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福島恵一

Author:福島恵一
プログレを振り出しにフリー・ミュージック、現代音楽、トラッド、古楽、民族音楽など辺境を探求。「アヴァン・ミュージック・ガイド」、「プログレのパースペクティヴ」、「200CDプログレッシヴ・ロック」、「捧げる-灰野敬二の世界」等に執筆。2010年3~6月に音盤レクチャー「耳の枠はずし」(5回)を開催。2014年11月から津田貴司、歸山幸輔とリスニング・イヴェント『松籟夜話』を開催中。

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アンサンブルの解体/再構築の後に来るもの -「タダマス11」レヴュー  Something Comes After Dismantling / Reconstruction of Ensemble - Review for "TADA-MASU 11"
 他の耳が切り開いた道筋をたどる。同じ道を歩みながら別の景色を見ている。だがそれでも、「ああ、彼らはこれを見ていたのか。この光景に打たれ揺すぶられたのか」と思わずにはいられない瞬間がある。耳と耳が切り結び、視線がぴたりと寸分の狂いなく重なり合う一瞬。その場で語られた言葉が身体へと入り込み、身体の奥底から湧き上がる言葉と互いに映し合う。思考が巡り、イメージが羽ばたく。その時、「聴取」は知らず知らずのうちに、ひとりではたどり着けぬほど沖合までさまよい出ている。振り返ると浜辺が遠く揺らぎ、足下の水がしんと冷たくなって、不安で心臓が締め付けられる。

 益子博之と多田雅範がホストを務める「四谷音盤茶会」(通称「タダマス」)も11回目を迎えた。生の演奏ではなく音盤のプレイバックだが、そこにホストの2人やゲスト、あるいは聴衆の生な反応や言葉が絡むことにより、私にとって耳を開かされることの多い貴重な「ライヴ」の場である。特に今回はプログラムの途中で道筋を見失いかけながら、最後には彼らが見て打たれたであろう光景を、いま私も目撃しているという「一致の感覚」に不意に襲われ、驚かされることとなった。
 以下にレヴューを試みるが、例によって自分が触発された部分を中心にしているため、プログラム全体のバランスのとれた紹介とはなり得ないことを、あらかじめお断りしておく。なお、当日のプレイリストについては下記URLを参照。
 http://gekkasha.modalbeats.com/?cid=43767

 また、ホストのひとりである多田によるリポートもぜひ参照していただきたい。
 http://www.enpitu.ne.jp/usr/bin/day?id=7590&pg=20131027
 http://www.enpitu.ne.jp/usr/bin/day?id=7590&pg=20131030


 「タダマス」に先立ってオーディオ・イヴェントが行われたため、会場である綜合藝術茶房喫茶茶会記のこの日の装置は、いつものヴィンテージ・オーディオではなかった。写真の通り、ブルトンの詩句「窓で二つに切られた男」を連想させるスピーカーは、共振をダンプされた厚いガラス板に、フルレンジのユニットを平面バッフルの要領でマウントしたもの。音像型で暖かみに溢れ音楽的表現力に優れたいつものアルテックに対し、こちらは極端に音場型で空間表現に秀でており、誤解を恐れずに言えば、その高い透明度/解像度により音楽から「音」を解き放って聴かせる傾向がある。

中央の四角錐ではなく、壁状
のガラス板にマウントされて
いるのが当日鳴らされたSP


 最初に掛けられたAya Nishinoの作曲による女性ヴォイスの多重録音作品は、こうした装置の再生特性に見事にはまっていた。身体の重さをまったく感じさせない声の、うっすらとした雲のような広がりは、互いに重なり合いながら滲むことも溶け合うこともなく、能う限り触覚から遠ざかっていく。益子はこの作品が「記憶」を刺激することを指摘し、BjorkやCocteau Twins、菅野よう子らの名前を挙げていたが、私が反射的に思い浮かべたのもBjork『Vespertine』と「反例」としてのEnyaである。Aya Nishinoの生成させる響きは、何重にも音を重ねながら決してEnya的なふうわりと煙る厚みへと至ることなく、常に必要な隙間をはらみ、透明な見通しを失わない。むしろBjork『Vespertine』に似て、敷き重ねられるほどにますます薄層化し、ぼろぼろの穴だらけであることを際立たせていく空間の手触りがそこにはある。
 以降、「記憶」をひとつのキーワードとして、トラックが連ねられていく。多田雅範による「ECMは演奏者の記憶を引き出してきたレーベルだ」という名言を差しはさみながらも、その流れが私にはどうもしっくりとこなかった。

 たとえば以前にこのブログで採りあげた益子によるクロス・レヴューの対象作品Derrick Hodge『Live Today』の明らかにMiles Davis『In A Silent Way』を下敷きにした、質量をいっさい感じさせない構築の、サウンドの出入りの完璧さに驚きながらも、それは果たして「記憶」の関数なのだろうかと訝っていた。このサウンドの出入りの完璧さは、明らかにDJたちのスクラッチによる構築の探求を受け継いでいる。しかし、彼らがその名人芸でもってつくりあげた、あえてデコボコと接合面を際立たせたつぎはぎだらけの、編集の産物であることを明らかにした挑発的な構築は、ここでジャズならではの技量を駆使した、極端に隙のない、完璧に磨き上げられたリアルタイムの構築に取って代わられている。もちろん事後的な編集も施されているのだろうが、それでもすっすっとまったく遅れも摩擦もストレスも感じさせずに空間に入り込み隙間へとはまり込む、絶妙なタイミングとイントネーション/アーティキュレーションは、編集だけでは生み出せまい。本作品を語るのに、益子や多田が一見似ても似つかない菊地雅章によるアンサンブル・インプロヴィゼーションを持ち出すのはよくわかる気がする。菊地が一音一音の不確定性から演奏を組み上げていくにあたり、アンサンブル・インプロヴィゼーションを全面適用しているのに対し、Derrick Hodgeたちはフレーズやリズムはプリセットしておいて、出入りのタイミングを精密に測り、空けられた隙間に正確にはまり込むピースをつくりあげるためにイントネーション/アーティキュレーションを研ぎ澄ますことにだけ、アンサンブル・インプロヴィゼーションを局所限定的に適用しているのだ。

 だが、後半になって、いきなり転機が訪れる。Mary Halvorson Septet『Illusionary Sea』におけるMary Halvorsonのギターの足がもつれて階段を踏み外していく身振りに、コンポジションとしてはジャズ・ロック風のポップさを香らせながら、やはり複雑にもつれていく四管の絡みや演奏に推進力を供給し続けるドラムのズレをはらんだ煽りに、レイヤー的な構築性が垣間見えた気がしたのだ。ここで「レイヤー的」とは、精密な敷き重ねよりも、むしろ各レイヤーを切り離し、勝手気ままに走らせてしまうことを指す。それらが必然的にズレをはらむことは、当然あらかじめ計算済みだ。本来の意味でのアンサンブルはいったん破綻し解体されるが、そこで生じるズレに対し、改めてジャズ・プレイヤーならではのリアルタイムの演奏構築感覚が発動することにより、アンサンブルはより拡張された次元で再構築される。このことはその直前に掛けられたMark Dresser Quintet『Nourishments』との対比でより明らかとなる。Mark Dresserたちの演奏は、枠組みとなるコンポジション/アンサンブルを言わば折り畳んで複雑化することを目指しており、枠内の分割は施されるものの枠そのものは決して揺らぐことがないのだ。Mary Halvorsonたちのやり方は、例えばRadioheadがエレクトロニカ的な視点を採り入れ、アンサンブルによるグルーヴを解体し、深みへと踏み外していったのと共通性を有しているように思う。

 一度、そうした気づきを手に入れると、続く3枚の描く軌跡が連続した線として浮かび上がってくるように思われた。Dave King Trucking Companyの急にギアを切り替えたようなテンポの変化等、まるでPCによるポスト・プロダクションを最初から生アンサンブルでトレースした感覚の演奏。The Claudia Quintet『September』のヴァイブとアコーディオンのミニマルなリフを基軸とした構築に、各レイヤーの加速/減速や、持続音を狭い音域に押し込めて倍音領域に至るまでサウンドを衝突させモジュレーションを起こさせる等、エレクトロニカ的な操作を施す仕方。そしてMatt Mitchel『Fiction』でピアノとドラムのミニマルな繰り返しが、右手と左手のアンサンブルをレイヤーの重ね合わせと見立て、複数の速度と加速度感を操り、時に疾走による逸脱へと至りつつズレを堆積させていく様。あるいはピアノとヴァイブの明滅の星座的な重ね合わせにおいて‥‥。

 後半4作品の畳み掛けるような怒濤の押しは、それらを聴き終えた地点から振り返って見れば、Aya Nishinoによる声の雲や、Derrick Hodgeたちによるサウンドのすれ違いの完璧なマネジメントとまっすぐにつながっているように感じられた。

 今回クローズ・アップされたレイヤー的構築によるアンサンブルの解体/再構築のモデルは、これまでポスト・プロダクションによって獲得されていた地平を、リアルタイムのアンサンブル・インプロヴィゼーションによって達成すること、これによりアンサンブルの「体感感覚」を更新することを目指しているように思われる。そう考える時、対極的なモデルとして、音の顕微鏡的なまでにミクロな局面へと沈潜し、コーダを延々と引き延ばし、時間感覚を拡大して、もはやコントロール不能な確率的揺らぎへと触覚的感覚を研ぎ澄ましていく仕方が挙げられるだろう。

 先走った物言いになるが、益子や多田がこの間ずっと追いかけているのは、新たなゲームの時代の到来とこれにより再生される即興共同体の姿ではないかという気がする。ビバップはモダン・ジャズ共同体のとびきりのアスリートたちが、極限的な演奏の加速と複雑化に向けて、命をすり減らしながら賭け金を吊り上げていく、コカインより効く究極のゲームだった。晩年のコルトレーンが繰り広げたのも、精神共同体を背景とした、極限的な加速と飛躍と充満と溶解に向けたゲームだったと言えるだろう。だから清水俊彦が指摘したように、コルトレーンの死は、熱病に浮かされたフリー・ジャズ共同体に冷水を浴びせかけることとなった。失われたルーツとしてのフォークロアと宗教性を常に探し求め、霊的共同体を志向したアルバート・アイラーの破滅は、そうしたゲームがもはや成立し得なくなったことを示しているだろう。崩壊した即興共同体から析出した個人によるパースナルな演奏語法の探求を、これまでのように象徴的な次元ではなく、まさに明示的かつ即物的なゲームの平面で編集しようとしたジョン・ゾーンによる「ゲーム・ピース」やローレンス・"ブッチ"・モリスが継続した「コンダクション」の試みは、こうした系譜の最後に位置している。

