ジャズにちっとも似ていないジャズの出現可能性、再び-「タダマス14」レヴュー Possibility of Appearance of Jazz which is quite unlike "Jazz" Again - Review for "TADA-MASU 14"
2014-07-30 Wed
今回、体調不良でいつもより寡黙だった企画・選盤担当の益子は、しきりに内容の薄さを気にしていた。けれど、それは彼の思い違いに過ぎない。確かにポップ系の演奏の比率が高く、演奏の強度という点ではいささか流れ気味だったかもしれない。しかし、そこは構成と選曲の妙で十二分に補われていた。むしろ、今回はいつも以上に鋭く焦点が絞り込まれていたように思う。この四谷音盤茶会は益子と多田の感性のフィルターがとらえたNYダウンタウン・シーンの定点観測であり、そこにはこれまでの数多の渉猟を通じて検証された幾つかの着目点が存在し、言わばカメラは据えっぱなしである特徴ある光景にフォーカスを絞り込んでいるのだ。かつてジャズ雑誌の企画でよく見られた「いま一番アツイのは誰だ?」とか、「次に来るのは何か?」といった、ただただ派手に動き回る者たちをさしたる当てもなく追いかけ回し、鵜の目鷹の目で売り物を漁るジャーナリスティックなさもしさはそこにはない。それでは、当日の「演奏」について述べるとしよう。いつものことではあるが、以下に描き出すのは、あくまでも私の個人的な問題意識に基づいた編集の結果であり、「タダマス14」当日の様子をバランスよく伝えるものでは決してないことを、あらかじめお断りしておきたい。なお、プレイリストの詳細については、これもいつも通り、次のURLを参照していただきたい。
http://gekkasha.jugem.jp/?cid=43767
1.切り分けの視点
まず「なるほど」と思わされたのは、Jose James, Taylor McFerrin, David Binneyと畳み掛けた前半中盤のポップ系3連荘。何とBlue NoteからリリースされているJose Jamesは益子自身「これはジャズではなくて、もう普通にソウルですね。先日の来日公演でも客席のオシャレ女性率が異様に高かった」と語る通りの仕上がり。細かく突き詰めたシンコペーションというよりは、「人力」ならではの揺らぎの魅力を思う存分発揮したドラムスが特徴的。他のサウンド・レイヤーも微妙なずらし/揺らぎを帯びていて、繊細かつ細密なブロデュースが光るが、一方、ヴォーカルはそよとも揺らがない。リズム隊を思いっきり跳ねさせておいて、その荒馬を自在に声で乗りこなす‥‥といったバンドとしての独自のグルーヴの生成を目指す姿勢は感じ取れない。むしろ、別録りしたドラムのトラックを後から差し替えたように聴こえる。つまりは「エフェクト」なのだ。
こういう作品に、こんなリズムの揺れが入っていることに「一般リスナーのリズムのずれに対するリテラシーの高まりを感じる」と益子は言う。それが「『Jazz The New Chapter』の流れ」ということなのだろう。その一方で多田はこれに「とびきり出来のいいポップス。でも10年後は絶対聴いていない」と突っ込みを入れる。これに対し益子は「僕だってこれを先にかけたTony Malaby Tamarindoのような強力な磁場を持つ音楽とは思っていない」と応じる。
その場では議論はそれ以上深まらなかったが、私はここに重要なカギが潜んでいるように思う。これまでの四谷音盤茶会のプログラムで、益子が「ポップ化」を一つの傾向として採りあげ、「より多くの聴き手を求めるミュージシャンの生理の自然な発現」であり、「ふだん彼らが聴いている『ジャズ』以外の多様な音楽の自然な発露/反映」と説明するたびに感じていた違和感に、それは関わることだ。
現象面において見られるズレや揺らぎへの注目という類似点を、そのままくくってしまうのではなく、別の角度/視点から切り分けてみる必要があるのではないだろうか。というのは、単にTony Malabyのとりとめなく「もたる」、「なまる」テナーのラインと先のJose Jamesのドラム・トラックを聴き比べた時、これはもう後者の方が圧倒的に完成度が高いじゃないか‥ということに単純になってしまわないかと心配なのだ。そこでの比較基準点は「エフェクト」の効き目に置かれてしまうことになる。「こっちの方が純度が高くて「キク」じゃないか」と。だが、本来、Tony Malabyの演奏は、「エフェクト」の効き目のみに注目して聴き取るべきものではない。William ParkerのベースとNasheet Waitsのドラムスの一音ごとに弾け飛び散っていく感じとの対比において、彼のフリーク・トーンになってもなお「のたくた」しているテナーは聴かれるべきものだ。そこでフィーチャーされているのは、決してテナーのソロではなく、瞬時のリアルタイムな交感を通じて更新されていく「アンサンブルの生成プロセス」にほかならない。彼らは「ズレ」を最終的な生産物としてだけ欲しているのではなく、アンサンブルの生理として獲得しようとしている。そして、ここで無防備にも口を滑らせてしまえば、私はそのような緊密な交感を通じて、フライトしながら軌道を自在に修正していくアンサンブルの生成を(そこには後で見るように2種類の側面があるのだが)、今日を生き延び明日に向かって歩み続ける「新たなジャズ」の本質と見なしている。
反対側から事態を眺めてみよう。益子は自身が聴衆として体験したJose Jamesのライヴについて、次のような感想を漏らしていた。「演奏がストイックなんですね。お姉ちゃんがキャーキャー言ってるわりには全然セクシーじゃないし、サービス精神旺盛ということもない。特にドラムに注目すると、よく『グルーヴはすべて腰から生まれる』とか言って、手足はバラバラにリズムを刻んでいても、それを腰のねちっこい動きで包括するみたいなことがあったと思うんですが、このドラマーは見事に腰が動かない」と。これはヴォーカルとリズム・セクションの関係においてだけでなく、バンドのグルーヴとドラムの関係、あるいは演奏する身体とサウンドの関係においても、アンサンブルが生成的なものではなく、設計図通りオペレートすべきものとして現れていることを示していよう。
こうしたことはTaylor McFerrinに聴かれる曇った電子音の持続とローズ・エレピの船酔いしそうな揺らぎの絡み、あるいはフィリップ・グラス〜ミニマル・テクノ的なリズムとニューエイジ・ミュージック的なシンセの充満にも当てはまる。多田は言う。「むちゃくちゃ気持ちよかった。気持ちよかったんだけど、同時にもう飽きているというか。ああ、これが『勝利の方程式』なんだということが見えてしまう」と。ほかほかと充満する多幸症的な響きの向こうで瞳の奥がしんと冷えきっているのがわかる。
あるいはDavid Binneyにおける、左右に割り振り、さらに不均衡に間引きすることにより床板に隙間の空いた吊り橋のように不安定化させたドラムスに、何層にも分けて薄くかぶせられる管と声のレイヤー。浮遊感のあるフュージョン的なベースが、風のように軽やかに吹き抜けていく。そう、これは冷ややかに完成度を高めたフュージョン・ミュージックだ。熱さを求めるプレイヤーシップを去勢/抑圧し、ぎらぎらとしたまぶしさを徹底的に除去した艶消しのジュラルミン思わせるひんやりした肌触り。
