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福島恵一

Author:福島恵一
プログレを振り出しにフリー・ミュージック、現代音楽、トラッド、古楽、民族音楽など辺境を探求。「アヴァン・ミュージック・ガイド」、「プログレのパースペクティヴ」、「200CDプログレッシヴ・ロック」、「捧げる-灰野敬二の世界」等に執筆。2010年3~6月に音盤レクチャー「耳の枠はずし」(5回)を開催。2014年11月から津田貴司、歸山幸輔とリスニング・イヴェント『松籟夜話』を開催中。

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ジャン・フォートリエ展@東京ステーションギャラリー  Jean Fautrier Exhibition@Tokyo Station Gallery
 新聞の紹介記事を見てはるばる東京駅まで。ジャン・フォートリエについては「アンフォルメルの先駆者」として以前から画集等で親しんで来たが、彼の作品と直接向かい合ったのは、2011年4月〜7月にブリヂストン美術館で開催された『アンフォルメルとは何か』展だった。「厚塗りに込められた実存の重苦しさ」という私の月並みな先入観を、吹き抜ける涼風のような清冽さが襲った。ジャン・デュビュッフェのこれは予想を上回る暑苦しさとともに、これはまたとない収穫となった。



 今回の展示は日本初の大規模な回顧展ということで期待して出かけた。丸の内北口改札を出てすぐギャラリーの入口があり、エレヴェーターで3階へ上がる。
 緑色をした蛙(そんな悪口がフランス語にあったような)みたいな管理人の肖像が出迎えてくれる。組まれた手指のどす黒さに人生の労苦、実存の重苦しさへと向かう眼差しを感じずにはいられない。続くエドゥアール夫妻それぞれの肖像画習作もまた、顔色が黒ずみ、消えることのない不機嫌さをたたえている。「娼家の裸婦」と題された鈍重な裸婦像の奥に覗く客の姿がフランシスコ・ベーコンを思わせる流動化を来していて驚かされる。
 静物画を満たしているのも暗い湿度であり、静物の並べられた食卓をひたひたと浸す台所のこもった匂いが漂ってくるようだ。思わず高橋由一を思い浮かべた。
 続く人物像にも初期セザンヌのような暴力性を秘めたやりきれなさが濃密にたちこめている。溢れる動物的生命力がそのまま噴き上がる野卑な表情やぶよぶよと美的規律からはみだしていく身体。それらが次第に輪郭をおぼろにして、空間に滲み出し始める。
 「横向きの頭部」、「マリエット」で一瞬、厚塗りへと向かう筆の動きを示しながら、画風は総体として別の道を進み、実存の重苦しさの沁み込んだ身体を手放そうとしない。それらの到達点と言うべき作品が、赤黒い塊がごろんと放り出された、どこかジェームズ・アンソールを思わせる(私はそこに民俗的な視線を投影しているのかもしれない)「羊の頭部」であり、暗い空間の中に肉の赤が静謐に浮かび上がる、これは明らかにフランシス・ベーコン的な「兎の皮」であるだろう。出品作品目録を見ると、これまで言及してきた作品が1922年から26年の作品であるのに対し、この2作品は27年。「1−レアリスムから厚塗りへ 1922-1938」と題された第1部の展示でも27年以降はデッサン系の作品と彫像だけなので、「到達点」との印象は当たっていよう。ここに示されている「静謐な肉の強度」は実に素晴らしい。フォートリエの新たな可能性を手に入れた気がした。



 「2−厚塗りから『人質』へ 1938-1945」に移っても、当初の静物画はまだ第1部の暗い重苦しさの中に埋もれている。「飾り皿の梨」のこすりつける筆致や「醸造用の林檎」における先の2作品を思わせる粘りのある赤が印象に残るが、それも束の間のことに過ぎない。
 その点で「人質」連作はやはり明瞭なブレイクスルーをもたらしている。マチエールの焼き締めたような固さと陶器の肌のような輝き。浮かび上がる白。広がる緑や青が透明な哀しみをたたえながら乾いた涼やかさを吹き込んでいる。ちらしに用いられている「人質の頭部」にしても、暗い眼窩に実存的虚無とやらを読み取るのは勝手だが、画面中央に広がる陶土にも似た白い輝きから黄色みを帯びて黄土色に至る希薄な流れと、そこに響く涼しげな薄い緑の広がりを、それらがかたちづくる乾いた硬質の表面の張り詰めた強度を、そうした文学的な物語に従属させてしまい、見ようとしないのはいかがなものか。



 その点で、会場で流されていた記録フィルム「怒り狂うもの フォートリエ」における美術評論家ジャン・ポーランの言説は、まさにそうした文学的解釈と言えるだろう。彼はコロー等の古典的フランス絵画の事前との予定調和を批判し、フォートリエを持ち上げる。その美しき自然に飽き足らない実存的沸騰を。ポーランにとってフォートリエの作品は、その不気味さ、おどろおどろしさによって、現代社会のシンボルであるに過ぎないのだろう。彼はほとんど「現代社会の高まるストレスがアンフォルメルを生んだ」と言っているに過ぎない。何と貧しいジャーナリズム的言説か。彼はフォートリエに「抽象とは熟慮に基づく分析であって‥」と反論されて、慌てて場を取り繕い、フォートリエの口を塞ごうとする。「いや、私の言いたいことはまさにそれだ」と。現代の幇間と言うべき(それにしてはあまりにも尊大だが)道化師的評論家像。
 そうしたポーランのありきたりな言説とフランソワ・ベイルのいかにもな音楽を聞かされるにもかかわらず、このフィルムはフォートリエの作品制作の様子を見られる点で極めて貴重だ。「描くのに時間はかけない」と言っている通り、彼は筆で線を引き、パテを盛りつけ、顔料の粉末を振りかけてパレット・ナイフでこね上げ、刷毛目を付けて、あっという間に作品を仕上げてしまう。まるでピッツァでもつくっているかのようだ。

 そして最終章として「3−第二次大戦後 1945-1964」が来る。最初に並ぶ静物画群は「人質」連作の成果を、技法として静物画にそのまま投影したものと言えるだろうか。物語が消去された分、涼やかな風通しの良さが増しているが、集中力、凝縮力、強度という点では劣る。やがて彼は具象を離れ、抽象へと離陸する。1955年頃からの「ふとっちょ」、「こちょこちょ」といった作品群は、薄い青が涼やかなコンポジション。やはりマチエールの固い肌触りと硬質な輝きが魅力的だ。「オール・アローン」の茶色の軽やかな用い方に見られるように、軽みが出て来たのもこの時期の特徴と言えるだろう。
 続く「黒の青」、「雨」、「干渉」、「草」、「植物」といった大判の晩年作品は、テンプレート的な構成がいささか表面化してくるものの、それでも流行としての「アンフォルメル」の中心を成したアルトゥングやスーラージュに比べればよっぽどいい。彼らがアンフォルメルと言いながら、描く身体の動きや画面上に仕切られたグリッドといったテンプレートに任せっきりなのに対し、フォートリエには素早い動きと軽やかなリズムがあり、線の疾走や表面の起伏といった運動を一斉に解き放ち、その一瞬に鮮やかに凝固せしめたような生成感覚が、硬質な表面の中に封じ込められながら、どきどきと息づいている。



 最後の扉を出たところにコレクション展示として、堂本尚郎の収蔵作品が2つ掛けられている。「アンフォルメルつながり」というつもりなのだろうが、実際に展示されているのはパターンの繰り返しを基底としたグラフィックな造形作品であって、かつてのアンフォルメル期の作品ではない。場違いとの感じを拭えない。堂本のためにも、フォートリエのためにも、不幸な趣向となっているのが何とも残念だ。

 最後に会場について。ワンフロアの広さが確保できず、展示室間を階段で移動しなければならないのは明らかにマイナス点だが、その階段室がなかなか素晴らしい。東京駅創建当初の煉瓦壁の肌合いがまず素晴らしく、そこから連想される古風なモダニズム洋館建築をベースとした八角形の空間構造、ステンドグラスとシャンデリアの瀟洒さも好ましい。

ジャン・フォートリエ展
東京ステーションギャラリー
2014年5月24日(土)〜7月13日(日)
月曜休館 10:00〜18:00(金曜は20:00まで)
http://www.ejrcf.or.jp/gallery/exhibition/201405_JEAN_FAUTRIER.html



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アート | 23:00:40 | トラックバック(0) | コメント(0)
金子智太郎を聴きに行きませんか?  Shall We Go to Listen to Tomotaro Kaneko ?
 虹釜太郎と共に主催する「アンビエント・リサーチ」で、微温湯的リラクゼーション音楽ではないアンビエント・ミュージックの可能性に私の眼を開かせ、さらには城一裕と共に主宰する「生成音楽ワークショップ」によりフランシスコ・ロペスを招聘し、フィールドレコーディングの豊穣な世界に私を誘って(突き落として?)くれた耳の大恩人、金子智太郎が再び動きだし、次の2つのイヴェントに講師として姿を現す。
 彼とは小野寺唯企画による「S.O.S」において共同でレクチャーを行ったが、その耳の視線の確かさとアカデミズムの枠にとらわれない自在な越境ぶりには、いつも感心してしまう。多忙ゆえ、なかなか露出機会がないので、この千載一遇のチャンスにぜひ!


