2014-03-04 Tue

表紙の写真が思わせぶりだけど、中身は展示会用のオブジェやインスタレーションの写真が並んでいて、作品のタイトルや製作者である著者自身による短い説明が日英バイリンガルで記されている。
作品には驚かされた。音楽が聴こえる。人の姿が出てこない方がいい。空間の中で完結している方が。別にインタラクションの中に置かれる必要なんてない。だから、実を言うと説明はいらない。建築としての位置づけも。彼の展示について「建築はどこにあるの?」という評をネット上で見かけた。建築家が嬉々としてこういうのをつくっているのが許せないらしい。

別にいいよねと思う。建築だと言わなければいいだけ。でも本人も「実は建築と言いたい‥」と思っているらしいところが端々から覗いたりする。そこがちょっと余計。生きている人間の身体やヒューマン・スケール(との対比)を絡ませるのも、建築にしたいからなのかな。

空間の造形としてとても洗練されていて、力が抜けていて、遊び心があり、かつ核心をとらえている。やっぱりこれは音楽だ。眼に見える音楽。楽譜というよりも(あれはきっかけの記号だから)、放たれた音が結晶化/視覚化したもの。


長い糸の両端を持って自然に垂らした時にできる懸垂曲線(=カテナリー曲線)を並べた作品が一番好きかな。「カテナリズム(catenarhythm)」とか「空気のような舞台(atomosphere)」。特に後者で闇の中に浮かび上がる細く白い曲線の連なり。あまりネット上に写真がなかったのが残念。
http://www.ryujinakamura.comもぜひ参照のこと。




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響きの到来を待ち望む − Tactile Sounds vol.14 ライヴ・レヴュー Waiting for Arrival of Sounds − Live Review for Tactile Sounds vol.14
2014-03-02 Sun
「あれ、そら、でしたっけ‥」橋爪亮督が次の曲は森重靖宗が提案したアイディアに基づくと紹介するや否や、ピアノの中村真は振り向いてそう確認すると、それに答える森重の言葉が届かぬうちに鍵盤を叩き始めた。隣り合う音階が間を置いて鳴り響き、空中に座標をプロットしていく。ああ、「空」ではなくて「ソ・ラ」のことだったかと、ようやく事態を理解した私の、眼の前に広がる空間にぽつんぽつんと穿たれた音と音の狭い隙間は、ちょうどアルペン・スキーの旗門のように見える。それらの配置が浮かんだところで、森重が眼をつぶったまま弓を手に取り、開けられた音の隙間へ急加速して斜めに突っ込んでいく。弦が引き絞られ圧縮された響きが走り抜ける。返す弓が切り立ったエッジを見せつけながら、逆向きに鋭く舵を切って、次々に隙間を縫い取っていく。鮮やかな軌跡を描いて線が駆け抜け、これによりぱらぱらと振り撒かれていたピアノの音は俄然いきいきと息づき、輝きを放ち始める。橋爪が後に続く。だが森重と異なり、彼はサウンドの加速/圧縮を選ばず、口元から漏れる息とリードの振動と管の鳴りがそれぞれにかたちづくる音色の層の重なり合いに微細なコントロールを施し、「オリエント」風に音程を微妙に上下させながら、サウンドをたゆたわせる。揺らぎながら色合いを移り変わらせていくテナーの響きに包み込まれ、ピアノはますます間合いの自由度を高め、時間軸上の跳躍を繰り返し、打楽器としての本性を明らかにして、リズミックなインプロヴィゼーションに没入していく。今や二つの音の交替はチェロの弦の上に写し取られ、森重はひとときそれをキープして空間に投影しながら、頃合いを見計らって再び鋭い音色で切り込みにかかる。
優れた演奏者の手にかかると、本当に簡素な仕掛けが思わぬ新たな扉を開き、遥かな深み/高みへと到達できることがある。作曲とはつまるところ人を動かすための「きっかけ」に過ぎず、それはある制限を与えることにより、それを超える動きを生み出すことなのだと思うのはそんな時だ。「手を使ってはならない」という簡単な制約が、サッカーの妙技を、予想だにしなかったボールと人の動きをつくりだすように。
それはこの日後半の3曲目のことだった。一陣のつむじ風を思わせる演奏が終了し、高揚が落ち着いたところで、森重と中村が最後に演奏する曲の譜面を取り出す。橋爪が二人に小声で「それではなくて‥」と囁きかけ、興奮に頬を紅潮させた聴衆に、本日最後の演奏はインプロヴィゼーションによることを告げる。テナー・サックスとチェロの揺らぎが溶け合う中、ぱらぱらと高域のピアノが振り撒かれ、チェロが花の香りをたたえたリリカルなピチカートへと移行する。
「いつもならアンコールに応じるところですが、今日はもう僕らがお腹いっぱいなので、これで終了させていただきます」との橋爪のアナウンスに、後半から席を変わって私の隣にいた多田雅範と「これはすごいものを聴いてしまった」と顔を見合わせると、多田が「いやー、何なんですか、これは。この後半は。もう浅田真央状態というか‥」と口走り、益子博之に「多田さん、じゃあ前半は良くなかったってことですか」と突っ込まれて絶句し、場内がどっと沸いた。
もちろん、そんなことはない。前半だって素晴らしかった。が、インプロヴィゼーション→テーマのあるコンポジション→インプロヴィゼーションと切れ目なく続いた冒頭の3曲は、まさにそのように聴こえてしまったし、続く前半最後のコンポジション「フラグメンツ」も、モチーフのみを提示して、その間に広がる「無音」を楽しむという説明通りの演奏になってしまっていたのも事実だ。インプロヴィゼーション部分では森重の圧縮された音色 − ちょうど走行中の車のフロントグラスに映る景色の移り変わりをぎゅっと固めてスペクトルにしたような − の強度が演奏をリードし、コンポジションではECM風の冷ややかな透明感が押し出されてくる。テナーとチェロのユニゾンによるテーマ演奏など、中低音が豊かでありながら、全体としてはソリッドな響きが実に肌に心地よかったし、チェロに装着された補助的なアンプリファイが実に効果的で、アルコによるフラジオやピチカートで絶妙な滲み具合を生み出すなど、新たな発見も多かったが。
いずれにしても、演奏の可能性を弦と管の引き伸ばされたピッチの揺らぎに見出していた感のある前半の演奏は「ピアノにとって完全アウェー」(多田雅範)ということになろう。それでも中村はミニマルな繰り返しを挿入したり、打鍵をコントロールして多彩な音色を使い分けたりと健闘していた。今回のメンバーでは、まず橋爪と森重の共演が決まり、3人目を誰にしようか‥となって、「トーンやテクスチャーへの関心を共有している」中村が浮かんだと橋爪が説明していたが、まさにフレージングのレヴェルに終始しない演奏を聴かせた。しかし、前半は橋爪/森重デュオの周囲を旋回していたようにも聴こえた。
多田の言う通り、後半になって変化が訪れる。1曲目で音色の斑紋を浮かべていくテナーに対し、チェロとピアノがそれぞれに色を挿していく場面、ピアノの音数が増え音列へと連なると、チェロはアルコに移行し、ミラー・イメージで演奏が進みかけると、ピアノが音を止める等、チェロとピアノの直接的なやりとりが増え始める。続く2曲目の「トーンやテクスチャーを重視した」(橋爪)コンポジション「サイツ」でも、軸を成すテナーのフレージングに対し、チェロとピアノが左右から切り込みを入れ、そのままデュオに移行し、直接交感する場面が見られた。いつどこの場面でも、コードやパッセージがのっぺりとした分厚い不透明な「層」を形成してしまわないよう、細やかな配慮が中村に見られたことは強調しておきたい。響きを膨らませず、音と音の隙間を空けて見通しを確保し、トーンやテクスチャーを浮かび上がらせる工夫(往々にしてピアノ奏者は無神経にこれを塗りつぶしてしまう)。そして冒頭に描いた後半3曲目に至る。
中村真は自身のブログで次のように書いている。
フリージャズは即興か??否。はっきりと否と言える。
山下洋輔さんは素晴らしい音楽家だと、僕は思ってますが、彼のクラスターや、フリーっぽいことは、あれはフリー音楽用のイディオムの羅列だ。
セシルテイラーだろうが、オーネットコールマンだろうが、意地悪くいえば、フリーにはフリーのイディオムがある。
(中略)
山下氏もセシル氏もオーネットコールマンも、その精神が即興の息吹に溢れているからこそ、フリージャズをやっても即興なのである。
フリージャズをやるからこそ即興なのではない。
山下洋輔が素晴らしいかどうかはさて措くとして、他の部分は全く同意できる。ノン・イディオマティック・インプロヴィゼーションを唱えたデレク・ベイリーの演奏にしても、「語法」や「ヴォキャプラリー」のレヴェルでとらえれば、ヘンリー・カイザーが実演で示したようにイディオムは存在する、というか抽出することができる。ベイリーの場合には、それを演奏の現場でどう解体/構築していくかが、インプロヴィゼーションにほかならなかった。だから私が幾度となく振り返るベイリーの演奏は、彼が「語法」の確立に向けて試行錯誤を繰り返していた1970年代のソロ演奏である。
基本的にコンポジションを演奏する場である「Tactile Sounds」において、この日は大きくインプロヴィゼーションに踏み出した演奏が試みられた。と言って、譜面が用意されないことをもって「インプロヴィゼーション」とみなしているわけではない。フレーズよりもさらにミクロな局面を眼差し、一音一音を見詰めながら、音色に耳をそばだてるというより、音と沈黙の狭間へと耳の測鉛を深々と降ろし、肌を総毛立たせて響きの到来を待つという点において。
そうした変化を促したのはやはり森重の参加にほかなるまい。橋爪自身、「引き合わせてくれる人がいなかったら、決して出会わないと思われている」と彼を紹介していた。にもかかわらず、彼がほのめかしていたように親近性はある。それは橋爪が三人目に中村を選んだ理由として彼が挙げていた「トーンやテクスチャーへの注目」であり、さらに言えばそれを越えた響き自体への感覚、演奏者の意識/身体間での音の受け渡しを離れた、空間と音の関係 - 音の交錯や衝突、ジャクソン・ポロックやマーク・ロスコ的なレイヤーの敷き重ね、滲みや揺らぎといった空間を渡る音の変容の過程等への注目 - であるだろう。
インプロヴィゼーションで本領を発揮しただけでなく、コンポジション演奏においても、見事に磨き上げられた音色で新たな扉を開いた森重靖宗、難しい役回りにもかかわらず、トーンやテクスチャーへの鋭敏な感性を、タッチへの細やかな配慮とリズミックなインプロヴィゼーションにおける鮮やかな達成へと昇華させた中村真に、そしてもちろん企画者・主催者・演奏者を務め、果敢な挑戦を成功させた橋爪亮督に、そして彼の挑戦を後押ししたであろう益子博之に、惜しみない拍手を送りたい。




