2014-05-29 Thu
2014年ディスク・レヴュー第1弾は、器楽的インプロヴィゼーションの領野からの7枚。楽曲演奏からアブストラクトなサウンドの配置まで、あるいは御大デレク・ベイリーからうら若き即興乙女たちの饗宴までと幅広い選盤となった。
Creative Sources CS234CD
Laura Altman(Clarinet),Monica Brooks(accordion),Magda Mayas(piano)
試聴:http://greatwaitress.bandcamp.com/album/flock
暗闇に響くかすかな吐息と足音、ねじを巻く音。甲高い耳鳴り、遠く近く響く鐘の音、彼方を通り過ぎるサイレン。‥‥とカフカ演劇さながら、アブストラクトにして表現主義的な強い喚起力を持つ音の断片の配置は、舞台が次第に明るさを増すにつれ、情景の広がりとして連なり始める。厳しい抑制が足元に口を開けた深い亀裂を覗き込ませ(あのMagda Mayasに疾走を禁じているもの)、一見穏やかな手の運びが、信じ難い正確さ/冷酷さで、空間を暗く張り詰めたモノクロームに染め上げていく。サウンドはますます優美な洗練を遂げながら、禍々しく生々しい力動そのものと化して、否応なく耳を惹き付け縛り挙げていく。暗がりの湿った匂い、凍てついたピアノの透き通る甘さ、リードのか細い震えが重なり合って照らし出す暗闇の冷ややかさ、希薄な倍音の干渉がつくりだす不定形の広がり。励起され交錯し混濁する五感。素晴らしい。昨年のベストに選んだJohn Butcher, Thomas Lehn, John Tilbury『Exta』 (Fataka)と同様、ここにはエレクトロ・アコースティック・ミュージックやフィールドレコーディングを聴く耳で、反対側からとらえられた器楽的インプロヴィゼーションが繰り広げられている。ただし、馨しい芳香が実は蛆の涌いた腐臭かもしれないあの不安はここにはなく、どこか生臭い血の匂いを漂わせた乙女の夢想の横溢がそれに取って代わっている。ECM的なアブストラクトなジャケット・デザインを主流とするCreative Sourcesにあって、このジャケットの禍々しき「乙女力」の解放/暴走ぶりは本当に恐ろしい。

Intakt CD212
Hans Hassler(accordion),Gebhard Ullmann(bass clarinet),Jurgen Kupke(clarinet),Beat Follmi(percussion)
試聴:http://www.intaktrec.ch/212-a.htm
以前にZeitlratzer『Volksmusik』を聴いて思い知らされたのだが、ドイツ語圏ミュージシャンの民謡演奏時の没入ぶりは、祭りの記憶や大量のビール/ワイン、あるいは桃や杏のブランデーといったたちの悪い酒のせいなのか、誠に鬼気迫るものがある。その切れっぷりは一升瓶抱えた日本のノイズ親父なぞ足元にも及ばない。ここでのスイス勢もやってくれる。室内楽的な緻密なコンポジション/アレンジメントは当然のこととして、俗臭紛々たるメロディを逆手にとった、大衆演芸めいたあざとくも露悪的な構成を随所に織り込みつつ、ソロを交替し、アンサンブルを疾走させ、ついには崖から突き落とす。同じく管と蛇腹入りのFarmers Marketの一糸乱れぬ急加速はもちろん、フリーキーな乱れ/崩壊をも自在にこなす確信犯ぶり。ここにはかつて独FMP等で活躍したアコーディオン奏者Rudiger Carlの含羞に満ちた礼節ぶりは薬にしたくもない。弾けまくった快作。

Vand'œuvre 1440
Fred Frith(electric guitar),Michel Doneda(soprano&sopranino saxophone)
試聴:https://www.youtube.com/watch?v=AS4JwfRTB1o
多彩なサウンドを自在に操り、いやむしろ「完璧にコントロールし尽くしてしまう」がゆえに、フレッド・フリスは作曲家に転身したのであり、演奏はもはや余興に過ぎないと思っていたのだが、ドネダとの共演はまた新たな扉を開いている。ちょっとあり得ないほどゆるやかな音の交感が互いの響きを滲ませあい、さらには引き伸ばされた音が弛緩に耐え絶きれずにほぐれ、内側から響きの遷移が露出してくる。フリスは、ドネダの音の「出」ではなく、立ち上がりの音色の微分的な変化にこそ、自らの響きをぴったりと寄り添わせる。むしろ一歩引いて、管の震えを引き立てるよう裏打ちを施す。サンプル&ホールドによる反復の提供も決して前面に立つことなく、背後に沈んで空間の色合いを差し替え、管の鳴りの細部を際立たせる。多彩でありながら、常に脆く崩れやすく、明度/彩度を低めに押さえて、一瞬閃いてはすぐに移り変わる希薄な響き。それは別の視点からすれば、ドネダが訪れ、彼の響きが満たすべき空間を、フリスが常に先取りし、あらかじめ染め上げ飾り付けてしまうことでもある。ここでドネダは空間へ触れ合い響きを解き放つ契機を奪われ、四方八方をフリスの音に囲まれている。「外」に遊び、空間を触知するドネダではなく、完璧に仕組まれたスタジオ・セット(バスビー・バークレイを思わせる‥と言おうか)の中のドネダ。それでも聴き応えは充分。異色作。2009年にサンフランシスコで行われたライヴを収録。

