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福島恵一

Author:福島恵一
プログレを振り出しにフリー・ミュージック、現代音楽、トラッド、古楽、民族音楽など辺境を探求。「アヴァン・ミュージック・ガイド」、「プログレのパースペクティヴ」、「200CDプログレッシヴ・ロック」、「捧げる-灰野敬二の世界」等に執筆。2010年3~6月に音盤レクチャー「耳の枠はずし」(5回)を開催。2014年11月から津田貴司、歸山幸輔とリスニング・イヴェント『松籟夜話』を開催中。

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ディスク・レヴュー 2013年11〜12月 その2  Disk Review Nov.-Dec. 2013 vol.2
 2013年ディスク・レヴュー最終セット第2弾はフィールドレコーディングからの7枚。最初の3枚はそれぞれ最も極端な仕方で、フィールドレコーディング作品を定義し直し、拡張し、豊かなものとしている。



Christina Kubisch, Eckehard Guther / Mosaique Mosaic
Gruenrekorder Gruen 131
recorded by Christina Kubisch,Eckehard Guther,Dieter Scheyhing
mixed and assembled by Christina Kubisch,Eckehard Guther
試聴:http://www.gruenrekorder.de/?page_id=10742
 「眼から鱗が落ちる」とはこのこと。街中でのフィールドレコーディングを素材としたコンクレート的作品なのだが、その活き活きとした息遣いに驚かされる。カメルーンに乗り込んで、どこもかしこも歪んだ大音量でスピーカーから音が鳴りっぱなし(教会の説教まで)なのにあきれていたKubischは、自ら主催したワークショップを通じて、現地の参加者からとっておきの「いい音の聴こえる場所」を教えてもらい、彼らもちゃんと聴いていて、音楽的な耳を持っていることに気づく。そこから彼女たちの録音設備と彼らの耳の「交換」が始まる‥。彼女たちが偶然出くわした音の多様さ豊穣さが、ゼイディ・スミス『ホワイト・ティース』を思わせるけたたましくとっちらかった仕方で、ここには見事に詰め込まれている。キンキンとラウドに歪んだ説教のやりとりから、心地よくて眠り込みそうなぬる〜い賛美歌へ。車の行き交う街頭からヤギとカエルが鳴き交わす「牧歌的」眺めへ。パーカッションの連打に合わせ、一斉にクラクションが鳴り響き、調子外れなゴスペルがコーラスへと高まるともう涙が止まらない。見知らぬ顔や埃っぽい匂いのあり得ない記憶が次々に鮮やかに浮かび、まるで自分自身が異郷で体験した出来事異郷を、スナップ写真をたどりながら思い出しているような、とても不思議な気分になってくる。記憶/情動の喚起力という点で、これほどまでに強力な作品を私は知らない。また「ヴァナキュラー」の実践としても。「寸分の傷もなく磨き上げた作品を制作する最もハイ・アート的なサウンド・アーティスト」とのKubischに対するイメージはものの見事にひっくり返された。ぜひ多くの方に聴いてもらいたい。世界をとらえる耳の在処が変わってくるはず。


Marc & Olivier Namblard / Cevennes
Kalerne Editions KAL04
Marc & Olivier Namblard(recording,montage,mixing)
試聴:http://www.kalerne.net/main/index.php/editions/cevennes-2cd-by-marc-olivier-namblard
 「自然のサウンドスケープと動物の声」と副題されているにもかかわらず、ここで動物の声は決して主役ではない。TVの自然ドキュメンタリー番組でよくあるような、鳴いている動物にフォーカスを合わせて背景を曖昧に溶かしたり、逆光気味にシルエットを浮き立たせたりすることなしに、鳴き声は鮮明にとらえられながら、広々と奥行き深いパースペクティヴに位置づけられ、風やそれを受けて揺れる樹々のうなりとテクスチャーを編み上げ、あるいは眼前にぬっと姿を現す。フランス中央産地の丘陵に放たれた無数の羊の首に掛けられたベルの響きが耳の視野を埋め尽くし、吹き荒れる風が送電線を震わせて巨大な唸りを引き起こす。大小の響きが遠近をもって交錯し、サルヴァトール・ローザにも似た荒々しく野趣に溢れたピクチャレスクな光景を描き上げる。豊穣たる音の眺めは耳の至福と言わねばならない。CD2枚組(70分+60分)に28ページのブックレットが付属して外箱に入った重量盤。自身フィールドレコーディング・アーティストであるYannick Daubyのレーベルから。


Hiroki Sasajima / Circle Wind
Felt Collective FELT 8
Hiroki Sasajima(fieldrecording,electronics)
試聴:http://www.feltcollective.com/editions/hiroki-sasajima/
 笹島裕樹は常に耳の視点をどこに置き、画面に何をどう配置するかアングルを選び抜く。その結果として、同じフィールドレコーディング手法を用いながら、眼の眩むような広大な光景を映し出す前掲作に対し、細密にして繊細、緻密にして怜悧な音世界をつくりあげている。強迫的な広がりや奥行きの代わりに、観察に必要なだけの視野が浮かび上がり、くっきりと像が結ばれる。サルヴァトール・ローザの分厚い油彩に対する初期の建石修志を思わせる細密鉛筆画の趣。「見越し」の視線を誘うべく配された前景から、中景を省略して後景へと飛躍し、空間に奥行きをもたらすとともに、ヒューモアと奇想に富んだ意趣をはらませるやり方は、名所絵を描く際の浮世絵の技法にも通ずる。いやむしろ、全てが寸分の狂いなく配置されているとの氷結感は、音/音楽が本来必要とする時間の展開を停止し、永遠を封じ込めた音の細密写真つくりあげる試みと解するべきだろうか(一部で用いられている電子変調も「運動」や「変形」ではなく、「結晶化」の方向に作用している)。500枚限定。益子におけるstilllifeのライヴ時に購入。


David Velez, Simon Whetham / Yoi
Unfathomless U17
David Velez(fieldrecording),Simon Whetham(fieldrecording)
試聴:http://unfathomless.wordpress.com/releases/u17-david-velez-simon-whetham/
   https://soundcloud.com/unfathomless/u17-david-v-lez-simon
 「Unfathomlessは、記憶、アウラ、そして共鳴に満ちた特定の場所のスピリッツを反映したフォノグラフィにフォーカスしたテマティックなシリーズである」(カヴァーの表記より)。ここで選ばれた「場」は、都市であれ、密林であれ、荒廃したショッピング・モールであれ、湿地帯であれ、制作者自身によって実際に体験・探索され、そこに浮かび上がる様々なイメージや物語が撮影・録音され、それだけを基本素材としながら(電子的な変調が施される場合がある)、その「場」のスピリッツ(とは、この場合、その場をそのように在らしめている「核心」ということになろう)をとらえることが求められている。こうしたテマティックな厳しい制約により作品の焦点は絞り込まれ、その結果として、同系列の先行レーベルMystery Seaの大海原を思わせる深く広大なドローンに一様に収斂してしまっている作品群(もちろん素晴らしいものもあるにせよ)に対して、はるかに鋭く研ぎ澄まされた強度を獲得しているよう。ここでは同じコロンビアのジャングルを対象として、二人の作家がそれぞれに作品を提示することにより、「耳により世界をとらえる」ことの奥深さが示されている。David Velezが明らかにする熱帯雨林とは聴き手を全方位から隙間なく取り囲むサウンド・ウォールであり、多種多様な虫、鳥、獣の声や水や風の音が樹々に乱反射するオールオーヴァーなテクスチャーの圧倒的な生成である。対してSimon Whethamが指し示すのは、そうした喧噪に盲いた耳に忍び入る不可思議なかげであり、不定形な音のしみが、喧噪の只中にぽっかりと開けた空白に移ろう。そこでフォーカスされているのは、場自体の生成よりも聴取に対する作用、すなわち耳の変容にほかならない。それは不安と幻に満ちた悪夢の姿をしている。


Andy Graydon / Unterwegs
Contour Editions ce.cd0004
Andy Graydon(fieldrecording,processing,editing,mixing)
試聴:http://www.youtube.com/watch?v=UxozSUxoTRw
 Tony Conrad『Four Violins(1964)』、Andrew Lafkasによるベース・インプロヴィゼーション、Kenneth Kirschnerの録音作品、さらには彼が多くのアーティストによるサウンドを素材としてつくりあげたインスタレーション『Erased Cage』の彼自身によるフィールドレコーディング等を素材としているという。だが、どこにTony Conradが姿を見せているのか少しもわからない。柔らかな耳鳴りが遠い潮騒のように響き続ける20分以上に渡る長尺の3曲目もよいが、話し声、鳥の声、ブーンという有機的なうなり等が確かな手触りを持って空間に現れ、しかし互いの関係は少しも窺い知れない20分弱のやはり長尺な1曲目「Airframe」が何と言っても素晴らしい。アンビエントな希薄さの下、音景は揺らぎ穴だらけになって向こう側を覗かせ、破れ目から間歇的に別のサウンドが湧き出してくる。一方にがさがさと毛羽立ちながら聴こえなくなっていく音があり、他方に芽吹きゆっくりと翅を広げていく響きがあって、さらに敷き重ねられたレイヤーの底から、また別の音響が姿を現す。春になって溶けた雪の下から置き去られたものたちがみつかるように。その移り変わりの瑞々しさは、乾期が終わり雨を沁み込ませた大地から、植物がみるみる芽吹いていく様を早送り再生した動画を思わせる。絶え間なく陽が昇りまた暮れていき、季節が瞬く間に過ぎていく。奥行きをもたらすことなく、もやもやとした不透明さの中に遠さ/深さをつくりだす手つきは見事と言うほかはない。朦朧と蠢く音の影の、耳を塞いでも指の隙間から這い入ってくる感触は、粒子があれ、表面が擦り切れた古いモノクロ・フィルムを編集したファウンド・フッテージの薄気味悪い恐怖と通底している。なお、試聴トラックの冒頭部分はとてもPC内蔵スピーカーでは再生できないようなかなり低い周波数の音で始まる。180枚限定CD-R。


