日常が文学に飛躍する瞬間 − 「ライブラリ」ライブ@喫茶茶会記 Moments Usual Everyday Life Takes a Leap to Literature − Live Review for Library Concert at Kissa Sakaiki
2014-11-30 Sun

左からスタンドに据えられたテナーとカーヴド・ソプラノ、コンガやカホン、シンバルを中心に様々な音具が取り付けられたオブジェのようなパーカッション群、センターのベス・アンプの右にコントラバスが立てかけられ、その右のピアノの手前にはヴォーカル用のマイクロフォンと椅子がセッティングされ、マイクロフォンはコントラバスの右奥のスピーカーにつながっている。
今回は「ライブラリ」として9か月ぶりのライヴで、先ほどメンバーで話していて、フェリーニの映画『オーケストラ・リハーサル』風に盛り上がってしまって‥と話しながら、蛯子はまずメンバー紹介から始めた。
「なかまわれのうた」。広がりのあるベースの響き、ゆったりと刻まれるシンバルの響きの間に広がる乾いたスペース。ピアノの和音が重ねられ透明な空気がたちのぼって、ヴォーカルの息の細やかな襞を浮かび上がらせる。まるで夜がゆっくりと明けていくように、あるいは縮こまっていた手足をゆるゆると伸ばすように。モノクロームに沈んだ静けさに色彩が戻ってくる。カーヴド・ソプラノの柔らかな息遣い。そして最後はロウソクを吹き消すみたいにふっと終わってしまう。
「トレインズ」。ベースとヴォイス、シンバルのレガートだけで始まる。声の隅々にまで張り詰めた緊張。途中参加のテナーとピアノが両側から刻み目を入れていく。細分化されあるいはミュートされて細やかに叩き分けられるシンバルとピアノの和音を伴ったベース・ソロ。蛯子の半開きの口が苦しげに、しかし歌うように動く。瞬間を蹴立てて地に足を着けず、身体を宙吊りにし続ける音の歩み。リズムを刻んだりずらしたり揺らしたりというより、演奏は明らかに「うた」の次元に自らを置いており、同一音の繰り返しやたどたどしい上下行が切々と響く。
「滑車」のずいぶんと遅いテンポのベースとドラムの間に張り渡された綱の上で、声が緊張と孤独に震えている。続く「STAR EYES」では、ジグゾー・パズルのように組み合わされたベース&パーカッションに、ピアノとカーヴド・ソプラノがミニマルな点描を施し、その上に声が、それらの繊細な並びをいささかも掻き乱すことなくそっと置かれる。これらのゆったりと張り詰めた響きに比べると、マイルス「ブルー・イン・グリーン」は映画音楽のように甘く響く。ピアノが音を垂直に立たせていって、ベース・ソロの吐息が荒くなる。前半の終了。

音を厚く重ねず、隙間を空ける。それはアンサンブルの「ねじ」をゆるめ、演奏者を互いにゆるやかに切り離すことでもある。楽譜はあるにしても、記譜により規定された楽曲の枠組みは、極論すれば内装をはがされ躯体を剥き出しにしたスケルトン状態のがらんとした空間に過ぎない。演奏者たちはまるでスクワッターのように思い思いの場所に棲みつく。グルーヴやノリのような共同主観性を立ち上げず、常に隙間を風が通るようにし、一人ひとりが自分の考えで動くことにより、演奏者の細部に対する意識は拡大され、先の「がらんとした」眺めをもたらす。だからここでは通常の「与えられた空欄を埋める」式の演奏は通用しない。完全記述式。唯一の決まりは「全員が同じ地点から始める」こと。だから、始まりのテンポの指定がとりわけ重要になる。これはアンコールを除くすべての演奏に共通していたのだが、蛯子は曲名を告げると、眼を瞑り、上を向いて、口を半開きにして身体を揺すりながら集中し、おやと思うぐらい時間が経ってからテンポのカウントを始める。その間にイントロだけでなく、曲の全体イメージをスキャンしているのだろうか。いずれにせよ、これこそが蛯子流の「コンダクション」にほかなるまい。
三角の声は脆くこわれやすく、身体性の重さを引かない。声に現れる細やかな息の襞は、不思議なくらいに肉体的な生々しさを持たず、むしろ声の身体の輪郭を解体し、響きの方へと解き放つ。手を伸ばせば触れられる距離にありながら、そこにはいない声。それゆえ言葉が像を結びにくい。この日のライヴでは朗読はなかったが、「ライブラリ」のCD『ライツ』においても、朗読に比べて、うたは語の輪郭が希薄となっていた。そうした声の希薄さは、先に見たアンサンブルのフラクタルなあり方と見事に響き合う。と言うより、彼女の参加が、アンサンブルに不可逆な変化をもたらしたのではないか。
「エンジェル」。CDでは浮き沈みする正弦波と声で演奏されていた曲が、ここではアンサンブルにより奏でられる。ベースのゆっくりとしたコード弾きが、不定形な響きをたちのぼらせる。それとシンバルの間に張られた空間を、声がゆるやかに浮き沈みする。ピアノの和音がやはり響きの塊として押し出され、カーヴド・ソプラノは線を描かずに、音色を膨らませて不安定に移ろう。調性感が揺らぎ、曖昧に崩壊していく中で、音が宙に吊られながら、不定形な響きの色彩が空間を充満させる。前半に見え隠れしていたアンサンブルのフラクタルなあり方が、一挙に前景化する。
「音がこぼれる草の話」。ベースによるシンコペートしたリズムの提示に、ピアノの繰り返しとカホンを中心としたパーカッションが、ジグゾー・パズルのピースのように組み合わさる。愛すべき「カワイイ機械」としての「オモチャ」の音楽。ピアノのモールス信号的なフレーズのカタコトした反復やアルトによる寸断された奇妙なリフが、さらにトイ・ミュージック感を膨らませる。「モールス信号」に伴われたベースのソロ。蛯子の口元がいつにも増して「歌って」いる。音量が本日最高地点までいったん高まって、ふっと小さくなり、足取りもひっそりとゆるやかに変わる。まるでオモチャたちの真夜中の饗宴の最中に廊下で足音がしたみたいに。続いて右手と左手に分裂したピアノだけを背景に現れる息を潜めたテナーのソロは、今までに聴いたことがないような断片的かつ分裂的なもので、散らかった音のかけらを拾い集めたような‥‥、いや書かれた文章からアルファベットが次々にこぼれ落ちて、穴だらけの意味不明な記号の羅列と化していくような不思議なもので、そこにはピアノの右手と左手の解離もまた、高域と低域の分裂として映り込んでいた。
「モノフォーカス」。ベースの重い足取りにピアノとバーカッションが敷き重ねられ、さらにヴォイスとテナーが重ね描きされる。前曲に引き続きアンサンブルのあり方は、むしろチェンバー・ロックを思わせる。テナーのまるでバスーン(バソン)のような、聴いたことのない音色による、辿る音程を極端に絞り込んだ平坦なソロに眼を見張る。ここでも高域と低域のスプリットが際立つ。「ライブラリ」における橋爪は、ギアを自在に切り替えながら曲がりくねった回廊を流麗に駆け抜ける運動性能を厳重に封印し、その卓越したサウンドのコントロール力を、まったく別の局面に発揮している。言い方を変えれば、蛯子は彼を通常のジャズ演奏ではあり得ない局面設定に立たせ、あるいは追い込んで、彼の別人格を鮮やかに引き出している。
「深き淵から私は叫んだ」。今年8月に書かれた最も新しい曲でタイトルは古文書からの引用と言う。それゆえか他の曲といささか毛色が異なる印象。いきなりテナーがいかにもジャズ的なリラックスしたテーマを吹き出し、カクテル風のピアノとコンガの音色がリゾート気分を演出する。最後の部分でほとんど弦に触れるか触れないかのベースのタッチが印象に残る。
「ヴィトリオル」。タイトルは中世の毒の総称とのこと。ベースとカホンによるリズムが提示され、ねじれたテーマがゆっくりと解けていく。弦の響きの輪郭が揺れる炎のようにゆるやかに移ろい、ヴォイスとピアノのユニゾンに幻想的な彩りを加える。アルトが相の手を加えることでチェンバー・ロック的な稠密さがもたらされるが、ひしゃげた音色や音程の揺らぎ、逆回転風の息のアーティキュレーション等により、リズムも音色も輪郭が崩れ、曖昧さを増していく。これによりピアノとパーカッションの「機械仕掛け」的な感触が、毒のあるトイ・ミュージック風味を際立たせていく。特に運指練習を切り貼りしたようなピアノ・ソロは鮮やかだった。組み立てながら崩し、さらには崩壊それ事態を構築してみせる「ライブラリ」の、あるいは蛯子の「組立工」ぶりが光っていた。予定されたプログラムの最後の一曲。