Confront ccs22
Derek Bailey(acoustic guitar),Simon H.Fell(double bass)
試聴:http://www.squidco.com/miva/merchant.mvc?Screen=PROD&Store_Code=S&Product_Code=18110
語法の確立と推敲に明け暮れた1970年代前半から、即興演奏者のプールであるCompanyでサウンド/空間の重ね合わせによる相互浸透を模索した同後半、『Epiphany』に象徴される「フリー・インプロヴィゼーション」の「グローバル化」の1980年代を経て、1990年代以降のベイリーの演奏はあまりにも融通無碍というか、無造作な印象を受けてしまうことがある。ここでも弦を掻き回し、四方八方に音粒子を散乱させながら(その様は以前紹介したBill Orcuttを思わせる)、我が道を行こうとするのだが、フェルが通常のデュオの間合いを明らかに踏み破って、至近距離でベイリーを執拗にチェイスし、それを許さない。弦のブリペアドによりベイリーの音/音色領域を侵犯し、音具を使用して密度を高めたサウンドをぶつけ合わせ、はるか低域へと飛び退いたかと思えば、フレージングやノイズの放出で行く手を先回りしてみせる。その結果として、ベイリーは追いつめられたライン際からの脱出に、持てるランゲージを総動員させられる。そのようにして運動性が増せば増すほど、両者のサウンドはさらに研ぎ澄まされ、空間は透明度を高め、演奏はくっきりと奥行き深い空間に鋭利な軌跡を彫り刻むものとなる。優雅に浮遊する流れが急加速し、するりと身体が入れ替わって思いがけぬ地点へとパスが通り、その瞬間、予想だにしなかった不可視のフィールドが眼前に浮上する。潜在的なものが一挙に顕在化する一瞬。この体験こそが即興演奏を聴く醍醐味にほかなるまい。

Confront ccs18
Rhodri Davies(harp),Simon H.Fell(double bass),Mark Wastell(violoncello)
試聴:http://www.squidco.com/miva/merchant.mvc?Screen=PROD&Store_Code=S&Product_Code=17772
錐を突き刺すような一撃。限りなく希薄にたなびく音響。微かな軋み、粒立ち、揺らぎ。そばだてられる耳に薄暗い沈黙を満たすざわめきが浮かび上がる。時間的にも空間的にも「間」を保った隙間の多い平坦な演奏は、むしろエレクトロ・アコースティックな即興演奏のマナーに近い。共演相手の姿を視界にとらえると言うより、耳の視界に入ってくる音をとらえ、相手に向けて音を放つのではなく、周囲の空間に向けて‥、いや発音体/振動体の表面=空間との接点に注意を集中し、さらには自らの身体との接点へと視点は後退し、その分、身体は収縮して、空間の片隅にうずくまる。そうした「断食音楽」をエクストリミズムの名の下に正当化する代わりに、この時点(2001年)ですでに、彼らは誰よりも耳を澄まし、音色スペクトルへの意識を拡大して演奏に臨んでいた。前掲作に続き、ここでもフェルのアクティヴさが光る。2001年11月1日の録音だから、前掲作の半月後の演奏ということになる。

Tetsuro Fujimaki / Sozo
solosolo-004
藤巻鉄郎(drums,percussion)
試聴:http://page2rss.com/2d2b6169f29b34b0ca0aa5c4c62148b4
「演奏する」というよりは、打撃の際のスティックの感触を確かめる。最初の一打でシンバルが、あるいはドラムのスキンが揺らぎ撓むから、続く一打は自ずと感触が変わる。その差異を味わい楽しみながら、打撃を連ねていく。間を置いた打撃では対象は限りなく元の状態に戻るが、隙間なく連打すれば、そこには対象が元に戻ろうとする力と打撃の間の押し引きが生まれる。とは言え、一見安定した均衡状態も、がっぷり四つに組んで動かないわけではなく、2本のラケットの間に挟まれたピンポン球のように、高速で振動遷移しているのが、まるで止まっているように見えるだけだ。後半に進むと、スティックはそうした高速振動状態に惹きつけられ巻き込まれて、休むことなく打撃を連ね疾走を続ける。堰を切った水が溢れるように。本作は2014年1月20日に録音されているが、藤巻によれば2013年の演奏の課題は「重力」、「張力」、「共鳴」の3つだったと言う。スティックの重みとスキンの張りの生み出す自動運動に、指の皮膚感覚を集中させる。1・2曲目で聴くことのできる間を置いた打撃は、一見共振に耳をそばだて、うわんとした共鳴に耳を凝らしているように見えるが、私にはやはり「鳴り」に指先を浸しているように感じられた。繊細にして克明な「すっとそこにある」感じの録音(レーベル主宰者である高岡大祐による)も素晴らしい。同レーベルから同時にリリースされた同じくパーカッション・ソロによる石原雄治『打響音集1』も多彩な響きが次から次へと溢れ出す素晴らしいものなのだが、ここはきっぱりと盲いた藤巻の潔さを採りたい。

