2014-12-14 Sun
前々回のブログ記事で、津田貴司と笹島裕樹のデュオであるスティルライフ初のフルレングスCD『夜のカタログ』の制作過程が、津田貴司に与えた不可逆の変化を、彼のソロ新作である『十二ヶ月のフラジャイル』に読みとってみた。これに対し、津田本人がFacebookのコメントで「作りながら、自分がなにか分水嶺を超えて向こう側の風景を眺めたような気持ちになった部分があります」と書いてくれた。実はそうした変化の気配を、『夜のカタログ』正式リリースに先立つ彼らのライヴに感じていた。それをうまく言い表すことが出来ないでいたのだが。今回は彼らにしては短いインターヴァルで行われた2回のライヴを振り返ってみることにしたい。
1.11月8日(土) 西荻窪 GALLERYみずのそら
以前に降り積もる雪を踏みしめて津田貴司個展『にびいろ』を見に訪れ、スティルライフのライヴを聴いた住宅地内の一軒家ギャラリー。壁一面に壁画みたいに大きな絵が貼られているのに驚かされる。白い紙に黒で描かれた馬の群れと草の波。彼方まで続く果てしなく平らな広がり。その前に様々な焼き色の大きな壺が幾つも並べられている。
奥へ進むと『夜のカタログ』のジャケットを飾った作品をはじめ、銅版画作品が壁に架けられていて、反対側の壁に設えられた棚には、皿や杯が積み重ねられている。そこから振り返ると先ほどの草原が広がる。あちらが外で、屋外に背の高い壺が並び、こちらは屋内で台所に什器が置かれているといった趣向なのだろう。陶器は厚川文子が、版画は富田恵子が制作し、あわせて「吸い込まれるような青空と砂塵の舞う地図にはない国」ATUTOMISTAN(アツトミスタン)が現出する。

陶器は割れた破片も展示されており、壁際には白い砂が敷かれて、掘り出された器がまた土に還っていく循環が示される。一方、草原に遊び佇む馬たちを描き出す勢いのある筆致は古代の洞窟絵画を思わせ、草の波の揺らす風の流れが、そのまま毛並みをざわめかしている。どこからともなく物思いに耽るような笛の音がかそけく響いてきて、津田がサウンドを担当していたことを思い出す。焼き締められた壷のざらりとした肌。軽く叩くと金属質の高く澄んだ音が響いて、壷中に澱んだ空気に息が通う。古井戸に小石を投げ込んだような深い響き。広口の壺は水琴窟に似た豊かな響きを立てる。再び視線を草原に移すと、遠くにパオ(包)が見える。背の高い草の間に馬の姿が転々と続く。置いてあった小さな双眼鏡を向けると、レンズで拡大された視界は小刻みに震え、草が風にはためいていた。
すべすべ、つるつる、ざらざら、かりかり‥‥陶器の肌の手触りの違い。黒褐色、泥色、白いひび割れ、素焼きの色合い、焼き色のむらと垂れた釉薬のつくりだす不定形の広がり。
版画の表面の平坦で硬質なマチエール。動物をモティーフに描いたものは先の「壁画」に通じ、一方、象牙色にうすく泥を流したようなゆるやかな文様の戯れは、焼き物の肌の景色と響き合う。


笹島が「壁の色って元からこんな色でしたっけ」とギャラリーのスタッフに訊いている。確かに津田の個展『にびいろ』の時は、うるさいくらいに浮かび上がった壁板の文様が、今日はおとなしく沈んだままでいる。そういえば前回は積もった雪に音が吸われるせいか、しんと静まり返ったなか、壁板の模様が音にならぬざわめきを発し、津田によるサウンド・インスタレーションの響きに、不思議な翳りを与えていたことを思い出す。
久しぶりに恒例のキャンドルが灯され、ライヴの空間が設えられる。炎の揺らめきが前列の聴衆の顔を照らし出している。津田が紙筒に息を吹き込む。ことさらに小さな音が遠くを見詰めている。笹島が石を擦り合わせる。彼らの音は静けさをより深め、前の道を行き過ぎる足音や話声、遠くの中央線の響き、通りを走り抜けるオートバイの排気音、犬の吠え声等が巡るように浮かび上がる。息を張り詰め、少し緩め、ゆったりとくゆらしていく。e-bowによるカンテレの弦の振動もいつもより小さい。敷かれた砂を擦って鳴らしたり、置かれた壺を引きずって底面と砂粒の摩擦を楽しんだりしながら、演奏は滞ることなく進んで行った。