Various Artists / Framework Seasonal Issue #2 spring 2012
Framework Editions Framework Seasonal 2
jd zazie,sala,james wyness,dave phillips,aymeric de tapol,anton mobin,camilla hannan,pali meursault,lasse-marc riek
試聴:http://www.frameworkradio.net/2012/04/371-2012-04-15/
 フィールドレコーディング作品のコンピレーション・シリーズで現在第6集までリリースされている(季刊)。シリーズの中には1960〜70年代頃のアマチュア録音サークルの作品とか、Chris Watsonによるボルネオ熱帯雨林の2時間半録りっ放し作品(DVDオーディオに収録)とか、ぶっ飛んだものがあるのだが、個人的にはこの第2集と第4集が面白い。何とベルリン・フィルの音合わせで幕を開け、樹々の軋みが轟き、風に吹かれながら代わり映えのない景色を眺めていたかと思うと、身体に直接サウンドの粒子を浴びて目が覚める。フィールドレコーディングが単に世界を客観的にとらえるだけのものならば、「場所/時間が変われば音が変わる」というだけのことだ。だから、フィールドレコーディング・アーティストたちは、熱帯雨林の奥深くや灼熱の砂漠、凍り付いた湖、鳥たちの楽園となった断崖絶壁へと通う。だが、そうした「秘境」ではない場所で録られたこれらの音は、耳の視点/視野の設定が「聴取」を大きく変容させてしまうことを明らかにしている。他人の耳に成り代わる仕掛け。「ドラえもん」的に言えば、かけると他人の眼差し得られるメガネとか。それゆえ、耳の視界の切り替わりによって、聴取は暴力的に押し広げられ、それが何の音かと詮索するのを断念して、音のテクスチャーやマティエールだけを享受するようになる。なお、次のページで各集の内容や録音時の資料写真等を見ることができる。
http://www.frameworkradio.net/seasonal/
 試聴トラックはこの盤に収録された以外の音源を含んでいるので注意のこと。


Laurent Jeanneau / Ethnic Minority Music of Southern China
Sublime Frequencies SF081
Laurent Jeanneau(recordings,images,production)
試聴:http://www.youtube.com/watch?v=-HAA3Kh7M1M
 民族音楽の現地採集録音である本作を、ポップ・ミュージックとしてではなく、こちらの枠で取り扱うのは、Laurent Jeanneau(=Kink Gong)の耳の視線の強度が作品の成立に深く関わっているからにほかならない(それゆえアーティスト名として彼の名前を掲げた次第である)。彼は見通すことの叶わない交錯を、豊穣たる混沌をとらえる‥‥いや、彼の耳がそれに惹き付けられて離れないのだ。それゆえ、歌と伴奏、主旋律と副旋律、主唱と合いの手、演奏と背景ノイズといった、本来必要不可欠なヒエラルキーは未整理のまま放置され、音の立ち上がりもコブシも不揃いであることをむしろ善しとした結果、全体はカコフォニックなサウンドのテクスチャーとして浮かび上がる。そうした景色に耳を差し向ける感覚は、フォークロアに耳を傾けるよりも、密林に繁茂する虫や鳥の声、あるいは多孔質のサンゴ礁に打ち寄せる波が生み出す多種多様なノイズをスキャンする時に近い。エキゾティシズムは意識にすら上らず、彼はまるで不時着した宇宙人のように、対象にマイクロフォンを差し向ける。それゆえにこそ、すすり泣きを振り払って立ち上る甲高い声の羽ばたきや、複数の声の揃わぬ立ち上がりにぴりぴりと震える空気を聴くことができるのだ。

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ディスク・レヴュー | 22:57:45 | トラックバック(0) | コメント(0)
雪が運んできた沈黙の重み − 津田貴司『にびいろ』展、stilllifeライヴ「薄氷空を映す」レヴュー  Snow Brought the Weight of Silence − Review for Takashi Tsuda Exhibition "Silent Lead Gray" and stilllife Live Performance "Thin Ice Reflect the Sky"
1.雪の降る夜
 2月14日の晩の雪は、前回とは全然違っていた。
 前回の雪はびっくりするほどさらさらしていて、降る時にもまた、自らが粒子/結晶であることを明らかにしながら、固い輪郭を守って空間を通過してきた。だから雪の降る軌跡が風にかき乱され、渦を巻くのが見えた。それは背景が見えていた‥ということでもある。降雪の軌跡は滲むことなく、その隙間から背後を見通すことができた。そこで雪はマテリアルであり、その容器である透明な空間とは別物だった。
 今回の雪はいつものような、花びらが舞い散るように揺れながら落ちてくる「ぼた雪」ではなかった。いつもなら、舞い落ちる花びらの枚数が多ければ、それだけ隠される景色も増える。風景は白い筆の跡で埋め尽くされ、暖かな明るさのうちに沈められる。今回の雪の粒は細かく‥というより見えなかった。前回のような粒子としての輪郭は消え失せ、ただ白く半透明な空間だけがあった。筆の跡は見えない。視界が濁ったように遠近が消失し、なだらかな明暗の起伏だけが残される。ぼた雪に隠された時には、見えないながらもそこにいつも通りの風景があるのがわかったのに、今回、風景はありとあらゆる輪郭とともに奪い去られる。そして音もまた。
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2.『にびいろ』
 前回よりはるかに重たい積雪にうんざりしながら何とか雪かきを終え、予定より遅れて駅に向かうと東横線が止まっていて、迂回を余儀なくされる。会場最寄りの西荻窪の駅から、片付けられていない雪が靴を濡らす道を急ぐ。足元がびちゃびちゃと音を立てているはずなのに、あたりは不思議なくらい静まり返っている。通りから路地へと入ると、まだ溶けていない雪が、薄闇に柔らかな光を放つ代わりに音を吸い込んでいるのか、さらに不気味なほど静かになる。目的地の「ギャラリーみずのそら」は路地の奥にひっそりと佇む中庭のある家だった。
にびいろ6

 教室の半分ほどの広さの空間の右手と正面の壁に、A4版の紙が波を描くように貼り出されている。鉱質インクによる滲みは、案内状の絵柄よりもずっと小さく慎ましかった。その寡黙なささやきを聴き取ろうと近寄って眼を凝らすと、白い塗装の下から壁板の木目が浮かび上がり、いったん湿してから乾かしたことによる紙のわずかな歪みが、微妙な起伏をかたちづくっていることがわかる。その片隅に鉱質インクによる滲みが残されている。
 濾紙にインクを垂らした時に生じるような、虹状のクロマトグラフィが展開されているわけではない。あんな風に一人、二人と歩けなくなった仲間を置き去りにして、姿形が変わるほどの長旅を染料がするわけではないのだ。インクは思ったほど広がらず、不定形のスポットに留まり、余白の片隅でぽつんと孤独に立ち尽くし震えている。縁の部分のフラクタルなぎざぎざが、その先に広がる余白に向かって開かれ、鋭敏で柔らかい中身をさらしている。
 雲の形のスケッチ、あるいは発芽しようと身を屈めている胚のイメージか。見ていくとほとんど刷毛目のような薄い斑紋もあり、なかなか印象が定まらない。逆に言えば一定の形を保ちながら、輪郭を押し立ててくるイコン性が希薄ということだ。インクの染みという「出自」からして、ロールシャッハ・テストの親戚のようなものだが、インクを垂らした紙を折って開き、デカルコマニーの要領で転写することによって出来上がるシンメトリーは、それが何であるかという連想/解釈を強迫的に誘わずにはいない。津田の作品にはそうした押し付けがましい強迫性は微塵も感じられない。形は宙に浮かび、眩しい光を見詰めた後に現れる斑紋のように、目蓋の裏で揺らいでいる。
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 案内状に添えられたダイヤモンド・リング状の図柄から、私はインクの滲みがつくりだす軌跡の刻印を思い浮かべ、どこか互いに似通ったそれらのイメージが、宇佐美圭司の作品のように、空間を横切って写像を投影し合う様を勝手に想像していた。前回記した告知記事はそうした私の勝手な思い込みに基づいて綴られている。私はいま自分のいる空間の手触りをとらえられないでいた。見ると女性が一人、ベンチに腰を下ろしている。彼女はこの空間の居心地の良さを楽しんでいるように感じられた。「眼を凝らす」とか「耳をすます」というより、空間に意識を漂わせ遊ばせる‥とでも言おうか
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 と、どこかから水の音が聴こえてくる。おやと振り返ると鳥の声がする。展示の空間にサウンド・インスタレーションが施されていたことを今更のように思い出す。すぐには彼女のように身軽になれない気がして、とりあえず耳に飛び込んできた響きに近づいてみる。囲炉裏を模して井桁に組んだ木材の上に置かれた磨りガラスにスピーカーが装着され、水の滴る音を響かせている。中庭に面した側の壁の床面近くに開けたガラス窓に着けられたスピーカーからは鳥のさえずりが聴こえてくる。木材の上にオブジェのように置かれたコーン・スピーカーからはぶつぶつとつぶやきが流れ出し、床を這う。
 音はそれぞれ勝手に湧き出し、聴く者の耳の在処など気にすることなく溢れ出している。ギャラリーの中を歩き回り、あるいはしゃがみ込んで耳の高さを変えると、その度に耳の景色が移り変わる。
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 ギャラリーの一番奥から入口の側の壁を振り返ると、壁板の木目は見えなくなり、代わりに塗装の白いもやが浮かんで、2月14日の晩の雪のように見通し難い厚みをつくりだし、その手前に貼り出された紙片が浮遊している。あちこちに筆の跡が残されたようでもあり、黒い花びらが散っているようにも感じられる。紙片を印画紙に見立てれば、未確認飛行物体を連続してとらえた、ブレて不鮮明な記録写真が並んでいるように見えないこともなかった。
にびいろ28