7月8日(火)歌舞伎町BE-WAVE 20:00-24:00
季刊フィールドレコーディングオンリーイベント “Field of Dining Sounds vol.5”
https://www.facebook.com/takuya1003/posts/781812625205058
7/8(火)は季刊フィールドレコーディングオンリーイベント
“Field of Dining Sounds vol.5”@歌舞伎町BE-WAVE
美味い炊きたてご飯が食べ放題で、ワンコインにて各種メシが進む飯の友もたくさん! 
フィーレコオンリーDJ:takuya,amephone,kuknacke
講義:金子智太郎
飯の友提供:タナカアスカ,BEWAVE
20:00〜24:00 charge:1000y
今回はヤバめなブランド米を用意しようと企んでます…。
field of dining sound


7月9日(水)アーツ千代田 3331 18:30-20:30
中島吏英 “Fall”
http://www.3331.jp/schedule/002498.html
日程:2014年07月09日(水)
時間:18:30-20:30
料金:無料
会場:B105
中島吏英「Fall」
<音、言葉、物がそれぞれの時間をかけながらある〈かたち〉となってゆくプロセス >のために、「Fall」(落ちる)はある。
あるのが、どの時点とどの空間を指すのか。
プロセスが、どの瞬間とどの変容を指すのか。
いずれも、いまだ不確定で、〈かたち〉は不定。
今回、中島吏英は、その不確定で不定なものを、彼らとともに行おうとしている。

プログラム
中島吏英が示す「Fall」。インスタレーション「Flowers and Fall」で提示されるのは写真とオブジェクト、David Toopの言葉。そこからパフォーマンス「Fall」はゆっくりと始まり、金子智太郎との対話「Objectivity of Sound Objects」へと繋がっていく。
6:30 「Flowers and Fall」インスタレーション by 中島吏英 (photos, objects)、 David Toop (words)
7:00 「Fall」パフォーマンス by 中島吏英
7:30 「Objectivity of Sound Objects」トーク by 中島吏英、金子智太郎

中島吏英/Rie Nakajima 
ロンドン在住。東京芸大で芸術学を学んだ後2001年に渡英、チェルシー美術大学、スレード芸術大 学で彫刻を学ぶ。自作の道具と器などの既存の物質を用いて音を空間に配置していくインスタレーション、パフォーマンスを中心にヨーロッパを中心に各地で作 品を発表。2013年からは音楽家、文筆家のDavid Toop氏とSculptureシリーズを共同で手がける。ほかDavid Cunningham、miki yuiとコラボレーションをする事が多い。2014年にはイギリスでArts Foundation AwardをExperimental Musicの部門で受賞。

www.rienakajima.com

www.sculpturetoopnakajima.com



ライヴ/イヴェント告知 | 18:55:44 | トラックバック(0) | コメント(0)
『解読 レッド・ツェッペリン』出ました!  "Decipher Led Zeppelin" Is Out !
 6月26日に河出書房新社から刊行された『解読 レッド・ツェッペリン』に執筆しました。Jimmy Pageによるリマスター版リリースに合わせた企画ということになりますが、そこは何しろ河添剛/ユリシーズ編ということで、『文藝別冊 デヴィッド・ボウイ』同様、決して一筋縄では行かず、これまでの「通説」に果敢に挑む仕上がりとなっています。

 目次は次の通り。分量的に多いのは彼らの残した全作品に加え、関連作品のレヴューですが、僅かな作品しか残さなかった彼らのために1作ごとにかなりのページを割くとともに、関連作品についてもメンバーの参加作にとどまらず、影響/照応関係を「捏造/妄想的」になることも恐れず探っており、その結果、何と300作品がリストアップされる大規模なものとなっています。
目次_convert_20140629181345


 おそらく私は、今回参加の執筆者の中で、「ZEP度」最低ではないかと。以前に書いたように音楽を本格的に聴き始めたのは1979年で彼らはすでに亡かったし、避けて通ることのできない「古典」として勉強はしたけど、結局プログレの方に行ってしまって、彼らとはすれ違ったように思います。
 全作品ディスク・レヴューを担当した灰野敬二本『捧げる 灰野敬二の世界』に収録されていた灰野とジム・オルークの対談でレッド・ツェッペリンのことが採りあげられていなかったら、今回のリマスター再発のことも別世界のことのように感じていたかも。そこで灰野は『Ⅰ』の切断と実験に溢れた革新性にこだわり、オルークは『聖なる館』から『ブレゼンス』に向けて高められていくサウンドの構築性について熱く語っています。この二人の交差する視線は、その後、改めてZEPの全作品を聴き返し、参考書目を当たる中で、射程距離の長いパースペクティヴを与えてくれました。
 そうしたパースペクティヴの中で、一際大きな屈曲点として浮かび上がってきたのが、ZEPファンにとっては異論の多い問題作『Ⅲ』で、幸運にも(あるいは他に引き受ける書き手がいなかったのか)本作のレヴューを担当できたことは、私にとって望外の喜びでした。それゆえ私の執筆した『Ⅲ』のレヴューは、収録された各曲について語るというより、『Ⅲ』に特徴的に露呈している要素に着目しながら、『Ⅰ』から『プレゼンス』に至る彼らの変遷をとらえる趣向のものとなっています。彼らの音楽/サウンドをかたちづくっている要素/諸力の移り変わりを、それらが刻印された地層が地表近くに露出する『Ⅲ』の地点からボーリングを繰り返し、痕跡を検証し、モデルを構築するというような。
 そのカギとなる概念として持ち出したのが、「アコースティック」です。ZEPにおける「アコースティック」とは何かを、そうした「アコースティック」なものが最も露わに姿を現している本作のうちに、本作で言及されているRoy Harper、あるいはDavy Graham, The Petangle, Steeleye Span等を参照項として探ることを通じて、ZEPをかたちづくる隠された底流を明らかにする試み。
 なので、『Ⅲ』のレヴューは、本書後半に掲載されている関連作300枚のうちのアコースティック・ミュージック群とリンクさせながらお読みいただければと思います。

 ここで少々内幕を明かせば、関連作品のリストアップは当初144枚で、『Friction The Book』、雑誌『ユリシーズ』、『捧げる 灰野敬二の世界』、『文藝別冊 デヴィッド・ボウイの世界』と、このところいっしょにお仕事をさせていただいている編集担当の加藤彰さんから、「ZEPへのジャズからの影響等を考慮して追加すべき作品をリストアップしてほしい」とご要望をいただきました。そこで提出したのが次の21枚のリストです。


Led Zeppelinリストへの追加提案

 まずは「ジャズからの影響」との視点で。
 John Bonhamが影響を受けたと語っている(指摘されている)ジャズ系ドラマー4名Gene Krupa, Buddy Rich, Joe Morello, Max Roachそれぞれの参加作品。彼がドラムは独学であるにもかかわらず、父親のレコード・コレクション等を通じて、ジャズの先達たちからテクニックを学んでいたのは確かなことです。他にはElvin Jones等からの影響も指摘されていますが、きりがないので。
1 Benny Goodman / Carnegie Hall 1938 (1950)
2 Buddy Rich / Rich in London (1972)
3 Dave Brubeck / Time Out (1959)
4 Max Roach / Drums Unlimited (1966)