いつもより音量が小さく、音数も少なく、その分沈黙が多い。GALLERYみずのそらにおける彼らの前回ライヴ「薄氷空を映す」(2月15日※)は、降り積もった雪が音を吸い、たっぷりと湿気を含んだ沈黙が、重い綿入れ布団のように喉元までのしかかる中で行われ、息苦しく重苦しいものとなった。それには津田が自らの個展のサウンド・インスタレーションとして開演前に流していた、水の滴る音や海辺の水鳥の鳴き声も加担していたかもしれない。これと比べて、今回の静けさは乾いていて、そのような重苦しい圧迫感を連れてくることがなかった。これには夜中、物思いに耽りながら、壁の向こうを見通しているような笛の音(「アツトミスタン」展のためのサウンド。やはり津田のセレクションによる)も貢献していたし、草原の「壁画」から聴こえてきた、果てしない広がりをどこまでも渡って行く風の響きも、(実際には音など鳴っていないにもかかわらず)耳に残っていた。しかし、それ以上に大きかったのは、津田と笹島の二人が、音を出す間合いを測るのではなく、その場に立ち上る音を聴くことに集中することにより沈黙を生み出し、またすでにある沈黙と拮抗する術を身に着けたことだろう。
試験管に口元を寄せて、そっと吹き込まれていた息の丸み。唇をつぼめてふっと鋭く吐き出す息によるパーカッシヴな打撃。水を入れたガラス瓶に沈んだ銀色の金属粒がさらさらと音を立てる。紙筒を伝う息。貝殻の擦り合わせ。遠くから子どもの声が聴こえてくる。
http://miminowakuhazushi.blog.fc2.com/blog-entry-281.html
セカンド・セットとの合間に、いろいろな話が飛び交う。アツトミスタンは標高が高く、空が近く、寒暖の差が激しいイメージ。意図しないで銅板に付いてしまう傷を排除せず、そこから想像を広げる。銅版画には形や線だけではなく、刷られた紙の質感も入ってくる。スティルライフの演奏はすでにそこにある音に重ねていくので、成り立ちが似ている。富田恵子さんの作品を観て、質感にとらえられた。アルバム制作途中でアートワークを依頼し、アートワークの方が先に出来上がってしまって。原始人が物に触れて確かめるということをする。そこでは「鳴らす」と「聴く」はすごく近かったのではないか。

木の枝を打ち合わせる乾いた音色を、ラジオノイズの潮騒が洗う。サンゴのかけらがしりしりと擦り合わされ、叩かれた細長い金属棒が真夜中を告げる柱時計のようにひっそりと鳴り響く。輪になったホースに吹き入れられた息が、パプア・ニューギニアのフルートを思わせる魔術的な音色で、夜の底をさらに深めていく。金属の器に振り入れられた砂粒が立てる微かな音に耳が惹きつけられ、拡大されたスーパー・スロー映像を観ているような気分になってくる。小石を口の前で擦り合わせ、口の開け方を変化させて口中への共鳴をコントロールすると、音程や音色の移り変わりが形となって暗がりに浮かび上がる。キャンドルの明かりだけの室内がどんどん明るくなり、事物の輪郭が拡大され鮮明に浮かび上がる気がする。ボトルの水が器に注がれ、滴りが水面を揺らす。すきま風に似た軋みが走り抜け、器の中をかき混ぜていた指が引き上げられると、指先からゆっくりと滴るしずくが宙に浮かび、水面を叩き、波紋が空間に広がる。
そこには夜が白々と明けていくような不思議な覚醒感があった。ここで沈黙は重苦しさをまとわず、むしろ透き通っていて、星が近くに見える冬の澄んだ空にも似て、音が近くに聴こえる。それはもちろん会場のアコースティックの問題ではない。演奏している二人が、「音を出すこと」と同じくらい「音を聴く」ことにも軸足を置いた結果、いやこれはインターミッションでの会話のように「鳴らす」ことと「聴くこと」が表裏一体に結びついた結果と言うべきだろうか、すらりとした自然体で沈黙と向かい合えるようになったことの現れにほかなるまい。そうした空間への同期の仕方は聴衆をも巻き込み、世界はゆったりと落ち着いた姿を垣間見せてくれたのではあるまいか。


