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福島恵一

Author:福島恵一
プログレを振り出しにフリー・ミュージック、現代音楽、トラッド、古楽、民族音楽など辺境を探求。「アヴァン・ミュージック・ガイド」、「プログレのパースペクティヴ」、「200CDプログレッシヴ・ロック」、「捧げる-灰野敬二の世界」等に執筆。2010年3~6月に音盤レクチャー「耳の枠はずし」(5回)を開催。2014年11月から津田貴司、歸山幸輔とリスニング・イヴェント『松籟夜話』を開催中。

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益子音紀行 その2 − 益子里山の家コンサート 内田輝 & stilllife  Sound Travel Writing of Mashiko vol.2 − Akira Uchida & stilllife Concert at Satoyama Woodland House in Mashiko
 ワークショップを終えてコンサート会場に向かう。日が暮れて、空気が急速に冷えていく。広い敷地に立つかわいい「小屋」のような自宅の隣にコンサート会場が建っている。冷えた身体にたき火がありがたい。熱や煙とともにぱちぱちと爆ぜる音が身体にしみ込んでくる。
 会場に入ると柔らかな材質の木の床と壁が、音をやさしく散乱させる。夏に裸足で歩いたら気持ち良さそうだ。すでにクラヴィコードとstilllifeの音具がセッティングされている。さほど広くはないが、天井が張られていない分、エアーのヴォリュームはそれなりにある。防寒対策のためにしっかり入れられた断熱材のせいなのか、外の物音はあまりしない。それでもたき火の方から話し声や子どもの歓声が聴こえてくる。それとストーブから聴こえるぱちぱち音。耳を澄ましていた緊張とはまったく別の空気にしばしまどろむ。
益子21 益子22


 外が暗くなり、たき火を囲んで歓談していた参加者たちが会場に入り始める。ワークショップ参加者以外にも大勢。たぶん益子在住の方たちなのだろう。みんな着込んでいるので、きっと音を吸い込むだろうな。
 明かりが消えると、いつの間にかキャンドルが灯されている。まだ演奏者たちは誰も会場内にいない。シャーンと鈴の音が外で響く。甲高い笛の音、ちーんと金属を叩く音。少し離れたところからサキソフォンが聴こえ、背後の壁越しの「演奏」に気を取られていると、いきなり鉄板を叩く音に驚かされる。音のした左手側に注意を向けると、大きな音の後に残された静寂から、ぱちぱちとたき火の音が浮かび上がる。
 引き戸が開く音がして誰かが室内に入ってくる。stilllifeの二人が床に腰を下ろし、素焼きのパイプを掌で転がし、床で金物を引きずる。壁際の椅子に腰掛け、あるいは床に座り、彼らを取り巻く聴衆の身体に音を吸われて、音は大きく響くことがない。いよいよ演奏の音は慎ましくなり、聴衆が立てる物音、衣擦れや呼吸音、腹の鳴る音に埋もれていく。外には里山の豊かな自然が広がっているにもかかわらず、びっくりするほど音は入ってこない。立川セプティマでひとつのカギとなっていた床の軋みもしない。聴衆の立てるもぞもぞとした暗騒音にストーブの音が浮き沈みし、時折、風が窓ガラスを揺する。
 津田が管の息の流れを滑らせていると、笹島がそれを断ち切るように金属音を響かせる。津田はそのまま止めることなく吹き続け、そこにある「衝突」が浮かび上がる。やがて笹島は石を手に取り、石笛の要領でそれを吹き始める。「出」の強い息の流れがぶつかり合い、そこに混濁/変容した「戦闘状態」が開かれる。津田が尺八のムラ息の要領で荒々しく息を放つ。stilllifeの演奏にあって、こうしたことは珍しい。二人は互いに隙間の多い、あるいは髪の毛のように細い音を用いて透過性の高いレイヤーをかたちづくり、敷き重ねてもすでにある響きをマスクしてしまわないようにしていた。
 最初はバックグラウンドノイズに身を潜めるようにして始まった演奏は、ここで激しくクレッシェンドし、むしろいつもより大きな音量となった。

