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福島恵一

Author:福島恵一
プログレを振り出しにフリー・ミュージック、現代音楽、トラッド、古楽、民族音楽など辺境を探求。「アヴァン・ミュージック・ガイド」、「プログレのパースペクティヴ」、「200CDプログレッシヴ・ロック」、「捧げる-灰野敬二の世界」等に執筆。2010年3~6月に音盤レクチャー「耳の枠はずし」(5回)を開催。2014年11月から津田貴司、歸山幸輔とリスニング・イヴェント『松籟夜話』を開催中。

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ディスク・レヴュー 2013年6~10月 その1  Disk Review June - October 2013 vol.1
 すみません。長らくお待たせいたしました。新譜ディスク・レヴュー再開第1回は、器楽的インプロヴィゼーションからの7枚。もっとも「器楽的」と言いながら、ほとんどの作品がエレクトロ・アコースティックな領域へと大胆に踏み込んでいて、その「侵犯の力学」ゆえに、より深みへと達している観もあります。いずれにせよ、前回同様5か月分からの選りに選った7枚なので、作品のレヴェルの高さは保証します。それではどうぞ。

【重要なお知らせ】
 DTIブログの終了に伴い、この新ブログに引っ越してまいりました。12月17日以降、旧DTIブログ「耳の枠はずし」は消滅してしまいます。お手数ですが、「お気に入り」等の変更をお願いします。

  新 : http://miminowakuhazushi.blog.fc2.com/ (このブログです)

  旧 : http://miminowakuhazushi.dtiblog.com/

 今後、新たな記事のアップはこの新ブログで行っていく予定です。なお、新ブログには旧ブログの過去記事ごと引越ししています。旧ブログの記事は2013年12月17日以降見られなくなりますのでご注意ください。

 新ブログには引越ししたばかりで、わからないことだらけです。ご不便をおかけするかと思いますが、改善を心がけますのでよろしくお願いします。

 振り返ればもともとは、吉祥寺Sound Cafe dzumiでの連続音盤レクチャー「耳の枠はずし」の告知用に急遽作成したブログでした。その後も「ブログ」を謳っている割には長い記事ばっかりで、更新もたびたび滞り、いろいろとご迷惑をおかけしました。

 この新ブログに引越ししても、基本的な路線は変わりません。なかなかメディアで採りあげられることのないフリー・インプロヴィゼーション、フィールドレコーディング、民族音楽、現代音楽、トラッド等の「マイナー音楽」を、美術、映画、演劇、建築等、他領域を横断しながら取り扱っていきたいと思います。よろしくお願いします。



John Butcher, Thomas Lehn, John Tilbury / Exta
Fataka Fataka 7
John Butcher(saxophones), Thomas Lehn(synthesizers), John Tilbury(piano)
試聴:https://soundcloud.com/fataka/exta
 さまざまな様相で現れる「間」を生きること。一目でサキソフォン、あるいはピアノとわかる楽器音。痛いほどに手触りを触発して止まない物音。空間が凝るように析出しまた空間へと溶解していく電子音の持続。思わずそばだてられる耳に、ざらざら/ぶつぶつと顕微鏡的に拡大された肌理をさらし、視界いっぱいに投影される亀裂や断層に満ちた音の表面。希薄にたちのぼってあたりを満たし、揺すぶられて濃淡の波紋を描く倍音。沈黙に沁み込みながらクロマトグラフィックに色合いを変え、交錯し混じり合う響き。プリペアドや特殊タンギングによって楽器音の領域を踏み外し、深淵へとこぼれ落ちていく音の群れ。合わせ鏡のように、それらの間に走る無数の線が、それらを区分けすることの無意味さを明らかにしている。ほとんどシュルレアリスティックな仕方で眼前と彼方が結びつけられ、遠近はまるで霜降り肉のように複雑に入り組み、パースペクティヴ性はその機能の停止を余儀なくされる。「図」と「地」の区分は消滅し、空間と響きがひとつになって、「音響」としか呼びようのないものが生々しく露呈する。「ここ」と「あそこ」としか名指しようのない地点で起こる「出来事」の間に、緊密な照応の線が走り、それらが蜘蛛の巣のように縦横に張り巡らされていることに気づいてしまえば、世界の生成/運動の原理があからさまに剥き出しにされている感覚に、ひとり恐れおののくよりほかにない。ここで演奏は、カヴァーに掲げられる臓物写真のように、ぎらつく脂肪のぬめりや鼻をつく粘膜の臭気を、薄暗いモノクロームな静寂の底に沈ませ、耳の視線から覆い隠している。本作の一望を拒み要約に抗う「掴みにくさ/言い表し難さ」が、ディスク・レヴュー執筆を長期に渡り停滞させていたことを白状しよう。傑作。


