで聴いた時には随分と他から「浮いて」聴こえた。だが、喫茶茶会記のアキュフェーズ+アルテックではそう聴こえない。これは打合せ時に「ミスキャストではないか」と問いかけて、益子から「でもCleaverがこのグループを組む際に最初に選んだのが彼なんだ」と説明を受けたせいなのだろうか。
ここでdrums,sound designという本作におけるCleaverのクレジットは、まさにグループのサウンドの統括デザイナーと理解できる。先に述べたサウンドの堂に入った配合の仕方は、彼が事前にグラフィックを描き、「お前はこの青い線を演れ。あんたはこっちの赤いシミだ」と指図しているのではないかと思われるほどだ(本作のカヴァー・デザインのグラフィックも彼が制作している)。すなわちそこでは線的な推移よりも、面的な配置の方が優先される。ここでの彼のコンポジションは、そのように時間の軸をいったん捨象してつくりあげたサウンドのブロックを、サウンド・ファイルのデスクトップ操作感覚で改めて結合することによって成り立っているのではないか。
そのように考えると、Cooper-Mooreが選ばれた理由も見えてくるように思う。他のCleaverと同世代のメンバーと異なり、彼は今回の「主素材」なのだろう。つまり彼の演奏の個性をどう活かすかが、このプロジェクトのテーマと言う訳だ。逆に言うと、彼の演奏を出発点/帰還点に置くことで、Cleaverはいくらでも過激にグラフィックを凝らすことが可能となるし、他のメンバーも逸脱を重ね遠くまで行ける。
Cleaverのような深く読み込むことを求めるミュージシャンを聴く場合、複数で聴くことは大きな助けになる。多層的な展開に焦点を絞れず、推移を看て取れず、空を掴むばかりで途方に暮れかける耳を、それでも「ここには耳を傾けるに足るものが何かある」と引き止めてくれるのは、他の耳の眼差しの存在である。別に言葉を交わさずともよい。他の耳がそこに聴くべきものを見出したとの事実が、そして他の眼差しが見通す先を自分も見極めたいという願いが、とらえ難い茫漠とした広がりに、あるいはうごめくものの姿の定かでない暗がりに耳をそばだて続けさせるのだ。
Eric Revis Trio / City of Asylumでは、Kieth Jarrett作曲の「Prayer」で、音を突き放すように孤独に輝かせ旋律を粒立たせていくKris Davis(彼女もまた「タダマス」がずっと追いかけている一人だ)の単音ピアノ、深く深く杭を打ち込むベース、空中に打音で象形文字を刻んでいくパーカッションの三者の距離感というか、間に覗く闇の深さが凄い。まるで真空中で演奏しているようだ。また、三者の即興演奏によるであろう表題曲では、ネックを軽く撫で回すように弦に触れ、つむじ風に舞う枯れ葉のようなリフを生み出すベースに対し、響きを抑えカタカタと乾いた音を立てるピアノの高弦が僅かずつタイミングを踏み外していき、暗がりに沈むタムの響きがそれらの影を縫い取っていく。前述の打合せ時にこの2曲に漂うあまりに深い静けさに、思わず「Clean Feedらしくないんじゃないか」と言ったら、益子は「Clean Feedはレーベル・カラーは決して強くない」と言いながら、でもこの盤で選んだ2曲は異色であることを教えてくれた。実際、その場で少し聴かせてくれた他の曲では、駆け回るピアノに対応したAndrew Cyrilleの身体の運動が、そのままドラムの軌跡となっており、そこにこのような深い闇はなかった。
Gerald Cleaver Black Hostと並ぶ今回のハイライトがCraig Taborn Trio / Chants。実は本作は以前に聴いて「何かある」と思いながらも、その核心をしっかりとつかむことができず、ディスク・レヴューの対象から外して先送りした、私にとっての「難物」である。演奏は淀みなくさらさらと進む。細やかなさざめきの中で三者が互いに交感しあう。細部に眼を向ければ、必ずそこには精密なやりとりが潜んでいる。だがそれは暗闇に潜む巨大な全体を、ペンライトのちっぽけな灯りで探るのにも似て、いっこうに像を結ばない。聴き手の手元には膨大な材料が与えられ、至るところに痕跡が残されるが、所在はいっかな明らかにならない。そうこうするうちに耳はあてもなく空をつかみ、視線は虚ろにさまよって、時間ばかりが経過してしまう。
前述の打合せ時に多田は、益子がこの盤から「All True Night/Future Perfect」を選んだことに驚いていた。そして一見して特徴のない、とっかかりの見当たらない長尺の演奏は、まさにそれゆえにこの盤の特質を表しており、このトラックを聴くことを通じて本盤の核心に耳を届かせることができることを、私たちは後ほど知ることになる。
打合せ時に聴いて気がついたのは、この演奏が風景を編み上げないということだ。サウンドの多元的な生成を風景としてとらえることは、演奏者の輪郭をあらかじめ前提としないことにより、即興演奏の聴取において有効なアプローチなのだが、ここで演奏は言わば風景的な均衡に至ることなく、力のままに果てのない流動を繰り広げていく。
四谷音盤茶会の場で、益子は本盤について「聴きどころが難しい」としながら、ピアノ・トリオというフォーマットを前提として聴くのではなく、個々の役割に注目して聴くことを提言していた。すなわち、Tabornが持続的に一定のサウンドを生み出すことによりキャンヴァスの役割を務め、Cleaverがこれに絵筆を振るい、そしてMorganが句読点を打っていくというような。
打合せ時にも「これは他の耳が選んだトラックである」ことを前提とし、その理由、眼差しのありかを探りながら聴くことで、耳の視線の射程をより深めることができたが、今回のディレクションはさらにそうした効果を深めるものとして作用した。
Tabornのつくりだすさざなみがある平面をかたちづくる。そこに生じる起伏を点で結んで線を描き、複数の流れをつくりだし、全体を洗うように押し流していくCleaverに対し、砂浜を洗う波が浜辺に取り残す漂流物を思わせる仕方でMorganのベースが響く。それは新たに杭を打ち立てるように見えて、実はすでにそこにあったものが波に洗われて姿を現すのだ。それは異物や抵抗というよりも、流れが流れであるために束の間つくりだす「構造」とでも言うべきものである。そして結果としてそれは流れの縁/布置をピンで留めるように流れを際立たせる。だがあくまで定常状態は「流動」であり、ドミナントなのはそちらである。
途中、ピアノの響きがふと遠のき、入れ替わりにすっとベースが前面に出る瞬間がある。ここが曲の切れ目なのかもしれない。束の間、ベースはより積極的に演奏をコンダクトし、舞台を傾け、サウンドの濃度/演奏の密度の勾配をつくりだす。再びピアノとドラムスがすっと戻ってきて、示された方向性に肉付けしながらシンコペートされた明滅/脈動をつくりだす。益子が「同期」と指摘した部分だ。益子の選曲と言葉に導かれた聴取は、演奏者の皮膚感覚へと沈潜していく。演奏者自身、このレヴェルを意図として明確に対象化してはいないかもしれない。
ただ、全体にかけられた深い「アイヒャー・エコー」が演奏を神秘化しているのは否めない。もちろん「アイヒャー・エコー」は事後的な音響操作として一方的に施されるものではなく、演奏者との相互交通が保証された下で、演奏の前提としてあるものなのだが、それでも直前にかけられたClean Feed盤のKris Davisのような音でTabornを聴くことができれば、また違うものが見えてくるかもしれないと感じたのも事実だ。NY帰りの益子によれば、生で聴くTabornのタッチはそれはそれは強力なんだそうだ(それは積み木を積み上げていくような「建築家」的なエレピの演奏からも想像されるところだ)。事前の打合せ時には、これが「アイヒャーがいじる前の『ネイキッド』音源が聴けないか」という話に膨らみ、『ネイキッド・ケルン・コンサート』などという多田のコアな発言も飛び出したりしたのだが。
「他者の耳の視線を意識して聴くこと」、「同時に複数の耳で聴くこと」を存分に経験できた貴重な時間だった。
なお、当日プレイ・リストの詳細については以下のURLを参照のこと。
http://gekkasha.modalbeats.com/?cid=43767





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2013-07-31 Wed
さて前回に続くTMFMRスペイン篇はよりポップなアプローチからセファルディを経て、さらにその先まで。
Warner Music Spain 5046728862
試聴:http://www.youtube.com/watch?v=r42ULPgXHW8
ガリシア出身の彼らはマイク・オールドフィールドに見出されて世界へと羽ばたいた。スペイン発ケルト・ミュージックというイメージ戦略にふさわしく、ヴィデオ・クリップでも奥深い森が映し出される(グループ名もガリシア語で「ドルイドの魔法の森の月の光」の意とのこと)。ここで彼らを採りあげたのは、もちろん高速ユニゾンと音色配合のマジックを巧みに織り上げた楽曲/サウンドの完成度の高さもさることながら、これまで本企画で採りあげてきた作品群と「ケルト・ミュージック」における変容のあり方の違いに触れておきたいからだ。後者においては起源から現在に至る文化形成力の交錯を意識に上らせることなく、そこにアナクロニックな(直線的な時間の流れをかき乱すという意味で「時代錯誤」的な)想像力を働かせる余地もなく、ケルト文化の確立されたアイデンティティに基づく様々な物語(そこでは移民や巡礼といった「移動」が特権視され、文化の変容/形成というよりは伝播/浸透と見なされる)が引用され、特徴的な音色構築とダンサブルなドライヴ感を前面に押し立てながら、決してそれを脅かすことのない範囲内で、他の音楽の要素との自在な「異種交配」が図られる。こう書き記しながら私はChieftainsを思い浮かべているのだが、これは続く『Saudade』でスペインから南米への移民を採りあげ、彼の地の有名ミュージシャンを多数ゲストに迎えることになるLuar Na Lubreにもそのまま当てはまるだろう。あるいはサウンド的にも制作時期的にも共通点の多いKila『Luna Park』(2002年)あたりを想起していただいた方がいいかもしれない。いずれにしてもそこには、自己探求の道筋が決して自己解体には至らないよう、しっかりと安全装置が仕掛けられている。様々な変容は(マーケティングへの志向を含め)常に意図した結果であり、意識や記憶を掘り下げていったら、あるいは集団作業による試行錯誤を繰り返していったら、とんでもないところへ出てしまったという驚きはない。そこには言わば「無意識」が存在しないのだ。2004年作品。
ちなみに今回音盤をチェックしていて気づいたのだが、前掲の試聴トラック(本作品の冒頭を飾る表題曲)は作曲クレジットがされているが、歌メロ部分はNa Lua『A Estrela De Maio』(1987年)の冒頭曲「Maio」(「Tradicional」とクレジットされている)と同一と思われる。下記の試聴トラックで各自お確かめいただきたい。こちらの鄙びたアレンジに対し、Luar Na Lubreヴァージョンのセールス・ポイントは新たに付け加えられた甲高いケルト音色を活かした高速ユニゾン部分にあるわけだから、それをパクリなどと言うつもりはないが。
http://www.youtube.com/watch?v=0doA0iU2bUs