 NYダウンタウンで展開されつつある新たなゲームは、アンサンブルの解体/再構築の果てにどこに向かおうとしているのか。それはポップへの接近/達成を当面の目標としているように見えながら、おそらくはそれを突き抜けていくだろう。これまでのように仲間内で賭け金をレイズし続けることが、いつしか限界を超えて生命を蝕み、なし崩しの自死を呼び込んでしまうのだろうか。EC諸国のシーンで見られる音響的インプロヴィゼーション(それはデレク・ベイリー的な内省の徹底と、ジャン・デュビュッフェからミッシェル・ドネダに至る野生と外部による侵食の相関の二つの起源を宿しているように思う)との部分的共振は、今後どのように作用していくのだろうか。

 以前にも述べたように、そこに生み出される新たな音楽/演奏のかたちは、たとえどんなにこれまでの「ジャズ」と似ていなくとも、「ジャズ・ミュージシャン」にしか生み出し得ない演奏であることによって、それこそが新たなジャズの姿にほかならない。それを見出すには複数の耳の間の化学作用が必要なのだ。


  

 


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ライヴ/イヴェント・レヴュー | 21:44:28 | トラックバック(0) | コメント(0)
耳を開き続けること  To Keep Your Ears Open
 たびたびお世話になっていた奈良の通販CDショップpastel records(*)から、年内に閉店とのお知らせが届いた。これまで導いてくれた貴重な耳の道しるべが、またひとつなくなってしまうことになった。
*http://www.pastelrecords.com

 以前にpastel records紹介の記事(※)を書いたことがあるが、ただただ新譜を大量に仕入れて‥でもなく、「売り」のジャンルに照準を絞り込むのでもなく、ポップ・ミュージックの大海原に漕ぎ出して、その卓越した耳の力を頼りに、新譜・旧譜問わずこれはという獲物を採ってきてくれる点で、何よりも「聴き手」の存在を感じさせるお店だった。
 一応、取り扱いジャンルはエレクトロニカ、フォーク、ネオ・クラシカルあたりが中心ということになっていて、店名とあわせてほんわりと耳に優しく暖かな、それこそ「パステル」調のイメージが思い浮かぶが、決してそれだけにとどまらず、さらに広い範囲を深くまで見通していた。それは私が当店を通じて知ったアーティストの名前を挙げていけば明らかだろう。中には他所では名前を見かけなかったものもある。Richard Skelton / A Broken Consort, Tomoko Sauvage, Annelies Monsere, Federico Durand, Aspidistrafly, Julianna Barwick, Kath Bloom & Loren Conners, Mark Fly(活動再開後の), Squares on Both Sides, Movietone, Balmorhea, Efterklang, Masayoshi Fujita / El Fog, Talons', Tia Blake, Susanna, Lisa O Piu, Cuushe, Satomimagae ....すぐには思い出せないだけで、まだまだたくさんあるだろう。
※http://miminowakuhazushi.dtiblog.com/blog-entry-13.html

 すべての作品に試聴ファイルが設けられており、実際に聴いて選ぶことができるのも大きかったが、各作品に丁寧に付されたコメントが素晴らしく的確で、pastel recordsを支える確かな耳の存在が感じられた。音楽誌に掲載されるディスク・レヴューが加速度的に「リリース情報として公開されるプレス・シートの丸写し」となっていくのに対し、pastel recordsのこうした揺るぎない姿勢は、単にショップとしての「誠実さ」の範囲を超えて、聴き手としての誇りをたたえていた。「自分が聴きたいと思う作品を提供する」とはよく言われることだが、それを実際に貫くのは極めて難しい。
 大型店舗と異なり、仕入れられる作品数も限られていただろうに、Loren Mazzacane Conners(実は彼の作品を探していて、ここにたどり着いたのだった)やMorton Feldmanを並べていたことも評価したい。それは単に「マニアックな品揃え」を目指したものではない。店主である寺田は「サイケデリック」とか「インプロヴィゼーション」とか「現代音楽」とか、ポップ・ミュージックの聴き手にとっていかにも敷居が高そうなジャンルの壁を超えて、pastel recordsが店頭に並べるエレクトロニカやフォーク作品(先に掲げたリストを参照)と共通する、密やかな「ざわめき」や「さざめき」、あるいはふうわりと漂い香るようにたちこめる希薄さをそこに聴き取っていたのではないか。聴いてみなければわからない、響きの手触りの類似性を手がかりとした横断的な道筋。

 インターネットの発達によってディスコグラフィをたどるのは容易になったし、ミュージシャンやプロデューサー、エンジニアの人脈もすぐにたどれる。だが、「響きの手触りの類似性を手がかりとした横断的な道筋」は耳によって切り開かれるよりない。「セレクト・ショップ」的な性格を有するpastel recordsが、「オシャレ」とか「流行の先端」とか「サブカル」とかに自閉してしまわなかったのは、寺田がこうした耳の冒険を欠かすことがなかったからにほかなるまい。



 インターネットの発展により世界にはアクセス可能な情報が溢れており、もはや個人が選択できる範囲をはるかに超えている。それを個人に代わってやってくれるのが、amazon等でおなじみの「パーソナライゼーション」の仕組みであり、これまでの購入履歴からおすすめの本を紹介してくれる。このサービスに対し、自分の内面に知らず知らずのうちに深く入り込まれてしまうことに違和感を表明する者もいたが、他の大多数には便利な顧客サービスと受け止められた。だが、実際には「パーソナライゼーション」は、「購入履歴に基づいておすすめの商品を案内する」といったわかりやすく限定された範囲を超えて、どのリンクをクリックしたかをカウントし、その傾向を検索エンジンの表示順位に反映することにまで及んでいる。インターネット検索が世界を映し出す「鏡」だとすれば、その「鏡」は知らぬうちに歪まされ、あるいは切り取られて、偏った世界を映し出すように変えられている。
 様々な事故や事件を通じて社会不安が高まり、政府や企業、あるいはマスコミは情報を操作し、我々を欺いているとの「陰謀史観」が広まっている。そこでは善悪二元論的な単純化された構図にみんなが飛びつく。いや、というより、そうした単純な構図に世界を押し込めようとする時に、「陰謀」のようなそれを可能とする「物語」が必要とされるのだ。実際に「陰謀」が存在するか否かはここでは問題しない。ただ私が指摘しておきたいのは、先に見たように「パーソナライゼーション」によって強大な権力の意図に基づかずとも、それよりもはるかに匿名的かつ個別的な洗練された仕方で、情報は操作され得るということだ。ここで情報操作が個々人の「消費」(情報消費を含む)動向に基づいて為されていることに注意しよう。「パーソナライゼーション」は「あなたに代わって」選択・提案しているのであって、「あなたに向かって」ではない。私たちは自分の鏡像を果てしなく増殖させる「鏡の檻」に閉じ込められてしまうことになる。
 このシステムが巧妙であるのは、私たちがクリックにより選択行動を起こすたびに、システムがそれを学習してシミュレーションの精度を高めていくことにある。私たちは情報を操作されていることも、他者と共有すべき事実を侵食されていることも気づかぬまま、一人ひとり切り離され、「お気に入り」や「いいね!」だけに埋め尽くされたオーダー・メイドの繭世界に閉じこもる(自らを閉じ込める)ことになるのだ。
 そこには葛藤も軋轢も対立も混乱もない。発見もなければ衝撃もない。すべては「既視感」という安心毛布にゆったりとくるまれ、「飽き」を防止するためほんのわずかな差異が、新たな流行や個人の趣味がつくりだすオプションとして用意される。

 自分が信頼していたCDショップの閉店を、デジタル・サウンド・ファイルとアナログ・ヴァイナルの間で、情報的機能性もオブジェ/アート物件としての魅力にも欠けるCDというメディアの性格に結びつけて了解してしまうような(CDの終焉?)社会学的/マーケティング的見方を、私は到底することができない。
 むしろそこで生じているのは聴き手の自閉/自己完結にほかならない。それは未知のものに対する好奇心の減退と言い換えてもいいし、「雑誌」的な場の機能不全という事態でもある。かねてからインターネットについて言われていた「隣接性」の喪失、すなわち検索がそのものずばりを指し示すことにより、それと隣接する異なるもの、たとえば雑誌でお目当ての記事の隣のページに載っている別の記事にアクセスする機会がぐっと減ってしまうという変化は、先に見たパーソナライゼーションによりさらに深刻な症状を来す。

 MoveOn.orgのイーライ・パリサーは『閉じこもるインターネット』(早川書房)で、「フィルターバブル」(パーソナライズのためのフィルターに閉ざされ包み込まれてしまうこと)の危うさについて、次のように述べている(ちなみに私は例によって図書館で借りて読んだので、帯に東浩紀と津田大介が書いているとは今の今まで知りませんでした)。
 「フィルターバブルは確証バイアスを劇的に強めてしまう。そう作られていると言ってもいい。我々がとらえている世界に合った情報は簡単に吸収できるし楽しい。一方、新しい考え方をしなければならなかったり過程を見直さなければならなかったりする情報は、処理が苦痛だし難しい。(中略)だから、クリック信号を基準に情報環境を構築すると、すでに持っている世界の概念と衝突するコンテンツより、そのような概念に沿ったコンテンツが優遇されてしまう。」(p.109)
 「パーソナライゼーションとは、既存の知識に近い未知だけで環境を構築することだ。スポーツのトリビアや政治関連のちょっとしたことなど、自分のスキーマが根底から揺さぶられることはないが、ただ、新しいものだと感じる情報だけで環境を構築することだ。パーソナライズされた環境は自分が抱いている疑問の回答を探すには便利だが、視野にはいってもいない疑問や課題を提示してはくれない。(中略)フィルタリングがかんぜんにおこなわれた世界は予想外の出来事やつながりという驚きがなく、学びが触発されにくくなる。このほかにもうひとつ、パーソナライゼーションでだめになる精神的パランスがある。新しいものを受け入れる心と集中のバランス、創造性の源となるバランスだ。」(p.112~113)

