fc2ブログ
 
■プロフィール

福島恵一

Author:福島恵一
プログレを振り出しにフリー・ミュージック、現代音楽、トラッド、古楽、民族音楽など辺境を探求。「アヴァン・ミュージック・ガイド」、「プログレのパースペクティヴ」、「200CDプログレッシヴ・ロック」、「捧げる-灰野敬二の世界」等に執筆。2010年3~6月に音盤レクチャー「耳の枠はずし」(5回)を開催。2014年11月から津田貴司、歸山幸輔とリスニング・イヴェント『松籟夜話』を開催中。

■最新記事
■最新コメント
■最新トラックバック

■月別アーカイブ
■カテゴリ
■リンク
■検索フォーム

■RSSリンクの表示
■リンク
■ブロとも申請フォーム
■QRコード

QR

2013年ポップ・ミュージック ディスク・レヴュー その2  Disk Review for Pop Music 2013 vol.2
 前回のアンサンブル編に続く第2回はソング編。‥‥と言いながら今回で終わるはずもなく、来年1月もまだまだ続きます。


Silvia Perez Cruz / 11 De Novembre
Universal 0602537012985
Silvia Perez Cruz(vocal,guitar,spanish guitar,piano,accordion,saxophone,clarinet,sounds,others),violin,viola,cello,contrabass,horn,trumpet,cor anglais,mandolin,flamenco guitar,slide guitar,percussion,backing vocals,voice
試聴:http://elsurrecords.com/2012/08/02/silvia-perez-cruz-11-de-novembre/
 Benat AchiaryやSavina Yannatouのように声を身体の奥深くから汲み上げる歌い手が好きだ。そこで声の源泉はさらに深く伝統の水脈とつながっていて、一方、モダンな抽象化を経ることにより声は自在な飛翔力を手に入れる。彼/彼女たちのような声の喫水の深さは彼女にはない。彼女にとって伝統は決して運命的に背負う/戦うべき何物かではなく、年寄りの集まる年期の入ったカフェや、屋根裏部屋で見つけた昔の映画のサントラのEP盤やお婆さんが娘時代にしていたショールのような、自分が新たに発見し価値づけた「お気に入り」なのだろう。だからここで声は深さよりも軽さを志向し、朝の光の中に羽ばたく。もちろん伝統は彼女の血に流れ込んでいるが、それはすでに日常の中で他の異文化と混ざり合っている。彼女の声はまるで小鳥のようにそれらの枝々を飛び回り、美しい尾羽根を閃かす。枝を渡るたびに眺めが変わるので、さらりとした歌い回しにもかかわらず、編曲は思いがけず入り組んだものとなっていて(突然「ムーン・リヴァー」が扉をノックする)、それがまた彼女の声の身軽さを引き立てている(決して「ミクスチャーのためのミクスチャー」ではない)。素晴らしい。


Irma Osno, Shin Sasakubo / アヤクーチョの雨
Chichibu Label / Beans Records Chichibu-002
Irma Osno(vocal,percussiones),Shin Sasakubo(classic guitar,acoustic guitar,12 strings guitar,charango,chinlili,percussion,vocal),Maki Fujiwara(drums),Noritaka Yamaguchi(bass,electronica)
試聴:http://www.reconquista.biz/SHOP/CHICHIBU002.html
 以前にライヴをレヴューした(※)ペルー音楽の探究者笹久保伸とその妻イルマ・オスノによるペルー南部山岳地域に位置するアヤクーチョの民謡を題材としたデュオ(ゲストの参加は13曲中2曲に留まる)。一聴、天真爛漫、天衣無縫に飛び回るヴォイスの「野生」に圧倒されてしまう。「魅惑的」などという悠長なものではなく端的に言って「怖い」。ふだん聴き慣れている西洋音楽的な格子にはまらず、フリー・インプロヴィゼーションの枠組みにも従うことのない、声の身体の生な噴出/奔流に思わず後ずさりしてしまう。そこをぐっと踏み堪えて耳を開いて凝視すれば、声とギター(や打楽器類)が実に多様な関係性を取り結んでいることが、次第に明らかになってくる。音盤に添えられた解説には「このアルバムで、Irma Osnoはアンデスで歌われる歌をそのまま歌い、笹久保伸は表面的な意味での"アンデス・ギター奏法"にとらわれることなく、自由に演奏することを心がけた。いわゆる『共演』というよりは同じ場所でそれぞれが別々の響きを創るように録音された。」と書かれている。それは嘘ではない。しかし、決して行き当たりばったりに創りあげられた作品でもない。声が迸らせる匂いにぴりりとスパイシーな打弦で拮抗する一方で、多重録音により切り立ったエッジで綱渡りする声をガイドし、その場にそそり立つエナジーを滔々たる流れへと導く(持てる技量を総動員して)。もし本作から溢れ出す声の力の圧倒的な「まぶしさ」に「耳が眩む」ならば、ぜひギターの傍らに耳を置き、ギターの響きのシェード越しに聴いてみることをお勧めしたい。


Tibet: Les Chants De L'exil - Songs From Exile
Buda Musique 3731687
試聴:http://www.ahora-tyo.com/detail/item.php?iid=12352
   http://www.meditations.jp/index.php?main_page=product_music_info&products_id=11271
   http://www.youtube.com/watch?v=fKZGt8dx-QQ
 インドはラダック地方に暮らす亡命チベット人たちの音楽。生活の場面に溢れる掛け声がそのまま歌を生み、演奏もまた風の響きや家畜の鳴き声、移動の足音が織り成す音風景の一部として溶けていってしまう。この渾然一体とした分ち難い豊穣さは、同時にロングやアップを切り替えながら「ドキュメンタリー番組」を制作するクルーのキャメラ・ワークが浮かんでくるほどあざといまでに構成的であるのだが、そうした押し付けがましい「ヒューマニズム/良心」に向けた警戒心を最大限に発揮してもなお、本作の素晴らしさを認めないわけにはいかない。音楽は実に豊かで、演奏も見事過ぎるほどに見事で、これほどの音楽が日常生活の中に埋め込まれているとは俄には信じ難く、また、録音もやたらに鮮明で風によるマイクロフォンの「吹かれ」のような暗騒音も皆無。笛の息遣いを鮮明にとらえる足元には水の流れが涼やかに響きを立て、向こうには鳥が遊ぶ。その水の流れを連続させたまま、演奏はすっと女性たちの合唱の不揃いであるが故の豊かさへと引き継がれる。この水の流れの連続性は、この風景がスタジオで事後的に構築されたものであることを明らかにしている。本作の素晴らしさをぜひ多くの方に聴いていただきたい。と同時にフィールドレコーディング作品が世界をそのままに写し取るものではないことを、改めて強調しておきたい。


Eric Marchand / Ukronia
Innacor Records INNA41215
Eric Marchand(vocal),Florian Baron(oud),Benjamin Bedouin(cornets a bouquin),Phillipe Foulon(lyra viols),Phillipe Le Corf(violin),Pierre Rigopoulos(zarb,daf,davul)
試聴:http://www.reconquista.biz/SHOP/AD2141C.html
 いつも向かい風に立ち向かって進む、甲高く鼻にかかったEric Marchandの声は、ブリトン・トラッドの領域をはるかに越境し、ウードやタブラと共演し、バルカン音楽とすら親密な(だが緊張に満ちた)エールを交わしてきた。ここでは古楽アンサンブルとの共同作業を進めているのだが、「バロック・ブルトン音楽」の試みとして説明されるそれは、通常のバロック音楽がイメージさせる「安逸さ」とは、全く別の方角へと旅立っている。何よりも彼の張り詰めた声が、他の楽器のラインをも際立たせ、倍音をふんだんに香らせる。その結果アンサンブルは、各種の木の実や穀粒をふんだんに含み粒立ちに満ちた多様な歯触りと香味の小爆発で、口中のありとあらゆる部分を同時多発的に愉しませるものとなった。対位法をかたちづくる各ラインは異なる色合いで織り成され、さらには一連のフレーズやリズム・パターンを構成する各音もまた、それぞれに異なる方向へと弾け飛ぶ。異質の速度と色彩が自在に駆け抜ける音響編制体は、一見典雅な見かけのうちに、細長い棒の先で揺らめきながら回転する大皿小皿の集合体という危機に溢れた内実を隠している。



Unni Lovlid / Lux
Heilo HCD 7271
Unni Lovlid(folk singing),Hakon Thelin(double bass),Randi-Merete Roset(glass),Liv-Jorun Bergset(glass)
試聴:http://www.youtube.com/watch?v=WFzKb0okg1A
   ※音盤収録の音源ではありませんが参考に掲げておきます。録音が適切ではないため、彼女たち独特の冷ややかさが薄れ、妙に騒がしく聴こえてしまうことを、あらかじめお断りしておきます。
 クレジットを見ての通り、声とコントラバスとグラス・ハーモニカという破天荒な楽器編成に驚くが、決して奇を衒ったものではなく、聴けばその説得力に深く頷くこと請け合い。北欧トラッド特有のいささかの弛みもなく凛と張り詰めた声の強度と、弦を軋み震わせ轟々と鳴り響かせるコントラバスの音圧が、吐く息が白く見えるほど冷えきった空間において緊密に渡り合う。その間には稲光にも似た緊張の線が何本も走り、ますます響きを研ぎ澄ましながら、両者はさらに深く硬く鋭く空間を彫り刻んでいく。やはりピンと冷たく張り詰めたクリスタル・グラスの縁を撫でる指先が、たゆたう倍音の霧を醸し出し、静かに明けていく東の空の明るみがいよいよ冷たさを増した石造りの床に照り映え、はるか高い天井に届こうとしている。石畳から薄白くたちのぼる冷気を思わせるグラスの響きは、時にコントラバスの高音のフラジオとひとつながりに溶け合って中空にたなびく一方で、声やコントラバスを離れ、ひとり静謐さに沁み込む際の音色はより柔らかく、まるでポルタティフ・オルガンのように響く。別の視点からすれば、ゆるやかにうねるドローンと硬く張り詰めた巫女の声という徹底的に絞り込まれた古代祭儀的な響きに、アルコにしろピツィカートにしろ多彩な超絶技巧を駆使しながら、常にさわりを多く含んで覚醒とトランスを誘う点において、やはり古代の祭具を思わせるコントラバスという神話的アンサンブルが、大地の豊穣と再生を祈願する。


Seval / 2
482 MUSIC 482-1082
Sofia Jernberg(voice),Fred Lonberg-Holm(cello),David Stackenas(guitar),Emit Strandberg(trumpet),Patric Thorman(bass)
試聴:http://www.482music.com/albums/482-1082.html
 「シカゴ音響派」時代のJim O'Rourke等との共演も多いFred Lonberg-Holmを中心としたアンサンブル。以前に中谷達也(perc)との素晴らしいデュオ・ライヴをレヴューした(※)スウェーデン出身のDavid Stackenasの参加が眼を惹く。とは言え演奏内容は、嵐のようなインプロヴィゼーションではなくて、子鹿が跳ね回るように可憐なSofiaのヴォーカルを中心とした繊細極まりないポップ・ミュージック。彼女も時にワードレスのヴォーカリゼーションを見せるし、チェロやトランペット、ギターのソロやアンサンブルのためのスペースも充分設けられているのだが、決して曲の世界観を逸脱することなく、むしろ細部を綿密に描き込むことによって、そして不安定な揺らぎや視点のズレをはらませることによって、アンサンブルの全体を立体的に浮かび上がらせていく感じ。ドラムスを外して縦の並びを揃えないことにより、各自のヴォイスがそれぞれに異なる速度で、ゆるゆるとあるいはするすると自由に空間を行き交う。
※http://miminowakuhazushi.blog.fc2.com/blog-entry-92.html