Discmedi DM4325
試聴:http://www.youtube.com/watch?v=o3-MmM2nvTg
ポップなアプローチから選んだもう1枚は、爆発的に強靭な声の使い手Mercedes Peonの3作目。ソングを歌うことを超えた声の表現領域の拡大というとCathy Berberian, Joan La Barbara, Meredith Monkといった系譜が浮かぶが、声のフィジカルを隙なく鍛え上げ、ありとあらゆるタブーを葬り去って、均質な領土を拡大していく彼女たちに対し、Christoph AndersやArto Lindsayのようなむしろ声の身体の不自由さを剥き出しにしながらオブジェ化し、電子操作にも進んで身を委ねるポスト・パンクな者たちがいる。Mercedes Peonは明らかに後者に属する。彼女は伝統音楽を歌う声が様式化(そこには比類なき強度も超絶技巧もまた含まれる)により身に纏う鎧を脱ぎ捨て、声の裸身をさらすことから演奏を始める。プログラミングされた電子ノイズや先を争い加速するアンサンブルが声を襲い、その肌を容赦なく傷つける。鮮血を滴らせながら彼女はその場に立ち尽くし続ける。自らの身体を依代として儀式を成就させるために。張り上げられた声の突き刺すような強度が素晴らしい。2007年作品。

Saga MSD-4002
試聴:http://www.amazon.com/Aynadamar-La-Fuente-Las-Lágrimas/dp/B00B7KZE76
スペイン産セファルディ音楽(地中海ユダヤ音楽)からはまずこれを。Rosa ZaragozaやLena Rothenstein等、同じジャンルにはかなりコブシの回る濃厚な歌唱も見られる中で、彼女の歌い回しはエキゾティシズムを存分に香らせながらもポップな洗練に至っており、前回言及したLuis Delgadoの参加による空間的なサウンド構築と見事に調和している。言わばNWが煮詰まったロックのサウンドを再構築して見通しよく整理したように、ここでも民俗音楽のサウンドがエレクトリック化を含め、巧みに再構築され、冷ややかな透明性を確保している。DelgadoにとってはFinis Africaeの活動とも並行する時期であることを指摘しておこう。1988年作品。

Galileo GMC017
試聴:http://www.galileo-mc.de/galileo-mc/cd.php?formatid=762
http://elsurrecords.com/2013/05/05/aman-aman-musica-i-cants-sefardis-dorient-i-occident/
L'Ham De Focの核であるEfren LopezとMara Arandaによるセファルディ音楽プロジェクト。コブシやうねりといった情熱系の濃密さよりも、緻密に構築されたアンサンブルが卓越するのはL'Ham De Focと同様。特に電化されたセファルディが演歌的な「ノリ」一色に染め上げられてしまいがちなのに対し、彼らは徹底してアコースティックにこだわり、古楽にも目配りしながら、細密な響きのタピストリーを織り上げていく。ウードによるしなやかな刻み、ケマンチェの弦のたわみ、打楽器の皮の震えと細やかな切れ込み、カヴァルの息のかすれ、カーヌーンやサントゥールの金属弦のきらめきが四方八方へと走り抜け、あるいはもつれながら高い天井に向けて倍音をたちのぼらせていく様は、ため息が出るほどに素晴らしい。Maraの声もまた幾分か飛翔を抑え、敏捷にステップを踏むようにして、この曲がりくねった回廊を鮮やかに、また軽やかに駆け抜けていく。その高潔さを「学究的」な硬直と勘違いする者がいるが、それは単に耳が腐っているのだ。2006年作品。

Galileo GMC010
試聴:http://www.galileo-mc.de/galileo-mc/cd.php?formatid=496
http://elsurrecords.com/2013/04/21/lham-de-foc-cor-de-porc/
『豚の心』と題された彼らの3作目。Efren LopezとMara Arandaを中心としてスペイン東岸ヴァレンシアで結成された彼らは、カタルーニャからフランス、イタリアへ至る地中海沿岸西欧文化、ギリシャからトルコに至る東欧あるいはビザンチン文化、北アフリカからアラビア半島に至るアラブ文化の3つの文化的源泉からの影響の混合体として自らをとらえていると言う。彼らが針の穴を通すような高度な演奏技術を駆使して、金糸銀糸をふんだんに織り込んで描き上げた細密にして絢爛たる音絵巻は、緻密さがそのまま強度として開花するという希有な水準に至っている。通常、ヨーロッパ対北アフリカ、あるいはヨーロッパ対アラブと二項対立でとらえられがちな地中海文化を、先に掲げた三項の相互作用としてとらえることが、生成のプロセスへの立体的な複眼視をもたらしているのではないか。Efren Lopez のギリシャでの研鑽とギリシャ人ミュージシャンのゲスト参加が豊かな実りをもたらしている。2005年作品。

Galileo GMC033
試聴:http://www.galileo-mc.de/galileo-mc/cd.php?formatid=1395
http://elsurrecords.com/2013/05/05/mara-aranda-solatge-deris/
Mara Arandaの参加した前述のL'Ham De FocやAman Amanと本作の違いは、単にEfren Lopezの不在というだけでなく、前者が精緻なアンサンブルを重視し、針の穴を通すような完璧な技巧で眼にも絢な響きのタペストリーを編み上げていくのに対し、こちらは各演奏者/楽器に思い切り自由なスペースを与え、縦横無尽にプレーさせることにある。求心的・集中的な前者に対し、拡散的・放射的な後者。あるいはスペインの組織的サッカーに対する南米の個人技。それにしてもこれはスゴイ。破綻するギリギリまで弾き込み溢れ出す倍音の暴れを乗りこなすコントラバスと拮抗し、いつになく表情豊かに朗々と響き渡るヴォイスに、ヴィエル・ア・ルーのかきむしるような持続音とケルティック・ハープの線刻が重ねられ、打楽器の一撃をきっかけに堰を切って滔々と流れ出す。充分なスペースを与えられた音たちは、大海原に漕ぎ出すように自在に空間を渡り、滲み広がり、重なり溶け合って、眩いばかりの多様な色彩の交響をつくりだす。2009年作品。

Le Chant De Monde LDX 74546
試聴:http://www.youtube.com/watch?v=fTOXRN9WIZ0
今回の最後を締めくくるのは、Le Chant De Mondeの「世界の新しい歌手たち」(Le Nouveau Chansonnier International)からの1枚。スペインからの亡命を余儀なくされたLluis Llachの活躍の舞台となったのもこのシリーズ。そして私がLluis LlachやColette Magny、Francisco Curtoらの名と声を知ったのは、Vladimir Vissotsukiの名前に惹かれて手に入れた、このシリーズからの日本抜粋編集盤『帰らぬ兵士の夢』だった。本作はスペイン内線のさなか、人民戦線側で平和への願いを込めて歌われた曲をFrancisco Curto自身が構成したもの。反戦フォークというとギターを掻き鳴らしてがなるだけといった悪しきイメージが浮かぶかもしれないが、本作には孤高ともいうべき叙情が溢れている。簡潔に切り立ったギターの調べとどこまでも深く澄み切った哀しみをたたえた歌声、そして落ち着いた語りの背後でチェロがゆるやかに奏でるJ.S.バッハ。ジャケットを飾るアントニオ・ガルヴェスの写真も素晴らしい。1974年作品。
2013-07-27 Sat
さてTMFMR第2回はスペイン。かつてのローマ帝国の栄光があるにもかかわらず、現在のイタリアの近代国家としての成立の遅さ(「リソルジメント」と呼ばれる国家統一は明治維新よりも後)はよく知られるところだし、それゆえ各地方の文化も、料理で体験できるように個性の違いを際立たせている。だが、前回イタリア音楽を紹介した際に南のナポリと北のミラノを並べることに特に違和は感じなかった。だがスペインは違う。後に首都マドリードを核として再編されるカスティーリャに対し、ガリシアやアストゥーリアはともかく、やはりカタルーニャやバスクは絶対一緒にできない気がしてしまう。これはスペイン音楽と言えばフラメンコのほかはスパニッシュ・プログレしか知らない時点でLluis Llachの作品と出会い、これを聴き進めるうちに、カタルーニャ音楽のサウンドの肌触りやカタラン語の響きが、自分が勝手に築いていた「スペイン」のイメージと大きく異なることに驚かされたせいかもしれない。
実際、これはもう遥か昔のこととなるが、確か四谷にあったスペイン語書籍を扱う書店の前を通りかかり、どういう風の吹き回しかぶらりと立ち入って、その片隅にLluis Llachのスペイン盤LPが何枚も埋もれているのを見つけたことがあった。持っているのは仏La Chant Du Monde盤や独Plane盤ばかりだったので、これ幸いとばかりにレジに運んだのだが、そこでずっと気になっていた彼の名前の発音(おそらく彼を初めて日本に紹介したであろうLa Chant Du Monde音源の編集盤『帰らぬ兵士の夢』の解説では「ルイス・ヤッカ」としており、独Plane盤のライナーは「リュイス・リャック」としていた)について尋ねると、あろうことか「自分はスペイン人なのでカタロニア人の名前はどう読めばいいかわからない」という答が返ってきた。あれー。

Hispavox HH 1
試聴:http://www.youtube.com/watch?v=z-MlsUbI4gs
スペインの「フォーク・ミュージック」を初めて意識して聴いたのは、小石川図書館で借りた「スペイン古楽集成」の第1作たる本作。それはこの後長い付き合いとなるGregorio,Eduardo,Carlos,Luis等のPaniagua兄弟との出会いでもあったし、何より古楽の豊穣極まりない音世界への扉を開けてくれた1枚となった。それまでバッハやヘンデル、ヴィヴァルディ程度しか聴いていなかった耳に、複雑な対位法的構築によらず、ゆったりとした旋律がほとんど音色の強度と抑揚だけで空間を渡っていく姿は、強烈な一撃を見舞ってくれた。「演奏会場としてのホール」といったことを超えた演奏空間と音のあり方の関係、たちのぼる豊かな倍音や長くゆっくりと尾を引く残響と演奏の関係等について考えるようになるのも、この時の一撃がその後じわじわと効いてきた結果と言えるかもしれない。間を置いて打ち鳴らされる一見単調な打楽器のリズムが、いかに音楽に脈動を吹き込み、これにより勢いを得た音楽の飛翔がいかに音空間の眺めを変容し、聴き手の身体に投げ出されるような、あるいは一気に俯瞰の視界が開けるような感覚を与えるかも、本作で初めて体験したことだった。暗闇に沈んだ極彩色の音の肌理、石畳や石壁の冷たい肌触り、鞣された皮の響きに潜む甲高い金属質の芯、眼の眩むほど高い天井まで届く分厚い空気の層、耳までの距離を渡ってくる音の歩み、遠くに聴こえる小鳥の声‥‥。本作の衝撃の余韻はフィールドレコーディングにレイヤーの集積を感じ取る耳にも響いている。1970年あるいはそれ以前の録音。