2.11月15日(土) 石神井公園 氷川神社境内こもれびの庭
午後4時を過ぎ、傾いた陽がまだ梢の先に残るなか、家路を急ぐ鴉が時に群れて騒々しく鳴き立てている。定時のアナウンスが風に乗って届き、神社の鈴の音と混じり合う。ゆるやかな葉擦れの響きを通して、遠くの車の音が漂ってくる。広場状に開けているとはいいながら木立に囲まれて陽が届かないからだろうか、思いのほか地面が冷たく、注意して暖かく着込んできたつもりなのに、足元からしんしんと冷えてくる。小鳥の囀り。神社の境内で遊ぶ子どもたちの声とボールの弾む音。枝をゆるゆると揺すりながら通り抜けていく風。見上げると残照を留めているのは、上の方のごく一部だけに過ぎない。陽はもう本当に低く傾いて、ほとんど真横にあり、樹々の間からかろうじて覗いている。鴉たちはもう巣に帰り着いたのか、鳴き声が遠ざかり、代わりに時折ヒヨドリが鳴き立てる。庭の周辺を巡ると、人の歩く幅ほど落ち葉が掃かれていて、所々演奏の仕掛けなのか音具が置かれているのに気づく。次第に彩度が落ち、輪郭が滲んで、遠近がはっきりしなくなる。暗くなってきているのだ。遠くの口笛に思わず耳をそば立てる。まだ虫の音が聴こえる場所がある。
前回同様、庭の中央に組まれたやぐら状の空間で演奏は始められる頃には、あたりはもうすっかり暗くなっていた。いつも通り津田と笹島の間に置かれたキャンドル以外に、周囲を取り囲む客席の前にもキャンドルが置かれ、空間に暖かな光を滲ませていた。

二人が眼差しを伏せたまま動かない時間が、いつもより長く感じられた。その間、聴き手の意識もまた、演奏者と歩調を合わせて、場の静けさの中に深く深く沈んでいく。小石を擦り合わせ、試験管にそっと息を吹き込むかそけき音が、虫の音や交通騒音の下に潜り込んでいくように聴こえる。いまここではなく、どこか遠くを見詰める響き。テープなのだろうか、祭りのお囃子が頭上を通り過ぎる。素焼きのパイプを転がし、馬蹄を静かに打ち合わせる。鐘が鳴り、車のドアが閉められ、バスが通り過ぎて、遠くで鳥が騒ぐ。演奏の音と周囲の物音が混じり合い、響きの雲をかたちづくる。
e-bowを載せられたカンテレの弦の微細な振動。笛を鳴らさずに通り抜ける息。音はどんどんと小さく細くなり、ほとんど見えなくなってしまう。外に広がる暗闇の気配が背中を押してくる。吹き終えた笛を置く際に下の落ち葉がかさりと鳴る。神社の鈴と柏手。木の枝を打合せ、小さな金具を揺する。石笛のなめらかな表面を滑っていく息の流れ。音はますます小さくなり、音数も減っていく。