tactile sounds vol. 14
2014年 2月 22日(土) open 19:00/start 19:30
綜合藝術茶房喫茶茶会記
橋爪亮督 - tenor & soprano saxophones
森重靖宗 - cello
中村 真 - piano
2014-03-01 Sat
2013年ポップ・ミュージック ディスク・レヴュー4回目はアンサンブル編。これで2013年のディスク・レヴューは終了し、音楽サイトmusicircusから依頼されている年間ベストの選定作業に入ります。どうぞお楽しみに。
L.M.Dupli-Cation
試聴:https://soundcloud.com/qu_junktions/a-hawk-and-a-hacksaw-you-have
http://www.reconquista.biz/SHOP/LM5CD.html
空間を揺すぶり震わせること。熱くたぎらせ、あるいは凍り付いたまま。金属質のかげが暗闇でうごめき、太鼓の皮が下腹を揺すぶり、めまぐるしく旋回するヴァイオリンが空気を撹拌して、声が幾重にも折り重なりぶつかりあう波となって襲いかかり、ツィバロムの細い弦の振動が破れ鐘のように轟いて空間を目映く沸き立たせる。発音体としての楽器/演奏者があちらにあり、聴き手がこちらにいて、両者を隔て音を伝えるための距離/媒体として空間が存在するのではなく、身体を取り巻く空気が突然に揺らめき崩れ叫び声を上げて、粒立ち湧き上がる。見通しの効く透明な空間の中に音が浮かぶのではなく、視界一杯に隙間無く鮮やかな色彩の音響壁画がそびえ立ち周囲を取り囲む。録音は明らかに明確な音像ではなく、輪郭が溶け出し滲んだ空間の様相をとらえようとしている。混沌をいや増すためにはエレクトロニクスの使用もためらわない徹底した確信犯。東欧の(西欧にとって)異国的な匂いを深々と放つ冷たく湿った暗闇は、ロマの幻像とひとつになって、西欧の築いた石組みの下にのぞく、禍々しい血が幾代にも渡って注がれてきた肥沃な黒土と、確かにつながっているように感じられる。

