文化横断的変異「民俗音楽」探求 その3 北アフリカ(補足) Transcultural Mutated "Folk Music" Research Vol.3 Northern Africa(Supplement)
2013-08-18 Sun
前回紹介した「マグレブ」とはアラビア語で「日の沈むところ」を原義とし、「西方」を指す。その基準点になっているのがエジプトにほかならない。というわけで今回は北アフリカ補足編としてエジプトとシリアを採りあげたい。こうした位置づけはたぶんあまり一般的ではない。ヨーロピアン・トラッドの一環として環地中海世界を採りあげるとすれば、アル・アンダルース音楽はスペインに含めてしまい、北アフリカは遠く対岸のスペインあるいはイタリアから望めばよいだろう。反対に北アフリカをアラブ世界(トルコやペルシャを含む)の中に位置づけるのであれば、むしろエジプトが中心となり、マグレブは辺境へと押しやられる。特に地域研究やカルチュラル・スタディーズでは、歴史的正統性と現時点における社会性(つまりは広く受け入れられている、売れているということだが)の二つの軸を基準にとらえるので、膨大な作品数のアラブ映画を制作し、国民的歌手ウム・クルスームを擁するエジプトが最も重要で、次いでライの流行を生み出したアルジェリアに注目することになるだろう。
だが、この連載ではあえてそうした姿勢を採らない。それがどのような視点に基づくかについては、いずれ「幕間」としてまとめて書いてみたい。3回の執筆で自分なりに思うところがはっきりしてきたので。

Le Chant Du Monde LDX 74452
試聴:http://www.amazon.co.jp/légende-loiseau-feat-Youval-Micenmacher/dp/B006T8F6BK
『アラブの新しい詩人たちの歌』との表題通り、A面では「パレスチナでの抵抗の詩」が、そしてB面では「アラブの新しい詩」がシリア出身のシンガーAbed Azrieの作編曲により歌われる。哀しみをたたえた声のしめやかな深さは、おどけた曲調では複数の役柄を声音を使い分けて演じる柔軟さを見せる。2本のアコースティック・ギターの余白を活かした絡みを基調に、深く打ち込まれるコントラバスときらめきを闇に沈めたクラヴサンが劇的な高揚をもたらすアレンジメントも見事だ。クラヴサンの響きは、時にA-Musikで竹田賢一の奏でる大正琴を思わせる。憑かれたような語りによる終曲では、コントラバスの弓弾きが不気味にうねり、ピアノの破片が振り撒かれる緊張感溢れる現代音楽的な音使いも聴かれる。19721年制作の第1作。なお、彼は現在も活動を続けており、これは大里俊晴『マイナー音楽のために』の指摘で気づかされたのだが、Tony Coe『Les Voix D'Itxassou』(Nato)に本作の冒頭曲が、やはりAbed Azrieのヴォーカルで、Youval Micenmancherのパーカッションをフィーチャーし、カーヌーンやネイを加えたより鮮やかな速度をたたえたアレンジメントで収録されている。ちなみに試聴トラックとして掲げているのは、こちらのヴァージョンである(本作からのトラックは見つからなかった)。大里は同書の中で北アフリカ音楽についても多くの興味深い指摘を残しているのだが、これについては稿を改めて採りあげることとしたい。