 続いてはJohn Paul Jonesへの影響が語られているCharles Mingusの作品から。まあ直接的な影響うんぬんは別として、愛聴していたことは確かでしょう、David Bowieの時に挙げた作品とダブらないようにし、またJohn Paul Jonesのオーケストレーション志向を考慮して、比較的大人数のセッション作を選んでみました。
5 Charles Mingus / Mingus at Carnegie Hall (1974)

 Jimmy Pageは難しいですが、Django Reinhardtへの賛辞があるのでとりあえずこれを。映画作品のサウンドトラックというところがミソかと。Robert Plantは思いつきませんでした。女性ヴォーカルに感覚的に共通する作品がありそうな気もしますが。
6 Django Reinhardt / Lacombe Lucien (1973)

 他に同時代的なジャズの潮流として、やはりエレクトリック期のMiles Davisがあるかなと。James BrownやSlyへの回答という点でも、立ち位置に彼らとの共通性があるように思います。『In A Silent Way』はサウンドがあまりにも違うので外し、それでは『Bitches Brew』かとも思ったのですが、聴いてみると滑らかすぎるところがあって、これはやはり『Get Up With It』の黒々とそそり立つ音響のモノリスに、一発はり倒されてもらうしかないかと。他にRoland Kirk等も考えたのですが、改めて聴いてみるとちょっと違うかと。
7 Miles Davis / Get Up With It (1974)

 先ほどElvin Jonesはちょっと‥と書きましたが、というのも、Gene Krupa的なものはElvin Jonesに始まる現代ジャズ・ドラムの主流に継承されていないように思われるからです。むしろ、そうしたものを受け継いだドラマーとして、オランダのフリー・ジャズ奏者Han Benninkを挙げたいところです。
8 The Ex & Guests / Instant (1995)

 次はフォーク、トラッド系。Pentangleの第1作が最重要参照項となるであろうことは、以前にメールで書かせていただいた通りです。それに加えてLed ZeppelinファンのBert Jansch偏重を是正する視点から、John Renbournを採りあげたいと思います。「Black Mountain Side」冒頭のハープのような速いアルペジオにさりげなく添えられたタブラは、まさにJohn Renbourn的なものにほかなりません。そうした要素が明らかなソロ作品9と到達点である異国情緒溢れる桃源郷10は常識的な選盤ですが、最近知った11はThe Pentangle前夜の黒人女性歌手との共演で、PageとPlantの絡みを彷彿とさせるところがあります。
9 John Renbourn / The Lady and the Unicorn (1970)
10 John Renbourn Group / A Maid in Bedlam (1977)
11 Doris Henderson with John Renbourn / Watch the Stars (1967)

 フォーク系からもう1点Steeleye Spanを。彼らの初期の隙間のない重たい構築は、The Pentangleとは別の意味でとてもLed Zeppelin的であると思います。リストを確認したら、すでに『Ten Man Mop..』が挙げられていましたが、『Please to See..』の方が重くて、Led Zeppelinとの関連で挙げるにはよいような気がします。
12 Steeleye Span / Please to See the King (1971)

 プログレ系からも少々。英国系プログレはLed Zeppelinと距離感が近いせいか、挙げたくなるものがないですね。これは逆に英国系プログレから入った私が、Led Zeppelinを素通りした理由かもしれません。なのであくまでLed Zeppelinを照らし出すための補助線ということで。Shadowfaxはアメリカのバンドですが、ここに掲げた作品は彼らの第1作で、その荒々しい稠密さがLed Zeppelin的かと、しかも何と後にこの作品がリミックス及び一部再録音されて、Windam Hillからリリースされるのですが、そちらはハードさが消去されて完璧にニューエイジ風になっているという。もう1枚のKensoは日本のバンドで、リーダーでギター/作曲の清水は大のツェッペリン・ファンです。彼のギターはソロでもニュアンスに頼らない、極めて構築的なもので、そこが(ライヴではなく)レコーディング時のJimmy Page的かなと。
13 Shadowfax / Watercourse Way (1976)
14 Kenso / Sparta (1993)

 エキゾティシズムの導入というか、インドやアラブ、あるいはアフリカ音楽の活用という点では、あまりこれはというものが思い当たりません。これはむしろ先のメールに記したように、Led Zeppelinにとって、そうした要素がどれほど必要不可欠なものだったのか、どうもピンと来ないという理由によるところが大きいです。「Kashmir」を聴いてもさほど血が騒がないとゆーか。リストを確認したら、すでにDon Cherry挙がっていましたが、民族音楽全開のこちらの方がと。
15 Ornette Coleman / Dancing in Your Head (1977)
16 Don Cherry / Organic Music Society (1972)
17 Barney Wilen / Moshi (1972)
18 Brigitte Fontaine / Comme A La Radio (1969)
19 The Sun Ra Archestra / Meets Salah Ragab in Egypt (1983)

 Led Zeppelinのアコースティックな側面について、ECMから次の作品を。ECM独特のサウンド加工により少々薄まっていますが、重く揺るぎない硬質なサウンドが石積みのように構築されていく様は圧巻。Craig Taborn自身「ツェッペリンは古典」とインタヴューで語っています。
20 Craig Taborn Trio / Chants (2013)

 ラストは私らしく(笑)、Derek Baileyで。これピアノレス、ギター入りのクインテットによる演奏で、録音はロンドンのオリンピック・スタジオ。エンジニアは何とEddie Kramerが務めています。
21 Spontaneous Music Ensemble / Karyobin (1968)


 結局、追加提案はそのまま採用され、他にも同様の提案があったのでしょう、リストは最終的に当初の倍以上の300枚に膨れあがりました。関連策レヴューでは、追加提案作品を中心に、30作品ほど担当しています(追加提案した中で執筆を担当できなかった作品もあります)。
 関連作品レヴューの中には、幾つか「流した」感じの原稿も見受けられ、それがアコースティック系の重要作品だったりすると、「だったら書かせてくれればいいのに」と思ったりしますが、まあそれはそれそういうことで。
 執筆者としてはRecord Shop "Reconquista"店主の清水久靖さんがいいですね。お店でも民族音楽系の現地録音等をよく採りあげていますが、黄金期ブリティッシュ・ロックという閉ざされた世界の中に引きこもるのではなく、そうした開かれた景色を日常的にとらえている瞳からの眺めという清々しさを感じます。逆に言うと、1968年、スウィンギング・ロンドン、ポスト・ビートルズ、シド・バレットのピンク・フロイド‥‥という視点/文脈から語られるレッド・ツェッペリンに、あまり可能性を感じないということでもあるのですが。
 ともあれ、ぜひ書店で手に取ってみてください。


ユリシーズ編『解読 レッド・ツェッペリン』河出書房新社 2160円(本体2000円)
表紙


執筆活動 | 18:18:42 | トラックバック(0) | コメント(0)
ディスク・レヴュー 2014年1〜5月 その2  Disk Review Jan. - May 2014 vol.2
 ディスク・レヴューの第2回は、エレクトロ・アコースティックなインプロヴィゼーションからの7枚。「エレクトロ・アコースティック」と言いながら、必ずしもそうした定義の当てはまる演奏や作品が選ばれている訳ではない。一方に器楽的なインプロヴィゼーションを置き、もう一方にフィールドレコーディングやアンビエント、ドローン等を置いた時に、それらの中間領域、あるいはそれらに対して第三極を構成するような領域を指し示すものとして、所謂「サウンド・インプロヴィゼーション」とか、「音響派的即興」の代わりに用いた語なのだが、今やインプロヴィゼーションに軸足を置いていないWandelweiser楽派やAlvin Lucierの作品演奏、さらには「非即興」を標榜するstilllifeの演奏もここで取り扱っている。「器楽的」に比べ、楽器や演奏者の固有の輪郭がより「響き」へと溶解し、「音を出す」以上に「音を聴く」ことへと重心を移しながら、かつフィールドレコーディング作品にはない「演奏性」を、身体の介入の度合いにおいて、あるいはポスト・プロダクションを含む構成面でいまだ濃密に残しているものとでも説明できようか。そこでインプロヴィゼーションとは、触知的なものを含め、「聴くこと」を鋭敏に反映する身体のあり方/身体作法にほかならない。「現代音楽の作曲作品」といった作り手側からの分類ではなく、聴き手側からの聴取に基づく分類の提案として受け止めていただければありがたい。