Guinbarda GS-11152
試聴:http://www.sheyeye.com/?pid=50624882
Luis Paniaguaを中心に兄のEduardo Paniaguaや彼らの盟友たるLuis Delgado等が参加した1枚。タイトルの『東洋 - 西洋』通りに、ギターやサキソフォン、キーボードの音色がシタールやタブラ、さらには世界各地から集められた何十種類の民族楽器や古楽器と混ぜ合わされる。長兄Gregorio Paniaguaの神々しい荘厳さからほとんど冒涜的な想像力の下半身的跳躍を経てラブレー流の喧噪と哄笑に至る、どこまでも暑苦しい極端な密度と鬼面人を驚かす振幅の広さに比して、こちらはパステル画のように淡く繊細な夢想がゆらりと香り立つ。とは言えやはり血は争えず、次掲作に比べるとずいぶん「濃い」のだが。それでも民族楽器の倍音豊かな音色が開く「新たな交感の回路」を積極的に活かし、通常のジャズ/ロック・アンサンブルとは別のかたちをつくりあげようという強固な意志は、びんびんと伝わってくる。1982年作品。なお、Luis Delgado等が核となったスペインの先鋭的音楽家の一群「マドリードの彗星」については、次のSHE Ye,Ye Recordsによる解説を参照。
http://www.sheyeye.com/?pid=37281926
http://www.sheyeye.com/?pid=61314758

Nuevos Medios 13 221 L
試聴:http://www.sheyeye.com/?pid=36801680
http://www.youtube.com/watch?v=PJ3fp1EXkXE
前掲作で示された繊細な音風景はさらにゆったりと解きほぐされ、薄霞のたなびく静謐な空間の中、「西洋」と「東洋」はさらに親密に分ち難く溶け合う。だが本作が多くのエスニック・フュージョン(シタールらタブラなどアジア系民族楽器を多用したニューエイジ的エキゾティシズム)と異なるのは、後者が結局はプレーヤーシップ優先のフュージョンのフィールドに楽器の音色の置換を施しただけ(もちろんそれは自ずとフレーズやリズムの変容をもたらすことになるのだが)であるのに対し、本作は徹底して響きの次元にこだわり、重なり合い滲み合う音色の変容の過程に聴き手として耳を澄まし続ける点である。それゆえ楽曲構成はむしろクラシック(室内楽)的であり、弦アンサンブルが多用されるが、その皿に盛りつけられた各音素材の音色の精妙な配合には驚かされる。1986年作品。

Elkar ELK 9-10
試聴:http://www.youtube.com/watch?v=CzPnh5R-4E0
マドリードを中心とするスペイン音楽が赤い平原の音楽だとすれば、バスク音楽(ここではとりあえずスペイン・バスク)は緑の陰濃い山地の音楽だ。ちょうどイングランドやアイルランド音楽に対するスコットランド音楽のように、体温が低く、さらりと血も薄く、気品高い白木の香りをたたえ、冷ややかに透き通った響きの湖。それだけではなくマドリードに集うPaniaguaたちが本来的に都市の持つ文化的交配性を言わば過剰適用して、古代ギリシャに、舞踏リズムであるタランテッラに‥とありとあらゆるところに忙しなく起源にまつわる「混血」を見出し、それを根拠に越境/侵略を繰り返して止まないのに対し、バスク音楽は山間にひっそりと身を潜め、なだらかな時間の流れとともに響きを研ぎ澄まし熟成させ澄み渡らせていく。
それゆえ私にとってのバスク音楽とは、ケルト音楽的な「越境性」(その問題点については後に触れることになるだろう)を発揮するKepa Junkeraではなく、何よりもまずBenito Lertxundiでなければならない。しかしその音のあり方は少しも閉鎖的ではない。起源に「混血」を見出すと言うより、もともと西欧から隔絶していたバスクが、近代に侵されていく過程を冷静に見詰め受け止めること。それゆえフォーキーなギター弾き語りとハーモニカ、バスク語によるヴォーカルや語り、教会音楽的なオルガンや合唱、悲しげなハープの爪弾き、弦アンサンブルの典雅さ等、音楽は常に複数化への変容の下に置かれ、ゆるやかなオーケストレーションを施されている。1977年作品。

FolkFreak FF404014
試聴:http://www.youtube.com/watch?v=XF6jyqJH1AQ
http://www.amazon.co.jp/Oskorri/dp/B003W7D66I
バスクからもう1枚。独レーベルからリリースされ、オシュコリのバスク地方以外へのデビュー作となった本作は、その後、彼の地の音楽の代表として押しも押されぬ存在となった彼らの他作品には見られない独特の熱気とテンションをはらんでいる。ツアー移動用のバンが警察の検問を受け、裏面では血の滲んだ包帯や車椅子姿のメンバーがステージに登るという告発的/挑発的なジャケットの意匠と張り合うように、加速された蛇腹のリフが鋭くリズムを刻み、フルートの一吹きが鮮やかに空間を切り裂いて、悲しみをじっと絶え続けるヴァイオリンや硬質で彫りの深いヴォーカル・ハーモニーとぶつかり合う。本作の存在を知ったのはワールドミュージックを広範に探求し、トラッドやフォークについてもディープな突っ込みを見せた音楽誌『包』でだった。1984年作品。試聴トラックの一つ目は彼らの代表曲ではあるのだが、ゆったりした曲調で本作特有の緊張感は伝わりにくいことをお詫びしておく。

Elkarlanean KD-532
試聴:http://www.youtube.com/watch?v=OV9yw8vbpS0
http://www.youtube.com/watch?v=D2YHpwARn3c
バスクからさらにもう1枚。女声のハープ弾き語り(童歌にも似た簡素なメロディとハープ弦の典雅なきらめき)に、チェロやクラリネットがしっとりと絡む、想いの深さをたたえながらも抑制の効いたアレンジメントは、蛇腹の走り回ることの多い彼の地の音楽にしてはかなり異色。こうした体温の低い「引き」のサウンドゆえに声の素肌の美しさが光り、バスク語の他の何語にも似ていない、どこか古代の呪文を思わせる不可思議な響きがすらりと立ち上がる。伏し目がちながらきっぱりと前を見詰めた声は、ゆったりと歩みを進める壊れやすく繊細なサウンドに伴われ、一段一段少しずつ踏み外しながら、水底へと降りていく。1999年作品。彼女はBenito Lertxundiの作品にも参加している。

Ariola 250265(9A)
試聴:http://www.youtube.com/watch?v=VdoUaJkuDZ4
今回の企画の趣旨からすれば、古来から交通の網の目たる地中海に開かれた、陽光きらめく「海の音楽」たるカタルーニャ音楽から選ぶべきは、やはりSSW然としたLluis Llachよりも、この海によりつながれる各地を経巡って止まない歌姫Maria Del Mar Bonetということになろう。トルコやマグレブといった地中海沿岸地域にとどまらず、アラン・スティーヴェルやミルトン・ナシメントといったビッグ・ネームとも共演し、トルバドールの曲を採りあげ、弦楽アンサンブルやコンテンポラリー・ダンスと共同作業を進める彼女の、本作は比較的初期の1979年作品。ゆらりと香の薫りがたちのぼるような声のくゆらし方。声を支える落ち着いた深い呼吸。北アフリカからペルシャやアラビアへと連なるさわりをはらんだ金属弦のきらめき。そしてそれを浮き立たせる深い闇。

Boa 24002002
試聴:http://www.youtube.com/watch?v=pXoGZ119a4w
http://www.amazon.es/El-Reloj-De-Valdetorres/dp/B009CF7DEK
前掲作にパーカッションとヴォイスで参加しているEliseo Parraのソロ作品。これがまた何とも形容し難い不思議な音楽となっている。少なくともカタルーニャやガリシアなど一地方の伝統音楽の枠組みに収めることは到底できまい。祝祭の開放的な高揚と宗教儀式のしめやかな瞑想的集中。カーニヴァルの到来に浮き立つ市街の喧噪と中世にタイムスリップした市場のざわめき。レコードからサンプリングされたと思しきアコースティック・ベースのリフレインと左右から響いてくる物売りの声にも似た嗄れ声の交響。縄目や線刻にも似た文様を空間に書き込んでいく各種の打楽器や笛、ギターのつぶやき。ばたばた、がたがたと破れた障子のようにはためくパーカッション。張り上げられ胸に迫りあるいはコーランの朗唱のように揺らめきながら空に吸い込まれていく声。2002年作品。

Edigal EDL-70.005
試聴:http://videoixir.com/izle/4948856/doa-live-musica-de-galicia-festa-de-loor-hd-o-son-da-estrela-escura.html
曙光に向けて飛翔する不思議なジャケット・イメージに彩られた彼らのサウンドは、出身地ガリシアの音楽というよりはスペイン古楽の豊かさに満ちている。と同時に電化やエレクトロニクス操作がもたらすサイケデリアにもまた。鳴り渡る打楽器、ギターやダルシマーのきらめき、響きで空間を埋め尽くすリコーダーやバグパイプ、光が立ち上るようなヴァイオリンの輝き、チェロの重厚な佇まい‥‥それぞれの音色の個性を存分に明らかにしながらくっきりと浮かび上がるサウンド絵巻は、鮮やかな場面転換をはらみ、眼にも絢なタイル絵の壁画を思わせる。中世を現代に直接接合したサウンドは、むしろロック的構築をその真髄としている。1979年録音。