Moshe Naim MN-12002 or 12005
試聴:http://www.sheyeye.com/?pid=17766247
前掲のAbed Azrie同様、最近になってDisk Unionで入手したのだが、この盤のことを知ったのは例によってSHE Ye,Ye Records & Booksのおかげ。そちらでは『Multi-Basse』との作品名で紹介されているが、私の入手したのは国内盤の見本盤(ちなみにジャケットは見開きではない)なので詳しいことはわからない。このシリア第2の都市である古都アレッポ出身のベースの哲人について詳しいことは前述のSHE Ye,Yeのページをたどってもらうとして、ここでは本作に限定して述べるとしたい。Jean-Pierre Drouet,Bernard Lubat,Michel Delaporteらそうそうたる面子の打楽器奏者陣を迎えた、Rabbath自身の多重録音によるベース・アンサンブルというのが本作の基本構造なのだが、アルコの可能性を存分に引き出したくっきりと彫りの深い、底知れぬ奥深さをたたえた響きがまず素晴らしい(ピチカートの使用の方がむしろ限定的である)。ゆるやかなアルコが重ね合わされて深々としたドローンをかたちづくり、あるいは切迫した繰り返しの上で伸びやかなソロを展開し、弓を震わせてネイにも似た甲高い音色を奏でたかと思えば、弦を焼き切り自らを切り刻むような激しさへと至る。そこには遊牧民的ないきいきとしたリズムとどこまでも伸びていく線の勢いがある。北アフリカの民族楽器を思わせる打楽器の硬く張り詰め乾ききった音色が、ベースの流動性を際立たせ加速する。

Touch TO:14
試聴:http://www.youtube.com/playlist?list=PLKtI6DyKnYmMjuizuh8prkWCvYvDQZq9w
もともとはアラブ音楽を専門とする音楽学者にしてカーヌーン奏者であった彼は、映画や演劇の音楽を担当する中で自身の作風を変貌させていく。前作『The Egyptian Music』(1987年)がオーケストラを導入しながら、民族音楽から採集した素材を端正な古典的手つきで取り扱っており、そこにたちのぼるエキゾティシズムが節度あるいささか古風なものにとどまっている(その点で戦前から1950年代くらいまでの日本映画の音楽を思わせるところがある)のに対し、続く本作では民族音楽色をさらに高めながら、サウンドが濃密さを増すあまり伝統の枠組みを明らかに逸脱し、地球上のどこにもあり得ないようなユートピックな音楽に成り果てている。オーケストラは輪郭を溶解させ音色の斑紋と化し、サウンドはエキゾティックを超越して極端にアナクロニスティックなのものへと変貌させられる。前作がTouchのリリースにおいてStrafe Fur RebellionやThe Hafler Trioと並んでいることを思えば、レーベルはこうした音響工作者としての彼の力量を最初から見抜いていたのだろう(ちなみに本作はZ'evとEtant Donnesの間)。瞑想的あるいは神秘主義的というより、まさに霊的な1枚。所謂エジプト十字架をモチーフとしたジャケットのデザインも素晴らしい。