Makabo Entertainment GWL01
試聴:http://www.reconquista.biz/SHOP/GWL01.html
Record Shop "Reconquista"の「2013年のレコンキスタを象徴する50枚2」(*1)で、あるいは同店の店主である清水久靖が『Ulysses』で選ぶ「2013年のベスト・アルバム20」(*2)で、『マレーシア・クランタン州の伝統音楽集』と紹介されているのが本作。マレーシアというとタイやインドネシアに比べておとなしく地味な印象があり、その一方でヴェトナムの優美な王朝的洗練に対しては垢抜けないイメージで、その文化が注目を集めることはまだ少ないように思う。いままで3回観光で訪れたことがあり(いいところです。特に古都コタバル)、うち2回は1週間程滞在したから、この国の音楽は伝統音楽もポップ・ミュージックも多少知っているつもりでいたのだが、こうした作品が出てくる素地があるとは思わなかった。弦(rebab)や管(surnai)がアラブの薫りをふんだんに放ちながら曲がりくねった回廊を眼にも止まらぬ速さで駆け抜ければ、打楽器群はバリやジャワのガムランへと通じるアンサンブルにより、内部で多方向から錯綜/衝突しながらプラトーをかたちづくり(皮を張った筒状の太鼓と金属ゴングという対比により、打撃の衝突/反発/分裂/解離は決して構造的なものにとどまらず、身体に直接働きかけてくる強度を否応無く孕むことになる)、一方的な加速を抑制しつつ軋轢によって内圧を高めていく。声もまたインドのように高々と宙を舞うことなく、アンサンブルの表面を交錯するヴェクトルに刺し貫かれ、引き裂かれながら這い進む。合唱を構成する各声部の皮膚感覚的なぶつかりあいにも注目。いや驚かされた。タイトルに「New Authentic」と記されているのが興味深い。慣習的な伝統をそのままなぞるのではなく、その「場所」において、起源へと向けて作業仮説的に遡行し、伝統文化を形成してきた諸力を改めて見出して、それらの持てるポテンシャルを「いま」「ここ」で生々しく解き放つこと。それは本作品を教えてくれたRecord Shop "Reconquista"が掲げる「土着と洗練」にふさわしい振る舞いであり、「ヴァナキュラー」という概念の持つ可能性を見事に示すものと言えよう。
*1 http://www.reconquista.biz/SHOP/89093/t02/list2.html
*2 http://ulyssesmagazine.blogspot.jp/2014/01/2013203ulysses-choice-best-20-albums-of.html

Second Language SL019
Aine O'Dwyer(harp),Hanna Tuulikki(church harmonium),Daniel Merrill(viola),Aaron Martin(cello),Michu(Michael Tanner(mellotron,woodwinds,strings,field recordings ,victorian dulcimer)
試聴:http://www.secondlanguagemusic.com/SL019.html
Mark Fry『I Lived in Trees』を稀に見る傑作たらしめていた理由のひとつは、DirectorsoundとMichael TannerによるThe A. Lordsによる創造的かつ献身的なサポートであることは疑いない。そのMichael TannerによるThe Cloisters名義での第1作。心細やかな音色が澄み切った空気に溶け広がっていく。指に弾かれた弦が震え、その振動が手元を離れて空間へと旅立ち、中空を渡って広がり、やがて聴く者の耳に届いて、そのまま溶けて消え去ってしまう。そうした一連のプロセスをじっと見守っていたい気分にさせる「気配感」が、ここには濃密に立ち込めている。それは控えめに配されたフィールドレコーディング素材や演奏時の物音についても当てはまる。朝もやの中から次第に姿を現す山々の連なりや、擦ったマッチの炎が束の間ぼうっと浮かび上がらせる袖口のほつれ、そうした眺めへの深く尽きることのない愛情がここにはある。

Time Released Sound TRS011
Michael Tanner(sources,reconstruction)
試聴:http://timereleasedsound.com/releases/plinth/
http://iamplinth.bandcamp.com/album/collected-machine-music
The Cloisters=Plinth=Michael Tannerということで、ここではヴィクトリア朝の音楽機械や蝋管録音等を収集し、その音色を再構成している。聴き慣れたオルゴールの響きだけでなく、バレル・オルガンのリードや管の鳴り、小型の鐘と思しき長く尾を引く透き通った余韻、時計の音、叩く音、ねじを巻く音、機械の動作音、蝋管録音のがさがさとした不鮮明な音像、シリンダーの回転音、大型オルゴールの深く華麗な音響‥‥と多彩なサウンドがモザイク状に精緻に組み立てられる。空間に刻まれる音の軌跡の冷ややかに切り立った彫りの深さに思わず耳が惹き付けられる。その時、耳は音楽機械の音の向こうに制作者・操作者の姿を見ているのだろうか(いずれにしても演奏者はいないのだから)。私には、誰もいない部屋に置かれたこれらの機械がひとりでに鳴り出し、そこにたまたま居合わせた、あるいはそこに迷い込んでしまったように感じられる。聴き手すら必要としない音楽。凍り付いたように永遠に完結した響き。通常版は200部限定で、これとは別に本物のオルゴールが付いたミュージック・ボックス仕様の高価な超豪華限定版70部もある。



Desire Path Recordings Pathway007
Federico Durand(music box,acoustic guitar,Tubingen bells,tape-loops,walkman,minidisc,2880,DS,toy piano,field recordings)
試聴:http://federicodurand.bandcamp.com/album/el-idioma-de-las-luci-rnagas
もう彼の手口は知り尽くしているはずなのに、どうしてもやられてしまう。彼の手にかかると、視覚は擦り切れたサイレントの8mm映像へと変貌し、聴覚はたどたどしくか細いオルゴールに姿を変えて、世界はと言えば、磨りガラスの向こうへと遠ざかり、動きを止めて、こちらを温かく見守っている。羊の首に吊るされたベル、小鳥のさえずり、遠くから渡ってくる微細なきらめき/ゆらめきが、ふうわりと空気と混じり合い、いつまでもいつまでも消えなずむ響きが、誰かがいた後の温もりのように残り続ける。LPジャケット裏面の太い毛糸で編み上げられた刺繍が素晴らしい。