 中庭側の壁の端に、津田の直筆によるメッセージが貼られているのを見つけた。


湿らせた紙に 製図用ペンを使って 微量の鉱質インクを
落とす。髪が乾いてゆくまでの間、インクは滲みながら
浸透圧の差によって 思いもつかない形状に、思いもかけない
色彩を現しながら、ひろがってゆく。

あるものは鉱石にも見え、あるものは鳥の羽や、粘菌
のコロニーや遠くもやにけぶる島影にも見える。

湿らせた紙は鼓膜である。
あるいは井戸の底の水面かもしれない。

ある湿った平面に、微細な空気の振動が伝わる。
そのふるえが減衰し収束していくまでの間、
音は滲みながら、思いもつかない響きや、思いもかけない
音色となってひろがってゆく。

遠い呼び声にも そらみみにも 聴こえる
振動の痕跡の滲みに息をのむ。

にびいろ13


 なるほどなと思う。「湿った平面」はウェットウェアというわけか。覗き込む穴の奥深くに張られた「湿った平面」という点で、確かに鼓膜と古井戸の水面は似ているかもしれない。だが、深い井戸に落とされた水滴の立てる響きは、井戸の縦穴の共鳴により変容し、固有の形を得るに至る。最近聴いたLucio Capeceの作品では、ボール紙製の筒を介して空間の響きを録音した音素材が用いられており、トンネルの中に入ったような特有の響きの向こうで、人の話し声や動き回る音がする様は、まさに長い筒を覗いているようだった。おそらくは耳の穴もそうした固有の響きを持っているだろう。とすれば、滲みは「湿った平面」に到達した瞬間から始まるのではなく、その時点より前に、音が生まれ放たれた瞬間からすでにして刻まれてしまっているのではないだろうか。

 津田が「みずのそら」につくりだした空間は、形や音が「滲み」によって原初とは異なる姿に変貌させられていくのではなく、そもそも空間への「滲み」を通して、形や音が「響き」として生まれてくることを明らかにしていたように思う。


3.薄氷空を映す
 様々な音具と敷物がセッティングされているにもかかわらず、津田も笹島も位置に着こうとしない。しばらくの間、インスタレーションの響きを改めてじっくりと聴くことができた。私が座ったのは入口とは反対側の壁に近かったから、小鳥のさえずりをゆったりと響く水滴の音が洗っていた。
 インスタレーションが切られると、空調の音と傍らに置かれた石油ストーブの燃焼音が浮かび上がり、沈黙が重くのしかかってくるのが感じられた。これまでのstilllifeのライヴでは、まだ外で虫が鳴いていた立川セプティマが一番外の音が入ってきた。床も盛大に軋んだし。四谷三丁目喫茶茶会記では、外の音は全く聴こえず、隣接するカフェ・スペースの話し声が低くくぐもって響き、聴衆が演奏者のすぐ間近まで迫るセッティングもあって、息苦しい閉塞感が漂っていた。外の音が素通しで聴こえるのではと期待した益子里山の家では、予想とは裏腹に外はとても静かだった。時折聴こえる焚き火の爆ぜる音や風にあおられた窓ガラスの鳴りは、むしろ静けさを引き立てていた。その代わり、私を含めた聴衆の、そして演奏者の耳には、昼間歩き回った里山で耳をすました音の数々が豊かに響き続けているのが感じられた。それらとの比較で言えば、「みずのそら」では昨晩から降りしきる雪の静けさが、私の耳には色濃く残っていた。

 そうした沈黙の重さは演奏する二人にものしかかっているように感じられた。二人はなかなか音具に手を着けず、こちらに背を向けた津田が、ようやくにして、おそらくは笛を取り上げて息を伝わせると、笹島が石をこすりあわせて応える。そうした微弱な交感が長く続けられた。遠くを見詰めながら、息はますます細く紡がれ、管を鳴らすことも震わせることもなく、ただただ伝い続ける。藁の束を手繰る音が間を置いて響く。床に直に腰を下ろした二人からは、中庭側の壁の床からの立ち上がり部分に設けられたガラス窓を通して、中庭に積もった雪が視界を塞ぐように見えていることだろう。
 今日はいつにも増してアクションが少なく抑えられている。頭上を飛行機が通り過ぎていくのを追いかけるように、小石が掌の中で転がされ、ガラス壜の口を叩いた音がかすかに聴こえてくる。本当にかすかに。U字型の蹄鉄を取り上げて揺らしたまま、なかなか音を出そうとしない。もう片方の手に吊り下げた金属片を打ち合わせるのではなく、そっと触れさせるだけ。木の壁と床が響きを柔らかく拡散し、また吸収する。

 沈黙の真綿のような重さを感じる一方で、常に音は鳴り続けているようにも感じられる。二人はそうした鳴り続けている音の中に身を沈めようとしているかのようだ。彼らは音を出しあぐねているように見えた(こんなことはこれまでなかった)。15名ほどの聴衆が息を詰めて見守る中、携帯電話のバイブ音が一瞬浮かび上がる。

 演奏はいったん終了し、照明は消されたまま、聴衆にホット・ワインが振る舞われる。グラスを配るスタッフの動きとワインの香りが緊張を緩ませる。その隙間に忍び込むようにいつの間にか演奏が再開され、二人は先ほどまでとは異なり、一見無造作に音を出し始める。だが音は響かず、広がらない。木の棒を束ねて揺らし、互いに打合せ、あるいは吊るされた小鐘を鳴らす。思うようにコントロールできず、結果として意図を離れた音だけが、ここに参入を許されるのだろうか。星砂を入れたガラス壜を振るがほとんど音がしない。この無音感/吸音感は閉塞感とは全く異なる性格のものだ。
 音は漂わずに、しんしんと降り積もる。

 笹島が迷った挙句、思い詰めたようにカンテレを抱え持つ。抱えたまま、なかなか音を出そうとしない。おずおずと指先が弦に触れ、微かな波が生じる。津田は水の入ったガラス壜を揺らし、こぽこぽと音を立てていて、(おそらくは誤って)壜を取り落とし、床に当たって大きな音を立てる。その背後に滑り込むように、カンテレの音が大きくなり、空気が少し動き始める。ファースト・セットでは笛しか手に取らなかった津田が、素焼きのパイプを転がし、ガラス壜を揺すり、金属音を立てる。笹島は響きを確かめるように、また手元を照らすように、カンテレを爪弾き続けている。

 「どのくらい演奏していたでしょうか。いつもは何分ぐらいと決めて演奏したり、あるいはそうでなくても、演奏を終えて『今日はこれくらい演奏したかな』と思うとだいたい当たっているのですが、今日はどのくらい時間が経ったのか、全然わかりません。演奏するよりも、聴くのに没頭してしまったというか‥‥」と、演奏を終えて、津田が話し始める。確かに今日彼らはより少なく音を放ち、より多く聴いていた。しかし、だとしたら彼らはいったい何を聴いていたのだろう。

 「『にびいろ』って冬の空の色のイメージで、今にも雪が降り出しそうな‥」と津田が展覧会の説明をしている。そう言えば告知記事を書く時に「にびいろ」の英訳に困ったっけ。「にびいろ」=「鈍色」なので直訳すると"Dull Color"だが、さすがにこれはないだろうと、重苦しく寒々としたイメージと解釈して"Silent Lead Gray"としてみた。そうか今にも雪の降り出しそうな色か。沈黙が垂れ込める中から、音がひとひら、ふたひらと舞い始め、やがて降りしきり、宙を舞い、降り積もる。鈍色の空と渾然一体となった雲の中では、そうしたことが起こっている。
 「薄氷空を映す」とは晴れ晴れとした冬の日のイメージだが、stilllifeが今回連れてきたのは、むしろ重苦しい沈黙とやがて雪へと変貌する平衡の崩れを内在させた「にびいろ」の空間ではなかったか。
にびいろ29
※写真は津田貴司、原田正夫両氏の
 Facebookページから転載しました。

ライヴ/イヴェント・レヴュー | 23:04:02 | トラックバック(0) | コメント(0)
声の甘さ − アリカ「しあわせな日々」(原作サミュエル・ベケット)  Sweetness of Voice − ARICA "Happy Days" by Samuel Beckett
前日15日に生じた衝突事故のせいで、東横線はみな極端な徐行を強いられており、私を乗せた特急は何度も駅間で止まりかけた。馬車道駅から急いではみたものの、結局、開演には間に合わなかった。だから、これから記すのはあくまで印象記に過ぎない。




 段差のない舞台にはうずたかく積まれたガラクタの山。そのてっぺんで胸まで埋もれた女が休むことなく話し続けている。開演から今この瞬間までに、こうした状況に立ち至った経緯は果たして説明されたのだろうか。おそらくされてはいまい。ベケット作品の観客たちは、いつも「すでに決定的なことが起こってしまった」後に広がる荒地のような状況に、いきなり直面させられるのだから。

 女は髪をくしけずり、鏡を覗き込み、爪を磨き、虫眼鏡で辺りを見回す動作を繰り返しながら、止まることなく話し続ける。ピストル(頭上に投影される英語字幕を見ると、どうもBrownieと呼ばれているらしい)を取り出して死をほのめかし、言語の凋落/崩壊に言及し、祈りについて語る。突っ込みどころ満載のシンボルが至るところにちりばめられている。しかし、女の話はあまりにつかみどころがなく、とめどがない。カスケード状に論理が暴走するかと思えば、ふらふら歩きの酔っぱらいがあっちの壁、こっちの電柱にぶつかるように当たるを幸い話題が飛躍し、さらに不定形の不安が妄想を煽り立てる。そして「古臭い言い方」、「楽しい一日」といった幾つかのフレーズが擦り切れるまで繰り返され、ついには意味を失って明滅するだけになる。

