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福島恵一

Author:福島恵一
プログレを振り出しにフリー・ミュージック、現代音楽、トラッド、古楽、民族音楽など辺境を探求。「アヴァン・ミュージック・ガイド」、「プログレのパースペクティヴ」、「200CDプログレッシヴ・ロック」、「捧げる-灰野敬二の世界」等に執筆。2010年3~6月に音盤レクチャー「耳の枠はずし」(5回)を開催。2014年11月から津田貴司、歸山幸輔とリスニング・イヴェント『松籟夜話』を開催中。

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stilllifeライヴ@水道橋Ftarri  Review for stilllife Live at Ftarri Suidobashi
 地下鉄の駅から出て、一本、裏通りへ入る。鬱蒼と暗い金刀比羅神社の木立の脇の路地に、何やら人だかりができている。祭りの準備か後片付けだろうか。向かいのビルの地下に降りてスタジオみたいな重い防音扉を開けると、天井の高いFtarri水道橋店の空間が広がる。店主の鈴木美幸に、もうですか、早いですねと声をかけられる。彼らもさっきセッティングを終えたところで、いま外に食事に行っていますと。見るとタイル・カーペット敷きの床に音具が並べられている。奥のデスクにはラップトップPCが置かれているから、本日は「封印」していたエレクトロニクスの使用もあるのだろうか。

 演奏はまず津田貴司のソロから。床に座り、木製のボードを前に据える。厚みがあり、角の丸い四辺形をしていて、さんご色の塗装が美しい。床に置いてあった小石をつまみ上げて、ボードの上に載せる。カツンという響きが室内に波紋を広げる。電気増幅がされているようだ。別の小石が載せられ、指先で回される。カラカラした響きが広がる。stilllifeも演奏で小石を用いるが、たとえば石と石を掌ですり合わせて立てる響きは乾いていて、きめ細かく目が詰んでおり、表面の様子が眼に浮かぶ感じがする。対して増幅された物音は黒く濡れていて輪郭が曖昧に滲んでおり、ちょっとぞっとするような虚ろな奥深さをたたえている。そう思い浮かべながら、それが小石の音ではなく、小石に打たれた木製ボードの音であることに改めて気づかされる。おそらくは中が中空になった共鳴体構造なのだろう。小石の衝突に耳がそばだてられ、接点へと絞り込まれた耳の焦点は、中空に共鳴し電気的に増幅された響きの広がりを取り逃がし、素早くズームを往復させるように、しかるべきフォーカスを手に入れる。すると津田は何度か試した小石の音響をサンプル&ホールドし、背後の壁面へと投影する。遠い響きの中で音の影が左右に移ろう。彼方で響く音は時に交錯し、間歇的な透かし彫り文様を描き出す。
 そうして空間を設えた後、津田が件のボードを裏返すと、そこには弦が張られていた。後で訊くとオート・ハープの鍵盤を外したものなのだと言う。弦の留め金部分を音叉でこする。かちゃかちゃとせわしない響きが中空に浮かび上がる。指が弦にアクトし、ゆるやかにハープの音色がたゆたう。ラジオからのホワイト・ノイズがそれに混ぜ合わされ、濁りやざらつきを備えたことでゆっくりと息が通い始めた密室の空気を、弦の弓弾きがゆるゆると渡って行く。

 デスクが中央に運ばれ、ラップトップに明かりが灯る。PCに向かう笹島を見るのは、初めての出会いとなった一昨年末のイヴェント『Study of Sonic』以来かもしれない。
 微かなざわめきが次第に大きくなって、さあーっと降り滴る水の薄い幕が、暗がりに沈む背後の壁面に引かれる。暗がりに耳が慣れ、軒先から滴る大きな水滴や石畳で弾ける飛沫が次第に像を結び、そこかしこに浮かび上がる。彼らしい端正なフォーカシングが、微細な飛沫が顔にかかるような繊細な肌触りを生み、閉じられた空間の正面の障子をぱあーっと開け放って、庭からの涼風を招き入れる。
 しかし、そうした涼やかな風景の生成のうちに、いつしか不穏さが芽生える。ホールのような天井の高いヴォリュームのある空間に生じる対流ノイズが静謐さを侵食し、ドンドンという低域の輪郭を結ばない不定形な高鳴りやしゅーしゅーと空気が漏れるような音響が平穏さをかき乱す。さらに金属片で石を擦るような冷ややかな肌触りの音響が加わる。開け放たれた障子の向こうへと開かれていた耳の見通しは、いつしか混濁し、彼方で小鳥がさえずっているように聴こえるが、響きの輪郭は曖昧で確固たる像を結ばず、電子音のようにも聴こえる。水の滴りがクローズアップされ、銅鑼らしき響きが静かにたゆたって、いよいよ空間は濃密さを増していく。浅瀬あるいは水たまりを渡る足音が横切るが、その軽やかさは眼の前にたちこめる「もやつき」(それは無数の鈴の音にも上空を通過する飛行機の飛行音にも似ている)に絡めとられ、粒子の運動、密度の勾配の変化として現れることになる。

 ここで前半が終了。幕間に鈴木がかけたLaurence Crane『Chamber Works 1992-2009』(another timbre)の、かつてのObscureレーベルの諸作を思わせる熱を帯びない典雅さと洗練された平坦さが、室内にこもった、ぴりぴりと励起された沈黙の「火照り」を冷ましていく。これまでの「予想外」の展開をたどり直してみる。
 津田はFacebookの書き込みで、最初考えたギターのソロはやめて違うことをすると言ってはいたが、「自然の事物の立てる物音を電気増幅する」とは思わなかった。というのは、それは彼らのPV(※)にも残されているように最初期のstilllifeの演奏アプローチであり、彼らが演奏を研ぎ澄ます中で切り捨ててきた「いつか来た道」なのだ。また、電気増幅を直接コンタクト・マイクで行うのではなく「裏返したオート・ハープ」という「反(半)楽器」を媒介とし、さらに演奏の後半はそれを改めて楽器として演奏すると言う「断層」を仕込みながら、むしろ演奏は途切れることなく、ゆるやかに降り積もり堆積していった。
 一方、笹島はこれまた「やりながらものすごく違和感、閉塞感を感じていた」と語っていたラップトップPCによる演奏を復活させ、かつフィールドレコーディング素材を用いた「フォノグラフィー・セッション」がテンプレートとするイメージ変容の流れや物語的な情景の喚起によらず、彼らしい精緻にとらえられた音景色を基調としながら、アブストラクトな操作を通じて生々しい肌触りの起伏を生み出してみせた。
 両者のアプローチは、互いのソロ作品の傾向とも、デュオであるstilllifeにおける「役割分担」とも異なっていた。

津田貴司のセッティング。裏返されたオート・ハープが見える。


 二人が向かい合って床に腰を下ろし、stilllifeの演奏が始まる。ちりちり。ちん。こーん。吊り下げられた金物がかそけく鳴らされ、音色が、空間が試されていく。
 階段を降りてFtarriの店内に入り、床に並べられた音具を見た時からぼんやりと感じていたのだが、この空間はおそらくこれまで私が聴いてきた中で、彼らにとって最も厳しい「アウェー」環境にほかなるまい。カーペットに覆われた床は響きを吸い込むだけでなく、音具を引きずって表面の質感が粒立つような響きを生み出すことができない。空間の揺らぎを可視化し、演奏者と聴衆を共通に包み込み照らし出すキャンドルもまた封印された。天井が高いのはいいが、閉ざされた密室で外の響きも空気も通わない。やはり外の音の入らない喫茶茶会記で行われた彼らのライヴの「息苦しさ」について、以前にレヴューしている(※)。そこから一部引用しよう。

 演奏の始まる前に、立川セプチマでしたのと同様に(というか基本的にはすべてのライヴで行っているのだが)、耳を環境にチューニングする。人の話し声等の「意味」のあるフローのレヴェルから、そこにもともと横たわっているざわめきのレヴェルへと身を沈めていく。椅子の軋み、フローリングの床を歩き回る足音、頭上を通り過ぎていく話し声、咳払いや鼻をすする音、隣室でのやりとり、携帯電話の着信音、空調の動作音‥‥。どうもこの辺が「底」のようで、これ以上潜って行けない。外の虫の声や雨音が聴こえてきたセプチマと異なり、路地の奥に位置した喫茶茶会記では、外を走るクルマの音すら聴こえない。耳の風景が開けきらないもどかしさ。(中略)巻貝の貝殻を床に転がし、キーホルダーのリングの触れ合いに耳を澄ますうちに、耳を浸し、身を沈め、触発されるべき微かなざわめきのたゆたいがここにはないことに、痛いほどに気づかされる。細く息が紡がれ続けるうちは明らかにならなかった沈黙の「貧しさ」が、息苦しく迫ってくる。皮膚感覚を研ぎ澄まし、耳の風景を開いて、「すでにそこにある響き」を借景としながら、そこに上書きするのではなく、その隙間に音を芽生えさせていく彼らの演奏にとって、そうした「景色」の不在はほとんど致命的な事態にほかなるまい。
※http://miminowakuhazushi.blog.fc2.com/blog-entry-260.html

 それでも喫茶茶会記では隣室の話し声や物音は聴こえた。Ftarriではそれすらも厚い防音ドアに閉ざされている。それゆえ「借景」となるべき下地が浮かび上がらない。細い金属棒が弓弾きされて倍音がたちのぼり、ミュートされた鈴がぽつりと音を滴下するが、思うように広がらない。動作がそのまま音になるだけで、すでにあるざわめきと重なり合いながら空間に滲んでいくことがない。ドライな潤いのない音。
 しかし、そこにあの息苦しさはない。彼らが焦燥感に駆られておらず、それが伝染してくることがないからか。彼らの振り撒き刻む音に耳を傾けるうち、上階の足音が降ってきて、空調の音(演奏開始前に、彼らは鈴木から空調を切るかどうか尋ねられ、断っている)の呼吸にも似た揺らぎが見えるようになってくる。水の入ったガラス瓶を揺らすコポコポ音が、空調の揺らぎの濃淡にはまり込み、浮き沈みを繰り返すようになる。小石を擦り合わせる音がそれをかがっていく。しばらく水音と石音だけのひっそりとしたシークウェンスが保たれ、持続の中で呼吸のリズムの手触りが確かなものとなっていく。彼らは淡々と行為を進めながら、ついに景色をつかんだ。
 カンテレの弦にe-bowが載せられ、持続音がどこまでも水平に伸びていく。中の水にガラスの粒を沈めたボトルが揺すられ、金属の粒の入った小さな金属缶が転がされる。下地となる呼吸の満ち引きが見出されたところで、一挙に響きが豊かになる。雨期の始まりを告げる一雨が伏流していた地下水脈を浮かび上がらせ、たちまちのうちに一面の花を咲きほころばせるように。再び細い金属棒が弓弾きされ、たちのぼる響きがe-bowの生み出す持続音と溶け合って、朝靄にけぶる魅惑的な響き(北欧トラッドを思わせる)をかたちづくる。

 stilllife第2部は、何と前半の各自のソロ演奏のセッティングに立ち戻ってのデュオ。
 津田が先ほどよりさらに間を空けてゆっくりと石を並べていく。その背景に、笹島が設えているのだろう、間歇的に鳴るちりちりとした物音が忍び込む。こちらの方が前景の物音よりも粒子が細かく解像度が高い。これに対し、裏返したオート・ハープの共鳴と電気増幅を介した前景の物音は、もっと粘性が高く、ある「かたち」を保ちながら、飴が溶けてテーブルクロスに染みをつくるように、空間に滲みを広げる。一方、彼方に希薄に広がるつぶやきと泡立ちは、一向に密度を高める様子がなく、さらさらと流動を繰り返して、かたちを結ばない。津田の指先もまた物に触れ動かすが、ほとんど音にならない。メッセージの形をした音やアクションが取り交わされることなく、集中だけが深まり、沈黙が濃密さを増していく。キーという高域の響きが一筋ふと浮かび上がり、隣の客の息音を浮かび上がらせる。耳の覚醒を高め、厚い沈黙を掻き分けて響きを探ろうとする私たちが、対象であるはずの音に照らし出されているように感じられる。いつの間にか細い水音が静寂の底を洗っている。津田がオート・ハープの弦にふーっと息を吹きかける。