アンコールの求めに対し、「ライブラリ」ナンバーの用意がないということでジャズ・スタンダードを披露。三角は先に楽屋に引き揚げてしまう。メンバーの実力を反映した過不足のない演奏は、「ライブラリ」の演奏の特異性を見事に照らし出すこととなった。ここでは各楽器の足取りが見事に揃う、いや揃ってしまう。そして各人の出音がそれぞれの領分を少しずつはみ出し、無意識のうちに手を握り合い支え合って、それが演奏の推進力や力強さを生み出すに至る。これまで進んできた勢いで、これから先も突き進んで行く演奏。その中にこれもおそらくは無意識のうちに、各人の個性や癖が滲み出してくる。
「ライブラリ」はこうしたオートマティックな演奏を可能ならしめている「音楽推進スイッチ」をオフにすることから、演奏を始めているのがわかる。遠くまで見渡せる視覚のガイドで大股に足早に進むのではなく、眼を瞑り手探りで足裏の感触から起伏や傾斜を探り、顔に当たる空気の流れや耳のとらえる響きの違いから空間配置を読み解きながら、少しずつ這い進む。そこにほとんどシュルレアリスティークな別の感覚世界が開ける。
おそらくは「ライブラリ」にとって譜面に書き起こされた指定はほんの始まりに過ぎない。いや、それらの指定以前から、ある条件付け、環境の設定が始まっていると言うべきかもしれない。ここで私は、メンバーを9か月の長きに渡り幽閉してリハーサルを繰り返させたという、『トラウト・マスク・レプリカ』制作時のキャプテン・ビーフハートのことを思い浮かべている。もちろん蛯子はそのような専制君主ではないだろうが。しかし、橋爪に典型的に見られるように、メンバーたちが通常とは異なる側面/能力をピックアップされ、それを鮮やかに解き放っていることは確かだ。様々な音具を用いてシンバルを細やかに叩き分ける井谷、音を絞り込みタッチを平坦にして「機械仕掛けのピアノ」に近づいてく飯尾。バランスのとれた「不揃い」、完璧なチームワークによる「なかまわれ」へと向かうアンサンブル。三角みづ紀にしても、枯葉が舞い落ちるようにさらさらと解けていく声の在りようは、youtubeで観ることのできる三角みづき紀ユニットでの歌唱とはほとんど別人で、私にとってはまるで比べ物にならないほど好ましい。
「ライブラリ」の音楽が「文学にインスパイアされた音楽」であるとして、それは決して文学の与えるイメージを音に翻案した、あるいは音で描写した音楽ではあるまい。彼らの音楽は音によるイラストレーション=絵解きではまったくない。彼らの音楽は、言うなれば日常が文学へと飛躍する仕方をシミュレートした音楽だ。日常のうちに開けた様々な亀裂や解離を、私たちは無意識のうちに跨ぎ越え、あるいは修復して、それに陥ることなく歩みを進めている。昨日と同じ明日が来ることを疑うことなく生活している。通常の音楽演奏もそうであって、音の流れに身を任せれば、間違いなく終点まで送り届けてくれる。「ライブラリ」はその流れを断ち切り、あるいは踏み外す。あるいは前述の亀裂にはまり込む。そこに別の世界が開け、文学が生まれる。
音楽演奏において、「即興」というのは、そうした亀裂や解離を意識に上らせ、はまり込むための方法の一つにほかならない。日常の至るところに「即興的瞬間」が口を開けているし、「即興」が日常化/陳腐化してしまえば、再び日常はのっぺりとした一様な連続性が果てしなくどこまでも続くものとなる。
「ライブラリ」はフリー・インプロヴィゼーションを行うグループではないし、いわゆるアドリブを延々と取る訳ではなく、そうした点からすれば、決して即興性が強いようには見えないかもしれない。しかし彼らの演奏を聴いていると、至るところに「即興的瞬間」が開いていることがわかる。
「四谷音盤茶会」にゲストとして訪れた際に垣間見た、蛯子の持つ「プレイヤーシップでもミュージシャンシップでもない何か」を、この日はしっかりと目撃できた気がした。その在処については今回のレヴューのあちこちにちりばめてある。私にしては珍しく、演奏された全曲に対する時系列順のコメントとしたのも、それだけを抽出して論じてしまうと、演奏の現場との結びつきがわからなくなってしまうように思われたからだ。その目論みがうまく行っているかどうかは、何とも心もとないが。
彼らの音楽の不思議な魅力に多くの方に触れていただきたいと思う。「ジャズ・ユニット」と呼ばれているが、文中でも触れたように、むしろチェンバー・ロックやトイ・ミュージックとの親近性が高いように思う。来日が報じられているクリンペライ、あるいはパスカル・コムラード、ランサンブル・ライエ、ジュルヴェルヌ等のファンに、ぜひ聴いてもらいたいと願う。