Jackie Oates / Lullabies
ECC Records ECC009
Jackie Oates(vocals,5 string viola),Berinda O'Hooley(piano),Chris Sarjeant(guitar),Barnie Morse-Brown(cello),
試聴:http://jackieoates.bandcamp.com/album/lullabies
   http://elsurrecords.com/2013/04/20/jackie-oates-lullabies/
 「うた」あるいは「声」の集成とは思えないほど、キリキリとテンションが張り詰めた今回のセレクションの中で、唯一、暖かく柔らかなベッドを用意してくれるのが本作。彼女の声が本来的に備えている豊かな包容力に加え、さらりときらめくピアノ、静かに足元から満ちてくる弦、ささやくような息遣いをとらえた録音等、世の中の慌ただしい喧噪を遠ざけるための心細やかな配慮に満ちている。題名通り、次第に重たくなっていく目蓋の向こうへ、おぼろに遠ざかっていく甘やかな肌触り。

 本作のジャケット内側に描かれた飾らないペン画もまた愛らしい。その画像がないかとウェブで検索していると、なぜか見覚えのある懐かしい画像にたくさん行き当たり、不思議に思って調べると奈良pastel records(※)の掲載画像でした。本作を薦めていたので、同じページに記された作品名がピックアップされて、他の掲載画像も集まってきたのでしょう。
 以前にお知らせしたように、同店は本年末(本日)をもって「閉店」し、CD販売業務を一時休止してしまいます。店主寺田氏の独自の耳の在処が内側から光を放つ得難いお店でした。ということで、本作のレヴューを勝手にpastel recordsに捧げたいと思います。「子守唄」とは来るべき目覚めに向けて、眠りの川へ舟を送る歌ということで。
 お疲れさまでした。また出会える日を楽しみにしています。
※http://blog.livedoor.jp/marth853/

スポンサーサイト



ディスク・レヴュー | 15:48:27 | トラックバック(0) | コメント(0)
分厚い窓ガラスの向こうで音も無く凍りついた世界 − NHK−BS「井上陽水ドキュメント『氷の世界40年』」を見て  He Saw the Frozen World in the other side of Thick Window Glass without Sounds − "Document of Yousui Inoue / 40 Years from ‘Icy World’" Broadcasted by NHK-BS
 多田雅範に教えられて、NHK−BS「井上陽水ドキュメント『氷の世界40年』」を見た。NHK−BSではスタジオ・ライヴを含んだ井上陽水の番組をよく制作・放映していて、結構見ている。CDは買ってないので。あーバンドに今堀恒雄が入ってるとか、西田佐知子「コーヒー・ルンバ」をカヴァーしてるとか、みんな一連の番組で知った。Youtubeで公開されている音源を追うと、繰り返し歌われる代表曲が、バンドの編成やアレンジメントの変更により、次々と新しい扉を開いていることにぞくぞくする。再演というよりはセルフ・カヴァー。だから先の一連の番組で陽水の曲をカヴァーさせられる歌い手たちは、みな醜態を晒すことを余儀なくされる。それにしても町田康はひどかったな。もっとも、そのことは歌っている町田自身が一番鋭く感じていたに違いなく、「早く終わりにしてくれ」というぼやきオーラを画面いっぱいに放って、消え入りそうにしていたっけ。

 レコード会社の倉庫で見つかった16chマスター・テープの聴取や当時のスタッフへの聞き取り等を通じて初のミリオン・アルバムとなった井上陽水『氷の世界』を、40年後の現時点において検証するとの企画は、幾つもの興味深い発見をもたらしてくれた。
 「心もよう」と「帰れない二人」を巡るプロデューサー多賀英典と、より若い団塊世代(後で調べると5歳違いだが、この5年の差は大きい)の陽水はじめミュージシャン、スタッフの価値観/判断の対立。マルチトラック・テープが明らかにする様々なサウンド上の仕掛けや影響関係(特にエレキ・チェンバロやコーラスのファンキーな使用やメロトロンの導入)。「心もよう」の歌詞が曲題を含め何度も書き直され、原型を留めていないこと。冒頭の「開かずの踏切」が陽水の作詞作曲作品に対する編曲者星勝による再作曲であること。ウェスト・コーストとファンキーとプログレと歌謡曲の不思議な相互作用。
 65歳を迎えた陽水の歌声には初めて逃れることのできない「老い」を感じることになったが、それでも『氷の世界』でギターを担当した西田裕美の少しも弾まない(弾ませる気など微塵もない)カッティングに対し、口元で、あるいは舌先で声を一瞬弄び押しとどめ、あるいはすっと背中を押してフライングさせて、歌を息づかせる彼独特の「魔法」は健在。

 インタヴュー音源のみの登場となったプロデューサー多賀英典の発言の「パンク」な芯の強さはとても印象的だった。彼がいなかったら『氷の世界』は無かったし、あのような怪物的なアルバムにはなっていなかっただろう。アーティストたち(谷村新司やなかにし礼、小室等、みうらじゅん、リリー・フランキー等)の指摘がそれぞれ限られた視角に立ちながらもそれなりに納得できる者だったのに対し、言わば「評論家」役の伊集院静と中沢新一は無惨だった。伊集院は最初からどうしようもないにしても(そもそも彼になんて頼むのが悪い)、中沢のオイルショックと3.11を区切りとした歴史論も、結局、歌詞を解釈して、アルバムが売れたという社会的動向と結びつけているだけに過ぎない。彼らの言葉は『氷の世界』に詰め込まれた音に擦り傷ひとつ付けることができない。ましてや切り裂くことも突き刺すことも。埃まみれの付箋紙に書き込まれた言葉は、指差す先に貼付けられてもそこに留まることができず、すぐに剥がれ落ちて床の上のゴミとなる。
 そう言えば「音楽評論家」はひとりも出演していなかったな。伊集院や中沢がその代わりであり、彼らより説得的に「社会現象としての『氷の世界』」を語り得る者はいないというのがきっと番組制作者のメッセージなのだろう。「作家」や「学者」に比べ、社会的地位においても知名度においても劣ると言われればそれまでだけど。おそらくは番組制作者も「音に突き刺さる言葉」のイメージなんて持ち得ていないのだろう。彼らにとって言葉はあくまでレコードの解説のように音に「添えられる」ものでしかない。邦楽国内盤にライナーが付いていないのは、音は音盤に入っていて「聴けばわかる」と考えられているからだ。TVでも音は流すので「聴いてもらえばわかる」と。音楽雑誌は音が出ないから、わざわざ音を言葉で説明しているのだと。

 竹田賢一は『地表に蠢く音楽ども』(月曜社)所収の「Hearing Force of Records' Universe」で、ディスク・レヴューとは音楽産業による一面的な聴き方の押し付けに対抗する別の聴き方の提案であり、読者との相互批判的共同作業に向けて開かれていくべきものであると述べている。まったくその通りだ。音に向けて放たれる言葉は、その音の事前の不充分な予告/解説であるにとどまらない。それは音を聴くことに影響し、それを触発するだけでなく、聴いた音の「咀嚼」や「消化」にも影響し、そこに変容を及ぼす。それゆえに「聴き方」の提案なのであり、音を聴くことによって代償され尽くしてしまうものではない。ディスク・レヴューが「お買い物ガイド」としてしか書かれず、また読まれていない現状にもかかわらず。

 何より井上陽水自身がそうした言葉の極めて優れた遣い手/実践者にほかならない。彼が当代随一の歌い手であるのは、決して美声の持ち主であるからだけではない。
 冒頭に述べたように、彼はサウンド/演奏により曲を歌い変えていく。それは単にテンポやキーを変更したり、シンコペーションを効かせたりするといったレヴェルではない。彼はサウンド/演奏の起伏や肌理を触知し、自在に言葉のタイミングを操る。それも語よりもさらにミクロな単位で。それが先ほど「魔法」として描写した仕方である。エヴァン・パーカーが循環呼吸とマルチフォニックスを操るのと同様に、陽水も口腔の筋肉や粘膜を総動員して(彼ほど忙しく頬を膨らませたりひしゃげさせたり、あるいは長過ぎる舌を掻き回す歌い手はいない)、声を砕き、息を切り分けて細分化し、母音の変容を、子音の立ち上がりを、音素と強弱の配分をコントロールする。その場で即興的に。
 むしろ声の楽器的な用法と言うべき(無論それだけにとどまるものではないことは強調しておかなければならないが)ヴォイス・インプロヴィゼーションを別にすれば、即興的な歌い手としてすぐに浮かぶのは、先頃死去したLou Reedだろうか。「この男には、歌詞を何も用意せずにステージに上るや、その場で歌詞を作りながら、幾らでも歌ってみせるという、天性のソングライターとでも言うべき才能が備わっていたのだ」(大里俊晴)。だが陽水の行っていることは、サウンドの斜面を声により自在に滑走することではない。彼は歌うたびに、曲を詩を改めて書き直しているのだ。先に見たような量子化されたミクロな領域で。それにより光の射し込む隙間の位置や幅が変わり、入射角が異なって、反射や拡散が違うものとなり、全く別の世界が立ち現れる。だからこそコメントの対象となるべきテクストは先に確定している必要がある。コメントを書き入れるべき余白を空け、文脈の紐帯を緩め、語の意味合いを多義的に散種させて。その時、彼の作品世界は、姿の見えないリンゴ売りとテレビが放射するあり得ない色彩、断頭台の隣で催される「指切り」の儀式と身動きできず舞台でもがくコメディアンが、触覚だけでなく、視覚/聴覚/味覚/嗅覚/体性感覚、いや思考や想起や妄想等、様々な質の「寒さ」の中ですれ違うカーニヴァル/メニッペア的な多次元空間となる。これを批評と言わずして何と言おう。

 井上陽水の批評感覚の根底には、どうしようもない「距離」が横たわっているように感じられる。もちろんあらゆる批評的営為は対象化のための距離を必要とするが、そうした「切り離し」よりも、むしろ「切り離され」といった受苦的な感覚がそこにはあるように思われる。それを「疎外」と言ってしまってはあまりに喪失的色合いが強くなってしまう。むしろ解離的とか、離人症的なものと言えばいいだろうか。いま自分がいるはずの場所から自分が切り離され、隔離されている感覚。端的に言えばそれは音の無い世界だ。世界に充満するざわめきを切除することで世界は透明さを増し、くっきりと輪郭を際立たせながら、しかし手を触れ得ない彼方へと遠ざかる。自分が世界に包まれ浸され、その場所に埋め込まれている感じが一挙に奪い去られる。分厚い窓ガラスの向こうに広がる静謐に凍りついた世界。そこにある動きはどんなにスプラスティックに騒々しくても、無声映画のように冷ややかに乾き切っている。
 以前の番組で、確か陽水が中学生時代に書いた歌詞に曲が付けられた作品が紹介され、その世界があまりにもその後の彼の作品世界とまっすぐつながっていることに「陽水は子ども時代からすでにして彼自身だったのか」と驚かされた覚えがある。そこでは分厚いガラス窓で廊下と仕切られた教室の中の世界が「水族館のよう」と表されていた。