Gruenrekorder Gruen 061
試聴:http://www.gruenrekorder.de/?page_id=2301
「ぴーっ」、「ごおーっ」という渦巻く持続音の混沌の中から、揺らめくように自動車のクラクションが姿を現し、朗誦されるアラビア語の歌謡や人の話し声、街路の雑踏が天井まで満ちていく。手触れるほど、いや物音が肌を打ちこちらに襲いかかってくるほどリアルな空間がそこにありながら、少しも音像を結ばない。それは壁を隔てた室内で録音された素材の構築による「間接的聴取」の賜物と思っていたが、多田雅範に夜更けのビルの非常階段に煙草を吸いに出て、戯れに耳を覆ってから手を離すと、恐ろしいほどの音の波に全身を揺さぶられた、あれはまさにGilles Aubryの音のようだったと聞かされて、はっと虚を突かれる。カエルの眼は動くものしかとらえない。人間の視覚においても不変項は次第に知覚されなくなって認知からこぼれ落ちていく(だからこそ眼球を小刻みに震わせて、懸命に再スキャンしているわけだが)。そのようにして我々は世界の生々しい流動を去勢し、背景と対象、構造と運動へと図式化してとらえている。というより、そのように「弱毒化」しなければ、我々は世界の貫く力の流動を視覚としてとらえることができない。だがそうした「惰性」はしばらく耳を塞ぐだけで崩壊する(もちろん束の間ではあるが)。そのような崩壊がもたらす亀裂を凝視し続けたのが本作にほかならない。混沌による玩弄に疲れ果てた耳は聞き慣れた車のクラクションに救いの光明を見出すが、それもすぐに別のぐらぐらした何物かへと変貌を遂げていく。フォーク・ミュージックを聴くとは、まさにこうした「異境/異郷」に耳をさらすことにより、類似性ではなく差異を、連続性ではなく切断を、いや持続や同一性を揺さぶる「亀裂」を見出す体験ではないのか。
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2013-08-10 Sat
TMFMR第3回はスペインのアル・アンダルース音楽を持ち越して、対岸の北アフリカへと足を伸ばす。普通なら次はフランスを片付けてめでたく終了なのだろうが、そこは「音楽の辺境探求」を看板に掲げる以上、もう少し深く掘り下げたリサーチをお届けしたいと思う。さて、レコンキスタ以前のイスラムの影響を強く受けたアル・アンダルース文化が、グラナダのアルハンブラ宮殿を含め、まさにスペイン文化の華であることを承知の上で、アル・アンダルース音楽を北アフリカに含めて採りあげる理由は、手元にある音源を聴く限り、そちらの方がより魅力的だからということに尽きる。Aman Amanの結成によりセファルディ音楽をあれほど見事に演じたL'Ham De Foc勢も、Al Andalus Projectでは3枚を費やしながらその水準に達していないし(生硬さや性急さが目立つ)、Paniaguaたちの挑戦も同様に感じられる。そこにはOmar Metiouiのきらびやかな空間の広がりやAmina Aloaouiのしなやかな身のこなしといった「遅さ」のエロティシズムが充分に熟成されていないのだ。メロディやリズムよりも僅かなニュアンスや抑揚、節回しの違いに重きを置く姿勢とでも言うべきだろうか。後者の演奏を聴いていると、それらが「本質」に付け加えられた余計な「装飾」などではないことがひしひしと伝わってくる。
「多数多様なヨーロッパ」あるいは「環地中海文化圏」などと言いながらも、やはりそこにヨーロッパの限界を見るべきなのだろうか‥‥と結論めいた感慨に飛びつく前に、個々の作品に耳を傾けるとしよう。今回は北アフリカのうちから、マグレブと称されるモロッコ、チェニジア、アルジェリア等を取り扱い、エジプト、シリアについては次回に譲ることとしたい。

Pneuma PN-150
試聴:http://www.artistdirect.com/nad/store/artist/album/0,,1144613,00.html
弦の刻みが、弓のうねりが、笛のひらめきが、まるで何重にもディレイをかけたように、響きのさざ波を生み出していく。時間と空間が溶け合い、入り組んで襞を成した混淆状態に基調となるリズムが導入されると、とたんに壮麗なオーケストラ的構造がすっくと姿を現す。そのアンサンブルの繊細さは、細部にまで複雑な文様を巡らしたイスラム建築を思わせるが、あれらの建築物が細部と全体を見事な幾何学によって統一しているように、この演奏もまためくるめくフレーズやリズムを繰り出しながら、余韻や倍音に至るまで鮮やかな整序ぶりを見せる。Al Alaとはモロッコにおける古典音楽の呼び名だが、まさに「古典」の名にふさわしい明朗で端正な佇まいと宮廷音楽的な豪奢さを見せてくれる。リフレインの特徴的な音型のせいだろうか、なぜか井福部昭のことを思い出した。なお、大編成ゆえに次に掲げるAmina Alaouiのような陰影には乏しい。