益子によれば「NYのBlue Noteでは、最近、週末深夜にこの手の音のライヴをやるようになってきた」とのこと。だが、しかし、そこには一定の切り分けが必要だと思う。編集の一素材としての「揺らぎ」と演奏/即興/アンサンブルの生理として生きられる揺らぎと。前者なら、プロデューサーの「こんなのも入れてみようか」的発想によって、どこにでも(たとえばAKB48では難しくてもEXILEなら)仕込まれてしまうものなのだから。

2.先の見えない冒険
前半のポップ・サイドに対し、後半の「ダーク・サイド」(©多田雅範)は、この催しの常連と言うべきTyshawn Soreyを軸とした圧倒的強度を示す演奏で幕を開けた。Steve Lehman Octetにおいては管のレイヤーの敷き重ねがつくりだすたゆたいがヴァイブの揺らめきを照り返し、Tyshawn Soreyのドラムスが空気を揺すぶりたてるバス・ドラムの間歇的なアタックとリムショットを含む微細で素早い打撃の乾いた破片に二極分化し、これを両側から挟み込んで押しつぶし、あるいは引き裂こうとする。次第に速まっていくヴァイブの振動の遷移は、バリ・ガムランの涼やかな空気を運んでくる。多田が「リズムの処理はもしかしたら先ほどのポップ系の方が洗練されているのかもしれないが、こちらの方が音楽の展開にいつも謎があり、そこに耳が惹き付けられ、いつまでも聴いていたいと思わせる」と感想を漏らす。あらかじめ描かれた下絵をはみだし、航海図を書き換えていく音の軌跡。一瞬ごとの反応に突き動かされて行く先の見えない彷徨。けれど彼らはこの冒険の豊かさを心の底から楽しんでいるように感じられる。
John Escreet, John Hebert, Tyshawn SoreyのトリオとEvan Parkerの共演盤からは、あえてParker抜きのトラックが選ばれた。空間のあちこちで一瞬のうちに刻まれ、(おそらくは深々とした痕跡を残しながらも)積み重なることなく闇の中に消え失せる音のかけら。それは点描というより、稲光が網膜に焼き付ける光景の残像に過ぎない。瞬間浮かび上がるかたちは全体のほんの一部に過ぎず、身体の大部分は闇のうちに沈んだままで、表情もまったくわからない。音を束の間輝かせることにより、互いを隔てながら共に浸す闇の深さを、より一層際立たせる演奏。ゲストの井谷がアルバム全体のうちのどの辺に位置づけられているのか、大層気にしていたのが興味深かった。実際には全体9曲中の8曲目で全編唯一のトリオのみの演奏によるトラック。彼が気にしていたのは、この演奏が「こういうのもちょっとやってみようか」的な位置づけのものなのかどうか‥‥ということだろう。彼らは本気だ。本気だからこそ、Parkerのノンブレス・マルチフォニックスによるさざめく光の波の重なり合いに、深く冷えきった闇を対置してみせたのにほかなるまい。
続く3作品はさらに彼岸から。Jozef Dumoulinのトリオでドラマーを担うEric Thielemansのソロ作品は、中国山岳少数民族に伝わる秘曲中の秘曲とでも言うべき、おぼろなオブスキュアな手触りをたたえている。ヴァイブの鍵盤を材質の異なるスティックで奏でているのだろうか、響きが解けて輪郭が滲んだ倍音の斑紋が、中空にほのぼのとたどたどしい足跡を残し、細い金糸銀糸を思わせるきらめきが周囲を細かくかがっていく。あるいは太鼓の皮をこする音の、聴き手の肌をそばだてる響き。一方、『A Fender Rhodes Solo』とあまりに素っ気なく即物的に名付けられたJozef Dumoulinのエレクトリック・ピアノ演奏は、たなびく電子音のたゆたいがスペーシーな広がりをつくりだす。個々の音は明滅を繰り返しながら、決してフレーズを編み上げない。すうっと通り抜けていくほうき星の軌跡。ノスタルジックな初期の「手づくり」電子音楽の趣をたたえながら、電子音楽という「あらゆるサウンドのパレットを駆使できる」手法が陥りやすい、あらかじめ精密に描かれた下絵の完璧な再現へのオブセッションを離れ、「凝視する耳」の持続を自らに課し、先を見通し得ない手探りに神経を集中させる。この鋭敏さを増した皮膚感覚(火傷しかけてひりひりと疼く肌のような)は、「番外」としてプレイされたIngrid Laubrock Octetのたちこめる倍音の霧を介して指先が触れ合うグラス・ハーモニカ集団演奏に、確かに通じている。

3.「ジャズにちっとも似ていないジャズ」出現の必然性
以前に、第3回四谷音盤茶会へのレヴュー「ジャズにちっとも似ていないジャズの出現可能性」で、次のように書いた。
日々のライヴが日常であり、ひとりの演奏者が数多くのグループやユニットに属しているジャズの現場があるのに、改めて録音でも実験性が打ち出されるのはなぜだろうか。それを考えるためには、いま日本で「実験音楽」などと言われる時の「実験」との違いを明らかにしておく必要があるだろう。後者の「実験」が俗流ケージ主義に基づく、語の一番悪い意味での「パフォーマンス」、すなわち健忘症が可能にしたコンセプトだけの「ネタ」に過ぎないのに対し、前者は決してそうした新奇さを求めることのない、まさに自らの身体が新たに通り抜けるための環境設定である。先日の記事で少し触れたウィリアム・バロウズ風に言うならば「新たなヤクを試してみる」ということだ。その「ヤク」自体は以前からある。効果も文献には載っている。けれど自分の身体に使ってみてどうかはわからない。そこで実験が必要となる。結果はうまく行ったり、行かなかったり。それは「ヤク」の精製純度や、その時の自身の体調や精神状態、周囲の環境等によっても異なる。しかし、身体は確実に学んでいき、経験は積み重なる(後者の場合は「ネタ」が古くなるだけだ)。
これからもジャズの世界では、様々な実験が、再検証と再創造が繰り広げられていくことだろう。それはジャズの定型や通念が厳しく問われていることにほかならない。もし「ジャズのふり」をしているだけならば、それが「ジャズに似ていない」ことは致命的な欠陥である。だが、ジャズそのものは「ジャズにちっとも似ていない」ことを、何ら恐れる必要はない。だとすれば、「ジャズにちっとも似ていない」ジャズが世界で一番出現しやすい場所はニューヨークなのかもしれない。
前半のポップ系作品について、ズレや揺らぎへの傾向を「エフェクト」であるとした。彼らはそのあるべきプロセスを生きていないと。彼らはこれまでジャズが築き上げてきた数々の定型的表現をちりばめるのが好きだ。「ジャズ」の記号を帯びることが。そこではズレや揺らぎへの傾向と同様、「ジャズ的なサウンド」(典型的な楽器編成、特徴的な音色やクールでスタイリッシュなフレーズ等のアーカイヴ)もまた編集のための一素材に過ぎない。すなわち、「ジャズ的なサウンド」の継承者は、こうした「ジャズのふり」を尊重し、この見かけに敬意を払うものか、あるいは伝統芸の保存家(フリー・ジャズ伝統保存協会!)に過ぎない。緊密な交感を通じて、フライトしながら軌道を自在に修正していくアンサンブルの生成を、今日を生き延び明日に向かって歩み続ける「新たなジャズ」の本質と見なす理由がここにある。こうした回路を経ることによって、ジャズの可能性は「ジャズにちっとも似ていないジャズ」へと開かれていくだろう。今回話題となったズレや揺らぎへの着目/探求であるならば、新たな超絶技巧を駆使してズレや揺らぎを完璧にコントロールしながらヴァリエーションを展開していく仕方と、聴こえるか聴こえないかぎりぎの微少音量、輪郭の曖昧化、レイヤーの希薄化等により、そうしたサウンド・コントロールの重力圏を離脱して、もはや手の届かない向こう岸で生じるサウンドの自己変容を凝視し、これを追いかける仕方と。個人的には後者の方向性によりスリリングな可能性と、フリー・インプロヴィゼーションやフィールドレコーディングとの通底を感じるところだ。