Saga SED-5.035
試聴:http://www.youtube.com/watch?v=KGG12OHtUKw
手持ちのスペイン産フォーク・ミュージックを聴き返す中で、その土臭さに改めて驚かされた1枚。米Nonsuchや仏Ocoraに似た現地録音の匂いがする。太鼓の皮の短い余韻、繰り返し擦られた弦の軋み、細い縦笛の祭り囃子、打ち合わされる金属の転がるような響き等に乗せて(これら伴奏はほぼ楽器ひとつにまで絞り込まれており、声と交互にしか演奏されないこともあるほど簡潔極まりないものとなっている)、歌い交わされる男声と女声が、乾ききった赤い大地とどこまでも青い空に吸い込まれていく。スペイン北部サラマンカ県の音楽とのことだが、むしろペルーあたりの風景が浮かぶ。1986年作品。なお、試聴ファイルとして掲げたのは本作収録の音源ではなく最近の演奏。
今回はマドリード周辺からバスク、カタルーニャを経て、ガリシアやサマランカへと向かう旅となった。すでに規定の10枚に達したが、まだまだスペイン産フォーク・ミュージックの豊穣さを伝えるには少ない。次回掲載では補足編としてスペイン・ユダヤ音楽とよりポップな視点からのアプローチを採りあげたい。なお、グラナダ等を中心としたアル・アンダルース文化も実に豊かな音楽の水脈を有しているが、これはバランス上、対岸の北アフリカに含めてとらえることとしたい。
2013-07-20 Sat
文化を遡り、井戸の底深く降りていくことにより、それをかたちづくり変容させ突き動かしてきた様々な力が見えてくる。国家権力による定式化の努力にもかかわらず、文化は基本的に国境で切り分けることができず、明確な境界すら持たない。人々の移動や文物の伝搬の障壁となるのは、切り立った山々や向こうの見えない大海原等の自然地理的な隔離だが、逆にこれらが交通の欲望を誘い、その経路を束ねることにより相互の異文化交流を促した側面も見逃してはならない。この「文化横断的変異『民俗音楽』探求」シリーズでは文化を生成する諸力の交錯に眼を凝らし、その力動による変容過程に身をさらして数多の刻印を受け取り、結果として様々な文化の横断/再構築に至ったフォーク・ミュージックの実験を採りあげる。「実験」といいながら、それらは決してラボの中だけの産物ではなく、「もしも」が許されるならば現実の歴史の中で実現していたかもしれない音世界にほかならない。蛇のように絡み合う諸力が、ある力の加速/増大によって別の均衡を着地点として見出していたとしたら。あるいは形成が進む前に運命的な一撃が加えられていたとしたら。
それにしても、なぜ「フォーク・ミュージック」なのか。それは先に触れた変容の過程を生きながら、抽象へと飛翔/脱出してしまうのではなく、民衆生活文化の次元に留り、統治権力への抵抗や風土との格闘を決して手放そうとはしない彼/彼女らの決意を賞揚したいがためである。
もともと今回の企画は、伊ロルケストラ・レーベルに残された驚異的な作品群をいつか採りあげたいという想いに端を発している。同じくミラノを本拠とするクランプスの左翼音楽の衣鉢を受け継ぎ、その後も他に比肩し得るものがないほど複雑に入り組んだ音楽迷宮世界を打ち立てながら、今やほとんど言及されることのない彼らの達成をぜひ紹介したいと。だが、以前に『マーキー・ムーン』9号の特集記事で知っただけで、その後のレーベル・リリースの全容など知る由もない私には、正直自信がなかった。だが、そうしたロルケストラ・レーベルの作品群をはじめ、アヴァンギャルドな、あるいはラディカルなフォーク・ミュージックの実験の数々に対し、きっぱりと高評価の論陣を張るSHE Ye,Ye Records & Books(※)の慧眼と姿勢の高潔さに触れ、大いに共感したことから改めて挑戦してみることとした。私を力づけてくれたSHE Ye,Ye Records & Booksという超強力な「同志」には感謝の言葉もない。
というわけで第1回はイタリアからの10枚。ただし、ここで国名は便宜的な区切りに過ぎない。所謂「汎地中海音楽」の試みだけでなく、幅広く探求を進めていくことにしたい。なお、これまで随所で採りあげてきたMauro Pagani, Fablizio De Andre, NCCP等はあえて外すこととした。これらの作品が必聴であることは論を俟たない。
※http://www.sheyeye.com

Materiali Sonori MASO 009
試聴:http://www.sheyeye.com/?pid=59730432
ヴァイオリン、ギター&管楽器、民族音楽系打楽器×2の4人編成で、雰囲気に流れることなく、厳しいまでに焦点を絞り込んだ硬質極まりない演奏を聴かせる。せいぜいタンブレッロのざらざらとした響きやヴァイオリンの繰り返しが中低音を支える程度の、ベース不在の腰高アンサンブルが冷ややかな緊張感をいや増し、金属質の芯を持つパーカッションの鋭い打撃に、弦と管が切れ味鮮やかなリフレインを基調にめまぐるしく高速で駆け巡る。その編隊の密集度は他に類を見ない。地中海の陽光のきらめきというよりは北アフリカやアラビア半島の陽射しの目映さとくっきりした陰影の濃さを感じさせる。時折挿入される金属鍵盤打楽器メタロフォンの夢幻的な響きが乾いた大地に揺らめく陽炎を思わせる。1979年録音。

Materiali Sonori MASO 015
試聴:http://www.youtube.com/watch?v=xF2qzRUTsS4
コントラバス奏者が新加入し、少しは落ち着くかと思えば、さらに加速して縦横無尽に駆け抜ける第2作(試聴トラックをどうぞ)。曲によりゲストも参加してソロ・パートが設けられるなどアンサンブルが立体化し、迸る水銀流のように単色に絞り込まれていたサウンドにはいささか色彩感が増したが、乾燥した速度に満ちた演奏の本質は変わらない。1980年録音。中心人物Andrea TamassiaがAktualaの作品に参加していたことは前掲のSHE Ye,Ye Records & Booksの指摘で初めて知った。

Bla Bla BBXL 10009
試聴:http://www.youtube.com/watch?v=AUSclG6P-g8
そう言えば確かAktualaは1枚あったような‥‥と棚を探して、NCCPの隣に埋もれていたのを掘り出したのが本作。彼らの3作目にして最終作で、果たして前述のAndrea Tamassiaの参加作品でもあった(ただし演奏者としてではなく録音エンジニアとしてだが)。基本的に熱血シンフォ好きが多数を占めるイタリアン・ロックのファンには評価の低い作品だった。けれど2作目に引き続きTrilok Gurtuがメンバーとして参加‥と書くと「おっ」と眼を輝かせる方がいるかもしれない。インドもトルコも北アフリカもアラブもごった煮でミクスチャー度の高さは前掲Zeitを遥かに上回り、その分、試行錯誤的かつエレクトロニクスの使用も見られるなど雑色的でもある。それゆえ散漫/冗長になりがちなところを実験精神の志の高さとサイケデリックな酩酊性が救っており、根底にはむしろアーシーなブルース色が感じられる。その点ではむしろ北欧の連中に近いかもしれない。1974年から76年にかけての録音。彼らの他作品についてはたとえば次を参照。
http://www.sheyeye.com/?pid=34733173

Mirto 6323 750
試聴:http://www.sheyeye.com/?pid=18693395
極小マイナー・レーベルの作品ながらMauro PaganiとDemetrio Stratosのゲスト参加でやたらと有名な作品。だが核となっているのはあくまでCanzoniere Del LazioのメンバーであるPasquale MinieriとGiorgio Vivaldiの2人であり、グループの同僚たちも全員参加している。凄まじいばかりの腕達者な面々を揃えながら、油の煮えたぎるような熱血パフォーマンスに走らず、乳白色にけぶる牧歌的な優雅さすらたたえた、引きのパースペクティヴの構築に専念しているあたりは心憎いばかりだ。民族音楽系打楽器のフレーズ/リフレインもミニマルに解体/再構築され、確かな抽象性と幾何学的均衡を獲得している。内袋にさりげなく掲載されたインドやアフガニスタン、キューバの写真はかつての音楽放浪の記録か、それともCramps以来の左翼的心性の成せる業か。1978年録音。

Cramps CRSLP 5351
試聴:http://www.sheyeye.com/?pid=18690579
聴き手が想像力を羽ばたかせるべき余白を確保しながら冷静な均衡へと向かい、距離と抽象の力を遺憾なく発揮した前掲Carnascialiaに対して、母体グループの最終作となった本作には脳の血管があちこち切れまくるほどの突発的高揚が全編に渡り詰め込まれている。単に祝祭的と言うだけでは足りない、雑踏の喧噪と高らかなアジテーションに満ち満ちたカーニヴァル/革命的な生命讃歌。魚市場の名物オバちゃんの掛け声にも似たClara Murtasのヴォイスの喚起力が素晴らしい。一見伸びやかなアンサンブルのたゆたいにも、一瞬にして歓声と哄笑が弾ける。特に冒頭曲で息もつかせぬパーカッションの強靭な連打が煽り立てる、聴き手を踊り死にさせるような猛毒性のビートは凄まじいばかり。北園克衛が探求したプラスティック・ポエムを思わせるジャケット・デザインは、見開き内側にレイアウトされたフランツ・ファノン、パトリス・ルムンバ、ジャック・ラカン、ジャン・ポール・サルトル、ヴィルヘルム・ライヒ、ピエロ・パオロ・パゾリーニへの言及を含め、クランプス/ジャンニ・サッシの真骨頂を伝える。1977年作品。彼らの他作品についてはたとえば次を参照。
http://www.sheyeye.com/?pid=59234859
http://www.sheyeye.com/?pid=30237277

L'Orchestra OLPS 55001
試聴:http://www.sheyeye.com/?pid=30123693
本作は彼らの4作目にして最終作。トルコからアラビア半島中もしっかり視界に入れた地中海音楽ミクスチャーにさらに陰影濃い東欧性ふんだんに盛り込み、時代錯誤的な世紀末サロン趣味をあざといまでにまぶした上に決して3で割ろうとしない掟破りの濃密/濃厚さが、彼らの嗜好/志向を物語っている。オーボエやファゴット等を活かした入念なオーケストレーション、オペラティックな朗唱から語りに至る声の振幅、ミュゼット的なワルツ端唄の頽廃した香りを奇妙奇天烈なアンサンブル構成(ノイジーな物音、たなびく口笛、「世界に冠たるドイツ」の勇壮極まりない斉奏がやがてぐずぐずに崩壊していく‥)が引き立てる。舞台音楽的な情景喚起力の強さと場面転換の鮮やかさは他に類例を見ない。かつてAreaが掲げたThe International Pop Groupの称号と彼らのグループ名との響き合いにも注目してほしい。1979年作品。

