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福島恵一

Author:福島恵一
プログレを振り出しにフリー・ミュージック、現代音楽、トラッド、古楽、民族音楽など辺境を探求。「アヴァン・ミュージック・ガイド」、「プログレのパースペクティヴ」、「200CDプログレッシヴ・ロック」、「捧げる-灰野敬二の世界」等に執筆。2010年3~6月に音盤レクチャー「耳の枠はずし」(5回)を開催。2014年11月から津田貴司、歸山幸輔とリスニング・イヴェント『松籟夜話』を開催中。

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濃密な錯乱した一夜 − 2013年11月23日「音ほぐし」  A Dense Confusinal Night − 23/11/2013 "Insolidification of Sounds"
 演奏の行われる奥のスペースに入ると、中央にラグが2枚敷かれ、細々とした音具類が整然と並べられている。当初は最前列中央の椅子に座っていたのだが、冒頭の笹島裕樹と津田貴司によるstilllifeの演奏終了後にスペースの「模様替え」をすると聴いて、それならと向かい側の座布団席に移る。スペースの天井を見上げたかったのと、演奏者と同じ目線の高さに自らを置いてみたかったため。
 演奏の始まる前に、立川セプチマでしたのと同様に(というか基本的にはすべてのライヴで行っているのだが)、耳を環境にチューニングする。人の話し声等の「意味」のあるフローのレヴェルから、そこにもともと横たわっているざわめきのレヴェルへと身を沈めていく。椅子の軋み、フローリングの床を歩き回る足音、頭上を通り過ぎていく話し声、咳払いや鼻をすする音、隣室でのやりとり、携帯電話の着信音、空調の動作音‥‥。どうもこの辺が「底」のようで、これ以上潜って行けない。外の虫の声や雨音が聴こえてきたセプチマと異なり、路地の奥に位置した喫茶茶会記では、外を走るクルマの音すら聴こえない。耳の風景が開けきらないもどかしさを抱えて、灯されたキャンドルの炎を見詰めるともなく見詰めていると、眼の前に裸の足が現れる。見上げると笹島も津田も背が高い。セプチマの時も裸足だったかは覚えていない。
 二人がラグ上に胡座をかいて、部屋の照明がすべて落とされる。津田が木製の笛に手を伸ばし、指先が筒に触れただけで音が立ち上がる。セプチマの時より間近で耳への距離が近いだけでなく、前述のように外からの透過音がないためだろう。そうした「意図せざる音」もここでは否応なく演奏の一部に繰り込まれる。
 筒に沿って流れる息。隣室のドアの開閉が空調ノイズに浮き沈みし、津田は息の起伏を通じて、彼方を透かし見ようとする。筒を指先で軽く叩きながら、できるだけ細く息を紡ぐことが目指される。挽かれたコーヒー豆に落とす湯の、細い細い流れを保つ時の感覚が、ふと過る。息が静寂に沁み込んでいく様を眼で追うと、床の軋みに加えて、自分が唾を飲み込む音が浮かび上がる。むら息のぶれが客席の衣ずれと重なり合い、石笛の表面を滑っていく息が、自分の吐息を照らし出していく。
 試験管にそっと吹き込まれる息の丸く暖かい湿り気に、眼には見えないガラスの曇りを感じ取りながら、間を置いて吹き鳴らされる響きの消長に耳を傾けるうち、吹き込まれる息がキャンドルの炎を揺らしていることに気づかされる。笹島もずっとそれを見詰めている。そう言えば彼はさっきから音を出していない。
 巻貝の貝殻を床に転がし、キーホルダーのリングの触れ合いに耳を澄ますうちに、耳を浸し、身を沈め、触発されるべき微かなざわめきのたゆたいがここにはないことに、痛いほどに気づかされる。細く息が紡がれ続けるうちは明らかにならなかった沈黙の「貧しさ」が、息苦しく迫ってくる。皮膚感覚を研ぎ澄まし、耳の風景を開いて、「すでにそこにある響き」を借景としながら、そこに上書きするのではなく、その隙間に音を芽生えさせていく彼らの演奏にとって、そうした「景色」の不在はほとんど致命的な事態にほかなるまい。息には息、打撃には打撃、衝突には‥と、同種の発音原理の応酬から彼らがなかなか踏み出せなかったのも、ここに理由があっただろう。出口のない演奏にいらだちが募るように感じられた。もともと「出口」を求めること自体が、彼らの「即興演奏」には似つかわしくないにもかかわらず。演奏はいよいよ剥き出しとなり、沁み込むべき媒質を欠いて、直接のやりとりとなり、器楽的なタイミングの奪い合いやリズムのやりとりに傾きそうになる。じれた客がもぞもぞと動きだし、客席からノイズが湧き上がる。
 津田が水を満たしたガラス壜を手に取り、コポコポと音を立てる。ここまではこれまでにも見られた音具の選択のひとつに過ぎなかったが、繰り返すうち、何を思ったか手を伸ばし、壜をキャンドルにかざしてみる。柔らかな光の反射に思わず見上げると、天井に光のかげが揺らめいている。笹島がダルシマーの弦をそっと爪弾き、揺らめきに淡い色合いを添える。新たな感覚の通路が開かれ、澱んでいた水が行き場を見出して水位が平静を取り戻し、介在すべき距離、夾雑物となるべき空間、抵抗としての手触りが回復し、あのゆるやかさが帰ってきた。


 スペースの模様替えが終わると、片側にステージが設えられ、赤石拓海が白木のハーディ・ガーディを抱えて壁際に置かれた椅子に座っている。ハンドルを回し、円盤に擦られた弦を震わせると、鍵盤に触れることなく、共鳴弦を直接ピチカートしたり、様々な音具でプリペアドすることにより音色スペクトルの変化をもたらしていく。共鳴と相互干渉が指先と耳の間でコントロールされる。後半は鍵盤を用いての演奏。鍵盤を押し込み揺らすことで弦がたわみ、音に不均質なビブラートがかかる。ドローンを交えた演奏は、バクパイプを連想させた。いずれも弦をミュートしながらノイジーな成分を際立たせるやり方ゆえ、どうしても力は内向きにかかり、音色は明度/彩度を減じてくぐもらせる方向に向かう。録音であれば、この内向きの軋轢を顕微鏡的に拡大して強度へと転じることが可能になるのだが、近接距離の、空間の反響もさして期待できない空間では、ひとりぽつんと佇むに留まり、聴衆の耳に届きにくかったように思う。