これらのジャケットにピンと来たら、ぜひライブラリを!
2014年11月28日 四谷三丁目 綜合藝術茶房喫茶茶会記
ライブラリ
蛯子健太郎(cb), 三角みづ紀(vo), 橋爪亮督(ts,ss), 飯尾登志(pf), 井谷享志(perc)
ライヴ写真は池田達彌、三角みづ紀、井谷享志各氏のFacebookページから転載しました。

ライブラリ『ライト』
試聴 https://www.youtube.com/watch?v=oNinwZxfMM4
https://www.youtube.com/watch?v=f2trU3X4QrY
https://www.youtube.com/watch?v=DPho-F6WAdY
https://www.youtube.com/watch?v=xQTv1m2W_1M
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2014-11-25 Tue
どのようにしたら、このような音の構成/配合が可能となるのだろう。至極大雑把に言って、ここにはフィールドレコーディングによる外界の物音(環境音)と演奏により生み出された音がある。環境音を背景として演奏が展開されているのではない。時に外界の物音は演奏がかたちづくる音の層を突き抜けて、耳に迫ってくる。反対に環境音を際立たせるために、あるいは耳に優しくなじませるために、演奏やエフェクトが付け加えられているのでもない。演奏は(よくある風に)環境音にヴェールを掛けないし、時には演奏だけでひとつの世界を成立させている。スティルライフの第一作『夜のカタログ』の紹介文にAMEPHONEが書いた「音は立派なものです。木立の立てる音や虫の声をここまでブーストして、なおかつ耳になじむ状態で鳴らされているものを私は知りません。ですから、環境録音(の作品)としては十分成り立っています。」との評価は、この『十二ヶ月のフラジャイル』にも当てはまる。しかし、スティルライフの作品において、フィールドレコーディングは環境音と演奏を丸ごととらえている。そこには空間に「住まう」感覚、そこに居合せ、温度や湿度、空気の動きやそれが運んでくる匂い、月明かりに浮かぶ樹々の輪郭や白々と明けていく空間の広がりが、身体を包み沁み込んでくる感覚があるだろう。本作では演奏は後から加えられ、環境音も編集されている。このつながりや重ね合わせの感覚は、いったい何に導かれているのだろう。

視覚の広がりの中で視線が対象をとらえ、意識がそこに向かう時、対象は拡大され視角/意識の多くを占めるようになる。虫の音も、葉擦れのざわめきも、滴る水音も、ぱきぱきと折れて砕ける小枝も、騒ぎ立てる白鳥の声も、ここではそのようにして、遠い眺めではなく、意識の前面へと魅惑的に立ち現れてくる。風に揺れる草花を至近距離でとらえた映像のように。演奏もまた同様に意識の前面へと立ち現れる。それは映像を伴奏しない。遠くに退くこともしない。同じく意識の過半を占めながら、不思議と互いに競い合うことをしない。
そうした疑問は、本作を聴き進め、あるいは何度も繰り返し聴くうちに、おぼろに薄らいでくる。環境音と演奏という区分が、とても硬直した自分勝手で無意味なものに思えてくる。実際、環境音の編集の中に、演奏の構成の中に、とてもよく似た手触りの「コンポジション」感覚が横たわっているように感じられる。
ここで「コンポジション」とは狭義の「作曲」や「構成」ではない。前回の喫茶茶会記グループ展『迷宮のエルドラド』のレヴューで、森重靖宗の写真展示に触れた時に用いた「コンポジション」の意味合いに近い。音を彫琢し、しかるべき場所に収めること。本作の終曲「シベリア気団より」で聴かれる気象情報のラジオ放送について、そのあり方を見てみるとしよう。
短波放送の局間ノイズや混信の嵐の中から、「父島では北東の風、風力1‥‥」と地名や緯度経度、気温や気圧、風力等の数字を淡々と読み上げる男性アナウンサーの声が現れる。その声は受信ノイズにヤスリがけされておぼろに霞み、周囲に溢れるざらざらとしたノイズに洗われ、潮目に浮き沈みしている。それがふっと雑音の海に呑み込まれてかき消えた瞬間、アコースティック・ギターの弦が閃き、視界が鮮やかに切り替わる。澄んだ空気を揺する葉擦れのざわめき。遠くから聴こえてくるカラスの鳴き声。すぐ近くで小鳥が囀っている。再び気象情報を読み上げる声が浮かび上がり、ざわめきに洗われ続ける。すぐ頭上を通り過ぎて行く飛行機の長く尾を引く響き。また声が姿を現す。句読点を入れるギターの閃きもざわめきに浸されている。耳元で遊ぶ小鳥の声の間に、「‥‥強い風が吹いています」と急にラジオの声が踏み込んで、情報をきっぱりと読み終えると、曲もすっと終わってしまう。
ラジオの音声、小鳥の声、葉擦れのざわめき、アコースティック・ギターの演奏。素材を並べただけでは何も起こらない。鍋を熱し、油をひいて、ざわめきを炒め、少ししんなりしたところへ、あらかじめ下味を付けておいたラジオを加える‥‥そこにはそうした調理の手順や塩梅を見極める感覚の冴えが必要なのだ(素材の味を立たせるには、完璧な調和を築いておいて、ここぞというところで、それをほんのわずか崩してやる必要がある)。