L'Orchestra OLPS 55017
試聴:http://www.sheyeye.com/?pid=45542059
前掲Gruppo Folk Internazionaleが発展的に再編され、このEnsemble Havadiaが生まれた。新たに少女のヴォイスが加わり、聖歌を思わせるコーラスが盛り込まれるなど、アッサンブラージュ性を高めながら、ヨーロッパ音楽の様々な類型が擦り切れるまで酷使される。その分、直接的な民族音楽風味はやや薄まっている。スパイスやハーブを塗りたくられた分厚い焙り肉から繊細なミルフィーユへ。だが聖なる合唱がやがて鼾に侵食され、さらにはラジオから流れるファンファーレに取って代わられ幾つもの寸劇が始まるように、すべては舞台上の書き割りに過ぎない。Jerome Savary(何と今年3月に亡くなっていました。合掌)率いるGrand Magic Circusを思わせる破壊力のあるフモールはさらに毒性を増している。1981年作品。

Dunya 28049
試聴:http://www.cduniverse.com/search/xx/music/pid/4903545/a/senza+filtro.htm
本作はナポリ出身の異能サックス奏者/作曲家ダニエーレ・セーペが過去の作品からのセレクションに新規録音を追加した変則的構成となっており、a sample of "de-composed " traditional music from South Italyと副題にある通り、切り貼り/重ね合わせによる解体/再構築モードが卓越している。小気味よく突っ走り切れ味鋭くステップを踏む民族音楽系のリズムを、モーダルな次元で切り結んだジャズ演奏が揺らめかせるように引き延ばしながら輪郭を崩壊させていく。一瞬で情景を喚起する効果音が鳴り響き、弦の分厚い波がこれに被さり、すべてを水没させ押し流す。ここでは冒頭に述べた諸力は、むしろ甘く切なくおぼろな記憶と個人史を巡って、映画的/精神分析的に推移する。こうした傾向/手法は翌年の『Anime Candide』でさらに過激に発展させられ、痛々しいトラウマに容赦なく踏み込み、堪え難いフラッシュバックや痙攣するような強迫反復を引き起こすものとなっている。2002年作品。

Act 9291-2
試聴:http://www.amazon.com/Sonos-E-Memoria/dp/B0011YL90Y
歌姫Elena Leddaのゆっくりと巡りながらたちのぼり、思い出の糸をゆっくりと記憶の繭から紡ぎだしていく声の力に導かれて、あり得ない懐かしさを秘めた記憶が次々に立ち騒ぐ。名手Mauro Palmasの爪弾くマンドーラの切ないきらめき、Daniele Sepe作品にも参加しているAntonello Salisによるアコーディオンの空間的な閃き、打ち込まれる民族音楽系打楽器の硬い倍音、サルデーニャ伝統の男性四重唱による胸を締め付ける響き、震えで視界を覆い尽くしてしまうラウダネスのダブル・リードの振動。むしろFresuのトランペットは短く切り詰めた淡い響きで、次なるスペースをアンサンブルに指し示しているように見える。1930~50年代に撮影されたサルデーニャの民衆の日常生活を収めた記録フィルムの抜粋/編集作品のためのサウンドトラック。降り注ぐ陽光に白く飛んだ屋外風景と暗くしめやかな礼拝堂の明暗の対比。きびきびと動き回り羊の毛を紡ぎオリーヴを収穫する働き者の女たちの民族衣装。鉄鉱石を掘り出し、塩田から塩を積み込み、獲れた魚を陸揚げする男たちが船に乗っていく。子どもたちは屈託なく路地で遊び、祭礼の行列を見詰める。放たれたサウンドの震えが空間に滲んでいく様は、ここで記憶の回帰/変容とひとつになっている。次でフィルムの一部を見ることができる。2001年作品。
http://www.youtube.com/watch?v=xUUCsXwCBtw

Oriente Musik Rien CD 44
試聴:http://www.youtube.com/watch?v=epiUhFnhRis
先鋭的トラッド・グループの草分けとして、地中海音楽のサラセン的要素にも敢然とアプローチを試みたNuova Compagnia Di Canto Popolare(NCCP)を1968年に創設し、その初期活動を中心となって支えた作編曲家の近作。圧倒的な存在感を持つ骨太肉厚な声と演奏の力は、他の紹介作品を蹴散らすほどの気迫をたたえている。喉から胸、横隔膜から腹腔にのしかかる強度と響きの強靭さが分厚い金管の斉奏と拮抗し、さらに裏返らんばかりに張り上げた声に斜めに横切られ、その傍らを弦が滑り落ちていく。古楽風の対位法的構成も、緻密さよりもゴシック建築のがっしりとした石組みと遥か見上げる穹窿による重量感溢れる構築を思わせる。一種のオペラ(オペレッタ?)なのだろうが、朗々と響く声を襲い続ける前述の「拮抗」と「横断」が、舞台をプロセニアムに囲われた壇上から土埃の煙る平土間へと引き摺り下ろす。Roberto De Simoneにとっても会心作に違いあるまい。
2013-07-12 Fri
ディスク・レヴュー第3弾はエレクトロ・アコースティックなインプロヴィゼーションの領域からの7枚。今までにも繰り返し述べてきたように、another timbreやcreative sources、あるいは比較的最近のpotlatch等のレーベルの作品とサウンドスケープ、アンビエント、フィールドレコーディング等と呼ばれるジャンルの作品のサウンドの類縁性に気づいて以来、それらのエレクトロ・アコースティックなインプロヴィゼーションと器楽的インプロヴィゼーションをレヴューの対象として仕分けるようになった。
両者のどこが違うかと言えば、後者においては、向かい合う演奏者の身体の輪郭が空間のパースペクティヴに浮かび上がり、それらが相互に触発し合う運動の結果としてサウンドが編み上げられていく。コンピューターやエレクトロニクスに用いる演奏者であっても、こうした対峙の構図の中では「個」としての「ヴォイス」を持つことになる。たとえそれがプリセットされた音色であり、固有の声ではない場合であっても。そこには時間の経過の遅速の揺らぎはあったとしても、同一の(単数の)タイムラインが共有されている。まるで共に演奏する空間同様、すでに存在している枠組みが共有/共用されるのはごく当たり前のことであるかのように。
対して前者においては、演奏者の身体は薄闇に沈み、輪郭は薄暮に溶解してあてもなく流出し、たとえソロ演奏であってもサウンドは常に複数形で現れる。空間に対しては常に変容が仕掛けられ、充満し相互に浸透しあい、分割され貼り合わされ敷き重ねられる。同様に時間に対しても複数のタイムラインが浮かび上がり、各レイヤーは思い思いの時を刻む。ここで注意すべきはひとつひとつのレイヤーが、それぞれ単一の現実に対応しているわけではないことだ。レイヤーとはあくまで便宜的な表現であり、その素材となったひとつのサウンド・ファイル、あるいはひとつの画像データに対応する物ではない。むしろ、複数の空間と複数のタイムラインの立ち現れに当惑した知覚が、それらをレイヤーの重ね合わせになぞらえてとらえようとしているに過ぎないだろう。
多田雅範がブログでこの謎めいた核心部分を的確に言い当てている。
このChristian Muntheのたとえばソロ演奏を、 涼しく聴いた、ということではなくて(それじゃあおハナシにならない)、 以前のように、抽象図形の美を脳内に描くように聴くこともしていた、んだが、 ひとつのギター、ひとりの奏者であるソロ演奏に、複数のタイムラインといったものを視てみて、 たとえばボールの動きだけ見ればそのジグザグ、速度変化、高低、カーブが抽象図形美に近しいとして、 サッカー選手の4・5にんの動き(=複数のタイムライン)が存在するものとして、 「聴こえてしまう」んだなあ・・・ もう20ねん近く前のレコーディングなんだけれど。 これもまた「メロディフェア状態」と言えるのではないだろうかー。
※http://www.enpitu.ne.jp/usr/bin/day?id=7590&pg=20130709
これは重要な指摘だ。これまで私は複数の異なる生成原理の集積である点を「風景」になぞらえたり、あるいは一見揺るぎない輪郭が実は内外の絶え間ない往還の動的平衡によりかたちづくられた境界面に過ぎないと言ってみたりしていたのだが。これは東浩紀が『サイバースペースはなぜそう呼ばれるか』で論じていた「互いに異なる演算速度を持つ情報処理装置が複数組み込まれている」状態とパラレルと言えるだろう。
今回採りあげた7枚中、冒頭の広瀬淳二作品を除く6枚が、まさにこうした関係性のヴァリエーションとでも言うべきもので、自然とレヴューのアプローチも類似ケースの症例集的なものとなった。そのことを意識してレヴューに眼を通し、音源に耳を傾けてみるのも面白いかもしれない。前置きが長くなったが、それでは始めよう。

Hitorri hitorri-997
Junji Hirose(self-made sound instrument version 4)
試聴:http://www.ftarri.com/hitorri/997/index-j.html
息音に似た響きがゆっくりとたちのぼり、薄暗がりの中で金属質の軋みに傷つけられていく。そこにかつて聴いた広瀬の手製ノイズ・マシーン演奏の、泡立つような性急な速度はない。共通の枠組みに取り付けられ、互いに振動を伝え合い干渉し合う各部分の「鳴り響き」の交錯/衝突は一段と深いレヴェルへと移行し、より繊細で微視的な、だが以前を上回る静かな速度を秘めた戦闘を繰り広げている。音は刻一刻、絶えることなく滾々と湧き出し続け、もつれ絡み合い、複雑な、だが澄み切った文様を織り上げていく。時にその様は古びた工場に放置された自動作業機械の端正な律動に限りなく接近し、彼は手練の職人のように指先の感触に注意深く耳を傾ける。響きはそのまま水深を増し、すべてを呑み込んで水没させ、さらに圧力を高めながら、「耳を聾する静寂」へと一歩一歩近づいていく。この充満のかたちづくり方は循環呼吸とマルチ・フォニックスを用いるサキソフォン奏者のそれを思わせるところがある(より細部が顕微鏡的に拡大され、音の密度を増してはいるが)。だが、広瀬のサキソフォン演奏がかつてたたえていた、噛みちぎり破り捨て燃やし尽くす性急さを、この音はやはり遠く離れている。彼自身は否定するだろうが、私はこの変容を「円熟」と呼びたい。傑作。