そう言えば多田はEric Thielemansの演奏に「音楽を聴くのとは違う構えで、耳が音を追いかけてしまう」と語っていた。糸が切れ風に弄ばれる赤い風船を、やはり頬を真っ赤にしながら疲れを知らず追いかける子どもの姿。

4.「世界音楽」としてのジャズからのとらえ直し
私には『Jazz The New Chapter』のとらえ方や、ヒップホップの結びつきにジャズの転機や将来可能性を見出すやり方は、「ジャズという記号」の転生、すなわちリユース/リサイクル可能性を問うもののように思われる。そこではジャズは「世界音楽」ではなく、依然としてアフリカン・アメリカン文化に出自を持つ「ブラック・ミュージック」のファミリーの欠くことのできない一員なのだ。それはそれで構わないとも思う。私自身のジャズのとらえ方が、この国のコアなジャズ・ファンにとっては到底あり得ない、許し難いほど黒人音楽とのつながりに重きを置かないものである特異性も、自分なりに理解しているつもりだ。
だが、ブラック・ミュージックに軸足を置いたスタイル変遷史としての「ジャズ史」が行き詰まっていることを思えば、「始まりとしての『ブラック・ミュージック』としてのジャズ」と「現在の帰結としての『世界音楽』としてのジャズ」の比重配分を逆転した、「反転したジャズ史」を思い描くことは可能であるし、また、必要でもあるだろう。たとえば『Jazz The New Chapter』の巻末にオマケのように添えられた「The Newest Map of World Jazz」を拡充して主軸に据え、黒人性の顕著な噴出を時代的・地域的な特質としてピックアップする構成が考えられる。たとえばHorace Tapscottや彼の率いたPan-African Peoples Arkestraは、Beaver HarrisらによるThe 360 Degree Music ExperiencesやLuther Thomasを担ぎ出したCharles Bobo Shawらの動き、Juma SultanのAboriginal Music SocietyやThe Pyramids等のIdris Ackamoor周辺の達成等を横断的に結びつけ、さらにSun Ra ArkestraやPhilip Cohranらの営みに遡る一方で、現在まで連なるAnthony Braxton, Leo Smith, Henry Threadgill, George Lewisらの試みを別のかたちの発露としてきちんと押さえていくといったような。
こうした見方はかつて竹田賢一が自ら作業課題として掲げていた見方に、あからさまに影響/触発されている(笑)。こうした布置の中でこそ、すでになかったことにされてしまった感のあるロフト・ジャズ・シーンの再検証・再評価や、『Love Cry』以降の後期Albert Aylerの再評価も、単にマニアックなディスコグラフィ検証等の「学術的」な研究よりも、はるかにアクチュアルなものとなり得るように思われるのだ。「Wynton Marsalis以降のジャズ史が描けない」というのは、フリー・ジャズによる切断を「新伝承派」というフィクションで糊塗し、ロフト・ジャズ・シーンにおいて、あるいはヨーロッパの即興演奏シーンにおいて進められたポスト・フリーの探求を一顧だにしないからではないか。たとえばECMレーベルの初期30作品は、こうしたポスト・フリーの空間の探求のカタログとでも言うべきものであり、そこにはDerek Bailey, Marion Brown, Anthony Braxton, Paul Bley, Alfred Harth, Barre Phillips, Paul Motian, Return To Forever, Circle等、驚くべきラインナップが名を連ねている。Manfred Eicherの「見者」としての幻視力に驚嘆するほかはない。先に述べた「拡充され主軸に据えられる『The Map of World Jazz』」の焦点のうち一つは、明らかにECMレーベルに据えられることとなるだろう。

2014年7月27日(日) 18:30〜21:30
於:四谷三丁目 綜合藝術茶房喫茶茶会記
益子博之、多田雅範、井谷享志
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能の座標空間と「直接的」身体の交感 − ARICA『UTOU』レヴュー Coordinate Space of Noh and Rapport between "Direct" Bodies − Review for "UTOU" by ARICA
2014-07-22 Tue
シアターカンパニーARICAの新作『UTOU』を観た。今回はこの作品について考えてみたい。1.空間の設定
開演ぎりぎりに森下スタジオに滑り込むと、客席はもうほぼ埋まっていた。最前列に置かれた座布団に腰を落ち着けると、サーフ・ミュージック風味のやけに軽い音楽が流れていることに気づく。不思議に思いながら、改めて場内を見渡す。長方形のスペースのうち、出入口に近い短辺とこれに接する長辺の二辺に客席が設えられている。舞台装置は何もなく、黒光りする傷だらけの木の床ががらんと広がっている。壁には防護のためなのだろう、打ち付けられたやはり傷だらけのベニヤ板が続く。そのように視線をさまよわせて、客席のない方の二辺の角に人影が立っていることに気づく。白いワンピースの緩やかなラインに身を包んだ黒く長い髪と浅黒い肌の女性。まるで亡霊のようにひっそりと。
水のボトルの入ったバッグを下げた安藤が入ってくる。サーフ・ミュージックは相変わらず流れっ放しだ。彼女は地下足袋の踵のところに巻き取り式のメジャーを付けていて、しゃがむように二歩進んでは、後から付き従う助手の少女が「1メートル70」と小声で事務的に数値を読み上げる。最初は壁に沿い、続いては客席に沿って作業は淡々と進められる。角には水のボトルを置いていき、蓋の部分に明かりが灯る。少女は駐車違反を取り締まる婦人警官が使うような、先にチョークの付いた長い棒を持っていて、安藤の歩みの跡に線を引いていく(入れ替わるように白い服の女は出て行ってしまった)。よく見ると安藤はガムを噛んでいる。これにより登場人物の出入りするアプローチ部分(能で言う橋掛かりか)と長方形のスペースが、水のボトルの白い照明とチョークの白い線によって区画された。福岡が入って来て、白線の区画の外、客席の奥に設けられたコンソール席に座る。助手を務めていた少女も再び入って来て(直角に曲がる動き)、奥の壁の前、やはり白線の区画の外に腰を下ろす。スピーカーからこれまでとは違った、風の響きと虫の声が入り混じったようなフィールドレコーディングを思わせる音響(でも、それは自らが電子音で組み立てられていることをどこか匂わせているように感じられた)が流れ出す。いつの間にか能天気なサーフ・ミュージックは鳴り止んでいた。
