2014-10-30 Thu
NYダウンタウン・シーンにフォーカスした「定点観測」を通じて、音楽の地層変動を触知していこうという「四谷音盤茶会」の試みは、初期の「ここにもある、あそこにもある」的な〈指差し確認〉段階を完了して、一方では突出した作品の強度に耳をそばだてながら、もう一方では起こりつつある事態をいかに的確に剔出するかという、批評的視線の強度を遺憾なく発揮している。歴史を語るとは、すでに確立されてしまった現在を前提にして、安全地帯からの高みの見物で「あれもあった、これもある」とトリヴィアを掘り起こすことではない。来るべき未来に向けて、現在を再編成することなのだ。当然そこでは「すでに確立されてしまった現在」こそが俎上に載せられ、ずたずたに切り刻まれることになる。
今回のプログラムでは、演奏の強度の炸裂(対象作品のラインナップがNY以外からの来日組であったり、やや以前の録音のリリースだったりしているのが興味深い)と批評的視線の強度の屹立が、見事に拮抗していたように感じられた。そこにはゲスト蛯子健太郎の「図書館派」(?)らしい卓越した心象風景語り(この演奏にはコレと推薦図書が出てきそうな)も大きく貢献していたように思う。
さて、いつものことながら、以下に記すのは私自身の興味関心に引き付けて再構成したリポートなので、当日の全貌を客観的に報告するものではないことをお断りしておく。当日のプレイリストについては、以下のURLを参照していただきたい。
http://gekkasha.jugem.jp/?cid=43767

前々回にBrad MehldauとのデュオMehlianaが採りあげられた話題のMark Guilianaで開幕。ここは続くJim Black Trio, John Hollenbeck参加のAnna Webberと最初3枚を並べてとらえたい。それが益子の選盤の意図でもあろう。
揺れたり走ったり二の足を踏んだり‥‥Guilianaの「不整脈ドラム」に対し、その上に漂うキーボードはほんわかしたメロディを「ベタ」に奏でている。リズムの揺らぎは上モノに何ら影響を及ぼさない。これは前回の冒頭に採りあけられたJose Jamesにおけるドラムとヴォーカルの関係に等しい。無論、前回のヴォーカルに比べ、今回のキーボードは遥かに存在感が希薄で、それゆえに不整合が目立つ結果となっているのだが。いずれにしても私の耳には「マニエリスティックな操作」と聴こえてしまう。感想を問われた蛯子が「音楽を外したところで共有しているギリギリ感」を指摘していたのが興味深い。
続くJim Blackは彼独特の踏み外しながら打ち込んでいくドラムとピアノの打鍵が、ボクシングのスパーリングのパンチとミットのようにぱしぱしと呼応し、ジグザクのピースが見事にはまり合っていく快感。ここでBlackによる「作曲」とは、フレーズではなく、まさにこの高速で転がりながら自らを形成していく、この立体パズルのピースの「組織」のことであるだろう。息つく暇もない目まぐるしい疾走感覚が常に保たれているのが素晴らしい。蛯子による「木漏れ陽」「ピントが合わない」との表現も、このちらつき感覚を指しているように思う。前々回の時にMehlianaについて多田が「CDはつまらない。でもyoutubeのライヴは素晴らしい」と行っていたが、ライヴ演奏でMehldauとGuilianaが繰り広げる丁々発止「のるかそるか」のやりとりの緊迫感は、このトリオの演奏に近いように思う。
これがAnna Webberまで行ってしまうと、点在する明滅が増殖し、次第に音数を増やして瞬く組織体をつくりあげる様は、Hollenbeck印のブランド品を眺めているような気分になってくる。もちろん益子の言うように、打撃の余韻の短さ、音色の軽さが香らせるオモチャ感覚など、独自のスタイルは感じられるのだが、どうしてもそれがブランド確立のためのマニュアルにしか感じられないのだ。これはとりわけ彼の崇拝者であるAnna Webberの視線のせいかもしれない。その点、蛯子の「子ども時代に触れた本物の手触り」という感想には、噛み締めたい豊かな含みが感じられる。
ここで並べられた三つの作品は、ドラムのリズムの不均衡/不整合を基軸とした構成と言う点で共通しているが、手づくり感溢れるアマチュアな実験(Guiliana)から、プロフェッショナルによるライヴな構築(Black)を経て、ブランド品製造管理マニュアル(Webber/Hollenbeck)に至るスタンスの幅を示している。個人的にはBlackの疾走感が好ましかったが、逆に言うといつも通りで意外性や新鮮さには乏しく、演奏の強度という点からはどれも採れないように思われた。そうした必ずしも傑出しない作品を並べて、潜在するある「ライン」の存在を浮かび上がらせる、益子の編集の妙が光るとする所以である。
もうひとつ興味深かったのは、蛯子が見せる個人的な物語へと向かう想像力である。彼の言う「要は『人』だ」という発言には、最初警戒したのだが、彼の話を聞いていると、作者の意図ばかりを詮索し、その拠って立つところを個人の経歴や人間関係に求め、結局すべてを「人生」に解消してしまう「人」派の悪習は感じられない。むしろ演奏者の脳裏に映っている景色をヴィヴィッドに描き出す印象がある。これについては後ほど詳述する。