Atolon, Chip Shop Music / Public Private
Another Timbre at59
Ruth Barberan,Alfredo Costa Monteiro,Ferran Fages
Eric Carlsson,Martin Kuchen,David Lacey,Paul Vogel
試聴:http://www.youtube.com/watch?v=7FldWrPZJno
http://www.ftarri.com/cdshop/goods/anothertimbre/at-59.html
かさかさと鳴る細かい粒子の振動、震える空気の柱、遠くで聴こえる群衆のざわめき、蜂の羽音のようなエレクトロニクスのうなり、ベルの鋭い一撃がぴりぴりと鳴り響かせる空気。アコースティックなものとエレクトロニックなもの、音と言葉、器楽演奏とラジオやテープの導入。ここには様々な質感の違うものが混在/共存している。けれどそれらは決して見分け難くひとつに溶け合っているわけではない。フレーズの排除はこれらの音を「音響」化し、各々がもともと属していた文脈から切り離すが、それでもひとつひとつの音は異なる仕方で空間を開き照らし出すことを止めようとはせず、それは空間に対する化学作用の違いとして現れている。音がそれぞれくっきりとした輪郭を保ち(たとえどれほど希薄ではあっても)、互いに作用を及ぼしあわないことにより、サウンドの全体は明滅の集合体、きらめく星空としてその姿を現す。密度と持続を巧みにコントロールしたアンチ・クライマックスの演奏は、だから少しも積み重ならず、決して台地状の連なりを形成しない。「Public」と題された聴衆のいる演奏に対し、聴衆のいない「Private」では、その不在を埋め合わせるかのように、音はいよいよ切り込みの深さと重なりの厚みを増している。7人という演奏者数の多さを考えれば、むしろこちらの方が「通常」の即興演奏モードと感じられ、そこから顧みれば前者の演奏の鮮やかな達成が浮き彫りとなる。

Flexion flex_005
Johnny Chang(zither,object),Stefan Thut(zither,object,composition)
試聴:http://www.flexionrecords.net/?page_id=803
http://www.ftarri.com/cdshop/goods/flexion/flex-005.html
低くうなり続けるチターの弦のミクロな震えを、水平に構えたヴィデオ・キャメラの超近接撮影が克明にとらえ、その向こうに淡く揺らめくエフェメラルな空間が浮かび上がる。ごく手前に像を結ぶがさがさとした摩擦音を、永遠に続くかと思われるピュアな弦の振動が溶かしさり、やがて自らも沈黙の中に身を沈めると、空間の「そこにある」気配が亡霊のように浮かび上がり、はるか遠くを車が通り過ぎ、学校の階段で子どもが何かを叫んでいるような気がする。前掲作で聴かれる音の輪郭/手触りの確かさに比べ、本作では音は常に近すぎるか遠すぎるかして、一様に不確かさに汚染されている。ふと気がつくと鳴っており、知らぬ間に鳴り止んで別の響きと交替している音の不確かな立ち現れに、耳はうまく焦点を合わせることができない。まさにそれがWandelweiser楽派のひとりでもある作曲者のねらいなのだろう。だがそれはかつてこの楽派に注目した音楽評論家たちが得意げに語った音が少ないとか音量か極めて小さいとか、あるいはライヴ会場で空調の動作音や冷蔵庫のコンプレッサーの音が聴こえたというような暢気な話ではない。彼らは聴きたいものを聴いているに過ぎない。これはむしろ耳が聴取の構図を設定できず、とまどいの中で「耳の枠」からこぼれ落ちてしまう音があることを、聴かされてしまう/聴かざるを得ない過酷な体験なのだ。聴き手は耳の視線があてどもなく宙に浮き、伸ばした指が空をつかみ、自分が何を聴いているのか/聴こうとしているのか判然としない不安との戦いを通じて、辛うじてこの演奏の一端を耳の視界の隅にとらえることができるに過ぎない。静けさに満ち満ちたハードコア。171枚限定。

Suppedaneum Number One
Sarah Hughes(zither),Rhodri Davies(harp),Neil Davidson(guitar),Jane Dickson(piano),Patrick Farmer(electronics),Dimitra Lazaridou-Chatzigoga(zither)
試聴:https://soundcloud.com/suppedaneum/sets/sarah-hughes
Sarah Hughesによるソロ・インプロヴィゼーションと5人の演奏者のためのコンポジション「Can Never Exceed Unity」のグループ演奏を収録。後者は「第一奏者は連続したトーンやサウンドをあらかじめ定めた時間演奏せよ。これがコンポジションの半分の長さとなる。第二奏者は合計で第一奏者の半分の時間、自由に演奏せよ。第三奏者は合計で第二奏者の半分の時間、自由に演奏せよ。第四奏者は‥‥」という簡潔な指示のみで構成され、ここには同一グループによる3つのリアリゼーションが収められている。表題とは裏腹に、後から付け加えられた(持続)音は全体性へ向けて補完するというよりは、常にこれまで見えていなかった別の側面を浮かび上がらせ、むしろ全体像を遠ざける。
対して前者は、遥か遠くの爆発のようにゆっくりと空間を伝搬し、粉塵の雲のように不明瞭に立ちこめる打撃音、近く遠くきらめく澄んだ弦の響き、電子音を思わせる持続振動(おそらくはe-bowによる)等が、距離のパースペクティヴをあからさまに欠いたまま希薄に充満する。空間の中に音が置かれるというより、黒い雲の中を稲光が走りとらえどころのない不定形の明滅が繰り返される光景にも似て、空間それ自体の混濁した揺らめきだけがある印象。私にはむしろこちらの演奏の方が刺激的だった。A3版の大きなシートにCD-Rが封入されている。100枚限定。

レーベル・番号記載なし
Animist Orchestra Seattle, Animist Orchestra Austin,Jeph Jerman
試聴:
向こう側に開けたスクリーンに映る外の環境音の手前で、刻一刻生成し続けるちっぽけな物音が視界を洗い続ける。指先で小石を探り、木目をたどり、陶片を打ち合わせ、掌の下で枯れ葉が砕ける感触を楽しみながら、絶え間なく音を紡ぎ続ける。手の動きに合わせて皮膚の上を移ろう響きだけが、視覚いっぱいに広がるざわめきの中で、自分のたてている音だとわかる。だがそれもふと視線を上げると、エコーにより不明瞭に滲んだはかなげな揺らめきに溶け、どれがどれだかわからなくなってしまう。タージマハール旅行団を思わせる「日常的な営み」としてのインプロヴィゼーションは、だが小杉たちが過剰なリヴァーブにより留保していた距離の感覚や時間/空間のLSD的な変容を伴わない。彼らはすでにある空間の片隅にそれぞれひっそりと閉じこもり、指先にちっぽけな響きを灯すだけだ。同調のくびきから逃れるというより、隙間からこぼれ落ちてしまう細かな音の粒。CD-R2枚組。

Creative Sources CS230CD
Ernesto Rodrigues(viola),Radu Malfatti(trombone),Ricardo Guerreiro(computer)
試聴:http://www.ftarri.com/cdshop/goods/creativesources/cs-230.html
車の音、遠い人の声、犬の吠え声。離れた窓の向こうに広がる外の景色の手前を物音が横切り、ツーンとした耳鳴りやブーンといううなりが視界を曇らせる。「演奏」が進むにつれ、彼らがこうした音響的インプロヴィゼーションの定型(をとらえる視角)を自在に裏切る老獪さをたたえていることに気づかされる。楽器は自らの輪郭/相貌を際立たせることなく、生活騒音の中に潜み、これを擬態する。部屋の軋みや窓から進入する物音、階段室に響く話し声、外から響いてくる風の唸りにくぐもった息音が身を沈め、その手前には息の掠れがふと浮かび上がる。希薄に重なり合いながら層の積み重ねとして奥行きを示す音響とそれを刺し貫き交錯する演奏。
2枚組のもう1枚に収められているのは外の音が入らない閉塞空間で、ここでは演奏だけが音空間を構成する。音素材の感触はほぼ同様でありながら、もやもやとしたざわめきがすぐそこに行き止まりの「壁」として立ちはだかる奥行きの浅い空間のせいで、弦のねじれや軋み、ふっと吹き込まれた息の広がりやマウスピースの泡立ち、シーンとした電子音の水平線、プチッと鳴るグリッチ、ぴちゃぴちゃした口腔音や重苦しく下腹部にのしかかる低音等の各サウンド群は、「地」へと潜り込むことができず、ほとんど気配しかしないにもかかわらず、その場に姿を浮かび上がらせずにはいない。

B-Boim Records 027
Ernesto Rodrigues,Radu Malfatti,Ricardo Guerreiro
試聴:
前掲作と同一メンバーによる前日の演奏を収録。音楽祭のライヴ録音だけあって、眼差しがとらえ得るのはあくまでステージの上の出来事だけであり、前掲作のように部屋にたゆたいあるいは澱む空気が見えてくるわけではない。だからこそ、真っ黒なフィルムの影の上をせわしく走り回るカリグラフのように、点描が明滅し、希薄さのうちに鋭く応答の線が走る。極端なまでに絞り込まれギリギリまで削られた音が、硬く尖った鉛筆で描かれた点と線だけのドローイングを鋭い筆致で支えており、一方、持続音の敷き重ねとそれらの層の間の摩擦/軋轢が触覚を刺激し、緊密/緊張と速度による支配を確実な物としている。
2013-07-08 Mon
益子博之と多田雅範がナヴィゲートするNYダウンタウン・ジャズ最前線の定点観測報告会「四谷音盤茶会」(通称タダマス)もついに「つ離れ」の10回目を迎えることとなった。前回参加できずに皆勤賞が途切れた私も、今回はぜひ駆けつけたい。益子は6月恒例のNY詣でを終え、今回はそこでの収穫も話題に上るのではないだろうか。ゲストはスウェーデンから帰国したばかりの市尾優作。近年のNYダウンタウン・シーンでの北欧勢の活躍を聞き知る者にとっては、興味深い来訪者となった。
告知ページ(※)から概要を転載しておく。詳しくは※を参照のこと。
※http://gekkasha.jugem.jp/?cid=43767
益子博之=多田雅範 四谷音盤茶会 vol. 09
2013年7月28日(日) open 18:00/start 18:30/end 21:30(予定)
ホスト:益子博之・多田雅範
ゲスト:市尾優作(ギター奏者/作曲家)
参加費:1,200 (1ドリンク付き)
今回は、2013年第2四半期(4~6月)に入手したニューヨーク ダウンタウン~ブルックリンのジャズを中心とした新譜CDをご紹介します。前回も触れたとおり、デフォルト化した、触覚的なサウンド・テクスチュアや、演奏者毎に異なるサウンドおよびタイム感のレイヤーを織り重ねたような構造をベースに、それぞれの「ポップ感」を反映させた音楽が着実に増えて来ているように感じられます。
そこで今回はゲストに、ギター奏者/作曲家で、スウェーデンから帰国されたばかりの市尾優作さんをお迎えすることになりました。NYとは一味違う北欧での体験や人脈をお持ちの市尾さんはこうした動向をどのように聴くのでしょうか。お楽しみに。(益子博之)