 どうもありがとうございました‥‥演奏を終えて、津田が聴衆に挨拶を述べている。けれど現在リリースを待っているstilllife初のフルレングスCDの予告もなければ、店内に結構置いてあるstilllifeや二人のソロ作品の案内もせずに終わってしまう。いぶかしく思って声をかけに行き、そのことを告げると「ああ‥」と茫洋とした反応が返ってきた。喫茶茶会記での「苦闘」の後は、憔悴はしていたがこんなことはなかった。
 翌日の彼からのメールには「さすがにソロ+ソロ+スティルライフというのは気を抜けず、終演後は自分でも何喋ってるかわからない感じになってしまいました。うっかりCDの宣伝も忘れてしまいました」とあった。「魂を抜かれる」って本当にあるんだ。
 しかし、それにしてもstilllifeの二人はたくましくなったものだと、今更ながらに感心するほかはない。彼らについて、「聴くこと」=リスナーシップの確立に軸足を置くことによって、「空間恐怖」的に音を振り撒いて沈黙を塗りつぶさずにはいられない「演奏する身体」を離れることについて記してはきたが、それでも空白があれば強迫的に音を出し、音を出せばこれまた強迫的にそれを加速し切り刻まずにはいられないのがプレーヤーシップというものだ。今回の「アウェー」の過酷さに、彼らは目まぐるしい試行錯誤の慌ただしさではなく、沈思黙考をもって応えた。それゆえに限界を超えた集中が引き出され、「魂を抜かれる」ことになったのかもしれない。ライヴ時のアナウンスでは「ソロを先にやってしまうと、その分、stilllifeでやれることが狭まってしまってヤバいな‥と」と話して聴衆の笑いを誘っていた彼らだが、先に触れた翌日のメールには「たしかに地下の密室ということで、どうなるかと思いましたが、石神井氷川神社のあとでは室内ならどこも同じかな、という割り切りができたかもしれません」と書かれていた。

 「割り切り」を促した要因は他にもあるだろう。たとえば先に触れた初のフルレングスCDの制作の過程で、彼らは初期に録りためたフィールドレコーディング音源、富士山や益子での野外での演奏をすべて切り捨てている。もちろん、それが不出来だからではない。1枚のCDに収める音源の取捨選択との視点に立って、自らを客観視した結果である。そうした「切断」が、これまで切り捨て遠ざけてきた電気増幅やラップトップPCの使用を、改めて可能にしたのだ。そこで「過去」はオブジェ化されて可能な選択肢の一つとなり、「ポスト○○(○○後の世界)」の視界が開ける。いったん閉域の外に出ることができるのだ。
 1年以上に渡るフィールドレコーディング体験は、過酷にして濃密な、どれも他に代え難く貴重なものであるだろう。しかし、「ああもあり得た、こうもあり得た」可能世界の限り無ない広がりをぎゅっと縮減し、「こうとしかなり得なかった、こうでしかあり得なかった」運命的必然を導くことが、そこでは求められる。そしてこれはありとあらゆる「即興的瞬間」に課せられた掟なのだ。「即興的瞬間」においては、ありとあらゆる可能性が眼の前に開かれていながら、具現化するのはそのうちのほんの一つに過ぎない。この残酷さと向き合うことのない演奏は、単に見果てぬ夢を追うだけのとめどのない、弛緩しきったものと成り果てる。それはだらだらと続く人生の、果てしなく繰り返される他と何の変わりもないひとコマに過ぎない。もちろん、ただ一つを選べばよいわけではない。そこでの選択はまさに運命を決定するにほかならないのだから。

8月23日(土)午後7時30分開場、8時開演

津田貴司ソロ、笹島裕樹ソロ、スティルライフ(津田貴司 + 笹島裕樹)
会場:Ftarri水道橋店
主催:Ftarri


こちらは8月30日、阿佐ヶ谷ギャラリー白線におけるstilllifeライヴからの写真。
珍しくまだ陽の高いうちの演奏。

なお、写真はすべて津田貴司FBページから転載しました。


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ライヴ/イヴェント・レヴュー | 23:32:55 | トラックバック(0) | コメント(0)
羅府夢衆展 − LAFMS (Los Angeles Free Music Society) and Their Friends in Slow Life Avant-garde
 TOKI ART SPACEで行われるLAFMS関係の展示、ライヴ、トークを観に外苑前へ。今回はこの催しについて内容をリポートするとともに、観終えて考えさせられたことを書いてみたい。掲載の展示やライヴの写真はすべて
 LAFMSについては、このブログでも以前にArt into Life主催による「映像によるLAFMS」展@宇都宮を紹介している(※)。その時に講師を務めたLAFMS関連のオーソリティ科補(シナプス)こと坂口卓也が、今回の催しの首謀者である。まずは彼による催しの案内を見てみよう。なお、今回掲載の展示やライヴの写真はすべて坂口のFacebookページから転載させていただいた。
※http://miminowakuhazushi.blog.fc2.com/blog-entry-133.html


1972 年から現在まで
日常に前衛を融合させてしまうユル~い音楽共同体
LAFMS こと Los Angeles Free Music Society と
そのフレンズの展覧会を催します。
タイトルの『羅府夢衆』とは私の造語。
米国日系人の方々が用いる『羅府』を引用しました。
それは Los Angeles を表す言葉。
"Dreamers" を意味する夢衆をそこに融合。
ロサンジェルスの夢見人達を表します。
発音は『ラフムス』。
もちろん LAFMS の方々を指しています。
それに留まらず彼らの精神的友人をも含むでしょう。
会場の TOKI ART SPACE は 1977 年と 79 年に
LAFMS の中核である Joe Potts の個展を
当時銀座に在ったルナミ画廊で催すことに尽力された
トキ・ノリコさんの画廊。
新旧とりまぜた作品を展示すると共に
LAFMS の音楽を常時紹介するなど
濃厚ながらユル~く進行いたしますのでご期待ください。
期間 - 8 月 21 日 (木 ) ~ 24 日 (日)
時間 - 11:30 ~ 19:00 (24 日のみ 16:00 終了)
場所 - 〒150-0001
東京都渋谷区神宮前3-42-5サイオンビル1F
 TOKI ART SPACE


 奇想に溢れた造語感覚など、彼の面目躍如たるところ。また、彼らを夢衆=Dreamersととらえ、その濃密さとともに「ユルさ」を指摘しているのが、彼のLAFMS評価のキモと言えるだろう。これによって彼はLAFMSの活動を高く評価しながらも、徒に神話/伝説化したり、何か究極のスゴイものとして奉ったり、あるいは至高のイロもの/変態音楽として廃盤作品の値段を吊り上げたり‥‥というこの国の(もちろんこの国だけではないかもしれない)LAFMS評価の趨勢に、静かにヒューモアをたたえながら、しかし頑強に抵抗し続けているのだと私はとらえている。

 小学校の教室より少し小さい程度の広さのスペース(一部は事務スペースとなっている)に、活動開始時の貴重なプライヴェート写真の数々、LPやシングルのジャケット(写真やコピーではなく、本当に現物が展示されている)、彼らの作成したアートワーク等がペタペタとテープで貼りまくられ、あるいはジャンクな金属オブジェが壁に掛けられて、不思議にちょっと歪んだ空間が現出していた。ちなみに展示された作品群にはJoe Pottsが初期に手がけていた死体写真アートのようなセンセーショナルなものはなく、代わりに何と言うことのないスナップショットの一部がまるで心霊写真のように歪んでいたり、デッサンが神経症的な変形/解体を帯びていたり、デザインが幼児退行症的な乱雑さを示していたりと、いずれもどこか細部に「病的」な徴候をはらんでおり、それが波動として室内に放出され、先の歪み感を醸し出していたのではないだろうか。いや「病的」と言うのは当たらない。と言うより、「病的」というのは「健全」を明々白々な前提として、これに適合しないものを排除するためのラベリングにほかならない。こうした態度ほどLAFMSから縁遠いものもないだろう。あるいはかつて「有徴性」に憧れるが故に(おそらくは「凡百の他人と自分は異なる」ことをプレゼンテーションしたいのだろう)、ことさらに「ビョーキ」を喧伝吹聴して回る露悪的振る舞いが蔓延した(もちろん今もある)。こうしたこともLAFMSにはそぐわない。彼らは「ビョーキ」を売り物にしたことなど一度もない。しかしかつてCaroliner Rainbowが「精神病者がメンバーとして在籍している」ことを売り文句として、一部メディアに採りあげられたのとよく似た物欲しげな視線がLAFMSに向けられたことが幾度となくあったことは確かだ。


 やはりLAFMS関係の作品であるターンテーブルに載せられて回転する白いオブジェをひとつひとつ撮影したヴィデオ(※)を投影しながら、ライヴは冷泉淳、清水沙、内田静夫、康勝栄、橋本孝之、美川俊治の順でソロ演奏が行われた。おそらくは演奏時間を前もって決めておいて、前の奏者の演奏が終了する前に次の奏者が演奏を始め、少しの間デュオ状態となるのだが、対話関係をクローズアップする等により、デュオであることの必然性を強調したものはなかった。むしろ互いに相手を意識しない、反応しないことを心がけているように見えた。西荻窪のワイン・バーにちなんで「Orchestra Le Matin」と名付けられた、これら一連の演奏は、その名前の由来故か、正直LAFMSとの関連については計りかねた。ただ、エレクトリック・ギターの弦を糸で擦ったガサガサした音をループにして、重くのしかかる持続音を加えて揺り動かし、映像の異様さをある種の荘厳さへと高めてみせた冷泉、静かに吹き込まれた息を、ふと波頭を高く持ち上げ、甲高く鳴り響く咆哮へと変貌させる1972年の阿部薫を思わせる仕方でアルト・サックスを鳴らし切った橋本、その橋本と相似形のサウンドでスタートし、二人が同時に演奏することの意味合いをさりげなく示してみせた美川が印象に残ったことを記すにとどめよう。
※オブジェは既成のフィギアを改造したもののようで、銃や剣を持った兵士や牛や馬等の
 動物、あるいは木や花が暴力的に切断・再結合されている。解説によれば遺伝子組み換
 えに対する抗議を含んでいるという。


