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福島恵一

Author:福島恵一
プログレを振り出しにフリー・ミュージック、現代音楽、トラッド、古楽、民族音楽など辺境を探求。「アヴァン・ミュージック・ガイド」、「プログレのパースペクティヴ」、「200CDプログレッシヴ・ロック」、「捧げる-灰野敬二の世界」等に執筆。2010年3~6月に音盤レクチャー「耳の枠はずし」(5回)を開催。2014年11月から津田貴司、歸山幸輔とリスニング・イヴェント『松籟夜話』を開催中。

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木村充揮(憂歌団)と「逆襲のシャア」 − 第12回四谷音盤茶会リポート  Atsuki Kimura(from "Yukadan") vs "Char's Counterattack"
 何か事情があったようで、今回の「タダマス」は巨大なALTECのスピーカーが鎮座ましますいつもの部屋を離れ、2階のサロン・スペースへ。粗く塗られた白い壁と天井(ブラインドやカーテンも白で統一)にグレーのタイル・カーペット敷きの、モダンに洗練されたショー・ルーム風の空間では、いつもはカフェ・スペースの暗がりに身を潜めているグルンディッヒ+シーメンスという独逸産ヴィンテージ・ユニットを収めたエンクロージャーが、本来の美しいプロポーションと木目も露わに出迎えてくれていた。マッキントッシュの青い瞳も麗しい。開演前のBGMとしてかけられたAya Nishina『Flora』(Tzadik)は、前回聴いた時に感じた微粒子が震えるようなアンビエントな希薄さよりも、それぞれのヴォイスの織り上げるレイヤーが重なり合いながら、一切の摩擦を感じさせることなく、するすると滑っていくなめらかさで皮膚感覚に触れてくるように思われた。
タダマス12-1
撮影 原田正夫


タダマス12-2 先に結論を言ってしまえば、今回はこれまで12回を数える「タダマス」の歴史(歴史だって! でも、うち11回は参加しているのだから、ちょっとくらい語ったっていいよね)でも出色の回となった。
 これにはゲスト外山明の貢献が大きい。ずいぶん前に姿を見かけた時に、空き時間にもドラム練習用のパッドをスティックで叩き続けていた印象が強烈で、「リズム職人」とばかり思い込んでいたのだが(告知記事の時も、そうしたイメージに基づいて紹介している)、実はそうではなく、リズムをひとつの回路として、演奏から録音再生まで、音の感触からアンサンブルの組織論まで、言葉に言葉をつなぐのではなく、感覚の糸をたどるようにして、はるかな深みまで降りていける人だった。
 まあ、すぐれたミュージシャンはみな、そうして深みへと至る術を持っているわけだが、それを積極的に言葉にしようとする者は少ない。それがふだんからの姿かどうかはわからないが(たぶん違うだろう。私は彼の言葉に「この場では語らなければならない」という強い使命感を感じた)、この日の彼は縦横無尽によく語った。
 そのハスキーで力強い、ちょっとやんちゃさを感じさせる声は、かぶっていたハンチングと相俟って、「憂歌団」の木村充揮のかつての姿を私に思い出させた。そういえば横顔も少し似ている気がする。外山と「内外」でデュオしている内橋和久に昔インタヴューした時、「好きなギター奏者は?」という質問に、木村充揮の名前を挙げられて、思わず「内田勘太郎ではなくて?」と訊き返したことがある。内橋は「いや木村さんがいいんです。ごきっごきっとまるでしゃべるように弾く。すごい」と話してくれたっけ。
 そうした外山と我らが「タダマス」の二人が見事なシンクロぶりを見せ、すかさず応じるとともに、彼の話を見事に引き出していたことも見逃せない。1階のカフェ・スペースに場所を移したアフターアワーズのトーク・セッションも大いに盛り上がったようだ(私は本編が終了次第、早々に失礼してしまったのだけど)。
撮影 原田正夫

 というわけで今回のリポートはいつものような自分の視点からの理論的な再構成ではなく、印象に残った場面の抜粋(それすら、とてもこなしきれないのだが)へのコメントとした。この回の、そしてこの会の素晴らしさを伝えるには、少なくとも今回に限ってはその方がずっと適切だと感じたから。なお、当日のプレイリストは次のURLを参照。
http://gekkasha.jugem.jp/?eid=954209



タダマス12-4 しんと静まり返った石庭を思わせる響きの点在。冷ややかにきらめき、揺らめきながら滑り落ちていく無調なピアノのつぶやき。モノクロームに沈んだヴァイブの閃きがぼうっと暗い染みに重なって空間に広がる中から、次第に管の振動が姿を現す。たとえアルトのブロウに至っても演奏は決して熱を帯びることなく、ただ影だけが通り過ぎる。「響きのブレンド感」を真っ先に挙げた多田と「鳴っている音自体よりも、音の気配や景色が浮かぶのが楽しい」と語る外山の耳は、同じ光景をとらえている。「ヴァイブの倍音をぶつけてモジュレーションを起こさせているが、ここでモジュレーションとはヴィジュアルで言えば『モワレ』のことではないか」と指摘する益子は、同じ光景を、それを織り成すレイヤーの重なりを透かして見詰めている。いきなり1曲目のTim Berne's Snakeoil「Son of not so Sure」(『Shadow Man』から)から3人のフェーズが揃い、すでに細やかな感覚の受け渡しが始まっている。「都会の公園的」との指摘は、アフリカはじめ現地でエスニック・ミュージックに触れてきた外山らしい。「リズムだけとか、役割を分担してしまうとイメージが浮かばない」との同じく外山による発言は、それの裏返しで彼らが「役割分担」による各々の役割に引きこもらず、そこから外へと踏み出して繁茂し、野生には至らない「都会の公園」であるとはいえ、自由に絡み合っていることを評価しているものととらえられよう。景色とはまさにイメージにほかならないのだから。


タダマス12-5 その反対に、「『これをやってます』感がして、湯に浸かっていて少しのぼせた、もういいなと感じた」と評されたのが橋爪亮督グループ「十五夜」(『Visible / Invisible』から)。その原因の一端は、以前に多田が明らかにしていたところの「役割分担としてのコンポジション」(「お前は虫、お前はススキ、お前は‥‥」)によるのかもしれない。だがむしろ、私はこの演奏に関して多田が表明していた「急いでいる感」に注目したい。以前に多田から聴かされた初期のライヴ・バージョン(多田が激賞していたもの)では、演奏者たちの姿は深い闇に沈み、演奏は盲いたまま腕を伸ばして空間を探索するように、まさに「手探り」で繰り広げられていた。それゆえ闇は匂うほどに濃密さを増し、行く手を阻まれた時はその流れを緩め、空間はねっとりとたゆたうこととなる。だからこそ黒い雲の向こうから顔をのぞかせるサックスのメロディが、あれほどまでに目映く浮かび上がるのだ。そうした迂回と逡巡に満ちた混沌たる闇が姿を消し、互いの姿がくっきりと浮かぶ透明な空間で演奏される「十五夜」は思わず先を急いでしまい、「虫になること」を求めて暗中模索した道程は「虫を演じるメソッド」に置き換わって、互いの役割分担の境界をまざまざと示してしまったのではないか。私には音が点景的で空間への滲みが少ないように感じられた(これはおそらく録音の問題ではない)。それにしても外山と多田のシンクロ率の高さには驚かされる。なお、ここでは「十五夜」の演奏としてはかつてこれを上回る奇跡的名演(の非公式録音)が存在した‥と言っているだけで、『Visible / Invisible』に収められた各演奏の素晴らしさは、改めて保証したい。


タダマス12-6 益子と外山のシンクロも負けてはいない。Mary Halvorson Trio「Of Colorful White Finds」(『Ghost Loop』から)に関しての外山のコメント「いっしょにやったら面白いかな」は、たぶんこの日一番の賛辞ではないか。その後、益子の「おいおい、そっちへ行くか‥‥という『はぐらかし』がある」との発言に、外山が「『はぐらかし』とは聴こえない。嘘とか作為ではない」と応じて、一見、二人の意見が食い違っているように思われるかもしれないが、その後の外山の「欲望による音楽の生成のプロセスがあり、出来上がった形はそのある時点での断面に過ぎない」とか、「教えたり、まねしたりできるのは、その出来上がった形の方」、あるいは「天然と養殖の違い」といった発言を聞けば、彼の指摘が、気持ちよさ、ずれていく(いってしまう)、触覚や皮膚感覚、同期/不同期といったキーワードを巡って展開されてきた益子の耳の軌跡とぴたりと重なり合うことがわかるだろう。益子の言う「はぐらかし」とは演奏者側の意図や戦略ではなく、聴き手の側の身体的反応を指しているにほかなるまい。私も彼女のこれまでの作品にもまして「踏み外し」感を強く感じた。音数が絞り込まれ、メロディがポップになっている分、「断層」での「踏み外し」が身体を強烈に揺さぶるのだ。足が空を蹴り、瞬間、身体が宙に浮く。