Sacred Summits SS001
試聴:https://soundcloud.com/sacred-summits/sets/ss001-luis-perez-ipan-in
笛の音が風にたなびき、太鼓が森に鳴り響き、電子音が砂漠を駆け抜けて、ベースが地の底を揺り動かす。音はみな手元に留まることなく、放たれた瞬間に遠く彼方へと逃れ去ってしまう(カサカサ、カタカタというちっぽけな物音すら、蜘蛛の子を散らすようにあっというまに走り去る)。サイケデリックとは内面への沈潜、閉ざされた密室への引きこもりであり、出口なく堆積し混濁/変容した濃密さであるとするならば、この開け切った空間は決してサイケデリックとは言えまい。アミニスティックな地の精霊たちとの交感のための音響遊戯。音だけを頼りに眼差しは底の知れない闇を見詰め続ける。1981年作品のLP再発。500枚限定。もしかするとジャケットの配色のヴァリエーションがあるかも。

Ba Da Bing Bing088CD
Mehdi Ameziane,Solange Gularte
試聴:http://www.meditations.jp/index.php?main_page=product_music_info&products_id=12880
エレクトリック・ギターの果てしないフィードバック、虚ろなヴォイスの敷き重ね、衝動的な打楽器の連打等が、過入力に歪みひび割れて、過剰なエフェクトに輪郭が溶け出して見分け難くひとつになり、出口なしに延々と続く暗黒ドローン。通常のドローン作家たちが、どこか突き放した冷静な距離から音響マテリアルを取り扱っている(それゆえに安心して浸れる)のに対し、彼/彼女たちはずぶずぶに情緒(不安定)的で、その奥底深くに耽溺を誘う麻薬的な甘美さを秘めている。それゆえポップ・ミュージックに位置づけた次第。なぜこうなったかきちんと説明できる「現代音楽」よりもむしろはるかに危険かつ取り扱い注意。だが、本来ポップ・ミュージックとはそのようなものではなかったか。「試聴」欄に掲げたMeditationによる評「楽園に続く巨大な門」とは言い得て妙。あまり奥へと入り込まないよう注意されたい。2009年にカセット・テープ5本組150部限定でリリースされた作品に、同年に発表された続編を加え、CD6枚組ボックスで再発するという輝かしい暴挙。500部限定。なお、カヴァーは手描きのため幾つものヴァリエーションがある。以前に紹介したTwinsistermoonは本デュオの片割れMehdi Amezianeのソロ・プロジェクト名義。
2014-03-01 Sat
2013年ポップ・ミュージックのディスク・レヴュー3回目は、前回以降に聴いたヴォーカル作品からの10枚(あれ、増えてる)。昨年は果たせなかったクリスマス・イン・ソウル時の収穫物を含む。結局、女性ヴォーカルばかりだなー。明らかに偏ってます。
한희정 / 날마다 타인
Pastel Music PMCD9137
試聴:http://www.youtube.com/watch?v=FIStlpMbdHI
http://www.youtube.com/watch?v=lDHY8B0Ow6Q
一歩先んじた弦を跳ね板として、声は何もない宙空に身を躍らせる。弦の響きは周囲を巡りながら決して彼女の足元を支えることはなく、彼女の声もまたアカペラの張り詰めた
緊張を失わない。「音響アシッド・フォーク・デュオ」とでも呼ぶべきBluedawn(*の音源を参照)の解散後、ハン・ヒジュンはソロで制作した3枚のアルバムは、それ以前の脆く張り詰めた繊細さを超えることはなかった。それらの作品は心地よく澄み切った早朝の大気の中にある。すでに陽は昇り、世界はいきいきとした色彩を取り戻している。だがBluedawnとは、白々と明けていく空の下で、すべてが青色に沈む瞬間ではなかったか。足元にはまだ虚ろな闇がたゆたっている。静まり返ったくすくす笑いを浮かべた本作のカヴァー・イラストは、彼女の虚無と向かい合う決意を示していよう。張り渡された細い綱を渡り、あるいは体幹を揺らし、輪郭をふと掻き消してみせる声の在り様は、確かに深い闇の奥を眼差している。
*http://www.youtube.com/watch?v=XOLBsTnG_Ts
http://www.youtube.com/watch?v=3PQyAiBurf4

Mirrorball Music MBMC-0773
試聴:http://www.youtube.com/watch?v=Dc_i2DP6VY8
http://www.youtube.com/watch?v=pI_jtJd2mwk
http://www.youtube.com/watch?v=Pp-U23KGcNQ
ゆっくりと息の歩みを進めながら、帰り道の目印のパン屑のように間をおいて置かれていく声は、軽やかに透き通って、降りたての雪みたいに地面に着くまでに消えてしまい、ピアノやチェロの響きと溶け合って、すうっとした冷たい甘さだけを舌に残す。このゆるやかな呼吸が、音楽に耳を傾けるひとときを特別なものにしてくれる。削りたての鉛筆の、鼻の奥につんと来る芯の匂いと木の香り。ずっと忘れていた。

Traffix Music TRAFFIX0004330
Marion Cousin(vocals,charango,glockenspiel,percussions),Borja Flames(vocals,guitars,percussions),Igor Estrabol(clarinet,trumpet,flute,musical saw,glockenspiel,kalimba),Renaud Cousin(drums, percussions, accordion)
試聴:http://www.juneetjim.com
http://elsurrecords.com/2013/11/13/june-et-jim-noche-primera-2/
「初期フォンテーヌ&アレスキみたい」って言われたら「えっ、ウソ」って誰だって思うじゃない。もちろんあそこまで突き詰めた感じはないけど、でも雰囲気は確かにある。女性ヴォーカルの体温が低く低血圧な抑揚のなさ、男声ヴォーカルの気怠さと絡みの素っ気なさ、切れ端のようなメロディ、言葉遊び的なリフレイン、ギターの催眠的な繰り返し、中近東経由で北アフリカの砂漠へと遡っていくパーカッションの乾いたリズム、エキゾティックなトランペット、職人芸的な木管のアレンジ、そして唐突にやってくる曲の終わりの突き放した愛想なさ‥‥等々。これはよく出来てます。