Tiger Gong 01
試聴:https://soundcloud.com/gongs-of-cambodia-laos
Kink GongことLauret Jeanneauによる現地録音をたっぷり収めたLP2枚組。現地の人々と親しく交流し、様々な風物を指差してへらへらと笑う彼は、決して学究肌ではなく、快楽を追求することに一途な「享楽派」なのだろう。ここでゴングによるアンサンブル演奏は、決して音楽だけが切り取られたものではなく、常に日常の時間の切れ端を含んでいる。それゆえ瞑想やトランスのありがたい香りよりも、「風のにおい。陽射しのにおい。夕暮れのにおい。湿ったにおい。けもののうんこのにおい」(多田雅範)に満ちている。掌でゴングの振動を巧みにミュートし、あるいは解き放ってつくりだすグルーブの腰をとろかす浮遊感に魅せられるが、その向こうに広がる朗らかな笑いを聴いていると、ここから音楽だけを切り取ってどうこう言うことが、とっても的外れな行いに感じられてくる。ここで反復とは、瞑想やトランスはもとより、ミニマルとかリズム構造を超えて、何よりも日常の一部であることに基礎を置いている。夜が明ければ朝が来て、目が覚めればしぜんと腹が減るように。
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練馬石神井音紀行 − 津田貴司ワークショップ「みみをすます」 in 石神井 Sound Travel Writing of Syakujii, Nerima − Takashi Tsuda Workshop "To Be All Ears in Syakujii"
2014-05-25 Sun
午前7時に神社の境内に集合し、あたりの音や気配に耳をすましながら、朝の林を探索する —− そんな魅力的なプログラムに誘われて、津田貴司によるワークショップ「みみをすます」に参加した。以前にレヴューした益子に続き、2回目の参加となる。前回は里山だったが、今回は練馬区石神井公園。広いといっても街中である。どのような音景色が待ち受けているだろうか。なお、ワークショップ「みみをすます」の趣旨や、基本的な構成である3つのステップ、「音を聴く」、「静けさを聴く」、「みみをすます」については、益子ワークショップのレヴュー(※)を参照していただきたい。
※http://miminowakuhazushi.blog.fc2.com/blog-entry-276.html
気合いを入れて午前5時に起きたはいいが、行きの副都心線でうとうとと寝入ってしまい、西武線に乗り換えるべき小竹向原を通り過ぎてしまう。慌てて戻り、最寄りの石神井公園駅からはタクシーで向かったがちょっと遅刻。皆さん、お待たせして申し訳ありませんでした。
ワークショップの趣旨を津田が説明する。その間にも周囲の音が響いてきて、津田の話にも映り込む。神社の境内を掃き清める竹ぼうきのしゃっしゃっと鳴る清冽な音について。あるいは腰にラジオをぶら下げて聴きながら散歩するおばさん。姿が見えなくなっても音でどこにいるかわかる。
様々な種類の鳥の声が少し遠く混じり合って響く。先ほどまではもっとカラスがうるさかったとのこと。それでもすぐ近くを低く飛んでいくカラスがいて、羽音が朝の空気をいささか暴力的に切り裂いていく。柏手。鈴。足音。話し声。参道の向こうから聞こえてくる車の音。上空を通り過ぎる姿の見えない飛行機。
神社に参拝してから、林の中に歩みを進める。木立といっても樹々の間は空いていて明るい。響きにも閉塞感はない。隙間のある風通しの良い音響。足音に枯葉と砂利の音がブレンドされる。鳥の声が近くなり、方向が明確になって、明らかに上から降ってくる。音源も分離して、鳥に詳しければどれが何の鳴き声と識別できるだろう。シジュウカラが鳴いていますねと津田。あちらからはヤマバトの何とものんびりした声が。反対に参道から遠ざかったからか、車の音は遠のいて輪郭を失いどろんとした暗騒音へと姿を変える。上空にまた飛行機。先ほどまでとは響きのパースペクティヴが明らかに変わっていて、ある広がりに包まれている感じがする。柏手や鈴の音もまだ聴こえる。
さらに歩みを進めると、ぼんやりとした暗騒音は完全に方角を失い、足元から満ちてくるような、四方八方の樹々の隙間から流れ込んでくるような印象を与える。何かわからない金属質の軋みが鳴り響く。
木立の切れ目から池の水面が視界に入ってくると、音の見晴らし=聴き晴らしがふと開ける。木漏れ陽が風に揺らぎ、池のまわりをジョギングする人たちの足音が、それぞれに規則正しいリズムを刻む。「水の存在を感じる」という人がいるが。まだよくわからない。津田が「水の音はなかなか遠くまで聴こえないんです」とコメントしている。だが、いったん耳についてしまうと、いつまでも耳を離れない。大型犬の荒い吐息がすぐそばを通り過ぎる。
少し下って水面の近くまで降りていく。梢から垂れ下がった花房に蜂が集まって来ていて、手を伸ばしてもとても届かぬほど距離があるのに、もつれるような羽音が聴こえる。珍しい物を聴いた。集合的な響きなので、眼に映る数匹以外に、上の方にもっと群れているのかもしれない。15秒ほど、耳を指で塞いで聴覚をリセットし、ぱっと開くと、音のパースペクティヴがさっきまでとずいぶん変わっている。池の端まで降りてくることにより、まわりを囲まれるかたちになったからだろう。音の聴き晴らしが悪くなって、すてにある響きの層に埋め込まれた感じがする。枝を渡る小鳥の姿。遠くの犬の吠え声。空き缶を片付けているようなガラガラした響きが頭上を通り過ぎ、地元参加者が「そういえば今日は回収日だな」とぼそりと漏らす。
池の見晴らしがよい地点へと回り込むと、カモの鳴き声や羽根で水を跳ね散らかす音がよく聴こえる。水面のあぶくはコイだろうか。黒い魚影が動いている。時折、水が跳ねる音がするのもそうかもしれない。そうした場面自体は目撃できなかったが。もっと細かく鋭い、ぴちぴちと水が跳ねる音がする方に視線を向けると、枝先が水面に触れ、風で揺らいでいた。トンボが視界の隅を横切り、長い水草が音もなく風にそよぐ。どこからかまた蜂の羽音が鈍く響く。水面のきらめきが反射して木立に映えている。犬を連れたおじさんのうなる歌。おじさんは池端で耳をすます集団を不思議に思ったのだろう。しばし立ち止まり、連れられた犬は休憩ならエサがもらえるはずだと、居住まいを正す。ようやくおじさんがそれに気づいてポケットからエサを出す。それを犬が噛み砕く音。舌の鳴る音。「カワセミの鳴き声が聞こえますね」と津田。おじさんが「カワセミなら見かけたことはあるけど、鳴き声なんて聴いたことがない」とつぶやく。
もう少し歩くと水の湧き出し口があった。そばによると急にせせらぎが聴こえ始める。「水音はマスキングされやすいんですよ。ちょっと離れるとすぐ聴こえなくなってしまうし、間に障害物が入ってもとたんに聴こえなくなりますね」と津田。確かに樹の幹の陰に回り込むと、くっきりと幹の輪郭が浮かぶように聴こえなくなる。高音域の倍音成分が多いからかなとも思うが、少し離れて水音が生々しさを失う時に欠け落ちているのは、むしろ中域の躍動感である。耳をそばだてると、ポコポコと木片を叩いたような音が混じっている。ラジオの音がゆっくりと遠ざかっていく。湧き出し口の周囲を巡り、方向で音色や輪郭、粒立ちが変わるのを確かめる。
湧き出し口から少し離れ、音がほとんど聴こえなくなるのを確かめてから、その場にしゃがみこみ、また耳を塞いでリセットしてみる。耳を開くと、水面のどよめきの低い響きがあたりを浸しているのがわかる。周囲より低い窪地のようなところにいて、そこに澱んだ響きと湿気に埋もれている感じ。蜂よりも耳障りな蠅の羽音。
少し上って、ベンチもある開けたところに出る。傍らの小道を時折自転車が通り、話し声が軽やかに行き過ぎる。津田から「耳をすます」の説明。全体の音が描き出す模様をぼうっと見る。それではベンチもあるので10分間ぐらいここで過ごしましょう。
ラジオ、虫の羽音、カラスの鳴き声、車の音、自転車、水鳥‥‥。誰か練習しているのだろうか、ピアニカのか細い音色が風に運ばれてくる。全体としては開けていて透過性の高い感じ。益子で最後に上った展望台のように周囲からわーっと音が集まって来て、ねっとりとした厚みのある混成体をかたちづくっているというようなことはない。それでも車の音は結構遠くから、幾層も重なり合って届くせいか、輪郭を失って溶け合い混じり合って流動性の高い変形を来しながら、首筋に注がれてくる。反対に正面側には、これまで歩いてきた林が広がり、スクリーン状に様々な響きが明滅している。希薄な平面。頭上で急に小鳥の声が鋭く炸裂する。
時間が過ぎて、津田が飛んでいるヒヨドリが虫を食べようとして空振りし、嘴が空を掴む音が聴こえたと話す。
スタート地点へと戻る途中で、虫の音がスクリーンを張っていた。これまでにも鳴いていただろうか。記憶にない。きめが粗く昔の電子音みたい。集合的な重ね合わせた感じがしない‥‥と思っていたら、ぱっと音が止んだ。いっせいに鳴き止むということはないから、もとから一匹だったのでしょうと津田が話す。集合的な重ね合わせ感がなかったのはそのせいか。広がりがあったのは、場のアコースティックによるのだろう。少し風が出て来て、さやさやと葉擦れが聴こえる。木道のすぐ脇に小さな水門があって、水が流れ出している。泡立ちのないとろりとした響き。「さっきよりこの方が清流っぽく聴こえるかもしれない」と誰か。「水音は本当に難しいですね。ものすごくきれいな清流を録音しても、家に帰って聴くとトイレの水音にしか聴こえなかったりとか、あるいはドブ川みたいなところの方がきれいな音が録れたりとか」と津田が答えている。
「サウンドスケープを提唱したマリー・シェーファーは、自然の音と人工の音を分けたがる傾向がある。でもこうやって注意深く聴いていくと、むしろ、そんな風には分けられないことがわかる。いま聴こえているセスナ飛行機の音も、あーっ入っちゃった‥‥って嫌う人がいるけど、僕はいいと思う。ただ戦争体験があるお年寄りは嫌いますね。うちのおばあちゃんなんかも『グラマンが来たーっ』て言う」と津田。どんっどんっと太い太鼓の音。「ああ9時になったのか」と誰か。スタート地点の境内はもうすぐそこだ。
境内に戻ると、話し声、竹ぼうきの音、話し声、足音、柏手、鈴など先ほどまでの音に、活動している街のざわめきが加わっているのかわかる。何か作業している音、機械の作動音。車の音もより厚く角ばっている。街が目覚めた。きっと平日なら、目覚めはもっと早いのだろう。