来日時のライヴ会場で益子が本人から直接購入したというJoachim Badenhorst『Forest//Mori』が続く。1点ごと異なるという手づくりのカヴァーが美しい。音はと言えば、何物とも知れぬ不穏な物音が不明瞭な輪郭とともに立ち現れ、管楽器の音と言われても、そうかもしれないし、そうでないかもしれないと判断を保留しそうな「うめき」や「軋み」、「破裂音」等が正体不明のまま立ち騒ぐ、音の「心霊写真」とでも言うべきシロモノ。にもかかわらず会場のウケは良かった。多田は前半から早くも登場した「ダークサイド」に「何かを表現しているということではない」と興奮し、感想をと振られた津田貴司は「民族音楽的なものと関係があるのだろうか。背後に何かを感じる」と答える。蛯子は「異なる場所で録音された」との但し書きに注目し、場所との交感を暗示する。総じて聴き手はこれまでの作品とは異なる演奏の強度に注目し、それを「新しさ」ととらえたようだった。
「いろいろな場所で録音」と明記し、環境の違いをフィーチャーしながら「名所絵」的な「風景と私」という構図をきっぱりと遠ざけている点に、確信犯的な意志の強さを感じずにはいられない。クラリネットは息の破裂や管の軋み、倍音の揺らぎへと「本来の」音色の輪郭を解体し、メロディをくぐもった声それ自体の重みで崩壊させ、周囲の物音(おそらくは本人の足音等も含まれていよう)と融通無碍に相互浸透を許し、それらを丸ごとオフでとらえる。これが写真だとしたら、一体何を写しているんだかわからない茫漠とした画面の広がりの中に、場の「生地」が露呈している。唯一のデュオ曲では、楽器としての輪郭がわからなくなるほど管に接近し、二本の管楽器から放たれるうなり声と管の鳴りとリードの軋みが統合失調を来したまま、ひたすら混じり合う様をまんじりともせずに見詰め続け、内部から何か得体の知れないものが「でろり」と溢れ出てきたとの印象を与える。エクトプラズム? そう、やはりこの音像は「心霊写真」的なのだ。見ていなかった、そこにはないはずの何かの映り込み。誰の眼差しでもない防犯カメラの視覚がとらえた不可思議な現象。ここまで三つ続いた演奏が、不安定な揺らぎを扱うようでいて、確固たるプレイヤーシップを踏みしめていたのに対し、ここでは技術や意図は輪郭を失って、ただ聴きたいという「リスナーシップ」的な欲望と感覚の鋭敏さが突出している。
益子によればBadenhorstはベルギー出身ながら、NYダウンタウン・シーンでも多くの作品にバス・クラリネット奏者として参加しているという。しかし、どんな演奏だったか、まるで思い出せないとも。「個性」を殺し、アンサンブルの裏方に徹する彼の内にたぎる欲望とは何なのだろうか。
Hugues Vincentと森重靖宗のデュオもまた、前者の来日を契機として、ここに登場した盤。来日ライヴを聴いた益子が「ライヴよりCDの方がいい」という理由として、CDでは単に音や響きとして聴けるものが、ライヴだと「あんな風にして音を出しているのか」と見えてしまって、「特殊奏法の結果としての音や響き」から離れられなくなってしまうとしていたのが興味深い。我々の五感は生存のための感覚であり、適切な行為を導くためにある。つまり耳は音の正体をつかむまでは注意深くそばだてられるものの、正体が判明し「逃げなくても安全」とわかりさえすれば、もうその音に注意を払わなくなってしまうのだ。
演奏自体は音が生き物のように、あるいは自然現象のように、つまりは向かい合う二人の演奏者と言う固定したフレームを超えて、ぶつかりあい、すれ違い、溶け合い滲んでいく素晴らしいもの。その音/響きの次元への徹底した没入により、ひとり孤高を歩むように見える森重が、このように双子の赤ん坊が睦み合うような親密さを手に入れることは珍しい。二人の共演歴の長さだけでなく、本質的な相性の良さを感じる。様々な異なる音色の間を彷徨しながら、より滑らかに音を紡ぎ続けるVincentに対し、よりストイックに削り込まれた集中を見せ、より多く聴き沈黙を恐れない森重という違いはあるものの。
「タダマス」常連の一人「バンジョーのSteve Vai」ことBrandon Seabrookが花火のようにサウンドを吹き上げ、希薄に拡散しながら星々を輝かせるVinnie Sperrazza『Apocryphal』からの楽曲は、「最近のLee Konitz的」と益子が評する通りの、とぼとぼとそぞろ歩くようなLoren Stillmanのアルトを得て、単に爆裂的に弾けているだけではない、「しみじみと、とっ散らかった」絶妙な空間の様相を提示してみせた(それゆえ私には、演奏というよりサウンド・インスタレーションのように聴こえた。不思議な話だが)。自ら袋小路にはまり込んでいくようなベース、急に刻みが変わるドラムのねじれた絡みも素晴らしい。
続けて「それでは口直しに‥」と益子が最後にかけたのがNate Radley『Morphoses』。才女Kris Davisの夫君だというRadleyの、どことなくBill Frisellを思わせるギターが緩く響く。以前、締めにBon Iverをかけたのと同趣向のウェルメイドなエンディングととらえていたら、蛯子が意外なほど鋭い突っ込みを見せる。「鬱血した感じ。四方を壁て囲まれていて、紙飛行機を飛ばしてもまっすぐ飛んでいけず、すぐ壁にぶつかってしまうみたいな‥」。
私には蛯子の指摘が冒頭の「音楽を外したところで共有しているギリギリ感」からまっすぐつながっているように感じられた。ここでアンサンブルはFrisell的な「アメリカーナ」を下絵として、それを「はみ出さないように」内側から怖々となぞっている。もともとVan Dyke Parksが織り上げたアパラチアン・ミュージックのコラージュにしても、John Faheyによるブルースやブルーグラスの換骨奪胎にしても、いや、そもそも「アメリカーナ」自体が捏造であり、神話なのだ。そして神話の語り部たちは、自らがそれを心から信じることで神話を成立せしめる。そうでなければただの詐欺師だ。Radleyが自分のアイデアを信じてないくせに、それを中途半端に演じている覚悟のなさを、蛯子は厳しく突いている。これはとてもクリエイター的な視点だと思う。「ミュージシャン的」とあえて言わなかったのは、ミュージシャンには「自分がいい演奏が出来さえすればそれでいい」という、プレイヤーシップに寄りかかった自己完結的なところがあるように感じているからだ。一ミュージシャンとして入って、バッキング付けてソロ取って終わりで、全体については関与しない仕事の機会が多いからかもしれない。
蛯子のグループである図書館系ジャズユニット「ライブラリ」のCDを会場で購入した。もともと詩人である三角みづ紀は歌うだけでなく、詩を読み語る。蛯子の操作する電子音が空間を震わせる。アレンジメントは多彩というより、劇や映画の各場面に付されたように、それぞれが異なる場所にひとりぽつんと立っている。だがそれは単にバラバラということではない。サックスの艶やかな響きとうつむいた翳りが、ピアノの冷ややかなきらめきと暖かく懐深い包容力が、ドラムのつくりだす空間の広がりと引き絞られた焦点の濃密さが、ヴォイスの落ち着いた歩みと歌声の不安定な傷つきやすさが、それぞれを魅惑的にとらえたアングルの中に浮かび上がりながら、それらを連ねるまだ語られぬ物語の存在を暗示している。それとも、そうした間テクスト的な物語が芽生えるべき空間として、図書館が名指されているのか。
「ライブラリ」のウェブページを見ると、次のように書いてある。
リーダーである蛯子健太郎が、「どのような気持ちでメンバーを率い、音を出したか?」がほぼ全てと言ってよいライブ。「結果オーライ」ということは存在しない、「結果失敗」は可能性としてはあり得る。もちろん全力で避けるが。ご来場下さる方の、貴重な時間とお金を費やして頂くに値する、コミュニケーションを達成したいと思います!
これは不思議な宣言だ。少なくとも絶対的な「親分」としてグループを掌握しているリーダーは述べそうにない言葉だ。蛯子はグループ・リーダーというより、プロジェクト・リーダーなのだろう。まず人選から始め、メンバー間の人間関係/役割分担をつくりあげ、彼らが抜擢にふさわしい能力を発揮できる環境の整備に奔走する。「ライブラリ」のメンバーたちは固定されているものの、演奏の度ごとに改めて選び直されるのだろう。そこでメンバーひとりひとりは独立した人格/個性というより、複数の性格の異なるテクストの束であり、蛯子はそれを読み直し、取捨選択し、関係の線を張り巡らし、戦略的な配置を試みる。これはとりわけ日本という、単一民族/単一文化というあからさまな嘘を敷き詰め、階級もなく平等だと偽り、個人/個性の揺るぎなさを賞賛し、誰もが意思を通じ理解し合えるとばかりに亀裂を封じ込める風土においては、極めて異例な取り組みだろう。こうしたことを発想できる背景には彼の滞米生活体験が活きているのかもしれないし、ジャズを知らず、楽器演奏経験も乏しく、自前の楽器すらないにもかかわらず、ビックバンドのオーディションにも、チャーリー・ヘイデンの個人レッスンのセレクションにも通ってしまうのには、プレイヤーシップでもミュージシャンシップでもない何かを、人が彼のうちに看取ってしまうからなのだろう。
蛯子健太郎と「ライブラリ」、注目すべき存在である。幸い、来月末に喫茶茶会記でライヴの予定があるようだ。
図書館系ジャズユニット「ライブラリ」ライヴ
11月28日(金) open 19:30 start 20:00
於 四谷三丁目綜合藝術茶房喫茶茶会記
ライブラリ 蛯子健太郎(wb), 三角みづ紀(vo), 橋爪亮督(sax), 飯尾登志(p), 井谷享志(perc)
料金 2500円