 さらに緋の演台が整えられ、西松布咏の唄と三味線。邦楽は雅楽に箏に法竹と器楽系を聴くのがせいぜいで、声は能の謡曲がせいぜい。楽しめるかどうか危ぶまれたのだが、そうした不安は心地よく裏切られることとなった。乱れのない息の流れに支えられて、声がすらりと立ち上がる。こうした舟がまっすぐに水を押していくような息遣いは、優れた声使いに共通のもののように思われる。大工哲郎しかり、観世寿夫しかり、Savina Yannatou、Lena Willemark、Asne Vallandしかり、あるいはMaggie NicolsやTamiaも。ベルカントのように身体の厚みを後ろ盾として、大きく開けた口から声を前に押し出すのではなく、さして口を開かず、身体全体に均等に強度を掛けながら声を身体の軸に沿って垂直に立ち上げ、脳天に響かせて放つ印象。喉や胸に緊張を集中させず、喉を絞めて「声の音色」をつくることをせず、語の分節も副次的なものとして、節は回さず、声をくゆらすだけ。だから小唄や端唄、新内等を「江戸風情」に埋め込まずとも楽しむことができる。三味線のストロークや爪弾きは、こうした声/息の連続性の端を少々めくる程度。三味線の演奏が情景を浮かび上がらせ、歌詞に込められたもうひとつの意味を指差す‥と言われれば、確かにそれはその通りだが、私にとっては江戸情緒を離れてなお、声の立ち居振る舞いを楽しめたことが収穫だった。


 さらに休憩をはさんで席に戻ると、ステージには幾つもの木箱が並んでいる。テーブル上に置かれた横長の木箱には11本の銀色のパイプが立ち並び、手製パイプ・オルガンの本体と思われた。鍵盤はなく、パイプと同数の音栓が並んでいる。その右脇の縦長の木箱は風を送る「ふいご」だろう。本体と「ふいご」を結ぶチューブの中間に床に置かれた木箱が割り込んでいて、半ば空けられた蓋の中を覗くと、奇妙な形をした石が幾つか入っている。「ふいご」を動かすと、この箱の「底」が上下に動くことから、途切れることのない連続した音出しを可能とするためのバッファーと知れる(連続して放水できる水鉄砲の構造を思い出してほしい)。
 藤田陽介は床に置かれた先の木箱に腰を下ろすと、息を荒々しく押し出しては吸い込む呼吸の「ストレッチ」を始めたかと思うと、それがそのまま不可思議なヴォイス・パフォーマンスへと姿を変えていく。呪文を思わせるミニマルな繰り返しが幻惑的に呼吸と交錯し、ほとんどEvan Parker等による循環呼吸×マルチフォニックスを思わせる状態を生み出し、声音やフレーズは時にコルシカの、あるいはグルジアのポリフォニーを経巡り、さらにはホーミー風に倍音領域に攻撃を仕掛ける。そうした民族音楽的な「引用」が、すべてどこか「インチキ」で胡散臭く、「紛い物」っぽいことが、逆に彼の強烈なオリジナリティとなっている。パイプ・オルガンの演奏に取りかかり、音栓をON/OFFしながら、パイプの吹き口を掌でミュートし音色と歪みを操作し、これらにさらにヴォイスをかぶせていくと、ヨーロッパの製陶職人たちが中国陶器の絵柄をサンプリングしてつくりだした、竹に葡萄が生り桜が咲くようなあり得ない世界が花開いていく。3つの小箱をホースで結び、これに電動コンプレッサーで空気を送り込み、それぞれにオルガン本体から取り外したパイプを差し込んで延々と鳴り続けるYoshi Wada的ドローンをかたちづくって、これも吹き口を掌で操作して様々なうなりをつくりだしたかと思えば、ドローンを背景として、この響きの壁に声の絵の具の塊を投げつけ、なすりつけ、大きく削り取る。寺山修司や稲垣足穂、澁澤龍彦、あるいは伊藤若冲のほとんどフェティッシュなまでに傾いた綺想溢れる曼荼羅世界、さらにはレーモン・ルーセル『ロクス・ソルス』やカレル・ゼマンのアニメーション作品を思わせる、マッド・サイエンティスト的な想像力を駆使したパフォーマンスは、くらくらと眩暈がするほどに耳の視点を振り回す、濃密に錯乱した一夜を締めくくるにふさわしいパフォーマンスだった。


 今回のキュレーションは笹島裕樹が担当したとのこと。今後の企画にも期待したい。


「音ほぐし」 2013年11月23日(土)  四谷三丁目綜合藝術茶房喫茶茶会記
 stilllife(笹島裕樹+津田貴司)  赤石拓海  西松布咏  藤田陽介


音ほぐし

stilllifeのセッティング 写真は津田貴司さんのFBから転載しました

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ライヴ/イヴェント・レヴュー | 23:14:26 | トラックバック(0) | コメント(0)
ディスク・レヴュー 2013年6〜10月その2  Disk Review June - October,2013 vol.2
 ディスク・レヴュー第2弾はエレクトロ・アコースティックなインプロヴィゼーションからの7枚。と言いながら、実はコンポジション演奏を多く含み、また、必ずしも編成にエレクトロニクスを含む訳ではない。むしろ、微細な音響に耳をそばだて、沈黙にすでに書き込まれている響きを読み取らずには置かないエレクトロ・アコースティックな音楽美学と、そうした聴取の鋭敏さを演奏に直結させるフリー・インプロヴィゼーションの作法の「十字路」ととらえるべきかもしれない。いずれにしても流動的な仮構に過ぎないが、しかし、そのような視点/区分を導入することにより、これを補助線として初めて見えてくる景色もある。そしてそれらを言葉で解きほぐすことにより明らかになることも。それこそはいま批評が負うべき務めにほかなるまい。


Alvin Lucier / (Amsterdam) Memory Space
Unsounds 37U
MAZE:Anne La Berge(flute,electronics),Dario Calderone(contrabass),Gareth Davis(bass clarinet),Reinier Van Houdt(piano,electronics),Wiek Humans(guitar),Yannis Kyriakides(computer,electronics)
試聴:https://soundcloud.com/maze_music/amsterdam-memory-space-excerpt
 「外へ出て、そこの音の状況を記憶/記録し、それを追加、削除、即興、解釈なしに演奏によって再現せよ」とのAlvin Lucierによる指示に基づく作品。その結果、MAZEの面々による演奏は、おぼろにさざめき、希薄にたゆたいながら、決してアンサンブルの構築を目指すことなく、常に隙間をはらみズレを来たしつつ、精緻に入り組み微妙なバランスを歩むものとなった。これはこの国で一時流行した、「他の演奏者の音を聴かずに小音量で演奏せよ」とか、音の密度をあらかじめ希薄に規定してフレーズ/イディオムの形成を阻み個を全体へと埋没させる均衡化の企みとは、本質的に異なっている。これらは演奏者が互いに聴き合い、無意識に同期を志向してしまう生理を暗黙の前提として、これを指示によって打ち消すことにより、言わば不安定を生成させるものにほかならない。出来上がりの全体イメージを提示することなく、それが演奏者同士の「切り離された関係性」からその都度生成してくる‥というところがミソなのだが、実際には「場の空気を読む」ことに長けた(というより、普段からそれしかしていない)この国の演奏者たちは、「少ない音数で、小音量で‥」とすぐにいつでも使える「模範解答」をパブリック・ドメインとしてすぐに作成/共有してしまい、後はそれをだらだらと読み上げるだけになってしまう。これに対しAlvin Lucierの指示は「外界の音の状況」という目標を、アンサンブルに共通のものとして先に設定しながら、それにより逆にクリナメン的な偏向/散乱を生成させる。演奏者各自がそれぞれある部分に食いつき再現に取り組む時、それによって不足と過剰が明らかにされ、これに対する応答が各演奏者を突き動かし、動的平衡を保ちながらの移動/変遷を余儀なくするとともに、アンサンブルを不断に更新していく。演奏者たちは瞬間ごとの判断を曖昧に生理に委ね、怠惰な空気に身を沈めてしまうことなく、ぴりぴりとした覚醒の下、他の演奏者の意図を探るのではなくサウンドにだけ応ずるため、触覚的な次元に至るまで全身を耳にして歩み続ける。結果としてアンサンブルはエレクトロ・アコースティックなインプロヴィゼーションを行うことになる。だが、それにしても何と鮮やかに核心を射抜いた指示だろう。ここにはエレクトロ・アコースティックなインプロヴィゼーションとフィールドレコーディングを「聴く」ことの体験的同一性が、すでに1970年の時点で見事に言い当てられている。