ポスト井のいちイベント
津田貴司ワークショップ「みみをすます」in石神井
◎新緑の季節、石神井界隈を歩きながらみみをすませてみませんか?
◎簡単なガイダンスの後、石神井公園付近を歩きながら「音を聴く」「静けさを聴く」「みみをすます」という3つの意識状態をガイドする予定です。
◎いつもの散歩道も、注意してみみをすますと、驚くほど豊かな音の風景が広がります。
◎野外でのワークショップですので、各自で水筒や雨具、防寒具等のご用意をお願いいたします。
日時:5月24日午前7時集合9時ごろ解散
集合場所:石神井氷川神社境内集合
定員:20名
会費:1000円
主催:井のいち実行委員会
津田貴司(サウンドアーティスト)
'90年代後半より、ソロ名義「hofli」としてフィールドレコーディングに基づいた音楽活動を展開。津田貴司として、サウンド・インスタレーションやワークショップ「みみをすます」シリーズを継続している。主なアルバムに『水の記憶』『雑木林と流星群』『湿度計』など。http://hoflisound.exblog.jp/

写真はすべて津田貴司Facebook ページから転載しました。
2014-05-22 Thu
金曜の夜には会合が、土曜日は朝から仕事が入ってしまい、興味をそそられていた「歌女」ライヴ@Ftarri水道橋店も、「耳をすます」@下北沢も、カン・テーファンSolo@南宇都宮も全部行けず、仕事を終えて寄ってみた評判のインド料理屋もいま3くらいだったので、欲求不満解消に久しぶりに新宿に繰り出し、ディスク・ユニオンを巡った。さすがに世の中悪いことばかりではなくて、思いもかけぬ収穫に恵まれたりもしたので、新譜ディスク・レヴュー定期版を掲載できるまでの埋め草記事ですが、ちょっとご報告かつ自慢。もともとの目的はECMの新譜2枚を購入することだった。Benedicte Maurseth & Asne Valland Nordi『Overtones』(ECM2315)とEleni Karaindrou『Medea』(ECM2315)。歌姫と弦姫の北欧トラッド・デュオとテオ・アンゲロプロスの共同作業者として知られるギリシャの映画音楽家。前者はECM界のリア王こと(子だくさんな王様という点しか共通していないが)多田雅範から「これは以前に福島さんに聴かせていただいた〜」と教えられた作品。Asne Valland『Den Ljose Dagen』はかねてからの愛聴盤で、以前に月光茶房ビブリオテカ・ムタツミンダで開かれたリスニング・セッション時に披露したのだった。今回の作品でもどこか幼さの残る線の細さと張り詰めた芯の強さは健在。Benedicte Maursethの細い天蚕糸をきりきりと引き絞りながら張り巡らしていく弦の響きも素晴らしい。Eleni Karaindrouは奥行き深い空間を民族楽器やコーラスが支えるしめやかな劇的空間。これらは改めてディスク・レヴューで採りあげたい。


もうひとつ期待していたのが、Nana VasconcelosがSaravahレーベルに残した2作品の2 in 1再発盤。以前からぜひ聴きたいと思っていた作品が、廃盤LPを探さずとも、国内盤でリリースされていたとは。売り場で調べてもらうと廃盤状態。しかし、あきらめずに中古盤を漁るとあっさりとゲット。とーぜんプレミアなし。空間にさざめきたゆたうビリンバウの打音/倍音が心地よい。こちらは決してしめやかではない幽玄の世界。
ナナ・ウァスコンセロス『サラヴァ・エイジ』(ポリスター)
Nana Vasconcelos『Africadeus-N.Angelo-Novelli』