 いま手元にないので正確な引用ができないのだが、武満徹は確か最初の著作『音、沈黙と測りあえるほどに』に収録された文章で、訪れた炭坑労働者住宅の廃墟を描写しながら、音楽家が戦うべき敵として「死の沈黙」を名指していた。強い風に壁が揺すられ、ぱだんぱだんと扉が開閉する音を聴きながら、彼はそこに人間の生活する音が無いことを深く悲しみ、怒りをたぎらせていた。「沈黙」に耳を傾け、身体を深々と浸し、肌で慈しむ「美しい日本の作曲家」のイメージが強かっただけに、その激しい怒りを意外に感じたことを覚えている。同じ本の中で武満は、瀧口修三たちが集う画廊の地下フロアに立ちこめる濃密にして優雅な「沈黙」についても(当然のことながら肯定的に)書いていた。前者の怒りを若さゆえの教条主義的な社会正義志向と切り捨てることはできない。死の直前に記した『サイレント・ガーデン − 滞院報告・キャロティンの祭典 − 』で彼は、「病室には生活音が無い。例えばペットの鳴き声、水道の皿を洗う音、遠くの子供の声 etc.」とぽつりとつぶやき、『沈黙の庭』Silent Gardenに向けた構想ノートに「真昼の庭は沈黙している。世界を拒むように」と書き付けている。知らぬうちに間近まで迫っていた死が影響しているかもしれないにせよ、彼はざわめきのない死の沈黙への怖れを、終世手放さなかった。

 井上陽水が炭鉱の街である福岡県田川で育ったことはよく知られている。彼の原風景には音が決定的に欠けていたのではないだろうか。番組の中で同郷(といっても北九州市のようだが)のリリー・フランキーが「何にも無いところだ。風景は一色だし、音楽なんて何も無い。だから音楽は(井上陽水)の血の中にあったのだろう」と語る。いや、彼はむしろ音の欠如に誰よりも鋭く気づいていた。身を切られ苛まれるほどに。だからこそ音を生み出さずにはいられなかったのだろう。世界との紐帯を手に入れ、世界を取り戻すために。
 やはり番組の中で、ラジオのディスク・ジョッキーとして陽水を世に広く紹介した森本レオが、陽水の中にある闇を垣間見たとして、仲間で家に集まり酒を飲んでいた時のエピソードを話していた。彼によれば、せっかく本人がいるのだから陽水を聴こうじゃないかということになり、LP『断絶』をかけた。歌いだしの瞬間に、そこにいる陽水がゴクリとつばを飲む音が聞こえるほど緊張していることに気づき、思わず茶化した。すると陽水は突然怒りだし、「こちらは命がけなんだ」と大声で怒鳴った‥‥と。
 ステージに上がり、あるいはスタジオでマイクロフォンに向かう時、客席のざわめきも、バンドの音も、自らが搔き鳴らすギターの音すら分厚い窓ガラスの向こうへと遠ざかり、世界から切り離されて深く冷たい死の竪坑を落ちていく。どこまでもどこまでも。悪夢から目覚めようと声を張り上げる。声さえ絞り出せれば身体を暖かくざわめきで包んでくれる世界が戻ってくる。唇の端から流れ出た声は、だが自分の頭の中で鳴っているだけかもしれず、眼に映る世界は変わらず音を欠き色を失って、まるで影絵のようにゆっくりと動いている。懸命に息を吐き尽くし、空っぽになった頭であたりを眺め回すと、いつの間にか世界はそこにあり、色があり、匂いがあって、手を伸ばせば触れることができる。いま僕は音と共に世界の中心にいる。


陽水1 陽水2
井上陽水『氷の世界』 
1973年12月1日発売


陽水3
2013年12月28日(土) 21:00〜22:15 NHK−BSプレミアム
井上陽水ドキュメント「氷の世界40年」

今からちょうど40年前、日本で初めて売り上げ100万枚を達成した伝説のアルバムが発表された。当時25歳だった井上陽水の『氷の世界』だ。この傑作はどのように生まれたのか、長年行方が分からなかったマルチテープを発掘し、制作に加わったミュージシャンやスタッフの証言を交えて描き出す。そして井上陽水本人が40年前の自分と向き合い、収録曲を演奏する。果たして65歳の陽水はどんな「氷の世界」を描くのか?
【NHK ONLINE 番組表より】

映画・TV | 14:18:43 | トラックバック(0) | コメント(0)
外に触れること/内に耳を傾けること − hofl『LOST AND FOUND』リリース記念ライヴ・レヴュー  Touching Outside / Listening to Inside − Live Review for hofl『LOST AND FOUND』 Release Party
 会場の建物に着いて3階まで外階段を昇る。恵比寿駅から10分程度にもかかわらず、駅前の喧噪は届いてはこない。外階段の側は思いがけず開けていて(後で調べたら防衛省の研究施設だ)、高い建物もなく、随分遠くまで見通せる。ごーっという暗騒音の厚い層もない。時折、下の道路を通り過ぎる車の音がするだけ。
 ライヴ・スペースはマンションの一室。ドアを開けるともう結構人がいて、カセットに録られた環境音が流れている。地下鉄の走行音、おそらくは屋外における環境音をはらんだギターの爪弾き、街頭募金の呼び込み、ブランコの軋み‥‥。脈絡なく流れる音に、こうした場に付き物の「アーティスト」たちは無論耳を傾けるはずがなく、やあやあと互いの社交に余念がない。白い壁と高くはない天井に囲まれた、柔らかな木のフローリングの部屋は、家具がないにもかかわらず、詰めかけた聴衆が音を吸うためか、声が響きすぎることはない。カーテンが開けられ、ライヴのセッティングがされた向こうには宵闇の迫る景色が広がる。サッシが閉められているため、外の音はガラスに濾過され、身体に働きかける強度を持っていない。むしろカセットテープの環境音の方が、ざらざらと粒子が荒れている分、肌を刺す刺を含んでいる。にもかかわらず、そこにいた「聴衆」たちの多くは、それに何の注意も払おうとしない。駅のアナウンス、交通騒音、発車のベル‥‥それらは紛れもない環境音、日常生活を満たしている何の変哲もない音であるからだろう。パーティ・トークがすでに始まっているカセットテープの「演奏」を、それと気づかぬまま踏みつぶしてしまう。

 CD『LOST AND FOUND』のデザインを担当した女性2人の挨拶に続き、hofliの演奏が始まる‥‥いや始まらない。さっき止めたカセットテープ・レコーダーをまたいじっている。合計3台のレコーダーから、間を置いて鳴る視覚障害者用の誘導チャイムのゆったりとした繰り返しや、テープの回転速度が揺れるギター・リフ(結局これはボツになり、別の環境音に差し替えられる)が、うっすらと空間のパースペクティヴを浮かび上がらせる。

 演奏はギター弦の弓奏から始まった。フレーズを編み上げるほどの息の長さを持たず、サウンドの輪郭を獲得できるだけの濃度も満たさず、表面を滑りながらその場で解け、髪の毛のように細く浅い引っ搔き傷だけを残していく音の軌跡。響きよりもその微かな手触り/抵抗の移ろいを楽しむ。
 やがてそれらの集積はサンプル&ホールドされて、次なる弦の振動を重ね描きするための下地となる。hofliは繊細な手さばきで素材を配合し、それぞれが浮き沈みしながら表れては消え、いつも異なる編み目が見えているような精妙な仕掛けをつくりあげる。爪弾きを重ね、音叉で弦を震わせ、次々に音を繁らせながら透過性を保ち、決して響きを飽和させてしまわない。朝もやにけぶる森にも似た眺めのうちに、様々なミクロな運動 — 水面を滑るアメンボの動きを思わせる − がちらつきながら、全体としては動くことなく漂うだけ。低弦をブーミングさせたり、微細にきらめく朝露を滴らせたりと、注意深く均質化を避ける配慮が施されているのだが、あまりにヘヴンリーではある。もう焦れて、もぞもぞと動き回り、無作法にジャンバーの衣擦れを立てまくる者がいる。

 途中で終わってしまったのか、テープの音はもう聴こえなくなっていた。さして車も通らないのか、ドアを閉めてしまうと外の音もほとんど入ってこない。手を伸ばせば届くほどの近距離で聴衆と向かい合う中で、演奏は希薄なレイヤーを敷き重ねた繊細へと傾く。先に見たように響きが飽和しないよう、巧みに空隙が設けられているが、それらは言わば内向きに開けているのであって、必ずしも外側に開かれているわけではない。
 『LOST AND FOUND』に収められた楽曲では、フィールドレコーディングが消し去り難い外部を供給し続けるがために、演奏は半ば強制的に外へと開かれ、別の世界と向き合わされていた。さらに聴き手にとっては、CDというパッケージ、録音という場の中で、それらが「等質化」されていることも大きかった。だが、ライヴな場で、そのように外に開かれた演奏を行うことは大層難しい。常に外と向かい合わざるを得ない場であるからこそ、改めて「開く」ことが難しくなる。音楽をかたちづくるためには、まず閉じることが求められるからだ。耳を澄ますべき演奏であればあるほど、無作法な乱入者に土足で上がり込まれ、踏み荒らされてしまうことをどうしようもできない。耳を聾する大音量のロック・コンサートですら、いちいち聴衆に「乗ってるかい?」と確認し、手拍子やアクションでファシズム的に全体を束ね、ひとつの方向に整流化しなければ演奏できないのだ。

 hofliこと津田貴司が笹島裕樹と展開しているstilllifeの演奏は、照明を落とし、キャンドルの炎の揺らめきに集中させる一方で、隙間の多い演奏が外部のノイズを取り込み、それを消化しながら演奏を展開することを可能とする。
 その時、演奏がこちら側にあって、聴取がその外にあり、両者が向かい合っている構図は希薄化し、演奏は外へと滲み出し、聴取は内側へと入り込んで、互いに入り組み、入り混じるようになる。聴き手の内部を含め、そこここから音が生まれ、響きへと高まり、流れを編み上げて、演奏/聴取体験の一部となる。
 津田はライヴの翌日のFBのコメントに「先週のスティルライフから考えると、ものすごい急カーブを曲がった感じではありますが、目覚めてみればどっこい生きている。花衣さんがコメントで書いてくれたように、「ほんとうはあれはこんなふうに流れでていったんだ 」...という気分に浸る日曜日の朝です。」と書き込んでいる。「花衣さんのコメント」とはCD『LOST AND FOUND』に寄せられた次の一文。

胸がざわざわしている
そう ほんとうはあれはこんなふうに流れでていったんだ
静寂に横たわる からだのあちこちから気泡が天井に上がって ちいさな水の輪が幾重も

 彼女の言う通り、『LOST AND FOUND』の楽曲にも、stilllifeと通底する「そこここから音が生まれ、響きへと高まる」感覚がある。聴き手の身体の外だけでなく、内側にも響きの芽吹きがあるような。それを感じ取るには聴き手が耳の視界を広げることが求められる。ステレオ空間に仮構されるステージ上だけではなく、その周辺、聴き手の身体まで照らし出すことが。それは「構え」の問題というより、「気づき」の問題にほかなるまい。いつもの繰り返しになるが、私たちは自分の内部の音をいつも聴いているのだから。それを意識しないのは、単に無視しているからに過ぎない。ライヴ演奏の場で、やはり前方のステージ空間だけに注目し、それ以外の音には眼もくれないのと同じことだ。そうした輩には、ほとんどひっきりなしに生じる衣擦れのノイズも耳に入らないのだろう。だが、たとえライヴの場であっても、hofliの音はいまここにすでにある音とともに視界に収めたい。

 響きのかけらを振り撒き、飛沫を飛び散らせて始まった3曲目の演奏は、流れゆく音の軌跡を束ねて足踏みオルガンを思わせるひなびた持続音の構成に至り、1曲目以上に内部に隙間をはらんで、包容力のある空間をつくりだしており、突如、音を立ててポスターが剥がれ落ちる心霊現象的なアクシデントにも、少しもたじろぐことがなかった。
 だが、そうした「音楽を開く」ことにhofliが最も傾倒したのは、2曲目の演奏だったろう。電車の走行音や鳥の声が、1曲目より大きな音量で流され、さらに3本目のテープからは時折遠くの話し声が、不明瞭なまま聴かれる。競合し、響きあい、重なりながら浮かび上がるこれらの空間に対し、彼は低弦をブーミーに搔き鳴らし、ひとり物思いに沈んでいく。その沈潜がテープの中の動きを照らし出す様は、ちょうど8mmフィルムの上映に音を添える仕掛けを思い出させる。フィールドレコーディングの持つ記録的/視覚喚起的な力が、ここでは「想起」のかたちで発現し、あり得ない懐かしさが沸き立つ。テープの音の動きにそのまま重ねられ、そこに寄り添うギターの爪弾き。添えられた響きを通して透かし見ることによる映像の変容。ここでギターの演奏はステージ上に位置しながら、「画面」の外に出て、その傍らに佇んでいる。