Production Dessinee VSCD-9459
試聴:http://www.youtube.com/watch?v=o0o4fiLAFqU
冒頭曲の立ち上がりからいきなり、アカペラでゆらりと声をくゆらせ響きを立ち上らせるヴォーカルの身のこなしのしなやかさに打たれる。そこはブラジリアン・ポップスだからメロディやコード進行のレヴェルが高いのは当然として、アープ・ストリングスにミニ・ムーグとヴィンテージ・シンセを使い分けた厚みのある暖色系配色の中でローズのエレピがとろけていく。2曲目のトランペットへの紗の掛け方、3曲目のギター弦への寄りとたなびくハモンド、5曲目の垂れ込めながらほぐれていく弦アレンジと、この着古したスウェードのようにしっとりと落ち着いた感覚は何なのだろう。彼女の声はそうしたこなれた響きを身にまといつつ、緩やかに部屋の奥へと歩みを進め、両開きの窓を開ける。アングルから小道具まで凝りに凝った短編映画(当然フィルム撮り)の手応え。ため息モノ。

Delira Musica DL570
試聴:https://soundcloud.com/tejotiete
http://vimeo.com/41121819
こちらはゆらりと立ち上るギター弦の響きにやられた。何でこう「ゆらり」に弱いかな。しっとりと舞い降りながら重さを感じさせないGisele De Santiに比して、Susana Travassosの声はコーヒー・カップの底に沈んだ砂糖みたいな重みをたたえ、やや錆を帯びて人生の苦みをはらんでいる。ちょうど炭火に燻されたリスボンの下町に響くファドのように。それゆえにこそギターのしなやかな美しさが光を放つことになる‥‥と書きかけて調べたら、女性歌手はホントにポルトガルの方なんですね。びっくりー。アンサンブルによりきらびやかな響きの織物を編み上げ、声のための褥を設えるポルトガル・ギターに対し、こちらのギターは単独潜行により声の核心へと迫る点で、同じポルトガル語文化圏における異種交配の幸福な結果がここにある。声とギターという最小限の組合せから生み出される尽きることのない豊かさ。

Asphalt Tango Records CD-ATR 3913
試聴:http://www.asphalt-tango.de/records/chitu/oana_catalina_chitu_divine.html
http://www.youtube.com/watch?v=Bfmg1I5JJY8
あちらが「しっとり」ならこちらは「どっしり、ずっしり」。雪で湿った布団の重さに金縛りに遭いそう。「ルーマニアのエディット・ピアフ」と呼ばれた名女性歌手Maria Tanase(1913−1963)のレパートリーをカヴァーしているのだが、声は黒い土の下から湧き上がり、ジプシー・ヴァイオリンは弓が狂ったように滑りまくり(さすがはジョルジェ・エネスクを生んだ国)、ツィンバロンが雨霰と鳴り渡って、アコーディオンもサキソフォンもスピード違反の上にうねうねと曲がりくねってとどまるところを知らない。凄腕アクロバティックかつ笑っちゃうほど大仰な大時代ぶり。完全に確信犯であることに頭が下がる(暗いところは思い詰めたようにメチャ鬱、明るいところはもうノーテンキに弾けまくっているし)。Maria本人の歌唱をyoutubeでチェックすると(※)、格調高いご尊顔にも関わらず、Oana Catalina Chitu以上にドスの効いた声で歌いのめしてくれている。この声でブレヒト・ソングとか聴きたかったなー。
※http://www.youtube.com/watch?v=79QVepeBrWA

Mirrorball Music MBMC-0727
試聴:https://mirrorballmusic.bandcamp.com/album/cruel-picture
http://www.youtube.com/watch?v=oXobUxA2rIc
確信犯ではYAYA=夜夜も負けてはいない。かつて(『勝訴ストリップ』の頃)の椎名林檎のアングラ・アート(新宿系?)なりきりぶりを、さらにあざとく推し進め、行くところまで行っている。その辺はジャケット写真と試聴欄に掲げたyoutube動画だけで一目瞭然。これだけ明々白々にツクリモノなのもスゴイ。投げやりな声はキツめにイコライジングされっぱなしだし。鬱陶しいくらい分厚いストリングスや様々なSE(不可思議電子音やネコの声を含む)入れまくりの歪んだ悪夢系アレンジでタンゴにワルツだし。曲順の対比も気合い入りまくり凝りまくりで、演出から何から明らかに「過剰」。でもここまでやれば立派。60ページ以上もあるモノクロ写真満載のブックレット綴じ込みと装釘もスゴイ。

Dust to Digital DTD28
試聴:https://www.dust-digital.com/se-asia/
https://dusttodigital.bandcamp.com/album/longing-for-the-past-the-78-rpm-era-in-southeast-asia
http://elsurrecords.com/2013/10/11/v-a-longing-for-the-past-the-78-rpm-era-in-southeast-asia-2/
すでに各所で話題のブツ。ヴェトナム、ラオス、カンボジア、タイ、ミャンマー、マレーシア、インドネシア、シンガポールと東南アジア一帯で1905年から1966年までに録音されたSP音源等からコンパイルした90曲をCD4枚組に収め、貴重な写真やイラストレーションを収録した272ページの分厚い大判ブックレット(ハードカヴァーのもはや「本」!)を加えた大型カートン・ボックス・セット。再生音に耳を傾けていると、スクラッチ・ノイズや狭いレンジの向こうに当時の生々しい演奏空間を垣間見る一方で、そうした豊穣さから越え難い距離によりきっぱりと切断されている「いま・ここ」の心もとない寂しさも、同時にひしひしと感じずにはいられない。すでに失われてしまった過去への追憶に浸り込む悦楽は、そうした「引き裂かれ」の彼方に開けている。全編に立ち込める花の蜜に似た甘い香りは、おそらくそうした喪失感によって強められているのだろう。だが、過去とは必ずしもロマンティックに「消費」できるものばかりではない。以前にマレーシアで中国寺院を訪ねた時に、ずらりと並べられた何百という位牌に、ことごとく死者の顔写真が貼られている様に慄然としたことがあった。それは現世の名とは異なる戒名を刻み、巡る月日に法事を重ねて、次第に死者を記憶へと遠ざけ忘却せしめる抽象化のプロセスと対極にある。今もまだ生きている死者。だがそれにしても、写真同様、録音とはとんでもないテクノロジーだと、改めて驚かずにはいられない。ライヴでしか音楽を聴かないなんて果てしない馬鹿だとしか‥。