Saphrane S62606
試聴:http://www.amazon.com/Gharnati-En-Concert-Amina-Alaoui/dp/B00260YMBA
弦の上を滑るようなヴァイオリンの指さばきも、弦の震えを指先から手放そうとしないウードの響きも、Aminaのエロティックな艶やかさをたたえた声と同様、立ち上る香の薫りのようにゆったりと息をくゆらし、風に舞い散る花びらの如く響きをひらめかせる。小編成ゆえに各演奏者にはたっぷりとスペースが与えられるのだが(アンサンブルを厚くすることもない)、彼らはそこを所狭しと駆け回り塗りつぶすようなことはしない。音楽は先を急がず、いまここを慈しむように手探りゆるやかに眺め渡す。きめ細やかな象眼細工のきらめきを思わせるウードの素早い刻みも、決して時を加速し空間を押し立てることはない。もつれた糸を解くようなヴァイオリンの調べが空間を縁取って声の身体のしなやかな動きを導き、声の響きの甘やかなふくよかさを支え、その舞いをさらに香り高いものとする。ECMでの録音よりやはりこちらの方が豊かな深煎りのアロマに満ちている。グラナダに花開いたアンダルース音楽が東方すなわちギリシャ、ペルシャ、ビザンチンからの影響の下、アラビアとベルベルのリズムの混淆を経て、バクダッドからコルドバに赴いた音楽家ズィルヤーブによって始められたこと、そしてレコンキスタ以降のモロッコ、アルジェリア、チェニジアへの移民による伝播について、モロッコ出身でスペインで活動するAminaはライナーノーツに記している。ちなみにGarnatiはもっぱらアルジェリア古典音楽を指す語である。

Sub Rosa CD 013-36
試聴:http://www.al-fann.net/path/Morocco/Gnawa/Jilala/Gnaoua/
儀式音楽であるJilalaとGnaouaの現地録音を収録。モロッコのタンジールには、ブライオン・ガイシンやウィリアム・バロウズたちが惹き付けられていくわけだが、彼らに先んじてそこへ移り住み案内役を務めたのが小説家/音楽家ポール・ボウルズだった。このCDは彼が録音した1970年代の音源も含んでいる。高熱に浮かされたように甲高く裏返る声とざらざらした太鼓の皮の響き、かさかさに乾いた金属音と息の震え/むらそのものと化した笛の音色が、乾燥した空気に吸い込まれていく。そこにはイメージや物語を紡ぐのに必要な湿り気や響きが決定的に欠けており、演奏は繰り返し訪れる悪夢にも似た果てしのない反復へと陥っていく。ここでトランスとは祝祭的な高揚状態ではなく、徹底的に即物的な無感動/無共感により精神が空っぽになっていくことではないか。どこまでも青い空に魂を抜き取られてしまうように。

Ocora C 560006
試聴:http://musique.fnac.com/a538949/Musique-marocaine-Hadra-des-gnaoua-d-Essaouira-CD-album
民族弦楽器「ゲンブリ」のベース音が少し跳ねながら、それでもすっすっと足を運び、男声のコーラスが歓声となって弾け、ゆるやかに虹の弧を描く。その虹のきらめくべき高音の空間を塗りつぶすように、あらかじめアルミの食器を打ち合わせるような「カルカベ」(金属カスタネット)の「カチャカチャ」と乾いた音色が鳴り続けていることが、聴き手に不思議な感触をもたらす。トランスを誘う仕掛けと言えばそれまでなのかもしれないが、視界の一部にうっすらとヴェールをかけ、現実世界の手触りを少しだけ遠ざけるようなサウンド・マジックがここにはある。チベット密教の仏具にも似た轟音を放つ太鼓も、それだけを切り離して聴けばおそらくはやはり仏具に似ている、打ち合わされる響かないシンバルの音色も、すべては手前に広がる「カチャカチャ」に編み込まれ、音色のアンサンブルというよりも、額縁にはめられた、リアリティを隔離する1枚のすりガラスをつくりだすに至る。なお、エッサウィラはマラケシュの西方に位置する大西洋沿岸の避暑地で、1997年以来、毎年グナワ・フェスティヴァルが開催される。ちなみにHadraとはイスラムの神秘的儀式とのこと。