Antoine Beuger, Jurg Frey / Dedalus
Potlatch P113
Didier Aschour(guitar),
Antoine Beuger(flute),Cyprien Busolini(viola),Jurg Frey(clarinet),Stephane Garin(percussion,vibraphone),Thierry Madiot(trombone)
試聴:http://www.ftarri.com/cdshop/goods/potlatch/p-113.html
   http://www.squidco.com/miva/merchant.mv?Screen=PROD&Store_Code=S&Product_Code=17584
 うっすらともやがかかるような楽器音の浮き沈み、時折高まりを見せる交通騒音、ぼそぼそとした話し声、何かを動かす物音、遠くの人の声、低くくぐもったヴォイスの引き伸ばされた持続。これらの配置/構成を了解しようと視覚的な構図を持ち出せば、話し声や物音、そして外から入ってくる交通騒音が「画面内」の「ライヴ」な音であり、楽器音やヴォイスは後から付けられた「画面外」の音というように仕分けられるだろう。だが実際には、これらの音は一様に距離をはらみ、眼前へと迫ることなく、薄闇の中に沈んでいる。おそらくは自動車のエンジン音と思われる、ごく低い音域の騒音が基底を荒々しく揺さぶることがあっても、その輪郭は明らかではなく、やはり空間に埋もれている。以前に演奏=楽器音が交通騒音に洗われ、激しい雨音に寸断される様を、Derek Bailey&Min Tanaka『Music and Dance』に「空間の侵食」として見たが、ここにあのような暴力性はない。またSteve Lacy『Lapis』には、外の物音と隣の部屋から聴こえてくる古いレコードの余白に、ソプラノ・サックスがかろうじて引っ搔き傷を残す様を見た。だがここには、そうした多重フレームに基づく「はめこみ性」もない。代わりにあるのは「融和」的な「相互浸透」にほかならない。ここではエレクトロニクスはまったく使用されていない。楽器の特殊奏法により電子音と見紛うサウンドが放たれることもない。にもかかわらず、ここでは注意深い抑制と配合により、エレクトロ・アコースティック音楽のひとつの極限と呼びたいほどの混ざりあい、「融和的な相互浸透」が達成されているのだ。すべてのサウンドの明度/彩度を減じて、輪郭を曖昧にしながら薄闇に浮き沈みさせ、距離を撹乱すること。さらに無数の「類似」と「照応」の線を走らせること。たとえば話し声と引き伸ばされたヴォイス、そして遠くの人の声の間に。あるいはヴィブラフォンの引き伸ばされた振動がヴィオラやフルートとゆるやかに交錯しながら、暗がりに滲み溶け広がって、遠くの人の声にうっすらとヴェールをかける様に。Wandelweiserの可能性の核心を示した1枚と言えるだろう。リリースしたPotlatchのオーナーJacques Ogerの慧眼を讃えたい。前回採りあげたJohn Butcher,Thomas Lehn,John Tilbury『Exta』ともぜひ聴き比べて欲しい。


Kunsu Shim / Love
senufo editions senufo edition # thirty eight
Nick Hennies(percussion),Greg Stuart(percussion)
試聴:https://soundcloud.com/nhennies/kunsu-shim-love-excerpt
 冒頭現れる打楽器の連打を聴くと、奏者の1人Nick Henniesによるトライアングルへの正確無比な打撃の連鎖が、吊り橋を落とすような巨大な共振の渦をつくりだしていったAlvin Lucier「Silver Streetcar for the Orchestra」の演奏がふと脳裏をよぎる。しかし、ここで繰り広げられているのは、そうした超絶技巧のマニエリスムではない。様々な音高にチューニングされたタムが、それぞれに異なる速さ、異なる回数、しばらく間を空けて連打される。何事かと耳をそばだてるうちに、そこに口を開いている何物かに思いがけなく引き込まれてしまう。打撃自体はいかにも素っ気ない。例えて言うなら、舞台劇のノックの効果音のようだ。それぞれに異なる方位、異なる深さから聴こえてくる、無数のドアの前に佇む訪問者たち。連打は前述のAlvin Lucier作品のような特異な音響現象を引き起こすことなく、10秒程度の間隔で生じ、あっけなく2〜3秒程で消える。にもかかわらず、そこには「身振り/立ち姿」としての完璧な造形性/完結性がある。音高と音色。打撃の間隔と速度。先の一打がつくりだした振動を次の一打が受け止め、抑制しつつ、新たな振動を生みだしていく間合いとそれらが形成する波紋。残響の固さ/湿度と広がり‥。時折足元から湧き上がってくるグラス・ハーモニカにも似たけぶるような倍音は、空間を遍く冷気で満たすことにより、かえってこれらの打撃の切り離された個別性(オブジェ性と言うべきか)を際立たせる。真上からのピンスポットが、真っ暗な舞台に離れて立つ俳優一人ひとりを浮かび上がらせ、わずか3秒、ほんの一言二言、密やかなモノローグを引き出す。そしてまた暗闇が訪れ、再びわずかな明かりとともにつぶやきが漏らされる。このようにして演じられるカフカ的オラトリオがあるとすれば‥。それは極端に禁欲的かつ濃密ではあるが、いささかも観念的ではない。Wandelweiser楽派の新たな可能性を開く、この韓国出身のコンポーザーに注目。なお、彼はChristian Wolff『Stones』のあの伝説的な演奏にも参加していた。280枚限定。