2013年12月14日(土) 恵比寿RECTOHOLL multiple space

 
写真は津田貴司のFBから転載



ライヴ/イヴェント・レヴュー | 21:46:08 | トラックバック(0) | コメント(0)
2013年ポップ・ミュージック・ディスク・レヴュー その1  Disk Review of Pop Music 2013 vol.1
 ディスク・レヴューをまだ2クールしか終えていないのに、もう12月になってしまった。通常の対象ジャンルである器楽的あるいはエレクトロ・アコースティックなフリー・インプロヴィゼーション、及びドローン、アンビエント、フィールドレコーディング分は、来年1月に11〜12月分+落ち穂拾いを掲載するとして、たまりにたまった2013年ポップス編を何回かに分けて掲載したい。まずはインストゥルメンタルないしはアンサンブル編からの7枚。



La Maquina Cinematica / Musica Para Pantallas Vacias
epsamusic 1157-02
Gustavo Hunt(clarinet),Patricio Villarejo(cello),Leonardo Alvarez(drums,percussion),Exequiet Mantega(piano,direction),Ramiro Gallo(violin),Guido Martinez(bass),Paulina Fain(flute),Pedro Rossi(7 strings guitar),Martin Pantyrer(bass clarinet),Maria Eugenia Caruncho(oboe,cor anglais),Sergio Fresco(violin)
試聴:http://taiyorecord.com/?pid=58602705
 「アルゼンチン音響派」の活躍以来、注目を集める彼の地の音楽だが、彼/彼女たちやあるいはCarlos Aguirre周辺がどうしても「薄味」に感じられてしまい食い足りない私のお気に入りは、Nora Sarmoria(Orquesta Sudamericana)と本アンサンブル。編成の小ささを活かした小回りの効く演奏は、「映写機」とのグループ名通り「シネマ・パラダイス」的な良質なノスタルジアを振り撒きつつ、軽妙洒脱、神出鬼没、躍動感溢れる、また同時にしっとりと語り聴かせるものとなっている。弦と木管の温もりに溢れ、中身の詰まった「肉」の重さを感じさせるアンサンブル(「抱きしめがいのある」と言えば感じが伝わるだろうか。これに比べるとCarlos Aguirre周辺は膝の間に隙間が空いている感じで、どうにもリーン過ぎるのだ)が何とも素晴らしい。2010年と少し以前の作品ではあるのだが、ぜひ紹介しておきたい。


Marcelo Katz & Mudos Por El Celuloide / Ⅰ
Edition De Auther KATZ2011
Eliana Liuni(soprano sax,clarinet,flute,harmonica,harp,voice & etc),Demian Luaces(violin,viola,piano,flute,kazoo,glockenspiel,percussion,voice,radio &etc),Marcelo Katz(pianp,prepared piano,accordion,kazzo,percussion &etc)
試聴:http://www.youtube.com/watch?v=mzckXSNR6q0
http://www.youtube.com/watch?v=pUYHY9lm6jk
 同じくアルゼンチンから映画絡み。こちらは無声映画に音楽を付けるというどこかで聞いたような試み。対象作品もムルナウ、ラング、スタンバーグ、ルネ・クレール、ブニュエル/ダリといかにもなラインナップ。それゆえUn Drame Musical InstantaneやArt Zoydら先達に比べ、演奏は調子外れなラグタイム・ピアノの導入、うがいの音やうなり声の大道芸的使用、アコーディオンとスペリオ・パイプの哀愁滴る共演等、自虐的なまでにパロディックかつパフォーマティヴで、前掲のLa Maquina Cinematicaの夢見るような純粋さとは一線どころか二線も三線も画する、耳目を集めるためにあざといほど考え抜かれたものとなっている。ここまでやれば誰も文句は言うまい。


Inventos / Inventos
ブラジル自主制作 7892860213729
Joana Queiroz(clarinet,bass clarinet,tenor sax,voice), 
Victor Gonçalves(alto sax,soprano sax,accordion,piano,voice), Thiago Queiroz(baritone sax,alto sax,flute,voice), Yuri Villar(tenor sax,soprano sax,voice), Jonas Correa(trombone,bass trombone,voice), Pedro Paulo Junior(trompa de marcha,voice)
試聴:https://soundcloud.com/inventos
   http://taiyorecord.com/?pid=60794616
 木管/金管による流麗な演奏は、ジャズ的なソロ/バッキングによらず、自在にギアを切り替えるメカニカルなリフをはじめ、構築的なアンサンブルに基づく。とは言え室内楽的な息苦しさはなく、次々に花が咲き乱れるような艶やかさは、この国ならでは。この管数にピアノとドラムを加えてビッグ・バンドの厚みを出し、ドビュッシーからストラヴィンスキーに至る近代オーケストレーションをいとも簡単に手中に収め、遠くを見詰める郷愁のブラスバンドを演じて見せるかと思えば、さらには音を濁り震わせて初期ムーグの「異物感」を醸し出す手際の鮮やかさには驚かされるが、冒頭曲はじめ随所に聴かれるパズルのように入り組んだアレンジメントがやはり聴き物か。特にバリトン・サックスはフル稼働で、躍動感溢れるリズムを提供し、わざと濁らせた低音による「ひとりアンサンブル」で全体を支え、あるいは牧歌的な安らぎに満ちた移ろいを漂わせ‥と大活躍。Hermeto Pascoal,Egberto Gismontiの作曲作品も見事に消化され、全体の流れに溶け込んでいる。ブラジル音楽の層の厚さ、底の深さを思い知らされる1枚。


Horacio Salgan con Ubaldo De Lio / Ultimo Concierto
Nuevos Medios NM 15 911
Horacio Salgan(piano), Ubaldo De Lio(guitar)
試聴:http://www.reconquista.biz/SHOP/NM15911.html
 以前に某掲示板でアルゼンチン・タンゴに関する「黒白」論争があり、そこでタンゴは「ジャズとは違って白人音楽」呼ばわりされていた。ジャズ同様もはや「世界音楽」であるタンゴをつかまえて何たる了見の狭さとあきれたものだが、その点、本作はまさに「イロクのタンゴ」と呼ぶべきもの。Astor Piazzolaの緻密さ/流麗さをよそに、Horacio Salganはまぶしいほど強烈な単音の打鍵で、Thelonius Monkにもましてぐわんぐわんと鍵盤をどやしつけ、ピアノ弦を筐体ごとふるわせる演奏は圧巻のひとこと。「一音入魂」で深く響きを彫り刻む様は、鉢巻きを締め版木に眼を擦り付けながら彫刻刀を振るった棟方志功を思わせる。対するUbaldo De Lioもまた負けてはいない。弦はちぎれんばかりに打ちのめされ、特に低弦はベースと聴き紛うぶっとい響きを放つ。2001年の録音当時、Horacio Salgan 85歳、Ubaldo De Lio 72歳。老い先短い年寄り(失礼!)にして初めて可能な、振り返ることなく一直線で言い訳なしに過激な演奏。


Sharron Kraus / Pilgrim Chants & Pastoral Trails
Second Laguage SL024
Sharron Klaus(voice,guitar,dulcimer,organ,recorders,drones,percussion,field recordings),Harriet Earis(harp),Mark Wilden(drums),Simon Lewis(Korg MS20,field recordings)
試聴:http://sharronkraus.bandcamp.com/album/pilgrim-chants-pastoral-trails
   http://www.pastelrecords.com/SHOP/sharron-kraus-pl-1030.html
 NYに生まれ、英国に育ち、フィラデルフィアを拠点として音楽活動を展開していた彼女は、ウェールズの地に恋してそこに移り住む。本作は彼の地の自然とそこから醸し出される音楽により構成されている。本来、歌手であるはずの彼女はここで自らに歌うことを禁じ、言葉を退け、ワードレス・ヴォイスとして水瀬に浮かび、風にたなびくことだけを許している。ここで声は風に水の流れに身をやつしているのだ。それゆえ彼女は声に血が通い、そこにいきいきとした躍動感や生々しさが生じることを恐れる。それは演奏も同じだ。彼女は演奏が独自のグルーヴを有し、フィールドレコーディングされた環境音から離陸することを望まない。中世音楽的なアンサンブルはことさら貧血症的に蒼ざめて立ち尽くし、声は冷ややかに凍り付き、シンセサイザーのさざめきは風の響きと見分け難くひとつになる。土地の精霊に忠誠を誓うがゆえに、強固な意志により塔に幽閉され、地に縛られ、樹の幹に磔にされた音楽。最初はむしろ薄味に感じられるかもしれない。しかし、その不自然極まりない抑制に耳が届けば、背筋に戦慄が走ることだろう。レーベル・メイトであるDirectorsound(Nic Palmer)やPlinth(Mike Tanner)と共通する、人影のない寂れた遊園地で回り続けるメリー・ゴー・ラウンドを思わせる「廃墟機械」の美学。


Robert Piotrowicz / When Snakeboy Is Dying
Musica Genera MG V1
Robert Piotrowicz(modular synthesizer,guitar,piano,vibraphone,software)
試聴:http://robertpiotrowicz.bandcamp.com/album/when-snakeboy-is-dying
 このラインナップの中では異色作。本来はレーベルからしてポップ・ミュージックの範疇ではないのだが、でも私の耳にはむしろ映画音楽的に聴こえる。ブザーのように鳴り渡り空間を埋め尽くすシンセサイザーの彼方で、ピアノが白くきらめき、重く冷たく鳴り響く。あるいは雨の中を通り過ぎる自動車の手前で繊細に爪弾かれるアコースティック・ギター。電圧変換機のような息苦しいうなりと張り詰めた電子音の壁。純度の高い幾何学的抽象性を達成していながら、サウンド・シークェンスは常に情景喚起的であり、掌に冷たい汗を感じさせる静謐にして緊迫したサスペンス的感覚に溢れている。きっぱりと切れのいいモンタージュのタイミングも心地よい。370枚限定ホワイト・ヴァイナルLP。


Sonicbrat / Stranger to My Room
Kitchen Label No.13
Darren Ng(piano,piano percussion,prepared piano,toy piano,melodica,acoustic guitar,small hand bells,xylophone,violin,violin bow,cello,electronics,contact microphones,marbles)
試聴:http://www.pastelrecords.com/SHOP/sonicbrat-pl-1001.html
 かそけきひびきのつましいおとたちがつくりだすはくちゅうむのようにおきわすれられたおんがく。ゆるゆるとたゆたうまどろみ。まぶたのうらでちらつくかげとひかり。まるでかおりをたのしむようによいんにすまされるみみ。ゆびさきといきのほさきでさぐられるねいろとたいみんぐ。でもここにはわずかなずれもゆるさないきびしさがある。「まちがったおと」はただちにしょうきょされくうかんにとどまることをいっしゅんたりともゆるされない。さてぃのひからびたひゅーもあはここにはない。すんぶんのくるいもないちらかりかた。じぶんだけのおうこくのひじょうなおきて。たてながのあつがみによるじゃけっとにはてんがなかたおしがほどこされ、でじゃゔゅをさそうふしぎなしゃしんのかずかずがとじこまれている。