ライブラリ/ライト
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積み重なる音の地層 − 『十二ヶ月のフラジャイル』サウンド・パフォーマンス Layers of Sound Strata − Live Review for Sound Performance "Fragile Twelve Months"
2014-10-29 Wed
駅前から続く商店街の原色の溢れ出す喧噪が通りに行き当たり、目印のコンビニを右に折れると、打って変わって暗く静かな住宅街となる。あまりの変わりように、この先に本当に店なんてあるんだろうかと、不安をおぶったまま歩き続けると、やがて左側に明かりが見えてくる。近づくと大きなガラス窓から柔らかな光が道路に溢れ出している。木のドアを開けると、もうすでにセッティングが終わっていて、小さな椅子が幾つも並べられている。開場時刻ちょうど。どうやら一番乗りのようだ。

特製「北の旅人」ブレンドのコーヒーをいただき、後ろの席に腰を下ろして、ゆっくりと室内を眺め回す。天井の高い空間は確かに「サイコロ」の名前通り「立方体」に近いかたちをしているかもしれない。白く塗られた壁と天井。壁に沿って設えられたチェストや木机の年期の沁み込んだ深い色合い。部屋の隅では大型の古い木製金庫が黙り込んでいる。そのせいで部屋は落ち着いた「腰壁」仕立てのように見える。吊り下がったペンダント照明が暖かな光を滲ませ、ところどころに置かれた古道具風のオブジェが、空間の陰影を濃くしている。古い木製の図面入れの上に置かれた天秤。入り口の脇のガラスケースに並べられた葉と枝ばかりの植物標本。豆本風の凝った造本の冊子を手に取ってみると、山之口獏のアルバム写真を集め、古い戸籍の写しらしきものが付されていた。まるで夢の中に出てくるような不思議な本。ふと鳴っている笛と太鼓の音に気づく。民族音楽だろうか。辺りを見回すが、どこから聞こえてくるのかわからない。津田に尋ねると、ライヴのPA用に持参した反射板スピーカーから音を出していると言う。「どこから鳴っているのかわからないでしょ」と。その通りだ。件のスピーカーはスタンド灰皿くらいの大きさの縦長の直方体で、エンクロージャーは木製。ユニットが側面ではなく上面に付いていて、その上に団扇のようなこれも木製の反射板が取り付けられている。「ラジオゾンデ」で活動している頃につくってもらったものだという。次第に人が増え、顔見知りが多いからだろうか、遠慮のない話し声が先ほどまでの落ち着いた空気を駆逐していく。それでも笛と太鼓の音はその向こうからしっかり聞こえてくる。外に出るととても静かで、近くに風呂屋の煙突が立ち、夜空に光を放っていた。