 彼らが活動のごく初期に収録したPV(*1)を観ると、コンタクト・マイクで音を拾うなどして、一つ一つの音を立たせようとしているのがわかる。ある音色(音高やアクションではなく)による空間の占有。それらをモザイク状に組み立てることで演奏が成立している。私が彼らのライヴを体験した時にはすでに、彼らはマイクロフォンも電気増幅も手放していた。音を「立てる」よりも、すでにその場に存在している音(それはたいてい「沈黙」と呼ばれる)に自ら沈潜/浸透し、音を差し込み溶け合わせて変容させること。自分や共演者の放つ音だけでなく、環境音や空間の響きや聴衆の立てる物音も等価にとらえ、そのようにして浮かび上がる響きのテクスチャーの総体を「演奏」していくこと。彼らが「先行シングル」としてリリースした『indigo』は、充満する虫の音の中に身を横たえ、その響きの隙間から音を芽吹かせようとする彼らの姿をとらえている。

 だから、ここで音が大きくなり、演奏者の間で音の強度を打ち付け合うことは、「音が響かない」、「音が聴こえてこない」ことへの苛立ちからではないかと最初思ったことを白状しておこう。しかし響きは、そうした心情が逃れ難く囚われる八方塞がりの膠着状態に陥ることなく、軽やかに結び目を解きながら先へと歩みを進めていった。その時、彼らの耳には、昼間経巡った益子の森の音の記憶、風のうなりや鳥の声、ひとつに溶け合った車の音とチェーンソー‥‥が響いていたのではないだろうか。それらを深く深く聴き込んだ「耳のほてり」をそのままにして。
*1 http://www.youtube.com/watch?v=vOal4g0wIh8
  https://www.facebook.com/pages/スティルライフ/575989065782158


 結果として、この日のstilllifeの演奏はいつも以上に「物音系インプロヴィゼーション」に近づいていたと言えるかもしれない。音具の選択や用いる音色に関しては、stilllifeのは試みはJeph JermanたちによるAminist Orchestra(*2)と類似している。だが彼らはむしろ聴覚から触覚を切り離し、音を聞かずに注意を手元だけに集中しているように思われる。音を聞かないのは「引き込み」による同調を回避するためであり、アコースティックで隙間だらけの微細な物音が、そこここで間歇的に不揃いのまま生成を続けることにより、幾らでも見通し可能な目の粗いテクスチャーを織り上げることができる。全員が異なる周期のリフを演奏するポリリズムの音色フェティッシュ版とでも言えようか。
 stilllifeの演奏は彼らと大きく異なる。二人は「音を出す」ことよりも「音を聴く」ことに注力する。虫の音に、せせらぎに、風の唸りに身を浸し、あるいは暗闇に潜む気配に肌を総毛立たせる。彼らが楽器を用いないのは、触覚にフォーカスしているからではなく、楽器の音がもともと「地」に対する「図」として浮かび上がるようにかたちづくられているからにほかならない。いくら無名性の獲得に向けて息音を多用しても、誰もがMichel Donedaになれるわけではない。二人は「みみをすます」で目指された「図」と「地」の区別や階層構造の無いテクスチャーの生成を目指す。
 それは身体動作と音、動きと聴くことを切り離すことでもある。フリー・ジャズやそこから由来するフリー・インプロヴィゼーションは、向かい合う二つの身体を基本的な枠組みとし(それはソロ演奏においても「自分との共演」とか「楽器との対話」へとパラフレーズされる)、身振り/動作の結果として音をとらえる。互いに強迫観念をいや増しながら昂進しあう二つの身体は、鏡像と向かい合うことによって増幅するヒステリーでもある。動作の結果として音をとらえるのではなく、さらに上流に遡って意図(無意識を含む)の産物として音をとらえるのでもなく、接点や材質、振動と減衰、共鳴や共振、伝播や反射等、多様な力動のかたちづくる変容のプロセスとしてとらえること。そこにはある種の切断が求められる。
 音が強くなれば、それだけ身体動作との結びつきが強まり、音の印象は単色化して、本来持っている多様さ/多彩さをとらえられなくなる。演奏は自然と音域やダイナミクス、音色や持続の大きな対比に頼りがちになり、耳が細部に目覚めていく機会を奪うことに鳴りやすい。その時、聴き手は与えられたものを通過させるだけの「受け身の消費者」となる。stilllifeの二人が求めているのはそうしたものではないはずだ。
*2 http://www.youtube.com/watch?v=MDxxsiQkvyw&list=PLC26EC59233F95544
https://ia700409.us.archive.org/11/items/KEXPSonarchyRadio_AnimistOrchestra_0/AnimistOrchestra.mp3