タダマス12-7 タダマス12-8
 このポップさも興味深い論点だ。これまでにも益子は「タダマス」の中で、NYダウンタウン・シーンの「ポップ化」を指摘していたが、私の耳にはそれほどポップには聴こえず、あくまでも「ジャズ」という枠の中の話のように思われた。だが、この日は違った。続いてかけられたBen Allisonや最後を飾ったRJ Millerは言わば「ジャズ」の一線を鮮やかに踏み越えて、晴れ晴れと吹っ切れたポップさをたたえていた。しかも前者であれば、あり得ない方向に陰影が付いて立体がねじれていくような感触、後者であればトイ・ピアノやオモチャの鉄琴へと解体され、改めてブリコラージュされるサウンドの只中を、あり得ない不思議な光のもやが心霊現象のように移ろう‥‥といった、これまで「タダマス」が指摘してきた「あの感触」を保ったままで。


タダマス12-9 タダマス12-10
 この日の参加者には、Kris Davis「Ten Exorcists」(『Massive Threads』から)が高評価だったようだが、彼女のピアノをリトル・パーカッションの集合体へと異化するプリペアドよりも、私としてはJakob Bro「Tree House」(『December Song』から)における響きの掛け合わせの妙を採りたい。Jakob Broは「Tabornのピアノを前提に曲を作った」と語っているとのことだが、これまでのTabornの演奏で聞かれた、グリッドが精密に積み上げられていく感じ(これは最後に今年のベスト10入選作品として紹介された彼のピアノ・トリオ作『Chants』にもしっかりと聴きとれた)がとらえられないのだ。Jakob BroとBill Frisellのギターが中空で溶け合ってつくりだす柔らかな広がり、不確実に漂う輪郭の移ろいの陰で、揺らぎ、もやつき、崩れていき、決して積み重ならないピアノの響き。最初からラインを描いて横にずれていくピアノではなく、垂直に積み重なるTabornを選びながら、あえて積み重ならないように崩していくことにより、崩壊感覚をさらに強めようとしたのだろうか。実際、二人のギターがつくりだす、ほわほわのエンジェル・ヘアーのかたまりに、ピアノの響きが淡いかげを施していく様には、本当に聴き惚れてしまった。暮れなずむ西の空に、それでもすでに太陽自体は沈んでしまい、あたりにはもう闇が迫りながら、空に広がる白く柔らかな雲には、まだ夕日の色合いが絵筆の跡のように残っている‥‥とでも言うような。本来なら軋み音をたてずにはいない古い木の階段を、音を立てずに一歩一歩確実に踏みしめながら昇っていくThomas Morganのベースも実に素晴らしい。彼にしか成し得ない演奏と言えよう。だからLee Konitzのアルトがしっかりとした足取りで揺らぐことのないメロディを運んできてしまうと、夢うつつから揺り起こされたような気分になってしまうのだが。


 「『これがジャズだ』と思って聴いてきた音楽の集積が、その人にとっての『ジャズ』だ」という加藤総夫による定義はオールマイティで便利だが、何によって「ジャズ」であるかないかを判断するかでちがってくる。通常は特徴あるフレーズやリズム、コード感等の集積としてだろう。ヴォキャブラリーやイディオムとしてのジャズ。けれど益子や多田、外山は、彼らがジャズについて語っていると仮定しての話だが、それを演奏者間の関係性のあり方において見ている。外山による「おでんのだし汁に具材の味が溶け出して混じり、それがまた別の具材にしみ込む。だからうまいんで、仕切りをしていたら混ざらない」という話は、まさにこのことを指している。もちろん、それは音楽のイロハの「イ」だということもできる。その一方で、クリック・ガイドだけを頼りにバラバラに演奏した音響を、プロ・トゥールスで重ね合わせ、化学調味料を振りかけただけの音楽も山のようにある。
 演奏者が互いに感応しあい、触発しあう様子を、しかもミュージシャンの身体の意識の動きを超えて、響きにフォーカスして聴き取ること。時間だけでなく空間に注目し、楽器音以上に響きへと耳をそばだて、いや全身の皮膚をすら「ぞぞけ立」たせて。それを彼らは実践し続けている。そこにこそフリー・インプロヴィゼーション、エレクトロ・アコースティック・ミュージック、トラッドやエスニック・ミュージック、ヴォイスの様々な変容、ドローン、フィールドレコーディング等が重なり合う「綴じ目/結び目」への回路が開けているのではないか。私はそう感じながら、「タダマス」に通い続けている。彼らと同じ光景を別の方向から見詰めている気がして。ジャズ・センター? 冗談じゃない。「ジャズ」というジャンル自体にはほとんど何の価値も置いていない私を惹き付け続けているのはそんなものではない。20年前? 何を細かいことを言っているんだ。Derek Baileyの言う通り、人類最初の音楽演奏はフリー・インプロヴィゼーションでしかあり得なかった。400万年は前のことになるだろうか。そして録音技術こそまだないものの、あたかもいま我々がフィールドレコーディングを聴くように、原哺乳類が空間の響きに耳を澄ましたのは2億年以上も前のことだったはずだ。

※この日の参加者はみなそれぞれに感銘を受けたようで、すでにFacebook等にもリポートが載っています。どうぞご覧になってみてください。ホストのひとり、多田雅範による次の覚え書きもぜひお読みください。
http://www.enpitu.ne.jp/usr/bin/day?id=7590&pg=20140126
http://www.enpitu.ne.jp/usr/bin/day?id=7590&pg=20140127
http://www.enpitu.ne.jp/usr/bin/day?id=7590&pg=20140128


タダマス12-3
「逆襲のシャア」ならぬ
「逆光のタダ」  
撮影 原田正夫

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ライヴ/イヴェント・レヴュー | 23:00:15 | トラックバック(0) | コメント(0)
「実験工房展 戦後芸術を切り拓く」@世田谷美術館レヴュー  Review for Exhibition of "Jikken Kobo (Experimental Workshop) − Creating the Postwar Art" at Setagaya Art Museum
実験工房0 武満徹や湯浅譲二、福島和夫といった作曲家や山口勝弘、大辻清司といったヴィジュアル・アーティストが参加していたことで知られる「実験工房」の展覧会が開かれていることをFBの書き込みで知り、遅ればせながらようやく馳せ参じた次第。




1.導入
 受付から渡り廊下を通って展示スペースに入ると、降り注ぐピアノ音響の破片に出迎えられた。見上げると高い吹き抜け状の天井から冷ややかな銀色に輝く金属板のモビールが吊られていて、何の動力もなしにゆっくりと回転している。その向こうにはやはり金属板による羽根のかたちを連ねた大きなオブジェ(舞台装置)が見える。音は実験工房の作曲家たちの作品をエンドレスで流しているようだ。まばらな音の移ろいに時折、モビールが回転する際の軋みが混じる。壁面に充分な間を取って、視覚作品が掛けられている。
 山口勝弘「ヴィトリーヌ 空虚な眼」は、木箱の中に抽象的な形象と雑多な素材によるコンストラクションを収め、表面を型板ガラスで覆っている。それゆえコンストラクションはセザンヌ的な方形の色彩の分割としてしか見ることができない。後に山口がヴィデオ・アーティストとして名を為し、デジタル画像処理に手を染めることを予言しているようにも見える。北代省三「回転する面による構成」のシリーズ連作は、複数の面の奥行き/パースペクティヴが互いに交錯/貫通するように配置される。大辻清司による写真はモノクロームに静まり返った音の無い世界を写し取っており、駒井哲郎の版画作品もまた、無言で浮かび上がる形象が、互いに衝突することなくすれ違い通り抜けるよう配置されている。後に噴き出す線の強さや明るい色彩はここにはまだない。
 仕切り壁に設置されたCDプレーヤーで作曲家たちの作品を聴くことができるようになっている。ヘッドフォンを耳に当てプレーヤーを操作しながら、いま通り抜けてきた空間を振り返ると、そこはますます静まり返りながら、聴こえてくる音を通して眺めてもまったく変わらないように見えた。ここには不思議な照応が結界のように張り巡らされている。何か高次元のモノが存在し、それを音響/時間軸に射影すれば音楽が生まれ、平面に投影すれば絵画や写真となって浮かび上がり、立体に写像すればオブジェが立ち上がるとでもいった具合に。
 CDには複数の作曲家の複数の作品が収められているのだが、プレーヤーにはいま何曲目が演奏されているか表示されず、またスイッチオンすると、前に聴いた誰かがスイッチオフしたところから再生が始まるようになっているので、壁にトラック・リストが表示されているにもかかわらず、いま聴いているのが何番目のどの曲かわからないようになっている(まあ実際には曲により編成が異なる場合があるので、スキップを繰り返せば現在位置は推定できるのだが)。それが誰のどの曲であっても、いまこの場で聴く限り、「結果」は(あるいは「効果」は)はまったく変わることがないのだと言わんばかりに。
実験工房1 実験工房2