Lol Coxhill & Michel Doneda / Sitting on Your Stairs
Emanem 5028
Lol Coxhill(soprano saxophone), Michel Doneda(soprano saxophone)
試聴:http://subradar.no/album/lol-coxhill-michel-doneda/sitting-your-stairs
 2012年7月10日に死去したLol Coxhill(※)の生前最後の録音(2012年2月3日)は、Les Instants ChaviresにおけるMichel Donedaとのソプラノ・デュオとなった。基本となる音域をはじめ、楽器が同じであるがゆえに、互いの奏法の選択やヴォイスそれ自体の差異が際立つ。いささか癖のあるにょろにょろとした筆跡で、紙面にすらすらとペンを走らせるCoxhillに対し、Donedaは紙の表面を穿ち、繊維の間へと音の身体を滲ませる。その結果として、このデュオにおける二人の立ち位置は、Coxhillが前面に出てソロを取り、Donedaが先達に敬意を表して一歩退き、バッキングに回ってこれを支えているように見えるかもしれない。だがそれは見かけ上のことに過ぎない。Donedaは一見「地」と見える部分を泡立たせ揺り動かし押し流して、演奏の拠って立つ基盤自体に熱く息を吹き込み、そこから地霊のようにたちのぼり、噴出する。そうしたDonedaの肩先越しにCoxhillを眺めれば、ちょうどプールの底から水面でもがく足先を見上げるように、一見飄々と我が道を歩むCoxhillが、この地平の揺らぎ/液状化を鋭敏に察知して、これに懸命の応戦を図る様が看て取れるだろう。実際、演奏が進むにつれ、両者の位相は次第に接近し、ついにはほとんど重なり合い、コンパクトに圧縮された領域で、より緊密かつ流動的にプレーが進められるようになっていく。
※以下の追悼記事を参照。http://miminowakuhazushi.dtiblog.com/blog-entry-177.html


Mary Lattimore / The Withdrawing Room
Desire Path Recordings PATHWAY006
Mary Lattimore(harp,looper), Jeff Zeigler(korg mono/poly only on tr.1)
試聴:http://www.desirepathrecordings.com/releases/mary-lattimore-the-withdrawing-room/
 本作のジャケットを飾る窓からの眺めは、いかにも素人臭い素朴派風の筆触にもかかわらず、静物画とも風景画ともつかず、窓辺に並べられた不可思議なオブジェ群を眺めるうちに、線がはらはらと散り落ち、色彩が風に吹かれて剥がれ、次第に何物ともつかぬ茫漠たる広がりへと変貌を遂げていく。
 典雅なハープの爪弾きの足下でとぐろを巻き腐敗していく獣のうなりや反復する機械の動作音。鬱蒼と暗く深い森に潜み、うごめき、鳴き交わすものたち(それらの響きには窓の外から聞こえてくるような違和感がある)。やがて視界は闇に沈み、ハープの音色は微かな瞬きへと遠のいて、流動質の不定形な広がりに覆われていく。だが、月が傾き、それらの暗い雲が薄らぐと、オルゴールにも似たつぶやきがぼんやりと浮かび上がり、前景と後景がゆっくりと交替していく。
 あるいは立ち上がる端から水にふやけたセロファンのように、揺らめき、輪郭を震わせ、空間に滲んでいく響き。繰り返しは決して律儀に積み重なることなく、しつけ糸を解かれたごとく形を失い、はらりはらりと散り溶けていく。後には響きだけが残り、文字通り「残響」のたゆたいだけがいつまでも耳の浜辺を洗い続け、やがてきりもみするような空間の蠕動へと至る。
 触覚的な音響の粘土細工と器楽的な展開の間、あるいは素材の提示に続く音響操作と構築のための一連の動作である演奏の間、両者の中間にゆらゆらと漂い、どちらにもたどり着くことのない強靭な意志の在りよう。


Ilia Belorukov / Tomsk,2012 04 20[Live]
Intonema INT005 / Akt-Produkt AP10
Ilia Belorukov(alto saxophon,preparations,recording,mixing,mastering)
試聴:http://www.youtube.com/watch?v=fahALuhgB0Y
 管を鳴らさぬ「息音」と微かな軋みだけによる演奏は昨今の流行というべきものだが、単に流行に乗って繰り広げられるだけの演奏は、奏法の選択の時点で、もうすでにして自分は何事かを達成し得たと思い込んでしまうためか、ただそれだけに終始しがちである。そこにのんべんだらりと横たわっているのは、このところマスコミを賑わしている「食材虚偽表示」と共通する「素材主義」にほかなるまい。そこでは一皿の料理はせいぜい素材と産地の足し算に過ぎない。1987年生まれというから、すでに開発済みの語法として「息音」を学んだであろう彼は、そうした「選択」の段階にとどまってはいない。彼は風景が色彩を失ってモノクロームに凍り付くほどに疾走する速度を追求し、響きは音色も音階も脱ぎ捨てて吹きさらしの「息音」へと至る。あるいはLucio Capeceの如く管を弓弾きする工作機械音にも似た反復に、細く張り詰めた息をしみこませる。時に息は管が張り裂けんばかりに吹き込まれ、けたたましく鳴り響き、迸り駆け巡る。その姿は私に1973年の阿部薫の音を思い出させた。ここには決して手の届かぬ遠い彼方への憧れはなく、代わりに冷ややかに突き放した熱中があるのだが。