 ここでテクストはシンボル/アレゴリー的思考ではとらえられないほど大量に押し寄せてきて、細かく素早く動き回り、網の目をすり抜け、脇からはみ出し、解釈を機能不全に陥れる。ここでテクストは「楽譜」のようなものに過ぎない。一つひとつの音符に意味を見出そうとするのではなく、速度をとらえ、対位法を見守り、音の流れに寄り添いながら分岐する流れに指先を浸して、構造を感じ取ること。

 女が胸まで埋もれているガラクタの山には、明らかに「正面」があった。バス・ドラムの面、金ダライの底面、トタン板やカーペットの設えられた面が客席からの視線をまっすぐに受け止めている。だからここで埋もれていることは、正面の180°しか可能な視界がないという制限を示している。ちょうど楽器編成や音域を指定するように(こうした制限はベケットお特異のものではある)。
 ときどき男が山の窪みから頭を出し(後頭部に何か書いてある)、頭を手拭で包んで姿を消し、新聞紙だけを客席から見えるように高く掲げ読み上げる。その声には電子変調がかけられ、虫の音のような聴き取りにくい軋みと化している。

 話し続ける女の声は口元のマイクロフォンで拾われ、PAから放たれる。彼女の動き(声の「動作」を含む)にシンクロしたカタカタ、パタパタ、ガシャガシャした電子音、あるいは時を満たす深々とした低音の揺らぎとともに。だから女の声は常に混信し、汚染されている(張り上げた声に直接電子的な余韻が付加されたことも)。と言うより、その話の止め処もなさに、女は単なる受信機に過ぎず、これらの電子音がトリガーとなって生じる内語が溢れ出しているだけではないのかとの疑念すら生じる。

 女の動きは中断され、また始められ、繰り返される。だが強迫的ではない。言葉もまた。声はすらすらと早足で歩み、流れとなって溢れ出し、ふと足取りを緩め、止まりかけ、また動き出したかと思うと中断し、再び何事もなかったように加速する。安定した息遣いの下、声はまるで名手に弾かれたピアノのように粒の揃った音で、クレッシェンド、リタルダンド、スタッカート、アッチェレランド、マルカート、レガート、コン・モート、デクレッシェンド、テンポ・ルバート等を自在にこなし、速く、遅く、歩く速度で、歌うように、優美に、力強く、楽しげに、いきいきと、滑らかに‥‥スモルツァンド(だんだん静まって)、ソステヌート(音を保って)‥‥。時に畳み掛けながら、でも熱を帯びることなく音を放ち続ける。そう、声は空間に、辺りを取り巻く「荒地」へと放たれる。間違っても観客に語りかけているのではない(youtubeで「一人芝居」と副題された「しあわせな日々」のとんでもない上演を見かけた。そこで女は愚痴っぽく観客に語りかけていた。私は5秒と観ていられなかった)。

 楽譜を演奏するとは、流れを切り分けることでもある。一台の「声のピアノ」は動きにシンクロした、あるいは空間を満たす電子音を伴うことにより、幾つかの部分機械の集合体へと変貌する。このやり方は高橋悠治による「カフカ」や「可不可」、あるいはハイナー・ゲッベルスによるラジオ劇を思わせる。直径や質量、速度の違う車輪が、それぞれ異なる階の廊下を経巡っていくような。典型的な部分として、女のところにやってきた「最後の人類」であるカップルの言葉が間接話法で語られる部分だけ、歪んだ電子変調が施されていたこと(しかも男女別々のトーンで)を挙げられるだろう。

 高く掲げた日傘が燃え出し、白い煙をもくもくと吹き出した後、女の話は自己言及性を強め、動作も繰り返しが増える。女の話の中で、日傘を投げ捨てても、鏡を砕いて放り投げても、明日にはまた元の場所に戻っていると、出口のない堂々巡りの永遠が暗示される。先の「最後の人類」のくだりを経て、天から金色の紙片の雨が降り注ぎ、美しく伸びやかなスキャットが響き渡る中、舞台は暗転する。
 照明が灯り第2部が始まる。見ると女はますます深く首まで埋もれている。つま先立ちして遠くを眺めるようなスキャットがまだ続いている。突然、ブザーが威圧的な大音量で鳴り渡る。
 男が死んでしまった、私を捨ててどこかに行ってしまったと、女は「不在」について語り、「でもそこにいる」と続ける。スキャットや口笛はむしろ男に属するモチーフでありながら、むしろ男の「不在」を表象している。大音量のブザーにたびたび切断されながら、話はいよいよ混迷を深め、アンビヴァレンツに引き裂かれ、第1部をカット・アップしたように「最後の人類」の場面の抜粋が反復される。妄想はいよいよ支えを失い、電子音はオモチャのように走り回り、男による新聞読み上げをはじめ過去の断片が寄る辺なく回帰して、認知症的な混濁を示しながら言葉は止まることなく、ガラクタの山の一部が乾いた音を立てて崩れ始める。

 崩壊へと向かう世界から男が這い出して、四つん這いのまま女と見詰め合い、ついにはガラクタの山に取り付く。「お前」と男が声を発する(字幕ではWin。女の名前Winnieをつづめた愛称。女がWinnieなら男はWillieだが、テクストの訳文は結局ただの一度も固有名詞を口の端に上らせることがなかった。前回の「ネエアンタ」でもJoeがあんたと呼ばれ続けたように。ARICAでテクストの翻訳を担当する倉石信乃の、日本語に対する透徹した視線が感じられる部分だ)。「今日は楽しい一日」。
 女が鼻歌を歌い始める。ため息まじりに引き伸ばされた声に歪んだオルゴールの音が寄り添い、声は賛美歌を思わせる簡素なメロディを歌い始める(原作の指定では「メリー・ウィドウ」の一部らしいが)。最後のブザーが鳴り渡り、ため息とともに暗転して終了。



 的確なアーティキュレーションに満ちた素晴らしい「演奏」だったと思う(隣席の男はずっと睡魔に敗北し続けていたが)。何より前作「ネエアンタ」では役柄上、あまり聴くことのできなかった安藤朋子の声をずっと聴き続けることができたのが、私にとって大きな喜びだった。深い喫水を保って重い水をゆっくりと押していく息の安定した土台(これは優れた歌い手/声の使い手の必須条件にほかならない)に基づいて、しなやかに伸びやかに遊ぶ声。弾むようなしっとりとした甘さを常にたたえながら、声は喉から流れ出るだけでなく、舌先や唇で放たれる最後の一瞬までこねられ、編まれ、操られる。優れた投手の条件として「球持ちがよい」こと、すなわちボールをできるだけ長く持っていられること、能う限り打者の近くで放すことがよく挙げられる。その点、彼女は実に「声持ちのよい」投手と言わねばならない。

 最後の舞台挨拶で、演出の藤田康城は、男を演じた福岡ユタカを「ゲスト、ヴォーカリスト」と紹介していたが、それなら安藤はARICAの「ハウス・ヴォーカリスト」と紹介されるべきだったろう。

アリカ「しあわせな日々」 原作サミュエル・ベケット
新訳:倉石信乃  演出:藤田康城  美術:金氏徹平  音楽:イトケン
出演:安藤朋子、福岡ユタカ
照明:岩品武顕  衣装:安東陽子
横浜赤レンガ倉庫1号館3Fホール
2月14日〜16日

※写真はARICAのFB等から転載しました。

ライヴ/イヴェント・レヴュー | 23:53:33 | トラックバック(0) | コメント(0)
響きの軌跡 色彩の反響 − 津田貴司展『にびいろ』  Traces of Sounds Echoes of Colors − Takashi Tsuda Exhibition "Silent Lead Gray"
 stilllifeのライヴに足繁く通い、つい先日は益子里山でのワークショップ「みみをすます」に参加させていただくなど、最近、何かと関わりの多い津田貴司が個展を開くという。美術分野での活動もしていると聴いてはいたし、音具の選択やhofli作品の特製紙パッケージのデザインに感覚の洗練を感じてもいたが、個展とは‥。何と楽しみなことか。

 どのような展示になるのか、まずは彼自身から語ってもらおう(彼のブログ「hofli sound diary」から転載)。


さて、二月は津田貴司として個展を開催します。
「鉱質インクと音の滲みによるインスタレーション 」のシリーズ、忘れ去られた頃にまたやる、というくらいの緩慢なペースで続けています。
2012年夏に発表したインスタレーション『Optics of the Garden』の続編となる今作『にびいろ』は、鉱質インクを滲ませた紙片と冬の音模様をギャラリー全体に配置し、冬のある日の「聴こえ」を空間にトレースする試みです。
会期は五日間と短めですが、どうかご予定送り合わせの上お運びいただけますと幸いです。
また会期中にサウンドパフォ-マンスも行います。
このギャラリーでは、これまでソロ演奏や歌人の石川美南さんの朗読とのコラボを行ってきましたが、今回は気配と静謐を奏でるサウンドアートユニット、スティルライフとして。
みなさまのご来場お待ちしております。
にびいろ1 にびいろ2