エレクトロニカというには奥深く、ドローンというには物音の手触りがあり、エレクトロニックな加工が多いからフィールドレコーディングはないが、それと共通する肌触りの豊かさと空間のバースペクティヴをたたえている。そんな作品群をまとめて掘り起こした。
まずはnon visual objectsレーベルからの3枚。いずれも300枚限定。白木の断面を思わせる植物質の柔らかさが魅力的なGaret、引き伸ばされた音響が空間を舞い踊りながら決して埋め尽くさないMontgomery、微細な音粒子の感触がいかにもハイ・アート的なChartierとそれぞれの個性が際立つ。ジャケットも美しい。
Richard Garet『Intrinsic Motion』(nvo008)
Will Montgomery[Herbert Friedl]『Non-Collaboration』(nvo014)
Richard Chartier『Untitled (Angle 1)』(nvo018)



Mathieu Ruhlmannの名前はUnfathomless(2009)や3 Leaves(2013)からの作品で知っていたが、ごく初期の作品(2004)を入手。暗闇で風が頬を撫で池の魚が跳ね音楽室のピアノが鳴り目蓋の裏に閃光が走る。これはすごくいい。50枚限定。
Mathieu Ruhlmann『Every Vein Leads to My Heart』(Somne Recordings)
musicircus掲載の2013年ベスト30に選んだMarc & Olivier Namblard『Cevennes』の片割れMarkのソロ作品を発見。凍った湖の立てる響きは、寒さと孤独に耐えられなくなった沈黙が思わず漏らすつぶやきにも似て電子音楽的。結婚する前に大井武蔵野館で妻と観た『シベールの日曜日』の公園のシーン(凍り付いた池)の奇妙な響き(やはり電子音なのだろうか?)を思い出した。
Marc Namblard『Chants of Frozen Lakes』(Kalerne&Atelier Hui-Kan)


可愛らしい3インチCDを3種。Celerは「ひとつ聴けばみんな同じ」的なところもないではないが、ジャケット写真の「流れる」感覚に惹かれた。やや明度を落とした落ち着いた光の中で柔らかくほぐれていく響きの在処。いずれも100部限定。一方、Simon Whethamは生真面目過ぎるところがあるが、これは様々な物音や音楽断片、エレクトロニクスが次々に混じり合う感じがいい。こちらは50部限定。
Celer『Four Pieces / Three』(smallfish records)
Celer『Four Pieces / Four』(smallfish records)
Simon Whetham『The Phoenix』(Flamingpines)



そのほかに、タイトルにやられたチェリストFred Lonberg-Holmと、Jim O'RourkeやKevin Drummはじめ計12人のギタリストとの共演。思ったほど周囲の環境音は入っていないが、部屋の佇まいの違いはわかる。Animaはブラジルの中世音楽ユニット。打楽器の河の響きの香り高さや倍音の角の丸さがブラジル的か。美麗ブックレット綴じ込み。
Fred Lonberg-Holm『Site-Specific』(Explain)
Anima『Especiarias』(MCD)


LPでも「へえ」というブツが。まずはRene Clemancicの笛と民族打楽器Zarbの共演盤。せっせと集めている東方教会関係が2枚。Ocora盤は先日購入した同じくOcoraの箱入り2枚組『Grece Vol.3&4』が呼び水になったのかも。Cornelius Cardewのピアノ曲集は盟友と言うべきFrederic Rzewskiの演奏。500枚限定。最後のBernie Krauseは動物の鳴き声を楽器代わりに当てはめた珍盤。「さすがは『野生のオーケストラ』の著者」的な1枚ではある。見本盤。
Chemirai&Rene Clemencic『Improvisations』(Harmonia Mundi)
『Grece Volume.2』(Ocora)
『Liturgie de Saint Jean Chrysostome』(Auvidis)
Cornelius Cardew『We Sing for the Future&Thalmann Variations』(Doxy)
Burnie Krause『Jungle Shoes』(Ryko)