Rolling Stones Records COC49100
東芝EMI ESS-63009
試聴:http://www.youtube.com/watch?v=waSvVHYSyGA
ローリング・ストーンズを追われた元リーダーが、ブライオン・ガイシンの案内で訪れた山間の村で耳にした音楽を1968年に録音し、米国のソウル・バンドの演奏を重ねようとして頓挫した素材が、彼の死後の1971年になってローリング・ストーンズ自身の自主レーベルからリリースされた。ジャジューカ音楽を世界が知ったのは、まさにこの謎めいた1枚によってと言っていいだろう。テープの逆回転や電子音の付加をはじめ、ブライアンがスタジオで散々いじくり回したように紹介されることが多いが、実際には乾燥のあまり、そのままではイメージを結ぶことなく気化蒸発してしまいそうな音像に、必要な湿度を与えるべくエコー処理を施したと言ってよい。よく知られる甲高い笛の音による倍音の沸騰や疲れを知らぬパーカッションの連打に加え、平らかなヴォーカル/ヴォイスがたびたび聴かれ、やや引き気味に全体をとらえた視角と相俟って、淡々と静かな印象を与える。そこに遠くで鳴っていたものがすぐ耳元で響いたり、音像が陽炎のように虚ろに揺らいだり、複数の情景が同時に立ち騒ぐような幻惑的操作が施され、サイケデリックな効果を生んでいる。だが先に述べたように、それはマニピュレーションの産物ではなく、もともとこの音楽に備わっている本質の露呈にほかならない。

Horizon 21 / A&M SP-722
試聴:http://www.allmusic.com/album/dancing-in-your-head-mw0000652685
ここに収められたオーネット・コールマンとジャジューカ音楽の共演「Midnight Sunrise」は、オーネットが1973年1月、ジャジューカ村を訪れることにより実現した。後に『Skies of America』に再臨するオーネットの代名詞とも言えるテーマ・メロディによる「Theme from a Symphony」の録音が1976年だから、彼の提唱するハーモロディクスの実践は、その後と言うことになる。「Midnight Sunrise」における両者の共演が、巷間囁かれるほど見事なものだとは私は思わないが、ジャジューカ音楽における個々がつくりだすグルーヴが、ピッチ等の西洋音楽的枠組みを持たないにも関わらず、なお齟齬による機能不全に陥ることなく、いくらでも自由に羽ばたきインプロヴィゼーションを続けることができるという体験が、彼に非常に大きなインパクトを与えたことは確かだろう。Prime Timeの片時もじっとしていることなく跳ね回り続ける演奏は、互いにぶつかることなく一斉に向きを変えるイワシの群れや、沸騰する湯の中で踊り続ける鰹節のイメージを介して、ジャジューカ音楽の本質にたやすく結びつく。

Al Sur CDAL 243
試聴:http://www.amazon.com/Chants-sacrés-femmes-Fès-Maroc/dp/B001VF7YE8
モロッコ内陸の迷宮都市フェズ(フェス)から届けられた、いずれも女性ばかりの3グループの競演。声は語りに先導される合唱で、コブシを回しまくるようなアラブ的濃厚さは感じられず、むしろ汎アフリカ的な合唱の積み重ならずに推移していく感じが強い。淡々とリズムを刻む打楽器がレイヤーとして敷き重ねられ、延々と続く繰り返しが静かなトランスを生む。ここで採りあげた他の作品に比べ、サウンドの倍音成分や金属質の音色が少ない(強調されない)ことが、演奏が密度を増しても、なおトランスを「煽る」感じを与えない理由のひとつ。だが、果てしなく寄せては返しながら蜃気楼のように次第に希薄化していく声の広がりと、複雑なパターンの重ね合わせがモアレを生み出すリズムが、さらに層としてずれを来たし、空間をゆるやかに変容させていく様は、ブライアン・ジョーンズが幻視したジャジューカ音楽の本質と通底していよう。