hofli(=津田貴司)による『Lost and Found』の紹介文に、私は次のように書いている。「hofliの前作『雑木林と流星群』が眼を閉じて外に耳を澄まし、そこに結ぶ景色を浮かび上がらせたのに対し、今回の『Lost and Found』は眼を開き外を見詰めながら、内へと耳を凝らし、血流の脈動や神経の高鳴り、思考や感情の移り変わりを音のつぶやきとしてとらえている。だからそこに風景が結ぶことはない。寄り添うべき枠組みはなく、代わりに五感を触発する響きが戯れ、聴き手は一人ひとり景色のない物語を編み上げることになる」と。
これらの作品との比較で言えば、『十二ヶ月のフラジャイル』に物語はない。切り取られた視覚による景色だけがある。眼を見開き耳をそばだてて外に集中しながら、でも何が見え聴こえているのか定かではない。風に揺れる草花の近接映像から、そこには姿の見えない、しかしその場に響いている小鳥の声が聴こえてくる。画面が深い森の遠景に切り替わり、澄んだ空気にくっきりと浮かび上がる枝の輪郭を見詰めながら、足元の草むらに響く虫の声を聴いている。陽が落ちて暗闇の沈んで行く山の稜線を見詰める視線を、ごーっと渦を巻く響きが包み込み巻き込んでいく。しかし、それが風にあおられた森の樹々のうなりか、遠くの雷鳴の轟きか、耳元を掠める風の響きに高鳴る鼓動と血流の高揚かわからない。
音の視角が切り替わる時、ここでそれをつないでいるのは『雑木林と流星群』等を支えていた物語的想像力ではない。掌篇小説を紡ぐストーリーの糸の代わりに、そこで生じている事態を見極めようとする探求的な視線の移動が、場面を連ねている。この音はどこから響いてくるのか。鳥が遊び、枝を揺らす樹々を涵養する水源はどこにあるのか。その水の流れはどこから来てどこへ行くのか。これらの起伏をかたちづくる褶曲や侵食はどのように起こり、進んだのか。そのように考えていくと、今聴こえている音は、これまで長い長い時を経てかたちづくられてきたプロセスの一部に過ぎないことが浮かんでくる。しばらく鳴いていたかと思うとどこかに行ってしまった鳥も、何十年も前からここにあっただろう森の樹々も、秋が過ぎれば死んでしまう虫たちも、何万年の時間を経て堆積してきた地層/地形も、同じひとつのゆるやかな変化の流れのうちにある。かつてそこに響いていた音色が、やがてそこに降り立つであろう響きが、この景色に出会った瞬間に私の中に鳴り響いた音が、プレイバックを聴き返す私の中にいま浮かんできた音響が、ひと連なりになって聴こえてくる。

スティルライフ『夜のカタログ』のライナーノーツに「地質学的想像力」の一語を書き付け、宮沢賢治「イギリス海岸」からの引用を記した時、私はそうしたことを思い浮かべていただろうか。それははっきりしない。たぶん、そこまで明確なヴィジョンを得てはいなかったろう。だが、ライナーノーツ執筆後に『十二ヶ月のフラジャイル』を聴いて、こう思う。津田がスティルライフの相方を務める笹島裕樹と夜の森や渓谷や田畑を訪れて、そこで行った演奏を周囲のサウンドスケープとともに収めた膨大な量の録音は、実際には『夜のカタログ』にほとんど用いられなかったけれど、それらの録音を聴き返したやはり膨大な時間が、津田の中にある種の感覚を芽生えさせ、研ぎ澄まし、それが別の形で、この『十二ヶ月のフラジャイル』に花開いたのではないかと。深夜、見知らぬ土地の暗闇にあって、視覚を奪われてなおのこと研ぎ澄まされた聴覚に、その場の音はおそらく耳を聾する喧噪として鳴り響いたに違いない。そうした場に沸き立つ響きに心細く縮小していく自己が埋没し、あるいは演奏を通じて同化浸透していく体験を、また改めてそれを対象化した録音機械の視点から聴き返すことは、彼に大きな変化をもたらすことになったのではないか。
そうした視点からとらえるならば、『十二ヶ月のフラジャイル』に収められているのは、(季節のある時点で)「場を体験する」ことの再創造にほかなるまい。それは俯瞰した全景を縮小したものでもあり、あるいは接写を拡大したものでもある。一瞬のうちに刻み込まれた体験を引き伸ばしたものでもあり、永遠に続くかと思われた体験を圧縮したものでもある。それらは決してかっちりとした構造を持たず、現れはきっぱりと硬質でありながら、先に見たように実に繊細に編み上げられており、すぐにでもはらはらと解け、さらさらと崩れてしまいそうな、複数の層がかたちづくる危ういバランスの上にある「こわれもの=フラジャイル」なのだ。



アンビエント・ミュージック特有のぼんやりとした明度の低さを予想して本作に耳を傾けるならば、角を殺めない環境音の響きの力強さに驚くかもしれない。その意味で本作は沈静/リラクゼーション効果の期待される「機能性音楽」としてのアンビエント・ミュージックではない。しかし、音の力、音を体験することの強度に触れてみたいなら、ぜひ本作を体験することをおすすめしたい。
最後になったが、パッケージにも触れておきたい。艶消しの薄いグレーをした紙製の少し大きめの組箱には、CDのほか、モノクロの活版印刷によるきりりと引き締まった2015年カレンダーが一ヶ月分×12枚と津田自身による曲ごとの「解説」を記したリーフレットが収められている。もともと本作のデザインを担当したdrop aroundから、「カレンダーを同封した音によるカレンダー」というアイデアを提示されたのが、本作制作のきっかけだったという。正方形のカレンダーは、右下に暦部分が、左上に手描きによる簡素なグラフィックやコンクリート・ポエム風のアルファベットが配され、北園克衛的な透明な硬質さをたたえている。一方、津田による「解説」は、12曲にそれぞれ12ヶ月の「ある日」の気象条件(風向き、風力、天気、気温)を記し、さらにフィールドレコーディング時のメモ的な内容を添えてある。興味深いことには、彼は自身のサイトにより詳しいメモを掲載していて、それはとても具体的であるがゆえにほとんど作品制作の「種明かし」的な印象を与えるものとなっているのだが(もちろん「種」がわかれば作品ができる‥というものではないのは前述の通り。ただし「種明かし」をされた印象は残るので、閲覧には注意が必要)、作品に添えられた「解説」の方は、記述内容を巧みに限定することで、聴き手/読み手の想像力を触発し解き放つものとなっている。「引き算」が世界を豊かにする。掌篇小説的想像力は今回ここに発揮されていると言うべきだろう。
翌年のカレンダーを準備するのは冬の冷え込みが厳しくなってからだ。「解説」に気象情報を盛り込むアイデアも、先に触れた12月「シベリア気団より」の気象情報のラジオ中継からだろう。このように本作において12ヶ月を束ねているのは、冬の視線のように思う。全編を通じてきっぱりと澄み渡った空気感が手触れるのは、そのせいだろうか。ちなみにマスタリングはスティルライフ『夜のカタログ』と同じく、津田が厚い信頼を寄せる庄治広光。先日の『松籟夜話』第一夜でかけたTsuki No Waに、庄治が参加しているという巡り合わせ。