 インターネット上の情報がコピペの嵐であって、特に音楽の場合、制作者/販売者側の情報ばかりがソースとなりやすいことを思えば、あるいはニコニコ動画の時報機能に「同期性」を感じる心性(あるいは「同期性」を読み込むような思考)が蔓延していることを思えば、事態はより深刻と言えるだろう。もちろんコトはインターネットだけの問題ではない。道路や鉄道駅、電車の車内といった公共空間で、イヤホンで耳を塞ぎ、視線をスマホやゲーム機に釘付けにして外界を遮断している者たちは、まさにパブリック・スペースを「パーソナライズ」しているのにほかならないのだから。



 pastel records寺田さん、まずはお疲れさまでした(と言ってもお仕事はまだまだ続くわけですが)。でも、少し休養したら、また好きな音楽、おすすめの音楽について、ぜひ語ってください。待ってます。



画像はすべてpastel recordsのページから転載。ヴィジュアル・デザインもとても優れたお店でした。


批評/レヴューについて | 22:36:01 | トラックバック(0) | コメント(0)
別の空間へ - リアストゥライニ ライヴ・レヴュー  Into Another Space - Live Review for LYOSTRAINI
 例によってひとしきり道に迷ってからたどり着いた会場は、すでに暗くなった街角にひっそりと佇んでいた。外から全体を仰ぎ見る間もなく入口の灯りに吸い込まれ、受付を済ませて演奏の行われるスペースに立ち入って、柔らかくあたたかな照明に浮かび上がる空間の変わりように驚かされる。まるで別の空間がワープして、ふっと現れたようだ。そこは使い込まれた木の長椅子が並ぶ教会の礼拝堂で、正面の壁のアーチ状の窪みに十字架が掲げられている。裕に3階分はある高いヴォールト天井、木と漆喰の壁、高い位置に設けられたステンドグラスも外が暗いため色彩を放つことなく身を潜めている。
 80年前の建築当時からそのままで、現在も礼拝時に使われているという長椅子は固くがたがたで、そこに座っていると身体が空間に次第にはまりこんでいく感じがする。離れたところの話し声が妙に近く感じられるのは長い残響のせいだろう。平面としてはさして広くない会場は、結局、ほぼ満席となった。

 この日の演奏について語るべきことはそう多くない。先に結論を言えば、この日の演奏への称賛も多く聞こえてくるなかで(※)、私は見事にすれ違ってしまったのだ。あるいは1週刊前に「1982」のライヴを聴いた記憶を生々しく留めたままこの空間に入り込んで、ああ、ここで彼らを聴けたならどんなにいいだろうと、あらぬ夢想を膨らませてしまったせいかもしれない。聴くべき何かを見出せないうちに、この日の演奏は終わってしまった。
 大きな期待とともに演奏が始まった瞬間、速いパッセージを繰り出すコントラバスの、パンツのゴムが伸びたような、びろびろにふやけた音色に驚かされた。立ち騒ぐ疑問符は5秒で失望に、10秒で落胆へと変わり、その後、一度も浮かび上がれないまま演奏は終わりを迎えることになる(アンコールを含め)。その間、私は一度も拍手することができなかった。
※たとえば次を参照
 http://www.enpitu.ne.jp/usr/bin/day?id=7590&pg=20131023
 http://homepage3.nifty.com/TAKEDA/live2013/20131022-1.html

 私にとってほとんど唯一の聴きどころは、Lena Willemark自身の説明によれば「牛やヤギを呼ぶ声」だという、あの空気を切り裂き、風を渡り、まっすぐに空間を射通して、聴き手を縛り上げる声を彼女が放った30秒間だった。その時、彼女は口元をマイクロフォンから外していた。ならば、もともとマイクロフォンは無くてよかった。歌の旋律を舞いながら声を閃かせる仕方に、凡百の歌い手とは異なる際立った技量を予感させながら、彼女の声は何重にも仕切られた向こう側にあるようで、むしろ生来の声の力をマイクロフォンに合わせてセーヴすることに力を注いでいるようにすら感じられた。そこにCD作品で聴き親しんだ、大地からあるいは古代から湧き上がる生々しい力を、いまここに解き放つ鮮やかな直接性はなく、言い訳を重ねるような持って回ったもどかしさを覚えることとなった。もしかするとそれは、声が踏みしめ、あるいは蹴立てて飛翔すべきコントラバスの地平が、先に述べたような「液状化」を来して成立していなかったことによるのかもしれない。

 そうした影響は箏を奏する中川果林にも及んでいたかもしれない。トリオにおいて旋律を歌いながらリズムを彫り刻み、さらには荒々しいグリッサンドや弦へのアタックにより、触覚的な要素を一手に引き受けていた彼女の負担はかなり大きかったと思う。それゆえ肩に力が入ったのか、もっとすっと筆を入れてすらりとまっすぐな線を描くべきところを、徒に流れを滞らせ、軌跡をうねらせていたように思う。それは旋律の歌わせ方に関してはルバートの多用、フレーズの提示についてはヴィブラートの不適切な適用として現れていた。これらの選択、というより箏の慣用的な語法の無頓着な名残は、演奏を重くして軽やかさを奪い、インタープレイにおける反応を遅らせる。それは箏がエキゾティックなスパイスの役割を超えて、インプロヴィゼーションの領野に身を投じていく際に再検討されるべき重要なポイントだと思う。沢井一恵は彼女のインプロヴィゼーション初体験となったフレッド・フリスとの無惨な共演(私はその「9×9」と題されたコンサートの聴衆だった)を踏みしめて、その後、鮮やかに羽ばたいた。
 さらに前述のグリッサンドをはじめとするノイジーで触覚的なサウンドを奏でる部分では、ドライヴ感を重視するあまり、音が垂直に立ち上がらず斜めによれてしまっている。ちょうどフィギア・スケートのジャンプで回転軸が傾いている感じか。だがこれも結局、沢井一恵の演奏と無意識に比較してしまっているわけで、あまりにも基準が厳し過ぎるかもしれない。先に述べたように彼女は多くの役割を献身的にこなし、見事な力演を見せたのだから。

 コントラバスのAnders Jorminについては前述の「パンツのゴムが伸びたような、びろびろにふやけた音色」への違和感に尽きる。運指の素早さは流石だが、出てくる音がこれでは評価のしようがない。アルコ音も上滑りで実体感に乏しく、どこを採ってもアーティキュレーションが不明瞭なものだから、アンサンブルは合わない入れ歯のようにフガフガしたものに成り果ててしまう。Bobo Stensonの共同作業者なのだから、これが本領とも思えないが、コントラバスのリアルなボディ感を消去して弦の振動だけをイコライザーやリヴァーブで加工したような「エアー・ベース」的音色設定は、PAエンジニアの責任ではあるまい。彼自身が今回の使用楽器(ライヴ・ツアー用のレンタルかもしれない)のサウンド戦略を確立できていないのではないか。今回の演奏空間の豊かなアコースティックを思えば、輪郭が固めのゴリッとしたピチカートや、切り裂くようなアルコ、深々とした胴鳴りや倍音領域へのアタック等が非常に効果的なものとなったことが明らかであるだけに、返す返すも残念でならない。


2013年10月22日(火) 世田谷区 富士見ヶ丘教会
LYOSTRAINI (リアストゥライニ)
 Lena Willemark (レーナ・ヴィッレマルク) ヴォーカル/フィドル
 Anders Jormin(アンダーシュ・ヤーミーン) ベース
 Karin (中川果林 なかがわかりん) 唄/二十五絃箏






ライヴ/イヴェント・レヴュー | 18:10:48 | トラックバック(0) | コメント(0)
ああ、まだ虫が鳴いていますね 外は雨が降っているのに  Ah, Crickets Are Still Chirping, Though It's Raining Outside
 津田貴司から案内されたライヴの2日目は、Daisuke Miyatani Ensemble "utsuroi" リリースイベント。プログラムは出演順に三富栄治によるエレクトリック・ギターのソロ、津田貴司と笹島裕樹のデュオStilllife、あおやままさしによるエレクトリック・ギターのソロ、大人数によるDaisuke Miyatani Ensembleの演奏の4部構成。

1.デュオ
 「ああ、まだ虫が鳴いていますね。雨が降っているのに‥」演奏を始める矢先、津田がぼそりとつぶやく。
 デュオ演奏の準備として、スペースの中央が空けられ、そこに2枚のラグが敷かれ、音具というよりも様々な魅力的なオブジェが、まるでアンティーク・ショップの店先のように並べられる。素焼きの管、小石、陶器のかけら、水の入ったガラス壜、巻貝の貝殻(やはり水が入っている)、水とガラスの粒を入れたフラスコ、試験管、木の枝、藁の束、小型のチター‥‥。二人は靴を脱ぎ向かい合って座り、キャンドルを灯し、照明がすべて落とされ、空調も停められる。暗がりの中にぼうっと陽炎のように虫の音と雨音がうっすら浮かび上がる。
 腿に打ち付けた音叉の根元を木の床に押し当てマッチの閃きのような響きを立てる。素焼きの管を三本、掌で転がし感触を楽しむ。藁の束をまさぐり、感触を空間に投影する。竹の筒の切り口に息を当てる。吊るされて揺れる木の枝の触れ合い。竹の筒に吹き込まれる細い息の流れが、もつれながら引き伸ばされ紡がれていく。
 暗がりの中で耳が目覚めていく感覚。いつの間にか虫の声はさらに大きくはっきりと聞こえるようになっている。オブジェの奏でるか細い響きは、離れたあちらにありながら耳元で聞こえ、やがて耳の視界の大半を占めるに至り、くっきりと手触りを伝える。耳がそば立てられ対象に集中すればするほど、閉じていくはずの感覚は逆に開かれ、周囲の空間がますますくっきりと浮かび上がり、虫の音や足音、床の軋みが大きく聞こえるようになる。だが、それらは「対象」をマスクすることはない。手前から向こう側までピントの合ったディープ・フォーカスの空間が現れ、さらに視界は透明度を増していく。
 小石を転がし、石を打合せて口の中に響かせる。陶器のかけらをこすり合わせ、水とガラスの粒の入ったフラスコをゆっくりと振り混ぜる。チター弦の微かな震えがガラス壜に閉じ込められた水の揺らぎと重ね合わされる。
 アクションの連鎖(モンタージュ)ではなく、何物かの表面に触れている指先への集中と、それを距離を置いて冷ややかに眺める耳の眼差しの拮抗。意識が思い浮かべたものを指先でつくりだすのではなく、両者を切断し、触覚と聴覚をそれぞれ別の仕方でオブジェに横断させること。そこに新たな発見/遭遇が生じる。「沈黙」という白紙のキャンヴァスに物音を配置していく観念的な抽象性はここにはない。オブジェに焦点を絞り込み集中する感覚は感度と解像度をいや増し、空間も時間もすでに染みや汚れ、折り目や破れだらけであることにとっくに気がついている。
 この日の30分程度の演奏は、彼らにとってほんのイントロダクションに過ぎまい。聞けば夜中に出かけて山道をさまよい、谷の奥で録音した音源を作品化すべく現在作業中であるという(この日、「先行シングル」だというCD-Rが販売されていた)。アフターアワーズに暗い山道は危なくないかと訊くと、視覚が閉ざされる分、他の身体感覚が鋭くなるので、意外とこわくないとのこと(むしろシカやイノシシに出くわしてしまうのがこわいらしい)。そうした道行きに同道して、夜更けの谷間が白々と明けてくるまで彼らの演奏に包まれてみたいものだ(そうだな5時間くらい)。夜の森はしんと静まり返るどころか耳を聾する喧噪に満ちている。彼らの演奏に耳で触れ肌を傾けることにより、オブジェへの聴覚と触覚の集中を通じて、風の唸りに、森のざわめきに、水のせせらぎに耳を澄ますこと。