河崎純 / biologia
Kamekichi Records kame6-701w
河崎純(contrabass)
試聴:http://www.e-onkyo.com/music/album/kam0034/
 何と充実した響きであることか。甘くしなやかな中低域の弦の震え。糸を引く高音のフラジオ。暗い深淵へと沈み込み、船底をかいくぐって、再び浮かび上がる最低音のアルコ。弦を灼き切り責め苛む激しい繰り返し。ソロ・インプロヴィゼーション特有の、瞬間瞬間に目映く輝き、その都度その都度燃え尽きながら、強度の尾根を伝ううちに運動/速度へと自らを研ぎ澄まし純化していくあり方とはきっぱりと異なり、彼は息を長く保ち、誰よりも遠くまで視線を放ちながら、「作曲的」としか言いようのない射程の長さで音の軌跡をとらえようとする。深くえぐるような弾き込み具合、駒の高さによる豊かな倍音とさわり、プリペアドによるノイジーな散乱、「無伴奏」を掲げながら無造作に導入される呼び子や韓国打楽器‥‥ここには彼の師である斎藤徹との共通点を幾つも指摘することができる。どこか内にこもったつぶやきは独白めいた自らへの語りかけであり、安定した息遣いは「バッハ的」ともいうべき、叙情性を豊かにたたえながらも垂直に切り立った響きを可能としている。そうした響きをごく自然な佇まいのうちにとらえた録音も素晴らしい。


Razen + Razen featuring Andrew Lies / Rope House Temper
Kraak K0079
Brecht Ameel(santur,bombos,bouzouki,keys,bass,lamellophone,bass drum,voice), Kim Delcour(bagpipes,shawm,recorders,voice), Pieter Lenaerts(double bass), Suchet Malhotra(tabla,percussion), Paul Garriau(hurdy gurdy), Andrew Lies(extra instrumentation,mix&edits)
試聴:http://www.meditations.jp/index.php?main_page=product_music_info&products_id=11939
http://www.art-into-life.com/product/3032
 甲高い笛の音と駆け抜けるタブラによるエスニックなアンサンブルをよそに、低域の律動はぐにゃぐにゃに歪み、背景には電子の影がちらつく。以降も民族音楽基調のアコースティック・アンサンブルと暴力的に歪みぼろぼろに腐食したエレクトロニクスが分ち難く結びつけられ、空間を異様な色合いと不穏にざわめいた手触りに染め上げ、足元をぐらつかせる。本来は広大な空間へと解き放たれ、拡散/希薄化を通じて、波動的な秩序をかたちづくっていくはずの豊穣な倍音が、ここではエレクトロニクスにより強迫的に圧縮/変形され、サウンドの本体を切り刻み変容させるものとなっている。それゆえハーディ・ガーディの喉を掻きむしるような持続音は、その倍音を自らへとフィードバックされ、空間を息苦しく閉ざすとともに、パイプ・オルガンにも似た崇高な響きへと変貌させられている。フィールドレコーディングによる環境音/バックグラウンド・ノイズを用いることなく、楽器と音響操作だけで、これほどまでに空間を埋め尽くし、隅々まで閉塞をみなぎらせた偏執狂ぶりには脱帽せざるを得ない。一見、器楽的な演奏を前面に押し立てながら、彼らの本領はシュルレアリスム的というにはあまりに禍々しく錯綜した、鬱血や糜爛、潰瘍にも似た病理学的結合にある。Andrew Liesの参加ゆえに、それをNWW的と呼べばいいのだろうか。


Bill Orcutt / A History of Every One
Editions Mego eMEGO 173
Bill Orcutt(guitar)
試聴:https://soundcloud.com/editionsmego/bill-orcutt-zip-a-dee-doo-dah
   http://www.youtube.com/watch?v=zgeGyhGUZ-k
 激烈なアタックが弦を急襲する。響きは一瞬のうちに砕け散り弾け飛んで、破片が空間に思い思いの軌跡を描く。その軌跡を辿り、余韻をたどり直して、そこに「ブルース」の色濃い面影を発見することは確かに可能だ。だが、このギター・ホールに鼻先を突っ込むような、極端な近接地点からの聴取による、にわかには全貌をとらえようもない「事故」を、苦労して後から再構成し、結局は「ブルース」の棚にしまい込まねばならぬいわれはない。それよりもむしろ、事件の現場により深く立ち入って、歪んだ弦の震えや引き攣った胴鳴り、思い切りクラッシュした響きの爆発に耳をなぶらせ、身体を刺し貫かれるままにしておこう。その時、Bill Orcuttの姿は、たとえばDerek BaileyとJohn Faheyの間にふと浮上してくることになる。演奏中、ほぼ途切れることなく漏らされ続けるうなり声も、感極まってというより、ふやけたうわ言のように響く。ブチッと無造作に断ち切られる録音もまたここにはふさわしい。

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ディスク・レヴュー | 16:43:50 | トラックバック(0) | コメント(0)