Ernesto Rodrigues, Ricardo Guerreiro, Christian Wolfarth / All about Mimi
Creative Sources CS240CD
Ernesto Rodrigues(viola),Ricardo Guerreiro(computer),Christian Wolfarth(cymbals)
試聴:http://www.squidco.com/miva/merchant.mv?Screen=PROD&Store_Code=S&Product_Code=17881
 以前にもRadu Malfattiを迎えたトリオで優れた演奏(『Late Summer』※)を聴かせてくれたErnesto RodriguesとRicardo Guerreiroが、新たな共同作業者と共に未曾有の境地を開いた。ここに初期電子音楽に顕著な、いかにも自然界には存在しないという風の、電子音の異質さは微塵も感じられない。にもかかわらずそのアコースティックな響きは、その質量を取り去られて浮遊する希薄さと輪郭を脱ぎ捨てた不定形な流動性を、エレクトロ・アコースティックな音響以上に達成している。それらは触覚に訴えるざらざらした肌理よりもはるかにミクロな水準で作動しており、むしろ受動的な皮膚感覚の鋭敏さに対してアクトする。どこかから忍び込み足元を凍えさせるすきま風。次第に強くなってくる黴の匂い。はるか上方から降りてきて首筋を冷やす湿めり気。月明かりの照り返しに浮かび上がる細かな埃の動き(鼻腔の粘膜はずいぶん前から警告を発していた)。眼を凝らせばそこにヴィオラの乾いたフラジオやシンバルの弓引きの放つ鈍い輝きを認めるみことはできよう。だがそれらは互いに滲み溶け合うばかりか、空間に沁み込んで、暗い群青からコップの水に一滴インクを垂らしたほどのごく薄い藍色へとクロマトグフィックに色合いをかえながら、空間自体の震えと分ち難くひとつになっている。これはむしろFrancisco Lopezが提示する複数の空間の重合的なパースペクティヴに近い。彼らの演奏と比べると、Anders Dahl & Skogen『Rows』(another timbre)における、実際にエレクトロニクスを含んだアンサンブルが自在に形を変えながらありとあらゆる隙間を出入りし微細なタイミングを受け渡していく演奏は、ラヴェル的なオーケストレーションをエレクトロ・アコースティックな次元に引き写した古風なもののように聴こえてしまう。
※以下のレヴューを参照 http://miminowakuhazushi.blog.fc2.com/blog-entry-238.html


stilllife / INDIGO
無番号
Hiroli Sasajima, Takashi Tsuda
試聴:http://www.youtube.com/watch?v=vOal4g0wIh8
 この動画はディスク・レヴュー対象作品の収録トラックではありませんが、参考に掲載しています。
 虫の音が遠く近く何重にも重なりあって、明滅する響きの織物をかたちづくる。それに取り巻かれるうち、耳が、いや身体のチューニングが進んだのか、虫の音は次第に大きく聴こえるようになり、広がりと深さを増している。その中にふと音が浮かぶ。虫の音等が生成するサウンドスケープを「地」として、そこに「図」を上書きしていくのではなく、虫の音の間から顔をのぞかせ、虫の音の傍らに佇む音響。彼らが聴覚のみならず、皮膚感覚や体性感覚を研ぎ澄まし、より深くまで身を沈め、意識を潜らせていることがわかる。再び虫の音が高まり、ぶつかりあいながら、その内側に開けている「ミニ沈黙」を際立たせる。ふと響いた離れたところの人の声に驚くうち、笛の音からたちのぼる倍音がゆらりとくゆらされ、煙草の煙のように中空に移ろい漂い、熱帯雨林の擬音のような軋みが繰り返され、カエルの合唱を引き出す。金属のパイプが打ち合わされるが、まるでふと風に吹かれたようで、「鳴り」が少しもまぶしくない。ふらふらと揺れるモビールを音化したような響き。風景の中に分け入り、それを細やかに変容させていく様は、彼らの真骨頂である。言わば彼らは前掲のErnesto Rodriguesたちに比する水準の演奏を、すでにある響きの広がりを借景としてそこに身を沈めることにより、すなわち「より多く聴き、より少なく音を立てる」ことにより達成しているのだ。


Christoph Schiller / Variations
Another Timbre at63
Christoph Schiller(spinet,objects/amplification,piano)
試聴:http://www.youtube.com/watch?v=e0v9yDHLXFQ
 Michel Doneda, Jonas Kocherとのトリオによる2011年を代表する傑作『///Grape Skin』(Another Timbre)がまだ記憶に新しいChristoph Schillerのソロ作品。彼が主として用いるスピネットは17〜18世紀に特に英国で流行したチェンバロに似た家庭用鍵盤楽器だが、彼はRhodri Daviesがハープに行うのと同様、この楽器の複雑な機構の各部に対してアクトする。弦や共鳴板を(おそらくはe-bow等により)持続的に振動させ、あるいは弦を引き絞り搔き鳴らし、筐体をコツコツと叩く。鍵盤が押さえられることはほとんどない。それはまるで宇宙人がたまたま見つけた不可思議な物体を、「楽器」とは知らずに検査にかけているようだ。これにより彼は響きを徹底的に複合物として、言うなれば複数の異なる機械の作動の結合として提示する。散らかった引き出しの中を掻き回す騒々しい物音を、直接搔き鳴らされる弦のきらめきが横切り、自動織機の端正な反復の傍らで、引き絞られる弦の軋みが電子音に似た甲高い共振を呼んで、息音と聴き紛う響きの持続と並走し、突如割り込んできた鍵盤の打撃に遮られる。運動が止んだ瞬間に開ける空っぽなパースべクティヴ。おそらくはコンタクト・マイクロフォンによる顕微鏡的拡大により、ある振動は巨大な船体の軋みとなって眼前に立ちふさがり、あるいは非常階段を駆け上がる足音となって遠ざかっていく。ピアノにおいては鍵盤からハンマー・アクションを経て響体各部の共鳴へと至る、通常はブラックボックスとして意識されることのない発音機構のプロセスが、ここではそうした入り組み錯綜した景色となって現れてくる。


Coppice / Compound Form
Triple Bath TRB.038
Noe Cuellar & Joseph Kramer(prepared pump organ,tape processer,transmitters,acoustic filters)
試聴:http://www.youtube.com/watch?v=ExrisoqCwew
 前々回の「1982」関連ディスクの紹介でも、ハーモニウムを用いたSigbjorn Apeland『Glossolalia』を採りあげたが、本作の演奏における楽器の取り扱いはさらに解体的であり、もはや一個の楽器としての輪郭を留めないほどにばらばらにされている。「空気の流れによってリードを振動させる」という本来的な発音原理すら、ここでは疑問符を付されて解体の対象とされ、その結果、pump organはある時はレーモン・ルーセル『ロクス・ソルス』に登場しそうな「吐息機械」に、またある時はピストンとシリンダーをギクシャクと不規則に動作させながら自らを破壊していく蒸気機関に、さらには地響きを立てて振動する重工業機械へと変貌を遂げる。前掲のChristoph Schiller『Variations』にはスピネットの各部に聴診器を当てて、内部のざわめきに耳を澄ますようなところがあるが、これに対し本作は脳波計や心電図を見ながら、限界へと向けて身体に取り付けた電極の電圧を上げていく生体実験の残酷さに満ちている。

ディスク・レヴュー | 14:41:00 | トラックバック(0) | コメント(0)
音ほぐし@四谷三丁目綜合藝術茶房喫茶茶記/20131123
 この週末は、このライヴに出かける予定。会場は四半期ごとの四谷音盤茶会=TADA-MASUに通う喫茶茶会記。意欲的なブッキングが目立つ点で、いまやライヴハウス以上の重要スポットとなっている。