さらに次のページで、素晴らしい「耳のソムリエ」たちによる達意の作品紹介を読むことができる。ぜひ、ご覧いただきたい。
公演喫茶(pastel records寺田兼之)
http://www.pastelrecords.com/koencafe/?p=2044
Record Shop "Reconquista"(清水久靖)
http://www.reconquista.biz/SHOP/DR002.html
写真は津田貴司Facebookページ及び「公演喫茶」から転載しました。
場の濃密さに招き寄せられた者たち − 喫茶茶会記グループ展『迷宮のエルドラド』レヴュー The Attracted by the Dense Place − Review for Kissa Sakaiki Group Exhibition "El Dorado in the Labyrinth"
2014-11-23 Sun
11月10日の『松籟夜話』第一回の準備や11月17日が締め切りだった少し長めの依頼原稿のためのリサーチと執筆もあって、それ以前に観た一連のライヴについて報告できずに来てしまった。時間的に随分遡ることとなるが、それらについて順次レヴューしていきたい。まずは11月8・9日に開催された喫茶茶会記グループ展『迷宮のエルドラド』について。

谷中にあるEthnorth Gallery(いよいよ12月3日に販売開始されるstilllifeの新譜のリリース元であるNature Blissの経営する雑貨店)に立ち寄った際に周囲を散策し、千駄木にも立ち寄った。フライヤーの案内図を頼りに、その時にも歩いた千駄木の通りの行列のできる漬け物屋を過ぎた左側に、立て看板が出ていなかったら間違いなく行き過ぎてしまうだろう小さな路地があった。ビルとビルの合間のさらに奥。「迷宮のエルドラド」とはこのことかと合点が行く。ヨルダンはペトラ遺跡の見立てか。



ドアを開けると、もう演奏が始まりかけている。とりあえず板張りにリノリウムの敷かれた床に腰を下ろしてあたりを見回す。横に細長い空間の三方の白壁にイラストや写真が展示されている。見上げると梁が剥き出しの吹き抜け。位置が不自然だから、おそらくはもともとあった部屋の床を抜いて、吹き抜けにしてしまったのだろう。その真下にサンドバッグが鋳鉄のフレームに吊るされ、オブジェとして設えられている。壁際のパイプ椅子には、髪を後ろで束ねた高岡大祐が黒尽くめの巨体を押し込み、チューバを抱えている。

高岡がやおらチューバのマウスピースを外して、楽器本体に鋭く息を吹き込む。キーには触れようともしない。加速され粒子状になった息が吐き出され、互いに衝突し、静かな、だが激しい軋轢を生み出す。一瞬で張り詰めた空気に、中空に突き出された脚の異様さが応える。足指の引き攣った動きと踏み板の軋み。壁の中の階段の途中から室内に脚を投げ出しているのだ。やがて隙間から這い出るようにして、トマツタカヒロの身体が姿を現す。銀灰色の蓬髪に墨で汚された白い稽古着(空手着あるいは柔道着)。チューバの息音にホーミー的な倍音が乗る。トマツの身体の減速した、ことさらにゆっくりとした動き。しかし反り返る足指から足裏の、いや全身に張り詰めた緊張が伝わる。チューバの吸い込む息の深さと吹き切る息の鋭さの対比。幾つもの層が重なり合う流れの変化。トマツがサンドバッグを揺らし、金具が軋みを上げる。唾が飛ぶような息によるパーカッシヴな打撃。トマツが四つん這いになり、高岡も立ち上がって歩き出す。
チューバのホラ貝のような持続音を背景として、トマツの身体が屹立する。一見硬直して動かないようで、腹筋が浮き沈みし、足裏をナメクジのように這わせて前へとにじり進む。チューバが音色はホラ貝のまま音高が上下し、起床ラッパのような起伏を描くと、トマツの身体は突然床に倒れ込み、駆け出し、階段を駆け上がる。ホラ貝の輪郭が解け、再び息と風と管の鳴りが複層化した流体が姿を現す。2階から吹き抜けへと脚が突き出され、しばらく動いた後、トマツの身体が現われ、剥き出しの梁へと乗り出していく。
低い持続音と指先で管を叩く音や足音の混合物。梁に頭を打ち付け、柱を叩き、シーッと鋭く吐かれる息。息の泡立ちが沸騰し、管が薬鑵のように鳴り出す。身体が梁からぶら下がり、懸垂したまま中空を走り、溺れるようにもがいたかと思うとドスンと床に降り立って、今度は天井から吊るされたロープにぶら下がって大きく揺すり始める。吹き鳴らされるマウスピース。ロープで宙吊りのままもがく身体。カメラマンのように身体ににじり寄り、息を切り刻んで放ち続けるチューバ。
身体が床に倒れ込み、そのまま座り込む。向かい合って胡座をかく身体とチューバ。循環呼吸による持続音。立ち上がった身体が客席を睨みつけるや、いきなりサンドバッグに強烈な蹴りを見舞う。連発するキックとパンチ。フレーズの断片、舌打ち、息の爆発、うめき声。ここで身体の鼓動とチューバの呼吸は、アクションの連鎖の中で、連結された機械のようにひとつになっている。サンドバッグに抱きついた身体の描き出す交合のイメージ。ロープにぶら下がって自転する身体と持続音をゆったりと巡らせるチューバ。
フレームから外され馬乗りで締め付けられ叩きのめされるサンドバッグ。持続音の中で複数の層の軋轢が高まり、泡立ちながら、さらに音が強められていく。サンドバッグを頭上に持ち上げ、その位置で掲げたまま這い進む足裏の筋肉の蠕動。階段に駆け込み、逆さまに転落して床を這う身体。チューバの息が細くなり、ほとんど虫の息となって、やがて止んでしまう。身体はひれ伏したまま床に額を打ち付けていたが、そのうち動かなくなる。