オートハープのボードを叩く音(私の席からは津田の手元が見えないので想像だが)が増幅され、虚ろにたちのぼる。希薄さを追う耳に、さっきまでは気がつかなかった時計が時を刻む音が大きく響いてくる。手前の素早い動きと壁に映るかげのように広がる引き伸ばされた余韻。外をオートバイが通り過ぎる。カラカラと鳴る滲みの少ない乾いた音が加わる。車が通り過ぎる音はもっと静か。つくられたループが重ねられ、そこにトンッと打つ響きや弦を引き絞る音が付け加えられる。弦の爪弾きがきらりときらめき、拡大された余韻が大きく揺らいで、響きの裳裾をひらめかせる。時折、長い間が差し挟まれ、耳は余韻の雲が次第に形を変えていくのを見守ることになる。アルペジオの繰り返しが、一音一音の隙間を保って星座を描くような訥々とした爪弾きへと移り変わり、キュルキュルという摩擦音に取って代わられる。気がつくと窓の外で熱心に覗き込んでいる人がいる。
ふっと余韻が姿を消し、顕微鏡的に拡大されていたアタックの質感が薄まって、弦自体の振動、韓国やヴェトナムの箏に似た丸みのある太い響きが広がり、なだらかに浮き沈みする。そこにボディを叩く音が間歇的に加わる。ディレイによって保持されたそれらの響きは、やがて螺旋を巡りながら減衰し、解けて背景へと沈み、打撃音も同様に退いて、代わって弦を擦る軋みが前景に現れ、ゆるゆるとたなびき、ゆっくりと頭をもたげ、辺りを眺め回す。響きは次第に密度を高め、まるでハーディ・ガーディみたいに豊かな倍音をたちのぼらせながら、金糸銀糸をかがったぼうっと輝く光の帯となって中空を渡っていく。まばゆい光の帯は高く弧を描いたかと思うと、輝きを陰らせて長い尾をくねらせ地を這い、暗がりにうずくまって、再び身を踊らせ響きの雫をあたり一面に振り撒いて回る。あるいは谷からの気流に吹き上げられ尾根を這い登り、山頂で渦を巻く霧のうごめき。時に笙やケーンに似た圧縮された響きすら聴かれる。
その音色の連続的な変化と音像の自在なメタモルフォーズは、私にかつてライヴで体験したフレッド・フリスのテーブル・ギターを思い出させた。クリス・カトラーとのデュオにおいて、椅子に腰掛けたフリスは膝に乗せた小さめのまな板を思わせるボディにたくさんの弦を張ったこの手造り楽器から、刷毛やらリボンやら様々な音具を駆使してハーディ・ガーディの軋みを、ディジェリドゥーのうなりを、そしてもちろん聴いたこともない音色と素早く形を変える響きの流れを紡ぎ出してみせた。
フレットや鍵盤がなく各弦の音高が決まっていること、エフェクターではなく弦に対するアクトの違いによって音色を変化させていることなど、両者に共通する点は多い。しかし、ひとつ大きな違いがある。フリスは自らのサウンドの展開やデュオの相手であるカトラーの演奏に対しては怠りなく注意を向けているが、部屋の響きや周囲の物音は視野に入れていない。これに対し津田が注視し、皮膚と粘膜を張り詰めさせているのは、むしろこうした「アンビエンス」の手触りや匂い、温度感なのだ。空高く舞い上がって虹を描き、二、三度巡った後、彼方を目指して高速で飛翔するフリスに対し、津田は足裏の感触を確かめ、風の匂いを嗅ぎ、陽射しの傾きを肌で感じながら、一歩一歩、歩みを進めていく。すでにそこにある音の中に身を横たえ、間へと入り込み根を張り巡らせて、それらの間、隙間や亀裂から音を放つ。
この見事な「ソロ」に至って、津田のサウンド・アプローチが変化したように感じられた。それまではディレイによって束の間保持され、巡りながら減衰し、次第におぼろになっていく音響に対し、適宜重ね描き、あるいは散らし描きすることにより、各要素の浮き沈みをコントロールするやり方を採っていたように思う。これはラップトップPCで複数のサウンド・ファイルに対しパラメータをマニピュレートすることにより、各サウンド・レイヤー間のバランスを操作するやり方に近い。しかし、「ソロ」の局面では、そうした「循環する時間」は意識されず、むしろディレイによって保持された層を次々と地層のように堆積させながら、演奏は進められていく。音の通り過ぎた時間が、眼の前で層となって降り積もっていく。


しばしの休憩をはさんだ第二部は、床の隙間から湧き上がってくるような虫の音から始まった。後で訊けば、『十二ヶ月のフラジャイル』に用いたフィールドレコーディング素材の未加工版なのだという。オートハープの響きの増幅された希薄な揺らぎが、虫の音の隙間から香り立ち、次第にたちのぼって視界を覆っていく。響きの尾が長く伸び、揺らぎ滲み始めると、いつの間にか虫の音は止んでいる。その時、アクシデントが起こった。30人近い聴衆が詰めかけて室温が上がったからと、休憩時間中にかけていた空調が演奏開始前に切ったはずなのに、また急に作動し始めたのだ。がさがさとした排気ノイズ(かなり大きな音)が真上から降ってくる。だが津田は少しも慌てず、タポタポと鳴るボトルの水音と軽やかに戯れ、弦のアタックの素早い動きを組織し、そこにポータブル・ラジオの局間ノイズを混信させる。音量はアクシデント発生前よりも大きくなっている。さらにラジオの音量が上がり、チューニングが操作され、局間ノイズの陰から気象情報を読み上げる声が輪郭を現し、排気ノイズと混じり合う。サーモスタットが働いたのか、すっと空調が止まると、弦の響きのミニマルな稠密さが前面に出て、ラジオはすでに消されていた。
貝殻を摺り合わせる響きが「余白」の沈黙を際立たせ、演奏は静謐さに向かって一段一段階段を降りていく。小音量を覗き込むようにそばだてられた耳を戻ってきたラジオの潮騒が洗い、一瞬高まって、ふっと消える。ロウソクの炎を吹き消したように。
後で話したら、津田は空調が作動したことを知らなかったようだ。「何か音がするな‥と思って、前の道路に車がエンジンをかけたまま停まっているのかなと」と語ってくれた。
hofli/津田貴司 CD『十二ヶ月のフラジャイル』発売記念サウンド・パフォーマンス
10月24日(金) 高円寺・書肆サイコロ



CD『十二ヶ月のフラジャイル』と告知フライヤー




山之口獏作品集
ライヴ会場の写真は津田貴司FBページから
山之口獏作品集の写真は書肆サイコロHP※から、
それぞれ転載させていただきました。
※http://www.frimun.info/saicoro/
2014-10-23 Thu
11月10日(月)開催のリスニング・イヴェント『松籟夜話』のフライヤーが、相方を務めてくれる津田貴司から届く。デザインをPDFファイルで見てポストカード仕立てかと思っていたら、ちょっと和紙風にしんなりとした手触り。最初に見た時に頭に浮かんだ「何だか和菓子みたい‥」という印象が、深いエコー付きで脳内に鳴り響く。
でも、「松籟夜話」って、もしこの世に存在するとしたらどんな和菓子だろう。「松籟」は松葉が風に鳴る音だから、やはり緑色をしているのだろうか‥。もしかして‥とネットで「松籟 和菓子」等と検索してみると、果たして「松韻」という菓子が見つかった。薄茶の表面に浅く松ぼっくりの模様が刻まれている。でも、これでは「風」や「音」の成分がないなあとつぶやいて、そう言えば「松風」という有名な京菓子があったはずだと思い出す。これまた検索すると、ありましたありました。味噌が入って、ケシの実が付いて、だいたい焼き菓子だし、どこが「松」で「風」なんじゃい‥と詰め寄りたくなりますが、これはとても由緒ある京菓子。松葉の形を和菓子ではどう表現するのかと思い調べてみると、針のような細さを写実的に追い求めるのではなくて、むしろ概念的に指で印を結んだような形に収めている。これはこれでアジア的な印象。