ディスク・レヴュー | 00:24:39 | トラックバック(0) | コメント(0)
hofli『LOST AND FOUND』リリース!  hofli『LOST AND FOUND』 OUT NOW !
 本日(12月11日)、『雑木林と流星群』に続くhofli(津田貴司)のニュー・アルバム『LOST AND FOUND』がリリースされた。
 小野寺唯が主催したイヴェントに金子智太郎といっしょにレクチャーで参加した際に、ライヴ演奏を行ったhofliの、時の流れに空間の震えに耳を澄ます姿に惹かれたのが最初だった。会場で手に入れた素敵な意匠のハンドメイド・パッケージに包まれた『雑木林と流星群』の、遠くを見つめる耳の視線の在りようを、ますます好ましく感じた。
 だから、彼からニュー・アルバムの紹介文の依頼を受けた時はうれしかった。いつもの作法に従い、まずは音源を聴いてから引き受けるかどうか決めると伝えたが、送られてきたCD−Rを聴いて、すぐに書き始めた。
 彼からは「約15年前から今年の春までの録音をひとつにまとめるにあたり、『押し入れから発見された映画のサウンドトラック』というコンセプトを考えました。映画フィルム自体は散逸してしまい、各シーンに付けられるはずだった音楽や音響のみが存在しているという設定です」といった『LOST AND FOUND』というタイトルの説明や、「大半は1997年から2005年頃までの「游音」(ゆういん)演奏イヴェントの時期の録音です」との経緯も聞いていたのだが、彼の音はそうしたコンセプトやストーリーに寄りかかってなどおらず、私の耳な眼差しは自由に別の景色を眺めることができた。
 hofliの前作『雑木林と流星群』が眼を閉じて外に耳を澄まし、そこに結ぶ景色を浮かび上がらせたのに対し、今回の『LOST AND FOUND』は眼を開き外を見つめながら、内へと耳を凝らし、血流の脈動や神経の高鳴り、思考や感情の移り変わりを音のつぶやきとしてとらえている。だからそこに風景が結ぶことはない。寄り添うべき枠組みはなく、代わりに五感を触発する響きが戯れ、聴き手は一人ひとり景色のない物語を編み上げることになる。指先に触れてくる電子音、鼻腔をつんとくすぐるギター、がらんとした空間に滲む暗さ、枯れ葉を踏む足音の向こう鳥が囀り、ゆっくりと日が暮れていく。ぜひ窓を開けて、外から入り込んでくる音とともに聴いてほしい。
 「映画のサウンドトラック」であるはずなのに、「風景が結ばない」と言ってしまえることが、彼の作品が聴き手に与えてくれる、そうした「自由さ」を照明している。あてもなく移ろう耳の視線をしっかりと受け止め、旅へと誘う魅惑的な音の表面。意図から解き放たれた響きが浮き沈みし、風にあおられて空高く舞い上がる。糸の切れた凧のように。ギターの爪弾きが一本一本の弦の震えへとはらはらと解けていく。


hofli『LOST AND FOUND』全15曲入り
all tracks improvised, processed, composed, recorded, mixed and edited by hofli / Takashi Tsuda between 1997 to 2013
hofli played electric & acoustic guitars, steel pan, sound objects, soundscapes, electronics, max/msp programming
mastered by Hiromits Shoji at sara disc on 24th may 2013
artwork designed by prelibli


各曲覚書 (hofliのブログ※から転載)
※http://hoflisound.exblog.jp/19856632/

1.
当初、植物園を舞台とした(架空の)映画のサウンドトラックとして仕立てようという構想があり、この曲はその名残である。植物学者が森に分け入っていく後ろ姿、この導入のシーンから映画は始まり、植物学者をめぐる物語が淡々と綴られていく。なぜ植物なのか。今年春に訪れた南方熊楠の資料館のイメージがあったのかもしれない。思いもかけない方向に繁茂し生成していく矛盾と複雑系のエネルギー。しかしこのイメージは「LOST AND FOUND」というテーマの中、全体像が掴めない断片の集積という方向にまとめられることになった。最後のフェイドアウト部分で微かに聴こえる熱帯鳥の声は、今は閉館してしまった井の頭自然文化園の温室にて録音したものである。

2.
とあるコラボレーションのために用意した音素材に、新たに水の入ったガラス瓶の音を加工して再構成した。シーンは植物学者の研究室だろうか、おびただしい実験器具が並び、試験管からは気泡が浮かび上がり続ける。そこから何かが始まるようなオープニング部分の音響を意識している。研究室の磨りガラスの窓に映る空の色は、研究に没頭した夜明け前だろうか。

3.
このアルバム中、最も古い音源のひとつ。その頃ぼくは阿佐ヶ谷のアパートに住んでいて、体験型インスタレーションを作るユニットの構想を練っていた。ある日、誰もがやるようにギターをハウリングさせたりエフェクターを数珠つなぎにしたりして変わった音を出したりして遊んでいた。根を詰めて作業をしてふらふらになって寝転がると、少し開けた窓の隙間から積乱雲が見えた。

4.
たしかボサノヴァのコード進行が気になって、7thや9thを多用した幾つかのコードの組み合わせを演奏し、またギターの音の断片を加工して重ねて作った。心地よい不安だとか、甘美な居心地悪さだとか、そんな相反することに興味があったころの作品。当時この曲のデモを竹村延和氏に送ったところ、きちんとハガキでお返事をいただいたのだが、音源は今の今まで引き出しの奥で眠ったままであった。

5.
これも相当古い音源である。電池駆動の小さなおもちゃのアンプを、ギターのブリッジ部分に引っ掛けてハウリングさせて遊んでいた。放っておくと共振し始める弦がいくつかあることに気づき、それを順々にミュートしながら演奏した。その音源を素材に、また何重にもエフェクトをかけて徐々に形成していった音響彫刻のようなものである。この音は、僕にはなぜか深山幽谷の気配を感じさせる。霧が流れ、時折緑深い山肌が見える。

6.
日常の中の名付けようもない違和感や気持ちの暗がり。閉ざしたカーテンに、空を横切る鳥の影が映る。ブナの林に囲まれた、サナトリウムの退屈さ。これはアルバムの制作中盤になって録音した曲で、オープンチューニングのギターをぼろんと弾いてできたものだ。映画の登場人物が退屈しのぎにギターを弾いている場面を思い浮かべたのだが、いかにもそんな感じにヘタクソなのが気に入っている。

7.
どこで録音したか忘れたが、かなりの低域まで拾っていた。

8.
古いビルに友人が構えていたアトリエの螺旋階段で録音したものである。螺旋階段、なんという魅力的なイメージだろう。友人たちに協力してもらって、音は螺旋を描きながら四階に上っていき、また螺旋を描きながら降りてきた。それは沈みゆくタイタニック号の中で輪舞しているような、誰もいない研究室のひんやりと澱んだ空気のような、不安定なあまやかさを含んだ時間だった。max/mspによるサウンドプロセシング。

9.
作業工程は覚えていないにもかかわらず、制作時の匂いのようなものがそのままよみがえってくるのだ。

10.
とあるギャラリーで演奏した曲。ライブの記録ではないが、古いハードディスクに保存されていた元の素材を使って仕上げたものである。鉱物界を旅するようなイメージだが、音源はギター。その頃から、シンセ音源を使う発想がなく、手近にあるギターの音をリアルタイムにいろいろ加工するのが好きだった。

11.
はじめての海外旅行で行ったロンドン。地下鉄の通路を歩いているとカリビアン移民達のバスキングに出会う。スティールパンが反響し、地上に出ると都会の喧噪に混じって教会の鐘の音が聴こえてくる。聞き慣れない異国の音風景に感動して夢中でフィールドレコーディングしていた。この曲はフィールドレコーディングのように聴こえるが、そのときの心象を再現するように自分で演奏し、その後ライブで訪れたローザンヌで録音した音風景とミックスしてある。裏テーマは「はじめての海外」。

12.
「失われ、発見された音源」とだけ記しておく。

13.
夏が終わってしまうという焦燥感なのか、幼い日の夏休みの朝のラジオ体操の倦怠感なのか。窓を狭く開けて外の音を聴いているような音像にしたくて、サウンドスケープはほぼモノラルに定位させたのだった。とある映像作品のために作った音源であるが、最終的に使われたのかどうかは知らない。

14.
我が家の古い冷蔵庫のうなりが日ごとに酷くなっていた。その冷蔵庫のそばでギターを弾くと、うなりと干渉して倍音が発生することに気づいた。それを元にギターのリフを考えてよく弾いていた。そこにアコーディオンとギターのフレーズを重ね、元のリフを引き算したものが、前作『雑木林と流星群』に収録した「暖炉と霜柱」であり、これはその引き算したほうの元のリフを仕上げたものである。したがって「暖炉と霜柱」と重ねてプレイすればまた別の曲になるはずなのだが、、、自分でも試してはいない。エンディングの音は、あるプロジェクトのために、とある工場跡の廃墟にて録音したもの。

15.
石垣島にてフィールドレコーディングした音源をmax/mspでプロセス。梅雨時の亜熱帯の湿気を含んだ潮風の匂い、夜明け前の群青の空。珊瑚砂の浜辺で、ぼくはレコーダーを回して息を澄ませていた。ふと、足元にガラスの欠片が転がるような音が聴こえはじめた。星明かりでよくよくみると、無数のヤドカリが歩き出したのだった。禍々しいばかりの生物の気配に息を呑む。やがて夜が明けはじめ、空は急速に藍が色褪せていった。この曲自体は、映画のエンディングとして冒頭のシーンと呼応するように意識して仕上げた。

試聴:https://soundcloud.com/tsuda-takashi/hofli-lost-and-found-trailer


 今週末、12月14日(土)にはリリース記念ライヴが予定されている。彼は最初「ギター・ソロになるのではないか」と話していたが、その後、何か思いついたことがあると言う。FBには段ボール箱に詰まったカセット・テープの山が映っていた。まさか本当に「LOST AND FOUND」してしまうのだろうか。
 


「LOST AND FOUND」
hofli×Prelibri×RONDADE
@RECTOHOLL multiple space
(東京都渋谷区恵比寿南2-15-6 greenhills 3F)
2013/12/14(sat)
open:17:00 / start:18:30
charge:¥2,500
live:hofli
予約受付
contact@rondade.jp
タイトルに「LOST AND FOUND 予約」と明記の上、
お名前、予約人数、連絡先をお送りください。


ライヴ/イヴェント告知 | 23:33:57 | トラックバック(0) | コメント(0)
沈黙を洗う波の音 − 『チェレンコフ光 vol.1』ライヴ・レヴュー  I Can Hear the Sound of Waves Lapping on Silence − Live Review for "Cherenkov Radiation vol.1"
 stilllife(津田貴司+笹島裕樹)の企画・主催によるイヴェント・シリーズは、開演の遅れというアクシデントに見舞われながらも、演奏が進むにつれ、物思いに耽るような沈黙が次第にその色合いを濃くしていった点で成功と言えよう。今後は通常のライヴ・プログラムだけでなく、ワークショップやレクチャーも組み込む予定とのこと。期待したい。


 まずは、あおやままさしによるエレクトリック・ギターのソロ。聴衆の方を見ようともせず、黙々とチューニングを繰り返すステージ・マナーは前回(※)と変わりないが、スリー・フィンガーの生み出す響きは違っていた。前回のような光の欠片を打ち付け合うようなまぶしさはなく、ほどよく残響に包まれた柔らかな響きが流れ出す。手前で編み上げられる繊細な格子細工の向こうから、ゆっくりと立ちのぼり頭上を渡っていく雲の流れ。時折強迫的に差し挟まれるチューニングの時間を除いては、演奏は切れ目なく展開し、流れる景色がゆるやかに移り変わっていく。後半、調弦のせいなのか、昼下がりの柔らかな陽射しが少し翳り、色彩感を曇らせたのが気になった。
※以下のライヴ・レヴューを参照。
 http://miminowakuhazushi.blog.fc2.com/blog-entry-252.html