2.前夜
 「Ⅰ 前夜」と表示されたスペースへ進む。先ほどの導入部でひとり静謐に至らず荒々しい煩悶を繰り広げていた福島秀子の絵画も、ここではモンドリアン的な暖かな抽象に収まっていて、北代の絵画と隣り合い同じ方向を向いておとなしく腰掛けている。北代と山口のコンポジションもまた、その落ち着いた幾何学性により美しく友愛的な相似を描いている。さらには山口による「ヴィトリーヌ」連作に向けたスケッチ群が眼差す世界は、北代による「回転する面による構成」と寸分違わずぴったりと重なり合っている。大辻の写真が示している図像的なコンポジションの強さを、先の福島/北代と北代/山口の間に置けば、連なりの感覚はより一層強められるだろう。彼らに強い影響を与えた瀧口修造と岡本太郎の間の大きな差異を越えて、ここにはすでにある共通のものが芽生えてきている。そのことにすぐ気づかざるを得ないのは、先ほどの導入部の「結界」の作用にほかなるまい。


3.最中
 続く「Ⅱ 実験工房」と題されたスペースでは、彼らの共同作業による作品が多く展示されている。舞台演劇、オート・スライド、映画等を通じて、音楽と造形、写真や映像が結びつけられる。そうしたなかで幻の作品とも言うべき松本俊夫『銀輪』が観られたのは収穫だった。この映像作品について詳しく見てみることにしたい。ここに導入空間に張られた不思議な「結界」を解く鍵が潜んでいるように思うからである。

 作品は絵本を見る少年の映像で始まる。ページをめくるたびに異なる画風の絵が現れ、やがて車輪が墓標のように立ち並ぶ不思議な風景(実写)を経て、画面は抽象的な運動にその場を譲り渡す。白い粒子が運動し、奇妙なかたちの曲線(自転車のドロップ・ハンドルであることはうすうすわかるが)が揺れ動き、パチンコ玉が流れ散らばり、フレームの三角形が転写/増殖し、大きな歯車が回転して、外周の輪だけになった車輪の浮遊から、やがて画面一杯に車輪(ハブもスポークもある)の回転が映し出される。このように断片化された自転車各部の抽象的な運動のコンポジションに続き、ついに総体としての自転車が姿を現すが、それはやはり画像がふわふわと浮遊したり、波板ガラスの向こうで回転するに留まり、人が乗って走行する自転車は決して姿を現さない。
 次いで再び少年が姿を現すが、彼の視線の先では母と姉くらいの年齢の女性二人が、床に置かれた銀色の輪を拾い集め、あるいは転がしている。この不思議なインサートに続き、ようやく人の乗る自転車の映像が姿を現すが、それは低速で揺るぎなく移動する映像の連続反復で、硬質の形象的輪郭を持ったものであり、「躍動感」といった身体的な運動感覚をまったく感じさせないものとなっている。
 その後は、前半は部品レヴェルで展開された運動の抽象的なコンポジションが、「人の乗った自転車の走行映像」を素材として再び繰り返される。そこに「見る者」として立ち会う少年の姿がいかにも余計だ。映像はループとなり、自転車に乗って走る少年の上半身を正面からとらえた映像と組み合わされる。次いでおそらくは「走る自転車から眺めた」と位置づけられるであろう風景が流れる。そこでも風景は変わること無く、通り過ぎる柱等が繰り返しのリズムを刻んでいく。やがて映像は絵本の上に身を伏せてうたた寝している少年の姿に切り替わり(さきほどまでの映像は少年の見た夢ということか)、目を覚ました少年が絵本を閉じるところで終わる。

 ここで注目すべき点は三つある。まずは抽象的な形象の運動が、順行/逆行/反復等により、「絶対映画」とでも呼べるような仕方で構造的にコンポーズされていることである。これはオート・スライド作品や「未来のイヴ」、「月に憑かれたピエロ」等の舞台演劇にも共通している。ここでモデルになっているのは明らかに「音楽」にほかならない。実際、これらの映像のコンポジション感覚は、実験工房の作曲家たちのこの時期の作品と見事に共通している。
 「銀輪」が映写されているスペースの反対側に黒いカーテンで閉ざされた部屋があり、そこでは『実験工房』(NHK「現代の音楽」アーカイブシリーズ)のCD(ナクソス・ジャパン)が小さなBOSEのスピーカーから連続再生されていた。当時の録音(1957/59年)で聴く彼らの作品は明らかにある共通の肌触りを有している。
 さらりと冷ややかなべとつかなさ。重ならず混み合わない空間の見通しのよさ。まぶしさのない眺めと密やかなきらめき。現れては消えていくかたち。長くは続かない息。切断を感じさせない不連続。身体を感じさせず、聴き手の身体にも働きかけない(触れてこない)あり方。だから抽象的な構築にもかかわらず固さや重さ、マッスとしての存在感や押し付けがましさを感じさせない。それは「熱い抽象」ではないばかりか「冷たい抽象」でもない。言ってみれば密度を持った物質ではなく、限りなく希薄な「気配」の抽象性である。それゆえフォルテやクレッシェンドも音が聴き手にぶつかってくることはなく、気配ばかりが高まる。
 この地点から振り返ると、「回転する面による構成」のコンポジションが、空間の集中/凝縮力を持たず、複数化しながら相互の軋轢や衝突を感じさせないことが、共通の特質として見えてくる。それは調停された「調和」というよりも、干渉しない/分割しない/占有しない/‥‥といった「共有された節度/佇まい」によって、身体を排除あるいは希薄化することによってもたらされた関係性の「自由」なのだ。そこでは明らかに個々の身体の差異が消去されている。温度感や明度感の共有によって。暑くもなく寒くもなく暗くもなくまぶしくもない密やかに落ち着いて思索に耽ることのできる音の無い場所。

 この身体の排除が二番目の論点である。先に述べたように少年の身体の「余計さ」は『銀輪』において際立っていた。図像としての硬い輪郭を守ったまま通り過ぎるレーサーたちのはるかに逞しい「身体」はまったく邪魔ではないにもかかわらず。ここで少年は映画を見る者の「視点」として、「少年の見た夢」という物語を発動するための「装置」として、いわば「音楽」に従った映像のコンポジションとは別の原理から、映画に導入されている。それゆえにレーサーの身体のような抽象化/素材化を施せなかったのだろう。舞台演劇でも俳優の身体のプレゼンスが問題となる。実験工房の面々によるシェーンベルク「月に憑かれたピエロ」の上演が仮面劇として、象徴的かつ装飾的な衣装とともに身体を包み隠して演じられたことを思い出そう。あるいはやはり彼らによるバレエ「未来のイヴ」の上演において、幾何学的な舞台装置とシルエットが多用され、オート・スライド作品で用いられた紙製の人型オブジェを模した演出が為されていたことを。
 さらに付け加えるならば、武満徹と鈴木博義による『銀輪』の付帯音楽は、彼らの通常の作曲とはまったく異なる甘ったるくムーディな、夢であることを最初から暗示するようなものとなっている。これもまたここでの映像コンポジション原理である「音楽」とは異なる原理から、付帯音楽が要請されたためではないだろうか。先ほどの黒いカーテンで閉ざされた部屋でスピーカーから流れてくる音に耳を傾けていると、外から入り込んでくる『銀輪』の付帯音楽に音が掻き消され、押し流されてしまうことが何度もあった。これはそうしたシチュエーションの体験を意図した一種のインスタレーションなんだろうか(そんなわけないって)。