結局、「松籟夜話」がどんな和菓子かの考察は全然深まらなかったけれど、緑にこだわる必要がないとわかったのは収穫かも。表面に挽茶を振ったりしたら、何だかよくある感じになっちゃうものね。表面は薄茶か生成りの色でよいとすれば、外側は大好きな韓国伝統宮廷菓子トゥトゥプトクをまねして、中の餡をシナモンの香りの薄い餅で包み、表面に剥いた小豆の粉を振ろう(きな粉ではなく)。さて、肝心の餡をどうするか。トゥトゥプトクの餡は胡桃、柚子、棗、栗、松の実といった、昔ながらの製法の柚餅子のような配合だが、これではたとえどんなに味わい深くても「夜話」にはなるまい。ここはやっぱり黒くないと。それでは小豆の粒餡に黒糖を入れて艶やかに炊いたものはどうだろう。黒光りする色合いの奥深さ。ゆるやかに響くような甘さ。黒糖の甘味のしっとりとした重さと餅のねっとりとした舌触り、ほのかに漂う肉桂の香りとの相性もいいはずだ。

でも、もう少し何か欲しい。虫の音に満たされ、すすきが風にそよぐだけの「夜」ではなく、「夜話」なのだから。語りの持続が、声のゆったりとした甘やかさが、何か一瞬で終わってしまわず、ゆるゆると後を引くようなものが‥‥と思いを巡らして、柿はどうだろうと思いつく。砂糖が手に入るようになるまで、干し柿は重要な甘味料だったし。せっかくだから、干し柿を戻したものと生の柿を細かく刻んで両方入れてみよう。歯触りに変化も出るだろうし。その分、黒糖の量を少し加減して。
柿と言えば、鳥取で入った喫茶店「1erぷるみえ」がFacebookに投稿していた「柿のタルト 蜂蜜風味のマスカルポーネ添え」には意表を突かれたなあ。「火を通した柿の美味しさを、ぜひご賞味ください」とのコメントにも大いにそそられたっけ。

というわけで、『松籟夜話』どうぞおいでください。和菓子は置いてませんけど(笑)。
2014-10-20 Mon
早いもので、この週末には今年最後の「四谷音盤茶会」が催される。通算15回目となって、喫茶茶会記のイヴェントとしてもすっかり定着した感がある。最初のうちは聴衆が2~3人しかいなかったなんて、今の盛況からはまったく想像できない。Jazz the New Chapterとやらでメディアがジャズの同時代的展開に注目し始めたということもあるだろう。ようやく彼らに向かって風が吹き始めた‥「継続は力なり」というわけだ。そうした「先見の明」だけでなく、NYダウンタウン・シーンの定点観測という「視線の揺らがなさ」、「姿勢のブレのなさ」を評価することもできる。だが、私が益子博之と多田雅範による「タダマス」を高く評価する理由は、決してそれだけではない。彼らの魅力は二人にゲスト・アーティストを加えた三人で、互いに異なる視点から音をとらえ、その結果、音像を立体的に浮かび上がらせていく多視点性にある。お仲間の内輪ノリ的な「あー、いーよね。サイコーだね」といった無責任な追従や同意はきっぱりと退けられ、次から次へと音源が俎上に乗せられては、多方向に引き裂かれていく。益子と多田の二人は「タダマス」の上演や準備を通じて、互いに同じアーティストを山ほど聴き合っているはずなのに、思考/指向が重ならない。これはおそらく、彼らがより深く穴を掘り、より遠くを見詰めようとするからだ。手元ではほんの僅かな視差も、遥か彼方では大きな違いとなる。
なぜ急にこんなことを書き出したかと言えば、つい最近、こうした視点の差異を強く感じる出来事に出くわしたからにほかならない。前回、レヴューを執筆したPorta Chiusa+森重靖宗のライヴについて、Facebook上で池田達彌からトマツタカヒロのレヴューのことを教えられた。早速読みに行って、えらく感心した。さりげなく飾らない語り口ながら、事態の核心を見事にとらえている。とりわけ打たれたのは次のくだり。
「とくに感動したのは、何でもアリの即興、ゆえに彼ら4人は[待つ]のです、次の音粒子が部屋中に飛び散って加速しはじめるまで、ジックリと待つ、待てるのです、即興で待つことの出来る人はホンモノです、これは素人なりオレなりの判断基準でもありますが、、」
私もレヴューで同様の事態を「音を出さず、耳を澄まし続ける」、「沈黙を恐れない」、「すっと、さっと、ふっと入れ替わる」、「彼らは音を出さずとも常にそこにいて耳を澄まし、身体と楽器を音にさらしている」等と表現を変えながら、何度となく繰り返している。トマツタカヒロも次のように事態を語り直す。
「例えば格闘技に置き換えますと、いつも音楽と関係ない譬えでスミマセン、、試合経験が浅かったり大したことない方に限って力んで始めからラッシュ、スグに息きれ余裕など全くなし、対して百戦錬磨のツワモノは、まず余裕のスッテプで相手を往なし捌き、一瞬のスキを逃さず突く、それまで待つ、待てるのです、そして狙い撃ちで倒す、これはとても重要で高度なことなのです、格闘技は、ヤルかヤラレルか、ですから、、」
あの演奏にその場で立ち会っていた時、私の中にも「待つ」という言葉は湧き上がっていた。だが、私はこれを採らなかった。「待つ」というのは当事者の感覚であり、ここで私は同じ一続きの響きに身を浸しながらも、演奏のただなかにいるのではなく、しかるべき距離を取ってこれを眺め、音/音響/響きの次元に感覚をフォーカスしている。演奏者の感覚を代弁するのではなく、聴き手としての言葉を語ろうという思いがあった。それゆえ、私の言葉は沈黙と空間を巡るものとなった。
だが、トマツタカヒロは違う。彼は聴き手にとどまることのできない、「当事者」としてライヴを体験しているのだ。それは続く次の部分に明らかである。
「即興も同じだと観じます、待てる、彼ら4人はジッと耳を澄まして時には眼をつむり瞑想しているかのように微動だにせず待っている、その[間]こそ彼らホンモノの即興の神髄と僕は観じました、その間とのコントラストにて奏でる即興音響は僕の肉態を隅々まで縛り付けては解放して踊らせる、正直いいまして何度も舞台へ歩み寄りそうになり必死で我が身を押さえました、それだけ即興ってスゴいことなのです!誰でもやれるけれど誰にも出来ない、、っとあらためてホンモノに触れて覚醒しました、有り難うございました」
その場で沸き起こり繰り広げられる転変に、身体を突き動かされ、爪先でも鼻先でもいいから、ともかくその騒乱の中に身体を差し込みたいという滾るような欲望。「肉態表現」を行うトマツタカヒロの身体を「踊り手」の身体と重ね合わせてしまってよいかどうかわからないが、演奏でも、環境でも、ともかく事態の変化に身体が反応し、動いてしまう/動けてしまう者たちが、あのような演奏に巻き込まれたとしたら、Porta Chiusaの三人と森重が果たしていた「待つ」ことの揺るぎなさに、たじろぐほどに触発されるのは、よくわかる気がする。視点の違いとは、予備知識や経験の違いというより、まさにこうした身体の在りようの違いなのだ。
ちなみにトマツタカヒロは11月8・9日、喫茶茶会記企画によるグループ展「迷宮のエルドラド」(於:千駄木STOODIO)で、それぞれ森重靖宗、高岡大祐と共演する予定である。