Anne Guthrie / Codiaeum Variegatum
Students of Decay SOD103
Anne Guthrie(french horn,electronics),Dan Bindschedler(violoncello),Joseph Digerness(contrabass),Billy Gomberg(mixing)
試聴:http://studentsofdecay.com/post/59038637275/anne-guthrie-codiaeum-variegatum
 ふくよかな低弦の重層に、空間をゆったりと這うフレンチ・ホルンがさらに重ね合わされる。フレンチ・ホルンの音色は風にたなびき、陽炎となって揺らぎ、次第に減速しながらゆっくりと輪郭を崩壊させ、空間に溶け広がっていく。いつの間にか、小鳥がさえずり、水音が辺りを浸している。楽器の音が止むと、犬の吠え声が彼方から響き、遠い山並みが姿を現す。続いて環境音の広がりにゆったりとした弦が重ねられる。だが、弦の響きはすぐにテープ変調により変形され、その場にどろりと横たわる。フレンチ・ホルンの引き伸ばされた一音が均衡を失い、力なく解けていくが、それが電子変調によるものなのかどうかわからない。至るところ不整合な綻びが生じ、細部は溶けたように曖昧で、輪郭も奥行きもはっきりしない。揺れる音色の不確かな手触りとぐったりとした重さ。視界の曇り/歪みと色彩の混濁。これがもし電子音のみのコンポジションだったなら、こうした割り切れなさは生じないだろう。特殊奏法やアンサンブルの干渉により音自体を不安定に変化させつつ、さらにマイキングを工夫して空間/距離を導入し、それぞれに固有のパースペクティヴをはらんだアコースティックな楽器/環境音の混合物に、少しばかりのエレクトロニクス変調を施すことによって、かくも魅力的な「耳の迷宮」が地上に降り立つ。蟻に食い荒らされ、筋だけになった葉が重なりあうオールオーヴァーなジャケットの光景は、ここに収められた響きの特質を象徴している。彼女の作品では以前に『Perhaps A Favorable Organic Moment』(Copy for Your Records)を採りあげているが、音空間の不可思議な豊かさは比較にならないほど深まっている。


Partial / LL
another timbre at70
Noe Cuellar,Joseph Clayton Mills
試聴:https://www.youtube.com/watch?v=9VGUT14HtHg
 シカゴのヒスパニック地区のリサイクル・ショップで行われた倉庫の在庫(おそらくはガラクタを含む)を素材としたインスタレーション制作をきっかけとして、ライヴの企画が持たれ、さらにそれらを音素材として、ポスト・プロダクションによる入念な構築が為された本作品が産み落とされた。いかにもな楽器音や電子音は登場しない。擦る音、機械仕掛けの作動音、床に落とした金属パイプ、がさがさと騒々しくかさばった物音、どすっという落下音、弾かれたピン、重苦しく湿った沈黙、床下から響く排水管の共鳴、風に吹かれたガラス窓の震え等々の多彩な音素材がループ処理等を含め緊密に組み立てられ、ときには古めかしいミュージック・マシーンと聴き紛う音を立てる。ここで注目したいのは、おそらくは豊かな記憶をたたえ、また興味深い物語を秘めた素材を扱いながら、そうした意味的な次元を一度剥ぎ取った上で、音色配合的に組み合わされている点だ。空間をコラージュの台紙に見立てて遠近法的な構図の中に数多くの素材を張り巡らすのではなく、一つひとつの音素材がはらむパースペクティヴを尊重し、多くの素材を重ねることなく、むしろ直列につないでいく。これにより全体は場面の連続として構成されるが、先に見たようにそこから物語性(あるいは演劇性や象徴性)は注意深く排除されている。Aminist Orchestraがコンポジションを演奏したり、あるいはstilllifeのライヴ・パフォーマンスをズタズタにプロセッシングすれば、似たような感触が得られるかもしれない(まあ無理だろうが)。この危うい連なりを築き支えているNoe CuellarとJoseph Clayton Millsの研ぎ澄まされた耳の強度には驚かされる(なお前者はCoppiceの、後者はHapticのメンバー)。最後に収められたオルゴールの音色は、これらの作業が基づいている「作動原理」を種明かししているように感じられる。秀作揃いのanother timbre(最近やや低調だったが)でも出色の出来と言えよう。ここにはレーベルの「原点/原典」と言うべきHugh Daviesを思わせる感触がある。


Dan Senn / The Catacombs of Yucatan
Periplum P0030
Dan Senn(all the instrumental sounds)
試聴:http://www.art-into-life.com/product/4586
   https://www.youtube.com/watch?v=hf5zOKfd9IU
 前掲作からの流れでこれを。1998年作品のデッドストックを最近入手。自作の音響彫刻によるサウンド・コンポジションなのだが、Harry BertoiaやBaschet兄弟のそれと異なり「彫刻」が動いて音を発生するため、響きは多様で、かつ時間経過により変化する。その点ではJoe JonesやPierre Bastianに近いのだが、それらがパット・メセニーのオーケストリオンにも似て既成楽器の音色に近いのに対し、Dan Sennの制作するものは、弦の震えにしろ、金属の軋みにしろ、倍音が豊かで不定形の特異な音色を持つ。私の知る限り最も近いのはMax Eastleyによるサウンド・インスタレーションだが、機械仕掛けによる非人間的で不均衡なリズムはDan Senn独自のものだ。ちなみに「非人間的」とは所謂「マシーン・リズム」を指すものではない。「彫刻」の写真を見ていただければわかるように、至るところ「遊び」があり、それが不均質さを通じて、予想し難い豊かな結果を生み出している)。そこには世界に向けて開かれ澄まされた耳の眼差しの比類ない強さが感じられる。音響彫刻やサウンド・アートよりも、むしろ前掲のPartialやCoppiceからstilllifeへと至る流れの先駆としてとらえたい。彼のウェブ・ページ(※)もぜひ参照していただきたい。
※http://www.dan-senn.com/index.html

本作で「演奏」されているDan Sennによるキネティックな音響彫刻の数々


Shinobu Nemoto / Flowers
Analogpath 009
Shinobu Nemoto(acoustic guitar,feedback,reel to reel)
試聴:https://soundcloud.com/experimedia/shinobu-nemoto-flowers-album
 初めて聴くレーベル。まとめて取り寄せた中から選り抜きを紹介したい。レーベルとしてはアンビエント系が中心なのだが、本作品は多重録音を用いたアコースティック・ギターのソロ。繊細な弦の震えが長く尾を引いて、やがて視界すべてを覆うまでに深みを増す。ゆったりとしたたゆたいの中に、フィードバックによるうねりが生まれ、砕け散ることなく波頭を高く持ち上げる。表面をいささかも崩すことのない、ねっとりとした移ろいは、深海の底流を思わせる。聴き手の身体を重く浸し、否応なく運び去るくらい水の流れ。ピッキングが重ねられ、フィードバックのレイヤーが敷き重ねられていっても、多層による構造の感覚は薄い。底の知れない奥行き深いドローンの内部でかたちのない力がうごめいている。エレクトリックではなく、アコースティックのギターを音源に用いることで、ピッキングから立ち上がる一瞬の響きをかたちづくる振動や共鳴、それらの相互干渉等の様相/推移が精密に描き出されており、その宝石細工にも似た繊細極まりない豊穣さが、続くフィードバックによるドローンを、やはり繊細に彫啄された透明度の高いものとしている(エレクトリック・ギターが音源ならば、もっと解像度の低いのっぺりしたものとなっただろう)。演奏者の深く澄まされた耳の強度を感じさせる。それゆえ、時に耳を圧する高まりを見せながら、決してノイジーではない。せせらぎに身を浸す快楽。2012年作品と新譜枠で紹介するにはやや時間が経過しているが、初お目見えレーベルということで採りあげた。