2.ソロ
 三富栄治もまた今年9月に新譜『ひかりのたび』をリリースしたばかり。そちらはフルートやチェロを配したジェントルな肌触りの室内楽だが、この日のソロでも同じく、いやそれ以上に陽だまり的な温もりを感じさせた。抱えたギターを赤子を寝かしつけるようにゆっくりと揺らし、フレーズを音色を同様にくゆらせる。香るようにたちのぼり、そのまま空間に溶けていく音楽。とりとめのない夢想は、一切の言い訳なしにそのまま提示されることにより聴き手を武装解除し、ゆったりと手足を伸ばして響きに浸ることを可能にしている。ただし眼の前で演奏されるべき音楽、あるいは他人といっしょに聴きたい音楽かといえば、私には違うように感じられた。彼はますますギターの上に身を屈め(ほとんど折り重なるように)、赤子のように言葉を解しないギターに密やかに語りかける。フィンガー・ピッキングの柔らかな指さばきは、決して音を周囲に飛び散らせることがない。浮かんでは消えながら「音もなく」通り過ぎていく情景。くっきりとした輪郭/陰影を持たず、夢うつつの間接的な距離を生きる音色は、ギター・アンプから漏れ広がるバックグラウンド・ノイズをスクリーン/フレームとして、8mm映画のようにありえない懐かしさとともにぼうっと浮かび上がる。音に沈み込むうちに世界の手触りはいよいよ遠ざかり、物語など気にならなくなる。時折告げられる曲名は、「暖かい夜」、「天国の月」と両極を結びながら対比を際立たせず、緩い勾配で結ぶともなく結んでいる彼の音世界をさりげなく言い当てている。
 同じくフィンガー・ピッキングによりながら、あおやままさしのギターは三富と対照的なあり方を示す。素早い指さばきが繰り出す音は砕け散るまぶしさをはらんでおり、空間になじむことなく響き渡る。高速アルペジオの繰り返しはモアレ効果の印象を与えながら、実際にはもつれることなく、重層化もせず、広がりやにじみも持たない。ただそこできらきらと輝く音の宝物。一言も発さずにただ黙々と演奏を続け、演奏中に何度も曲間でチューニングを改める偏執狂的な身振りは、響きの指紋ひとつない輝きと通底している。きれいな色ガラスのかけらや、鱗粉が金属質の光沢を帯びたモルフォ蝶の標本、曇り一つなく磨かれたコインを収集する潔癖性の少年。熱を持たない響きの蛍光灯的な輝き。だが私には運指が減速し、音に間が空いて、その消え様を明らかにする場面の方が、よりリリカルなように思われた。

3.アンサンブル
 再び客席の模様替え。中央にラグが敷き詰められ、周囲をギター奏者の座る椅子がぐるりと取り囲む。聴衆は13台のギターに包囲される。リーダーのDaisuke Miyataniがそのうちの一人に「コードはG。一音弾いたら3秒は間を空けてもらって‥」とルールを説明している。演奏が始まり、周囲でぽつりぽつりとギターが鳴り響いていく。音源の位置を移ろわせながら、軒先から滴る雫が庭先の石を打つように五月雨式に音がこぼれていく。ギターごとの音色の、そして発音の特性が際立つため、中世音楽の技法「ホケット」のように、振り撒かれた音がメロディを紡いでいく感覚はない。Stilllifeの演奏が深くたたえていた耳を目覚めさせる力もない。本来は多様にして豊かであるはずの音と音の出会いは、「アンビエント」な響きの広がりの安逸さに身を委ね、明度や彩度を引き下げ、自らを単色に染め上げて、聴き手の感覚を眠り込ませようとする。だが、小賢しい「表現」を離れ、自らの贅肉を削ぎ落とし、あるいは移ろい漂わせて、「無心に」(たとえ一人ひとりの演奏者がそうした無我の境地に至っていなくとも、コンポジションによる限定/抑制の仕掛けが「私」を濾過し希釈化する)「雨垂れ」と化す様に身を委ねるのが心地よいのは確かだ。虚ろな希薄化に向かって引き延ばされていく永遠のコーダ。
 だが愚か者はどこにでもいる。私のほど近くに位置した奏者は、どうやらじっとしていられない「お子ちゃま」のようで、演奏の終盤には自分を抑えきれなくなり、盛んに弦を擦ったり、ボディを撫でたりと悪戯を繰り返している。すぐそばのDaisuke Miyataniの様子を何とはなしに伺い、微かな音での逸脱/挑発にとどめているあたりが、何ともはや情けない。タイマー代わりに仕掛けられたと思しきカセット・テープレコーダーがカチャンと停止し、演奏者たちが自信なさげに顔を見合わせ、さらに疎らになった音が床の軋みやため息に呑み込まれていくエンディングを経て、お礼の挨拶をしているDaisuke Miyataniの傍らで、何を思ったのか彼はギターを弾き始める。BGMのつもりなのだろうか。一部の知り合いが笑みを浮かべ、仲間内の弛緩し澱んだ腐臭がたちこめ始める。彼の「演奏」は、自分の抱えているのが他ならぬギターであり、それを自分は多少なりとも弾けることを懸命にアピールしているようにしか見えなかった。そんなものは友人の誕生パーティの余興でやってくれ。いわゆる「空気を読む」とは、仲間内でのだらけた馴れ合いに身を染める貧しい体験でしかなく、即興的感性や本来の意味でのアンビエントな感覚とはまったく無縁であることを、いまさら実演で紹介する必要などないのだ。

2013年10月19日(土) 立川 砂川七番 ギャラリーセプチマ
三富栄治、Stilllife、あおやままさし、Daisuke Miyatani Ensemble

   

  

ライヴ/イヴェント・レヴュー | 23:40:59 | トラックバック(0) | コメント(0)
1+2+3 / 1982 Live Review for Gallery Septima 16/10/2013
 ほとんど真四角な白い部屋。古い木の床にあれこれ種類がバラバラな椅子が並べられている。無垢の木の丸いテーブル。壁際に置かれた白いソファ。反対側の壁際には木のベンチ。ぽっかりと開いた大きな窓と壁に作り付けの木製の棚がギャラリーらしいだろうか。
 音具とエフェクターが床に散らばり、左手奥に斜めに置かれたアップライト・ピアノ(上半分は手前の板が外されて弦が剥き出しにされている)の手前のテーブルにも、ガラクタ・オモチャな音具が山積みになっている。右手奥には簡素なドラム・セット。正面奥のテーブルにはヴァイオリンが2台。

1.ソロ
プログラムの幕開けは津田貴司のエレクトリック・ギターによるソロ。高域の張り詰めた音がディレイにより引き延ばされ、左右にパンで振られる。木の床の軋みと寄り添う「水琴窟」ギター。そうしたきらめきの波紋が広がる向こうにハーモニクスのうっすらとした影が揺らぎ、サンプル&ホールドされてさらに音が重ね描きされていく。口を尖らせた舌先でくるっと丸まってしまう響き。床の軋みや足音と親しく混じり合うのは、津田の耳の志向ゆえだろうか。
 素早い遷移のうちにある高音の繰り返し、ゆっくりと背筋を伸ばしていく低音、弦のさわり、分厚いドローンとか細いアルペジオ‥‥寝た子を起こすことのないよう細心の注意を払って取り扱われるギターから引き出される様々な響きは、それぞれに固有の速度と時間をはらんでいる。それは一方で「グリッチ以降」のエレクトロニカ美学の帰結だが、むしろ津田にとってはサウンドスケープに耳を傾け、ひとつの時間/空間のうちにあれこれの響きがマッピングされているわけではないことを、発見したのが大きいのではないだろうか。

2.デュオ
 minamoは結成当時からのコアである安永哲郎と杉本桂一によるデュオ編成で、音具を中心とするインプロヴィゼーションを繰り広げた。杉本がギターを、あるいは安永がピアノを弾いたり、二人がハーモニウム(?)に手を伸ばしたりする場面もあったが、それらはすべてゆったりと靄がたなびくようなエレクトロ・アコースティックなサウンドの一部を構成するに過ぎない。
 電子ノイズのひそやかなつぶやきがギター弦の弓弾きの倍音に水没し、金属質の打撃音の長い尾の揺らめきが遠い国からやってくる短波放送にも似た高周波の混信や変調に溶けていく傍らでは、アコースティック・ギターの爪弾きもあらかじめ散布された電磁波に逃れ難く汚染されており、すべての響きは空間を包み込む微かな波動の網の目にかかり、それを震わせてしまう。彼らはそうしてかたちづくられたサウンドの希薄でこわれやすいプラトーを、リアルタイムの音の加工を含め、崩してしまうことなくゆるゆるとくゆらせていく技術に長けている。