さて前置きが長くなった。今回の「タダマス」の告知記事を、以下に転載しておく。詳しくはhttp://gekkasha.jugem.jp/?cid=43767を参照していただきたい。
masuko/tada yotsuya tea party vol. 15: information
益子博之×多田雅範=四谷音盤茶会 vol. 15
2014年10月26日(日) open 18:00/start 18:30/end 21:30(予定)
ホスト:益子博之・多田雅範
ゲスト:蛯子健太郎(ベース奏者/作曲家)
参加費:¥1,300 (1ドリンク付き)
今回は、2014年第3 四半期(4~6月)に入手したニューヨーク ダウンタウン~ブルックリンのジャズを中心とした新譜CDのご紹介します。
ゲストには、ベース奏者/作曲家、蛯子健太郎さんをお迎えすることになりました。詩人の三角みづ紀を正式メンバーに加え,大胆にサイン波を導入したLIBRARY「Light」を前回の合間にかけたところ、非常に好評でした。そんな蛯子さんは現在のNYの動向をどのように聴くのでしょうか。また米国留学中、先日亡くなったチャーリー・ヘイデンに師事されていた蛯子さんに当時の思い出話も伺います。お楽しみに。(益子博之)

なお、今回の「15」にちなんだタイトルは、多田の激愛する橋爪亮督による異形のコンポジション「十五夜」かとも考えたのだが、それでは当たり前過ぎるかと、Pat Metheny & Lyle Maysによる「September Fifteens」(『As Falls Wichita, so Falls Wichita Falls』所収)とした。Bill Evansに手向けられた繊細な響きは、秋の深まりに沿って、いよいよ寂しさを増して、怜悧なものとなっていく。
http://www.youtube.com/watch?v=WbklUUuhHgs
扉を開けるために − ポルタ・キウーザ+森重靖宗ライヴ@喫茶茶会記 To Open the Door − Live Review for Porta Chiusa & Yasumune Morishige at Kissa Sakaiki
2014-10-19 Sun