この「こもれびの庭」での前回のライヴは、屋外ということで外から自在に入り込んでくる様々な音に触発され、演奏はかつてないほどに高揚し、後半はいつの間にかやぐらの外で演奏が始まって、音を振り撒きながら周囲を練り歩き、竹竿を振り回し、竹の柵をがたがたと揺するという「狼藉」に至る激しいものとなった。今回も後半、彼らは外で演奏を始め、やぐらの周囲を巡ったが、前回のような破天荒な盛り上がりには至らなかった。
そのような耳の「空振り」感を伴う振り返りとなるのは、久々の屋外ライヴということで、こちらが何となく前回の再現を期待してしまっていたためだろうか。だとすれば話は簡単で、スティルライフの二人は賢明にも予定調和を避けたということになる。「お約束」で盛り上がり、料金分のカタルシスを提供するロック・コンサートではないのだから、この結果は当然のことと言える。しかし、空振りしながらも私の耳がとらえた彼らの音の軌跡は、決してそのような「賢明さ」の範疇に留まるものではないように思われた。
身体を浸し、包み込み、果ては容赦なく襲いかかる外の音。そうした屋外の音の奔流に対し、彼らは透徹した耳の視線を向けていた。秋も深まり、乾いた空気が冷たく澄んで静けさを増す中で、音はくっきりと隙間を保ち、決して不透明な厚みを帯びることなく聴こえてきていた。
こもれびの庭での前回のライヴは5月末のことで、あたりには湿気が立ちこめ、ざわめきが渦巻き、それらが見通しの効かない分厚い響きの雲をつくりあげていた。その立ち入る隙間のなさについて、私はレヴューで次のように書いている。
微かな響きにそば立てられる耳の視界を、周囲の様々な物音が通り過ぎていく。壁で囲まれ仕切られた室内ではなく、外に晒された屋外での演奏は、演奏に周囲の音が混じるというようなものではなく、演奏の只中を物音が通過し、踏みにじる。いや、先にそれらの物音の滔々たる流れ、生成消滅があって、演奏は束の間、僅かに手元を照らすに留まることを明らかにする。低空で飛ぶカラスの羽音が鮮やかに横切っていく。その様は近付き難く威圧的ですらある。すでに「出来上がって」いる周囲のサウンドスケープに、いまさら何を付け加えるというのか。そうした問いの静かな圧力を感じずにはいられない。
しかし、彼らはそうした響きの「湿地帯」にずぶずぶと踏み込んでいき、環境との全方位感覚的な交感を成し遂げていく。やはり前回のライヴ・レヴューから引用しよう。
風がそよぎ、樹々がざわめいて、葉擦れが渡っていく。鈴の音。柏手。子どもの声が風に吹き散らされてばらばらになる。車の音とちゃぼんちゃぼん揺れる水音が交錯し、小鳥がさえずり、枯葉を踏む足音が横切って、椅子が軋み、バケツが鳴り、竹柱がうなる。カラスが鳴き交わし、水音の揺らぎの繰り返しが周囲を巡り、遠くから一瞬、電車の車両が通過するガタンゴトンという音が耳元に届けられる。脈絡なく浮遊する響きが次々に耳を通り過ぎていく。そこに演劇的な展開や場面性は感じられない。視覚的なイメージが浮上することもない。遠近も大小も定かではない様々な響きのかけらが、耳の視界に入り込み、色合いの異なる響きの斑紋として浮かび、また行き過ぎる。演奏と環境音の区別が見えなくなり、単に風が運んでくるかけらの吹き寄せとして敷き詰められ、それを眺めるうち、次第に時間的な前後関係も怪しくなってくる。あてもなく視線を移ろわせながら、ヘテロトピックな響きの織物をスキャンしている印象。聴き尽くすことなどとてもできそうにない、響きの豊かさだけが強く印象に刻まれる。
こうしたヘテロトピックな混沌は今回のライヴにはなかった。その違いは彼らが前回の再現を目指さなかったためではなく、周囲の空間にすでにして存在している音の布置を、その密度や濃淡の勾配、粒子の疎密の手触りを、彼らが鋭敏に感じ取っていたために生じたものにほかなるまい。
水の温む季節、池は藻で濁り、小魚が活発に動き回って水底の泥を舞い上げる。水の冷たさが指先に沁みる頃には、水は澄み、物陰に隠れたのか魚影は姿を消し、あるいは泥の上でじっと動かないでいる。彼らはそうした違いを当たり前のように聴き分けていた。それゆえ演奏は水をかき混ぜず濁さない、ひっそりと静やかなものとなった。だがそれは単に音量を絞り音数を減らし、自らの領分を小さく限定して、境界をはみ出さぬよう内側から怖々となぞることではない。彼らの透徹した眼差しは静寂の向こう側を見詰めている。津田が『十二ヶ月のフラジャイル』で用いたラジオの局間ノイズによる潮騒が、今回のライヴの最後の場面で効果的に用いられていたことを、その証しとして挙げたい。
前々々回の記事『北からの知らせ』で、スティルライフ『夜のカタログ』の制作作業が津田に与えた不可逆な変化について述べた。それはもちろん笹島にも起こっている。今回のライヴの後、彼はその時のことを振り返って、「屋外のライヴはいつまでも演奏し続けていられる」と、前回のこもれびの庭ライヴとほぼ同様の感想を述べていた。ここで前回の喧噪/混沌と今回の静寂/透徹の差異が前景化していないことに注目したい。彼は言わば自然に、その差異を問題視するのではなく当然のこととして、両者の環境の違いに対応したのだろう。そこにはかつてホームグラウンドの立川セプティマとは正反対と言うべき、閉ざされた密室である喫茶茶会記の閉塞感に苛まれた姿はかけらもない。彼らは共に「分水嶺を超えた向こう側の風景」を眺めているのだ。

掲載写真は津田貴司・笹島裕樹Facebookページ、富田恵子ホームページ(※)FreeNoteから転載しました。
※http://www.geocities.jp/niroagasu/
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2014-12-03 Wed

本日12月3日、スティルライフ初のフル・レングスCD『夜のカタログ』が発売となりました。ライナーノーツを執筆させていただいた私としては、文庫本型厚紙スリーブの造本的な装釘だけで眼がうるうるしてきます。