安藤の声が流れ出し、演劇が幕を開ける(ように感じられた。とすれば、先ほどの「作業」は何だったのか)。声は息を潜め、輪郭を希薄化し、抑揚を抑えて、あえて等拍的に、リズムを刻まないように無表情に置かれていく。空間は暗転し、カンテラを掲げた安藤が入ってくる。カンテラの明かりは前ではなく、安藤の顔を照らしている。先ほどの「作業」時と同様、眼を半分瞑った無表情が浮かび上がる。音響がうなりを上げ、機械的な繰り返しを空間に響かせる。「ここは立山」と安藤が語り始める。先ほどのようなひそひそ声ではない。声の歩みは等速的ではあるが、マルカート風に柔らかく区切られ、少しリズムを帯びている。そこに何かモノが放り込まれる。鈴がちりちりと鳴り、断続的な電子音が場を不安定にする。安藤がモノを拾おうと手を伸ばした瞬間、白い服(今度は床まで届く長い丈になっている)の女が入ってくる。
2.手渡された能の座標空間
これまで観てきたARICAの2作品とは全く異なる時間/空間の成り立ちがここにはある。これまでの2作品はいずれもベケットだったから、戯曲にあらかじめ指定された、削ぎ落とされ研ぎ澄まされた強度を、どう減速することなく乗りこなしていけるかと、作品を観始めてすぐに視線のパースペクティヴが決まる感があった。今回はそうではない。舞台装置のない空間は、そうしたパースペクティヴを提示してこないまま、複数の身体をそこに招き入れる。
いや、ひとつのパースペクティヴは提示されているか。例の「作業」は、能舞台の設えられていない空間にある種の構造を導入するためのものであったことに気づく。精神科医中井久夫は描画療法を行う際に、患者の眼の前で自ら画用紙に枠線を描き入れ手渡した。先ほどの「作業」は、これと同様に、演劇の開始に先立ち(だから開演前と同じBGMが連続して流れていた)、そうした「枠付け」された空間を観客に手渡すための儀式だったのだろう。白線の区画の外は別の空間であり、区画の外にある身体は、たとえ姿が見えていてもそこにはいないのだ。
しかし、私たちの受け取った空間は能のそれとも、あるいはベケットのそれとも異なる性質の空間だった。能においては空間は分離され、必要に応じて自在に接合される。異なるレイヤーの重ね合わせが空間を多重化し、この世のものではない亡霊を空間に召喚し、この世に生きる人間と隣接させつつ、直接には触れ合わせない。物語的な磁場における相互作用はあっても、隣り合う二つの身体の間に相互作用は起こらない。身体の存在は極端に様式化された所作や能面の使用により、高い強度を放ちながら抽象化され、日常の生活時間から遠ざけられる。一方、ベケットの作品/上演空間にあっても、作者のあらかじめ指定する極端な制限が、そこに現れる身体を直接に触れ合わせることなく、異なるレイヤーへと隔離し、あるいはテクスト内の位相関係へと解体してしまう。
作品の上演を観終わった時点から振り返れば、『UTOU』の空間は、がらんとした場内に先の内部/外部の区画を象徴的に持ち込みつつ、一方で身体同士の直接的な交感を排除しないものだった。というより、本来は異なるレイヤーに配分され、直接は出会わないはずの身体をぶつけあわせてしまおうというのが、今回の眼目なのだろう。
演出の藤田康城は公園のリーフレットやARICAのウェブページで、今回の公演準備でインドを訪れた際に出会った「キャスター付きの板の上に乗った下半身の無い男」の剥き出しの「直接」的身体の神々しさについて、また、客演するジョティ・ドグラの真っすぐな力に溢れた堂々たる身体とARICAがこれまでとらえてきた身体の間に横たわる不思議な異物感について語り、「洗練を極めた能の静的な有り様に屈することなく、そこにどれほどのアクチュアルなノイズを差し込めるのだろうか」と述べている。
3.「直接」的身体の交感の諸相
以下、そうした身体同士の直接的交感が、様式化された空間や物語の磁場にどのような衝撃を与えたかに絞って見ていくことにしたい。その前に『UTOU』の原作である「善知鳥(うとう)」の物語をたどっておくことにしたい。
かつて猟師は、「うとう」という親子の情深い鳥を、その情を物語る呼び交わしを利用して捕った。冥府をさまよう猟師は、越中の立山で旅の僧に出会うと、頼んで形見の蓑笠と片袖を遠く陸奥の外の浜に住む妻子に届けさせる。そこへ自らも姿を現すが息子の髪に触れようとした瞬間、わが子の像は失せてしまう。罪深い自分を省みつつ、狩猟の身振りを再演するうち殺生にまつわる快楽もよみがえる。ついには雉の姿に変えられ、それをかつての「うとう」が逆に化鳥、犬や鷹となって追いかける。僧に助けを求めるところで猟師の姿は見えなくなる。
放り込まれたモノに触れようとする安藤に、白い服の女は後ろから覆い被さり首筋に息を吹きかける。さらに立ち上がり歩み出す安藤に追いすがり、今度は「ひっ」と息を引き付ける。安藤もまた身を強ばらせる。空間を一巡りして安藤はモノを拾い拝む。白い服の女がホーミーに似た声を放つ。布を取り出してモノを包もうとする安藤の姿に、「はっ」と息を吐いて後ずさる白服の女。
白服の女の呼びかけが聴こえたのか安藤が振り返り、しばし見詰め合う二人。女の声は平らかに引き伸ばされた旋律、Tamia的に移り変わる母音の虹へと姿を変え、安藤に着ている服の袖を手渡す。安藤が引っ張ると袖が長く長くどこまでも伸びていく。
安藤が丸いクッションを取り出して座り「ごめんください」と呼びかけると、少女が区画の外からとんぼを切って区画内へと躍り込み、甲高い一本調子の声で彼女を迎え入れる。安藤は僧で、白服の女が猟師、そして少女がその子どもであるらしいことがわかる。張り上げた声が広くはない空間を飽和させ、鐘の音、うめき声、高音域のハウリング音、短波放送の混信にも似た切れ切れの変調された声と混じり合う。
白服の女がナマハゲが着ているような藁蓑を羽織って現れる。藁にはおみくじのような色とりどりの紙こよりが無数に結ばれている。深くエコーのかけられた声のたゆたいは、これが夢幻的なあり得ない時間であることのしるしだろうか。白服の女が少女を抱きしめようと背後から近づく。それに気づく様子もなくぴくりとも動かない少女は、だがしかし抱きすくめられる瞬間にふと身をかわしてしまう。追いすがる白服の女。今度はつかまえたと思った瞬間、少女は膝の力を抜き、その場に崩れ落ちるようにして女の腕をすり抜け、受け身を取るように床に転がる。以下、ふらふらと追いすがる女と受け身を取り続ける少女のスラップスティックな繰り返し。
少女が消え失せても止まらず、ふらふらと回り続ける女。ついには身体を震わせて叫び声を上げ、立ち尽くし、静かに爪先立って声にならぬ声を上げて泣く。身体に走る緊張と張り裂けそうな感情の圧力が観る者にひしひしと伝わってくる。
その傍らで安藤の語りが猟師の犯してきた殺生の罪を静かに告発する。口語現代詩的な句切りのリズム。
その場に降ってきた細い竹竿を拾うと、女は床を突き、身体の重心を大きく移動させる。くぐもった声の浮き沈みと遠いカラスの鳴き声が流れる中、片足立ちし、眼をかっと見開いて三白眼で睨みつけ、英語で語り始める。来る日も来る日も鳥を殺し続けたという懺悔/告解。水琴窟を思わせる金属的な響きが滴り、女の身体の緊張がさらに高まる。白い羽根の生えた白いお手玉を、白線の外から少女が投げ込む。女は回転しながら舞い、音がノイジーな高まりを見せる。安藤がやおら女の脚に飛びかかる。かわす女。クッションを下に敷いて腹這いのまま床を滑り、あるいはくるくると回転しながら追う安藤。遊園地のアトラクション的な遊戯は、息を荒げて床を転げ回る取っ組み合いに至る。