ちなみに中古盤の価格はCDが214円から514円(ただしMathieu Ruhlmann は617円、Nana Vasconcelosは720円)。LPは1000円未満から1749円。もちろんここには挙げていないハズレもあったのだけど、気分回復には大層効果のあった買い物でした。
フリー・インプロヴィゼーションとフィールドレコーディング、アルヴィン・ルシエと小津安二郎 Free Improvisaion and Fieldrecording, Alvin Lucier and Yasujirou Ozu
2014-05-16 Fri
多田雅範が自身のブログで書いている(※)。※http://www.enpitu.ne.jp/usr/bin/day?id=7590&pg=20140515
track 373 Alvin Lucier / (Amsterdam) Memory Space (Unsounds) 2013
この盤を耳にし始めてから、とろけている。漢字に変換すると、蕩けている。かつてこれほど気持ちいい音楽を聴いたことがあっただろうか。 もちろん。予断なく聴いている。風景を眺めるように、耳をすます。 さあ、何が始まるんだろうかと。 右手にカーブを曲がってみるように、応接間で初対面のひととお会いするように、能の舞台に舞いが進み来るように、風は吹いて花びらが落ちるように、親しいひとと目配せで何かが伝わるように、恋人同士の指と指の触れかたのように。 音の感触は、表情や匂いや体温を察知するように受信することで、到来している。 ギターであるとか、楽器であるとか、フィーレコであるとか、ラップトップであるとか、まあ、その音の正体は正しいかどうかは置いといて、このサウンドの生成の風景。 ぶつかりあったり、ハモったり、と、個々の音は風景に歩み出ているようだ。それが先ず、気持ちいい。何かひとの意図を超えているようにも感じられる。聴くワタシがワタシでなければならないという強迫からも離れられる、このクールさ。それは楽器の音も、エレクトロニクスも、フィーレコも、等価に聴こえるようだ。おれには未だ到来せぬ仏教の音楽にも聴こえるものだ。
相変わらず多田の耳は前置き無しにいきなり核心をとらえ、それをさりげない言葉で単刀直入に語ってしまう。「統一されたこの場を共有することが第一義ではない、と、個々の音は風景に歩み出ているようだ」、「何かひとの意図を超えているようにも感じられる」と。演奏はアコースティックの楽器音、エレクトロニクス、フィールドレコーディング音源を含み、それらが遠く近く、時に層と成し重ね合わされながら進められる。しかし、それらはアンサンブルを完結させない。むしろ風に吹き寄せられた音の欠片がつくりあげる束の間の光景との印象。つけっぱなしで見てもいないTVから伴奏音楽が流れ、それに混じり合わないギターの調べは隣家の開け放たれた窓から聴こえてくることに気づく。家の前の道路で子どもたちが遊んでいるようで、時折歓声が上がり、それをたしなめる母親の声がかぶさる。風向きが変わったのかブラスバンドの響きが揺らぎながら届けられ、川沿いの道を走るバイクの排気音や急に高鳴り始めた心臓の鼓動と混じり合う。ここでは「内」と「外」はたやすく反転する表裏一体のものであり、響きの輪郭や音の仕切りはおぼろに希薄で、すぐに互いに浸透しあうものとなっている。
さらに多田のブログの記述からの引用を続けよう。
いっせーの、せ、で、演奏を始めて、こうなるものだろうか。ううむ、AMMを聴いていた感覚もあるなあ。 この盤に対する福島恵一さんのレビューを読む。
耳の枠はずし 「ディスク・レヴュー 2013年6~10月 その2」
http://miminowakuhazushi.blog.fc2.com/blog-entry-259.html
「外へ出て、そこの音の状況を記憶/記録し、それを追加、削除、即興、解釈なしに演奏によって再現せよ」とのAlvin Lucierによる指示に基づく作品。 ええっ?なにそれ。 「外界の音の状況」という目標がアンサンブルに共通のものとして先に設定、されているけど、奏者が再現に取り組む時に不足と過剰が明らかにされ。 おお。 これに対する応答が各演奏者を突き動かし、動的平衡を保ちながらの移動/変遷を余儀なくするとともに、アンサンブルを不断に更新していく。
なるほど。 他の演奏者の意図を探るのではなくサウンドにだけ応ずるため、触覚的な次元に至るまで全身を耳にして歩み続ける。結果としてアンサンブルはエレクトロ・アコースティックなインプロヴィゼーションを行うことになる。 ええっ?エレクトロ・アコースティックなインプロヴィゼーション、なのかあ。エヴァン・パーカー・エレクトロ・アコースティック・アンサンブルには感じられない別の事態に思われていたんだけど。エヴァン・パーカーたちは完全に聴きあって、演奏しあっていたように感じていた。 MAZEのみなさんは、個々がフィーレコになっているような感触だ。
「目標が外にある」。これはすごいなあ。動的平衡を保ちながらの移動/変遷を余儀なくされているとともに、アンサンブルを不断に更新していくという彼らの意識は、なるほど、確かにあるのだ。 ううう。それにしても、気持ちいい。立ち直れない。もとい。なんか生きる希望がわいてくる。う、めっちゃ立ち直ってんじゃん!
橋爪亮督グループの「十五夜」神トラックをトーマス・モーガンに持たせてやったんだが、「十五夜」という曲は橋爪から、あんたは月ね、雲ね、だんごね、ススキね、と役割分担を振り分けられたカッティングエッジな演奏家たちが、「目標が外にある」意識でもってテクネーとタクタイルの限りを尽くすという点で、アルヴィン・ルシエやMAZEと図らずも視野を共有していたのだ。 一足飛びに、わたしたちもまた、このような音楽でありたいのだ。
多田の鋭い突っ込みや合いの手が、原文をパラフレーズし、意味合いを分岐させ、新たな息を吹き込む。「エヴァン・パーカー・エレクトロ・アコースティック・アンサンブルには感じられない別の事態に思われていたんだけど」は全くその通り。彼らの演奏は、エレクトロニクスによる音の変形や空間への放出/散布の度合いのコントロールにより、それまでのグループ・インプロヴィゼーションに比べ、音を演奏者の身体から捥ぎ離して空間へと解き放つものとなった。音は演奏者間だけで取り交わされることを止め、響きと化して匂いが立ち込めるように空間一杯に広がる。音は沈黙に沁み込んで空間と一体化し、音を放つことが空間を力動により変転させ、切り裂き、渦を巻かせる。それゆえ彼らの演奏を聴くことは、フレーズやリズムの交錯をとらえると言うより、頬や髪に風を感じることであり、揺れる船に乗り込んだような体幹の揺らぎを覚えることであった。しかし、その後に耳にすることになったAnother TimbreやPotlatchからリリースされた「音響」的な、あるいはエレクトロ・アコースティックなフリー・インプロヴィゼーションは、言わば解像度/透明度が全く別次元だった。楽器からどのような音色を引き出すか、それを伝的にどう変形するかといったことはもはや重要な問題ではなく、むしろ音は空間に響くことによって耳に聞こえるものであることを、最初から前提にしていた。すなわち我々が耳にするのは「音自体」(そんなものがあるとしてだが)ではなく、空間/距離により変容され侵食された「響き」でしかあり得ない。そこには周囲の環境音をはじめとする「他なる響き」が必然的に入り込むことになる。だからそれを「完全に」聴き取ることはできない。「完全に聴きあう」ことは音の向こうに共演者の意図を結像させることによって、すなわちコミュニケーションの図式に乗っ取って、ようやく初めて成立する。だが実際には、そこで投げ交わされる音を注視すれば、それは演奏者の意図になど還元しようもない多様さ/不純さをはらんでいる。そこに留まり立脚しようとする限り、向かい合う共演者の意識の動きなどに至れるはずもなく、拡散する決定不能性に途方に暮れるしかないだろう。だが、それこそが豊かさなのだ。
ここで我々はフリー・インプロヴィゼーションをフィールドレコーディングのように、フィールドレコーディングをフリー・インプロヴィゼーションのように聴くことができる。「即興的瞬間」に注目しながら。この「即興的瞬間」とは、アンドラーシュ・シフの演奏への私の拙いレヴュー(※)から、多田が何度となく拾い上げてくれた概念にほかならない。
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そのレヴューから一部を抜粋引用しておく。
蓮實重彦はスポーツ観戦の醍醐味として「圧倒的な流動性の顕在化」を挙げるが、まさにその通りだ。潜在的なものにとどまっていた線/運動が一挙に顕在化した時の、世界がひっくり返るような驚きこそが、スポーツの快楽にほかならない。そして、音楽もまた。