正面の壁の前に背もたれの高い椅子が三脚並び、その左脇にもう一脚の椅子とチェロが置かれ、反対側にはそれとシンメトリカルに長いバス・クラリネットがスタンドに立てられている。その均整のとれた配置はインスタレーションを思わせた。この緻密さはクラリネット三本が絡み合うコンポジションを映しているのではないかと、森重に尋ねると「私も勘違いして、てっきり彼らのコンポジションに参加するとばかり思っていたら、今日はすべてインプロヴィゼーションを演奏するとのことです」との意外な返事が返ってきた。実際、演奏が始まる直前に、バス・クラリネットのリードの調整にやってきたHans Kochは、三脚の椅子をすべて壁際に片してしまい、彼らは三人ともみな立って演奏を始めた。
左からPaed Conca、Michael Thieke、Hans Kochの並び。左の二人はずっとクラリネットを、Kochは前半はソプラノ・サックス、後半はバス・クラリネットを演奏した。
息音の肌理のある手触りを上層にフロートさせながら、その下から正弦波に似た純粋な音がふーっと浮かび上がる。この重なりの持続がふと途切れると、その陰からずっと鳴っていたもうひとつのややくぐもった響きが姿を現す。水平なたなびきに弦の掠れが重ねられる。Kochは音を出さずに、しばし響きに耳を澄まし続ける。
Kochがソプラノをくわえたまま、ベルを天井に向け高くかざし、ぶつぶつと唾を泡立てる。その音は息音と混じり合い、弦の掠れが重ねられて厚みを増した水平なたなびきへと沁み込んでいく。ゆったりと続く重層的な響きは、雲の動きを思わせるゆるやかな流動を内部に秘めていて、僅かに色合いや温度、密度、固さの異なる音色が巡るように浮き沈みしながら、部屋の中にいて陽射しの翳りを感じるように、ゆっくりと明暗を映し出していく。彼らは聴こえるか聴こえないかというぎりぎりの弱音だけを弄んでいるのでは決してない。クラリネットが息を揺らし、チェロがテールピースより下を弓弾きして剛直な響きを引き出してもなお、先の音の雲はそのゆるやかな動きを変えることがない。
息がふと止んで、音が空中に吸い込まれると、ひとつのシークェンスがさっと終わり、淀みなく次へと赴く。Thiekeがぴちゃぴちゃとリードを鳴らし、Kochがポンポンと軽い破裂音を立てると、森重が弓で胴を擦る。Concaは音を出さない。先ほどと異なり空けられた間に、外の工事の作業音(金槌の打撃音)が入り込んでくる。Thiekeがそれに呼応するようにキーを鳴らし、森重が黙り込んで、Concaが息を揺らさない尺八を思わせる太い音で入ってくる。音を止めたThiekeと入れ替わった森重が弦をネックごと掌で擦り、Concaがさらに息を強め、高鳴りからピーッと呼び子のように管を震わせ、Kochがノンブレス・マルチフォニックスによるつぶやきでこれを裏打ちする。
手を伸ばせば隣の肩にすぐ触れられるほど近くに並んで奏する彼らは、ひとつの小さなゲーム・テーブルを囲んでトランプをしているみたいに、すっすっと淀みなく事を運ぶ。舞台上の登場人物がすっと入れ替わり、照明が切り替わり、背景が差し替えられて、いつの間にか別の話になっている。そこにシークェンスの切り替えはあっても、「切断」はない。ここで彼らが繰り広げている演奏においては、「沈黙」は決して前後を隔てる掘り割りではない。「無音」とは光のない暗闇ではなく、いつもどこからともなく薄明かりに照らされ、さっきまで鳴っていた響きの残り香の漂う、うっすらと色づいた時間に他ならない。
同じクラリネット・トリオの編成のThe Clarinets(Chris Speed, Oscar Noriega, Anthony Burr)との大きな違いがここにある。Chris Speedたちが精密工学的な操作により、弱音の果ての無重力状態に音を押しやって、コントロール不能の状態で音が混じり合う様を見詰めようとするのに対し、彼らPorta Chiusaは息の暖かさや個々人の声音の違いを手放そうとしない。The Clarinetsにおいて沈黙とは、弱音の向こうに開ける、まさに何も見えない真っ暗な虚空であり、そのように盲いてあるからこそ、その手前で繰り広げられる演奏からぶつぶつざらざらとした手触りが特権的に浮かび上がり、触覚の次元がフォーカスされる。これに対しPorta Chiusaにおける「沈黙」は、そのような遠い彼方の「彼岸」たる消失点ではなく、いまここと地続きの空間であり、さっきまで誰かが座っていた温もりの残る場所である。それゆえ触覚よりも、匂い、明るさ、色合い、温度感など、様々な諸感覚が滲むようにつながりあって触発されることになる。
「自然は真空を嫌う」(アリストテレス)のと同じく、インプロヴィゼーションは沈黙を嫌う、いや恐れる傾向がある。沈黙が流れや運動に切断をもたらし、次の一音の生成に過大な圧力をかけるからだ。それゆえ即興演奏者たちは、僅かでも隙間を見つけると反射的に音を投げ込まずにはいられない。それはもはや強迫観念と言ってよい。この国に蔓延する付和雷同型の即興演奏では事態はもっと深刻で、まるで見えないのをいいことに暗がりからヤジを飛ばし物を投げ込む群衆のように、皆、他の演奏者の陰に隠れるように一斉に音を出し、顔を見合わせ、思惑を気配を場の空気を懸命に探ろうとする。だが、そうした浅ましさは、この日の彼らの演奏には微塵もなかった。集団が自立・自律した個人の集まりであることは自明の前提であり、盲目的な他への追従は一時も見られない。だからこそ、肩を寄せ合う狭さの中に、広々とした空間が張り巡らされる。と同時に、音響の中に自己が埋没・溶解することを嫌わない。それゆえにふと音が止んだ時にそこにいるような動きや、響きのたゆたいのうちに自他未分のまま漂うことができるのだ。さらに付け加えるならば、彼らは(森重も含め)、音を出さずにいることを恐れない。音を出していない時は演奏の外側にいて、音を出すことにより演奏の内側へと入り込んでいくという、ありがちな参入/離脱の動きではなく、彼らは音を出さずとも常にそこにいて耳を澄まし、身体と楽器を音にさらしている。そうして自らの場を温めて続けていることが、「切断」感覚のなさを生み出す。
さほど長くはないシークェンスが連ねられていく構成は、おそらくコンポジションの演奏を通じて身につけたマナーなのだろう。ひとつのシークェンスの中での奏法や音色の限定、役割の配分が、決して足かせとは感じられない空間の広がりが常に保たれている。それを可能にしているのは、先に述べた肩の触れ合う狭さにおける親密さの感覚であり、余白へと滲んでいく響きの隅々にまで行き届いた鋭敏さである。すっと、さっと、ふっと繰り広げられる入れ替わりの、切断や急変を感じさせない「さりげない」素早さには恐れ入るばかりだ。
しばらくの休憩を挿んだ後半は、Kochがバス・クラリネットに持ち替え、さらに音色の幅と奥行きが拡大した。Kochが低音を一気に沸き上がらせると、Thiekeが最高域の高周波的な音色で応じ、上から下までピンと張られた空間にConcaが加わると、Thiekeが音を揺らし始める。まるで膜が呼吸するようにうごめき、浅くなったり深くなったり、サウンドの奥行きが変化する。
それがふっと一息ついたところに森重が入り、Thiekeとの最弱音による点描的なデュオとなる。その典型的な在りように飽き足らないのか、Kochが楽器のマウスピース部分に髭をすりつけてゾリゾリと音を立て、二人の張り詰めた静謐なやりとりに傷を付ける。いつの間にかThiekeは楽器を加えたまま「がなる」ようなノイジーな音色に移行し、森重も駒より下の部分を強く圧しながら弾いてノイズにさらに圧縮された軋轢を加える。ConcaとKochが重なり合うように吹き始め、森重が弦の上を滑走するようなフラジオで舞い上がると、Concaが楽器が張り裂けんばかりに息を吹き込んで、天高く昇り詰め、ゆっくりと弧を描き、それが着地した瞬間、Thiekeがマウスピースを外した管に息を吹き込み、エアースプレーのような噴射音を奏で、森重は膝に乗せたチェロのエンドピンを弓奏する。
こうした一見ダダ的なパフォーマティヴな演奏も、ここでは異化や切断をもたらさない。やりとりは常にサウンドの次元で繰り広げられ、それを生み出した意図や思惑は詮索されない。だから彼らは互いに顔を見合わせることもなければ、他の動きを目で追うこともしない。そのようにして意図や思惑から解き放たれた音は、互いに自由に混じり合い溶け合う。隣室の話し声や外から響いてくる工事の作業音とも。
溶け合い混じり合った全体から、ある一部分が浮かび上がり、また沈んでかたちをおぼろにしていく。表面の毛羽立ちや皺、折り目に焦点が合うかと思えば、奥の方に沈んだ手触りが浮上し、また入れ替わって表層の肌理や風合いが前景化し、息音のあえかな結び合いの向こうに、隣室の声が像を結ぶ。