 やがて演奏は消え入るように小さくなり、内田のクラヴィコードに引き継がれた。細く張り詰めながら、柔らかく空気に溶ける響き。音色やフレーズの香りはウードをもっと繊細にしたように感じられる。とぎれとぎれに吐く息のように、断片的なフレーズが空中に綴れ織られる。フレーズの最後の一音が小首を傾げるように僅かに上ずり、「はらい」とともに筆の穂先が揃って静寂に吸い込まれていく消え際が何とも美しい。だから音が密集してくると、それが聴こえずもったいない気がした。
 内田の演奏が終わると、津田がクラヴィコードの説明をするよう内田を促す。それによるとクラヴィコードは14世紀に生まれた楽器で、弦が緩く張られており(ピアノの200kgに対して3kg)、ピアノのハンマーに当たる部分が釘状になっていて、一瞬だけ打つのではなく押すように打つために、鍵盤の操作で張られた弦をチョーキングのように撓ませて音高を少し上げることができるのだという。また、張られた弦同士の共鳴により、音が減衰するにつれて響きが純正調に揃っていくのだそうだ。先の印象はそうしたことによるのだろう。実際、楽器の内部を見せてもらうと細い弦が隙間無く張られている。ハンマー部分の位置が鍵盤によってずれているため、最初は共鳴専用の弦があるのかと思ったほどだ。楽器というよりは、空気の微細な振動を感知する受信機/検出器。

 演奏が再開され、今度は内田のソロから。カーヴド・ソプラノ・サックスをクラヴィコードの弦に向けて吹き、響きのさざ波を乗せる。クラヴィコードの躯体を叩き、香りを舞い上がらせる。Rhodri Daviesがハープで、Christoph Schillerがスピネットで行っているような演奏、すなわちe-bowを含む様々な音具で楽器の各部を鳴らし分けるやり方をクラヴィコードに適用することも可能だろう。演奏はstilllifeに引き継がれ、次第に「弱さ」を増しながら続けられた。


 コンサートが終わり、外へ出ると空気がすっかり凍り付いている。道路に出るまでが真っ暗でとまどう。多田雅範に益子フォレストインまで送ってもらい、そこで別れる。彼と益子博之はこれから東京へ戻るのだ。部屋に荷物を置いて、持ってきたパンをかじり(コンサートの後で配られた2種類のピタパン・サンドはきっと地元のオーガニックな素材を使っているのだろう、大層おいしかったが、あれだけでは寝る前に腹が空きそうだった)、しばらくしてから星を観に外へ出てみた。
 この施設には実は天体観測設備もあるようなのだが、5名以上の予約が必要なので利用できなかった。幸い空は晴れているが、せいぜいオリオン座の小三ツ星やおうし座の「すばる」らしきもやが見える程度で、期待したほどではない。周囲が明るすぎるせいかと思い、昼間の草原に行ってみることにした。