3.トリオ
 彼ら「1982」は、はるばるノルウェーからやってきたヴァイオリンとピアノとドラムのトリオ。東京でのライヴはここだけだという。すべてのマイクやアンプは取り払われ、演奏はすべてアコースティックで行われた。
 まるで音を高く放り上げ、あるいは遠くへと飛ばすように、一音を一弓で弾き切っていくヴァイオリン。冷ややかな音色が弧を描き、指で弦をミュートしたピアノのトレモロやドラムの打面や縁を擦って生み出される音の切れ端等のマイクロサウンドを見下ろしている。やがてヴァイオリンが掻き鳴らすようなピチカートに転じ、ピアノのミュートされたトレモロやブラシに擦られるドラムと、繊細なさざめきの重層をつくりだしていく。
 三人の真ん中に立つヴァイオリンは、演奏によって弓を取り替えて臨む。冒頭の冷気がたちのぼる鋭敏さは円弧型の弓によるもので、より希薄で透明な音色が生み出される。これに対し通常の弓はより輪郭が明確で中身が詰まった厚みのあるサウンドを提供する。
 ドラムが脚で鈴を鳴らし続け、ピアノがノイジーに掻き回されるざわめきの中で、なめらかに滑りゆく弓の推移がつくりだす音が、列車の車窓から眺める電信柱のように通り過ぎる。大きな空間を占有するヴァイオリンに対し、ピアノとドラムは緊密な連携で対応する。ピアノの左手が弾き出すむしろベース・ソロ的なつまづくリズムに、ドラムがアタックの強弱で拮抗し、この緊密なリズムのやりとりにヴァイオリンは胸に迫る叙情を覆いかぶせ、ピアノがミュートせずにトレモロを解き放ったことをきっかけとしたフリー風の盛り上がりには、極端に落差をつけた沈鬱な響きで均衡をかたちづくる。

 彼らはまた10歳ずつ年齢が違うのではないかと思われる「齢の差トリオ」でもあるのだが(vn > pf > dr)、演奏が進むにつれ、最初のうちに見せたトリオ内の役割分担を含め、そうした階層性を侵食し、自在に組み替えていく動きが見られた。
 ピアノの弦がガムテープでミュートされ、荒々しいグリッサンドが繰り出されるかと思えば、テープを剥がす際のノイズが際立たせられ、ドラムはと言えば打面の張りを緩め、輪郭の歪んだ不定形の響きを床に這わせ、ハイハットの下の皿に様々な音具(独楽の類?)を放り込んで音を立てる。アルバート・アイラーを思わせるカリプソ風のメロディをピアノが弾き散らかすフリーな盛り上がりを「苦々しげに」眺めていたヴァイオリンが割って入れば、懸命に美音を奏でる彼をよそに、ドラムは席を立ってピアノのところに密談に行き、ピアノの位置をずらし、少し向きを変えたかと思うと、天板の上で、靴下をはめた手をパペット代わりに陳腐なショウを繰り広げ、"Money,Money"とクッキー・モンスターみたいにパクパクする口の中に、ピアニストが小銭を押し込む。ピアニストがピアニカで「ハーレクイン・ロマンス」的な甘ったるいメロディを奏でれば、お高く留まっていたかに見えたヴァイオリンも辻楽士的な泣きの旋律で加わり、靴下パベットの熱き抱擁を引き立てる。いささかダダ的なヒューモアの破壊性が、奇妙に歪み始めたサウンドの化学変化を推し進め、「ノリ」を加速し、北欧的な昏い混沌へと突き落としていく(ここで私はInternatinal HarvesterやTrad Gras Och Stenar等の土臭くサイケデリックなスープを思い浮かべている。これらはスウェーデン産だけど)。ピアノ弦から剥がしたガムテープをつるつるの光頭に巻き付けるといったハン・ベニンク的なパフォーマンスもその一部に過ぎず(だからまったく「浮いて」しまうことなく演奏の血肉化される)、規制の窮屈な枠組みの底を荒々しく踏み抜いて、すべてをつなげてしまうことが目指される。足踏みしながらのダンス・チューンの演奏も、ミニ・ハーモニカのロング・トーンへの音響的な重ね描きも、ここではもっともらしいコンセプトの説明や編集意図を超えて、分ち難くひとつになっている。

 希薄さと透明さを突き詰めてどこまでも高く昇りつめていく響き。ライヴを予約した時点で思い浮かべていたのは、そうした冷ややかさだったが、そうした予想/期待は心地よく裏切られた。彼らの演奏は天井の高さがなく、それほど広くもない会場のルーム・アコースティックも踏まえた対応であったろう。確かな技量に支えられた自由闊達な演奏は、とびきり豊かな時間をもたらしてくれた。会場で買い求めた彼らの録音作品群がまた素晴らしかった。いずれ改めて紹介することとしたい。

2013年10月16日(水) 立川 砂川七番 ギャラリーセプチマ
「逆回りの音楽 vol.7」
津田貴司、minamo(安永哲郎+杉本桂一)、1982(Nils Okland, Sigblorn Apeland, Oyvind Skarbo)


   

  

ライヴ/イヴェント・レヴュー | 23:42:07 | トラックバック(0) | コメント(0)
北国からの声 - リアストゥライニ東京公演  Voices from Northern Land - LYOSTRAINI Live in Tokyo
 多田雅範のブログに謎のライヴへの道しるべが載っていて(*)、思わずその指差す先をたどったら、「おおっ」と唸るライヴ情報にたどりついた。Ale MollerとのデュオやトリオFrifot等で知られるLena Willemarkを擁するトリオが来日公演を行うというのだ。しかも会場はアコースティックの貧しいライヴハウスではなく教会! これは駆けつけねばと早速予約を入れた。
 何しろ出無精で、ライヴも滅多にでかけないのだが、前々回でご案内した津田関係のライヴに続き、久々のライヴ強化月間に。特に今回のリアストゥライニはまだ音源のリリースされていないグループで、そのサウンドは未知数だが、否応無しに期待は高まる。たまには勘に賭けてみるのも悪くない。1982とは北欧つながりだし。
*http://www.enpitu.ne.jp/usr/bin/day?id=7590&pg=20131008

 以下に主催者であるFly Soundのページ(※)から、ライヴ情報を転載しておく。
※http://flysound-fuku.jugem.jp/?eid=195



 10/22日に下北沢の富士見ヶ丘教会で、スウェーデンが誇るワールド・ミュージックプロジェクトのLYOSTRAINI (リアストゥライニ)の東京公演が有ります! Taguchiのフラットスピーカーを使って繊細な音場を作りたいと思います!


 【東京公演】

日にち 2013年10月22日 (火)

時間 Open 18:00 / Stert 19:00 

会場 富士見ヶ丘教会 http://www7b.biglobe.ne.jp/~fujimigaokachurch
 東京都世田谷区代沢2-32-2

料金 前売 4,000円 / 当日 4,500円
 チケット 9月9日発売
 Fly sound info@fly-sound.com

[予約方法] 

e-mailにて、
1.枚数 2.お名前(カタナカ) 3.お電話番号 4.ご住所
 をお送りください。 受付ご返信致します。 満席になり次第、受付を終了致します。

お問合せ Fly sound info@fly-sound.com

 Harmony Fields 072-774-8838(平日 10:00-18:00)

info@harmony-fields.com
音源の方も近く、発表される予定です。

Lena Willemark (レーナ・ヴィッレマルク) ヴォーカル/フィドル
スウェーデンフォークミュージックの国立フィドル演奏者。 ノルウェー室内管弦楽団、ロイヤル·フィルハーモニー管弦楽団、イェーテボリ交響楽団。 1994 年 Nordan Project で ECM よりリリース。 スウェーデングラミー受賞。
2004 年 Frifot “sluring” スウェーデングラミー受賞。
2006 年 ソロプロジェクト ÄlvdalensElektriska でスウェーデングラミー受賞。 2011 年 より スウェーデン王立アカデミーのメンバー。
スウェーデン中部ダーナラ地方の山間のエルヴダーレンに近いエヴェルツベリという小さな村の出身。 幼い頃より、伝統文化や音楽を大切にする大人達に囲まれ育ってきた。そして 18 才になった時、ストックホルム に下り立ち、クラシックとジャズを学ぶ。その後 89 年にはフォーク/トラッドのソロ・アルバムとジャズ・アルバムをリリー スする。もはやレーナは北欧フォーク/トラッド・シーンの女王と呼ぶに相応しく、その素晴らしい歌唱は、世界中 のありとあらゆるジャンルの中でも最高の歌い手のひとりだといっても過言ではないだろう。
http://www.youtube.com/watch?v=FinqYrt05XA

Anders Jormin(アンダーシュ・ヤーミーン) ベース
スウェーデンの作曲家、著名なコントラバス奏者。国際的に非常に現代的な即興音楽の分野内で尊敬されてい る。音楽大学教授でありながら、ヨーロッパ圏において即興の演奏家の第一人者である。彼は ECM がリリースす る スカンジナビアのジャズ・アーティストとして最も信頼されるプレイヤーで、数多くのアルバムに参加している。
1992 年 Jan Johansson Scholarship スウェーデングラミー受賞。 1994 年 Jazz Kannan スウェーデングラミー受賞。
1996 年 Bobo Stenson Trio ‘Reflections’ スウェーデングラミー受賞。 2010 年 スウェーデンの王立音楽院ジャズ賞を受賞。 ヨーテボリ大学音楽演劇アカデミー教授。 ヘルシンキのシベリウス・アカデミーの客員教授。
http://www.youtube.com/watch?v=oKrTzvf6La8

Karin (中川果林 なかがわかりん) 唄/二十五絃箏
かりんが主に奏でるのは二十五絃箏。その美しい形や音域の広さは豊かな表現を生み出し、その演奏は魂を揺 さぶるような圧倒的な世界観を持つ。音楽一家に育ったかりんが、両親の知人であった野坂惠子氏を訪ね、彼 女が考案した二十五絃箏にであったのは中学生の時。東京芸大では古典の十三絃と地唄三弦を学び、卒業 後、箏の音色と自分の声でうたをつくっていくことを決意。原点は日本の田植え唄だ。そこには日本人のグルーブ がある。日本で育った楽器で、日本人の血を持つかりんが自分の言葉で歌う。即興的な柔軟さを持ち、邦/洋 /民族楽器、ジャズ、現代音楽、弾き語り、役者、ダンサー、絵描き、ジャンルや楽器を問わず様々な芸術家と 共演。音楽公演の他に、舞台役者・音楽監督、画を描くなど幅広く活躍中。2010 年デビュタント賞受賞
国際交流基金によ、2000 年 スウェーデン 2007 年 アフリカツアー等 海外公演18カ国。
http://www.youtube.com/watch?v=Rm_F_eyKbcc