終演後に高岡は「格闘家」相手に何をしていいかわからなかったから、とにかく相手を見たと話していた。演奏がどう変化しようとも、それを背景に見立てて変わらずに踊ってしまうダンサーの動きとの違いについても。彼の言う通り、主演/伴奏、あるいは前景/後景といった階層差なしの、同一平面上というか、距離のない近接セッションとなったように思う。だがそれは一昔前の「肉弾相打つ格闘技セッション」というような、ただただアクションの浪費を競い合うポトラッチではない。高岡の息の打撃はトマツの皮膚に食い込み、体幹を突き抜けて、彼の身体を突き動かしていたし、一方、トマツの筋肉のうねりは、高岡の響きを織り成す各層の配分を触発し、かき乱していた。息音を多用した高岡の繊細さは誰の眼にも明らかだろうが、階段や梁、ロープやサンドバッグを相手にしたトマツが同じくらいに繊細であったことが、その一見派手な動きゆえに見逃されてしまうことを危惧する。ミクロな次元への注視が両者に存在するのでなければ、このような緊密な相互触発はそもそも成り立ち得ない。
やはり終演後にトマツは、精神障害者へのデイサービスに関わることにより、彼らの身体が介護者の態度を敏感に感じ取って驚くべき変化を示すことを知ったと話してくれた。だから肉「体」ではなく、肉「態」なのだと。よく舞踏やダンスでは「ただそこにいる」ことが一番難しいと言って、「ごろんとした身体」であることに至上の価値を置く。だがそれは到達不可能な「物自身」ならぬ「身体自身」を彼岸に据えた、単なるレトリックではないのか。私たちが見るのは、常に現れとしての身体である。だとすれば一個の身体としての輪郭を強調するよりも、それが内包する流動性を様態のスペクトルとして解き放つべきではないのか。トマツの言う「肉態」とは、まさにそうした身体のさまざまな様態の次元を指すように私は思う。それは例えば、動作の意味合いから切り離されて反り返る足指であり、板張りの床の木目の凹凸をまざまざと伝える足裏の蠕動であり、あるいはマウスピースを外したチューバに吹き込まれた息の粒子化である。
二人と話した後、アフターアワーズのざわめきの中で展示を見て回る。右辺を占める玉川麻衣の細密に描き込まれたペン画の数々。渦巻く雲の中で対峙する竜虎、あるいは「濡れ女」と題された水蛇様の人魚(ウンディーネ?)といった幻想的なモチーフが眼を惹く。それら古い物語の力を秘めた形象の喚起する伝奇的想像力を、グラフィックな画面の強度へと高めるために、空間を埋め尽くす描線や筆触が必要とされるのだろうか。どうも私には話が逆のように思われた。というのは、もしこれら形象とその配置に力点が置かれているのであれば、画面の四隅は背景のそのまた辺境に過ぎない。しかし彼女の筆致は、まさに画面の四隅を張り渡す揺るぎないテンションの構築へと向かっているように感じられた。たとえば木立の中で見上げた空を覆い尽くす枝の重なり。これが挿絵的な心象風景であるとすれば、切れ目から覗く空に焦点は合わされるはずだ。しかし彼女がかたちづくる画面は、到底、中央の空白のまわりに構築されたようには見えない。むしろ四隅、四辺から始め、空間を埋め尽くさんとする力が必然的に起伏や傾斜、褶曲を生じ、どうしても平面には収まり切らぬゆえに、中央部にピースのはまらぬ「セザンヌの塗り残し」が生み出されることとなった‥‥そんな風なのだ。それゆえ中央部の空隙は「ぽっかり」とは開けておらず、緊張にびりぴりと震えている。このように彼女の作品には、周辺から中心へと襲いかかる侵犯の力とそれを平面へと押さえ込む圧力との軋轢が、ごうごうと鳴り響いている。先に見た竜虎図の場合、そうした軋轢が雲の渦の強度へと昇華され、また平面化の圧力がもたらす奥行きのなさも、伝統的な構図のベタな(フラットな)広がりへと回収される。しかし、白狼の群れを描いた一枚では、そうした奥行きのなさは画面に息苦しさをもたらす。ここで空間は圧縮され、奥行きは事物の重ね合わせの順序としてしか現れてこない。風に吹かれた草のざわめきが結界の中に充満し、衝突して耳を聾する響きを立てている。
彼女はまた先に述べたトマツと高岡によるライヴのクロッキーを描いていて、二人の動きに合わせてすっすっと足を運び、時には大股開いて段差に足を掛け踏みしめる姿は、トラとライオンを操る猛獣使いのように素晴らしく魅力的だったが、ライヴ・レヴューでは二人の交感だけにフォーカスしたため、はじかれてしまった次第。彼女はこの時のクロッキーをもとに鬼の絵を描こうとしているらしい。


森重靖宗が写真を撮ることは知っていたが、彼のホームページで作品を見かけたぐらいで、こうして展示を見るのは初めてのことだ。多くの作品が正方形にトリミングされて黒い台紙にマウントされており、画面の奥行きのなさ(フォーカスのずれが示す層の重なりはあるにしても)とも相俟って、作品の縁の部分での切断感覚、視界を断ち切られた痛みが鳴り響いてくる。画題は恐ろしく雑多であり、日常の様々な瞬間が事物の配列として並べられているのだが、先に述べた切断感覚、切り取られた痛みとともに示されることにより、それぞれが属していた生活の局面、行動や環境の文脈へは立ち戻り難い。すなわち、そうした「場面」の差異は消去還元され、画面からは残された「質感」が立ち上ってくることになる。キャメラの視線は必ずしも事物の表面にフォーカスしていない。高い解像度で表面の質感のみをスキャンすることは目指されていないのだ。それゆえ触発されるのは「手触り」といった触覚ではなく、もうちょっと感覚の深いところ、温度感や重みのあたりとなる。レンズにとらえられた汚れ、ほつれ、もつれ、ざわめき、反射、腐食等を通じて、ふだん視覚により刺激を受けることの少ない感覚部位が触発励起され、微妙な質感の違いへの感覚が深められていくのを感じる。
「今回初めてこうして展示をさせてもらって思ったんですけど、写真を撮ること自体よりも、撮った写真をあれこれ選んで並べ方を考える方が好きかもしれないですね」と森重はいつものようにはにかみながら話してくれた。それを聞いてふと閃いたような気がした。
最近の森重の演奏を聴いて、いわゆる「フレーズ」を弾かないだけでなく、弦にすらほとんど触れず、楽器の各部を鳴らし分けることだけに、ますます向かっているように感じていた。それはかつてこの国で「音響派」と呼ばれた者たちが陥った素材主義 − すなわち正弦波のみとか、1時間に3つだけの音とか素材を選択しさえすれば、それだけで演奏の水準が一定程度確保されると思い込んでしまうこと − とは明らかに異なるにせよ、いささか窮屈なまでに禁欲的で、私は教条主義的な危うさすら感じていた。しかし、そうした素材の限定は「前提」ではなく、インプロヴィゼーションにおいて強制されてくる、せかせかと慌ただしく加速され切り刻まれる時間/空間のあり方に抗って、眼の前の一瞬一瞬ではなくより遠くを見詰め、長いスパン/レンジで事態の推移をとらえることの結果なのではないか。身体の反射的な反応によって音を出し、事態を回避してしまうのではなく、身体のより深くまで沈潜して音を汲み上げること。最近の彼の演奏の変化として、他の演奏者の変化にすぐに反応を示さず、まずはじっくりと耳を傾け、その間、自身が音を出さない/出せないことを恐れなくなってきているのには気づいていたのだが、これまで、それが先の変化とは私の中で結びつかないままでいた。
そんな閃きを手短に述べて、チェロを演奏することと写真を撮ることが直接に線で結べるとは思わないが、「作曲」という狭い意味ではない「コンポジション」ということで、演奏と写真への姿勢は共通しているかもしれないと伝えると、今までそんな風に考えたことはなかったけれど、そう言われて何かもやもやがすっきりして、クリアになった気がすると彼は語った。