 三番目の論点は『銀輪』における奇妙な二つのインサート・カットである。絵本を見る少年から抽象的な映像コンポジションへ移行する際に挿入されるまるで墓標のようなオブジェと、レーサーの身体を伴った走行する自転車全体の映像が現れる直前に挿入される、二人の女性の輪拾いと輪転がし。このどこか寺山修司を思わせる土俗的な光景(墓標のショットは恐山や賽の河原を、輪拾いはやはり賽の河原の伝承を思わせる)は、後の『ドグラ・マグラ』へとつながっていく暗い血筋とでも言うべき、松本俊夫の作家性の刻印なのだろうか。後に「実験工房」の作家たちは、皆それぞれの仕方で日本回帰を遂げていくわけだが、それはすでにこの時点から胚胎していたのではないか。
実験工房4 実験工房8

実験工房3 実験工房5

実験工房6 実験工房7


4.後日
 展示の最後のスペースは「Ⅲ 1960年代へ」と題され、1970年の大阪万博までを採りあげている。たとえば1969年に開催された伝説的イヴェント「クロス・トーク インターメディア」の大辻清司による記録写真等、貴重なものも観られるのだが、全体としては展示内容が希薄に拡散してしまい(当時の音楽雑誌とか、レコードのジャケットだけ展示されても‥)、いっこうに像を結ばない。まあ、「実験工房」の各作家たちは、それぞれ自己実現に向けて飛び立ちました。めでたしめでたし‥ということなのだろう。
 だが、そこに切断となる契機はなかったのか。展示は確かに複数の可能性を示唆してはいる。ジョン・ケージの来日、フルクサスの影響、そしてメディア・テクノロジーの発展。彼ら自身の「出世」や先立つ世代の引退もあるだろう。そしてもちろん高度経済成長期の日本社会の変貌(経済だけでなく政治的にも)も。
 個人的には先ほど指摘した彼らの音の身体性/物質性の希薄さに対する「ジョン・ケージ・ショック」※の大きさを強調したいところだが、無論それだけに還元できるものではない。「実験工房」の中でもミュージック・コンクレートや電子音楽系の流れをもっと視野の中心に据えれば、別の景色が見えてこようというものだ。各巡回展示の中で、川崎弘二がその辺をレクチャーしていることは評価したい。
※http://miminowakuhazushi.blog.fc2.com/blog-entry-214.htmlを参照

 日本の前衛について考える際、「実験工房」という存在は瀧口修造周辺の動きとしてくくられてしまって、これまであまりクローズアップされてこなかったように思う。もちろん武満徹や湯浅譲二は以前から個として注目されてきているわけだが。今回感じた「結界」とも言うべき緊密な照応関係を思えば、単に武満や湯浅を育んだ交友関係といった位置づけではなく、彼らの活動、さらには彼らの思考を可能とした条件について、より深く考えを巡らせるべきではないだろうか。さらには抑圧された貧しい身体を置き去りにして、音楽的抽象へと羽ばたいた想像力の在処と行方について。

 最後にひとつ触れておきたいのは福島秀子のことだ。作曲家である福島和夫の姉である彼女の絵画は、やはり今回の展示の中で異彩を放っていた。そこには粘度が、破綻が、抽象へと熱く向かう切断が、息の長い集中と鬱陶しいほどの見る者への訴えかけが、皆で同じ景色を見ながら互いに摩擦なく通り抜けあうのではなくでんと居座って場所を占めてしまうどうしようもない身体の存在の重さが、つまりは他のメンバーにはないすべてがあるように思われた。
 それと似た異物の噴出を、『銀輪』に続けて付録のように上映されている、わずか4分半の『キネカリグラフ』(大辻清司・石元恭博・辻彩子による)に垣間見たような気がした。フィルムに直接傷をつけて映像をつくりだすこの手法は、結果が偶然に大きく左右される。だから、この混沌とした色彩と形象の噴出が、制作者の意図したところのものであるかどうかはわからない。だが、私にはむしろこの作品が、厳しい自己検閲をくぐり抜けて流出した彼らの内面に渦巻く葛藤の吐露、いや無意識の暴露であるように映ったのだった。
実験工房10
福島秀子の絵画作品

実験工房11 実験工房12
ナクソス・ジャパン盤   fontec盤


実験工房展 戦後芸術を切り拓く
世田谷美術館
2013年11月23日〜2014年1月26日
実験工房9



アート | 23:23:15 | トラックバック(0) | コメント(0)
冬の空気に耳を澄ます  Whisper of Winter Atmosphere
 振り返れば2013年はstilllifeの二人、津田貴司と笹島裕樹にナヴィゲートしてもらった1年だった。ちょうど一昨年のクリスマスの頃、小野寺唯主催のリスニング・イヴェントStudy of Sonicで、私は金子智太郎といっしょに前半のレクチャーを担当した。津田は後半のライヴに登場した(この時はhofli名義)。その時の様子はイヴェント・レヴューとしてブログに掲載したところである(*1)。そこから少々抜粋しよう。

 sawakoのPCからカラカラ、コトコトと小石を踏みしめて歩くような感触の音の細片が振りまかれ、一方hofliは少し水を入れた巻貝をゆったりと揺すりながら客席を巡り、ステージに到着してからもそれを続け、あるいはやはり水を入れたガラス壜を叩いた音を拡散させる。ミュート加減の丸みのある音が気泡のようにゆっくりとたちのぼる。後に続くアーティスト・トークでsawakoが語った通り、森を散策するようなゆるやかな眺めの変化が魅力的。会場内に8基がランダムに配置された無指向性スピーカーKAMOMEの「散在する点音源」としての特性を最も効果的に活かしていたのは、このペアかもしれない。各スピーカーは覗き込めば響きが湧き出す泉と化していた。聴衆が最も頻繁かつ流動的に会場内を歩き回っていたのも、このペアの時だった。もちろん一番手だったし、しかも演奏者であるhofliが率先して歩き回った性もあるだろうが、通常はコンサートで主催者がいくら「どうぞご自由に歩き回ってください」と呼びかけても、ほとんど動かないのが日本の観客である。それをこれだけ動かしたのは、やはり二人の演奏の魅力ゆえではないか。

 ライヴに感銘を覚えた私は、会場で愛らしいパッケージに包まれたhofliのCD2点を購入して帰る。それをすぐに自宅で聴いて、その耳の確かさに舌を巻いた私は、すぐさまディスク・レヴューを執筆している(*2)。これも少し抜粋してみよう。

彼のつくりだす音は、いつもすべすべした丸みを帯びて、まぶしさのないうす曇りの視界に浮かび上がる。こぽこぽ。たぷたぷ。ミクロな揺らぎがシャボン玉のようにはじけていく。

 それらは新たに音風景を構成するというより、広がる風景の中の埋もれた一点景にほのかな光を当てる。彼は背景を塗りつぶしにかからない。耳の視界の片隅に何か小さな取るに足らないものを見出し、あるいはそっと付け加える。寒々とした風景に淡い色合いとわずかばかりの温もりが加わる。それらは何か見慣れた「もの」の形をしていたり、あるいは日常から切り取られたさりげない一場面だったりする。

                 ☆
晴れ渡った夜空にまたたく、明るい冬の星座の星々に耳を傾ける。
                ☆☆
風の強い夜、小さな木立の葉枝の鳴りにどこまでも続くうっそうとした森林を思い浮かべる。
                ☆☆☆
眠れない夜、冷蔵庫のコンプレッサーの低いうなりと水道管の立てるこぽこぽした水音の間の空いた会話に耳を浸す。
               ☆☆☆☆
ベッドサイドのスタンドを灯し、机の隅に置かれた小さな鉢植えや家族の写真をぼんやりと照らし出す。
               ☆☆☆☆☆
しんしんと雪の降った翌朝、軒先から滴る雪融け水のしずくに、ベッドの中でまどろみながら耳を澄ます。
              ☆☆☆☆☆☆

 昨年の前作『水の記憶』が、まるで林の中に「庭」をつくるように響きの点景を配置するのに対し、今年の『雑木林と流星群』(タルホ的!)では、ひとつひとつ置かれた簡素な音が、ゆっくりと辺りを照らし出していく。


*1 http://miminowakuhazushi.blog.fc2.com/blog-entry-206.html
*2 http://miminowakuhazushi.blog.fc2.com/blog-entry-207.html

