日常が文学に飛躍する瞬間 − 「ライブラリ」ライブ@喫茶茶会記 Moments Usual Everyday Life Takes a Leap to Literature − Live Review for Library Concert at Kissa Sakaiki
2014-11-30 Sun

左からスタンドに据えられたテナーとカーヴド・ソプラノ、コンガやカホン、シンバルを中心に様々な音具が取り付けられたオブジェのようなパーカッション群、センターのベス・アンプの右にコントラバスが立てかけられ、その右のピアノの手前にはヴォーカル用のマイクロフォンと椅子がセッティングされ、マイクロフォンはコントラバスの右奥のスピーカーにつながっている。
今回は「ライブラリ」として9か月ぶりのライヴで、先ほどメンバーで話していて、フェリーニの映画『オーケストラ・リハーサル』風に盛り上がってしまって‥と話しながら、蛯子はまずメンバー紹介から始めた。
「なかまわれのうた」。広がりのあるベースの響き、ゆったりと刻まれるシンバルの響きの間に広がる乾いたスペース。ピアノの和音が重ねられ透明な空気がたちのぼって、ヴォーカルの息の細やかな襞を浮かび上がらせる。まるで夜がゆっくりと明けていくように、あるいは縮こまっていた手足をゆるゆると伸ばすように。モノクロームに沈んだ静けさに色彩が戻ってくる。カーヴド・ソプラノの柔らかな息遣い。そして最後はロウソクを吹き消すみたいにふっと終わってしまう。
「トレインズ」。ベースとヴォイス、シンバルのレガートだけで始まる。声の隅々にまで張り詰めた緊張。途中参加のテナーとピアノが両側から刻み目を入れていく。細分化されあるいはミュートされて細やかに叩き分けられるシンバルとピアノの和音を伴ったベース・ソロ。蛯子の半開きの口が苦しげに、しかし歌うように動く。瞬間を蹴立てて地に足を着けず、身体を宙吊りにし続ける音の歩み。リズムを刻んだりずらしたり揺らしたりというより、演奏は明らかに「うた」の次元に自らを置いており、同一音の繰り返しやたどたどしい上下行が切々と響く。
「滑車」のずいぶんと遅いテンポのベースとドラムの間に張り渡された綱の上で、声が緊張と孤独に震えている。続く「STAR EYES」では、ジグゾー・パズルのように組み合わされたベース&パーカッションに、ピアノとカーヴド・ソプラノがミニマルな点描を施し、その上に声が、それらの繊細な並びをいささかも掻き乱すことなくそっと置かれる。これらのゆったりと張り詰めた響きに比べると、マイルス「ブルー・イン・グリーン」は映画音楽のように甘く響く。ピアノが音を垂直に立たせていって、ベース・ソロの吐息が荒くなる。前半の終了。