ライヴ/イヴェント告知 | 21:09:44 | トラックバック(0) | コメント(0)
タダマスの「11人いる!」(萩尾望都)  "They Were Eleven !"(by Moto Hagio) for "TADA-MASU"
 先日掲載した「浸透的聴取」(*1)について、益子博之が言及してくれている(*2)。そこで彼は私が採りあげたレヴューについて「苦し紛れに書いた」と述べているが、きっとその通りなのだろう。作品が位置づけられると想定されるジャンルや参加ミュージシャンの来歴が、耳の掘り当てた響きの鉱脈とまっすぐにつながっているならば苦労はない。しかし、研ぎ澄まされた耳は時として、そうした当然の想定とははるかにかけ離れた何物かを探り当ててしまうのだ。思わず掴んでしまった蛇の尻尾を放り出して、何食わぬ顔であらかじめ用意しておいた講釈を垂れることを潔しとしないのであれば、あれこれ思い悩んだ挙句、途方に暮れることとなる。耳の体験を裏切らぬ新たな言葉/新たな論理を紡ぎだすのは大変なことだ。苦し紛れに言葉を絞り出すことにもなるだろう。そこには生々しい苦闘の跡が刻まれ、同じ戦いを強いられている者たちを引き寄せることになる。私はそのように戦場へと引き寄せられ、あくまでも私なりの仕方で体験をトレースし、それによって問題を自分の視点からの物に組み替えたに過ぎない。二つの聴取の間のリレーは、他の耳にはどう映るだろうか。

 そうした「複数の耳の間で聴く」という、他では得難い体験の機会を毎回与えてくれる貴重なリスニング・イヴェント「四谷音盤茶会」の11回目が開催される。同じ音源を同時に同じ空間で聴きながら、実際には一人ひとり違う「こと」を聴いているという体験の差異を明らかにしてくれるこの場は、ライヴ・イヴェントにおける共通体験性ばかりが強調され、ニコニコ動画の試聴においてすら時報による同時体験性が注目されてしまう強迫的な「同期依存症」がはびこる昨今(「お前らどれだけ同期したいんだ」って話だよな)、ますますその価値を増していると思う。
 *1 http://miminowakuhazushi.dtiblog.com/blog-entry-247.html
 *2 http://gekkasha.modalbeats.com/?cid=43768

 以下、告知ページ(*3)から抜粋転載する。なお、益子とともにホスト役を務める多田雅範による案内記事(*4)も参照のこと。
 *3 http://gekkasha.modalbeats.com/?cid=43767
 *4 http://www.enpitu.ne.jp/usr/bin/day?id=7590&pg=20131007



masuko/tada yotsuya tea party vol. 11: information
益子博之=多田雅範 四谷音盤茶会 vol. 11

2013年10月27日(日) open 18:00/start 18:30/end 21:30(予定)
ホスト:益子博之・多田雅範
ゲスト:山本昌広(サックス奏者/作曲家)
参加費:1,200 (1ドリンク付き)

今回は、2013年第3 四半期(7~9月)に入手したニューヨーク ダウンタウン~ブルックリンのジャズを中心とした新譜CDをご紹介します。前回ご紹介したような、既にデフォルト化しつつある、触覚的なサウンド・テクスチュアや、演奏者毎に異なるサウンドおよびタイム感のレイヤーを織り重ねたような構造をベースに、それぞれの「ポップ感」を反映させた音楽が更に増えて来ているように感じられます。

そこで今回はゲストに、サックス奏者/作曲家で、長らくニューヨークで活動されていた山本昌広さんをお迎えすることになりました。現場の動向を良くご存知の山本さんは我々の受け取り方や解釈をどのようお感じになるのでしょうか。お楽しみに。(益子博之)




ライヴ/イヴェント告知 | 22:26:53 | トラックバック(0) | コメント(0)
ライヴ告知2題 於ギャラリー・セプチマ  2 Live Information at Gallery Septima
 以前にこのブログで紹介したhofliこと津田貴司からライヴの案内をもらった。いずれも興味深い企画なので紹介しておきたい。

 まずは「逆まわりの音楽 その7」。以前にディスク・レヴューで採りあげた繊細なざわめきに満ちた音響ポップを奏でるminamoの参加にもそそられるが、遠く北欧から参加の1982は、以前に某通販ショップで作品を見かけ、LPしかないので購入を躊躇していたグループ。下記URLで聴くことのできるその演奏は、ヴァイオリンとオルガンの希薄なたなびきが石畳の床から冷気のようにたちのぼり、あるいは礼拝堂の仰ぎ見るヴォールト天井から緩やかに降ってくる魅惑的なもの。もちろん窓の外の物音に耳を澄まし続ける津田の、部屋の空気に沁み込んでいくだろうギター演奏も楽しみだ。
http://www.meditations.jp/index.php?main_page=product_music_info&products_id=7291

以下にSweet Dreams Pressのページ(※)から案内記事を転載しておく。ページでは1982はじめ、参加者による演奏風景の動画を見ることができる。
※http://www.sweetdreamspress.com/2013/10/blog-post.html


逆まわりの音楽、先に「その8」のほうをご紹介しましたが(こちら、10月27日です。来てネ!)、ようやく「その7」もアウトラインが整いました。会場はいつもの立川・砂川七番のギャラリー・セプチマで安永哲郎事務室と共同で企画している「逆まわりの音楽」の第7回目、今回はECMやルネ・グラモフォンから作品をリリースしてきた名うての名手が揃った北欧フリー/ジャズ・トリオの1982と、1999年の結成以来、世界を股にかけて活躍してきたエレクトロ・アコースティック・ユニットのminamo(現在もアメリカ・ツアー中!)、さらにアンビエントなギター奏者としてのたたずまいから領域を拡大させつつある津田貴司のお三方をお迎えします。秋の夜長に音と静寂、楽音と物音、360度の音世界に包まれる一夜をぜひ。平日のギャラリー・セプチマで密かな、しかしあまりにも濃密な体験ができること請け合いです。

10月16日(水)立川・砂川七番 ギャラリー・セプチマ(*)
東京都立川市柏町3-8-2/多摩都市モノレール砂川七番駅より徒歩2分
1982 ~シグビョルン・アーペラン(pf)、ニルス・ウックランド(fiddle)、ウィヴィン・スカルポ(ds)~、minamo、津田貴司
開場 7:00pm/開演 7:30pm 入場料 2,000円
予約:galleryseptima[a]gmail.comまで、タイトルをライブ予約とし、お名前・人数・ご連絡先を明記してお送り下さい

*http://galleryseptimablog.blogspot.jp




 続いては同じ会場での津田貴司と笹島裕樹によるデュオStilllifeのライヴ。笹島もまたそのフィールドレコーディング等による作品を、本ブログのディスク・レヴューで何回も採りあげたことのあるアーティストだ。津田の耳が聞こえるか聞こえないかのひそやかなざわめきに分け入り、耳の視線をどこまでも浸透させていくのに対し、笹島の耳は顕微鏡的に拡大された音響の切り裂くような速度に身じろぎもしない透徹した強度をたたえている。Stilllifeの演奏は彼ら自身により「非楽器・非即興・非アンサンブルという抑制の果てに立ち現れる、気配と静謐のフラグメント」と説明される。youtubeに投稿されたPV(☆)を見る限り、アコースティックな物音系インプロヴィゼーションと言えようか。サウンド・オブジェに触れ合う指先に感覚を集中させるにつれ、身体の輪郭が溶け出して意識が空っぽになり、耳の風景がピンホール・カメラのようにそのまま意識のスクリーンに投影され、手探る指の動きに連れて移り変わる。
☆http://www.youtube.com/watch?v=TC7xz4FDXts

 本来こちらが主役であるギター・アンサンブルによる間歇的/散逸的なサウンドの生起にも期待できそうだ。


 以下に会場であるギャラリー・セプチマの告知ページから転載しておく。

『Daisuke Miyatani Ensemble "utsuroi" リリースイベント』
Daisuke Miyatani待望の新アルバム『utsuroi』の発売を記念してリリースイベントを行います。この1曲のみ約40分のアルバムが本当に素晴らしいです。雨音のように、風に揺れる木の葉のように浮遊感たっぷりに鳴らされるギターたち。「ギターたち」というのも、このアルバムはたくさんのぽつりぽつりと鳴らされるギターの音色のみで構成されていて、一聴してひとりで多重録音したのかなと思ったのですが、そうではなく総勢15名のギタリストが他の音を知らない状態で録音されたそう。すごい。それを再現するべくこの日はなんと総勢13名のギタリストが集まり合奏します。きっとセプチマを空高く浮かび上がらせる、この日しか体験できない音楽をぜひお楽しみください。

<Daisuke Miyatani Ensemble メンバー>
Daisuke Miyatani
Takeyuki Hakozaki
Asuka Tanaka
Takahisa Umehara
Yutaka Hirasaka
Paniyolo
Yoshinori Takezawa
[.que]
Haruna Yuasa
Kouhei Harada
Go Koyashiki
Eiji Mitomi
Daisuke Ogura

時間:開場18:30/開演:19:00
料金:1500円+1ドリンク
出演:Daisuke Miyatani Ensemble、三富栄治、あおやままさし、Stilllife(津田貴司+笹島裕樹)
予約:galleryseptima[a]gmail.comまで、タイトルをライブ予約とし、お名前・人数・ご連絡先を明記してお送り下さい




ライヴ/イヴェント告知 | 21:23:43 | トラックバック(0) | コメント(0)
高潔さの喪失 - 三善晃・堂本尚郎追悼  Loss of Nobility - Akira Miyoshi & Hisao Domoto RIP
 2013年10月4日に三善晃と堂本尚郎が亡くなった。「時代」が終わった。