今回「タダマス10」のフライヤー

参加しそこなった前回「タダマス9」の様子

「タダマス9」幕間の1コマ。なんと神々しいこと!
マリオ・ジャコメッリ写真展「The Black Is Waiting for the White」のことなど Exhibition of Mario Giacomelli " The Black Is Waiting for the White " and so on
2013-07-07 Sun
もう2か月近く前に観たマリオ・ジャコメッリ写真展について、印象を書き記しておくとともに、そこに潜む生成のプロセスへの注視について、前回のジョン・ブッチャーへの言及とも絡めながら書いてみたい。マリオ・ジャコメッリの作品を初めてみたのは、新聞の展覧会紹介に眼を留めた妻に連れられて行った、今回と同じ東京都写真美術館でだった。妻も彼の名を知っている訳ではなく、単にそこに掲載されていたちっぽけな写真にとらえられた、白と黒の静謐で優雅な戯れに魅せられてのことだった。その2008年に開かれた写真展は、彼の日本における最初の写真展で、今回が2回目ということになる。
今回と前回の写真展の構成の違いとして、今回の方が作品の選択が幅広く、長期に渡る作品群、多くの写真集から選ばれていることが挙げられる。作家に対する一定のパースペクティヴを示すことを狙いとしたのだろう。その分、絞り込まれた写真集から集中的に多くの写真が展示されていた前回より、印象が分散されることにもなるのだが。
今回の展示は19501年代の「初期写真」から始まるが、やはりまず強い印象を与えられるのは、ホスピスの老人たちをとらえた『死がやって来ておまえの目を奪うだろう』からの作品である。対象との一定の距離を保ち、激しく対峙するというよりは静かに見詰めることによって得られた写真は、しかし深く険しい皺を画面に刻印されており、観る者は被写体である人物と向かい合うことはなくとも、そこに足音を響かせながら近づいて来る死からは眼を離すことができない。
『スカンノ』の不可思議な夢かデジャヴュめいた形象の配置や『ルルド』の群衆造形美(テオ・アンゲロプロスを思わせる)は、世界の静謐さ、音のない世界の寄る辺なさと存在の手触りの確かさを際立たせる。それは無声映画のフォトグラムのように見える。凍り付いた動きが示す時間の結晶化。



これらの自己を確立した作品群を経て、1960年代初めに撮られた『私にはこの顔を撫でてくれる手がない』がやはり私には一番好ましい。これは前回もそうだった(新聞に載っていたのも、この写真集からの1枚だった)。先立つ写真集で確立された優美な造形感覚を踏まえながら、白地に映える黒い形象の輪郭は雪に溶けるように柔らかく、被写体である修道士たちの表情や動きは喜悦に満ちている。降り積もり、さらにちらつく雪が大地を覆い尽くし、すべての汚れや陰影を洗い流して、無垢な童心を弾けさせる。と同時に修道士たちの身体は肉の重さを脱ぎ捨て、風に舞い上げられる雪の華のように無重力状態で尽きることのない戯れを始める。その時、白地に散らされた黒一色の形象の輪郭は、白と黒という本来は絶対的な対比の下にありながら、光線の一瞬の揺らめきに似た軽やかな移ろいを見せる。ここで黒はおだやかな微笑みをたたえ、白と仲睦まじく触れ合いながら全体の布置を編み上げる。疲れて寝入ってしまった老妻の肩にそっと毛布を掛けるように。



それに比べると以降に継続して撮影された風景の連作は、リノリウム版画的な凝縮され均一化された黒による抽象的な造形へと昇華されてしまっており、あのおだやかな冬の陽射しの運んで来る魅惑的な甘い匂いは、厳冬の凍てつきや真夏の容赦なく照りつける光線がつくりだす、きっぱりとした陰影/明暗に掻き消されてしまっている。その一瞬のうちに焼き付けられた光景には、あの暗く湿ったおぞましいホスピスの、死の匂いを濃厚に放つ皺が深く刻まれているように思われるのだ。

最後に展示されていた彼による詩文を掲げておきたい。
瞬間=呼吸
ひとつ前の呼吸が
次の呼吸より大切だということはない。
前回、久しぶりに月光茶房を訪れた話をしたが、店主原田とは写真の話もした。月光茶房の壁面の以前はLPジャケットがディスプレイされていた場所に、いまは原田自身が撮影した写真作品が数点展示されている。四谷荒木町の喫茶店で開かれた二人展に出品されたものだ。月光茶房を打ち合わせに利用していた写真家が、彼の作品を見てこう語ったという。「普通アマチュア写真家はカメラから入る。本来は道具に過ぎないカメラに熱を上げて、惚れ込んだ名機を手に入れ、それからさて何を撮ろうかと被写体を探す。だから写真がカメラの眼を通した『記録』となる。あなたの写真からはあなたが見ている撮りたいものが見えてくる。だから『記録』にならない。これはアマチュアが撮った写真にはめったにないことだ」と。
その写真家の指摘は、私の感じている原田の写真の特質と響きあう。彼の写真はもののかたちや輪郭をとらえようとしない。彼の眼はそうしたかたちや輪郭をかたちづくっている生成へ、そこでせめぎあう諸力へと注がれている。前回のブログで採りあげたデレク・ベイリーと田中泯による『Music and Dance』における交通騒音に洗われ、雨音に掻き消されるギター音を、それらを還元し空間に侵食される以前の演奏音の復元へと遡行するのではなく、それらの変容とともに聴くこと。そこで流出や流入、相互浸透がかたちづくっている動的平衡のプロセスに耳を浸すこと。そうした視線を誘うものが原田の写真作品には確かに備わっている。そして『Music and Dance』はかねてからの原田の愛聴盤なのだ。
もともと彼自身が絵を描いていたこと、そしてTVドキュメンタリーで観たとある画家の制作作業が、キャンヴァスに筆が触れる物音の絶え間ない継続/集積と感じられた経験。こうしたことが彼の眼差しをつくりだしたのだろう。それは地層の積み重なりや褶曲/断層に幾何学的なパターンではなく、生々しい力の痕跡を身体で受け止める地質学者の感覚に近いのかもしれない。
前述の二人展では、もうひとりの写真作品がはるかに大判で、しかもあでやかな極彩色の花の写真だったために、その「騒々しさ」の傍らで原田の作品に耳を傾けることは難しかった。花の色に眼を奪われ、その明確な輪郭に縁取られたかたちに囚われてしまった視線は、原田の作品が捉えている生成の力を触知することができず、そこを素通りしてしまう。今回のように、原田の作品だけがモノクロームな壁面に複数並べて展示されている環境では、作品ごとに被写体や構図、マティエールが全く異なるにもかかわらず、いやそれゆえにこそ、眼差しが焦点を合わせるべきある共通の平面/力場が浮かび上がる。

多田雅範がまたブログ記事「レイヤー構造によって受信する枠組」(※)でエールを返してくれている。
※http://www.enpitu.ne.jp/usr/bin/day?id=7590&pg=20130705
そこで彼は「福島恵一によれば、わたしはデヴィッド・ボウイよりカッコいいことになる」と書いている。確かにステテコ姿で卵ご飯を掻き込み、室外に置かれた洗濯機に向かわせたら、ボウイは彼の足下にも及ばないだろう。
それはさておき、ここで多田はGilles Aubryの作品の聴取が耳の風景のあり方を不可避的に変容/更新してしまった体験に触れている。今までも見ていたはずなのに見えていなかった細部が浮かび上がり、視界の感触は全く別のものへと変貌する。今まで感知していた世界が足下から崩れ去り流動化して、踏みしめていた地平が消失しまう経験。
鈴木昭男とのデュオで、ジョン・ブッチャーが図らずも階段の軋み(それは演奏者が立てたものではない)と「共演」してしまった時、彼の音は階段の軋みを演奏の場へと迎え入れ、その一部として浮かび上がらせたと言うことができる。そこに居合わせた私は、この階段の軋みの浮上により、ブッチャーが空間の隅々にまで張り巡らしている眼に見えない鋭敏な感覚網に気づかされた。と同時に、そのネットワークのセンシビリティに部分的に同調/共振することにより、耳の視点がずらされ、空間に潜むざわめきが視界に浮かび上がるのを目撃した。チラシの紹介文では、ブッチャーの超生真面目ぶり(超・超絶技巧と同じくらいスゴイ。何たってもともと原子物理学者だし)をスナップしたユーモラスなエピソードとして紹介しているが、実はそれは恐るべき画期的事態でもあったのだ。