音を厚く重ねず、隙間を空ける。それはアンサンブルの「ねじ」をゆるめ、演奏者を互いにゆるやかに切り離すことでもある。楽譜はあるにしても、記譜により規定された楽曲の枠組みは、極論すれば内装をはがされ躯体を剥き出しにしたスケルトン状態のがらんとした空間に過ぎない。演奏者たちはまるでスクワッターのように思い思いの場所に棲みつく。グルーヴやノリのような共同主観性を立ち上げず、常に隙間を風が通るようにし、一人ひとりが自分の考えで動くことにより、演奏者の細部に対する意識は拡大され、先の「がらんとした」眺めをもたらす。だからここでは通常の「与えられた空欄を埋める」式の演奏は通用しない。完全記述式。唯一の決まりは「全員が同じ地点から始める」こと。だから、始まりのテンポの指定がとりわけ重要になる。これはアンコールを除くすべての演奏に共通していたのだが、蛯子は曲名を告げると、眼を瞑り、上を向いて、口を半開きにして身体を揺すりながら集中し、おやと思うぐらい時間が経ってからテンポのカウントを始める。その間にイントロだけでなく、曲の全体イメージをスキャンしているのだろうか。いずれにせよ、これこそが蛯子流の「コンダクション」にほかなるまい。
三角の声は脆くこわれやすく、身体性の重さを引かない。声に現れる細やかな息の襞は、不思議なくらいに肉体的な生々しさを持たず、むしろ声の身体の輪郭を解体し、響きの方へと解き放つ。手を伸ばせば触れられる距離にありながら、そこにはいない声。それゆえ言葉が像を結びにくい。この日のライヴでは朗読はなかったが、「ライブラリ」のCD『ライツ』においても、朗読に比べて、うたは語の輪郭が希薄となっていた。そうした声の希薄さは、先に見たアンサンブルのフラクタルなあり方と見事に響き合う。と言うより、彼女の参加が、アンサンブルに不可逆な変化をもたらしたのではないか。
「エンジェル」。CDでは浮き沈みする正弦波と声で演奏されていた曲が、ここではアンサンブルにより奏でられる。ベースのゆっくりとしたコード弾きが、不定形な響きをたちのぼらせる。それとシンバルの間に張られた空間を、声がゆるやかに浮き沈みする。ピアノの和音がやはり響きの塊として押し出され、カーヴド・ソプラノは線を描かずに、音色を膨らませて不安定に移ろう。調性感が揺らぎ、曖昧に崩壊していく中で、音が宙に吊られながら、不定形な響きの色彩が空間を充満させる。前半に見え隠れしていたアンサンブルのフラクタルなあり方が、一挙に前景化する。
「音がこぼれる草の話」。ベースによるシンコペートしたリズムの提示に、ピアノの繰り返しとカホンを中心としたパーカッションが、ジグゾー・パズルのピースのように組み合わさる。愛すべき「カワイイ機械」としての「オモチャ」の音楽。ピアノのモールス信号的なフレーズのカタコトした反復やアルトによる寸断された奇妙なリフが、さらにトイ・ミュージック感を膨らませる。「モールス信号」に伴われたベースのソロ。蛯子の口元がいつにも増して「歌って」いる。音量が本日最高地点までいったん高まって、ふっと小さくなり、足取りもひっそりとゆるやかに変わる。まるでオモチャたちの真夜中の饗宴の最中に廊下で足音がしたみたいに。続いて右手と左手に分裂したピアノだけを背景に現れる息を潜めたテナーのソロは、今までに聴いたことがないような断片的かつ分裂的なもので、散らかった音のかけらを拾い集めたような‥‥、いや書かれた文章からアルファベットが次々にこぼれ落ちて、穴だらけの意味不明な記号の羅列と化していくような不思議なもので、そこにはピアノの右手と左手の解離もまた、高域と低域の分裂として映り込んでいた。
「モノフォーカス」。ベースの重い足取りにピアノとバーカッションが敷き重ねられ、さらにヴォイスとテナーが重ね描きされる。前曲に引き続きアンサンブルのあり方は、むしろチェンバー・ロックを思わせる。テナーのまるでバスーン(バソン)のような、聴いたことのない音色による、辿る音程を極端に絞り込んだ平坦なソロに眼を見張る。ここでも高域と低域のスプリットが際立つ。「ライブラリ」における橋爪は、ギアを自在に切り替えながら曲がりくねった回廊を流麗に駆け抜ける運動性能を厳重に封印し、その卓越したサウンドのコントロール力を、まったく別の局面に発揮している。言い方を変えれば、蛯子は彼を通常のジャズ演奏ではあり得ない局面設定に立たせ、あるいは追い込んで、彼の別人格を鮮やかに引き出している。
「深き淵から私は叫んだ」。今年8月に書かれた最も新しい曲でタイトルは古文書からの引用と言う。それゆえか他の曲といささか毛色が異なる印象。いきなりテナーがいかにもジャズ的なリラックスしたテーマを吹き出し、カクテル風のピアノとコンガの音色がリゾート気分を演出する。最後の部分でほとんど弦に触れるか触れないかのベースのタッチが印象に残る。
「ヴィトリオル」。タイトルは中世の毒の総称とのこと。ベースとカホンによるリズムが提示され、ねじれたテーマがゆっくりと解けていく。弦の響きの輪郭が揺れる炎のようにゆるやかに移ろい、ヴォイスとピアノのユニゾンに幻想的な彩りを加える。アルトが相の手を加えることでチェンバー・ロック的な稠密さがもたらされるが、ひしゃげた音色や音程の揺らぎ、逆回転風の息のアーティキュレーション等により、リズムも音色も輪郭が崩れ、曖昧さを増していく。これによりピアノとパーカッションの「機械仕掛け」的な感触が、毒のあるトイ・ミュージック風味を際立たせていく。特に運指練習を切り貼りしたようなピアノ・ソロは鮮やかだった。組み立てながら崩し、さらには崩壊それ事態を構築してみせる「ライブラリ」の、あるいは蛯子の「組立工」ぶりが光っていた。予定されたプログラムの最後の一曲。