 三善晃の名は以前から知っていたが、聴き始めたのは最近のことだ。多田雅範の高評価に興味をそそられて再発された『交響四部作』を聴き、一気に引き込まれた。続けて先行して再発されていた『レクイエム』へと聴き進んだ。再発のディレクターは共に日本伝統文化振興財団在籍時の堀内宏公。彼は多田と共に音楽サイトmusicircusを主宰している。
 私が魅せられたのは、三善の硬質なリリシズムであり、それを支えている覚醒した構築感である。深い叙情をたたえ、ロマンティシズムに身を沈めながら、甘さやべたつきが微塵も感じられないのは、音の配置と配合に対するぱきぱきと覚醒し透徹した感覚による。「構築感」と言い、「構築」と言わぬのは、三善のつくりだす響きが音のピラミッド状の積み重なり、石造りの重厚さとは無縁だからだ。散乱する響きは初秋の陽の光にきらめく透き通った蜻蛉の翅を思わせる。まぶしさのない鮮烈さ。醒めた熱情。積み重ならず、壁を築かず、どこまでも向こう側を見通せる開かれた響き。僅かな濁りも許さず常に清冽であろうとする響きには、いつもアドレッセントな痛みが伴うが、それを永遠の文学青年的なイメージに押し込めてしまうのはあまりにも勿体ない。だから、毎日新聞に掲載された梅津時比古による追悼文「死を通した生の称賛」の、死の影、死への志向性を三善の通奏低音としてとらえる見方には違和感を覚えずにはいられない。そこでは東京大空襲に遭遇し「多摩川で水遊びしていたら、隣にいた子供たちが機銃掃射で真っ赤に血を流して死んでしまった」体験や、「オーケストラと童声合唱のための 響紋」においてオーケストラにかき消される「かごめかごめ」が象徴的に取り扱われている。
 「追悼」が終わってしまった一人の生を総括し、棺の蓋を閉じることである以上、それは作法にかなった所作なのかもしれない。しかし、後にも述べるように、私たちはこれからも三善晃を聴き続けなければならない。あるいは今こそ心して聴き始めなければならない。ため息をひとつついて「三善晃」という書物を閉じ、書棚にしまい込んでしまうのではなく、すぐさま頁を開き読み進めること。せめていつの日にか読み改めることを自らに課して、机の上に出しっぱなしにしておくこと。

 
  三善晃『交響四部作』   三善晃『レクイエム』


 堂本尚郎の作品を直接見たのも、つい最近のこと、このブログでレヴューした(※)『アンフォルメルとは何か』展(2011年ブリヂストン美術館)においてだった。そのレヴューで私は「先駆者」であるジャン・フォートリエやジャン・デュビュッフェに比べ、「流行としてのアンフォルメル」の中で制作された作品(マチウやスーラージュ、アルトゥングら)は一定のテンプレートに拠っているがゆえに食い足りないとして、次のように記している。
「もうひとつは、個々人の〈様式〉に沿った作成過程に生じる不確定性への注目であり、筆の運びの揺らぎや刷毛目のずれが、まさに「不定形」を呼び込むものとして尊重されることになる。こうなると書道における筆のかすれ等を尊ぶ日本伝統の美的感覚は強力な武器であり、実際、堂本尚郎の作品の完成度の高さは群を抜いていたが、この作品をあえて〈アンフォルメル〉の名の下に評価する必然性は薄いように感じられた」。
※http://miminowakuhazushi.dtiblog.com/blog-entry-109.html
 その後、2005年に開催された大回顧展の図録を入手し(何とブックオフで500円!で購入)彼の変遷の軌跡を知ることになるが、ごく初期の日本画を別にすれば、「アンフォルメル」時期、続く「二元的アンサンブル」や「連続の溶解」の時期から、晩年の「無意識と意識の間」の時期に至るまで、そこには通底した感触があるように感じられる。筆触や飛沫による揺らぎへの繊細な鋭敏さ。「アンフォルメル」期において、カンヴァスに油彩により描かれる形態は流動化し、マッスは解体され、絶え間ない運動へと解き放たれていく。最初から風がうなり吹き抜け、荒波が襲い逆巻く空間だけがあるとでも言うように。そこには鈍重な枠組みがないのと同様に、重苦しい混沌も存在しない。油彩本来の形態の、色彩の、量感の積み重なりの代わりに、奥行きの浅さにもかかわらず伸びやかにすれ違う速度/運動あり、それを可能にするモビール様の可動的な構築性がある。
 こうした特質は、画面分割による構成を導入した「二元的アンサンブル」期や、一見ブロックの集積を思わせる構成に至る「連続の溶解」期、さらにはそれがブリジット・ライリーのオプ・アート作品をすら連想させる正円のシステマティックな反復にまで発展するそれに続く時期でも変わらない。時にリジッドな精密さを装いながら、それでもなお形態/構成にはにじみやかすれを介して常にずれていく可動性、音もなく這い進む菌糸の先端の震えが宿っている。また、色彩は積み重なって量感のあるマッスを形成することなく、はらはらと剥がれ散り落ちる脆さ/はかなさをたたえている。そうした不確定な流動への契機が「構成」を侵食し前景化してきたのが、晩年の「無意識と意識の間」ととらえることができよう。
 毎日新聞に掲載された尾崎信一郎による追悼文「変容を恐れぬ勇気」が、「半世紀以上に及ぶ作品の変容、実験精神の軌跡」にスポットを当てていることは、何かひとつのことに打ち込み、長い年月をかけて「深化」の物語を紡いでいくこの国の職人的芸術家たちと堂本を峻別しようとする意図の現れ、語りの戦略として理解できる。だが、自解しながら次々とコンセプトを破り捨て、マーケティングに沿って「変貌」を遂げていく、この国の昨今のアーティスト群と画然と峻別するためにも、ここではむしろ通底する連続性の方を指摘しておきたい。なお、尾崎は前述の2005年の大回顧展のキュレーターであり、図録にも長文の批評を寄せている。彼は2004年にはもはや伝説的な「痕跡」展をキュレートしており、著書『絵画論を超えて』(東信堂)はフォーマリズムやアンフォルメル及びそれ以降について思考する際には必読と言える。

 
堂本尚郎回顧展図録(2005年) アンフォルメル期の作品

 
「連続の溶解」期の作品


 「連鎖反応」期の作品


 三善と堂本に共通しているのは、研ぎ澄まされた響きの強度にだけ賭ける集中と潔さであるように思う。そこに言い訳はない。もっともらしいコンセブト解説も、流行への追従や反発(を装った追従)も、受容の水準に「配慮」した(と称する)妥協もない。自らのエクリチュールを高め極め尽くす高潔さがあるだけだ。無論、達成のあるところには権威が生じ、権力を呼び寄せがちである。よほど注意深く振る舞わなければ、そこには取り巻きたちによる低レヴェルの「政治」が忍び込む。このことは否定しない。そのことによって本人を免罪するつもりもない。だが、そうした「実績」によって達成の価値が減じられるわけではない。繰り返しになるが、人間なんてドングリの背比べで、一人の人生などたかが知れている。だが作品や達成はそうした一人の人生を軽々と超え出て、他人の人生を触発し、後世へと受け継がれていく。そうした輝きを、汚辱に満ちた生から拾い上げずして、批評の役割など存在しない。
 学芸会の演目を批評の刃で切り裂くのは大人気ない振る舞い、いや乱暴狼藉とすら言うべきものだろう。それは出来不出来にかかわらず、家族や友人たちに「頑張ったね」と祝福されるべきだし、何よりも演じた当人たちは達成感に酔ってよい。それはそれで構わない。けれど何の関係もない他人を巻き込んで、皆に「感動」を強要するのはお門違いだ。「私たちは一生懸命やっているのだから、あなたたちにはそれに感動する義務がある。もとよりそれを拒絶したり、批判する権利など誰にもない」というのは、それこそ乱暴狼藉にほかなるまい。
 アイドル歌謡にしろTVドラマにしろ、あるいは音楽でも美術でも演劇でも映画でも、今日ほど「感動」や「共感」がこのような回路で息苦しく強制されてくる時代はなかったのではないだろうか。いや違う。こう言うべきかもしれない。何度となくこの国で繰り返されてきた「同化」の強制が、今日ほど空虚な微笑みと浮かれた軽薄さを浮かべている時代はなかった‥と。
 大友良英は著書『ENSEMBLES』(月曜社)の冒頭で飴屋法水の芝居を採りあげ、そこに登場する女子高生たちが「それぞれ個々の個性と歴史を持ったひとりの人間たち(生き物たち)に見えてくる」変化について書いている。芝居が終わり出演者の名前=本名がスクリーンに映し出されると理由もわからずボロボロと泣いてしまうと。演技や脚本の質にかかわらず、名前を持った一人ひとりの存在はかけがえがないというわけだ。このことはわざわざ他人のブログから、打ち上げの席で「私たちの名前を全部言えますか」と紹介を求められ、18人「全員の名前を言えた飴屋さんが友人であることをちょっとだけ誇らしく思った」という一節を引用してみせていることからも明らかだろう。そしてそれはそのまま、スタッフ一人ひとりの本名を掲げた日記体によるYCAM「ENSEMBLES」展の準備作業の記録に引き継がれる。年間4億円の維持運営経費を要する公立施設におけるプロのアーティストとスタッフによる一大企画は、こうして女子高生の学芸会と周到に重ね合わされる。同展のチーフ・キュレーターを務めた阿部一直は注意深くこう書き留めている。「今回の大友の『ENSEMBLES』に共通する、きわめてシンプルなルールは、同期(シンクロ)してはいけない、ということである。(中略)同期せずに存在(共存)せよという、共存はするが微細な多数の動きの突出・交走によって存在が現れる、またそれらを見出し合う知覚を形成せよ、というラディカルな空間のポリティクスが、強靭に『ENSEMBLES』全域に響き渡っているのである」と。まさに然り。そして歯止めとなる唯一の倫理である、この「同期の禁止」を欠けば、2008年の『ENSEMBLES』は2013年の「あまちゃん」狂想曲にまっすぐつながってしまうのだ。


 三善や堂本の死に際して多くの論者が「ひとつの時代の終わり」を感じたと記している。だが先に触れた息苦しいまでの低俗の充満を思う時、彼らが貫いた高潔さにこの国で巡り会うことは、もう二度とないように私には思えてならない。「ひとつの時代」ではなく、「時代」が終わったと冒頭に記した所以である。