 続くトークは、バワーポイントで資料を示しながら説明する坂口が、折に触れて竹田賢一、藤本和男(第五列)、生悦住英夫(モダンミュージック、PSFレーベル)にコメントを求めるかたちで進められた。先の演奏者たちにも一部質問が振られていた。坂口は「映像によるLAFMS」展の時と同様、日本におけるLAFMS受容を竹田賢一によるディスク・レヴュー掲載から語り起こし、時代背景の特異性を浮き彫りにしようとしたと思われる。しかし、一人語りではない形式では、時代認識は当然のことながら拡散し、個人的な思い出語りとならざるを得ない。もともとユルさを志向していたであろうトークは、この導入部での「つまずき」によって、さらにユルくとりとめのないものとなっていく。以降に坂口が提出した論題、たとえば「フリー・ジャズやフリー・ミュージックに対するLAFMSのバックグラウンドのなさをどうとらえるか」、あるいは「アヴァンギャルド音楽、アンダーグラウンド音楽が受け入れられる素地とは何か」といった問いかけは、他の発現者のコメントから拾い上げた展開ではあるのだが、「LAFMSとの出会い」とか、「(前衛)音楽との出会い」という質問に置き換えられて出演ミュージシャンへと投げかけられると、これまた思い出語り以外の内容を引き出せなくなってしまう。結局、トークはユルく伸び切ったまま終了時刻を迎えた。しかし、後になって思えばだが、これは坂口にとって想定の範囲内であったようにも思う。「映像によるLAFMS」展では4時間以上に及ぶ説明と映像が「LAFMSとは何か」を伝えることに費やされた。LAFMS本体の活動内容の説明だけでなく、日本での受容状況や時代背景の解説は、「現象としてのLAFMS」を多角的に浮かび上がらせることに効果があった。今回の「羅府夢衆展」では、時間も限られている中で、発現としての、事態としてのLAFMSは展示に委ね、ひたすら受容について、すなわち「我々とLAFMS」、「共同性とLAFMS」について語りたかったのではないだろうか。そこでは肝心の「LAFMSの音」については知っていることが暗黙の前提とされており、「対象としてのLAFMS」がすでに示されている中で、そこから視点をずらし、「我々とLAFMS」について改めて考えてみることが主題だったのではないかと。すなわち、「LAFMSによって照らし出される我々」こそが問題だったのだと。もしそうだとすれば、作業はまだ緒に就いたばかりであり、これから粘り強く継続していく必要があるだろう。



 こうした理解を「我々」の一人であるはずの自分自身に適用してみよう。私とLAFMSの出会いについては、前述の「映像によるLAFMS」展レヴューで述べているので、引用しておこう。

 元はと言えば、池袋西武アール・ヴィヴァンで入手したフリー・ペーパー「AMALGAM #8」(ピナコテカ・レコード発行)に掲載された「科補おもしろニュース(2)」におけるLAFMS紹介記事(*1)が、LAFMSとの最初の出会いだったのではなかろうか。アール・ヴィヴァンでは、当時、コンピレーション「Darker Scratcher」やLe Forte Four「Spinin' Grin」など、彼らの作品も取り扱っていたし。前者は手に入れたけど、後者は試聴させてもらって迷曲「Japanese Super Heroes」でめげた記憶が‥‥。それでも懲りずに注目し続け、なぜか大学生協主催の中古盤セールで「Live at Brand」とか拾ったりするのだけれど。

 さらに調べてみると他にも出会いがあった。『Fool's Mate』誌上で秋田昌美が何度かLAFMSに言及している。たとえばvol.13では近藤等則へのインタヴュー「U.S.A.Free Music」の中で「ロスのLAFMSなどについてはどうですか」と尋ね、近藤からニューヨークと米国西海岸のフリー・ミュージックを巡る状況の違いを引き出している。また、vol.15+スペシャル・ストック所収の「未公開名盤150選」でJad Fair『The Zombies of Mora-Tau』について「ロスアンジェルス・フリー・ミュージック・ソサエティで活動するハーフ・ジャパニーズのドラマー」と紹介し、内容を「ポリバケツで骨でも洗っている様なトイ・ミュージックとでも言うのか、ジャドの幼児性と周到な生理科学が生み出したダダ的な音響詩。ギミックなしにフリー・ミュージックはこのようにタブラ・ラサの状態から導きださねばならない」と評している。さらにvol.17には水上はるこによるLAFMS紹介記事が掲載されているのだが、これはミュージシャンとの友達話ばかりで得るところがほとんどない。

 アール・ヴィヴァンでは在庫のあった作品が通常の価格で販売されていたし、たまたま安値で中古盤を拾う幸運にも恵まれたから、80年代初めにLAFMS作品を数枚所持していたが、それ以上血眼になってプレミアを出して買い求めるほどには熱狂しなかった。さらには彼らの活動自体が1982年のDoo-Dooettes『Look to This』以降、少なくともLAFMSレーベルとしては途絶えてしまう(個々のアーティストとしては他のレーベルから作品をリリースしていたりするのだが)こともあって、むしろLAFMS関連で知ることとなったZ'evやJad Fairは追いかけるものの、LAFMSそのものを「掘る」ことはしなかった。それでも彼らの存在は常に頭のどこかに引っかかっていた。

 その理由を自問自答する前に、ここで何本かの補助線を引いておきたい。今回のトークでもLAFMSのバックグラウンドのなさ、より率直に言えば演奏技術の拙さ、フリー・ジャズ〜フリー・インプロヴィゼーションのプロセスを経て洗練されてきた即興語法に関する素養のなさが話題となっていた。秋田昌美がレヴュー中で指摘した「タブラ・ラサ」ともつながる点だ。逆に「フリーなんて誰でもできる」発言に抗して、フリー・ジャズを演奏するミュージシャンがちゃんと楽器を演奏できる正統的なテクニックがあることを反論したり、あるいはフリー・ジャズのミュージシャンが、そうした「正統」な出自を持たないフリー・ミュージックのミュージシャンを見下すことも見られたと言う。
 今回のトークにおける生悦住の発言「アメリカの廃盤屋にTiny TimやPeter Iversといっしょに注文して‥」に象徴されるように、LAFMSはフリー・ミュージックや即興演奏というよりも、むしろサイケデリック文脈の中で、一種のアウトサイダー・ミュージックととらえられていた節がある。これは「キャラ立ち」という視点からとらえればなるほどと思う。たとえばPeter Iversの音楽を知る人なら、それが単なるキワモノでないにもかかわらず、どうしようもなく通常の音楽とは異質な「仲間はずれ」な匂いがしてしまう感じを理解していただけるだろう。
 一方、生悦住が発行していた音楽誌『G-Modern』第3号で、LAFMS作品『Live at Brand』を紹介する石原洋の筆致には、これと相通じるものがありながら、さらにそこから歩み出していく。「私がLAFMS系アーティストを取り上げるのは(中略)いまだに根強く残るサイケデリックとかアヴァンギャルドとか、そういったカテゴリーの壁面を少しでも可変的なものにしたいから、というのが理由のひとつである。(中略)確かに音楽的に見ればノイズ・マニアに人気のあるAirwayなど少しの例外を除いて、普通の人が聴けばガラクタに等しいものが多いし、あまりにも雑然としているため直接的なインパクトは期待できない。(中略)このような節操のなさ、無邪気な実験精神こそが60年代サイケの持っていた最良の部分だということは疑う余地のないことだし(中略)実に自然に音と戯れているように思われるのだが。」
 この石原の指摘を、前述の竹田による先行レヴュー(「ジャズ・マガジン」1977年11月号)と重ね合わせてみよう。「このジャケットでもわかるとおり、L.A.F.M.S.のミュージシャン(?)たちは、その出発点を60年代後半のザッパやビーフハートに代表されるロックの異化ムーヴメントに持っているのに違いない。次々と輩出したサイケデリック・ロックのグループが、コマーシャルに、また風俗的ファッションへと風化していく中で、フリー・ジャズやヨーロッパのフリー・ミュージック、あるいは電子音楽、テープ音楽などの現代音楽と出会いながら、音楽に与えられる定義を片っ端から反故にしていった人たち。ミドル・ホワイトの自己解体の実験としては。パンクよりはるかに衝撃的な行為がここにはある。そして、これらもフリー・ミュージックなのだ。」 サイケデリック文脈やロックの異化作用への着目を両者は共有している。異なるのは、竹田がそれを戦略的にとらえているのに対し、石原が言わば「天然」と受け止めている点だ(そこが生悦住と共通する)。実は石原のレヴューには次のような、竹田の発言を意識した箇所が見受けられる。「"異化"だの"解体作業"だのと都合のいい言い回しがなければ単なるクズ扱いされても仕方のないものが殆どなので純ノイズ・マニアの方は高価なプレミアを支払ってまで入手しない方が身のためであろう」と。

 この国で一時「実験音楽」と呼ばれもした、「疑似ケージ主義」的な硬直したコンセプトに基づく自堕落なパフォーマンスに、私は一切の価値を認めないし、関心もない。まずそうしたクズとLAFMSを区別しよう。これは簡単だ。LAFMSの連中はもっともらしいコンセプトに価値を置かなかったし、硬直性とも無縁だった。彼らの楽器演奏技術は確かに卓越しているとは言えない。明らかに劣っている場合も多い。しかし彼らはそれを「売り物」にしているわけではなかった。ポーツマス・シンフォニアのような権威の引き下げを企んでいたわけではなかったし、技術不足のみを武器として「異化」や「解体」を進めているわけでもなかった。また、Cornelius Cardewのスクラッチ・オーケストラや大友良英のポータブル・アンサンブルのような、「楽器弱者」たちに開かれた「演奏の民主的平等主義」が、彼らの目指すところだったこともなかった。
 彼らのアニメや特撮、ホラー等への「オタク」的嗜好は、アメリカ西海岸のサブカルチャーに広く見られるものであって、彼らだけの特質では決してない。むしろ、彼らの電子音やテープ・マニュピレーション等のアナクロニックな電子音楽への偏愛、さらには精神分析的な無表情な語りや低く続く繰り返し等の催眠的要素への好みは、一時この国でも「モンド・ミュージック」の源流として採りあげられた「スペース・エイジ・バチュラー・パッド・ミュージック」そのものの趣味傾向と言ってよい。
 このように対象範囲を絞り込んでいくと、私の評価していたLAFMSの特質が、何よりも彼らの雑種性、すなわち絶えず夾雑物/媒介物を排除して直接性を求め、磨き抜かれた音へ(あるいはノイズならノイズだけへ)とひたすら純化を目指すことを自らに義務づけてしまいがちなフリー・ミュージックの世界にあって、なおそうした罠にはまらなかった柔軟さにあることが見えてくる。
 彼らは手製のアニメ・ソングを歌ってしまうぐらいで、演奏にあたり既成の枠組みを躊躇なく借用した。と同時にそれが書割りの枠組みであることを、おそらく片時も忘れたことがなかった。彼らは有名ロック・グループのようにロックを演奏することを目指していたわけではなかった。演奏技術の不足を熱狂で埋め合わせ、我を忘れることもなかった。そこには常に没入しきらない、醒めた対象化の視線が確保されていたように思う。たとえばAirwayの苛烈なノイズ流は、最終的に一人のミキサーによって放出される。彼は演奏行為に関わらずコントロールだけを担当する。それも、この演奏形態においてだけのことであって、LAFMSという集団自体に適用されるわけではない。「時間単位でレコードの溝を買う」システムもまた、集団の意図や水準を統一する代わりに、集団制作の只中にアンデパンダンの思想を持ち込むことだった。
 そこで彼らの有するノン・ミュージシャン性や反プレイヤーシップが活用され、大きな効果を挙げていることは確かだろう。彼らがプー・バー・レコード店で出会ったことが示すように、リスナーシップの高さが功を奏したことも疑いない。しかし、John ZornやArto Lindsayはじめ、NYダウンタウン・シーンの主要登場人物たちも多くはレコード店で出会い、高いリスナーシップを有していた。70年代後半と言う勃興時期もパラレルだ。それではLAとNYの違いは演奏技術水準の差異に求められるのだろうか。NYの特質はダウンタウンの狭さ/高密度にある。そこで彼らはたとえ約束していなくても道ですれ違い、カフェで隣り合わせる。ここでは即興演奏共同体は様々な新規参入者に突き動かされ、横切らざるを得ない。それゆえJohn Zornが彼らの間のコミュニケーション・ツールとしてつくりあげた「ゲーム・ピース」は、相互の交通を加速させ、参加者のパースナルな語彙を吐き出させては流通させるグローバルなマーケットの形をしていた(情報主義的で速度依存症なところまで両者は似通っている)。自動車がなければ友人の家に遊びにすら行けないLAでは、そうした超流動状態は生じなかった。LAFMSも開かれてはいたが、コミュニティ的な性格を残していた。そして何より彼らには「ユルさ」への、「Slow Life」への強い信念があった。
 Derek Baileyたちによるフリー・インプロヴィゼーションは、「ノン・イディオマティック」を掲げて、参加者の語彙を引き算的に共約することにより、共存のための場をつくりだす。最初に課した排除のための制約は、その後も演奏の場をドライヴし続け、演奏を加速し、断片化し、純化する。John Zornたちによる試みは、そのようにして硬直したフリー・インプロヴィゼーションをリサイクルするため、正反対の「パン・イディオマティック」の看板を掲げて市場を広く開放した。しかし、「フリー」であることのドライヴは演奏を極限まで加速し、個々人の差異を情報化し消費してしまう。これも「純化」のプロセスには違いない。
 これに対しLAFMSが継続したのは、「純化」を強制されることなく(あるいは強制される「純化」に抗いながら)、自由を実践し続けることだと言えよう。フリー・ミュージックのもうひとつのかたち。