L'Eix / Empra Mots
Audiotalaia atp003
Ferran Fages(acoustic guitar),Oriol Rosell(electronics),Julia Carboneras(interactive devices)
試聴:https://soundcloud.com/audiotalaia/leix-fages-rosell-carboneras
 アコースティック・ギターのきらめきが拡大され、弦の震えが心もとなく空間を渡るうち減衰し、最初均質な広がりを描いていた響きは次第によじれわだかまり、不定形で穴だらけの何者かへと変貌を遂げていく。がさがさとした希薄な、だが摩擦の大きいエレクトロニクスが干渉の機会をうかがう。ぶくぶくとした低域の泡立ち、高域で明滅するスクラッチやスプレー・ノイズ。こうした電子音の微細さを反映して、ギターの音程のミクロな揺らぎ、指板の軋み、立ち上がりの歪み、ボディの部分共振、残響の不均衡等が拡大強調される。両者の相互作用は次第にそれぞれの素材の旨味と香りを引き出し、マリアージュの魔法を通じて、サウンドのスープを複雑で滋養溢れるものとしていく。そうして濃密さを高めながら、音空間は決してどろりとした不透明さをたたえることなく、どこまでも見通せる透明度と隙間の風通しのよさを保っている。エレクトロ・アコースティックなインプロヴィゼーションの領域で、Ferran Fagesはもはやディスク・レヴューの常連だが、本作品も彼と共演者の開かれた耳を感じさせる実に素晴らしいものとなっている。


Banks Bailey / A listening of Stones
Fungal Records #51
Banks Bailey(percussion,fieldrecording,electronics)
試聴:http://www.art-into-life.com/product/4561
 霧の立ちこめた深い森の響きと、仏具を思わせる残響の長い打楽器の演奏が重ね合わされる。音色と響きを確かめるような間を置いた打撃。彼方で響く切れ切れのガムラン。虫の声。暗がりで静かに明滅する各種打楽器。辺りに立ちこめ視界を奪う電子音。夢の中から響いてくるせせらぎと潮騒、遠くの歓声。風が運んでくるマリンバの共鳴と鳥の声。輪郭が滲んでもはや出所も形状も定かではない音響の集積。ここで世界はすべて、テーブルに置き忘れられた南国の果実を思わせる甘ったるい腐臭を放っている(それは沈黙にすら沁み込んでいる)。ゆらゆらと陽炎のごとく揺れる、うとうとと夢うつつの残響の楽園/廃墟。こんなものばかり聴いていると本当に廃人になってしまいそうだ。だがそれでもいいと思わせる堪え難い魅惑がここにあるのも確かだ。ケースには植物の葉が封入されている。在りし日の旅の記憶の暗示?(日記帳の間から滑り落ちる1枚の押し葉)。限定70部。


stilllife / Color of Winter
No Label
Takashi Tsuda,Hiroki Sasajima
試聴:
 水の滴り/流れの心地よい滑らかさの後、しばらく間を置いて「かわらけ」をかき混ぜるざらざらと乾いた響きが横切っていく。金属の思い響きが混じるから、石の上で金属を引き回しているのかもしれない。その角ばった触感が耳にヤスリがけしていく。と同時に手元の明るみを覗き込む眼差しとその明るみによってぼうっと照らし出される空間の広がりを感じずにはいられない。カラスが鳴き、小鳥がさえずって、朝の張り詰めた冷気が訪れ、カンテレの弦の震えが澄み切った空気に放たれ、水の湧き出る清冽な響きとともに高く高く昇っていく。ここはライヴよりもはるかに透明な突き抜けた解像度に、思わず耳がそば立つところだ。手前の水音の彼方に広大な空間が開ける視角に、笹島のフィールドレコーディング作品に通じる遠い眼差しを感じる。一方、そこに佇むぽこぽこと丸み/温かみを感じさせる水音や砂利を踏む足音(それは次曲における雪を踏む足音の彷徨へと引き継がれて、旅/移動/漂泊のイマジネーションを鋭く喚起する)は、至るところに記憶の痕跡を見出し、ふと物語を浮かばせる津田の澄まされた耳を思わせる。そうした「自然な調和」を横切っていく交通ノイズを排除することなくそのまましなやかに受け入れ、それでもなおびくともしない竹のような勁さは、いかにも彼ららしい。本作はサウンド・インスタレーションを基本素材とした前作『Indigo』よりはライヴな演奏性へと傾きながら、現在、彼らが展開しているライヴ・パフォーマンスとは、また全く異なる位相を示している。それはCDというパッケージされた録音作品に対する彼らのこだわりのゆえだろう。彼らはいま、いよいよフルレングスCDのマスタリングに取りかかっている。そこには先日の野外ライヴの体験は反映するのだろうか。それがどのようなものとなるか楽しみだ。

ディスク・レヴュー | 21:58:43 | トラックバック(0) | コメント(0)
魔法の庭で狐に化かされる話 − 「スティルライフ」サウンド・パフォーマンス@こもれびの庭 再び  Tales of Being Bewitched by Fox in the Enchanted Garden − "stilllife" Sound Performance @ Komorebi Garden Again
 前回ライヴ・レヴューを掲載した「『スティルライフ』サウンド・パフォーマンス@こもれびの庭」について、演奏者である津田貴司からメールが届いた。今回はそのことについて書いてみたい。

 津田は次のように書いている。

 「演奏者側」という意識すら溶けてしまい、実のところ福島さんに書いていただいたことと私自身の聴覚体験は、ほぼ同じだったといっていいと思います。もちろん、多層的な音のどこに焦点が合っているか、どのアングルで眺めたか、という違いはあるのですが。
私自身も、どう振り返っていいのか、それこそ狐に化かされたような気分でもあります。
 帰りに笹島氏と「あの場にいた全員が同じものを聴いていたような感覚がある」と話したのですが、それも違うような気がしていて、音が多層的であったのと同じように聴覚体験も微妙な差異を含んで層を成していて、しかもそれは互いに重なり互いを含み合っている、というようなイメージでしょうか。

 これは実に興味深い意見だ。彼が、私と彼自身の「聴覚体験がほぼ同じだった」と言う時、それは私のリポートが正確だとか、見方に賛同すると主張しているのではなくて、「あの場にいた全員が同じものを聴いていたような感覚がある」ことの傍証として言及していることに注意しよう。それはライヴの場でよく言われる「聴き手の共同性」とか「場の一体感」とは異なる。そんなものは暗がりの中に同じ向きで並べられ、強い光と轟音を浴びせられ、ヒステリックな興奮や酸欠の果てに生じた思考停止の産物に過ぎない。
 あの場で私たちは、最初のうち演奏者を至近距離で取り囲み、次いで彼らが外へ出た後は、中空の空間でゆるく向かい合うこととなった。演奏の始まる前から、私たちの視線は時に交差し、互いの顔も見えていた。そこには年齢も性別も風体も異なる11人の聴衆と2人の演奏者がいた。

 以前に私は、平河町ロゴバで行われた笹久保伸のライヴをレヴューした際に、次のように書いている。

 「平河町ミュージックス」の会場である輸入家具店ロゴバのショールームは、吹き抜け同様の高い天井を持つ、開放感にあふれた居心地のよいスペースである。そして演奏中も客電は落とされない。スポットライトやフットライトもない。演奏者と聴衆は同じ照明による同じ明るさ、同じ高さの床の上で共に同じ空気と温度を呼吸し、同じ時間を過ごすことになる。穴倉のようなライヴハウスの暗闇に身を忍び込ませるのとは、明らかに異なる感覚がそこにはある。言うなれば、ライヴハウスの暗闇(それはステージのまぶしさからの切断/隔離と対面型の同一方向を向いた客席により構成されている)が一種の共犯幻想(ここにいる皆はいま私と同じ夢想を対象に投影している)を生むのに対し、柔らかな明るさに満たされ、かげのないロゴバがもたらすのは「白昼感覚」とでも呼ぶべきものである。

 いよいよ長く延びた日のせいで、あの日、すでに夕刻とは言え、こもれびの庭はまだ充分に明るかった。顔の判別の着かなくなるような黄昏(=誰そ彼)時はまだ訪れておらず、風の運んでくる葉擦れは、常にこもれびの揺らぎとともにあった。そこにはロゴバ同様の「白昼感覚」があったと言えよう。