 続いてはTAMARUによるエレクトリック・ベース・ソロ。弾かれた弦の響きがゆらりと立ち上って部屋を満たし、別の弦の響きに揺すられて色合いを変える。岸辺にもやう小舟がゆらゆらと揺れるような演奏は、時にシタールのアーラーブを思わせる。ただし、ここにはあの香の匂い立つようなきらびやかさはなく、禁欲的なモノクロームのたゆたいが広がっているだけなのだが。そうTAMARUの演奏は不思議なほどドローン的でも瞑想的でもない。音の芯のソリッドな硬質さが最後まで揺るぎないからか。あるいは「さわり」の剛直さによるものか。
 後半は「物理シンセサイザー」の演奏。ホームセンターとかで売っていそうなスチール・ワイヤー製のトレイ(もし違ったらごめんなさい)を幾つも重ねたキューブ状のものを、小型発振器で振動させ、共振/共鳴とダンプや相互干渉のバランスを、トレイを動かしながらコントロールする。発想的にはHugh Daviesや広瀬淳二の自作楽器に近いが、彼らと異なりTAMARUの「楽器」にはコンタクト・マイクやピックアップが装着されておらず、「楽器」そのままの振動が空中に放たれる。また、彼はトレイの位置関係や重心を操作し、全体の振動の平衡/非平衡状態をコントロールするだけで、「楽器」を叩いたり擦ったりして直接音を出すことはない。音具によるプリペアドも行われないが、これは微妙な操作による微妙な変化を楽しむのであって、特徴的な付加音により色づけを施すのではないとのポリシーによるものだろう。それゆえ音量は小さく、思わず耳で覗き込みたくなる愛らしさがある。愛すべきサウンド・ガジェット。


 トリは津田貴司と笹島裕樹によるstilllife。以前から思っていたのだが、ユニット名の真ん中に3本並んだ小文字のLが蒸気船の煙突みたいに見える(左右対称っぽいし)。例によって照明を落とし、キャンドルだけを灯して演奏が始まる。次第に暗闇に眼が慣れていくように、耳もまた感度を高め、かそけき音のかけらを拾い上げ、あるいは耳の眼差しを演奏者の手元にまで差し向けて、素焼きの管の手触りを楽しむ。
 ふと波の音が微かに漂う。それは津田の操るオレンジ色のミニ・ラジオからこぼれ落ちる局間ノイズだった。こうしたインプロヴィゼーションにおいて、ラジオが不確定性や雑色性のあからさまな導入としてではなく用いられることは珍しい。津田が床に置かれたコンクリート柱を金属パイプでなぞれば、笹島は掌に収まる小型の金属打楽器を木の床に引きずる。互いに互いを照らし出す響きの粒立ち。
 外から降ってくる飛行機の通過音。もう虫の音は聴こえない。床の軋みに演奏が呼応する。金属のパイプを転がし、石を擦り合わせ、素焼きの管を手探る。遠くで子どもの声。自動車が低い音を立てて通り過ぎる。
 笛に吹き込まれる息はメロディを見ていない。するすると編み棒から滑り落ちる毛糸の軌跡がそれでも模様を編み上げ始める。全体をぼんやりととらえながら手元へと集中し、ある方向へと流れを誘導することを目指さず、いま触れている部分に限定する。彼らの掲げる「非楽器・非即興・非アンサンブルという抑制」とは、この眼差し/手触りの倫理のことにほかならない。
 この日は前回(*1)、前々回(*2)より少々長めの演奏だったせいか、複数の音が同時に並行して演奏されたり、前に手に取ったのと同じ音具に立ち戻ったりする様が見られた。
 笛に吹き込まれるというより、管をならすことなく、ただその表面を撫でながら滑っていく細い息のもつれ。ゆっくりと間を空けて弾かれたカンテレの弦の、冷ややかな震えを耳で慈しむ。夜が更けていくにつれ深まりを増す静寂。前の道を通る車の振動が窓ガラスを揺すり、手に捧げ持った試験管に息が吹き込まれる。再び沈黙を波の音が洗う。
*1 「濃密で錯乱的な一夜」
  http://miminowakuhazushi.blog.fc2.com/blog-entry-260.html
*2 「ああ、まだ虫が鳴いていますね 外は雨が降っているのに」
  http://miminowakuhazushi.blog.fc2.com/blog-entry-252.html


『チェレンコフ光 vol.1』
2013年12月8日(土) 立川gallery SEPTIMA
あおやままさし、TAMARU、stilllife

131208チェレンコフ光
笹島裕樹のFBから転載

ライヴ/イヴェント・レヴュー | 22:06:16 | トラックバック(0) | コメント(0)
サウンドスケープを聴くための「安心毛布」を記述する試み − バーニー・クラウス『野生のオーケストラが聴こえる − サウンドスケープ生態学と音楽の起源−』書評  Approach for Describing "Security Blanket" to Listen to Soundscapes − Book Review for "THE GREAT ANIMAL ORCHESTRA Finding the Origins of Music in the World's Wild Places" by Bernie Krause
 実際に野外で現地録音に臨み、数多くのフィールドレコーディング作品を制作しているアーティスト自身による著作ということで、大きな期待を持って読み始めた。実際、導入部分に出てくるフィールドレコーディングに初めて挑んだ際の体験描写には頷かされた。ここには「今までも聞こえていたはずなのにずっと聴いていなかった音」を発見し、世界がそのような注意の網の目をすり抜けてしまう響きに溢れていることに衝撃を受ける様が描かれているだけでなく、外部の音を聴くという行為自体において自分自身の身体を消し去ることはできず、常に自らの身体によって新たな書き込みを施されてしまった、言わば「汚染された音」しか聴くことができないという事実が明らかにされている。

 双眼鏡のように、マイクとヘッドフォンが音を拾って非常に近い距離まで引き寄せる。初めて聞く活き活きとした細かい音の数々が耳に迫ってきた。(中略)携帯用の録音機材を通して聞いていると、一定の距離を保って録音しているだけのような気がしない。むしろ、初めての空間に取り込まれて自分もこの経験の一部になってしまったように感じていた。(中略)レコーダーのそばにしゃがみ込み、音を立てないように一人で小さくなっていると、何か音がするたびに驚いてしまう。ステレオ・ヘッドフォンをつけているために周囲のどんな小さな音の質感も実際より大きくなって届く。しかもどんな小さな音も聞き逃さないようにわたしはヘッドフォンの受信レベルを上げていた。(中略)周囲の音響的雰囲気が細部に至るまで際立ち、自分の耳だけでは決してとらえられなかったはずの音が浮かび上がってくる − わたしの息遣い、座り心地が悪くて少し足の位置をずらしたときに立ててしまった音、鼻をすする音、近くに鳥が降り立ったときの落ち葉の音、何かに気がついてさっと羽ばたいて飛び立つときに空気が動く音。【15〜16ページ】

 だが、彼は「レコーダーはレコーダーなしでどう聞くかということを学ぶための道具と言える」【17ページ】と、こうした驚きと怖れをすぐに解消し、外部環境に対して自らを透明化してしまう。
 そして彼はサウンドスケープを、非生物による自然の音である「ジオフォニー」、人間以外の野生生物が発する「バイオフォニー」、そして人間が出している「アンソロフォニー」の3つに区分するのだが、このうちジオフォニーを無視し、バイオフォニーを特権化して、アンソロフォニーをこれに対する「ノイズ」と位置づける。書名に掲げられている「野生のオーケストラ」とは、このバイオフォニーにほかならない。ちなみに原題は「Great Animal Orchestra」。環境中に存在する多様な音響のうち、彼が何を前景化し、何を背景に押しやり、あるいは無視しようとしているかがよくわかる。
 彼は動物たちが交わす鳴き声が周波数帯を棲み分けていることに、ことさらに驚いて見せる。

 どの鳴き声もそれぞれ担当する音響帯域幅にうまく収まって聞こえる − あまりにぴったり収まっているので、優雅に構成されたモーツァルトの『交響曲第41番ハ長調 ジュピター』を思い出したほどだ。ウディ・アレンはかつてこの曲について、神の存在を表明したと評していた。【91ページ】

 鳴き声が生存に必要なシグナルのやりとりである以上、共棲の中で各自が自分たちのための生態学的ニッチを見出していくことはおよそ必然と言えよう(※)。当然、音響についても。それは必ずしも周波数帯上の棲み分けだけにとどまらないだろうが(周期や疎密のパターンによる差異化も想定される)。それはある種の「闘争」の産物であるはずだが、彼はそれを見ようとしない。また、前提として存在しているはずのジオフォニー(そこには雨や風、波しぶきの音だけでなく、それらが響く空間の音響特性も含まれる)も考慮されない。あたかも野生動物たちが、最初から平穏な調和に至ったかのように彼は語り、「神の生き物はみんなコーラスの一部(All God's Critters Got a Place in the Choir)」なる曲題を意味有りげに引いてみせる。動物たちはみな、人間のように賢しらではない神の忠実な被造物として、声を揃えて賛美歌を歌っているのだ。
※ニッチ理論について
 ニッチ理論は最近あまり評判がよくないようだが、それはニッチをあまりにも実体化し、数量的な分布曲線に従わせようとまでしたり、種間競争だけにフォーカスして(それはすなわち地形や気候、土壌など無生物や微生物がつくりだす環境を無視して、「主体」だけをクローズアップすることにほかならない)、それだけですべてを説明しようとし過ぎるからではないか。ジェームズ・J・ギブソンによるアフォーダンス理論からも生態学的ニッチの概念は要請されるのであり、グレゴリー・ベイトソンもインタラクションが生じる機会を主体(動物)間に限定しているわけではない(*)。
*主体(となりうる動物)だけにフォーカスする思考のどうしようもない了見の狭さについては、次の記事も参照のこと。それは結局、「人間中心主義」を薄めて自然界に投影した結果生じる「動物中心主義」に過ぎない。
 「金子智太郎さんの学会発表を聞いて考えたこと」
  http://miminowakuhazushi.blog.fc2.com/blog-entry-75.html

 「1980年代以降、人間の音楽のルーツは自然界のサウンドスケープにあるという考えがふたたび注目を集めている。」と、彼はバヤカ族(バベンゼレ・ピグミー)の例を採りあげ、「人間の音楽の起源」について語り始める。【143〜146ページ】
 この指摘自体は事態のある一面をとらえている。誰でもピグミー族の音楽実践を聴けば、それが熱帯雨林の湿った空気と密な植生がもたらす反響の豊かさ、あるいは発音体の姿が樹々に隠れて見えないこと、身体を浸す水との触れ合いの多さ等の産物であることを疑わないだろう。だが彼がそこで「森の音」として持ち出すのは、バイオフォニーであり、動物の音響構造だけなのだ。バヤカ族に対する彼の眼差しは、図らずして敬虔な動物たちを有り難そうに見詰める彼の身振りと重なり合ってくる。