力つきたのか、うずくまり、動かなくなった女が哀しい歌の調べをふと口ずさむ。赤い羽根の生えた赤いお手玉が投げ込まれる。先ほどの白いお手玉よりはるかに多く、四方八方から女に襲いかかる。それは血の涙なのか。天井から赤と白の羽根が大量に降ってくる。それを仰ぎ見るように受け止めながら身体を激しく震わせる女。音が止み、女はいったん動きを止めた後、激しく床を踏み鳴らす。
4.「コーダ」から振り返る
女が退場して、身体同士の激しく直接的な交感は終わりを迎える。ここからは「コーダ」ということになろうか。安藤がこの国の衰退の徴についてひそひそと小声で語り出す。
・山の崩れが続き猪がミヤコに猛進する。
・増水した二級河川を熊の親子が遡り、角のなくなった三角州に取り残される。
・すべてはミヤコの近傍で起こっている。
淡々と紡がれる光の射さない語りを、福岡のビロードのように柔らかなスキャットが包み込む。まるで子守唄のように。天井から羽根が降り注いだ時に続き、前回の『しあわせな日々』の上演がフラッシュバックする。しかし、舞台は暗転することなく、そのままの姿をさらし続ける。語り続ける安藤をよそに、少女が床に散らかった羽根やお手玉を掃き始める。いつの間にか女もモップを手に作業に参加している。
・つかのま全員で朝の暗さを分ちあう。
・良い記憶も悪い記憶もみな忘れるように仕向けられている。
・からだとこころがしびれている。
羽根とお手玉をすっかり片付け、少女は最初に引いた白線も拭き消し、水のボトルも回収してしまう。がらんとした空間が戻ってきた後には、最初に放り込まれたモノだけがぽつんと残される。
・強いものだけが生きのびる。
・弱いものだけがうたえる。
・死んだものだけが耳を澄ましている。
・うつくしいきみの喉を鳴らせ。
・死んでも。
会場で手渡されたリーフレットを後で見たら、「コーダ」で安藤が語り続けていたのは、「死んだ小鳥のために」と題された倉石信乃によるテクストだった。だが私は最後に読み上げられたからと言って、それが何か劇の結論めいた終着点と見なしたくはない。この国の現在を水没させている重苦しく出口のないやりきれなさに、鳥を殺し続ける罪深さを結びつけようとは思わない。能舞台の座標空間から思わずフレームアウトしてしまう、ほとんどスラップスティックな身体同士の直接的なやりとりを、ぎりぎりまで切り詰め削ぎ落とした結果、微かな気配ばかりとなってしまった「反転した希望」に向けて、決意表明を行うための助走と位置づけることはしない。
むしろ、この「コーダ」は、これまで劇の上演を観てきた一人ひとりが、各自それを振り返り、自分なりの「物語」を再構築する「自律」に向けて、反発を惹起し組織するために置かれたのではないかと、私は思うからである。
終演後、舞台に近寄って確かめたら、残されたモノは鳥の木彫り人形だった。他の事物がみな流動し、投影され、反転し、変遷の過程を生きるのに対し、このモノだけはずっと不器用に捕らわれ殺される鳥の似姿であり続ける。そしてその地点から、謡曲「善知鳥」に登場する僧、猟師、猟師の子どもでありながら、否応なく安藤、白服の女、少女であり続ける三人の身体を照らし出しているように、私には思われた。
2016年7月19日(土) 森下スタジオ
出演:安藤朋子 僧(本文中では「安藤」)
ジョティ・ドグラ 猟師(本文中では「白服の女」)
茂木夏子 猟師の子ども(本文中では「少女」)
演出:藤田康城
コンセプト・テクスト:倉石信乃
ボイス・音楽:福岡ユタカ(本文中では「福岡」)


2014-07-22 Tue
さて、益子博之、多田雅範がナヴィゲートする四谷音盤茶会もいよいよ14回目を迎え、回数に引っ掛けた語呂合わせもますますハードルが高く厳しくなる今日この頃(楳図かずお『14歳』は使いたくなかったし)、皆様、いかがお過ごしでしょーか。今回は益子が毎年定点観測として実施している「ニューヨーク詣で」の直後、いろいろとフレッシュな情報が聴けそうです。ゲストの井谷もほぼ同時期にツアーで渡米していたと言うし。
それではインフォメーションをどうぞ。なお、詳細は次のURLをご参照ください。
http://gekkasha.jugem.jp/?cid=43767
益子博之×多田雅範=四谷音盤茶会 vol. 14
2014年7月27日(日) open 18:00/start 18:30/end 21:30(予定)
ホスト:益子博之・多田雅範
ゲスト:井谷享志(パーカッション・ドラム奏者)
参加費:¥1,300 (1ドリンク付き)
今回は、2014年第2 四半期(4~6月)に入手したニューヨーク ダウンタウン~ブルックリンのジャズを中心とした新譜CDのご紹介します。例年通り6月下旬にNYの定点観測に行って参りましたので、そのご報告もさせていただきます。
ゲストには、パーカッション・ドラム奏者の井谷享志さんをお迎えすることになりました。益子の訪米と前後して、藤井郷子ニュー・トリオの一員としてアメリカ・ツアーに行って来られたので、別の視点からシーンの動向などを語っていただきます。お楽しみに。(益子博之)

2014-07-20 Sun
津田貴司が益子STARNET RECODEで「音の設え」を担当すると言う。この試みを紹介するとともに、この件に関しFacebook上で取り交わされたやりとりが大層興味深かったので、これに触れることとしたい。津田は今回の「音の設え」の試みについて、次のように案内している。

『星眺酒場』ー2014夏ーオープン17:00〜21:00(L.O 20:30)
於・STARNET RECODE
http://www.starnet-bkds.com/
8月2日と3日は、鹿沼にあるレストランmikumari高橋シェフが料理を担当。2日のみ、結城cafe la familleの奥沢シェフも参加。鮎のコンフィや地野菜のロースト、地鶏の煮込みなど、フレンチをベースとした大地の力に満ちたお料理でおもてなしします。
私のほうは、古いアジアの音楽、静かな民族音楽、森と水の音楽、空と星の音楽などの「音の設え」をしてお待ちしております。
夏の小旅行がてらお越しいただけますよう。
STARNET RECODEについて少し。
このほど無事にリイシューできた『湿度計』ですが、元はと言えば、2007年7月、益子STARNET RECODEの杮落し展示として発表したサウンドインスタレーション『湿度計』の音素材がモチーフになっています。このときはまだ壁も何もなく文字通り伽藍堂の状態だったのですが、その後何度もコンサートやワークショップでお世話になり、レコーディングエンジニアとして何度か仕事もさせていただき、土祭のときは屋根裏に泊まったり、非常に思い入れのある大切な場所なのです。
栃木県益子町に関して。
とても素敵な場所です。やや交通の便はよくないものの、そのおかげもあって古い暮らしが残っており、陶芸木工はもとより、藍染め屋、味噌屋、造り酒屋が町の中にあるのはすごいことだと思います。日帰りでも20時ごろの電車で東京都内まで帰れますし、お車の場合も常磐道を使えば都内まで2時間くらいでしょうか。益子廻りのご案内もできますので、お越しの方は一声おかけください。