 このライヴのことを知ったのは、近々ニュー・アルバムのリリースが予定されている津田貴司/hofliから届いたお知らせで、笹島裕樹とのデュオstilllifeで出演するとある。茶会記のライヴ・スペースは、決して高くはない天井、ステージ部分と段差なくつながり、照明に柔らかく照らし出される客席のあり方、落ち着いた内装や調度品により、あたかも友人の家のリヴィングに招かれて演奏を楽しむ風情がある(通常ライヴハウスにありがちなコンクリート打ち放し&配管剥き出しの仕様とは一線を画している)。部屋の音響特性も決して響きすぎず、話し声がごく自然に聞こえる。こうした居心地の良い、極めて「室内」的な空間に、「外」の音に耳を澄ますstilllifeの演奏がどう響くか、とても興味を惹かれるところだ。なお、立川セプチマのライヴで入手した、彼らが制作中のアルバムからの「先行シングル」については、近日中にディスク・レヴューを掲載したい。

 笹島がプログラムしたという他の出演者も関心をそそる。ハーディ・ガーディ奏者である赤石拓海については、凝った装釘の第1作をブログでレヴューしたし(※)、藤田陽介は何より「手製のパイプ・オルガン」という概念自体がとても刺激的だ。彼のブログに掲載されている写真も、寺山修司の映像を思わせる神話的な想像喚起力に満ちている。
 ※http://miminowakuhazushi.blog.fc2.com/blog-entry-223.html

   



 以下にFacebookのイヴェント案内から一部転載しておく。前回企画ではmori-shigeこと森重靖宗が、久方ぶりにソロでチェロとピアノを演奏したと言う。とまれ常に要注目のイヴェント・シリーズである。


日時:2013年11月23日(土)19時より
料金:2,000円(軽食・ドリンク代込)
会場:喫茶茶会記(四谷三丁目)

出演:
西松布咏

藤田陽介

赤石拓海

stilllife

軽食(フィンガーフード ベジタリアンOK):
杉田志保


出演者紹介:
西松布咏
邦楽家、西松流家元
6歳より長唄、三味線の手ほどきをうけ小唄・富本節・端唄・俗曲・新内・作詞作曲を修行1981年地唄の名人といわれた西松文一師に見出され地唄の修行を始める。
90年布咏の名で西松流を継承、地唄舞の地方として舞台で活躍する傍ら古典邦楽の普及に努め、各地で「江戸情緒の夕べ」を展開。海外においても精力的に活動しアメリカ、ヨーロッパ、アジアの各国で好評を博している。
http://www17.ocn.ne.jp/~misa5/index3/profl_2.html

藤田陽介
音楽家
2009年、空想を具現化した完全自作のパイプオルガンを製作。自作楽器「11's Moon Organ」(和名/管鳴-くだなり-)である。ふいごからパイプまで全てを一人で作り上げたそのオルガンは、その構造や演奏方法の全てが特異であり、鍵盤すら持たない。この世に一台限り実在する空想楽器である。
http://fujita-yosuke.moo.jp/index.html

赤石拓海
ハーディガーディ奏者
弦楽器ハーディガーディの演奏。
2012年1stLP「music for hurdy gurdy」を制作
http://www.art-into-life.com/product/2250
2013年オムニバスLP「音のエスペランサ」に参加
http://hakanairorecords.web.fc2.com/
近日、2作目の作品がカセットテープにてリリース予定。

stilllife
非楽器・非即興・非アンサンブルという抑制の果てに立ち現れる、気配と静謐のフラグメント。フィールドレコーディングに基づく活動をしてきたサウンドアーティスト、津田貴司と笹島裕樹が2013年に立ち上げたユニット「スティルライフ」。彼らの描く土のフォークロアは、音が音楽になる瞬間・音楽が音に還ってゆく瞬間を往還し、おととみみのあいだ・聴くことと奏でることのあいだの水際をたゆたう。
https://www.facebook.com/photo.php?v=10200791630970411


音ほぐし(冷泉 淳/依藤貴大/笹島裕樹)





ライヴ/イヴェント告知 | 21:59:07 | トラックバック(0) | コメント(0)
ディスク・レヴュー 2013年6~10月 その1  Disk Review June - October 2013 vol.1
 すみません。長らくお待たせいたしました。新譜ディスク・レヴュー再開第1回は、器楽的インプロヴィゼーションからの7枚。もっとも「器楽的」と言いながら、ほとんどの作品がエレクトロ・アコースティックな領域へと大胆に踏み込んでいて、その「侵犯の力学」ゆえに、より深みへと達している観もあります。いずれにせよ、前回同様5か月分からの選りに選った7枚なので、作品のレヴェルの高さは保証します。それではどうぞ。

【重要なお知らせ】
 DTIブログの終了に伴い、この新ブログに引っ越してまいりました。12月17日以降、旧DTIブログ「耳の枠はずし」は消滅してしまいます。お手数ですが、「お気に入り」等の変更をお願いします。

  新 : http://miminowakuhazushi.blog.fc2.com/ (このブログです)

  旧 : http://miminowakuhazushi.dtiblog.com/

 今後、新たな記事のアップはこの新ブログで行っていく予定です。なお、新ブログには旧ブログの過去記事ごと引越ししています。旧ブログの記事は2013年12月17日以降見られなくなりますのでご注意ください。

 新ブログには引越ししたばかりで、わからないことだらけです。ご不便をおかけするかと思いますが、改善を心がけますのでよろしくお願いします。

 振り返ればもともとは、吉祥寺Sound Cafe dzumiでの連続音盤レクチャー「耳の枠はずし」の告知用に急遽作成したブログでした。その後も「ブログ」を謳っている割には長い記事ばっかりで、更新もたびたび滞り、いろいろとご迷惑をおかけしました。

 この新ブログに引越ししても、基本的な路線は変わりません。なかなかメディアで採りあげられることのないフリー・インプロヴィゼーション、フィールドレコーディング、民族音楽、現代音楽、トラッド等の「マイナー音楽」を、美術、映画、演劇、建築等、他領域を横断しながら取り扱っていきたいと思います。よろしくお願いします。



John Butcher, Thomas Lehn, John Tilbury / Exta
Fataka Fataka 7
John Butcher(saxophones), Thomas Lehn(synthesizers), John Tilbury(piano)
試聴:https://soundcloud.com/fataka/exta
 さまざまな様相で現れる「間」を生きること。一目でサキソフォン、あるいはピアノとわかる楽器音。痛いほどに手触りを触発して止まない物音。空間が凝るように析出しまた空間へと溶解していく電子音の持続。思わずそばだてられる耳に、ざらざら/ぶつぶつと顕微鏡的に拡大された肌理をさらし、視界いっぱいに投影される亀裂や断層に満ちた音の表面。希薄にたちのぼってあたりを満たし、揺すぶられて濃淡の波紋を描く倍音。沈黙に沁み込みながらクロマトグラフィックに色合いを変え、交錯し混じり合う響き。プリペアドや特殊タンギングによって楽器音の領域を踏み外し、深淵へとこぼれ落ちていく音の群れ。合わせ鏡のように、それらの間に走る無数の線が、それらを区分けすることの無意味さを明らかにしている。ほとんどシュルレアリスティックな仕方で眼前と彼方が結びつけられ、遠近はまるで霜降り肉のように複雑に入り組み、パースペクティヴ性はその機能の停止を余儀なくされる。「図」と「地」の区分は消滅し、空間と響きがひとつになって、「音響」としか呼びようのないものが生々しく露呈する。「ここ」と「あそこ」としか名指しようのない地点で起こる「出来事」の間に、緊密な照応の線が走り、それらが蜘蛛の巣のように縦横に張り巡らされていることに気づいてしまえば、世界の生成/運動の原理があからさまに剥き出しにされている感覚に、ひとり恐れおののくよりほかにない。ここで演奏は、カヴァーに掲げられる臓物写真のように、ぎらつく脂肪のぬめりや鼻をつく粘膜の臭気を、薄暗いモノクロームな静寂の底に沈ませ、耳の視線から覆い隠している。本作の一望を拒み要約に抗う「掴みにくさ/言い表し難さ」が、ディスク・レヴュー執筆を長期に渡り停滞させていたことを白状しよう。傑作。