 私は「映像によるLAFMS」展レヴューの結語に次のようにしたためた。

 もちろん、比較的最近のSolid EyeやExtended Organ、あるいはかつてのAirwayといったハードエッジな音響だけを切り分けて評価するのは、おそらくLAFMSに対する適切な接し方とは言えないでしょう。奇妙奇天烈なコラージュや酩酊したグルーヴ、幼児退行症的なヴォイスやおバカなパフォーマンス、各トラックの時間配分に基づく負担金制度によるレコード作成や社会的タブーへの苛烈な攻撃、コミューン的な共同生活‥といった要素/特徴を、あるひとつの精神のあり方の多種多様な発露/展開ととらえる視点が必要なのではないかと。そうした精神の現われは、たとえばかつてのESPレーベルなどにも見られたかもしれないけど、彼らは60年代的なシーンの高揚が消え失せた70年代後半からこうした活動を始め、その後、現在に至るまでしぶとくやり続けている点は、本当に賞賛すべきものだと思います。
 旦敬介は「ライティング・マシーン-ウィリアム・S・バロウズ」(インスクリプト)で、バロウズの使命は「自由のパトロール」だった。彼の本はその報告書で、そこには敵地の見取り図や自由の処方箋が添付されることになっていた‥と書いています。また、彼はシュタイナーのような霊的な世界が見える人ではないにもかかわらず、自らの身体を実験場とした様々な試みを通じて、我々が常に見ている「現実」以外の次元が確実に存在することを確信しており、それを手探りで探し当てるために作品を書いていた‥と。LAFMSの面々にも似たようなところがあるかもしれません。彼らはバロウズのように孤独ではなく、古くからの仲間たちがいて、そのネットワークを通じて活動しているという違いはあるけれど。そこには靴底に貼り付いたガムのような、「柔らかな不定形の信念」が確かに貫かれているように思えて仕方がありません。

 今回の「羅府夢衆展」を観た後で改めていま読み返すと、ESPレーベルの追求した「自由」は、これまでなら「レコード」という「公共的媒体」にとても刻まれなかったであろう音の振る舞いを、レーベルの作品としてリリースしたという点ではLAFMSに通底するものがあるかもしれないが、エスペラント語の歌を収めた盤のリリースに象徴されるように、やはり「公共性」への意識がとても強いように感じられる。公民権運動の時代の平等志向に基づいた「公平な配分」と見えてしまうのだ。「マイノリティにも投票権を」的な。これに対しLAFMSには、そうした肩肘の張り具合は感じられない。もちろんこの間に、自主制作が広まって、「レコード出版の公共性」の敷居が著しく下がったのは事実だとしても。
 こうしたしぶとく強靭な「ユルさ」を保ち続けるLAFMSの核心を、「夢衆=Dreamers」の一語でさりげなく(だが研ぎ澄まされた鋭さで)看破する坂口の慧眼に改めて驚かされる。思えばLAFMSがこの国でCaroliner Rainbow扱いされなかったのは、そもそもの入口で竹田がサイケデリックからフリー・ミュージックや現代音楽に至る参照項を正確に示しつつ、「自己解体の実験」と核心を突いて釘を刺したからだろうし、続いてはやはり坂口がメンバーとも直接交流しながら、彼らを多面的にとらえ、紹介していったからだろう。それは決して一方通行の取材ではなく、双方向の交通だった。その一例として1982年の灰野敬二とDoo-Dooettesの共演が挙げられる。当時、灰野は前年に来日したフレッド・フリスと共演した程度で、彼の周辺には知られていたものの、今のように全米で「Noise Guitar God」として知られていたわけではなかった。にもかかわらず、LAFMSとの共同演奏が実現した陰には坂口の存在があった。その際の録音がメンバーの手元から見つかった(ずっとしまったまま忘れていたと言う)のが『Free Rock』である。『捧げる 灰野敬二の世界』所収の全作品ディスコグラフィ作成時に聴いた個人的評価としては、全作品中で十指に入る出来だと思う。何しろ演奏の伸びやかさが素晴らしい。末尾ながら、その時の文章の一部を引用して、永年に渡る坂口の営為を讃えることとしたい。

 大音量によるノイズ・インプロヴィゼーションが基調だが、そこに自作楽器モック・チェロ(形だけの偽チェロ)の紛い物の胡弓のようなチープな音色や、さらに様々な録音された断片が、そのまま、あるいは荒っぽい手つきで変調されて放り込まれることにより、演奏は奇妙奇天烈な雑色的かつ破壊的ヒューモアをたたえることになる。今から三十年前の演奏だが、このレトロ・フューチャー感覚はかえって申請に受け止められるのではないか。そうすれば、ここでタイトルに掲げられた「フリー」が、音楽の形式や語法を指すのではなく、タブーのない柔軟な精神のあり方を意味することにすぐに気づくだろう。


ライヴ/イヴェント・レヴュー | 22:07:14 | トラックバック(0) | コメント(0)
森重靖宗ライヴ@喫茶茶会記 仮想レヴュー  An Imaginary Review for Yasumune Morishige Live at Kissa Sakaiki
 去る8月15日、綜合芸術茶房喫茶茶会記で森重靖宗による単独ライヴが行われた。すでに予定が入っていて(そりゃ何たってお盆ですから)、駆けつけられなかった私がFacebookに「ぜひ誰かレヴューを」と書き込んだところ、原田正夫がライヴの様子をとらえた写真を載せてくれた。それによると第1部がピアノによるインプロヴィゼーション、第2部がチェロによるインプロヴィゼーションだったとのこと。
 その後、原田からは演奏の印象を短く伝えるメッセージも届いた。「金曜日の茶会記、森重さんのソロ、良かったです。自分にとって森重さんの繰り出す音に、他の即興演奏家には無いある種の色気というか官能的な何かを感じてきたのですが、そういったところからさらに進み出た、乾いている訳ではなく、かといって、かつてのように肌にざわざわと染み入ってくるような濡れたかんじではない、そこにはかつてと少し違う『Morishige』がいました。写真撮らせてもらいましたが、ファインダーから森重さんを見つめながら、撮る事に集中しつつも、音を聴いて、何度もうんうんと頷きました。」
 それを読みながら、鮮明かつ的確にとらえるべき瞬間を写し取った写真を眺めていると、そこにピアノ弦の振動やチェロの筐体の軋みに揺り動かされた室内の空気の震えが浮かんでくるような気がした。もちろんそれは空想であり妄想に過ぎない。けれど、原田の写真に否応なく惹き付けられ掻き立てられる心の乱れのままに、これを仮想のレヴューに仕立ててみたら‥‥と思い至った次第。
 というわけで、以下の文章は、ライヴのその場に居合わせなかった者が、そこに出来した事態に想いを馳せながら綴ったものに過ぎない。


1.ピアノ・インプロヴィゼーション
 ピアノに向かい、静かに頭を垂れ、息を澄ます。まるで武芸者が呼吸を整えつつ間合いを計るように、次第に集中が高まり、感覚が研ぎ澄まされていくのがわかる。濁りが沈殿し上澄みが透き通るように、沈黙が磨きあげられ、ピアノの黒い筐体の回りに引き寄せられた闇が、その深さと広がりをいや増したような気がする。もう、こうしてどれくらい時間が経ったろうか。まだ、森重は音を放とうとしない。両手は拳に握られ腿の上に置かれたまま、ぴくりとも動かない。しかし、演奏はもうすでに始まっている。


 彼のピアノ演奏を以前に一度だけ聴いたことがある。その時のライヴ・レヴューを参考に引いておくとしよう。
 「道に迷った挙句、だいぶ遅れて会場に着き、そっとドアを開けると、男がピアノの前で頭を垂れていた。残り香のように漂う響き。男は眼を瞑ったまま鍵盤を押さえた指を離そうとしない。音が中空に吸い込まれると、鍵盤から生えた腕がおもむろに動き、少し離れた白鍵をゆっくりと底まで押し下げる。すっと立ち上がった音が、次第におぼろに響きへと解けていく間、男は白鍵を押さえた指で弦の響きを探っている。アップライト・ピアノのハンマーの構造から言って、そんなことは原理的に不可能なのだが、それでも男は弦の響きを指先で探るのを止めようとしない。ピアニストの身体で最もエロティックなのは、鍵盤と接する指の腹だとロラン・バルトは書いたが、男はさらに遠くを見ている。針金で金庫の鍵穴を探る錠前師を思わせる、全身が耳となったかのような集中/沈潜。弦の振動の減衰を確かめ、振動が乗り移った別の弦へとつながる白鍵へ指を運ぶ。こうした右手の井戸掘り人夫にも似た間歇的な彷徨に、時折、外からやってきた左手が、全く違った歩幅の足跡を割り込ませる。男はますます深く頭を垂れ、指先はそこに点字が彫り込まれているかのように鍵盤をさすらい、かそけき音の柱を建てていく。最初の硬質な輪郭が切れ切れとなり、希薄な響きへと移ろう中から、他の弦の共鳴が姿を現し、幾重にも解けながら溶け広がる。震災で倒壊した高架柱の亀裂から覗くねじ曲がった鉄筋のように。音の透明な内臓。」*
*レヴュー全文は次を参照。
 http://miminowakuhazushi.blog.fc2.com/blog-entry-52.html