 にもかかわらず、津田は「あの場にいた全員が同じものを聴いていたような感覚がある」と書いている。これはどういうことだろうか。
 実を言うと、私にも同じ感覚があった。他の聴衆とだけでなく、演奏者とも聴取体験を同じくしている感覚が。いや、これは正確ではない。経験のある方もいることだろうが、即興演奏の聴取においては、演奏者の耳に憑依するような「同化体験」はしばしば起こることがある。むしろ、こう言うべきかもしれない。演奏者とだけでなく、座る場所も違えば向きも異なる、性別年齢はもとより、おそらくは即興演奏の聴取歴もまったく違う他の聴衆たちと「同じものを聴いていて、同じ音風景を眼差している」感覚が確かにあったと。そのことを私は前回レヴューの終わりに、こう忍ばせている。

 彼らは(中略)音を出すことよりも音を聴くことをより重点化して「演奏」をとらえている。それは聴衆の聴き方をも触発し、変容を余儀なくさせる。先に述べた私の聴取は、そうしたプロセスのひとつの結果に過ぎない。あの日、あそこにいた人々の13分の1に。

 ここで13人とは、先に掲げた11人と2人の合計にほかならない。

 私の感じた「同じものを聴いている」感覚は、むしろ「遍在的聴取」とでも言うべきものだった。自分がそこにもあそこにもいる感覚。別の参加者や演奏者の眼や耳を通して演奏を、それとともに生成してくる世界を体験しているというか。
 通常なら「多視点的」と言うところだろう。しかし「多視点」とは調停されない個別性の集合であり、むしろ互いには相容れないAとBが共存併置されるという意味合いが強い。それゆえ「多視点」のもたらす眺めは、差異や切断が強調されたコラージュ/モンタージュ的なものとならざるを得ない。しかし、あの時はそうではなかった。そうはならずに一続きにつながっている感覚がそこにはあった。
 これは後知恵に過ぎないが、強いて言うならば歩き回る感じだろうか。遊歩により視点は連続的に移り変わる。それは決してデヴィッド・ホックニーが制作する龍安寺石庭のフォト・コラージュのような不連続な視点/瞬間をつなぎ合わせたものとはならない。それどころか、私たちには正面しか眼に見えないものの奥行きや裏側がすぐに浮かぶ。もともとそうした感覚装置がインストールされているのだ。客席前方の舞台に、同じ向きに並んだ観客の耳目を集中させるヴァーグナー的上演装置は、そうした感覚の抑圧の上に成り立っている。通常のコンサート会場やライヴハウスはその末裔にほかならない。
 あるいは私たちは、たとえば「恥ずかしい」と感じた時に、恥ずかしい行為をしてしまった自分を眺める周囲の人たちの眼差しを、瞬時に自らのものとする。と言うより、そうした周囲からの視線に自らの眼差しを奪い取られ、身体は徹底的に客体化され、主観は内部に抑圧的に閉じ込められる。

デヴィッド・ホックニーによるフォト・コラージュ


 だが、こうした「視線の現象学」的説明より、あの庭での体験にフィットしているのは、夢を見ている時の離脱的な遍在感覚である。それはたとえば、ここにいる自分が、あそこで子どもの頃の友人と話している自分の姿を眺めている‥‥というような感覚だ。イグナシオ・マッテ・ブランコによれば、それは次のような「対称の原理」に基づく論理が、通常のアリストテレス的な二値論理と混合した「複論理(バイロジック)」で説明される。「対称の原理」の帰結として、隣接性が消失し、矛盾対立がなくなるため、ひとりの人間が同人に何人もの人間であったり、ひとりの人間が同時に幾つもの場所にいることが可能となってしまうからだ。【イグナシオ・マッテ・ブランコ「分裂症における基礎的な論理−数学的構造」を参照。「現代思想」1996年10月号所載】

 対称の原理:無意識は、あらゆる関係の逆をその関係と同一のものとしてあつかう。いいかえれば、非対称的な関係を対称的であるかのようにあつかう。
 例として、「AはBの兄弟である」はもともと対称的な関係のため、逆を取って「BはAの兄弟である」としても何ら問題は生じない。一方、「CはDの父である」は非対称的な関係であり、「DはCの父である」は二値論理としては成立しない。しかし、対称の原理の下では、「CがDの父である」ならば、「DはCの父である」こととなってしまう。

 話がやたら大きくなってしまった。あの日、こもれびの庭で生じた「遍在感覚」は、耳が開かれ、聴覚が覚醒していくなかで、演奏が生み出した音と自然に生じた音に同時に見分け難く襲われ、それらの音を仕分けして対象に帰属させる(配分する)機能が混乱したためとも説明することができる。ふだん私たちは音楽を聴く時、この作業をそれとは意識せずにつつがなく行っており、それにより窓から入ってくる環境音や、自分がしている洗い物の音、あるいは自らの身体内部の音等と難なく区別して、CDをながら聴きすることができるわけだが、それが失調していたというわけだ。そう言えば、そうした「混乱」は空間的だけでなく、時間軸状でも起こっていた気がする。それが前述の「遍在感覚」を強めていたり、あるいはそもそもの根本的原因のようにも思えてくる。ちなみに先の「対称の原理」は、当然の論理的帰結として時間的な継起を消失させてしまう。

 そのような「混乱」を生じさせた原因の一端を、stilllifeの演奏の特異性に求めることができよう。CDで「ながら聴き」できるような音楽であれば、そこから届けられる音響集合体の輪郭を寸分違わず思い描くことができる。たとえ初めて聴く曲や演奏であっても。それが演奏者の意図に基づくものであるか否か、私たちは瞬時に判断可能だ。だからよく知らない曲でも、ピアノのミスタッチにすぐに気づくし、逆に言えば、そうしたひとつのミスタッチを枠外へと安全に排除することができる。ミスタッチの一音が「内部に入り込んだ外部」として、演奏全体を脱構築してしまうことなど起こりえない。
 しかし、stilllifeではそうとばかりは言えない。津田が急に浪曲をがなったり、笹島がカンテレでロックンロールを弾き出したりすることはまずなさそうだが、隣り合う林で行われた「みみをすます」のワークショップには演歌を口ずさむオヤジが現れたし、オバサンが腰にぶら下げたラジオからJ-POPが流れてきたりもした。また、今回のサウンド・パフォーマンスの最中にも、アナウンスのチャイムをはじめ、既成の音楽の断片や、マリー・シェーファーやバーニー・クラウゼの嫌う人間の生み出す生活雑音が数多く混入している。しかし、それらを含めて彼らの演奏は成立している。そうした「不純物」の混入にもかかわらず成立していると言うより、ヘテロトピックな混入/混在が彼らの演奏をより豊かで魅力的なものとしていたととらえたい。

 やはり私は、あのめくるめく豊穣な体験を、先に述べたような「混乱の結果」と片付けてしまうのは、正直もったいないと思っているのだろう。だから、だらだらとしょうもない理屈をこねているのだ。きっと。その点、津田の書いている「狐に化かされた」はいいな。簡潔にしてわかりやすく、ちゃんと事態の特異性をとらえ、可能性を残している。
 でも「狐」は神社の森にだけ潜んでいるのではあるまい。それこそどこにでも、私たち一人ひとりの中にも、遍在しているのだ。
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撮影:笹島裕樹

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撮影:成瀬知詠子


ライヴ/イヴェント・レヴュー | 20:02:23 | トラックバック(0) | コメント(0)
視界の中で動くもの、風が運んでくる響き − 「スティルライフ」サウンド・パフォーマンス@こもれびの庭 ライヴ・レヴュー  Listen to Moving Things in My Field of View and Sounds Brought on the Wind − Live Review for "stilllife" Sound Performance@Komorebi Garden  *Komorebi=Sunlights Filtering through Trees
全景(笹島)_convert_20140602234652
撮影:笹島裕樹