 音が景色や物語を呼び覚ますことは多いが、音に耳を傾けている場面、聴き手を含めた物語を浮かび上がらせることは滅多に無い。これは貴重な出会いだと感じた。
 その後しばらくして、彼から新作CDについて文章を書いてほしいと依頼を受けた。「まずは音を聴いてから」といつも通りの流儀で回答を保留して(失礼な話ではあるが)、早速、デモ音源を送ってもらった。聴いてみると、それはまた『雑木林と流星群』とはまったく異なる達成だったが、耳の眼差しの強さ、そしてそれゆえの響きに対する優しく繊細名手つきは一貫していた。これも音を聴きすぐさま執筆した紹介文を載せておこう。

hofliの前作『雑木林と流星群』が眼を閉じて外に耳を澄まし、そこに結ぶ景色を浮かび上がらせたのに対し、今回の『LOST AND FOUND』は眼を開き外を見つめながら、内へと耳を凝らし、血流の脈動や神経の高鳴り、思考や感情の移り変わりを音のつぶやきとしてとらえている。だからそこに風景が結ぶことはない。寄り添うべき枠組みはなく、代わりに五感を触発する響きが戯れ、聴き手は一人ひとり景色のない物語を編み上げることになる。指先に触れてくる電子音、鼻腔をつんとくすぐるギター、がらんとした空間に滲む暗さ、枯れ葉を踏む足音の向こう鳥が囀り、ゆっくりと日が暮れていく。ぜひ窓を開けて、外から入り込んでくる音とともに聴いてほしい。

 開けられた窓から入り込む音と混じり合い、聴き手のたてる物音や聴き手の身体の内部の響きとひとつになることによって、『LOST AND FOUND』から『雑木林と流星群』へと新たな回路が開かれ、聴き手の耳に別のスイッチが入ることだろう。

 私は彼にライヴの予定があれば連絡してほしいとお願いした。すると驚いたことに、届いたのは笹島裕樹とのユニットstilllifeによるライヴの知らせだった。というのは、以前から密かにフィールドレコーディング・アーティストHiroki Sasajimaに注目していたからにほかならない。Takahisa Hiraoとの『Hidden Bird's Nest』(3 Leaves)やJames MacDougallとの『Injya』(Unfathomless)はすでに聴いていたし、彼の単独名義による『Bells』には特に引き込まれて2012年にディスク・レヴューを書いている(*3)。これも引用しておこう。

 フィールドレコーディングした自然/環境音をあまり加工しないフォノグラフィー(=音による〈写真〉)的な作家ととらえていた笹島裕樹には珍しく(?)、分厚いドローンが前面に展開されており、物音はその向こうで暗闇を透かし見るようにかそけき響きを立てるばかりで、ほとんど現実の音とは思われない。まだ幼い頃、海で遊んでいて気付かぬうちに浜辺から遠く離れてしまい、懸命にもがく足先に深みに淀む冷たい水が触れた瞬間の、重苦しくまとわりつき、粘っこく引きずり込むような、底知れぬ〈虚無〉の感覚がここには宿っている。美麗にきらめくドローン・アンビエントが多数を占める中で、この胸にのしかかる重さ(「金縛り」時の息苦しさを思わせる)はほとんど異様と言ってよい。これまで数作聴いてきた彼の作品で最も素晴らしい。やはり40分以上に及ぶ1トラックのみ。ちなみにベルらしき音は聞こえない。
*3 http://miminowakuhazushi.blog.fc2.com/blog-entry-148.html

 そのように注目していた二人のアーティストが、広い意味では「フィールドレコーディング系」とくくれもしようが、しかし資質的には全く異なるととらえていた二人が組んで、しかも非楽器・非即興・非アンサンブルという抑制の下、気配と静謐を奏でるという。これは器楽的インプロヴィゼーション、エレクトロ・アコースティックなインプロヴィゼーション、物音や背景音はじめ音風景/空間をとらえたフィールドレコーディングのトライアングルを設定し、その三者が滲み浸透しあうアンフォルムかつオールオーヴァーな様相を聴き取ることに可能性を見出そうとしていた私にとって、まるで良く出来た冗談みたいに事の核心を突いていた。

 そこから二人を追いかけているのは最近のブログの通りである。これに益子博之と多田雅範が見つめている景色を重ね合わせると、さらにいろいろな可能性のあり方が鮮やかに浮かび上がってくることだろう。

 stilllifeの二人に制作中というCDのことを尋ねると、「夜中、山でフィールドレコーディングしていたら、鹿が出てきた」なんていう話をしてくれる。彼らの本質は、それこそ山間の谷川のほとりか何かで、夜中から夜明けまで5時間ぶっ通しで演奏してもらうぐらいのことをしないと明らかにならないのではないかと、かなり本気で思っている。なので、今度、益子の里山に広がる自然の中での演奏にはとても期待している。立川で戸外の虫の音や床の軋みに耳を澄ましたり、こちらは都会の片隅「喫茶茶会記」でキャンドルの炎の揺らめきがかざされたガラス瓶の水の動きに溶け広がるのを眺めるのも楽しかったが。

 というわけでライヴのフライヤーを転載しておく。なお、ライヴに先立つ第1部ではワークショップ「みみをすます」が開催される。
益子5
益子1
 詳細はhttp://www.malplan.com/satoyama/で確認していただきたい。

ライヴ会場は建築家である主催者の自宅とのこと。次のURLに写真があります。う〜ん。すてきですね。http://100life.jp/feature/5528/
 ちなみに私も参加予定。すでに当日の宿も予約済み。公共の宿泊施設のようなのだが、曲線が美しい。内藤廣の設計とのこと。
益子2

ちなみにこれらの施設の設計が内藤廣。
益子3 益子4

ライヴ/イヴェント告知 | 00:48:35 | トラックバック(0) | コメント(0)
震えを探る指先の軌跡  Traces of Fingers Exploring Vibrations
 やはり益子博之が主催する企画としてもうひとつ継続しているのが、橋爪亮督とのデュオ/トリオを組織して響きの触覚を探るライヴ・シリーズ「tactile sounds」であり、ここで益子はプロデューサーに徹している。
 「四谷音盤茶会」と同じ空間でライヴ演奏を聴くことは、友人宅のリヴィング・ルームに招かれたような親密な距離の中で生の響きと触れ合うことのできる、とても貴重で贅沢な時間の過ごし方だ。まるで音楽の方からドアをノックして、わざわざ自室を訪ねてくれたような。
 これまで心を惹かれ続けながら、第1回に出かけて以来、ずっとご無沙汰していた企画に今回久方ぶりに参加してみようと思い立ったのは、やはり森重靖宗の存在が大きい。チェロから空間を鋭く切り裂く響きを放ちながら、あるいはもうすでに聴き取りようもなく空気に溶けてしまったピアノの余韻にそれでも耳を傾けながら、森重の指先はチェロの弦の、胴の、ネックの震えを尋ねてさまよい続け、押し下げられたピアノの鍵盤を通じて、内部に張られた弦の振動をまさぐることを止めようとしない。
 そうした彼の指先が、橋爪の常にメロディと共にあり、そしてメロディとともに霧散してしまう響き(まるで冷え込む夜に吐く白い息のように)と、どのように触れ合い重なりあうのかを思い浮かべるだけで、肌に震えが走る。これは聴かねばなるまい。


 以下は益子による「tactile sounds」(※)ページからの転載。
※http://tactilesounds.blog.fc2.com


tactile sounds vol. 14
2014年 2月 22日(土) open 19:00/start 19:30

橋爪亮督 - tenor & soprano saxophones
森重靖宗 - cello
中村 真 - piano

■会場
綜合藝術茶房 喫茶茶会記
東京都新宿区大京町2-4 1F 〒160-0015
詳細:綜合藝術茶房 喫茶茶会記

■料金  ¥2,800(1ドリンク付き)

■ご予約・お問い合わせ
綜合藝術茶房 喫茶茶会記
tel:03-3351-7904(15:00~23:00)
sakaiki@modalbeats.com(標題をtactile sounds vol. 14としてください)


tactile sounds 14 茶会記案内図


ライヴ/イヴェント告知 | 00:30:09 | トラックバック(0) | コメント(0)
タダマスのマジェスティック12  Majestic 12 for "TADA-MASU"
 益子博之と多田雅範によるNY「ジャズ」シーン定点観測「四谷音盤茶会(通称TADA-MASU)」もいよいよ3シーズン目の最終回を迎える。今回は2013年第4四半期分の選盤とあわせて2013年のベスト10が発表されるはずだ。
 彼らの耳の確かさは、日本のジャズ・ジャーナリズムの水準を遥かに見下ろす高度で楽々と跳び越えて、地球の裏側アルゼンチンの批評家/ミュージシャンによる選盤と見事に共振を果たしていることで知れよう。ぜひ次のリンクを当たってみていただきたい。
 http://elintruso.com/2014/01/15/encuesta-2013-periodistas-internacionales/
 http://elintruso.com/2014/01/15/encuesta-2013-musicos-internacionales/