Lol Coxhill & Michel Doneda / Sitting on Your Stairs
Emanem 5028
Lol Coxhill(soprano saxophone), Michel Doneda(soprano saxophone)
試聴:http://subradar.no/album/lol-coxhill-michel-doneda/sitting-your-stairs
 2012年7月10日に死去したLol Coxhill(※)の生前最後の録音(2012年2月3日)は、Les Instants ChaviresにおけるMichel Donedaとのソプラノ・デュオとなった。基本となる音域をはじめ、楽器が同じであるがゆえに、互いの奏法の選択やヴォイスそれ自体の差異が際立つ。いささか癖のあるにょろにょろとした筆跡で、紙面にすらすらとペンを走らせるCoxhillに対し、Donedaは紙の表面を穿ち、繊維の間へと音の身体を滲ませる。その結果として、このデュオにおける二人の立ち位置は、Coxhillが前面に出てソロを取り、Donedaが先達に敬意を表して一歩退き、バッキングに回ってこれを支えているように見えるかもしれない。だがそれは見かけ上のことに過ぎない。Donedaは一見「地」と見える部分を泡立たせ揺り動かし押し流して、演奏の拠って立つ基盤自体に熱く息を吹き込み、そこから地霊のようにたちのぼり、噴出する。そうしたDonedaの肩先越しにCoxhillを眺めれば、ちょうどプールの底から水面でもがく足先を見上げるように、一見飄々と我が道を歩むCoxhillが、この地平の揺らぎ/液状化を鋭敏に察知して、これに懸命の応戦を図る様が看て取れるだろう。実際、演奏が進むにつれ、両者の位相は次第に接近し、ついにはほとんど重なり合い、コンパクトに圧縮された領域で、より緊密かつ流動的にプレーが進められるようになっていく。
※以下の追悼記事を参照。http://miminowakuhazushi.dtiblog.com/blog-entry-177.html


Mary Lattimore / The Withdrawing Room
Desire Path Recordings PATHWAY006
Mary Lattimore(harp,looper), Jeff Zeigler(korg mono/poly only on tr.1)
試聴:http://www.desirepathrecordings.com/releases/mary-lattimore-the-withdrawing-room/
 本作のジャケットを飾る窓からの眺めは、いかにも素人臭い素朴派風の筆触にもかかわらず、静物画とも風景画ともつかず、窓辺に並べられた不可思議なオブジェ群を眺めるうちに、線がはらはらと散り落ち、色彩が風に吹かれて剥がれ、次第に何物ともつかぬ茫漠たる広がりへと変貌を遂げていく。
 典雅なハープの爪弾きの足下でとぐろを巻き腐敗していく獣のうなりや反復する機械の動作音。鬱蒼と暗く深い森に潜み、うごめき、鳴き交わすものたち(それらの響きには窓の外から聞こえてくるような違和感がある)。やがて視界は闇に沈み、ハープの音色は微かな瞬きへと遠のいて、流動質の不定形な広がりに覆われていく。だが、月が傾き、それらの暗い雲が薄らぐと、オルゴールにも似たつぶやきがぼんやりと浮かび上がり、前景と後景がゆっくりと交替していく。
 あるいは立ち上がる端から水にふやけたセロファンのように、揺らめき、輪郭を震わせ、空間に滲んでいく響き。繰り返しは決して律儀に積み重なることなく、しつけ糸を解かれたごとく形を失い、はらりはらりと散り溶けていく。後には響きだけが残り、文字通り「残響」のたゆたいだけがいつまでも耳の浜辺を洗い続け、やがてきりもみするような空間の蠕動へと至る。
 触覚的な音響の粘土細工と器楽的な展開の間、あるいは素材の提示に続く音響操作と構築のための一連の動作である演奏の間、両者の中間にゆらゆらと漂い、どちらにもたどり着くことのない強靭な意志の在りよう。


Ilia Belorukov / Tomsk,2012 04 20[Live]
Intonema INT005 / Akt-Produkt AP10
Ilia Belorukov(alto saxophon,preparations,recording,mixing,mastering)
試聴:http://www.youtube.com/watch?v=fahALuhgB0Y
 管を鳴らさぬ「息音」と微かな軋みだけによる演奏は昨今の流行というべきものだが、単に流行に乗って繰り広げられるだけの演奏は、奏法の選択の時点で、もうすでにして自分は何事かを達成し得たと思い込んでしまうためか、ただそれだけに終始しがちである。そこにのんべんだらりと横たわっているのは、このところマスコミを賑わしている「食材虚偽表示」と共通する「素材主義」にほかなるまい。そこでは一皿の料理はせいぜい素材と産地の足し算に過ぎない。1987年生まれというから、すでに開発済みの語法として「息音」を学んだであろう彼は、そうした「選択」の段階にとどまってはいない。彼は風景が色彩を失ってモノクロームに凍り付くほどに疾走する速度を追求し、響きは音色も音階も脱ぎ捨てて吹きさらしの「息音」へと至る。あるいはLucio Capeceの如く管を弓弾きする工作機械音にも似た反復に、細く張り詰めた息をしみこませる。時に息は管が張り裂けんばかりに吹き込まれ、けたたましく鳴り響き、迸り駆け巡る。その姿は私に1973年の阿部薫の音を思い出させた。ここには決して手の届かぬ遠い彼方への憧れはなく、代わりに冷ややかに突き放した熱中があるのだが。


河崎純 / biologia
Kamekichi Records kame6-701w
河崎純(contrabass)
試聴:http://www.e-onkyo.com/music/album/kam0034/
 何と充実した響きであることか。甘くしなやかな中低域の弦の震え。糸を引く高音のフラジオ。暗い深淵へと沈み込み、船底をかいくぐって、再び浮かび上がる最低音のアルコ。弦を灼き切り責め苛む激しい繰り返し。ソロ・インプロヴィゼーション特有の、瞬間瞬間に目映く輝き、その都度その都度燃え尽きながら、強度の尾根を伝ううちに運動/速度へと自らを研ぎ澄まし純化していくあり方とはきっぱりと異なり、彼は息を長く保ち、誰よりも遠くまで視線を放ちながら、「作曲的」としか言いようのない射程の長さで音の軌跡をとらえようとする。深くえぐるような弾き込み具合、駒の高さによる豊かな倍音とさわり、プリペアドによるノイジーな散乱、「無伴奏」を掲げながら無造作に導入される呼び子や韓国打楽器‥‥ここには彼の師である斎藤徹との共通点を幾つも指摘することができる。どこか内にこもったつぶやきは独白めいた自らへの語りかけであり、安定した息遣いは「バッハ的」ともいうべき、叙情性を豊かにたたえながらも垂直に切り立った響きを可能としている。そうした響きをごく自然な佇まいのうちにとらえた録音も素晴らしい。