先の展示スペースからはみ出した一角を、ロープで封印して展示された、トマツ自ら言うところの「魔法陣インスタレーション」についても、その一見雑然と散らかった配置にかつての読売アンデパンダン的な破壊性、「非芸術」性ばかりを見てしまうとしたら、それはやはり一面的に過ぎるように思う。すべての画像はトマツによる様々な外界の事物の「写し」であり、それらを切り刻んで並べた空間は、なるほど確かに彼の脳内風景=濃密な個人史を示すものであるかもしれない。しかし、もう一歩踏み込めば、それが図像同士の対応関係や空間的照応関係を、強く意識したものであることが見えてくる。
ここで私は美術史家(とだけでは言い尽くせないが)アビ・ヴァールブルクによる図像アトラス「ムネモシュネー」(記憶の女神の名だ)のことを思い浮かべている。黒い背景の上に並べられた、どこかから切り取られてきた図像群。レリーフ、彫刻、絵画‥‥ありとあらゆるところから収集された情念定型を示す身振りの数々。それらの間に幾重にも交錯しながら走る関係の線。「魔法陣インスタレーション」を封印したロープの蜘蛛の巣のような交錯は、壁に貼られた図像群の間に立体的に走る見えない関係性の線を象徴していよう。これもまたトマツにとって「肉態」の表れなのだろう。先に触れたように、高岡もトマツにダンス/舞踏的ではない何かを感じ取っていたが、こうした表れを見ると、それはシャーマン的な能力ではないかと思えてくる。ここで脳裏を掠めているのは、シンガポールで見たザイ・クーニンのことなのだが。


このようにして見ていくと、今回の催しが、この場所=千駄木STOODIOの濃密さに鋭敏に感応したものであることが見えてくる。ことさらにサイト・スペシフィックな演出が施されてこそいないが、出演者たちはみな、この空間に招き寄せられ、それにふさわしいアクションを(展示を含め)繰り広げていたように思われるのだ。文中述べたように、いずれの出演者とも今回が初の出会いであり、また、再びどこかで出会うことがあるならば、この空間の持つ意味合いも、よりはっきりと見えてくることだろう。そのような機会が訪れることを願いつつ、企画者である喫茶茶会記店主福地史人の視線の確かさを讃えることとしたい。
2014年11月9日
千駄木STOODIO
高岡大祐(tuba)
トマツタカヒロ(肉態表現)
玉川麻衣(ペン画)
森重靖宗(写真)
福地史人(企画)
写真は喫茶茶会記ホームページ、トマツタカヒロFacebookページから転載しました。
『松籟夜話』第一夜来場御礼 Thank You for Coming to Listening Event "Night Stories As Pine Tree Leaves Rustling in the Wind" The First Night
2014-11-13 Thu
御陰様で11月10日の『松籟夜話』第一夜、何とか無事に終えることができました。ご来場いただいた皆様、開演に向け暖かく励ましてくださった皆様、どうもありがとうございました。いつもなら、ここでライヴ・レヴューをしたためるところですが、自分自身が参加しているため、それはとても難しく、何点か情報を提供させていただくとともに、感想めいたことを申し述べて代わりとさせていただきます。誤解のないように申し添えれば、自らが参加したことをレヴューする難しさとは、対象化する距離が取れないとか、自意識や自己評価の問題といったややこしい話ではなく、その場で話すことや参加者の皆さんとの受け答えに集中していると、なかなかメモも取れないし、その場で「燃焼」してしまうため、断片的なシーンだけが記憶に残っていて、時系列的に思い出せないという至極単純な理由です。


冒頭に『松籟夜話』の趣旨めいたことをご説明した後、「なぜドネダか」という話になりました。その部分について再構成して掲載しておきます。
ひとつには私と相方を務めていただいた津田貴司さんの出会いに関することです。2012年の12月下旬、小野寺唯さんが主催したイヴェント『Study of Sonic』(※)において、私は金子智太郎さんと組んでレクチャーを行い、津田貴司さんはsawakoさんとのデュオで、出演した3組のうちの一つとして短いライヴ演奏を行いました。巻貝やガラス瓶に水を入れたものをコポコポと鳴らすなど、繊細なアコースティック音を散らし、あるいは編み上げていく演奏に耳が惹き付けられました。この日出演した他の演奏者はすべてラップトップPCを用いた演奏だったこともあり、印象がとても強く残りました。また、この日はPAスピーカーに点音源の特殊なものを用い、それを幾つも会場中にオブジェとして配置して、聴衆には歩き回って響きの違いを楽しんでほしいと呼びかけていたのですが、津田さん自身が点在するスピーカーの間を経巡るように歩き回ったこと、そして何よりもその姿がとても自然で奇をてらったものではなかったことに感銘を受けました。
終了後、彼の作品を購入しに行って、その時少し立ち話をしたのですが、彼が以前からミッシェル・ドネダを聴いていたことを知り、とても衝撃を受けたのです。「衝撃」というといかにも大げさだけれど、この時点で私はドネダをデレク・ベイリーとはまた異なる「即興のハードコア」と位置づけていて、彼のアンビエントな感覚には気づいていても、それはインプロヴィゼーションを聴く耳のさらに向こう側に開けている景色ととらえていました。実はこの日の私と金子さんによるレクチャーは「The Way to Ambient Music」と題されており、その中でドネダの音源を使用していたのですが、それはあくまでベイリーやルシオ・カペーセ(Lucio Capece)と共にであり、言わばアンビエント・ミュージックのリスナーが知るはずもない「別のアプローチ」を示すという気負いに満ちたものでした。それゆえに「向こう側の住人」であるはずの津田さんが、ドネダを聴いていたことに驚いたわけです。
※http://miminowakuhazushi.blog.fc2.com/blog-entry-206.html