 皆既日食の際に現れる「ダイヤモンド・リング」を反転させたような染料の滲みが美しい。ペン先の運動の硬質な軌跡と不定形な滲み。それが転写され、壁面に配置され、その間に何本もの写像の線が走り、空間を鋭利に貫いて、そしてゆっくりと滲み広がっていく。手元で生じたちっぽけな音が、響きとなって広がり、風に運ばれて遠くまで届くように。
 「鉱質インク」という語の手触りにも惹かれる。宮沢賢治「春と修羅」序に語られるように、紙とつらなり鮮やかな筆致を残しながら、現象として明滅を繰り返し、次第に透き通っていく心象スケッチ。共に実施されるサウンド・インスタレーションが、それを眼に映るものとしてくれることだろう。色が映り、音が響く。それは決して「共感覚」的なものではあるまい(「共感覚」とは感覚同士が勝手に通底してしまい、選択の利かない、ずいぶんと不自由な状態だと思う)。いったん切断し、改めて結びつける。『雑木林と流星群』や『LOST AND FOUND』(※)の鮮やかな達成のように。会期中に行われるstilllifeのライヴ・パフォーマンスにも期待したい。
※最近、Recored Shop "Reconquista"でも取り扱いが始まった。店主である清水久靖の耳の広さ/深さは、このセレクション(*)から容易に知れよう。
※http://www.reconquista.biz/SHOP/ROND19.html
 http://www.reconquista.biz/SHOP/hoflicd11.html
*http://www.reconquista.biz/SHOP/89093/list.html

 以下に個展及びライヴ・パフォーマンスの会場である西荻窪のギャラリー「みずのそら」のページ(※)から案内情報を転載する。
※http://www.mizunosora.com/event141.html


津田貴司展『にびいろ』鉱質インクと音の滲みによるインスタレーション
2014年2月12日(水) − 16日(日) オープン12時~19時
にびいろの空から ふりつもる時間 その濃淡の中で 溶けてゆく雪のひとひら
湿らせた紙片を鼓膜とすると そこに滲む鉱質インクは 音の聴こえでもある

stilllife サウンドパフォーマンス『薄氷空を映す』
2014年2月15日(土)18:00受付開始/18:30スタート
料金:2,000円(定員30名)
会場:ギャラリーみずのそら
http://www.mizunosora.com/
東京都杉並区西荻北5-25-2

サウンドパフォーマンスのご予約受付はじまっています。
gallery@mizunosora.com

にびいろ3

掲載写真の撮影はすべて津田貴司による
(ブログ及びFacebookから転載)


ライヴ/イヴェント告知 | 17:54:52 | トラックバック(0) | コメント(0)
ディスク・レヴュー 2013年11〜12月 その1  Disk Review Nov.−Dec. 2013 vol.1
 2013年ディスク・レヴュー最終セットの第1回です。これまでのレヴューに間に合わなかったものを採りあげていきます。入手が遅くなったものや書きあぐねていたものがあるので、「落ち穂拾い」ということではありません。まずはエレクトロ・アコースティック・インプロヴィゼーションからの7枚。



Common Objects / Live in Morden Tower
Mikroton cd 29
Common Objects :Rhodri Davies(electric harp),John Butcher(saxophones,amplifier),Lee Patterson(amplified devices,processes)
試聴:http://www.ftarri.com/cdshop/goods/mikroton/mikroton-29.html
 英国Newcastle Upon TyneのMorden Towerにおけるライヴというと、すぐにNew Blockadersの名が浮かぶが、ここでも演奏はざらざらした粒子、ギザギザした破片が高速で噴出し撹拌されるノイジーなものへと傾いている。冒頭、空間を360°睥睨し制圧する持続音の強度で幕を開け、ハープ弦への苛烈な打撃が眼前で目映く炸裂する彼方に、サキソフォンの倍音が雲となって沸き上がり、顕微鏡的に拡大されたざらつきや揺らめきがそこかしこから溢れて触覚を支配する。e-bowの使用によりハープ弦から永遠に続き得る持続音を取り出し、特殊奏法とアンプリファイによりサキソフォンは喉を鳴らし、とぐろを巻いて足元にまとわりつき、ノイズ流にすら鋭い打撃を食らわし、殺気立ったフィードバックすら自在に操ってみせる。手元で立てられる微かな物音が拡大され、パースペクティヴをねじ曲げて不穏さをいや増しながら、空間を励起し、沈黙を波立たせる。ここで三者は「一者」から変形/分岐して流出したようにも、三方どころか、四方八方から押し寄せるようにも聴こえる。もちろん、DaviesとButcherの器楽的なやりとり+Pattersonのエレクトロニクスという場面も見られるのだが、総体としてはエレクトロ・アコースティックなインプロヴィゼーションに軸足を置きながら、エレクトロニックな繊細さよりも耳を傷つける過激なアンプリファイにより、かつてのEvan Parker / Paul Lyttonデュオの現在形と言うべき新たな扉を開いている。New Blockadersの名前に思わず腰を浮かすファンにこそ聴いてもらいたい。


Jean-Luc Guionnet, Eric La Casa, Philip Samartzis / Stray Shafts of Sunlight
Swarming 004
Jean-Luc Guionnet(sax,microphones),Eric La Casa(microphones,laptop),Philip Samartzis(electronics,laptop)
試聴:http://www.squidco.com/miva/merchant.mv?Screen=PROD&Store_Code=S&Product_Code=17503
 サキソフォンは希薄な息音を多用し、正弦波やグリッチが空間を分割するエレクトロ・アコースティックな繊細さ/端正さ/清澄さのただ中に、空を掴むマイクロフォンがざらざらと粒立つ沈黙のざわめき/もやつきを導入し、サキソフォンの管の鳴りが束の間姿を現して、風景をかき乱し混濁させる。ここでマイクロフォンはサウンドの電気的拡大よりも、先に見た沈黙を満たすざわめき/もやつきの可視化と、リアルタイムのサンプリング加工のための音素材の収集に用いられている。これに加え、6都市に渡る異なる場所で録音された演奏(2007年)に、後からミュジーク・コンクレート的なミックス(2012年)が施されることにより、音響はアンフラマンスな(デュシャンを参照のこと)希薄さを保ちながら、極めて重層的で入り組んだものとなっている。たとえば、案内アナウンス等のあらかじめ録音されたヴォイス、あるいはブザーやホワイト・ノイズのような持続音の使用。彼方に蜃気楼のようにぼんやりと浮かび上がる既成のポップ・ミュージックの断片。この演奏/作品は基本的にはエレクトロ・アコースティックなインプロヴィゼーションに軸足を置きながら、サキソフォンが身体的な重みの手応えを残し、かつフィールドレコーディング的な聴き方を強く喚起/要請して止まない。そこでは三次元的なパースペクティヴに演奏者の音像が浮かぶというような事態把握は全く役に立たず、見分け難いオールオーヴァーな広がりの中から、音響の肌理に対する触覚的な差異の認知や、空間への広がりの違いを通じた遠近の把握、響きの重なり合いによる重層的な前後関係の見極め等により、音が幻視的な風景として析出してくるような耳の視点の設定と能動的な聴取が求められてくる。もちろんぼんやりとした耳の眼差しの下、うつらうつらと音響の波間に浮かびながら、空間の移り変わりを愉しむ聴き方を否定するものではないが、先に述べたような能動的な没入があればこそ、あり得ない空間の様相の遷移に激しく揺さぶられることもできるのだということは主張しておきたい。


Klaus Filip & Dafne Vicente-Sandoval / Remote
Potlatch P213
Klaus Filip(sinewave),Dafne Vicente-Sandoval(bassoon)
試聴:https://soundcloud.com/potlatch-records/remoto
   http://www.ftarri.com/cdshop/goods/potlatch/p-213.html
 バスーンのひとり芝居。舞台上には彼女ひとりだけ。口ごもり、喉を鳴らし、吐息を漏らすかと思えば、ぱたんとキーを鳴らして、ガラスを引っ掻き、ため息をつく。沸騰する間際のケトルのみたいなピーピー音を出しながら、リードを鋭く軋ませ、カモメの鳴き声をまね、歯の隙間からしゅーしゅーと息を吐き、がさがさと紙を丸めるような音を立てる。ガラス窓から忍び込む隙間風。たき火のぱちぱちと爆ぜる音。古いレコードのスクラッチ。接触不良ノイズ。ありとあらゆる物音を演じながら、その響きは常にメタモルフォーゼの過程にある。これらの音たちに類似した相貌は、その一瞬の断面に過ぎない。そのようにひとつところに留まらず、忙しなく不安定に変容を繰り返すバスーンに対し、正弦波はある周波数を投影することしかしない。その都度その都度、左右上下異なった位置に浮かび上がる響きのもやつき。だからこれは共演ではない。輪郭を崩し、軸を崩壊させていくダンサーの身体に、一筋の照明が様々な角度から当てられ、影によって輪郭を明らかにし、全体を水没させるドローンとなってたゆたい、ホリゾントをかたちづくることによって重力を生み出し、空間/距離を媒介してパースペクティヴをつくりだす。まったく触れ合うことのない二つの身体によるデュオの脱構築。Potlatchレーベルの作品はいつも正確に核心を射抜いてくる。


Alvin Lucier / Still and Moving Lines
Pogus 21072-2
Deciebel: Cat Hope (flute, alto flute, organ); Lindsay Vickery (saxophone, organ, MaxMSP programming); Stuart James (piano, organ); Malcolm Riddoch (electronic playback, MaxMSP performance, organ)
試聴:http://www.pogus.com/21072.html# (Download Album/Tracksをクリック)
   http://www.art-into-life.com/product/4246
 前回のエレクトロ・アコースティック・インプロヴィゼーションからの7枚で、Alvin Lucier / (Amsterdam) Memory Space(Unsounds)を採りあげたばかりなのに、また選ばずにはいられない。今回の盤も前回同様、「外」の音の記憶を演奏によるサウンドで再現する作品(「Carbon Copies」)を含む。他の曲でもピアノ、サキソフォン、フルート、オルガン等を用いながら、オシレーターの使用等、わずかな仕掛けで、空間を流動化させ足元を揺らがし、渦を巻き浮き上がる雪の欠片に満ちた無重力空間をつくりだす手際はまったく見事なもの。あるいは廃墟となり果てた古いホテルの、廊下の曲がり角の向こうからかすかに響いてくるピアノの和音の不可解さの魅惑。それゆえ、器楽中心の作曲作品の演奏にもかかわらず、この枠で取り扱う次第。かつては『Bird Person Dying』ばかりが知られていた彼だが、今後さらに評価が進むのではないだろうか。