 音がぽつりぽつりと置かれていく。空間を一望の下にとらえるパースペクティヴが先行して存在し、そこに音をマッピングしていく仕方を彼は採らない。これは時間軸上でも同様で、放たれた音の後に「しかるべき間」を置いて、次の音を放つことを彼はしようとしない。鍵盤を押さえた指先から機械仕掛けのリレーが走り、ハンマーが弦を打ち付ける、その一瞬を彼は全身全霊を傾けてとらえようとする。指先は懸命に打弦の衝撃のフィードバックを、響板を通じてピアノ全体に広がる微かな震えを探ろうとする。衣服の上から脈を探り、身体全体に広がる経絡を隈無くスキャンして、身体の奥底に潜む病巣を「透視」的に触診する韓方医のように。さらに耳が、いや全身の皮膚を総毛立たせて、解けていく響きに身を浸し、それを味わい尽くそうとする。灯された炎は、それが燃え尽きるまで、ずっとずっと見詰められる。身じろぎどころか瞬きすらせずにずっと。そうした所作と感覚の集中が、結果として長い「間」をもたらす。だが、これまで見てきたように、音と音の間に仕切り板のように沈黙が挿入されるわけではない。連ねられているものを後から切り離すのではなく、それらは最初からひとつひとつ別の峰としてそびえ立っているのだ。

 ますます深くピアノに頭を垂れ、ついには鍵盤に額が着きそうになる。その時彼はピアノの筐体の冷ややかさを、鍵盤の火照りを、直接に肌で感じ取っていよう。いやたちのぼる匂いをすら。原田の写真がとらえているように、鍵盤に置かれた手が手刀の形をしている。掌を垂直に立て、鍵盤に振り下ろされた手は、指先を走らせて音を連ねることなど最初から考えてもいない。繰り出された手刀は鍵盤に深く食い込み、放たれた力動はピアノの筐体を垂直に貫いて、床面へ、大地へと至る。そこに独立峰が築かれる。もはやピアノを突き動かし、鳴らしているのは指先でも手でもない。彼の鋭く突き抜ける想いだけだ。念のピアノ。


 原田は当日の様子を次のように伝えてくれた。「ピアノでの演奏は福島さんの言うようにまさに「念のピアノ」のようでした。手で祈っているような写真がありますが、これは両手を手刀のようにして、右手と左手の間隔を10~15cmほどあけて鍵盤を打っているところです。こういう時、執拗なまでの繰り返しになりますが、不思議とミニマルというかんじはしなかったです。指を伸ばして手のひらと共に鍵盤を連打もしてました。音は徐々に小さくなり、最後はハンマーがピアノ線を叩くか叩かないくらいに弱く鍵盤を叩いてました。そういう時は鍵盤だけがパクパクと小さな音を立てるだけ。」

 日が昇り、日が沈み、また1日が繰り返される。しかし、今日は昨日とは違う1日であり、それが充実したものであれば、「繰り返し」の感覚は自然と薄れる。個別性や独自性、あるいは一回性が際立てば、それは繰り返しではなくなる。森重の打つ音のはらむ独立性・一回性が、あるいはこめられた念の強さが、ひとつひとつの音を個別の出来事として現出させ、「ミニマル」といった尺度の適用を遠ざけたのだろう。しかし「鍵盤がパクパクと小さな音を立てるだけ」とは凄まじい瞬間だ。それは決して「弱音の限界」といったセンセーショナルなエクストリミズムに基づくものではなく、また、単なる奇をてらったパフォーマンスでもない。スチールのフレームに鋼線をぎりぎりと張り巡らした「ピアノ」という巨大な機械仕掛けを作動させることに費やされていた念が、そうした相殺を逃れ、ぶわっと噴き上がりたちこめる瞬間。今わの際の唇がぱくぱくと動くばかりで音にならない声と同じく、そこには凄まじいばかりの念が宿っている。


2.チェロ・インプロヴィゼーション
 チェロを抱え、弓をあてがう構えがすでに、部屋の空気を引き絞り、沈黙をぴりぴりと肌に痛いほどに励起する。この覚醒した(強制的・強迫的に目覚めさせられた)耳の視野に、ざらざらとしたマチエールを浮かび上がらせる沈黙をキャンヴァスとして、彼の演奏は進められる。


 たとえばCD『fukashigi』に収められたかつての演奏では、鋭く閃く弓がチェロの楽器としての輪郭を切り裂き、冷たい血潮の如く噴き上がる音が聴き手の耳を問答無用したたかに打ちのめし、そのまま彼方へと駆け抜けていく。そこでは射出された音の孤独な軌跡が、がらんとした空間の冷ややかさを照らし出していた。
 それに比べると最近の演奏は、あまりに「チェロ(の弦)を弾かない」のではないかと思わずにはいられない。はたはたと舞う指先がチェロの躯体の表面をたどり、弓もまた躯体の辺やブリッジ、エンドピンに当てられ、微かな軋みをたてる。複雑な発音機構を持つ「機械仕掛け」たるピアノにあっては、「間接性の戦略」(意外にも森重は内部奏法もプリペアドも行わず、ピアノ弦に直接アクトしない)がむしろ楽器と対峙する「演奏する身体」を独自の「作法」で浮かび上がらせ、念を強めていたのに対し、共鳴体に剥き出しの弦を張り渡しただけのチェロにおいては、弦に直接アクトしないことが迂回/回避を思わせ、核心に踏み込まないじれったさを感じたことも正直なくはなかった。それゆえにこそ、橋爪亮督、中村真とのトリオによりコンポジションすら演奏したtactile sounds vol.14で、新たな扉を開いたことに快哉を叫んだのだった(※)。
※この演奏については、次のレヴューを参照のこと。
 http://miminowakuhazushi.blog.fc2.com/blog-entry-286.html

 実はtactile sounds vol.14の後、同じく喫茶茶会記で行われた「音ほぐし」第14回で森重のチェロ演奏(ソロ・インプロヴィゼーション)を聴いている。演奏はもちろん悪くなかった。しかし、新たに開かれた扉の向こうの世界を伺うことはできなかった。ひたひたとチェロの胴を洗う物音は、わずかに彼の手元だけを照らし出す。それを覗き込みながら、いささか世界が閉じているのではないかと思わずにはいられなかった。この時は他の出演者たちの演奏に納得がいかず、レヴューを書くには至らなかったのだが、そのことは覚えている。
 チェロやコントラバスで弦を弾かずに演奏すること自体は、フリー・インプロヴィゼーションの世界では決して珍しいことではない。ただ、通常の使い方はあくまで「変化球」であって、それを主体に音世界を構築する者は少ない。そうした数少ない存在に英国のコントラバス奏者Barry Guyがいる。彼は体型的には、Barre PhillipsやTom Coraのような身体が細くて手足が長い「ガガンボ」型ではなく、頭が大きく手足が短い「ずんぐりむっくり」型なのだが、人並みはずれた身体の柔軟さゆえか、楽器のどこへでもすっと手が届く。これは以前にライヴを見て驚かされた点だ。彼はその鍛え抜かれた手練手管をもって、楽器のありとあらゆる細部を撫で回し、「女体」から自在に吐息やあえぎ声を引き出してみせる。「急所」を知り尽くした色事師のように。Guyのそうした華やかなプレゼンテーションに比べると、森重の「演奏」はより秘めやかで、あくまでも声を押し殺した中、気配だけを縫って進められる。まるで視覚を封じることによって皮膚感覚を研ぎ澄ませていくように。だが、そうした暗がりでの粘膜の睦み合いに深く深く落ちていくことは、果たして良いことなのだろうか。私には森重の演奏が「洗練」の罠にはまっているように感じられた。

 原田はこう書いている。「確かに、森重さんのチェロ演奏、ボーイングで奏でるのが減ってきていますね。茶会記でのチェロのソロはかつてに比べれば「奏で」てはいなかったのですが、かといって「物音・具体音」的でもなかったです。少しリヴァーブをかけていたのですが、エフェクトはそれだけだったのに、低音をループさせて高音を重ねているような弾き方をしたり、集団即興をしている時より「響き」を重視しているところがありました。」

 原田の撮影した写真を見ると、弓を構えた姿の静謐さはピアノ演奏に通じるものがあるが、次の瞬間、身体がぐいっと動いている。重心が動き、輪郭が乱れ、軸が揺らいで、身体が流れ出し、視界から掻き消える。まるで「カチッ」と奥歯を鳴らして「加速装置」(石森章太郎『サイボーグ009』参照)のスイッチを入れたように。この身を躍らせて、急な流れに身を投じていく姿は、「新たに開かれた扉」の向こう側の景色を予感させてくれる。いささか語義矛盾となるが、森重は自らの演奏に禁欲的なまでに貪欲な男だ。ひととき囚われていた閉域を鮮やかに切り裂き、軽やかに蹴立てて、扉の向こうへと走り抜けていく彼に、次回こそは会いに行こう。


 なお、今回のライヴ会場では、彼の参加した新譜が販売されていたとのこと。これまで何度となく共演を重ねてきた相性のよいユーグ・ヴァンサンとのデュオ。このリリースが森重の新たなステップを確固たるものとすることを期待したい。

Hugues Vincent / Yasumune Morishige "Fragment"
improvising beings ib28
試聴:https://julienpalomo.bandcamp.com/track/fragment-i

ライヴ/イヴェント・レヴュー | 17:43:15 | トラックバック(0) | コメント(0)
映画のために音を設計すること − フィルム・レヴュー『イーダ』  Designing Sounds for a Movie − Film Review for "Ida"
 妻に連れられてポーランド映画『イーダ』を観にイメージフォーラムへ。昼食の都合があって11時からの初回に。終わって出てくると12時30分から始まる次回上映入場待ちの人の列。これは初回を選んだのは正解だったかも。
 ネットで見ても好評が多い作品だが、それは主人公の少女の人生物語として。それとは少し異なる角度から眺めてみたい。とはいえストーリーには触れることになるので、以下、未見の方はネタバレ注意のこと。



 冒頭、モノクロの画面に作業に勤しむイーダの顔が映し出される。背後の壁面がしっとりとぼけている。真っ白や真っ黒を排した、乳白色から様々なグレーに至る明度の階調の柔らかな移り変わりが、人物の、事物の輪郭をくっきりと浮かび上がらせることをしない。光もまたまぶしさを抑え、遍く広がり、陰影を際ただせない。フェルメールにも似た室内絵画の静謐さが漂う。やがて修道女である彼女たちは作業を終えて、キリスト像を外へ運び出し、修道院の庭に設置するのだが、屋外に出てもモノクロームな階調の柔和さは変わることがない。明暗は注がれたコップの水をこぼすことなくなだらかに推移し、積もった雪とそこから覗く黒土も、それらがつくりだす幾何学的な文様を強調することがない。
 しかし、これと対照的に物音は耳を打つ。爆音にまでアンプリファイされたり、顕微鏡的に拡大されることはもちろんないし、イコライジングやモジュレーションを施されて、質感を誇張されることこそないのだが、画面に映し出される像との距離感からすると明らかに不釣り合いに大きな物音が響く。イーダが叔母と会うように院長から命ぜられる場面、行きたがらないイーダとの科白のやりとりが、それでも響きの穏やかさを保ち続けるのに対し、部屋を出ていこうとするイーダの靴音は絵画的調和を破って鳴り響く。あるいはイーダと同僚の修道女たちが荷造りを進める場面、旅行用トランクのベルトを締める際のシュルッ、シュッという音が室内に響き渡る。質素な食事を一同で黙して摂る際に、スープ皿に打ち付けられる金属のスプーンの喧噪。