そんな出会いもあって、津田さんから「CDを聴いてあーだこーだ言う」イヴェントをやろうとお誘いをいただいた時にはもう、何となくドネダは二人の頭に浮かんでいたのだろうと思います。イヴェントの内容をあれこれ考えていく中で出てきた「即興・環境・音響」の三つの軸についても、ドネダはそれらの空間の結び目のような場所に立っている訳ですし。
実は当日、津田さんが紹介したもうひとつ不思議なエピソードがあって、参考資料として、私が以前に『ジャズ批評』に載せたドネダのインタヴュー記事、『アウトゼア』のドネダ小特集に載せた論稿、そして『音場録』に書いたドネダの来日時のライヴ・レヴューのコピーを津田さんにお送りしたところ、彼からメールがあり、何と彼はこれらを全部以前に読んだことがあり、そのことを今の今まですっかり忘れていたというのです。彼の話によると、ベルクソン研究者の友人からコピーを束ねた状態で見せてもらったとのこと。それが彼にとってドネダを知ることになるきっかけだったわけですから、言わば私たちはドネダを通じて最初から出会っていたということになります。
そんな津田さんに言われて気づいたのですが、『ジャズ批評』掲載のインタヴューは1996年当時のもので、『Montagne Noire』も『Gaycre』も、『Ce N'est Pourtant...』すらまだリリースされていない時期でした。なのにインタヴュー記事は「自然のポリフォニーを聴き取る野生の耳」と題され、次のような描写で始まっています。
吹きすさび耳を切る北風の唸り、白く泡立つ潮騒のざわめき、遥か高みから打ちすえられる滝壺のどよめき、何物ともつかぬ生のざわめきのただ中から、霧笛にも似た哀しげな響きが頭をもたげ、ゆっくりとあたりを眺め回し、角笛となって谷を渡り、ひしゃげた叫び声をあげ、咳き込み、嗚咽する(それは耳にしたものを悲しみで金縛りにする、クジラやアザラシの叫びにも似ている)。荒い吐息、ひゅうひゅうと鳴る喉、裏返り血がにじむ声、力の限りに息を吹き込まれて張り裂けそうになるソプラノ・サックス。
あるいは、雨水の滴り落ちる廃屋の片隅にわだかまる古い風。壁が鳴り、窓枠が軋み、雨戸が震え、廊下が笛となって、喘息患者のように苦しげな息を立てる。
これは当時すでにドネダがリリースしていた、風の音のフィールドレコーディングと共演した作品のサウンドの描写で、ドネダという存在を象徴するものとして冒頭に置いたわけですが、津田さんに指摘されて初めて、この文章が、後の『Montagne Noire』や『Gaycre』といった野外での自然のざわめきに身を浸すような演奏、あるいは『Anatomie de Clef』以降に顕著となる息音の使用等について、「すでに聴き知っている」かのように書かれていることに気づき、自分自身、たいそう驚きました。このことは『松籟夜話』の場でも触れましたが、それは別に私に予知能力があるということではなくて、ドネダがそこに秘められた豊かな可能性に向けて、幾多の困難にもめげず、まっすぐに突き進んで行ったことの証しであるでしょうし、また、そうした「予兆」を彼の演奏がふんだんにちりばめていたということでしょう。
ちなみに、このインタヴューは次のように締めくくられており、これまた、後の『Spring Road 01』や『Montsegur』におけるヘテロトピックな実践を言い当てているかのようです。
そうした(ドネダがつながっていると感じている)広大で開放的な空間は、楽音/非楽音/周辺の物音といった区別を突き抜けた向こう側に、おそらくアンフォルメルな「生の音」として開けていよう。その世界を見届けるには、異質なものの共存を排除選別することなくヘテロフォニックに聴き取る強靭な野生の耳が必要となる。それは同時に、我々の無意識の奥底に潜む、むしろ動物的な創造のざわめきを聴き取る耳でもあるだろう。

『松籟夜話』第一夜 プレイリスト
各作品へのコメントは内容の紹介というより、当日来場者が記憶と照会しやすいように入れたものです。
1.イントロ

◇アコーディオンとコントラバスのデュオによる海辺の廃墟での楽曲演奏。
2.環境とドネダ

◇ソプラノ・サックスとパーカッションのデュオが野山を踏み分け、奥へと進んでいく。

◇野外でのソプラノ・サックスのソロ(ただしテープの早回しのような音も聴こえる)。舞台となったモンセギュールは弾圧されたカタリ派の砦があったところ。

◇野外での2本のサックスとパーカッションによる演奏。虫の声(?)がすごく、牛の鳴き声(?)らしきものもひっきりなしに聴こえる。
3.環境とドネダ(補助線)

◇野外でのソプラノ・サックスとクラリネットのデュオ。周囲の音はそれほど大きくなく、両者の響きの触れ合う様子が前面に。

◇ソプラノ・サックスのソロ。迸るような息音による激しい演奏。

◇アルトーの手紙を読み上げる役者たちの声と足音、ソプラノ・サックスとコントラバスの演奏が複雑な空間の中で混じり合う。
4.声とドネダ


◇建物の中を移動しながらのソプラノ・サックスとヴォイスのデュオ。後半は中庭らしき場所へ出て時計台の音が聴こえる。
5.アウトロ

◇ハイ・トーンのヴォーカルをフィーチャーしたゆったりとたゆたうようなバンド演奏。「昔のビルマのジャズ・バンドの流出音源みたいに聴こえる」(津田)。ラストのコーラスは阿佐ヶ谷商店街で収録。
ご来場いただいた皆様、開演に向け、暖かく励ましてくださった皆様、本当にどうもありがとうございました。今回、いろいろ不手際もあったかと思います。改善して、また、やります。


『松籟夜話』第一夜当日の写真は、ご参加いただいた原田正夫さんのFBから転載させていただきました。