Ferran Fages / Radi d'Or
another timbre at65r
Ferran Fages Ensemble:Olga Abalos(flute,alto saxophone),Lali Barriere(sinewaves),Tom Chant(tenor & soprano saxophone),Ferran Fages(acoustic guitar),Pilar Subira(percussion)
試聴:http://www.youtube.com/watch?v=C5F6D7NuKa4
 クロマトグラフィーのように次第に色合いを変えながら、ゆっくりと空間に沁み込んでいく淡い音色の重ね合わせ。これらの音は視覚も触覚も喚起しない。うすあかりのなかでゆらゆらとおぼろにかたちのないかげがゆらめくだけ。むしろ味覚に近いかもしれない。一服の茶からたちのぼる馥郁たる香りの幅広いスペクトル。口に含んだ時にまず舌先に感じられる水のまろみ。青々とした草の甘みとほんのりとした乳の匂い。ゆっくりと沈んでいく渋みが軽やかな「重み」をつくりだし、爽やかな苦みを招き入れ引き立てる。ぴんと張り詰めた「淡さ」のなかを、輪郭を持たない響きがゆるゆると移ろう様は、時に雅楽を思わせる。先ほど「視覚を喚起しない」と言ったが、もしMark Rothkoの絵画が水彩で描かれていたならば、一部のみを接写でとらえるキャメラが移動しながら映し出すのは、こうした張り詰めた「淡さ」かもしれない。36分の1トラックのみ。


Lucio Capece / Less Is Less Music for Flying and Pendulating Speakers
intonema int009
Lucio Capece
試聴:http://www.intonema.org/2011/02/int009.html
 持続する正弦波と空気が擦れるような何かの噴出音、話し声等の環境音等が不定形に入り混じり、混沌としたまま高鳴っていく。広々とした三次元的なパースペクティヴが開ける一方で、どこかつきまとう「よしのずいから天井のぞく」的な視界の狭さや、トンネルの中どころか、土管の中をくぐっているような閉塞感に強烈な違和を覚えずにはいられない。Capece自身による解説を見ると、ボール紙のチューブ(そう言えば彼は以前にも、サキソフォンのベルに突っ込んでプリペアドするのに使っていたっけ)を通してあらかじめ録音した音源を素材のひとつとして用いているようだ。チューブの長さを違えることにより異なる周波数帯への共鳴のヴァリエーションを獲得し、それをまた複数のヘリウム風船に吊り下げたスピーカーから教会の広大なエアー・ヴォリュームへと放出するという壮大な、と同時に小学生向けの理科実験みたいなオモチャな仕掛け。だが私には先のヴァリエーションよりも、閉塞感と開放感、閉所恐怖と広場恐怖のアンビヴァレンツの方が先に来る。音響の構築ぶりよりも、その視覚的相同物や皮膚感覚的な受容の方が。Capeceの「演奏」も結果として、ハーモニック・シリーズの操作というより、正弦波の輪郭がおぼろで半透明な手応えの無さと、コンタクト・マイクによって増幅される断片的な物音の刻み付けるような圧倒的な存在感、そして先の視覚と皮膚感覚の違和といった、通常は併置/共存し得ない項を、「手触り」を通じて配置しているように聴こえる。その点で、以前の傑作『Zero Plus Zero』の極限的にパースナルな音世界を、内外反転させてみせたようにも感じられる。ただし、正弦波と振り子原理による2曲目にそうした手触りの生々しさは感じられない。Fripp&Enoをもっとピュアかつヘヴンリーにしたような心地よさはてんこ盛りなのだが。300枚限定。



Various Artists / Presque Rien
Rhizome-s #03
Ana Foutel, Barry Chabala, Brian Labycz, Bruno Duplant, Bryan Eubanks, D'Incise, Dafne Vicente Sandoval, Daniel Jones, Darius Ciuta, Delphine Dora, Dimitra Lazaridou Chatzigoga, Dominic Lash, Ernesto Rodrigues, Eva-Maria Houben, Fergus Kelly, Ferran Fages, Gil Sansón, Grisha Shakhnes, Iliya Belorukov, Jamie Drouin, Jez Riley French, Johnny Chang, Jonas Kocher (with Dafne Stefanou), Joseph Clayton Mills, Julien Héraud, Jürg Frey, Keith Rowe, Lance Austin Olsen, Lee Noyes, Lucio Capece, Massimo Magee, Michael Pisaro, Paco Rossique, Paulo Chagas, Pedro Chambel, Philippe Lenglet, Rachael Wadham, Ryoko Akama (with John Bryan), Simon Reynall, Stefan Thut, Travis Johnson and Vanessa Rossetto
試聴:http://www.ftarri.com/cdshop/goods/rhizomes/rhizomes-03.html
 当然のこととしてタイトルはLuc Ferrariの同題の作品を参照していよう。ただただ時間が流れていくかのように装われたFerrari作品に対し、多くの参加者に対しタイトルだけを示して2分威内の音源提供を求めたこの作品は、ピアノの内部奏法によるほとんど聴こえない断末魔で幕を開け、ほとんど変化の無いダイナモの唸り、狭い隙間から垣間見た全貌の明らかでない電子音の断片の集積等、タイトル通りに微細で希薄な音響が続いていく。だが、それは決してもっともらしいポーズに留まるものではない。フィールドレコーディングやミュジーク・コンクレート的作品はもちろん、ピアノ・トリオやクラリネットのソロ等の器楽演奏も含むことによって、彼方に向けて耳を澄ます注意深い視線を待ちこがれている(それらがほとんどランダムに並んでいることによって、前者を後者に向けた耳の視線で、あるいはその逆で聴かれることが期待されていよう)。なお、カヴァーには「水は(それが入っている)グラスにほとんど何も( = presque rien)及ぼさないし、グラスも(そこに入っている)水を変化させない」というFrancis Pongeの文章が引用されている。「水」と「グラス」の代わりに、音響とか、音楽とか、録音とか、再生音とか、部屋のアコースティックとか、聴き手の知覚とか認知とか、様々なものを代入してみること。120枚限定。

ディスク・レヴュー | 21:33:28 | トラックバック(0) | コメント(0)
益子音紀行 その2 − 益子里山の家コンサート 内田輝 & stilllife  Sound Travel Writing of Mashiko vol.2 − Akira Uchida & stilllife Concert at Satoyama Woodland House in Mashiko
 ワークショップを終えてコンサート会場に向かう。日が暮れて、空気が急速に冷えていく。広い敷地に立つかわいい「小屋」のような自宅の隣にコンサート会場が建っている。冷えた身体にたき火がありがたい。熱や煙とともにぱちぱちと爆ぜる音が身体にしみ込んでくる。
 会場に入ると柔らかな材質の木の床と壁が、音をやさしく散乱させる。夏に裸足で歩いたら気持ち良さそうだ。すでにクラヴィコードとstilllifeの音具がセッティングされている。さほど広くはないが、天井が張られていない分、エアーのヴォリュームはそれなりにある。防寒対策のためにしっかり入れられた断熱材のせいなのか、外の物音はあまりしない。それでもたき火の方から話し声や子どもの歓声が聴こえてくる。それとストーブから聴こえるぱちぱち音。耳を澄ましていた緊張とはまったく別の空気にしばしまどろむ。
益子21 益子22


 外が暗くなり、たき火を囲んで歓談していた参加者たちが会場に入り始める。ワークショップ参加者以外にも大勢。たぶん益子在住の方たちなのだろう。みんな着込んでいるので、きっと音を吸い込むだろうな。
 明かりが消えると、いつの間にかキャンドルが灯されている。まだ演奏者たちは誰も会場内にいない。シャーンと鈴の音が外で響く。甲高い笛の音、ちーんと金属を叩く音。少し離れたところからサキソフォンが聴こえ、背後の壁越しの「演奏」に気を取られていると、いきなり鉄板を叩く音に驚かされる。音のした左手側に注意を向けると、大きな音の後に残された静寂から、ぱちぱちとたき火の音が浮かび上がる。
 引き戸が開く音がして誰かが室内に入ってくる。stilllifeの二人が床に腰を下ろし、素焼きのパイプを掌で転がし、床で金物を引きずる。壁際の椅子に腰掛け、あるいは床に座り、彼らを取り巻く聴衆の身体に音を吸われて、音は大きく響くことがない。いよいよ演奏の音は慎ましくなり、聴衆が立てる物音、衣擦れや呼吸音、腹の鳴る音に埋もれていく。外には里山の豊かな自然が広がっているにもかかわらず、びっくりするほど音は入ってこない。立川セプティマでひとつのカギとなっていた床の軋みもしない。聴衆の立てるもぞもぞとした暗騒音にストーブの音が浮き沈みし、時折、風が窓ガラスを揺する。
 津田が管の息の流れを滑らせていると、笹島がそれを断ち切るように金属音を響かせる。津田はそのまま止めることなく吹き続け、そこにある「衝突」が浮かび上がる。やがて笹島は石を手に取り、石笛の要領でそれを吹き始める。「出」の強い息の流れがぶつかり合い、そこに混濁/変容した「戦闘状態」が開かれる。津田が尺八のムラ息の要領で荒々しく息を放つ。stilllifeの演奏にあって、こうしたことは珍しい。二人は互いに隙間の多い、あるいは髪の毛のように細い音を用いて透過性の高いレイヤーをかたちづくり、敷き重ねてもすでにある響きをマスクしてしまわないようにしていた。
 最初はバックグラウンドノイズに身を潜めるようにして始まった演奏は、ここで激しくクレッシェンドし、むしろいつもより大きな音量となった。