さて、『湿度計』は「サウンドインスタレーション」と紹介されているにもかかわらず、今回の試みは「音の設え」。両者はどのように異なるのだろうと思っていたら、Facebook上で興味深いやりとりがなされた。最初、津田が選曲の苦労を漏らしたところから始まったやりとりは、彼が「こういうの、自分が好きなもんだけダラダラかけてるような垂れ流しが一番良くないですから」と述べたところから一気に深まりを見せる。これに対し、「垂れ流しと一線を画すには一日のなか及びもう少し短い時間の中で空気感、抽象的なストーリーや世界感をもたせていくという事でしょうか? そうだとして、来訪者は各々、ランダムに切り取られた作品の断片を体験する事になります。それでも来てくれた方にそのストーリーは伝わるのでしょうか? それでも伝わるという事が音楽が時間ではなく空間に属するという事なんでしょうか?」との突っ込みがあったからだ。
その後の津田の発言を見てみよう。
BGMは、誰が聴いていようが聴いていまいが垂れ流されているもの、です。それは香料を振りまくのと同じで、必要ない人もいる。それに対して、その時その場に必要最小限の音を選ぶ、という感じですね。DJみたいにつながってる必要もないし、しっかり聴かせる必要もないけど、ただとりあえず流しておく、という態度とは真逆のやり方を考えてます。
「音楽が時間ではなく空間に属する」という考えですが、これは(とくにフィールドレコなんかは)その時の空気の感じだとかその場所の地形だとかが、音の響きによってわかったりする。その時その場にタイムスリップする感じも含めて、音は一瞬で場をつくってしまう、ということです。
なので、今回は、STARNETという場に元からある雰囲気に、風に乗っていろんな音が聴こえてくるみたいに、いろんな時代や地域の音楽が流れ込むとおもしろかろう、と考えて選曲しています。
音楽を演奏する、あるいは今回のように音を選択し配置することを、アーティストの意図の表現/具現化ととらえてしまいがちだ。ここには幾つかの明確に意識されない前提がある。まず、作品はあらかじめアーティストの内部で完成しており、それが外部に投影され、実質的な輪郭を得るということ。もうひとつは、こうした作品の起源である「意図」はアーティストによって無から生じせしめられたものだということ。
ほとんどのアーティストは自己表現が自らの生業だと考えているから、こうした前提は受容者の側と共犯的に共有され、意識に上ることはない。まあそれはそれでしょうがない。けれど、今回の津田の試みに関しては、そうした枠組みを外してかかった方が、より豊かな体験が得られるのではないかと思う。
ここで、津田がSTARNET RECODEという特定の空間に注目し、その雰囲気や空間の特性を重視していることに注目しよう。STARNET RECODEは決して無色透明、無味無臭の抽象空間たる「ホワイト・キューブ」としてイメージされているわけではない。具体的な、他のどこでもないその場所特有の色や手触り、匂いを持ち、特定の時間の痕跡を留め、固有の記憶を堆積させた場としてとらえられている。津田はその場所で何度となく作業に勤しみ、時には寝泊まりして時を過ごし、空間を呼吸した。彼は選曲しながら、音を白紙の上に並べていくのではない。自らに刻まれたSTARNET RECODEの痕跡/記憶とせめぎ合わせ、あるいは敷き重ね溶け合わせていくのだ。それは特定の場所との対話/共同作業と位置づけられよう。
選ばれた曲を続けて聴いていけば、もちろんそこにストーリーが浮かび上がることもあるだろう。だが、音楽だけで自閉的に完結したストーリーが先にあるわけではあるまい。あくまで一曲一曲が運んでくる、あるいは醸し出す時間/空間と、STARNET RECODEの時間/空間との響き合いが先に思い描かれているのではないか。
とすると、むしろそれは、STARNET RECODEの空間を、そこに刻まれた痕跡や記憶を含め、音により浮かび上がらせていく作業と言えるかもしれない。ライティングのアレンジメントが壁の趣や天井の高さを改めて照らし出し、柱や梁の表面を舐めていくヴィデオ・カメラが風雪の記憶や時間の堆積を丹念に紐解いていくように。
と、このようなことを考えてしまうのは、やはり即興演奏のことが頭にあるからだと思う。即興演奏は、あらかじめ楽曲や素材を準備することなく、その場で無から有を生じさせる魔法のようなものととらえられがちだ。すべてはアーティストの思念から、意図によって完璧に制御された身体の運動から生じていると。
これを裏返して、何も準備することなく演奏の場に臨み、自らの思いに従って身体を動かせば、それが即興演奏であり、すでにして行為としての価値を保証されている‥というとんでもなく誤った思い込みが生じる。こうした即興演奏は、まさに津田の言う「自分が好きなもんだけダラダラかけてるような垂れ流し」に過ぎない。
何もない空中から、魔法のように音を取り出し紡いでみせるかように思い込まれている即興演奏が、実は沈黙のざわめきに眼を凝らし、そこに刻まれた痕跡を読み取って、そこに重ね描きすることから始めるよりほかはない、外と触れ合って外を発見していく営為であることを、何度書き綴ったことだろう。
音は強い喚起力を持つ。一瞬の響きが時間の流れを、空間の襞を、鮮やかに浮かび上がらせる。その一瞬に耳をとらえて放さない響きはまた、ここに去来する旅人に過ぎない。一時の憩いを過ごすに留まり、決して住まうことはない。津田の選んだ曲たちは、食卓を囲む人々のもとを訪れ、興味深い異国の物語を語ってくれるだろう。そして束の間の香りを残して彼らは去って行く。跡形もなく。客席のざわめきや遠い厨房の喧噪、窓から入り込む風の響きはずっとここに留まり続けるにもかかわらず。やがて別の語り手が姿を現すだろう。そのようにして、彼らが去来し、物語が開陳され、イメージが交錯する「いま/ここ」こそが浮かび上がることになる。そして、そうした「いま/ここ」すらも、繰り返され流れ行く日々を思えば一瞬のことに過ぎない。
インスタレーションが、文字通り何かを空間/時間にインストールすることにより、ある特定の機能/作用を備えた別の空間/時間を開くのに対し、「設え」は動かすことができるものを運び込んで、その場限りの仕掛けを仕立て上げることを指しているのだろう。それは歓待のため空間/時間を、束の間つくりあげる趣向にほかなるまい。「設え」の英訳を調べていて、furnishという語に行き当たった。「必要な家具(furniture)を運び込んで部屋を使えるようにすること」という意味らしい。となれば、「音の設え」で運び込まれる音楽は、さしづめ「音の家具」ということなのだろう。はるか昔にヴェトナムでつくられたウォーター・ヒヤシンスで編まれた椅子とか、煙草に燻されてくすんでしまったカンボジアの屏風とか、台北のお茶屋に置きざらしになっていたチェストとか。これは何だかとても似つかわしい気がした。
そうした物語を秘め、記憶を宿した家具たちが、ふとひととき眼差しを惹き付け、肌理を露わにして、また、暗がりへと身を沈めていく。彼らは決して声高に自らを語ろうとせず、視線を遮らず、呼びかけられるまで無愛想にもこちらを振り向こうともしない。にもかかわらず、気がつけば魅惑的な後ろ姿を、あるいは横顔を有しているのだ。

選曲中の津田のCD棚
フィーレコ飯とは何か? − Field of Dining Sounds vol.5レヴュー What Is Fieldrecording Rice ? − Review for "Field of Dining Sounds vol.5"