 路面電車による移動。車両の走行音が流れる風景を伴奏する。この映画にはいわゆる「映画音楽」が用いられない。しかし、部屋でレコードがかけられれば音楽が流れ出す。自分の引き取りを拒んだ叔母のアパートを尋ねたイーダが、部屋に招き入れられる場面。しかも、別室には明らかに情事の後の男が帰り支度をしている。場面の緊張とは場違いな陳腐なポップ・ミュージックのレコードがかかっている。
 イーダは叔母から自身がユダヤ人であることを告げられ(彼女はそうとは知らずにカトリックの修道院で育った)、彼女と両親の墓探しの旅に出ることになる。叔母はクラシックのレコードをかけ、カー・ラジオから音楽を流し、ひっきりなしに煙草を灰にし続ける。
 彼女たちはイーダの両親の住んでいた一軒の家にたどり着く。現在の住民たちは過去にそこで暮らしていたユダヤ人たちについて触れようとしない。やがて彼女たちは、両親がユダヤ人狩りを避けていったんは森に匿われたものの、結局は隣人のポーランド人(非ユダヤ人)たちによって両親が殺されたことを知る。だが、そうした衝撃の事実を、検事(その後、判事に転ずる)という職業を通じてだろう、叔母はうすうす知っていたようだ。だが彼女もうすうすは知りながら直接向き合うことを避けてきた「息子もまたいっしょに殺された」という事実を突きつけられることになる。彼女はまだ幼い息子をイーダの母に預けていたのだ。


 例の家に現在住まう男が、イーダの両親たちを埋めた場所に案内すると申し出る。その代わり、自分たちをそっとしておいてくれと。森の中に深く入り込み、イーダと叔母が見詰める中、彼は土を掘り続ける。やがて目的のものが見つかる。
 叔母が息子の頭蓋骨を採りあげ、イーダもまた両親の遺骨を布に包む間、この映画唯一の「映画音楽」が束の間流れる。平坦に引き伸ばされたオルガンに似た音色が厳粛さを連れてくる。男はイーダになぜ自分は助かったのかと問われ、幼かったから、幼くてユダヤ人とわからなかったからと答える。男の子は肌が褐色で割礼を済ましていたと。彼女を神父に預けたのは自分だと。そして両親と叔母の息子を殺したのも。
 彼女たちは家族の墓地へ向かう。叔母が運転する車をずっと前方からとらえていたキャメラ(彼女たちの顔貌にフロントガラスを滑る景色の濃淡が映り込む美しさ)が、この時だけ後ろへと回り込み、彼女たちの後ろ姿をとらえる。一瞬だけ、先ほどの埋葬場所で流れた音色がフラッシュバックする。


 叔母とイーダは対照的に描かれ続ける。叔母の言うところの「あばずれと聖女」として。黒髪の叔母は常に(場違いな、空気を読まない)音楽、煙草、酒と共にあり、男を物色し、時には部屋に連れ込んで「これが人生だ」と。このまま信仰に一生を捧げようとするイーダに「まだ楽しみを知らないのに」と。対してイーダはグレーのベールに髪を、修道服に身を包み、ほとんどものを食べない。そんな彼女が道中ヒッチハイクで拾ったアルト吹きの青年のバンド演奏に惹かれる場面が興味深い。
 彼らは彼女たちが泊まるホテルのラウンジで演奏しており、イーダは叔母との食事の際に彼らのリハーサルを耳にすることになる。その後のナイトクラブ営業時に叔母に行こうと誘われるのだがイーダは興味を示さない。寝入ろうとする彼女の耳元に響くラウンジの喧噪。嫌悪の対象としての音楽。酔った叔母が戻った後、部屋を出た彼女は螺旋階段を立ち上ってくる音楽に惹かれ、降りていく。すでに客は去り、掃除婦だけが残るラウンジで、彼らは自分たちのためにクロージング・テーマを奏でている。静かな、だが先ほどまでとは打って変わった入魂の演奏。吹き終えた青年は聴いているイーダに気づき、コルトレーンの曲(「ネイマ」)だと告げる。
 その後に、彼女が鏡の前でベールを脱ぎ、髪を解く場面がある。イーダの母親のように美しい赤毛と叔母の賞賛する明るい髪が、「もう一人の彼女」として姿を現す。


 結局、旅は彼女たちに不可逆な変化をもたらすことになる。イーダは無言が支配し、食器の音だけが響く食事の時間に「思い出し笑い」をこらえきれない。「外」を知った証し。結局、本格的に修道女となるために必要な、その後の一生を信仰に捧げる誓いを立てずに避けてしまい、彼女は同僚二人の誓いを列の後ろから見守ることになる。一方、叔母は男を連れ込んだ翌朝、きちんと身を整え、大音量でモーツァルトのシンフォニーのレコードをかけてから、大きく開け放ったアパートの窓から飛び降りる。
 叔母の自殺でアパートに出向いた彼女はドレスに袖を通し、ハイヒールを試し、レコードをかけ、煙草を吸い、強い酒を壜からラッパ飲みする。そして叔母の葬式で再会したアルト吹きの青年と付き合い始める。ジャズ・クラブでのシリアスな演奏に聴衆の一人として耳を傾け、コルトレーン「エキノックス」のレコード(シングル盤なんて本当に存在するのだろうか?)でダンスする。ダンスしながらの睦み合いはベッドに場を移し続けられる。ここで「イーダは叔母に流れていた血に、『もう一人のイーダ』に目覚める」という安易な結末への不安が過る。だとすればダンス・シーンで止めておいた方がよかったな、その方が余韻が残ったのにと。
 だが、彼女は結婚して子どもをつくろうと言う青年が寝付いた後、これまで着ていたドレスではなく、ベールと修道服に身を包み、家を出て行く。ずんずんと脇目も振らず歩き続ける彼女の姿を前方から揺れながらキャメラがとらえ続けて「幕」となる。


 対向車がひっきりなしにすれ違う中、前方だけを見据えまなじりを決して歩き続けるラスト・シーンは、「修道院へ帰る」のではなく、「もう一人のイーダ」として生きるのでもなく、自力で第三の道へ歩み出した‥‥ととらえたい。修道院に帰るのだったら、バスや路面電車に乗ればいいのだから。
 このラスト・シーンも実は「現場の音」ではない、「映画音楽」が流れる。アルフレート・ブレンデルによるバッハ「われ汝に呼ばわる、主イエス・キリストよ」のピアノ演奏。
 だが、ここには伏線がある。これまで本作の演出は一貫して現場の物音を強調してきた。科白も音だが、それは強調されない。しかし、入院した老人から両親の最期について聴き取ろうとする時、老人の荒い息は強調される。同様にかけられるレコードやカー・ラジオからの音楽もまた強調される。「その場で生じる物音」として。だが、音楽についてはひとつだけ例外的な取り扱いが許されていた。後に続く場面の音を前の場面にかぶせる「ズリ上げ」を、音楽に関しては用いている箇所が幾つかあった。次の場面で映る車内のカー・ラジオの音楽が、その前の場面の最後で流れ、そのまま続くというように。これは本作の場合、特例的な措置と言える。
 だから、イーダの歩く姿にピアノの音が重ねられた時、すぐに場面が転換するに違いないと思った。これはまた「ズリ上げ」なのだと。しかし、予想に反して(裏切って)、彼女は歩き続ける。どこまでもどこまでも。これまで作品内で与えられたルールの及ばない新たに開かれた場所へ出て行くこと、それを観客に体感させるために、これまで特例措置の伏線を執拗に張り続けてきたのではないだろうか。

イーダの母が牛小屋のためにつくったステンドグラス

 そう考えるのには理由がある。一見、虚飾を排し、センセーショナルなギミックや特殊効果を使わず、ただシンプルに必要最小限の映像だけを連ねて制作されたかに見える本作は、そのさりげなさの裏に、いったん気がついてしまうと息苦しくなるほどの、緻密なコンポジションを敷き詰めているのだ。いわゆる「映画音楽」を使わないということは、すべて同時録音で済ますということでは必ずしもない。この作品で「その場」に流れる音の多くは、物音もレコードやラジオによる音楽も、多くのポスト・プロダクションを施されているように思われる。たとえば冒頭近くに示される叔母の仕事である法廷の場面。まるで虫の音のように空虚に拡散して室内一杯に響き渡っていた検事による陳述の声が、次第に収束して発話者と釣り合う輪郭を獲得し、意味を語りかけるように変化していく(ちょうど遠くからこちらに近づいてくる人物に、次第にキャメラのピントが合っていくように)。最後のスタッフ・クレジットでも、サウンドに関するポスト・プロダクションの担当スタッフが相当数いた。選曲に関しても、単に時代背景や聴き手である叔母のキャラクターを考慮するだけではなく、その音楽が流れる場面に対する「対位法的」な異化効果を入念に考え抜いたもののように思われる。ヴィム・ヴェンダースが『さすらい』で、リュディガー・フォーグラーにポータブル・プレーヤーでキンクスのシングルをかけさせたのとは違うのだ。
 同様に、モノクロによる階調のなだらかな移り変わり、輪郭や陰影の柔和さを室内でも屋外でも獲得するために、映像に関しても相当量のポスト・プロダクションを施しているように見受けられる。こちらもクレジットでは相当数のスタッフがいた。イーダの肌の大理石像のような「表情のない温かみ」はこうした努力の賜物であることだろう。

なぜか『午後の網目』のマヤ・デレンを思わせるカット

 音響と映像に係るポスト・プロダクションの可能性について書いたが、これまで見てきたように両者の方向性は、およそ正反対のものである。柔らかにけぶる明暗のなだらかな移行の連続性がもたらす調和の感覚により、映像が言わば破れることのない厚い皮膜を張り巡らすのに対し、音響が担うのはその都度その都度の不整合を力として、この皮膜を内側から大胆に食い破り、切り裂く動きにほかならない。映像+音響である映画を、両者を慣習的・制度的に曖昧に結びつけるのではなく、いったん切り離して、確信犯的に再結合すること。このゴダール的なテーマに対し、『イーダ』は見事な応答を示していると言えよう。
 ちなみに、映像の側に割り振られた調和的連続的皮膜を、カトリックの伝統や様々な歴史的矛盾を見てみぬふりをしながら引き継いだ戦後の共産主義体制に当てはめ、戦時中の対独協力によるユダヤ人虐待という歴史的スキャンダルを、皮膜を食い破る音響の力になぞらえることはもちろん可能だ。だが、それは数ある可能性のひとつに過ぎない。ユダヤ人問題の告発を作品のテーマ・メッセージととらえ、表象に関わる様々なヴァリエーションをそのための手段としてとらえる見方は、あまりに一面的で貧しいものだと思う。むしろ問いは開かれたまま、私たちの前に依然として横たわっているのだ。


『イーダ』 2013年 ポーランド
渋谷シアター・イメージフォーラム
公式ウェブサイト http://mermaidfilms.co.jp/ida/
日本版予告編※ https://www.youtube.com/watch?v=HEl1sE3nAUg
※音楽や日本語ナレーションを不用意にかぶせる愚を犯しているので注意のこと。
英語字幕版予告編* https://www.youtube.com/watch?v=oXhCaVqB0x0
*こちらも「映画音楽」はてんこ盛り。



映画・TV | 00:45:59 | トラックバック(0) | コメント(0)
ディスク・レヴュー 2014年1〜6月ポップ・ミュージック編その1  Disk Review for Pop Music Jan. - June, 2014 vol.1
 遅ればせながらの今年上半期ポップ・ミュージックからのディスク・レヴュー。エスニック・ミュージック系の充実度が凄く、そちらを第2部に回して、それ以外の作品による第1部をまずはお届けしたい。インプロヴィゼーションやアンビエント、サウンド・アート等の要素を含んでいる作品もあるが、そちらのディスク・レヴュー枠に収めるよりも、ポッブ・ミュージックとして取り扱う方がよりその作品にふさわしく輝かすことができるのではないかと考えた結果である。ご了解をいただければありがたい。