 彼らが活動のごく初期に収録したPV(*1)を観ると、コンタクト・マイクで音を拾うなどして、一つ一つの音を立たせようとしているのがわかる。ある音色(音高やアクションではなく)による空間の占有。それらをモザイク状に組み立てることで演奏が成立している。私が彼らのライヴを体験した時にはすでに、彼らはマイクロフォンも電気増幅も手放していた。音を「立てる」よりも、すでにその場に存在している音(それはたいてい「沈黙」と呼ばれる)に自ら沈潜/浸透し、音を差し込み溶け合わせて変容させること。自分や共演者の放つ音だけでなく、環境音や空間の響きや聴衆の立てる物音も等価にとらえ、そのようにして浮かび上がる響きのテクスチャーの総体を「演奏」していくこと。彼らが「先行シングル」としてリリースした『indigo』は、充満する虫の音の中に身を横たえ、その響きの隙間から音を芽吹かせようとする彼らの姿をとらえている。

 だから、ここで音が大きくなり、演奏者の間で音の強度を打ち付け合うことは、「音が響かない」、「音が聴こえてこない」ことへの苛立ちからではないかと最初思ったことを白状しておこう。しかし響きは、そうした心情が逃れ難く囚われる八方塞がりの膠着状態に陥ることなく、軽やかに結び目を解きながら先へと歩みを進めていった。その時、彼らの耳には、昼間経巡った益子の森の音の記憶、風のうなりや鳥の声、ひとつに溶け合った車の音とチェーンソー‥‥が響いていたのではないだろうか。それらを深く深く聴き込んだ「耳のほてり」をそのままにして。
*1 http://www.youtube.com/watch?v=vOal4g0wIh8
  https://www.facebook.com/pages/スティルライフ/575989065782158


 結果として、この日のstilllifeの演奏はいつも以上に「物音系インプロヴィゼーション」に近づいていたと言えるかもしれない。音具の選択や用いる音色に関しては、stilllifeのは試みはJeph JermanたちによるAminist Orchestra(*2)と類似している。だが彼らはむしろ聴覚から触覚を切り離し、音を聞かずに注意を手元だけに集中しているように思われる。音を聞かないのは「引き込み」による同調を回避するためであり、アコースティックで隙間だらけの微細な物音が、そこここで間歇的に不揃いのまま生成を続けることにより、幾らでも見通し可能な目の粗いテクスチャーを織り上げることができる。全員が異なる周期のリフを演奏するポリリズムの音色フェティッシュ版とでも言えようか。
 stilllifeの演奏は彼らと大きく異なる。二人は「音を出す」ことよりも「音を聴く」ことに注力する。虫の音に、せせらぎに、風の唸りに身を浸し、あるいは暗闇に潜む気配に肌を総毛立たせる。彼らが楽器を用いないのは、触覚にフォーカスしているからではなく、楽器の音がもともと「地」に対する「図」として浮かび上がるようにかたちづくられているからにほかならない。いくら無名性の獲得に向けて息音を多用しても、誰もがMichel Donedaになれるわけではない。二人は「みみをすます」で目指された「図」と「地」の区別や階層構造の無いテクスチャーの生成を目指す。
 それは身体動作と音、動きと聴くことを切り離すことでもある。フリー・ジャズやそこから由来するフリー・インプロヴィゼーションは、向かい合う二つの身体を基本的な枠組みとし(それはソロ演奏においても「自分との共演」とか「楽器との対話」へとパラフレーズされる)、身振り/動作の結果として音をとらえる。互いに強迫観念をいや増しながら昂進しあう二つの身体は、鏡像と向かい合うことによって増幅するヒステリーでもある。動作の結果として音をとらえるのではなく、さらに上流に遡って意図(無意識を含む)の産物として音をとらえるのでもなく、接点や材質、振動と減衰、共鳴や共振、伝播や反射等、多様な力動のかたちづくる変容のプロセスとしてとらえること。そこにはある種の切断が求められる。
 音が強くなれば、それだけ身体動作との結びつきが強まり、音の印象は単色化して、本来持っている多様さ/多彩さをとらえられなくなる。演奏は自然と音域やダイナミクス、音色や持続の大きな対比に頼りがちになり、耳が細部に目覚めていく機会を奪うことに鳴りやすい。その時、聴き手は与えられたものを通過させるだけの「受け身の消費者」となる。stilllifeの二人が求めているのはそうしたものではないはずだ。
*2 http://www.youtube.com/watch?v=MDxxsiQkvyw&list=PLC26EC59233F95544
https://ia700409.us.archive.org/11/items/KEXPSonarchyRadio_AnimistOrchestra_0/AnimistOrchestra.mp3


 やがて演奏は消え入るように小さくなり、内田のクラヴィコードに引き継がれた。細く張り詰めながら、柔らかく空気に溶ける響き。音色やフレーズの香りはウードをもっと繊細にしたように感じられる。とぎれとぎれに吐く息のように、断片的なフレーズが空中に綴れ織られる。フレーズの最後の一音が小首を傾げるように僅かに上ずり、「はらい」とともに筆の穂先が揃って静寂に吸い込まれていく消え際が何とも美しい。だから音が密集してくると、それが聴こえずもったいない気がした。
 内田の演奏が終わると、津田がクラヴィコードの説明をするよう内田を促す。それによるとクラヴィコードは14世紀に生まれた楽器で、弦が緩く張られており(ピアノの200kgに対して3kg)、ピアノのハンマーに当たる部分が釘状になっていて、一瞬だけ打つのではなく押すように打つために、鍵盤の操作で張られた弦をチョーキングのように撓ませて音高を少し上げることができるのだという。また、張られた弦同士の共鳴により、音が減衰するにつれて響きが純正調に揃っていくのだそうだ。先の印象はそうしたことによるのだろう。実際、楽器の内部を見せてもらうと細い弦が隙間無く張られている。ハンマー部分の位置が鍵盤によってずれているため、最初は共鳴専用の弦があるのかと思ったほどだ。楽器というよりは、空気の微細な振動を感知する受信機/検出器。

 演奏が再開され、今度は内田のソロから。カーヴド・ソプラノ・サックスをクラヴィコードの弦に向けて吹き、響きのさざ波を乗せる。クラヴィコードの躯体を叩き、香りを舞い上がらせる。Rhodri Daviesがハープで、Christoph Schillerがスピネットで行っているような演奏、すなわちe-bowを含む様々な音具で楽器の各部を鳴らし分けるやり方をクラヴィコードに適用することも可能だろう。演奏はstilllifeに引き継がれ、次第に「弱さ」を増しながら続けられた。


 コンサートが終わり、外へ出ると空気がすっかり凍り付いている。道路に出るまでが真っ暗でとまどう。多田雅範に益子フォレストインまで送ってもらい、そこで別れる。彼と益子博之はこれから東京へ戻るのだ。部屋に荷物を置いて、持ってきたパンをかじり(コンサートの後で配られた2種類のピタパン・サンドはきっと地元のオーガニックな素材を使っているのだろう、大層おいしかったが、あれだけでは寝る前に腹が空きそうだった)、しばらくしてから星を観に外へ出てみた。
 この施設には実は天体観測設備もあるようなのだが、5名以上の予約が必要なので利用できなかった。幸い空は晴れているが、せいぜいオリオン座の小三ツ星やおうし座の「すばる」らしきもやが見える程度で、期待したほどではない。周囲が明るすぎるせいかと思い、昼間の草原に行ってみることにした。

 背後から照らされて影が長く伸び、その先が森の中へと吸い込まれていく。星はやはりそれほど見えない。ふと耳を澄ませてみる。かさっと草むらで音がしたような気がして振り返り、そちらをじっと見詰めるが何も起こらない。カエルの声が聴こえたような気がしてそちらを見るが、やはり続かない。この寒空のしたにカエルなんていないことぐらい、考えなくてもわかりそうなものだが、やはり薄暗い不安に思わず耳をそばだててしまう。発電用設備なのだろうか、フォレストインのタービン音がずっと鳴っていて、それに遠くを走る車の音が混じる。人の笑い声が風に乗って耳元に届いた気がした。
 さすがに森に踏み込む勇気はなかったので、昼間行かなかった方へ草原を横切ってみる。そちらに広がる森の木立の暗がりに耳を傾けるが、何も聴こえない。あきらめて帰ろうとすると、どこかから水の音がする。探すとそばにかなり大きめの雨水マスがあって、グレーチングで蓋がされていて、水の音はその中から聴こえてくる。暗すぎて中の様子はまったくわからない。どれほどとも知れない深みから水が流れ滴る音が響いてくるだけ。昼間、森の中で見たせせらぎが流れ着く先がここなのかもしれない。

 しばらくしゃがみこんで響きをじっと見詰めた。子どもの頃に正体の知れない音がたいそう怖かったことを思い出していた。最近の住宅、特にマンションは音がしない。昔の木造の日本家屋はいろいろな音がした。たとえ誰もいなくても床や階段がみしっと軋み、障子や雨戸ががたんと揺すられ、窓ガラスやガラス戸が急にがたがたと鳴り出し、天井裏をとっとっとっとネズミが走っていく。外の音もしょっちゅう入ってきた。車の音、救急車のサイレン、テレビの音、水銀灯の唸り、子どもの歓声や泣き声、雨や風の音、雷。窓を開けていればなおのこと、虫や鳥の声、風鈴の響き、庭木の葉擦れ、さやさやとした竹やぶ、枯葉の舞う乾いた響き。寝床の中で得体の知れない不気味な音が気になり始めると、注意がますますそれに引きつけられ、響きはさらに大きくなり心臓の鼓動や首筋の脈が蕎麦殻枕に響かせるリズムとひとつになって迫ってきて、私は小さな身体をますますこわばらせたものだった。