 「第7章 ノイズの霧」、「第8章 ノイズとバイオフォニー 水と油」では、罪深い人間たちがつくりだすノイズが、いかにバイオフォニーの均整のとれた調和を脅かし、汚染し、破壊しているかが描き出される。そこでヘヴィ・メタル音楽、あるいは広大な自然の中を疾走するスノー・モービルやオフ・ロード車がとりわけ悪者扱いされるのはよく見る構図だ。彼によればノイズの害悪は人間にも向けられており、ストレスや機能障害をもたらしているという。だが、彼がバイオフォニーの調和を讃える際に持ち出すバッハやモーツァルトは、彼の愛する動物たちにとって、果たしてノイズではないのだろうか。
 「ノイズが環境の一部になると、わたしたちはそれをシャットアウトしたり除去したりするために相当なエネルギーを費やす。ところが、慣れ親しんだパターンで構成されたサウンドスケープが聞こえてくると、(時に非常に前向きに)耳を傾けることになる。」【222ページ】として、彼は亡くなった父の思い出を語りだす。認知症を患い、寝たきりになった父の90歳の誕生日パーティで「持参した心地のいいダンスミュージック」かけると、歩くことなどできないはずの父親は何と椅子から立ち上がり、ダンスフロアの真ん中まで出て行って、誰の介助もなしに孫たちと元気いっぱい踊り始めたという。こうした話は私も何度となく聞いており、きっと事実なのだろうと思う。だが、「持参した心地のいいダンスミュージック」はバイオフォニーにとってノイズではないのか。さらに彼はバヤカ族にとっての森の奥深くにある居住区のサウンドスケープと、ダンスミュージックが父親に与えた効果を「同じ影響」と評価する。人間のノイズによって傷つけられてしまうはずのバイオフォニーが、いつの間にか人間によってつくりだされた「心地よい」ノイズと同列に扱われ、人間に対する「治癒効果」によって評価されるようになってしまっている。
 こうした「ご都合主義」が最も典型的に現れている部分として、彼が所有しているコテージを訪れたはいいが、「静か過ぎる」として翌朝早くには都会へと引き揚げてしまうカップルのエピソード【246〜247ページ】がある。彼は哀れみと嘲笑をもって、彼らや、あるいは夜明けの豊かな環境音のコーラスの中にいながら、それに耳を傾けようともせず、携帯電話に何かをまくしたて続けるジョギング中の女性について語っている。彼によれば静穏さとは無音とは異なる、「健全な生物が肉体的、精神的に活力を感じるために必要とする基本的状態」【241ページ】であり、その実例として人間に平穏さの感覚を与える一群の音(息遣いや足音、心音、鳥の歌、コオロギの鳴き声、寄せる波、小川のせせらぎなど)、耳に聞こえるか聞こえないかの中間領域を挙げている。

 そうした陳腐な主張よりもずっと興味深いのは、彼がグランドキャニオンの底で入り込んだと言う無音体験である。私にとっては本書のハイライトと言うべき箇所なので、長いがそのまま以下に引用する。

 「静脈を流れる血の音以外に何も聞こえないことに急に気がついた。音響領域の一方の端には微かに脈打つ鈍い音が表われ(ママ)、反対側には聞いたこともない物悲しい音が表われた(ママ)。おそらく耳鳴りの初期症状だったのだろう。その他には寝袋を置く場所を探してわたしが立てるカサカサという音。しはらくの間、耳がおかしくなったと思っていた。周辺のレベルを確認するために音圧計をチェックすると、モニターには表示できる最低レベルである10調整デシベルが表示されていた。完全な静寂である。すぐにわたしはその完璧なる静けさに混乱し、頭のなかに響く血流の音や耳の奥でがんがんと響きながら大きくなっていく音以外の音を求めて、一人でしゃべったり歌を歌ったり、峡谷の壁に向かって石を投げたりした。聴覚への刺激が何もないことでおかしくなってしまいそうだった。すぐに機材を片付け、川のせせらぎが聞こえるところまで引き返した。離れたところを流れる川の音がとても嬉しく、おかげで方向感覚を取り戻すことができた。」【240〜241ページ】

 暗闇の中で眼を閉じているのに光が感じられるように、入力のない神経が勝手に信号をつくりだしてしまうことはよく知られている。これはそのことが聴覚に対して生じたものだと考えられる。このケージ的かつ啓示的体験から、彼は尻尾を巻いて一目散に逃げ出してしまう。散々、人間のノイズがバイオフォニーを汚染していると警告を発し、自分は人間のノイズがまだ触れない無垢のバイオフォニーを幾つも録音したと自画自賛しながら、彼自身は不安に絶えきれず、沈黙を暴力的に破壊しようとする。彼は人間を嫌い、人間の手が触れない自然を、動物たちを愛する。だがその姿は「ハワイは日本人だらけだ」と吐き捨てる日本人観光客に似てはいないだろうか。彼は単に自分の身体をマイクロフォンとレコーダーの陰に隠し、自らの存在を消滅させたつもりになっているだけではないのか。「森の中で一本の木が倒れたときにその音を聞く人間が周囲に一人もいなければ、それは音を立てたことになるのだろうか」というジョージ・バークレーの問題提起を、彼は「人間中心の限定的なものの見方」と批判しているが【249ページ】、彼自身、そこから逃れ得ているかははなはだ疑わしい。

 自然のサウンドスケープは細かなところまで鮮やかな情報が満載で、確かに写真は何千もの言葉に匹敵するかもしれないが、自然のサウンドスケープは何千枚もの写真に匹敵する。写真が表現するのはその時々の二次元の断片で、有効な光と影とレンズの範囲内に限定されるが、サウンドスケープは正しく録音すれば、三次元で、空間的な広がりと奥行きという効果を持ち、重層的に進行していく物語とともに細部に至るまでの特徴をあきらかにすることができる。それは視覚媒体だけでは望めないことである。しっかりと耳を澄まし、視野を広げたうえで細かい部分に注意を払えば、どんなごまかしも見破ることができる。【78ページ】

 自信に満ちあふれた宣言だ。確かマリー=シェーファーも「眼は世界の端に位置しているが、耳は必ず世界の中央に位置している」と言っていたっけ。だが、私たちの聴覚は視覚に従属する傾向が強く、「機械による知覚」である録音との間に致命的なズレを生じてしまう。そのことについて、彼自身、次のように言及している。

 視力に特に問題のない者は目に見えているものばかりに意識がいって、目に見えているものの音しか聞いていないのだ。視線が沖合で砕ける白波をとらえているときは、たいていの場合、距離感や力強さを伝える波の轟き、凄まじい音以外は、脳と耳で遮断している。岸辺の傾斜が洗う波の先頭を見つめているときは足元の砂の上で弾ける細かい泡の音を聞いていて、遠くで砕ける波の音は耳に入ってない。
 しかしマイクには目も脳もない。取捨選択することなく、設定範囲内にあるすべての音を拾う。ということは、海岸の音を表現するのであれば、水際から80メートルほど手前のところ、背の高いテンキグザを植えたところと水際のちょうど真ん中ぐらいのところ、そして水際、といった具合に異なる距離からさまざまなサンプルを録音する必要があるということだ。【19〜20ページ】

 これまでは耳をフィルターのように使ってノイズを閉め出していたが、豊富な情報を取り込むための入り口として使うべきだったのだ。【16ページ】

 この述懐もまた、マイクロフォンが明らかにした「機械の知覚」を、自らの知覚の「進化/深化」と安易に同一視してしまっている。知覚とは身体的行動のために、身体が世界から膨大な部分を差し引き制限するものであることを、改めて思い出そう。
 人間の知覚/機械の知覚という対比は、機械の知覚が「わたし」にバイオフォニーの豊かさを気づかせてくれたというだけで、その後、抹消されてしまう。まるで魔法の「鍵」は「わたし」へと手渡され、今も「わたし」の手の内にあるとでも言うように。
 結局、私は音の外部性(音が私の外部にあること)に畏れを抱かない彼の傲慢さ/鈍感さに我慢がならないのだろうか。それは葉擦れや雨音、密集した樹々への反響等が渾然一体となった熱帯雨林のサウンドスケープに、動物の鳴き交わししか聴こうとしない態度へのいらだちであり、主体間のコミュニケーションによって織り成されるバイオフォニーを、ジオフォニーの「地」の上に、「図」として浮かび上がらせることへの反発にほかならない。そこにはニューエイジ的な自然同化/自然礼賛に、キリスト教的な、神>人間>動物>植物 というヒエラルキーが忍び込んでいる。
 もうひとつには、私がフィールドレコーディングの可能性を、Francisco Lopezのサウンド・マター論の方位に見出していることが挙げられるだろう。これについては、ぜひ、彼の来日時のワークショップの記録を含む、以下の一連の記事を参照していただきたい。
 http://miminowakuhazushi.blog.fc2.com/blog-entry-119.html
 http://miminowakuhazushi.blog.fc2.com/blog-entry-120.html
 http://miminowakuhazushi.blog.fc2.com/blog-entry-123.html
 http://miminowakuhazushi.blog.fc2.com/blog-entry-124.html
 http://miminowakuhazushi.blog.fc2.com/blog-entry-125.html
 http://miminowakuhazushi.blog.fc2.com/blog-entry-126.html
 http://miminowakuhazushi.blog.fc2.com/blog-entry-127.html

 本書をあまりにも能天気な自然礼賛ぶりゆえに鼻で笑ったり、人間に対してノイズが悪影響を与える証拠を拾い集める際の「トンデモ」疑似科学ぶりをあげつらっても、本質的な批判にはなり得ない。むしろ本書はフィールドレコーディングという行為を通じて、多焦点的に茫漠と広がる環境音に耳の視線を向け、生成する音風景に耳を凝らす際にともすれば落ち込んでしまいやすい陥穽、尻尾を巻いて逃げ込んでしまいやすい居心地良く手放せない安心毛布を、あらかじめ指し示してくれるものとして読まれるべきではないかと思う。

野生のオーケストラ


書評/書籍情報 | 23:34:08 | トラックバック(0) | コメント(0)
チェレンコフ光 − 身体を空間を通り抜ける青く冷たく透き通った光  Cherenkov Radiation − Cold Blue Transparent Light That Permeates Body and Space
 最近、「追っかけ」状態となっている津田貴司と笹島裕樹によるstilllife企画・主催のイヴェント『チェレンコフ光』の記念すべき第1回がまもなく開催される。
 今回のライヴは、前回の四谷三丁目喫茶茶会記から、私が彼らのライヴを初体験した(*1)立川gallery SEPTIMAに場所を移して行われる。都会の片隅の密室で繰り広げられた茶会記ライヴが完全アウェーだったことを思えば(*2)、こちらは確かにホームかも。アウェーの厳しい環境を乗り越えて、さらに耳の眼差しを深めた彼らが、どのような演奏を聴かせてくれるか楽しみだ。
 広く開けた敷地の中に、古民家やイタリアン・レストランと隣り合って建てられた(本当に広いからずいぶん離れているけど)、いかにもアトリエっぽいちょっと不思議な空間gallery SEPTIMA。外の音が沁み込んでくるだけでなく、木の床や外のテラスの軋みも印象的。今後も引き続きここを拠点としていくのだろうか。
*1「ああ、まだ虫が鳴いていますね。雨が降っているのに」
http://miminowakuhazushi.blog.fc2.com/blog-entry-252.html
*2「濃密な錯乱した一夜」
http://miminowakuhazushi.blog.fc2.com/blog-entry-260.html


以下、会場であるgallery SEPTIMAのホームページ(※)より転載します。
※http://galleryseptimablog.blogspot.jp/2013/11/vol.html


『チェレンコフ光 vol.1』2013年12月8日(日)
会場:gallery SEPTIMA(多摩都市モノレール「砂川七番」駅下車)
時間:開場18:00/開演18:30
料金:2000円(+1ドリンクオーダー)
出演:stilllife(津田貴司+笹島裕樹)、TAMARU、あおやままさし

「宇宙から降ってくる微粒子がこの水の原子核とうまく衝突すると、光が出る。それが見えないかと思って」
(池澤夏樹「スティル・ライフ」より)