 私はこれらのセレクションを「ふむふむ‥なるほど‥」といちいち頷きながら読み進めることができたのだが、それらの見聞体験を与えてくれたのが、すべて「四谷音盤茶会」だったことに改めて驚かずにはいられない。後追いで「文物」として輸入可能な情報を披瀝するのではなく、リアルタイムで己の嗅覚/味覚だけを頼りにつかみとられたブツだけがゴロンと放り出され、生々しさが匂いたち、新鮮さが汁となって溢れ出る。ここで「茶会」とはそうした野蛮にして高貴な饗宴にほかならない。

 今回のゲストは、伝説のTipographica以来、リズムのずらしの実践に関して常に第一人者であり続ける外山明。最近の「タダマス」の主要な論題である「同期/不同期」について、彼がどんな側面を指差してくれるかも要注目だ。


 以下は益子博之による「四谷音盤茶会」告知ページ(※)から転載。
 ※http://gekkasha.jugem.jp/?cid=43767


益子博之×多田雅範=四谷音盤茶会 vol. 12

2014年1月26日(日) open 18:00/start 18:30/end 21:30(予定)
ホスト:益子博之・多田雅範
ゲスト:外山 明(ドラム&パーカッション奏者/作曲家)
参加費:¥1,300 (1ドリンク付き)

今回は、2013年第4 四半期(10~12月)に入手したニューヨーク ダウンタウン~ブルックリンのジャズを中心とした新譜CDのご紹介と、2013年 年間ベスト10の選考結果を発表します。10年代に入って4年目を迎え、周辺領域との境界はますます曖昧になり、スタイルのポップ化は更に進んだように感じます。

今回はゲストに、ドラム&パーカッション奏者/作曲家の外山 明さんをお迎えすることになりました。ジャズに留まらない多彩なプロジェクトに参加する一方、毎年のようにアフリカを訪れ、現地のリズムに慣れ親しんできた外山さんは、現在のNYの動向をどのように聴くのでしょうか。お楽しみに。(益子博之)

 茶会記案内図

ライヴ/イヴェント告知 | 23:43:46 | トラックバック(0) | コメント(0)
竹田賢一『地表に蠢く音楽ども』について  On "Musics Wriggling on Earth" by Ken-Ichi Takeda
 ずっと手に取る機会がなくて、ソウルに向けて旅立つ前日にTower Record渋谷店で入手。行きの飛行機から読み進める。到着後しばらくして、妻から移された風邪(ノロ?)でダウンし、その後は別の本にチェンジ。気力が少し回復した滞在後半、また、読むのを再開し、帰りの飛行機でとりあえず読了。私の身体の忌避反応が率直に示しているように、読み手の気力・体力を求める本だ。その後もぱらぱらと読み返しているが、「消化」できた感じがしない。長期間に渡って書かれた文章の「集成」であることが、一点からの見通しを難しくしている部分もあるだろう。‥‥というと「散漫」との誤解を与えてしまうかもしれないので付け加えるならば、内容は編集によりかなり絞り込まれており、私自身、竹田賢一の文章を網羅的に読めているわけでは全然ないにもかかわらず、「あれを入れてほしかった。これも漏れている‥」と思わずにはいられなかった。巻末の書誌を見れば、さらに「ああ、あれも読みたい、これも‥」となることは必至。

 本人参加の鼎談(図書新聞)、幾つかの書評(週刊朝日、ミュージックマガジン)もあるようだが、とりあえず今は手元になく参照できない。どうしようかと考えたが、もともとこの本を読んで書くことをこの年末年始の課題として設定していたこと、そしてこれは思いがけず、竹田氏ご本人からFBの関連リンクに「いいね」をいただいたこともあり、ここは思い切って書いてしまおう。なので、本稿は全体を紹介することを目指さず、トピックを絞り込んだ読後メモ的なものに留まらざるを得ないことをあらかじめお断りしておく(結果としてずいぶん長くなってしまったけど)。


竹田11.連載「地表に蠢く音楽ども」
 構成は必ずしも執筆順ではないが、冒頭に掲げられているのは、巻末書誌でも最初に掲げられている「地表に蠢く音楽ども」の連載の再録である。連載に至る経緯については、本書に収録された土取利行・坂本龍一『ディスアポイントメント − ハテルマ』のライナーノーツの再発時の追記部分に詳しい(この盤の再発に奔走された当時のキング・レコードのディレクター堀内宏公氏の功績か)。それによれば、新宿ゴールデン街の飲み屋のママのシャンソン・コンサートを竹田がプロデュースすることになり、ブリジット・フォンテーヌを題材に選ぶ。すでに決定していた坂本龍一(同じ店の常連)以外のミュージシャンを集めていて、ブリジットの日本盤をリリースしていたコロンビア・レコードに広告をもらいに行ったところ近藤等則グループを紹介され、ベースの徳弘崇とドラムの土取利行に依頼する。そしてコロンビア・レコードのディレクターから話を聞いた間章(彼は当時すでに『ラジオのように』をはじめとするブリジットの日本盤のライナーノーツを手がけていた)が連絡を取ってきて、『月刊ジャズ』誌で音楽批評を書き始めることになる‥‥と。

 こうした「ドミノ倒し」は当然読者をも巻き込んでおり、亡き大里俊晴はそのひとりだった。本書巻末に収録された「紙表に蠢く音韻ども[あとがき]」によれば、大里は「竹田さんのために論集を出したいわけではなくて、70年代後半から80年代にかけて自分の行動や考え方に影響したものを整理しておきたい。竹田さんの書いたものは竹田さんのものではないのだから」と言い、「反論の余地はなかった」と竹田は書いている。

 当時の『ジャズ』誌は、1990年代になってから、今は無き三軒茶屋の古書店で『映画批評』とともにバックナンバーを数冊ずつ安価で手に入れて読むことができた。その店では他にもA5版『トランソニック』、『迷宮』等をやはりプレミア無しで手に入れたっけ。
 そのようにして手元にたまたま『ジャズ』1975年9月号がある。この号から間章による新連載「ジャズの"死滅"へ向けて」が始まり、川本三郎、諏訪優等の連載陣に加わっている。後に間と竹田が分担執筆することになる海外盤紹介コーナー「Disk In the World」は編集人の杉田誠一がひとりで執筆しており、FMPやOgun等ヨーロッパのレーベルを中心に、Irene Schweizer, Rudiger Carl, Hans Reichel, Fred Van Hove, Steve Lacy, Alan Skidmore, Mike Osborne, John Surman,Harry Miller, Cecil Taylor等の参加作品12枚が紹介されている。そして特集は何と山下洋輔トリオで(特集に続いて『UP-TO-DATE』の広告が掲載されているから、この作品のリリースに合わせた企画と推測される)、「ピアノ炎上」イヴェントに関する粟津潔のリポート、山下洋輔「ブルーノート研究」の採録、坂田明へのインタヴュー、山下洋輔完全ディスコグラフィ等と並んで、竹田賢一「地表に蠢く音楽ども」第1回が掲載されている。目次にも〈新連載〉であることは明記されているのだが、掲載場所は特集の中のひとコマとなっている。

 その後、たとえば「自販機本」のページに、エロなヌード写真に挿まれた異様に「浮いた」ページとして仕立てられたりもした竹田原稿だが、ここでは一見して(あくまでも見かけの上では)、他の稿に埋もれるようにして並べられていることに注意したい。この連載第1回ですでにその後も続けて用いられる対話形式が試みられているのだが、そこで向かい合っているはずのAとBは明確にキャラクタライズされず、文章は単なる箇条書き、あるいは断章形式のように読めてしまう。そして、そこでは「真に知的な意識のメスによって"ジャズ妖怪"を徹底的に解剖すべきなのだ」という山下洋輔の提言に応えようとして、即興性が「タブラ・ラサ」ではあり得ないことを明らかにしながら(この指摘だけで当時の凡百のフリー・ジャズ論をはるかに凌駕していよう)も、山下トリオの演奏を突き放してしまわない文の運びは、かえって事態をわかりにくくしているように思われる(「以前は、強迫観念のように音を叩きつけつづける山下トリオの演奏に、意識と肉体の弁証法を感じて満足していたのだが、彼らが音を出しつづけることによって聞かせまいとしているものはなんだろうか」との問いは、この論稿中で答えられることがないのだが、いやそれどころか、現在までに書かれたありとあらゆる山下トリオ論の前に、依然として立ちはだかっているように思われる)。