Benedicte Maurseth, Asne Valland Nordli / Over Tones
ECM 2315
Benedicte Maurseth(hardanger,fiddle,voice),Asne Valland Nordli(voice)
試聴:http://player.ecmrecords.com/maurseth--nordli--over-tones
   https://www.youtube.com/watch?v=oQs5hk5cwNA
 ふうわりと舞い降りた細い細い天蚕糸が、仰ぎ見るなか空間を横切り、ぴんと張り詰め縦横に張り巡らされていく。そこに粉雪が降り積もるように降り立つ声もまた、ふうわりと重みを感じさせない柔らかさのうちに、ぴんと揺るぎなく張り詰めた芯を持っている。遥か高みから、いや肩を並べていてさえ、地の果てまで透かし見る声の遠い眼差し。重なり合う樹々の黒い裸の枝を射通し突き抜けて、彼方へと渡っていく声の響き。Asne Valland(Nordli)『den Ljose Dagen』(Kirkelig Kulturverksted)は密かな愛聴盤で、しんと静まり返った礼拝堂の垂直の空間に響き渡る声の、どこか少女っぽい青い固さにぞくぞくとしていたが、ここでの彼女の声はまろやかに熟成して、hardangerの蜘蛛の巣のように繊細な響きを、ゆったりと浸し包み込む。広大な空間のこことあそこに立って音を放つ二人のちっぽけな姿とは別に、たちのぼる響きは香るように広がって、空気を透き通った色合いに染め上げていく。それは壁面に大きく映し出された彼女たちの影が、本体を離れて繰り広げる苛烈な戦闘でもある(あまりにも静かな佇まいに、同じ一本の弦の上での振動のせめぎあい、放たれた微細な音の粒子の衝突の激しさ、そうした衝撃が波紋となって広がる様子を見逃してはならない)。


Eleni Karaindrou / Medea
ECM 2376
試聴:http://player.ecmrecords.com/eleni-karaindrou--medea/music
 巨匠テオ・アンゲロブロスとの共同作業終了後も、彼女は決して歩みを止めることがない。今回の題材はエウリピデス。劇団Ancient Theatre of Epidaurusにより、円形劇場で上演される演劇作品のための音楽。かつてのオーケストラ中心の作風を離れ、ここでは盟友Sokratis Sinopoulos(constantinople luth,lyra)をはじめ小編成の民族楽器アンサンブルと女声合唱、そして自身の歌唱により音楽をつくりあげている。中低域のふくよかな持続音の使い方、簡素な繰り返しの多用等の手法は共通してみられるものの、音はますます削り込まれ、一音一音が慈しむべき貴重なものとなり、同時に一弓、一息で広大な空間を支え、時の流れを揺り動かす圧倒的な力を秘めたものとされる。息遣いのゆったりとした歩み、腰をぐっと落とした中腰の構え、フレーズを織り成すに至らず楔形文字にも似た痕跡を刻み付けるだけの撥弦楽器。間を存分に空けて金属的な響きを鳴り渡らせる打楽器。ネイの掠れた息やサントゥールの粒立ちの運んでくるむせかえるような香り。ゆったりとどこまでも引き伸ばされ、しまいにはあえなく気化してしまう管の調べ。どこかこの世のものとは思われない音世界の中で、少女の恨みにも似た合唱が和讃のように響き渡る。寺山修司がこれを聴いたら何と言うだろう。


Edmondo Romano / Sonno Eliso
Dischi dell'Espleta ESP030
Edmondo Romano(sax,clarinet,duduk,whistle),Mario Arcari(oboe),Alessio Pisani(basoon,contrabasoon),Roberto Piga(violin,viola),Kim Schiffo(cello),Fabio Vernizzi(piano),Riccardo Barbera(doble bass),Ares Tavolazzi(double bass),Marco Fadda(percussion),Elias Nardi(oud),Daniele Bicego(horn),Luca Montagliani(accordion)
試聴:http://www.amazon.co.jp/Sonno-Eliso-Edmondo-Romano/dp/B00BZUON52
   https://www.youtube.com/watch?v=5ovdrZ0xAl4
 南仏やスペイン、イタリアから北アフリカに至る南北の軸線と、スペインはカタロニアからギリシャやバルカン諸国を経てトルコやアラブ諸国に抜けていく東西の軸線。文化の網の目である地中海をそうした直行する軸線に基づいて漏れなくスキャンし、自在なモザイクを組み上げたミュージシャンとして、たとえばLouis Sclavisの名前を挙げることができるだろう。本作をつくりあげたEdmondo Romanoもまた、そうした系譜に連なるミュージシャンだ。バス・クラリネットによる超絶技巧の探求をはじめ、ソロの空間を優先したSclavisに対し、Romanoはむしろアンサンブルを重視し、そのための作編曲に贅を凝らす。異国の香料の強い匂いを放つ管の調べは、鋭い切れ味を見せながらも回廊をまっしぐらに駆け抜ける代わりに、管弦が溶け合い重なり合った褥にゆるりと身を横たえ、水ギセルをくゆらす。色とりどりの複数の線がゆるやかに絡まりつつ、四方八方へと枝を伸ばし、リズムが細やかに切り替わり(打楽器奏者の貢献度は極めて高い)、風景がゆっくりと巡りながら移り変わる仕方は、平原を走る列車からの眺めを思わせる。旧き佳き時代の記憶。この情景喚起力の素晴らしさは特筆ものだ。Mario Arcari(Gruppo Folk Internazionale), Ares Tavolazzi(Area!!!)など、参加メンバーには思わず「おっ」と眼を見張る名前も。2011年作品とちょっと古いが、その素晴らしさゆえにあえて採りあげることとした。


Sawako / Nu. It
Baskaru karu:32
sawako(composed)
試聴:http://www.baskaru.com/karu32.htm
   https://www.youtube.com/watch?v=65iaHbmU4hw
 微粒子となって空気に溶けていくピアノ。断続的に現れる透明な電子音。ピッ・ポッ・パッと指先と戯れるオモチャな音。ある音はオーケストラのストリングスを模し、ある音は虫や鳥、獣の声を擬態する。透明なガラスで仕切られた完全空調の人口楽園。その中心部では涼しく透き通った響きが、滾々と尽きることなく湧き出し続けている。腐食も風化もせず、永遠に変わることのない形態を保ち続けるであろう不滅の「理想郷」に、それでも禍々しい滅びの種を仕込まずにはいられないのは、アーティストとしての性や業なのだろうか。3曲目「nostal noz」に入り込み底の方から世界を侵食していく不吉な物音、6曲目「piano cote」に聴かれる輪郭の焦点を結ばない不穏な震え、8曲目「mind ight」の剥き出しになったカラクリ仕掛け、終曲9曲目でいよいよ明らかとなる滅びの予感。元の綴りの一部が欠け落ちて符丁/記号へと化す曲題。造物主として精緻な音世界をつくりあげるだけでなく、その行く末を見守り、最期を看取る彼女の物静かな眼差しが、佇まいとして、あるいは手触りとして、作品のそこかしこにいつも感じられる。


津田貴司 / 湿度計
PNdb-atelier
Takashi Tsuda(soundscape recorded,soundproccesed,mixed)
試聴:https://soundcloud.com/tsuda-takashi/hoflicd12
 やはり本作を採りあげないわけにはいかない。もともとは益子STARNETの店内で流される音楽としてSTARNET MUZIKからリリースされた作品で、品切れとなっていたものを、今回、津田が自らリイシューした。津田は他のSTARNET MUZIK作品にも録音等で関わっており、シリーズの性格をヒーリング・ミュージックやニューエイジ的な部分もあるが、本来は「益子の風土に根差した音楽」を目指したものと語っている。本作品も小鳥の声や水音、オルゴール音等の音素材にのみ眼を向けるならば、「(濾過された耳触りではない)心地よい音の集合」ととらえられてしまいかねない危うさがある。しかし、音に身を浸し、その肌触りに耳を澄ますならば、「益子」というかけがえのない場所、そこで繰り広げられる里山のある暮らし、そのスケッチとしてのフィールドレコーディングがまずあり、これらそのままでは部分的にとらえられた断片に過ぎない音素材に対し、津田自身の身体体験/記憶の層をくぐらせることにより、夢や思い出のように確かな手触りを与えるべく編集・加工したのが本作ということになる。だから彼がしているのは、照明を工夫したり、拡大鏡を向けたり、フロッタージュを施したりして、すでにある肌理や凹凸、各部の差異やコントラスト等を浮かび上がらせることであって、後から付け加えた音響や演奏を聴かせることではない。後の『雑木林と流星群』で存分に発揮される掌編小説家的な想像力も、本作ではまだ禁欲的に封印されており、そのような慎ましさもここでは好ましい。


Yozoh /나의 쓸모
Mirrorball Music MBMC0713
試聴:http://www.msbsound.com/album/요조-yozoh-나의-쓸모/
 Yozohと言えば、明るく弾け風にそよぐ韓国インディーズ・ポップのエコ・グリーンなアイドルだったはずだが、本作ではがらりと肌合いが変わっている。低体温・低血圧な声が淡々となだらかな旋律を歩み、冷えきったピアノの打鍵が暗く肌寒い空間をぴりりと引き絞って、途中から現れたエレクトリック・ギターの不定形な歪みの流動が、すべてを水没させ押し流してしまう。モノクロームでタイトな、時としてとてつもないヘヴィさを露わにするバックの演奏に対し、彼女の声は決して浮かれることなく、どこまでも淡々とした無彩色な歩みを崩さぬまま、暗く深い水の中を進んでいく。サウンドの苛烈にして緻密なせめぎ合いのただ中に突き落とすことにより、彼女の声のたとえ押し殺しても放たれてしまう香り高さを解き放つ試み。この変化は昨年のベスト30に選んだHan Heejung『Everyday Stranger』と美しい相似を描いている(そのことを指摘する英文評がウェブ上にアップされていた※)。Yozohの場合、magicstrawberry soundへのレーベル移籍が大きいようだ。他のレーベル所属アーティストにも注目のこと。2013年作品。
※http://www.koreanindie.com/2013/07/29/yozoh-요조-나의-쓸모/


Hee Young / Sleepless Night
Pastel Music BRCD9140
Hee Young(vo,g,key),Alex De Turk(dr),Gabriel Rattiner(vo,g,b,dr),Kenji Shinagawa(el- g,banjo,mandolin),Merdith Godreau(vo),Raymond Sicam Ⅲ(vc),Saul Simon McWilliams(vo,b,per)
試聴:http://heeyoung.bandcamp.com/album/sleepless-night
   http://vimeo.com/80046266
 搔き鳴らされるギターをチェロの弓弾きが横切り巻き込んで、柔らかく積み上げられた藁の山をつくりだし、そこに彼女の可憐な声が舞い降りる。乾いた空気がミクロな音の表情を鮮やかに浮かび上がらせる。酒場の端唄の暗さをはらんで、声がコケティッシュさを増しながらもたれかかってくる場合でも、声の芯は凛と勁く、バックのアンサンブルもまた、ギター、バンジョー、チェロ等を中心とし、音の隙間をくっきりと保った繊細でアコースティックなものでありながら(ドラムが入る場面は少ない)、腰の座った演奏をしている。ジャケットを飾るモノクロームに荒れ果てた庭園のどこまでも克明に写しとられた写真が示すように、この作品の底流には英国〜米国的なゴシック趣味が流れている(歌詞はすべて英語。録音もNYとLAで行われた)。