2013-07-06 Sat
この8月、ジョン・ブッチャーが来日する。彼のサキソフォン演奏の生み出すマイクロ・サウンドの素晴らしさについては、これまで何度も触れてきた。今回は縁あって、ツアー用のチラシに次のような紹介文を書かせていただいた。ジョン・ブッチャー:ありとあらゆるサウンド可能性の顕在化
管の隅々まで緊張をみなぎらせて空間を揺さぶり、あるいは倍音や分割振動、各部の共鳴を操って拡張された音色スペクトルの結晶格子を織り上げるかと思えば、近接マイクにより微細な振動を顕微鏡的に拡大し、フィードバックの眼に見えない回路に耳を澄ます。ジョン・ブッチャーはこうして、サキソフォンが潜在的に有しているありとあらゆるサウンドの可能性を自在に引き出してみせる。その演奏は刻々と移り変わる流動の相の下にあり、舞台上に現れている身体の輪郭は仮初めのものに過ぎない。かつて観たライヴでは、手に持った石を気ままに打ち合わせながらサウンドの視界から姿をかき消してしまう鈴木昭男をとらえようと、センサーの感度を研ぎ澄ますあまり、階段の軋みにすら反応していたっけ。
今回の招聘元であるJazz & Nowの寺内久は、彼がチラシ表面にキャッチとして引用したスティーヴ・レイクのコメントと私の紹介文の間の響きあいを指摘してくれた。レイクによるコメントの訳文は次の通りである。
ジョン・ブッチャーのハイパーモダンなサウンド言語は、サクソフォンという楽器の物質性に根ざしたものであり、彼以上にこれを極めた者はない。行くべき「彼方」がある訳でもないだろう。
寺内は「当初『特質』としていた箇所を『物質性』に修正した」旨を書き添えていた。私はこのことに大層興味を惹かれ、寺内に次のように書き送った。
レイクの原文を観ていないので、全くの私見となりますが、ここは「物質性」の方が語として適切のように思います。少なくとも私のブッチャーのとらえ方とは一致してきます。
私の読後感では、「特質」とはこれまで顕在化されてきた局面に特化した表現であり、むしろ演奏者の「自己表現」という制約を逃れていないのに対し、「物質性」とはこれまで顕在化されてこなかった潜在的可能性を含むものであり、「自己表現」のくびきから離陸していくもののように思われるからです。
寺内はレイクによる原文を教えてくれた。
No one has gone beyond Butcher’s hypermodern language of sounds rooted in the resources of the saxophone; there may not be a “beyond” to go to.
問題の箇所の原文は the resourcesである。通常なら「資源」等と訳すところだろう。だが考えてみれば、たとえば現代の代表的な地下資源である石油は、かつては使い道のない黒い水だった。レアメタル類が貴重な資源と化したのもそう昔のことではない。人類の将来を左右する貴重な資源が、それと見定められることなく、どこかに眠っているかもしれない。いまだ潜在化したままで。
自己表現の粋としての即興演奏を求める聴き手には、ジョン・ブッチャーの演奏が超・超絶技巧には舌を巻くものの、輪郭が曖昧で一種とらえどころのない「何が言いたいかよくわからない」ものととらえられてしまうかもしれない。
これは今日久しぶりに訪れた表参道の月光茶房で、店主である原田正夫が話してくれたことなのだが、デレク・ベイリーと田中泯の共演盤『Music and Dance』は通常のベイリー・ファンには極めて評判が悪いのだそうだ。要は録音が遠く、さらに田中泯がたてる物音や途中から耳を労するばかりに大きくなる雨音(及び雨が屋根を激しく打つ音)のせいで、ベイリーが何を演奏しているか聴き取れないというのだ。
今でこそこの『Music and Dance』を「空間に侵食される音響」の代表例としてあちこちでプレイしている私も、この作品を初めて聴いた時は途方に暮れたように記憶している。雨音に掻き消されながら淡々とあるいは激しく打ち付けるように演奏を続けるベイリーに「身振り性」を看て取るのがせいぜいではなかったか。しかしAnother Timbreのリリースするエレクトロ・アコースティックな即興演奏やフィールドレコーディング作品により耳の新たな視界が開けると、固い輪郭をまとった人間の身体やもののかたちや運動ではなく、
それらの背後で衝突/交錯する不可視の諸力のせめぎあい皮膚で触知されるようになり、私たちの見る輪郭とは、それらの抗争がかたちづくる移ろいやすい動的平衡の境界面に過ぎないことが見えてくる。
ジョン・ブッチャーは、グループでは器楽的演奏による対話を仕掛け、ソロではエレクトロ・アコースティックな領野を探索するというように、アプローチを使い分けているようにも見えるが、おそらくは本人も意識しないうちに前者を離脱し、両者を往還してしまう。もし彼のライヴを観ていて不意に輪郭が揺らぎ視界が曖昧さを増したならば、楽器の輪郭に焦点を合わせようとせずに、響きの希薄さに耳を浸し、身体の緊張を解き放ってみてほしい。その時、耳の新たな視界が体幹感覚として開けるだろう。ちょうど初めて水に浮くことができたまぶしい夏の日のように。


ジョン・ブッチャー 来日公演2013
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2013年8月3日(土) 水道橋 Ftarri
Ftarri一周年記念大感謝祭 (ゲスト参加)
開場19:00/開演19:30 予約2000円/当日2500円
文京区本郷1-4-11 岡野ビル地下一階
予約・問い合わせ Tel 03-6240-0884 info@ftarri.com
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8月4日(日)神戸 旧グッゲンハイム邸
Duo with 鈴木昭男(self-made instruments)
開場14:00/開演14:30 予約3500円/当日3800円
兵庫県神戸市垂水区塩屋町3丁目5-17
予約・問い合わせ Tel 078-220-3924 Fax 078-202-9033
guggenheim2007@gmail.com
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8月5日(月)京都 パーカーハウスロール
Trio with 河合拓始(piano, blow-organ) 高岡大祐(tuba)
開場19:30/開演20:00 予約3000円/当日3500円 (ドリンク別)
京都市下京区烏丸通松原下る東側五条烏丸町397
メンバーズゴルフビルBF Tel 075-352-8042(18~25時)
予約・問い合わせ (音波舎) ompasha@auone.jp
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8月7日(水)大阪 島之内教会
Butcher Solo
開場19:00/開演19:30 予約2500円/当日3000円
大阪市中央区東心斎橋1-6-7 Tel 06-6271-8202
予約・問い合わせ (音波舎) ompasha@auone.jp
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8月8日(木) 六本木 SuperDeluxe
Duo with 大友良英(guitar, turntable)
開場19:30/開演20:00 予約3800円/当日4300円 (ドリンク別)
港区西麻布3-1-25 B1F
チケット予約 https://www.super-deluxe.com/room/3441/
問い合わせ Tel 03-5412-0515
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8月10日(土) 深谷 ホール・エッグファーム
Butcher Solo guest : 高岡大祐(tuba)
開場17:00/開演18:00 (食事タイム17:00~)
1ドリンク付 4000円/1ドリンク&1ディッシュ付 5500円 (当日500円増)
埼玉県深谷市櫛挽140-1 ※深谷駅から送迎あり(予約制)
チケット予約 Tel 090-5584-3104(サイトウ) Fax 048-585-6687
問い合わせ Tel 048-585-6685(サイトウ)
spacewho@hall-eggfarm.com
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8月11日(日) 横浜 エアジン
Duo with Pearl Alexander (contrabass)
開場19:00/開演19:30
予約3500円/当日3800円 (ドリンク別 500円) ※学割あり
神奈川県横浜市中区住吉町5−60
予約・問い合わせ Tel 045-641-9191 http://yokohama-airegin.com
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8月13日(火) 明大前 キッド・アイラック・アート・ホール
Trio with 石川高(笙) 秋山徹次(guitar)
開場19:00/開演19:30 予約3500円/当日3800円 (ドリンク別 500円)
世田谷区松原2-43-11
予約・問い合わせ Tel 03-3322-5564 Fax 03-3322-5676
http://www.kidailack.co.jp
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8月14日(水) 稲毛 キャンディ
Butcher Solo
開場19:30/開演20:00 予約4000円/当日4300円 (1ドリンク付)
千葉市稲毛区稲毛東3丁目10-12
予約・問い合わせ Tel 043-246-7726
ムタツミンダにかかる月 - 『ECM Selected Signs III – VIII』を超えて(承前) The Moon over Mutatsminda - Beyond "ECM Selected Signs III - VIII"(continued)
2013-07-04 Thu
前回で多田雅範の耳の「業」の深さを指摘したら、本人から鋭いボレーが帰ってきた。http://www.enpitu.ne.jp/usr/bin/day?id=7590&pg=20130704
しかも「クレジットだけではわからないマギー・ニコルスが2トラックに潜んでいることを解説する福島さん、さすがです」とこちらの突っ込みを賞賛する余裕を見せながら、その微笑をたたえたままで「AMMのラジオ・アクテヴィティが配置されるとき、ほかのトラックまでがレイヤー構造によって受信する枠組みが与えられ、空間性を聴く構え、たとえばジャレットのピアノ音だけではなく、この録音固有のECMリバーブの存在を意識するというような。そうなるとAMMのトラックはかつてスティーブ・レイクがJapoで制作したという特異性はこのリストにとっての傷ではなくなる」と、こちらが身動きできない素早さで鋭利な刃が一閃する。
彼はこれに先立ち、次のように書いていた。
速度について。
ビージーズの「メロディ・フェア」は異様なヒットソングである。
イントロからして演奏のタイミングがズレてるような、そのズレに速度を見る。ヴォーカルが入ると合っているんだか合っていないんだか、感覚がかく乱されて宙に浮いた感覚に置かれる。
イントロは右側アコギのアルペジオ、左手からベースの弓弾き、そして奏者の呼吸らしき擦過音、オケがかぶさって、の、おのおののテンポは合っているのに呼吸が孤立しているのだ。
これはもうレイヤー構造をなしていると見てよい。ハンドクラッピングにはっとさせられるのは、耳が、レイヤー構造によって形成された空間を聴くからなのだ。
http://www.enpitu.ne.jp/usr/bin/day?id=7590&pg=20130702
この指摘は極めて重要だ。ここで一見アンサンブル・アレンジかレコーディングのミックス加減について語られているように思われる(だからこそすらすらと読み飛ばしてしまいがちな)この指摘が、実は音そのもの、音空間それ自体についての分析であったことが、今回のAMMの演奏を巡る叙述と突き合わせると浮かんでくるからだ。
すなわちAMMの「音響」へと透き通っていくサウンドの重なり合いは、各演奏者の放つ各人の署名入りの固有の輪郭を持ち、誰と見分けられるヴォイスのあり方を離れ、それぞれが見分け難く溶け合いながら、かつ渾然一体団子状の音塊と成り果てるのではなく、不可思議なグラデーションを描きながら敷き重ねられた極薄の多層へと、ゆるやかに分離していく。そこに現れるのは、言わばそれぞれに濃度傾斜の飛躍を有する上澄み/沈殿である。
ガスバーナーで熱せられているビーカー中の水に眼を凝らすと、温まった底の部分の水が表面へと上昇し、また下降する流れの揺らめきが観察されるが、そこで見えているのは化学組成としてはまったく同一の水の間に生じる界面にほかならない。同じようにキース・ジャレットのピアノの響きに多田が見出すピアノ音とECMリバーブにしても、前者がジャレット本来の「生」のピアノ音で、後者が付け加えられた人工物ということではなかろう。彼はむしろピアノの鳴り響きの中に、交錯する様々な力を、多様な速度の音の流れを、先に触れた界面の揺らめき、敷き重ねられたレイヤーの震えとして聴き取っているのではないだろうか。
AMMの音世界に触発され、音を「レイヤー構造によって受信する枠組み」が与えられるならば、いや逃れ難く耳に刻印されてしまうのであれば、あらゆる音はその内奥に秘められた底知れぬ豊かさを明らかにするだろう。ECMの迷宮世界はそうした聴取の冥府魔道への誘いであり、AMMはそのわかりやすい一例に過ぎない。そうであればこそ、スティーヴ・レイクによるプロデュースのつながりで示唆されるのは、このJapoリリースの作品が決してECMの異端ではなく、むしろ深奥/震央に位置しているということなのだ。
私の浅い理解に基づく誤解を、さらりと受け流しつつ、ぐさりと核心を突くその言葉の運びは、耳にタバコを挟んで店内を徘徊し、ステテコ姿で洗濯機に向いつつ発せられたものなのである。何ともカッコイイではないか。その文化不良中年の鑑と呼ぶべき志向とスタイルに快哉を叫びたい。