気配と静謐を奏でるサウンドアートユニットstilllife主催のイベント『チェレンコフ光』。ゲストとともに、どっぷりと演奏を、あるいはワークショップを、ときにはレクチャーも交えて。「聴く」ことによってしか味わえない世界を、変幻自在にご案内します。
第一弾は、ベースギターによる独自の倍音奏法であらたな領域を開くTAMARU、エレクトリックギターによる反復音で時間を溶融させるあおやままさしを迎えて、リスニングのエッジへ!


stilllife(スティルライフ):非楽器・非即興・非アンサンブルという抑制の果てに立ち現れる、気配と静謐のフラグメ­ント。フィールドレコーディングに基づく活動をしてきたサウンドアーティスト、津田貴­司と笹島裕樹が2013年に立ち上げたユニット「スティルライフ」。彼らの描く土のフ­ォークロアは、音が音楽になる瞬間・音楽が音に還ってゆく瞬間を往還し、おととみみの­あいだ・聴くことと奏でることのあいだの水際をたゆたう。

TAMARU:1963年東京生まれ。音響構成および即興/非即興演奏による活動。非日常的な情感との邂逅を志向。近年はノンエフェクトの倍音奏法によるベースギター独奏に専心。音源発表はソロ作品の他、headzから横川理彦、杉本佳一と結成した「installing」のリリースなど。近作は「Live Recording 2011 with Tadahiko YOKOGAWA and Sachiko M」。

あおやままさし:90年代より絵画・音楽の制作を始める。絵画は初期は抽象的なものが多かったが近年は出かけた時に撮影した写真を元に描いた風景画が多い。音楽は初期は即興・実験的なものが多かったが、近年は2〜4分程度のシンプルなメロディーを中心とした曲が多い。


 セプチマ7
gallery SEPTIMA
東京都立川市柏町3-8-2
砂川七番駅改札を右に出て、左側の階段を降り、五日市街道交差点へ。
交差点を渡らずに右折し直進。
イタリアンレストラン・チャオの手前を右折。
直進50メートルほどで左側に見えます。



ライヴ/イヴェント告知 | 22:11:21 | トラックバック(0) | コメント(0)
ディスク・レヴュー 2013年6〜10月その3  Disk Review June - October,2013 vol.3
 ディスク・レヴュー第3弾はドローン、アンビエント、フィールドレコーディング系からの7枚。生成する音風景の中で、即興的な回路を経ずして交錯/衝突する音に眼を凝らす体験。そのことがフリー・インプロヴィゼーションを演奏者の相互作用に、さらには演奏意図の産物に還元してしまわずに聴くことを可能にするだろう。



Gianluca Becuzzi, Fabio Orsi / Dust Tears And Clouds
Silentes Minimal Editions sme 1359
試聴:http://www.art-into-life.com/product/3610
 あからさまに「生」な声が否応なくエレクトロニクスに変容させられ、肉の生々しい手触りを残したまま輪郭を溶かされ、でろりと横たわる。フォーク・ミュージックの現地収集を続けたAlan Lomaxによる音源が、そのように加工されてもなお「図」としての存在感を保ち続ける一方、背景となる「地」の部分はエレクトロニクスの充満に沸き立ちながら、その繊細な細やかさにより、先の声の粗さを受け入れようとしない。そこに生じる「抗争」が次第に後者のかたちづくるサウンド・スクリーンへと前者を「着地」させていくのだが、両者は依然としてズレをはらみ、レイヤーの重なりあいを指先にまざまざと触知させ続ける。そうした軋轢に満ちた「抗争」は、ここで様々な局面に仕掛けられる。張り上げられる声とそれに合わせて搔き鳴らされるギターの間に入り込み、差し挟まれた異物となって、一体のものとして録音されたはずの両者を切り離すかと思えば、滔々たる流れとなって歌を話し声を呑み込み、たちまちのうちに水没させてしまう。そして何より恐ろしいのは、こうした蹂躙によりAlan Lomaxのとらえた生々しさが、そのロウな物質性を明らかにし、ますます輝きだしてしまうことだ。ヴァナキュラー写真をデジタルに切り刻むのにも似た暴力性が、肉の息づきを露わにする。これと同種の加工は、匿名的かつ集合的な環境音を素材にして数多のアンビエント・ミュージックで行われており、あたかも「外」へと開かれているかのような幻想を保ちつつ、耳触りのよい内部空間への引きこもりを巧妙に達成している訳だが、ここで固有の顔貌をたたえながら無名性に留まる記号化しようのない音源を対象とすることにより、そうした欺瞞を徹底的に暴いている。‥にもかかわらず、これがまた麻薬的に甘いという錯綜した逆説。
 CD2枚組のもう1枚「Please Don't Count the Clouds」はより抽象的な音響絵巻だが、先に見た「Dust Tears and Skinny Legs Poets」と同様、やはり冷徹な眼差しに貫かれている。


Scott Allison and Ben Owen / Untitled (for Agnes Martin)
Senufo Edition forty one
試聴:http://www.senufoeditions.com/wordpress/?page_id=660
   https://soundcloud.com/senufoeditions/ben-owen-scott-allison
 薄暗く茫漠たる広がり。垂れ込める鈍い重さ。時折走る亀裂。遠くに澱むざわめき。一瞬だけ眼前を過るノイズ。視界全体にヴェールを掛けたように曇らせる微細な振動。不機嫌なダイナモのうなり。何かの手違いのように急に現れる物音。カヴァーに刷られた希薄なイメージにも似て、繰り返し繰り返し耳を傾けても一向に像を結ぼうとしない音の群れ。オールオーヴァーに広がる響きのどこに焦点を当てればよいかわからぬまま耳をさまよわせ、根を詰めた聴取に疲れ果てて目蓋を押さえた時に、ふと「この響きは痛みに似ている」と気づく。後頭部にのしかかり、頭蓋を締め付け、眼の奥を責め苛む、鈍く不定形の鈍痛と一瞬側頭部を走る鋭い痛覚。触覚を含めた聴取を念頭に置きながら、音風景の視覚的な把握に知らず知らずこだわっていたことに驚く。抽象画家Agnes Martinによる淡くくすんだ色合いの帯の視覚化と見ることももちろんできようが、それよりもずっと手前、すでにして感覚に内在しているざわめきへの共感ととらえた方が、音が身に沁みるように思う。200枚限定。


Homogenized Terrestrials / The Contaminist
Intangible Cat cat 16
試聴:http://homogenizedterrestrials.bandcamp.com
 眼の前一杯にシネマ・スコピックに展開される音響の噴出は、時に深々としたドローンをたたえながらも、「アンビエント・ミュージック」とくくってしまうにはあまりにも鮮烈で映像/触覚喚起的である。随所にちりばめられるリズムは、その鋭利に彫啄された音色を含め明らかにエスニック・ミュージックからの自在な引用によっており、それらと暗がりでうごめく励磁されたうなりや金属の震え、巨大な船体の軋みやクジラの歌、あるいは聖歌の昂揚といったあからさまに「生」な響きが交錯する。たとえばAdiemusがつくりだす耳に心地よいコラージュとの差異は、コラージュのための「台紙」という安心毛布を取り払ったことや、時には耳を傷つけよう軋轢と衝突に満ちた素材の配置だけでなく、何よりも本作を貫く眼光紙背に徹する強靭な耳の眼差しに求められる。出来上がった音楽のアンサンブルではなく、フィールドレコーディングがとらえた複層的な音響組織を切り裂いていく解剖学的な視線は、Artificial Memory Trace=Slavek Kwiを思わせる。


Simon Whetham / Hydrostatic
Auf Abwegen aatp39
試聴:http://www.aufabwegen.de/label/?p=222
   http://www.art-into-life.com/product/3848
 フィールドレコーディングされた音素材のアッサンブラージュ作品を多く手がけている彼だが、これまでのどこか微温湯的な煮え切らなさを、ここではカヴァー・イメージ通りのモノクロームに暗く冷えきった押しとどめ難い欲望により、見事に吹っ切っている(見直した)。都市空間から渉猟された音素材を用いる手法自体に変わりはないが、次から次へと死体を切り開く法医学者の冷ややかに突き放したメス捌きと、そこに立ちこめる禍々しいネクロフィリックな欲望が、僅かな弛緩もなく虚空を見詰め続ける視線の強度を支えている。絶望的に深く鉛のように重たい響きは、Lethe=桑山清晴による「残響音楽」を思わせるが、ここには空間に描かれる運動の軌跡はなく、ただひたすら重たく冷たい鎖が聴き手の身体を締め上げる。


Yannick Dauby / Hares & Bells
Invisible Birds oiseaux002
試聴:http://ingentingkollektiva.bandcamp.com/album/hares-bells
 台湾の自然/都市環境をとらえたフィールドレコーディング作品で知られる彼だが、ここではゆるやかにたゆたうベルの響きに、まどろむように耳を傾けている。音は厚いガラス越しの風景のようにまぶしさやちらつきを抑え、実在感の希薄なまま、彼方でゆうらりと揺れている。木の枝に結ばれた様々な材質や形状のベル、それらが揺れる様をとらえた音のないモノクロの映像を眺めていれば、脳内にこのような響きが結び、浮かんでは消えていくかもしれない。Tomoko Sauvage『Ombrophilia』に聴かれた空間自体が互いに打ち合わされ震えているような透明性が、何とも魅力的だ。100枚限定CD−R。


笹島裕樹 / 音の欠片
無番号
試聴:https://soundcloud.com/hiroki-sasajima
※本作品に収録されている音源ではありませんが、参考に掲載しました。
 加工なしのフィールドレコーディング作品は、変形/編集の手つきやプロセスに込められた「制作意図」を飛び越えて、作者の耳の眼差しの在処をダイレクトに指し示す。ちょうど撮りっ放しのスナップ写真が、写真家の眼差しの在処を否応なく露わにしてしまうように。ここで笹島の視線は、生成する音風景のただ中に分け入り、音を腑分けすることにより自らの強度を顕在化させる代わりに、その場に音もなく佇み、存在を希薄化して、湧き立つ響きのさらに下層へと浸透していくことを目指している。だからここで音は、必要にして充分な鮮明さをたたえながら、僅かなりとも聴き手の耳を圧迫することなく、密やかに佇んでいる。音と対峙し対象化しようとするのではなく、音に包まれ身を浸すこと。それゆえここには、プールの水底に身を沈め、そこからはるか水面のきらめきを見上げるような、「隔たり」の感覚と全身を包み込む皮膚感覚が両立した不思議な静けさが横たわっている。


藤田陽介 / ヒビナリ
Otototori OTOT-0613
藤田陽介(11's Moon Organ(管鳴−くだなり−))
試聴:http://www.youtube.com/watch?v=N-e-6aykhUA
※本作品に収録されている音源ではありませんが、参考に掲載しました。
 先日レヴューしたライヴ「音ほぐし」の会場で購入。毎日街を歩き、5箇所で1分ずつ音を収録し、これに合わせた5分間の即興演奏を17時のサイレンとして街に放送する。藤田自身が「こうして集められた音がヒビナリの主役である」と語っている通り、即興演奏は徒に自らを押し出すことなく、それぞれの地点に結像している音景色を静かに醸成する。街角でスナップされた映像にその場で付された映画音楽。それは少しも説明的ではなく、それでいて走り去る車や足音、遠くで聴こえる子どもの歓声、鳥や蝉の声と眼差しを取り交わし、互いに響き合う。参考に掲げたyoutube動画に見られるように、手作りの自作オルガンは「ふいご」で管を鳴らす以外にも、Harry Bertoiaによる音響彫刻を思わせる金属棒を叩くなど、様々な演奏法を可能にしており、多彩な、それでいて慎ましい演奏を味わうことができる。

ディスク・レヴュー | 19:29:29 | トラックバック(0) | コメント(0)