黒い表紙には富田恵子さんによる銅版画作品が銀で刷られ、さらにスミでタイトルを印刷したトレーシング・ペーパーが掛けられていて、ぴしっと張り詰めた硬質さが隅々まで行き渡っています。ちゃんと背もある重厚な造り。装釘は川本要さんが担当されています。
表紙を開くと見返し部分にも銀の刷りが。丁寧な造りです。さらにタイトル・ページをめくると、私の文章が美しい写真と見開きでレイアウトされています。続く見開きページでは写真に文章を一部重ねたレイアウト。さらに最終ページは始まりと左右逆に、やはり文章と写真が見開きでレイアウトされています。




はっきり言って、ふつうCDのライナーは単なる添え物です。とんでもない間の抜けたレイアウトをされていることもあります。指定の字数を守って書いてるのに、完全に1ページ分足りないとか。あれだけジャケットデザインに気を遣っているECMでさえ、ブックレットの写真には凝っても、文章のレイアウトに配慮を払うことはまずありません。その点で、今回の川本さんのデザインは、わたし史上これまでで最高なのは当然として、おそらくはこれからもないだろう空前絶後のものです。いやー素晴らしい。ありがたやありがたや‥。




表紙を飾る銅版画、ブックレットの写真、文章のレイアウト‥‥これだけでもう素晴らしい響きが聴こえてきそうです。名は体を表し、体は中身を表す。収録された演奏は、美しい装釘に高まった期待をさらに上回る、清冽にして深遠なものとなっています。これについては、AMEPHONEさんによる紹介文をお読みください。
「夜のカタログ」について
山を見て、美しいということがあるでしょう。尾根の繋がりを、木々の作り出す濃淡を、わき出すような霧の動きを見て面白いなと思う。やがて注意深くなり、周囲の台地と麓の継ぎ目を探したり、稜線の角度の違いに気がついたりして、改めて、地中からのエネルギーを受け止め、大地が不思議な均衡を得るに至った経緯を想像してみたりする。またこうした線や形と、そこに落とされる光と影から、ダイナミックな力動を体感的に覚えて、自分もまた日常を、複雑にかかる力の中でぎりぎりのバランスを保ちながら存在しているということが、わかる。
山に入り、今度は目を閉じて、そして耳を澄ましてみる。風に揺れる木々の音、雨の当たる音、虫や鳥や、生き物の鳴く声。いい音が聞こえてきますね。そこでスティルライフの二人はポンと手を打つ。木を叩く。筒を吹く。それを録音して、我々が聞かせてもらう。彼等が何故そのようなことをしたかといえば、わかったからではないでしょうか。山の振動を。山の無限に凹凸する表面が振動する様を、彼等の体が理解した。この感じは知っている、普段気には留めないけれど、いつも感じていた、音の由来。そのようにすみやかに。
こうした類の世界の把握というものは、知識に基づくそれとは一寸違って、証明するのが難しい。まあ、そうする必要も無いのかもしれないが。その人個人の幸福は、閉じたものであっていっこうに構わないのですから。手を打つ。木を叩く。筒を吹く、そうこの感じ、山の音もまた同じ。でも、それは教えるようなもんじゃない。
このCDを聞いて驚くのは、どんなものでも作品というものが持つ気負った印象を全く受けない、ということでした。音は立派なものです。木立の立てる音や虫の声をここまでブーストして、なおかつ耳になじむ状態で鳴らされているものを私は知りません。ですから、環境録音(の作品)としては十分成り立っています。そして同時に思うのは、これは与えられたものではないということ。聞いてくれ、とはいわない。作品がまとううっとうしさ、禍々しさと無縁の、なんでしょう、音ですね。芸術というのは、それを作った人の、理解の過程でたまたま産み落とされて、見聞きする人には、また別の理解への入り口として機能する。そのような有り難い印象を持ちました。
AMEPHONE
スティルライフの津田さんは、AMEPHONEさんが私の書いたライナーを読んでいないにもかかわらず、地質学的というか、地形形成的というか、相通ずる描写をしているのに気づいて、思わずぞくっとしたと話してくれました。スティルライフの演奏は、叙情的なメロディが定型的感興をもたらすといったものでは決してないにもかかわらず、このようなことがなぜ起こるのでしょうか。それはスティルライフの音が、聴き手を「聴くことの深み」へと誘う力を持つことによるように思います。「聴くこと」が聴き手の全身を浸し、隅々まで沁み込んでいく中で、触覚を励起し、あるいは視覚を触発して、世界の成り立ちの秘密に触れさせてくれると。
以下のURLで試聴もできます。ぜひ聴いてみてください。
http://www.ethnorthgallery.com/?wpsc-product=夜のカタログ-スティルライフ-yoruno-catalog-stilllife