終演後に尋ねると、Porta Chiusaとはイタリア語で「閉じた(閉ざされた)扉」を意味し、異なる文化をはじめ「知らないこと」を締め出してしまう現代の状況を批判的にテーマ化したものであるようだ。Paed Concaが命名したとのこと。教えられた彼のHP(※)を見ると、Porta Chiusaがグループ名であると同時にプロジェクト名であり、フィルムや朗読、演奏等を含んだマルチ・メディア的なコンポジション/パフォーマンスであることがわかる。そこには目隠しした男が素通しのガラスのドアを塗りつぶしていく‥‥という、プロジェクト名にちなんだ象徴的なパフォーマンスも含まれている。このパフォーマンスについては、その時も説明してくれていた。
※http://www.paed.ch/portachiusa.html
確かに「異文化間の無理解」という以前に、他者に対して眼を塞ぎ、「扉を閉ざして」、見ようとも知ろうともしないことが、どのような軋轢と齟齬を生み出しているかについては、スイスに生まれ、現在はレバノンで暮らすPaed Concaが三人のうちで最も肌身に感じていることだろう。
ここで三人が「扉を開いて」交感することができたのは、ヨーロッパ、それもドイツ語圏の生まれと言う共通の文化基盤、コンポジション演奏を通じた相互理解の深まりに加え、抽象化により引き算的に共約言語をつくりだすDerek Bailey以来のフリー・インプロヴィゼーションの方法論の採用に拠っている。森重がそこに加わることができたのも、まずはこの最後の要因による。
だがそれだけではない。レヴュー中で繰り返し述べたように、自らの都合に合わせて出入りを繰り返すのではなく、ずっとそこに居続け、音を出さない時も身体を音に浸し、耳を肌を澄まし続けること、そして見えない意図を詮索するのではなく、こうして聴こえる/聴き取った音に基づいて行動することが、このような親密な交感を、共演を可能にした事実を、声を大にして指摘しておきたい。この点で森重靖宗という人選はまったく的確なものだったと言えよう。そして彼が期待通りの素晴らしい演奏をしてくれたことを心から喜びたい。
2014年10月18日(土)
綜合藝術茶房 喫茶茶会記
Porta Chiusa(Paed Conca, Michael Thieke, Hans Koch)+森重靖宗
夜、松の葉が風に鳴る音が聴こえたような気がした In the Night, I Felt Like I've Heard Sounds Pine Tree Leaves Rustling in the Wind
2014-10-08 Wed
縁あって津田貴司さんといっしょにリスニング・イヴェント『松籟夜話』を開くことになりました。耳をすまし、音を聴き、その時間空間に身を浸しながら、言葉を放つという、まあ「耳の枠すまし」みたいなもんです(笑)。第1回はミッシェル・ドネダを採りあげますが、彼の全体像を探るというよりも、彼の音を通して聴くことを深める‥ということでしょうか。きっと、そのことにより、ドネダの音は今まで以上にヴィヴィッドに肌に触れてくることになるでしょう。ぜひ、おいでください。https://www.facebook.com/events/277814799092406/?notif_t=plan_user_invited

ちなみに松籟(しょうらい)とは、松の梢に吹く風。また、その音のことで、松韻(しょういん)あるいは松濤(しょうとう)とも言うようです。私がこの言葉を初めて知ったのは、益子で行われたワークショップ「みみをすます」に参加した際のことで、山道を歩いていた津田さんがふと足を止めて、「松籟が聴こえますね」とぽつりとつぶやいたのでした。いっしょに歩いていた私や多田さんは、津田さんの指差す方を眺めながら、「どれがその音なんだろう。何にも聴こえないや」と途方に暮れたのですが(笑)。
というわけで、松籟自体は私にとって「幻の音」です。なので今回のタイトルも「〜ような気がした」と何だか弱気です(笑)。むしろ、夜の静寂(しじま)に漂う気配みたいなものかと。「松濤」は渋谷区の地名にありますね。大学時代、よく授業をさぼって、松濤町にある公園に、池のアヒルと話をしに行っていました。何と孤独な青春(泣)。その時は松濤がそんな意味だって知らなかったけど。「松韻」は上野公園にある懐石料理の韻松亭を思い出します。風情のある建物で、たとえ庭が見えない席でも雰囲気があります。でも確か茶つぼ三段弁当には、名物の豆ご飯が付かなくなっちゃったんだよねー。残念。
閑話休題。津田さんによる案内文を転載しておきます。
松籟夜話 第一夜
音楽批評・福島恵一とサウンドアーティスト・津田貴司による、フィールドレコーディングを中心に「聴く」ことを深める試み。
さまざまな音源を聴きながら、「音響」「環境」「即興」をキーワードに夜話を繰り広げます。
ギャラリー白線オーナー・歸山幸輔によるスピーカーとていねいに落とした珈琲もどうぞおたのしみください。
第一回は、フランスの演奏家ミシェル・ドネダを中心に音源を聴き込みます。
2014年11月10日(月)20:00〜(22:30終了予定)
1500円(珈琲付/おかわり300円)

東京都杉並区阿佐谷南1-36-14 ハウス白鳥1F-B
03-5913-9286
http://hakusen.jp/
福島恵一(音楽批評/「耳の枠はずし」)
http://miminowakuhazushi.blog.fc2.com/
津田貴司(サウンドアーティスト)
http://hoflisound.exblog.jp/
歸山幸輔(ギャラリー白線/反射板スピーカー+珈琲)
http://hakusen.jp/
第一夜のお題はミッシェル・ドネダ。そもそも津田さんの演奏を初めて聴いたのが、以前にも書きましたが、2012年の12月、イヴェント『Study of Sonic』においてでした。その時、私は金子智太郎さんと二人でレクチャーを担当し、一方、津田さんはsawakoさんとのデュオで演奏。アフターアワーズに少し話をした時、津田さんがドネダを聴いていることを知って、ちょっと驚いたのをよく覚えています。ドネダはデレク・ベイリーとはまた違う意味で、「即興演奏のハードコア」に位置していると思っていたので。
ドネダについては、これまで何回となく書いてきました。いつ聴いても、何度聴き返しても新たな発見のある、聴き込み掘り下げる価値のあるアーティストです。でも、今回の松籟夜話では、彼の全体像とか、新たに切り開いた局面だとかを読み解き伝えることを目的とはしません。ドネダは言わば入り口と言うか、道しるべに過ぎず、ドネダ自身よりも「ドネダを通して」開けてくる眺めを見ていきたいと思います。
津田さんが「ドネダは灯台みたいなもの」とうまい喩えをしています。そう、光源よりも光源に照らし出される景色の方が今回の主役です。‥と言いながら、暗闇を一筋の光がさーっと走っていく時のドキドキ感もそこには含まれていて、ドネダが類い稀なる「灯台」であることが明らかになることでしょう。
人前で話すのは久しぶりですが、今回は進行を津田さんにお任せして、話を無責任に広げる役回りができればと思っています。というわけで、どうぞおいでください。お待ち申し上げております。



Michel Doneda, Pierre-Olivier Boulantによる『Montsegur』演奏・録音風景から
PuffskyddレーベルHPから転載