 背後から照らされて影が長く伸び、その先が森の中へと吸い込まれていく。星はやはりそれほど見えない。ふと耳を澄ませてみる。かさっと草むらで音がしたような気がして振り返り、そちらをじっと見詰めるが何も起こらない。カエルの声が聴こえたような気がしてそちらを見るが、やはり続かない。この寒空のしたにカエルなんていないことぐらい、考えなくてもわかりそうなものだが、やはり薄暗い不安に思わず耳をそばだててしまう。発電用設備なのだろうか、フォレストインのタービン音がずっと鳴っていて、それに遠くを走る車の音が混じる。人の笑い声が風に乗って耳元に届いた気がした。
 さすがに森に踏み込む勇気はなかったので、昼間行かなかった方へ草原を横切ってみる。そちらに広がる森の木立の暗がりに耳を傾けるが、何も聴こえない。あきらめて帰ろうとすると、どこかから水の音がする。探すとそばにかなり大きめの雨水マスがあって、グレーチングで蓋がされていて、水の音はその中から聴こえてくる。暗すぎて中の様子はまったくわからない。どれほどとも知れない深みから水が流れ滴る音が響いてくるだけ。昼間、森の中で見たせせらぎが流れ着く先がここなのかもしれない。

 しばらくしゃがみこんで響きをじっと見詰めた。子どもの頃に正体の知れない音がたいそう怖かったことを思い出していた。最近の住宅、特にマンションは音がしない。昔の木造の日本家屋はいろいろな音がした。たとえ誰もいなくても床や階段がみしっと軋み、障子や雨戸ががたんと揺すられ、窓ガラスやガラス戸が急にがたがたと鳴り出し、天井裏をとっとっとっとネズミが走っていく。外の音もしょっちゅう入ってきた。車の音、救急車のサイレン、テレビの音、水銀灯の唸り、子どもの歓声や泣き声、雨や風の音、雷。窓を開けていればなおのこと、虫や鳥の声、風鈴の響き、庭木の葉擦れ、さやさやとした竹やぶ、枯葉の舞う乾いた響き。寝床の中で得体の知れない不気味な音が気になり始めると、注意がますますそれに引きつけられ、響きはさらに大きくなり心臓の鼓動や首筋の脈が蕎麦殻枕に響かせるリズムとひとつになって迫ってきて、私は小さな身体をますますこわばらせたものだった。

 身体が冷えて、思わず身震いしながら顔を上げると、遠く走る姿の見えない列車の音だけが眼の前を通り過ぎた。
益子2 益子23
撮影:多田雅範 ブログから転載しました。

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ライヴ/イヴェント・レヴュー | 18:12:07 | トラックバック(0) | コメント(0)
益子音紀行 その1 − 津田貴司ワークショップ『みみをすます in 益子の森』  Sound Travel Writing of Mashiko vol.1 − Takashi Tsuda Workshop "To Be All Ears in Mashiko Forest"
益子14 それではワークショップ『みみをすます』を始めます。「音を聴く」、「静けさを聴く」、「みみをすます」の三つの段階を踏んで進めていきます。この三段階は意識の状態の違いでもあります。最初は「音を聴く」です。「あれは何の音だろう」とか、「あの音とこの音の違いはなんだろう」と、注意深く意識して音を聴いていきます。「あれは○○の音です」と説明してしまうとクイズの答合せみたいになってしまうので、なるべくそうならないようにしていきたいと思います。

 津田は参加者にそう説明すると、集合場所であるフォレストイン益子から道路を挟んで向こう側にある草原へと歩き出した。草原は子どもが野球をできるぐらいに広く、三方は林に囲まれていた。津田は参加者がみな草原に入ったのを確かめて、何度か大きく手を叩いた。

 かなり響きますね。ご覧のように今は木々の葉がすっかり落ちてしまっていて、音を吸収するものがありません。葉が繁っている時と全然響きが違います。いま手を叩いた音の響きとあそこで鳴いているカラスの声の響き方も違いますね。