豪華ブックレットの表紙と中身

Fremeaux & Associes FA5384
試聴:http://www.meditations.jp/index.php?main_page=product_music_info&products_id=11273
タイトルから「トランシー」な強迫性を求めると拍子抜けするかも。意外なほどのんびりとした牧歌的なサウンドは、それでも執拗な繰り返しやランダムな歓声をはらみ、トランスを誘うものであるし、実際その場でトランス/憑依に陥った者もいたかもしれない。実験映画『午後の網目』で知られるMaya Derenによるハイチのヴードゥー儀式の記録フィルム『The Divine Horsemen』(※)を見ても、とらえられたトランスの様子は衝撃的ではあるが、そこに流れる音楽は決して特異なものではなく、音楽だけが誘因ではないことをうかがわせる。むしろ、本作のライナーノーツが述べているように、ニューオーリンズのコンゴ広場でジャズの誕生に居合わせたような、音楽の「起源」を垣間見る感覚が重要だ。人が集まり、交感があって、声が響きが取り交わされ、リズムが重なって、日常から薄い膜一枚隔てられた特別な「場」をつくりだす。質量ともモンスターたる前掲作にはかなわないが、これだけ見れば充分に傑作。
※http://www.youtube.com/watch?v=pFKysfDdEwo

이아립 / 이 밤, 우리들의 긴 여행이 시작되었네
試聴:http://www.youtube.com/watch?v=B8CooKwszy8
http://www.youtube.com/watch?v=KkFjOuPowg4
http://www.youtube.com/watch?v=lfHXooNF91E
「耳元で囁きかけられるような」とは使い古された形容詞だが、水商売っ気のかけらもない牧歌的フォーク調の曲想だけに、そこに収まりきれない低音のふくらみに思わずぞくりとする。あくまでポップなロック・バンドのヴォーカリストだったSweaterや、以前に紹介したデュオHawaiiでのボサノヴァや子ども向け(?)コミック・ソングという枠組みが取り払われた分、声の生な身体が無防備に晒されている感がある。おっとりと育ちの良さを感じさせる息遣い、ゆったりとそよぐ声の色合い、ゆるやかにそぞろ歩く声の足取りは、その一方できっぱりとした芯の強さを隠そうとしない。‥‥などと言葉を連ねてみても、この魅力は伝えられないなーと無力感に打ちひしがれるばかり。小学校低学年で近所のキレイな大学生のお姉さんに初恋してしまった感覚か。だから個人的にツボというだけで、他の人は何も感じないかも‥とも思ったり。
2014-03-01 Sat
ディスク・レヴュー最終セット第3回は器楽的インプロヴィゼーション編。自分の耳がMichel Donedaに負っているものの大きさに改めて驚かされた。彼の演奏は、がらんとした空間いっぱいに手足を広げ響き渡る時も、他の演奏者の気息音と鋭敏な肌を重ね合う時も、がさがさと鳴る茂みに身を潜める時も、たとえどんな時であっても音の身体を失うことがない。彼の作品を器楽的インプロヴィゼーションの枠で取り扱うのはそのためなのだが、私の耳を希薄な息遣いと輪郭がおぼろな電子音のかげが溶け合うエレクトロ・アコースティック・インプロヴィゼーションへと誘い、また、風が逆巻き樹々が葉を打ち鳴らし、たちが騒ぎ立てるフィールドレコーディングに開いてくれたのも、やはり彼なのだ。最後に挙げた盤のレヴューでインプロヴァイズド・ミュージックに愛想尽かしをしていた時期について書いているが、それはDonedaが2002年の『Spring Road 01』を最後に、ほぼ自身のレーベルPuffskyddに引きこもり、わずか50枚限定でリリースしていた期間とも響き合っている。これは後になって知ったことだが、多田雅範もほぼ同じ時期に同様の状態に陥っており、当時を振り返って、『春の旅01』でフリー・インプロヴィゼーションは終わった‥って感じてたよねーと話し合ったりしたものだ。さて、本来、器楽的インプロヴィゼーションとして取り扱うべき作品のうち、益子博之と多田雅範の主催する「四谷音盤茶会」(通称「タダマス」)のレヴューで触れたものについては、改めて採りあげていないことをお断りしておく。

Le Chataignier Bleu CASTA 03
Benjamin Bondonneau(clarinet,tambour,objects,voice,painting),Michel Doneda(soprano & sopranino saxophones,radio,voice,textes),Maurice Benhamou(textes),Jean-Yves Bosseur(textes)
試聴:
カヴァーに写っているギャラリーでの演奏。最初、紙をいじっているのか、ぱたぱたかさかさと音が鳴っているだけなのに、もうすでに胸がもうざわざわどきどきしている。マイクロフォンはまるで民族音楽のフィールドレコーディングのように、しかるべき距離を置いて、サキソフォンからほとばしる息の流れを軋みの高まりを、それが響き渡る空間の在りようを含め丸ごととらえる。物音がし、足音がして、音源の所在が動き、管の向きが変わったのか、響きの手触りが一変する。Donedaの放つ軋みに別の低い息音が応じて繰り広げる「気流の演劇」の手前で、一瞬テクストが語られる。それでも演奏が言葉の背景に退くことはない。ここで語りとは、鼻にかかった/喉を鳴らす/歯の隙間から鋭く息を解き放つ等による空気の流れ/震えのスペクトルの一部に過ぎないのだから(同様のことは、空間に放たれるざらざらと粒子の荒れたノイズ混じりのラジオ音声についても当てはまる)。