BASF 4921119-3/1-3
試聴:
フリードリヒ・グルダの肝いりによりオーストリアのオシアッハで1971年に開催された伝説的音楽祭の3LP実況録音盤。タンジェリン・ドリームやウェザー・リポート、ピンク・フロイド(LPには未収)等の参加で知られるが、その本領は「音楽 - 世界共通言語」を掲げて、東欧ブカレストから招いた合唱団によるビザンチン聖歌に、チュニスから来たグループの演奏するチェニジア宗教音楽を接続し、さらにはGeorg Gruntz率いるビッグバンドに民族楽器を加え「マグレブ組曲」を演奏させてしまう過激さにある。しめやかな合唱がしっとりと降ろす霧の帳を切り裂くようにして、うなり声と打楽器が炸裂する。声はコール&レスポンスを重ねながら高揚し、波状攻撃を繰り返す打楽器群とともに、野蛮にして優雅な高貴さへと昇り詰めていく。一方、GruntzのビッグバンドはJohn Surmanのうねうねとしたソプラノ・サックスで始まり、Jean Luc Pontyの寸断された急速調のソロでクラライマックスを迎える。演奏はなかなか見事なものだが、いささか引っかかりがなく、「フォーク」の相互浸透による変容には至っていない。ここに挙げた演奏の試聴用音源が見つからなかった。申し訳ない。Pink Floyd,Weather Report,The Dave Pike Set,The Trio,Georges Sziffra等はあるのだが。

Accords Croises AC126
試聴:http://elsurrecords.com/2013/05/03/houria-aichi-lhijazcar-cavaliers-de-laures-『オーレスの騎兵』/
アルジェリア出身のベルベル人系女性歌手Houria Aichiの雌豹の如くしなやかにして切れ味鋭く強靭な声は『Hawa』(Audivis)で知られていようが、掠れた笛と畳み掛ける打楽器が煽るアコースティックな編成と深々とした電子音がたゆたうエレクトロニックな環境という、いかにも「パリ発ワールドミュージック」的な定型が気になり、ストラスブール出身の器楽アンサンブルと組んだこちらを選ぶことにした。L'Hijaz'Carは自分たちの「フォークロア」を創造すべく音楽学校で結成されたグループで(この心意気は本企画にふさわしい)、ウード等の民族音楽系撥弦楽器/打楽器の編成にバス・クラリネットが加わっているのが興味深い。実際、バス・クラリネットの粘りある低音のリフレインが、音色的に上ずりがちなアンサンブルの重心を引き下げ、全体の音色の稠密さを高めており、このことが打楽器やウードの低音の強調によるトランス効果の増強を違和感のないものとしている。しかし何よりもやはり彼女の声。漂わず舞い上がらず地にしっかりと足を着けた、みっちりと中身の詰まった押し出しのよい声の力は、聴き手の心をまっすぐに射抜くもので、瞽女等にも連なる放浪性(ノマドの声?)を感じさせる。

Sahelsounds SS-015 / Mississippi Records MRP-039
試聴:http://sahelsounds.bandcamp.com/album/issawat
今回の目玉。今年リリースされたばかりの新譜(録音は2008年)。彼女の出身地であるマリ共和国は地理的に西アフリカに属するが、彼女はベルベル人系のトゥアレグ族を出自とするのでここで取り扱うことにした。手拍子や僅かなパーカッションと複数の男声による単調な繰り返しが織りなすドローン様の広がりをキャンヴァスとして、彼女の鼻にかかった、しかし伸びやかな声が、ジャクソン・ポロックのポーリングを、あるいはサイ・トゥオンブリのドローイングを思わせる自由な線の「遊び」を尽きることなく繰り広げていく。そこにヴォイス・インプロヴィゼーションが陥りやすい罠、すなわち自由の刑に課されるがゆえに、時間/空間の茫漠たる広がりに絶えきれず、特定のヴォーカル・テクニック(超絶技巧などとも呼ばれたりするそれ)や金切り声によるスクリーミング等に閉じこもってしまうこと、はまったく影を落としていない。彼女は鼻歌と言葉を軽やかに往還し、一瞬たりとも声の身体をこわばらせることなく、優雅な身のこなしでほんのわずか身体を傾げながら、ゆるやかに舞い続ける。彼女の声と打楽器や手拍子、あるいは重なり合う男声とは多様な関係を取り持つが、前述のように後者を「キャンヴァス」たる平面ととらえるならば、それに近づいたり遠ざかったりする皮膚感覚的な「呼吸」は、『チャパカ組曲』におけるオーネット・コールマンのソロを思わせるところがある。簡素な構成の音楽がはらみ得る限りない豊かさに、改めて驚かされる1枚。傑作。