2014-07-10 Thu
金子智太郎出演ということで行ってきました新宿歌舞伎町。ネオンサインの入り乱れる演歌的情緒というより、ただただ原色溢れかえる汎アジア的エスニック色の濃厚さに窒息しそうになりながら、「DVDいらない?」、「DVDあるよ。48枚セット」等の頻繁な呼びかけをかわしつつ、よーやくたどり着いたBE-WAVE。会場は地下でまだ準備中とのことで、しばし1階の客席で強力な冷房に震えつつ待たせていただく。準備か整ったとて地下に降りると、「飯の友」の盛りつけ作業中。予想を遥かに上回る品目・内容の充実ぶり(20種類以上はあったかと)に驚く。金子智太郎や以前に虹釜ゼミでお会いした方(お顔を覚えてなくて申し訳ありませんでした)に挨拶しながら、「飯の友」の準備を今か今かと待ち受ける。この時点ですでにフィールドレコーディングのことは頭から消えていました。
予定開始時刻をずいぶん回り、BE-WAVEオススメの大葉味噌(牛ひき肉の味噌味そぼろ)のまったりとした味わいをとともにようやく飯を噛み締めることができた時、すでに音楽が鳴っていることに気づく。主宰者によるtakuyaによるDJは、フィールドレコーディングされた野外の環境音であっても、おそらくは再生環境のせいもあり、風景としての視覚的なパースペクティヴを結ばない。マイクロフォンに衝突する空気の流れや塊が立てる衝撃音が、バラバラと降り掛かる。あるいは突如として挿入される説明のナレーション。声よりも先にマイクロフォンを直撃する息の力。そこには「フォノグラフィー」的なフィールドレコーディング作品が当然の前提としている「対象化のための距離の確保」が欠けていて、音像はいつも唐突に姿を現し、なかなか輪郭がはっきりしない。子どもたちの遊び回る声も、よく癒し系アンビエント・ミュージックで用いられているような、濾過された希薄なイメージではなく、何ともけたたましく騒々しい。マイクロフォンに向かって声を張り上げ、思いっきり歪ませるヤツまでいる。おそらくは子どもの声からの連想で‥ということだろう、聴き覚えのあるムーンドッグの曲(夫人が日本語で赤ん坊をあやすヤツ)が流れ、これ自体「異形」の作品とはいえ、フレームに収められ確かな輪郭を有する音響の手触りの確かさと安心感に束の間ほっとする。
ご飯一杯目は、先の大葉味噌、ベーコンが入ったマッシュポテト(?)、生柴漬け、トマトの青山椒・塩漬け、カリフラワーとグリーン・アスパラガスのピクルス等の小鉢系おかずで平らげる。ケータリング担当の女性オススメの生柴漬けは調味液ではなく、塩水で茄子と赤紫蘇をじっくり乳酸発酵させたという逸品。ぬかみそ漬けも乳酸発酵だが、「ぬか」という媒介項が、食べる時点では洗い流されているとはいえ、だいぶ当たりをソフトに和らげていると思う。対してこちらはもっとストレート&ハード。それでも角の丸みからうまみが染み出てくる感じに、発酵食品の真髄を感じる。赤紫蘇を噛み締めた時のジュワッと感とか。2杯目は冷や汁かけご飯メインで、おかずは継続。3杯目はカレーがメインで、付け合わせを味噌漬けやラッキョウの醤油漬けにシフト。BE-WAVEスタッフの方に「よく食べますね」と言われる。確かに最近はこんなに飯をドカ食いすることってないなー。カレーはスパイシーなのはよいが、たぶんスパイス使い過ぎ。大正漢方胃腸薬を水なしで飲んだような感じが。
DJはamephoneに交替。路傍からとらえたと思しき異国の空間が広がる。やはり再生環境のせいか、奥行き感は明確ではないが、スピーカーの向こうにここではない世界が開けている感覚。だがそれも次々に重ねられ取り替えられて姿を変えていく。流れる景色に耳をなぶらせているうちに、急に日本語が飛び込んで来て慌てる。聴けば「仰げば尊し」の合唱。どうも卒業式の光景らしい。こちらもtakuyaの子どもの遊び声同様、癒し系の夢幻的な希薄さはなく、生々しい限り。
続いては金子智太郎のレクチャー。今回はtakuyaが聞き役を務め、1975年から79年にかけて音楽の友社から発行されていた「ロクハン」という雑誌の話。「ロクハン」=6.5ということで、フルレンジ・スピーカー、鉄道模型、ウェット・スーツと様々なものが該当するが、ここでは「ロケハン」=ロケーション・ハンティングのもじりで、「録音ハンティング」を指す。つまりはテープレコーダーによる「生録」をテーマとする雑誌。
こうした雑誌が創刊された背景には、カセット・テープの登場、録音機器の小型化・軽量化・低価格化があり、「レジャーのお供にテープレコーダー」的な新たな趣味/ライフスタイルの確立による録音機器の販売促進があったのではないかとのこと。
内容も鳥や虫の声、祭りの音、蒸気機関車の走行音といった、いかにもな「生録」の定番モノから、同じオーディオ系ながら本来は別流派のはずのステージ演奏の録音、さらにはBCL(短波放送受信)の録音、録音素材による作品づくり(その後の「宅録」につながる)など多岐に及び、簡単な紹介を許さないところがある。
金子によれば、雑誌の編集方針も変遷があり、初期はアイドルのポスターこそ付属していたものの、ほのぼのイラストが表紙を飾っていた「趣味」の雑誌だったのに対し、後期には表紙がアイドルの写真に変わり、内容も迷走しつつ、シンセサイザーの普及等もあって、「宅録」的な方向に傾いていくという。それでも、いつの時期でもインドア/アウトドアという対立軸が微妙に入り混じっていたという指摘はその通りだろう。非常に興味深い点だ。
レクチャーが始まる前に、「ロクハン」をパラパラとめくりながら金子といろいろな話をした。
鳥の声だと、どの種はどんな鳴き方でどこにいて‥と、やはり対象を明確に切り取る、言わば「昆虫採集」型フィールドレコーディングが目指されている。音風景を丸ごととらえるという風にはなっていない。
鳥の声にしろ、虫の声にしろ、それがどこにでもあるうちは意識されず、なくなってきた、あるいはなくなってしまうという危機感が、それを対象として浮かび上がらせる。蒸気機関車はまさにそうした象徴であり、「生録」ブームはそうした保存志向、ノスタルジー志向ではないのか。昨今のフィールドレコーディング作品にも、もともとそうした傾向はあり、Gruenrekorderレーベルの初期作品等を見ると、理系の学者による学術的な記録としての録音作品が結構ある。やはり「失われていく環境の記録」というかたちでその文化的価値が位置づけられ、たとえば補助金の交付等にもつながっていたのではないか。
1970年に始まる国鉄の「ディスカバー・ジャパン」キャンペーンが、日本国内における「田舎発見」のムーヴメントを生じさせた。「生録」ブームへの仕掛けがそれを意識して、乗っかろうとしたものであることは確かだろう。
「生録」にはノスタルジー的なものも確かにある。祭りの音をとらえるにしても、訳の分からない混沌をとらえるというよりは、詩的な風景としてとらえる、たとえば遠くから聞こえてくる祭り囃子みたいなものに注目するということがある。かなり定型的になってしまう。
蒸気機関車の録音が「喪われていくものの記録」だというのはまさにその通り。当時は写真撮影の対象としても熱かった。写真派と録音派の現場での対立とかもあったらしい。写真派は「録音してる奴らはどけ。フレームに入ってくるな」と言う訳だし、一方、録音派は「写真撮ってる奴らは無神経に音を立てるな」ということになる。遠くから近づいてくるSLを、しゅんしゅんと線路が鳴る音からとらえようとする時、そんな遠くだと被写体にならないからカメラ小僧はくっちゃべってるだろうし。