Umlaut Records umfrcd07
Michel Doneda(soprano saxophone,radio),Joris Ruhl(clarinet)
試聴:http://umlautparisberlin.wordpress.com/linge/
http://www.ftarri.com/cdshop/goods/umlaut/umfrcd-07.html
鳴り渡る響き。溢れ出す息。弧を描く軋み。リードへの、あるいはキーへの、パーカッシヴな打撃が共鳴しあう。ここでは沈黙の次元はほとんど姿を現さず、常に呼び交し、結び合い、重なって溶け合う二つの声/一つの響きがある。音はすべからく触覚を喚起し、また実際、二人は音を触れ合わせることにより親密な交感を成し遂げているのだが、そうした「触れ合い」が通常求められる、肌のうぶ毛を総毛立たせて集中するような神経質さが、ここには薬にするほどもない。鋭敏さを希求し、希薄さを請い願い、おずおずと暗闇に手を伸ばす不安さ(それは注射で針を刺される時や歯医者で歯を削られる時に、思わず身を固くするあの「構え」と似ている)は微塵も感じられない。ここには確かな重みと輪郭、熱を持った声/息の身体がある。彼らは旧友のようにやあやあと抱きしめ合う。何の不安もなく相手に身を預ける。相手がそこにいるだけでもう充分とばかり、あらかじめタイミングを推し量ることもなく、返答も当てにせず、まっすぐに音を放つ。その様はほとんど無造作に見える。だが、そこにある確かな信頼が、この息と息の結び合いによる高所の綱渡りのような奇跡を可能としているのだ。一見、素っ気ない無造作な手つきは、バランスへの信じられないほど細やかな配慮に溢れている。それは熟達した職人の何気ない(しかし身体を通じて考え抜かれ、一つも無駄のない)動作を思わせる。「試聴」欄に掲げたUmlaut Recordsのページには、録音の様子と併せて、カードボード製のジャケットを一つひとつ手作りする様子が動画で掲載されている。裁断し、タイトルを印押し、型押しを施し、さらに背の部分を糊付する。それは孤独な、また、ほとんど考えることのないオートマティックな作業のように見えるが、その実、使い込んだ、信頼の厚いと同時におそらくは頑固で気難しい工作機械との、触覚を通じた無言の交感にほかなるまい。

Flexion flex_007
Michel Doneda(soprano saxophone,radios),Jonas Kocher(accordion)
試聴:http://www.ftarri.com/cdshop/goods/flexion/flex-007.html
元はホテルだったという空きビルに潜り込んでの録音は、前掲作とは裏腹に、「おずおずと暗闇に手を伸ばす不安さ」と、かくれんぼや追いかけっこをするガキっぽい冒険の喜びに満ちあふれている。互いにリードを軋ませながら呼び交す二つの息の間には、広大な空間が介在し、両者を隔てると同時に結びつけ、距離と密度を通じてサウンドを変容させる。Doneda、Alessandro Bosetti、Bhob Raineyによる3本のソプラノ・サックスが草むらに身を隠したまま鳴き交わすような『Places dans l'air』(Potolatch)同様、ここでも主役を務めるのはむしろ空間の広がりなのだ。二つの息は周囲の空間のアコースティックの違いを照らし出す一方で、空間に浸され覆い隠され、二人はそれに抗うように物音を立て、叫び声を挙げる。「環境音との共演」によくあるように、環境音や場のアンビエンスを書き割りによる背景として演奏を重ね描きするのではなく、彼らは場のざわめきに深く身を沈め(時には姿すら見えなくなるほど)、そこに沁み込ませ、掘り刻むように音を放つ。

Creative Sources CS228CD
Elena Kakaliagou(french horn,voice),Ingrid Schmoliner(piano),Thomas Stempkowski(double bass)
試聴:http://www.squidco.com/miva/merchant.mv?Screen=PROD&Store_Code=S&Product_Code=17872
フレンチ・ホルンのたなびきから、すーすーと漏れる息と哀しみを帯びた旋律が姿を現し、プリペアド・ピアノが蛍光灯のちらつきにも似た振動を放ち続ける(そのせいで旋律は前へ進むことができず、自らに折り重なっていく)。じっと構えたまま動かないダブル・ベース。だからベースのつぶやきやピアノの軋みの傍らに、女声の優雅な語りが舞い降りても何の不思議もなかった。抑制され切り詰められたセノグラフィとしての音楽。すすり泣くピアノ弦の軋み。がさがさとした吐息。雄弁な沈黙。ゆったりとした時間と連れ立って歩み出すフレンチ・ホルン。刻々と時を刻むベース。プリペアドされた弦への忙しない打撃が張り詰めた響きに亀裂を生じさせる。三者が同一平面に立って対話を交わしたり、身体の反応を照らし合うのではなく、切り離された個々別々の生成を、見事なアングル/パースペクティヴでフレームに収めてみせたとの印象。どうしたらこんなことができるんだろう。むしろ風景を的確に切り取るフィールドレコーディング的な耳の冴えを感じさせる。

Edition OMEGA POINT OPX-011
Toshi Ichiyanagi(composition),Takuji Kawai(piano)
試聴:http://www.allmusic.com/album/toshi-ichiyanagi-music-for-piano-mw0002539648
フレーズをかたちづくることのない音の散乱と交錯、持続と拡散あるいは減衰。ここで音は粒子であり、その運動の軌跡が刻まれると同時に、また波でもあり、その持続と伝播、変容が示される。付された演奏者河合拓始の解説によれば、作曲は不確定性を導入した五線譜から図形楽譜、あるいは言葉による指示のみのものにまで至り、その指示内容も奏法の指定や音具の追加からフルクサス的な命令(たとえば「できるだけ早く大音量で、身体的あるいは精神的に疲れ果てるまで演奏せよ」)を含む幅広いものとなっている。それゆえ作品演奏に当たり、河合の即興演奏経験が活かされたことは疑いない。しかし、演奏は即興演奏独特の熱に決して浮かされることなく、各音のダイナミクスと持続を実験物理学者のように冷徹に操作しきっている。その結果、音は鳴るべき時に鳴り、そうでない時は固く口を閉ざし、音響と沈黙が共に高くそそり立つ、毅然とした切断に満ちたものとなった。全曲まとめての録音は初めてとのこと。