アート | 19:11:15 | トラックバック(0) | コメント(0)
浸透的聴取  Osmotic Listening
 前回更新からまた随分と間が空いてしまったことをお詫びしたい。身内の不幸等もあって公私とも多忙となったことに加え、ある意味「回顧」的な企画であるが故に、新譜レヴューほどは手間がかからないだろうと高をくくって始めたTMFMRの連載が、聴き進めるうちにいろいろと興味深い問題を掘り起こしてしまい、さらにはまるで磁石に引き寄せられるように新たに聴き込むべき魅惑的な音盤をたぐり寄せてしまった結果、こちらも改めて仕切り直し、考え直さないといけない状態になってしまった。(T_T)うぅ
 そうした事情もあって、新譜レヴューの素材は継続して仕込みつつ掲載には至らない状態が続いてしまったのだが、そんな中、ガツンと衝撃を覚えたのは多田雅範の指摘で参照した益子博之のディスク・レヴューである。クロス・レヴューであるのに、他の執筆者から随分遅れての掲載は、後に見るように彼の逡巡を示すものだろう。だが、そうした迷いは彼が他の聴き手よりはるかに深く掘り進めているからにほかならない。私なりの読み方で、そのことを明らかにしてみようと思う。


益子博之が音楽批評サイトcom-postにDerrick Hodge:『Live Today』のディスク・レヴューを執筆している(※)。
※http://com-post.jp/index.php?itemid=817
 やや長めの引用を含んでいることから推察されるように、いささか論旨が入り組んでいるのだが、簡略化すれば次の2つの主張が接合されていると言えるだろう。
 まず彼はこの作品をジャズ・ミュージシャンでなければ創造できない作品として評価している。そうした論旨に沿って抜き書きしてみよう。

 この音楽はジャズ・ミュージシャンでなければ演奏できない、創造できない音楽であるという点で、21世紀のジャズなのだと言い切ってしまいたい。
 綿密に構成された作曲/編曲の中で個々のプレイヤーの演奏には大きな自由度が与えられている。
 更に、曲の進行の中でメンバー間の緻密なインタラクションがリアルタイムで展開される。これこそジャズ・ミュージシャンでなければできない演奏、音楽と言えるだろう。


 ‥‥とここまでの論旨はわかりやすい。彼と多田が開催しているリスニング・イヴェント「四谷音盤茶会」においても、NYジャズ・シーンの先端部分を定点観測しながら、そこで進行する「サウンドスケープ化」という事態の中に彼が見詰めていたのは、決して「サウンドスケープ化」という「モード」の転換ではなく、ミュージシャン間のリアルタイムのインタラクションによる音楽の創造が、より微視的な領域へと戦線を移動させ、触覚を頼りに繰り広げられているという演奏の現場の変容であることに改めて注意を促したい。彼の姿勢は極めて一貫している。
 いささか論旨が輻輳してくるのは、そこに彼が「個性の「濃さ」に纏わる議論」を絡めてくるためだ。彼は高橋健太郎による「ヘッドフォンで歌ものの音楽を聞くと、ヴォーカルは眼前から聞こえるとういよりは、頭蓋骨の中に定位してしまうことが多い。つまり、言葉とメロディーが頭の中で鳴る。あたかも、(**********)という内なる声のように。」との論を引用して、次のように語り始める。やはり論旨に沿って抜き書きしてみよう。

 これはヴォコーダーやオート・チューン、或いはボーカロイドを巡る議論であり、ジャズ・ミュージシャンについて論じたものではない。だが、スピーカーと対峙して音楽を聴くことで音楽家に向き合うような聴取の仕方と、何かをしながらヘッドフォンやイアフォンで行うような聴取の仕方とでは、聴き手が求める音楽の性格に大きな違いが生じることは同様だろう。
 頭蓋骨の中に定位している音楽と、その外側に定位するアンビエンス。前者が例え器楽演奏だったとしても、その演奏やサウンドがあまりに「個性的」であったら、それはあくまで外から聞こえる音であり、共感したり感情移入したり、更には自己投影したり自己同一化したりするには却って邪魔になってしまうことだろう。それに対して、スムーズに耳に入ってくると同時に、その音楽に浸っている自己を周りの他者から差別化できる程度には「個性的」な音楽と、現実の外界から自己を遮断する役割を果たすアンビエンスの組み合わせは、そうした耳にはこの上なく心地良く響くことだろう。


 ‥‥ということは、巷間囁かれる現代ジャズ・ミュージシャンの個性の薄さは、ヘッドフォンによる「内在的」聴取に向けたものだと言うのだろうか。昨今のポップ・ミュージックの大勢として進行する「微温湯化」については、確かにその通りだと思う。それは聴き手の感覚を慰撫し、これに抗うことがない。耳を不意撃ちすることのない、聴覚を眠り込ませるための音楽。「マインド・リゾート・ミュージック」あるいは「セピア・ミュージック」(共に虹釜太郎)。このことは「予定調和」という点において、たとえ見かけは暴力的であっても、その実、揺るぎなく様式化されたラウド・ロックやピュア・ノイズについてもそのまま当てはまる。発見を求めない、浸るためだけの音楽。「ああ、これこれ」と想起のスイッチが入りさえすれば実質終わってしまう、ほんの5秒あれば足りる音楽。だが、益子の耳の追い求める音楽はそうしたものではなかったはずだ。

 そう訝る読み手に「しかし、果たしてジャズが、そしてアートがここまで内向的に、閉鎖的になってしまって良いのだろうか」との転調が示される。ここからレヴューの論旨はさらにわかりにくくなる。と言うのも、レヴューは最終的に「一つ言えることは、デリック・ホッジの音楽はそんな私が聴いても非常に心地良く、強く共感できるものだということだ。」という対象作品への肯定により締めくくられるからだ。
 ここで益子は自身による全く別の作品に関するライナーノーツを引用してみせる。

 この音楽は、あくまで受動的な聴き手という立場に安穏としている限り、落ち着き所がわからないまま、恰も中吊りにされ、置いてけぼりを喰ったかのような感覚を覚えさせかねないものだ。だが、ひとたびプレイヤーの一人として参加し、音楽の行方を積極的に追いかけるような聴き方をするならば、ジェット・コースターや山間のワインディング・ロードを疾走するスポーツ・カーが与えてくれるようなスリルとは本質的に異質な、街中の交通の流れや信号の表示といった状況を的確に察知し、急加速・急減速をすることもなく、スムーズに一定の速度で走行し続けているときのような快感を得ることができる。

 そして、それに続けて次のように述べる。

 私には楽器演奏の経験があり、尚且つヘッドフォンによる音楽聴取をしていないという点で、現代の音楽リスナーとしては特殊な部類に入るだろう。だから、演奏者の一人としての自己を対象の音楽に投影できるのだと言うことは可能だ。とは言え、これは聴き手の態度の問題だと捉えることもできる。自己投影の仕方が受動的なのか、能動的なのか、その違いによって音楽が聴き手にとってどのような価値を持つのかが左右される、能動的に耳を働かせることによって他者に接して自己を開いていくことができるのだと…。

 後段の前半部分、すなわち「私には楽器演奏の経験があり‥‥と言うことは可能だ」の部分は、いささかエクスキューズが過ぎるのではないかと感じてしまう。わざわざ別作品のライナーノーツを引用したのは、明らかにこの主張のための準備作業なのだから、このことが彼の論旨展開の中で一定の重要性を帯びていることが推察される。また彼が演奏体験を特権化することにより、聴取の門戸を閉ざしてしまうのを警戒していることもよくわかる。しかし、彼が重視/注目する「ミュージシャン間のリアルタイムのインタラクションによる音楽の創造」は、決して楽器演奏やアンサンブルの体験がなければ理解できないものではない。むしろ反対に、「より微視的な領域へと戦線を移動させ、触覚を頼りに繰り広げられているという演奏の現場の変容」を捉えることができるのは、楽器演奏やアンサンブルの体験によってかたちづくられた〈音楽耳〉ではなく、初めて泊まる旅館でふと夜半に目覚め、部屋にくすぶる何物か判別し難い奇妙な軋みに、胸騒ぎを覚えながらそばだてられる〈音響耳〉ではないか。楽音の聴取が捨象してしまう音の表面の微かなざらつきや、響きに混じる僅かな匂いを探り当てる鋭敏な耳の「指先」。
 とすれば「能動的」な聴取もまた、音楽の流れを先読みし、アンサンブルの一体性を感じ取ることに限定されはしない。そうした演奏者の思考に聴き手の思考を重ね合わせ、同一化を図ることにより、そこから生み出される音の流れに棹さす「内在的」な聴取に対し、音が自らの外部にあることを当然の前提としながら、言わば聴覚を「ナノ化」して響きの隙間へと浸透させ、複数の表面に同時に触れながらその震えや温度、色彩や輝きを猫のヒゲのように感じ取る「媒介/媒体的」聴取。益子がこともあろうに菊地雅章による「Ensemble Improvisation」の試みに言及しているのは、そうした響きに沁み込むように身を沈める聴き方を念頭に置いているからにほかなるまい。

 「群盲象を撫でる」と言うが、視覚により一望の下に外形/輪郭をとらえるのではなく、その都度限られた範囲の手触りの推移から全体を編み上げること‥‥いやそうではない。触覚はそのように積分されて総体の構築へと至る代わりに、茫漠たる差異の広がりのうちに深みへと引きずり込まれ全景を見失う。不安に掻き立てられた皮膚は、ますますその感覚を鋭敏に研ぎ澄まし、ミクロな差異を際立たせ、不連続な断層に悩まされながら、藁をもすがるように言葉をまさぐり、仮初めに紡ごうと試みては果たせず、いらだちを募らせる。「能動的」聴取とはそのような心細い孤独な探求にほかならない。

 多田雅範が一瞬の耳のまたたきのうちに音を捉え、これと深々と切り結びながら、ぶっきらぼうな断言を繕うことなく放り出し、夢遊病者のようにふらふらと当てのない連想の糸をたどらざるを得ないのも、益子博之がますます深く遠くへと耳の眼差しを届かせながら、そうした聴取の体験をいささかも特権化しようとせず、それどころか音への扉を広く開いたままにし続けようとするのも、未知の響きに不意討ちされた衝撃への切実な、そして極めて倫理的な反応であるように私には思われる。それゆえ彼らの聴取の対象がたとえ未だ耳にしていない音源であっても、ふと漏らされたつぶやきに深く揺さぶられてしまうのだ。





批評/レヴューについて | 23:19:00 | トラックバック(0) | コメント(0)