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ディスク・レヴュー 2014年1〜5月 その3  Disk Review Jan. - May 2014 vol.3
 先日の「タダマス14」のレヴューで「体調不良」とした益子は、何と当日朝に脱水症を起こしていたとのことで、大事に至らず本当に良かった。これからますます暑さが厳しくなる折、皆様くれぐれも体調管理にはご注意ください。
 さて、ディスク・レヴューの第3回は、フィールドレコーディングやこれを素材としたミュジーク・コンクレート的なコンポジションを対象とした。本来なら6月中に脱稿しなければならないところが延び延びになってしまったことを、まずお詫びしたい。実はその後の6〜7月のリリース状況の充実度が半端なく、すでにレヴュー待ちのディスクが山積みとなっていて、とりあえず遅れに遅れていたこの回を何とか仕上げた次第。
 ちなみに、私がフィールドレコーディング、ドローン、アンビエント等と総称される音楽を本格的に聴き始めたのは2010年からなのだが、最近、中古盤渉猟を含め、いろいろ聴き進める中で、それ以前にも聴くべき作品は多く、作家によっては最近のリリースよりはるかに高水準ではないかと思われる作品も見受けられる。こうした作品についても、いずれ機会を設けてご紹介したいと考えている。
 また、ポップ・ミュージック編も、エスニック・ミュージック系の復刻/発掘録音が大量にリリースされ、やはりディスク山積み状態となっており、こちらも近日中になんとかしたい(と考えてはいるのだが‥‥)。


Dave Phillips / At the Heart of it All
Ruido Latino Ruido Horrible rh089 / RL01
Dave Phillips(fieldrecording)
試聴:http://www.davephillips.ch/discog/dp-athoia
 最初、Dave Phillipsって二人いるとばかり思っていた。試聴ファイルで垣間見たFear of God等で聴かれるノイジーな絶叫の詰まったエクストリーム・ミュージックと自然の音風景に耳を澄ますフィールドレコーディング作品の感触は、当然まったくの別物だったので。しかし、こうしてエクアドル・アマゾンの熱帯雨林の耳を圧し身体を縛り上げる音響に包まれていると、ハーシュなエレクトロニクスをズタズタに切り刻み、崩壊した精神の垂れ流すモノローグをトリートメントし、凍てついた鋼製のピアノ線の震えに魂を奪われる彼が、ジャングルの奥深い暗闇を見詰め続ける理由がわかる気がする。容赦なく惹き付けられた耳の視線がオールオーヴァーな広がりにあてどもなくさまよううち、虫や鳥の声、猿の遠吠え、凄まじい雨音の密集に何度も襲いかかられ、身体の奥深くまで侵入される。耳障りな蠅の羽音を合図に、密林に漂う濃密な倍音の霧が電子音としか思えない持続として浮かび上がる。操作はイコライズやレイヤーの重ね合わせしかしていないというから、これは音響の相互干渉によるものなのだろう。「昼」と「夜」にトラックを分けた編集は、以前にレヴューしたDavis Velez / Simon Whetham『Yoi』(Unfathomless)を思わせるが、ここに物語的想像力は薬にしたくもない。なお、本作は2013年の作品だが、かつての『Field Recordings』(2007)や『Ghi Am Viet Nam』(2010)に比べ、より「引き」の視角によるオールオーヴァーかつヘテロトピックな音景の提示へと傾いていることを指摘しておきたい。
 補足として、彼のエクストリームな側面については、例えば次を参照のこと。ディスコグラフィのページに並べられたジャケット・デザインの「行っちゃった感」も凄まじい。
 http://www.davephillips.ch/discog/dp-acoh
 http://www.davephillips.ch/discography


Francisco Lopez / Hyper-Rainforest The Epoche Collection-vol.1
No Label (Self Published)
Francisco Lopez(fieldrecordings)
試聴:http://www.art-into-life.com/product/4704
 もともとは2011年に85本のスビーカーを駆使して暗闇で行われたサウンド・インスタレーション/パフォーマンスであるという。音源には20年以上に渡る中南米をはじめ世界各地の熱帯雨林でのフィールドレコーディングが素材として用いられている。耳の視点が定まらず当てもなくさまよわざるを得ないオールオーヴァーな多焦点的音場構築(対象に肉薄して止まないDave Phillipsと比べてみること)は彼ならではのものだが、歴史的名作『La Selva』と比べると、こちらの方がより圧縮されわかりやすく場面が移り変わる。まとわりつく蠅の羽音、たちこめる虫の声、遠くの水音が跳ねる水しぶきへと拡大される。急に濃密さを増し視界を閉ざす雨音、雨粒が樹々を打ちすえ滴る響き、遠い雷鳴、蛙の合唱、鳴き交わす鳥の群れ、それらの鳴き声の重層がもたらすほとんど電子的な交響、充満/飽和と突然の転換。こうした展開はおそらく85本のスピーカーから各々放出されるべき音響を、ステレオの2チャンネルにとりまとめる際に要請されたものではないだろうか。とすれば、本作はインスタレーション空間をしかるべき速度と軌跡で移動した耳の疑似体験とでも言うべきものにほかなるまい。
 ちなみに、次のURLでインスタレーション設営の様子を動画で見ることができる。
 http://vimeo.com/22841389


Philip Sulidae / History of Violence
Unfathomless U19
Philip Sulidae(fieldrecordings,processing,editing)
試聴:http://unfathomless.wordpress.com/releases/u19-philip-sulidae/
 素材となる音源が録音されたベラングロ州の森林はかつて連続殺人の舞台となったと言う。タイトルはそのことを踏まえて付けられているが、それらしき音が付加されているわけではない。むしろ森林は不自然なほどに静まり返り、耳慣れた鳥や虫の声も、せせらぎも雨音も葉擦れも聴こえない。耳鳴りにも似た甲高い響きが、森の奥を見詰めるこちらを見返している。そうした電子音と聴き紛う音響の構築は、だが自在さに任せて飛び回るかつての電子音楽のマナーに、僅かばかりも従おうとはしない(Tarab『Strata』Unfathomless U19と比べてみること)。真っ白なキャンヴァス=抽象空間をグラフィックに埋め尽くしていく代わりに、採集した土壌を水に溶かし、ふるいにかけて骨のかけらや特徴的な植物の種子を探すように、顕微鏡的な視線による走査がこの森に潜む地の精霊を音響的特質としてあぶり出していく。最後のトラックでこらえきれず、ふと物語的な物音が忍び込み、劇的な高揚をもたらしかけるが、それでも森の奥に向けてまっすぐ据えられた視線の静謐な強度は、いささかも揺らぐことはない。


Gianluca Becuzzi / (b)haunted
Silentes Minimal Editions sme 1362
Gianluca Becuzzi(composed,produced,mastered)
試聴:http://store.silentes.it/catalogue/sme1362.htm
 以前にFablo Orsiとの共作によるAlan Romax音源を素材とした生々しいコンクレートを採りあげたBecuzziだが、ここでは彼本来のオブセッションにつきまとわれた、出口のない悪夢を思わせる暗黒音響絵巻が展開される。ソナーにも似た甲高い響きの探索、どこまでも空気を揺るがせて波紋を広げていくバスドラムの鳴り、突如として出現する民族打楽器群の連打、下腹部にのしかかる低音から耳を傷つける高音まで全ての音域に渡って重層する金属的軋み‥‥。ありとあらゆる強迫的音響を駆使しながら、彼は決して空間を埋め尽くさない。また素早い場面の交替も用いない。広大な空間をゆるやかに渡って足元に忍び寄り、あるいはゴシック聖堂にも似た崇高な垂直的空間を照らし出す重厚な響きが、常に細部をことごとく明らかにする凝視の相のもとに展開される。この彫啄された「遅さ」に映える壮大な空間こそが、人間の精神を縛り上げ打ちのめす恐怖の源泉なのだと、彼は知り尽くしているのだ。Dave Phillipsの生理学的侵食と対を成す建築的重圧。


Edu Comelles / A Country Falling Apart
audiotalaia 004
Edu Comelles(fieldrecording,editing,mixing),Eva Fauste(additional sound performance on only one tune)
試聴:http://shop.audiotalaia.net/album/atp004-a-country-falling-apart
 大学の教室で引き回される椅子と床の軋みにしろ、放置された狐の死骸にたかる無数の蠅の羽音にしろ、がらんとした部屋に鳴り渡る物音にしろ、急カーヴを曲がるトラムの車両と線路の軋轢にしろ、付された解説を見るまでは判然とせず、そしてそうした説明を施されてからも、そこにたなびく音響は安定した輪郭あるいはパースペクティヴに収まることなく、解け流れ出て拡散し、空間の呼吸へと沁み込んでいく。その時に立ち現れてくるのは、無数のクラリネットが織り成す無重力的アンサンブルにも似た震え/ざわめきであり、それは「演奏」や「構成」によってつくりだされたと言うより、その空間に特有のアコースティックな本質が、長い年月をかけて積み重ねられた古い地層の如く露呈してきたように感じられる。「ものみな響きへと還る」とでも言うべき無常観がそこには色濃く影を落としており、Edu Comellesが自国スペインを表象したタイトルへと結びつけられる。フィールドレコーディング素材のみを活用したコンポジションが、音風景を経由することなく、シンボリックなイメージに漂着するとは、考えてみれば不思議なことだ。


Felix Gebhard / Im Merzbau
Analogpath 016
Felix Gebhard(composed,performed,recorded)
試聴:http://pathanalog.blogspot.jp/2013/10/im-merzbau-felix-gebhard-soon.html
 耳を覆っていた手を離した瞬間、眼の前にふと新たな視界が開けたと思うと、大量の音が渦を巻きながら押し寄せ流れ込んで、世界は混濁し、とっ散らかって、一向に像を結ばないどころか、視点も定まらず、身体の置き場もなく、当然パースペクティヴも構築できず、視界は露出過多の白い影の揺らめき以上のものとはなり得ない。そんな瞬間が幾度と鳴く繰り返される。深々としたギター・ドローン、あるいはギターの爪弾きに伴われた船上からのサウンドスケープといった安定した構図が束の間訪れることがあっても、常にそこには腐食と崩壊のエントロピー力学が作動し続けている。


Lost Trail / Holy Ring of Chalk
Wounded Wolf Press wound15
Zachary Corsa & Denny Corsa(acoustic guitar,banjo,thumb piano,percussion,toy synth,short wave radio,objects,found-sound tapes,fieldrecordings,samples)
試聴:http://losttraildrone.bandcamp.com/album/holy-ring-of-chalk
 見通しの効かない混濁した耳の視界に、何物か定かではない様々な音の断片が浮き沈みし、あるいは影を落とす。ラジオから採られたのだろうか、淡々とした語りが不明瞭に変調され、虚ろに響く。まるでずっと屋根裏部屋にしまわれたきりになっていた蝋管録音の再生音のように、すりきれ、風化して、真綿のように厚いヒスノイズと輪郭の薄らいだ記憶の向こうへとゆっくり遠ざかっていく。甘やかな喪失の痛みとともに。何気ない日常の片隅でふと生じる心霊現象じみた一瞬の幻覚(それはすぐに脳の中枢によって抑圧されてしまうのだが)を丹念に拾い集め、綴じ合わせたようなあり得ない不思議さが魅力。夫婦デュオと言われて何となく納得するところがある。癒し系のエキゾチック・アンビエンスが多いこのレーベルでは明らかに異色作。

ディスク・レヴュー | 22:18:48 | トラックバック(0) | コメント(0)