 彼には手を叩いた音が草原を渡っていくのが見えているようだった。私もそのようにして空間を音が渡っていくのを見たことがある。あれは大谷の地下採石場跡にJohn Butcherのソロ・ライヴを聴きにいった時だった。機材を積んできたのだろう、離れたところにある車両用出入口に1台のバンが停まっていて、スタッフがドアを閉めるのが見えた。車のところからこちらまで、途中の空気を次々に揺らめかせながら、震えが空間を伝わってくるのが見えた気がした。アルコール・ランプにかけたビーカーの中で、温められた底の部分の水が揺らめきながら上昇してくるのが見えるように。

 林の中へと向かいながら音を聴く。遠くで作業しているチェーンソー、皆の足音、足下のグレーチングの鳴り。山道を登る。足の下で枯葉がぱりぱりと砕け、かさかさと音を立て、乾いた茎がぽきぽきと折れる。場所によっては地面がぬかるんでいて、べちゃべちゃした湿気た音が加わる。車の通過音、ウィンド・ブレーカーの衣擦れ、だんだん荒くなってくる息、心臓の鼓動。登った後、少し下って足下が柔らかくぬかるんだ場所に着いた。

 ここはすり鉢状に窪んだ場所なので、こうして手を叩くとさっきとはまた違って、何かこもった感じの響きがします。下がぬかるんでいて、靴で踏むと「ぎゅっ」と水が出てきます。ここにマイクとヘッドフォンがあるので、音を拡大して聴いてみてください。

 順番を待つ間、木の幹や木製の道しるべに耳を当ててみたり、表面をこすってみたりする。びっくりするようなことは起こらない。自分の番になってヘッドフォンを両耳に当てると世界が一変するのに驚く。ざらざらとした細かい面がいっぱいある響きがうわーっと襲いかかってきて、方向感覚がなくなってしまう。自分が何を聴いているのか、どこにいるのかもよくわからなくなる。眼で見ているものと、全身を包む響き(実際には耳を覆っているだけだけど)が、全く別世界になっている。苦し紛れにマイクをいろんな方向に向けてみるが、あまり変わらない。あわててヘッドフォンを外すと、ようやく意識が身体の中に戻ってきた。眼のすぐ後ろに耳があり、同じものを感じていることがわかる。そんな当たり前のことがこんなにも愛おしく感じられるとは。

 このマイクは頑丈なだけの安物なので、カヴァーを着けていても風に吹かれてノイズを拾ってしまいます。マイクで音を拡大することによって、視覚と聴覚が切断される感じがすると思います。

 津田がマイクの指向性を尋ねられて90度くらいと答えている。そんなことなくて、何だかまわり中から音が聴こえたよね‥‥と知り合いと話す。また登り。落ちているドングリや松ぼっくりを拾って、立ち木の幹や休憩用に設置されたベンチにぶつけてみる。ぽそっと乾いた音がするだけ。鳥の声もあまり聴こえない。道路が下に見えるところに来ると、車の音が急に大きくなる。道筋が巻いて、尾根の向こう側に回り込むと、さっきまでよりも車の音の輪郭がぼやけて、自分の足音や息遣い、腹の鳴る音が浮かび上がる。地下鉄駅の構内なんかだと、眼をつぶると響きの圧迫感の違いで、右側の壁がなくなって通路が開けたな‥とかわかるのだが、ここでは上が塞がれていないせいか、そこまでははっきりわからない。山道を歩きながら眼をつぶる気にもなれないし。
益子11


 次は「静けさを聴く」ことをしてみます。「何かの音」が聴こえたら、その背景を聴いてみてください。「図」に対する「地」の部分というか。遠くの音。漂ってくる音。何だかわからないけど何か鳴っている‥というような全体の響きを聴いてみてください。