 石神井公園駅から会場のある石神井神社まで徒歩で向かう。午後5時過ぎにもかかわらず、容赦なく西陽が正面から当たり、アスファルトの路面も苛立ったように熱気を投げ返してくる。神社の境内に入り、脇道を通って会場である「こもれびの庭」にたどり着いて、ほっと一息つく。太陽を木立に遮られ、湿った土が丸く開けた広がりは、光も温度もひんやりと落ち着いていて、ここの空気には先ほどまでの刺々しさは感じられない。さわさわと響く葉擦れの向こうから祭り囃子が聞こえてくる。たぶんテープなのだろうけど。
 会場が円錐状の木組みの中に設えられ、スタッフが蚊取り線香に火を点けている。客席に腰を下ろすと、祭り囃子の上空からカラスの鳴き声。それだけでなく、犬の吠え声、子どものあげる歓声、神社の鈴の音や柏手を打つ音など、様々な音が聴こえてくる。上空を飛行機が通り過ぎるひときわ大きな音。
 一陣の風が樹々を揺すり、葉擦れが渦を描く。あるいは向こうから枝を揺らしつつ、葉擦れの波が押し寄せ、駆け抜けていく。蚊取り線香の煙。
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撮影:益子博之
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撮影:成瀬知詠子


 そうした周囲の音や匂い、温度や湿度になじんだ頃、予定より15分遅れて演奏が始まる。しばらくは二人とも動かない。ようやく笹島が金属製の小さな円盤と馬蹄形の蹄鉄を打合せ、微かな響きを立てる。新たに付け加えられた音が、すでにそこにある豊かな響きの織物に重なり合い溶け込んでいく様に耳が澄まされる。津田は手に取った音叉を膝に打ちつけ、軸の端を竹筒に押し付ける。うゔっと竹がくぐもった呻きを漏らす。彼はそれを何回も繰り返した。微かな響きにそば立てられる耳の視界を、周囲の様々な物音が通り過ぎていく。壁で囲まれ仕切られた室内ではなく、外に晒された屋外での演奏は、演奏に周囲の音が混じるというようなものではなく、演奏の只中を物音が通過し、踏みにじる。いや、先にそれらの物音の滔々たる流れ、生成消滅があって、演奏は束の間、僅かに手元を照らすに留まることを明らかにする。低空で飛ぶカラスの羽音が鮮やかに横切っていく。その様は近付き難く威圧的ですらある。

 すでに「出来上がって」いる周囲のサウンドスケープに、いまさら何を付け加えるというのか。そうした問いの静かな圧力を感じずにはいられない。笹島がカンテレを取り出し、e-bowを二つ弦に乗せる。微かに浮かび上がる震えに耳を凝らすと、子どもの声のおぼろな手触りが通り過ぎる。おそらくは少し離れたところを歩いているのを、風が運んで来たのだろう。知らず知らずのうちに、耳の景色が撹乱されていることに気づかされる。
 竹筒にピンポン球が投げ入れられ、中でぶつかりあってカタカタと音を立てる。開口部を塞いでいるので音は大きく広がらない。竹筒を傾けて、ピンポン球をぶつけあわせることが、その後も執拗に繰り返される。繰り返しの中で周囲の物音が通り過ぎ、混じり合い、遮られ、演奏の音はそれ自身の輪郭を崩壊させ、ますます不明瞭になっていく。それでも動作は繰り返され、むしろ背景音のテクスチャーを際立たせる方向に、言わば「コンクレート」的に機能する。

 打ち合わされた竹筒の打音がディレイをかけられたように響き、地面に底を打ち付けると、アンクルンのように優しい音色を立てる。竹の細いパイプを取り出し、しばらく掌でくゆらした後、そっと息を吹き込む。今日初めての息音に何羽ものカラスが応え、複数の鳴き声が寄り集まってディレイをかけたように響く。続いてはガラスの試験管を吹く。今までとは打って変わって大きな鋭い響き。笹島が傍らの小石をかき混ぜ、樹々がざわめく。今度は思いっきり小さな音で吹く。もともとそこに設置されていた素焼きの壷の肌が擦られ、サンゴのかけらがすり合わされる。鐘の音が低く響き、アナウンスのチャイムが風に揺すられて不揃いに流れてくる。遠近の感覚が撹乱されていて、距離感がつかめない。葉擦れのようにずっと鳴っているはずの音がしばし遠のき、他の音といっしょにふと浮かび上がる。風の向きや強さが音を配合し、響きを貼り合わせているようにも、環境音を含むサウンドスケープを演奏がコンダクトしているようにも聴こえる。

 鐘の音が繰り返し響き、中に水とガラスの粒を入れたガラス壜がゆっくりと振り動かされ、あるいは石笛がすきま風のうなりに似た音を立てる。演奏による微細な音に意識が集中すると、鳴り続けているはずの背景音がすっと意識から遠のき、またふと戻ってくるなど、知らず知らずのうちに明滅を繰り返す。
 津田が細いホースを吹き鳴らす。管というよりも薄いリードの振動に似た倍音の多い響きが、闇に浮き沈みするようにどこまでもどこまでも紡がれる。木の枝を打合せ、金属の粒が入った金属缶を転がし、木の管の開口部を掌で打ち、小石をすり合わせて振り撒く、ぱらぱらとかそけき響きが小鳥の声と混じり合う。そうした極小音量の演奏がふと止んだ時に、その向こうにこれまで意識に上らなかった物音が、次々に立ち現れてくる際の、めくるめく体験。そうした体験に酩酊していると、いつの間にか二人はもう音を出していなかった。おそらくはいつもより長い時間、無音のコーダを奏でると、第1部の演奏は終了した。第2部はもう少し陽が落ちて暗くなってからと津田。確かにまだ明るい。
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撮影:成瀬知詠子


 休憩時間に境内まで用を足しに戻る。途中、茂みを抜けると、左右の葉擦れがズレをはらんで動き、それに揺さぶられてくらくらした。ワークショップ「みみをすます」の時と同様、周囲の物音に対し耳が開けてしまっているらしい。たったこれだけのことで、簡単に揺すぶられてしまう身体の脆弱さ。それは鋭敏さと背中合わせだ。

 「こもれびの庭」に戻ると、津田が木組みの裏手で、細い金属棒を3本、手に持って揺らしている。微かにぶつかりあって、チャイムのような音が柔らかく響く。最初は音具のチェックをしているのかと思ったが、彼の意識はすでに研ぎ澄まされているように感じられた。笹島はと眼で追うと木組みを挟んで反対側、やはり外にいて、これまたいつもの演奏スペースであるシートのところに向かう様子がない。席へ戻ると、stilllifeの二人の「演奏」はそのまま進められた。津田は北京鍋の改造楽器「フライポン」の各部の鳴りを確かめるように叩き、笹島は竹柵をしきりに擦っている。音の聴こえ方がまるで違う。これまで彼らの演奏を、「周囲の音といっしょに丸ごと」聴いてきたつもりだったが、そこには無意識に働く枠組みがあって、「本文」と「それ以外」を知らず知らずのうちに区別し、仕分けた上で、改めて配合していたのだろう。ここでは演奏の音は、葉擦れの音や交通騒音、小鳥やカラスの鳴き声同様、風によって吹き寄せられる振動の一部に過ぎない。
 stilllifeが以前にリリースしたCD『Indigo』に、一面に広がる虫の音に彼らの演奏が沁み込み、響きのシーツに編み込まれていく場面があった。今回はそれとは違う。そうした身を屈め、水位を低くして溶け込もうとする仕草はない。彼らはもっと伸びやかに、思いつくまま、自由奔放に振る舞う。積もった落ち葉をかき混ぜ、柵に張り巡らした綱を引っ張って木杭を揺らし、金属のパイプで茂みを探る。さらには木組みの周囲を巡りながら、バケツに入った水をたぶんたぶんと揺らし、小さな金属片を弓引きして倍音を振り撒き、バケツから柄杓で水を撒く。動きを追うのではなく、いつも彼らの演奏でしているように、中央に置かれたロウソクの炎の揺らぎを見詰め、耳を、肌を、身体を開き、響きの到来を待ち望むことにする。
 風がそよぎ、樹々がざわめいて、葉擦れが渡っていく。鈴の音。柏手。子どもの声が風に吹き散らされてばらばらになる。車の音とちゃぼんちゃぼん揺れる水音が交錯し、小鳥がさえずり、枯葉を踏む足音が横切って、椅子が軋み、バケツが鳴り、竹柱がうなる。カラスが鳴き交わし、水音の揺らぎの繰り返しが周囲を巡り、遠くから一瞬、電車の車両が通過するガタンゴトンという音が耳元に届けられる。脈絡なく浮遊する響きが次々に耳を通り過ぎていく。そこに演劇的な展開や場面性は感じられない。視覚的なイメージが浮上することもない。遠近も大小も定かではない様々な響きのかけらが、耳の視界に入り込み、色合いの異なる響きの斑紋として浮かび、また行き過ぎる。演奏と環境音の区別が見えなくなり、単に風が運んでくるかけらの吹き寄せとして敷き詰められ、それを眺めるうち、次第に時間的な前後関係も怪しくなってくる。あてもなく視線を移ろわせながら、ヘテロトピックな響きの織物をスキャンしている印象。聴き尽くすことなどとてもできそうにない、響きの豊かさだけが強く印象に刻まれる。
フライポン_convert_20140602235320
撮影:津田貴司
成瀬2_convert_20140602235641
撮影:成瀬知詠子