 というのも、これが連載第2回では「ジャズはやっぱりアクースティックだ」といった発言の不用意さがルー・リード『メタル・マシーン・ミュージック』を題材に批判されるのだし、第4回では「ジャズはライヴだ」が同様に批判の俎上に載せられる(「そのうえ生の演奏を聞きに集まる聴衆は、レコードを通じて個的に幻想していた態度を自ら積極的に演ずるのだ。ベンヤミンによれば『複製技術』の時代には全面的におしのけられるはずの礼拝的価値が、逆に展示的価値を付随的な演戯として従えて、ぼくたちの前に立ちはだかっている」との指摘は、今でも、いや今だからこそ有効である)。

 竹田の思考/志向を「既成ジャズ批判」というようにわかりやすく/平べったく切り取れないのは、民族音楽、人間の聴覚や認知ゲシュタルト、労働や祭祀の中からの音楽の発生といった汎音楽的な構えを、彼が自らの思考の基底に置いているからにほかならない。60年代からの楽天的な雰囲気の下、ありとあらゆる借り物の思考が花開き、その後、「68年」以降、「大阪万博」以降、「オイル・ショック」以降の冷えきった空気の中でそれらが急速にしぼんでいく時に、「現在位置の測量」をいかに行うのかが課題とされ、先の姿勢が要請されたのだろう。だから、この連載が3回に渡る「民族音楽の栄養分析」の執筆へと向かったことは必然と言える。しかも、「科学」や「科学」に憧れる社会学、民族学、文化人類学等が陥りやすいオーセンティシティへの崇拝を、すでに批判の対象としていることに注目したい。彼は「民族音楽の栄養分析」の(上)(中)と(下)の間に挿入された「伝統の威を借る寄食者のための間食」(連載第9回)で《オレゴン》を例に挙げ、「(前略)ジャズでもロックでも、ヨーロッパ音楽でも民族音楽でも、そのような様式のリニアーな発展の途上に、音楽性の複合体を想定する訳にはいかない音楽作品に対し、既に博物館入りした伝統の概念で切って捨てるほど、不毛な批評の方法はない」としている。

『ジャズ』誌における「地表に蠢く音楽ども」の連載は、先に触れた「民族音楽の栄養分析」で終了する。その最終回では、『永遠のリズム』以降のドン・チェリーが分析の対象とされるのだが、これは挿入された《オレゴン》擁護の続きとして、いかにも根無し草的な印象を与える彼のインド音楽の活用やトルコ人ミュージシャンとの共同作業、北欧での無国籍的な活動等を評価していて、筋は通っているものの、先に見た汎音楽的な構え自体の拠って立つべき基盤を解き明かすものとはなっていない。これに先立つ2回もまたアフリカ音楽の教育カリキュラムを巡る議論に費やされた感がある。
 本書に収録された論述の中で、先の願いにかなうものは『ロスコー・ミッチェル・ソロ・コンサート』のライナーノーツの冒頭に綴られる山岳ヴェッダ族を巡る部分だろう。

 「山岳ヴェッダ族の社会の成員にとって、音楽(少なくともぼくたちが音楽と名づけられるもの)とは、各人がそれぞれイニシエイションに際して自分のものとした『私の歌』しか存在しないからである。(中略)そこではソロという概念も、インプロヴィゼイションという概念も成立する余地はない。」

 注意深く行文をたどれば、連載の「別の」帰結として用意された「〈学習団〉1・20決起」のプログラムに、これに対応するであろう箇所を発見できる。それはイヴェントを構成する音楽、映像、朗読、講義の4つの主要なユニットのうち、竹田が担当した「講義」の部分である。彼によれば「講義は[資料1・1]の17の学習過程へのオリエンテーションとして、竹田が話した」とのこと。ちなみに[資料1・1]の内容は次の通り。
 学習1 音楽史を遡る
 学習2 音楽に国境をつくり出す
 学習3 民族の音楽に征服されること
 学習4 食物を聞く訓練
 学習5 楽器を使わない − 楽器をつくる
 学習6 メロディーの呪縛から自らを開放すること
 学習7 名前を消すこと、個人史を消すこと
 学習8 シンボルの音を探す
 学習9 リズムの点的理解から領域的理解へ
 学習10 リズムの不確定性原理へ
 学習11 ビートは円、リズムは歪み
 学習12 音を聞かない訓練
 学習13 夢をコントロールする訓練
 学習14 沈黙のヒエラルキー、量的差異を聞く
 学習15 沈黙の言語を学ぶこと
 学習16 一本の草と自分が平等であることを知る
 学習17 恊働作業に習熟する

 後半、あからさまにカルロス・カスタネダ色(「マラヤの夢語り」等を含む)が強くなるように思われ、そうした部分に辟易される向きもあるだろうが、このうち最初の学習1〜4あるいは7までを先の山岳ヴェッダ族との関わりでとらえたい。これを竹田がCan "Unlimited Edition"に収められた「民族音楽まがいものシリーズ」に関して論じている(論じようとしている)内容に接続すれば、先の願いはかなり満たされるのではないだろうか。そういえば竹田は「ヴェッダ・ミュージック・ワークショップ」なる活動を主催していたはずだ。その内容はどのようなものだったのだろう。

 以上、連載「地表に蠢く音楽ども」を読み進める際のわかりにくさへの対応として、『地表に蠢く音楽ども』所収の次の2つの論稿を補助線として用いることの直感的提案である。それが何をもたらし得るかについては、改めて考えてみることとしたい。
 p.205 ロスコー・ミッチェル・ソロ・コンサート
 p.223 Can "Unlimited Edition"


竹田32.地図製作者たち
 本書におけるよりまとまった、そして注目すべき論述として、「ロフト・ジャズ」からヘンリー・カウ/アート・ベアーズへと引かれる線、というより共有される「地図」への言及がある。
 もともと私が初めて眼にした竹田の文章は『フールズ・メイト』に掲載された(それにしても初出時ではなく、スペシャル・エディションによる再発時なのだが)「芸術熊たちの反歌」と「Henry Cow Discography − 日本語ヴァージョン」であり、共にHenry Cow 〜 Art Bearsを取り扱ったものだった。

 プログレ雑誌の常として、ファンタジー、エロス、オカルティズム等を採りあげるのに加えて、「来日記念」としてDerek Bailey関連記事が載り始め、さらに英国『Impetus』誌からの大量の翻訳転載を含む、アヴァン・ジャズ〜フリー・ミュージック特集の中に埋め込まれながら、後のRock in Oppositionフォローの出発点としてのHenry Cow 〜 Art Bears記事であり、編集長である北村昌士の論稿も併せて掲載されていた訳だから、場違いとの印象を持つことはなかったが、それでも竹田の文章には他とは異質の要素を感じていた。それはひとつにはロジック・レトリックのレヴェルで、情報を圧縮して注入しながらも、それを「情報主義的」に一人歩きさせずに批評のコントロール下に置く文章作法の厳格さであり、左翼アジテーションの語法を自在に用いながら、メタファーやシンボルを輝かせるエクリチュールの硬質さである。もうひとつにはブラック・ミュージックへの注視である。これは「プログレ世界」全般に欠けていたのだろうが、『フールズ・メイト』にも『Impetus』にもなかった。そこでジャズはイマジネーションやエナジーの源泉ではあっても、遠く過去に切り離されたものとして扱われていた。すでに遺産分与済みの祖先として。私自身は植草甚一の著作や清水俊彦『ジャズ・ノート』を頼りに(『ジャズ・アヴァンギャルド』が出版されるのはもっとずっと後のことになる)、まだ60年代フリー・ジャズを漁っているところだった。IncusやFMP、ICPは知っていても、竹田が「クリス・カトラー『地図作成についての予備的ノート』から抜粋、引用した」との注に続けて、「1977年春、チャールズ・ボボ・ショウらが組織したフェスティヴァルは、《地図製作者たちのジャズ・シリーズのための音楽》とネーミングされた」と名を挙げたチャールズ・ボボ・ショウのことは全く知らなかった。