アンコールの求めに対し、「ライブラリ」ナンバーの用意がないということでジャズ・スタンダードを披露。三角は先に楽屋に引き揚げてしまう。メンバーの実力を反映した過不足のない演奏は、「ライブラリ」の演奏の特異性を見事に照らし出すこととなった。ここでは各楽器の足取りが見事に揃う、いや揃ってしまう。そして各人の出音がそれぞれの領分を少しずつはみ出し、無意識のうちに手を握り合い支え合って、それが演奏の推進力や力強さを生み出すに至る。これまで進んできた勢いで、これから先も突き進んで行く演奏。その中にこれもおそらくは無意識のうちに、各人の個性や癖が滲み出してくる。
「ライブラリ」はこうしたオートマティックな演奏を可能ならしめている「音楽推進スイッチ」をオフにすることから、演奏を始めているのがわかる。遠くまで見渡せる視覚のガイドで大股に足早に進むのではなく、眼を瞑り手探りで足裏の感触から起伏や傾斜を探り、顔に当たる空気の流れや耳のとらえる響きの違いから空間配置を読み解きながら、少しずつ這い進む。そこにほとんどシュルレアリスティークな別の感覚世界が開ける。
おそらくは「ライブラリ」にとって譜面に書き起こされた指定はほんの始まりに過ぎない。いや、それらの指定以前から、ある条件付け、環境の設定が始まっていると言うべきかもしれない。ここで私は、メンバーを9か月の長きに渡り幽閉してリハーサルを繰り返させたという、『トラウト・マスク・レプリカ』制作時のキャプテン・ビーフハートのことを思い浮かべている。もちろん蛯子はそのような専制君主ではないだろうが。しかし、橋爪に典型的に見られるように、メンバーたちが通常とは異なる側面/能力をピックアップされ、それを鮮やかに解き放っていることは確かだ。様々な音具を用いてシンバルを細やかに叩き分ける井谷、音を絞り込みタッチを平坦にして「機械仕掛けのピアノ」に近づいてく飯尾。バランスのとれた「不揃い」、完璧なチームワークによる「なかまわれ」へと向かうアンサンブル。三角みづ紀にしても、枯葉が舞い落ちるようにさらさらと解けていく声の在りようは、youtubeで観ることのできる三角みづき紀ユニットでの歌唱とはほとんど別人で、私にとってはまるで比べ物にならないほど好ましい。
「ライブラリ」の音楽が「文学にインスパイアされた音楽」であるとして、それは決して文学の与えるイメージを音に翻案した、あるいは音で描写した音楽ではあるまい。彼らの音楽は音によるイラストレーション=絵解きではまったくない。彼らの音楽は、言うなれば日常が文学へと飛躍する仕方をシミュレートした音楽だ。日常のうちに開けた様々な亀裂や解離を、私たちは無意識のうちに跨ぎ越え、あるいは修復して、それに陥ることなく歩みを進めている。昨日と同じ明日が来ることを疑うことなく生活している。通常の音楽演奏もそうであって、音の流れに身を任せれば、間違いなく終点まで送り届けてくれる。「ライブラリ」はその流れを断ち切り、あるいは踏み外す。あるいは前述の亀裂にはまり込む。そこに別の世界が開け、文学が生まれる。
音楽演奏において、「即興」というのは、そうした亀裂や解離を意識に上らせ、はまり込むための方法の一つにほかならない。日常の至るところに「即興的瞬間」が口を開けているし、「即興」が日常化/陳腐化してしまえば、再び日常はのっぺりとした一様な連続性が果てしなくどこまでも続くものとなる。
「ライブラリ」はフリー・インプロヴィゼーションを行うグループではないし、いわゆるアドリブを延々と取る訳ではなく、そうした点からすれば、決して即興性が強いようには見えないかもしれない。しかし彼らの演奏を聴いていると、至るところに「即興的瞬間」が開いていることがわかる。
「四谷音盤茶会」にゲストとして訪れた際に垣間見た、蛯子の持つ「プレイヤーシップでもミュージシャンシップでもない何か」を、この日はしっかりと目撃できた気がした。その在処については今回のレヴューのあちこちにちりばめてある。私にしては珍しく、演奏された全曲に対する時系列順のコメントとしたのも、それだけを抽出して論じてしまうと、演奏の現場との結びつきがわからなくなってしまうように思われたからだ。その目論みがうまく行っているかどうかは、何とも心もとないが。
彼らの音楽の不思議な魅力に多くの方に触れていただきたいと思う。「ジャズ・ユニット」と呼ばれているが、文中でも触れたように、むしろチェンバー・ロックやトイ・ミュージックとの親近性が高いように思う。来日が報じられているクリンペライ、あるいはパスカル・コムラード、ランサンブル・ライエ、ジュルヴェルヌ等のファンに、ぜひ聴いてもらいたいと願う。




これらのジャケットにピンと来たら、ぜひライブラリを!
2014年11月28日 四谷三丁目 綜合藝術茶房喫茶茶会記
ライブラリ
蛯子健太郎(cb), 三角みづ紀(vo), 橋爪亮督(ts,ss), 飯尾登志(pf), 井谷享志(perc)
ライヴ写真は池田達彌、三角みづ紀、井谷享志各氏のFacebookページから転載しました。

ライブラリ『ライト』
試聴 https://www.youtube.com/watch?v=oNinwZxfMM4
https://www.youtube.com/watch?v=f2trU3X4QrY
https://www.youtube.com/watch?v=DPho-F6WAdY
https://www.youtube.com/watch?v=xQTv1m2W_1M
スポンサーサイト