 二人が中に入ってくる。小石をすり合わせ、金属のシャフトをいじり、竹筒を地面に突く。回転しながらシャフトを伝い落ちるカムの動きを竹筒に伝え増幅する。微かな軋みが拡大され、思わず響きの底を覗き込む。葉擦れと車の音と鳥の声の間を、カウベルの柔らかな響きが緩やかに渡っていく。彼らの演奏は周囲の響きの流動生成のうちに入り込んでいて、音のサイズも変わらない。耳もまた、先ほどまでの延長上にあり、全方位の音をすべて聴こうと開かれている。
 爪弾かれたカンテレの弦の微細な震え、水を入れたガラス瓶を打ち合わせる丸い響き、遠くから聞こえてくる切れ切れのサイレン、やはり風に乗って届けられるもはや何を言っているかわからないアナウンス。風は止まず、葉擦れも途切れることがない。耳をひとところに落ち着けて、訪れる響きを迎え入れようと思うが、気がつけば耳はあちらこちらに出かけている。注意を惹きつけられると、聴覚がそこに集中し、耳の視野の大部分がそれに占められてしまう。それは身に迫る危機をいち早く察知するために、耳を澄ましていたことの名残なのだろうか。新たに生じた音響、聞き慣れない響き、耳の視野で動き回る音に耳が引っ張られる。そのようにして移り行く音絵巻を追いながら、一方では鳴り続け、じっとそこにあり続ける音に改めて耳を澄ます。カンテレの弦の振動と壜の中で動く水の立てるこぽこぽとこもった響きは、風や葉擦れの音に耳が還っていく際の、格好の目印となった。演奏の向こうに浮かぶ木立の揺らぎ。奏でられた響きが照らし出し浮かび上がらせる積み重なった響きの地層。
 津田がふっと立ち上がって、また、外に出て行く。手に巻貝の貝殻(中には水が入っていて、傾けるとこぽこぽと深みのある音を立てる)を携えて。耳元で響く水音に眼を開くと、彼の姿は反対側にあった。

 演奏が終わりを迎える。いつまでも続いていていいのに。それに二人が音を出すのを止めただけで、私を包むこの豊かな響きの層/流れがどれほど変わると言うのだろう。音が音を呼び、動きが響きを招き入れる。演奏の印象を言葉に詰まりながら語る津田も、演奏が終わったとは信じていないように見えた。そこには静かな、だが深みに根差した高揚、精神のほてりが感じられた。木組みの外に出ると、いつもは寡黙な笹島が「音を出すと、すごくいっぱい応えてくれるんですよ。相槌なしに長時間話すのって難しいけれど、うまく相槌を打ってもらえると、いくらでも話せてしまうでしょう。あんなに相槌を打ってもらったことってないなあ。本当にいくらでも音を出し続けられるし、聴いていられる感じがしました」と身体の奥から溢れ出る興奮を抑えきれない様子で話してくれる。私もまた、だいぶ陽が翳り、涼しくなった空間で肌のほてりを冷ましながら、いま起こっていたことの何分の一ぐらい、自分は受け止められたのだろうかと考えていた。

 以前に行ったレクチャーで「即興のハードコア」について考えてみた時、デレク・ベイリーのフリー・インプロヴィゼーションを、聴覚の期待の地平を横切り、耳の視野の片隅をかすめて、ほうき星のように通り過ぎていくものとしてとらえた。と同時に、その生成のプロセスをデュビュッフェやフォートリエによるアンフォルメル絵画を念頭に置きながら、すでに眼前に横たわる沈黙のマティエールを触知しつつ、それを手がかりとして新たな傷をつけていく作業としてとらえてみた。それは決して音によるオートマティスムではなく、むしろ音を彫り刻みながら、すでにあるものを含め「痕跡」に埋もれていくことにほかなるまい。そこで響きは手元から滑り落ち逃れ去った音の軌跡であり、別の視点からすれば、音が響きを生じるのに不可欠な距離/空間に責め苛まれ、ずたずたぼろぼろに侵食された挙句の穴だらけの残骸でもある。
 デレク・ベイリーが田中泯と行ったライヴ『Music and Dance』では、激しく屋根を叩く雨音をはじめ傍若無人に侵入する「外」が演奏を蹂躙し、ほとんど掻き消してしまう。そのような過酷極まりない状況でありながら、演奏は「気配」を紡ぎ続け、「外」をどこまでも受け入れながら生き延びる。一方、ミッシェル・ドネダは録音技師とともに、野山に渓谷に分け入り、あるいは外の沁み込んでくる空間に佇み、そこで繰り広げられている生成流動に自らを突き刺し、熱く息を吹き込む。打ち立てられた息の柱に眼を凝らせば、それをかたちづくっているのが、息の流れの揺らぎやしこりといった吐息の儚い移ろいに過ぎず、脆く壊れやすいどころか、蚊柱のように実体を欠いたものであることにたやすく気づくだろう。しかし、だからこそそれは匿名性の淵に沈潜し、自らを大地の息吹に接続することができるのだ。
 フィールドレコーディングを聴くとは、決して音の名所絵や絵はがきを鑑賞することではなく、演奏者の力を借りずに、即興演奏の基層であるところの、こうした生成流動をとらえることではないか。導きの糸となってくれたのはフランシスコ・ロペスだが、優れたフィールドレコーディング作品は、鳴っている音の描き出す顕在化した風景だけでなく、そこにうごめく不定形の流動、潜在的な力を必ずとらえている。
 ベイリー/ドネダ/ロペスの描く三角形は、一見かけ離れているようでいて、潜在的なものを通じて密接につながっている‥‥そんな「天啓」に導かれた聴取の旅路は、ブログに書き記してきたように、another timbre, creative sources, potlatch, winds measure recordings, fataka, gruenrekorder, senufo editions, unfathomless, semperflorence, edition RZ, wandelweiser等からリリースされる作品群を通じて、最近ますます「ここには何かある」との確信を深めているとは以前にも述べたところだ。
 それが私一人の妄想でないことは、益子博之・多田雅範との「同期」で確かめられたし、また、stilllifeの二人、津田貴司と笹島裕樹との「同期」にも力づけられた。そこへ来て、この演奏である。環境音を採り入れた即興演奏の多くは、それを単に「動く壁紙」と見なしているに過ぎない。彼らは決して「外」に出ようとはせず、不安定な流動変化に足を踏み入れようなどとはしない。先に挙げたベイリーやドネダは輝かしい例外なのだ。だが、stilllifeは彼らとも異なるアプローチを試みている。彼らはベイリーより親和的であり、ドネダより浸透的であり、音を出すことよりも音を聴くことをより重点化して「演奏」をとらえている。それは聴衆の聴き方をも触発し、変容を余儀なくさせる。先に述べた私の聴取は、そうしたプロセスのひとつの結果に過ぎない。あの日、あそこにいた人々の13分の1に。それでもこの拙い走り書きが、他の参加者の問わず語りを引き出し、彼らの演奏をまだ聴いていない未来の聴衆を触発することを願うこととしたい。
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撮影:成瀬知詠子


2014年5月31日(土) 17:15〜18:45
石神井氷川神社 こもれびの庭
stilllife(津田貴司+笹島裕樹)
※掲載写真はいずれも各氏のFacebookページから転載させていただきました。

ライヴ/イヴェント・レヴュー | 00:13:11 | トラックバック(0) | コメント(0)