Razen + Razen featuring Andrew Lies / Rope House Temper
Kraak K0079
Brecht Ameel(santur,bombos,bouzouki,keys,bass,lamellophone,bass drum,voice), Kim Delcour(bagpipes,shawm,recorders,voice), Pieter Lenaerts(double bass), Suchet Malhotra(tabla,percussion), Paul Garriau(hurdy gurdy), Andrew Lies(extra instrumentation,mix&edits)
試聴:http://www.meditations.jp/index.php?main_page=product_music_info&products_id=11939
http://www.art-into-life.com/product/3032
 甲高い笛の音と駆け抜けるタブラによるエスニックなアンサンブルをよそに、低域の律動はぐにゃぐにゃに歪み、背景には電子の影がちらつく。以降も民族音楽基調のアコースティック・アンサンブルと暴力的に歪みぼろぼろに腐食したエレクトロニクスが分ち難く結びつけられ、空間を異様な色合いと不穏にざわめいた手触りに染め上げ、足元をぐらつかせる。本来は広大な空間へと解き放たれ、拡散/希薄化を通じて、波動的な秩序をかたちづくっていくはずの豊穣な倍音が、ここではエレクトロニクスにより強迫的に圧縮/変形され、サウンドの本体を切り刻み変容させるものとなっている。それゆえハーディ・ガーディの喉を掻きむしるような持続音は、その倍音を自らへとフィードバックされ、空間を息苦しく閉ざすとともに、パイプ・オルガンにも似た崇高な響きへと変貌させられている。フィールドレコーディングによる環境音/バックグラウンド・ノイズを用いることなく、楽器と音響操作だけで、これほどまでに空間を埋め尽くし、隅々まで閉塞をみなぎらせた偏執狂ぶりには脱帽せざるを得ない。一見、器楽的な演奏を前面に押し立てながら、彼らの本領はシュルレアリスム的というにはあまりに禍々しく錯綜した、鬱血や糜爛、潰瘍にも似た病理学的結合にある。Andrew Liesの参加ゆえに、それをNWW的と呼べばいいのだろうか。


Bill Orcutt / A History of Every One
Editions Mego eMEGO 173
Bill Orcutt(guitar)
試聴:https://soundcloud.com/editionsmego/bill-orcutt-zip-a-dee-doo-dah
   http://www.youtube.com/watch?v=zgeGyhGUZ-k
 激烈なアタックが弦を急襲する。響きは一瞬のうちに砕け散り弾け飛んで、破片が空間に思い思いの軌跡を描く。その軌跡を辿り、余韻をたどり直して、そこに「ブルース」の色濃い面影を発見することは確かに可能だ。だが、このギター・ホールに鼻先を突っ込むような、極端な近接地点からの聴取による、にわかには全貌をとらえようもない「事故」を、苦労して後から再構成し、結局は「ブルース」の棚にしまい込まねばならぬいわれはない。それよりもむしろ、事件の現場により深く立ち入って、歪んだ弦の震えや引き攣った胴鳴り、思い切りクラッシュした響きの爆発に耳をなぶらせ、身体を刺し貫かれるままにしておこう。その時、Bill Orcuttの姿は、たとえばDerek BaileyとJohn Faheyの間にふと浮上してくることになる。演奏中、ほぼ途切れることなく漏らされ続けるうなり声も、感極まってというより、ふやけたうわ言のように響く。ブチッと無造作に断ち切られる録音もまたここにはふさわしい。

ディスク・レヴュー | 16:43:50 | トラックバック(0) | コメント(0)
1982 / 奥行きの戦略  1982 / Strategy of Depth
 先日、立川セプチマにおいて素晴らしいライヴを聴かせてくれた、ノルウェーから来日のトリオ「1982」について、ディスク・レヴューをお届けする。当日、会場で買い求めた中には、ECMからリリースされたNils Oklandのソロ作『Monograph』や彼とSigbjorn Apelandのデュオによる『Hommage A Ole Bull』、あるいはやはりNils Oklandが参加したノルウェー伝承曲集『Abel En Norveg』等もあるのだが、美しさの果てに昇り詰めるようなNils Oklandによるヴァイオリンの響き(あるいはこれに添えられるSigbjorn Apelandの奏でるピアノの滑らかなきらめき)の素晴らしさを認めながらも、三人三様の仕方でクロマトグラフィックに空間に浸透し、空間そのものとなって震え揺らめきながら、同時にカタカタと眼前を横切って空間の奥行きをつくりだす「1982」の確信犯的手口に深く魅了されてしまう。
 というわけで、「1982」の全作品3枚をまとめて紹介したい。



1982 + BJ Cole / 1982 + BJ Cole
Hubro CD2522
Nils Okland(hardinger fiddle,violin), BJ Cole(pedal steel), Sigbjorn Apeland(harmonium,wuritzer), Oyvind Skarbo(drums)
試聴:https://soundcloud.com/hubro/01-09-03
   http://www.amazon.com/1982-BJ-Cole/dp/B009LUE93E
 耳の視界を何か茫漠とした影のようなものが覆い横切って、しばらくするうちにそれがBJ Coleの奏でるペダル・スティールの揺らめきだと気づく。ハルモニウムがカタカタと古めかしいメカニズムを軋ませ、ヴァイオリンがゆっくりと旋律を口ずさみ始めると、ペダル・スティールはますますうっすらと希薄化し、エーテルのようにさざめく。山裾を取り巻いていた霧がゆるゆると湧き上がり斜面を昇っていく大きな流れ/揺らめきと、カチカチコトコトと細密な象眼を施すようなミクロな響きが共存し、「図」と「地」が常に緩やかに交替していくのが彼らのサウンドの真骨頂だ。寄せては返し重なり合い移り行く響きの流れと、その手前を横切るちっぽけな物音。それは必ずしも楽器ごとに配分されているわけではない。ヴァイオリンの香り立つ豊かな倍音の広がりとネック上の微かなスクラッチ。空間へと沁み込み空気自体が震えているようにしか感じられないハルモニウムの持続音と鍵盤やペダルのメカニカルなノイズ。ドラムの緩めた打面の響きの深さとブラシに擦られたざわめき。眼の中に音もなく広がる暗がりから次第に熱気を増して、ブルージーなロック・サウンドでうなりを上げるペダル・スティール。2011年録音の現在のところ最新作。