 カラスの声がすでに鳴っている音に染みのように広がる。足下の地面が乾いてきて、枯葉の立てる響きの細かい角が立ってくる。尾根を越えてきた車の音がじわーっと滲みながら頭の上を通り過ぎていく。山道が階段状になっている箇所の少し手前から、安全確保のためか枯葉が掃除されていて、靴底が地面に直接当たる音が低くこもって響く。階段を昇り始めると、土留めの木材に当たる皆の靴底がリズムを刻み始める。その向こうにうわーっとした向こう側の見通せないドローンがたゆたっている。

 もうすぐ山頂です。山頂には木造の高い展望台が立っていて、まわり中を見渡すことができます。これぞ「展望台」という感じです。そこで最後の段階「みみをすます」を行います。「静けさを聴く」では「図」に対する「地」の部分を聴いていただきましたが、今度は図と地をいっしょにテクスチャーとして聴くというか、ヒエラルキーなしに、名前を付けないで聴いてみてください。今日は晴れていますから音の見晴らしというか、「聴き晴らし」がすごくよいのではないかと思います。展望台の一番上まで階段を昇る途中でも、どんどん音の眺めが変わっていくと思います。


益子12 展望台は思ったよりずっと高かった。火の見櫓とかよりもっと高い。階段を昇るにつれ、聴こえてくるチェーンソーの音と車の音が、次第に輪郭を滲ませ曖昧に溶け合っていく。心臓の鼓動も高まるが、これは高所恐怖症のせい。役所のお知らせアナウンスの最初の「ピンポンパン」だけが、風に乗って運ばれてくる。音が集まってくるのか、鳥の声が多くなる。てっぺんに着くと風が冷たく耳元で鳴っている。その風切り音越しに眺める響きの景色はどこかぼうっとして、どろりとした一様な空間のなかに起伏や密度の勾配があるように感じられた。足元同様、響きが風で揺れて、方向や距離が不明確になりパースペクティヴを結ばない。ふと後ろから音が聴こえてくるように感じられる。鉄道の線路の音や、もう巣に帰るのかカラスの群れの鳴き声が聴こえた気がしたが、はっきりとせず自信がない。すべてが茫漠としている。見渡せる景色と聴こえてくる響きは、ヘッドフォンを着けた時とはまた別の仕方でずれている。「切断」というより、「混信」とか「誤配」のイメージ。階段を降りて下にたどり着くと、今まで感じていたのが「圧力」みたいなものだったことに気づく。下は風も吹いていない。本当に上は風が吹いていたのか。風の音と聴こえたのは何だったのか。

 「音を聴く」、「静けさを聴く」、「みみをすます」の三つの段階と最初にご説明しましたが、本当はもう一段階あります。それが「もどる」です。いま耳は音を選り分けないで聴く、ぼーっとした状態になっています。先ほどの三段階を踏んで耳のストレッチをしてきたわけです。でもふだん私たちは音を選り分けて、区別するために音を聴いています。今のままだと話しかけられても気づかないとか、車が近づいてきてもわからないということになってしまうので危険です。ぜひ帰り道は他の人とお話ししたりしながら、意識的に「もどす」ということをしてください。

 確かに「音を聴く」、「静けさを聴く」までは集中して耳をそばだて、聴こえてくる音を絶え間なくスキャンし、瞬間的にピックアップ/クローズアップするということを高速で繰り返していた気がする。展望台の上ではもう、そういう風には聴いていなかった。あそこで何を聴いていたのだろうと不思議に思う。帰り道で津田がひょろりと高い松の木のてっぺんを指差し、松葉は細くて硬い独特の形をしているので、風で揺れる葉擦れの音にも特徴がある。その響きを「松籟」というと説明してくれた。私には松葉が鳴っている音がどれなのかわからなかったけれど。
益子13
掲載の各写真はワークショップに参加した
益子博之、多田雅範、笹島裕樹各氏の
撮影によるものです。
FBから転載しました。

ライヴ/イヴェント・レヴュー | 17:53:56 | トラックバック(0) | コメント(0)