アンドラーシュ・シフの演奏は、至るところ、そうした「圧倒的な流動性の顕在化」の予感/予兆に満ち満ちていた。そして、そうした各瞬間こそが、「即興」に向けて開かれているのだ。彼の演奏を「彼による作品解釈の具現化に向けた身体の精密なコントロールの結果」ととらえるよりも、そのような「即興的瞬間」に開かれたものとして受け止めた方が、演奏の強度を充分に受け止めることができるのではないか。いや、こうした言い方は後知恵だ。むしろ、彼の演奏に、優れた即興演奏と同質の輝きや馨しさを、まず(思わず)感じてしまった(不意討ちされた)‥と告白しなければ嘘になるだろう。
すなわち「即興演奏の質」とは、こうした瞬間瞬間に訪れる(それは「深淵が口を開けている」ということでもある)未規定性に向けて開かれているということであって、「譜面を見ない」とか、「事前に決め事をしていない」ということではない。もちろん、即興演奏の定義だけを言うのなら、それでも事足りるかもしれない。しかし、仮にそうだとして、即興で演奏することが、それだけである質や水準を確保してくれるわけでは、いささかもない。ライヴやコンサートの告知を見ると、即興で演奏しさえすれば、それがすなわち「冒険」や「挑戦」、あるいは「実験」等となるという誤解が蔓延しているようだが、そんなことはありえない。デレク・ベイリーが言うように、人類が最初に演奏した「音楽」は即興演奏によるものだったはずだ。彼らは果たして「冒険」や「挑戦」、あるいは「実験」に勤しんでいたのだろうか。そんなはずはない。
フレーズを排し、エレクトロニクスに頼り切って、いかにも「音響」ぽいサウンドの見かけをなぞることや、サンプリングされたループの重ね合わせをはじめ、その場に敷き詰められ響きをかき乱すことのないように、「空気を読んで」、当たり障りのない極薄のレイヤーをおずおずと重ねることの繰り返しが、即興演奏ならではの質や強度を獲得することは永遠にないだろう。なぜなら、そもそもそこには即興的瞬間が存在しないのだから。
たとえば私は上原ひろみの演奏に、こうした「即興的瞬間」を見出すことができない。アンソニー・ジャクソンやサイモン・フィリップスとの「妙技」の応酬は、まるでサッカー・ボールのリフティングの名人芸を、延々と見せられているようだ。サッカーが「そこ」にないのと同様、私の考える音楽も「そこ」にはない。ではどこにあるのかと言えば、もっと潜在的な流れの中、譜面のある演奏だったら、個々のフレーズのノリやアーティキュレーション等が「そこ」からすべて流れ出してくるような源泉、呼吸のようなものにあると言うべきだろう。フリー・インプロヴィゼーションやフィールドレコーディングでは、この核心がさらに「聴くこと」の核心に近づいていくように思う。
ブログでときどき小津安二郎のことに触れることがあるが、決して小津の映画をそんなに観ているわけではなく、むしろ彼が世界をとらえ切り出してくる仕方、特に人のいない室内の風景等をとらえる仕方に興味を持っている。その際に導きの糸としているのは前田英樹の論稿だ。先日、図書館に行ったら、「思想」の2014年1月号に彼が「小津安二郎の知覚」を書いているのを見つけた。以下に興味深い点を幾つか抜き書きしてみよう。
この映画には、強い印象を与える事物のクローズアップが、さまざまなところに出てくる。(中略)これらのショットは、どれもみな物語の本筋から外れ落ちて、キャメラによる純粋な静物画の流れを作る。これらの〈物〉は、誰の感情も心理も暗示せず、位置関係さえ説明されることがない。
〈物〉はただそこに在って、知覚されている。(中略)映画という知覚機械では、そういうことが可能となる。小津安二郎が、映画の仕事のなかで最も強く惹き付けられていた点は、疑いなくそこにある。(中略)小津の映画では、静止と運動はひとつのものである。それらは、持続する同じ唯ひとつの世界が、私たちに見せるふたつの顔に過ぎない。静止の底には、在る物の無限の振動があり、運動の底には大地が湛える静けさがある。(中略)静止と運動とがひとつのものになって顕われるのは、映画という知覚機械のありのままの働きによってである。(中略)映画には、そのことをあっさりと示してしまう働きがもともとある。
小津はそうした働きを、ただもう類を絶した忠実さで引き出してみせたに過ぎない。(中略)小津の映画は、初期から一貫して二重の流れ、並行するふたつの線を持っている。そのうちひとつは〈現実的なもの〉の線を成し、もうひとつは〈潜在的なもの〉の線を成す。
前者の線には、怠け者の学生、失業者、与太者、退職した元教師、その他いろいろな状況にある人々の行動があり、後者の線には、静まり返って在るさまざまな物、椅子や畳に座って在る人たち、理由もなく動く彼らの指先や、もぞもぞする足、煙を吐く煙突、湯気をあげる薬缶、その他、数限りないものがある。
二つの線は、常に同時にあり、時に応じてどちらかが前面に出る。前面に出ても、潜在的なものの線は、その性質を変えることがなく、私たちの行動と無関係に在るだろう。(中略)この第二の線にあるものは、「規律」や「美的システム」といったものでは決してない。
私たちの現実行動を根本から離脱して立てられた、宇宙に対するキャメラの知覚そのものである。(中略)小津にあっては、この第一の線は、第二の線と区分不可能な視覚で結びつき、ふたつは浸透し合う二重の流れを作らずにはいない。あるいは、現在の各瞬間を、ふたつの方向に分岐させずにはいない。そのうちの一方は、人物の行動が目指す未来に進もうとし、もう一方は潜在的な過去それ自体のなかに沈み込んでいく。知覚のこの絶え間ない二重性は、劇映画を作るひとつの技法、といったようなものではない。映画キャメラの知覚に潜んでいる本性と見なすべきものである。小津は、ただその本性を、さまざまな仕方で明るみに出してみせるのである。
ベルクソン(からドゥルーズに至る)の語法が流れ込んでいるため、現在、過去、現実的、潜在的といった語の意味がとりづらいところがあるが、それでもこれらの指摘は、いま自分が関心を持って聴いているフリー・インプロヴィゼーションとフィールドレコーディングが「録音」という機械の知覚を通じて曖昧に重なり合う地点の眺めに、驚くべき正確さで合致しているように思える。別の言い方をすれば、前田英樹の思考だけではなく、
「タダマス」での体験を含め、様々なものを手がかりにして、この間、こうした音楽の何に自分が惹かれるのか考え続け、書き記してきた言葉と、これらの言葉は驚くほど共通しているように感じられる。ここには確かに「何かがある」ように思う。それをはっきりと名指すことができず、手をこまねいている自分がもどかしい。
フリー・インプロヴィゼーションは、音響という、演奏者の意志/意図を軽々と超えてしまう「人の手に余るもの」を取り扱うことにより、空間/時間の中に浮かび上がる痕跡を手がかりとせざるを得ず、結果として不可視の潜在性を、前田英樹の言う第二の線を浮かび上がらせずにはいない。そして、「自然のシンフォニー」などと言って、無理矢理に第一の線を仮構し、枝葉を切り落としてそこに押し込められてしまいがちなフィールドレコーディングについても、虚心坦懐に耳を傾ければ、そこに浮かぶのはやはり空間/時間の中に刻まれた多数の痕跡であり、結局は第二の線を注視せざるを得ない。こうして「潜在性」に深々と根差し、そこに耳の眼差しを避け難く誘うものとして、両者は共通/通底しているのではないか。すなわちフィールドレコーディングの中に、熱帯雨林の喧噪と雨粒の滴りの交錯のうちに数多の「即興的瞬間」を見出すことが可能であり、一瞬の微細な響きを注視し、それに応じることが、時間的にも空間的にも段違いのスケールでミクロかつ繊細な、もうひとつの世界を生きることが即興なのだと。
ここで冒頭に戻るならば、そうした注視を呼び覚ますための仕掛けが、「Memory Space」におけるAlvin Lucierの作曲となっているととらえることができる。
最後に多田が一部引用している、Alvin Lucier『(Amsterdam) Memory Space』の拙レヴュー(※)を参考に掲げておく。
※http://miminowakuhazushi.blog.fc2.com/blog-entry-259.html
ディスク・レヴュー第2弾はエレクトロ・アコースティックなインプロヴィゼーションからの7枚。と言いながら、実はコンポジション演奏を多く含み、また、必ずしも編成にエレクトロニクスを含む訳ではない。むしろ、微細な音響に耳をそばだて、沈黙にすでに書き込まれている響きを読み取らずには置かないエレクトロ・アコースティックな音楽美学と、そうした聴取の鋭敏さを演奏に直結させるフリー・インプロヴィゼーションの作法の「十字路」ととらえるべきかもしれない。いずれにしても流動的な仮構に過ぎないが、しかし、そのような視点/区分を導入することにより、これを補助線として初めて見えてくる景色もある。そしてそれらを言葉で解きほぐすことにより明らかになることも。それこそはいま批評が負うべき務めにほかなるまい。