1982 / Pintura
Hubro CD2510
Nils Okland(hardinger fiddle,violin), Sigbjorn Apeland(harmonium,wuritzer), Oyvind Skarbo(drums)
試聴:https://soundcloud.com/experimedia/1982-pintura-album-preview-mp3
 ゆっくりと明るさが増していくにつれ、モノクロームな静寂が次第にざわめき始め、ゆるやかに暖色に染まっていく。少し離れた舞台の奥の方で、天窓からの明かりに照らし出されたヴァイオリンが、弦の豊かな響きをたちのぼらせている。その手前でハーモニウムの響きが、陽炎のように揺らぎながらヴァイオリンのきらめきにうっすらと紗をかける。さらにその手前でカタカタと乾いた物音が転がり、眼前を横切る。彼らのアンサンブルは常にこうした空間構成の奥行きと共にある。据えっぱなしのキャメラに映し出される揺らめく雲の流れ、強さを増しやがて陰っていく陽射し、濃さを変じながら一度短くなり再び長く伸びていく影の移ろい。ヴァイオリンのゆるやかな繰り返しを「図」としながら、「地」をかたちづくるハーモニウムとパーカッションは、微妙に配合を変えながら、足下をさらさらと掘り崩していく。2010年録音のトリオ2作目。


Sigbjorn Apeland, Oyvind Skarbo, Nils Okland / 1982
NORCD NORLP0985
Sigbjorn Apeland(harmonium), Oyvind Skarbo(drums), Nils Okland(hardinger fiddle,violin)
試聴:http://www.amazon.co.uk/Øyvind-Skarbø-Økland-Sigbjørn-Apeland/dp/B0028GFYW8
 トリオとしての記念すべき第1作(2008年録音)。ここではまだ「1982」はタイトルに過ぎず、アーティスト名は3者の連名となっている。次作ですでに確立される独特の空間構成の整合性はまだなく、一聴、即興演奏性が強く感じられるが、肌理や手触りを感じさせる艶消しのくぐもった音色を時間をかけて空気に沁み込ませていくハルモニウム、ブラシやミュートを多用し定型のビートを叩かず時間を細分化しながらやはり触覚に訴えるドラムス、少し離れたところで冷ややかな倍音をゆったりと巡らせるヴァイオリン‥‥といった個性はすでに出来上がっている。LPのB面を占める長尺の曲における、厚いカーテン越しに射し込む淡い月の光の下で繰り広げられる、もう長く済む人もない部屋で埃除けの布カヴァーをかぶせられた家具たちのつぶやきにも似た、密やかな交感が素晴らしい。


 「1982」のスター・プレイヤーというかフロント・マンは明らかにNils Oklandなのだが、にもかかわらず彼らの「奥行きの戦略」の核心を担っているのはSigbjorn Apelandにほかならない。彼は「1982」での主要楽器であるハルモニウムに子ども時代から親しみながら、その後、ピアノとチャーチ・オルガンを学び、演奏者としてのキャリアを積んでいく。改めてハルモニウムの可能性を見出したのは、最近になってからだという。
 ハルモニウムを音響発生装置として再発見し、持続音がせめぎ合うドローンをかたちづくりながら、楽器各部の共振/共鳴の不均衡やそれにより生じる軋み等を介して、音響に豊かな「傷跡」をはらませていくやり方を、たとえば以前にディスク・レヴュー(*)で採りあげたFavrice Favriou『Phases』(Creative Sources)に見ることができる。
*http://miminowakuhazushi.dtiblog.com/blog-entry-197.html
 それは例えばRohdri Daviesがハープの弦を爪弾きながら、即興的にこれをプリペアドし、弦に挿入された素材のみならず、ハープという複雑な音響構造体の不均質な細部に眼を凝らし、さらにはそうした各部に直接e-bowを押し当て、振動とこれに付随する各部の共振の干渉状態をつくりだしていくことと比較できるかもしれない。
 だが、Sigbjorn Apelandの、あるいは「1982」の戦略はまた異なる。Favrice Favriou やRohdri Daviesがまるで検査技師のように細部の反応を確かめ、せめぎ合う諸力がかたちづくる束の間の平衡を切り替え結びつけていく点で「モンタージュ型」とするならば、奥に揺らめく広がりを必ず手前で物音が横切っていくSigbjorn Apelandや「1982」は「ディープ・フォーカス型」と言えよう。
 ここで注意しておかなければならないのは、インプロヴィゼーションのみならず、通常、音楽の提示される空間はライヴの演奏空間を前提としてイメージされ、また、受容されていることだ。アクースマティック・ミュージック作品の上演において、マルチ・チャンネル・スピーカーを駆使して様々な音場操作を行ったとしても、コンサート・ホール自体の空間の連続性/一様性が変化する訳ではない。こうした遠近法的構図に基づき構築された三次元音場は、もとより奥行きの次元を有しており、オーケストラのホルンはヴァイオリンの奥から聴こえてくる。だから、奥行きを持つ三次元空間は言わば当然のことと見なされがちだ。しかし、「1982」が用いる奥行きは、むしろ「重なり」によってもたらされる。
 響きが提示され、それに覆い隠されながらもその向こうにぼうっとした曖昧な揺らぎが浮かび上がる。持続する最初の響きに、流れる雲のように影を落としながら別の響きがと通り過ぎる。さらにそのずっと手前、眼前をちっぽけな物音たちが逆方向から足早に横切る。小津安次郎はトレードマークのロー・アングルにより畳の目を消し去り(ピエロ・デラ・フランチェスカからフェルメールに至るまで、床面の市松模様の推移は遠近法の要だった)、代わって開けられた襖や障子の縁と鴨居や欄間のかたちづくるフレームの重ね合わせにより奥行きをつくりだしていた。それと同じ「順序構造」としての奥行きを彼らは取り扱う。
 そうした空間構成がジャズやフリー・インプロヴィゼーションにおいて用いられることはほとんどないように思う。自らのランゲージの確立/検証過程でパンニングやフレーム・イン、フレーム・アウトを多用していた1970年代半ばのDerek Baileyも、奥行き方向に対しては積極的に取り組んでいない。例外としてArt Ensemble ChicagoやAnthony BraxtonのBYGレーベルへのパリ録音(たとえば『Jackson in Your House』や『Anthony Braxton Trio』)、Steve Lacy『Lapis』(Saravah)等が思い浮かぶ。そこにBrigitte Fontaineの初期作品(Saravah)を媒介項として加えれば、レコーディング・エンジニアDaniel Vallancienの名がまるであぶり出しのように浮かび上がってくる。
  



Sigbjorn Apeland / Glossolalia
Hubro CD2503
Sigbjorn Apeland(harmonium)
試聴:http://www.amazon.com/Glossolalia-Sigbjorn-Apeland/dp/B004Q1DFLK
 ソロのためか、引き伸ばされた一音の中でもつれあう息の震えに耳を澄ます感じが薄れ、複数の音を敷き重ね、ON/OFFしてみせるようなレイヤー操作が前面に出てきてしまうのだが、それでも遠近を意識しながら音を重ね、さらに鍵盤やペダルの軋み、胴のうなり、おはじきを振り撒くような、あるいはネズミが走り回るようなミクロな物音を手前に配し、その隔たりの間にさらに音を浮かび上がらせるなど、彼ならではの「奥行きの戦略」を存分に看て取ることができる。動きを抑え息の深い3曲目、さらに平坦さを志向し、深みを覗き込む視線を水面に移ろう波紋が掠める4曲目、親密な思い出の淵にゆっくりと沈み込みながら、物音を遠く見詰める5曲目と後半が素晴らしい。




ディスク・レヴュー | 22:31:20 | トラックバック(0) | コメント(0)

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