1980年代からはマリー・シェーファーによるサウンドスケープの美学が入ってくる。あれってかなり伝統的というか古風な美意識な訳で、そこでますます「生録」がノスタルジックになっていくということはあったと思う。「ロクハン」終刊後はそっちへがーっと行っちゃうみたいな。
さらに金子が紹介した音源として、当時、ソニーが主催していた「録音コンテスト」の入賞作品がある。もちろんソニーは録音機器の販売促進のためにこうしたコンテストを開催していた訳だが、さらには優秀作品を審査委員長の荻昌弘の解説とともに収めたテープを、販促グッズとして配布していたとのこと。これにはかなりびっくりした。
内容もなかなか凄くて、現在にも通じるようなフォノグラフィー的あるいは生音を用いたミュジーク・コンクレート的作品なのかと思いきや、予想を見事に裏切るデタラメぶり。まずは英国ロンドンを訪れた際の記録なのだが、マーチング・バンドの隊列を追いかける本人の間抜けな実況(「ああ、見えてきました‥」とか)や隠しようもない荒い呼吸が前面に出た作品。最後には演奏が高らかに舞い上がるクライマックスを迎えるのだが、そこまでのプロセスがどーにもこーにも。だが審査委員長の荻は、これを優れたサウンド・ドキュメントだと誉め称える。続いては鈴鹿サーキットの様子をとらえたフォノグラフィー的作品「ヘアピン・カーブ」。これはカーブに突っ込んで来て抜けていくマシンのエンジン音、走行音、排気音、風切り音等を生々しくとらえており、背景の鳥の声等との対比でプレゼンテーションする巧みさも見せるが、前掲作の濃密な毒気の前にだいぶ影が薄くなってしまった。
続いては「声態模写」と題して、テープ速度の変調により、司会を担当する男性がそのままアグネス・チャンを演じるというもの。これまた失笑モノのネタだが、荻はこれを賞賛する。「巧みな計算」との評価はいささか的外れにしても、次の紹介作品とあわせて見ると、彼の価値軸が見えてくる。その次作とは若夫婦の夜の会話を「交換日記」と称して録音したもの。子どもの成長を記録するために録音した歌声のテーブなどよりも、もっと徹底的に無価値でくだらない、何の聞きどころもないだらだらした会話が続く。「夫婦どっちがやろうって最初に言ったんだろう」と隣のテーブルのamephoneが漏らしていたが、そうした覗き見的な興味しか持ち得ない作品だ。だがこれを荻は、「録音の対象は我々の日常のどこにでもある」ことを気づかせてくれる作品と賞賛する。あるいはプロの真似をするのではない、アマチュアに徹した作品とも。前述のアグネス・チャンとも共通するのはこの点だろう。それは最初は写真館だけにカメラがあって、人生の節目だけに撮影していたものが、旅先にカメラを持っていき、あるいは子どもの成長をとらえ、さらには携帯電話と一体になって、日常のありとあらゆる瞬間の「○○なう」とのつぶやきに添えられるまでになった写真の流れを見越しているのかもしれない。
だが、そこにある切断を見なければならない。たとえば録音は写真のようには普及しなかった。カセット・テープで4トラックの録音を可能とし、しかもピンポン録音によるMTRとして自宅における多重録音への道を開いたティアックのTASCAMが1984年の発売で、「宅録」はむしろプロとアマチュアの障壁を消去する方向に向かう。その傾向は、録音/編集がデスクトップで行われるようになり、さらにはノートPCでも可能になった現在、ますます強まっていると言えよう。「宅録」ミュージシャンたちは、トップ・スターがどんなソフトを使っているかを調べ上げ、それを導入することに血道を上げた。アプリケーションは多様化し、確実に「使いやすく」なっているだろう。誰でも手軽に「プロ並み」の作品が作れる‥というように。ヴォーカロイドはそのシンボルとでも言うべきものだ。そこにかつてのDIY精神は失われ、とんでもない誤用は姿を消す。エレクトロニカの発展の中で起こったグリッチやエラーへの注目も、結局は新しい音色やエフェクトの獲得以上のものではなかったのではないか。その点では私はJohn Zorn, Christian Marclay, David Moss, Elliott Sharpたちが繰り広げた「廃物」利用による自作楽器の制作をはじめとして推し進めた「フリー・ミュージックのリサイクル」の戦闘的姿勢を高く評価している。
テクノロジーの強制してくる予定調和性は以前より強まっているだろう。それでもその裏をかくことはできる。たとえば画面中央を空っぽに抜くことで、デジタル・カメラの画像エンジンを空振りさせる多田雅範の写真。だがむしろ、強制されているのは社会的行動規範の方だ。スマホ画面上を忙しく滑る指の下でチェックされる大量の情報は、もはや写真抜きでは眼に留めてもらえない。だが、その写真も改めて注視されることはなく、一瞥の中でただ通過されるか、「いいね」を付して通過されるかのどちらかだ。もはや写真はインデックスですらなく、アイキャッチの目印、読み解かれることのない記号に過ぎない。逆に言えば一瞬で情報消費できないサウンド/聴覚情報の弱点とは、すなわち象徴的消費の潮流に抗う根拠であるはずだが、そもそも音自体がyoutubeで飛ばし聞きされ、MP3プレーヤーでながら聞きされるしかないのであれば、それもはなはだ怪しいものだ。
かつて金子は「アンビエント・リサーチ」の第3回で、John HudakとJeph JermanによるデュオDomaine Poetiqueのカセット作品を採りあげ、メディアとしてのカセット・テープの特性を分析しながら、しかし、だからと言ってカセットに戻ればいいとか、カセットを使えば優れた作品ができるということではないと、その付可逆な切断を強調していた。ここでも、1970年代後半に未整理のままうずたかく積み上げられていた、様々な雑多な可能性に、今更憧れてみてもダメだと言うことだ。
炊きたてのご飯が来たところで、早速、二口ほど食べてみる。やはり炊きたては香りや甘さが際立っている。うまいな。これ。それでは「締め」ということで、上州卵の卵掛けご飯を試みる。4杯目。こりゃうまいわ。
続いてのDJはkuknacke。始めてからしばらくして、急に怒声が響く。「お前ら聴かないなら帰れよ」と。一瞬にして静まり返る場内。それでもスピーカーから放出される怒りは延々と続く。周囲の会話によると、どうもDJ企画「ギラギラナイト」時の岸野雄一による説教らしい。もちろんヤラセではなく、マジ怒っているのだが、それを後にCDにして販売したというから商魂たくましい。もちろん繰り返せば「ああ、あれか」と一瞬で片付けられてしまうネタには過ぎないにせよ、聴き手への働きかけ方の、あるいは聴き手としての音への対応の様々な可能性について考えながら、少々早めに会場を後にした。
Field of Dining Sound vol.5
2014年7月8日(火) 20:00〜24:00
新宿歌舞伎町BE-WAVE B1F
DJ:takuya,amephone,kuknacke
講義:金子智太郎
飯の友提供:タナカアスカ、BE-WAVE


追記:掲載写真を検索していてわかったのですが、このイヴェントの記念すべき第1回は名古屋スキヴィアスで開催されているんですね。さすが。takuya=田んBoyであることも、いま初めて知りました。不勉強でした。ごめんなさい。