 その後、雑誌『同時代音楽』2-2掲載の「ディスク・イン・オポジション」で竹田が後藤美孝との対談でHenry Cow〜Art Bearsについて語り、続くディスク・レヴューでDerek BaileyやSteve Lacyに続けてHenry ThreadgillやAnthony Davisを採りあげている(本書未収録)のを読むことになるのだが、おそらくはそれよりもArt Ensemble of ChicagoからAACM経由で、あるいはCompany周辺に「越境」してきた存在として、BYGレーベル以降のAnthhony Braxton, Leo SmithやGeorge Lewisを追いかけた方が早かったように思う。あるいはJohn ZornやEugene Chadbourne、Elliott Sharpらを聴き始めて、彼らが一様に「NYに出てきた時にはもうロフト・ジャズは終わっていた」と語っているのを眼にした方が。

 だから、小石川図書館のレコード・コレクションでスタジオ・リヴビーのフェスティヴァルを収録したWild Flowersのシリーズを聴いていたにもかかわらず、私にとってロフト・ジャズという語は決して形を成すことがなかった。これはジャズ・ジャーナリズムの側から見れば話が逆かもしれない。彼らにすればロフト・ジャズという「フリー・ジャズ以降」のムーヴメントがあったものの、それらは勃興を遂げるフュージョン/クロスオーヴァーの陰に霞んでいく存在であって、ましてやそれらがプログレッシヴ・ロックのよりアンダーグラウンドな、あるいは英米以外の地域限定的な展開や、あるいはヨーロッパに飛び火して独自の変容を遂げたフリー・ジャズやそこから派生したフリー・インプロヴィゼーションなどと結びつくとは思いもよらないということになるだろう。

 ここで竹田はヨーロッパとブラック・アメリカを複眼的にとらえながら、二つの景色を巧みな仕方で重ね合わせていく。たとえば彼は本書収録の「『ロフト・ジャズ』への片道切符」で次のように書いている。
 音楽家をとり囲む(音楽的)事象をすべて共時的な視点で対象としなければ、音楽のアイデンティティーを形成できないという認識があるからなのだ。(中略)だから、オリヴァー・レイクのいう「三六〇度の関心」とか、ビーヴァー・ハリスらの三六〇度音楽体験集団というネーミングが登場してくる。(中略)『Dogon A.D.』についてジュリアス・ヘンフィルは、「このアルバムでの私の関心は、私の中にある音楽がアフリカ的要素をどれだけ引き出せるかであった。だが、私はここでアフリカの音楽を演奏しようとしていたわけではない」という。また、リーオ・スミスやムハル・エイブラムズが、クリエイティヴ・ミュージック、ワールド・ミュージックというとき、彼らはアメリカ黒人音楽の伝統(ジャズの伝統に限らない)を視座として、目に入る、耳に聞こえるあらゆる音楽を分断されないまま自己の音楽と等価なものとする。彼らの黒人音楽の伝統という視座を他のものと入れ替えてみよう。ヨーロッパの民衆音楽の伝統を掘り起こしながら融合を実現しているウィレム・ブレーカーやフランソワ・テュスク、マーヴェラス・バンドらの音楽、(後略)。

 また、本書に収められた「『ロフト・ジャズ』の測量教程」で彼は次のように書いている。
 今や個々の演奏スタイルや語法が問題なのではなく、歴史の広がりや空間の広がりの中に存在するスタイルや語法の、新たな組み替えと再構成の仕方を問題にしていることなのだ。今年、ハーレムで催された「地図製作者たちのジャズ・シリーズのための音楽」と呼ばれたフェスティヴァルで、ジュリアス・ヘンフィルは《ハミエット・ブリュイエット、デヴィッド・マレイ、オル・ダラ、フランソワ・ニョーモ、チャールズ・ボボ・ショウ、フィル・ウィルソンのアンサンブルの演奏に加えて、俳優たちやフィルムまで使った。それはどたばた喜劇のユーモアと神秘と大きな悲しみにみちたマルチ・メディアのイヴェントだった》と描かれたパフォーマンスを行った。

 前述の「芸術熊たちの反歌」を読んだ時点では「地図」のメタファーの使用以外に共通点が見出せず、謎のままに留まっていたHenry Cow〜Art BearsとCharles "Bobo" Shawの重ね合わせも、以上のような記述とHenry Cowの「散開」後の活動としてMike Westbrook Brass Bandと合体してさらにフォーク歌手Frankie Armstrongを迎えたThe Orckestra(Dagmar Krause,Phil Mintonとのトリプル・ヴォーカル!)やLindsay Cooperが参加したFeminists Improvising Groupからスピン・オフしたと言うべきLes Diaboliques(Irene Schweizer,Magie Nicols,Joelle Leandre)の雄弁さを知る今では至極納得できる。


竹田23.1Q68年を遠く離れて
 しかし、この鮮やかな見取り図の下にその後充分な探求が進められたとは言えまい。
 たとえば雑誌『同時代音楽』創刊号掲載の「新しいヨーロッパの民衆音楽と左翼の展望(1)」(※)で、竹田は次のような非常に興味深い目次構成案を「次号からの予定」として示している。


§2~1 フリー・ジャズからフリー・ダンス・オーケストラへ
    =フランソワ・テュスク(フランス)を中心に
§2~2 権威への反抗としてのロック
    =アレア(イタリア)を中心に
§2~3 ヨーロッパの伝統の参照
    =ウィレム・ブロイカー(オランダ)を中心に
§2~4 プログレッシヴ・ロックとインテリジェンス
    =ヘンリー・カウ(イギリス)を中心に
§2~5 自主流通メディアの形式
    =FMP(西ドイツ)を中心に
§2~6 東欧のジャズ・ロック・シーン
§3~1 60年代という屈折点
§3~2 フリー・ジャズのインパクト
§3~3 非ヨーロッパ音楽への憧憬
§3~4 ヨーロッパの伝統への眼差し

 この後、視界に浮上してくるシーンとして、John Zornのゲーム・ピースやFred FrithとTom CoraによるSkelton Crewの活動、Materialのネットワーク戦略等を彼がいち早く採りあげたNYダウンタウン・シーンや、Marvelous Band周辺のその後と言うべきLouis Sclavis, Michel Doneda等の活躍(NatoやSilexレーベルの検証を含む)等を配すれば、これは現在でも充分語る価値のある「手つかずのまま放置された」課題領域、いや現在にこそ語るべき「隠蔽/忘却され無かったことにされてしまっている」アクチュアルな問題領域と言うことができる。書誌に記載された中からさらに未収録の論稿を採録した書籍の出版も望みたいが、それよりも竹田がかつてしていた音盤レクチャーを、今こそ再開してもらいたいと願わずにはいられない。「情報はすべてネット上にある」という既視感とそれと裏腹な健忘症が蔓延する現在、前々回の掲載で掲げた「音楽産業による一面的な聴き方の押し付けに対抗する別の聴き方を提案し、他の聴き手との相互批判的共同作業に向けて開いていく」ことが、今ほど求められている時はなかろう。
※この論稿は本書巻末の「書誌」に掲載されていない。掲載雑誌からして漏れることは考えにくい。内容があくまで「予告編」的なものであり、肝心の本編が執筆されていないことから、あえて外したものかもしれない。しかし、その「予告」の重要さに鑑みて、あえてここでは言及することにした。なお『同時代音楽』創刊号の巻末に掲載された「次号予告」では、この論稿の続編に加えて、〈一挙掲載〉と銘打って次の目次が掲げられている。
 竹田賢一評論集「地表に蠢く音楽ども」
 坂本龍一評論集「旅するメディアの領界」
 対談 竹田賢一+坂本龍一
 〈阿部薫追悼文〉集+〈坂本龍一論〉集

 だから、細川周平が巻末の解説で書いている「1Q68の長い長い余波」としてすべてを包み込もうとする仕方に、無理は承知の上でやはりいちいち異議を唱えたくなる。それは「余波」として遠くから懐かしく耳を傾けるべきものなのか。ピアノの余韻のように弾かれた後はただひたすらに減衰していくだけのものなのだろうか。仮に「昔馴染みの消息を確かめることが、新録音、新人を探索することに比べて二次的とはもはや思えない。(中略)こうなると先端も末端も革新も保守も大した違いではない」としても、「(少なくとも録音で)知った人が今、何をしているかを確かめに行くほうが、失望が少ないという経験則にしたがう。そういう「気になる」アーティストが10人もいれば、音楽生活は充分に豊か」なのか。「本書で語られたアーティストには懐かしさを覚えるが、手許にアルバムはないし、今はまだ、あるいは既に聴き直す時期ではないと思う」としても、果たして「聴いた経験が感覚のどこかに残っているだけでよい。忘れてしまったなら、それはあまり大事ではなかったのだろう」か。

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