Unsounds 37U
MAZE:Anne La Berge(flute,electronics),Dario Calderone(contrabass),Gareth Davis(bass clarinet),Reinier Van Houdt(piano,electronics),Wiek Humans(guitar),Yannis Kyriakides(computer,electronics)
試聴:https://soundcloud.com/maze_music/amsterdam-memory-space-excerpt
「外へ出て、そこの音の状況を記憶/記録し、それを追加、削除、即興、解釈なしに演奏によって再現せよ」とのAlvin Lucierによる指示に基づく作品。その結果、MAZEの面々による演奏は、おぼろにさざめき、希薄にたゆたいながら、決してアンサンブルの構築を目指すことなく、常に隙間をはらみズレを来たしつつ、精緻に入り組み微妙なバランスを歩むものとなった。これはこの国で一時流行した、「他の演奏者の音を聴かずに小音量で演奏せよ」とか、音の密度をあらかじめ希薄に規定してフレーズ/イディオムの形成を阻み個を全体へと埋没させる均衡化の企みとは、本質的に異なっている。これらは演奏者が互いに聴き合い、無意識に同期を志向してしまう生理を暗黙の前提として、これを指示によって打ち消すことにより、言わば不安定を生成させるものにほかならない。出来上がりの全体イメージを提示することなく、それが演奏者同士の「切り離された関係性」からその都度生成してくる‥というところがミソなのだが、実際には「場の空気を読む」ことに長けた(というより、普段からそれしかしていない)この国の演奏者たちは、「少ない音数で、小音量で‥」とすぐにいつでも使える「模範解答」をパブリック・ドメインとしてすぐに作成/共有してしまい、後はそれをだらだらと読み上げるだけになってしまう。これに対しAlvin Lucierの指示は「外界の音の状況」という目標を、アンサンブルに共通のものとして先に設定しながら、それにより逆にクリナメン的な偏向/散乱を生成させる。演奏者各自がそれぞれある部分に食いつき再現に取り組む時、それによって不足と過剰が明らかにされ、これに対する応答が各演奏者を突き動かし、動的平衡を保ちながらの移動/変遷を余儀なくするとともに、アンサンブルを不断に更新していく。演奏者たちは瞬間ごとの判断を曖昧に生理に委ね、怠惰な空気に身を沈めてしまうことなく、ぴりぴりとした覚醒の下、他の演奏者の意図を探るのではなくサウンドにだけ応ずるため、触覚的な次元に至るまで全身を耳にして歩み続ける。結果としてアンサンブルはエレクトロ・アコースティックなインプロヴィゼーションを行うことになる。だが、それにしても何と鮮やかに核心を射抜いた指示だろう。ここにはエレクトロ・アコースティックなインプロヴィゼーションとフィールドレコーディングを「聴く」ことの体験的同一性が、すでに1970年の時点で見事に言い当てられている。