Constellation cst098
Matana Roberts(alto saxophone,vocals,conduction,wordspeak),Shoko Nagai(piano,vocals),Jason Palmer(trumpet,vocals),Jeremiah Abiah(operatic tenor vocals),Thomson Kneeland(double bass,vocals),Tomas Fujiwara(drums,vocals)
試聴:http://cstrecords.com/new-release-matana-roberts-–-coin-coin-chapter-two-mississippi-moonchile/
http://www.allmusic.com/album/coin-coin-chapter-two-mississippi-moonchile-mw0002566488
http://www.reconquista.biz/SHOP/cst098.html
昨年の前作「第1章」が、被抑圧者の叫びやつぶやきを、多視点からのヴォイスとしてすべて板に乗せた舞台的な仕立てだったのに対して、今回はオペラ歌手(!)による象徴的な「声」にそれらを集約し、それ以外の言葉なき「多声」は器楽アンサンブルに委ねており、前作から総入替されたメンバーも、相変わらず多様な曲想を演じきり、見事に期待に応えている。特にピアノとドラムのもたらしている「散乱した交感」が貴重だ。トランペットとアルト/スキャットのやりとりだけでは、ずいぶん古風なところに留まってしまっただろう。アルト奏者としての彼女に対する私の評価は決して高くないし、ポリティカル・コレクトネスまんまな内容もどうかと思いつつ、前作からこうも変わってくると、次がどうなるかと見続けずにはいられない。なお、この編成でライヴも行っている(※)。姿の見えないCDと異なり、オペラ歌手がずっとそこにいながら、時々しか歌わないのは違和感が強いが。
※http://www.youtube.com/watch?v=-UKRVs2N6OU
ただし、ドラムをMike Prideが務めている。

SUB ROSA SR350
Jean Dubuffet(various instruments,voice,recording),Ilhan Mimaroglu(composition),Anna Sagna(selection,compilation)
試聴:http://www.subrosa.net/en/catalogue/soundworks/jean-dubuffet-coucou-bazar.html
http://www.meditations.jp/index.php?main_page=product_music_info&products_id=12604
「四色問題」と格闘したような落書きが増殖して平面を埋め尽くし、ついにはキャラクターとして自立し立体化を遂げるウルループ作品の展示「Coucou Bazar」(1973年開催)のためにIlhan Mimarogluが制作した電子音楽と、1978年にトリノでの展示に当たり制作されたJean Dubuffet自身による演奏をAnna Sagnaが編集したものの両方を収めたCD2枚組(40ページの写真入りブックレットを綴じ込み)。やはりDubuffet自身による演奏の天衣無縫な、それでいて胆汁質の軋轢と重層的な吃音に満ち満ちたプリミティヴな強度を讃えたい。彼自身述べているように「これまでの音楽を一掃し、新たに生み出す」意気込みで制作されており、確かに「文化」へと昇華/濾過される以前の原形質的な蠢きがここにはある。しかも多重録音とテープ操作により変調されることにより、生々しさをいや増しながら、衝動的な垂れ流し(情動失禁)からも遠く離れている。野太い唸りに圧倒される2曲目は波止場に停泊する船体の発する重たい軋みを思わせ、4曲目からの寸断された弦の叫びの交響は凍てついた湖における氷の衝突や熱帯雨林で繰り広げられる鳴き声の饗宴を浮かび上がらせる。彼自身標榜する「anti-musical, anti-humanistic」は、こうして人間がつくりあげたものではない構築へと向かう。その視線は、『建築家なしの建築』でヴァナキュラー建築を蟻塚や海鳥の繁殖地のように眺めるバナード・ルドフスキーの眼差しと似ている。本来こちらが本編であるIlhan Mimarogluの作品はあくまで電子音楽の語法内に留まるが、Dubuffet音源を体験後に聴き返せば、低音のドローンの有機的な揺らぎや、ノイジーに跳ね回る電子音の粘り着くような感触に、Dubuffetの残響を聴き取ることができるだろう。
【番外】

meenna 111-117
試聴:
年の暮れになって、とんでもないヴォリュームのブツが舞い込んできた。2008年4月に東京・京都で開催されたFtarri Festivalと2010年9月に東京で開催されたFtarri doubtmusic Festivalから選ばれた19のパフォーマンスを収録したCD7枚のセット(だから各パフォーマンスの収録時間は長い。30分以上に渡るものすらある)が、みんな異なるデザインの手製のフェルト袋に入っている。「思い出を詰め込んだアルバム」という感じだろうか。それがどのような思い出/記憶であるかは、個々人の事情によるだろう。私はと言えば、バーバー富士の松本さんからanother timbreやcreative sourcesを教えていただき、そうした新たなレーベルの視点からとらえ直して、インプロヴァイズド・ミュージックへの関心を新たにしたのが2009年の後半のことで、それが翌年の音盤レクチャー「耳の枠はずし」の開催、及びそれをお知らせするためのこのブログの開設へとつながる。だから2008年はそれ以前からずっと続いていた音響派/リダクショニズムの浸透によるシーンのつまらなさに対して、不満や反発を通り越してあきらめに至っていた頃だ。2001年7月に開催された「デラックス・インプロヴィゼーション・フェスティヴァル」で、タイム・ブラケットによる作曲作品を演奏した杉本拓ギター・カルテットが、時計の見方を間違えて終われなくなり、互いに顔を見合わせて愛想笑いを浮かべているのを見せられて、世も末だと感じたことは、いまだに脳裏を離れない。だからここに収められた2つの音楽祭にも参加しなかったし、およそ関心もなかった。それでも聴いてみるとやはり発見はある(もっぱら2008年に)。大蔵雅彦率いるGnuの解体/再構築されたグルーヴは大層「新鮮」に聴こえるし、向井千恵と共演するTetragrammatonのハーディ・ガーディの張り詰めた響きには耳が惹きつけられる。秋山徹次も最近のように無造作にではなく、えらくロマンティックにアコースティック・ギターを爪弾いていて耳に残る。Klaus FilipとKai Fagaschinskiはすでに現在につながる演奏をしているが、まだ以前のフリー・インプロヴィゼーションの尻尾を残している。その一方で他の部分は、あきれ果て関心を失っていた理由を改めて思い出せてもくれる(F.M.N.の石橋氏がここには収録されていない、フェスティヴァル当日の他の演奏について、同様の感想を記している*)。2010年についてはmusicircusでその年にリリースされた作品から30枚を選んでいるが(※)、そこで私が眼差している成果や徴候、可能性はここにはかけらもない。その点で貴重な記録となるだろう。300部限定(ただし80部は関係者に配布されるため、頒布は220部とのこと)。
*http://fmn.main.jp/wp/?p=3473
※http://homepage3.nifty.com/musicircus/main/2010_10/tx_5.htm
なお、次のページで7枚すべてのジャケットや各トラックのパースネル等を見ることができる。
http://www.ftarri.com/ftarricollection/index.html

7枚のCDが収められたフェルト袋は
手づくりのためひとつずつ異なるようだ。