 身体が冷えて、思わず身震いしながら顔を上げると、遠く走る姿の見えない列車の音だけが眼の前を通り過ぎた。
益子2 益子23
撮影:多田雅範 ブログから転載しました。

ライヴ/イヴェント・レヴュー | 18:12:07 | トラックバック(0) | コメント(0)
益子音紀行 その1 − 津田貴司ワークショップ『みみをすます in 益子の森』  Sound Travel Writing of Mashiko vol.1 − Takashi Tsuda Workshop "To Be All Ears in Mashiko Forest"
益子14 それではワークショップ『みみをすます』を始めます。「音を聴く」、「静けさを聴く」、「みみをすます」の三つの段階を踏んで進めていきます。この三段階は意識の状態の違いでもあります。最初は「音を聴く」です。「あれは何の音だろう」とか、「あの音とこの音の違いはなんだろう」と、注意深く意識して音を聴いていきます。「あれは○○の音です」と説明してしまうとクイズの答合せみたいになってしまうので、なるべくそうならないようにしていきたいと思います。

 津田は参加者にそう説明すると、集合場所であるフォレストイン益子から道路を挟んで向こう側にある草原へと歩き出した。草原は子どもが野球をできるぐらいに広く、三方は林に囲まれていた。津田は参加者がみな草原に入ったのを確かめて、何度か大きく手を叩いた。

 かなり響きますね。ご覧のように今は木々の葉がすっかり落ちてしまっていて、音を吸収するものがありません。葉が繁っている時と全然響きが違います。いま手を叩いた音の響きとあそこで鳴いているカラスの声の響き方も違いますね。

 彼には手を叩いた音が草原を渡っていくのが見えているようだった。私もそのようにして空間を音が渡っていくのを見たことがある。あれは大谷の地下採石場跡にJohn Butcherのソロ・ライヴを聴きにいった時だった。機材を積んできたのだろう、離れたところにある車両用出入口に1台のバンが停まっていて、スタッフがドアを閉めるのが見えた。車のところからこちらまで、途中の空気を次々に揺らめかせながら、震えが空間を伝わってくるのが見えた気がした。アルコール・ランプにかけたビーカーの中で、温められた底の部分の水が揺らめきながら上昇してくるのが見えるように。

 林の中へと向かいながら音を聴く。遠くで作業しているチェーンソー、皆の足音、足下のグレーチングの鳴り。山道を登る。足の下で枯葉がぱりぱりと砕け、かさかさと音を立て、乾いた茎がぽきぽきと折れる。場所によっては地面がぬかるんでいて、べちゃべちゃした湿気た音が加わる。車の通過音、ウィンド・ブレーカーの衣擦れ、だんだん荒くなってくる息、心臓の鼓動。登った後、少し下って足下が柔らかくぬかるんだ場所に着いた。

 ここはすり鉢状に窪んだ場所なので、こうして手を叩くとさっきとはまた違って、何かこもった感じの響きがします。下がぬかるんでいて、靴で踏むと「ぎゅっ」と水が出てきます。ここにマイクとヘッドフォンがあるので、音を拡大して聴いてみてください。

 順番を待つ間、木の幹や木製の道しるべに耳を当ててみたり、表面をこすってみたりする。びっくりするようなことは起こらない。自分の番になってヘッドフォンを両耳に当てると世界が一変するのに驚く。ざらざらとした細かい面がいっぱいある響きがうわーっと襲いかかってきて、方向感覚がなくなってしまう。自分が何を聴いているのか、どこにいるのかもよくわからなくなる。眼で見ているものと、全身を包む響き(実際には耳を覆っているだけだけど)が、全く別世界になっている。苦し紛れにマイクをいろんな方向に向けてみるが、あまり変わらない。あわててヘッドフォンを外すと、ようやく意識が身体の中に戻ってきた。眼のすぐ後ろに耳があり、同じものを感じていることがわかる。そんな当たり前のことがこんなにも愛おしく感じられるとは。

 このマイクは頑丈なだけの安物なので、カヴァーを着けていても風に吹かれてノイズを拾ってしまいます。マイクで音を拡大することによって、視覚と聴覚が切断される感じがすると思います。

 津田がマイクの指向性を尋ねられて90度くらいと答えている。そんなことなくて、何だかまわり中から音が聴こえたよね‥‥と知り合いと話す。また登り。落ちているドングリや松ぼっくりを拾って、立ち木の幹や休憩用に設置されたベンチにぶつけてみる。ぽそっと乾いた音がするだけ。鳥の声もあまり聴こえない。道路が下に見えるところに来ると、車の音が急に大きくなる。道筋が巻いて、尾根の向こう側に回り込むと、さっきまでよりも車の音の輪郭がぼやけて、自分の足音や息遣い、腹の鳴る音が浮かび上がる。地下鉄駅の構内なんかだと、眼をつぶると響きの圧迫感の違いで、右側の壁がなくなって通路が開けたな‥とかわかるのだが、ここでは上が塞がれていないせいか、そこまでははっきりわからない。山道を歩きながら眼をつぶる気にもなれないし。
益子11


 次は「静けさを聴く」ことをしてみます。「何かの音」が聴こえたら、その背景を聴いてみてください。「図」に対する「地」の部分というか。遠くの音。漂ってくる音。何だかわからないけど何か鳴っている‥というような全体の響きを聴いてみてください。

 カラスの声がすでに鳴っている音に染みのように広がる。足下の地面が乾いてきて、枯葉の立てる響きの細かい角が立ってくる。尾根を越えてきた車の音がじわーっと滲みながら頭の上を通り過ぎていく。山道が階段状になっている箇所の少し手前から、安全確保のためか枯葉が掃除されていて、靴底が地面に直接当たる音が低くこもって響く。階段を昇り始めると、土留めの木材に当たる皆の靴底がリズムを刻み始める。その向こうにうわーっとした向こう側の見通せないドローンがたゆたっている。

 もうすぐ山頂です。山頂には木造の高い展望台が立っていて、まわり中を見渡すことができます。これぞ「展望台」という感じです。そこで最後の段階「みみをすます」を行います。「静けさを聴く」では「図」に対する「地」の部分を聴いていただきましたが、今度は図と地をいっしょにテクスチャーとして聴くというか、ヒエラルキーなしに、名前を付けないで聴いてみてください。今日は晴れていますから音の見晴らしというか、「聴き晴らし」がすごくよいのではないかと思います。展望台の一番上まで階段を昇る途中でも、どんどん音の眺めが変わっていくと思います。


益子12 展望台は思ったよりずっと高かった。火の見櫓とかよりもっと高い。階段を昇るにつれ、聴こえてくるチェーンソーの音と車の音が、次第に輪郭を滲ませ曖昧に溶け合っていく。心臓の鼓動も高まるが、これは高所恐怖症のせい。役所のお知らせアナウンスの最初の「ピンポンパン」だけが、風に乗って運ばれてくる。音が集まってくるのか、鳥の声が多くなる。てっぺんに着くと風が冷たく耳元で鳴っている。その風切り音越しに眺める響きの景色はどこかぼうっとして、どろりとした一様な空間のなかに起伏や密度の勾配があるように感じられた。足元同様、響きが風で揺れて、方向や距離が不明確になりパースペクティヴを結ばない。ふと後ろから音が聴こえてくるように感じられる。鉄道の線路の音や、もう巣に帰るのかカラスの群れの鳴き声が聴こえた気がしたが、はっきりとせず自信がない。すべてが茫漠としている。見渡せる景色と聴こえてくる響きは、ヘッドフォンを着けた時とはまた別の仕方でずれている。「切断」というより、「混信」とか「誤配」のイメージ。階段を降りて下にたどり着くと、今まで感じていたのが「圧力」みたいなものだったことに気づく。下は風も吹いていない。本当に上は風が吹いていたのか。風の音と聴こえたのは何だったのか。

 「音を聴く」、「静けさを聴く」、「みみをすます」の三つの段階と最初にご説明しましたが、本当はもう一段階あります。それが「もどる」です。いま耳は音を選り分けないで聴く、ぼーっとした状態になっています。先ほどの三段階を踏んで耳のストレッチをしてきたわけです。でもふだん私たちは音を選り分けて、区別するために音を聴いています。今のままだと話しかけられても気づかないとか、車が近づいてきてもわからないということになってしまうので危険です。ぜひ帰り道は他の人とお話ししたりしながら、意識的に「もどす」ということをしてください。

 確かに「音を聴く」、「静けさを聴く」までは集中して耳をそばだて、聴こえてくる音を絶え間なくスキャンし、瞬間的にピックアップ/クローズアップするということを高速で繰り返していた気がする。展望台の上ではもう、そういう風には聴いていなかった。あそこで何を聴いていたのだろうと不思議に思う。帰り道で津田がひょろりと高い松の木のてっぺんを指差し、松葉は細くて硬い独特の形をしているので、風で揺れる葉擦れの音にも特徴がある。その響きを「松籟」というと説明してくれた。私には松葉が鳴っている音がどれなのかわからなかったけれど。
益子13
掲載の各写真はワークショップに参加した
益子博之、多田雅範、笹島裕樹各氏の
撮影によるものです。
FBから転載しました。

ライヴ/イヴェント・レヴュー | 17:53:56 | トラックバック(0) | コメント(0)

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